【バンドリ】無題 (38)
人が死ぬ話です
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「俺が思うに生まれ変わりだとかなんだっていう迷信は救われなかった人とか報われなかった人とかが期待を込めて願うものだから、もしも宝くじが当たれば、ギャンブルで大勝ちすれば、なんていう風に一発逆転を本気で夢見るみたいな――」
と、そんなことを友人らしき男性と話をしながら、宗教関係の本棚の前を歩く男性が目に付いた。
「でもさ、因果応報って言うし、今この人生で善いことをしたら来世では報われるとかそういう考えって悪くないと僕は思う。この前読んだ本でもそんな感じのこと書いてあったし……ああでもこれはどっかの国の死生観なのかな――」
静かな店内に遠慮がちに言葉が響く。それを右から左に聞き流しながら、私は本の陳列の整理を行う。店長に頼まれた仕事だった。
「まあそんな話はどうでもいいから、とりあえずこの本を読め。面白いから」
「いやだから僕はそういう話は嫌いなんだって」
「大丈夫だって。あれな、特別な料理を食べる話は大筋の短編の一つで……」
「もうその話は何回も聞いたわ。何でもない短編集読んでたら急にゲテモノ食いの話が出てきた時の僕の気持ちが分かるか? いや、分かるまい」
それが終わりそうなころ、男性二人組はそんな話をしながら漫画のコーナーへ足を進めていった。声が遠のいて、次第に会話の内容も聞こえなくなる。
「氷川さん」と、代わりに私を呼びかける声が響く。そちらへ視線を巡らせると、三十代半ばの男性……この書店の店長が、いつものように何も考えていないような顔で立っていた。
「はい。……ああ、もう上がりの時間ですか」
「そうです。もう陳列は終わりそう……ですね」
「ええ。では、これを片付けたら上がります」
「はい。お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
店長はゆったりと頷き、あまり抑揚のない声で労いの言葉を吐き出す。私もそれに相づちを返してから、目の前の作業を片付けて事務所へ向かった。
◆
東北の中でも賑わう都市。その駅から歩いて十分弱の書店。そこが今の私……二十三歳の氷川紗夜が勤めている場所だ。
その書店を出て通りを歩く。小春日和だった日中から空気が冷え込んでいて、十一月の上旬にしては寒い夜だった。フッと吐き出した息は僅かに白く、人と人とが行き交う通りの喧騒の中へすぐに溶けていった。
「生まれ変わり、ね……」
小さく口の中で呟きながら、私は先ほどの男性客の話を頭の中に呼び起こす。
生まれ変わり。輪廻転生。確かにそんなものはただの迷信だろうと思う。人が死んだらどこへ行くのか、なんて考えても答えにはすぐに行きつく。きっと、ただ真っ暗で何も感じない場所に行くだけだ。
それが正しいのか間違っているのかは分からない。死んだあとのことは死んだ人にしか分からないから、真面目に考えたって仕方のないことだ。
しかしそう思ってはいても、人間誰しも死ぬのは怖い。だからこそそういう迷信じみたものが世界には蔓延していて、それに縋って少しでも死への恐怖心を薄めようと試みるんだろう。
だとするならば……と、考えてはいけない方向へ思考がそれかけ、慌てて頭を振った。すれ違った妙齢の女性が怪訝そうな顔をこちらへ向ける。私は小さく咳ばらいをした。
今日の晩御飯は何にしようかしら、と、努めて何でもないことを考えるようにして、通りに店舗を構えるスーパーへ入店する。
店内には有名なJ-POPのインストが流れていた。東北に来てもう三年が過ぎた。ここにやってきた当初、やっぱりどこの県のスーパーにもこういう音楽が付き物なんだな、と変に納得をした思い出があった。
カゴを片手に店内を練り歩き、おかずになるものを探す。鮮魚売り場で珍しくサンマが安くなっていた。三尾の開きがまとめられたパックをカゴに入れる。
それから青果と総菜を見て回り、一人暮らしの部屋の冷蔵庫の中身を頭に思い浮かべながら、商品を手に取っていく。途中、スナックコーナーでポテトチップスの袋と一分ほど見つめ合って、それは結局カゴには入れずレジへ向かった。
会計を済ませ、スーパーから出る。今の私が住むアパートは駅の向こう側だ。通りをまっすぐ進み、駅の改札前を通り抜けてからニ十分ほどで到着する、駅近とは言えないけれど遠いというほどでもない中途半端な場所にある。人によっては遠いとも近いとも思われる距離だろう。
ただ、私にとってそれはちょうどいい距離だ。
私は歩くのが少しだけ好きだった。何でもない日常の中を何でもないように歩いている人々の群れに混ざって、私も何でもないように歩きながら何でもないように考え事をするのが少しだけ好きだった。そうしているとどこか安心する。
そんな取るに足らないことを考えているうちに、私は今の私の住処へ辿り着く。
駐車場付き、三階建てのシンプルな外観をした鉄筋コンクリート造りのアパート。1K八畳の部屋は決して広い方ではないけれど、小ぢんまりとした空間が妙にしっくりとくる。
キッチンに置かれた小さな冷蔵庫に買ってきた食材を入れて、寝室へ足を踏み入れる。
仕事用の小さなバッグを机に置き、薄手のコートをハンガーにかける。それから部屋の片隅のエレキギターの前に立った。
