モバP「鳩」 (15)
「ぽっぽっぽー、はーとぽっぽー、まーめがほしいかそーらやーるぞー」
日々生活する中で時折、きっかけは何だったのだろうと考えることがある。
幼少時からのものぐさで夢見がちな性格が災いし、大学を出るまでろくに自分と向き合う事なく
生きてきた。それはそれで気楽でハッピーだったし、周りの連中も同じように危機感の無いアホだらけ
のように思っていたのだが、そんな奴らも3年の終わりくらいからやれ説明会だ資格だSPI講座だなどと
そわそわし始めて、俺もここらで一発、奮起しなければいかんなあと思った。思ったのだがいざ現実に
ダイレクトに向き合うとなるとそれはそれできついものがあり、結局俺は周囲の、今まで自分と同じ
もしくは下のランクだと思っていた連中が、次々と社会への切符を手にしていく様を指をくわえて見て
いたのである。その時の俺の表情はむしろ安らかで、おそらくは今、隣で歌う彼女のよう。
どうにか大学を出たものの、親から仕送りを打ち切られて馴染みの女の部屋に転がり込むと、さすがに
大卒のヒモくずれという身分が耐え難くなり、結果、実家の塗装屋を継いだ友人の世話となった。正直
妙なプライドが邪魔をして、今までこうした職人の世界といったものを小馬鹿にしていたのだが、やって
みると意外と楽しく、むかつく事も多々あるがたまの休日にこうして公園で一杯やるくらいの余裕は
出来た。見習いで安いとはいえ、日給制だから出勤したその日に金が貰えたし、現物相手の仕事で
自分の腕の上達する様が目に見えて分かる所にもやりがいを感じていた。これだよ。これが人生だ。
今朝布団の中でふと、鳩は焼き鳥を食うのかしら?という疑問が沸いてそのまま。ついでに一人酒でも
ってんで近所のスーパーマーケットまで歩いてカップ酒、缶入りハイボールと乾き物を適当に購入。
駐車場の片隅で煙をぶんぶんに吐き出している屋台でたれ塩合わせて都合1,000円分の焼き鳥を
見繕ってもらうと、以前家主の女と「花見でもしようか」なんて話題にした事もある、無闇にだだっ広い
公園に足を向けた。そういえば結局、花見の話は立ち消えになったな、なんて思いながら。
2つ並んだベンチの一番左に腰掛け、初夏の日差しで温くなったハイボールを一口飲むと、俺は早速
実験を断念した。
既に俺の周りを鳩が取り囲んでいたからである。
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鳩が焼き鳥を食うというのはいわば人が猿を食うようなもので、いくらアホな鳥類とはいえやはり自分に
近い種の生物を食うのは躊躇うのではないか、という考えのもと実験を試みた、というか試みてみよう
と思っていたのであるが、公園に足を踏み入れた直後から1羽、広場を横切ろうとして3羽、ベンチを
見つけて8羽くらい、見る間に鳩はその数を増やし、俺に対する包囲網を完成させた。
手にぶら下げたポリ袋か、そこから立ち上る焼き鳥の臭いか、あるいは俺自身のだらけきった風貌から
醸し出される駄目なオーラのいずれかは分からないが、鳩にとって俺は「飯をくれる人」としてカテゴライズ
されるに足る要件を満たしており、そうなると基本的に食うことしか頭にない鳩のこと、「この人はいつ
飯をくれるのかな」という事しかもはや頭になく、俺がこいつらを目の前に食い物をうまうま全部平らげ
たり、実はピジョンハンターで集まった鳩を何か不思議な道具をもって一網打尽にする、などといった
リスクについては考えもしない。
つまるところ今回の実験の争点となっていた「鳩は鳥を食うのに躊躇するか」なんぞということはこいつら
の前では本当に些細な問題で、食わなきゃ死ぬだけのこと。何事も取りあえずは腹を満たしてからと
