346プロの奇怪な夏 (112)
これはモバマスssです
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◯◯◯さん
「P.C.Sの三人が休み?」
夏も盛りの八月一日。
ほんの数日前までは雨と曇りの連続でそこまで暑くない日々が続いていたと記憶しているが、それが遠い彼方の事の様に感じられる程、猛暑がここ数日を無限に感じさせていた。
何処に潜んでいたのだろう蝉の大群が街を我が物顔でコンサート会場とし、空では太陽が何をそんなに張り切っているのかひたすらに存在感を主張している。
世間の学生はこの暑さに、休みに向けてワクワクしながら立てた予定に首を絞められ嫌気がさしている事だろう。
海やプールは何処も満員電車を超える混雑具合だろうと言うことは、現地に赴かなくても分かる。
友達との遊びの予定が立たず、かと言って家で何もせず過ごすのも勿体ないと思った小・中学生組はよく事務所に来て遊んでいた。
冷房は勿論の事、購買、知り合い、トレーニングルーム等々求める物はなんでも御座れ。
何より安全面・防犯面においてはそこらのアミューズメント施設とは比にならないレベルなので、親御さんも安心されている事だろう。
つい先ほど隣の部屋で、夏休みの宿題をやっている子と飽きて落書きしている子を見かけた。
まぁ、そんな夏が夏として続き、八月に入った今日この日。
アシスタント兼事務員の千川ちひろから、アイドルユニット『P.C.S』の三人が体調不良で休みと報告を受けた。
島村卯月、小日向美穂、五十嵐響子の三人が同時に体調不良となると、当然ながらレッスンも仕事も何も出来ない。
ありがたい事に今週は特に予定が無かった(とはいえレッスンの予定はあったが)ので、トレーナーさんに連絡するのみで済む。
「ここ最近暑かったですから……熱中症じゃないと良いんですけど……」
「レッスンルームのエアコン、調子悪かったりしましたっけ?」
「その様な報告はありませんけど……プロデューサーさん、彼女達のスケジュールの方は大丈夫ですよね?」
「はい、響子の誕生日ライブがある八月十日まではレッスン以外入っていません」
逆に言えばそれまでに体調を治して貰わないと、本当に大変な事になる訳だが。
特に病気や怪我でないただの体調不良ならば、そこまで心配しなくて大丈夫だろう。
普段から熱心にレッスンに取り組んでいた彼女達ならば、数日の休みでの遅れ程度なら、直ぐに取り戻せる筈だ。
……三人同時に、か。
一人でも体調が治るまで、暫くは完全にストップだな。
「……三人が最後にロケに行ったのっていつでしたっけ?」
「三人一緒に、ですか? 確か六月の『関東タピオカリポート』だったと思います」
「六月か……なら大丈夫そうですね」
「…………?」
それは原因とは関係なさそうだ。
いや、寧ろそういった可能性の方が圧倒的に低い事くらい理解している。
ロケに行ったからと行ってその都度何かあったのでは、芸能界なんてとうに滅びている。
首をかしげるちひろさんを放って、俺はパソコンに向き直った。
この後は外回りだが、どうやら外の気温は三十度をゆうに超えているらしい。
空調の壊れた日本には一刻も早くメンテナンスか秋に入って頂きたいが、まぁそうもいかないだろう。
冷感スプレーとボディペーパーに全てを託し、覚悟を決めるまでの時間稼ぎにキーボードを叩き続けた。
「暑い……ダメだ、夏滅べ……」
結論から言って、夏の暑さは人類の手に負える範疇を超えていた。
自然と悪くなる口をそのままに、冷房の効いた事務所の部屋でソファに座り込む。
事務所は良い、蝉も鳴いてないし陽炎も無い。
このままソファの住人になりたいなどと間抜けな事を本気で検討しつつ、バテない様にお茶と飴玉を摂取する。
「あ、良いもの持ってますね~。私にも一つ頂けませんか?」
「ん、鷹富士さんか。お疲れ様」
「お疲れ様です、プロデューサー。すっごくお疲れみたいですね~」
「なんで喜んでるんだ」
「弱ってるプロデューサーも可愛いなぁ、なんて思ってませんからっ!」
なるほど、なかなか性格がひん曲がっている。
隣に腰を下ろしてきた鷹富士さんに、飴玉を一つ渡す。
そろそろストックがきれそうだ、はやいうちに補給しておかないと。
「……食べないのか?」
「プロデューサーにプレゼントして貰ったものですから、とっておこうかなーって考えてました。可愛らしくありませんか?」
「自分で言うのか」
まぁ別にあげたものだからいつ食べようが何も言わないが。
プレゼントが飴玉ってどうなのだろう。
いや、喜びそうなアイドルも何人かうちの事務所に居るけれども。
「お仕事の調子はどうでしたか~?」
「絶不調。打ち合わせ相手も暑さでグダグダだったよ」
喫茶店に入ってしばらく、お互い愛想笑いを浮かべつつもシャツをパタパタやっていた。
アイスコーヒーを何杯飲んだか、お互いの合計が6を超えてから数えるのをやめた程だ。
「そんなにコーヒーばっかり飲んだら、体調崩しちゃいますよ? ええと……コカイン中毒でしたっけ?」
「カフェイン中毒な、そんな危ないものはコーヒーに含まれてない」
ん、そうだ。
体調を崩すで思い出した。
「鷹富士さん、複数人が同時に体調を崩したらどう思う?」
「熱中症ですね~。最近は暑いですから、ロケ中に水分補給を怠ると大変な事になっちゃいそうです」
「まぁそうだよなぁ」
「あとは……それって、事務所のアイドルのお話ですよね?」
「そう。まぁ多分本当にただ体調が悪いだけなんだろうけどな」
ふむふむ、と言った様に顎に手を当てる鷹富士さん。
時折チラチラこちらに視線を向けてくるが、どうしたのだろう。
「……集中してる女の子の横顔って、こう、グッときませんか~?」
成る程、何も考えていなかった、と。
「そろそろ帰るか。明日もあるし」
「明日が無かったら大問題ですからね~」
よし、帰ろう。
帰宅してシャワーを浴び、即缶ビールを一本空ける。
それから一応今日休んだ三人に『大丈夫そうか?』と、それから『トレーナーさん達にも伝えてあるから、ゆっくり休んでくれ』とのラインを個別に送る。
普段の行いの良さもあり、三人同時に体調不良というサボりに疑われそうな事態でもトレーナーさん達は微塵も疑わなかった。
まぁその分、今後のレッスンは多少厳しくなるだろうが。
ピロンッ
卯月から返信があった。
卯月『ご迷惑お掛けします。出来るだけ早く治して頑張ります!』
画面の向こうで両腕でガッツポーズをする卯月の姿が浮かぶ様だ。
P『お大事に』
既読は着いたが、それ以降のやりとりはなかった。
おそらく寝たのだろう、と信じたい。
電話が好きな彼女の事だ、もしかしたら他の誰かとお喋りしている可能性もあるが。
それこそユニットメンバーである美穂や響子と喋っているかもしれない。
それから暫くして、今度は響子から返信があった。
響子『迷惑かけちゃってすみません。ご飯もしっかり食べたので、直ぐに治ると思いますっ!』
P『何食べたんだ?』
響子『ハンバーグです!』
ヘヴィ過ぎる。
まぁハンバーグが食べられるくらい体調は回復しているのだろう。
響子『ところでプロデューサーはちゃんと三食食べてますか?』
目の前のテーブルに視線を移す。
缶ビールが一本、以上。
P『食べてるぞ、夏バテしたら大変だからな。今も一汁三菜のしっかりした夕飯を食べてたところだ』
響子『ちゃんと食べずに嘘吐いて誤魔化そうとする悪い子のお世話も慣れてますから大丈夫ですよっ!』
何故バレた。
イタズラを隠していたが母親に普通にバレていた息子の様な気持ちになる。
P『今インスタントだけど味噌汁作り始めたよ』
響子『信じますからね?』
P『おう、響子も早く休むんだぞ』
そう返信して、俺はお湯を沸かし始めた。
後ろめたいと言うかなんと言うか。
響子相手に嘘をついても見抜かれてしまうし、何より母親に嘘をついているような罪悪感がする。
ビールと併せて胃袋がちゃぷちゃぷになってしまいそうだが、案外合うかもしれない。
それからその夜は、美穂からは返信は無く。
少し、嫌な予感がして。
ビールと味噌汁は想像通り合わず。
床に着いてから二回、お手洗いに向かう羽目になった。
翌日。
結局今日も、P.C.Sの三人は体調不良で休みだった。
昨日の今日で治らない場合もあるだろうし、予想の範囲内ではある。
けれど未だに美穂からの返信は無い事は、多少の気がかりだった。
ちひろさんの方には体調不良で休むという旨の連絡が行っているだけに、少し凹む。
「卯月ちゃんは少し熱が出ちゃってるみたいです。もしかしたら明日も休む事になるかもしれない、と言っていました」
「了解です。俺からもゆっくり休む様に言っておきます」
窓の外では今日も今日とて、腹が立つくらい眩しい太陽が空を埋めていた。
改めて、夏と言う季節が嫌になる。
昔はあれだけ待ち焦がれた季節だと言うのに。
今ではもう、他の季節に比べて長い陽は、拷問時間の延長としか思えなくなってしまった。
夏、か。
海や山等のレジャー。
夏休みの宿題、自由研究。
ホラー特番や特別ロードショー。
懐かしさで、あの頃は良かったという感情で胸が締め付けられる。
「あ、プロデューサー! おはようごぜーます!!」
「ん、おはよう仁奈。あの頃は良かったよな」
「……? プロデューサー、頭沸いてるでごぜーますか?」
「……最近暑いからな、ちょっと茹だっちゃってたかもしれないな」
おそらく一切悪意の無いであろう発言だと言う事は分かるが、九歳の女の子に笑顔で言われるとくるものがある。
前日の夜に見たドラマか映画にでも影響されているのだろう。
市原仁奈は夏休みに入ってから女子寮にお泊りしていると聞いているが、他のアイドルの口調に影響されたとは考え難い。
タヌキの着ぐるみの様な服に身を包んだ仁奈は、そのままソファへと沈み込んだ。
「お外は暑くて焼き狸になっちまうです……」
「今日も35度超えてるからな。外で遊ぶのは厳しそうだ」
「じゃあプロデューサーの秘密を暴くでごぜーます!」
「……わ、悪い事なんてしてないぞ。本当だぞ」
「プロデューサーさん?」
ちひろさん、ニコリと笑顔で圧力を掛けないで頂きたい。
俺だって突然秘密を暴くとか言われてビビったのだから。
ガサゴソと着ぐるみのポッケから、一冊の本を取り出す仁奈。
それポッケあったんだ、と少し興味が湧く。
頭は沸いていない。
「質問するから、素直に答えやがって下さい!」
「取り調べが始まった」
「目の前に花壇があります! どのくらいの広さでやがりますか?」
「心理テストだった」
心理テストか……学生時代に流行ったものだ。
クラスが変わった直後や修学旅行の電車の中で。
やれあいつはスケベだの、お前はバカだの。
「うーん……ちひろさんは?」
「私は今仕事に熱中しているので巻き込まないで下さい」
そう言いつつも俺の回答に耳を傾けないで欲しい。
寮の皆んなと一度やった心理テストだろうから、変な問題ではないだろうが。
「……それじゃ、すっごく広い花壇だな。学校のプールくらい」
「そんな花壇あるですか?」
「もうお花畑ですよね。あ、花壇の話であってプロデューサーさんの頭の事ではありませんよ?」
各方面からフルボッコである。
心理テストの回答でここまで言われる必要はあるのだろうか。
「で、これで何が分かるんだ?」
「あなたの……よっきゅーふまんど? でやがります!」
「…………」
なんつーテストをしてやがるんだ寮の子達は。
いや、年頃の女の子だけだからこそこう言う問題で盛り上がれるのだろうが。
どうやら仁奈は欲求不満の意味を分かっていない様で、首を傾げている。
「仁奈、他の質問にしないか?」
「プロデューサー、よっきゅーふまんどって何でごぜーますか?」
「助けて下さいちひろさん」
「えっ、こっち見ないで下さいよ変態欲求不満プロデューサーさん」
心理テストだから。
結果を間に受けないで頂きたい。
「……りょ、寮でも流行ってるのか? 心理テスト」
「はい! テレビでやってたでごぜーます!」
まあ、このシーズンだからな。
心理学者をお呼びして芸能人の恋愛観等をテストしたり、霊能者をお呼びして芸能人の恋人関係を暴いたり。
夏休みで夜に暇を持て余す学生の心を掴むにはもってこいだろう。
インチキを暴く番組が昔流行り、今は一周回ってそういうのが流行り出した感じもする。
「小梅さん達はテレビでやってた……なんとか村? に行ってみたいって言って旅行に行きやがったでごぜーます」
村と言う時点で嫌な予感しかしないが、白坂小梅がいるなら大丈夫だろう。
おそらく連れて行かれたであろう輿水幸子には両手を合わせる他無い。
「じゃあ、次の質問でやがります!」
「ばっちこい」
欲求不満から話を逸らせるのであれば何でも良い。
「プロデューサーは誰が好きでごぜーますか?!」
思ってたのと違う質問をされた。
余りにもど直球過ぎる。
「……ち、ちなみにそれで何が分かるんだ?」
「プロデューサーの好きな人でごぜーます!」
それはそうだろう。
と言うかこれ、心理テストか?
「……アイドルの皆んなだよ」
「日和りましたね」
「絶対そう言いやがるだろう、って寮の皆んなが笑ってたでごぜーます」
……信頼されてるのだと思おう。
「欲求不満プロデューサー、そろそろ帰りませんか~?」
「なんで知ってるんだ鷹富士さん」
夕方、窓の外が紅く染まる頃。
蝉の鳴き声が小さくなる中、鷹富士さんは悪戯っ子の様にニヤニヤしながら覗き込んで来た。
無視をしてディスプレイに向き直る。
「あんまり根を詰めるのも良くありませんよ~?」
「P.C.Sの三人が復帰した時に少しでも負担を減らせる様にな」
「流石、好きな人を聞かれて『アイドルの皆んな』って答えちゃうアイドル大好き人間ですね」
「なんか棘ないか?」
カタカタとキーボードの音が鳴り響く中、ディスプレイに反射して映った鷹富士さんの顔は、少し唇を尖らせていた。
良いだろう、本当の事なのだから。
「……美穂ちゃんから、連絡はまだ無いんですか?」
「無い。卯月からは『熱が下がってきた』って連絡があったけど」
「卯月ちゃんは大丈夫そうですね~」
「多分な。響子も大丈夫……だとは思うんだが、美穂に関しては全く分からん」
何かあったのなら、相談来てくれると助かるのだが。
相談しづらい事か、相談するまでも無い事か。
「……嫌な予感がするな」
「そうですか?」
「悪い、言ってみたかっただけだ」
けれど、不味い事態になりそうなのは事実だ。
ライブが近かった為に撮影等を入れてなかったのは幸いしたが、これでライブにすら出れなかったら元も子もない。
大丈夫だ、明日には事務所に来るだろう。
そう自分に言い聞かせるも、嫌な予感は一切緩和される事はなかった。
悪い予感というのは的中しやすいものである。
これに関しては『稀によくある』というやつと同じで、そう言った事を考えていたからこそ記憶に残り易く、結果として強く印象に残っているパターンが多いものでもあるが。
急いでいる時程信号に引っかかりやすい、当たり前だ、急いでいない時は信号に引っかかっても気にしていないのだから。
ただ、もちろんそうでないパターンもある。
それは『笑う門には福来る』の逆パターンと考えれば良い。
詰まる所、マイナスな事ばかり考えているからマイナスな事が起こりやすい。
プラスな事が起きても気付けていないだけと言われればそれまでだが、それに関しては身に覚えがある方も多いだろう。
ネガティブな事ばかりを考えている時、調子が悪い時、ほんとうに嫌な事ばかりが重なるのだ。
『呼び込む』という言い方は好きではないが、実際俺が神様だったら凹んでしょげて怒り散らしてる様な奴より、笑ってるポジティブな人間に幸運をお届けする。
まぁ、閑話はおいておいて。
結果として、『P.C.S』の三人は翌日も、事務所に来る事は無かった。
「プロデューサーさん、間に合うと思いますか?」
「そろそろ不味いと思います」
「ですよね……」
響子の誕生日ライブまで、あと一週間。
この三日間殆ど音沙汰無しと言って良い美穂と他の二人が、このまま休みを続ける可能性も高い。
勿論それは彼女達が不真面目だと言っている訳ではない事を重々承知して頂きたい。
強いて言うなら俺に休むと言う旨の連絡が来なかった事に関して少ししょげている程度だ。
「私、三人の家に電話掛けてみます」
「卯月は実家暮らしだから繋がるかもしれませんけど、美穂と響子は寮暮らしだからなぁ……」
「寝てるかもしれませんけど、何もしないよりは動いた方が安心出来ると思いますから」
そう言って、ちひろさんは部屋を出て行った。
扉が開いた一瞬、隣の部屋から笑い声が聞こえて来た。
おそらく隣の部屋で、暇を持て余した小・中学生が遊んでいるのだろう。
と言うことは、今日も外はめちゃくちゃ暑い、と。
「……どう思う?」
「生理だと思います」
それは確かに男性の俺には連絡しづらいだろうけれども。
出来れば自身も女性である鷹富士さんの口からそんな単語は聞きたくなかった。
「とまぁ悪ふざけはおいておいて……まずは誰か一人でも話を聞くべきだと思います」
「多分これ、原因同じだよな」
「でしょうね~。どうします?」
「多分鷹富士さんの力を借りる事になると思う」
分かってますよ~なんて笑いながら、鷹富士さんはニマニマとこちらを見つめてきた。
「指輪とかがプレゼントされたら嬉しいんですけどね~」
「美味しい定食屋さんに招待するくらいなら」
「……今回はそのくらいで手打ちにしてあげましょう」
「それじゃ」
この暑い中事務所から出るのは正直本当に嫌だが、そうも言っていられない。
卯月の家には何度か訪れた事がある。
車で行きたいところだが、あの辺りに駐車場は無かったと記憶している。
寮の場所は言わずもがな。
「行きますか」
「行ってらっしゃい」
ニコリと微笑む鷹富士さんの目は、『絶対事務所から出たくない』と語っていた。
……成る程、一人で行け、と。
事務所から出る前に隣の部屋を覗いてみる。
寮暮らし勢の小学生組みが何やら遊んでいる様だ。
色鉛筆やらコインやらを囲い、わいわいはしゃいでいた。
手持ちのアイテムだけで遊びを作り出すのは、子供の特権の様な気がする。
……全力で混ぜて貰いたい(と言うか事務所から出たく無い)気持ちを抑えつけ、何とか俺は歩き出した。
ピンポーン
インターフォンを鳴らしてから、全力で額の汗を拭う。
案の定と言うかなんと言うか、都会のアスファルトの洗礼は非常に厳しいものだった。
暖かいなんて言葉じゃ文字通り生ぬるい空気が、むわりと揺れ、シャツ越しに身体を加熱する。
ハンカチは一瞬で絞っていない雑巾の様になってしまった。
『はーい……えっ? プロデューサーさんっ?!』
「突然来て悪い。少し心配になってさ」
『ちょ、ちょっとだけ待ってて下さい!』
暫く(と言っても一分に満たない程度の時間だっただろうが、この炎天下だと体感十分を超えていた様な気がする)間があって、島村家の扉が開く。
迎え入れてくれた卯月は私服に着替えていたが、髪の毛は申し訳ないがぼさぼさだった。
結んでいない卯月の姿はレアで普通に可愛いとは思うが、突然訪れてしまった事に対して今更申し訳なくなる。
「暑い中お疲れ様です」
「卯月は……体調の方はどうなんだ?」
家中が冷えている事から、家できちんと休んでいた事が分かる。
髪が整っていないのは、ついさっきまでベッドから出ていなかったからだろう。
服にシワがないのも、いまさっき私服に着替えた跡(と言うのはおかしい気もする)と認識出来る。
まぁつまり、普通に体調不良で普通に休んでいただけ、と。
「え、えへへ……昨日よりはだいぶ良くなったんですけど、まだ身体がちょっぴり重くって……あっ、でも明日には絶対良くなってると思いますっ!」
その笑顔は、無理している様子は一切なかった。
体調が悪い時は本当に多少でもちゃんと休んだ方が良い、と言ったのは俺だ。
それは他のメンバーに迷惑が掛かるのもそうだし、それで無理して余計体調が悪くなってしまっても大変だから、と。
昔の卯月なら無理をしてしまう事があったかもしれないが、今はこうして休んでくれて安心する。
「そうか、なら良かった」
「本当は今日行きたかったんですけど、なかなか治らなくって……夏風邪か夏バテかもしれないですけど……」
「あぁいや、無理する必要は一切ないから。病み上がりだしな」
この調子だと、美穂と響子も単にバテているだけかもしれない。
だとしたらより一層、一応医者に診て貰う方がいいかもしれないが。
「……響子ちゃんと美穂ちゃんもお休みしてるんですよね?」
「あぁ。あ、でも卯月が心配する事じゃ……ってのは難しいだろうけど、大丈夫だから卯月はしっかり休んでくれ」
「勿論ですっ! 二人に迷惑掛ける訳にはいきませんから」
なら、大丈夫そうだ。
……さて、ここからが本題だ。
杞憂に済んでくれれば、それに越した事はないが。
「……三人同時に体調不良って事で、ロケとかレッスンで何かあったのか心配してたんだけど……虫とか食中毒とか。何かなかったか?」
「うーん……最後に三人でロケに言ったのはだいぶ前だし……レッスンはいつも通りだったと思います」
「じゃあ、それ以外は?」
「えっ?!」
聞かれると思っていなかったから、だろうか。
不意を突かれた様に、卯月は目を見開いた。
「三人で何かしたりとか。例えば何処か遊びに行ったり、例えば……俺に何か内緒にしてる事とか」
「え、ええっと……えへへ……」
目を逸らす。
それは、余りにも分かりやすい誤魔化しだった。
「…………な、内緒ですよ? 私が言ったって言わないで下さいね?」
「あぁ、約束する」
「実は、その……だいぶ前、プロデューサーさんと四人で旅館に泊まった時に……」
ごくり、と息を飲む。
それから卯月は、恥ずかしそうに呟いた。
「プロデューサーさんが戻って来る前に、お夕飯に手をつけちゃいました」
成る程、大丈夫そうだこれ。
無駄足の匂いがする。というかこれだけ歩き回っていたら文字通り足が臭くなっている事だろう。
電車を乗り継いで女子寮に向かう。降りる度に、このまま涼しい車内に居たいと本気で思いながらなんとか降りて。
女子寮のインターフォンを鳴らし、寮監さんに挨拶して中に入る。
毎度の事ながら、女子寮というのはなんだか緊張する。
男子禁制、本来であれば入ってはいけない場所と言うのはどこか居心地の悪いものだ。
なんとなく見てはいけない、居てはいけない気分になる。
「あれ? えっ、プロデューサーがどうして……お、おはようございますっ!」
廊下の奥から、響子が姿を現した。
一瞬、居てはいけないと咎められているかの様に心が跳ねた。
良いだろ男性が女子寮に居たって……いや、良くはないのだが。
「あ、あはは……その、何もせずに寝てるとなんだか落ち着かなくて……廊下のお掃除を……」
「寝てなさい」
「ごめんなさい……」
しゅん、とされると此方も申し訳なくなる。
悪い事をしてないのに、みたいなアレ。
……やはり女子寮は居心地が悪い。
多少は慣れてきたと思っていたが、別にそんな事はなかった。
「卯月ちゃんと美穂ちゃんは大丈夫でしたか?」
「美穂はこれからだけど、卯月はさっき会って来たけど大丈夫そうだったよ。美穂響子の方は、体調はもう大丈夫なのか?」
「はい。ちょっぴり身体が重い気もしますけど、慣れちゃえばお米を担いでる時と変わりませんからっ!」
お米を担ぎながら廊下を掃除するな。
無理やり響子を部屋へ戻して、必ず一日三食食べる事を約束する代わりに寝て貰う。
さて、響子も心配していたし美穂の調子も確認しないと。
早足で美穂の部屋に向かう。
コンコン
「おーい美穂ー。俺だー俺俺」
オレオレ詐欺の様になってしまった。
返事は無い、眠っているのだろうか。
『……プロデューサーさん、ですか……?』
扉の向こうから、弱々しい美穂の声がした。
どうやら彼女のみ、本格的に体調が悪いらしい。
「おはよう美穂。悪いな、寝てるところ」
『いえ……その……プロデューサーさんだけ、ですか?』
「……そうだけど?」
成る程、美穂だ。
今回の件は、どうやら此処に何かがある様だった。
「……しっかり休めてるか?」
『…………はい……』
嘘だ、声色で分かる。
彼女は何かに怯えて、しっかりとした休息を取れていない。
『ご、ごめんなさいっ! わたしが休んじゃってるせいで、レッスンが遅れちゃって……』
「いや、大丈夫だ。美穂は心配せずゆっくり休んでくれ」
『はい……その、本当にごめんなさい……』
「大丈夫だって。卯月と響子も」
『っ!』
瞬間。
部屋の中の美穂が、大きく息を吸うのが分かった。
『……ご、こめんなさい……咳が出そうで……』
「……邪魔して悪かった。ゆっくり休んでくれ」
これ以上居ても、美穂に迷惑だろう。
それに恐らく、これである程度は推測が付くだろう。
涼しい寮から炎天下へと出なければいけないのは嫌だが、かと言って夜まで留まる訳にもいかない。
意を決して扉を開け、俺は再度事務所へと向かった。
「…………はぁ、そうですか……」
「待ってくれ文香、俺はまだ何も言ってない」
事務所に戻り最初に鷺沢文香に会いに行くと、何も言っていないのに溜息を吐かれた。
長い髪の向こうにある綺麗な両目は、なかなか此方へと向けて貰えない。
それからしばらくして、心底嫌そうに本から一瞬此方へと目を上げ、何事も無かったかの様にまた本のページを捲り始めた。
「あの」
「いえ……貴方が書類も持たずに話し掛けてくる場合、大抵は余り関わりたくない出来事に巻き込まれてしまいますから……」
謎の信頼をされている。
けれど此処で引き下がる訳にも、見放される訳にもいかない。
「というかこないだは普通に水着の写真集の提案だったろ」
「はぁ……それも余り、乗り気ではなかった、という意味なのですが……」
「え、嫌だったのか……だとしたら悪かったな」
「い、いえ……嫌と言う訳では…………ただ、その……恥ずかしかったのは事実ですが……」
少し困った様に、けれどようやく文香は本を置いてくれた。
夏休みに入ってから、文香は仕事の無い日はほぼ毎日事務所に通っていた。
それは恐らく、彼女が暮らす古書店より空調が効いていて、外に出なくても自動販売機があり、環境が整っているからだろう。
本に関しては、いつのまにやら部屋の隅に本棚がひとつ出来上がっていた。
「……それで……今回はどの様な……?」
「察しが良くて助かる」
「武勇伝を披露して頂けるのでしょうか……? 新しい女の子を口説き落とした、等の話でしたら既に満腹なのですが……」
スカウトをそんな人聞きの悪い感じにしないで頂きたい。
「……P.C.Sの三人が体調不良でここ数日ずっと休んでる」
「その話は、多少耳に挟んでおります……響子さんのバースデーライブが近い為、不味い状況になりつつある、と……」
「で、取り敢えず三人に会って来たんだ。まぁ美穂とは扉越しだったけど……その話を聞いて、何か思った事を言って欲しい」
「女誑し」
「話を聞いてから言ってくれ」
それから俺は、彼女達が休み始めてから今に至るまでの事を一切漏らさず伝えた。
少しでもヒントに繋がるものを伝え損ねてしまってはいけないから、お味噌汁とビールは余り合わないと言う事まで。
出来る限り、覚えている限りの全てを。
これでダメなら、もう一度三人に会いに行くしかない。
「……そんな訳で、俺は何とか暑い中事務所まで戻って来た訳だ。そして文香に挨拶しようとしたら溜息を吐かれた。あと良ければまた水着の写真とか」
「……いえ、もう結構です」
「嫌かー……」
「いえ、そう言う意味ではなく……大方推測はついた、と言う意味で……」
「本当か?!」
「…………はい。勿論これは、私がプロデューサーさんから聞いた話を元に立てた仮説ではあります。ですから、所々事実とは異なる場合もあると思います。その場合は……」
「その場合は……?」
「……鷹富士さんが、なんとかするでしょう」
ぶん投げられた。
確かにどう言う状況なのかさえ分かれば、最後は鷹富士さんが全部解決してくれる節はあるが。
「…………では、プロデューサーさん。先ずは結論から話してゆきますが……」
「おう、頼む」
一旦、深呼吸をして。
それから文香は、結論から告げた。
それは恐らく……『コックリさん』です。
日本に住んで居るのであれば、一度は耳にした事があるのではないでしょうか……?
