陛下「聖杯戦争、ですか」 (82)
代理
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1550061871
Fate/SN二次創作。UBWルートに似たご都合ルートエンド後。
このSSの登場人物は全員18歳以上です。
◇◇◇
一言で言えば、それは宮内庁のミスだった。
宮内庁陵墓課は、文字通り全国に散らばる900近くもの陵墓を管理する部署であり、同時にこの極東の島国における唯一の公的な魔術・退魔機関の別名でもある。
ことが起こった時、陵墓課の課長は庁舎の廊下をできる限りの早足で歩いていた。急ぐ理由はひとつ。陛下が自分の部署に足を運ばれたと耳に挟んだからである。
(不味い…)
今上の陛下は早朝に散歩をされる習慣がある。とはいえ、普段足を向けられるのは自然あふれる御苑の方であり、わざわざ(少なくとも事前通告なく)庁舎に来られることなどありはしなかった。ましてや自分の部署になど!
どうか自分の机の上を見てくれるな、と男は願った。
男もこの部署に配属されて長い。つまりは、この国の神秘的な成り立ちについて造詣が深いということだ。
この国の裏の歴史は、魔とそれを退ける者達との凌ぎ合いの歴史である。退魔を生業とする一族は、それこそ各地に点在している。浅神、巫浄、七夜――彼らは魔を正すことに血道を上げた。上げすぎた、と言ってもいいかもしれない。あの鬼種すらいまや絶滅種だ。
積極的な退魔など、もはや必要ない。現代に残る混血とて、融和を望んでいるものが大多数だ。反転の危険はあるが、それとて内々に処理されることが多い。
それこそ、陵墓課のように監視に留めるだけで十分な対応と言えた。たとえ退魔の家々から臆病者の事後処理部隊と言われようとも、だ。
故に、不味い。
最悪の予想が現実となれば、落ち着いている魔と退魔のバランスを壊す可能性がある。おまけに今回の件に限れば、"西の連中"も出張ってきかねない。
冬木という土地は特殊だ。それは紛れもなくこの国の内部であり、しかし古くから外部――西洋に開かれていた土地でもある。
軽く息を切らせて、男は陵墓課の執務室前にたどり着いた。重厚な黒檀の扉には、厳重な魔力避けの機能が付与されている。
だからこそ、気づいた。手遅れであることに。
部屋の中から恐ろしいほどの神秘が垂れ流しになっている。扉の魔力避けは、すでにオーバーフローして意味を失っていた。
扉の修理予算と事態の推移に、男は退職願を残して失踪したい、という強い誘惑に駆られる。
だが彼の職務意識がそれを許さなかった。悪魔のささやきになんとか打ち勝つと、いまやただ重くて開けにくいだけになった扉のノブを捻り、部屋に踏み入る。
予測を裏切るものは何もなかった。部屋の中にいるのは1人の老年男性だ。おそらく齢80は越えているだろう。それなのに、老人からは弱々しさを感じない。
感じるのは春の日差しの様な温かみと――全てを烏有に帰す、凶悪なまでの陽炎だった。
「陛下、」
「聖杯戦争、ですか」
先んじて会話のペースを掴もうとした男の発声を、老人の呟きが圧倒する。
老人の声には力があった。それは有史以来、人が抗えた例のない権能を持った声。神の告言葉。
不味い、と男は再び胸中で繰り返した。老人――陛下は悲しみ、そしてお怒りであられる。なにより不味いのは、陛下の抱いた怒りの矛先が、陛下自身に向けられているということだった。
「第五次までで、判明しているだけでも被害者の数は四桁以上。第三次に至っては、帝国陸軍までもが加担している、と」
何故、自分はまとめた報告書を机の上に放置してしまったのだろう――陛下が読み上げている書類束を恨めし気に見つめ、男は過去のうかつさを悔やんだ。
冬木の聖杯戦争。"西洋の連中"がこの国に持ち込んだ中でも最大規模の魔術儀式。
読み上げられた通り、あの聖杯戦争では多くの犠牲者が出ている。
では何故、国の退魔機関である陵墓課が動かなかったのかと言えば、その犠牲が目を瞑れる範囲内で収まっているからだ――収まっていなかった場合、実際に対処できたかどうかは別として。
魔術協会、聖堂教会という二大組織が監督役を務めている以上、下手に触れば藪をつつくことになりかねない。
管理者の遠坂家は200年前からこの地を上手く治めている。西洋の術を使う――使うようになった家だが、その点ではこの国寄りの存在だと言えた。
おまけに第三次では陸軍の暴走があり……とまあ、そういった様々な理由が重なり、結果として冬木の聖杯戦争はこの国にとってもアンタッチャブルとされていたのだ。
この場合のアンタッチャブルとは、つまるところ陛下の耳に入れてはならない、ということである。何しろ、陛下は犠牲に目を瞑れない。
堪え性がない、という意味ではない。それは法則だった。終戦の折、彼の大国と結んだ盟約により外に向けて振るわれることを禁じられた陛下の力は、その法則の下に根付いている。
陛下が聖杯戦争のことを知れば、"慰問"に向かわれることは想像に難くない。
そして、いまやそれを止めることが出来る者は誰もいないのだった。
◇◇◇
「遠坂、旅行にでも行くのか?」
と、呑気な声を挙げたのは、機械に疎い凛に代わり、ネットで飛行機のチケット予約を済ませた衛宮士郎である。
息も絶え絶えの魔術の師にしてパートナー――遠坂凛がセイバーと共に衛宮邸に飛び込んできたのが30分ほど前のこと。
言われるがまま直近で三人分のエコノミークラスを確保している間に、凛は衛宮邸にある自室からいくつかの私物を持って来たトランクに詰め込んだらしい。
そして戻ってきた凛に向けて放たれたのが冒頭の言葉である。事情を知らぬとはいえ、何とも呑気なその声音に、凛は心の平衡を維持する為に多大な努力を要した。
それでも無理やりにっこりと微笑んで――何故か目の前の恋人は顔色を悪くしたが――首を縦に振る。
「ええ。衛宮君も、一緒に行くのよ?」
ふむ、と士郎は頷く。いくつか疑問はあったが、どうやら目の前のあかいあくまの機嫌は斜めどころか無秩序に大回転しようとしている。慎重にならざるを得ない。
実を言えば、三人分のチケット、というところで自分が頭数に入っているのは予測できていたのだ。
行先は倫敦。卒業後、凛は魔術協会の本拠地"時計塔"に行くし、自分も同行することになっていた。パスポートも大河に付き添ってもらい取得している。
(分からないのは)
士郎は胸中にいくつかの疑問を浮かべていた。まず、どうしてこの時期なのかということ。
聖杯戦争が終わったのがおよそ一月前。あと数日もすれば学校も始まるという頃合いだ。
チケットの具体的な日取りは指定されず、ただ直近を、と命じられていた。しかし海外に行くというのなら、ゴールデンウィーク辺りを待つべきではないだろうか?
