ジェット旅客機の歴史をまとめてみた(122)
第1章 -黎明期-
1945年9月。6年間に渡って行われた大戦は連合国が枢軸国を下すという形で幕を閉じました。
米・英・ソ「やったぜ」
日・独「敗けた・・・」
米・英・ソ「お前らもう戦争とかやらかさないように飛行機作っちゃだめだぜ特にドイツお前んとこ技術力おかしいからなんだよそれロケットとかオーパーツかよ」
日・独「・・・はい」
・・・
米「ドイツの技術者さん!こっちにおいで。君たちの身柄は保証するからうちで飛行機作ろうよ!!」
独技術者「は、はぁ・・・」
ソ「ドイツの技術者さん!こっちにおいで。うちで飛行機作ってくれれば君たちの身柄は保証するから!!」
独技術者「は、はぁ・・・えっ」
ソ「つかまえたぜ」パキューン
独技術者「ヒルフェ」
戦後、連合国は自国の脅威となりうる枢軸国の日独に対し、航空機を作ることを禁止しました。
そして、戦争中に活躍した技術者たちを、米ソは競い合うように自国に招聘したのでした。
そんな中、英国は・・・
英「ぐぬぬ・・・うちもドイツの技術が欲しかったけど戦争終わったばっかりでお金ないし・・・」
英「でもまだチャンスはあるよね!なんたってナチスドイツ亡き今、世界のジェットエンジン技術の先頭を行ってるのはうちだし!!」
英「大英帝国ばんざい!!」バンザーイ
大戦終結時、ジェットエンジン開発について他国の先を行っていたのは主に英独の2ヵ国でした。
米でも大戦中からジェットエンジンの実験・開発を行っていましたが、当初は英のロールスロイス社の技術を参考にしていました。
英「でもなー、戦争中は米との約束で爆撃機ばっかつくってたしなー」
そうです。大戦中は米英の取り決めで、英国は重爆撃機に注力し、輸送機はアメリカから回してもらうことになっていたのです。そうしないと、英国はお金が足りなかったのです。
でも、アメリカはお金持ちで資源もたくさんあったので、輸送機も爆撃機も普通につくっていたのでした。
輸送機の場合、戦争が終われば民間輸送機にそのノウハウが生かせますが、爆撃機の場合は流用できるノウハウはそれほど多くないのでした。
英「でもやっぱり、我が国が世界の航空業界で優位性を維持するためには、ジェットエンジンを米ソに先駆けて民間活用するしかないよね!!」
実際、この当時の民間輸送機はほとんどがレシプロエンジンを搭載したプロペラ機でした。
これまで主流となった航空機のエンジンには、大きく分けて3つの種類があります。
まず1つ目が、自動車などのエンジンと同じように燃焼した空気でピストンを動かし、それを回転運動に変換することでプロペラを回すレシプロエンジン。
2つ目が、燃料を空気と混合し燃焼した排気をそのまま推進力に利用するジェットエンジン。
そして3つ目が、ジェットエンジンの排気を推進力ではなく軸の回転に利用してプロペラを回すターボプロップエンジンです。
つまりターボプロップエンジンを積んだ飛行機は、プロペラが付いているジェット機といえます。現在ある中型以上の(エンジンが2発以上ついてるような)プロペラ機は大体ターボプロップ機です。
この頃、各国の航空業界では民間機のジェット化は時期尚早、レシプロの次はターボプロップの時代がくると考えた企業は少なくありませんでした。
そんな中、英では他国の先陣を切って民間機のジェット化を進めることを決めたのでした。
英「ねぇちょっと、デ・ハビランドくん」
デ・ハビランド「はい」
英「君んとこさ、戦争中にジェットエンジン作ってたよね?ちょっと、ジェット旅客機作ってみない?」
デ・ハビランド「はい」
・・・
デ・ハビランド「むむむ」
英「どうしたのデ・ハビランドくん。おなかいたいの?」
デ・ハビランド「エンジンはあるんだけど出力が低すぎて飛行機飛ばない」
英「えっ」
デ・ハビランド「こまった」
ジェットエンジンは燃焼にあたり事前に空気を圧縮する必要があります。当時のジェットエンジンには空気を遠心力方向に流して圧縮させる遠心圧縮式と、軸に回転翼をつけてその圧力差で空気を圧縮させる軸流式の2種類がありました。
当時イギリスの手がけていたジェットエンジンはほとんどが前者の遠心圧縮式でした。これは軸流式に比べ構造が簡単だったので先に実用化され運用ノウハウも十分溜まっていましたが、もはや発展の余地が少ないものでした。
一方、ナチスドイツが注力していた軸流式のエンジンは構造が複雑なものの発展性があり、以降のジェットエンジンは軒並みこの方式をとることとなります。
英「うーんこまったね」
デ・ハビランド「でもまぁ・・・なんとか飛ばしてみるよ」
英「うーん」
一方そのころ、米ソでは独から招聘した技術者に青天井の予算を与えて航空機の開発を進めていました。
米「頑張って!ソビエトに負けたら皆死んじゃうよ!!」
独技術者「えっさほいさ」
ソ「頑張って!アメリカに負けたら皆殺しちゃうよ!!」
独技術者「うったえてやる」
ソ「祖国を訴訟することはできないよ」パキューン
この頃、ナチスドイツの持っていた技術でジェットエンジンと並んで注目されていたのが後退翼の技術でした。
これは文字通り、飛行機の翼が胴体から斜め後方へ伸びている翼形のことをいいます。現在のジェット旅客機の翼はだいたいこの形をしています。
それまでの飛行機は直線翼という胴体から翼が真横に生えているような翼形が中心でした。
http://i.imgur.com/nq8mDqx.jpg
※①が直線翼、②が後退翼
後退翼は直線翼に比べ高速での航行に優れていました。そのため、これをジェットエンジンと組み合わせることで飛行機のさらなる高速化が可能とされていました。
ドイツの技術者を多く抱えていた米ソは進んでこれらの技術を取りいれることができましたが、英国にはそれが不可能でした。
結果として、デ・ハビランドの作った最初の機体は一応ジェットエンジンならびに緩やかな後退翼を供えてはいましたが、レシプロ時代からあまり進化していない保守的な形の飛行機となりました。
http://i.imgur.com/aCNvhrx.jpg
デ・ハビランド「できまんた」
英国「やったよ!・・・あれ、翼の中にエンジン埋まってるんだね」
デ・ハビランド「本当はもっといろいろ案があったんだけど、思いついたのが大体米国の特許だった」
英国「なんと」
そうです。当時米国はB-47と呼ばれる当時としては超がつくほど革新的な機体を開発し、その主要な技術をすべて特許で固めてしまったのです。
http://i.imgur.com/NSbcHI7.jpg
このB-47の後退翼・エンジンを主翼のパイロンに吊下するという主要な技術は、今日まで続くジェット旅客機の基本となるほど優秀なものでした。
英国「でも、これでうちが世界で初めてジェット旅客機を作ったという実績ができたよ!大英帝国ばんざい!!」バンザーイ
デ・ハビランド「ばんざい」バンザーイ
こうして作られた飛行機には「コメット」という名前がつけられ、英国は世界に先駆けてジェット旅客機の実用化に成功したのでした。
1952年5月2日。約2年に渡る地上支援体制や航路開拓などの入念な準備期間を経て、民間初のジェット輸送機であるコメットは英国海外航空(BOAC)の運行でヒースロー-ヨハネスブルグ間の路線に就航します。
乗客「えっ何これは」
乗客「すごい速い」
乗客「しかも揺れない」
乗客「いいゾーこれ」
英国「がはは」
ジェット機を運用し始めて明らかになったのは、ただ速い(それまでの所要時間が半分になった)だけではなく、レシプロエンジン特有の振動が少なく、天候の影響を受けにくい高高度を飛行するため、就航率が大幅に上がるといった利点でした。
当時、BOACには5機のコメットが存在していましたが、就航初年度だけで3万人を超える乗客が搭乗するほどの人気ぶりでした。
ちなみに、先の2年の準備期間中コメットはデモンストレーションを兼ねて世界各地の空港を訪れ、特に航空機を作ることを禁止されていた日本の技術者たちはその銀翼のきらめきに切歯扼腕したといいます。
この期間中、日本の航空技術者は鉄道や自動車の分野に移ってそのノウハウを生かしたことから、戦後日本はこれらについて新幹線をはじめとした特筆すべき技術を持つことになります。
英国「大英帝国ばんざい」バンザーイ
順風満帆に見えていたコメットのデビューでしたが、その後、大きな暗雲が立ち込めることになります。
ジェット機であるコメットは、それまでのレシプロ機とは大きく飛行の特性が異なっていました。
例えば低い速度では失速しやすく、またエンジンの反応もレシプロ機に比べて鈍いため、当初は不慣れなパイロットによって離着陸時の事故が多発しました。
これらについては、詳細なマニュアルを作成したり、より精密に機体の状態を示せる計器を搭載するなど改善が続けられました。
英国「まぁ、まだまだジェット機は浸透してないししょうがないよね。この辺は想像の範囲内だよ!」
ですが1953年5月2日。コメットの最初の就航からちょうど1年目にあたるこの日、最初の事故が起きてしまいます。
この日、シンガポールからロンドンに向かっていたBOAC 783便が、インド国内を飛行中に突如空中分解してしまったのです。
このジェット旅客機最初となる有責死亡事故について、各国のメディアはかねてより発生していた小規模な事故と合わせてスキャンダラスに報じたため、ジェット機は時期尚早という世論が再び高まりはじめました。
これに対して英国はファーンボローの国際航空ショーで大胆なデモフライトを披露したりして、悪評の打消しに躍起になりました。
また、事故機は雲に入った時に空中分解を起こしていることから、燃料タンクで気化した燃料が雲中の落雷によって爆発したのではないかという説や、パイロットが姿勢回復のためレシプロ機と同じような急激な操作を行ったため空中分解したのではないかと推測されました。
ところが。
1954年1月10日。
BOAC781便「ウボァー」
1954年4月8日。
南アフリカ航空201便「ウボァー」
なんと、僅か1年の間に3機のコメットが連続で墜落してしまったのです。
世論「やっぱりジェット機は危ないじゃないか!!」
デ・ハビランド「おかしい、こんなことはゆるされない・・・絶対パイロットのミスかただの偶然のはず・・・」ブツブツ
