苗木こまる「雨はハレ」 (93)
※ダンガンロンパ二次創作です。ダンガンロンパシリーズのネタバレ、妄想を含みます。
非台本形式で地の文が多めです。
一応、以下のSSの番外編の一つですが、読んでなくても大丈夫だと思います。
苗木「じょうずな絶望とのつきあいかた」
モノクマ「おいしい希望のいただきかた」
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1409491074
町に、殺人鬼がいる。
正体不明。
もう四人殺しているが被害者の共通点は見出されていなかった。標的となったのは少年、老女、女、男。老若男女揃い踏みだった。
ただ明らかなことが二つあった。
一つ目は、刃物で刺し殺すこと。この点を見れば実に模範的な殺人鬼であると言えた。胸部、首元、腹部……死体は一様に滅多刺しにされていた。
この殺人鬼を特徴づけるのは二点目にあった。
雨の日に殺す。
それがこの殺人鬼の名刺だった。
どうも、相沢です。
わかる人にはわかると思うのですが、、例のうみりんスレの>>1が逃亡してしまったみたいなのでターゲットをこのスレに変更します。
荒らし方はあのスレと同じで
、文字化けレスをID変えながらひたすら投下していきます。
スレが完結したり、途中で>>1が逃亡した場合はまた別のラブライブ!スレに移動させていただきます。
ラブライブ!SSの作者の皆様や読者の皆様とはこれからも長い付き合いになると思いますので、よろしくお願いします。
>>1君、ごめんねwww
あ、質問とか苦情があったら↓のスレにレスしてね。下のスレは宣伝荒らしの使ってたのを真似しただけだが、レス返しもちゃんとするからさ。
クリリン「安価でサイヤ人と戦う」
クリリン「安価でサイヤ人と戦う」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1407567115/)
格好のネタに「レインキラー」だの、「切り裂きジャック」だの、報道はこぞって様々な呼び名で騒ぎ立てたが、初めに誰が呼んだか犯人の呼称はある一つに収束した。
「雨男」
人は殺人鬼をそう呼ぶ。
「今日も出るんじゃない?雨男」
休み時間、わたしは窓際の自分の席で頬杖を突きながら、雨水が流れる窓をぼんやり眺めていた。そこに、後ろの席に座る友人が、殺人鬼の名を繰り返した。
降りしきる水の粒が地を叩く音に引き込まれ、意識が雨霧に溶けていた。
「そうだね」と、気の抜けた返事を返す。
教室のカーテンレールに、てるてる坊主が五つ、吊り下がっていた。
降り続ける陰鬱な雨と、それと共にやってくる殺人鬼の恐怖に辟易したクラスメイトが、梅雨が明けることを祈り、吊るしたらしい。
「ほんっと危機感ないよね。こまるは」友人は呆れ顔で、文庫本を開いた。「困るわ」と言ったのではない。「こまる」というのが、わたしの名前だ。うちの親は至ってごく普通の親のように思えるが、厄介なネーミングセンスを持っていたようだ。兄は普通の名前なのに。
「危機感、持ってるよ。わたしだって、雨男は怖いってば」
「ほんとに?こまる、よくぼさっとしてるからなあ。今もそうだった」文庫本に目を落としながら、失礼なことを言ってくる。俯くと長い睫毛が目立つ。
「それはただ……」
「ただ?」友人は、視線を本に釘付けにしたまま、黒く艶のある髪を撫でつけた。
「傘忘れて、困ったなって」
「何それ、ダジャレ?」
こまるが困る。いい加減に飽き飽きなやりとりだった。
わたしは乾いた笑みを返した。
----- ✂︎ -----
最近のわたしはどうもツイてないらしい。
不幸のはじまりは少し前の兄との買い物だった。
それまで平穏な日常を謳歌し、どこにでもいるごく普通の学生として生きてきたというのに、平穏な日常からの盛大な脱線事故に遭い、ごく普通の学生とは言い難い、特殊な体験をした学生と化してしまった。
謎の武装集団に捕まった。
唐突に日常をぶち破ってきたテロリスト達によって他の客数人と共に人質にされ、夢か現実か、ここは果たして日本なのか、よく解らないままによく解らないビルに連れられた。
一人でなく複数の人間を人質にとることがどういうことを意味するのか、わたしにも解った。女であるとはいえ、最後の一人がわたしとなる保証も、その最後の一人が無事解放される保証もなかった。
わたしはあっさりと諦めた。
これまでの人生とか、これからの人生に、しがみつこうという気は全く起きなかった。
しかし、テロリストに封鎖され絶望の監獄と化したビルには、希望が紛れ込んでいた。
捕まっていなかった兄が、武装集団の砦にわざわざ潜り込んでいた。
あらゆる超高校級の才能が集う学園の生徒である兄だったが、わたしと同じような凡人のはずだった。だから、恐ろしいテロリスト相手に武器なし策なしの兄が敵うはずもなく、あっさりとやられてしまうのが世の理というものだ。
世の理はひっくり返っていた。
兄の才能は死地で存分に発揮された。
テロリスト達は何かと足を滑らせ、放つ銃弾は都合良く兄には当たらず、味方を誤射した。兄はただただ必死に、わたし達を助けようと駆けずり回っていただけだったが、武装集団はいつの間にか集団でなくなっていた。
とはいえ無傷で済むわけがなく、ボロボロの兄を見ていて、幸運という言葉があんまり似つかわしくないなぁ、と思った。兄もテロリストも、ただ理不尽な混沌の中もがいているだけのように見えた。巨大な洗濯機の中で水泳大会をしているようだった。
わたし達が無事逃げられた後、テロリストのリーダーは機動隊に突入されたビルを爆破しようとしていたらしい。国家の兵隊達と心中するつもりはなかったのか、ヘリコプターで飛び立ってから起爆装置を作動させようとしていたそいつは、止めようと追ってきた兄とのもみ合いの末に、頭を打って気絶した。
離陸したヘリコプターの中で、だ。
操縦法など知らない兄は離れた公園にヘリコプターを不時着させた。奇跡的な所業だった。
超高校級の幸運と呼ばれる才能が、ただ一発のくじ運にとどまらないものである、と思い知らされたこの出来事を境に、わたしの不幸が始まる。
エレベーターに閉じ込められ、体育倉庫に閉じ込められ、山へ行けば遭難し、川へ行けば流された。
そして、街を歩けば品の良くない男二人に絡まれる。
雨の中、学校から家まで走り着いた時、今度兄が寮から帰ってくることを思い出したわたしは、そうだプレゼントでも探そう、と思い立ち、学校での友人の言葉も忘れ、ずぶ濡れの制服を着替えてから傘を掴んで家を出た。
