Have a good life 【氷菓】 (204)

初めての投稿ですので、改行など読みにくいことがあれば教えて下さい
地の文多めです
誤字脱字ご容赦ください

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清明
   万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれる也

おお、氷菓か

えるたそ期待

 新幹線で名古屋まで、そこからJRの急行列車に揺られて、そろそろ1時間程が経とうとしている。窓外の景色は次第に見憶えのあるものへと移り変わっていった。

 あと、だいたい1時間と20分ぐらいか。
 俺は荷棚に置いたバックの中から1冊の本を取り出して、膝の上に置いた。無愛想な装丁のその本のタイトルは『ふたりの距離の結末』、著者名は『福部里志』
里志は大学時代から、徐々にその貯め込んでいた知識を混成していく術を学んでいった。まあ、それが最も結実したのが散文という形であったのはなんとなく納得はいく。

内容は、怠惰で無気力な探偵が嫌々ながら事件に巻き込まれていくといった推理モノ。驚いたことに、この探偵、俺が原型であるらしいのだ。まあ、五作目まで続いている小説の主人公が俺を基にして誕生したということ自体悪い気はしない。

相変わらず、衒学ぶった知識のひけらかしとも取られかねない文章だが、軽妙で独特な文体がそれを上手い具合に補っている。
里志らしいといえば里志らしいし、他にこんな文章が書ける奴、そうはいないだろう。

 生き字引の成せる技……いや、あいつならこう言うだろう。
「それはね、ホータロー。僕がデータベースだからだよ」

俺は神山高校を卒業し、関東の大学に進学した。古典部の千反田、伊原、里志たちもそれぞれが別々の大学に進学することとなった。
 伊原と里志とはお互いのキャンパスが割合近くなこともあり、よく深酒に付き合わされ、
また時々ではあるが2人の喧嘩の――攻め立てるのは伊原の方ばかりだが――仲裁役をさせられた。

千反田は、より商品価値の高い作物を他に先駆けて作ることで、皆で豊かになるという願いを実現させる為に東北の国立大学農学科に進学した。
 神山市に帰省した際には、この4人で集まったりしたものだが、それぐらいしか千反田と顔合わせする機会もなかったのであいつの学生生活がどういったものだったのかはよく知らない。

「あら、お帰り。どうしたの? まだ両親ともども健在よ」

「姉貴、それが5年ぶりに帰郷した弟に対して初めにかける言葉か。それに、そろそろ一度顔を見せてやれって言ったのは姉貴の方だろ」

「え? そうだったかしら」


 姉、折木供恵は東京の広告会社に勤務しているが、今は理由あってこの神山市に帰郷をしていた。
 家の2階から赤ん坊の鳴き声が響き渡る。
「ほら、あんたが帰ってきたせいで起きちゃったじゃないの」

 姉貴の自室は昔とほぼ変わりないが、1つ違いをあげるとすれば、それはベビーベッドが備え付けられているということだろう。

「昨日退院だったんだろ」

「そうね、母子ともども健康よ」
 慈愛顔で我が子の頬を指で撫でる姉貴の姿に、俺は戦慄いた。まさかあの姉貴がこんな表情で赤ん坊を愛でる日がくるとは……。

「あんたも抱いてみる」
 怪我でもさせては大変だから断ろうと思ったが、叔父としてこれからこの子と接する機会も多々あるだろうと考えて
それならばこの時期からある程度のスキンシップをとっていた方が賢明だと試しに抱かせてもらってみることにした。


「こんな感じ、うん、そうね。首はちゃんと支えてあげなくちゃ駄目よ。まだすわりが悪いからね」

 恐々と姉貴の腕から赤ん坊を抱き寄せた。想像していたよりもずっと重い。

「どう? 可愛いでしょ」

「おお」
 赤ん坊の小さな手の指先が、俺の手に触れて思わず驚嘆の声を上げた。

「動いた」

「当たり前じゃない」
 姉貴が口許に手を当てほくそ笑む。


「名前はなんていうんだ?」

「それがまだ決めかねているのよ。『愛』とか、『涼花』とか候補は上がってるんだけど……
いっそのこと、『愛』と書いて『すずか』とでも読ませてみようかしら」

「じゃあまだ出生届も出してないのか。今、生まれて何日目なんだ?」

「8日目ね、あと6日も間があるしそれまでには決めるわよ。でも、不思議じゃない?」
 なにが、と姉貴の腕に赤ん坊を抱き渡しながら聞き返す。

「ちゃんとここに生きているのに、まだ社会的には存在しないことと変わりないのよ。そう考えたら不思議じゃない?」

「存在してるのに、見えない『愛』ちゃんねえ」

地の文ものか

「仕事の方はどうなの?」

「可もなく不可もなく」
 1階の降り、リビングで姉貴の出してくれた茶を啜りながら俺は答えた。

「判然としない返答ね、まあ、わたしの助言に狂いはなかったでしょう。よかったわね
できたお姉さまの言う通りに、在学中に司書の資格を取っておいて」

「はいはい、感謝してます」


 俺は大学入学前にされた姉貴の提案を愚直に守り、司書の資格を取得した。

「あんた、一般企業なんてざらじゃないんだから司書の資格でも取っときなさい。取って損はないんだし、省エネのあんたにはぴったりよ」

 この言い分はもっともだった。形だけの就職活動のさなか、近隣の
市の図書館司書の求人が目に留まり、物は試しと応募してみたところ
まさかの内定を頂いてしまったのだ。

 以来、俺はそこで真面目に堅実に職務をこなしていた。
真面目すぎてここ五年間実家に足を運ぶ暇さえなく、ということはありえず
ただ単に長時間かけて帰郷するのが面倒だったというのが唯一の理由だ。

 姉貴と当たり障りない世間話をしていると、実家の固定電話が鳴り始めた。
腰をあげようとした俺を姉貴が手で制し、膝行して電話の方へ向かって行く。

「あ、もしもし久しぶりね。うんうん、元気よ。そっちはどうなの?」
 どうやら姉貴の友人らしい。
おおかた出産をどこかから聞きつけて祝の電話を寄越してきたのだろう。
ただ、どうしてわざわざ実家の固定電話に。


「え? ああ、大丈夫大丈夫。生きてるわよ。核戦争が起きたって死にゃしないわよ。
ゴキブリみたいなものなんだから。おおかた携帯を忘れてきたんでしょ」

 共通の友人の話題だろうか。それにしたって酷い言われようだ、あの扱われっぷり、どこかシンパシーを感じずにはいられない。

「ほらー、奉太郎。里志くんから電話よ。あんた携帯忘れてきてるみたい」

『もしもしホータローかい。久し振りだね、全然電話に出ないから心配して実家の方に連絡をいれてみたんだけどビンゴだったね』

「悪いな、携帯を忘れたことに全然気づかなかった」

『はは、ホータローらしいや。お姉さんも元気そうでなによりだね。ところで珍しく里帰りしているみたいだけど、どうかしたのかい?』
 俺は送話口を手で覆い、姉貴に聞こえないように小声で言った。

「姉貴に子供が生まれてな、恐らく俺と会わせたかったんだろう」

『それは本当かい!? いやあ、吉報だね。男の子かい? 女の子かい?』
 あまりの大音声に、発作的に受話器から耳を離してしまった。
姉貴にもそんな里志の声が届いていたんだろう。見えもしないのにこちらに手を振って
「女の子よー」と返事をしている。

『それにしたって目出度いじゃないか。加えて両親に
いつまで経っても顔を見せない恩知らずの1人息子を再開させる手はずまで整える。さすがだよ』
「誰が恩知らずだ。俺だってたまにぐらい両親に電話ぐらいかけている」

『電話と実際に会うのとでは比べ物にならないよ。そういえば、大学時代もホータローを神山に連れて帰るのには苦労させられたな。石の上にも三年……いや、大学だから四年だね。とにかく面倒で動きたがらないんだもの。今回の里帰りはどれぐらい振りなんだい?』

「ざっと五年だな」

『呆れたよ。もっと親孝行しとかないと、いつ何が起こるか分からない世の中なんだからね』

 自分でも薄々薄情者だなと思いはしていたから、反論するのは憚られた。
「ところで、今日はどうしたんだ?」
 こういう場合、露骨にでも話題を変えるに限る。
「珍しいじゃないか、お前から電話なんて」

『連絡を入れるのはいつも僕からじゃないか。
まあ、いいや。実は僕にも娘が産まれてね』
 立ち眩みをおぼえ、電話台に手をついた。
「ちょっとまて里志、それは本当か」

『はは、ジョークじゃないよ。なんだい僕には父親が似合わないっていう物言いだ。
僕たちもそろそろ子供をもうけても不思議じゃない年齢だと思うけどね』

「伊原、あ、いや今は福部摩耶花か。慣れないな。摩耶花の体調は大丈夫なのか?」

『ああ、それなら問題ないさ。毎日、こう目を糸みたいに細めて美代の世話をしているよ』
 と、そこで里志の受話器越しに赤ん坊の泣き声が聞こえ始めた。

『ごめんねホータロー、ぐずりだしちゃったみたいだ』

「大変だな、父親ってのも」

『確かに大変だけど、新たな発見もあって毎日が充実しているよ。
ホータロー、最後にこれはお願いみたいなものなんだけど、せっかく神山市にいるんだからちょっと神高まで出向いて、古典部が今どうなっているのか見てきて欲しいんだ』

「どうして俺が……」

『面倒臭そうな声音だね。煩わしいのは分かるんだけど
ちょっと気になるじゃないか。僕たちが卒業してからおっつけ8年ぐらいかな?
現在きちんと存続しているのかどうか、ホータローだって気になったことはないかい?
摩耶花だって少し気掛かりではあるみたいだし、ねえ、頼むよホータロー』

「まあ、考えておく」

『そうこなくっちゃ! あ、そろそろ行かないと
また摩耶花にどやされちゃう。「国際電話は高いんだからね!」ってな具合で』

「お前今どこにいるんだ?」

『ボストンだよ。アメリカのマサチューセッツ州にある。
いや、いいところだよ。愛娘をあやしにいかなくちゃ。なにやら幼少期に父親が子育てに積極的だった場合とそうでない場合とでは感情のおおらかさに差異がでてくるそうなんだ』

「理論で子育てをするってのは感心できないぞ」
 里志が楽しそうに笑い声をあげた。

『ジョークだよ。まさか僕だってそんな眉唾ものの学説を鵜呑みにしたりしないさ。
ただね、ほら』
 里志が酷く声のトーンを落とした。
『お母さんみたいにあまりあくせくってのもどうかと思ってね』

 別れの言葉を述べる前に、随分と慌てていたのだろう。
里志は通話を切るのも忘れて、ポケットにそのまま携帯を押し込んでしまったみたいだ。
ズボンと携帯が掠れる音の後に、伊原の声が微かに聞こえた。

『電話、長かったわね。誰にかけてたの?』

『ああ、ホータローだよ。摩耶花の産後の体調を気にかけてくれていたよ』

『ふん、余計なお世話よ……まあ、また今度ありがとうって言っておいて』

入須冬実ん

翌日、俺は神山高校へと向かっていた。父親が車を貸そうかと尋ねてきたけれどそれは断った。なにせ免許を取ってから運転したことが2、3度ぐらいしかないのだ。
 一度千反田邸まで里志と伊原を積んで若葉マークの車を走らせたことがあるのだが、留まる所を知らない里志の軽口につい気を取られ、誤って千反田邸の立派な塀に車をぶつけてしまったことがある。軽い接触ではあったものの、車内は全員顔面蒼白となっていた。それが俺の最後に車を運転した日であり、今では立派なペーパードライバーの一員である。里志曰く、その日が俺の免許の命日だそうだ。毎年夏にはあいつからお悔やみの手紙が届いている。

 見飽きるぐらいに通いつめた神高への通学路、今ではそれも少し新鮮にこの目に映る。
商店街のアーケードを久しぶりにのんびりと歩いてみるのも悪くなかった。
 道々、下校していく生徒の姿をよく目にした。腕時計を一瞥し
ちょうどいい具合に生徒が掃けた時間に神高に到着できそうなのを再度確認する。

 神山高校も記憶にある姿のままそこに残っている。いや、正門を抜け、校庭を歩いて行く最中に1箇所だけ見慣れないもの発見した。
 校庭の隅、道沿いにあった年季のはいった格技場。氷菓の1件が事実であったとする傍証
また時間軸に建てられた里程標とでも呼ぶべきあの建物が真新しく建て替えられていたのだ。
 改めて時の流れを実感させられて、暫しその建物に魅入られていた。我に返った時に帰路につく生徒の物珍しげな視線を
一身に集めていることに、初めて居心地の悪さを覚える。
 そうか……もうここは俺の、俺たちの場所ではないってことか。

 昇降口の側にある一般来客者用の受付で卒業生であることを伝えた。

「見学させてもらいたいんですが、大丈夫ですか?」

「はい、どうぞ。何年度卒業生のお名前は何という方ですか」

 自分の卒業年度と名前を教えると、気の良さそうな用務員は
これに先程と同じことを記入してくれと用紙を差し出してきた。
 記入する間に、用務員は奥の戸棚から卒業生名簿を取り出してページを繰っている。
俺が述べたことが事実であるか確認しているのだろう。

「はい、はい、結構です。折木さん。
校内にいる間はこちらの札を首から下げていてください」

もう少し改行とかこまめにした方がいいですかね?

うんまあ、少しした方が見やすいかな?