当初はパイロットミスや、天候が原因と推測していた英国でしたが、ことここに至っては機体に何らかの欠陥があることはもはや明白でした。
英国「えぇい!もうイングランド銀行の金庫が空になっても構わないから、何としても原因を特定するよ!!」
こうして、当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルのもと、コメット連続墜落事故は徹底解明に向けて調査がすすめられることになりました。
まず、乗客の遺体や遺留品の調査をして分かったことは、この事故は爆発物によるテロなどではなく(遺体にや遺留品に爆発時に発生する傷がなかったことから)、何らかの原因で突如機体の気圧が失われた=空中分解したという事実でした。
次に英国は、海の底に沈んだBOAC781便のサルベージ(引き揚げ)を行うことにしました。
空中分解の原因を解明するためには、どうしても事故機の全貌を確認する必要があったからです。
莫大な予算をかけて引き揚げられた781便の機体は、真水で洗浄したうえで調査を行い、イギリス国内の格納庫へ送られました。
送られた残骸は、コメットの木型に併せて機体形状の再現が行われました。現在では当たり前のようになっているこのパズルのような再現作業も、これが世界初のことでした。
http://i.imgur.com/NkNyKyK.jpg
※イメージ図
こうした調査の結果、事故機は胴体中央部、胴体後部、機首、主翼の順に分解したことが明らかになりました。
ですが、肝心の機体が分解してしまった原因については、未だ特定することができませんでした。
早くから、金属特有の「金属疲労」(金属に力を加えると脆くなっていく現象)を原因に上げる声もありましたが、設計者も当然そのためのテストは行っており、仮に通常機体にかかる倍の圧力をかけたとしても、1万8000回までは機体に問題が発生しないことを確認していたのでした。
ですが、問題の事故機は1300回弱、南ア航空の機体に至っては僅か900回の飛行で機体が分解していたため、金属疲労説はこの時点ではまだ説得力が薄いものでした。
このままでは埒が明かないと、英国はコメット1機が丸ごと入る巨大な水槽を作成し、実機を使った疲労試験を行うことにしました。
これも、現在では当たり前のこととなっていますが、当時としては未曽有の大実験でした。
1954年6月。完成した巨大水槽にコメットの実機を沈め、試験は開始されました。
試験の方法は、水槽内に満たされた水に圧力をかけ、機体の加圧・減圧を繰り返すというものでした。
技術者「理論通りでいけば、このペースで最長5か月はかかりますね」
英国「仕方ないよ。とにかく原因を解明しよう」
ですが、当初の想定とは裏腹に試験開始から2週間半が経過した頃、突如機体に最初の亀裂がはいったのです。
<ベキベキメリィ
技術者「えっ」
英国「ちょ、再現したよ!!どうなってんの!?」
デ・ハビランド「そ、そんな・・・ちゃんと部材の耐用試験はしたのに・・・!」ガクガク
亀裂はまず機体客室窓の隅から発生して急速に前後方向に進み、前後の骨組みに達すると今度は上下方向、つまり機体を輪切りにする方向へ広がっていきました。
これは、先に再現された781便の残骸の破壊状況と何ら矛盾するものではありませんでした。
この試験結果から、関係者は当初の想定となぜこれほどまでにズレが生じたのかを調査することにしました。
その結果まず分かったのは、デ・ハビランド社が行った耐用試験の際の圧力のかけ方に起因していることがわかりました。
当初デ・ハビランド社で行われた耐用試験では、まず機体の内部から通常よりも大きな圧力をかけ、さらにその後外側から同様に圧力をかけるという方法をとっていました。
この方法だと、仮に小さなヒビが発生したとしても、その後の内外からの圧力で金属が変形してヒビを抑え込んでしまい、見かけ以上に強度が上がってしまうことが分かりました。
つまり、ふわっとまるめたアルミホイルが、握りしめると固く丈夫になるようなものです。この現象も現在では当然の事象として考えられていますが、当時は誰もそれを指摘することが出来ませんでした。むしろ、この試験で初めて指摘できるようになったほどです。
さらに、当時の飛行機はレシプロ機が中心であり、それほど高いところを飛ぶわけでは無いので機内を与圧しているものは多くありませんでした。
通常、気圧は高度が高くなればなるほど低くなるため、高空を飛ぶ飛行機は乗員の快適性のため機内の空気に圧力をかけて地上の気圧と同じくらいにしています。
とはいえ、機体を与圧するということは飛行中常に内側からの圧力がかかっていることになるわけで、しかも気圧差が大きくなる高高度になればなるほど機体に掛かる負荷は増えてしまいます。
大戦中も米国のB-29など高空を飛ぶ飛行機には与圧がされているものもありましたが、その場合でも与圧しているのは操縦席や機銃手席など機体のごく一部だったため、コメットのように機体の大部分に渡って圧力がかかっているわけではなく、特に問題にはならなかったのです。
特に問題となったのは、旅客機という特性上設けられた客室窓の形状が角ばっていたため、そこに負荷が集中してしまい亀裂が発生してしまうことでした。
このため現在の旅客機では開口部に角を設けることは絶対の禁忌とされ、窓は小さく丸みを帯びたものになっています。
http://i.imgur.com/q8Z77b4.jpg
航空機にジュラルミンなどのアルミ合金が使用されるようになったのは1920年代、特にモノコック構造などが発達し、機体全体に金属が使用され始めるようになったのは1930年代の頃でした。
ちょうどこの頃戦争が始まり、飛行機は消耗品としてみられるようになったため、長期的な金属疲労に関する知見を得ることが難しくなったのです。
ジェット機時代のパイオニアともいえるコメットは、当時の金属工学における限界を超えていたといえます。そのため、事前にこれらの不具合を予見することができなかったのでした。
英国がこの時行った原因調査は、当時の航空工学・金属工学の重大な欠陥を解明し、各方面に多大な影響を与える偉大な業績となりました。
ですが、これ以降英国が単独で航空業界の覇権を握る夢はついに敵いませんでした。さらに、コメット開発に携わったデ・ハビランド社はこの連続事故により業績が悪化し、ついには1959年に同業のホーカー・シドレー社に買収されてしまいました。
その後冷戦の始まりとともに、世界の空を米ソの航空機が席巻することになるのです。
-第1章 おわり-
期待
第2章 -群雄割拠時代-
1960年~1980年代にかけて、米ソの航空技術は招聘したドイツ技術者の力により大きく向上しました。
特に二次大戦後も朝鮮戦争やベトナム戦争など、最新鋭の軍用機を作り続けその成果を民間機にフィードバックできるこの2大国の優位性は、他国にはないものでした。
この時代、西側各国の民間ジェット旅客機を代表する機種にボーイング社の開発したB-707と、ダグラス社の開発したDC-8が挙げられます。
どちらも、それまでの航空業界の常識を根底から覆す革新的な性能を秘めたジェット旅客機でした。
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B-707
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DC-8
ボーイングではまず、最新の理論を元に作り上げた新鋭機であるB-47で得たナレッジを生かして民間機に転用するアイディアが浮かびました。
さらに、この時の開発資金は全て先述のB-47の売上利益によって賄われました。これも、軍需企業であるボーイングの強みでした。
ちなみにこの頃、米国の民間旅客機製造会社といえば、ライバルのダグラス社の方がはるかに有名でした。
戦前に開発され、連合国に大量導入されたDC-3(軍用型はC-47)は信頼性も高く、大戦後に軍から放出された各機は広く民間にいきわたり、旅客機といえばダグラスという一時代を築き上げていました。
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それまでボーイング社は、どちらかと言えば爆撃機のメーカーとして有名であり、実際この頃ラインナップしていた旅客機は大戦中に日本への爆撃で大活躍したB-29を拡大・改良したC-97(モデル367)くらいのものでした。
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ボーイング「やっぱりうちが民生機部門で一当てするには、ジェット機の民間転用しかないよなぁ」
この頃、民間航空業界はもはや旧式と化したレシプロ機からの転換期にありました。ジェット機は時期尚早論もまだ根強いものでしたが、ボーイング社は一発逆転のため敢えて最新鋭の技術を投入したジェット旅客機を作ることにしました。
この着想自体は英国がコメット開発時に至ったものとほぼ同じでしたが、ボーイング社には英国にはない最新鋭爆撃機で得た様々なノウハウがありました。これはむしろ、常に最前線への投入を想定した大型爆撃機でないと得られない知見でもあり、ボーイングにとっては大きなアドバンテージでした。
ボーイング「よし作ろう!仮に民間に受け入れられなかったとしても、大型のジェット輸送機を作れば空軍が興味を示すはずだ!!」
こうしてボーイング社は1952年、外部にジェット旅客機を開発していることが漏れないように敢えて先述のレシプロ機「モデル367」の派生型のような「モデル367-80」という社内呼称をつけ、新型ジェット機の開発に取り組んだのです。
しかし、人の口に戸は立てられないものです。
ボーイングのジェット機開発の噂を聞きつけたダグラス社は、それに対抗するために当時検討していた80席級の中型ジェット機をボーイング社の計画と同程度の大きさに拡大し、新型機である「DC-8」の開発に取り掛かりました。
この時ダグラス社は、先に開発を始めていたボーイング社との遅れを取り戻すために、試作機を作らずいきなり量産機を作って順次改良していくという手法をとりました。