駅の周辺を歩き回っているうちに、空は雨足を変えぬまま、夜の帳を下ろしていた。
雨で、しかも夜。
結局何も買えなかったが、このままうろつき続けるのはまずいことはわたしにも解った。
急ぎ足で家に向かおうとした矢先に、突然人がぶつかってきた。
反射的に謝りながら、落とした傘を拾おうとしたが、ぶつかってきた人物が先んじて取り上げるように拾ってしまった。
驚いて顔を上げると、短く刈り込んだ髪を青く染めた男が、へらへらした笑みを浮かべていた。少し後ろには長い金髪の男がいて、同じように笑っていた。さっと悪寒が走る。
揃ってシルバーアクセサリーやらピアスやらを身につけた、ちゃらついた二人組だった。装飾品も、振る舞いも、ちゃらついていた。
青頭がわたしの傘を畳みながら、自分の傘の中にわたしを引き寄せて、何事かをべらべらとまくし立てる。全然頭に入ってこない。
チューニングの合わないラジオを相手にしているようだった。断片的に「雨宿り」とか、「雨男」とか、「送ろうか」とか、「泊まろうか」とか聞こえてくる。
必死に、いいですいいです、と逃げようとするが、いいからいいから、と強く肩を抱かれ、逃げられない。金髪がかん高い声で笑う。
そうして、望まない相合傘でふらふらしてるうちに、暗い路地裏まで引っ張られていることに気づく。
薄汚れたコンクリートの狭間。ネオンの届かない暗闇。
解りやすい恐怖に晒されてやっと叫ぼうとした口を、青頭の手に塞がれた。そのまま壁に押さえつけられる。絶望的だ。涙が出てくる。
こんな時。こんな時、兄なら。
兄は苦境の中、ヒーローだった。諦めず、希望を見出し、幸運はそれに着いてくる。
わたしは、違う。
どれだけ冗談のようなトラブルに巻き込まれる経験をしても、わたしはいつでも名前の通り、困るだけだ。兄のようにはなれない。
こんな時。こんな時、わたしはヒーローにはなれない。ヒーローを待つ他ない。
「お兄ちゃん」青頭の手に塞がれた口が動く。
ぱしゃ、と、わたしの響くことのなかった声に応えるように、水溜りを踏む音が聞こえた。
突如雨音に混じった異音に、青頭と金髪が固まる。
ぱしゃ、ぱしゃ、と、道の向こうから近づいてくる。雨と暗さのせいでよく見えない。
「お取り込み中のとこ、悪いんだけどもさあ」
暗闇から声がした。目を凝らす。徐々に姿形が定まってくる。
長い三つ編みおさげの、眼鏡をかけた少女だった。
この雨の中、傘も差していない。黒いセーラー服、黒い髪から絶えず水が滴っていて、闇から溶け出てきたのかと錯覚する。
「雨男って知らない?」
少女の目は大きく見開かれていて、水滴まみれのレンズの奥から獣じみた狂気を発していた。
「なんだ」お前、と金髪が言いかけたが、「きいいいぃ」と少女が声高に遮った。何事かと息を飲む。
「……てんのはこっちでしょうがよ」訊いてんのはこっちでしょうがよ。有無を言わさない迫力があった。
「知らねえよ」やっと金髪が答えた。「とっとと消えろ。邪魔だ。ぶっ殺すぞ」
「殺す?殺すって?アタシを?」少女は吹き出した。「そりゃ面白い。是非やってみせてくんない?」ゆらゆらと金髪に歩み寄る。
金髪は困惑した様子で、わたしの方を、いや、おそらくはわたしでなく青頭をちらりと見た。
わたしを押さえつけながら青頭が肩をすくめた。
「ほらほら、早く早く。ぶっ殺すんでしょうが。どうやってぶっ殺してくれんのよ、おい」少女はにたにた笑いながら、金髪を間近で睨め上げる。笑っているのに、殺気を漲らせているのはむしろ少女の方のように見えた。
てめえ、と声を震わせ、金髪が右拳を振り上げた。
挑発が過ぎた。流石に、次の瞬間に少女の眼鏡が弾け飛ぶのを想像した。
ぴしゃ、ぴしゃ、と水を踏む音が二つ。
拳は空を切った。
少女は左に踏み込み、金髪の拳が流れるのを右に眺めた。
そのまま少女は空振りしてつんのめった金髪の足を、残していた右足で蹴り払った。
金髪の持っていた傘が舞う。
派手な水音を立て、金髪は倒れ伏した。傘が落ちる。
直後、少女は跳躍し、起き上がろうとする金髪の背に両足で着地した。
咳込むような呻きと共に、金髪が肺の空気を吐き尽くす。
少女は金髪の背で何度も何度も飛び跳ねる。その度に金髪が苦悶する。
「何々?なんなのよ?アタシに挑むもんだから、ちょっと期待しちゃったじゃないのよ。弱いっての。弱すぎだっての。アタシの期待を返してくんない?吐き出してくんない?ほら手伝ってあげるからさあ」少女はぴょんぴょん飛び跳ねながら、げらげら笑い始めた。
最初は派手に呻き声を上げていた金髪の反応が徐々に弱々しくなっていく。まずい。もはや吐くのは血反吐のみ、というところで少女は跳ねるのをやめた。
金髪の背で直立し、首を傾げる。
「ありゃりゃ、もしもし?どうしたのよ。元気ないじゃないのよ。日々の生活の疲れが、まさに今、どっと押し寄せてきちゃった?燃え尽き症候群?ガソリンが燃え尽きて、ガス欠、みたいなやつよね確か。あ、違う?まあ、間違っててもどうでもいいけどね。よっしゃ、ここはアタシが給油してあげるっきゃないわね」少女の右手で、何かが光った。
わたしの目が銀色の輝きをなぞる。
ハサミ。
鋏だ。
市販の物とはとても思えない、不必要に尖った部分のある鋭いデザイン、研ぎ澄まされ過ぎた刃。危険な匂いしかしない。鉄の香りがわたしの鼻先まで漂ってくるかのようだった。
刃先が金髪の身体に向く。だらだらと長い金髪の散髪をしてあげる、という様子ではない。
切っ先そのまま、少女は迷いなく鋏を突き出した。
鋏は金髪の右肩に刺さった。
刃が肩の表皮を破り、神経を、筋繊維を、血管を裂き、深く、反対側へ突き抜ける勢いで押し込まれる。
わたしは、冷たい金属が肉体を侵襲する感覚を想像し、身震いする。
金髪の絶叫が木霊する。それを楽しむように、口が裂けそうなほどの笑みで少女が鋏を捻る。絶叫にノイズのような変化が生じた。少女はラジオのつまみをいじるように、ぐりぐりと鋏を捻り回す。金髪の叫びから痛みが伝わってきそうで、耳を塞ぎたくなる。
少女が鋏を抜き、金髪を蹴転がす。金髪は、ぎゃっ、と一鳴きした後、肩を抑えながらうずくまり、荒い息を繰り返すだけとなった。
「さあ、次行きましょうかね」少女が青頭に、血と雨水に濡れた鋏を向けた。
少女の一方的な暴力を呆然と見ていた青頭が反応する。「お前、この女の知り合いかよ」
「いや、知らないけど、そんなメスガキ」少女が鋏を振った。わたしもこんなハサミ女は知らない。
「だったら」青頭は困惑を隠せない。「なんで」