 真っ直ぐに特別棟4階の地学講義室へと歩を進めた。開いた窓の外からは運動部系部員たちの活気に溢れる掛け声が聞こえてきたが、それとは正反対に特別棟内は深閑としている。
 特別棟全体の時間が停止しているのではないのかと想像さえさせられたが、化学準備室の戸の隙間から伺える掛け時計の針たちは、終わらない追いかけっこを義務的に繰り返していた。

3階まで来た時点で、職員室で地学講義室の鍵を貰うことを忘れたことに思い至った。
数瞬間逡巡したが、結局そのまま4階へと階段を再度上り始める。
部員がいればこの時間ならまだ室内に残っているだろうし
開いていなければ古典部員はいないと結論づけて家に帰ってしまえばいい。
 今日、活動が休みである可能性は否定できないが、まあその可能性は除外しよう。
本日部室に部員がいないのであれば、古典部員がいなかったことに嘘偽りはない。

少しだけ改行が欲しいかな

 把手を試しに軽く引いてみると、どうやら俺の杞憂だったらしい。
地学講義室の引き戸は何の抵抗もなく横に少しスライドした。
ということは部員がいるということのようだ。
 よろこべ里志、古典部は存続しているぞ。
俺自身もその事実に多少なりとも嬉しさを感じていた。
けれど戸を開けてみて、見も知らぬ後輩に挨拶というのも甚だ面倒で
さらに気まずい。
 どうしようかとその場で行きつ戻りつを繰り返した末
最後は諦めて残された戸を開ききった。

 さて、どんな奴らが今は古典部で活動をしているのだろうか?
ただ俺はそのことに対しては肩透かしを食らった格好になった。
部活動中の生徒の姿はそこにはなかったのだ。
 けれど、しかし、部室に人の姿がないわけではなかった。
窓際に烏の濡羽色の黒髪が背まで伸びている、見覚えのある後ろ姿の女性が佇んでいた。
 柔らかな入り日がその女性を優しく照らしている。滑らかな挙措で女性が振り返り始める。
真黒な旗が翩翻するように黒髪がなびく。大きな瞳がこちらの姿を捉え、薄い唇がそっと開く。

「お久しぶりです。折木さん」
 至極、落ち着いた声色で千反田えるはそう言った。

「千反田、どうしてお前がここにいるんだ?」

 5年ぶりに再開した相手にかけるにしては素気ない言葉だったかもしれない。

「いえ、その……一身上の都合です」
 千反田は少し表情を曇らせたが、仕切りなおすようにすぐに柔和な笑みを浮かべた。
相変わらずの無愛想ぶりにきっと戸惑ってしまったのに相違ない。

「5年ぶりですね。元気にしていましたか?」

「まあ、普通だな」

「折木さんはどうして部室に?」

「昨日里志に電話で頼まれてな。古典部が存続しているのか確かめて欲しかったそうだ」
 
 最後に見た姿と比べ、随分と大人びた印象を与えられた。
ひょっとするとすっかり板についた化粧のせいかもしれない。
襟元と裾にふんわりとしたフリルがある七分袖の白ブラウスもいい感じに調和をもたらしていた。

「立ち話もなんなので、お時間がよろしければ座ってお話しませんか?」

「それもそうだな」
 千反田が椅子に腰を下ろした。俺もそれに倣うように後に続く。

「福部さんも摩耶花さんもお元気そうでしたか?」

「ああ、元気そうだったぞ。今はなんとか州のボストンにいて、先日娘も産まれたらしい」

「マサチューセッツ州ですね」千反田は顔をほころばした
「お子さんが生まれたんですか。素晴らしいことですね。
お母さんは摩耶花さんですし、きっとしっかりとした人に成長していくはずですよ」

「似非粋人になるかもな」
 そんなこと仰ったら駄目ですよ、と千反田は目を眇め、口許を隠して笑った。

「子は鎹と旧くから言われていますし、これでお二人とも
これまで以上に幸せになられるんでしょうね。福部さんの本は手にとったことはありますか?」

「それならちょうど移動中の暇つぶしに図書館から借りてきてる。
今は家にあるが、確かタイトルは」

「『ふたりの距離の結末』ですね。あの折木さんみたいな探偵が
快刀乱麻を断つように起こる事件を解決していくシリーズ。
私、探偵さんのあの重い腰を上げさせるまでの過程が大好きなんです」

「二作目の豪腕ぶりが俺としては割りと好みだった」

「あれですね。ハイデガーの『存在と時間』から引用して
探偵さんその人の存在事実を既成概念からなし崩し的に崩壊させていく様は見事でした。
探偵さんの慌てふためく様子にわたしもお腹を抱えてしまいました」

「探偵が終盤、安楽椅子に身を沈める直前に吐いた捨て台詞『それなら僕がイデアだ』というわけの分からなさ……里志だってもうわけも分からなくなってたに違いないぞ」

「そうなんですか?」

「『僕はどうやら哲学というものには肌が合わないみたいだよ、ホータロー』昔こんな風にこぼしてたからな」

「だから、教えてよ教えてよ!」
 廊下から女の声がした。

「教えてよ教えてよ! ねえ、いいから教えてよ」
 同じ言を何度もけたたましく繰り返す声の主に
駄々を捏ねて無理を通そうとする幼児の姿が重なる。

 わたし、気になります。折木さんも一緒に考えてください。
これだけでも困りものだっただけに、あのような迫られ方を
もし仮にされていたとしたら……多分、俺は日に日に痩せ細り命を落としていたに違いあるまい。

「ふふ、青春ですね」

「確かにな」

「好きな人のお話だったりするのでしょうか?」

「どうだか」

「教えてよ教えてよ!」

 諦めが悪いのか、それほどまでしつこくしても聞きだしたい事なのか。
尚も声は止むことなく、先程よりそれは段々とこちら側へと近づいてきている。

「いったい何を教えて欲しいんでしょうね……わたし、気になり」
「教えてよ!」

 千反田の決まり文句が炸裂しようかとした、まさにそのときだった。
覆いかぶさるように、もうほとんど叫び声と言っても言い過ぎではない
「教えてよ!」が重なり、地学講義室の扉が勢いよく開かれた。

「あの、あなたたちは?」

 まず口を開いたのは、今しがた室内に姿を現した2人のうちの1人。
顔形が非常にシャープで身体つきが華奢な女のような男だった。
 制服だから判別は容易なものの、きっと知らぬ人がTシャツとジーンズ姿の彼を
初めて目にすれば、その多くが彼を女であると決めつけてしまうのではなかろうか。
射竦めるような鋭い視線、通った鼻筋。これほど眉目秀麗な男は滅多にお目にかかれない。

「初めまして。私たちはこの学校の卒業生で、在学時にはこの教室を部室として活動していた古典部に所属していた者です
本日は母校を見学しにやってきました。驚かせてごめんなさい」

「古典部の先輩!?」

 扉の前で佇立していた男を押しのけて、背後から背の低い女が姿を現した。
上がり目気味で、それが高圧的な性格を物語っていそうではあるが
嬉々とした態度と丈の合っていないセーラー服がもたらす子供っぽさの方が印象的に勝っている。

「まさか古典部の先輩がやってくるなんて
びっくりだね。ね! ゆーちゃん」
 はしゃぐ女に背を幾度となく平手打ちされ、男は渋面を作っている。

「私は蒼井芳華(あおいほうか)と言います。
よろしくね千反田先輩! えっとそちらの」

「折木奉太郎だ」

「よろしく折木先輩! でもほんとにびっくりだな
まさか古典部の先輩が突然やってくるなんて……あ、ひょっとして二人はそういう仲で昔の思い出の軌跡を辿っていたりしちゃってるんですか?」

「俺と千反田はお前が想像してるような仲じゃないぞ」

「またまた照れてるんですね。
もうしょうがない先輩です。でも、いいですよ。ほら、ゆーちゃんも挨拶しちゃってしちゃって」

 男は蒼井に背を押されて、よろめきながらこちらへと一歩近づいた。

「日向野有希(ひがのゆき)です」

蒼井芳華と日向野有希は2人とも2年生であるらしい。
 蒼井は入学前からせっかく種々多様な部活動が在る神山高校に入学したのだから
どうせなら1番妙ちくりんな部活に参加してみたいと考えてみたのだそうだ。

「それで部活動が列記された冊子を捲っていたら、ぴぴんときたのが古典部だったんですよ」

 指を鳴らし、大仰な手振りで話を進める蒼井に
千反田は都度、興味深そうに首を縦に振っていた。

「入部届けを顧問の先生に持っていくと、なんともう廃部寸前ということじゃありませんか。
そこでまた、ぴぴんときました。ははぁん、こんな虫の息の部活動を救ってやった暁にはきっと良いことがあるのではなかろうか、
てな具合です。ああ、ちなみにゆーちゃんは私に付き合ってくれたんです。ね?」

「ほとんど強制でした」

「なるほど」
 どこに得心がいったのかは分からないが、千反田は呟く。

「で、具体的にどういう活動をしてるんだ?」

「それはですねー、やっぱり古典部というからには」
自慢気に人差し指を顔の前で振りながら、蒼井は舌を鳴らした。

「古事記、日本書紀から始まって仏教神話にギリシャ神話に北欧神話にオリエント神話、旧約・新約聖書とリグ・ヴェーダ讃歌とコーランの朗読。
どれも初期に挫折してからは二人だけで百人一首をしてババ抜きになって大富豪になり、最近ではまた本を読み始めてますよ」

「はいこれです!」

 蒼井は鞄の中から本を1冊取り出してこちらへ差し出した。

「クトゥルフ神話……」

もう神話と名のつくものには手当たり次第だな。

「でも、折木さん。これって確か」
 千反田が俺の耳元で囁く。

「大丈夫ですよ。神話や聖書なんてどれも小説となんらかわりないんですから」
 蒼井が相好を崩しブイサインをこちらへ向ける一方、日向野は肩を落として嘆息した。

「極端なんですよ。こいつ」

「ところで、先程蒼井さん『教えて、教えて』って
ずっと日向野さんに訴えていましたよね。よろしかったら何を教えて欲しいのか
わたしたちに教えて貰えませんか?」

「それはですね」

 日向野はいそいそと帰り支度を始めた。
 机に置いたきり、1度足りとも開いていない文庫本を鞄の中に入れて立ち上がり
出口の方へと一歩踏み出す。
けれど、見事な敏捷さで蒼井が彼の手を引っ掴むと抵抗止むなく席へと引きずり返されてしまった。

「掲示板に時折貼られる。数字が書かれた紙があるんです」

「それがどうしたのですか?」
 千反田が首を傾げる。

「昇降口の前にある大きな掲示板は分かりますよね?」

「あの部活動勧誘ポスターが所狭しと貼られている掲示板だろ」

「それです」

 校内で随一の激戦区と呼ばれる掲示板。青春の熱量がむんむんと伝わって
前を通る度に俺は妙に気疲れしたことを覚えている。

「こういう紙が、去年の夏頃からかな? 貼られるようになったんです」

蒼井が学校指定のスクールバッグからルーズリーフとボールペンを取り出し、大きく『2』、そして控えめに2の右肩に指数と思しき『19』を書き記した。

「2の19乗……」

「524288になりますね」

 相変わらずこの才媛の能力には舌を巻くものがある。
蒼井も空いたスペースに2を18個ほど書き連ねたあたりで、口を半開きにして目を丸くしている。

「で、これがどうしたんだ」
 気を取り直すように、蒼井は一度咳払いした。

「いったい誰がこんなものを掲示しているのか、またどういった目的があるのかちょっと興味ありませんか?」

「誰も知らないのですか?」

「はい。それともう1つこうです」
 蒼井がおもむろに数字を丸で囲む。

「またはこうです」
 今度は数字の上にバツ印を記入する。

「このどちらかになります。これに関しては誰が記入しているかは分かってます」

「どなたなんですか?」

「3年女子の先輩ですね」

「そいつに聞けばいいじゃないか」

「聞きましたよ、もちろん。『とくに意味はないわよ』って返されました」

「じゃあそうなんだろ」

「嘘に決まってるじゃないですか」
 蒼井が呆れたように苦笑する。当然、俺もそれが嘘であるとは思う。

「紙を貼っているのも、その先輩である可能性はないのでしょうか?」

「それは多分、ないんじゃないかと思います」
 蒼井はルーズリーフを指先で摘み、それを左右に振った。

「だって貼りつける姿を誰にも露わにしたことがないのに、わざわざ追記するところを誰かに見せたりしますかね?」
まあ、筋は通っている。

「わたし、ちょっと興味あります」

 千反田先輩あって、この後輩ありなのか。
記憶に残る千反田と、蒼井を重ねて一種感慨深い気分になっていると、対面に座っていた千反田が机の上に身を乗り出し、俺の眼前で懐かしい言葉を口にした。

「わたし、気になります」

とりあえず、時間も時間であったし、俺たちは学校を後にすることに決めた。

「戸締まりをして、鍵は返しておきますよ。一応、僕が部長ということになってるんで」

 日向野に鍵を手渡した千反田、それと蒼井を引き連れて昇降口に向かった。

「それにしても、この数字にはどういった意味があるのでしょう?」
 蒼井から受け取ったルーズリーフを眺めながら、千反田が思案顔で呟く。

「2……うーん、学年や、校舎の階数のことでしょうか?」

「学年に関してはまずないと思いますよ」

「どうしてですか?」

「これまでに記された大きい方の数字が2、3、4の3パターン以外ありえなかったからです。高校生には4年生という学年は存在しませんからね」

それよりも、と蒼井が千反田の手からルーズリーフを抜き取る。

「クイズの答え、なんていうのはどうでしょうね? 丸とバツの説明も簡単につきますよ」

「どんな内容かわからないじゃないか」

「それがこの19ですよ。これはページ数を表しているんです」
 蒼井が得意そうにはにかむ。

「それについて聞こうとも思ってたんだが、その指数みたいなのはいつもバラバラの数字なのか?」

「うーん、そうですねえ……19、20、21、22、これがほとんどで稀に23が出てきたりもします」

「19ページ、20ページ、21ページ、22ページ、たまにある23ページ。そのページばっかりってのはあまりに不自然だろ」

「本を毎回代えているとか!」

「質問の答えになってないぞ」
 それに、それならこんな迂遠な方法をとる必要がない。

「じゃあ、524288ページを指しているんですよ!」

「本気で言ってるのか……」

「まさか、冗談です」

 そんな本、あるならお目にかかりたいものだ。きっと身震いしそうなぐらい高い脚立を使って読み進めるか、任意な箇所で裁断し、分割して読む必要がありそうだ。どちらにしても手間と道具と場所を選ぶ書物になること請け合いだろう。

「その先輩という方はどういった方なのですか?」

「そうですねえ」蒼井は頬に掌を当てて首を傾げた。「まず、千反田先輩ほどすっごく綺麗ということはありません」

「よかったな綺麗だってさ」

「もう、折木さんまで止めてください」
 千反田が頬を朱に染めて俯く。

「よくは知らないんですけど、まあ耳を塞ぎたくなるような素行不良というわけではないみたいです。でも、品行方正な優等生というわけでもなさそうです。取り立てて述べる部分があまり見つかりません」

「なるほどね」

「ここですね」
 一般来客者用の受付で見学者用の札を返却している間に、蒼井は掲示板前まで移動していて、人差指で掲示板右隅辺りを指し示していた。

「秘密クラブ女郎蜘蛛の会のことを思い出しますね」

「よく憶えてるな」

 背後に人の気配を感じ、振り返ってみるとそこには鍵を返し終えた日向野がいた。
のっぺりとした表情で蒼井に比べて愛嬌はない。まあ、ああもバイタリティに横溢しているのも困りものではあると思う。