凛と共に戻ってきたセイバーを見やる。凛のお下がりであるいつもの平服姿だが、理由が分からないのは彼女も同じらしい。無言で首を振ってくる。
下手な考え休むに似たり、と士郎は手っ取り早い方法を選んだ。訊ねる。
「なあ、遠坂。なんでそんな急いでるんだ? わざわざこの時期に……下宿の下見とかなら、もっと後でも」
「時計塔には学生寮があるの。入寮手続きなんか何の問題もなくスムーズに行くわよ。そうじゃなくて」
もどかしげに首を振りながら、凛。
「逃げるのよ。この国から。可能な限り急いで」
「……」
「……」
セイバーと士郎は互いに顔を見合わせた。無言での意思疎通。お互いに頷き合うと、再び凛に向き直る。
「遠坂、罪は償わないと」
「誰が国外逃亡を企ててる犯罪者よ!?」
激昂する凛を、士郎はまあまあと両手を挙げて制した。
「まあ、待ってくれ。これは論理的に考えた結果なんだ」
「論理的?」
「ああ。だって遠坂にはセイバーがいるだろ?」
ちらり、と再び隣に座る騎士王を見る。
セイバー。アルトリア・ペンドラゴン。聖杯戦争で士郎が召喚したサーヴァント。紆余曲折あって今は凛と契約しており、聖杯戦争終了後も現界を果たしている。
使い魔としては破格の性能。聖杯からのバックアップが無くなったため十全の力は発揮できないらしいが――
「セイバーに勝てる奴なんてそうはいない。そうでなくても、遠坂は優れた魔術師だ。下手に逃げるよりも、自分の工房で待ち構えた方がいいに決まってる」
「なるほど。それで?」
「ああ。でもそれをしないってことは、遠坂側に負い目があるんじゃないかなって」
「あははは。なるほどねー。良く考えたじゃない。けれど、その論理的な考えとやらにはふたつ欠点があるわ」
「欠点?」
「ええ。まずひとつめはね――あんた達が、私が犯罪に手を染めるような倫理観のない人間だって考えてるのがばれたことよ!」
般若のような形相を浮かべて詰め寄ってくる凛に、セイバーと士郎は慌てて首を振って見せた。
「ご、誤解です、凛。私達は決して貴女のことをそのようには」
「そ、そうだぞ遠坂。ただ、うっかり魔術の実験に失敗して、協会に睨まれることくらいはあるかなーって思っただけで」
言い訳を重ねる二人を、凛はしばらく睨みつけていたが、やがて溜息をついて一歩引いた。溜飲が下ったのか、あるいは、こんなくだらない言い争いをしている場合ではないことを思い出したのか。
「二つ目はね。その考え方は、セイバーより強い相手が敵なら成り立たないってことよ」
「……そんな奴いるのか?」
間を置かれて紡がれた凛の言葉に、士郎は訝しげに眉を動かした。セイバーの力を間近で見てきたのだ。セイバーより強い存在、と言われてもすぐには信じられない。セイバーも似たような反応だ。
「信じられないのも分かるけどね。確かに、こと戦闘力という点において、セイバーは破格の存在よ。特に対魔術師戦闘ではほぼ無敵。クロンの大隊にだって勝てるでしょう」
クロンの大隊、というのが何を示すのか士郎には分からなかったが、とりあえず流すことにした。無言で頷くことで続きを促す。
「けどね、世の中には例外染みた化け物がごまんといるのよ。衛宮君も、この国にいるなら知っておきなさい」
そういって、凛はポケットから一枚の封書を取り出した。気品を感じさせる紫色の封筒。だが、奇妙なことに宛名も差出人も書かれていない。
「それは?」
「この国に住んでる魔術師にとって、一番見たくないものよ。今朝、うちのポストに入ってたの」
「何も書いてないじゃないか」
「ええ。けど、紫色の封筒ってだけで差出人は分かるわ。宮内庁の陵墓課よ」
「……宮内庁?」
さすがに聞き覚えがあった。それは、この国唯一の公家を管理する機関の名前だ。
「なんでそんなとこから?」
「何でも何も、宮内庁陵墓課は現在この国で唯一の公的な神秘を管理する機関よ。知らなかった?」
「そりゃあ、知ってたらこんなに驚いてないぞ……」
唸るように呟く士郎に、凛は追加で解説を行う。
「この国では色々な退魔機関が発達してきたんだけど、時代と共に大部分は廃れていったのよ。陰陽寮も神社庁も国から離れた。もとから国に属さず独自に退魔を生業にしてる家系も多くあったらしいけど、ほとんど衰退したか、それ以外の稼業で糊口をしのぐようになったのが大多数」
「退魔?」
「この国独自の、魔という歪みを正すって考えを実践する連中のこと。魔としては鬼種が有名だったけど、その退魔の連中に根絶やしにされたらしいわ」
「鬼種って、この国じゃトップレベルにやばいっていう幻想種だろ。それを絶滅させるような強い連中が遠坂を狙ってるのか?」
「いいえ。私だって詳しいわけじゃないけど、退魔っていうのは人を害するのはむしろ苦手。魔と人との混血にさえ後手を踏むらしいし、歪みの修復のみに特化した技術って話よ。陵墓課はその最たるものね。基本的に、彼らは事後処理専門。魔術師がこの国で好き勝手をやっても、実際に彼らが動くのは事態が終わってからになることが多いわ」
「……? じゃあ、どうしてそんなに慌ててるんだ?」
セイバーでも勝てないような相手なら逃げるしかないかもしれないが、陵墓課とやらはそこまで強敵というわけでもないらしい。
士郎の質問に、凛は教師のような顔つきで応えた。
「逆に聞くけど、衛宮君。そんな後手後手に回るしかない国が、魔術的な独立を保っていられる理由は何だと思う?」
「独立って、そんな戦争じゃあるまいし」
「あら、魔術師にとって好き勝手に実験出来る土地は魅力的よ? 人的資源、物的資源、霊脈――それらを自由にできるとしたら、この国は協会に睨まれるような非合法な研究をしたい術者にとって楽園みたいな土地よね? けれど、そうそう好き勝手をする無法者は現れない。死徒だってこの国に領地を築こうとはしないわ」
言われて、士郎は考える。退魔と呼ばれるこの国の神秘に携わる者達は、魔術師にとってさほど脅威ではないらしい。だが、魔術師たちはこの国で好き勝手をしようとしない。その理由。
「――退魔以外に、何か不味いものがある?」
「正解。衛宮君、やるじゃない」
「先生が良いからな――でも、分からないことがあるぞ。遠坂が貰ったその手紙は、陵墓課からのものなんだろう?」
凛が手にしたままの封書を指さして、士郎。
「それじゃあ結局、遠坂を狙っているのは陵墓課なんじゃないのか?」
「これが宣戦布告の手紙だったら、そうね――けど、違うの。これはね、一刻も早くこの国から逃げてくださいっていう嘆願書」
「嘆願書……?」