これは「クック・クレイギー・プラン」と呼ばれ、先に生産ラインを組んで量産機を製作しつつ、並行してテストを行いその結果をフィードバックすることで開発期間の大幅短縮を目論むものでしたが、基本設計に問題が発見された場合には、混乱を招くというリスクがありました。
ただ幸いなことに、このDC-8の場合は比較的スムーズに開発が進んだうえ、後述する理由から結果としてダグラス社はボーイング社にそれほど大きな遅れをとることはありませんでした。
ボーイング社がジェット機開発を始めてから2年余りが経過した1954年、モデル367-80は初飛行を迎えました。
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米空軍「ヴォースゲー!!」
ボーイング「どうですかね」
米空軍「イイネ!!ちょうど時期空中給油機をさがしてたところだし、これをKC-135として正式採用するよ!!」
ボーイング「やったぜ」
こうしてボーイング社の367-80は目論み通り空軍の目に留まり、当時切迫していた次期型空中給油機として軍からの大量受注を獲得することができました。
ところが・・・
http://i.imgur.com/esIbSCk.jpg
米空軍「どう?KC-135の生産は順調?」
ボーイング「ええ、おかげさまで!・・・ところで、この機体を元に民生機バージョンの開発も進めていきたいのですが」
米空軍「えっ?うーん・・・」
米空軍(民生版つくる→生産ラインを併用する→納入が遅れる→ヤバイ)
米空軍「だめ!!」
ボーイング「えっ」
米空軍「そもそもそのエンジンだって軍事機密だしね!民生品になんて、回せないよ!!」
そうです。当時のジェットエンジンといえばまだ最先端のものであり、技術漏えいのリスクが高まる民間転用に対し、軍部は慎重にならざるを得なかったのです。
ボーイング「そ、そこをなんとか・・・」イイジャナイノー
米空軍「だめなものはだめ!そもそもおたくは軍用機メーカーじゃない!!得意先はうちなんだから、その辺わきまえてよね!!」ダメヨーダメダメ
ボーイング「ひぃん」
エンジンの機密指定解除に手間取ったことと、同時期に発生したコメットの連続事故により、ボーイング社が民生版のジェット輸送機を作るにはさらに4年の歳月を待たなければなりませんでした。
そんな中、コメット連続事故で暗雲立ち込める西側諸国の航空業界に衝撃が走ります。
なんとモデル367-80の初飛行からわずか2年後、アメリカがジェット旅客機を就役させるよりも早くソビエトがジェット旅客機を実用化させてしまったのです。
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この機体はソビエトのツポレフ設計局が同社のTu-16爆撃機を元に開発したTu-104と呼ばれる機体でした。
1956年、当時のソ連の最高指導者であったニキータ・フルシチョフがイギリス訪問でこの機体を使用したのです。
これを見た西側諸国の航空関係者は、ソビエトの航空技術の高さに大層驚きました。
このTu-104は「共産主義国であるソビエトがジェット旅客機を運航しているほど技術が進んでいる」ということを世界に示すというプロパガンダの目的で作られたとも言われています。
事実、爆撃機を元にしたその機体は燃費が非常に悪く、騒音や空調など客室内の居住性もそれほどよくはありませんでした。
それでも設計上の瑕疵から事故が多発したコメットよりも安全性は高く、減速時はパラシュートを使う必要があるなど旅客機としては不便な点を抱えつつも、1980年代初頭まで使われていました。
伝統的に、ソビエトの工学は米国に比べ「枯れた技術」を多用する傾向がありました。この枯れた技術というのは、すでに実用化されてから時間が経っており、十分にノウハウが蓄積された技術の事をいいます。
対して米国は先進的な技術を積極的に取り込んでいくスタイルをとることが多く、この対比は宇宙開発におけるボールペンと鉛筆の話にも如実に表れています。
現在世界最速のプロペラ機と評されるロシアのTu-95爆撃機(最高速度950km/h)も、元はと言えば当時のジェットエンジンは燃費が悪く、当時既に低燃費技術が確立されていたターボプロップを採用していたことに起因しています。
http://i.imgur.com/EUlO5pO.jpg
※Tu-95
つまり、ジェットエンジンの燃費が向上するにつれてターボプロップ機を採用することが少なくなってきたため、今でもTu-95は最速のプロペラ機なのです。
話を戻して・・・ソビエトがTu-104を就役させた2年後の1958年10月26日、ついにボーイングは米国発のジェット旅客機であるB-707を就航させます。
その開発には、先のコメットの事故調査で得られた知見が多分に盛り込まれ、当時としては極めて安全性の高い機体となっていました。
また、それから約半年後の1958年5月には、ダグラス社のDC-8も初飛行を果たします。当初、ジェット機については様子見ムードだった各国も、懸念された燃費の悪さが高い旅客需要や就航率の高さで相殺されることが分かると、こぞってこれらの飛行機を採用しはじめました。
特にライバル同士ともいえるこの両雄のセールス争いは苛烈を極め、367-80のデモフライトでバレルロールを行ったボーイングに対し、ダグラス社はDC-8を緩降下させ音速を突破させるなど対抗意識を燃やすほどでした。
そんな中、ジェット旅客機開発で先陣を切っておきながら後塵を拝すことになった英国は、自国の航空会社に導入したB-707にロールス・ロイス社製のエンジンを搭載し、広告に「ロールス・ロイス707」と表記するなど、悔しさを抑えきれませんでした。
英「くやしいっ・・・でも、導入しちゃうっ・・・!!」ビクンビクン
同じ頃、日本では1952年7月に戦後禁止されていた飛行機の運航や製造の禁止が一部解除され、日本の航空会社もこれらの新鋭機の導入を検討し始めていました。
日本「うーん・・・やっぱり国際路線にはジェット機を投入したいなぁ」
日本「B-707かDC-8か・・・ボーイングはなー、戦争中に爆弾バカスカ落とされたトラウマがなー」ガクガク
このような背景から、顧客の心情も加味したうえで当時日本の航空企業は軒並みDC-8を選択したのでした。
さらに、この2機種では主脚が短いB-707に比べ、主脚の長かったDC-8は胴体の延長が容易に行えたため、需要に応じた様々なサイズ展開が可能だったことも好調なセールスに拍車を掛けました。
日本「DC-8くーださい」
ダグラス「はい毎度!」
ボーイング「ぐぬぬ」
1960年代に入ると、各国の航空機メーカーはこぞって新型輸送機の開発に取り掛かります。
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ボーイング「短中距離路線用にB-727を作ったよ!!」
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ダグラス「負けるか!ウチも対抗馬のDC-9を作ったよ!!」
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コンベア「ウチのCV-880は世界最速のジェット旅客機だよ!!」
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イリューシン「Il-62こそ、東側諸国のジェット旅客機の旗手・・・」
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ツポレフ「Tu-104をさらに改良してTu-124を・・・」
世はまさに、群雄割拠の時代でした。
そんな中、パッとしなかったのが欧州の航空機メーカーです。
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シュド・アビアシオン「SE210・・・」
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ホーカー・シドレー「HS121・・・」
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ビッカース「VC-10・・・」
元々デ・ハビランドのコメットでジェット機時代の先陣を切った欧州でしたが、その失敗の影響は重くのしかかり、もはや米ソのメーカーに太刀打ちするのは難しい状況になっていました。
英「仏くん、仏くん」
仏「何」
英「今の航空業界ってさ・・・米ソが独占しすぎだと思わない?」
仏「それは、まぁ・・・」
英「これに対抗するためにはさ、僕ら二人で手を組んで今までにない飛行機作って売り出してみたらどうかな」
仏「うーん・・・」
英「やっぱりさ、今の市場に殴り込みをかけるならインパクトが必要だと思うんだよね。僕らが協力したら、それも可能なんじゃないかな」
仏「例えば?」
英「そうだな・・・例えば、米ソに先駆けて超音速旅客機を実現させるとかどうだろう」
仏「イイネ・・・でもおたく、前もコメットでジェット機のパイオニアになって失敗してるよねぇ」
英「うぐ・・・で、でも失敗を恐れてたら先に進めないよ!!」オレタチニアスハナイ
こうして各国が旅客機市場でしのぎを削る中、英仏は協力体制でこれに立ち向かおうとしたのでした。
そして1969年3月2日。英仏は世界の航空史に大きな足跡を残すこととなる、超音速旅客機であるコンコルドを初飛行させることに成功します。
http://imgur.com/6FsK0Pd,EzMDcdY,AAyDWt5#2
仏「音より速いよ!!」
英「大西洋横断の所要時間が半分になるよ!!」
世論「ヴォースゲー!!」
こうして、世界初の超音速旅客機は華々しいスタートをきったかのように見えました・・・ところが。
仏「・・・全然売れないね」
英「ウボァー」ガクガク
登場時こそ注目を浴びたコンコルドでしたが、その燃費の悪さや少ない座席数、さらに騒音等による運用の難しさから、軒並み発注がキャンセルされてしまったのです。
同じ頃、このような結果を想定した米国では「より速く」ではなく、「より大きく」を目指した旅客機の開発に重点を置いていました。