いう訳で、先に上げたリスクに関しては、まあ野生の勘に任せる。ボーントゥビーワイルド。
潔い、と言えば聞こえは良いが、おそらく鳩どもは俺が投げるものは焼き鳥であれ何であれとりあえず
食うだろうということが予想できてしまうと何だか面白くない。やってみたら食わないなんてこともある
かも知れないが、だからと言って何だというのか。だんだん思考がダウナーになってきて、野生で堂々
生きてる鳩を、焼き鳥を食うかどうかなんて人間的な考えで馬鹿にしようとした事への後悔。日も高い
内から公園で酒を呷る俺と比べ、異様にヴィヴィッドな色合いの服を着てあちこちをほたほた走る
健康志向ランナーに対する僻み。人生。なんだか色々なことが嫌になって、つまみも食わずに流し込んで
いたハイボールが空しくなる頃、
「鳩になりてぇなあ」
と一言、つぶやいた。鳩、いいねぇ鳩。やれ健康だヒアルロン酸だなどとのたまってあくせくしている
人間とは違う。生きるか死ぬかの究極のギャンブルに日々その身を投じて、食い物を恵んでもらっても
胸を張る。鳩胸を。ナチュラルボーン鳩胸。いいねぇ。
そんな事を考えていたら少し元気が出たので、俺は買ってきたつまみの中から柿ピーを取り出すと、
自殺した戦場カメラマンの作品、紛争地で死に掛けている少女と、少女の死を待っているハゲタカ、
みたいな構図で俺を見ている鳩たちに、鳩の皆に分け与えた。皆は喜んで柿ピーを食らい、俺も
喜んでそれをうち眺めたが、その内にある問題が目に付くと、そこから湧き上がった苦悩が俺の胸を
内側から圧迫した。苦しみの鳩胸。
一口に鳩といっても良く見ると十人十色ならぬ十鳩十色で、でかいの小さいのから色の黒いの、マフラー
を巻いたように首の周りだけ白いの、果ては全身白いのまで様々である。柿ピーを与えながら俺は、
鳩にも色々いるんだねぇ、皆違って皆いい!などと思っていたのだが、密かに権兵衛と名付けたでかくて
黒いやつが、小さくて白いやつ、すなわち凛太郎を苛めだしたのである。凛太郎は俺が公園に入って
すぐに後を付いてきた鳩で、その上品な見た目と控えめな立ち振る舞いからしておそらく高貴の生まれ
である事はまず間違い無いのだが、いかんせんワイルドさに欠け、鳩の群れの中でも孤立しがちで
あった。それに対し権兵衛は卑しい家柄の出でありながら嘴っ節ひとつで成り上がってきた豪傑で、つい
3日前にそれまで群れをまとめていた喜十郎(故鳩)を倒すと、そのまま群れの頭目の座に着いた。と
思われる。おそらく。
群れのボスとして力を誇示したいのか、あるいは自身のコンプレックスを凛太郎の生まれ持った高貴さが
刺激するためか、権兵衛は凛太郎を目の敵にし、ことあるごとに蹴ったりつついたり、食い物を奪ったり
した。そんな場面を目の当たりにした俺は凛太郎に哀れを催し、群れから少し離れて一羽佇む凛太郎の
方へ、他の仲間や権兵衛から見えないようにピーナッツを投げたりしていたのだが、どうにもタイミング
が合わず、弾いたピーナッツが凛太郎の方へ向かうのをいち早く察知した権兵衛がすぐに飛んで行き、
ひるんだ隙を突いてピーナッツを奪い、ついでに凛太郎を蹴った。俺は激怒した。
つまりこいつは権兵衛は、食い物が欲しいだけでなく目下の宿敵である凛太郎も排除したいのである。
しかし怒った俺に出来ることといったら、「こら権兵衛、凛太郎を苛めてはいけませんよ。生きとし生ける
ものは皆、哀れで尊いのです。喜びも悲しみも全て分かち合いなさい」と言うくらいで、弘法大師ならまだ
しも、ヒモくずれの俺の説教を鳩が聞くはずもなく、結局は権兵衛グループ、凛太郎にそれぞれ8:2くらい
の割合で食い物を放るくらいしかできなかった。