……ご存知の様ですね。
では、やり方は……?
……はい、五十音を並べた紙と、10円玉です。
身の回りにあるもので、簡易的なもので、非日常を経験出来る。
やり方も簡単で、特に専門的な知識は必要ありません。
その上『質問に答えて貰える・知らない事を教えて貰える』となれば、興味旺盛な学生にとってこの上なく魅力的なものに映るでしょう。
特に、今は夏ですから。
そうですね、想い人に既に好きな人がいるか、それは誰か。
そう言った事が知りたくて手を出す子供が多いからこそ、未だにその都市伝説にも満たない心霊現象は現代まで続いている訳です。
プロデューサーさんの学生時代にも、一度は流行りになったのではないでしょうか?
コックリさんは、十五世紀のヨーロッパで既に行われていたとも推測されています。
西洋で流行した、コックリさんの元となった『テーブル・ターニング』とは、数人がテーブルを囲み、手を乗せ、やがてテーブルがひとりでに傾いたり、移動したりするものでした。
出席者の中の、霊能力がある人を霊媒として介し、あの世の霊の意志が表明されると考えられたそうです。
また、アルファベットを記した『ウィジャボード』と呼ばれる板の文字を用いる事で、霊との会話を行うという試みがなされていました。
日本に持ち込まれたのは1884年。
伊豆半島下田沖に漂着したアメリカの船員が、自国で流行していた『テーブル・ターニング』を地元の住民に見せたことをきっかけに、各地の港経由で日本でも流行するようになったそうです。
当時の日本にはまだテーブルが普及していなかったので、代わりにお櫃を三本の竹で支える形のものを作って行なっておりました。
お櫃を用いた机がこっくり、こっくりと傾く様子から『こっくり』『こっくりさん』と呼ばれる様になり、『狐』『狗』『狸』の文字を当てて『狐狗狸』と書くようになりました。
その後七十年代に漫画や小説等で紹介され、全国の学生の間で大流行した、という流れです。
コックリさんと言う儀式、降霊自体の成否に関わらず精神的に悪影響を与える事から、保護者や教員から注意されていた様ですが……
ダメだからと言って、良くないから辞めろと言われて辞める様であれば、現在まで残ってはいません。
……勿論、コックリさんの正体自体は既に暴かれているので、危険性は非常に低いものではありますが。
潜在意識・自己暗示・筋肉疲労。
それが『コックリさん』の正体です。
詳しい話は、どちらかと言えば志希さんの方が詳しいかと思われますが……
要するに、参加者のうち誰かが無意識に動かしている、又は緊張状態にあった筋肉が震えて十円玉が動く、というものです。
つまるところ、参加者の知らない事はどのみち答えとしては得られない、というものですが……
……長くなってしまい、申し訳ありません。
こうした知識を披露していると、つい話しすぎてしまい……
……ええ、はい。
本来であれば、今の『コックリさん』で後遺症や体調不良になる事はありません。
何故なら、科学的に証明が成されているからです。
彼女達が『コックリさん』でどの様な質問をしたか等は、一切関係ありません。
……ですから恐らく、質問に答えて貰うと言う彼女達の本来の目的通りではなく、『降霊術』としての『コックリさん』に成功してしまったと思われます。
科学的に証明されていない部分、即ち『単純な降霊術』としての側面……いえ、本来はそちらが本筋ではあったのですが……
そちらの、つまり降霊が成功してしまった為に、彼女達の体調に異変が出ているのでしょう。
霊を信じるかどうかは、プロデューサーさん次第……すみません、言ってみたかっただけです。
コックリさんと判断した理由、ですか……
まず一つ目。
彼女達がここ直近、三人でした事を隠したからです。
隠したと言うことはつまり、プロデューサーさんには言いたくは……何故、などと言う疑問は非常に無粋と言うか、デリカシーがないと言うか……
……プロデューサーさんは少し、反省すべきだと思います。
そして二つ目。
彼女達にそれ以外の心当たりが、つまるところ隠す必要の無い心当たりが無さそうだからです。
どんな小さい事でも、三人で行動していたのであれば誰かしら一人はひっかかる事があるでしょう。
つまり、本当にいつも通りの日常的な行動が原因か、その隠しているものが原因かと言う事になります。
三つ目。
寮に住んでいる小・中学生の方々が、事務所で『コックリさん』を試そうとしていたからです。
色鉛筆、コイン、響子さんや美穂さんの住む寮の子達、占いの流行。
ここが一番、根拠としては強いでしょうか。
逆説的な考え方になってしまいますが、彼女達がその話をしていたからこそ、年少組の方々もその知識を手に入れたのでしょう。
四つ目。
これは、甚大な被害が出ていないからです。
影響力の小さなもので、彼女達が触れられるもので、となれば自ずと絞れます。
『コックリさん』と言う簡易的な降霊術では、基本的には強力な霊を呼ぶ事は出来ませんから。
勿論そう侮ってしまい痛い目を見るのは非常に愚かですから、そもそも試すべきでは……いえ、これは彼女達を貶めている訳ではないので悪しからず。
ああ、それと五つ目ですが……
直接的な被害を受けているのが一人、という事です。
三人で一緒に居たのに、一人しか直接的な影響が出ていない。
この事から、一人にのみに取り憑いたと考えられます。
これも逆に考えれば、三人同時に直接的な影響を及ぼす事は出来ない、とも判断出来る訳で……
勿論、全ては仮説の上に仮説を重ね続けてるのみに過ぎません。
たまたまそれが出来事と矛盾しなかったからと言って、真実とは限らないという事だけは頭に入れておいて下さい。
……美穂さんは、非常に体調が悪そうだった?
影響力が小さいとは思えない?
いえ、それは前提として、『美穂さんが取り憑かれている』という考え自体が間違いです。
彼女はただ、視えているだけです。
取り憑いた、その何かを。
……名前では呼びません。
勿論分からないと言う理由もあります。
ですが、非常に危険です。
『名前を付ける』という事によって、ソレが今以上にこの世界で存在を持ってしまいますから。
違う名前を付けてしまう事によって、その本質が変化してしまったり……これは話が逸れてしまいますね。
……はい。
取り憑かれているのは、響子さんです。
元より『コックリさん』は、参加者のうち一人に『憑依』する事で降霊します。
響子さんの誰でも受け入れる、常に戸の開かれた様な人間性は憑依するのに向いているのでしょう。
彼女の体調不良の程度を鑑みるに、殆ど影響力のあるものではなさそうですが……
恐らく彼女達は、『コックリさん』を最後までは終わらせていません。
……はい、『どうぞお戻り下さい』と。
そして『ありがとうございます』まで。
きちんと終わらせずにそのままだった為、響子さんは憑かれたままなのでしょう。
プロデューサーさんが寮を訪れた時の違和感、居心地の悪さもそのせいかと思われます。
ですから、響子さんと離れた後はその様な感覚は無かった筈です。
……言っていましたよね、寮から出る前に『夜まで留まる訳にはいかない』と。
その時点で既に居心地の悪さは無かったから、涼しい寮に居たいと思ったのだと思います。
だから響子さんの体調が悪くて。
ソレが響子さんに憑いたままなのを視続けて……いえ、美穂さんは響子さんを恐れて避けていましたね。
だからプロデューサーさんが彼女の部屋を訪れた時、寮に居る響子さんが近くに居ないかを確認したのです。
響子さんが美穂さんの体調がどうかを把握していなかったのも、恐らく避けられていたからでしょう。
……プロデューサーさんなら、言えますか?
『ユニットのメンバーが取り憑かれている。見るのが、会うのが怖い。だから休ませて下さい、又は何とかして下さい』などと。
「……以上が、事の顛末です」
相変わらず、文香の推測力には舌を巻く他ない。
俺の拙い伝え方から、聞いただけの情報からよくもそこまで理論を組み立てられるものだ。
「そう言えば、話には出てこなかったが卯月はどうなんだ?」
「卯月さんですか? 恐らく、本当にただの体調不良です。『コックリさん』で二人以上が取り憑かれる事はありませんから」
それはそんな気がしていた。
卯月の家に入った時も卯月と会話した時も、居心地の悪さは一切感じなかった。
勿論響子と話していた時だって、居心地が悪いのは勘違いで済ませてしまえる程度だったが。
感受性が豊かで、そも一緒に『コックリさん』をした美穂では、影響が全く違うのかもしれない。
「ああ、それと……これから響子さんの所に向かうと思いますが……」
「その予定だけど、何かあったか?」
「決して、『何を占ったか』は聞かない様にして下さい」
「聞いちゃまずいのか? そういう占いの結果って」
「はぁ……貴方はデリカシーが無いから、です。考えて分からない様であれば、取り敢えず聞かないで下さい」
「そんな訳で、頼むぞ鷹富士さん」
「任せて下さ~い。多分、すぐなんとかなっちゃうと思います」
文香の推理をさも自分の手柄の様に説明した後、俺は再び女子寮へと赴いた。
夏の夕方は良い。
日中の暑さから格段に緩まり、綺麗な夕焼けと心地良い風が通り抜ける。
これで風鈴の音や蚊取り線香の匂いがあれば完璧なのに、などと。
「……成る程」
女子寮を前に、鷹富士さんは頷いた。
「私には分かります。匂います、間違いありません」
「やっぱり分かるのか?」
「お夕飯はカレーですね」
もう少し緊張感を持って欲しい。
いや、文香の言う通りであれば危険性はかなり低いだろうが。
女子寮の扉を開ける。
あ、これカレーだ俺にも分かる。
「あれ? ま、またプロデューサー……こ、こんばんはっ!」
廊下の奥から響子の姿。
「……よう響子。ちゃんと寝てろって言ったよな?」
「あ、あはは……カレーを食べれば、美穂ちゃんの夏バテも治るかなーなんて…………ごめんなさい……」
矢張りカレーだった。
……一皿くらい、恵んで貰えないだろうか。
「あぁいや、責めてる訳じゃない。ところで響子、疲れてないか?」
「疲れてませんよ、お昼はずっと寝てましたからっ!」
「どう見ても憑かれてますよ~」
隣の鷹富士さんがそう呟いた。
見れば一発で分かるらしい。
「肩のところにこう……ぐわっと、こんな感じで!」
鷹富士さんが俺の背中に抱き着いた。
二つの膨らみが待て煩悩を振り払えカレーで子供の頃の純粋な心を取り戻せ。
「……一日ご苦労様。良かったら、肩のマッサージをさせて貰えないか?」
「鼻の下伸ばす様なヘンタイさんに頼むのは怖いですよーだ」
「大丈夫今俺すごく童心だから」
「……じゃあ、お願いして良いですか? 実はここ数日、ずっと肩凝りが酷くて……」
「任せろ」
リビングのソファに座って貰って、俺と鷹富士さんは背後に回る。
確かに、居心地の悪さがかなり強くなった。
ソレに近付いたからだろう、心臓の鼓動が気持ち悪いくらい早くなる。
冷房がガンガンに効いていると言うのに、既に背中は汗だらけになっていた。
何も見えないが、耳鳴りがする。
息を吸い込むのすらきつくなってきた。
「っ!」
跳ね上がりそうになった。
響子の肩に乗せた俺の手が、ボヤけて見えたからだ。
何かが、目の前にいる。
俺と響子の間に、見えないけれど確かに、何かが存在していた。
昼間に来た時とは比べ物にならない程ソレの存在を感じてしまうのは、鷹富士さんと一緒に居るからだろう。
正直、今直ぐにでも逃げたくなった。
基本的に悪影響は無いと説明されたからと言って、それで恐怖心が和らぐ訳が無い。
響子の肩を握る手には、相当強い力が入ってしまっていた。
けれど、ここで退がる訳にはいかない。
このままでは響子の体調が悪いままだし、美穂もずっと怯えたままだ。
プロデューサーとして、彼女達の仕事の弊害になるものは何が何でも何とかしなくてはならない。
それが例え、俺の身に不幸が訪れるものだとしても。
鷹富士さんにアイコンタクトを取る。
お願いします、と。
「あ、終わりましたよ~」
小声で俺にそう報告してきた。
…………早い。
俺の格好良さげな決意は何だったのだろう。
一瞬にして、まるで重力がなくなったかの様に身体が軽くなる。
吐き気も動悸も、嘘の様に過ぎ去った。
「あちらさんも、離れられなくて困ってたみたいですね~。剥がしてあげたらお礼言われちゃったくらいです」
……何というか、誰も得しない事態だったんだな、という事くらいは分かった。
あと側から見れば今の俺は、響子の肩を揉んで息を荒くしている変態になっている。
「あ゛あ゛あ゛~……気持ち良いです…………んっ!」
「……変な声を出すんじゃない響子」
……まぁ、良いか。
終わり良ければ全て良しとしよう。
取り敢えず今回の被害者(?)である響子にお疲れ様といつも頑張ってくれてありがとうの気持ちを込めて、肩をマッサージする。
鷹富士さんが如何わしい光景を見るかの様な目を向けて来るがスルー。
「っふぅぅぅ……あっ、肩すっごく楽になりました! ありがとうございますっ!」
「そっか、それは良かった」
「それじゃあ、気合い入れてお夕飯を作らないとっ!」
そう言って、響子はキッチンの方へと向かって行った。
あの調子なら、明日のレッスンには問題なく参加出来るだろう。
「……ありがとう、鷹富士さん」
「どういたしましてヘンタイさん」
「今回の被害者これ俺だろ」
おっと違う、まだ残っていた。
今回、恐らく一番怖い思いをした美穂。
何も、誰にも相談出来ず、『視』続けてしまった彼女。
そのまま俺たちは美穂の部屋へと向かった。
コンコン
「おーい美穂ー、居るかー?」
「……プロデューサーさんだけ、ですか……?」
隣で鷹富士さんが口元に人差し指を当てていた。
それもそうだ、わざわざ不安を煽る必要は無い。
「俺だけだ。それと……怖かったな、もう大丈夫だ」
「……………っ!」
「全部、もう何とかしたから。頑張ったな」
多分これで、全て通じただろう。
部屋の中から、恐らく俺は聞かない方が良い音が聞こえて来た。
「それじゃ、また明日」
「……っ! はい……っ」
そう言って、俺は寮を後にした。
空が赤から黒に変わる。
風はより一層、気持ちの良いものになっていた。
「なーにカッコつけちゃってるんですか。約束、忘れてませんよね?」
「定食屋さんな、今から行くか?」
「あれ? 指輪じゃありませんでしたっけ~?」
よし、帰ろう。
「も、もうダメ……」
「が、頑張りま……うぅぅ……」
「プロデューサー、またマッサージして下さい……」
翌日、レッスンルームを覗くと、スライムの様に床にへばり付いた三人が居た。
ここ数日休んだ分、かなりハードなレッスンだった様だ。
「えっ、響子ちゃんマッサージして貰ったんですか?」
「ズルいっ! プロデューサーさんっ、わたしもお願いしますっ!」
「二人はやめた方が良いと思いますよ? だってプロデューサー、手つきがエッチだったもん」
「「……………………」」
そんな目で俺を見るな。
息が荒かったのは……いや、これは恐らく説明しても美穂以外には信じて貰えないだろう。
それにしても中々の貧乏くじだと思うのは俺だけだろうか。
ところで、コックリさんに関しては既に事務所の誰もやろうとしなくなっていた。
聞いたところによると、文香がめちゃくちゃ長過ぎて覚えきれない(というかハードルが高過ぎる)やり方を説明したらしい。
もちろんそれは正しいやり方で、けれど小・中学生が試すには余りにも面倒過ぎたからだ。
簡単だからこそ試そうとしてしまうのであれば、簡単でなければ迂闊にはやろうとしないだろう、という考えのもとらしい。
ちなみにだが、コックリさんの知識を語っていた時の文香はとても活き活きとしていたそうな。
途中から海外の歴史を語り始めたあたりで、誰ももうその話には触れないと誓ったとか。
「……そう言えば」
これはただの好奇心。
最後に一つくらい、聞かせて貰ったって良いだろう。
「三人は、どんな事を聞いたんだ?」
聞いたタイミングで、文香に言われた事を思い出した。
仕方ないだろう、気になったのだから。
それが『コックリさん』の事だと理解した三人は、顔を見合わせて。
一拍おいて、三人それぞれの表情で、声を揃えた。
「「「乙女の秘密ですっ!」」」
2、◯◯◯車
カタカタカタカタ
部屋の中にキーボードの音のみが響き渡る。
時計の針の音もしているのだろうが、途絶える事のないカタカタ音に完全に掻き消されていた。
昼間はアイドル達の話し声や蝉の鳴き声であれだけ喧しかったのに、今ではまるで別世界の様だ。
ふと窓の外を見やると、陽の長い夏だと言うのに空は完全な黒になっていた。
「……終わりそうですか?」
反対側で、俺と同じ音を立てているアシスタントのちひろさんに話しかけてみる。
どうやら向こうもかなり疲れている様で、人目を憚らず大きな伸びをした後、困った様な笑顔を浮かべた。
「あと校長先生のお話二回分くらいです」
「……コーヒー、買ってきますか?」
「いえ、大丈夫です。もう既に二本空けちゃっているので……」
少しくらい休憩したってバチは当たらないだろう。
一旦立ち上がり、俺も大きく伸びをした。
P.C.Sの三人が体調不良で数日程休み、現在その調整及び後始末中。
全て解決出来たと思っていたが、まぁ最終的にシワは残るよなぁと言う話だ。
「何はともあれ、P.C.Sの三人が何事も無くて良かったですよね」
「俺、寮で変態扱いされてるらしいですけどね」
「自業自得なんじゃないですか?」
必要経費ではあった。
でも自業自得とは違うと思う。
もう一度、窓の外に目を向ける。
既に夜にはなっているが、どうせ想像を絶する程暑いのだろう。
日中に加熱され続けたコンクリートは、余熱だけで十分な凶器になっている。
車で帰れる人達が羨ましい。
「プロデューサーさん、車はお持ちではないんですか?」
「ありますけど、乗って来ると絶対足にされそうなので」
「あぁ……」
以前は何度か車で出社していたが、その度誰かしらにタクシー代わりにされるのが面倒過ぎて辞めたのだ。
酷い時だと『酔って帰れない』『終電逃しそう(逃した、ではない)』等の理由で呼び出される。
結局、夢のマイカーは家の駐車場で現代アートと化していた。
ん、偶にはドライブも良いかもしれないな。
「……さて、やりますか」
「はい、やっちゃいましょう」
テンションを上げていかないと、心が折れそうになる。
指をグーパーした後、キーボードの上に乗せて……
キキーッ!! ファァァァンッッ!!