なんでって、と少女が吹き出した。「正当防衛よ。正当防衛。殺すって言ったじゃんよ、ああっと……誰かさんが」言ったのはそこの、肩に穴を開けられた、哀れな男だけのはずだ。
「それに」再び鋏が青頭に向いた。「アンタら雨男のこと、ちっとも教えてくれないじゃないのよ」一歩一歩、濡れた地面を踏みつけ、こちらに近づいてくる。
不意に、青頭に襟を掴まれ、乱暴に引き寄せられた。きゃあ、と声を出す間もなく、少女の方へ突き飛ばされた。
ぶつかる瞬間に、鋏の輝きが目に入る。あの金髪を痛めつけた鋏がこちらを向き、わたしを切って捨てるに違いない。そう、思った。
わたしの背と腰に、少女の手が絡んだ。
予想に反し、少女はわたしを抱き止めながら、わたしの背後の方へ軽やかに足を運び、くるりと反転した。
少女と目が合う。焔々とした目が、下弦の月のように歪んだ。
「シャルウィーダンス、つってね」まさに社交ダンスのターンのようだった。
一緒に反転したため、わたしと少女の位置は入れ替わっていた。彼女は今、青頭を背にしている。
彼は、少女のすぐ後ろまで迫ってきていた。傘を放り捨て、少女に手を伸ばしている。
うしろ、と声が出かかった時、少女の右腕が鞭のように動いた。
少女はわたしを左手で支えたまま、上半身を軽く捻った。右肘から動いた、そう思ったら、もう次の瞬間には目にも止まらぬ速さで右腕全体がしなり、鋏の閉じる音が響いた。
しゃきん、という音に続いて、ぽちゃん、という音があった。
「どうも盛りのついたご様子だったからさあ。去勢ってやつ?」
青頭が伸ばした手の、中指がなくなっていた。
すぐ下の水溜りに目をやる。
指が、落ちていた。
ぞっ、と怖気が走る。肩や背の辺りの、肌が粟立つ。
一呼吸の後、青頭が、自分の右手の指が揃っていないことに気づき、悲鳴を上げる。
慌てて自分の中指を拾い、踵を返し、駆け出した。わたし達の横を抜けて、金髪もふらつきながらそれに続いた。
慌ただしい足音も、すぐに雨音に消える程遠ざかり、彼らの傘だけがこの場に残った。
「結局、逃げんのかよ。全然好みじゃないし、いいけどさあ」少女が笑い飛ばす。同時に、わたしの身体から手を離した。
少女の腕に背を預ける格好となっていたわたしは、濡れた地面に尻餅を突いた。うひゃあ、と変な声が出て、少女がげらげら笑った。
「あの」尻をさすりながら、立ち上がる。「助けてくれて、ありがとうございました」頭を下げ、上目使いに、ちらっと、少女を観察する。
「そうそう、ヒーローじゃん、アタシってば。暴漢からか弱い女の子を救っちゃうなんて」
雨に濡れ、水をたっぷりと吸った髪は乱れ、前髪は顔に幾房か張り付いている。鬼気溢れる青白い顔は、とてもヒーローには見えない。怖い。助けてくれたということでよろしいですよね?それではさようなら、と、さっさと立ち去りたくなる。
「たまには善行を積むのもいいもんね。いつもはまあ、やりたい放題やっちゃってますけど」少女はまた、げらげらと笑った。
人を刺し、指を切り飛ばして喜んでるような人間が、全うな善人であるわけがなかった。
「ああ、そんなことは割とどうでもいいのよね。アタシは雨男について知りたいんだけど」
「雨男……」そんなことを言われても、わたしだって大したことは知らない。警察が捕まえられない殺人鬼のことを、その辺の人間が知るはずがない。
「あのですね、わたしもそんなに詳しくは、知らないんですけど……」ここで何も話さなかったら、獣のような凶暴性を見せたこの少女に、何をされるか解らない。
頭の中で、ニュースや学校での噂などの記憶をかき集め、絞り出そうと試みる。
が、少女の方を見ると、どうも上の空のようだった。何かおかしい。少なくともわたしの話は聞いていない。
やがて、少女がわたしの後方を睨んでいることに気づき、振り返る。
少女の時と同様に、それは闇から現れた。
視認した瞬間、黒い布を被った死神に見え、びくり、と身体が震えた。
目を凝らし、よく見ると、黒い布ではなく紺のレインコートで、死神ではなく人間だと解った。
紺色の、脛辺りまである長いレインコートだ。手には、黒い革手袋。大きなフードを目深に被っており、顔が殆ど見えない。
「雨男」少女が、呟いた。「アンタがそうよね?違うってんならちゃんと違うって言わないと、損するわよ。指とか、耳とか」
レインコートは答えない。微動だにせず、雨の中、佇んでいる。
底が見えない、不気味な気配が滲み出ていた。見ていると、深海を覗くような恐怖が湧いてくる。
こいつが、雨男?
「だんまりかよ。まあ、違うなんて嘘吐いたら、舌をちょん切ってやんだけどさあ」少女は笑いながら理不尽な台詞を飛ばすと、地を蹴った。
風のように、わたしの横を抜け、少女は一直線にレインコートへ迫った。
レインコートの一歩手前で、足に力を込め急停止し、死んでいない上半身の勢いに任せ腕を振った。鋏が口を開け、襲いかかる。
レインコートは身を翻しつつ、それを躱した。雫が飛ぶ。空を切った鋏が閉じた。
レインコートが再び少女に向き直った瞬間、紫電が走った。
少女は咄嗟に後退する。
レインコートの右手に銀色の輝きがあった。いつの間にかナイフを手にしている。わたしは息を飲む。こいつが、雨男。世を騒がす殺人鬼。
「やってくれんじゃないの。黙って八つ裂きにされる気はないってわけね」少女が左の二の腕辺りを押さえた。雨男の反撃を躱し切れなかったのか。
雨男はナイフを少女に向け、空中で彼女の姿をなぞるように、ゆっくりと動かした。どうやって身体を寸断するか、測っているようだった。
少女は調子を確かめるかのように、しゃきちゃきと二、三度鋏を鳴らした。
今度は、同時だった。両者ともが唐突に、同じ時機に、踏み込んだ。
交錯の瞬間、少女の鋏は再び空を切った。
雨男は、地を這うような低い姿勢で突進していた。雨男の頭部を狙ったと思しき少女の鋏は、雨粒を噛んだ。
そのまま、雨男のナイフが少女の腹を抉ろうとする。
少女の身体が、倒れた。
正確には、少女が自ら、後ろに身体を倒した。雨男の刃から逃れるための動作だった。
即座に体勢を立て直そうとする雨男に、少女は倒れた姿勢のまま、靴底を叩きつけた。
しかし、腹に飛んだ蹴りは左腕で防がれていた。
雨男はそこから、少女目掛け、倒れ込んだ。
左手を地面に突き、少女の首元へナイフを突き下ろした。鋏による反撃に怯えがあれば、とてもできない所業に思えたが、一連の動作の全てが迷いなく、素早かった。
少女は身をよじって、ナイフから逃れた。刃がアスファルトを削り、小さく金属音が鳴った。