紺色のボディは艶を湛えて静かに佇んでいた。それに手を伸ばそうとして、やめる。
小さく息を吐き出して、私は夕飯の準備をすることにした。
◆
いつかの私の目の前にはきっと壁があった。
だけど私はそれに向き合うことに頓挫して逃げだしたんだと思う。
顔を背けて、その壁が見えない場所まで一目散に走ったんだと思う。だけどそれはもしかしたら今もあるのかもしれない。ただ目に見えなくなっただけで、空気のように当たり前に、見ないけれど存在しているのかもしれない。
生まれた場所から離れ、東北の片隅で暮らしているとふとそんな考えが頭に浮かぶ。特に今日みたいに仕事が休みで、部屋で一人、ソファに座ってぼんやりしていると、中学生のころは何をしていたんだろう、高校生のころは何を考えていたんだろう、と過去を振り返ることが多い。
まず一番に頭に浮かぶのが、中学生の時にギターを始めたこと、そして高校生の時にギターを諦めたこと。その原因はなんだったろう、と考えると、決まって私は分からなくなる。
それがきっと今の私の見えない壁なんだろう。あの時の私が見ていただろう壁が色と形をなくして、今の私の目の前に素知らぬ顔で立っているんだ。
その壁に気圧されてしまうから、私はギターに触れることが出来ない。最低限の手入れはするけれど、ネックを握り、膝に乗せて弦をはじくことが出来ない。
そうしてしまったら、分かりそうなことが永遠に分からなくなってしまうような気がした。そもそも今の私にはもう手遅れなのかもしれないけれど、それを認めたくなかった。
いつまでも子供だな、と思って、自嘲の息を短く吐き出す。
今の私がこうして生まれ故郷から逃げても、私は私から逃げられない。どこまで行っても影が私につきまとう。過ぎたことは今さらどうしようもないし、取り戻せる訳もない。そうと分かっているのに「それでもいつかは」なんて思ってしまう。
私はこのギターに触れられる日がくるのだろうか。
感傷とか後悔とか、追憶のオマケについてくる火山灰みたいな塵が降り積もった部屋で、紺色のギターがある場所だけがまっさらなまま陽に当たっているような気がした。
◆
「カバーはお付けしますか?」
「いえ、大丈夫です」
「恐れ入ります。一点で、お会計は853円でございます」
丁寧な言葉を機械のように発して、袋に入れた小説を目の前にお客さんへ差し出す。それから代金を受け取って、お釣りを返す。袋を持って出入口へ向かった背中へ「ありがとうございました」と言葉を投げる。
生まれた街を離れ、東北の都市でこんな風に書店員をやっているだなんて、三年前の私はきっと想像もしていなかっただろう。
レジに立って、様々な本を手にした色々な人間を相手に、波風の立たないテンプレート言語を応酬する。あるいは目的の本を探す人の為にパソコンで在庫を検索したり、宣伝のためのポップを作っては本棚に飾ったり……。
そういうことは自分には一切関係のないことだと思っていた。そういう仕事があるというのは知っていたけど、自分がそれに携わることはないと思っていた。
だからこの都市にやってきて、住む場所を決めてこの仕事を始めた当初は戸惑ったものだ。昔の私であれば簡単に出来たであろうことも、今の私は色々と考えてから身体を動かさないといけないから、なかなか思うように進められない。
だけどひと月も経つと慣れてしまった。突発的なアクシデントでも起こらない限り、あまり深く考えないで言葉を発し、身体を動かすことが出来るようになった。
今日も今日とて何でもないように仕事をこなしていく。日常が思い出の上にどんどん積み重ねられていく。
そうやって味気ない日々に潰されていく思い出たち。その一番下に、今も潰えず残っているものはなんだろう。
かつての仲間のことだろうか、それとも何ものにも代えられなかった美しき思い出たちだろうか、はたまた背中を向けて逃げ出したあの日の悲しき思い出だろうか。
「すいません」
「あっ、し、失礼しました」
そんなことを考えて呆けていたら、いつの間にかレジに別のお客さんが来ていた。今の私はバツの悪そうな顔と申し訳なさそうな声を作って、それに対応する。別の私はまだまだ忘れたいことと忘れたくないことを考えている。
そうしているうちに今日の仕事も終わりの時間にさしかかって、何も考えていなさそうな顔の店長の、抑揚の少ない「お疲れさまでした」を聞いて、私は家路を辿る。
◆
休日。気付いたら十二月になっていて、気付いたら年の瀬だった。
家事を済ませ、日用品や食材の買い出しも終わった私は、手持無沙汰にぼんやりとテレビを見ていた。
家電量販店で投げ売りされていた旧型の液晶テレビ。その22インチの枠の中で、煌びやかなステージライトを浴びて演奏をするガールズバンドが映っていた。画面右上には『新進気鋭のアイドルバンド!』とテロップが打たれている。
それを見て少しだけ懐かしいな、という気持ちになって、それから居た堪れない気持ちになったからチャンネルを変えた。歪みをかけたギターサウンドが消えて、代わりにニュースキャスターの生真面目な声が部屋に響いた。それに耳を傾ける。
殺人、強盗、人身事故。年末だというのに暗いニュースが多いんだな、と思ってから、むしろ年が変わる前にみんな色々と清算をしているのかな、と思った。