心臓が跳ね上がるかと思った。
「…………事故ってないと良いですね」
「ですね……それと、クラクションの音って凄く響きますね」
外から、大きな音が聞こえて来た。
酔っ払いが路上に飛び出したのだろうか。
事務所の前の横断歩道には信号があるが、酔っ払いにはそんな事関係ないのだろう。
この音を聞くと、本気で運転する気が失せる。
「ここのところ多いですよね、急ブレーキの音が聞こえてくる事」
「ですね……近くに居酒屋でも出来たんでしょうか?」
「なら今度行ってみます?」
「ライブが終わってからでしたら奢られてあげますよ?」
「ゔぁー」
「嫌なのは分かりましたから奇声を上げてないで手を動かして下さい」
夏の午前は路上が温まりきっておらず、日中程のきつさは無い。
わけが無いだろめちゃくちゃ暑い。
えっちらおっちら足を動かして、なんとか冷房の効いたオアシスを目指す。
天気予報によると、明日は今日以上に気温が上がるらしい。
……明日は車で来るか。
「車で来る……ふふっ」
「……おはようございます、高垣さん」
隣を見れば、スタイル抜群なオッドアイのミステリアス系飲酒アイドル、高垣楓さんが立っていた。
この暑い中でも我関せずといった様に、涼しい表情でそこに居る。
掴み所の無い彼女は、駄洒落が好きらしい。
と言うか今の、声に出してしまっていたか。
「おはようございます、プロデューサー。カーをお持ちなんですカー?」
「……持ってないです」
「嘘吐いちゃメッ、です」
次に続く言葉は『送迎して下さい』だろう。
一度乗せてしまえば、それ以降タクシーにされる事間違いなしだ。
高垣さんは飲みに行く事も多いし、その度迎えに呼ばれていてはなかなかの重労働になってしまう。
早いうちに手を打たなければ。
「……明日は夜飲みに行く予定なので、歩いて来ます」
「お仕事終わりのお酒ですか。ワークワークしますね」
ん、そう言えば高垣さんなら居酒屋にはかなり詳しいだろう。
事務所の近くにできたのであれば、きっと知っている筈だ。
「あ、この辺りに新しい居酒屋とかができたりしてません?」
「その様な話は聞いてませんね……もし開店したのであれば、私の耳に入ってくる筈なので……」
凄いなそれ。
彼女の情報網を侮っていた。
「居酒屋のお話ではありませんが……事務所の反対側一帯、何が出来るんでしょうか?」
彼女の視線の先には、防音のシートで囲まれた工事現場。
以前は小さな公園や民家があった気がするが、どうやら大きなビルを建設しているらしい。
「複合施設なら、居酒屋があると嬉しいんですけど……」
「完成はまだまだ先そうですね。にしても……」
この暑い中、工事現場で働いている人は大変だろう。
熱中症等にならないと良いのだが。
事務所の目の前、横断歩道の信号待ち。
気温が高ければ高いほど、赤信号の時間が長く感じられる。
いや、逆に低過ぎてもそう感じるか。
結局のところ、個人の気分次第なところではあるが。
「…………公園」
ぽつり、と。
高垣さんはそう呟いた。
「……公園、ありましたよね? 以前、此処に」
「ありましたね、確か。事務所の子達が遊んだり、お花見やったりしてた気がします」
あまり遊具の無い、殆ど広場に近いものだったが。
「寂しいですよね……以前遊んでいた公園がなくなってしまうのって」
そう言いながら、高垣さんはかつて公園があった防音シートを見つめた。
彼女にとっても、思い入れのある公園だったのだろうか。
「……あ……」
「どうかしました?」
「私、あの公園に行った事ありませんでした」
「今の感傷なんだったんですか」
「ぽこぽん! ぽこぽん! 哺乳綱食肉目イヌ科の食肉類の気持ちになるですよー!」
「仁奈、タヌキで伝わるから。分類言われる方が分かりづらいんじゃないかなぁ」
何よりその前の効果音で分かる。
正直タヌキがどの様な鳴き声かは存じ上げないが。
この暑いなか、それでも仁奈は着ぐるみの様な服を着ていた。
こないだも着ていた、タヌキの格好だ。
「プロデューサー! プロデューサーもタヌキの気持ちになりやがって下さい!」
タヌキの真似か。
成る程、タヌキね……
「タヌキ…………不味い、特徴が全く分からない」
タヌキって普段何して生きてるのだろう。
タヌキに関する知識が、ぽんぽこな狸合戦くらいしかない事に今気が付いた。
「タヌキの特技は、気絶です……」
「あ、文香おねーさん!」
「ん、おはよう文香。珍しいな、図書室から出てくるの」
図書室とは言ったが、別にこの事務所に図書室がある訳ではない。
いや、そもそも図書室がある芸能事務所など存在しないのではないだろうか。
図書室と言うのは、普段文香が利用している空き部屋だ。
正確には以前は空き部屋だったのだが、文香が本を持ち込み続けているうちに周りから図書室と呼ばれる様になった。
「おはようございます……仁奈さん。よろしければ、もう一度お姉さんと呼んでは頂けないでしょうか……」
「文香おねーさん!」
「…………書物の外には、この様な素敵な世界が広がっていたのですね……」
天井を見上げ、涙を流しそうなほど恍惚とした表情をする文香。
何と言うか、意外な一面だ。
「で、タヌキの特技は気絶だって? 俗に言う狸寝入りってやつか?」
「はい……タヌキは、驚くと気絶します。気絶することで相手を油断させ、隙を付いて逃げる為です……」
「プロデューサーは気絶してくだせー!」
難しい要望だ。
「……その特性のせいで……道路を横断している途中に車に接近されると、その場で気絶してしまい……轢き殺されてしまう訳ですが……」
「じゃあ仁奈はプロデューサーを轢きころ…………え……」
おい。
仁奈が物凄く悲しそうな目で文香を見つめる。
動物が大好きな9歳児の前でなんて知識を披露しやがるんだ。
なんとかしろ文香、と目で伝える。
「あ…………申し訳ありません。ええと、その……く、車がタヌキに轢かれてしまう事故です……タヌキの身体はウルツァイト窒化ホウ素よりも硬いので、車程度には負けません。無敵です」
無理がある。
少なくとも9歳児はウルツァイト窒化ホウ素が何かを知らない。
いやそうでなくても普通の人は聞いた事すら無い物質だ。
補足しておくと、ウルツァイト窒化ホウ素は火山性の残留物から得られる材料できた、地球上で最も硬いと言われる物質である。
「すげー! タヌキつえー!」
大丈夫そうだった。
だから文香、やり遂げたみたいな顔で此方を見るんじゃない。
「……タヌキは非常に雑食で、小動物や鳥、その卵、魚、爬虫類、両生類、昆虫、甲殻類などを食べるとともに、植物の葉や芽、果実なども食事とします」
「食いしん坊でごぜーます」
「人が住む地域に生息するタヌキは、人の残飯を漁って食べることもあるそうで……」
「ホームレスみてーでごぜーます」
最近の仁奈、少しすれてないか?
誰だ? 寮に泊まってる仁奈に変な事教えてる奴は誰だ?
「そして、東京23区のうち18区で生息が確認されています」
「あー、確かにたまにいるよな」
「つまり……プロデューサーさんは既に、タヌキです」
「いやそうはならない」
「……プロデューサーはホームレスでやがりますか?」
可哀想なモノを見る様な目を向けないで欲しい。
さて、と。
そろそろ仕事をしないと。
遊んでばかりでクビにされてしまえば、ホームレスも夢じゃなくなってしまう。
いや夢でもないが。
「仁奈もこないだ近くでタヌキを見たでごぜーますよ」
「ふふ……可愛らしいですよね……」
「轢かれてペチャンコになってやがったでごぜーます!」
「ぁぁ…………」
仁奈の方が一枚上手な様だ。
カタカタカタカタ
カタカタカタカタ
カタカタカタカターー
ッターンッ!
「終わり! お疲れ様ですちひろさん!」
最後のエンターキーを叩く瞬間程、気持ちの良い物は無い。
叩く快感は、きっとSMプレイのムチに通ずるところがあるだろう。
ない。
あってたまるか。
大きく伸びをして外を見ると、やはり今日も既に陽は沈みきっていた。
これなら、日中程の暑さはないだろう。
「えーずーるーいー! プロデューサーさんだけ帰れるのずーるーいー! ちひろも帰りたいー!!」
「…………」
……お仕事、大変ですからね。
本当にお疲れ様です。
「……すみません、疲れが溜まってるみたいで……」
「……コーヒー、飲みますか?」
「……お腹も空きました……」
「コンビニ行って来ますよ。サンドイッチとかで良いですか?」
「お願いします。あ、それと先ほどのあれは忘れて頂けると……」
「……ちひろも帰りた」
「欲求不満」
「和解しましょう」
ここ数日に比べてかなり早い(とは言えいつもよりは遅い)時間に退勤出来る喜びに、多少余裕が出来ていた。
コンビニで軽食と飲み物を買って、ちひろさんに差し入れするくらいの時間的及び気分的余裕がある。
事務所から出て余裕が無くなった。
日中よりはマシとは言え、それでも暑いものは暑い。
信号待ちの時間が手持ち無沙汰で、なんとなく目の前の工事現場に目をやる。
朝は感じなかったが、防音シートに囲まれた空間は夜だと不気味に映った。
見上げれば余計に、まるで別世界のモノの様に見える。
見慣れた光景が見慣れないものに変わってしまったからだろうか。
目の前を車が通り過ぎて行った後、信号が青に変わる。
さてと、事務所で待ってるちひろさんが幼児退行してしまう前に戻って……
ファァァァンッッ!!
「きゃっ!!」
近くでクラクションの音、次いで悲鳴が響いた。
「っ! 大丈夫ですかっ!!」
音源の方を見れば、先ほど俺の前を通り過ぎて行った車が反対車線を蛇行している。
歩道にまで突っ込んで行きそうな勢いで曲がり、そして再び元の車線へと戻って行った。
そしてその近くには、座り込んでしまっている女性が一人。
怪我はしていなそうだが、何かあってからでは不味い。
全速力で駆け寄り、声を掛ける。
「大丈夫ですか?!」
「あ……はい、その……驚いてしまって……」
座り込んでいたのは、高垣さんだった。
本当に良かった、事故に巻き込まれた訳ではなくて。
「立てますか?」
「……その……お恥ずかしい話、腰を抜かしてしまって……」
手を貸して、腰を支えつつ立ち上がる手助けをする。
普段の彼女からは考えられない程、額と頬に汗をかいていた。
それはそうだろう、自分の方へと車が突っ込んで来たのだから。
クラクションの音だけでも、俺なら十分腰を抜かせる。
「しばらく肩貸しますから。歩けます?」
「はい……もう、大丈夫…………ではありません。しばらく、失礼させて頂きます」
それからしばらく、高垣さんは俺の腕に掴まったままだった。
そこまで身体を寄せる必要はない気がするが、怖かっただろうし仕方ないか。
「……酔っ払い運転でしょうか……番号は見えませんでしたけど」
酔っ払い運転では無かったと思う。
俺の前を通り過ぎた時は普通にぶれること無く車線を走っていたし、速度もそこまで速くなかった。
あれは左側を自転車が走っていた時や、人が飛び出して来た時の動きに見えた。
もちろんきちんと見ていた訳ではないから、はっきりとは言えないが。
「……私の近くで、いきなり此方へハンドルを切ったようでした。けれど……」
高垣さんが抱いている疑問はもっともだ。
何故、クラクションを鳴らした?
近くには、俺と高垣さん以外居なかった筈だ。
腕を握る高垣さんの身体は、今も少し震えていた。
それもそうだ、下手したらトラウマものである。
「…………明日。よければ夜、俺が送ります」
「え……良いんですか?」
「はい」
事故に遭いそうになった次の日に、夜一人で同じ場所を歩くのは不安だろう。
飲み会があるなんて嘘だったし、あったとしても高垣さんの事の方が優先に決まっている。
「……ありがとうございます。これから毎日送迎して頂けるなんて……」
「言ってません」
「プロデューサーさん」
「はい」
翌日、俺は事務所でちひろさんに正座させられていた。
「昨夜、ずっとプロデューサーさんの帰りを待っていた私へ一言どうぞ。但しその間連絡は一切無かったものとします」
「ほんっとうにごめんなさい。せめて連絡をするべきだったと思っています」
一応事情を説明した為にそこまで怒ってはいない様だが、それはそれとしてほうれんそうは社会人の基本。
と言うか正直俺が完全に忘れてしまっていただけなので、謝り倒す他無い。
「なので、冷蔵庫にあったプロデューサーさんのゼリーを一つ勝手に頂いちゃいました」
「あ、あれ元々ちひろさんへの差し入れに持って来たやつなので」
「……後で、もう一つ頂きます」
そう言って、ちひろさんは部屋を出て行った。
なんだか足取りが軽そうなので、もう一切怒ってはいないのだろう。
ふぅ、と溜息を吐く。
どうやら第二ラウンドが始まりそうな勢いだからだ。
「……プロデューサー」
仏頂面の鷹富士さんが、両腕を組んで見下ろして来ていた。
組んだ腕に乗せられた豊満な胸の主張力が非常に強い。
正直胸しか目に入らないみたいなところもある。
「次はなんだ鷹富士さん。困った事にそっちには一切心当たりがないぞ」
「自分の胸に手を当てて考えて下さい」
「マジでない」
無いものは無いのだ。
いや本当に。
「私の胸でも良いですよ」
「マジで?」
「…………ヘンタイ」
これ、俺に非は半分くらいしか無い気がする。
「浮気するなんて、信じられません!」
「何故そうなったのか」
「私以外の女性を車に乗せるなんて……」
「鷹富士さんを乗せた記憶も無いんだが」
と言うか、何故知っているのだろう。
今日俺は、久々に車で出社していた。
昨夜の約束通り、高垣さんを車で駅まで送る為である。
「エッチまでしたのにふざけないで下さい!」
「そういう悪ふざけは冗談にならないのでふざけないで下さいお願いだから」
「それじゃ高垣さん、助手席乗って下さい」
「ふふ、助手席で成就……イマイチですね」
仕事が終わるまで待ってて貰う事になってしまったが、高垣さんはどうやら気分が良さそうだった。
夏の熱気とおさらばするべく冷房を入れて、ドアを閉める。
隣の席からは、ほんのりと甘い香りがした。
昨日も思ったが、何故女性はこうも良い香りがするのだろう。
「……鼻の下が伸びてますよー」
ついでに、後部座席には鷹富士さんも乗っていた。
本人曰く『浮気現場の決定的瞬間を突き止めます!』だそうで。
バックミラーで後ろを確認しつつ、車を出す。
暑くない空間のまま帰れるって素敵。
低い音を立てて車が動き出した。
駐車場を抜けて、事務所を出る。
「……運転しているプロデューサーの横顔、素敵です」
「無敵ですから」
「……イマイチです」
冗談を言おうとしたのであって、駄洒落を言うつもりではなかったのだが。
昨日の文香の発言のせいなので、脳内で彼女に責任を押し付ける。
「プロデューサーの後頭部も素敵ですよ~」
鷹富士さんの位置からではヘッドレストしか見えないだろうに。
見なくても分かる、絶対に仏頂面をしているだろう。
信号待ちの時間は、相変わらず暇だ。
なんとなく外を見れば、件の防音シートが揺れている。
今夜はなかなか風が強い様だ。
何か音楽でも流そうかとCDを取り出したところで、信号が変わってしまった。
アクセルを踏む。
少しずつ、車が動き出す。
その瞬間だった。
「あっ」
鷹富士さんが、窓の外を見て声を上げた。
知り合いでも歩いていたのだろうか。
そう思い、窓の外を見る。
歩道には誰も居なかったが、俺の位置からは見えないだけだろうか。
「プロデューサーっ!!」
「っ!」
慌てて正面を向いて、俺は息が止まりそうになった。
いつのまにか対向車が此方の車線を走行し、真正面から向かって来ていた。
ヘッドライトが眩しくて、一瞬何が何だか分からなくなる。
酔っ払いだろうか、それとも悪ふざけだろうか。
分からないが、今はそんな事を考えている暇は無い。
「プロデューサーっっ!!」
もう一度、高垣さんの悲鳴の様な叫び声。
それと同時に、パニックになりかけていた俺は正気を取り戻した。
「っおおおっっ!!」
ギュルルルルルッッ!
全力でアクセルを踏み込み、対向車線へと出る。
そのせいでハンドルの操作が奪われかけるが、何とか抑えて歩道に突っ込む事は避けた。
そんな俺たちの乗った車のギリギリの所を、目の前から突っ込んで来た車はすれ違って行った。
余りにも一瞬の出来事に、今になって現実に脳が追いついたのか大量の汗をかきはじめていた。
「……何だったんだ、今の……」
サイドミラーには、もうその車は写っていなかった。
辺りは既に、日常に戻っている。
「…………イタズラ、にしては度が過ぎますね……」
「最近クラクションの音が聞こえてきたの、アレが原因っぽいな……」
昨夜の件も、もしかしたらさっきの車のせいで……
その瞬間、俺は嫌な予感がした。
昨夜、高垣さんの方へと突っ込みかけた車以外、他に何もなかった。
さっきの車も、ほんの数秒前までは俺たちの前には無かった。
まるで、『その瞬間に現れた』かの様に。
振り返って後部座席を見れば、鷹富士さんは笑顔だった。
……いや、これは笑顔ではあるが笑ってはいない。
むしろ、その正反対の感情だ。
「……しばらくは、車も避けた方が良いかもしれませんね。警備員さんにも相談してみましょう」
「……プロデューサー。明日、文香ちゃんにお話ししてみて下さい」
「勿論、そのつもりだ」
どちらも、明日そうするつもりだ。
それから駅までは、特に何もなく無事に辿り着いた。
正直心臓ばっくばくだったが、車を放置する訳にもいかない。
駅に二人を降ろした後、俺は固く誓った。
もう二度と運転しないからなこんちくしょう。
「…………はぁ」
「俺が図書室に来ただけで溜息吐くのやめないか?」
読書の邪魔をするな、と目を向ける事すらなく全身の雰囲気で語って来た。
「……出口は、入り口と同じ場所にありますので……」
そんな事は分かりきっている。
むしろ違ったら盗難対策ばっちりのスーパーマーケットかよってなる。
つい先日訪れた時以上の量の本に囲まれた部屋で、俺は勝手に近くの椅子を運んで座り込む。
それからずっと、文香を見つめ続けた。
文香はそれに気付いたのか気付いていないのか、本のページを捲り続ける。
こうなれば根比べだ。
先に折れたのは、文香の方だった。
「……そんなに情熱的に見つめられると、読書に集中出来ないのですが……」
「そんな視線してたか?」
そう言って、文香はようやく本を置いてくれた。
「……昨日、俺たちが事務所の前で事故に巻き込まれかけた」
「…………達、と言うのは?」
「それも纏めて話す」
それから俺は、事情を説明した。
伝え漏らしがあってはいけないから、ここ数日の事を全て。
最近、夜に急ブレーキの音やクラクションの音が聞こえる事。
反対側の建物の工事の事、仁奈と一緒に動物の気持ちになって遊んだ事。
一昨日の夜の出来事、昨夜の出来事。
「……仁奈さんは、今日はどの様な格好を……?」
「ウサギさんだった」
「写真は?」
「撮ってないけど」
「……役立たず」
ボソリと呟いたつもりだろうが、聞こえているからな。
「……鷹富士さんは、何と?」
「終始素敵な笑顔だったな、めちゃくちゃ怒ってるっぽい。で、文香に聞いてみろって言われてここへ来た訳だ」
「…………ふむ……であれば、もう大丈夫かとは思いますが……」
「ん、もう分かったのか?」
「はい、大方は…………」
あいも変わらず流石である。
彼女自身は見ていないのに、既に結論から解答まで出ている様だ。
一度、大きく息を吸い込む。
「…………では、プロデューサーさん。先ずは、今回起きている現象と、その原因から話してゆきますが……」
「おう、頼む」
さらに一旦、深呼吸をして。
それから文香は、語った。
それは、『幻影電車』……又の名を『偽汽車』です。
今回は電車や汽車では無く一般車ではありますが、そこに大きな違いはありません。
特に区別せず、進めさせて頂きます。
大きさが違うだろ……?
……続けさせて頂きます。
とある、路線でのお話です。
明治時代の東京都葛飾区亀有など、都内各地での出来事です。
夜遅くに汽車が線路を走っていると、しばしば怪現象が起きました。
汽車の前方から汽笛が聞こえてきたかと思うと、その汽車の走っている線路上を、逆方向から向かって、突然別の汽車が猛スピードで走って来きたのです。
機関士は慌てて急ブレーキをかけましたが、その瞬間、あちらの汽車は忽然と姿を消してしまったのでした。
降りて何度確認しても、目の前を別の汽車が走っていた様な様子は一切ありません。
反対側の路線を走っていた汽車を見間違えてしまったのかと思い、そちらの線路を確認するも、勿論他の汽車はありませんでした。
その様な怪奇現象が幾度か起きた為、社内でその話は瞬く間に広がりました。
そんな怪現象が続いたある晩の事です。
一人の機関士が汽車を走らせていると、件の偽汽車が現れ、此方目掛けて走ってくるではありませんか。
しかしその勇敢な機関士は『こんなもの、幻覚に決まっている』と、ブレーキをかけず、そのまま汽車を走らせました。
衝突するかと思われたその時です。
『ギャッ!』という叫び声と共に、偽汽車は消え去ってゆきました。
翌朝にその辺りを調べたところ、汽車に轢かれた狸の死体が見つかったのです。
それを見た人々は、線路を敷かれた為に棲み処を壊された狸が、機関車となって人々を化かしていたのだろうと噂し、この狸を供養するため亀有の見性寺に塚を作りました。
以前、人の住む地域に狸が住む事もある、と言うのお話はしたと思いますが……
人と動物の生活領域が重なった時、譲歩を迫られるのは動物の側です。
人が線路や道路を作る時、そこに住んでいた動物達は住処を捨てざるを得ません。
人が空き地に新しい建物を建てる時、そこに住んでいた動物達は離れざるを得ません。
……はい、狸です。
改めて言いますが、『幻影電車』の正体は狸です。
『幻影電車』の狸が化かすのは、乗り物に乗っている人のみです。
ですから、周りを歩いている人にはその様な列車・車両は見えません。
そうなると、少しずつ今回の事件の全貌が見えてきませんか?
はい、一昨日の件です。
一昨日の件。
あれは恐らく、プロデューサーさんの目の前を通り過ぎた車が化かされたのだと思います。
ですから『幻影電車』を避けようとした車が、楓さんの方へと突っ込みそうになってしまった……
昨夜の、プロデューサーさん自身が体験した事に関しては、最早語るまでも無いでしょう。
プロデューサーは、自分の目で見たのですから……
そして恐らく、鷹富士さんは全く焦ってはいなかったのでは無いでしょうか……?
彼女の目にはきっと、鉄の塊である車に走って突っ込んでくる、無謀な狸の姿が見えていたのだと思います。
……『幻影電車』と、狸と判断した理由、ですか……
一つ目。
今回の件は、『化かすモノ』が関わっていた事です。
車が突然現れて突然消えるなど、化かされている以外にあり得ません。
工事現場のシートの揺れによる心理的負担からの集団幻覚の可能性も、一応は考えましたが……
二つ目。
仁奈さんが、『こないだ近くでタヌキを見た』と発言していた為です。
この付近に、狸が生息していたのでしょう。
また、『轢かれてペチャンコに』とも言っていました。
これは、狸が移動する必要があったから道路を渡った、と判断出来ます。
三つ目。
現在工事中の一帯の中には、公園がありました。
殆ど広場と言っていい遊具の少ない公園でしたが、その分緑豊かで、人間以外の生き物には過ごし易い場所です。
そこが、狸達の生息地だったのでしょう。
民家もありましたから、食べ物に困る事は無かった筈です。
四つ目。
ですが狸達は、工事によって住む事が出来なくなってしまった。
生息地を、人間の都合によって奪われてしまったのです。
これは、『幻影電車』で狸が化けていた理由と一致します。
生息地を奪われたから、化けて驚かす。
そう言えば、これは五つ目にしてもいいのかあやふやですが……
プロデューサーさんが信号待ち中に外を見た時、防音のシートが揺れていたと言っていましたが……
恐らくその時、狸が中から出てきたのではないか、と……
……いえ、これは風の可能性もあるので判断理由に加えるには微妙なところですね。
……以上が、私が『幻影電車』と判断した理由です。
……対処法、ですか?