雨男は少女のすぐ横に跪くような体勢のまま、間を置かずに、ナイフを薙いだ。
立ち上がる機もなく、対応を迫られた少女は、鋏を噛みつかせ、ナイフの刃を止めた。
少女の細首の横で、刃が競る。
膠着状態の最中、雨男は少女を覗き込むように首を動かした。
数秒間、雨音すら聞こえない、緊張の静寂が流れた。
突如として、雨男は刃を引き、跳び退いた。
雨男は、自らを睨みながら身体を起こす少女を一瞥すると、暗い小道へと駆け、夜雨に消えた。
----- ✂︎ -----
「いやあ、あんな美味しいディナーまでご馳走になっちゃって、悪いわね」
「だから、悪いんですよ。脅しつけて上がり込んできて」
路地裏で鋏を振り回していた少女が、今、我が家に上がり込んでいる。当然ながら、わたしが歓迎したわけではない。
雨男が去った後、少女は唐突にわたしの方を向き「アンタ、名前は?」と尋ねてきた。
この危険人物に名前を教えていいものかと、わたしが口ごもっていると、少女は自身の制服のスカーフを左の二の腕に巻きながら、声を荒げた。
「聞こえなかった?お名前なあにって訊いてんのよ。ワッチュアネーム。自分の名前忘れちゃったの?だったら、アタシが思い出させてあげるけど」少女が鋏を鳴らしはじめた。
「ま、待って。待ってください。苗木こまる、です。わたしの名前」わたしが慌てて返答すると、少女は、苗木?と、顔をしかめた。
「それ、本名?嘘吐きは舌、切っちゃうよん」少女が再び鋏を鳴らしたので、ほんとですよ、苗木こまるですよ、と必死に訴える。
訴えが通じたのか、少女は腕を組み、「苗木こまる、苗木こまる……」と、わたしの名前を反芻するように唱えた。やがて、にい、と気味の悪い笑みを浮かべ、言った。
「お風呂と宿、貸してくんない?」
まるで古くからの友のような気軽さで放たれた願いを、いやです、と、わたしは即座に拒否した。
この少女はどう考えても危険人物だ。どうすれば早くこの少女と別れられるか、と必死に考えていたのに、冗談じゃない。
「いいじゃないのよ。色々とアレなことされる前に、助けてあげたじゃん。お願い、こまっちゃん」
わたしが助けられた身であることを強調しながら鋏を鳴らす少女に対し、わたしには切る札がなかった。
「解りましたよ……」
結局、わたしは、恩と脅迫の挟み撃ちに折れ、少女を家に連れて行くことになってしまった。
家に向かう前に、わたしは一つ質問を返した。
「あなたの名前は、なんていうんですか?」こちらが名乗らされたのだから、これぐらい訊いても怒りを買う事はないだろう、と思った。
「ああ、アタシ?そうだそうだ、人の名前訊いておいて、名乗らないなんて失礼千万よね」少女は、いけないいけない、と舌を出すと、鋏をこちらに向けて、高らかに名乗った。
「アタシの名前はジェノサイダー翔!割と綺麗好きな殺人鬼でーす!」
危険人物というカテゴリーの内の、最悪な部類に位置する人間だった。
ジェノサイダー翔という名前には聞き覚えがあった。
若い男性を何人も殺している大量殺人犯の、ネット上での通称だ。被害者を滅多刺しにして殺し、現場に「チミドロフィーバー」という血文字を書き残していくという。
殺人鬼と自称した点も含め、冗談には思えず、妙にすんなりと腑に落ちた。同時に、絶望的な気分が腹の底に重く溜まっていく。
こうしてわたしは、殺人鬼を家に泊めることとなった。
ずぶ濡れのわたし達を迎えた母は、わたしがジェノサイダーを友達であると紹介すると、あら、と目を細めて笑むだけで、特に何を問うこともなく、唐突な来訪者の宿泊を承諾した。昔から母は、底の見えないところがある。
ジェノサイダーと入れ替わりで入った風呂から上がると、既に食卓には晩御飯が並んでおり、ジェノサイダーはその料理を褒めちぎっていた。
とにかくよく喋るジェノサイダーは母と早々に打ち解けた様子で、わたしは複雑な気持ちで箸を口に運んだ。
食事を終え、今、わたしの部屋で殺人鬼と二人きり。
緊張の抜けないままベッドに腰掛けるわたしに反し、わたしのパジャマを着たジェノサイダーは、鼻歌交じりに部屋をうろうろし、本棚やら、写真立てやら、置いてある物を眺めていた。
わたしはなんとなく、除菌スプレーを適当に吹きかけ干してある、ジェノサイダーのセーラー服を見た。スカーフはない。パジャマの下の二の腕に、直に巻き直してあるのだろうか。
それよりも、あの恐ろしい鋏は、この制服に忍ばせてあるのだろうか。それとも、今もジェノサイダーが肌身離さず持っていて、いつでも振りかざせるのだろうか。
わたしは、どうなるのだろうか。
色んなことが起こり過ぎていて、わけが解らない。これまでのこともわけが解らないし、今のこの状況も、わけが解らない。先のことなど解るはずもなかった。
とりあえず、ただ頭を抱えるより、ここの殺人鬼に質問をぶつけてしまおうか。本格的に部屋を漁りだすのを止める為にも。
「あの」声をかけたら、ん?とジェノサイダーがこちらを向いた。丁度、白い熊のぬいぐるみと、黒い熊のぬいぐるみを、見比べるように両手に持ったところだった。色以外はほぼ同じぬいぐるみだが、それぞれ別の人物から貰った物だ。「なんで、雨男を探してたんですか?」
「雨男?ああ、あいつはね……」ジェノサイダーは白い熊を乱暴に勉強机に置いた。
「アタシの狙ってた獲物を掻っ攫ってったのよ」彼女は、未だ手にしている黒い熊を叩きつけて、白い熊を机から落とした。代わりに、机に黒い熊が置かれる。
「ターゲットを、横取りされたんですか?」そんなことが、あり得るのか。
「そう、こっちが迷ってるうちにね」ジェノサイダーが黒い熊の顔を覗き込み、睨む。
「迷ってるうちに?品定めみたいな感じですか?」
「そんなもんはとっくに済んでたわよ。間違いなく、極上の獲物だった」
「なら、なんで迷ってたんですか?」
ジェノサイダーがこちらを向いた。少しだけ困ったような顔をして、頭を掻いた。
「アタシったら、人が殺せなくなっちまったのよね」
部屋に沈黙が流れる。
「え?」殺人鬼を名乗ったと思ったら、今度は、人を殺せない、とは。「本当ですか?一体、どうして」
「約束させられたのよ」ジェノサイダーは、わたしの隣に腰を下ろした。
「アタシは、あるターゲットと、あるゲームをした」
「ゲームって……どんなゲームですか?」ピコピコやるやつとは思えない。
「鬼ごっこよ」ジェノサイダーは口の端を吊り上げた。「ルールは簡単。アタシに殺される前に廃墟から脱出できれば勝ち」
「確かにルールは簡単ですけど……」内容がハード過ぎませんか?