暗いニュースが終わると、ニュースキャスターの声が一気に明るいものに変わる。世間の流行の話題になって、さきほどのアイドルバンドがどうとかそんな話をしだした。
それも今の私にとっては辛気臭いニュースとさほど変わらなかった。結局どこへ行っても目に付くものは目に付いてしまうんだな、という諦観を抱いて、ぼんやりとそのアイドルバンドの特集を聞き流す。
だけど、ギターの女の子が「パステルパレット」という言葉を口にして、それだけは聞きたくなかったからテレビを消した。それから恐る恐る紺色のギターへ目を向ける。
ギターは何も変わらず、何も言わず、ただ蛍光灯の明かりを反射させていた。いつものように、何ともないように、あの日から変わらず、ずっと、ただそこにいるだけだった。
急に息苦しくなったから、私は部屋の窓を開けて、身を切るような冷たい冬の空気を身体いっぱいに吸い込んだ。
◆
「氷川さんって東京出身なんですよね」
「ええ」
「やっぱり東京ってすごいんですか?」
慌ただしい年末も瞬く間に駆け抜けて、一月も中旬に差し掛かったある日の仕事中だった。書店の近所に住む大学生のアルバイトの男の子が、昼下がりの暇な時間にそんな話を振ってきた。私は少し考えてから言葉を返す。
「すごいって何がかしら? 抽象的過ぎて分からないわよ」
「ほら、やっぱ東京って言ったらアレじゃないですか。こう、電車に乗ってるだけで有名人にばったり出くわしたりとか……」
「あなたはいつの時代の人間なの? 昭和からタイムリープでもしてきたのかしら? 今日日、そんな価値観を持った変な大学生なんて日本であなただけよ?」
「氷川さん、相変わらずツッコミがキツイっすね……」
「そうかしら」
「そうっすよ。なんかこう、小さなことでもすごい責めてくる感じがします」
「そう……ごめんなさい。悪気はないのよ」
「ああいえ、謝って欲しいワケじゃないんで! むしろこう、大人の女性に叱られるのって大抵の大学生は喜びますから!」
「……謝って損した気分よ」
「おぅふ……視線と言葉の温度がまた下がった……」
「はぁ……バカなこと言ってないでキチンと働きなさい」
「はーい」
呆れたようなため息を吐き出した私に生返事をする。それから彼はノソノソと事務所へ歩いていった。
私はその背中を見送りながら、やっぱり責めていたのかな、と思った。
◆
二月にしては陽射しが少しだけ柔らかくて、窓から差し込むその光を受けながら、ソファに腰かけて本を読んでいた。
書店勤めではあるけれど、私は今まであまり本を読まないで生きてきた。読んでいてもよく分からないことがあったり、登場人物の行動理由がイマイチ掴めなくて投げ出すことが多かった。
けれど今の私は分からないことだからと投げ出さず、少しだけでも向き合ってみようという気持ちがあった。だからあまり好きではない読書も休日の習慣にして、こうして文字の列へつらつらと目を通している。
今日読んでいる本は、名前くらいは聞いたことがある作者の話だった。ボブ・ディランの「風に吹かれて」を口ずさみ、書店の裏口でモデルガンを構える主人公の描写から物語は始まる。
風に吹かれて。かなり昔に何回か聞いたことがあったような気がした。
確かあの歌は、いくつもの疑問に対して「答えは風に吹かれているのだ」と答える歌だったと思う。少し気になって、読みかけのページに栞を挟んでから、動画サイトでその歌を聞いてみた。
ああ、そういえばこんな歌だった。そう思いながら、何かが心に刺さるような気がしたから、曲は最後まで聞かないことにした。
動画サイトを閉じて、それから再び本を読み進める。そして物語が最終盤に差しかかったところで、どこかで聞いたことがある話のような気がした。
どこで聞いた話だったっけ。小説から壁掛け時計に目を移して考えていると、ハタと思い出す。そうだ、いつかに書店に買い物に来ていた二人組の男性客の話と似ている部分があったんだ。
もうそのお客さんの顔も声も思い出せないけど、話の内容だけは頭の隅に引っかかっていた。輪廻転生だとか因果応報だとか、そういう話だ。
もしもあのお客さんが同じ本を読んでいたとしたら、その人はどういう風にこの物語を捉え、何を考えて何を感じたんだろうか。
少し考えてから、分かる訳ないか、と思った。
顔も姿も思い出せない人間が、読んだかも分からないこの物語にどんな感想を抱いたか。その答えこそ風に吹かれているものだろう。
◆
東北地方はどんな場所でも冬に雪が積もるんだと勝手に思っていたけど、太平洋側に位置するこの都市ではそこまで激しく雪が降ることはない……というのは、一人暮らしを始めた最初の冬に知った。
東京に比べれば降ることは降るけれど、ニュースで見るような、人が半分埋もれたり、車や家の屋根の上に白い塊が分厚く乗っかっているという情景からは程遠い。精々靴が埋まるくらいの積雪が多かった。
三月始めの休日もそんな風に雪がぱらぱらと降る日で、道路や家々の屋根、街路樹には薄っすらと白いヴェールがかかっていた。その中を私は目的もなく歩いていた。
淡い青色をした小ぶりの傘を広げ、スーツ姿で歩きづらそうにしている人々の中に混じって、ただ足を進める。