「いつも気づいたらここに貼られてるんだよね、ゆーちゃん」

「ああ」

「総務委員会許可印とやらは押されているのか?」

「なんですか? それ」
 不思議そうな顔つきの蒼井に、手近にあるバスケットボール部勧誘ポスターの右下に押されているそれを指さしてやった。

「これがないと掲示許可が下りたとみなされず、総務委員の方はポスターを剥がしてしまわなくてはならないんですよ」

「許可印ならいつも押されていますよ」
 日向野が抑揚のない声で口にした。

「じゃあ、なんで許可を得ているのに今日は件の紙は貼られていないんだ?」

「それがいつも気づくと剥がされているんですよ。ね?」

「うん」
 日向野は促されるままに頷く。

「貼られるときも目にしたことがないし、剥がされるところも目撃者なし。一部の好事家たちからは数年前、成績不振を嘆いて亡くなった生徒の霊による、神高生の学力を向上させる為の小粋な問題であるとか、いやいや実は最軽量最薄の消臭剤の類で、試作段階としてこの神山高校で最も青春の匂いを芬々とさせているだろう昇降口を試験場に、実験を繰り返した折、製品化まで踏み込むのだろう等々といった説が流布されています。ちなみに後者の方は実験とプロモーションを一挙に兼ねていて、テレビコマーシャルに出演できるかもと期待している女生徒たちが校則で禁止されている化粧や装飾品を身につけてくるので神山高校生活指導担当教諭の方々は日々頭を悩ませていたりもしますよ。ねっ、ちょっと可笑しいですよね」


 淀みない語り口とその内容に、俺は目眩をおぼえた。よくもまあ、こう滔々と益体もない長広舌を披露できるものだ。ちょっと感心さえさせられる。

「追々、神山高校から第三次世界大戦が始まることもあるかもな」
 突飛には突飛。俺は皮肉っぽくそう言った。

正門の前で2人の後輩とは別れることとなった。もう日もすっかりと暮れていて、時刻はそれほど遅くないにしても、なんだか2人には悪いことをした気がして少しだけ申し訳ない。

「日向野さん、蒼井さんお手間をとらせてごめんなさい。気をつけて帰ってくださいね」

「楽しかったですよ。千反田先輩。また是非来て下さいね」
 あと、と蒼井が俺の側まで駆け寄ってきて耳打ちをしてきた。

「あんまり千反田先輩と無茶しちゃ駄目ですよ」

「あのなあ、お前」
 頑是ない笑みを顔中に浮かべ、蒼井は日向野の手を取り走りだす。

「さようならー!」
 千反田はきょとんとした顔つきで2人に向けて鷹揚に手を振っていた。

「何を言われたんですか?」

「知らん」

 アーケード街を千反田と並んで歩くのも久しい。千反田は、今はこの神山市で営農指導を主な仕事として活動しているそうだ。

「あとはそうですね。この地域の農産物の産出数を年度別に比較して、またその年の気候、降雨量、あとは意外と思われるかもしれませんがこの地域の人口の増減、一世帯辺りの車の所有数などのデータもすり合わせることによって何か新しい発見があるのではないかと試みています」

「大変そうだな」

「いえ、そんなことはありませんよ。やりがいがあります。新しく提唱され始めた農法など、それらの中から選別、検討し、この土地の農家の方々に提案していく。結果、神山市の農家の方々に一助でも出来ているのではないかと思うと、ちょっと嬉しいです……ただ」

「ただ?」

「ただ、ですね。やはりそういう新しい物事を簡単に取り組めない現状というのもあります。そ
してその1つの理由としてわたしがまだまだ若輩者で、皆さんとの信頼関係をしっかりと確立できていないということが挙げられるんです」

「そうか」

「これはわたしが信頼を置ける人物に成長できていないという証左に他なりません。分かっています。けど、家の名前を持ちだされて口汚く罵られたりすると……やっぱり少しへこんでしまいますね」

 しおらしく微笑する千反田に、不思議と胸が疼いた。

「折木さんは今も市立の図書館で働いてらっしゃるのですか?」

「そうだな」

「わたしは、ぴったりだと思います。折木さんにとても似合ってますよ」

「省エネにはお似合いだって姉貴にも言われたな」

「そういう意味で述べたわけじゃありませんよ……ところで折木さん、話題は元に戻るのですが」 

 千反田がぐいと一歩こちらに身を乗り出す。

「あの蒼井さんがお話してくれた1件、折木さん! わたし、やっぱり気になります」
 心なしか瞳孔が拡大したようにも見える。

「誰がどのような目的で、そして3年生の女生徒がなぜそれに印をつけるのか、あの数字の意味は何なのか、わたし、とても気になるんです!」

 今日知り合ったばかりの後輩がいなくなったことで、遠慮がいらなくなったのか、千反田と俺の距離はみるみる間に縮まっていく。

 その大きな瞳が、期待の色を浮かべているのが分かる。動揺して、非常に大きな音を立てて生唾を飲み込んだ。

「と、とりあえず落ち着け千反田、周りの人たちがびっくりしてる」

 店先のシャッターを下ろそうかとしていた男性が、驚いてこちらを凝視していた。犬の散歩がてらにジョギングに勤しむ女性も足を止めて何事かとこちらを注視している。

「歩きながら説明する」

「はい」

 足早にその場をあとにして、好奇な眼差しが周りからなくなった辺りで歩調を緩めた。だいぶ暖かくなってきたとはいえ、夜はまだ息が白くなるには充分な寒さだ。

「コーヒーでもどうだ?」

 近くの自動販売機に小銭を入れて、缶コーヒーを2本買った。

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

「ほら」

「ありがとうございます」

一口飲むと、空腹がふいに俺の胃を襲い出し始めた。

「コーヒーを渡しておいてなんなんだが、よかったら今から食事でもどうだ? 意外と腹が空いていたみたいなんだ」

「ごめんなさい。もう家に食事が用意されているので……折木さんはあとどれぐらいこちらにいるおつもりですか?」

「2日のつもりだな。明日は有給をとってあるし、移動疲れで結構くたくたなんだ」

「分かりました。また、近々お誘いの電話を入れますので、その時にでもよろしいですか?」

「実家の固定電話にでもかけてくれ。携帯は向こうに忘れてきてしまってな……さて、あの紙の事だったな。はっきりと分かっていることが1つある。あの19という数字、あれは指数じゃない」

「じゃあ、あれは……」

「19、20 、21。24ときてまた1に戻る」

「時刻ですか」
 俺は首を縦に振り正解だと示す。

「そうですか……時刻ですか」

「あとは、あの紙を貼りつけた奴だがな、あれは」

 千反田の肩掛けしているバッグの中で携帯電話が鳴り始めて、俺は言葉を遮られる。
丁寧な応対をする千反田は途中腕時計を確認して、頭を押さえ項垂れた。振る舞いからどうやら人待ち合わせでもしていて、それをすっかり失念していた、と察することが容易にできた。

「ごめんなさい折木さん」
 千反田は慇懃に頭を下げる。

「わたし、すっかり人と待ち合わせがあることを忘れていました。この近くなので急いで行かなくてはいけません」

「ああ、俺は別に構わんぞ」

 小走りで元来た道を戻り始めた千反田は30mほど進んだぐらいでこちらを振り向き、少し声を張り上げて俺に呼びかける。

「あの折木さん! よかったらまた明日学校でお会いできませんか? お話の続きを最後まで聞かせて頂きたいんです」

 久しぶりに、俺も腹に力を入れて声を張り上げる。
「分かった! じゃあ、また今日と同じぐらいの時刻に」

 間違ったほう貼ったしまった


「あとは、あの紙を貼りつけた奴だがな、あれは」

 千反田の肩掛けしているバッグの中で携帯電話が鳴り始めて、俺は言葉を遮られる。
丁寧な応対をする千反田は途中腕時計を確認して、頭を押さえ項垂れた。振る舞いからどうやら人待ち合わせでもしていて、それをすっかり失念していた、と察することが容易にできた。

「ごめんなさい折木さん」
 千反田は慇懃に頭を下げる。

「わたし、すっかり人と待ち合わせがあることを忘れていました。この近くなので急いで行かなくてはいけません」

「ああ、俺は別に構わんぞ」

 小走りで元来た道を戻り始めた千反田は30mほど進んだぐらいでこちらを振り向き、少し声を張り上げて俺に呼びかけてきた。

「あの折木さん! よかったらまた明日学校でお会いできませんか? お話の続きを最後まで聞かせて頂きたいんです」

 久しぶりに、俺も腹に力を入れて声を張り上げてみる。
「分かった! じゃあ、また今日と同じぐらいの時刻に」

 俺の考えが正しければあまり千反田を巻き込むことは乗り気ではないが、ただ放っておくわけにもいきそうにない。

 もっとも、可能性が1番高いこの推測が的外れに終わるならば、そこからは俺が踏み込んでいい領域ではなくなるだろう。それならそれでいい。
 いかに好奇心の権化たるような千反田えるでも、他人のパーソナルな部分までを覗き見してまで真実を希求しはしないはずだ。

「それとな千反田!」言い忘れそうてしまうところだった。「車があるなら、明日はできるだけ車に乗ってきてくれ。必要になるやもしれん」

 千反田えるはもう一度優美に振り向いた。空色のギンガムチェック柄スカートが翻るのを左手で抑え、右手は人差し指と親指で丸をつくり俺に了承の意を示している。

 急ぎ足でその場を離れていく千反田の後ろ姿を、俺は暫く眺めていた。
 体格は昔とほとんど変化ないだろう。線の細い、あえかな印象を見るものに与える。だが、もうあの頃とは確かに違う人物に変わっていた。
親元を離れ、それまで目にすることがなかった世の中の美醜を見聞きし、それぞれから感受した思いを蓄えて、きっと強くなっていったのだ。

 俺が千反田と再会して、初め与えられたあの大人びた印象。それは間違ってはいないはずだ。深みを増した瞳の奥には、これまでよりさらに多くを受け入れる優しい色合いが濃くなっており、それは清濁併せ呑むとも表現できるし、世間との折り合いをつけることに習熟したと捉えることもできる。

とりあえず今日は家に帰って身体を休めよう。可能性の高い仮説を立証する為のポイントを絞る作業が残されているが、約束の時刻までには充分過ぎる時間が残されている。明日になってからでも遅くはないだろう。

 目を覚ますともう昼前だった。姉貴の子供が夜中何度かぐずついたらしいが、それは全く気にならなかった。
 リビングに降りると、まず初めにソファに座って我が子に授乳する姉貴の姿が目に入り、俺は慌てて視線を逸らす。

「あら、奉太郎。なかなか見事なタイミングじゃない」

「誰が実姉のそんな姿を拝みたいと思う」

「お昼ごはん食べるでしょ?」
 リビングにもあるベビーベッドに赤ん坊を寝かして、姉貴は台所で調理を始めた。

「どうせあんたのことなんだから、普段碌なもの食べてないんでしょう。家にいる間ぐらいちゃんと滋養取っときなさい」

 赤ん坊の頬を指で撫でながら、気のない返事をしておく。赤ん坊の小さな手に人差し指を持っていくと、しっかりとそれを握ってくる。

「おお!」

 毎度驚きの声を上げてしまう。姪に対してこれほどまでの愛らしさを感じてしまうのだから、いつか自分の子を持つことができれば、その感動はひとしおだろう。そんな時が訪れるのかと問われれば甚だ懐疑的にならざるを得ないが。

 食卓には野菜中心のメニューが並び、旬の野菜をふんだんに盛り込んだという『ざっくばらん供恵流サラダ』は見目はよろしくないものの、食材本来の新鮮さとドレッシングの力を借りて美味しく腹に収めることができた。

「これなんだか分かる?」

 姉貴が肉と一緒に炒められた、へんてつもないニラの茎のようなものを箸で摘んでこちらに見せてくる。

「ニラじゃないのか?」

「違うわよ。行者にんにく、わたしが取ってきたの。結構貴重なのよ」

「嘘だろ」

「当然」

 噛むとにんにくと似たような香りが口中に拡がった。

 食事を終え、リビングのパソコンの前に向かう。千反田と会う前にやらなければならない作業があった。検索した結果、4カ所に場所が絞られた。どれもそれぞれが距離的に離れていて、1つに絞る必要がありそうだ。

「姉貴、地図はあるか?」

 泣きだした赤ん坊のおむつを替え終わり、ソファに腰掛け一息ついていた姉貴に尋ねる。

「どこかで見た気がするけど、探すより書店で買った方が手間がかからないわよ」

 やることが1つ増えた。学校へ行く前に書店に寄らなければならないとなると、予定より、少し早めに家を出る必要がありそうだ。

「あら、あんた」

 姉貴が俺の傍らに立ち、パソコンのディスプレイを覗いてにんまりと意地悪い笑みを浮かべた。
「あんた……意外とやるじゃない」

「勘違いするなよ」
 気恥ずかしさから、思わず声を荒らげて頭の上に載せられた姉貴の手を払う。

「照れなくてもいいじゃない。まったく折木奉太郎も隅に置けないわね」
 額を指で弾かれた。

「まあ、このお姉さまなら……」姉貴がマウスを手に取り、検討の余地が残された1箇所にまでカーソルを動かす。「ここかな。密かに人気らしいわよ」

「姉貴の意見は聞いてない」

「つれない奴ねえ、じゃあお姉さまのオススメを」

 マウスを奪い返し、そのままパソコンをシャットダウンする。時間には早過ぎるが、この後姉貴に玩具にされるぐらいなら場所を代えた方がましだ。余った時間はどこかで潰せばいい。

「ちょっと時間には早過ぎるんじゃない?」

「人と待ち合わせがある」

「誰と会うのかしら?」

「誰だっていいだろ」

「いいじゃない教えてくれたって、お楽しみは減るもんじゃないでしょ」

 靴を履いている間も続けられる詮索に辟易としてくる。逃げるように玄関を出て、馴染みの書店の方へと足を向けた。背後から尚も姉貴の声が聞こえてくる。

「今日は帰ってこなくていいからねー! 頑張りなさいよ―!」

書店に寄り、神山市の地図を購入し、そのまま図書館へ向かった。姉貴に邪魔されなければ全て家で終わらせられたことであったのだが致し方ない。それに沈思黙考するには平日の昼下がりの図書館はうってつけだ。

 カウンターで受付を済ませ、手渡されたプレートと同じ番号札が掛かったパソコンの前に腰掛ける。先程と同じようにワードを打ち込み、その4カ所をもう一度ディスプレイに表示させた。購入してきた地図と赤のボールペンを鞄の中から取り出して、該当箇所に丸をつける。

 地図を少しの間眺めて、次に近隣の施設等などについて検索を掛けてみた。
 これによって、ピックアップした2ヶ所が除外されることとなる。丸印の上からバツ印を重ねて記入する。

 残る2箇所については、これだけではほとんど同条件といってよく、1つに絞るにはさらに情報が必要そうだ。直接確認という手段も考えたがここからでは距離があるし、2箇所とも見事に正反対の場所に位置している。

 そういえば、姉貴がさっきこの1箇所をマウスでクリックした際、建物の外観が表示されていたな。普通こういうところは内装に関しては紹介するところが多いけれど、外装はそれほどまでではない。

 もう1箇所の方は、残念ながら内装も外装もインターネット上では探し当てることができなかった。細かな差を鑑みるなら恐らくここで間違いないと思うのだが、確証を得る為には直接赴く他なさそうである。