「クリアできたら」ジェノサイダーは天井を仰いだ。「一つ、なんでも言うことを聞いてやるって条件でね」
「まさか、それで人を殺さないって約束を取り付けられたんですか?」この、ジェノサイダー翔が?「逃げ切られたんですか?」
「まったく、とんだラッキーボーイよねぇ」ジェノサイダーは、まるでその人物が目の前にいるかのように、笑った。「あんな小僧との約束なんざ、律儀に守る必要ないはずなんだけどさあ。なぜか、どうしても、破れないのよね」
「人を殺せないのに、殺そうとして、でも殺せなくて、雨男に先を越されたんですね」
「殺せなくても、殺意は膨らむ一方で、どうしようもないってわけ」ジェノサイダーの右手が震えた。すぐにそれを、左手が抑える。「アタシは殺人鬼だから」
ジェノサイダーは拳でベッドを叩いた。
「なんであれ、アタシの獲物の命を掻っ攫った以上、あの男には、自分の命でツケを払って貰わなきゃ気が済まねえのよ。だからアタシは雨男を探してた」
それはそれで凄い言い分ですね、と、わたしは思ったが、口には出さなかった。
「でも、雨男を殺すこともできないんですよね?」
「殺せなくても、殺しにかからなくちゃならなかったのよ。雨男の始末は報復であると同時に、アタシがアタシである為の試験みたいなもんだから」まあ、ダメだったけどね、とジェノサイダーは自嘲気味な笑みを浮かべた。「あの男、雨男にも言われたのよねえ。『殺る気あるのか』って」
雨男が、言葉を発していたのか。あの、地面に転がっているジェノサイダーを、雨男が覗き込んだ時だろうか。
「アタシは、殺人鬼として致命的なことに、人が殺せなくなっちまったのよ。アタシは殺人鬼である、ということこそが、切り離されたアタシの同一性だってのに、このままじゃどうにも、まずいのよね。雨男が終わらせてくれるかと思ったら、向こうも『殺る気』、なくしちゃったみたいだし」
はあ、とジェノサイダーは溜息を吐いた。
「どの道、アタシはこのままじゃ存在できなくなる。消えるしかねえのよ。綺麗さっぱりね」どうすっかねえ、と、ジェノサイダーは伸びをした。自身の存在が懸かった問題らしいが、その割にはどうでも良さそうな態度で、自転車の鍵をなくして、明日の登下校をどうしようか、と悩む学生のようだった。
再び、しばしの沈黙が流れた。
言い回しにどこか引っかかるものがあるが、殺人鬼が消え去るのなら、それは世界にとって喜ばしい。そのはずだ。
しかし、沈黙を破ったわたしの言葉は、自分でも信じられない内容だった。
「いいんじゃないですか。人を殺さないジェノサイダー翔が存在しても」このまま人殺しをしないのであれば、こんな人間が存在するのも悪くない、頭を過ぎったそんな思いを、そのままに言葉にしてしまっていた。
ジェノサイダーがこれまで犯した罪を償わなくてはいけない、という倫理を、完全に無視した意見であることに言った後で気づくが、そもそも、わたしはこの殺人鬼に助けられてしまったのだから仕方がない、と、頭の中で開き直る。
「もしかしたら、ほら、あなたの才能は、人を殺すためのものじゃないかも」自分でも、よく解らない言葉をしどろもどろに添えた。
「なんじゃそりゃ」ジェノサイダーは吹き出した。「何の解決にもなってないじゃん」
「そうですよね、すいません」わたしは、消え入るような声で謝った。笑っているからいいものの、あまり適当なことを言うものではない。特に目の前の相手には。
「人を殺さないジェノサイダー翔が存在してもいい、ねえ」ジェノサイダーは、げらげらと、けたたましく、笑い出した。
「も、もう、消灯の時間です」わたしは、なんだか恥ずかしくなってきた。「わたしは床に布団敷いて寝るんで、あなたはそっちのベッドを使ってください」
「何よ、もう修学旅行モードに入んの?」
「入りません。寝てください。電気消しますね」わたしは、さっさと布団を敷き、部屋の灯りを常夜灯にした。
ジェノサイダーは、はいはい、と素直にベッドの布団に潜った。わたしも、床の布団に入る。
「……こまるん、好きな人いる?アタシはねえ、同じクラスの」
「寝てください」
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目を開けるといつもより天井が遠くにあり、床で寝たことを思い出す。
なぜ床で寝たのか、思い出そうとすると、芋蔓式に昨日の出来事が意識に引っ張り出された。
異様に神経が磨り減らされ、疲弊したせいか、殺人鬼が同じ部屋に居るにも関わらず、わたしは眠ってしまった。
殺人鬼を警戒する意思が無かったわけではない。朝までずっと、寝たふりをするつもりだった。
蓋を開けてみれば、熟睡だった。
流されるままに流される、この性質のせいで、いつも困り果てることとなる。
身体を起こし、部屋を見回す。
ジェノサイダーが居なかった。
干してあったセーラー服もない。
ベッドの上には意外にも綺麗に畳まれた、わたしがジェノサイダーに貸したパジャマがあった。その上にメモが一枚置いてある。わたしが部屋に置いているメモ帳の一片だ。「寝相悪過ぎ」と、乱雑な字で小言だけが書かれていた。丸めて捨ててやろうかと思ったが、裏面にも何か書かれていることに気づいた。「雨は止んでない。せいぜいお気をつけて」と書かれていた。
カーテンを開ける。
雨は、止んでいた。
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ジェノサイダーとの邂逅から、三日が経った。
雨は止んだものの、空は雲を隙間なく敷いていて、すっきりしない天気が続いている。
教室の窓のてるてる坊主を見る。雨は降っていないという点を見れば、少しは効能があったということなのだろうか。
しかし、胸の奥のざわつきがどうにも収まらない。
このまま、何も起きないとは思えない。
「落ち着かないね、ここ最近」後ろの席から声がかかった。
わたしは、友人の方を向く。
「それは、雨男も捕まってないし、仕方ないんじゃない?」
「こまるのことを言ってるんだよ」
「落ち着いてるよ」内心ぎくりとしながら、わたしは空とぼけた。「全然、普通だけど」
「評価ってのは、他人がするものだよ」友人は冷たく言い放った。「こまる、そわそわしてるでしょ。特別な日を前にしてるみたいな」
「特別な日って……遠足とか、修学旅行とか?」いくらなんでも、小学生じゃあるまいし。
「お祭りとか、何かの式とか。ハレの日ってやつだよ」友人は、いつものように文庫本を開いた。
「ハレの日?」
「日常とは区別された日、非日常ってこと。普通の日はケの日」
「非、日常」そんなの、最早いつやってくるか知れない。
「ハレの日は、皆が狂騒に身を任せる時間。その時だけ許される狂気をケの日に持ち込む者はタブレビト……狂人」
「タブレビト……」
「近いの?こまるにとっての、ハレが」
「解んないな」近く、非日常がやってくる気はする。少なくとも、めでたい非日常ではないだろう。「雨男にとっては、雨の日はハレの日、なのかな?」
「それ、面白い。言い得て妙だね」友人はくすりと笑って、顔を上げた。「殺人の罪がもたらす非日常は、ケガレと呼ぶべきかもしれないけど」