これにより、それまで主流だった座席の間に通路が1本しかないナローボディと呼ばれる機体に対して、大型で通路が2本以上あるワイドボディと呼ばれる機体が登場し始めます。
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ナローボディ
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ワイドボディ
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ボーイング「超大型機B-747を作ったよ!これは航空史の歴史を塗り替えるよ!!」
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ダグラス「うちもこれまでの機体より格段に大きいDC-10を作ったよ!!」
ロッキード「民生ジェット機部門では出遅れたけど、軍用機のハイテク技術をふんだんにつぎ込んでL-1011を作ったよ!!」
これらのワイドボディ機は、一度に大量の人員や荷物を搭載することができ、航続距離も長いため一飛行あたりの利益率が高く、各国の航空会社はこぞってこれらの大型機を選択したのでした。
英仏「ひぎぃ」ピクピク
>>47
http://i.imgur.com/T9pReIh.jpg
ロッキードのL-1011が抜けてたごめんね
1970年代~1980年代にかけて、開発費の高騰やセールス競争の勝敗によりこれらの航空機メーカーの淘汰が始まります。
コンベア「ウボァー!!」
コンコルド以前に世界最速を謳ったコンベア社のCV-880でしたが、設計の問題から標榜したほどの速度も出ず、開発が遅れ使い勝手も悪かったことからセールスに失敗し、1976年には会社ごとカナダ政府に売却されてしまいます。
また、当初はあまりの巨大さから先行きを心配する声もあったボーイング社のB-747でしたが、それが逆に「空席が多い状態で飛ばすよりも運賃を下げて席を埋めたほうが良い」という状況を生み出し、それまで高嶺の花だった飛行機という交通手段をより身近なものとすることで、セールスの拡大をすることに成功しました。
そんな中、ほぼ同規模の機体サイズでライバル同士の関係となっていたダグラスのDC-10と、ロッキードのL-1011の販売競争は熾烈を極めていました。
ロッキード「くっ・・・やはり民間市場で出遅れたのが痛かったか、競合機のセールスに勝つのは難しい・・・ね、値引きだ!!」
ダグラス「そっちがそう来るならこっちだって!し、しかし対抗するにはもっと力が欲しい・・・誰か、誰かいないか!?」
マクドネル「俺がいるぜ!!」
ダグラス「よし、合併だ!!」
1967年4月28日。かねてより合併交渉を行っていた二社が合併し、マクドネル・ダグラス社が誕生します。
マクドネル・ダグラス「会社体力もってくれよ・・・DC-10、値下げだぁーっ!!」
ロッキード「ウ、ウボァー!!」ティウンティウンティウン
こうして価格競争に負け、ロッキード社も民間航空市場からはその姿を消してしまいました。ただし、この競争はマクドネル・ダグラス社にも大きな痛手となりました。
一方のボーイング社は、B-747などの好調なセールスによりその地位をより盤石なものにしていきます。
これに対抗するため、欧州は英仏独西4か国体制でエアバスという会社を立ち上げます。
資本主義を標榜する西側諸国では、このようにメーカー同士の激しい争いが続いていましたが、共産圏であるソ連はツポレフ、イシューシン、アントノフなどといった大手メーカー同士の間に激しい競争は起きませんでした。
ただし、これにより競争による技術力の向上やセールス手法の充実といった恩恵をうけることができず、冷戦崩壊後ソ連の航空産業は大打撃をうけることになります。
一方この頃、日本も戦後初のターボプロップ旅客機「YS-11」を開発しますが、10年間に及ぶ空白はいかんともしがたく、ジェット機が主流となりつつあった航空機市場に大々的に受け入れられることはありませんでした。
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※YS-11
1990年代に入ると航空機の技術革新が進み、さらにソビエト連邦が崩壊したことで市場はドラスティックな変化を遂げます。
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ボーイング「B-777!」
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マクドネル・ダグラス「MD-11・・・ふえぇ、セールス力じゃボーイングに太刀打ちできないよう・・・」
冷戦終結に伴い軍需での発注が減ったマクドネル・ダグラス社は、民間機部門でも販売不振が続き、ついには1997年にボーイング社に買収されてしまいます。
ボーイング「抵抗は無意味だ・・・私と同化しろ・・・」ゴゴゴ
マクドネル・ダグラス「ウボァー!!」
さらに1970年に設立されたエアバスも、1980年代以降急速に民間航空市場に台頭してきます。
A300でデビューを飾った当初は、ノウハウ不足から信頼性不足などを指摘され苦戦したものの、1980年代に開発されたA-320以降積極的な技術革新を続け、90年代に入るとボーイングに比肩しうる性能の飛行機を作れるようになっていたのです。
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エアバス「A310!!」
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エアバス「A320!!」
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エアバス「A330!!」
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エアバス「A340!!」
エアバスの強みは、ボーイングに比べ先進的な設計思想や技術を取り入れた比較的ラジカルな機体設計と、共同開発として各国と提携しその利益を還元する仕組みを作ったところにありました。後者の戦略は後にボーイングも模倣することになります。
ツポレフ「な、なんだこれは・・・西側の航空機はこんなに進んでいたのか・・・」ガクガク
イリューシン「勝てる訳がない・・・これが資本主義か・・・」ブルブル
黎明期こそ西側諸国と切磋していたソ連の航空機メーカーでしたが、半世紀に渡る共産体制の中で技術革新が遅れ、ソ連崩壊後はその機体の多くが既に時代遅れとなっており、西側諸国のメーカーに大きく水をあけられる状態となっていました。
こうして今日にいたるまで、ボーイングとエアバスの二社は民間航空機市場の二大巨頭として君臨し続けているのです。
こうした中、技術の進歩によりジェットエンジンはより軽く、より小型に、そしてより低燃費へと、その性能を大きく向上させました。
それにより、これまで大型機への搭載が主流だったジェットエンジンを、小規模なサイズの航空機に搭載した場合でも効果的に運用できるようになりました。
こうして最近注目されているのが、主に短距離での経済的な飛行を主目的に置いた小型のジェット機、通称リージョナルジェットです。
リージョナルジェットは現在、前述の大型ジェット機の隙間を埋めうる存在として世界各国の航空機メーカーが開発に取り組んでいます。
そしてそれは、日本も例外ではないのです。
-第2章 おわり-
-第3章 日本のジェット機開発史-
第二次世界大戦の敗戦により、日本は航空機に関するあらゆる活動が禁止されてしまいました。
それまで航空業界で名を馳せていた三菱・中島飛行機・川崎航空機・川西航空機といった航空機メーカーも、その技術者の多くが自動車や鉄道の分野に下野することになりました。
このうち中島飛行機と川西航空機については、富士重工と新明和にそれぞれ名前を変え、現在に至るまで日本を代表する重工企業として活躍しています。
このときの技術者たちが、後の日本の工業力の大きな礎となったのは先述の通りです。
戦後GHQによる航空禁止令が出されてから7年後の1952年、サンフランシスコ講和条約の発効により日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除されます。
これにより、日本の航空機メーカーは再び日本の翼が空を飛ぶ日を実現するため始動します。
解禁後まもなく、当時発生していた朝鮮戦争における米軍機の整備・補修の受注を皮切りに、1955年には三菱重工と川崎航空機が航空自衛隊向けのジェット機をライセンス生産することが決定します。
ライセンス生産というのは、開発国にロイヤリティを支払ってその製品を生産することです。これにより当時の米国の技術やノウハウを享受できるというメリットがありました。
この時、三菱には戦闘機であるF-86F、川崎には練習機であるT-33の生産がそれぞれ割り振られました。
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F-86F
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T-33
1956年になると、アメリカによる航空禁止が全面解除となりました。
この時防衛庁は、それまで使用していたレシプロ練習機のT-6に代わる中等練習機として、国産ジェット機を採用する方針を固めます。
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T-6
この時機体を公募した際、三菱だけは先述のF-86Fのライセンス生産で多忙のためこれを辞退し、参加したのは川崎、富士重工、新明和の三社となりました。
選考の結果、このうちの富士重工案である「T1F1」が採用に至ります。
これが後に、戦後初めて日本の空を飛んだ国産ジェット機となります。
富士重工の前身である中島飛行機は、戦時中日本で唯一のジェット機である「橘花」を開発していた経緯があります。
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この橘花は、終戦直前の8月7日に最初で最後の試験飛行を成功させ、日本の航空史に足跡を残しています。