 俺は見つけた1ヶ所の写真をプリントアウトしてもらい、図書館をあとにした。

 通りがかりのタクシーを捕まえて、場所を告げる。
 運転手が値段について注意してくれたが、心配ないと言って構わず発車してもらった。この5年真面目に働き、大きな散財もしなかった俺の懐には自慢ではないが随分と余裕があったのだ。

 タクシーは住宅地を抜け、アーケードの脇を通り過ぎ、隣県へと続いていく道路をひたすら南下した。道は整備されていたが、人目に付くような観光地もなく、山々だけが競いあうように背伸びしてひたすら連なっていた。

「対向車もあまり走ってこないんですね」
 ぼんやりと窓枠に頬杖をつきながら運転手に尋ねてみる。

「そうですねえ。みんなちょっと前に開通した自動車道の方を使いますからね」

 どこかで小耳に挟んでいたはずだったが、そういえば隣県とを繋ぐ自動車道がつい1年前ぐらいに開通したのをすっかり忘れてしまっていた。確かもう少し早く開通する予定だったが、それが年々ずれ込んでいったのだ。交通の便がよくなることから、経済効果を期待する声が多く取り沙汰された。待ちに待った念願の開通というわけである。

「それならこの道路の交通量も以前と比べて随分と減少したんでしょうね」

「ええ、こちらに家を持っているか。ほら、途中に大きな公園があるでしょ。あそこに遊びに行く家族連れが大半ですね」

「その公園に寄ってもらえますか」

「はい、もう見えてきますよ」

 運転手の言葉通り、すぐ訪れたカーブの先を50m左手に駐車場への入り口があった。傾斜の強い坂を車で登ると、不必要に広い駐車場があり、シャンパンピンクの軽自動車に黒塗りの普通乗用車、それに幼稚園のバス1台が停車していた。

「駐車場はこの場所だけですか?」

「ええ、そうですね」

「じゃあもう大丈夫です。初めにお願いした場所へ向かってください」
 運転手は怪訝そうな顔つきで、サイドブレーキを引いたばかりの車をもう一度走らせ始める。

 公園の駐車場を出て、約10分車を走らせると目的の場所に到着した。高い塀に囲まれて、建物の造りを確認するには、塀の内側へ入らなければならない。

「はい。5570円になります……はい、はいどうも」
 運転手は愛想よく口許を緩め、眼鏡のブリッジを押し上げた。

「しかし、お客さんも変な人だね。こんなところに人を運んだの、もうこの仕事始めて20年そこそこだけどお客さんが初めてだよ」

「すぐに終わるんでここで待っていてもらえますか?」

「すぐったって、お客さん。いくら早くっても1時間以上はかかるでしょ」

 運転手が帽子を被り直しながら、困ったふうの笑い声をあげる。

「5分で戻ります」

 色々と誤解があるようだが、説明するのもややこしいのでそのままにしておくことにする。

 管理者に見咎められた時に、どう弁解しようかと思い煩っていたけれど、運良くそれらしい人の姿はない。ざっと周りを見回しただけで、ここで間違いないだろうという結論に至った。せっかくプリントアウトしてきた用紙だったが、それと比較するまでもない。

 出口の方から外に出て、入り口側に停るタクシーのところまで戻った。窓をノックすると、欠伸をしていた運転手が驚いたのか、身体をビクリとさせた。呆けた顔で固まっている運転手がなかなかドアを開けないので、急かすつもりでもう一度窓をノックした。

 車内に乗り込み、とりあえず引き返すようにとだけお願いした。そのまま学校に向かうか、それとも行きつけだった喫茶店で時間を潰すか未だ決めかねている。

「しかし、驚きましたなあ」運転手がバックミラーで後部座席の様子を確認しているのがわかった。「お客さん5分どころの話しじゃありませんよ。2分ですよ! 2分」

「予定より早く終ったんで」

「予定よりって言ってもお客さん。どれだけ早業なんですか」

 頭を抱えたくなったが平然を装うように努めた。この際相手の想像に一任する。感嘆の呻きを漏らす運転手を尻目に、俺はこの後の算段を頭の中で立ててみることにする。

「それにしたってまるでサバンナの野生動物だよ。お客さんそういえば、昨日NHKで放送してたサバンナ特集を見ましたか?」

 結局、馴染みの喫茶店に5年ぶりに訪れてみることにした。
「やあ」
 以前は足繁くこの店に訪れていた俺に、マスターが気さくに片手を挙げてくれた。コーヒーの香りが馥郁としていて、昔と変らない静かな店内にゆったりと寛ぐことができそうだ。

 ブレンドコーヒーを注文し、本棚から適当に雑誌を2冊、地方新聞を昨日、本日分と抜き出して暇つぶしにざっと目を通した。

 殺人、価格カルテル、有名アイドルグループのお泊りを報じるスクープ……1つ興味を惹かれたのはあわや迷宮入りかと、関係者一同が肩を落としかけていた事件の犯人が先日逮捕されたという記事だった。

 整形に整形に整形を重ね、その数なんと23回。肌の色、いったいこの国のどこの医者が行っているのかは定かではないけれど、骨延長手術でコンプレックスだった身長も5cmほど伸ばした犯人は最早別人へと生まれ変わっていたそうだ。

 犯人は悠々自適に暮らしを送っていた。違法に稼いだ大枚で身分を買い、経済的にはどのような不自由もなかったらしい。

 ところがそんな犯人が、どうして警察に御用になったのか。それは犯人が結局すっかり元の姿に戻ってしまったからなのである。

 ある日、犯人は街なかで初恋の相手と再開する。しかし、犯人の容姿がすっかり変わっていたこともあり、相手の女性は当然それが昔日の恋人と気づくはずもなかった。

 犯人は悲観にくれた。満たされていたはずの生活が、急に物足りなくなってしまったのだ。犯人はそうして元の姿に戻る決心をする。ただ相貌を他人に変化させる為、無目的にメスを入れる手術とはわけが違い、自分自身へ戻りつくには前回の倍近くの回数メスを入れることが必要になった。

 微に入り細にわたり以前の自分を取り戻した犯人は、いよいよ初恋の恋人に再開する段となる。
彼女と離別してしまったのは、親の都合による不可抗力な転居のせいであったし、犯人はかなりの自信をもっていた。過去と現在の溝など、離れ離れになっていた二人の距離など全く問題にはならない。そんな寸毫もあてにならない確信が、どうやら伸びた5cmの身長分ほど加算されていたらしい。

 ただ、事実が示す通り、それは残念ながら犯人の淡い期待以上のなにものでもなく、犯人が親しげに元恋人に声を掛けると、元恋人は犯人の背後を指し示し、続けて犯人の鼻先に指を突きつけ素っ頓狂な声で絶叫して、引っくり返ってしまった。取り乱す犯人を、騒ぎを聞きつけやって来た警邏中の警官が手早く拘束した。
 犯人の背後の壁には、『逃げられないぞ!』という文句に、犯人の整形前写真が大きくプリントされた指名手配ポスターが3枚も並べられて貼られていた。

 記事は、初恋の恋人なる女性のインタビューの内容で締めくくられる。
『全く記憶にないですし、きっと子供の頃の患いみたいな恋愛だったんでしょう。初恋なんてそんなものですし、いつまでもそれに執着されても女性側としては困りものよ。男の人っていつもそうなんだから』

 ちょっと眉唾ものな珍しい話ではあるが、コーヒーを1杯飲み終えるまでの暇つぶしにはちょうどよかった。寓意の類が文章中に秘められていたとしても、残念だがそれを読み取る努力をする気にはこれっぽっちにもならない。

 腕時計に視線を落とした。これからゆっくり歩いていけば放課後から30分程経って、ちょうどいい塩梅に生徒も捌けているはずである。

「ごちそうさまでした」

 ブレンドコーヒー1杯分の小銭をぴったりカウンターに置いて、そのまま店を出ようとしたところマスターに慌てて呼び止められる。

「ああ、ごめんよ。実は去年から20円値上げさせてもらってるんだよ」

 神高に到着し、昨日と同じように一般来客用の受付で手続きをする。
 今日俺に応対してくれたのは、また違う用務員の男で、人の良さそうな丸っこい顔をしており、教師でもないのに小奇麗な身なりの中年男性だった。

「昨日の方は今日は休みですか?」

「篠山さんのことかな。彼ならちょうど中庭で作業をしていますよ。用があるなら呼んできましょうか?」

「いえ、そういうわけではないんです。用務員の方はあの人だけだったような記憶があったのでどうしたのかなと思って」

「そうでしたか。私と篠山さんの他にも1人いて、その人が今日は休日ですよ。昨日は私が休みでした」
 男が棚からファイルを探しながらそう答えた。

「この仕事も大変でしょうね。朝も早いだろうし、夜も遅いでしょう。だいたいいつも何時に学校に来ているんですか?」

「平日なら6時には鍵を開けるためにやって来ますね。夜も7時半ぐらいから施錠して、閉め忘れがないか、一度見回って帰ります。テスト期間中なんかだともっと早く閉められて楽なんですが。でも、気楽な職場ですよ。やることをやっていたら文句は言われませんし」

「そうですか。すみません、仕事の邪魔をしちゃって」
 男に用紙を渡し、差し出された見学者用の札を首から下げた。

「まあ、ゆっくりしてください」
 礼を述べ、靴からスリッパに履き替えてから、地学講義室に出向く前に掲示板を確認しに行く。件の紙が貼られていなければ、どう足掻いても事実を確かめることはできない。

「折木さん! ご覧になられましたか!?」

 先に地学講義室に到着していた千反田が席を立ち、待ちかねたというように俺の元へと駆けてきた。その迫力に思わず仰け反ってしまう。

「今日は2に指数は22。昨日仰ったことが事実ならこの指数は時刻を示す、つまりは22時ということになるんですよね? わたし、気になります」

 千反田の言う通り、掲示板には幸運かどうかはさて置き、噂のものと考えられる紙が貼られていた。2と22。その周りは大きな丸でしっかり囲まれていた。

「落ち着け千反田。だいたいの見当はついたし、たぶんそれを確認もできる」

「それなら!」

「ただな、それを事実確認ができるまであまり口にしたくないんだ」

「じゃあ、今すぐ確認しに行きましょう!」
 はやる千反田を制し、俺は壁に掛かった時計を見上げる。22時まで、あと約6時間はある。

「22時にならないとどうにもならない。もう少し早かった時の為に車まで用意させて申し訳ないが、どうする? 1度家に帰るか?」

 千反田は腕を組み、暫し黙考したのちに、ぽんと手を打合せた。

「それでは、よろしければ食事でもどうでしょう」

「俺は別に構わないぞ」

「じゃあ決まりですね」

 千反田が莞爾と微笑み、バックから携帯電話を取り出して自宅に連絡を入れる。俺もそれを拝借して、家にいる姉貴に夕食が必要ないことを言っておいた。

『奉太郎……姉は応援してるわよ』

「だからそういうんじゃない」

 言下に電話を切られた。実家にいる間、ことあるごとにこのことについて茶化されると思うと、次第に鬱屈としてくる。

「どうかしましたか?」

「なんでもない……食事の場所はどうする?」

「そうですねえ。折木さんは和食と洋食どちらがよろしいですか?」

「任せるよ」

「じゃあ和食にしましょうか。おすすめのお店があります」

 そう言うと、千反田が俺の手を掴み廊下へと歩き出す。

「まだ夕食には早いだろう」

 なすがままに廊下へと引っ張り出された俺を背に、千反田は地学講義室の扉に施錠を始める。

「せっかくですから」千反田がもう一度俺の手を引く。「2人で少し学校を周りましょう」

 教室では居残りの授業を受けている生徒が数人、緩い空気で教師に不平を漏らしつつ机に向かっていた。

 また、ある教室では男女数人ずつが仲睦まじくお互いの夢について語り合っている。そんな希望に満ち溢れた連中とは正反対に、廊下の片隅で女生徒が隣にいる男子生徒に別れ話を切りだされ、涙を流して失意の底に叩き落とされていた。側を通り過ぎるまでの間、一部始終を目撃していた俺はなるだけそちらに注意がいかないように努力したが、どうしたって2人を気にせずにはいられない。

「皆さん、しっかりとそれぞれの青春を謳歌しているんですね」
 千反田はそんな彼ら一人ひとりを慈しむような眼差しで見つめていた。

 一般棟と特別棟を繋ぐ吹きさらしの渡り廊下に辿り着き、手すりに持たれて一息つくことにした。
 3階に架けられたこの渡り廊下は、現在は不明であるが俺たちが神高に在学中、生徒のお気に入りの場所の1つであった。

「あの頃と同じ匂いがします」

 千反田に倣って深呼吸してみるが、そもそも俺は他人より優れて嗅覚が敏感ではないし、それほど昔に嗅いだ匂いのことなど覚えているわけもなかった。

 吹く風が俺たちを抱きしめるようにして通り抜けていく。
 千反田は手すりを掴んだ両腕に力を込め、身体を後方に傾けていた。心地よさそうに目を細め、もう一度深く深呼吸している。風に弄ばれた長い髪が大きくゆったりとなびき、甘い香りが俺の鼻をくすぐっていく。

 目を奪われていると、千反田が不意にこちらを振り向いた。きょとんとした顔つきが、次には柔和な微笑みに変わる。なんだか面映ゆくて目を逸らし、適当に頭に浮かんだ事を言ってみた。

「ここでこうするのも久しぶりだな」

「はい」

「何年ぶりだろう……10年ぶりぐらいか」

「わたしは去年ぶりです。今年は折木さんとここに来ることができて、わたしとても嬉しいです」

 千反田が乱れた髪と佇まいを整え、俺の横を通り過ぎる。

「あの折木さん」

「なんだ?」

「わたしとの約束、もう忘れてしまいましたか?」

 振り返り、やや不安そうに胸の前に合わせた手を揉む千反田がそう静かに呟く。

 頭蓋の内部をいっぱいのギアで全力駆動させてみた。けれど、以前交わした千反田との約束というものに、心当たりが一切ない。

「悪いがどういう約束だ?」
 千反田の表情に一瞬影が差す。ただ、次の瞬間には取り繕うように苦笑し、「ごめんなさい。たぶん私の勘違いです。変なこと聞いてしまってすみません」と矢継ぎ早に謝辞を述べるので、それについての話題を、これ以上追求するのは止めにしておいた。