友人は、窓の外の空を仰いだ。そしてまた、文庫本に目を落とした。
「今日は、何読んでるの?」わたしは、文庫本を指す。
「腐川冬子」
「ああ、あの超高校級の」
腐川冬子。超高校級の文学少女と呼ばれる、女子高生の小説家だ。兄と同じ学園に通っているはずだ。
「読んだことないけど、恋愛小説ばっかなんでしょ、腐川冬子って。そんなん好きだっけ?」
「面白いよ。猿がバナナの山を描いてるみたいで」
「どんだけ、ひねくれた見方してるの」
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あれだけのことがあっても、わたしは警察に駆け込むという行動をとっていなかった。
雨男の目撃情報はない。あの紺色のレインコートのことを話せば、有力な情報となるかもしれない。
だが、それを話すならばジェノサイダーのことも話さなければならない。それは躊躇われた。
ジェノサイダーに口止めされたわけではないが、彼女には家を知られている。余計なことを漏らしたら、何をされるか解らない。雨男より多くの人を殺していて、素顔や話し方などがはっきり解っているジェノサイダーの方を垂れ込むべきだとは思うのだが。
一応、助けてもらったことに恩を感じている、というのもある。しかしその他に、このまま静観すべき、という、正体不明の義務感めいたものもあった。
これまで降った雨が作った大河のような流れが、因縁を清算する。それに任せればいい。そんな気がした。
しかし、問題がある。
これまで、通り魔的に人を襲ってきた雨男だが、次の標的として、唯一の目撃者であるわたしが狙われる可能性がある、ということだ。
わたしが警察に情報提供をしなくても、僅かな縁を刈り取りに来るかもしれない。
沈黙を守ると決めた以上、誰を頼ることもできない。
自分の身を守る方法を考えなければ、と思い、やって来たのが七階建てビルの百貨店だった。
ネット通販で催涙スプレーでも買おうかと思ったが、あまり物騒な物を持っていると、持ち物検査でもされた時に面倒だし、そもそも雨の中やってくる雨男に吹きかけるのは困難そうだったので、やめた。
いいアイデアが思い浮かばないので、百貨店をうろつくことにした。
エスカレーターに乗り階を上がっていく。
やがて、文具コーナーがある階に、吸い寄せられるように降りた。
持ってても不自然でなくて、武器になる物はないだろうか。
いつの間にか、手に取っていたのは、鋏だった。
あの雨の夜に閃いた鋏の強烈な印象からか、無意識に手にしていた。
だめだ。鋏なんて携行できないし、こんな事務用鋏じゃどうにもならない。商品である鋏をフックに戻しながら、思う。
だったら、何ならどうにかなるのか。
ジェノサイダーと雨男の対決はごく短い時間だったが、どちらも常軌を逸した動きをしていた。
わたしなんかが、何か中途半端な武器を取ったところで、どうにかなるのか。
一体何をしているんだろう、わたしは。
雨が降るまでに、何かもっとまともな策を用意しなくては、まずい。
帰ろうとしたその時、視界の外から何かが飛び出してきた。
ぶつかった、そう思った瞬間、わたしの目前に床があった。
何が何だか解らなかったが、とにかくわたしは転んで、這いつくばっていた。
右脛が異様に痛む。簡単に立てそうにない。
うつ伏せに倒れていたわたしは、なんとか上体だけ起こし、後ろを振り返った。
そして、凍りついた。
紺色の、長いレインコート。
雨男が、そこにいた。
嘘だ、あり得ない。屋内に現れるなんて。大体、今日は雨じゃないのに。
叫びが喉まで出かかったその時、先んじて無数の叫び声が聞こえ、辺りを見回す。何が起きている?そして、フロアが明るくなったことに気づく。元々暗かったわけではない。不自然に、一層明るくなっていた。
雨男の背後で、幾つもの商品棚が、煌々と燃え上がっていた。
ミネラルウォーターのラベルが付いた、空の2リットルペットボトルが何本か床に転がっている。あれに灯油を入れて持ち込んだのか。
火の手は見る見るうちに、フロア中に広がっていく。
けたたましく、非常ベルが鳴り響き、スプリンクラーが散水をしている。スピーカーや非常口の誘導灯からアナウンスが流れるが、頭に入ってこない。誰もが非常口に殺到し、逃げて行く。待って、と叫ぶが、喧騒の中、誰も気づかない。
置いてけぼりだ。
火と、スプリンクラーの散水の中、雨男と二人きり。
そこで、やっと気づく。わたしはスプリンクラーを見上げた。ほぼ真上にあったそれが、わたしの顔を濡らす。
「まさか、これが、雨?」
雨男は答えない。
手には既にナイフが握られていた。
もう、この階にわたし達以外の誰もいない。死の条件が整い過ぎていた。
必死に立とうとするが、痛みで立ち上がることができない。雨男に蹴られたのだと今になって解るが、それにしても尋常な痛みじゃない。爪先に金属の仕込まれた、安全靴でも履いているに違いない。
仮に立ち上がることができても、雨男が見逃してはくれないだろう。ターゲットは間違いなく、わたしだ。
息を吸っても吸っても、酸素が足りない気がする。もうそれ程まで、火が回っているのか。
いや、火のせいではない。むしろあれだけ燃え広がった火は、少しずつ弱まりつつあった。
身体の底から、重く、暗い何かが広がっていき、それが肺を満たしている。追い出そうと息を吸えば吸う程、それに溺れていく。沈んでいく。
絶望だ。
屋内に降る陰雨が、わたしの中に絶望を湧き上がらせている。
雨男が、こちらに一歩踏み出した。
今日、ここに来なければ、こんなことにはならなかったかもしれない。さっさと警察に情報提供しておけば、こんなことにはならなかったかもしれない。あの日、買い物に行かなければ。
後悔が次々と、絶望の海から浮かんでは沈んでいく。
雨男が、また一歩近づいてきた。あと一歩でナイフが届く距離だ。
切っ先が、こちらに向いた。
次の一歩で死ぬんだな。
なんの考えも、感情も、絶望から浮き上がって来なくなった。
雨男が、踏み込んだ。
わたしの方を向いたままの切っ先が、ぐんと近づいてくる。それが突き出されて、わたしが終わる。
雨男の右肩が動き出した、その瞬間、雨男の身体が後ろに吹き飛んだ。
雨男はわたしの後ろの、燃えていない商品棚の影から飛び出した人物に、蹴り飛ばされた。
「ほら、言ったじゃん。止んでないってさあ」
わたしの前で、ジェノサイダー翔が蹴った脚を降ろさぬまま、ぶらつかせていた。
「油断し過ぎだっつうの、こまこま。アタシなら千回は刺せるわ。ハサミの筵になっちゃうよん」彼女は、けらけらと笑う。
「な、なんですか、ハサミの筵って」わたしは、緊張と弛緩の混乱で、引きつった笑みを返した。
床に転がっていた雨男が音もなく立ち上がった。ゆっくりとナイフをジェノサイダーに向け、構える。フードの下の表情は窺い知れない。
「はいはい時間ないからちゃっちゃとやろっか。ある程度お楽しみタイムも確保したいし」ちょきちょきしゃきり、と、ジェノサイダーが鋏を鳴らした。
「でも、あなたは」わたしは言葉を詰まらせた。殺す気でやらずに、雨男に勝てるの?