自分で捕獲するなり、役所に頼めばそれで済むお話です。
怪奇現象ではありますが……今までと違い、実態のある生き物が原因なのですから。
ところで、狸鍋は中々に美味しいと聞いた事が……ごほんっ。
いえ。
おそらくもう、『幻影電車』は現れません。
少なくともこの地域には、出没しないでしょう。
……はい、狸が居ないのであれば、現れませんから。
……狸をどうするのか、ですか……
ですから、それをプロデューサーさんが考える必要はありません。
……ああ、そうですね、そこまで言うのであれば……
もしあれば、折角の機会ですから、プロデューサーさんもお話を伺ってみてはいかがでしょう?
より一層、『タヌキの気持ち』が分かるかもしれません。
「……本当に大丈夫なんだろうな?」
俺は、何度も念を押した。
文香のおかげで原因は分かったが、話を聞いたところで解決には至っていない。
狸のせいで事故(今のところは未遂だが)が起こりうるのであれば、区役所にでも頼んで捕獲してもらうべきだ。
なんなら俺が捕まえて……
「狸の捕獲は、鳥獣保護管理法により違反ですが……」
「……免許とかが必要って事か?」
「……何度も、言わせないで下さい……」
これ以上話す必要は無い、説得する必要もない。
そう言わんかの様に、文香は本を手に取った。
「……プロデューサーさんを危険な目に遭わせたモノを、鷹富士さんが許す訳が無いですから……」
「プロデューサー、もう車で送迎しては頂けないんですか?」
「いや、ほんと暫くは運転したくないですって」
その日の夜、高垣さんと並んで事務所を出た。
文香の言う事を信じるなら、もう危ない事は起きないのだろう。
それでも少し不安になってしまうのは、俺が巻き込まれた側の人間だからか。
事務所の反対側に何が出来るのか、もう興味は無くなっていた。
「ふふ……失礼しました。それと、改めてありがとうございます」
「……?」
「私の為に、飲み会を断って下さって、です」
ああ、そう言えばそんな嘘をついて『車では来ない』と言ったのだった。
そこまで気にすら必要は無いのだが……
「お詫びと言っては難ですが……よろしければこの後、飲みに行きませんか……?」
「……そうですね。俺も少し、飲みたい気分なので」
明日も仕事だが、それでも俺は酔いたかった。
文香が言っていた最後の言葉の意味。
そして、俺が『幻影電車』(車だが)にぶつかりそうになった時。
鷹富士さんが呟いた言葉。
『轢いちゃっても良かったのに』
それから、事務所の前で急ブレーキの音が聞こえてくる事はなくなった。
3、◯◯トンネル
八月十一日。
窓の外を見れば、灰色の雲が空に散らばり、天気は少し怪しくなっていた。
天気予報によれば、台風が少しずつ関東へと向かっているらしい。
夏のむんわりとした熱気と湿気が、快晴の時以上に体力を奪う。
外に出るだけで自然のサウナが楽しめるのだから、きっと何もしなくても健康になれるだろう、いやなれないが。
「ふぅ……改めて、お疲れ様でした……」
「お疲れ様です、ちひろさん」
『P.C.S』の三人による五十嵐響子のバースデーライブを終えて翌日。
山の日である日曜日、俺たちは事務所でパソコンとカタカタ戯れていた。
こらこらはしゃぐな、今構ってやるからハハハ。
……正直、メチャクチャ帰りたい。
ライブ後の各方面に向けたお礼や後始末、ブログやサイトの更新。
やるべき事は沢山あって、休む訳にはいかなかった。
ここまで大変だと、寧ろ楽しくなってくる。
これが終わればしばらく休みだと思えば、働くって素敵。
昨日のライブの写真をデスクトップに広げる。
満面の笑顔を浮かべる島村卯月、小日向美穂、五十嵐響子を見てエネルギーを補給。
彼女達の為にも、頑張らないと。
何やら三人は今スイパラでパーティをしているらしく、時折送られてくる楽しそうな画像が俺をサボりへと掻き立てるがなんとか耐えて。
「プロデューサーさん……終わったら、飲みに行きませんか?」
「良いですね……」
飲みたい。
ビールと日本酒で解脱したい。
とても涅槃寂静。
言語野が多少やられ始めている。
「……あ、俺今日車なんですよね。一旦帰ってからで大丈夫ですか?」
今日の作業自体は、おそらく夕方までかからないだろう。
用事を済ませてから帰宅して、それから何処かで待ち合わせをしても、おそらく時間的に余裕がある。
何より明日は休みだ。
多少遅くなっても飲んで幸せになりたかった。
「あれ? もう二度と運転しないって誓ってませんでした?」
「そうも言ってられない状況なんですよね……」
数日前に狸に化かされてから、正直運転なんて夏休みの読書感想文並みにやりたくない事になっていたが。
けれど、行かなければならない場所が出来てしまったのだ。
いや、正確には元からあったのだが。
行くつもりは無かったが、大切なアイドルの為にも行かざるを得なくなってしまった。
「……明日、『P.C.S』の三人が心霊スポットのレポートやるじゃないですか」
「ああ、あの生放送の。この時期ってそういう番組多いですよね」
「はい。だから今夜、俺が一回下見に行こうと思ってまして」
「……必要あるんですか?」
あるに決まっている。
ちひろさんがそう言った心霊現象を信じていないのは知っているが、逆に俺はそう言った現象が普通に起こる事を知っていた。
都内に住んで居ようが、どれだけ人が住んでいる場所だろうが、そういうモノは身近に存在しているのだ。
もし彼女達の身に何かあれば、どれだけ後悔してもし足りないだろう。
そして、『P.C.S』の三人は数日前、ソレに一度巻き込まれている。
巻き込まれていると言うよりは彼女達が呼び出したのだが、それはそれ。
五十嵐響子は身に降ろせてしまう人間で、小日向美穂はソレを視てしまう人間だと言う事が分かっていた。
また同じ様な事になって彼女達が怖い目に遭うくらいなら、俺が一旦チェックして安全を確認しておくべきだろう。
俺がきちんと先に安全確認をしておけば、美穂も安心出来る筈だ。
「あ、よければちひろさんも行きますか?」
「え?」
「ドライブだと思って付き合って下さいよ。都内なんで、行くのにさほど時間はかかりませんし」
旅は道連れ、人は多い方が良い。
俺が一人で行くのは怖いとか、そういう理由ではない、決して。
鷹富士さんに着いて来て貰うのが一番安全なのは分かっているが、彼女と狭い空間に二人きりだと、逆に少し不安になる。
心霊的なあれではなく、単純に身の危険というか、貞操の危険というか。
「構いませんよ。 夜のドライブなんて久しぶりですから、楽しみになってきました」
「よっし。人柱!」
「…………」
物凄い笑顔で睨まれた。
「……飲み、奢るんで」
口は災いの元。
俺はそれを、身を以て学んだ。
「うおー! 雲すげー!」
「ふふ……そうですね。とても可愛らしいです」
夕暮れ時、空が赤く染まる頃……ではあるのだが、分厚過ぎる雲に空は完全な灰色になっていた。
部屋のソファでは、仁奈が今にも雨が降りそうな空を見てテンションを上げ、隣に座る文香がそんな仁奈を見て幸せそうな表情をしていた。
仲良しなのは良い事だが、早く帰らないと雨が降って来て大変な事になるぞ。
いざとなったら俺が車で送るが。
「……ふぅ、終わりました。プロデューサーさんは?」
「此方も終わりです。それじゃ、行きますか」
仕事を終えて、俺たちは立ち上がった。
「あら……お二人は、飲みに行かれるのですか?」
ふと、文香は此方へと視線を向けた。
羨ましいだろ十九歳、俺たちにはお酒がある。
「はい。それとドライブです」
「ふむ……送り狼にお気を付け下さい」
甘いぞ文香、その程度の事を心配するなど。
冗談としても三流以下だ。
「安心しろ文香、俺はチキンだ」
「では、送り鶏ですね……」
新しい単語が生まれた。
「クックドゥードゥルドゥー!」
「……仁奈さん。何故、アメリカンなのですか……」
「フライドチキンの気持ちになるですよー!」
「ぁぁ……ヴィーガンの気持ちが……」
仲良いな、あの二人。
「ところで文香おねーさん!」
「おねーさん……はい……! 何でも聞いて下さい……!」
「送り狼ってなんでやがりますか?」
「……………………」
文香が助けて欲しそうな目を此方へ向けて来るがスルー。
自分で蒔いた種は自分で何とかして頂きたい。
「……………………」
仕方ない、普段助けて貰っているお礼だ。
ここは俺が一つ、上手く助けてやろう。
「……仁奈、送り狼って言うのは……あれだ、狼が実家から仕送りで送られてくる事を言うんだ」
「親は何を考えてやがるでごぜーますか?」
まぁそうなるよな。
ビクビクしながら事務所の前を通り過ぎ、それからようやく車内に冷房を入れた。
文香が言っていた通り、どうやら本当にもう大丈夫らしい。
鷹富士さんが何をしたのかは知らないが、まぁ、知らない方が良いのだろう。
彼女であれば、話すべき事は俺に教えてくれるだろうし。
「楽で良いですねー車って」
「雨降りそうですしね。こう言う時の車は本当に便利です」
低い音を立てて、車は走る。
何となく手持ち無沙汰だったので、適当なCDを突っ込んで掛けた。
車内に流れ始めるのは『P.C.S』の曲だった。
今頃彼女達は、ガールズトークに花を咲かせている頃だろう。
空はかなり黒くなっているが、まだ雨は降っていない。
路上が濡れると滑り易くなる為、出来れば運転中は降らないで欲しかった。
事故るのは本当に嫌だ。
まじで、狸とか関係無く事故は怖い。
「良いですよねーこの曲。ザ・若い女の子って感じがします」
「ちひろさんだってまだまだ若いじゃないですか」
「彼女達に比べたらもう……ううう……若いです、私だってまだ若いですから……」
女性に年齢の話はするべきでは無かった。
そこまで何も言っていないのに、何故か自爆してちひろさんは拗ねる。
なんだか居た堪れない空気なので、次の曲を流した。
あ、これも『P.C.S』だ。
「……ワザとやってませんか?」
「偶々ですよ、本当に」
それからしばらく、俺たちは都内を走った。
目的地まで、もう遠くない。
「そう言えば、今向かってるのってどんな心霊スポットなんでしたっけ?」
「トンネルですよ。よくありがちな『出る』スポットです」
「何が出るんですか?」
「トンネル内って歩行者進入禁止なんですよ。それなのに女の子が歩いてて、追い越してミラーで確認したらもう居なくなってたとか。後は逆走してくるバイクとか、事故多発とか、そこら辺の欲張り詰め合わせセットです」
「つまり結構有名どころって事じゃないですか」
有名ではあるらしい。
かつては実際に研究施設があったとかで、それが噂の裏付けとなっている。
事故も多いらしく、普通に走るだけでも注意した方が良いスポットだ。
霊が出るから事故が多いのか、事故が多いから霊が出るのかは分からないが。
ところで、トンネル内は歩行禁止なのにどうやって撮影しようとしているのだろう。
きちんと許可を取ったのだろうが、安全面にも注意して撮影して頂きたい。
いよいよ、目的地であるトンネルが姿を現した。
それと同時、ポツリとフロントガラスに水滴が落ちる。
「……降ってきちゃいましたね」
「ですね……」
最初は数滴だった筈だが、それはほんの一瞬でフロントガラスを埋め尽くした。
雨の降り始めは、少し不思議な気分になる。
余りにも短時間で、景色が一変してしまうからだろう。
バチバチとガラスを叩く大きな雨粒を、ワイパーで退けて視界を確保。
「……これですね」
「うわぁ、雰囲気ありますね」
雨が降っているからだろう。
台風が接近しているせいで人が外に出ず、俺たち以外に車が走っていないからだろう。
なんだか本当に、別の世界へと訪れてしまったかの様だ。
一瞬、入るのを躊躇いそうになる。
「……行きますか」
「怖くなってもスピードの出し過ぎには注意して下さいね?」
「分かってますって」
此処で退くべきだ。
名称も知らない脳の機関が、そう警鐘を鳴らしていた。
全身の毛が逆立つ様だ。
けれど、明日は彼女達がこの場で撮影なのだから。
アクセルを踏んで、トンネルへと入る。
まるで吸い込まれるかの様に、勝手にスピードが上がってしまう感覚に陥った。
トンネルを走っていると、等間隔のライトのせいで精神が疲れる。
視界も悪く、これは確かに事故が多発しそうな場所だ。
バチバチという事を搔き消すべく、俺はBGMの音量を上げた。
なんとなく、バックミラーを覗くのが怖かった。
助手席に座るちひろさんも、なんだか怯えている様だった。
時折窓の外を覗いては、視線を真正面に戻す。
俺も安全運転を心掛けつつ、法定速度ギリギリまでアクセルを踏んだ。
それからしばらく、会話は一切なかった。
どれくらいの時間、そうして走っていたのだろう。
俺たちの車は、いつのまにかトンネルの出口へと辿り着いていた。
ワイパーの速度を一段階上げ、そのままトンネルを出る。
抜けた瞬間、一気に俺は息を吐いた。
「……まぁ、なんて事無かったですね!」
虚勢を張ってみる。
声が裏返った。
まぁ、雰囲気がアレなだけで大丈夫そうだ。
特に問題無く、普通にトンネルを抜ける事が出来た。
それもそうだ、このトンネルだって一般道である。
走る車全てが何かしらに巻き込まれていたのなら、即封鎖されているだろう。
「……ちひろさん?」
「……プロデューサーさん……これ、安全確認の為に来てるんですよね?」
隣に座るちひろさんを見れば、何やら気掛かりな事がある様だった。
彼女には何かが見えたのだろうか。
「えっ? あ、はい。そのつもりですけど」
「なら……音楽を切って、もう一度トンネルに入って下さい」
「良いですけど……そんなに若々しい曲が嫌でした?」
「…………」
睨まれた。
それは馬鹿にするなと言う意味か、この状況でふざけるなと言う意味だったのか。
俺としては前者だと嬉しいのだが。
それからちひろさんは、口を開かなかった。
適当な場所で車をUターンさせ、音楽を切ってもう一度トンネルへと向かう。
音楽が無くなったからだろう。
雨の音は、一層強く感じた。
「……入りますよ」
「…………はい」
再び、俺たちを乗せた車はトンネルへと入る。
進行方向が逆なのだから当たり前だが、先程通った時とはまた全く違う風景に見えた。
あいも変わらず、対向車は現れない。
此方の車線を走る車に驚かされてまだ間もないから、出来れば無い方が精神的にも助かるところではあるが。
それからしばらく、会話は無かった。
低いエンジンの音。
バチバチと雨粒がフロントガラスを叩く音。
ワイパーの動く音。
それ以外の音が一切消え去ってしまったかの様に、何も聞こえない。
等間隔のライトが、精神を摩耗させる。
俺としては一刻も早く、このトンネルを抜けたいところだった。
音が強くなる。
それだけで、強い焦りを感じた。
「…………プロデューサーさん……」
「どうかしましたか? もう少し大きい声でお願いします」
ちひろさんの余りにも小さい声は、バチバチと言う音に殆ど掻き消されてしまっていた。
どうしたのだろう、酔ってしまったのだろうか。
「……ーく! ーーをーーけて下さい……!」
「えっ? なんですか?!」
そこそこ大きな声を出している筈なのに、上手く聞き取れない。
トンネルの中にいて、周りの音が大き過ぎるせいだろうか。
「……速く!」
「速く?!」
「速く抜けて下さい! おかしいと思いませんか?!」
ようやく、ちひろさんの声がはっきりと聞き取れた。
速く抜けて下さい?
体調が悪くなってしまったのか、怖くなってしまったのか。
それとも、何かが見えてしまったのか。
おかしい? それはどう言う……
そこまで考えて、俺はようやく理解した。
何故、ちひろさんの声が聞き取れなかった?
当たり前だ、雨の音がうるさ過ぎたから。
では、当然次の疑問に至る。
それに俺はもっと、早く気付くべきだった。
何故トンネル内なのに、雨の音が聞こえるんだ?
理解した瞬間、俺は全力でアクセルを踏もうとした。
何かは分からないが、非常に不味い事態に違いない。
よくよく考えれば、先程通った時もおかしかったのだ。
何故トンネル内を走っていたのに、俺はワイパーを動かしたまま走っていた?
「プロデューサーさん! 車を止めて下さい!!」
「っ!」
何かが見えてしまったのだろうか。
何かに気付いたのだろうか。
俺は言う通り、車を脇に寄せて止めた。
ちひろさんを見れば、見た事も無いくらい怯えている。
急いで、俺は文香へと電話を掛けた。
1コール、2コール。
それから無限に感じられる程の時間を待ち続けたが、文香が出る事はなかった。
「文香! 頼む! 出てくれ!!」
焦りを感じる。
文香に頼れないだけで、ここまで不安になるのか。
圏外では無いが繋がらないのは、単純に彼女が携帯の近くにいないからか。
いっその事、一緒に来て貰うべきだったかもしれない。
ピロンッ
ラインが一件、届いた。
見れば、送り主は文香だった。
文香『プロデューサーさん、不味い状況なのは分かっていますのでラインでお願いします』
それだけで、俺は一気に救われた様な気持ちになった。
何故通話ではダメなのか疑問を抱いたが、彼女がそう言うのであればラインの方が良いのだろう。
P『〇〇トンネルに来てる。トンネル内なのに雨の音が止まらない』
文香『今は何処から連絡を?』
P『トンネル内だ。路肩に停めてる』
文香『それは、何故?』
P『文香に連絡する為だ。あとちひろさんが一旦停めてくれって』
それから数秒間、文香からの返信は無かった。
おそらく現状の推理をしているのだろう。
きっと大丈夫だ。
彼女なら、何かしら解決の糸口を……
「プロデューサーさん! 車から降りて下さい!!」
突然、隣に座るちひろさんがそう叫んだ。
「待って下さい! 今文香と連絡を取ってて!」
「良いですから! 早く降りましょう!!」
ちひろさんは、今にも泣き出しそうな表情だった。
何度も何度も、俺の腕を揺する。
雨の音は止まらない。
それどころか、どんどん強くなっている様な気がした。
「早く降りましょう! ねぇ、プロデューサーさん!!」
「ちひろさん! こう言う時は焦らないで!」
「早く降りないと! 早く! ねぇ!!」
「ちひろさん! 落ち着いて下さい!!」
縋る様に、顔をくしゃくしゃにして。
俺も祈る様に、文香からの返信を待った。
『……もしもし……プロデューサーさんでしょうか?』
「文香?! 悪い、ちょっと騒がしいかもしれないが……」
文香の声にそう返す。
いつのまにか、彼女との通話を開始していたらしい。
『いえ……それよりも、早く車から降りて下さい』
「何か分かったのか?!」
『……はい、後で説明しますから……今は一刻も早く、車から降りてそこから離れて下さい……』
「分かった! ちひろさん、こっち側から降りて……」
泣き出しそうなちひろさんの腕を握って、俺は運転席から二人で逃げようとした。
その時、ふと。
スマホの画面を見た。
俺は、誰とも通話していなかった。
文香『ちひろさんが何を言っていても、決して言う通りにしないで下さい』
文香『……プロデューサーさん?』
文香『プロデューサーさん。返信をお願いします』
画面は、まだ文香とのトークの最中だった。
俺も、もうパニックになりそうだった。
P『今文香から通話があった』
文香『していません。耳からの情報は全て信じないで下さい』
P『どうすれば良い。今車から降りて逃げようとしてたとこだ』
文香『決して、車からは降りないで下さい!』
「プロデューサーさん! ねぇ! ねえってば! 早く降りないと!!」
『プロデューサーさん……早く、車から降りて下さい……』
文香『何を言われても無視をして、車を出してトンネルから抜けて下さい』
「ねぇ、ふふっ、ねぇ! 車から降りましょうよプロデューサーさん!」
『大丈夫です、プロデューサーさん……さあ、車から降りましょう』
もう、泣き叫びそうだった。
俺は聞こえてくる音を全て無視して、全力でアクセルを踏み込んだ。
トンネルを抜けた。
雨の音なんて聞こえないくらい、心臓がバクバク鳴り響いていた。
フロントミラーでトンネルを見てしまうのすら嫌で、俺は前に集中した。
フロントガラスには、大量の水滴が叩き付けられ、音を響かせる。
そして隣には、嗚咽を漏らすちひろさん。
「っゔぁ……プロデューサーさん……っ」
「……すみません、ちひろさん。変な場所に連れて来てしまって」
「……ほんっ、とに……っ! っ、怖かったんですからっ!!」
つっかえながらも、彼女は不安だった事を打ち明けた。
「急に車を止めるし! プロデューサーさんが狂った様に『降りよう』なんて言うから……っ! わ、私……もうどうすれば良いのか分からなくて……!!」
「…………俺が、そう言ってたんですか?」
「何度も止めましたよ! でもプロデューサーさん、全然聞いてくれなくて! 挙句の果てに繋がってないのに一人で電話しだすし!!」
文香の言っていた事を思い出した。
『耳からの情報は全て信じないで下さい』と。
どうやらちひろさんの方も、何かが起きていたらしい。
少なくとも俺はちひろさんに言われて車を停めたし、狂った様に降りようと提案してきたのもちひろさんの方だ。
「……一旦事務所、戻りますか」
「……はい……」
トンネルや橋の下を避けて、遠回りしつつ俺たちは事務所に向かう。
それから事務所に着くまで、一切会話は無かった。
「……お疲れ様です」
「ありがとう、文香。本当に助かった」
事務所に戻ると、部屋にはまだ文香が居た。
いや、服が少し濡れているところを見るに、一度帰宅しようとしたが戻って来てくれた様だ。
「……ちひろさんは……?」
「仮眠室に直行。それと、明日の撮影は何が何でも止めるって言ってた」
「はい……その方が、良いかと思います」
あんな場所に大切なアイドルを行かせられるか。
本当に、今日行っておいて良かった。
「プロデューサーさんも、なかなか…………いえ、なんでもありません」
後で仮眠室にホットミルクでも持って行こう。
飲み会は、また後日だ。
「……なぁ、文香」
「…………すみません……流石に、書に纏められている以外の心霊現象には知識が疎く……」
「あぁいや、責めるつもりはない。助けてくれて本当に感謝しているんだ」
流石の文香も、今回の件については知らない出来事らしい。
彼女は知識を基本的に書籍で得ている為、載っていない現象ともなると正体については分からない様だ。
それでも本当に、凄いと思う。
焦っていて纏まらない俺からの情報のみで、きちんと解決策は導き出せたのだから。
文香から何も言われなかったら、俺はおそらくちひろさんと一緒に車から降りていただろう。
その後どうなってしまったかは、考えたくもない。
「……そうですね……せめて、今回起こった事で私が分かる限りの……いえ、それも全て推測の域を出ませんが……」
「……頼む」
それから文香は、色々と話してくれた。
まず最初に……プロデューサーもご存知かとは思いますが、件のトンネルは、もともと心霊スポットとして有名な場所です。
謎の女の子、元研究所、事故多発、首無しライダー等……調べれば調べる程、沢山の曰く付きの場所でした。
もちろんその全てが真実という訳では無いと思いますが、いくつかは実際に起こった事なのでしょう。
……いえ、流石にプロデューサーさんから連絡があった時点では、そこまで調べてはいなかったのですが……
今回の件の原因が何だったのかは分かりません。
むしろ、多過ぎて推測が付かないのです。
『良くないモノ』が集まり過ぎて、おそらくあのトンネル固有の『何か』が出来上がっているのでしょう。
それに関しては、白坂さんが嬉々として調べて下さるでしょうが……
……『霊』、『心霊現象』と言っても、それには様々な種類があります。
降霊やラップ音、化かすモノ、それこそオバケもそうですね。
その様なモノが現れる時、現れた時。
人によっては、人体に影響が出ます。
……いえ、少し違いますね。
霊は基本的に、『生きている者に直接手を出す事』は出来ません。
だから取り憑いて不運を呼び込んだり、五感を掌握して、生きている人間の心を弱らせ、手を出せるところまで落とそうとしてくるのです。
例えばラップ音であれば、聴覚に。
化かすモノであれば、視覚に。
そう言った様に、五感のどれかしらに作用して、人に影響を与える訳です。
『幻影電車』に関しては、化かすと言うより化けているので、複数の器官に影響を与える事もありますが……
基本的に、霊が影響を与えるのはそのうち一つだけです。
多くても二つですが、その場合は非常に強力なモノですので……
共感覚とはまた異なるかもしれませんが、大概の場合、一つを騙すだけで十分なのです。
雨の音さえ聞こえれば、雨が降っているのだとその人を騙しきる事が出来ますから。
……はい。
今回は『聴覚』です。
二人同時にとなると、それが限界だったのでしょう。
それに加えて視覚にまで介入されていたら、おそらくどうしようも無かったかと……いえ、なんでもありません。
おそらく気付いていたと思いますが、トンネル内に雨は降ってはいません。
雨の音が聞こえていただけです。
けれど音がするから、トンネル内には雨が降っているのだと錯覚してしまった。
その程度でしたら、問題なく走り抜ければ良かったのですが……
ちひろさんが『止めて下さい』『降りましょう』と発言していた、と仰っていましたが……
おそらくその時点で、お二人の聴覚は完全に支配されていた筈です。
音によって脳へと伝わる情報は、完全にコントロールされていました。
ですから、耳からの情報は信頼するな、と伝えたのです。
プロデューサーさん、最初に私に電話を掛けて来ましたよね……?