 千反田が車を回してくるまで、玄関前で待っていることにした。どういう車種の車に乗っているのだろうと様々な想像を巡らしていたところ。

「折木先輩」
 背後にいつの間やら日向野の姿があった。

「余計なことはしない方がいいですよ」
 横に並んで、無表情に俺を見つめる瞳は別段非難しているわけでもなさそうだ。

「余計なこと?」

「もうあの紙のこと、殆ど分かってしまっているんでしょう? 誰も得をしませんよ。本当に誰も……生意気言ってすみません。それじゃあ、これで」

 日向野が校内に踵を返したちょうどそのときに、クラクションが背後で2度鳴らされた。
 まさか、あいつ……。
 振り返るとそこには想像の埒外にあったマッチョな車体が停車していた。力強いエンジン音。塗装も女性が好みそうな明るいホワイトなんかではなく、もっと無愛想で少し黒みがかっている。

「折木さん、お待たせしました」

 助手席側のウインドウが下り、千反田えるが愛想よく手を振っていた。

「千反田……すごい車に乗ってるんだな」
 虚を突かれて、言葉が上手く浮かんでこない。

「父が卒業と就職を兼ねた祝いでくれたんです」

 恐らく、これは軍用車かそういうものの類だ。運転しているのが楚々とした女性というのがミソなのだろうか。ギャップというやつなのかもしれない。

「心配性なんですよ」

「まあ、なんだ……農道を走るならいいんじゃないのか」

 本や映像なんかでしかお目にかかったことのない、いかつい内装。慣れた手つきでギアを変えてから、スムーズな走りだしを披露してみせた千反田の運転技術はかなりのものだ。察するに、技術をむりくりこの車から授けられたに違いない。

「この車なんていう車なんだ?」

「ハマーという車だそうです。もう慣れたので車自体に不満はないのですが、近所の方や親類の方から千反田・ハマー・えるなんてからかわれるのが少し嫌です」

 千反田はそう言って頬を膨らませる。里志に教えてやれば奴は抱腹絶倒して、最後には絶命してしまうことだろう。

 見事なハンドルさばきで駐車をしてみせた千反田おすすめの店とは、古式ゆかしい店構えの日本料理店だった。席はカウンターしかなく、充分なスペースを用意したカウンター内がそのまま厨房となっており、料理が出来上がるまでの過程を終始一望することができる造りとなっている。
 座っている人々は気の利いた服装の人ばかりで、どう考えても俺には敷居の高い店であるのは間違いないだろう。

 「何か食べたい物はありますか?」

 メニューを差し出されたが、作法や勝手が分からない俺は千反田に全てを任せると、調理に励む店主らしい人物の手練の技を拝見することに勤しんだ。

 厨房奥の中央辺りで火にくべられている窯の口からは、豊かな香りが蒸気とともに漏れだしていて、それは後で千反田に聞いた話では香りを視覚でも楽しんでもらいたいという店の考えらしい。 
 旬の山菜や川魚が次々に運ばれてくる。

「折木さん」と呼びかける千反田の手には陶製の徳利に盃が用意されていた。「どうぞ」

「飲酒運転は立派な犯罪だぞ」

「まあまあ、そう固いことを仰らずに」

 もちろん、当人は飲む気などさらさらないらしく、用意されている盃は1杯だけだった。

 食べ終わる頃にはいい具合に酔が回っていて、20メートルも離れていない駐車場まで、酔歩でようよう辿り着くことができた。

 千反田が酌上手だということを今の今にして思い出す。里志と2人、学生時代に何度このお嬢様にこてんぱんにされたことやら。その数は両手の指では足りないはずだ。

「大丈夫ですか折木さん?」

「心配ない。ちょっとシートに凭れてたらじきに良くなる。それより千反田、今何時だ?」

「21時10分前です」

「よし。俺の鞄に地図が入ってるから、それを取り出してそこへ向かってくれ」

 後部座席に置いた鞄を千反田が運転席から取り上げた。目的地までは千反田に任せて眠ることにしよう。

「あ、あの……折木…さん」
 閉じかけていた眼を開いて千反田の顔を見ると、なぜだか目を伏せて恥ずかしがっていた。

「あの折木さん。確か、今からあの紙についての真相を確かめに行くのですよね」

「それ以外に何があるんだ。乗り気でなくなったならいいんだぞ。俺は初めから」

 千反田が手にしていた用紙をこちらへ差し出す。図書館でプリントアウトした例の用紙だ。

「違うそれじゃない」

「あ、ごめんなさい。わたし、勘違いしてしまいました」

 もう、それほど必要もないものだったので、どこかで捨ててくればよかったと軽く後悔する。千反田が次にバックから週刊誌ほどのサイズの本を取り出したのを見届けて再び目を閉じた。

「丸印があるだろ。そこへ向かってくれ。途中に公園があるのは分かるか?」

「はい。あの大きなローラースライダーがある公園ですよね。子供の頃はよく滑りに行きました」

「あの公園の駐車場まで頼む」

「分かりました。任せて下さい」

「折木さん、折木さん!」
 身体が揺すられるたびに、軽い吐き気が込み上げてくる。

「折木さん!起きてください」

「千反田……やめろ」
 呻き声がやっと意味を成す言葉に変わったものの、気分は考えられうる中でも最低に近いものだった。

 倒していたシートから身を起こす。酒酔いと車酔が混じりあってそれだけ凶悪になっているのだろうか。とにかく一度、吐いてできる限りリセットしたい気分だ。

 車は停車していた。目的の駐車場へはちゃんと着いたらしい。
 街灯などの人工的な灯りは心許ないが、月明かりが煌々としていて辺りは薄ぼんやりとではあるが見渡せた。これも寝起きで視界に靄がかかったようになっているのが原因だろうから、すっかり目を覚ませられれば大丈夫なはずである。

「すまんが千反田近くにトイレはあるか?」

「車を出て、すぐ右手に階段がありますのでそこを下れば公衆トイレがあります。折木さん大丈夫ですか?」

「非常に不味い、が出せばマシにはなると思う」

 清掃が行き届いているとはお世辞にも言えない公衆トイレだった。ただ、背に腹は代えられない。

 吐いてしまえば、案外すっきりすることができた。夕食の値段を考慮してみれば勿体ない気がしないでもないけれど。

 自販機でペットボトルの水を買って、千反田の元へ戻る。時刻は21時30分を過ぎたところ。

 助手席に腰を下ろすと、千反田がいよいよ辛抱たまらないといった面持ちで詰め寄ってきた。大きな瞳が好奇心を湛えて爛々と輝いている。

「折木さん! もう我慢できません!! わたし、気になります!」
 もう逃げられないそうにない。

「仕方ない。ただ、まだこれが正解なのかどうかというのは分からないぞ」

「聞かせてください。どうして、折木さんはこの場所であの1件について解決できるとお考えになったのですか?」

「まず始めに、あの紙を貼ったのは誰だと思う?」

「そうですね。やはり生徒の方たちの可能性が1番高いように私には思えます」

「じゃあ、仮に生徒があの紙を貼り付けたとしよう。ただ、それではどうやって今まで誰にも見咎められず、且つ、総務委員会許可印を紙に押せたんだ」

「総務委員の方の中にその人物がいたと考えるのはどうでしょうか?」

「俺もそれは真っ先に考えたが」
 ペットボトルの水をひとくち分、口に含んでゆっくりと飲み込んだ。

「その線は薄いはずだ。そもそもいの一番に嫌疑をかけられたのが総務委員会の連中だろう。
それにこれじゃあ誰にも目撃されることなくという、もうひとつの条件をクリアできていない。
疑いをもたれた連中が、ひと目も多い昇降口前の掲示板に悟られることなく、ちょっとした話題にもなっているあの紙を貼り付けていくのは非常に困難だと俺は考える」

 千反田がハンドルに腕を載せ、押し黙って前方を凝視し続けたが、やがて呻吟するような声を漏らして降参するように両手を挙げた。

「わたしには端緒を掴むことさえできそうにありません」

「難しく考えることはない。誰にも見られないようにするには、誰もいない時にやってしまえばいいだけの話だ」

「折木さん」
 不満そうな表情で千反田が俺を睨める。

「別にからかってるわけじゃないぞ。言葉通り、学内に誰も人がいない。つまりは入り口の鍵が閉まっているときにという意味だ」

「でも、それじゃあ生徒の方は学校に入れないんじゃありませんか? それに総務委員会のハンコも」

「どうして生徒にそう拘る? 学校職員だという線は考えられないのか」
 俺はそう言って、額にペットボトルを当てた。
これは酒が抜け切らない限り万全には戻りそうもない。
 車内にこもった空気のせいもあってか、身体が妙に火照っていた。

「なるほど。そう言われてみれば、そうであることになんら不思議な点はないように思えます。職員の方ならハンコを手に入れるのも簡単でしょうね。それより今にして不思議なのが、どうしてわたしは、端から生徒の方を犯人と決めつけてしまっていたのでしょうか?」

「まあ、いいかげん27にもなると考え方に偏頗があったとしてもおかしくはないさ」

「あの数字に関してはどうお考えですか?」

「あれはな」
 俺はバッグポケットから財布を取り出し、適当に1枚紙幣を抜いて千反田の方へ差し出した。

「2000円札、珍しいですね」

「そういうことじゃない」
 あらためてもう1枚紙幣を出し直す。

「あの数字は金額だ。建物の回数ということも充分に考えられたが、そうだったらどうしてこれほど回りくどいことをする? 後ろめたいことがなければ他にも方法は沢山あるはずじゃないか」 

「そうですか」
 察しの悪い千反田でも、さすがに勘付いた様子だ。

「さっきお前が間違って取り出したあれな、市内の目ぼしいホテルを絞り込むのに使っていたんだ。連絡手段にあれほど慎重を喫していたような奴が、わざわざ自宅を行為の場所にするとは思えない」

 コンソールボックスに置いていた地図を取り上げて、丸印をつけたページを開いた。

「いいか、まずこの市街地にあるホテルだがここは絶対にありえない。人通りが多いのはもっとも嫌うことだろう。たとえ車に乗っていたとしても、通りすがりの知り合いなんかに顔を見られる可能性はあるしな」
 次に紙面に指を滑らせて、近くのホテル街の上で止める。

「ここも似たような理由だ。そういう商売が盛んなぶん、警察の目も光っているだろうしな。残されたのは2ヶ所。どちらも立地的には文句はない。市街地からだいたい20数キロぐらい離れているし、これは実際に見てみなければ判断がつかないと踏んだ。さっき見せたホテルの外観写真はインターネット上で見つけることができたんだが、この道の先にあるホテルのはどうしても探しあてることができなかった。だから昼間、お前と会う前に直接外観を確かめに行ってきた」

「確か折木さん、車の運転はされないはずじゃ」

「タクシーだ。運賃はかかったが、おかげで運転手からいい話も聞けたよ。去年頃、上の自動車道が開通して、この道の交通量もがくっと減ったらしいじゃないか」

「そう言われてみれば、この公園まで対向車も1台しかやって来ませんでしたね」

「皆、時間を短縮できるならそれに越したことはないからな。この時点でこの先のホテルの方に趨勢は傾いてきた。けど、最後の最後、まさかロビーで部屋を選ぶようなタイプだったりしたら、ここまでの旨味が全部相殺されてしまう」

 俺はホテルの外観写真が印刷された用紙を手に取り、それを千反田に見せる。

「こういうのなら合格点だ」

 画像のホテルは戸建て形式のホテルで、1つの客室に1つのガレージが隣接している。

「これなら行為の間覆いをを掛けて車体を隠せるし、なるだけ他人と顔を合わせる心配もない。そして、この先にあるホテルもこれとほぼ一緒の造りのホテルだった」

「どこか異なる点もあったということですか?」

「ああ良い方にな。今見せているホテルだと、千反田、お前がこのホテルに車で到着してチェックインするまでにはどういう手順を踏む?」

「まず車庫に車を停めます。車から降りて、車のナンバーを見られるのがちょっと恥ずかしいかもしれないので、外に出て、カーテンを閉めます。それからそのまま車庫のすぐ隣りに建てられている部屋の扉を開いて入室しますね」

「そこだ。車庫の内側に部屋へ通じる扉がない。この先のホテルなら、カーテンを閉めた車庫の内側から直接客室内へとチェックインできる造りになっている。些細なことかもしれないが、この人物からすればこういう細かなところも非常に重要な点になるはずだ」

 納得したように、千反田は何度か小さく頷く。

「それにもう1つ……まあ、これは聞き流してもいいぐらいのものなんだが」

「はい」

「そっちのホテル、密かに人気があるらしいんだ。姉貴がちらっと言っていた。もしそうなら」
「念入りな犯人は、そういう場所を選ばないと。この駐車場も、万に一つも目撃されることがないようにですね。日が暮れてから公園に遊びに来る方はきっといないでしょうから」

 次は俺が頷く番だった。

「これはあくまで仮説であるわけだし、今ここにいることが無駄足になることだって大いにありうる。それならそれで俺はいい」

「そうですね……折木さんには失礼かもしれないですが、わたしは初めて折木さんの推理が外れることを願っています」

「俺もだ」

 千反田が悲しげに微笑する。俺は寝返りを打って、運転席とは反対側の方へ身体を向けた。千反田の憂慮する顔から目を背けたかった。腕時計に視線を落として再三の確認を行う。

 21時45分。天候は良好。夜間の気温もこの1週間ではもっとも暖かい。ただ、それでも季節が季節だけにやはり肌寒くはある。
 耳を澄ましても、物音1つ聞こえない。千反田と俺だけぽつねんと、世界から置いてけぼりを食らった、そんな錯覚さえ抱かせる。絶好の密会日和と密会場所があるとするならば、それは案外こういう日と場所のことをいうのかもしれないな。

「折木さん折木さん、誰かやって来ました」

 船を漕いでいた。耳元で、押し殺した千反田の声。息がかかってこそばゆい。身体を軽く揺すられてまたぞろ吐き気が勢いを取り戻しつつある。

「女性のようですね。あれが紙に印を書き込んでいた女生徒でしょうか? あっ、車も1台駐車場に入ってきました」

 残された力を振り絞り上半身を起こした。右斜め前方に確かに女の姿がある。全体に簡素な服装で、背中をこちらに向けているから細かな印象までは掴め切れない。

 車が女の近くに駐車して、開いた運転席のドアから男が降りてきた。煙草を吸うために、ポケットから取り出したジッポーのようなものが口許に近づいていく。
 着火すると男の顔が月明かりの下でより鮮明となった。

「今日、受付にいた用務員の方ですね」

 今日勤務していた用務員2人の内の1人。思った通りだ。女は依然こちら背にしたままで表情は伺えない。男の方は親しげに身振り手振りをつけて女に話しかけていた。

 さて、どうするだろうと隣に目をやると千反田は既にシートベルトを外して扉を開けようとしていた。

「お、おい。どうする気だ?」

「止めます!」

 敢然と言い放ち、車内から飛び出した千反田は2人の方へまっしぐらに走りだした。

「待て!」

 後を追うように、俺も車外へと転げ落ちた。体制を立て直し、駆けだすと脚が縺れ、またもや地面に突っ伏してしまう。上手いこと受け身を取ったつもりだったが、地面には1cmもないような小さな石ころが散在していて、掌をいたく擦りむいてしまった。