そのまま駅の改札前を通り抜けて、反対口のバスロータリーに辿り着いた。市内循環バスに乗ろうとふと思って、十六番乗り場に向かうと、ちょうどレトロな外観をしたバスが乗り場にやってきたところだった。
一日乗車券が乗り場に売られていたけれど、そこまで乗りつぶす気もなかったから、そのままバスに乗り込む。
今日は雪だからか、平日の昼間だというのにそこそこに人が乗っていた。元より座る気がなかった私はバスの後ろの方でつり革を掴み、雪の舞い落ちる街をぼんやり眺めることにした。
発車します、というのんびりとした初老の男性運転手の声。ドアが閉まる音。車内の人々のささめき合い。それらに何ともないように混ざっている私。
こうしていると、自分も普通の人間なんだなと思っていつも安心した。
理解が及ばない、何を考えているのか分からない……というような評価を貰うことが多いこれまでの人生であったけれど、私も普通の人なんだと世界から認められたような気持ちになれて、少しだけ救われた様な気持ちになった。
車窓に流れる見慣れた街は、至るところが白い雪化粧をまとっている。それだけでどこか別の遠い街にやってきたような気分になって、東京を離れてから三年も経つのか、なんていう感傷が胸に去来する。
勇気を出してこの白い街を見下ろしてみようか。
そんなことを思って、降車ボタンを押して、国際センター前というバス停でバスを降りる。それから少し歩いて、近くの城址公園に足を踏み入れた。
ここは市内でも有数の観光スポットだけど、私はこの街に住み始めてからこの場所に足を運んだことはなかった。理由は分かっているけれど分からない振りをした。高いところが苦手なんだろう、きっと……と、そう思うことにした。
わずかに雪の積もった砂利道を踏みしめて、本丸を目指して歩く。
公園内は想像以上に人が少ない。こんな日にこんな場所まで足を運ばないのが普通の人間か、だとしたらやっぱり私はどこかおかしいのかな。そんなどうしようもないことを考えながら、ただ歩く。博物館のある三の丸跡を通り過ぎて、やがて本丸跡に辿り着いた。
かの有名な伊達男の彫像が立つ本丸跡からは、白銀に覆われた街や遠くの山々が一望できた。綺麗だな、と思うより早く、足が竦んだ。
高い場所だ。ここの標高は130メートルくらいだと、一年前に書店で一度だけ目を通した観光案内の本に書いてあった。
ここから落ちたらどうなるんだろう。ここから落ちようという気持ちはどんなものなんだろう。頭にもたげたその思考が怖い。分かりきった事実と、今でも分からない気持ちにただ慄いてしまう。
やっぱりここには来ない方がよかっただろうか。寒さとは別の理由で震える身体を右手で抱きしめ、今さらなことを考える。
けれどもいい加減ちゃんと向き合うべきだろうという思いもある。今の私にとっての透明な壁はきっとこれだ。見えないけれど、これが向き合うべき壁なんだ。
吐き出した息が震える。傘を閉じて、ゆっくりと真下まで見渡せる手すりまで近づいていく。
足を動かし、浅く積もった雪を踏みしめる度に心臓がキュッとする。一歩ずつゆっくりと、手すりに……簡単に空へ身を投げ出せる場所へ足を進めていく。
脳裏には遠い思い出が浮かび上がる。味気ない日常が雪のように積もった思い出の中で、今でも潰されずに残っていたものがきっとこれなんだろう。
二人で笑っていた。いつまでも楽しそうに笑っていた。にんじんの思い出があった。
それに影が差す。いつのまにか笑っていなかった。どうすればいいのか、どうすれば笑ってくれるのか。信じた道を進むうちに、手が届かなくなった。やがて分からなくなった。
フラッシュバックした思い出にはもうどんなに手を伸ばしたって届かないけれど、今の私はとうとう手すりに手を乗せられる場所までたどり着いた。
怖くて身を乗り出せないから、顔だけを下に向けた。急こう配な石垣があった。ここから飛び降りよう。そう思えるほど大きな勇気があったのか……それとも、恐怖心さえ軽々と飛び越えてしまうほど、鬱屈とした気持ちがあったのか。
分からない。やっぱり考えても分からなかった。足から力が抜けて、この場所にへたり込んでしまいそうだった。
私は大きく息を吐き出して、手すりから手を放して、透明な壁に背を向けた。
◆
「あなたは……!」
その帰り道だった。地下鉄に乗って最寄りの駅まで出て、閑静な住宅街を歩いている時に、ふいに後ろから声がした。
聞いたことのある声だった。だから私は振り返りたくなかった。無視して、聞こえなかった振りをして、このまま家に帰ろうと思った。
「待って」
だけど声の主は逃がすものかと私の手を取った。振りほどこうと思ったけど、さっきの後遺症が残っているのか身体に力が入らなかった。
ああ、逃げられないのか。結局私はどこへ行っても、私からは逃げられないのか。諦観と自嘲が混ざったため息を吐き出す。卑屈な笑みで顔が歪む。
ならもういいよ。
あたしは、そう思って振り返った。
「……やっぱり」
「やっほー。久しぶりだね、千聖ちゃん」
およそ三年ぶりに顔を合わせた白鷺千聖は、あたしの軽薄な声を聞いて怒ったように眉を歪ませていた。
◆
「久しぶりの再会なのにずっとだんまりだね。どしたの? 声をかけてきたのは千聖ちゃんでしょ?」
雪の舞う仙台の住宅街で、あたしは挑発するように千聖ちゃんへ言葉を投げる。