「実質的なね。向こうは警告文っていうでしょうし、書き方もそうなってるけど。けど、彼らは私に戦わずに逃げて欲しいと思ってる」
「セイバーがいるからか?」
「いいえ、仮に私がセイバーと契約してなかったとしても同じだったでしょうね。彼らは、彼らの"主"が力を振るうことを何よりも避けたがっているのよ」
「……待ってくれ、遠坂。主? 宮内庁の?」
宮内庁。
この国に残された、”唯一の公家"を管理する機関。
その主とは、つまり。
「分かったみたいね。そう、天照大神の直系。現代における最高の伝承保菌者。三種の神器を伝える皇家――敵はこの国の神秘の根源を背負う化け物よ」
「……ということは」
いままで二人の会話を静観していたセイバーが入ってくる。
「この国の王が相手である、と? 聖杯から得た知識の中にはありませんが」
「いや、王様ってわけじゃ……いまはただの象徴だし。というか、遠坂。悪い、かなり混乱してる。あれって、本当にそんな無茶苦茶なものなのか?」
「何よ、表沙汰になってる歴史だけ見ても分かるでしょ。あの家系は西暦以前から続く、本物の神様の直系よ? 単純な"古さ"ならあの血筋を凌ぐ保菌者もいるけど、"強度"に関しては間違いなく世界一――」
「いや、まずそこから分からないんだ。確かに神様の血を引いてるなら色々な力を得られるんだろうけど……」
士郎の脳裏によぎるのは聖杯戦争で干戈を交えた数々のサーヴァントだった。ランサー、バーサーカー、金色のアーチャー。神性を帯びた存在は、それだけで高いステータスを得ることができる。
「でも血の濃さは世代を重ねるごとに薄まっていくだろ? 源平や南北朝でのごたごたもあったし、確か三種の神器の内、剣は海に沈んだっきりで今あるのは作り直されたものだった筈だ」
あの家が伝える神器――剣、玉、鏡。それぞれの縁起はまさしく一級の宝具として相応しいものだが、そもそも真作が現存しているのかという点では疑問が残る。
だが士郎の疑問に、凛は問題にもならないという風に手を振って見せた。
「形代、って言葉は知ってる?」
「知ってるぞ。代用物を使った憑代のことだろ? 投影魔術も本来はそういうのに使う術だって聞いた」
わかりやすいのが人柱だ。時代が進むにつれ、それまで容認されていた生贄を紙や木で出来た人形で代用するようになった。
「じゃ、それが答えよ」
「……端折りすぎて訳が分からないぞ、遠坂」
つまりね、と前置きしてから凛が語る。
「三種の神器については簡単な話。そもそも紛失したものからして形代――本物の代用物として作られた模造品だったってだけのことよ」
「それはおかしくないか? 必要がないのに模造品を作るなんて」
神器はあの家の象徴でもあり、継承をすることが正式な皇として認められる要素のひとつだった。
だからこそ、南北朝でその真偽が取り正され、争いのタネのひとつになったのだ。
「必要ならあったのよ。南北朝で争われたのは、"本物の形代"かどうかって話だし。真作は、常にその時代の皇が所持していたの」
「……? どういうことだ? 遠坂の言い方じゃ、南北朝の他に第三の皇がいたように聞こえるぞ。おまけに、まるでそっちが本物みたいな……」
「その通り。言ったでしょ、全部"形代"って言葉で説明がつくって。そもそも衛宮君が頭の中で想像している公家自体が"形代"なのよ。正確な年代は分からないけど、あの家は分化したの。政を取り仕切る形代としての表の家と、神秘の継承を担う裏の家にね。神器も本物を裏が、形代を表が奉った。そして、その仕組みは現代まで続いている」
「血の濃さは?」
「そんなの、いくらだって保つ方法はあるでしょう? というか、古事記なんかでは目白押しじゃない。それを表沙汰に出来なかったからこそ家を分けたんじゃないかしら」
「……頭が痛くなってきた」
何ということもない、という様子の凛とは逆に、士郎は頭を抱えてため息をついた。
「凛。しかし、私にも解せないことがあります」
頭の中でいままでの常識との折り合いを付けようとしている士郎をよそに、セイバーが質問役を引き取る。
「彼我の戦力差についてはひとまず置いておきましょう。しかしそもそも、どうしてその公家とやらが凛を狙うのですか?」
「それは、」
(……? 遠坂、少しだけ言い淀んだ?)
師でありパートナーである少女の常とは異なる間の取り方に、士郎は一瞬だけ疑問を持つ。
だが、所詮は一瞬のことだった。凛はすぐにいつもと同じ堂々とした雰囲気を纏い直す。
「聖杯戦争のせいね。今回の被害が向こうの目に留まったんでしょう。遠坂は御三家のひとつだし」
「すでに冬木の聖杯戦争は五度目になります。被害の程度でいえば、前回起きた大火災の方が凄惨だ。何故、今更?」
「詳しいことは私も分からないけど、陵墓課はあの家系が力を振るうことに否定的なのよ。この国にとって、あれは核の傘のようなものだった。程度を過ぎれば、抗いようのない最終措置がとられるっていうね。けれど、皇その人は被害を知ってしまえば動かざるを得ないという性質を持っている。だから、陵墓課の主な仕事は"事後処理"……被害を公家に対し露呈させないことだったんだけど――」
「今回に限って、それが失敗した、と?」
「そういうことなんでしょうね。綺礼の奴があんなことになったし、教会の隠蔽にも隙があった。その影響があるのかもしれない」
とにかく、と凛は話を締めくくった。パソコンの画面に表示されているチケットの時間を一瞥すると、ポケット時刻表を取り出し、空港までの足の算段をつけながら。
「敵の目的は明白――聖杯戦争が二度とこの国で起きないようにすること。術式の解体、並びにその関係者への"対処"よ」
◇◇◇
間桐慎二は病院のベッドに寝転がりながら天井を見つめていた。
一月前に終結した聖杯戦争。その中で我が身に降りかかった災厄は思い出したくもないほど碌でもないものだったが、それでもこうして生きている。
さすがに無傷とはいかなかった為、未だにベッドから起き上がれずにいたが――それでも五体満足で、いずれは元の様に動けるというのは破格の幸運なのだろう。
目下、慎二にとって一番の問題はいまのような空白の時間だった。
個室故に話をする相手はおらず、窓から見える風景も退屈を癒してはくれない。
体はまだ満足に動かない為、部屋の外に一人で行くこともできないとなれば、慎二にとってこの時間はほぼ拷問に近いものだった。
「桜、早く来ないかな……」
必然、慎二の意識は、ほぼ毎日のように見舞いに来てくれる少女に向けられる。
間桐桜。血の繋がらない、慎二の妹。