私はきちんと、応答していました。
けれど貴方は、そのまま切ってしまった。
ですから、音による情報は無駄になると、寧ろ利用されてしまうだけだ、と判断してラインをしたのですが……
恐らくちひろさんの方も、ずっとプロデューサーさんの声で『降りよう』と言われていた筈です。
ですから必死に、貴方を止めようとしていたのでは無いでしょうか。
勿論貴方からすれば逆に、必死になって降ろそうとしてくるちひろさんに恐怖を感じたでしょうが……
パニックになって降りてしまわず、本当に良かったですね……
……今回の件に何が関与していたのかは、結局のところ分かりません。
私から言える事は、『もうその場所には近づかない方が良い』くらいのありきたりな注意くらいです。
ちひろさんには、私の方から上手く説明しておきます。
プロデューサーさんの株が下がってしまった場合は、悪しからず。
「……本当に、色々とありがとな」
「いえ……私もつい先ほど、仁奈さんの件で助けて頂きましたから」
ああ、送り狼の話か。
善行は積んでおくものだと、改めて理解した。
心霊スポットなんて、行くものではない。
車に次いで、俺の誓いは増えた。
「……あ、そう言えば文香」
「はい……何か、疑問がありましたか?」
「疑問って言うより、気になっただけなんだが……」
何となく、気になった。
今回の件は、耳を騙されただけだったが……
「もし五感全てに介入出来る様な奴に出逢ったら、どうすれば良いんだ?」
「……どうしようも無いと思います」
それもそうだ。
そも、目を騙されるだけで人間は大体機能しなくなる。
「ですから……」
出逢わない様にしろ。
出逢う様な場所に行くな。
出逢わない事を祈れ。
そう、言われるのだと思った。
「……考えない方が、良いと思います」
『最っ低……ほんっと、信じられません!!』
「すみませんでした」
翌日、ちひろさんから電話が掛かって来て。
俺は取り敢えず謝ってみた。
『イタズラだったなんて……割と本気で見損ないました』
……ああ、文香からそう説明されたのか。
全ては俺のイタズラで。
ちひろさんを驚かせようとやった事で。
実際の所、怖がる様な事は何も起きていない、と。
「……飲みに行く前に、話のネタ作りに、と……」
『最低です、反省して下さい』
ちひろさんが怯えずに済むのなら、それで良いか。
とは言え文香、多少恨むぞ。
『P.C.S』の撮影に関しては、場所が変わったらしい。
台風も来ているし、路上が濡れていて危ないから、と。
そこら辺はちひろさんが上手くやってくれたのだろう。
そしてその後、俺が仕掛けたドッキリだったと文香から言われたとか。
「……次の飲み、奢らせて下さい」
『二回』
「……許してくれるなら」
そう言って、連絡を切った。
その、直後だった。
ピロンッ
ちひろ『昨日の件、本っ当に最低だと思います』
ちひろ『次の飲み、奢って貰いますから』
心臓が跳ね上がった。
ちひろ『一回じゃ許してあげません。最低でも三回は払って貰いますからね!』
P『分かりました、本当にすみません』
そう返信して、俺は天井を見上げた。
先程、俺と話していたのは。
一体、誰だったのだろう。
あのトンネルに巣食う『何か』は、まだ俺の近くに居るのだろうか。
心臓がバクバクして、吐き気を催す。
ちひろ『やった! 二回から三回に増えました!』
……謀られた。
ちひろさん、転んでもタダでは起きない人だなぁ。
苦笑いしながら、俺は財布の中身を思いやった。
4、◯
「プロデューサー、なんで怒られてるか分かりますか~?」
「分かりません」
八月十三日、火曜日。
空は嫌になる程晴れ渡り、陽射しを遮ってくれるものは一切存在しなかった。
台風も、もう少しくらいは涼しさを残して行ってくれればいいのに。
いや台風は熱帯低気圧だし、風が強いだけで涼しさは元々一切無いか。
ところで、台風一過を一家と勘違いした人はおそらく5人に2.5人くらいいると思っている。
お盆ではあるが仕事もあるので暑い中出社した俺を出迎えてくれたのは、とびっきり笑顔で正座させてくる鷹富士さんだった。
窓の外ではカラスがダルそうに鳴いている。
逆に窓の内側、つまり事務所の内部には普段に比べて格段に人が少なかった。
実家に帰る人、旅行に行く人、家で寝る人等休みを満喫しているのだろう。
「な・ん・で! 私を頼ってくれなかったんですか~?!」
「……?」
「あーはいはい出ましたそう言う『え? いや本当に心当たりが無いんだけど』みたいなトボけた顔……男ってみんなそう。浮気した時もそうやって誤魔化して来ましたもんねプロデューサー」
「いや浮気した記憶も無いんだが……」
何故鷹富士さんは、ここまでおかんむりなのだろう。
迷惑を掛けた記憶も、勿論浮気をした記憶も無い。
「……一昨日」
「一昨日? あ、ドライブに連れてかなかった事か?」
「違……わないんですけど。いえ、ドライブに連れて行って欲しかった訳では無いんです。ただ……」
少し、寂しそうに。
鷹富士さんは、口を尖らせた。
「……プロデューサーに何かあったら、悔やんでも悔やみ切れないじゃないですか……」
「……あぁ……」
正直なところ、例のトンネルを舐めていた節はある。
そんなに連続して『当たり』を引く事は無いだろう、と。
そんな慢心、油断が命取りになると分かっていながら。
最悪何かが起こったのなら、後々相談して解決して貰えば良い、と。
「……すまん」
「……今後、そう言う場所に行く時は必ず私を連れて行く事。約束してくれますか?」
「あぁ……此方こそ、毎回頼っちゃっても良いのか?」
「勿論です。毎回頼られる者と書いて伴侶ですから」
「ほんとか?」
「広辞苑には伴侶の欄にその説明文が私たちのツーショット付きで記載されてますよ~」
「正気か?」
けれど、まぁ良かった。
改めて、俺はそう思った。
鷹富士さんが機嫌を直してくれた事も。
無事に帰って来て、鷹富士さんに心配を掛けずに済んだ事も。
「……で、仲直りの印に何か無いんですか? 指輪とか」
「指輪じゃなくて、気になってる噂ならあるな」
「…………気分じゃありませーん。プロデューサーが指輪プレゼントしてくれないと協力してあげませーん」
「さっきの約束何」
「はい……寮の子たちの間でも噂になってます」
このバリクソ……とても暑い中、俺は歩いて女子寮まで来た。
情報収集は足でがモットーな刑事になったつもりはないが、車は本当にもう二度と乗りたくなかったからだ。
女子寮に来たのは、そういった噂を(多少尾ひれがついているだろうが)聞くことが出来るだろう、と言う理由だ。
案の定噂話に興味津々な高校生の五十嵐響子は話してくれた。
「音? が聞こえるらしいんです。事務所に忘れ物をしちゃった子が抜け出して取りに行ったらしいんですけど、その時に……」
身振り手振りを交えつつ話す為、サイドテールがゆらゆら揺れる。
とても可愛らしいけれど、大雑把過ぎて余り情報は伝わって来なかった。
今回噂で耳に挟んだのは『夜中、事務所で変な音がする』というものだった。
いや、深夜に事務所に行くなよと危ないだろという話ではあるが、今回は置いておこう。
事務所の社員等に話を聞こうとも思ったが、大の大人相手に大人が『変な音するって噂知ってますか?!』なんて聞いてもとうとう暑さで頭がやられたかと思われるのがオチだ。
だからこそ、情報収集のターゲットには学生を選んでみた訳だが……
「噂の出所は?」
「えーっと……あれ? 誰でしたっけ?」
まあ、噂話なんて大抵そんなものだ。
そもそも出所なんてなく、情報が曲がり曲がって元々のものとは完全に異なっている場合もある。
殆どの子は帰省しているだろうから、他に話を聞けそうな子となると……
「あ! プロデューサー! おはようごぜーます!!」
「ん、おはよう仁奈」
寮の奥から、牛のキグルミを着た仁奈が飛び込んで来た。
そうか、仁奈も実家に帰っていないんだったな。
抱き着いて来た仁奈を抱き上げてグルグル回った後、普通に疲れて降りて貰った。
体力、もう少しつけるべきかもしれない。
「仁奈は牛さんの気持ちか?」
「はい! 昨日のお夕飯は焼肉だったでごぜーます!」
時折思うけど、仁奈偶にメンタル大丈夫か?
隣の響子が凄く微妙そうな苦笑いをしている。
「それと、最近牛さんが居やがるらしいので! 仲良くなるでごぜーます!」
「牛さんが……?」
響子が首を傾げる。
そちらは俺も聞いたことが無かった。
「もーもー! 牛乳を飲まねぇ子はいねがぁー!」
「牛に刃物持ってそんな事言われたら発狂する自信があるな」
それから、寮に居る子に片っ端から噂について聞きまくった。
勿論俺が頭沸いてる奴だと思われるのもアレなので、『次の企画の参考にしようと思って』と尋ねる。
集まった噂は、とても意味が分からなかった。
夜事務所に居ると、不規則な一人分の足音が聞こえてくる。
がしゃん、がしゃんという音がする。
何か喋っている声がするが、何を言っているのか分からない。
日本語や英語っぽいが、何を言っているのか分からない。
牛が出る。
髪の長い女が出る。
特に気配は無い。
変な匂いがする。
情報は、あまりにもちぐはぐ過ぎた。
そもそも誰が夜中事務所に侵入したんだよ、という話ではあるが。
噂のいくつかは、テレビでやっていたホラー番組の内容も混ざっていそうだ。
つまるところ、正確な情報までは殆ど辿り着けなかったと言っても良いかもしれない。
そして、もう一つ。
これは俺にとって、非常に向かい風な状況だった。
「……文香、あいつ帰省してるんだよな……」
文香が、事務所に居ないのだった。
俺は心霊現象や伝承についての知識なんてからっきしだし、除霊の知識や力も無い。
鷹富士さんの力はおそらくかなりのものだが、彼女もそちら方面の知識は無いのだ。
文香がいなければ、原因の究明も、対策や解決策を講じる事も出来ない。
ラインで頼る事は出来るが、帰省して家族で団欒しているところを邪魔するのは申し訳ない。
というかおそらく、返信してくれないだろう。
だから、今回は俺と鷹富士さんの二人でなんとかするしかなかった。
情報収集に関してはほぼ俺一人だし。
聞いたところ被害は出ていない様だし、此方へ何か害を為そうとしてくるタイプではなさそうだが、アイドル達の不安を取り除くのも俺の役目だ。
業務内容に『除霊』なんてものは無かった筈だが、俺以外が出来ないのだから俺がやるしかない。
貧乏クジ引いてるなーなんて苦笑いしながら、寮を後にする。
その、直前だった。
「……あ、なぁ響子」
「はい……その、良いですよ……?」
何が?
「……小梅ってあいつ帰省してないよな?」
「小梅ちゃんですか? 居ますよ。確か夏休み入って直ぐに帰省したから、お盆は帰らないって言ってました」
白坂小梅。
十三歳の目隠れ系(?)アイドル。
事務所どころかこの業界全体でも有名な、特異なアイドルである。
彼女は非常に霊感が強く、『視る』事が出来る人間だった。
それどころか『あの子』と呼ばれる謎の何かとよく仲良くしている、なんて噂すらある。
このシーズンは心霊系番組に引っ張りだこだった筈だが、有難い事に今丁度寮に居るらしい。
寧ろそう言った番組に引っ張りだこになる事が分かっていたから、お盆は帰省せずにいた様だ。
そんな彼女の部屋を訪れると、案の定ホラー映画を観ていた。
「……おーい、小梅ー」
「あ……ぷ、プロデューサー、さん……おはよう、ございます……」
映画は佳境の様で、なんだか画面全体が真っ赤に染まっていた。
非常に精神によろしくない。
それからエンドロールが流れ、映画は終わる。
最初から観ていたら、おそらく俺は今夜一人では眠れなかっただろう。
「……ちょっと聞きたい事があるんだ」
俺がそう言うと、テレビを切って此方を向いてくれた。
文香より親切で嬉しい、なんて思ってないぞ気のせいだからくしゃみするなよ文香。
「…………プロデューサーさん達も……噂の事、調べてる……んですか?」
「あぁ……ん? 達も?」
「……あれ……? いつもは……鷹富士さんと一緒に動いてるって、聞いてるから……」
どうやら、そちらも知っている人は知っているらしい。
隠している訳ではないが、俺たちがいずれ噂される側になる様な事は避けないとな。
「まぁそうなんだが。小梅も調べてるのか?」
「はい……だから、プロデューサーさんは何もしなくても良い……です……」
そう言う訳にはいかない。
年端もいかない女の子に、危険な事をさせられるか。
何よりこれは事務所の事なのだから、社員である俺がやるべきだ。
「……私達も……この事務所、好き……だから……」
「……そう言って貰えると有難いが……」
「それに……文香さん、居ないから…………迂闊に動くと、危ない……」
痛い所を突かれてしまった。
実際、下手に触れてより一層悪い方向へと事態が転ぶ事に対する不安はあった。
「……よければ、小梅の知ってる事を」
「あ……あの子、プロデューサーさんと仲良くしたいって」
「またな! 熱中症には気を付けろよ!」
戦略的撤退を行った。
「そんな訳で、何も分からんかった」
昼と夜の境界線、夕刻、空が変わる頃。
事務所に戻った俺は、大して情報が手に入らなかったと言う情報を口にした。
「ぶーぶー、私が一人で事務所でダラけてる間に他の女の子とイチャイチャするなんて」
頬を膨らませて、鷹富士さんは両腕をグルグルまわした。
言っちゃあれだけど、子供っぽい。
「で、どうしますか~? 肝試しならお付き合いしますよ?」
「んー……そうだな。今夜、事務所に泊まるか」
一度、自分で確かめてみる必要がありそうだ。
今回は鷹富士さんもいるし、危険な目に遭う可能性は低いだろう。
……言ってて、少し悲しくなる。
もしかして俺、非常に情けない男なんじゃないだろうか。
「年下の女の子におんぶにだっこですからね~」
「言わないでくれ、ずっと目を逸らしてたんだ」
「代わりに私の事を抱っこしてくれても良いんですよっ?」
「重」
「殺」
「謝」
そんな訳で、今夜も事務所に泊まる事になった。
慣れているのが、少し哀しかった。
時計の針が、十一を回った。
元々人の少なかった事務所は、既に人の気配は殆ど無くなっていた。
窓の外を風景を眺めながらカップ麺を啜る。
反対側の一帯に巻かれた防音シートが、不気味に揺れる。
月は、出ていなかった。
「ふふっ。プロデューサーさん、二人っきりですよ~っ!」
「鷹富士さんもカップヌードル食べる?」
「…………カレーが良いです」
「ごめんもう無かった」
背中をべしべし叩かれながら、俺はこの後の予定を立てる。
取り敢えず、事務所内を巡ってみよう。
仮眠を取りつつ、何度か階段を上ったり降りたりする感じで。
音がすると言っていたし、そのフロアにつけば何かしら聞こえてくるだろうから、わざわざ廊下まで出る必要は無い。
何かあれば全力で逃げるなり、何とかなりそうなら何とかするなり。
……今まで、こんなに心霊現象が発生していたのだろうか。
俺はふと、疑問に思った。
自分から首を突っ込んでいるというのもあるが、それにしても巻き込まれる事が多過ぎる。
……いや、違うな。
きっと今まで気付いていなかっただけで、身の回りではそう言った事が日常的に起きていたのだ。
それに、一度触れればそれ以降は出逢いやすくなる。
それは負のスポット(文香は『集まりやすい場所』と言っていた)の様に、彼方と此方の壁が薄くなっているのだ。
タイヤのパンクに近いかもしれない。
空いた穴の修理をしても、そこはもう破れやすく、その周辺も穴が空きやすい。
……考えても、仕方がないか。
兎に角今は、今起きている事の情報収集と解決が先だ。
「さて、プロデューサー」
「おう、行くか」
建物内の電気は、既に殆ど消えていた。
電気を点けてしまっては、出逢えなくなってしまうかもしれない。
用意しておいた懐中電灯(何かあると怖いので二本、電池もストック沢山)を持って、俺たちは部屋の扉を開ける。
真っ暗な廊下は、まるで異界の様だった。
かつん、かつん。
二人分の足音を響かせて、暗い廊下を進む。
冷房はそこまで強くない筈だが、なんとなく肌寒く感じる。
けれど何故か、背中には汗をかいていた。
非常階段の扉の上に取り付けられた緑の誘導灯が、やけに気味悪く映る。
転んではいけないから、俺たちは手を繋ぎながら歩く。
たったそれだけ、人の温もりがあるだけで、恐怖感はかなり和らいだ。
元々徹夜に慣れていて、勝手知ったる場所なだけあって、そこまで怖くは無かったが。
ところで指が絡まって俗に言う恋人繋ぎなのだが、鷹富士さんは嫌じゃないのだろうか。
「ワクワクしますね~」
満面の笑顔だった。
どうやら二人きりと言うシチュエーションに大変満足していらっしゃるらしい。
「怖くは無いか?」
「怖いんですか? それならもっと密着してあげますよ」
「魅力的な提案だけど、歩きづらくなるから遠慮しとくかな」
このフロアには、何も無かった。
階段に続く扉を開けて、一つ下のフロアに向かう。
電気が点いてはいたが、深夜の階段はそれだけで不気味だった。
コンクリートの無機質な感じと、外が見えず同じ風景がずっと続くからだろうか。
閉塞感を感じながら、ゆっくりと俺たちは階段を降りた。
うるさいくらいに反響する足音が、嫌な汗を額に増させる。
「階段と言えば、怪談の定番ですよね~」
「……そっすね」
寒さが増した。
そう言うのは高垣さんだけで十分だ。
「……今、他の女性の事考えてませんか?」
鋭い視線が向けられる。
なんだろう、冷たさが増して痛いくらいだ。
ようやく、下の階に着いた。
大きく息を吸って、廊下に繋がる扉を開ける。
もし開けた瞬間、扉の向こうから手を掴まれたらどうしよう。
発狂して大きな声でハイファイデイズを熱唱する自信がある。
そんな心配も杞憂に、特に何も無かった。
廊下に音は一切なく、寧ろ「しん……」なんて音が聞こえてきそうなくらいだ。
「何か聞こえるか?」
「特に何も聞こえてきませんね~」
扉を閉じる。
今更気付いたが、ドアノブを握る手は汗でびっしょりだった。
自分で思っている以上に、怖がっていたらしい。
これから何度も開ける事になると思うと嫌気がさす。
「……不安なんですか?」
「あ、バレたか」
反対側の手も、当然汗で凄い事になってしまっているだろう。
俺が恐怖している事に気付いたのか、鷹富士さんは握る手を強くした。
「私が開けますよ?」
「いや、いい。今更格好付かないだろうが格好付けさせてくれ」
「……ふふっ。十分、格好良いと思いますよ」
そう言って貰えるだけで、本当に励みになる。
下の階に着く度、廊下に続く扉を開ける。
大きく息を吸って、開けて、その度に安堵して。
正直、相当限界だったかもしれない。
けれど、鷹富士さんと一緒だから。
わざわざ付き合って貰っているのだから、此処で『やめよう』なんて言える筈が無かった。
そして鷹富士さんに開けて貰う、なんて選択肢も無かった。
もしもそのせいで彼女の身に何かあったのであれば、俺は後悔してもしきれないから。
「……鷹富士さんって、強いよなほんと」
「プロデューサーが側に居てくれてますから」
そう言われては、やはり格好付けない訳にはいかない。
二階まで着いて、エレベーターを使って元居たフロアに戻る。
そして今度は、一階ずつ登っていく。
先程までと同じ事を、何度も繰り返す。
そして。
「……開けます」
「は~い」
ついに、それは起きた。
廊下に続く扉を少し開ける。
階段に居ると、扉を開けるまで廊下側の音は殆ど聞こえないのだ。
だから、気付かなかった。
『ソレ』が、近付いていた事に。
かつん、かつん
一瞬にして全身が震え、汗を吹き出した。
飛び上がりそうな身体を必死に抑えて、その場から逃げずに耐える。
カラン……
遠くから、何かが転がる音が微かに聞こえた。
何かに躓いたのだろうか。
「……居るな」
「居ますね~」
足音が、聞こえた。
その音は、扉の向こうに居る。
音は、ほんの数メートルもない位置から聞こえて来た。
扉を完全に開ければ、きっとその姿を見てしまうだろう。
怖くて、吐きそうで、震えて、堪らなかった。
「……だ、誰か居るんですかー?!」
人であって欲しい。
事務所に勤める人間であって欲しい。
そんな僅かな、一縷の望みにかけて呼び掛けてみる。
勿論、そんな希望は一瞬にして打ち砕かれたが。
かつん……かつん
返事は無かった。
当たりだ。
間違いなく向こうに居るのは、『人間』ではない。
不規則な足音だけだ、返事の代わりに残される。
『ソレ』は、俺たちに気付かなかったのだろうか。
それとも、気にも留めなかったのだろうか。
足音はゆっくりと、扉の向こうから離れて行く。
正直、このまま通り過ぎていなくなるまで待ちたかった。
……けれど。
「……開けるぞ」
事務所に『何か』が住み着いているのであれば、何とかしなければならない。
事務所のアイドル達に、不安な思いをして欲しくはないから。
ギイイィィィッ
ゆっくりと、扉を開ける。
何度も開けてきた筈な扉は、苛つくくらい重く感じた。
ゆっくりと足音を消して、『ソレ』が歩く方へと向かう。
そして、懐中電灯でその足元を照らした。
かつん、かつん
照らされたのは、ごく普通の二本の足だった。
それだけで、少し安心してしまう。
見ているだけで不安になる様な異形では無い。
それが分かっただけで、安心しきってしまった。
足音が止まる。
『ソレ』は、確実に此方に気付いた様だった。
俺は少しずつ、懐中電灯を上に向ける。
太もも、胴体。
まだ、人間だった。
そして。
『ソレ』が振り返るのと。
懐中電灯が『ソレ』の首より上を照らしたのは。
ほぼ、同時だった。
「っうぁぉぉぉぉおおぉっっ!!」
「きゃっっ!!」
『ソレ』は、人間では無かった。
分かりきっていた事ではある。
少なくとも、真っ当な生き物では無い事くらい。
けれど、安心してしまっていたから。
『ソレ』は、牛だった。
首より上は、牛の顔が付いていた。
バクバクと跳ねる心臓が、痛いくらいに内臓を叩く。
逃げ出したいのに、足が震えて動かない。
呼吸すら、上手く行えなくなっていた。
何だあれは。
牛?! いや普通の牛じゃない。
何でこんなのが事務所に?!