あたしの手を取ってから千聖ちゃんは何も言わない。いや、何を言うべきか迷ってるみたいだった。だからあたしはそれを後押ししてあげようと思った。
「大丈夫なの、悲劇の女優さまがこんなところにいて? 見つかったら騒ぎになって大変になるんじゃない?」
「……あなたがそれを言うの」
千聖ちゃんの声は震えていた。きっと怒ってるんだろうな。三年前、身勝手なあたしに散々振り回されたんだから当たり前か。
「言うよ。でもよかったね。あの騒ぎのおかげで千聖ちゃんももっと有名になれて、彩ちゃんだって今はソロで頑張ってるじゃん? イヴちゃんもモデルさんで大活躍、麻弥ちゃんだってアシストドラマーとして名を馳せて、みーんな幸せ――っ」
頬に熱い衝撃を感じた。言いかけた言葉が途切れる。もう怒りの形相を隠そうともしない千聖ちゃんがあたしの頬を張ったからだった。
「日菜ちゃんっ、あなたね……!」
「後処理、大変だった? それは謝るよ。勝手にいなくなってごめんね。でもみんなは今も頑張れてるじゃん? テレビ見たよ。“天下のアイドルバンド、パステルパレット緊急解散! メンバーの家庭環境が原因か?”……って。いいよね、悲劇のヒロインってさ。どこのテレビも雑誌も「かわいそう、かわいそう」って言ってて、いい宣伝だったでしょ? だからおあいこにしてよ」
「そういう話じゃないのよ!」
「そーいう話だよ。あたしはもうギターを弾く理由なくなっちゃったし、みんなは芸能界でもっともっと有名になって……千聖ちゃんだって最初は思ってたでしょ? パスパレなんて踏み――」
「……それ以上は口を開かないで」
「あー、ごめんね。気にしてたんだね。大丈夫だよ、きっともうみんなそんなこと気にしてないって。彩ちゃんなんか気付いてすらいないよ」
「ッ……」
ギロリと睨まれる。その瞳に宿る感情は怒りの色だけど、それがどういう由来でやってきた怒りなのか。考えたけど、分かりそうもないから考えるのをやめた。
「それでどうしたの、千聖ちゃん。こんな場所で」
「……近くでドラマのロケがあったのよ。それで、噂を聞いたから」
怒りを押し殺すような震えた声。流石女優さんだなぁ、小さい声なのにすごく聞きやすい。そう思いながら、あたしは千聖ちゃんの言葉を待つ。
「仙台の書店に、失踪した氷川日菜に似た人がいるって」
「へぇ~。すごいね、三年前に解散したのにそんな噂が立つなんて。でもさ、それはやっぱりただの噂だよ」
「何をふざけたこと言ってるのよっ! 私たちがどれだけあなたの心配をしたと思ってるの!?」
「心配してくれたんだ、ありがと。でも、それは無駄なことだよ。あたしはもうさ、氷川日菜をやめようって思ったんだから。今の私は、氷川紗夜だから」
「あなたね……そんなこと、あなたのお姉さんが望んでるとでも本気で思ってるの!?」
「さぁね。そんなの……一生分かりっこないよ」
口に出せば言葉として意味が圧しかかる。だから声にはしたくなかったし、きっと根っこの部分ではまだ認めたくなかったんだと思う。
だけどもういい。もういいや。結局、あたしは氷川日菜から逃げられなかった。逃げることなんて出来る訳がなかった。それと同じで、これもそれも、もうどうしようもないことなんだから。
「おねーちゃん、もうこの世にいないし」
◆
天才だ。
あたしを見た人間は、みんな口を揃えてそう言った。
本は一度読めばその内容を暗記できるし、スポーツにしろ何にしろ、見よう見まねで誰よりも上手に出来た。
サイコパスだ。
あたしと関わった人間は、みんなひそひそと陰でそう言った。
人の気持ちが分からずに人を傷つける人間。空気が読めずに雰囲気を壊す人間。だからあたしはきっと嫌われていたんだろうと思う。その嫌いの中には、軽々と自分の得意分野を乗り越えていくあたしに対しての嫉妬もあったんじゃないかな、とも思う。
もしかしたらの話だけど、おねーちゃんがそうだったように。
きっかけなんてとっくのとうに忘れたけど、おねーちゃんはギターを始めた。カッコよかった。正確な音を刻み、凛々しい佇まいに感嘆のため息を何度も吐き出した。
その隣に立ちたい。隣に並んで、一緒のことをやりたい。昔から何も変わらない行動原理に基づいて、あたしもギターを始めた。
するとおねーちゃんが何故か苦しい顔をすることが多くなった。
だからあたしはいつもおねーちゃんを心配していた。どうして苦しんでいるのか。どうして悲しんでいるのか。それを少しでも分かりたくて、出来るだけおねーちゃんの近くにいて、話をして、ギターを弾いて、悩みを分かち合いたかった。
「日菜……お願いだから、これ以上私に関わらないで」
ある日、おねーちゃんは熱にうなされるようにそう言った。
その言葉の真意が分からなかった。分からなかったけど、おねーちゃんに心配はかけたくなかった。
「うん、分かった!」
だから明るくそう言って、自分の部屋でおねーちゃんの言葉の意味を考え続けた。
そして行きついたのは、「私のことよりも自分の心配をしなさい」という答えだった。
きっとそうなんだと幼いあたしは無邪気に喜んだ。
おねーちゃんは優しいから、いつでもあたしのことを考えてくれる。子供のころにあたしが嫌いなにんじんをいつも食べてくれたのと一緒だ。きっと「ギターを始めて間もないんだから、私に構ってないで自分の腕を磨きなさい」って叱咤してくれたんだ。