彼女には酷いことをたくさんしてしまったと、慎二は後悔している。かつては、自分が彼女を虐げるのは当然だと思っていた。マキリの業を、自分が受け継ぐはずだった魔術をよこから掠め取った女。自分に魔術の才能がないことからは目を逸らし、全ての彼女の責と逆恨みしていた。
だが『この世全ての悪』に一度沈み、慎二は魔術への執着を失った。あんなものは、もう欲しいとも思えない。彼の性格を歪めていたコンプレックスの大元が取り除かれたのだ。故に、彼は間桐桜に対し、罪悪感のようなものを芽生えさせていた。
もっとも未だ本人へ素直に謝罪ができないでいるのは、間桐慎二が間桐慎二である所以であったが。
思考を断ち切る様に、がらり、と音を立ててスライド式の扉が開く。
回診の時間ではない。ならば――と、慎二は喜色を胸の内に秘めて視線を向けるが、そこにいたのは桜ではなく、さらにいうなら既知の人物ですらなかった。
そこに立っていたのはひとりの老人だ。齢は80を超えているだろう。仕立てのよいスーツに小柄な体を包み、花束を手にしていた。
老人はためらうことなく、部屋に足を踏み入れた。背後でスライド式のドアが閉まり、外界と隔絶される。
「間桐、慎二さんですね」
「……そう、だけど」
病室を間違えた、というわけではないらしい。老人は慎二の名前を呼んだ。
老人とはいえ、見知らぬ男が病室に入ってきている。しかも、こちらは体を満足に動かせない。
そんな状況でも、咄嗟に慎二が誰何の声を発しなかったのは、目の前の老人に対して、ある種異様なまでに敵意の類を抱けなかったからだ。
老人の放つ雰囲気は、柔らかい春の日差しそのものだった。傍にいるだけで、気分が落ち着く。そんな奇妙なカリスマ性を感じさせる。
そうして慎二が対応しあぐねている内に、老人はベッドの脇にまで歩みを進めていた。花束をサイドチェストに一度置くと、その場でゆっくりと一礼する。どれも、気品を感じさせるような動きだ。
「御無事で、本当に幸いでした。私は貴方を守るべき立場にありながら、貴方を助けて差し上げられなかった」
「……お爺様の、知り合いか何か?」
「いいえ。重ね重ね失礼を。名乗るべきなのでしょうが、しかし、我々は"表"とは違い個人の名前を持ちません――対外的には、スメラギ、と呼ばれることが多いのですが」
スメラギを名乗る老人は、そう言ってベッドの上に投げ出されていた慎二の手を取った。見知らぬ男に手を握られるという、ともすれば怖気すら抱く出来事に、しかし慎二は動けない。肉体の損傷が問題なのではない。スメラギ氏がそうすることに、違和感を覚えられなかった。
「――そして、謝罪致します。せめて、これからの旅路が苦しみ無きものでありますよう……」
次の瞬間、慎二の意識は途絶えた。
最後に慎二が感じたのは、老人の手から伝わる膨大な熱量だった。聖杯など、『この世全ての悪』など、何の問題にもならない熱と神秘。
この老人は、体の中に太陽を持っている。
その事実を理解するよりも前に、熱は慎二の身体を余すことなく包み込み、その役割を終えていた。
「……安らかに、お眠り下さい」
スメラギは呟き、花をベッドの上に置き直す。
その時、病室の扉が控えめなノックされ、続けて少女の声が扉越しに響き渡った。
「兄さん、起きてますか?」
当然、返事はない。だから、間桐桜は扉を開けた。同時、スメラギも振り返る。
「え、あの……」
見覚えのない人物が部屋の中にいたことへの戸惑いに、桜の表情が一瞬だけ混乱する。
そう、一瞬だけ。その次に浮かんだのは、呆然と疑念を足して二で割ったような表情。その原因は、目の前の老人の背後にある兄の現状を目にした為。
「兄さん……?」
「間桐、桜さんですね」
スメラギは迷うことなく、再び歩みを進めた。必要なことをする為に。己が勤めを果たすために。
聖杯に飲まれた少年と、聖杯の欠片を宿す少女。両者への対処を終わらせるために。
◇◇◇
桜が死んだ。
間桐臓硯はその事実の前に、己が願望を果たす為の道が閉ざされていく感覚を覚えていた。
桜の身体に仕込んでいた刻印蟲は、その全てが一瞬で焼き尽くされた。状況を細かく検分する暇すら与えられなかったが、逆にそれが下手人を特定することになる。噂に違わぬ神秘の暴威。間違いなく、奴の仕業だ。
臓硯は手の中にある紫色の封筒を見やる。今朝届いた、陵墓課からの手紙。儀式を放棄し、早急にこの国より退去せよとの訴状。
陵墓課は腰抜け揃いだが、全国各地に拠点と人員を配置している。国内に限り、その情報収集能力は間違いなく一流だ。桜に聖杯の欠片を埋め込んだことも知られているのだろう。それ故の"対処"。
この国に来た時から、『皇(スメラギ)』という脅威は知っていた。この国の神秘に纏わる最終安全装置。それが発動すれば、一切の容赦呵責なく狼藉者は死ぬと。
その対象に冬木の聖杯戦争が選ばれるなど、夢にも思わなかった。そもそも、最初はここまで大規模なものではなかったし、近年では聖堂教会による隠蔽の為の介入もあったのだ。
だから大丈夫だろうと――思っていたのは、甘かったと言わざるを得ないだろうが。
「……慎二も小聖杯を埋め込まれ、歪とは言え器となっていた。無事ではあるまいな……」
そして、次は自分の番という訳だ――臓硯のいる蟲蔵。その天井の向こうから、迎撃に差し向けた蟲群の悲鳴が響いていた。
病院で"処理"を終えてからすぐここへ向かったのだろう。臓硯が準備らしい準備をする間もなく、皇は間桐邸の前に姿を現し、そして進撃を開始していた。
間桐邸は臓硯の工房だ。仮に一流の魔術師であっても、足を踏み入れれば生還叶わぬ死地となろう。
だが、皇は問題なく歩みを続けている。大量の凶悪な蟲たちは、文字通り足止めにもならないらしい。
いつの間にか臓硯の口からは、震えるような呟きが漏れ出していた。
「嫌じゃ……死にとうない……儂は、まだ、死しにとうない……!」
だが台詞と裏腹に、彼の身体は具体的な行動を起こそうとしない。
何をすべきか、何をすればいいのか思いつけなかった。おぞましいほどの神秘の重圧が頭上から降ってくる。既に生き埋めにされたも同然の現状。
臓硯は薄暗い蔵の片隅で、着実に近づいてくる"死"に対し、震え続けることしかできない。
――そして、その"死"はこともなげに臓硯のもとに辿り着いた。
「マキリ・ゾォルケンですね」
固く閉ざしていた蟲蔵の扉が、溶けるように消えた。ジュッ、という水っぽい音は、それが地上では本来有り得ぬほどの高温で蒸発したことを示唆している。