 拳を握りしめて、痛みを紛らわせようと努めた。

「どうしてこんなことをなさるんです」

 顔を上げると、千反田が用務員の男性に詰めよりながら詰問を浴びせている。男は弁解がましく両手を身体の前で左右に振っていた。

「この子の年齢を分かっているんですか」

 二の句を継がせぬ千反田の攻め立てに業をなしたか、丸っこい大人しそうな男の顔が酷く歪んで、千反田の両肩に手を載せた。
 予期せぬ男の行動に、千反田は声を上げる間もなくバランスを崩し、そのまま力一杯に突き飛ばされて後方へ倒れこむ。

 手の痛みなど瞬時に雲散霧消して、俺はもう立ち上がり、そのままの勢いで走り始める。
そんな俺を見て、これは分が悪いと感じたのだろうか。男は1人、すぐさま車に乗り込むと、そのままエンジンを始動してこの場から走り去っていった。

「千反田、大丈夫か?」

「ええ、大丈夫です。ちょっと強く腰を打っただけですよ」

 千反田は痛そうに腰の辺りを擦っている。もう1人の女の方は別段動揺することもなく、まるで無関係ですよといわんばかりに、傍観を決めこんでいた。

「折木さん、すみません。立つのを手伝ってください」

 肩を貸して、千反田が立ち上がるのを手助けしてやる。

「さあ、帰りましょう」

 千反田が女にそう言った。わざとらしいほど明るい口調。

「お送りしますよ」

 女は何の抵抗もせずに車に乗り込んだ。神山高校の生徒か? と尋ねると黙って首を縦に振った。肝が座っているのか、開き直っているのかは定かではない。ただ、俺はもうその女生徒についてこれ以上何かができるとも思えなかったし、そういう態度にも別に文句はない。

 バックミラーで確認した限り、蒼井の言う通り。外見は至って平凡だ。
 切り揃えられて遊びのない前髪なんかは、クラスの中心で声高に意見を主張する女子高生とはいかにも縁が薄そうだが、それは俺の勝手な主観的意見なので、たぶんあてにならないだろう。

 片手でハンドルを操作する千反田が、先程から空いた手をしきりと腹部に宛がっている。

「腹が気になるのか?」

「お尻と腰を強く打ったので、そのせいだと思うんですが……少し」

「道端に停車してちょっと休憩しよう。ほら、確かもう少しでこの車線側に、自販機が置いた停車スペースがあっただろ……おい」

 俺は女生徒に呼びかけた。バックミラーを通して目が合う。

「悪いけど付き合ってもらうぞ」

「わかりました」
 女生徒が初めて言葉を発して、ほんの少しだけ顎を引いた。

「お酒、臭いですね」

 駐車場で買った水もなくなってしまったし、女生徒と2人、車の側に並んで設置されている自販機に飲み物を買いにでた。

 千反田を静かに休ませてやりたかったので、買ったお茶を千反田の元に届けるだけにしておいて、女生徒と少し離れた縁石ブロックの上に一緒に腰を下ろす。

「ここに来る前に、あの車に乗っているお姉さんに浴びるほど飲まされてな」

「ふーん」

 女生徒が両手に持った缶ジュースに口をつけて、意地悪そうに笑みを浮かべた。

「好きなんでしょ? お姉さんのこと」

「藪から棒だな」

「同い年なんですか?」

「神高時代の同級生だ」

 皮肉っぽく、値踏みするような女生徒の視線が俺の身体を上下に往復する。俺はまた自分の人を見る目のなさを嘆いた。溜息が自然と漏れる。

「どうして俺があいつに気があるなんて思ったんだ?」

「やっぱり図星なんだ」
「違う」

「否定する間が短ければ短いほど、それが嘘だと考えた方がいいってどこかの誰かが言ってましたよ」

「くだらない」

 俺はペットボトルの水を一気に飲み干そうとしてむせ返った。そんな俺の様子に、女生徒が無邪気な笑い声をあげる。

「お兄さんがそういう目で、あのお姉さんを見ていたからですよ。さっきの男が、わたしに投げる視線とそっくり」

 女生徒が空き缶を適当に放り投げて、夜空を仰いだ。俺は新しく水を買いにいくついでに缶を拾い、それをゴミ箱に捨てておいた。

「ただ、1つ違うとするなら……きっとお姉さんもお兄さんのこと好きなんだとわたしは思うな」 

 女生徒は聞こえよがしに独りごちる。

「お待たせしてすみません」

 千反田の体調はそれほど悪いものでもなかったみたいで、俺としては一安心だった。

「もう大丈夫です」

 力こぶをつくってみせる千反田を、変に意識してしまったのはきっとこいつのせいに違いない。 

 女生徒の借りてきた猫みたいな寡黙さはどこへいったのか。快活さを2年ぶりぐらいに取り戻したように千反田と会話が弾んでいた。

 学校生活、よく行く喫茶店に好みな衣服のブランド。話題は尽きる気配がない。よくまあここまで話通しでいられるものだと、俺は半ば呆れ気味だが感心させられた。

「どうしてわたしがあの公園の駐車場へいることが分かったんです?」

 窓外の街灯が、光芒を残して通り過ぎていくのを何の気なしに眺めていた俺は、突然話を振られて言葉に窮する。

「勘、偶然?……違うよね。あの時間にあの場所にいて、いきなり飛び出して止めに入って来るんだから。当然、紙のことも察しはついていたんだよね?」

「わたしじゃなくて、お兄さんが導き出してくれた答えです」

「お兄さんが? お姉さんの方は容姿端麗で学業も優秀そうだけど……うーん、パッとしないな。お兄さんは」

「そんなことありませんよ。こういうことにかけては右に出る人、わたしの知り合いには1人もいませんから」

 運転席と助手席の間から身を乗り出した女生徒が大仰に俺をためつすがめつする。

「やっぱり見えないなあ。人は見かけによらないものだね」

「折木さん。あの用務員の方が仕返しにきたりする心配はありませんか?」

 女生徒の身を案じる千反田が、不安げな眼差しで俺に問いかけた。

「それなら多分、大丈夫だろう」

「そうですよお姉さん。あの人、根がとても臆病なんです。ひょっとすれば学校にも恐ろしくて来れなくなるかもしれませんね。でも、ひょっとすると一世一代の決心で口封じに……なんてこともあるかも。そうなれば、まるで歯がたたないんだろうなあ」

 千反田が目顔で俺に本当に大丈夫なのだろうかと問いかけてくる。女生徒の発言はこの話題に関して、全てが他人ごとのように語られて、まるで信ぴょう性がない。

「もうあの紙を貼ることはないだろうし、こいつにちょっかいを掛けることもまずないだろう」

 そう言って、俺はまだ間から顔を出している女生徒の頭に軽く握った拳をぶつけた。女生徒はおどけた風に舌を出したあと、後部座席で1人笑い転げていた。

 女生徒の家は造りの旧い2階建ての集合住宅だった。
 夜中の十二時をとうに回っているというのに、どの部屋の窓からも蛍光灯の灯りが漏れだしている。子供の泣き声に、酒に酩酊しているだろう男性の胴間声、調子っぱずれの唄声がのべつまくなしに歌謡曲を唄っている。

「この辺で1番の安アパートなんだ」
 照れくさそうに鼻頭を掻いている。

「あ、おばさん。またやってる」

 視線の先にキャミソールの肩紐を右肩だけに引っ掛けた女が1人、折れたハイヒールでこけつまろびつしながら頼りない足取りで歩いていた。

 大丈夫でしょうか、と車を降りようとする千反田を女生徒が止めた。

「関わっちゃ駄目ですよお姉さん。あれ、いつもの手なんです。ああやって一晩中泥酔したフリをしてアパートの周りをぐるぐると周回する。心配して、声をかけてきた相手に因縁つけて、どうにかしてお金を搾り取ろうと手ぐすねを引いてるんです」
 女生徒がけろっとした調子でそう話す。

「ね? 分かったでしょ。わたしがいる場所って、こういうところなんです」

「だからって、自分を売るみたいな真似を正当化していい理由にはならないんじゃないか?」

「そうだよね。でも、わたしにはお金が必要なんだ。生きるため、遊ぶため? それぐらいならなんとかなるけど」

 調子っぱずれの唄声が、続いて流行りのポップソングを唄い始めた。ほとんど原型も留めていない、節をつけた叫声にしか聞こえなかったが、嫌でも耳に入るほどのヒットソングだったから、なんとか判別することができる。

「わからない? わたしは新しい未来が欲しい。過去や今にそのまま呑み込まれて、両親や隣人のような人生を送りたくない。わたしはこの大嫌いな街を離れたい。漬け込まれないように誰の手も借りず、誰も私のことを知らない土地で生きていきたい」

「1ついいですか?」
千反田がそう言いながら、後部座席の方に身を捩った。

「つらく……ありませんでしたか?」

「最初は、すぐに慣れちゃいますよ」

 千反田が女生徒の方へ手を差し出す。

「指切りです。もうこんなことをしないってわたしと約束してください。相談があるなら聞きます。だからこんなことはもう」

 女生徒が千反田の小指に自分の小指を絡める。にっこりと微笑む女生徒に、千反田も微笑みを返す。

「お姉さん、ありがとうございます。でも、お姉さんにはわたしを助けることはできないですよ。人1人を助けるって、お姉さんが想像しているより遥かに難しいことなんです。それにお姉さんは感じ的にすごく育ちが良さそうですよね。じゃあなおさら、わたしのことなんて見て見ぬフリしていた方が賢いですよ。それに、わたしお姉さんには助けられたくないかな」

 あっけからんとして言い放つと、女生徒は車から飛び出して、フロントタイヤをこれみよがしにおもいっきり蹴飛ばした。

 2階へ上る階段の前で、こちらに大きく手を振っている。千反田がウインドウを開けたのを確認した上で、大音声で叫び始める。

「お姉さん! お兄さんはお姉さんのことが好きだってさっきわたしに教えてくれましたよ! だからお姉さん、わたしなんかに構ってるより、好きな人のことを考えてあげた方がいいんじゃないかな? お姉さんもお兄さんのことが好きなんでしょ?」

 いたずらっぽく白い歯をこぼして、女生徒は階段を2段飛ばしで駆けて行った。

「元気な女性でしたね」

「ああ」

「とてもフランクでした」
「ああ、そうだな」

 女生徒を恨んだ。お互いが少し気を使って、微妙な空気が場を流れている。

「あの子、どうやってあの駐車場まで来たんでしょうね?」
「歩いてだろ。時間と体力はいるが、別に無理な話じゃない」

 車は今、折木家へと向かっていた。ベッドで横になるころには1時を回ったあたりになりそうだ。明日が土曜日ということもあってか、繁華街にはまだそれなりに人々の姿も見受けられ、皆が帰り支度を済ませて、俺たちと同様に帰路を急いでいる。

「今日あちらへ帰る予定ですか?」

「そのつもりだ」

「そうですか……折木さんはこちらへ帰るのを渋りますから、次会うのはまた数年後になりそうですね」

「省エネだよ」

「五年ぶりです。折木さんの主義を聞くのも」

 千反田が目を細める。そういえば、まだご披露していなかったな。

「やらなくてもいいことなら、やらない」

「やらなければいけないことなら手短に、ですね」

 わざとしかつめらしい顔つきで千反田がそう言った。

「でも、折木さん随分と変わられました」

「俺から見れば千反田、お前もだよ」

「どちらの方がよかったですか? その、前と今の私なら」

 俺は何の気なしに喋りだしていた。

「どちらのお前も、俺はいいと思うよ」

 口にしたあとで、後悔が襲ってきた。女生徒の言葉が頭の中で反芻する。まるでそういう意味合いの台詞に取られても不思議じゃない。

 おずおずと、千反田を視界の端に据えてその反応を伺う。返ってくる言葉はないが、はにかみ笑いが返事の代わりのように俺には思えてならなかった。
 額の辺りにしなだれたサイドの髪を、掻き上げて、耳の後ろに掛ける仕草が妙に艶っぽくて一瞬心を奪われかける。

「あの、折木さん」

「ん?」

「わたし、まだ折木さんにお話しなければならないことがあるんです。今日、もちろん家に帰って横になったあとですが、それからもう一度会うことはできませんか?」

 帰りの便の時間をはっきりと決めているわけではなかったし、断る理由も特別見当たりはしない。それに、昨日学校で千反田が俺に尋ねたこと。俺がもうすっかり忘れてしまっていた約束について気になっていないわけでもなかったのだ。はぐらかされて、それならそれでいいと考えないようにしていたけれど、ふとした拍子、頭の片隅に炙りだしのように浮かび上がってくるそのことについて思案せずにはいられない。そんな約束があったことをまた忘れてしまうまでに、きっと度々何度も懸念させられることになるのだろう。俺はそういう曖昧さを胸の内に抱えたまま、神山を去りたくはなかった。

「俺もお前に教えてほしいことがあったんだ。お前が昨日俺に聞いた約束についてのことだ」

 車が折木家の玄関先に停車した。寝静まりかえった俺の家族のことを慮って千反田は即座にエンジンを停止させる。

「わかりました。今日、そのことについてもお話しますね。ただ、約束はもう果たされているんですよ折木さん」

「そうなのか?」
 ええ、と千反田が首肯する。

「そうですね。折木さんは約束を守ってくれました。覚えてくれていなかったことはちょっと悲しかったですが、でも嬉しかったです」

 千反田が無意識だろうか? 腹部をまた手で擦っている。

「やっぱり痛むのか?」

「いえ……神経質になっているんですね、きっと。怪我をした時なんかそういう風になったりしませんか?」

「まあ、憶えがないわけでもない」

「ふふ、では折木さん。また、あの場所で待っています。おやすみなさい」

「あの場所って?」

「この2日間毎日通った、お馴染みの場所ですよ」

 だいたい察しはついていたが、一応確認はしておいた。疎通がとれていなくて、お互いに別々の場所で待ちぼうけなんてのは1番最悪だろうからな。

「おやすみ」

「おやすみなさい。折木さん。お疲れ様でした」

 玄関の扉の鍵を開ける。振り向くと、千反田が柔和に微笑んで、こちらに手を降っていた。手を振り返し、家の中に入る。

 上がりかまちに腰を下ろして一息つくと、エンジンの始動音がして、勇ましいあの巨体が千反田邸に帰りだしたことを報せてくれた。逞しいトルク音が徐々に徐々に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。あとには際立たされた静寂だけが残されて、満ち足りない心のまま、俺は先程別れたばかりの千反田について思いを馳せてみる。

 女生徒の去り際の言葉が木霊のように聞こえてきた気がした。

「お兄さんはお姉さんのことが好きなんだよ、か」

 それは正鵠を射ているようも思えたし、全くの的外れのようにも思われた。結局、俺は自分自身と真っ向から対面することを避けていて、自分がどう思っているのか、どうしたいのか、具体的にどうすればいいのかがさっぱりイメージできないのだ。