身体は人間? は?!
意味の分からないモノを前にした恐怖と、動かない身体に対する焦りで、既にパニックになっていた。
何か喋ろうとしたが、それどころか呼吸すらままならない。
鷹富士さんも驚いた様で、悲鳴を上げていた。
そちらに目を向ける余裕は、俺には無かったが。
『ーー滅ーーーー其、所為ーー』
その口が動いた。
けれど聞こえて来たのは、普通の日本語だった。
そのアンバランスさが、余計に奇妙で恐怖心を煽る。
聞きたくない、見たくない。
かつん……かつん……
一歩、また一歩。
『ソレ』は、此方へと確かに向かって来ていた。
「っ!」
何をされるのか分からない。
意味なんて無いかもしれない。
それでも俺は、鷹富士さんだけは守りたくて。
握った手を引いて、彼女を俺の身体の背後へと離れさせた。
「プロデューサーっ!」
「鷹富士さん! 動けるなら一旦逃げろ!」
なんとか叫ぶ。
少しずつ、『ソレ』と俺たちの距離が縮まる。
鷹富士さんなら、きっとそこまで、少なくとも俺よりは恐怖心は無いだろう。
ならば逃げて、文香に情報を伝えて欲しい。
俺は残念な事に、怖くて足が動かなかった。
なんとも格好の付かない話である。
けれど、それで『ソレ』の意識が俺だけに向けられるなら、それで良かった。
鷹富士さんが逃げる時間さえ稼げれば、それで。
「大丈夫です、アレに悪意は無さそうです……それに……」
けれど鷹富士さんは、逃げ出さなかった。
異形を目の前にして、それでも。
「プロデューサーに何かあったら、私だって耐えられませんから」
ぎゅ、っと。
握った手を、より一層強く握り締めた。
見なくても分かる。
きっと彼女は、微笑んでいた。
『ーー不成ーーーー此儘、必滅ーー』
既に『ソレ』は、ほんの1メートル近くまで来ていた。
何かを呟き続けているが、その所為で余計に怖かった。
鷹富士さんは悪意が無いとは言っていたが、それだって怖いものは怖い。
大丈夫だ、大丈夫と自分に言い聞かせ。
そして、『ソレ』の顔が、俺の目の前まで……
カシャッ!
「むむむ、やっぱりボンヤリとしか映らないにゃあ……まぁ良っか。伝わったからオッケー、お勤めご苦労様~」
突然、カメラのシャッター音が聞こえた。
それと同時に、背後から聞き覚えのある声がした。
そして、目の前が揺れる。
真夏の陽炎の様に、ドライアイスの煙の様に。
ゆらり、ゆらり。
『ソレ』が居た空間は何度も揺れて薄くなり、いつのまにか何も居なくなっていた。
後に残されたのは、足を震わせて立ち竦む俺。
俺の手を握る鷹富士さん。
そして……
「……げ、やっぱりキミじゃーん……こっちにもこっちの事情があるし、怒らないでくれると嬉しーんだけど」
失踪系ケミストアイドル、一ノ瀬志希だった。
「まず最初に言っておくけど、あたし達だって本当に悪ふざけでやってた訳じゃ無いからね?」
同じフロアの一室に迎え入れられ、ソファに座る。
文香同様に随分好き勝手やっている様で、部屋の中は所狭しと色々な器具が並んでいた。
香水でも作っているのか、ほんわりと甘い香りがする。
そんな器具に囲まれた志希は、白衣の袖をぷらぷらしながら此方へ向き直る。
「……あー……怒る気も気力も無い……死ぬかと思った……」
「ふふっ。格好良かったですよ、震えながらも私を守ろうとするプロデューサー」
ようやく明るい安全な場所に辿り着けて、もう何も考えたくなかった。
疲労や恐怖が、今になって改めて流れ込んでくる。
暫くはソファから立ち上がれそうになかった。
それはそうと、二人の様子を見る限り、本当にあれは危険なものではなかった様だ。
「ふむふむ……怒られないならそれに越した事はないし、説明とかめんどいから誰かに任せたいとこなんだケド」
ふんふーん、なんて鼻歌を歌いそうな程軽いテンションで、志希はもう飽きたのか再び試験管を弄り始めた。
ふんわりと、不思議な香りがする。
「ソッチは文香ちゃんがいるでしょ? 何が起きたか説明すれば全部解説してくれるんじゃない?」
それはそんな気がするが。
けれど今は、他に気になる事があった。
「……志希。さっきあたし『達』って言ったよな」
「あれ? 言ったっけ?」
「そもそもお前、こういう心霊現象とは正反対の位置に居ると思ってたんだが」
「まぁまぁ、最初は全然信じてなかったけどね。あんなのが存在するんじゃミステリー小説屋さんも商売上がったりなんじゃない?」
最初は信じていなかった。
つまり、誰かに教えられたという事か。
「でもま、一応? 何かあった時用に、自分なりに理論を組み立てて除霊用の聖水ならぬ香水を作ってみたりはしてたワケ。まだまだ試作段階だけどね」
指差す先には、蓋をされたいくつかの試験管。
それに興味を持ったのか、鷹富士さんは手に取った。
揺すったり、蓋を開けたり、嗅いでみたり。
あろう事か指で触ってみたり。
「……うーん……余りそういう力は感じませんね~……」
「あんまり勝手に触るなよー、危ないぞー」
薬品なんてどんな物質が含まれているか分かったもんではない。
本来はきちんと注意すべきなのだが、もうそんな気力も無かった。
「それじゃ、あたしはまだやらなきゃいけない事あるから。泊まるなら部屋に戻ってくれると助かるゾ」
イタズラっ子の様に、志希は指を此方へと向けた。
あんな恐怖体験をしといて眠れるか。
この時はそんな風に考えていた。
部屋に戻った後、俺は一瞬で寝た。
……それは、『件』です。
にんべんに牛と書いて『件』、読んで字の如くの様な存在です。
いえ……この場合は件の如く、と言った方が洒落ているでしょうか。
19世紀前半頃から日本各地で知られる妖怪で、半人半牛の怪物として知られています。
その姿は、古くは牛の体と人間の顔の怪物であるとされていました。
第二次世界大戦頃からは、人間の体と牛の頭部を持つとする説も現れましたが。
プロデューサーさん達が見たのは、後者だった様ですね。
ノストラダムスの『1999年7月に恐怖の大王が降って来る』という予言はご存知でしょうか?
幸いなことに我々の目には恐怖の大王らしきものは見えなかったので、この予言は大筋で外れたと思って良いのでしょう。
このように、人間の予言者の予言が外れることなど、珍しいことではありません。
けれど、中国地方から九州にかけて多くの話が伝わっている『件』は絶対に外れることのない予言をするといわれています。
『件』は、まれに牛から生まれることがあるのだそうです。
その命はわずか数日で尽きますが、死ぬ間際に、戦争や飢饉、作物の豊凶や流行病、旱魃など、重大なことに関して様々な予言を遺します。
そしてそれは、間違いなく起こる、とされているのです。
別の伝承では、必ず当たる予言をするが予言してたちどころに死ぬ、予言の凶事が終われば死ぬ、とする説もあるそうで……
件の如しという定型句は、『件』の予言が外れない様に嘘偽りがないという意味である、と説明されることもあります。
これは、民間語源の一種と考えられていますが。
怪物『件』の記述がみられるようになるのは江戸時代後期であるのに対して、『如件』という定型句はすでに平安時代の『枕草子』にも使われています。
故に『件の如し』と怪物『件』を関連付けるのは、後世の創作と断定出来るのですが……
……はい。
何度も言っていますが、今回現れたのは『件』です。
つまり、何か予言を遺しに現れたのでしょう。
残念ながらプロデューサーさんは上手く聞き取れなかった様で、それが良い予言か悪い予言かは分かりませんでしたが……
『件』には、また別の伝承もあります。
その絵姿は、厄除招福の護符になると言われているのです。
目撃例として最古と思われるものは、文政10年の越中国・立山でのものになります。
この頃はまだ『件』ではなく『くだべ』と呼ばれていたそうです。
山菜採りを生業としている者が、山中でくだべと名乗る人面の怪物に出会いました。
『くだべ』は「これから数年間、疫病が流行し多くの犠牲者が出る。しかし自分の姿を描き写し絵図を見れば、その者は難を逃れる」と予言しました。
これが評判になり、各地でくだべの絵を厄除けとして携帯することが流行したと言われています。
『くだん』としての最古の例は、天保7年の日付のある瓦版に報道されたもになります。
これによれば、「天保7年の12月、丹後国・倉橋山で人面牛身の怪物『件』が現れた」だそうです。
また、この瓦版には、「宝永2年12月にも『件』が現れ、その後豊作が続いた。この『件』の絵を貼っておけば、家内繁昌し疫病から逃れ、一切の災いを逃れて大豊年となる。じつにめでたい獣である」、ともあります。
ここには「『件』は正直な獣であるから、証文の末尾にも『件の如し』と書くのだ」とも記載してあり、この説が天保の頃すでに流布していたことを示しています。
……要するに、現れた『件』の姿を描き写した絵図さえあれば、厄を回避する事が出来るのです。
それが今回、彼女達が動いていた理由でしょう。
……一ノ瀬志希さんと、白坂小梅さんです。
二人が協力し合って動いている事は、恐らくプロデューサーさんも薄々感づいていたのではないでしょうか?
いえ、元々は勿論バラバラに動いていたでしょうが。
事務所で音が聞こえるとの噂が流れ、けれどそれの原因が一つではないと気づいた(片方は『件』だろうと予測の付いた)小梅さんが、志希さんへと協力を求めたのだと思います。
小梅さんは寮の子達が興味本位で事務所に行って怖い思いをしないように、志希さんは夜中に事務所で好き勝手やっている事がバレない様に。
噂のコントロールは、小梅さんが行なっていた事でしょう。
出所と真相に辿り着かれない様に。
その間に志希さんは事務所に留まり、『件』を探していたのでは無いでしょうか。
そして彼女達の共通の目的は、誰よりも先に『件』に会って、その姿を見る事でした。
予言は、聞ければ儲け物程度の考えだったと思われます。
絵にさえ出来れば厄を回避出来る、それで十分ですから。
むしろ誰かが『件』に出会い、『件』がその人物に予言を遺してしまえば、そのまま消えてしまう可能性がありました。
ですから誰よりも早くに会うために、他の人物が出会わない様に仕組んだのです。
それが、今回の『音』と『噂』の正体です。
……彼女達が『件』を絵にしようとした理由、ですか……
彼女達が言っていた通り、事務所を守る為でしょう。
『件』が現れたという事は、事務所に何かが起こる、とイコールです。
ですから、その何かが良い事にせよ悪い事にせよ対策を打てる様に、と動いていたのです。
ですから、あまり叱らないであげて下さい。
……私が説明するだろうから、と一切説明を行わなかった?
撤回です、厳重な注意と過度の罰をお願いします。
「わざわざ悪い。それとありがとな、文香」
『……構いません。直接巻き込まれなかっただけ御の字と思っていますから』
電話越しの声からは、多少の呆れが感じられた。
それもそうだろう、毎度毎度頼っているのだから。
今回改めて、俺は自分の力不足と頼り無さを感じた。
だからといって動かない訳にもいかないので、こうしてきちんとお詫びをしているのだが。
『……それでは、失礼します』
「おう、親御さんにもよろしくな」
そう言って、俺は電話を切った。
事務所で朝を迎えたのは久しぶりだ。
暑い中通勤しなくて良いのは助かるが、それはそれとしてなんとなく損をした気分になる。
鷹富士さんは、まだ仮眠室で寝ている様だ。
今のうちに、コンビニで朝食でも買ってこよう。
エレベーターに乗って、一回まで降りる。
開く瞬間、嫌な予感がした。
昨日の今日(どころか今日の今日)だ、未だに開く瞬間に心臓が跳ねる。
そして、嫌な予感と言うのは当たるものである。
エレベーターの戸が開いた。
エントランスホールから、冷たい空気がエレベーター内に流れ込む。
そして俺は、見た。
「こんな感じ? もう少し独創性とか増させてみる?」
「……隣に幸子ちゃん描いたら……怒られる、かな……」
事務所入り口の正反対の一番大きな壁にデカデカと描かれた、牛の化け物。
そして、それを眺めて満足気な落書き犯二人を。
朝ご飯にたどり着けるのは、もう少し先らしい。
5、蜃◯◯
「晴れて良かったですね~。絶好の海日和ですっ!」
「だな。まぁ流石に此処まで暑くならなくても良かったんだが」
点滅するイルミネーションの様なキラキラが、水平線をどこまでも覆っていた。
揺れる白と青のコントラストが目まぐるしく色を交代させる。
カモメの鳴き声、暑い日差し、遠くからは子供達の楽しそうな声。
潮風に揺れる黒い髪は、とても綺麗で。
八月十五日、木曜日。
俺と鷹富士さんは、なんとなく海へと来ていた。
盆休み(と言っても殆ど取れなかったが)を利用して、電車を乗り継ぎえっちらおっちら。
昨日の夜までは多少雨が降っていたが、朝の時点では快晴になってくれて何よりである。
鷹富士さんの運の良さのおかげなのだとしたら、少しくらい拝んでおいた方が良いだろうか。
強いて言うなら、ここまで暑くならないでくれると助かったのだが。
「見て下さいプロデューサー、なーんにもありませんっ!」
「そうだな、うん、何もない」
そこそこ遠くまで旅行に来ているからだ。
目の前に広がる砂浜と、その境界線を広げたり退げたりする波と、海。
左右と後ろにはひたすらに堤防と草原。
大自然に囲まれて、人が作ったものは殆ど視界に入らない。
何もないが、そこにはあった。
「水着、持って来れば良かったですね~」
「悪いな、突然誘っちゃって」
「見たかったですか? 私の水着姿」
「もちろん」
「素直で大変よろしいと思います」
むふーっ、っと満足げに胸を張る鷹富士さん。
二つの富士山が揺れ、非常に目の保養……毒である。
白いワンピースに麦わら帽子なんていう、まるで無邪気な田舎の子供の様な格好をしている鷹富士さんは、それでもとても綺麗だった。
可愛らしさと綺麗さが合わさり最強に見える。
海を眺めて楽しそうな鷹富士さんを見れただけで、この暑い中来て良かったと思える。
此方のそんな想いは、果たして彼女に伝わってしまっているのかどうか。
「あ、でも。やっぱりデートのお誘いはもう少し早めにお願いしますね~?」
「あー悪い。準備とかもあるよな」
「あれ? あらあらあらあら? デートなのは否定しないんですかっ?」
揶揄う様に、まるで悪戯っ子みたいなニマニマ笑いを浮かべる鷹富士さん。
「残念だったな、俺はもちろんデートのつもりで誘ったんだよ」
「む……照れてくれない」
「寧ろ鷹富士さんの方が照れてる様に見えるけど」
「日差しのせいですー、気のせいですー」
つんっ、っと海の方を向いてしまった。
反撃されて困るならしなければ良いのに。
「……これ、俺が悪いのか?」
「悪いです、ぜーんぶプロデューサーのせいですから」
「じゃあごめん」
「何が悪かったか分かってますか?」
分からない。
束の間の沈黙の後、鷹富士さんは鬼の首を取ったようかの様な顔で饒舌になった。
「はい出ました『自分は悪いと思ってないけど相手の機嫌が悪そうだし謝っておこう俺は大人だから』的思考。女性ウケ良くないですよ~それ」
「なんで俺が怒られてんだ」
しばらく歩いた先で見つけた海の家でかき氷を買い、頭をキーンってさせて。
岩場で蟹を見つけ、蟹ってなかなかおっかない漢字してるし、漢字だけ見たら海辺の生物だとは思えないよな、なんて話をして。
何故か俺だけ海水を掛けられて。
砂浜で丸ばつゲームをやって。
「……これ、泳いでたら絶対体力尽きてました……」
「年甲斐もなくはしゃいでしまった……」
二人して、波打ち際から少し離れた木陰に腰を下ろした。
そろそろお昼過ぎ、一番暑い時間帯。
太陽が都会に居る時以上に大きく、絶好調に地球を照らす。
風もそんなに強くない為、かいた汗が心地悪いままだ。
鷹富士さんの服が透けてないと良いのだが。
「……視線がスケベですよー」
「心配してただけだ」
残念ながらその心配は杞憂に終わってしまったが。
いや残念ではないが。
「……水着、やっぱり持ってくれば良かったな」
「泳ぎたかったんですか?」
「鷹富士さんの水着が見たかった」
「わー正直者のスケベ」
ケラケラと笑いながら、鷹富士さんは揶揄って来た。
良いんだ、今日はオフだし多少自分に素直になると決めている。
それから。
急に此方に向き直った鷹富士さんが、少し目を逸らしながら呟いた。
「……他に誰も居ませんから。もっと自分に素直になっても良いんですよ?」
金色の瞳が揺れる。
風に靡いた黒い髪が、揺れる。
そのせいだろう。
少し格好付けよう、なんて俺の思いすらも揺れてしまった。
「……じゃあ、座った時からずっと言おうと思ってた事を言うぞ」
「……はい」
鷹富士さんが、目を瞑る。
何かを期待する様に。
何かをねだる様に。
何かを乞う様に。
「……かき氷のせいでめちゃくちゃお腹痛い」
俺の顔に砂をトッピングされた。
「……ふぅ……」
腹痛が収まった。
いやぁ良かった、近くにコンビニあって。
コンビニ偉大、びば24時間営業。
誕生日プレゼントにはコンビニが欲しい。
「……さて……」
鷹富士さんの元へと戻りながら、俺は告げる言葉を考えた。
どうやって機嫌を直して貰おう。
明らかにキスをねだっていたし、俺もまぁ、そんな気分でもあったのではあるが。
それ以上にお腹痛くてそれどころではなかったのだ。
かき氷なんて二度と食べない。
この夏で、果たしていくつ誓いが増えた事だろう。
「ま、普通に戻るか」
ああ、本当に水着持って来て貰えば良かった。
今日なら、ここなら、彼女の水着姿を一人占め出来たのに。
「あっ、プロデューサー!!」
向こうで、鷹富士さんが大きく腕を振っていた。
何処までも続く綺麗な海と、遮るものなく広がる空を背景に。
白いワンピースを風にはためかせ、片手で麦わら帽子を抑えて。
まるでキャンバスに描かれた様な、この夏そのものみたいな景色で。
それで、もう十分だった。
この夏が最も充実しているのは、絶対に俺だという自信があった。
「凄かったですっ! 船が! ふわぁぁぁって!」
「凄いな、何を言っているのかさっぱり分からない」
なんだか分からないが、凄い事があったらしい。
船がふわぁぁぁ、か。
成る程。
彼女の言葉を脳内で反芻させてみたが、何も分からなかった。
「……ごほんっ、ええっとですね」
「はい」
「船が浮いてました」
「はあ」
「ふわぁぁぁって」
「……はぁ」
「しかも上下逆に」
「……凄いな」
「……さては私、信じて貰えてない?」
「そうなるな」
だって、状況がさっぱり分からないのだから。
船が上下逆に浮いてた?
そんな訳あるか。
船が浮くのならそれはもう映画の世界だし、上下逆は設計ミスだろそれ。
とは言えここ数日で心霊現象に連続で遭遇している為、その様な現象についても少しは考えてみる。
さっぱりだった、助けてくれ文香。
事務所内は『件』の絵が描かれている(まだ清掃会社が来ていない)為、事務所の中で良くない事は起こらなくなっているが、外ともなるとその効果があるのかは分からない。
もしなかなかにヤバイ現象だった場合、早くこの暑い海から離れた方が……
……海?
「……不味いぞ鷹富士さん、それは間違いなく幽霊船だ」
「ですよね! どうします? 文香ちゃんに相談してみますか?」
信じて貰えた事を喜ぶ反面、少し焦りも見せる鷹富士さん。
自身が幻覚を見たりするなんて思っていなかったのだろう。
「いや、もうダメだ。見てしまった人物はどうあがいても不幸になる
タイプのやつだ」
「私が幸運勝負で負けると思いますか?」
「なんで張り合うんだよ」
「プロデューサーさえ居れば、私はそれだけで幸せですから」
嬉しいけれど、大変申し訳なくなる。
なんてったって、全部俺の出まかせなのだから。
「……それで、プロデューサー。結局私が見たのって何だったと思いますか?」
……ばれてら。
それもそうだ、突然饒舌になって、けれど焦る様子も見せていないのだから。
それに彼女だって、きっと分かっているのだろう。
『自分が大変な目にあいそうな時、プロデューサーはもっと焦るし必死になる』と。
「……それは……では、そうですね……」
「文香ちゃんの真似全然似てないです」
「うっす、まぁ文香ほど上手く説明出来る気はしないが……」
『蜃気楼』だな、聞いた事くらいはあるだろ?
密度の異なる大気の中で光が屈折して、数キロ先にある実際の風景が浮かんだり逆さまに見える自然現象が『蜃気楼』だ。
蜃が気を吐いて楼閣を描くと考えられたとこから蜃気楼と呼ばれるように……
……オチを最初に言うもんじゃないな、もう説明聞く気ないだろ鷹富士さん。
まぁ科学的に起こる自然現象ではあるんだが。
もう少し説明させてくれ、折角だから。
文香の知識をついつい話したくなる気持ちが今よく理解出来た。
通常、大気は地面から高くなるにつれて100メートルにつき、約0.5~0.6℃の割合で温度が下がる。
だが、それとは逆の現象がが起こっている時、『蜃気楼』が起こるんだ。
つまり、地面・海面付近の大気の温度が一番低くて、上方に向かってゆくにつれて大気の温度が上昇していく場合だな。
もっと分かり易く言えば、空気の層が上暖下冷の温度構造の時だ。
空気の場合、温度が低い程空気の密度が高く、温度が高い程空気の密度が低い。
そして光は、より密度の高い方へと進路を変えてる。
だから光が通常とは違う曲がり方をするんだ。
そして、が曲がるって事は、景色が曲がるって事だ。
この場合は上に凸の弧を描いて進む事になる。
え、要するに?
景色が浮かんで、しかも変な形で見えるって思ってくれ。
待って、もう少しだけ説明続けさせてくれ。
『蜃気楼』の像は元の物体の上に現れる。
空気が上暖冷の層である時は、物体から出た光は上に凸の弧を描いて観察者の目に入ってくるからだ。
人間の目には、光が入射してきた方向に像が見える様になっている。
その結果として、『蜃気楼』の像は元の物体の姿を伸ばしたり、縮めたり、浮き上がらせたり、上方倒立像に見えるんだ。
そして『蜃気楼』は地面の方が温度が低くて、大気の方が暑いと発生する。
昨夜雨が降ってただろ。
だから海水はかなり……とは言っても人が泳げるくらいではあるが、温度が下がってるんだ。
そして陽が出て、空気は温まる。
風が少なくて、空気の層が混ざり合う事も少ない。
だから、『蜃気楼』が起きた。
以上が、鷹富士さんが見たものが『蜃気楼』だと俺が判断した理由だ。
あ、やばい。
こういう説明って割と癖になるな。
文香の気持ちが……他の女の名前を出すな?