そんな事を繰り返すうち、凛太郎と俺の間には奇妙な連帯感が芽生えた。権兵衛には一つだけ、食い物
を目にするとわき目も振らず突っ込むという弱点があった。俺は柿ピーを握る手の、親指と人差し指の
間にピーナッツを1つだけ隠し持つと、権兵衛目掛けて柿ピーをばら撒くと同時に、曲げた人差し指と
親指の反発をもってしてピーナッツを凛太郎目掛けて射出した。食い物の山を目の前にした権兵衛は
隙あらばおこぼれに預かろう、もっと言うとどさくさに紛れて群れの序列を無視して食ってやろうという
他の鳩への牽制と、苦労した小鳩時代に夢にまで見た腹いっぱいの幸せに目がくらみ、凛太郎のいる
あさっての方向に飛んでいったピーナッツが1つだけあるなどとは露ほども思わず、一心不乱に食った。
凛太郎も食っていた。しばらくそんなことを繰り返すうち、満足したのか食いかけのピーナッツを残し、
凛太郎は去っていった。俺も満足した。
権兵衛も群れの皆も満足したようで、あちこちにばらけて毛づくろいをするもの、女の子を追いかけるもの、
眠そうに目を細める権兵衛なぞを眺めつつ、俺はするめを肴にカップ酒を飲んでいた。やはり鳩は平和の
象徴だったのだ。だって今、俺は鳩の群れの中、こんなにも満たされている。
何気なく広場を見やると凛太郎がいた。雲ひとつない空の下で食後の運動だろうか、ゆったりと芝生を
踏みしめて歩く彼の風格はまさに王族のそれで、でも体が小さくでよちよちした感じがかわいらしくもあり、
俺はそんなことにも満たされた平和を感じていた。
凛太郎の後ろから、一人の女が現れるまでは。
おそろしく肌の白い女で、年齢は20くらいだろうか、ひと目みただけでは体の線が分からないような黒い
ふわふわした服を着て、色素の薄さゆえか灰色に近い髪は、細い顎を包むようにごく緩やかな曲線を
描き、その毛先は肩に触れないぎりぎりの位置を探るかのように、あるかなしかの微風に揺れていた。
女は凛太郎の後方2メートルの距離を正確に保ちながらよちよちついて歩き、凛太郎もそれを知ってか
やや困惑しつつも、女に危害を加えてくる様子がないので飛んで逃げるという選択肢もかえって踏ん切り
がつかないらしく、ただ広場をうろうろしていた。女はどこまでもついていった。俺は見ていた。
時間にして約15分、広場を3往復もした頃だろうか、凛太郎は小腹が空いたのか真っ直ぐに俺の方へ
歩いてきた。既に権兵衛その他の鳩の群れも俺の焼き鳥を物欲しそうな目で見ており、俺もまあ焼き鳥
は止めとくかとミックスナッツの袋に手を伸ばした頃であった。こちら目掛けて歩いてくる凛太郎の後方
2メートルにはやはり、先ほどの女が飽きもせずついてきており、これってどうなるんだろうと思いながら
俺は、でも俺にできる事をやらなければと変な義務感に心をざわつかせながら、権兵衛その他にナッツを
与えていた。すまねぇ、凛太郎。その女はお前が何とかしてくれ。なんて事を思いながら。
でも駄目だった。女に対する警戒心が薄らいだ凛太郎は、逆にこの女を使って群れに対する復讐を
遂げようとでも考えたのであろうか、ガリヴァーを従えたリリパット国の皇帝よろしく、わざと(少なくとも
俺はそう感じた)ゆっくりと俺と鳩の群れに向かって歩を進め、凛太郎とその後ろにいる女に気付いた
権兵衛たちが俺から離れると、視線を落とし、うつむき加減になっている俺の視界の中央に凜として
立った。俺は内心で女に対しての態度を決めると、言った。
「やあ、凛太郎じゃないか。お前もナッツが欲しいのか?さあさ、たんとお上がり」
黙殺である。よくメディアで東京は冷たい街だなどと散々にこき下ろしているが、それは真実であって