戦後初の国産ジェット機の開発を任された富士重工の意気込みは大変なものでした。
試作のための研究と試験にあたっては、国内他社メーカーと国公立の研究所の協力体制がとられ、先述のF-86FとT-33のノウハウが大きな助けとなりました。
しかしそれでも、研究開発は難航しました。
いくら橘花の開発実績があるとはいえ、航空再開から4年、富士重工設立からわずか3年しか経っていない状態では、ジェット機開発の経験など無いと言っても過言ではなかったのです。
富士重工「国産開発っていってもなぁ・・・ライセンス生産と違って設計から始める訳だし、実験施設なんて国内には無いぞ」
航空禁止令により、国内の航空研究設備の多くは戦後解散、あるいは機材も分解・破壊されてしまったため、当時の国内の航空関連施設はほとんど存在しない状況でした。
ジェット機という未知の領域に踏み込むに当たり、富士重工は実験のため米国の研究設備を借り上げ、さらには他国の航空機を購入して操縦特性や構造、装備品などの検証を行いました。
さらに問題となったのは搭載するエンジンの開発遅延でした。
戦後初の国産機であるT1F1には、搭載されるエンジンも当然国産であることが望ましいとされ、国内5社共同出資で設立した日本ジェットエンジン社(NJE)がエンジンを開発していました。
1957年。凡そ2年の歳月をかけ、まずは富士重工が手掛けたT1F1の機体が完成しました。
富士重工「え、エンジンまだできてないの!?」
NJE「トラブルが続出して・・・如何せん、ジェットエンジンは初めてで・・・」
富士重工「まずいなー・・・防衛庁の納入期限に間に合わないよ」
機体に送れること約1年、NJEも試作エンジン「XJ3」の開発に取り掛かりましたが、故障が相次ぎ防衛庁の指定した納期までに完成が間に合わない事態となっていました。
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完成型であるJ3エンジンのカットモデル
富士重工&NJE「・・・というわけなんですが」
日本「むむむ・・・エンジンだけは昔からホント苦手なんだよねぇうちは」
NJE「ごめんね・・・」ションボリ
富士重工「とりあえず、どうします?」
日本「防衛庁への納入を遅らせる訳にはいかないし・・・仕方ない、エンジンは輸入品を乗せよう・・・」
こうして試作一号機には、英ブリストル社製・オーフュースMk.805エンジンが搭載され、T1F2と社内呼称を付けられたうえで1958年(昭和33年)1月16日にT-1A初飛行を果たしました。
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その後NJEが開発中だったXJ3が完成し、真に純国産機といえる機体(T-1B)が初飛行を迎えるにはさらに2年の月日を待たねばなりませんでした。(こちらは1960年5月17日初飛行)
ジェット機の技術を培いながら、日本は平行して旅客機市場への参入も視野に入れた計画も進めています。
1956年、日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が全面解除される事を見越し、通産省(現・経産省)の主導で日本の旅客機市場参入を見据えた輸送機設計研究協会(通称:輸研)が発足されます。
その際たたき台となったのが、新明和工業が基礎研究を行っていたターボプロップエンジン双発の国内旅客機案でした。
新明和工業の前身である川西航空機は、二式大艇という世界的トップレベルの性能を持つ大型飛行艇を開発した経験があり、大型多発機のの設計・開発には一日の長があったのです。
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この二式大艇の設計者である新明和工業の菊原静男の他にも、輸研には零戦の設計者である堀越二郎、一式戦闘機隼を設計した太田稔、三式戦闘機飛燕を設計した土井武夫といった戦前の航空業界を支えた技術者が参加し、新型輸送機の設計にあたりました。
この機体は後に、輸送機設計研究協会の「輸送」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとって「YS-11」と名付けられました。
その後、基本設計案と機体のモックアップを作った段階でこのプロジェクトは正式に国産旅客機開発計画として動き出します。
1959年6月1日に輸研は解散、官民共同の特殊法人として日本航空機製造(日航製)が設立されます。
日航製は設計開発から販売までのプロダクトサポートを行い、生産は各メーカーが分担、最終組立は三菱重工業が行うことになりました。
ところが、いざ開発を正式に決定すると、欧米の航空機メーカーが自社との共同開発や自社機のライセンス生産を求めて殺到してきました。
これはつまり日本が競合機種を開発することで、セールス上のライバルが増えることを望まなかったからです。
ですが、これらの要望を通産省は一蹴します。
3年後の1962年8月30日。ついに戦後初の国産旅客機YS-11は空へと舞い上がります。
その後試験飛行で明らかとなった様々な不具合を改修し、ついに1965月1日、日本国内航空の運航により東京(羽田) - 徳島 - 高知線として商業飛行を開始します。
以後、日本エアコミューターが 2006年9月30日で行った沖永良部空港 - 鹿児島空港での最終フライトを行うまでの41年間、YS-11は日本の空を飛び続けました。
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ですが同時に、この40年間に渡り後継の国産旅客機が開発されることはありませんでした。
その理由は、いくつかあります。
まず第一に、既に旅客機市場は成熟しており、日本が新規参入して欧米各国のメーカーに追いつくのは容易ではないこと。
YS-11についてもセールス上は決して成功とはいえず、競合メーカーであるコンベアやフォッカーなどに大きく水をあけられている状況でした。
そして第二に、国内においても国産旅客機開発に対する気運はそれほど高くなく、米国としてもそれを望まなかったということです。
航空技術はほぼそのまま軍事技術に直結しています。日本はその歴史上、こうした技術を積極的に開発することを良しとしない声も一定数存在します。
さらに米国としても、日本が優れた航空技術を持つことは自国に対する脅威であり、さらに自国が圧倒的なシェアを持っている旅客機市場にライバルが参入してくるとなれば、これを良しとするはずがありません。
ですが、こうした情勢の中で欧州で設立されたエアバス社が各国との共同開発によるメリットを生かした戦略を取り始めると、それに追従したボーイングは日本に航空機の共同開発を持ちかけ始めます。
ボーイング「あのさ、今度ウチで新型旅客機作ろうと思ってるんだけど。たしかおたくのとこでも今YX計画とかいうのやってるよね?よかったら一緒に作ってみない?」
日本「えっ?うーん・・・」
実はこの時、日本も独自にYXとしてYS-11の後継となる国産旅客機計画を進めていたのですが、YS11のセールス失敗に伴う日航製の規模縮小に伴い、その計画はかなり流動的なものでした。
日本(確かに、ボーイングさんみたいな大手と共同開発したら市場開拓も有利だし、何より世界に対して日本の航空技術が優れているということを喧伝できるチャンスかも・・・)
実はこの時、日本も暗礁に乗り上げかけていたYX計画について、米国の航空機メーカー3社に対して国際共同開発が可能か調査を行っていました。
この結果、マクドネル・ダグラスは日本のことを下請けとしか見ておらず、ロッキードについてはそのノウハウを購入するよう強く迫られることが分かりました。
一方のボーイングは、日本を対等パートナーとして50パーセントの分担比率を提示してきたため、日本は当面の交渉をボーイング第一とするという方針を固めたのでした。
ボーイング「昔の敵は今日の友!一緒にがんばろうぜ!!」グッ
日本「はい!よろしくおねがいします!!」
こうして日本は、日米共同開発の為の交渉を進めていきます。ところが・・・。
日本「・・・ということで、我が国としても是非このYX計画にボーイングさんのお力添えを賜りたくてですね・・・」
ボーイング「あー、そのことなんだけどさぁ。今度ウチで、B-7X7っていう新型旅客機作るのね?独自開発のYXなんて止めちゃってさぁ、こっちの計画に乗っからない?」
日本「えぇ?それじゃあ当初と話がちが・・・」
ボーイング「あ、いいんだよ?別に無理しなくても。他にパートナーもいるし」
日本(ぐっ・・・足元見られてる・・・でもこの機会を逃したら当分の間は旅客機を作ることはできないし・・・)
日本「わ、分かりました・・・」
ボーイング「よっしゃ!それじゃ、これからよろしく!」
とはいえ、このようなボーイングの強引な手法に関係者の不満も高まり、1975年に来日したボーイングの会長と通産大臣の会談が執り行われることになりました。
日本「えーと、あのですね・・・さすがにもう少し日本の主体性を尊重してもらわないと、国民が納得しないっていうか、大蔵大臣がお金出してくれないんですよね・・・」
ボーイング「・・・じゃあ仕方ないな。OK、分かったよ」
そこで日本はボーイングに対して以下の6項目についてその主体性を強調しました。
①機体製造とかだけじゃなくてエンジン製造も含めた全分野に参画させてね
②日本の航空会社の要望も考慮してね
③日本の持分率は20%にしてね(当初は50%って言ってたし・・・)
④本計画を進めるにあたって、共同事業体(ジョイントベンチャー)を設立してね
⑤出来上がった機体の販売にも参加させてね
⑥機種名は日本が携わったのが分かるような名前にしてね
こうしてこの計画はYX/7X7として正式に動きはじめます。ところが、またしても暗雲立ち込める事態が発生してしまいます。
1976年2月。
時の総理大臣田中角栄がロッキードから賄賂を受け取り、同社が当時販売していたL-1011を有利に採用していたいわゆる「ロッキード事件」が発覚すると、ボーイングは態度を豹変させ、日本に対して強硬な姿勢を見せ始めます。