蔵に光が差し込む。その光輝を連れ立つように、皇は蟲蔵の底へ続く階段を一歩一歩、踏みしめるようにゆっくりと降りてきた。
「聖杯を諦めると、ここに誓ってください。さすれば命までは取りません」
R版に立て逃げしておいて、何さらっとこっちで書いとんねんこの荒らし
だが、臓硯にとってそれは命を諦めることと同義だ。
だからこそ、臓硯は逃げられなかった。冬木から離れられなかった。
聖杯による不老不死が達成できないならば、もはやこの肉体は、魂はこれ以上連続することに耐えられない。
「それと、起動式の場所も。この地の霊脈ごと轢断するのはいささか乱暴すぎるでしょう」
それでも、この男の前に立つよりはましだったのかもしれない。
こうして実際に見る皇は、臓硯ほどではないにしても小柄と形容されるだろう。
だが、その矮躯から放たれる神秘の圧は、人が発してよいものではない。臓硯は都合5度、聖杯戦争を見てきたが、これまでに呼び出されてきた英霊の中にさえ、ここまで圧倒的なものはいなかった。
"敵わない"。
それは勝てないということではない。負けぬことができないのではない。その程度なら、英霊如きにさえこの身は届かない。
敵わぬというのは、あらゆる希望が叶わないということ――完全な運命の遮断である。この男を前にしては、いかなる希望も抱けない。
いつの間にか、恐怖から来る体の震えは止まっていた。恐怖とは、不明から来る感情だ。『どうなるか分からない』から怖いのであって、はっきりと未来が分かるのであれば恐怖はない。
間桐臓硯の死は、ここに確定した。
求め続けていた不老不死は、もう手に入らない。
(儂は――)
臓硯はゆっくりと立ち上がった。返答を待ち続ける皇に、相対する。
皇は凄むこともしない。ただ静かにこちらを見据えている。臓硯もまた、揺れぬ眼を向けた。
「大聖杯を、砕くつもりか」
「ええ。かの儀式で、我が民を傷つけぬようにするには元を断たねばなりません。起動式、ならびにそれを再現できる者達。その全てに適切な処置を行います」
「やはり、か。では……儂に出来る返事はこれだけじゃのう」
呟いて、臓硯はその場に跪いた。交差させるように重ねた両手を床に置き、その上から額を擦りつけるように頭をさげる。
>>11
マジで? ごめん、何か間違ったっぽいな。そっちはあとで消去依頼出しとくわ
「――断る、と」
冷たい石で出来た床材のひとつを押し込む。連動して組み変わった石材が魔法陣を形成した。
「перебiй(停止)」
久しく口にしていなかった故郷の言葉を紡ぎ、ゾォルケンとしての魔術を行使する。普段は蟲の制御に魔力を費やしているが、過去の術を忘れたわけではない。ましてや、ここはマキリの工房だ。
限定結界内にいる者へ令呪級の強制力を課す束縛の魔術。その性質は、臓硯の造り上げた令呪と同じく瞬間的な単一の命令であるほどに効果が高まるというものだ。
故に、命じたのは一瞬の停止。更に機を合わせ、攻撃可能な全ての虫たちを投入した。
数千の虫が部屋の中央にいた皇に殺到する。一匹一匹はさほどの脅威でもないが、多いということはそれだけで強みだ。魔蟲達は並大抵の守りなら突破して敵に喰らいつく。この状況なら、サーヴァントとて殺せる自信が臓硯にはあった。
皇の姿は消えた。目の前にあるのは、蟲にたかられた人型だ。表面で蠢くおぞましい生命体が、内部に対して攻撃を続けているのが分かる。
(――攻撃を続けている、か)
ゆっくりと床から立ち上がりながら、臓硯は口元に皮肉気な笑みを浮かべた。猛牛すら五秒以内に喰らい尽くす蟲たちの前に、人体程度の質量など一瞬で蟲の胃に収まるだろう。ならば、それがまだ続いているということは、
「……それほどまでに、聖杯が欲しいのですか」
予想していた声が、蟲柱の中から聞こえる。次いで、目が眩むような光が蟲蔵を満たした。
観測できるほどの経過は発生せず、ただ結果のみが臓硯の目の前に現れる。即ち、一瞬で残骸すら残さず消失した蟲柱の跡から、無傷の皇が。
「そのような身に成り果ててまで、何を願うのです?」
「不老不死――で、あったよ。貴様がここに来るまではな」
「いまは違うと?」
「貴様を前にして、死なずに済むと夢想できるほど子供ではなくてなぁ」
そう。いまや不老不死という宿願は、臓硯から失われた。取り上げられた。剥がれ落ちた。
故に――妄執によって魂の底におしこめられていた、本来の願いが浮上する。
「ひとつだけ礼を言っておこうかの。貴様がそこまで圧倒的であってくれたおかげで、儂は不老不死の先に求めたものを思い出せた」
先ほど皇は言った。大聖杯を砕くと。それはつまり、かの貴き冬の聖女を砕くということ。
ならば――この身は勝てぬ敵にすら立ち向かわなくてはならない。
曲がっていた腰がすっくと伸びた。皺だらけだった肌が、空気でも入れたように充実する。
「――彼女を守る為に戦って死ねるというのなら、それはこの"私"にとって望外の結末だろう」
呟いて、かつての姿を思い出したマキリ・ゾォルケンは、握っていた杖をレイピアのように構えた。
相性は最悪だ。敵は光熱を操りし太陽の化身たる天照大神の直系。我が魔導の結実たる蟲は役に立たない。故に、マキリは命じた。
蟲達が杖に群がり、そして自ら自壊する。汚らしい体液を撒き散らし――そしてその毒々しい液体は、やがて杖を覆い毒液の刃を形成した。
マキリの属性は水だ。これで敵の熱にどこまで抗えるかは未知数だが、どの道これ以上のものは用意できない。
皇はこちらの動きを待つかのように、無言でその場から動かなかった。慢心か、あるいは――
どの道、先手を譲るつもりは無い。思考を打ち切り、マキリは死道を往く為、裂帛の気合いを吐いた。
「受けよ、我が五百年!」
全力で踏み込み、突き出すは杖剣。この杖とて、マキリと同じだけを生きた業物のひとつ。楢に寄生したヤドリギの中から更に肥大したものを選別し寄り合せたもの。ひとたび敵を打てば根こそぎにオドを吸収し干からびさせる必殺の限定礼装である。
だが、敵の領域に触れた瞬間、マキリは未だ敵の底を見通せていなかったことに気づかされた。
敵を貫かんと突き出した杖は、当然の如く皇に届いていない。ここまではマキリも予想していた。されど、それは何らかの手段――先ほどまで見せていた暴力的な熱波等による障壁に阻まれるものだと予想していたのだ。
杖の先は届いていない。ただ、届いていない。目測を誤った、という無様はない。何故なら、確かに踏み込んだ分の距離すらも縮まっていなかった。
まるでマキリが踏み込んだ分だけ、皇が下がったようにも見える形。だが、両者の位置は最初から一切動いていないという矛盾。