真実ではない。ひしゃげた饅頭のような形の大都市東京にはあまりにも人が多すぎ、皆がみんな各々の
信条や習慣に則って生活しているがために、赤の他人一人ひとりの生活に入り込んでまでその心情を
理解しようという余裕が無いのである。自分には自分の、相手には相手の思うところがあり、それらは
各々の信条に従って処理されている、というのがまず大前提であり、そこに過度に干渉していくことは
無粋であり無遠慮と見なされる。なるようになる。そこに善意も悪意もない。けだし合理的といえる。
翻って今回のケースをまとめると、この女は何らかの理由で凛太郎に興味をもち、彼女なりの理由で
後をついて歩いていた。ところが凛太郎には既に俺に食い物を貰うという確立されたスケジュールが
あったため、結果、女の好奇心を満足させるための追跡と凛太郎の予定がぶつかった訳である。しかも
凛太郎は自然界で虫や木の実を探すのではなく、一人の人間、つまり俺からの供給をあてにしていた。
それは凛太郎を追跡していた女にとって全く新しい要素として俺の存在が示されることを意味しており、
俺が凛太郎と同じく鳩やなにか人間以外の別の種族であればまだしも、同じ人間、それもおそらく同じ
ような社会的環境の中で生活している男ともなると、女サイドとしてもそれなりに人と人とが関わる際の
準備をせねばならず、ましてやここは個人主義の街。大都市東京では初対面の男女ともなると更に一定
以上の「良い印象」を相手方に与える必要性が無きにしも非ず、そのためにはまず挨拶、会話と、凛太郎
一羽を追跡するより遥かに高度な、というか面倒なプロセスを構築せねばならない。失敗すれば気まずく
なり、下手をすれば俺のせいでこの女は「もう鳩を追いかけるのは止めよう」という心の傷を負いかね
ないのである。それは俺も望むところではなく、俺と凛太郎は食い物を分け合う仲であるということを女に
周知させつつも、その際俺が女を認識していないという態度を示すことで、俺と女の間には何らの関係も
生まれず、先の印象付けにまつわる雑多な要件を女が満たさなくても良いように仕向けたのである。
ところが。
「その子……凛太郎君って言うんですか?」
やりやがった。いや、俺がやらかしたのか?まさか向こうから話し掛けてくるとは。とにかく俺はリングに
上らなければならない。お互いの下らない印象付けのために。
「ええ、この子は凛太郎。このあたりの……」
そう言いつつ顔を上げた俺は絶句した。女があまりにも美人だったからである。
「このあたりの……?」
心もち首を傾げて俺の言葉の先を促した彼女は、それまで俺が煩悶していた、都会における諸々の
処世術など全く考えたこともない様子で、というか彼女の美貌や透き通る声からして最早人間とは思えず、
俺自身頭の隅で酒にやられたか、弱くなったなあ、もうトシかなあ、などと案じていたのだが、一方で
内心、初対面でここまで直截的に疑問を投げかけてくれる美人に対し、若干の下心に似た気安さを感じ
たのも事実である。正直に言おう、一目ぼれであった。俺は有頂天になりつつも、口調はあくまで紳士
的に、さっきまで考えていたことを彼女に話した。
「……失礼。凛太郎の一族は古来よりこのあたりの鳩をまとめる王族だったのですが、近年は子宝に
恵まれず、求心力も弱まっていました。それまでは武力で押さえつけていた雀や烏との縄張り争いも
激しくなり、群れの中には脱走者も出るなど、徐々に波乱の様相を呈するようになると、一族は忠臣
喜十郎に執務を任せ、後継者探しに躍起になっていました。そんな中で産まれたのがこの凛太郎です。
跡継ぎの誕生に宮中は沸き立ち、一族の安寧は約束されたものと誰もが思いました。しかし……話は