ボーイング「ねぇ、どういうこと?おたくのトップ、何やってくれちゃってんの?」
日本「いや、あの・・・」
ボーイング「不正競争って言葉、知ってる?」
日本「はい・・・申し訳ありません」
ボーイング「前にも言ったけど、別にうちとしては日本に参加してもらわなくてもいいんだよ?むしろ、日本製の部品なんて使ってるのが知れたら市場の評価が下がる可能性もあるしね」
日本「うぐ・・・」
この頃、ボーイングは自社のB-727の売上が史上最高を記録し、さらに計画中だった超音速旅客機B-2707の開発も中止したため、これらの予算を丸ごと7X7に投入することができるようになり、もはや日本の協力は不要なものとなっていました。
ボーイング「まあ、それでも参加したいのであれば、もう一回うちで条件練り直すけど」
日本「わ、分かりました・・・」
ライバルであるロッキードを賄賂によって有利に導いた日本はボーイングに対して主義主張できる立場になく、1977年7月からの日米交渉において当初日本が主張した6項目は見直され、最終的に以下の内容が決定されました。
①開発の全責任はボーイングが負う。つまり本計画の主導権はボーイングにある
②共同事業体は設立せず、共同事業「体制」をとることとする
③イタリアに対しても日本と同じ参加形態で声をかける(最終的に日本の持分率は15%)
④かかる調整費は不要
⑤日本の分担作業意外の分野の「参加」は許可する。(事業や計画には関わらせない、つまり「参画」は不許可)
当初の50%-50%の持分率からは大幅な後退ではありましたが、概ね現実的な内容として日本はこれを全面的に受け入れることを決定します。
翌1978年9月。7X7の開発がいよいよスタートします。
日本からは130名あまりの技術者がボーイングに派遣されましたが、開発が始まるとその経験の差を大いに思い知らされることとなります。
開発においては、三菱・川崎・富士重工の三社が胴体パネルや一部骨組み、乗降扉や主脚扉を任されましたが、主翼などの最も重要な部門からは完全に締め出されており、実質は下請け業者と何も変わりませんでした。
さらに、旅客機を独自開発するうえで重要な営業ノウハウについては、ボーイングによって固く情報が閉ざされ、何もノウハウを得ることが出来ませんでした。
ボーイングからの厳しい発注基準に技術陣は大変な苦労を費やしましたが、結果的にはそれが日本の技術水準を向上させ、期待に応えた日本側の対応はボーイングからも高い評価を受け、信頼を得ることが出来ました。
こうして開発された機体はB-767と名付けられ、世界の空を飛ぶこととなります。
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その後ボーイングが開発した後継の旅客機にも、日本は継続して共同開発に参加し続けます。
1990年に開発がスタートしたB-777では日本の持分率は20%となり、さらに次世代のB-787では同35%まで増加、そしてついに主翼や中胴部などといった重要部分の開発にも携わることができたうえ、日本の航空会社の要望を取り入れることも実現されました。
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このように紆余曲折あったものの、結果的にはボーイング社との共同開発は日本にとって大きな恩恵をもたらしました。
そして力を蓄え、民需への可能性が開けた日本は、先述の通りまだまだ新規参入の余地があるリージョナルジェットという分野に目を付けるのです。
これに先駆け2000年代に入ると、日本はボーイングだけでなく、カナダのボンバルディアや、ブラジルのエンブラエルなど他国の航空機メーカーとも関係を深め始めることになります。
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2014年10月18日。
愛知県にある三菱重工業・小牧南工場。半世紀前にYS-11が生まれたこの工場で、白地に赤黒のラインを引いた機体がお披露目されました。
その機体の名前はMRJ。三菱が6年の歳月をかけて開発したこの機体は、来年第一四半期の初飛行を控え、その時を待っています。
日本が持てる最先端の技術を駆使して作られたこの機体が、世界の空に舞う日はそう遠いことではないのかもしれません。
-第3章 おわり-
-第4章 技術の推移と今後の展望編-
こうして、70年以上に渡るジェットエンジン技術は旅客機の在り方そのものを変えてきました。
技術の進歩に伴い、旅客機はより速く、より遠く、より多くのものを積んで飛行できるようになったのです。
それは一重に、ジェットエンジンの軽量・高出力(つまりパワーウェイトレシオの高さ)に起因しているといえます。
これにより得られるメリットは、ジェット機の欠点である燃費の悪さといったデメリットを補うに十分なものでした。
とはいえ、これまでに起きた石油危機や環境問題への配慮から、ジェットエンジンも常に燃費の向上と環境への低負荷を目指しています。
いいぞ
やっぱり飛行機にはロマンがあるな
冒頭で説明した通り、航空機のエンジンは大きく分けてレシプロ・ターボプロップ・ジェットの3種類があります。
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レシプロエンジン(P&W ワスプ)
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ターボプロップエンジン(P&W PT6)
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ジェットエンジン(GE)
このうち、ターボプロップ機については広義のジェットエンジンに含まれますが、一般的には主な推進力を燃料を燃焼させた排気から得るエンジンのことを狭義のジェットエンジンと呼んでます。
通常、プロペラの回転で生み出す気流より、燃焼によって得られる気流のほうが速度が速く、高速化には有利です。
とはいえ、その排気は旅客機の通常の飛行速度より遥かに高速であるため推進効率が悪く、どうしても高燃費になりがちです。
この問題を解決するため考えられたのが、タービンから得られる軸出力でプロペラを回転させるターボプロップエンジンでした。
通常、ジェットエンジンは燃焼の前に、取り込んだ空気をタービンから発生させた軸出力によりコンプレッサーで圧縮させます。
黎明期のジェットエンジンは、この圧縮された空気を燃焼して得られる排気がエンジンの生み出す全ての推進力となっていました。
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このようなジェットエンジンを「ターボジェットエンジン」、またはその仕組みから「ピュアジェットエンジン」と呼びます。
ターボジェットエンジンの特性は先述のジェットエンジンの特性そのものであり、低速では効率が悪いものの高速飛行に有利なため主に戦闘機などの軍用機に使用されます。
ですが、音速以上の速度で飛行する戦闘機と違い、コンコルドなど一部の例外を除いてジェット旅客機の飛行する速度は概ね1000km/h程度です。
この速度ではターボジェットエンジンは効率が悪く、かといってターボプロップでは速度が速すぎます。(ターボプロップ機の効率の良くなる速度は700km/h程度まで)
そこで考え出されたのが、旅客機の飛行速度で最も効率が良くなるターボファンエンジンだったのです。
通常、ターボプロップエンジンではプロペラの回転によって得られた気流は全て推進力となります。
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このため、プロペラの回転速度が上がり、その先端部が音速を超え始めたあたり(これが概ね700km/h)からこのエンジンは極端に効率が悪くなります。
そこで、ターボファンエンジンではターボジェットエンジンをコアにしたうえで、そのコンプレッサーの前方にファンを追加しエンジンに収めています。
このファンはターボプロップ機のプロペラと同じく、タービンから取り出された軸出力によって回転します。つまり、ターボジェットエンジンとターボプロップエンジンを組み合わせたような形になっています。
通常、ファンの直径はコンプレッサーの直径より大きいので、ファンの回転によって得られた気流はコンプレッサーに取り込まれる(≒ターボジェットの推力)分と、コンプレッサーをバイパスしてそのまま後方に噴出される(≒ターボプロップの推力)分の2種類が発生します。
最終的にこれら2つの気流をエンジン後方で混ぜ合わせることにより、旅客機の飛行速度に合った排気速度を得るのです。
この2種類の気流の割合を示したものをバイパス比と言います。例えば、ファンで生み出された気流のうち、全体の2割がコンプレッサーをバイパスする場合、このエンジンのバイパス比は2となります。
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概ねバイパス比が1~2のものを「低バイパス比エンジン」と呼びます。低バイパスエンジンはほとんどの推進力がコアであるターボジェットエンジンの排気によって賄われるため、特性的にはターボジェットエンジンに近いものとなります。
ターボファンエンジンが開発された当初は、技術的限界からその旅客機にもこの低バイパスエンジンが搭載されていましたが、現在では戦闘機などに使用されることの多いエンジンです。
いくら戦闘機とはいえ、常に高速飛行をするわけでは無いので純粋なターボジェットエンジンよりも低バイパスであるといえターボファンエンジンを搭載したほうが効率がよいのです。
さらにこの場合な副次的なメリットとして、バイパスされた空気には燃焼を経ていないので酸素が多く含まれており、アフターバーナー、あるいはリヒートと呼ばれる排気に燃料を噴射してもう一度燃焼させ出力を増強する装置の効果が大きいといった点もあります。
このため、最近では戦闘機でもピュアジェットエンジンであるターボジェットを採用することは少なくなっています。