(これは――)
先を考えるよりも早く、いつの間にか掲げられていた皇の手が輝いた。
マキリの頭と心臓にそれぞれ一発ずつ、不可視の何かによって風穴が空く。さらに続けて放たれる熱波が一閃し、それで500年を生きた魔術師の肉体は一欠けらも残らずに蒸発した。
皇は掲げていた手を降ろすと、溜息をひとつついた。表情にははっきりとした憂いが浮かんでいる。責務とはいえ、命を奪うのは辛い――
――などと、思っているのなら。
(私はその慢心に、容赦なく付け込ませて貰おう)
マキリは音もなく天井を蹴った。肉体を失った為、それは当然彼の"本体"である。
皇の頭上より無音で迫るそれは、人の頭部ほどもある、蛞蝓のような質感を滲ませる化け物だった。マキリ・ゾォルケンの魂を現世に留める頸木である。
自分が何を用意しようが、皇の防御を貫くことは不可能。
ならば話は簡単だ。相手に自ら防御を解かせればいいだけのこと。
愛と理想を叫べば勝利を呼び寄せられる、などという青臭い信仰を抱けるほど、マキリは若くなかった。全ては先ほどの一撃を、信念すら掛けた乾坤一擲と信じ込ませる為のブラフ。
魂蟲から剥離するように一条の触手が伸びた。その先には人の小指よりも小さな、武器というにはあまりにも頼りない鉤爪。もとより戦闘用に設計された蟲ではない。だが、それで十分。狙いは首の頸動脈。一寸斬り込めば人は死ぬのだ。
無音で触手が振るわれる。勝利を確信させた後の、完璧な奇襲。これに対応できる筈はない。
一閃。
凶器の威力は、余さずに発揮された。標的が真っ二つに両断され、蟲蔵の床に転がる。
(……ハ。やはり、こうなる定めか)
別たれたマキリの本体は、感覚器のひとつで皇の姿を見ていた。いつの間にか、相手はその手に一振りの剣を握っている。紛うことなき三種の神器がひとつ。神代に造られ、現代にまで継承される神造兵装。それが、この身を両断したものの正体だった。
「――お見事でした、マキリ・ゾォルケン。歴代の皇が敵と見定めた者の中でも、最後まで抗うことを止めなかった魔術師は多くない。そして、我が身に届き得た者も」
皇の額からは一筋の血が流れていた。マキリの触手が、両断されてなお振るわれ、掠めた傷だ。
だが、当然ながら死にゆくマキリにとってそれは慰めになり得ない。
(呵呵――何が見事なものか。最後の奇襲には、ハナから気づいていたであろうに)
咄嗟に気づいたのならば、準備の必要ない光熱波での迎撃になるだろう。わざわざ神剣を取り出してまで振るったのは、皇がこれから殺す相手を憐れんだからに他ならない。
(まったく、業腹よ。だがひとつ、意趣返しをしてやれた。そして救いもある……ユスティーツァ、我らは、共に……)
それが、常世総ての悪を敷こうと決意し、五百年を生きた老魔術師の最期の思考だった。
「……」
相手が完全に息絶えたのを確認してから、皇は左の人差し指の先で、額に付けられた傷をなぞる。まるで修正テープを使って文字を消すように、なぞった傍から傷は消え、健康な色の肌が残った。
そうしながら、周囲を見やる。蔵に残された蟲達は、主を殺した怨敵を逃す気はないようだった。キィキィと耳障りな声を上げている。
どの道、魔術師の制御を離れた使い魔を放っておくという選択肢は無かった。右手に握った神剣を意識しながら、言霊を紡ぐ。
「―― 一匹たりとも逃すことはできない。ならば、燃やすしかありませんか」
口にした瞬間、蟲蔵を紅蓮が満たした。先ほどまで皇が放っていた光熱とは違う、荒々しいまでの炎。岩を溶かすほどの熱量が荒れ狂う。
同時に、皇の姿はその場から消えた。後には炎に巻かれて断末魔を挙げる蟲の声だけが残る。
――仮に、その場に魔術師がいれば、一連の現象に目を丸くしただろう。
炎。空間転移。文字にすればそれだけの現象。だが、カテゴリが違う。
"それ"は魔術では無かった。"それ"は今の時代にあってはならないものだった。
何故、この国が魔術的なアンタッチャブルとされているか――その端的な解答であった。
かくして、マキリへの対処は終わった。既にアインツベルンは郊外の城を結界ごと根こそぎにしてある。外国に本拠を持つ彼の家に対し、根本的な処置にはなるまいが、それでも警告の代わり程度の役割は果たすだろう。
残る御三家はあとひとつ。この地を管理する役目を持っていた遠坂家。
◇◇◇
藤村大河からの電話が衛宮邸の静寂を破ったのは、士郎がちょうどスポーツバッグに最低限の荷物を詰め込んだ時だった。
何しろ帰ってこられるかは未知数だ。電気水道ガスなどのライフラインの停止については、時間もないので向こうに着いてから各機関に電話しようと士郎は思っていたが、その他にも戸締りなどやっておくことは色々とある。
けたたましく鳴り響くベルの音に、士郎はバッグを片手に自室から小走りで廊下にでた。途中、居間で士郎の準備を待っている凛とセイバーの姿が目に入る。凛はちゃぶ台の上で、何やら手紙のようなものを書いていた。霊地管理に関しては、後任の神父に丸投げするつもりらしい。この騒動の後、霊脈が無事ならばの話だが。
受話器を取って、耳に当てる。いま思えば無視してしまっても良かったように思うが、結果的にここで電話を受けたことが命運を分けたのかもしれない。
「はい、衛宮で」
『士郎!? 桜ちゃんそっちにいる!?』
電話機が爆発したのかと思うほどな規格外の音量に、士郎は顔をしかめて一度受話器を離した。一呼吸置いて、再び耳を近づける。
「藤ねえか。なんだよ、そんな声出して」
『だから! 桜ちゃん! いる!?』
「桜? 桜なら、今日は来てないぞ」
壁掛け時計を見ると、時刻は昼下がり。そう言えば昼飯を食い損ねたな、と思いながら答える。
「確か、今日は弓道部にでるって話しだったけど、そっちに行ってないのか?」
『練習は午前だけだったから、お昼前には帰っちゃったの――って、そうじゃなくて! じゃあ、桜ちゃんがいまどこにいるのか知らないの!?』
「知らない。家にはもう掛けたのか?」
士郎の台詞に、大河が沈黙を挟んだ。話すかどうか、決めあぐねている。そんな雰囲気。
「藤ねえ?」
『……あのね、落ち着いて聞いてね、士郎』
電話の向こうで、すぅ、はぁ、と一度大きく深呼吸する音が聞こえた。
自分もしておくべきだったのだろう。次に大河が発する言葉を聞いて、士郎は心臓を重く殴りつけられた心地を味わうことになった。
『桜ちゃんのお家が、燃えてるの』
「……え?」