そう簡単には行きませんでした。かねてから首領の座を狙っていた権兵衛の存在です。彼は元々低い
身分の生まれでしたが、激化する縄張り争いの中でめきめきと頭角を現し、その類まれなる巨躯と嘴の
強さ、そして何より、自分と同じく身分の低いものに対する慈愛に満ちた態度で、主に平民からの支持を
集めていました。対する凛太郎はまだ若く、未熟でした。争いの中で家族を失った平民からは凛太郎と
その一族に対する反感が根強く、凛太郎の雪のように白い羽や、洗練された優雅な身のこなしですら
かえって軟弱だなどと悪しざまに言われる始末でした。そんな中——今を遡ること3日前、事件は起こり
ました。凛太郎が立派な成鳥になるまで、と一族に代って政務を取り仕切っていた喜十郎に対し、権兵衛
が白昼堂々、決闘を申し込んだのです。そう、クーデターです。若く自信に満ち溢れた権兵衛に対し、
最早老齢にさしかかっていた喜十郎は遭えなく討たれ、凛太郎の一族も群れから放逐されることとなり
ました。まだ幼い凛太郎だけはかろうじて群れに残ることを許されましたが、成り上がりの権兵衛の嫉妬
は凄まじく、群れの誰もが認める首領の座にあっても、ことあるごとに凛太郎に対して暴力を振るいました。
対する凛太郎は生来争いを好まない性格だったため、家族を失った悲しみを癒すこともできぬまま、今も
こうして、群れの外れでひっそりと生きているのです」
やってしまった。何が紳士的だ。なにがクーデターだ。ふざけるのもいい加減にしろ。いくら鳩を徒歩で
追いかけるような浮世離れした、というかちょっと抜けたところのある彼女とはいえ、初対面の男から
いきなり嘘100%のむさ苦しいピジョンストーリーなんぞを聞かされたら「うわ、気持ち悪っ」と思うに違い
ない。彼女の美貌で脳が沸騰していたとはいえ、俺は最悪の形で彼女にファーストコンタクトを仕掛けて
しまったのだ。
なんてことを考えながら、俺はいつからか凛太郎に向けていた視線をおそるおそる上げ、せめて最後に
その美貌を目に焼き付けようと彼女を見たところ、
「……そう……だったんですか……凛太郎君は……」
彼女は目に涙を浮かべ、心の底から凛太郎の運命を悲しんでいるようであった。
しまったことになってしまった。これは一体どういうことであろうか?というか何?信じたの?俺の妄想
100%のピジョンストーリーを?混乱して思わず俺も泣きそうになったがそこは男の子。ぐっと堪えて今の
状況を冷静に分析してみることにした。
まず彼女。俺の話を聞いて嫌な顔をするどころか感極まって涙ぐんでいるあたり、というかそれ以前に
昼間の公園で鳩を追いかけたりしてるあたりで、まあ言葉は悪いがアホの子である。とはいえこんな
美人に対してたとえ脳内とはいえアホアホ言いたくないのでここはひとつ純粋と思うことにする。その
純粋な彼女はどうも俺に対して警戒心とか虚栄心めいたものがない様子で、俺との出会いが不快だと
思っている節もない。ここで俺がとるべき最善の方策としては、泣きそうな彼女を宥めて鳩の話か何かを
適当にして、最終的にお互い今日の出会いが良い思い出になるよう仕向けることであろう。俺としても
昼間から女の子を泣かせたくはない。夜ならともかく。むふ。一瞬脳内に芽生えた邪心を踏みにじると、
俺は彼女に声をかけた。
「もし宜しければ、あなたからも凛太郎に……この豆を与えてやっては頂けませんか」
で、今に至る。彼女は素直にミックスナッツの袋を受け取ると隣のベンチに座り、凛太郎に与え始めた。
先程からないがしろにされつつあった権兵衛の群れは既に別のおばはんの元におり、ターゲッティング
されたおばはんもどうやら本職の飯やりストらしく、異様に皺の寄ったポリ袋からパン屑をつかみ出しては