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対して、バイパス比が概ね4以上のモノを「高バイパス比エンジン」と呼びます。昨今の旅客機において主流となっているのは、このタイプのエンジンです。
特に、最新の高バイパス比エンジンではバイパス比が9に迫っているものもあります。これはつまり、ファンによって生み出される気流の9割が、コンプレッサーをバイパスしていることになります。
このようなことから、高バイパスエンジンの普及を「プロペラへの回帰」を見る向きもあります。
では何故ターボプロップの形状に戻さないのかというと、ファンをエンジンの内部に収め、その形状を工夫して気流を制御することで、プロペラのように先端部が音速を超えて効率を落とすことがないようにできるからです。
また最近ではこれに加え、ギヤードターボファンエンジンといってファンに減速機、トランスミッションのようなものをつけることで、その回転数を最適なものにして効率を高めるという技術も生まれています。
先述の日本が開発したMRJに搭載されるのは、このギヤードターボファンエンジンです。(バイパス比は8.4)
さらに、技術が進歩したのはエンジンだけではありません。機体自体もより合理的な形状に進化しています。
特に近年では新素材の登場で機体をより軽量にすることが可能であり、日本の得意とする炭素繊維技術も飛行機の主翼に生かされ航続距離の延長等に寄与しています。
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こうした旅客機の性能の向上は、それまでの航空業界のルールも替えていきます。
例えば、これらの性能向上により現在ではB-777やA-340を初めとした双発機であっても大西洋や太平洋の無着陸での横断が可能になりました。
これまでは専ら、エンジンを4発搭載したB-747などの大型機でしか、このような大陸間無着陸の飛行は出来ませんでした。
それは、エンジンの性能もさることながら、「ETOPS」(Extended-range Twin-engine Operational Performance Standards)という民間旅客機の安全性確保のためのルールが存在したからです。
このETOPSはFAA(米国連邦航空局)とJAA(欧州合同航空公団)によって認定が行われ、エンジンを2基しか持たない双発旅客機において、仮にそのうちの1基が飛行中に停止した場合でも一定時間以内に代替空港へ緊急着陸することが可能な路線のみ飛行を許可するルールのことです。
時代が下りエンジンの信頼性が高くなってくると、新規定としてETOPS-120、つまり片肺飛行で120分以内に代替空港への着陸が可能な路線での使用を許可するルールが制定され、1985年5月にボーイングのB-767がこれを初めて取得します。
それまで、原則として双発機は空港から60分以上離れたところを飛ぶことは認められていなかったのです。そのため、こうした長距離路線にはDC-10やB-747など、3~4発のエンジンを搭載した旅客機を使用する必要があったのです。
現在ではB-777の一部のモデルについてはETOPS-330の認定が与えられており、双発機でありながら無着陸で太平洋を横断する路線に就航することが可能となっています。
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こうなると、燃費が悪く運用コストの嵩む大型多発機は各国の航空会社から避けられるようになり、現在ではA-340やB-777といった双発旅客機がこれらの長距離路線の主力となっています。
日本でも、上記の理由から2014年3月をもって全日空が「ジャンボ」の愛称で親しまれたB-747型機を引退させています。
先述の通り、現在世界の旅客機市場の二大巨頭と呼ばれているボーイングとエアバスの二社ですが、製造されている飛行機の形は似ていても、その細部には両者の設計思想の違いが見て取れます。
第2章では、エアバスはボーイングにくらべて比較的ラジカルな機体設計を行っていると述べましたが、具体的にはどのように違うのかにスポットを当ててみたいと思います。
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A350 XWB
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B-787
1970年に設立されたエアバスは、まず最初にA300という双発の中型旅客機を開発します。
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このA300には、先に英仏が協力して開発した超音速旅客機コンコルドから派生したいくつかの先進技術を採用していました。
これが丁度、機体規模的にボーイングの開発したB-767とライバル機になり、両者の競争が始まります。
この時エアバスは、経験不足から売上で苦戦し膨大な赤字を抱えてしまいます。しかしながら、それはフランスと西ドイツ政府の援助によって乗り切ることが出来ました。
これもまさに、エアバスのとった共同開発によるリスク分散がもたらしたメリットでした。
1980年代に入ると、エアバスはA300での知見を活かし技術力を大幅に高めたA320で大成功を納めます。
この頃から、エアバスはボーイングに先駆けて最新技術を採用し始めるようになります。
そのうちの一つが、「フライバイワイヤ」とよばれる技術です。
従来の飛行機は単純にケーブルや滑車、ロッド、レバー等を機械的に接続することで翼を動かして操縦していましたが、ジェット化により大型化した飛行機は、最早人の力だけでは操作することは不可能でした。
そこで採用されたのが、油圧によってこれらの操作をアシストする方法でした。自動車でいうところパワーステアリングのようなものです。
エアバスはこれをさらに発展し、油圧ではなく電気信号で翼を動かす仕組みを採用したのです。この電気信号を通すのにケーブル(ワイヤー)をつかうところから、フライバイワイヤと呼ばれています。
フライバイワイヤはそれまでの操縦方式のように、操縦桿と翼を機械的に接続する必要が無いため、操縦系統の設計の自由度が高まるといったメリットがあります。
これにより、エアバスの旅客機の特徴の一つである操縦桿ではなくサイドスティックによって飛行機を操縦するスタイルが確立されました。
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B-767のコックピット(正面に操縦桿が存在する)
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A320のコックピット(正面はテーブルになっている)
このような先進的な設計と、前世代機のB-727やDC-9と比べてより格段に燃費のよい機体が航空各社に受けて、エアバスは大躍進をとげるのです。
対するボーイングも、自社のB-737を改良するなどしてこれに対抗しました。
この時点でエアバス製飛行機を導入するアメリカの航空会社や、ボーイング製飛行機を導入するヨーロッパの航空会社が存在し、すでに両社に地の利が無くなってくるほどセールスが拮抗し始めたことが分かります。
その後、1990年代に入ると旅客機市場の大手だったロッキーとどマクドネル・ダグラスが姿を消し、両者のセールス競争は一騎打ちの様相を呈してきます。
ではここで、両者の設計思想の違いを見てみましょう。
ボーイング「どんなに技術が進歩しても、機械は人間を補助するものに過ぎない。最後は人間に権限を持たすべき」ショセンキカイダシネ
エアバス「どんな人間でも必ず間違いを犯す。ミスを事前に防ぐためには、機械の制御を優先すべき」ショセンニンゲンダシネ
こうした二社の設計思想の違いは、飛行機の操縦席にもその違いを如実に表しています。
例えば自動飛行中、ボーイングの飛行機の場合、操縦桿を人力で操作するとオートパイロットが解除されます。しかし、エアバスの飛行機の場合は所定の手順でオートパイロットを解除する必要がありました。(現在ではエアバスもサイドスティックを動かすだけでオートパイロットを解除できるようになっています)
さらに細かいところでは、ボーイングではエンジンの出力を操作するスロットル(車でいうアクセル)が、オートパイロット時もエンジン出力に併せて自動的にレバーの位置が変わるのに対し、エアバスではレバーはそのままで、パイロットは計器からその出力を読み取ることになります。
同様に、フラップの角度についても、ボーイングでは詳細な角度までパイロットが把握できるのに対し、エアバスでは5段階でフラップ角度を設定した後は、パイロットはその詳細な角度を知ることはできません。
こういうところでも、ボーイングはエアバスよりも人間の判断を重視していることが見て取れます。
事実、エアバスの航空機が世に出始めた頃は、この機械優先の設計思想に操作する側の人間が馴染めず発生した事故が多発しています。
中でも有名なのが、1988年に発生した当時最新鋭のエアバス製旅客機A320がデモフライト中に墜落したエールフランス296便事故です。
この事故は観客へのアピールのため通常より高度を下げた機長の操作により、フライトコントロールシステムが機体を着陸に適した体勢(つまり、エンジン出力を落として徐々に降下していく)飛行制御を行ってしまい、パイロット側からその操作がオーバーライドできずに、回復操作が遅れたことが原因となっています。
同じような事故として、1994年に日本国内で発生した中華航空140便墜落事故が挙げられます。この時も、該当機の機長は着陸復行モードとなり機体を制御しはじめたシステムを制御できず、それが起因で墜落に至っています。
これらの事例を見ると、ある意味では人間は判断を誤りますが、その誤った判断が必ずしも悪影響を及ぼすわけでは無く、むしろその際にシステムに介入できないことのほうが問題であるとも言えます。
このような経緯から、エアバスも先述のようにオートパイロットをサイドスティック操作だけで解除できる機能を付けたと言われています。
逆に、ボーイングがエアバスから取り入れたものもあります。