……すみません。
「……つまり、プロデューサーは分かってた上で私を揶揄ってたって事で良いですか?」
「……そうなるな」
「言うべき事は?」
「すみません」
変な事をするものではなかった。
分かってたのならさっさと言うべきだったのかもしれない。
しかし、焦ってる鷹富士さんとかも見てみたかったと言う俺の思いも理解して頂きたい。
はい、すみません。
「はぁ……まあ良いでしょう。それに……」
「それに……?」
「……私に何かあった時は、プロデューサーが守ってくれますよね?」
「勿論、約束する」
俺は即答した。
例え何があっても、どんな事になっても。
どんなに見苦しい事をしても、誰かを頼ってでも。
本人に拒絶されても。
周りから、何と言われても。
絶対に、鷹富士さんを守る。
「なら良いです。あ、それとなんですけど」
イタズラっ子の様に。
鷹富士さんは、微笑んだ。
「私が見たの、ボロボロの海賊船みたいなのだったんですけど……」
「俺の説明間違ってたかもしれない。まずいな取り敢えず文香に」
「嘘でーす」
「…………」
やり返された。
今日はお互い、まるで子供の様だった。
6、◯◯◯◯ー◯ー
「…………成る程、分かりました」
「おねげーします、文香おねーさん」
「はい……!」
「……ふ、文香ちゃん…………よね?」
……私とした事が、柄にもなく立ち上がってまで返事をしてしまいました。
ちひろさん、変なものを見る様な目を向けないで頂けると助かります。
仕方のない事ではないでしょうか?
仁奈さんに「おねーさん」などと呼ばれてしまえば、正気を保てる者など、おそらく世界の何処を探しても見つからないでしょう。
外国人に日本語は通じない?
なんと愚かな……ご存知ないのですか?
可愛さは世界を超えるのです。
……ごほんっ。
それは、八月十六日の金曜日。
私が事務所で、本のページを捲っているところでした。
親愛なる我が妹……同僚である市原仁奈さんから、相談事を持ち掛けられたのです。
姉……同僚として、張り切らざるを得ません。
女子寮の周りでよく男性を見かけると噂が出ている。
その男性は、時折アイドルに話し掛ける。
男性が去った後、他のアイドルが尋ねても、何を話していたのか答えてくれない。
けれどそのアイドルは、とても悲しそうな表情をしていたそうです。
また、女子寮のアイドルに電話が掛かってきた後、とても不安そうな表情をする。
けれど、何があったのか尋ねても答えてくれない。
そんな事が、何件か続いているそうです。
……心霊現象、では無いのでしょう。
少なくとも、悪影響のあるモノでは無い筈です。
もしそうなのであれば、とうに小梅さんが動いて解決している筈ですから。
小梅さんが動いていないのであれば、それは『よくないモノ』では無いか、人間かと言う事になります。
原因が人間であるのなら、正直私の出る幕ではありません。
不審者の可能性もありますし、警察や寮監に相談するべきです。
それが為されていない。
それはつまり、話し掛けられた人の知り合いか、それとも口止めをされているか。
話した後に、不安そうにしている、悲しそうにしている。
これは、直接その人物に話を聞いてみる他なさそうです。
一応不審者の線も考えて、プロデューサーさんに相談してみるべきでしょうか。
いっその事、あの人が全て動いて下さると助かるのですが……
窓の外には、昨日よりも大きな太陽が、我が物顔で空を埋め尽くしています。
お盆を過ぎた八月は、未だその気温を人が快適に活動出来る程度にまで下ろしては下さらなそうです。
暑さも寒さも彼岸までとは言いますが、それはまだ一ヶ月も先の事。
いっそ今が旧暦であれば、この夏がまだまだ続くのだと憂う事も無かったのに。
ワンコール、ツーコール。
それからすぐに、彼の声が聞こえました。
『ん、もしもし文香か?』
「はい……少し、お聞きしたい事が……」
結論から言うと、断られてしまいました。
本日は買い物で寮から離れた所に居る為、動けるのは明日からだ、と。
非常に残念です、全て押し付け……お願いしようと思っていたのですが。
仕方なしに私は、響子さんに連絡をかけました。
意地でも、この部屋から出ずに解決してみせます。
『あ、はいもしもし! 文香さんですか?』
「はい……少々よろしいでしょうか?」
『あ、ちょっと待って下さい……美穂ちゃん! それまだ作ってる途中ですから! ……ごほんっ、失礼しました。それで?』
昼食でも作っているのでしょうか?
響子さんの作る料理は非常に美味しいと耳に挟んだ事がありますし、いずれ一度は……
「……噂について、お聞きしたい事があります」
『……不審者とか、変な電話とかの事ですか?』
どうやら当たりの様です。
不審者と断定している。
変な電話と言っている。
自分は噂しか聞いた事がない。
けれど、それを最初に発してしまう。
どうやら彼女は、何かを知っている様です。
十中八九、彼女にもそれは起きていたのでしょう。
その上で、何かを此方に気付かせまいと……いえ、少し違いますね。
思考の誘導を行おうと、誤魔化そうとしている様です。
「ふむ……どなたが被害に遭われたのかは、ご存知でしょうか?」
『分かりません……』
嘘を吐く。
これはおそらく、誰かを庇うための嘘でしょう。
自身は話したく無く、けれど他の人も話したく無いであろう事を分かっている。
言ってはいけない事なのか、言えない様になっているのか。
それは無さそうです。
それなら、小梅さんが動いている筈ですから。
そうなると……
これは……
「……分かりました。お昼時でお忙しいところ、失礼致しました」
『いえいえ。捜査、頑張って下さいっ!』
そう言って、通話を切りました。
その直後、私はふと、疑問に思いました。
……響子さんが昼食を用意するのが当たり前だなんて、寮のシステムは一体どうなっているのでしょう?
「……はい。その件です」
『ええっと……わたしも、よく分かりませんけど……』
次に連絡を取ったのは、美穂さんです。
彼女が女子寮に居る事と、忙しくは無い事は先ほどの通話から分かっていましたから。
けれど反応は、響子さんの時と同じ様なものでした。
大方彼女の状況も、響子と似た様なものなのでしょう。
次に私は、みくさんに連絡を取りました。
『それは秘密にゃ! みくは秘密を守れる良い女なのにゃ!』
それは、割と既に守れていない様な気がします。
『アー……ナイショ、です』
アナスタシアさんにはナイショにされてしまいました。
『うふふ、ふふふふ…………うぅぅ……うぅぅぅう…………』
まゆさんは泣いていました。
辛い思いをしたのでしょう。
この時点で、大方の予想はついていました。
それぞれ、反応が異なる事から。
けれど、秘密にしようとしている事から。
よくよく考えなくても、分かる事でした。
それは身にしみて、よく分かっている事でしたから。
最後に。
確信に変える為、もう一度だけ私は電話を掛けました。
『はいっ、島村卯月ですっ!』
「おはようございます、卯月さん」
『頑張ります!』
……何をでしょうか?
寮に噂が広がっている。
だからこの件(怪異の『くだん』ではありません)は、寮にのみ起こっている事だと思っていましたが。
そもそも、その考え方が間違いだったのです。
起こっていたのは寮の周りではなく、彼の周りなのですから。
そして、もう一つ。
怯えている、不安そうな反応をしたアイドルは……
……カマをかけてみるとしましょう。
「……私も、相談されました……」
『あ……文香さんもですか。何をオススメしましたか?』
予想と違った場合、それで気付かれてしまいますから。
出来る限り、当たり障りの無い……
「……私なら、栞が嬉しい、と……そう伝えました……」
『文香さんらしいですね。私は、何にも思いつかなかったですけど……あ、でもきっと何を貰っても嬉しいと思います、って伝えました!』
「ふふ、それもまた卯月さんらしいですね……」
大体、当たりの様です。
では、次に……
「……少し、不安そうですね……どの様に相談されたのですか……?」
『ええっと、「普段お世話になってるから何かプレゼントしたいけど、どんなものなら嬉しいか分からないから相談に乗ってくれ』でしたけど……それで、その……』
「……………はい……」
『……きっと、好きな人に贈るものだと思うんです。私だって女の子ですから、声で分かります。でも…………』
占いの結果を信じやすいのも、また女の子らしいと思います。
卯月さんと響子さんはまだしも、美穂さんはそれがホンモノだと言う事を思い知っていますから。
「……ありがとうございます。失礼致しました」
『いえ、大丈夫です! 私こそ、変な話しちゃってすみません』
通話を切ります。
さて、まずは……
……そうですね。
おそらく呑気に買い物でもしてるであろう犯人に、不満をぶつけるくらいは許されるでしょう。
「朴念仁」
『開口一番それは酷くないか?』
言いたくもなります。
プロデューサーさんのデリカシーの無さのせいで、私の読書の時間が縮まってしまったのですから。
けれどそのおかげで、仁奈さんが話し掛けてきてくれたと考えると……
……これは、破滅的思考になりそうなのでやめておきましょう。
「……プロデューサーさん、現在寮で不審者扱いされているのはご存知ですか……?」
『え、辛い』
「貴方が『内緒にしといてくれ』などと頼むせいです」
全く……いえ、その考えが分からなくはありませんが。
相談された側の気持ちも、もう少しは考えるべきでしょう。
『だって恥ずかしいだろ。プレゼントも一人で選べないなんて』
「沢山の年下の女の子に相談するのは恥ずかしくない、と?」
『そうなんだけどさ……』
非常に、なんともあっけない話です。
あっけないと言うか、みっともないと言うか。
事の顛末は非常に簡単なものです。
プロデューサーさんが、鷹富士さんへ何かプレゼントをしようとして。
けれど、女性が何を貰えば嬉しいのか分からなくて。
年頃の女の子であるアイドルの皆に、通話で、あるいは帰宅のついでに寮前を通って相談していた。
けれど恥ずかしいし本人にバレると困るから、内緒にしておいて貰った、と。
……本当に、こんな事で時間を取られただなんて……
一番最初にプロデューサーさんに電話を掛けた時点で気付くべきでした。
アイドル一番、アイドル大好き人間であるプロデューサーさんが、寮で何かが起きているのに私用を優先させる筈がありません。
どんな用事があったとしても放っぽって、すぐさま寮に駆け付けていた筈です。
つまりプロデューサーさんは、それが大した出来事ではないと知っていた、寧ろ恥ずかしいから知らんぷりを通そうとした、と。
「まゆさん、唸っていましたが」
『……好きな人に贈る、なんて言ってないんだがな』
「お年頃の女性に、それがバレないとでもお思いですか……?」
そうでなくとも、まゆさんは自分以外へのプレゼントの相談なんて泣き叫びたかったでしょうが。
「…………それで……」
これは、単純な好奇心です。
ただ、私が知りたかっただけ。
「……何を、贈るつもりなのですか?」
何となく、気になったのです。
沢山のアイドルからアドバイスを受けたプロデューサーさんが、プレゼントに何を選んだのか。
余程の朴念仁で、デリカシーが無くて、女心なんて言う言葉から最も遠い様な人物です。
おそらく、物凄く残念な物に違いありません。
『指輪だ』
「……………………」
何も言わずに、私は通話を切りました。
本当に、人生で最も無駄な時間だったと思います。
これと言ったヤマもオチもなく、ただ電話をしただけの一日でした。
これなら余程、ヤマもオチも無い小説を読んでいた方がマシだったと思える程に。
……いえ、多少の情報は集まったので良しとしましょう。
「文香おねーさんすげー! 探偵さんみてーです!」
「ふふふ……素敵な一日となりました」
大まかに掻い摘んで、仁奈さんには事の顛末を話しました。
少なくとも不安になる様な事ではない、と。
仁奈さんは既に、ちひろさんと帰りました。
親子みたいです、その家庭に姉など如何でしょうか。
キーーーーーンッ
空の端は、少しずつ色を赤へと変え始めていました。
夕刻、世界がくるりと代わる時刻。
その一端に、飛行機が映ります。
青と赤の世界に、白い跡を残して。
「…………あぁ」
そして、思い出しました。
『十八日に、東京へと戻ります。わたくしの戻る迄、寧静を保って頂きたくーー』
明後日、正確な時刻は未だ伝えられていませんが、芳乃さんは東京へと帰省を終えて戻って来ます。
それは勿論、あちらも把握しているでしょう。
ですから、そうですね……
有り得ない事は理解していますが、それでも。
平和な夏が、まだまだ続きます様に
7、◯◯部屋
もっと早くに考えるべきだった。
何故小梅と志希が、言ってはあれだが、彼女達らしくもなく身体を張ったのか。
何故彼女達が、そこまで『件』の絵に執着したのか。
それは考える事を放棄して文香に押し付けていた俺の責任だし、彼女達を責める事は絶対に出来ない。
けれど一つくらい言い訳させて貰えるのであれば、ヒントを残して欲しかった。
……いや、これもやはり俺の責任か。
俺は『件』の予言を聞いていた。
文香には聞き取れなかったと伝えたが、それは彼女を不安にさせない為の嘘だった。
帰省中の文香に心配を掛けまいと、迷惑を掛けまいととっさに吐いた嘘だった。
それももしかしたら、文香は気付いていたかもしれないが。
この物語は、此処から始まる。
いや、正確には過去から始まっていた。
そうだな、過去から始まっていたが相応しい。
それを俺が知るのは、もう少し未来の事にはなったが。
夏。
一年のうちで、もっとも陽の長い季節。
一日が最も長い日に。
一夏の経験に済ませるには重過ぎて、一生に比べればほんの一瞬の。
そんな物語が終幕を迎えるキッカケは、一つの電話から始まった。
『……プロデューサーさん、ですか……?』
「いや俺の携帯に電話かけて俺以外が出たらヤバイだろ」
それは、八月十七日の事だった。
蝉の鳴き声もクライマックスを迎える八月下旬に突入しようかと言う頃。
蝉とバトンタッチして鈴虫とヒグラシが演奏会を始める時刻。
『件』の件……少し伝わりづらいな。
白坂小梅と一ノ瀬志希が事務所のエントランスに馬鹿でかい落書きを残してくれやがった日から数日が経って、その週末の土曜日。
小梅から俺の携帯に連絡があった。
夏休みの土曜日だと言うのに、一体何の用だろう。
『……最近……事務所で変な事、無い……ですか……?』
「無いな、お陰様で」
多少の皮肉も篭るものだ。
この数週間で人生で一度も経験しない様な心霊体験を何度もしてきたが、『件』の絵が描かれてから今日に至るまでは一度も起こっていなかった。
それに関して、俺たちに先んじて手を打ってくれた事は感謝している。
それはそれとして、あの落書きは許していない。
もっと他にやりようがあっただろう、あれ何故か俺が怒られたんだぞ。
『……相談……したい事、あるから……この後、寮に来れますか……?』
小梅からの相談。
それが事務所を通してでは無いとなると、恐らくまあ、そう言う事だろう。
彼女もまた、俺たちの知らぬ所でそう言った事件に巻き込まれていた筈だ。
それを今まで一人で解決して来たとなると、今回俺に相談して来た事の重要さが分かる。
「分かった。直ぐに向かう」
『えっと……志希さん、そっちに向かってるから……』
「待て、なんで住所知ってる」
『……あの子が』
「あーあー聞きたくなーい!」
インターフォンが鳴った。
引っ越しを本気で検討した。
「にゃー」
「会話をしてくれ」
数分後、俺は志希と並んで歩いていた。
一体どうして自宅の住所を知ったのだろう。
いやいい、知りたくない。
世の中には、知らない方が幸せな事だってある。
「と言うか、別に志希の案内無くても寮に辿り着けるぞ」
「異常ナーシ」
「頼むから会話を……」
先程からずっと、志希はこの調子だ。
一切俺と会話してくれない。
それは単に面倒だからか、情報を渡したくないからか。
……面倒なだけだろうな。
暑さと涼しさの入り混じる道路を、二人並んで歩く。
最近この手(除霊とか心霊体験とか)をしていて迂闊になっていたが、これすっぱ抜かれたりしないだろうな。
「大丈夫なんじゃない? 最悪ちひろさんが何とかするでしょ」
「で、志希は未だに事務所で何かやってんのか?」
「うんにゃ、なーんにも? 徹夜してたちひろさんにうるさいって怒られちゃったから」
ちひろさん、強いな。
それからまた、会話が消えた。
手持ち無沙汰で、何かしら話題が欲しくなる。
……いいや、違うな。
何か話していないと不安になる、嫌な予感がしてしまうと言う方が正しかった。
「そう言えば志希。蜃気楼って分かるよな?」
「多少ならね。志希ちゃん専攻してた訳じゃないから説明出来る程は詳しくないケド」
「丁度こないだ鷹富士さんと海行った時、条件が整ったのか発生してさ。鷹富士さんが『幽霊船だ』って驚いてたんだよ」
「ん、へぇ~。あの人ってそう言うの見えないと思ってた」
「心霊系には絶対化かされなさそうだけど、自然現象とか科学的な現象に対しては普通の人と変わらないのかもな」
「にしても蜃気楼ねぇ……ちゃんと船だって断定出来るくらいはっきりした形状で見えたなんて、かなり運が良かったんじゃない?」
まぁ、鷹富士さんだし。
運の良さに関しては、今更語る必要は無いだろう。
それは志希も……それどころか、業界にいれば誰しも一度は耳にした筈だ。
少なくとも俺は、彼女にジャンケンで勝った事が一度もない。
「とーちゃーく」
「冷房ガンガンに効いてる事を祈ってるよ」
ようやく、女子寮に着いた。
そこまで暑くないと思っていたが、足を止めた瞬間にどっと汗が噴き出す。
着替えのシャツとか持って来るべきだったかもしれない。
仁奈に『汗臭い』と言われたら立ち直れない自信がある。
寮に入る。
「っ!」
「ん? キミどしたの、突然蹲っ……あ、もしかして」
「いや、大丈夫だ。かき氷も食べてない」
「勃」
「辞めろ」
腹が痛くなった訳じゃない。
ただ、違和感があった。
……いや、違う。
違和感が、完全に失くなっていた。
人の家に訪れた時、特に何がある訳でもないのに居心地の悪さを感じた事はあるだろう。
自分の家と匂いが違ったり、雰囲気が違ったり。
神社に入った時、なんとなく空気が変わった様な感覚になったり。
職場に着くと、少し気分が変わったり。
それは以前、寮に訪れた時も同じだった。
慣れたとは言え他人の住居、多少とは言え雰囲気が違う。
おそらく以前は『コックリさん』の霊が残っていたり、小梅の言う『あの子』が居たからで。
それこそ小梅の事だ、寮に良くないモノが取り憑かないよう、何かしら手を打っていたのだろう。
そんな感覚が、一切失くなっていた。
妙に慣れ親しんだ様な、俺を拒むモノが一切無い様な感覚。
外と空気が一切変わっていない様な感覚。
冷房が効いているにも関わらず、汗は一切ひいてくれない。
それどころか目眩がしそうな程、逆に不安になる程、この場には違和感が無かった。
「小梅の部屋は……」
「……あ、不味いカモ」
俺の質問に返す事無く、志希は走り出した。
屋内だと言うのに全力疾走で、響子の注意すら跳ね除けて走る。
それを、俺も追い掛ける。
志希がここまでただならぬ様子だなんて、初めてだった。
そして、廊下を曲がった先に、志希は居た。
おそらく室内の窓から差し込んでいるであろう夕陽が、志希の顔を紅く染める。
志希は扉を開けて、その先の光景を眺めて唖然としていた。
一体、何が……
「……今必死に考えてるから待って」
「待つも何も、まず俺は小梅に会いに……」
「ーーーーから言ってるんでしょ……」
志希の制止も無視して、俺は部屋を覗き込んだ。
本来女性の部屋にノックも無しに上り込むなんて、マナー違反なんてレベルではない。
けれど、それどころでは無かったから。
着替え中で一発引っ叩かれる、なんてオチでも良かったから。
「…………っっ!!」
部屋の中に、小梅は居た。
パソコンのディスプレイは黒く、けれど電源は付いていて。
カーテンの開けられた窓から差し込む夕陽の色だけではない。
近くにワインやケチャップは無い。
噎せ返る程気持ち悪い『赤』が、部屋の壁を染め上げて。
そんな部屋の中心に、小梅は倒れていた。
「小梅っ」
何なんだよこれ……意味が分からなかった。
ついさっきまで、俺と通話してたんだぞ。
なのに、なんで……
吐きそうになる。
一体どれだけの事をすれば、壁一面を紅く染めるなんて事が出来るのか。
急いで小梅に駆け寄る。
止血が先か? こういう時って何をすれば
「触らないで。って言うか余計な事しないで。絶対助かるから」
「何を言ってるんだ! 早く救急車を…………」
そこまで言って、ようやく俺は気付いた。
女子寮は、不審者が容易に入り込める様な場所ではない。
少なくともこれが猟奇殺人だとした場合、他に目撃者がいなければならない。
それはつまり、尋常ならざる事態と言う事で。
そう言う時に大切なのは、焦らず専門家等の知識を借りる事だ。
正しい対処法でなければより悪化してしまう。
俺は多少なりとも、というかここ数週間は『視える』様になっていた(なってしまった)が、今この部屋には小梅以外居ない。
落ち着いて考えたり相談をする時間はありそうだった。
「……部屋の色。今何色に見える?」
「……真っ赤だ」
「…………不味いかも。割と本気でヤバいしもしかしたら小梅ちゃん助からない」
焦るな、考えろ。
死んでいないのであれば、まだ助かる。
どんなに致命傷でも、助かる道はある。
俺はそれを、身を以て…………何を言ってるんだ、俺は。
「ちなみに志希には何色に見えるんだ」
「真っ赤……なのかな。そんな気がする」
この部屋の赤は、心霊現象だけではないらしい。
彼女にも見えているという事は、視界に介入されているか。
何かに化かされているか。
それともただ単純に、赤色の何かが塗りたくられているか……
「……『あの子』はどうしたんだよ。小梅がいつも言ってたの。あれって小梅の身を守ってくれる様な奴じゃなかったのか?!」
まさか、『あの子』がこんな事を?
いや、有り得ない。
小梅はそう言った『良くないモノ』に対して、ヘマを踏む様な奴じゃない。
「…………居なくなってる」
「は…………?」
「消されたっぽい……ん、違う。血は多分一人分だけど匂いしないし、これ小梅ちゃん傷無いから…………」
ずかずかと、志希は小梅に近付いた。
そのまま小梅の手首を触り、瞼を触り、息を確認する。
「……うん、問題無さそう。ごめんねプロデューサー、不安煽る様な事言っちゃって」
「……大丈夫なのか?」
「大丈夫。外傷は一切無いから、単純に意識を飛ばされてるだけ」
冷静さを保っているのも、もう限界だった。
膝から崩れ落ちて、何度も過呼吸気味に空気を吸い込む。
……良かった……何も、なくて……
「…………うん、ほんと。助けてくれてありがと」
志希はぽつりと、それだけ呟いた。
「…………どうするんだ、これから」
「一旦事務所に向かう。あそこなら大丈夫な筈だから」
響子に『小梅が倒れた。熱中症かもしれないから、しばらくして意識が戻らなかったら病院に連れて行ってくれ』と頼んで、俺たちは寮を後にした。
正直なところ、不安は無かった。
志希が大丈夫だと言うのなら、小梅は問題ないのだろう。
彼女があの状態になってしまったと言うのは、相当強力な『良くないモノ』が原因である事は分かっている。
それでも文香の知識と鷹富士さんの力さえあればなんとかなる、と。
そう、思っていた。
走ったせいで汗をかきながらも、俺たちは事務所へと辿り着いた。
涼しい空気で一気に体温を下げられ、少し肌寒く感じる。
けれど、ロビーに描かれた『件』の絵を見て安心した。
取り敢えず事務所内に居れば、悪い事は何も起こらない筈だ。
「文香ちゃん、図書室に居るよね?」
「その筈だ」
彼女は今日の午後、仕事は無かった筈だ。
午前中はレッスンだったから、そのまま図書室に居座っているだろう。
エレベーターの待ち時間は、やけに長く感じた。
何時もだったら直ぐに来ていた気がするが……焦っている時ほど、長く感じるものなのだろう。
ようやく来たエレベーターで、彼女が居るであろうフロアに向かう。
その間、会話は一切無かった。
無機質な音が、やけに不安を掻き立てる。
今になって、不安が襲い掛かって来た。
鷹富士さんは大丈夫だろうか。
彼女は今日、事務所に来ていない筈だ。
ウィィィィン
エレベーターのドアが開く。
それが開ききるが早いか、俺は廊下へと飛び出した。
ええと、図書室はこの廊下の突き当たりに……ん?