荒れ狂うゴン蔵の群れに向かってばら撒いていた。俺はカップ酒を飲もうかと思ったが、隣で凛太郎に
豆を与える彼女の、少し気の抜けた様子で歌う童謡を耳にするうち、止めた。
俺は結局焼き鳥にも手を付けず、彼女との会話らしい会話もないままだったが、それも何だか惜しいと
思って別れ際、ミックスナッツの空き袋を彼女から受け取りながら自分の名を告げた。すると彼女も、
「高垣といいます。機会があったら、また」
高垣さん。下の名前が気になるが、初対面でそこまでむんむん押していくのも気が引ける。それより俺は
美人の高垣さんと知り合いになれたのが嬉しく、彼女が苗字だけでも俺に告げる気持ちになったことに
舞い上がっていた。機会があったらまた、なんて次に会う約束めいたものを口にする、彼女のくりっとした
目が白猫のように左右で色の違うことすら、家に帰ってカップ酒を飲みながら思い当たった程だったので
ある。
その日以来、俺は休日ともなればミックスナッツの袋を1つだけ携えて公園に行くようになった。目的は
言うまでもない。高垣さんと、ついでに凛太郎に会おうとしたのである。
でも駄目だった。何度足を運んでも、公園には高垣さんはおろか、凛太郎の姿さえ無かったのである。
権兵衛の群れも、プロ餌やりストのおばはんも居た。高垣さんが居ないのは非常に残念だがまあ、理解
できた。人間生きるためには色々と雑多な要件をこなさなければならず、それがために俺と交わした
会話や、そもそも公園で俺と会ったことすら、移ろう時間の中で流れてしまったのかも知れない。でも
せめて凛太郎、高垣さんと俺を引き合わせてくれた凛太郎には、一度会ってお礼をしたかったのである。
月日は流れた。些細な口論から家主の女に追い出された俺は、何となく実家に帰るという気も起こらず、
多少は金もあったのでワンルームマンションという名の穴蔵に住みついてだらだら生きながら、それでも
律儀に公園通いは続けていた。そんなある日のこと。
雨。塗装屋の仕事は中止。今日も高垣さんと凛太郎には会えなかった。職人殺すにゃ刃物はいらぬ、
雨の三日も降ればよいなんて言うが、昔は貯蓄という概念は無かったのだろうか。それともおそらく江戸
時代とかそのあたりの時代、気風の良さが無闇に礼賛される風潮の中で、宵越しの銭を持つなんてぇ
考えはべらんめぇだったのだろうか。とりとめも無くそんな事を考えながら俺は、天井付き休憩スペース
でミックスナッツの袋を開けるかどうか思案していた。腹は減っていないが、やることも無かったので。
勤め人であろう、黒い傘を差したスーツ姿の男が俺の前を横切った。俺と一瞬視線を交わし、そのまま
通り過ぎるかと思いきや、男は前を向いたまま後ずさりして俺の視界の中心に立ち止まると、回れ右の
要領で90度体の向きを変え、微笑を浮かべて俺と対峙した。
俺自身今まで色々な人間と会ってきたが、その中でもずば抜けて変な人である。俺は内心、男の興味が
実は俺なんかではなく、俺の向きからはたまたま見えない位置にいる、男の友人か誰かであることを
願った。でも駄目だった。この休憩スペースは男のいる広場にその開口を向けてコの字型に設置されて
おり、広場に向かい合うようにして座る俺の背面には池が広がっている。つまり男は先程視線を交わした
だけでこの俺に興味を持ったということであり、そうでもなければこの男は俺の後方、蓮の葉ばかりが
無闇矢鱈に生い茂っている池の上に浮かぶ、男だけにしか見えないような何か得体の知れないものに
笑顔で向かい合っているということになり、俺としても男と池に棲む化け物との交流を頭上で交わされる
という事態は避けたい。取りあえず逃げようかな、と思ったが、前述の通りコの字型にしつらえられた