たとえば、エアバス製飛行機の場合、A310~380と様々なシリーズがありますが、そのコックピットの後世は機首間でそれほど異なるものではありません。
これに対し、ボーイング社ではB-737~777シリーズまで、そのコックピットの構成は大きく異なっています。
通常、旅客機の操縦資格は自動車免許のように単一のものではなく、機種ごとに取得する必要があります。
この際、機首間での構成が似ているエアバス製飛行機では機首転換が比較的容易ですが、ボーイング製飛行機ではいちから操縦系統の勉強をし直す必要があります。これは、人件費の面で問題になります。
最近ではボーイングも、機種ごとの操縦系統の差を少なくする傾向がみられるようになっています。
さらに、昨今のエアバス社の象徴とされる旅客機として、総二階建ての4発機であるA380の存在が挙げられます。
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このA380はこれまで世界最大の旅客機だったボーイングB-747を上回り現在世界最大、MAXで800席にも及ぶ客席数を確保できるという超大型機です。
こうした中、これまで世界最大を誇っていた巨人機B-747を有するボーイングですが、現在ではA380に対抗する大型機よりは、むしろ中型機であり航続距離の長い777や787の開発に力を注いでいます。
ここに、両社の今後の旅客需要に対する予測が異なっていることが見て取れます。
基本的に、両社共に将来的には航空旅客は増加するだろうという予想については一致しています。ですが、その需要に対する対処の方法にはそれぞれ違いがみられるのです。
エアバス「メインとなるハブ空港(拠点)同士はウチのA380みたいなデカい飛行機を就航させて、そこから先のローカル空港にはラインナップ豊富な中小型機を使うのが合理的だよね」
この方式を車輪のリムとハブを繋ぐ輻に例えて「ハブ・アンド・スポーク方式」と呼びます。
主に米国から始まったこの方式は今や航空輸送業界では主流となっており、欧州ではこのハブ・アンド・スポーク方式が多く用いられています。
この方式では、旅客数の多い主要路線に大型機を用い、それ以外の路線は需要にあった中小型機を使用することで、機材を無駄なく運用できるメリットがあります。
では、対するボーイングはどう考えているのでしょうか。
ボーイング「でもー、飛行機の乗り換えって超めんどくさいしー、お客さんとしては直接近くの空港まで飛んでくれた方が絶対有難いよね」
この出発地と目的地をダイレクトに結ぶ方式を「ポイント・トゥ・ポイント方式」と呼びます。
ボーイングは、今後の旅客需要はこちらのポイント・トゥ・ポイント方式が主流になると見込んで、先述のように中型機の開発・改良に力を入れているといえます。
では、日本におけるこれらの現状はどうなっているでしょうか。
日本はその南北に細長い国土から、首都から末端部の主要都市にかけて飛行旅客が集中しています。
その代表的なものが東京から北海道や九州・沖縄を結ぶ路線です。名古屋・大阪などの近距離都市間はむしろ新幹線がその旅客輸送の中心ですが、新幹線と競合し得ないこれらの路線については航空各社にとってドル箱路線と化しており、国内各社ともに大型機を多数就航させています。
また、国際線に置いても日本の場合、その就航先は東京-ニューヨークや、ロンドンなど各国の大都市空港への路線が中心であるため、こちらも旅客需要に見合った大型機を多数就航させています。
つまり、日本の航空路線は先述のハブ・アンド・スポークの方式でいうと、ハブ・トゥ・ハブの輸送が中心であることが分かります。
そもそも、各都市間の間まで航空機による移動が当たり前となっている米国とは異なり、日本では新幹線や路線バスなど、競合となる交通機関が発達しています。
このため、ハブ・アンド・スポークのスポークの部分は航空機でなく、その他の交通機関に代替されると言えます。
こうしたことから、日本の航空会社では専らハブ・トゥ・ハブ輸送のための中大型機を中心に導入し、需要が少なく路線距離も短い地方空港同士の路線にはリージョナルジェットを利用する傾向があると言えます。
かつて、日本はその歴史上大型旅客機に関して言えば戦後はほぼ一貫して米国製の飛行機を中心に導入していました。
これは当然、戦後は米国の強い影響下にあったためと言えます。90年代に入ると例外的に全日空がエアバス製航空機を導入していますが、やはり日本の旅客機市場はボーイングの独擅場でした。
ですが、近年この米国一辺倒の情勢が変化しつつあります。2013年10月、日本のフラグシップである日本航空がエアバスのA350XWBを、機材更新の時期に差し掛かり始めたボーイングの777の後継とすることを発表しました。
これは市場がオープンになったことに加え、2010年に破綻し、経営再建のためにコスト意識が非常に強くなっている日本航空に対し、エアバスが戦略的な価格を提示したのではないかと言われています。
これはどういうことかというと、これまでボーイング製の飛行機を中心に導入してきた日本航空にとって、エアバス機の導入はその初期設備や人材育成のための費用の負担がかかります。
そこで、エアバスは日本という巨大市場での受注を得るために、今回はその部分に関して大幅な譲歩をしたうえで条件を提示したのではないかということです。
つまり、今回の日本航空のA350採用に伴い、エアバスは戦略的な(今回に限って言えば損ともいえる)条件を提示することで、日本市場に参入しようという計画なのでしょう。
現に世界での両社の売上額を比較しても、2000年代以降はエアバスがボーイングを上回ることが多くなっています。また、前述の超大型機A380についても、生産段階で東レや住友金属、三菱や富士重工といった企業が参加しています。
米国としては、日本でのシェアを落とすことになれば大打撃につながりかねないため、現在ではB-787のように従来より日本側の意向を重視しているといった背景もあるようです。
そんな中、日本はこれまで培った技術を持って世界の航空市場に参入しようとしています。
その一つが、先述のMRJ計画です。
すでに大手航空会社の主流となり得る中大型機の市場はボーイングとエアバスの両社の台頭により参入するのは容易ではありません。
ですが、リージョナルジェットやビジネスジェットなどの小型機の部門に関しては、まだまだ競争参加の余地があります。
現在、この分野で活躍しているのがカナダのボンバルディアと、ブラジルのエンブラエルです。
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エンブラエル E-Jet
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ボンバルディア CRJ
実際、この二社のリージョナルジェットは、全日空や日本航空をはじめとした日本の航空会社にも広く導入されています。
MRJは、日本のもつ高い技術力を世界に発信するというコンセプトのもとその計画が進められてきました。
現時点での発注機数こと前述の両社からは大きく水をあけられていますが、ここで日本の技術力が世界に認められれば、日本の航空業界に大きな革新が訪れるかもしれません。
また、これまで話してきたように航空分野というものは極めて裾野が広く、その国の持つ工業力の結晶といえます。
今後、飛行機による旅客需要は拡大し、飛行機がより身近な乗り物になる日が来るでしょう。かつて日本が自動車で世界を席巻したように、今後は航空機でも同じように世界に挑戦していって欲しいものです。
戦後10年に及ぶ航空禁止期間のハンデを、日本は少しずつ取り戻しつつあります。
最後に、日本が生み出したもう一つのジェット機について紹介したいと思います。
その名は、HondaJet。
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車やバイクのメーカーとして世界に名を知られる本田技研の開発したこのビジネスジェットは、2003年12月に初飛行を果たし、そのエンジンを翼の上に設置する独創的な空力設計は各方面から高い評価を受けています。
元々、同社のバイクのエンブレムであるウイングマークは、創業者である本田宗一郎が「いつかは空へ羽ばたきたい」という願いを込めて採用されたものです。
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この思いは脈々と技術者達に受け継がれ、HondaJetでは搭載するエンジンまでが自社製(ホンダとGEの合弁企業による)という、世界的にも珍しい構成となっています。
2014年6月27日には、販売を前提とした量産1号機が初飛行に成功し、今やデリバリーは目前に迫っています。
本田の夢が、今世界に羽ばたこうとしています。
-第4章 おわり-
おすまいです
乙
乙です
>>45
コンコルドのリンクがこわれる
http://i.imgur.com/vG2coQq.jpg
乙
淡々の人かな?
最近ハイペースで新作出てきてうれしい
違ってたらごめん
>>110
なんで分かるんですかね・・・
いつも誤字脱字が多くてごめんね
お詫びにこないだイトーヨーカドーでとったお人形の写真あげる(白目)
http://i.imgur.com/hCGQLmz.jpg
>>111
ファッ*クゥーン…(卒倒)
乙
一気読みだよ
すっげぇ素晴らしくうまくまとまってる…
もっと早く読めたらレポートの参考にできたのに…ぅぅ…
乙です
>>87
あの~、A340は双発じゃなくて4発機では?
乙
すごく興味深かった
いつか他の分野についてもやってほしい
最後にHondaJetが来て嬉しい
素晴らしい!
おつ
SS形式じゃないじゃないか!(憤怒
おう、淡々とジェット旅客機の歴史を語る、を書くんだよあくしろよ
乙
まとまったお金が欲しい方はこちらへ
http://www.fc-business.net/qgesw/
こんないいスレを見つけるとは
業者に感謝感謝
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