だからあたしはギターの練習をした。一週間で十冊の教則本の弾き方を覚えて、それからもっと腕を磨くためにパステルパレットのオーディションに応募して、その場で合格の声をかけられた。
きっとこれでおねーちゃんも褒めてくれるし、喜んでくれる。そう無邪気に思っていた。思い続けていた。
おねーちゃんがギターに触らなくなったのに気付いたのは、高校二年生の時だった。
「どうしたの?」と聞いても、何も答えてくれなかった。ただ暗い顔であたしを一瞥して、それから部屋に籠ることが多くなった。
あたしはまた考えた。どうすればおねーちゃんが元気になってくれるんだろう、また笑ってくれるようになるんだろう。
その答えは出なかったから、変わらずにギターは弾き続けることにした。
おねーちゃんが「私のことよりも自分の心配をしなさい」と言ってくれたんだから、ギターで、パスパレで天下をとればいいんだと思った。
パスパレのみんなは面白かった。陰口を叩かれなかったのは初めてだったし、おっちょこちょいな彩ちゃん、いろんな難しいことを考えてる千聖ちゃん、無邪気でいつも笑顔のイヴちゃん、真面目でしっかりしてる麻弥ちゃんと一緒にいるのは楽しかった。
けれど、そんなあたしとは反対に、おねーちゃんは日に日に塞ぎ込んでいった。
だからあたしはもっともっと頑張ろうと思った。あたしがお日様みたいに輝けば、きっとおねーちゃんだって笑ってくれると思った。ただただ愚かしく、そう思い続けていた。
そして二十歳の時。パスパレがレコード大賞を受賞した日に、おねーちゃんはビルの屋上から、遠い世界へ飛んでいった。
その日から何もかも分からなくなった。
どうして。
どうして。
どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして?
考えても考えても分からなかった。おねーちゃんはもう何も言ってくれない。あたしに笑いかけてくれない。
ひとりの部屋で一向に答えへ辿り着けそうにないことを悩み続けた。そうしていると、おねーちゃんがどうして旅立ってしまったのかは分からないけど、あたし自身がからっぽになったことだけは分かった。
あたしはいつも、おねーちゃんの背中を見て生きていた。おねーちゃんだけを見て人生を歩んできた。
その道しるべが急になくなった。何をすればいいのか分からなくなった。もうギターを弾く理由も何もないし、極端に言えば、生きる理由を全てなくしてしまった。
だから、あたしの残ったからっぽの人生は、おねーちゃんとして生きてみようと思った。氷川日菜の顔をした氷川紗夜として生きてみようと思った。
そうすればもしかしたら、いつの日かおねーちゃんの気持ちが分かるかもしれない。分かったところでもう何もかもが手遅れなんだけど、少なくともあたしはおねーちゃんの気持ちを理解するまでは生きていく義務があるんだと思った。それがおねーちゃんが最期に残してくれた道しるべなんだと思った。
そうと決めてからすぐに、パスパレの印税が入った通帳から全額お金を引き下ろして、そのお金とおねーちゃんのギターと僅かな手荷物を持って、あたしは置手紙だけを残して生まれ故郷を離れた。
生きていく場所は、氷川紗夜を知っている人間が誰もいないところであればどこでもよかった。だから新幹線が停車した駅が綺麗だったからという理由だけで、あたしは仙台で、氷川紗夜として暮らそうと決めた。
その暮らしでまず一番に感じたのは、お金の力は偉大だということ。
身元もイマイチ不明瞭なあたしだったけれど、それでもお金の信用性と魅力には人は抗えないらしい。一人暮らしをしているアパートの大家さんも、むこう五年間の家賃を、色を付けて一括で手渡したら、笑顔であたしを受け入れてくれた。
それから勤め先を探した。
おねーちゃんならどんな仕事をするだろうか、と思って、おねーちゃんが塞ぎ込むようになってからよく詩集を読んでいたな、という思い出から書店に勤めようと決めた。
そしてアパートから歩いて三十分の書店の採用に応募して、きっとおねーちゃんならこういう志望動機を喋ってこういう風に抱負を語るだろうな、という風に面接に臨んだら、あっさりと合格した。
やっぱりおねーちゃんはすごいな、としみじみ思ってから、こんな風に考えてちゃいけないかと思い直した。何故なら今のあたしは……「今の私」は氷川紗夜だから。
最初は苦労した暮らしも、ひと月で板についた。おねーちゃんならこうするだろう、ああするだろうというのはもう考えなくても実践できるようになった。でもおねーちゃんの気持ちは分からなかった。
仕事にもおねーちゃんの思考にも慣れたころ、休みの日にボーっとテレビを眺めていると、パステルパレットの解散特集が組まれていた。
彩ちゃんが号泣していた。
千聖ちゃんは気丈に振る舞っていた。
イヴちゃんは見たことがない沈痛な顔だった。
麻弥ちゃんは泣くのを我慢していた。
それを見て、胸がものすごく痛くなった。人生で初めて感じた痛みだった。
それからはパステルパレットという言葉を意識して避けるようにした。もう氷川日菜は氷川紗夜として生きるって決めたんだから、見たって仕方のないことだ。