『火事みたいなの! うちの若い子が桜ちゃんの家の近くに住んでるんだけど、連絡があって! 消防車は呼んだんだけど、中から誰も避難してきた様子が無くて、火勢が強くて助けにも入れないって――!』
「お、落ち着け。落ち着け、藤ねえ」
どんどんまくし立てるような声音になっていく大河に、士郎は宥めるように声を掛けた。だが、その声すら上ずっている。
ただならぬ様子を感じ取ったのか、凛とセイバーも居間から出てきていた。士郎にそれを認識する余裕は無かったが。
「桜が巻き込まれた、って決まったわけじゃないだろう。どこかに出かけてるだけかも知れない。ほら、同級生の友達とかと一緒に」
『桜ちゃん、友達いないじゃない!』
「い、いないわけじゃないだろ!」
動揺しているせいか、二人ともどことなく失礼な物言いになってしまったが、確かに桜はどちらかと言えば内向的な部類に入る。交友関係は広いとは言い難く、休日や放課後は大抵衛宮邸で過ごしていた。
「そ、そうだ。慎二は? 慎二の見舞いじゃないのか? この頃はほとんど毎日行ってただろう」
『それが、そっちにも電話したんだけど……変なのよ。もう退院しました、って』
「いや、それはおかしいだろ。慎二はまだ当分動けない状態だった筈だぞ」
『私だって変だと思ってるわよ。ねえ、士郎。こっちはこれから病院に行って来るけど、そっちも心当たりがあったらあたってみてくれる?』
「ああ、分かった」
「藤村先生から? 間桐さんがどうかしたの?」
受話器を置くのと、ほとんど同時に凛が声を掛けてくる。
同時、凛の顔を見ることで、二つの点が繋がった。間桐邸の火事。凛を狙っているという皇は、正確には聖杯戦争の関係者を狙っているということ。
「遠坂、桜の家が火事らしい。これって、そういうことか?」
士郎の言葉に、凛の顔が目に見えて分かるほど青くなるのが分かった。咄嗟に右手を壁について転倒を防ごうとするまでに。
「凛!」
「遠坂!?」
咄嗟に二人が手を伸ばして支えようとするが、凛は気丈にもこれを手を振って断った。冷静になろうとしているのか、ぶつぶつと小声で自問自答するように呟いてる。
「……迂闊だった。狙われるのは臓硯、最悪慎二までだと思ってたけど……まさかまとめてってこと? でも……」
「やっぱり、例の?」
「……そうね。間桐の屋敷がただの失火で火事になるなんてことないわ。このタイミングで別件、ってことはないでしょう」
凛の言葉に、瞬時に士郎の頭は沸騰した。桜。妹のような存在。衛宮士郎にとっての、日常の象徴。
次に出た台詞は、思わず大きな声になってしまう。
「桜は……桜は関係ないだろう!?」
「私だってそう思ってたわよ! 聖杯に繋がった慎二はともかく、桜までは対象にならないって!」
凛も同様の想いだった。士郎の誰へでもない問いかけを切り捨てるように、鋭く叫ぶ。
「慎二……そういえば、慎二にも連絡がつかないらしい。病院にはもういないって……でも、あいつはまだ満足に歩けない状態だった筈だ」
それが意味することは、何か。
同じ沈黙を共有する二人に、セイバーが声を上げた。
「凛、シロウ。ここで言い争っていても、二人の安否は分からない。確実なのは、どうやら敵が既にこの地にまで侵攻しているということ。道は二つ。敵に接触する危険を冒しても桜達の状況を確かめにいくか、それとも今すぐに冬木を離れるかです」
「……俺は、二人のことを確かめに行きたい。もしかしたら、桜が慎二を連れて逃げてる可能性はある。なら、助けないと」
「……そうね。ここで言い合っていても仕方ないわ。どの道、追いつかれてるっていうんなら逃げ切れる保証はない」
意見は一致した。二人の瞳の中には不安と、そして怒りがある。間桐桜。士郎は加えて慎二も。二人を理不尽にも奪われたかもしれないという怒りが。
「でも、もしも接敵してしまったのなら、覚悟を決めなきゃならないわ。衛宮君、貴方だけなら逃げられると思うけど――」
「まさか。分かってて言ってるだろう、遠坂」
「一応ね。あんたが何て言うかなんて分かりきってたわ、士郎」
通じ合うもの同士に共有される、不敵な笑みが交わされる。
その横で、玄関の扉が開いた。
「はー、よっこらしょっと。ちょっと買いすぎちゃ……きゃっ、せ、せせせ、先輩! あわわ、遠坂先輩も!? い、いまの聞いてましたか!? ませんね!?」
なんて、聞き覚えが有りすぎる、そしてこの雰囲気を轢断する少女の声。
ばっ、とセイバーを含めた三人がそちらに顔を向ける。
そこには話題の間桐桜がいた。商店街で買って来たらしい食材などが入ったビニール袋を片手に、なにやら右往左往している。
士郎と凛の思考は、確かに一瞬停止した。
そして、復帰する。復帰後の行動は、やはり同じものだった。
「桜っ」
同時に叫び、同時に駆け出し、そして同時に玄関の少女を抱きしめる。
「ひゃあっ」
「桜……良かった、無事だったんだな」
「ほら、言ったでしょ。この子は大丈夫だって……怪我が無くて良かったわ、……間桐さん」
「あ、あの、これはどういうことなんでしょう……ちょっと苦しいです……」
桜の言葉に、二人はぱっと離れた。何となしに漏れてしまった言葉だったのだろう。桜の方が、あ……、と名残惜しそうな表情を一瞬浮かべる。
だが、安堵に包まれる士郎と凛はそれに気づかない。例外は二人の後ろで暖かい視線を向けているセイバーくらいのものだろう。
士郎はほっと息を吐きながら、改めて後輩の無事を確かめた。
「本当に良かった、桜……家にも病院にもいなかったんだな」
「え? あの、それはどういう……」
戸惑いの表情を浮かべる桜を遮る様に、凛が言葉を重ねる。
「間桐さん、落ち着いて聞いてね。慎二は死んだわ。でも、こればっかりはどうしようもないの。しょうがない奴だったししょうがないわよね? 野良犬に噛まれたと思って諦めて頂戴」
「遠坂! さすがにそれは言いすぎだ! 確かに慎二はたまにちょっとどうかと思うところもあったけど、それでも根は良い奴だったんだ!」
「どこがよ。良い点を言ってみなさいよ」
「分かった。五分くれ」
「いや、そこは即答しろよ!」
と、ツッコミを入れたのは、桜に続いて玄関をくぐった間桐慎二その人だった。
桜の肩ごしに二人が見やると、どうやら幽霊でもないらしい。桜と同様のビニール袋を両手に持ち、二つの足でしっかりと地面を踏み、肩を怒らせてずかずかと上り込んでくる。
「慎二!? 生きてたのか!」
「当たり前だろ。勝手に僕を殺すなよ。特に遠坂」
慎二は凛を睨みつけるが、当の彼女はどうでも良さそうに枝毛など探していた。その様子を見て、さらに慎二の表情が引き攣るが、士郎が取り成すように間に入る。