 俺は千反田とどうしたい。どうなりたい。そう問いかけてみても

『畢竟、物事はなるようにしか進まないケセラセラ』みたいな逃げ口上が出てくるばかりで、進んで能動的な行動に映ることは憚られる。

 どうしたい。どうなりたい。どうして欲しい。どうされたい。

 何度繰り返しても結果は同じだった。そうして五里霧中を彷徨っているうちに、俺はそのまま玄関で深い眠りに落ちてしまっていたのだった。

 4時間ほどぐっすりだったらしい。自室へ這々の体で進んで行き、ベッドの中へ這い込んだ。二日酔いのせいで、後頭部を何度も鈍器で殴られているようだった。

 次に目が覚めると、枕元の時計が指した時刻は昼の1時をとうに過ぎていて、俺は慌ててベッドから飛び起きる。

 リビングでは姉貴が赤ん坊をあやしている最中だった。戸棚からコップを取り出して、水道水を2杯続けて一息に飲み干した。そのまま身支度をして学校へ行こうかと考えたが、シャワーでも浴びた方がいいだろうと思い留まった。

「食卓の上にご飯置いてあるでしょ? 適当に温めて直して食べなさいだってさ」

 姉貴がこちらに目もくれずにそう言った。

「悪いけど時間がないんだ。おふくろには謝っておいてくれ」

「急がばまわれよ奉太郎。ちょっとぐらいお腹に入れておきなさい。あとお湯は抜いちゃったからシャワーで我慢しなさいね」

 姉貴の言うことなど無視して、シャワーを浴びたらすぐに出掛けるつもりでいたが、熱い湯を被っている内に意外と食欲が湧いてきた。

 椀によそった白飯と、沸かし直した味噌汁だけは姉貴が用意してくれていた。礼を述べ、腹の中に流し込んでみると、さらになんだか物足りなくて、ラップをかけられていた卵焼きと魚の煮付けにも箸をつけてしまった。

「やっぱりお腹空いてたんじゃないの」

「みたいだな」

 姉貴の言葉を軽く聞き流す。歯を磨きながら、旅行かばんの中に詰め込んできた服を吟味した。
「これ、どこの高校のことかしらね?」

 姉貴が手招きしてくるので、俺は不承不承そちらに近づいていく。机の上に開かれた新聞が置かれていて、姉貴はある小さな記事の周りを手にしていたペンで丸で囲んだ。地方面だった。

『神山市内高校職員 青少年健全育成条例違反の疑い』

 一字一句読み落とさないように目を通した。きっとあの用務員のことに違いなさそうだ。
 千反田か、と推測してみたが、恐らくそれはない。警察に連絡する素振りはみせていなかったし、あのあと家に帰って連絡したとしても、時間が時間だけに新聞の出稿最終締め切りに間に合わず、記事になるなら早くても今日の夕刊だろう。

 なるべく気取られないように尽くしたつもりだったが、察しのいい折木供恵はそんなことお見通しよとばかりに意味深な微笑を俺に投げかけてくる。

「あんた、これ何か知ってるんでしょ?」

 誤魔化し切れないのは理解していたが、徹底して知らん振りを決め込んだ。仕度を整える間、子供を抱いた姉貴につけ回される始末だったが、それにもなんとか音を上げることなく抗った。

 玄関先まで見送りに出た姉貴が俺を指さし子供に話しかける。

「ほら、叔父さん最近すっかり色気づいちゃってるわよ」

 意味を解さないはずの赤ん坊がきゃっきゃと腕をばたつかせて喜んでいた。

 道すがら、強弱をつけた雨が降りだした。途中のコンビニで傘を買ったのはいいものの、もうすっかり雨に打たれて濡れそぼってしまっている。一歩進むたびに、水をたっぷり吸い込んだスニーカーの中敷きが耳障りな音を立てた。

「あれ? 先輩、一昨日ぶりですね」

 地学講義室には古典部後輩の2人がいて、本日も古典部的活動とはなんぞやと盲滅法に盲進中らしい。

「俺たちの代は週末に部室で活動なんて、一度もしたことがなかったぞ」

「いえ、今日はもっとゆーちゃんと親交を深めようかと」

 と蒼井は言いながら、机上に置かれているボードゲームのルーレットを回した。

「折木先輩も一緒にどうですか? 人生ゲーム」

 今度の古典部的活動は、目下のところ人生ゲームに着地点を見出したようだ。

「遠慮しとく」
 俺は断りを述べて、そのまま窓側の空いた端の席に陣取った。

「えーどうしてですか。人生ゲーム好きじゃありませんか?」

「そういうわけじゃない」

「やりましょうよー」

 俺は暫く乱暴に身体を左右に揺すられ続けた。蒼井の手に握られている通貨を目算して、ゲームの進行具合を鑑みるに……おおかた負けそうだから、俺を加えて新たにゲームをやり直してしまいたいのだろう。

「千反田と待ち合わせをしてるんだ」

 蒼井が嬉々とした様子で俺の周りを行ったり来たり繰り返し、よーし、と喜色満面として声をあげた。

「ゆーちゃん続きはわたしの家でやろうよ」

「別にお前たちが帰ることないぞ」

「いえいえ、おじゃま虫は早々に退散しますよ。逢瀬をたっぷり楽しんでください。ほら! ゆーちゃん片付け!」

 どこか意気軒昂とした蒼井に指示されるまま、日向野は文句の1つもこぼさずに道具の1つ1つを丁寧に箱にしまった。スクールバッグを肩に掛けた蒼井が教室の出口で悪戯っぽい笑みを浮かべ、陽気にその場で足踏みを始める。

「ほら、競争だよ! じゃあ先輩お先に失礼します。千反田先輩にもよろしく」

 爆竹のような女だなと俺は思った。火をつけて、導火線が燃えきると途端にかしましくなるのだ。

 昨日の女生徒もどちらかといえば、蒼井に近い奴だったな。そう考えながら、手持ち無沙汰な俺は特に飲みたくもないが自販機に缶コーヒーでも買いに行くことにした。

 階段を下りていると、2階の踊り場で日向野にかち合った。

「先輩、今朝の新聞の記事は読みましたか?」

 前置きもなく、日向野が話し始める。

「あれ、僕が警察に電話したからなんです」

「そうか」

「あまり驚かないんですね?」

「色々知ってそうな口ぶりだったし、別に不思議でもないさ」

「そうですか」

 日向野が階段を下り始めたので、俺はそれを追いかけた。まるで俺が、自分の後を着いてくるのを知っていたように、日向野は背後を確認することなく喋り続ける。

「折木先輩、僕はあの先輩や用務員の方を糾弾するつもりなんて毛頭なかったんです。世間がどう非難しようと、僕はあの人たちがそれでいいなら、余計な詮索をする必要はないと結論に至りました」

「ただ、それはお前の身勝手な考えに過ぎないんじゃないか?」

「個人の自由です。折木先輩の思ってることも確かに正しいものですよ。先輩は、あの女の人がどういう家庭環境で育ったのかはご存知ですか?」

「千反田の車で家まで送ったからな……仔細には知らないが、あまり世間体が良くはなさそうだった」
 日向野は無言で頷いた。

「だから、僕は無駄にことを荒立てない方がいいと考えました。もちろん憐憫の情のようなものを感じないわけではありませんでした。でも、現実的に、高校生の僕があの人に対してなにかしてあげられることがありますか? 先輩に直接、道徳観念のまがい物みたいなのを説くことだってできたかもしれません。けど、それは先輩に対して助力になりうるんでしょうか?」

「将来的には良い影響を与えることができたかもしれないな。未成年者における人格の可塑性っていうのを聞いたことがあるか? いわば、ある年齢に達しておらず、故に凝り固まった人格形成がされていない子供は人格の矯正が可能である、というまあそういう考え方だな」

「理屈はわかりますよ、折木先輩。清らかな精神とでも呼べばいいのでしょうか。得難いものですね。けれど、それが現在のあの先輩を助けることとはどこかズレているような気が、僕にはしてならないんです。将来性とか、社会通念上真っ当な精神っていうのはある程度の生活水準に達した人々が求めるものです。あの先輩は、それを今求めているんでしょうか?」

 日向野は一呼吸置いて、足を止めた。

「方法は安易で、倫理的ではありませんでした。でも僕は口を噤むことにしたんです。他に誰かが気づくことがないままなら、それはきっと罪が存在しないのと同義だと思うようにしました。先輩が希求する未来を掴めればいい、そう望みました」

「じゃあ、どうして警察に通報なんかしたんだ?」

 そこまで諦観姿勢を貫きながら、なぜ最後の最後に女生徒の将来を奪うような真似をする必要があったのだろう。

「先輩たちが余計な首を突っ込んだからですよ。昨日、先輩たちが部室で交わしていた会話を偶然耳にしました。別に盗み聞きするつもりはなかったんですが、2人だけのところに割って入るみたいで気が引けて、先輩たちが部室から出て行くまで隠れて待っていることにしました。その時の折木先輩の語り口……この人はもう真実にすんでのところまで近づいているんだと確信させられました。だから、千反田先輩がいない間を見計らって忠告しにいったじゃありませんか。でも、先輩は素知らぬ顔で、僕の言葉に真面目に耳を貸そうとはしませんでしたね」

「ひょっとして、あの女の身を案じたのか?」

「はい。だって、そうじゃありませんか? 僕の考えすぎかもしれないですが、 臆病な人間ほど、自分の身を守るためにならどんな手段も厭わない側面があったりもします。理想とする未来のためにとった方策、それに未来を奪われてしまうとしたら……それが例え、望んでいない未来でもあんまり悲しすぎるじゃないですか?」

 日向野が階下から俺を見上げる。冷静を装いつつも、薄い唇が強くしっかりと一文字に結ばれている。
「一見、歪に見えようと、それは案外器用に均衡を保っていたりするものなんです。薬が毒に成り、毒が薬に成るとも言うでしょう」

 日向野がポケットから地学講義室の鍵を抜き出して、俺に突きつける。一方的に別れの言葉を並べて、そのまま再び階段を下り始めた。

 子供の理屈だと一笑に付すこともできたかもしれないが、そういう気も起きない。

 俺はただじっと奴の後ろ姿を見送っていた。階段の角を曲がって、見えなくなってもなお、俺は暫く立ち尽くしたままだった。

 鏝でセメントを塗りこんだような曇天だった。ぼってりとした雨雲が吐き出すように雨を降らせている。

 千反田はなかなか現れない。突然の降雨に仕事の予定が前倒しになったのかもしれないし、あるいはもっと些末な雑務に追われているのかもしれない。

 あいつが待ち合わせに遅れるなんて珍しいと考えたりしたが、よくよく思えば互いに時間を指定してなどいなかった。

 それにしたって電話くらいとも次いで腹を立てかけたが、それもこれも俺が携帯を忘れてきたからで、どのみち発信されたところで受け答えようがない。

 ただ、不思議と千反田が来ないとは思えなかった。時間がどれだけ経過しようと、必ずやって来る。

 根拠を示せといわれれば、言葉に窮する。少し考えた末にこれが信頼というものだと思い至った。あやふやで裏付けのないものを信じ続けるには、きっとこの信頼というものが肝心要となってくるに違いないだろう。

 自販機とトイレに用を足しに向かうぐらいしか、俺は部室を空けることはなかった。すれ違いの心配はほとんどありえないだろうが、どうせなら、今日ぐらいは千反田をこの部屋で迎えてやる側になりたかったのだ。

 空き缶が机の上に2本並んでいて、俺はちょうど3本目を新たにその中に加えた。

 時間がどこまでもどこまでも平らに引き伸ばされているのではないかと思われて、しつこいぐらいに壁掛け時計や腕時計を確認してみるものの、ただ時間に弄ばれるだけに過ぎなかった。

 5分が20分に感じられ、30分は1時間以上にも感じられた。秒針の音に合わせて、指の腹で机をコツコツと叩いてみる。寸毫気が晴れはしたものの、今度はその音に焦燥する始末だったので、すぐに止めておくことにした。

 2時間と少しが経過した頃、ノックの音がして部室の戸が開かれた。クリーム色のワンピースの上に、グレーのカーディガンを羽織った千反田が丁寧な所作で戸を閉める。

 待ちくたびれた疲労が全身に瀰漫していったが、それよりも何よりも大きいのは安堵感の方だった。

「お待たせしてすみません」

 千反田が頭を下げると、シュシュで一纏めにした髪が馬の尾のようにぴょんと跳ねた。

「それほど待ってないさ」

「嘘が下手ですよ」

 机の上にある空き缶を指さして、千反田がくすりと笑う。

「思いがけず用事が長引いてしまいました。一応、折木さんの家の方には電話を入れさせてもらったんですけど、もう折木さんが家を出られたあとで」

「新聞の記事は読んだか?」

「ええ、今朝……あの女の子は大丈夫なんでしょうか」

「わからん」

 俺は一度立ち上がり、伸びや屈伸をしてまた座り直した。

「わたし、昨日あのあと布団の中でなかなか寝つけませんでした。あの子に、わたしは個人的に何かしてあげられることはないのかと、ずっと考えていました」

「何かいい案があったのか?」

 千反田は頭を振った。

「あの子の言う通りなのかもしれませんね。分かっているつもりではありました。でも、その実全然何も分かっていませんでした。今のわたしにはあの子を助けることはできないんでしょうね」

「もう1人あの紙の意味を知っている奴がいたんだ。今日、そいつに言われた。余計なことだったって、俺たちのしたことは。関わり合いにならなければ、あの子は望んだものを手に入れていたかもしれない」

「いえ、それは違いますよ。折木さん。わたしたちがあの子を止めたことは間違いじゃないはずです」

「俺もそう思う」

「はい。だからわたし、もう少し考えてみようと思います。わたし個人として、この街の大人の1人としてあの子に何かしてあげられることはないのか。きっと近からずも遠からず、こんなわたしにだって、あの子にしてあげられることがいずれ見えてくると思うんです」

「俺も何か思いついたら、お前に報せるようにするよ」

「折木さんが知恵を絞ってくれるなら百人力です」

 千反田はそう言いながら立ち上がり、窓際へ近づいた。憂いた横顔がそっと呟く。

「雨、だいぶ弱くなってきましたね」

「千反田、そろそろ約束について聞いていいか?」

 ええ、と千反田は遠くの景色を見据えたまま話し始める。

「高校3年生、卒業式の日でした」

 過去の記憶を掘り起こそうと試みる。まず脳裏に浮かんだのは卒業生の胸に止められたコサージュだった。色褪せた思い出に色彩が徐々に取り戻されていく。

 卒業式自体は非常に退屈だった。初めの内には噛み殺していた欠伸も、式も後半に差し掛かるとやたらめったら好き勝手放題になっていた。

 しゃちほこばっている式壇を見つめる者、気楽そうに式自体を楽しんでいる者、目の下に涙を溜めて、泣きだしそうなのを必至に堪えている者。主役の生徒たちの様子も様々で前者が千反田、後者が伊原、そしてもちろん卒業式まで純粋に楽しみ尽くそうとしている組に里志は属していた。