「ああ、あれはもういいのよ。アンタのおかげでちょん切れた」ジェノサイダーは不敵に笑んだ。
「余計なもんが裁断できたおかげで、さっぱりしたわ。まるで生まれ変わったみたいにさあ、世界がすっきりはっきりしてますわ。後はあれを切り刻むだけってわけよ」鋏が雨男を指した。
スプリンクラーの雨の下、殺人者が相対する。
「アンタ、人を殺さないアタシがいてもいいって言ったわよね?」わたしに背を向け雨男と向き合ったまま、ジェノサイダーが尋ねてきた。「人を殺さないジェノサイダー翔がいても、って。覚えてんでしょうね?」
「は、はい」
「なら、良し」言うと同時に、ジェノサイダーが地を蹴った。
唐突に、対決の火蓋が落ちる。
一瞬で間合いを詰めたジェノサイダーが、真っ直ぐに右手の鋏を突き出した。雨男はその軌道から身を逸らし、そこ目掛けてナイフを振った。完璧な迎撃に思われた。
しかし、ジェノサイダーの手は右半身ごと引っ込み、代わりに左手がボディブローの如く雨男の腹へ打ち込まれた。
雨男が後ろへ飛びすさった。左手で腹を抑え、小刻みに震えている。それ程までに強烈な一打だったのか、と思った時、ジェノサイダーを見て気づく。
ジェノサイダーは両手に鋏を持っていた。しかも、左手の鋏は血に濡れている。
殴ったのではなく、刺していたのだ。
どうにかナイフを構える雨男の様子を鼻で笑い、ジェノサイダーは左の鋏に付いた血を、長い舌で舐めた。
「来な。そんな深くなかったでしょうが」
今度は雨男が、ジェノサイダーへ飛びかかる。
迷いなく真正面から突っ込み、ジェノサイダーの目前で突如、身を低くし、下から突き上げるように腕を動かした。腹に穴の開いた人間とは思えない俊敏さだった。
血飛沫が舞う。
突き出した雨男の腕が、血を噴いた。
ジェノサイダーは完全に、雨男の刃を捉えていた。身を逸らし、迎撃する様には余裕すら感じられた。
ジェノサイダーの右腕と、雨男の右腕がすれ違い、口を開けていたジェノサイダーの鋏が雨男の腕を裂いていた。
一切の間を置かず、左の鋏が雨男の脇腹に噛み付いた。雨男は低く呻き、後退する。
更に右手の鋏が雨男の左肩を噛んだ。雨男が後退する。左の鋏が右肩を刺す。後退する。右の鋏が斬りつける。後退。左の鋏が裂く。後退。鋏が啄ばむ。鋏が抉る。
ジェノサイダーは絶叫にも近い哄笑を上げた。口が裂けそうな程、腹が千切れそうな程、喉が壊れそうな程、笑いながら、雨男を刻む。
「アタシは人を殺さない!上等じゃないのよ!」鋏を振るい、雨男の血を飛ばしながら、ジェノサイダーが笑い叫ぶ。
既に火は完全に鎮まり、スプリンクラーの雨は止んでいた。雨男の血霧のみが散る。
「アタシは……」
ジェノサイダーに切り刻まれながら、雨男は壁まで追い込まれ、それに背を預けてようやく立っていた。とっくに手にナイフはなく、全身はそのレインコートごと、フードに隠された顔以外隈無く、ずたずたにされていた。
「殺人鬼を、殺す」
ジェノサイダーが、人を殺す者を、雨男を、自らを、人でないと宣言した。
だらりと下がっていた雨男の右手が、矢で射抜かれたように、白塗りの壁に張り付いた。ジェノサイダーが鋏を突き立て、壁に縫い付けたのだ。ジェノサイダーは、自らの太腿に巻かれたホルダーから次々に新しい鋏を引き抜きながら、雨男の右二の腕、左二の腕、左手も同様に、串刺しに固定していく。内側のコンクリートが遠いのか、雨男の肉を通ってあっさりと、鋏が壁に突き立てられていく。
雨男が身体中に無数の鋏を生やし、磔が完成した。まるで新たなジェノサイダーへの供物のようだった。
信じられないことに、血達磨にされた上で磔にされてもなお、雨男は息をしていた。しかし、その命も最早、時間に奪われるか、ジェノサイダーに奪われるかのどちらかの未来しかない。
「最後だし、きちんとお顔を拝見しよっか」ジェノサイダーが、雨男のフードに手をかけた。
「あら、なかなか素敵じゃないのよ。まあ、ちらちら見えてたから解ってたけどね」
雨男の素顔を見て、わたしは愕然とした。
声も出ず、わたしの唇だけが、なんで、と動いた。
ジェノサイダーが、髪を掴んで彼の頭を壁に押し付け、鋏を構える。
「僕は、雨の日を、ハレの日にしたかっただけだよ」目だけでわたしの方を見て、小さな、掠れた声で、友人は笑った。
鋏が、彼の首を貫いた。
一瞬の出来事が、永遠に感じた。
喉仏の下に、閉じた刃の先が突き刺さる。気管、咽頭を貫き、頚椎を砕く。そのイメージが順番に、わたしの頭に展開されていく。
ジェノサイダーは、彼の首に深々と埋まった鋏を、鍵を開けるように捻じり、引き抜いた。首に開いた穴から、一気に鮮血が噴き出す。口からも、ごぽごぽと血の泡が漏れ出した。
がくり、と彼の頭が垂れた。糸の切れた人形のように全身からも力が消え去るが、突き刺さった鋏が倒れることを許さなかった。
雨の日の殺人鬼が、今、死んだ。
磔にされた死体の周りは、血みどろになっていた。白かった壁は赤く染まり、床には血溜まりができていた。
ジェノサイダーは恍惚とした表情で、床の血を手で掬い上げると、壁の白い部分に「チミドロフィーバー」と書き殴った。
わたしにとって重苦しい静寂の後、はあ、ふう、とジェノサイダーが伸びをしてこちらを向いた。
「知り合いだった?」ポケットから取り出したハンカチで返り血を拭いながら、ジェノサイダーが、わたしに訊いた。
「はい」わたしは小さく、うなづいた。「友人、でした」
「そ、悪いわね」悪びれる様子は微塵もなかった。スプリンクラーが作った水溜りを蹴り、血の足跡を消している。
「いえ、終わらせてくれて、ありがとうございます」彼の、ハレの日を。
「いやあ、こまちーが人を殺さないアタシの存在を、許してくれたおかげよん」ジェノサイダーはウインクした。これを、わたしのおかげと言われると、それはそれで困る。
「あなたは、これからは、殺人鬼を殺すんですか?」
「そうね。殺人鬼から、殺人鬼殺しに転向よ。人を殺せないんなら、殺人鬼を殺せばいいじゃない」マリー・アントワネットよりもネジの飛んだ理論だ。
「あなたの快楽のために?」
「アタシの快楽のために。アタシの存在のためでもあんだけど」ジェノサイダーは頬を掻いた。
「そろそろ行くわ。こまぴーも早くずらからないと、面倒くせえことになるわよ」彼女は、とんとん、と靴の爪先で床を叩いた。
「わたしは、ちょっと、ええと」
「あ?何よ。はっきり喋んなさいよ、はっきり」言ってからジェノサイダーは、黒い痣のできたわたしの脚を、じろりと見た。