そうやって氷川日菜の要素を可能な限り排除して、おねーちゃんになりきった。だけど、やっぱりおねーちゃんの気持ちはいつまでも分かりそうになかった。次第に自分はなんてちっぽけな人間なんだと思うようになっていった。
天才だ。
あたしを見た人間は口を揃えてそう言う。
だけど、あたしは一番大切な人間の気持ちすら分からない、ちっぽけで矮小な人間なんだと思い知らされた。昔は簡単に分かったおねーちゃんのことにも自信が持てなくなった。
いつしか透明な壁が目の前に張っているような気持ちになった。
きっとその透明な壁の中にはおねーちゃんがいるんだ。そしてあたしをジッと見つめているんだ。「あなたに私の気持ちが分かるの?」って問いかけてきてるんだ。
そう思うと、段々怖くなった。紺色のギターに向き合うことも、透明な壁に向き合うことも。
おねーちゃんの本当の気持ち。知りたいけど、それを知ったらいけないような気がした。でも、知らなきゃきっとおねーちゃんは永遠にあたしを許さないだろうと思った。
そうしているうちに季節はどんどん過ぎていって、些細な思い出たちが日常に潰されていって、向き合わなきゃいけないことからも目を逸らしているうちに、偽りの氷川紗夜は氷川日菜の影に追いつかれる。
それがきっと今なんだろうな、と思った。
◆
「おねーちゃん、もうこの世にいないから」
口にした言葉は予想以上に重くあたしの身体に圧しかかる。このまま押しつぶしてくれれば楽なのにな、と思うけれど、ギリギリ踏ん張れるくらいの絶妙な重さをあたしに押し付けてくるものだから参ってしまう。
「そうだけど……でも、だからってこんな……」
なんともないように口にしたあたしに、千聖ちゃんは泣きそうに、顔をクシャリと歪ませた。あたしはその顔に向かって、続けて言葉を投げる。
「もう分からないよ。何も分からない。分からないんだ。おねーちゃんのことも何もかも。ああでも、一個だけ分かったことはあったんだよ」
あたしは言葉を切ってから、自嘲の笑みを顔いっぱいに浮かべる。
「きっとあたし、昔からおねーちゃんのこと何も分かってなかったんだって、分かったよ」
千聖ちゃんはあたしのその言葉を聞いて、何を言うべきか考えているようだった。しばらく無言のまま見つめ合う。灰色の空から雪がぱらぱらと降りそそいでいる。いっそこのまま全部が雪に埋もれてしまえばいいのにな。
「日菜ちゃん、あなたのやっていることは……無駄なことよ」
そんなこと考え出したところで、千聖ちゃんは言葉を吐き出す。「そうかもね」と短く応える。
「今あなたが言ったように、もうあなたのお姉さんはいない。だから、その気持ちが分かる訳なんてない。……なら、日菜ちゃんのやってることも無駄なことじゃない」
「そうだね」
「……それなのに、まだそんなことを続けるの?」
「うん」
「やめなさい。みんな心配してるのよ。彩ちゃんも、イヴちゃんも、麻弥ちゃんも……もちろん私だって。みんな、日菜ちゃんのことは大事な仲間だし、友達だって思ってるんだから」
「そっか。ありがとね」
「お礼なんかいらないわよ。そんなものが欲しくてあなたを探していたわけじゃないんだから」
「探してくれてたんだ?」
「……当たり前じゃない」
千聖ちゃんは言葉に詰まりながらも続ける。
「悲しいことがあってショックだったっていうのは分かるわよ。でも、それで、もしかしたら日菜ちゃんまでって思うだけで……私たちは……」
「そっか。そうなんだ。ありがとね、千聖ちゃん」
「だから、お礼なんていらないから……まだ、きっとやり直せるから……一人にならなくたってお姉さんのことが分かるかもしれないでしょ? だから私と一緒に東京に戻りましょう?」
「…………」
最初に浮かんでいた怒りの色はとっくのとうに失くなっていた。今の千聖ちゃんの顔には、ただ純粋な心配と優しさの織り交ざった色があった。それはとっても温かくて居心地のいい色だった。
……だけど。
「ごめんね。それは無理なんだ」
「っ、どうして……?」
「おねーちゃんって、あたしの全てだったんだ。あたしが持ってる世界の全てだったんだよ。天才だなんだってみんな言うけど、違うんだよね。あたしはおねーちゃんが好きなこと、得意なことを真似してただけの人間なんだ。だから、もうからっぽなんだ。死にぞこないのゾンビみたいなものなんだよ」
「そんなことっ」
「あるよ。絶望ってきっと、こういうことを言うんだなって……おねーちゃんが手の届かない世界にいったって知った時に思った。それでさ、この絶望が残していった染みは、もうあたしが死ぬまで消えない。それが綺麗な思い出も言葉も全部汚していっちゃうんだ。だから……」
「だから……?」
「もう、あたしなんか全部消えちゃえばいいんだ。そう思うから……ごめんね」
「日菜ちゃんっ!?」
透明な壁に背を向けたように、千聖ちゃんに背を向けた。そして走り出す。後ろからは私を、あたしを呼び止める声と追いかけてくる足音が聞こえるから、振り返らず、一目散にあたしは私を引きずって走る。
走りながら、頭の中には今まで偽りの氷川紗夜で押し止めていた氷川日菜の気持ちが溢れかえる。
今さらだよ。もう全部。もうおねーちゃんはいないんだ。認めたくないけど、きっとあたしのせいで、苦しんで、苦しんで、苦しんで苦しんで苦しみぬいて、空の向こうへいってしまったんだ。あたしがやるべきことなんてもう一つしかない。おねーちゃんになりきって、おねーちゃんの苦しみを味わって、おねーちゃんの気持ちを少しでも分かった振りをして、誰にも見つからない場所で消えることだけなんだ。