 式が終了すると、俺たちはそれぞれのクラスにて、担当してくれた教諭に改めて祝の言葉とこれからの人生へのエールを頂いた。

 三年の主任は妙に三本締めが好きな人で、もちろんそんな人物がこれほど絶好な三本締め日和を見逃すはずはなかった。号泣する主任のお手を拝借の大音声、感極まった数人の生徒たちによる、慟哭の合いの手を合図に手を打ち鳴らし、俺たちのクラスは解散することとなった。
どういう状況だと気後れして、鼻白んだのをなんとなく思い出す。

「福ちゃーん」
 と周りに遠慮することなく、伊原が里志にしがみつく。

 俺は式と三本締めのくだりでほとほと疲れてはいたものの、別にその光景に悪い気はしなかった。学年公認のカップルということもあってか、2人に水を指すような無粋な輩もいなかったし、何より照れくさそうに頭を掻く里志を見るのが愉快そのものだったのだ。

 千反田が不意に俺の袖を掴んで、そのまま歩き始めた。どこへ連れて行くのかと再三尋ねてみたものの、そのつどこちらを振り向いて笑顔ではぐらかすばかりだった。

 特別棟へ伸びる渡り廊下へ差し掛かり、目的地は1つしかないことに俺は思い至る。

「素晴らしい卒業式でしたね。そう思いませんか? 折木さん」
「退屈だった」

 千反田は持ち帰るのを忘れていたのだろう、茶請けを載せるために使っていた臙脂色の盆を鞄にしまい込みながら顔をほころばせた。

「伊原さんと福部さん、いいですね。相思相愛。きっとこのままずっと末永くお幸せになるんでしょうね」

「最近は離職率なんかも高いらしいからな。わからないぞ」

「もう、すぐに折木さんはそういうことを仰るんですから」

 覚えている限り、こういう愚にもつかない冗談を口にしたような気がする。

「お二人に、部室でお待ちしていると伝えた方が良かったでしょうか?」

「それぐらい言わなくても分かるだろ。それより、本当にいいのか? 卒業式も終ったばっかりだっていうのに家へお邪魔して。断りづらいなら俺が代わりに」

「いいえ、折木さん。わたしが皆さんともっと一緒にいたいんです。父も母も歓迎してくれてますので気軽にいらっしゃってください」

「ならいいんだが」

 手遊びに卒業証書の収められた丸筒を机の上で転がしたりしながら、俺は肩を竦ませてみせる。
「わたし、神山高校に入学してよかったです」

「また唐突だな」
「折木さんは大学を卒業したらどうするおつもりですか?」

 定かではないが、俺はこう言いたかったのかもしれない。経営的戦略眼についての学問を修めてここに戻ってくるよ。

「わからないな。ここに戻ってくるもよし、そのままあちらで職を探すのもよし。こんな時世だし、縁もゆかりもない土地に行くことだってあるかもしれない」

「そうですか」

 千反田はどこか物悲しげな顔つきで、おもむろに席を立ち上がった。

「ええ……そうですね。先のことなんて、誰にも予測できないですもんね」

「千反田お前はどうするんだ?」

「わたしはここに帰ってきます。前にもお話しましたが、わたしの終着点はここなんです」

 窓際に移動した千反田が、こちらを見ずに静かにそう言った。

「なあ、お前は本当にそれでいいのか?」

「折木さん。そんなことより、わたしたち大学生になるんですよ。目一杯楽しみましょう」

 話を逸らされて釈然としなかったが、これ以上そのことについてしつこく聞く気にはなれなかった。

「それに! 折木さん……」

 やにわに振り返った千反田だったが、その勢いとは反対に言葉の方は尻すぼみになっていく。伏し目がちで、口を開きかけて閉じてを繰り返す。身体の前で組まれた指先が忙しく動かされていた。

意を決したように、千反田は表情を引き締めて言葉を発す。両手が左右のスカートの裾を皺になりそうなほど強く握りしめている。

「わたし、待っていますよ。わたしが折木さんと出会ったあの日にこの場所で」
「ホータロー! 千反田さん! やっと見つけたよ」
 見計らったように、里志が威勢よく扉を開けた。

「ちーちゃんお待たせ。折木、あんたここで待ってるなら言っときなさいよ。随分探したんだから」

「思い出して頂けましたか?」

 大学入学当初は、その時の情景が頭の中に浮かんできて、千反田の言葉の意味を吟味してみることもあった。
 けれど、それも時が経つごとに塵芥のような記憶と別け隔てなく撹拌され、見分けがつかない混交としたものに変化してしまい、ふと振り返って見ても、背後には暗く淀んだ望洋たる湖が広がっているだけだった。

 深い場所に沈み込んでいたその記憶を千反田が掬い上げた。露わになった記憶の周りにまとわりついた澱を、千反田が丁寧に剥がしていく。

「お前は待ってくれていたのか?」

「はい、ずっと」

「いつからだ」

「大学を卒業して、この街に帰って来てから……ずっと」

 5年もの間、千反田は待ち続けていたというのだ。それほどの年月、倦むことなく俺がここに帰ってくるのをひたすらに。俺はそんな約束など、すっかり忘れ去っていたというのに。

「どうして……そんな」

「酷いですよ。折木さん」

 心にもなく、咄嗟に口をついて出た言葉だった。分かりきっているというのに。この期に及んで、まだ俺は足踏みを続けている。

「でも、本当に酷いのはわたしです。わたしは折木さんに伝えなければならないことがあるんです」

「電話やメールを送ってくれればよかったのに」

「折木さんに直接お話ししなければなりませんでした」

 別れ際、相手に手向ける惜別の笑み。

「折木さん。わたし、もうすぐ結婚するんです」

 頭の中が真っ白になった。小説などではこういった時に思考が停止する人物の様子が多く描かれてきたわけだが、それはずっとありえないことだと思っていた。
 月並みな表現でお茶を濁している。そういう風に小馬鹿にしていたところが少なからず俺にもあったわけだが、それは概ね的外れでないことを思い知らされる。

 指の隙間から砂が流れ落ちるような喪失感。どうして俺はこれほどまでの喪失感味わっているのだろう。

「2日前に伝えなければならないことだったんです。それからも幾度か機会はありました。でも、実際に言葉にしようとすると、途端に気持ちが挫けてしまって……ごめんなさい。全部わたしの勝手な言い訳ばかりですね」

「相手は誰なんだ」

「同業の先輩にあたる方です。2年前に知り合って、食事に誘われたりする内に交際を申し込まれました。素敵な人ですよ。優しいし、周りに気配りがきちんとできる方です」

 昨夜、帰りの車の中でしきりに腹部を気にする千反田の様子が思い出された。

「先に謝っておく。見当外れだったらすまない。千反田、妊娠してるんだよな」

 少し気恥ずかしげに、視線を背けた千反田が頷く。

「もうすぐ三ヶ月になります」

「大丈夫だったのか?」

「ええ。今後こういうことがないようにと、入須さんに強く念を押されました」

 座りっぱなしだったからか、席を立ちかけて軽くよろめいた。机に手をつき、体勢を整える。
千反田の側へ行くまでに、気の利いた台詞でもとあれこれと考えてみるものの、まるで掛ける言葉が見当たらない。
 千反田との距離は僅かだが、どうしてだか進んでも進んでもその距離は縮まらず、それは俺がじりじりと後退っているからに他ならなかった。

「折木さん。こちらへ来てください」

 千反田が俺に向けて手を差し出した。そこで俺はやっと足を止めて、もう一度ゆっくりと前進を始める。蹌踉として、それでも着実に千反田の元へと近づいていく。

「おめでとう」

 千反田の眼前で、やっと絞り出せたのはありきたりな祝いの言葉。千反田が俺の右手を両手で包み込み、自分の元へと引き寄せる。

「ありがとうございます。折木さん」

 徐々に徐々に、俺の手を包む両手に力が込められていく。

「ごめんなさい」

「最後に1つ聞いていいか?」

 克明になった記憶は、それに付随する種々の記憶をも芋づる式に掘り起こしてしまっていた。その中の1つに、俺はどうしても確かめておきたいことを見出す。

「高校1年の夏に、俺が市民プールで監視員のアルバイトをしていたことを憶えてるか」

「もちろんです」

「あの時、お前は俺のことを特別だって言ってくれたよな? 今でも……俺はお前にとって特別なんだろうか?」

 千反田の瞳に涙が浮かぶ。それはすぐに一筋、二筋と頬を伝い、顎先から粒になって落ちた。涙の粒が2人の手の表面で跳ねて、染みを作る。

「特別ですよ。折木さん……折木奉太郎さんはわたしの中ですごく特別な人です」
 泣き笑い、顔をくしゃくしゃにした千反田の声は震えている。

「ありがとう」
 俺の手をそっと離した千反田は、両手で顔を覆い声を上げて泣き始めた。

 小雨がまだ降っていて、俺と千反田は1本の傘の下、並んで校庭を歩いた。
 身重の千反田を雨に晒してはいけないと必要以上に傘を傾けた結果、俺の半身はまたもや雨ざらしになってしまう。肌に張り付くシャツの感触が酷く心地悪い。どこかでこんなこともあったなと、俺は生き雛祭りの傘持ちを務めたことを思い出した。10年経っても傘差し役とはなんとも不思議な心境である。

 正門の前には白バンが停まっていた。社用だろうか? 車体側面に貼られていた社名のカッティングシートは擦れていて判読しかねる。

 門扉の横には傘を差した偉丈夫が彫像のように佇んでいた。身長は俺よりも随分と高く、腕っ節も頼もしそうだ。肌が焼かれているのはきっと職業柄だろう。男のいかめしい一礼に、釣られて腰を折らされた。

「質実剛健そうな人だな」

「ああ見えて、実はユーモアを解する方なんですよ」

 男が駆け寄って来る。足を蹴りだすたびに、ズボンに泥が散っているが気にする様子はない。男が千反田に視線を向け相好を崩す。あまりに素直な笑顔を見せるので俺は少し驚かされた。

「行こうか。用は済んだのかい?」
 男がそう言うのを合図にしていたのか、千反田がそっと俺の差していた傘から外に出て、男の傘の下へ潜り込む。

「折木さん……子供が生まれたら、また会いに来てやってくださいね」

「ああ、そうだな」

「さようなら……元気で折木さん」

「さようなら千反田」

 男が千反田を気遣うように、その柳腰にそっと手を添える。俺にはそれが見せつけているように感じ取られたし、実際その通りなのかもしれない。男にとって俺は、自分の妻をかどわかす不埒な輩以外の何者でもないはずなのだ。

 ただ、そんな男の行動によって1つはっきりとしたことがあった。

 俺が本当はどうしたかったのか、千反田とどうなりたかったのか。まるで男がお手本を示してくれているみたいだ。

 2人が乗った白バンが走り出すまで、俺は釘付けにされたみたいに身動きできなかった。

 ↑付け足し忘れました

 男が千反田を気遣うように、その柳腰にそっと手を添える。俺にはそれが見せつけているようにも感じ取られたし、実際その通りなのかもしれない。男にとって俺は、自分の妻をかどわかす不埒な輩以外の何者でもないはずなのだ。

 ただ、そんな男の行動によって1つはっきりとしたことがあった。
 
 俺が本当はどうしたかったのか、千反田とどうなりたかったのか。まるで男がお手本を示してくれているみたいだ。

 2人が乗った白バンが走り出すまで、俺は釘付けにされたみたいに身動きできなかった。

 もう千反田はいなくなってしまった。あとは鍵を返して、帰るだったけれど、俺はその前にもう少しだけ校内を見て回りたい気持ちになっていた。

 似合いもせず感傷的になっているのかと問われれば、そうなのかもしれない。千反田と並んで歩いた足跡が、泥濘んだ校庭の地面にしっかりと残されていた。それを辿るように、俺は校舎の方へと引き返し始める。

 一般棟を1階から4階まで、そうしてまた特別塔へと歩を進める。

「事件です! 折木さん」

 廊下の曲がり角から、今にも千反田が俺を捕まえようと飛び出してきそうだったが、それはもう過ぎ去った過去話だった。

「あれ? 折木さん。福部さんなら図書室へ行くと仰ってましたよ」

 彷徨する俺の背に、そう千反田が声を掛けてくれるのではないかと期待したが
それもやはり通り過ぎた思い出の一部に他ならない。

 記憶に縋りたい一心で俺は歩き続ける。呼び起こされた思い出たちが、校舎に残る千反田の面影をより一層引き立たせていく。乾いた笑いが唇の隙間から自然と漏れてきた。

 地学講義室が目の前に迫る。ありえないことだとは承知していながら、ひょっとして千反田が窓際に佇んで、俺を待っていてくれているのではと仄かに胸が高鳴る。

「こんにちは。あなたって古典部だったんですか、折木さん」

 聞き慣れた声が、耳に届いてきたような気がしたが、部室にはもちろん人の姿はない。

「わかりませんか。千反田です。千反田える、です」
 あの日の記憶が無人の教室に重なっていく。

「折木さん。わたし、もうすぐ結婚するんです」

「特別ですよ。折木さん……折木奉太郎さんはわたしの中ですごく特別な人です」

 俺はこれからも千反田を思い出求め続けることだろう。

 出会い、喪失、その2つを交互に繰り返す。在ったかもしれない未来を夢想することもなく、出会いと喪失を際限なく何度だって繰り返す。

 過去に抱かれて、思い出を抱きしめて、これからも2人だけの出会いと喪失を。

終わりです。
読んでくれた方がいたらありがとうございました。
読み返すと駄文、脱字、誤字等が酷く。
おまけに煩わしさから改行なども諦めました。すみません

面白かった もっと氷菓ss増えねぇかな…

 ↑また脱字でしたごめんなさい。

 俺はこれからも千反田を思い出し、求め続けることだろう。

 出会い、喪失、その2つを交互に繰り返す。在ったかもしれない未来を夢想することもなく、出会いと喪失を際限なく何度だって繰り返す。

 過去に抱かれて、思い出を抱きしめて、これからも2人だけの出会いと喪失を。

>>198 長い自己満に時間割いて頂いて本当にありがとうございました。

次はえると奉太郎が結ばれることを祈ってる


面白かったよ
原作でもこういうエンドになりそうで怖い


本当にこの二人がこうなるとしたら間違いなくほうたるが悪いよなぁ
原作ではもうちょっと勇気だしてほしい

どこぞの汚い折木もそうだけど、難聴系主人公よりも攻略難しそうなんだよな。

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