「あっ、いや、ええと、もう立てます」
「しゃあねえなあ」ジェノサイダーは頭をがしがしと掻くと、わたしの手足を引っ掴み、強引に背負った。
「あの」
「ごたごた抜かすな。突っ走るかんね」
目の前の惨殺死体を作り上げた張本人であるというのに、なぜか、身体を預けるのに抵抗が無かった。
彼女の背中は、妙な暖かみがあり、胸の奥がくすぐったくなる感じがした。あなたは人ですよ、と、言いたくなる。だが、今更そんなことは口にできない。彼女を殺人鬼殺しにしたのは、わたしだ。
「行くわよ」
わたしを負い、彼女が駆け出した。
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雨男が死んだ日から、それなりに時間が経ったが、流石にまだ落ち着かない日が続いている。
あの日、ジェノサイダーが逃走ルートを完璧に把握していたおかげで、どうにか誰にも見つからずに百貨店を脱出し、家に帰ることができた。
予想通り、その後は凄まじい騒ぎになった。当然だ。現場の物証や家宅捜索の結果から、あの死者が放火魔であることも、雨男であることも、すぐさま断定された。百貨店の火災が放火によるもので、しかも火を点けたのが連続殺人犯。更にその殺人犯が学生。天地がひっくり返ったような狂騒となるのも当然と言える。
しかし、わたしは真実を目の前に見ていた為に、世間と違う驚きを味わうこととなった。
ジェノサイダーの凶行について、一切の報道がなされなかったのだ。
雨男は、一酸化炭素中毒により死んだこととなっていた。どんな検死を行ったとしても、あの惨殺死体が中毒死の死体となるわけがない。雨男が火を放つところを見ていた客が二人いて、その内の一人が通報した為、その現場に最初に踏み込んだのは、雨男を捕まえようとそこら中にいた警察だったらしい。悪戯に混乱を招かないための情報統制だろう。確かに、これで周辺住民の恐怖には終止符が打たれた。
正体が学生であったことや、その不可解な放火と死の話題がニュースでは持ち切りとなり、特番がいくつも組まれた。
学校に取材に来る報道機関は後を立たないし、あの友人の母親がモザイク越しに泣いている姿がテレビに映る日が続き、うんざりした。
学校から帰りテレビを点けると、今日もまた、雨男事件についての討論番組がやっていて、即座に消した。
大きく溜息を吐いて、ソファーに寝転がる。
「おかえり。着替えてきなさい。制服で寝ないの」
「はい、ただいま」母に見つかったので、おかえりに対する返事と、今着替えるという返事を兼ねた言葉を返し、渋々起き上がる。「今日、お父さんは?」
「出張」
「また?」
「何か、面白いことがあったのかもね」母が、ふふ、と目を細めた。何よ、面白いことって。
着替える為、自分の部屋に向かおうとした時、玄関のチャイムが鳴った。
「誰かしら。こまる、出てくれる?」
夕飯を作る母に代わって、インターホンに向かう。
テレビモニターを覗くと、あの眼鏡少女が手を振っていた。
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またも、この部屋でジェノサイダーと二人きりになるとは。
「何しに来たんですか。まだこの辺うろつくのはまずいんじゃないですか?あなたが雨男を殺したこと、報道はされてないけど、警察はきっと警戒してますよ」わたしは開口一番、声を殺して指摘した。
「大丈夫よ。この程度で捕まんなら三十回は捕まってっから」けらけらと笑い飛ばされた。「それより聞いてよ。マイダーリンがさあ」
「え、彼氏さん、いたんですか?」
「や、まだゲットしてないんだけど。あれ?話してなかったっけ。マイダーリンのこと」
「知りませんよ。ゲットしてないなら、マイダーリンじゃないですよね」
「細かいことはいいのよ。とにかくイケメンなのよイケメン。なおかつ、お金持ちで、頭脳明晰で、その上眼鏡ときてんのよ」ジェノサイダーは、徐々に手を広げながら熱弁する。
「はあ。そんなに凄い人なんですか」
「まあ、ちょっちヘタレで噛ませ犬なとこもあって、クラスでいじられる時もあるけど、そこも良し」
「クラスメイトですか?」
「そう、クラスメイト。こりゃもう運命よね」
「いや、他にもいるんですよね?クラスメイト」
「そんな雑魚共、どうでもいいのよ。ああ、後は殺人さえしてくれれば」
「人が殺人鬼になるのを願うのは、やめてください」
というか、なんなの、この会話は。
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結局、ジェノサイダーは喋るだけ喋って、帰って行った。その内容はマイダーリンなる男子のことやら、好みの男子のタイプやら、くだらないことばかりだった。
別れ際に少し、気になることを言っていたが。
「こまりぃはあれね、アイツに似てるようで、かなり別物ね。どっちかっていうと、親近感が湧く感じするわ」
「変なこと言わないで下さいよ。誰ですか、あいつって」
「アタシを負かした奴よ」
「例の約束を取り付けた人ですか?」
「そうそう、そいつ」
「はあ。知らない人ですし、別物なのは当たり前なんじゃ」
「ところが知らない人じゃないんだな、これが」
「え?」
「そんじゃあね。また会いましょう、こまるちゃん」
言うだけ言って、そそくさと帰って行った。
本当に、一体、なんだったのか。好きな人のこと喋くって帰って、これではまるで、友達みたいだ。
「えっ、友達?嘘……えっ?」
奇妙な友情が、生まれてしまったのかもしれない。
夜空は、雲一つなく、晴れ渡っていた。
EXTRA CASE 雨はハレ 閉廷
投下&新しくスレ建て乙
戻ってきてくれると思ってたぜ
見てくれた方がいらしたことに驚きました。ありがとうございます。
このスレッドは単発で使おうと思っていたので既にHTML化依頼を出してあります。
次の話はできるだけ解り易いタイトルで立てます。
乙です
単発スレだったか
ともあれ、次も期待してる
乙でした
乙です
次も楽しみに待ってます
乙
相変わらず良い話を書きなさる
絶女発売で新作書くネタが広がることを期待
乙
相変わらず凄い良い話
次も期待して待ってます
このSSまとめへのコメント
☆を5個つけようと思ったのにorz4つになっちまった。しかし流石は苗木母、娘がジェノサイダー連れてきても動じない!( ´∩`*)
久しぶりにレベル高いの見つけてしまったなぁ。安易な展開に流されない強い構成は見習いたいくらい。
このこまるがあのこまるになるのか…