輪廻転生。生まれ変わり。因果応報。全部ザレゴトだけど、神様なんていないけれど、あの小説に書いてあったことがもしも起こるのなら、次に生まれ変わったおねーちゃんには幸せでいてもらいたいから、おねーちゃんを苦しめるあたしにあたしが止めを刺さないといけないんだ。
そんな馬鹿なことが起こる訳ないし、あたしがやっていることが完全に無駄なことだというのは重々承知の上だ。
でも、もうあたしにはそう願うことしか出来ないんだ。もう何も分からないから。からっぽだから。ここにいたくなくて、でもどこにも行きたくなくて、何もしたくないけど、何かしないといけないから。
闇雲に千聖ちゃんから、あたしを追う影から逃げる。
三年過ごした見慣れた街が滲み、足早に通り過ぎていく。
視界の隅に赤い光が映った。
クラクションの音が聞こえた。タイヤがアスファルトを擦る甲高い音も聞こえた。
迫りくる車が見えた。
もしもの話が頭に浮かんだ。
もしもの話。
もしもあたしも生まれ変われるのなら。
そうしたら、あたしはもう一度氷川日菜をやり直したかった。
今度は間違えないように。失敗も後悔もしないように。
おねーちゃんが……ただ幸せに笑っていられるように。
そう思いながら、あたしは瞳を閉じた。
◆
夢を見ていた。温かい夢だった。
どこかの学校の屋上だろうか。見たことのない校舎だった。
知らない人たちに囲まれていた。みんな、笑って空を見上げていた。
その中におねーちゃんがいた。
おねーちゃんも笑っていた。あたしも釣られて笑っていた。
だからこれは夢なんだろうな、と思った。
おねーちゃんが空を指さした。
天の川が空に流れていた。粛々と列を成す星々の慎ましい輝きは、まるで葬列のようだった。さぞかし大事な星が死んだんだろう。
悲しくなったから、あたしはもう一度瞳を閉じた。
今度はお日様の下で笑い合えますように。おねーちゃんと仲良く過ごせますように。
どこまでも続く星々の葬列に、そんな願いを託して。
―――――――――――――――
私はからっぽなのだと思います。
何をするにしても、自分の中には人に対する嫉妬だけが、それもとりわけ血を分けた肉親に対しての醜い気持ちだけしか入っていませんでした。負けたくなかった。勝ちたかった。ただそれだけでした。
だけど、追いつけませんでした。その背中はもうどれだけ追いかけても、絶対に手の届かない場所へ到達しました。
私はからっぽの人間です。
いつしか私の放つ言葉は本や音楽からの受け売りばかりで、行動も、身なりも、街やテレビの中で見る種々様々なものから、普遍的部分をくりぬいて、それを自分にあてがうだけでした。酷く劣った自分自身を、群衆に紛れてごく普通の人間だと錯覚させてくれることに、とても安心しました。
だから、からっぽなのです。
もう私には何もありませんでした。ただただ強く眩い輝きが身近に存在し続けて、それに焼かれた私は醜い影になって、このまま燃え尽きてしまえばいいと思いました。何を見て、何を感じて、何を目標に生きればいいのか、分からなくなりました。
私の懊悩は、三文小説にもならない下らないものです。
私がこの物語を傍観できる立場であったのなら、きっと最初の三行程度で読むのを止めるでしょう。
これは、ありふれた悲劇にもならない、ただ一人の矮小な人間が世界から逃げ出して、ウジウジと悩み続ける下らない話です。少し探せば、こんな物語よりももっと悲惨で凄惨で、死ぬことすら許されないほど救いのないものがいくらでも出てくるでしょう。
だけど私にとっては現実でした。現実は、どんなフィクションよりもよっぽど無慈悲でした。
流れていった涙や後悔の時間に今更しがみつくほどの未練は持ち合わせていません。過去の痛みが報われる日は、私の短い人生において終ぞやってくることはありませんでした。
もしかしたらあと十年、二十年と歳を重ねれば、いつか報われる日がやってくるのかもしれませんが、からっぽの私にはそこまで私自身を支える術がありません。
だから、からっぽの中にある僅かな思い出も言葉も、私自身が手を下して、この鬱屈な物語に幕を下ろそうと思いました。
心の傷跡は誰にも見えません。誰も見ることが出来ません。せめてこの痛みが誰かに見えたのなら、それを免罪符に掲げて、私もあの子を傷付けることが出来たのかもしれません。
だから心の傷跡が誰にも見えなかったことを、信じてもいない神様に感謝します。こんな下らない話の幕引きに傷付くのは、私一人で十分です。
未練はありません。ただ、それでも一つだけ願いが叶うのであれば。
もう一度、私が私をやり直せるのなら、もう少しだけ素直にあの子に接することが出来ればいいと……あの子とまっすぐ話すことが出来ればいいと思いました。
別れの言葉も受け売りのものです。私自身が確固たる私を持てなかったこの二十年の人生を象徴していて、きっと相応しいでしょう。
また生きて逢いましょう。さようなら。
おわり
ごめんなさい
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