「藤ねえが連絡がつかないって心配してたんだ……慎二、家のことは知ってるか?」
「藤村が? 家……?」
しばらく考え込むと、慎二は顔を上げた。にやりと得意そうに笑い、
「火事にでもなってた?」
「慎二……どうして……」
唖然とする士郎に、慎二は更に笑みを深めた。この名推理に驚いているのだろうと気分を良くしたのだ。
「ふふん、初歩的なことだぜ衛宮。まず、」
「放火は重罪なんだぞ、慎二……」
「僕が燃やしたんじゃないよ!」
絶叫しながら掴みかかってくる慎二。病み上がりとは思えないその力強さに、士郎は今度こそ驚愕を浮かべた。
「うわ、ちょっ、待て待て……っていうか、何でそんなに動けるんだ。退院はもっと後って話だったろ?」
「……まあいいや。僕の身体は治してもらったんだよ。その様子だと、そっちにも話は伝わってるんじゃないのか?」
「どの話だ? それに、治してもらったって……」
「だから"陛下"の話さ。僕の身体を治したのも、たぶんお爺様ごと家を焼いたのもあの人だよ」
「陛下って……会ったのか!?」
目を丸くする士郎に、慎二は今度こそ得意げに胸を逸らし、ふんぞり返って命令した。
「話してやってもいいけど、ずっと入院生活だったから点滴ばっかりで、碌なもの口にしてなくてさ――料理、できるんだろ? ちょっと遅いけど、何か食べさせろよ」
戸惑いの表情を浮かべる桜を遮る様に、凛が言葉を重ねる。
「間桐さん、落ち着いて聞いてね。慎二は死んだわ。でも、こればっかりはどうしようもないの。しょうがない奴だったししょうがないわよね? 野良犬に噛まれたと思って諦めて頂戴」
「遠坂! さすがにそれは言いすぎだ! 確かに慎二はたまにちょっとどうかと思うところもあったけど、それでも根は良い奴だったんだ!」
「どこがよ。良い点を言ってみなさいよ」
「分かった。五分くれ」
「いや、そこは即答しろよ!」
と、ツッコミを入れたのは、桜に続いて玄関をくぐった間桐慎二その人だった。
桜の肩ごしに二人が見やると、どうやら幽霊でもないらしい。桜と同様のビニール袋を両手に持ち、二つの足でしっかりと地面を踏み、肩を怒らせてずかずかと上り込んでくる。
「慎二!? 生きてたのか!」
「当たり前だろ。勝手に僕を殺すなよ。特に遠坂」
慎二は凛を睨みつけるが、当の彼女はどうでも良さそうに枝毛など探していた。その様子を見て、さらに慎二の表情が引き攣るが、士郎が取り成すように間に入る。
「藤ねえが連絡がつかないって心配してたんだ……慎二、家のことは知ってるか?」
「藤村が? 家……?」
しばらく考え込むと、慎二は顔を上げた。にやりと得意そうに笑い、
「火事にでもなってた?」
「慎二……どうして……」
唖然とする士郎に、慎二は更に笑みを深めた。この名推理に驚いているのだろうと気分を良くしたのだ。
「ふふん、初歩的なことだぜ衛宮。まず、」
「放火は重罪なんだぞ、慎二……」
「僕が燃やしたんじゃないよ!」
絶叫しながら掴みかかってくる慎二。病み上がりとは思えないその力強さに、士郎は今度こそ驚愕を浮かべた。
「うわ、ちょっ、待て待て……っていうか、何でそんなに動けるんだ。退院はもっと後って話だったろ?」
「……まあいいや。僕の身体は治してもらったんだよ。その様子だと、そっちにも話は伝わってるんじゃないのか?」
「どの話だ? それに、治してもらったって……」
「だから"陛下"の話さ。僕の身体を治したのも、たぶんお爺様ごと家を焼いたのもあの人だよ」
「陛下って……会ったのか!?」
目を丸くする士郎に、慎二は今度こそ得意げに胸を逸らし、ふんぞり返って命令した。
「話してやってもいいけど、ずっと入院生活だったから点滴ばっかりで、碌なもの口にしてなくてさ――料理、できるんだろ? ちょっと遅いけど、何か食べさせろよ」
戸惑いの表情を浮かべる桜を遮る様に、凛が言葉を重ねる。
「間桐さん、落ち着いて聞いてね。慎二は死んだわ。でも、こればっかりはどうしようもないの。しょうがない奴だったししょうがないわよね? 野良犬に噛まれたと思って諦めて頂戴」
「遠坂! さすがにそれは言いすぎだ! 確かに慎二はたまにちょっとどうかと思うところもあったけど、それでも根は良い奴だったんだ!」
「どこがよ。良い点を言ってみなさいよ」
「分かった。五分くれ」
「いや、そこは即答しろよ!」
と、ツッコミを入れたのは、桜に続いて玄関をくぐった間桐慎二その人だった。
桜の肩ごしに二人が見やると、どうやら幽霊でもないらしい。桜と同様のビニール袋を両手に持ち、二つの足でしっかりと地面を踏み、肩を怒らせてずかずかと上り込んでくる。
「慎二!? 生きてたのか!」
「当たり前だろ。勝手に僕を殺すなよ。特に遠坂」
慎二は凛を睨みつけるが、当の彼女はどうでも良さそうに枝毛など探していた。その様子を見て、さらに慎二の表情が引き攣るが、士郎が取り成すように間に入る。
「藤ねえが連絡がつかないって心配してたんだ……慎二、家のことは知ってるか?」
「藤村が? 家……?」
しばらく考え込むと、慎二は顔を上げた。にやりと得意そうに笑い、
「火事にでもなってた?」
「慎二……どうして……」
唖然とする士郎に、慎二は更に笑みを深めた。この名推理に驚いているのだろうと気分を良くしたのだ。
「ふふん、初歩的なことだぜ衛宮。まず、」
「放火は重罪なんだぞ、慎二……」
「僕が燃やしたんじゃないよ!」
絶叫しながら掴みかかってくる慎二。病み上がりとは思えないその力強さに、士郎は今度こそ驚愕を浮かべた。
「うわ、ちょっ、待て待て……っていうか、何でそんなに動けるんだ。退院はもっと後って話だったろ?」
「……まあいいや。僕の身体は治してもらったんだよ。その様子だと、そっちにも話は伝わってるんじゃないのか?」
「どの話だ? それに、治してもらったって……」
「だから"陛下"の話さ。僕の身体を治したのも、たぶんお爺様ごと家を焼いたのもあの人だよ」
「陛下って……会ったのか!?」
目を丸くする士郎に、慎二は今度こそ得意げに胸を逸らし、ふんぞり返って命令した。
「話してやってもいいけど、ずっと入院生活だったから点滴ばっかりで、碌なもの口にしてなくてさ――料理、できるんだろ? ちょっと遅いけど、何か食べさせろよ」
うわ、連投になってる。駄目だ。やたら重い。ちょっと時間あけます
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