ベンチには背もたれがついており、これを乗り越えて逃げるのも割と骨である。混乱していると、男が
ついに口を開いた。
「君、うちで働かないか?」
ここはCGプロダクション。代表直々にスカウトされた俺は今、アイドルのプロデューサーをしている。何で
こんなことになったのか俺も分からない。もう一人の当事者である代表に聞いても、
「なんかね、こう……来たんだよね!ティンと」
みたいなことを毎回言われるだけで要領を得ない。それよりも新しい仕事が忙しく、俺もその内に深くは
考えなくなってしまった。おそらくタイミングか何か、都合が良かったのだろう。
「プロデューサーってさ……オフの日は何してる?」
レッスン場からの帰り、俺の担当アイドルである渋谷凛がそんなことを聞いてきた。15歳という年齢の
割には落ち着いた雰囲気の子だが、初めて会った時にぎこちない営業スマイルを顔に貼り付けている
俺に対して、「アンタがプロデューサー?」と棘のある一言を投げつけるくらいのしたたかさはある。後で
聞いたところでは、どうも俺の嘘臭く他人行儀な笑顔が嫌だったらしい。悪いことをしたと今でも思う。
それにつけてもオフの日。高垣さんにも凛太郎にも会えていないが、今でもまだ公園通いは続けている。
そういえば自己紹介の時、凛という名前を聞いた俺は凛太郎を思い出して変な声を上げてしまい、怪訝な
顔つきをされたことを思い出した。凛に俺のピジョンストーリーを聞かせたらどんな顔をするだろう。まあ
さすがにやらんけど。
「オフか……取りあえず、公園で散歩かな。あとはスカウトとか」
「ふーん……公園で散歩ってなんか意外かも」
「ちょっと思うところがあってなー」
「ダイエットとか?」
「ははは、そんなんじゃないよ。でも多少はいい運動になるだろうな」
「……ねぇ、プロデューサー」
「どうした?」
「今度さ、オフの日合わせて……私も一緒に行っていいかな?」
「別に構わないけど……むしろいいのか?折角の休日にこんなおっさんと散歩なんて」
「そんな歳でもないでしょ。それにハナコも連れて行くから、そのついでってことで」
「ハナコにも会えるのか、それは嬉しいな」
「ふふっ、約束だよ、プロデューサー」
「ああ、約束だ」
なんて事のない会話ついでに現役女子高生との散歩の約束を取り付けた俺は内心舞い上がっていたが
しかし、相手がアイドルという恋愛ご法度の身分なのに気付いてすぐに冷静さを取り戻した。アイドルと
いっても凛はまだまだ駆け出しで、喜んでいいのかどうか分からないがスケジュールに余裕はある。
今度の日曜日にでも行くとしよう。
約束の日。俺はいつものようにポケットにミックスナッツを忍ばせ、凛、そして凛の飼い犬ハナコと一緒に
公園までの道のりを歩いていた。きっかけは何だったのだろう、なんてな事を考えながら。
初めて見る広い公園に興奮したのか駆け出すハナコを、リードを引いていた凛も笑いながら追いかけた。
俺はポケットのミックスナッツの袋に触れた。次にもし高垣さんに会えたら、彼女をスカウトしてみるのも
いいかもしれない。いや、是非スカウトしよう。でもまあ今日くらいは、凛とハナコとでゆっくりするのもいい
かもしれない。駆けてゆく凛を追うようにして、俺は公園に足を踏み入れた。
小さな白い鳩が一羽、男の後に降り立った。
おしり
うわー読みづれぇー
語り口は町田康をパクリました^p^
お粗末さまでした
乙
確かに読みづらかったけど雰囲気が好き
また続編とか書いてください
やっぱり楓さんナンバーワン!
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