「……どうしたんだ、志希」
小走りに向かう途中、志希が着いて来ていない事に気付く。
彼女は未だ、エレベーターに乗ったままだった。
「……ねぇキミ、なんで降りたの?」
「え? だって図書室に向かってるんだろ?」
「うん。もう二個上のフロアな筈だけど」
何を言っているんだ、志希は。
そう思いながら、エレベーターの傍に表示されたフロアの表示を見る。
「…………本当だ。んなバカな、俺は確かに……っ!」
「あっ、不味い」
……ようやく、理解した。
俺は間違い無く、視覚に介入されている。
『間違ったモノ』を見させられている。
うっかりで違うフロアに降りる事はあろうが、それだったら降りた瞬間に気付く。
「事務所内じゃ悪いモノは入って来ないんじゃ無かったのかよ!」
「あたしに言われても困るし! キミ、あたしの声は聞こえてるよね?!」
「あぁ!」
「聴覚チェック! デルタ関数のフーリエ変換は?!」
「分かんねぇ!」
「おっけ、本人の知らない知識は幻聴にならない筈だし大丈夫!」
成る程、そういう事か。
もし聴覚にまで介入されていた場合、幻聴にされていた筈だ。
けれど本人の脳に作用して幻聴を聞かせる場合、幻聴として聞こえてくるのは『俺自身が知っている事』だけだ。
知らない言葉(けれど多分実在する事くらいは知っている)を聞いたという事は、それはつまり幻聴では無いと判断出来る。
耳まではまだやられていない、と。
ナニが起きているのかは分からないが、ソレは五感全てをコントロールする程の力は無いらしい。
志希が正常な視界を保っている事からも、俺一人を騙すのが限界らしい。
……いや、違うな。
もしかしたら、『そう思わせる為』にまだ視界しか化かしていない可能性もある事は考慮しておこう。
「視覚からの情報は信じないで。あたしはまだ化かされてないから、あたしの声を信じて」
「分かった。どうする?」
「手遅れになる前に文香ちゃんに電話!」
聞くが早いか、俺は文香に通話を掛けた。
一応、掛けた先の番号を志希に見て貰って正しい事を確認する。
「もしもし文香?! マズイ! 事務所内にもナニがが来てる!」
『……そう、ですか……小梅さんは?』
「…………それも話す。今事務所に居るか?!」
『はい……正確な場所はお伝え出来ませんが、事務所内には居ます。相談事があるのなら、このままお願いします……』
正確な場所が伝えられない、だ?
いや、気になるが今はそれどころではない。
エレベーターで一階へと向かいながら、通話を続ける。
文香に会えず、事務所内が安全ではないと分かった時点で、此処に留まる理由は無いからだ。
俺が小梅に呼び出された事。
志希が迎えに来た事。
寮に行って、俺が見た光景。
今日起きた事の全てを、俺は伝えた。
『……そうですか、小梅さんが……』
「ああ……志希は大丈夫だって言ってたが……」
『おそらく、大丈夫なのでしょう……そうですね、余り時間が無いので手短にお話しします』
それから文香は、いつもより少し早口に説明をしてくれた。
それは『赤い部屋』です。
プロデューサーさんも、一度は耳にした事があるのてはないでしょうか。
もしかしたら、ご自身で一度は体験した事があるかもしれませんね。
……いえ、江戸川乱歩のミステリー小説の方ではなく……
ネット上の、都市伝説の様なものです。
流行り出したのは90年代終盤~00年代序盤、所謂フラッシュ全盛期に作られたホラー系のお話しです。
『あなたは/好きですか?』 と、そう表示されるポップアップ広告が存在するという噂を聞いたとある人物のお話です。
ポップアップ広告の中には、サイトに入る度に繰り返し表示されるしつこい物も存在します。
それら広告は×ボタンをクリックして消してしまえばいいだけの話ですが、『赤い部屋』という広告だけは絶対に消してはいけないと言われていました。
そのポップアップ広告は神出鬼没であり、その人物は興味本位から、友人と手分けしてそのポップアップ広告を探すことにしたのです。
『赤い部屋』の出現しそうなサイトを巡る彼は、ついにその広告に辿り着きました。
『あなたは/好きですか?』と、それだけが表示された広告です。
勇敢な彼はその広告の×ボタンを押してポップアップ広告を消してゆくも、けれど全く同じ広告が出てくるだけでした。
『消したら死ぬ、というか消せない』というオチだと思い込んだ彼は、バカバカしくなり何度もポップアップを消してしまいます。
すると次第に、
『あなたは /好きですか?』
『あなたは /好きですか?』
『あなたは赤/好きですか?』
と、ポップアップにはいっていた斜め線がズレ始め、文字が現れだしたのです。
彼がそれに気付いたと同時、ポップアップは勝手に消えては現れてを繰り返しました。
焦った彼は急いで止めようとしましたが、止め方が分かりません。
そして少しずつ、文字も増えてゆきます。
『あなたは赤い/好きですか?』
『あなたは赤い部/好きですか?』
『あなたは赤い部屋/好きですか?』
そして、とうとう……
『あなたは赤い部屋が/好きですか?』
不意に画面が切り替わり、そこには大量の人名が映し出されます。
その最後には、一緒にこの広告を探していた友人の名前も記されていました。
嫌な予感、動かない身体。
背後には謎の気配。
そして……
翌日、某学校の同じクラス内で2人の自殺者が出ました。
自身の頸動脈を切断し、部屋を自分の血で真っ赤に染めながら……
と、その様なお話です。
小梅さんの部屋が真っ赤だった。
パソコンの電源は付いていた。
彼女はそう言ったお話を好んで調べる人物だった。
……はい、非常に不安定な理由です。
……と、言うよりも……
……現在において、ブラウザにはポップアップブロック機能が標準搭載されています。
ポップアップブロックのシステムが無かった時代に作られた作品なので、悲しい哉今では、その演出は若干無意味なものとなってしまっています。
……はい。
今は、そう思っていて下さい。
全てが終わり次第、きちんと説明しますので。
……『あの子』ですか……?
おそらく、既に在ないと思います。
元から死んでいるとか、そういう話ではなく。
『赤い部屋』を使ったのであれば、必ず一人はやられています。
『あの子』と呼ばれる人物は、小梅さんの事を護った様です。
ええ、ですから……
もう、在ないのです。
『すみません……そろそろ、用事がありますので……』
「あぁ、悪かった。ところで文香は……」
ぴっ、っと。
通話が切られた。
切るのが早すぎる。
もう少し書きたい事があったのだが。
「……志希、取り敢えず鷹富士さんに会いに」
事務所から出ようとした、その直前。
志希は、何かに気付いたかの様にはっと目を見開いた。
「……文香ちゃん、何処に居るって?」
「……分からなかった。けどまぁ事務所内には居るらしい……」
「へぇ、本当に?」
そう返した所で、志希が俺のスマホの画面を指差している事に気付いた。
何かを、伝えようとしている。
「文香ちゃん、何処に居るの?」
「いや、だから分からなかっ……」
真っ暗になったスマホの画面を指差して。
けれど、質問を何度も繰り返す。
狂った様に、何度も何度も。
それは、とても不気味だった。
……いや、待てよ。
トンネルの一件以降、俺は通話終了時のバイブレーションを設定している。
けれど、今スマホは振動していなかった。
そして、志希は未だにスマホの画面を指差している。
既に、聴覚まで騙されていた。
「おい、志希!」
果たして俺は、きちんと彼女の名前を呼べていたのだろうか。
彼女がなんと返事していたのか。
それすら、分からない。
一気に不安になった。
見ているものも聞いている事も嘘なのなら、一体何を信じて動けば良いんだ。
目の前に居る志希がホンモノかどうかも、今となっては分からない。
焦った様に志希が俺の手を取る。
そう見えた、実際にされたかどうかは分からない。
感覚は、一切しなかった。
もう、何も分からなかった。
『もし五感全てに介入出来る様な奴に出逢ったら、どうすれば良いんだ?』
かつて俺が、文香にそう尋ねた事を思い出した。
『……どうしようも無いと思います』
『ですから……』
『……考えない方が、良いと思います』
あの時、文香が言っていた通りだった。
無駄なんだ、考えたって。
考えるには外からの情報が必要不可欠で。
その全てが、偽物の可能性があるのだから。
俺はアテもなく走り回った。
兎に角、何か確実なものが欲しかった。
なんでも良かった。
確かなものが欲しかった。
目の前に道は本物なのだろうか。
後ろにある事務所は本物なのだろうか。
隣に立つ志希は本物なのだろうか。
広がる夕方の空は、本物なのだろうか。
ひぐらしと鈴虫の鳴き声は本物なのだろうか。
蒸し暑い夏の夜風の感覚は本物なのだろうか。
シャツの洗剤と汗の匂いは本物なのだろうか。
不安で噛んだ口の血の味は本物なのだろうか。
この夏は。
果たして、本物なのだろうか。
小梅も、志希も、文香も。
もう彼女達は頼れない。
誰か、誰でも良いから。
誰か、俺を……
「大丈夫ですか、プロデューサー」
声がした。
五月蝿かった夏の夕方に、それでも彼女の声だけは確かに聞こえた。
まるで、世界の音という音全てが消えてしまったかの様に。
彼女の声だけは、間違いなく俺へと届いた。
「……鷹富士さん」
「はい、私です」
目の前に、鷹富士さんが立っていた。
夕暮れを背に、彼女は居た。
いつも通りの笑顔で、けれど少し困った様に。
それだけは何故か、本物だと分かった。
「……助けてくれ」
「ふふっ。はい、勿論です」
「……ありがとう」
鷹富士さんのそんな言葉。
それだけで、俺は安心出来た。
彼女さえ居てくれるのなら、それで安心だ。
彼女さえ居てくれるのなら、俺はそれで……
「……私も、貴方さえいれば大丈夫です。だから、プロデューサー」
彼女も。
困った様に、微笑んで。
「……助けて下さい」
「……あぁ、俺は……」
愛しているから。
とても、大切な恋人だから。
だから何があっても、貴女の事を。
鷹富士さんの事を……
……恋人?
……恋人だった?
「……………………」
指が熱くなった。
気の所為だったのかもしれない。
それでも俺は、自分の指へと目を向けた。
熱を発する、右手の薬指に。
指輪が、はめられていた。
右手薬指の指輪の意味くらい、分かっている。
それ用にと先日購入したのも覚えている。
けれどこの指輪は、その時購入した指輪とは少し違っていて。
そもそも何より俺は、まだその指輪を渡していない。
そして。
俺が渡す相手は、鷹富士さんで。
彼女が着けていないのであれば、俺が着けているのはおかしい。
俺が着けているのであれば、彼女の指も着けられている筈で。
「……どうかしたんですか?」
そう首を傾げる鷹富士さんの、右手の薬指には。
何も、着いていなかった。
「…………なぁ、鷹富士さん」
「……名前で、呼んで下さい」
「助けて、って言ってたよな。俺はどうすれば良いんだ?」
「名前で呼んでくれれば、それで良いんです」
「……そっか」
なんとなく、分かっていた。
きっととっくに、終わってたんだ。
ずっと、過去から目を逸らし続けていただけだ。
目の前の現実を受け入れたくなかったから。
目の前にいる彼女に、縋っていただけだ。
「…………ごめんな、茄子」
「…………私こそ、ごめんなさい」
風が吹いた。
目の前が、真っ白になった。
8、◯◯◯さん
真っ白に染まってゆく視界。
それと同時に薄れゆく意識の中で、俺は俺を見ていた。
夏の、とある一日だった。
七月七日の日曜日、七夕の日。
コンクリートの道路を揺らす陽炎が、その日の暑さを物語っている。
沢山の人が行き交う駅前で、けれど自分の姿だけはハッキリ見えて。
喧しい筈のその夏は、音が一切聞こえなかった。
やがて駅前に一人立つ俺へと、誰かが声を掛けた。
満面の笑顔で、彼女は俺へと話し掛ける。
俺もまた彼女の到着に喜び、浮かれたように挨拶を返している。
音は無くても、全て分かった。
これは、あの日の光景なのだ、と。
場面は変わる。
二人は並んで、見ていて不安になるくらい近い距離で、ウィンドウショッピングをしている。
馬鹿みたいに笑いあって、揶揄いあって。
彼女が値札を指差して、俺は頭を抱えて。
服屋では試着室から彼女が出てくる度に、俺はマヌケな表情をする。
彼女が揶揄う。
多分俺は、恥ずかしさを堪えてきちんと褒めていたのだろう。
少し赤く染まった彼女の表情が、とても綺麗だった。
喫茶店で涼みながらお茶をして。
再びデパートで色々と眺めて。
次第に、二人は自然と腕を組んで。
七夕のイベントで、短冊を書いたりして。
彼女と腕を組む俺は、何度も鞄の中身を確認していた。
そこに忍ばせた物を、俺は良く知っている。
何度も何度も悩んで、他のアイドルの子に相談に乗ってもらって。
ようやく渡す決意をした、ペアリングだ。
空は少しずつ赤くなる。
七月七日が終わる。
……いいや、違う。
全てが、終わる。
再び、場面が変わった。
俺と彼女が、夕暮れの小道を歩いていた。
とても、幸せそうだった。
いや、実際に幸せだった。
人生で最も幸せな時間だったと言っても、全く以って過言ではない。
二人が立ち止まる。
俺が鞄の中に手を入れた。
急げ、と叫びそうになった。
俺は、その後に起こる事を知っていたから。
太陽は傾く。
二人分の影が背を伸ばす。
そんな、二つの影に。
もう一つの影が、近付いて行った。
やめてくれ。
悲鳴を上げた。
けれど、声にならなかった。
何も聞こえてこなかった。
音のない過去の世界に、俺の思いが届く事は無かった。
包丁を持った人が居た。
そいつは、一歩づつ。
幸せの頂点にいる俺達へと、近付いて行った。
焦る俺の心臓の鼓動は、音にならずとも苛つく程に五月蝿くて。
そして……
場面が、変わった。
蝉の鳴き声だけが、音になった。
音じゃなかったかもしれない。
俺の記憶に、脳に、心に。
深く鋭く、刻み付けられていただけだ。
彼女は、綺麗だった。
いつも笑顔でい続けた彼女は、その時すらも綺麗だと思えてしまった。
俺は、彼女の手を握り締める。
祈る様に、縋る様に。
彼女の目が、再び開く事は無い。
けれど、俺は諦められなかった。
彼女の心臓が、再び音を鳴らす日は来ない。
それでも、俺は受け入れられなかった。
蝉が鳴く。
俺もきっと、泣いていた。
赤く染まった世界は、終わる。
俺の世界は、ここで止まる。
最後に、キラリと。
二人が重ねた指から、光が溢れた。
『……そなた……』
声が、した。
今の俺には聞こえる。
あの時の俺には、聞こえていなかった。
二人を照らす夕焼けは、一人の少女に遮られた。
『……そなた……夢から、醒めるのでしてー……!』
俺の視界は、再び白く塗り潰された。
目を開く。
俺は、コンクリートの上に立ち竦んで居た。
次第に意識が、少しずつはっきりする。
空は暗く、既に夜が訪れている事が分かった。
蝉の声は、もう聞こえて来なかった。
「……ふうー……どうにか、間に合ったのでしてー」
「……芳乃か。帰省から戻るのは明日って聞いてたが……久し振りだな、元気してたか?」
「そなたと言う人は、全く……わたくしは、見ての通りピンピンしてぱーぺき? なのでしてー」
その言葉は、おそらくもう通じない。
寧ろ十六歳の少女が知っている事が驚きだ。
依田芳乃、十六歳。
和服姿に身を包む、鹿児島出身のアイドル。
趣味兼特技は悩み事解決、石ころ集め、失せ物探し。
浮世離れした、どこか不思議な少女だった。
七月の上旬から帰省と言って地元に戻り、ほぼ何の連絡も寄越して来なかった為とても心配していた。
彼女自身に何かが起きているんじゃないか、という心配ではない。
そこいらの怪異や心霊現象程度なら、彼女は一人でどうにでも出来るだろう。
単純に『俺、嫌われたんじゃないか』と言う心配だった。
「……志希さん志希さんー、あの人はまだ近くにおりましてー?」
「んにゃ、居ないっぽい。匂いは全然しないし。まぁ今のあの人がどのくらいの力あるのか分かんないから保証は出来ないケド」
「ふむー……でしたら……」
事務所に戻るのだろうか。
いや、事務所はもう安全地帯では無い。
今から戻る意味は、余りないだろう。
文香との合流も、別の場所の方が良い。
……そう言えば、鷹富士さんはどうなった?
彼女は一体何処に居る?
「……そなたには、これ以上辛い想いをして欲しくなくー……」
「だから、あたしたちだけで何とかしようとしてたんだけどねー」
「『名前』を呼んでしまった以上、彼女はより彼女に近付いているのでしてー」
何を言っているのかは、何となく分かっている。
分かっている、は少し違うか。
理解しようとして来なかっただけだ。
分からないフリをしていただけだ。
「……そなた、運転は出来まして?」
「出来るっちゃ出来るが……」
車はあのトンネルの一件から、ずっと事務所に置きっぱなしだ。
乗って帰るのが怖かったから。
だが、今から何処へ向かうと言うのだろう。
「……空港へ向かって欲しいのでしてー」
空港、か。
果たして俺は、何処へ向かわされるのだろう。
「それから先ずは、駅前の喫茶店で寛いでいる文香さんを連行しなければー」
……文香、あいつ事務所に居なかったのかよ。
三人並んで、事務所の駐車場に向かう。
先程までと違って、もう不安は余り感じなかった。
芳乃もまた、『良くないモノ』に対して非常に強力な力を有している、気がする。
実際のところ、彼女の素性や本領は分かっていないのだが。
「むむー……この一帯は、むむむー……」
途中、事務所の反対側にある工事現場を見て、芳乃は顔をしかめていた。
かつて、公園や民家が沢山あった場所。
今では防音のシートで囲まれて、中を覗く事は出来なくなっている。
狸が、生活する事が出来なくなった場所だ。
「……此処は余り、良い空気とは言い難くー……」
「何か、良くないモノが溜まってるのか?」
「はいー……事務所に『件』が描かれていなければ、非常に危うい状況だったかとー。これは、わたくしが清めてさしあげなければー……」
となると、あの絵は無駄では無かった訳だ。
今回の件では機能しなかったし、何より俺が怒られた訳だが。
……怒られた訳だが、おいこっち向けケミスト失踪者。
「はぁ……正直、もう疲れ果てて居るのですが……」
「悪いな、もう少しだけ付き合ってくれ」
車で駅前に向かい、喫茶店で本を読んでいた文香を後部座席へと押し込んだ。
話によると、文香は空港まで芳乃を迎えに行っていたらしい。
状況は切迫しており、話す時間が惜しいから。
それと、事務所は恐らく安全地帯ではないから、と。
助手席に座る芳乃は、じっと前方を見つめていた。
何かが起きた時、直ぐ気付いて対処出来る様に。
俺としてやはり運転なんて気が気では無いのだが、連れて行けと言われたのであればするしかない。
これはきっと、俺のせいで、俺のためなのだから。
「……『件』については、既にお伝えしましたが……その副産物は、覚えていますか?」
「絵姿が厄除招福の護符になるって話だったよな」
『件』の伝承については、ある程度覚えていた。
先程も、多少話に上がったところだ。
「だねー、だからあたし達が必死に見つけようとしてたワケだし」
「今回機能しなかったけどな」
「いえー、厄除け自体は常に機能しておりましてー。問題は其方ではなくー」
「……はい。後半の、『招福』の方にあります」
招福。
運を開き、福を呼び込む事。
それに、一体何の問題があると言うのか。
残念ながら、俺には検討も……
「……彼女に対しては、何の意味も為さないと言う意味でしてー」
「それどころか、彼女に力を蓄えさせてしまった次第です」
……そう、か。
そう言う事か。
「彼女の本質の半分は、『幸運の塊そのもの』に近いところがありー」
「悪意は無く、厄を振り撒く事も無く、唯幸運のみによって形を保っていましたから」
「それ先に教えてよ。あたし達無駄足……じゃないのか。一芝居打って匂いでマーキングも出来たし」
そう言えば、志希は匂いで何かを判断しようとしていた。
匂い……心霊現象に匂い?
「除霊用の香水作ってたなんて嘘八百。あの人が警戒して早目に手を打とうと香水に触るのと、キミに、彼女が触ったところを見てもらうのが目的だったから」
なんとなく、答えが繋がってゆく。
けれど、消えてゆく。
分かってしまったら、終わってしまうから。
それを知れば、きっと全てが壊れてしまうから。
なんで、こんな事になってしまったのか。
視界の端に何かがチラつく様に、答えは脳内に浮かび上がっては消える。
きっと俺は、全てを分かっているから。
目を合わせられない様に、そう脳が防衛本能を働かせていたから。
「……プロデューサーさん自身では、答え合わせは出来ないでしょう。ですから……」
すう、っと。
文香が、息を吸う。
「……事故にだけは気を付けて、聞いて下さい」
七月七日、日曜日。
貴方にとっても、同じ事務所に勤める私たちにとっても、非常に衝撃的な事件が起こった日でした。
身に覚えはあるでしょう。
見た覚えもあるでしょう。
目を逸らしたくもなるでしょう。
ですが、続けさせて頂きます。
とある恋人のうち片方が、傷害事件に巻き込まれ死亡しました。
蝉の煩い、夕方の出来事です。
女性の方はアイドル活動をしていた為、熱狂的なファンが幾人もおりました。
彼女のプロデューサーをしていた男性は、本来いけない事だとは分かっていながらも、彼女と密かに交際を始めたそうです。
事務所内の人間ですら、その事を知っている人は殆どいませんでした。
あの男性の事ですから、恐らく世間にバレても自身で責任を取る覚悟はあったのでしょうけれど。
彼は、彼女にプレゼントを渡そうとしました。
ペアの、シルバーリングです。
本気で二人は、お互いを愛していたのでしょう。
七夕の夕刻、ロマンチックな一幕は……それだけでは、終わりませんでした。
いえ、終わりました。
終わりを迎える事になったのです。
刃物を持った熱狂的なファンによって、二人は襲われました。
結果、片方は命を落とします。
犯人は既に逮捕されていますが、獄中で病気に……
……大丈夫です、その方は一命は取り留めたそうですから。
男性は、悲しみました。
大切な恋人を、自分のせいで失ってしまったのですから。
目の前に広がる光景を、受け入れる事が出来ませんでした。
彼女の生涯を、自分のせいで閉ざしてしまったのですから。
そこで、終わったのです。
そこで、終わる筈だったのです。
彼は、受け入れませんでした。
彼女の死を、拒絶しました。
自らの幸せを失ってしまった事から、目を逸らしました。
幸運な彼女が死ぬ筈が無いと、現実を受け入れませんでした。
……彼は、自分だけの彼女を、自分の中に作りました。
笑顔で、元気で、幸せそうな彼女を。
妄想と言う一言で表すには余りにも強い像を、自分で作り上げたのです。
それ程、彼女への想いが強かったという証明ではありますが……
それだけなら、何の問題もありませんでした。
現実逃避に妄想を作り出す人なら、この世に幾らでもいます。
対処法も、対処療法も確立しています。
ですが、それだけに留まらなかった。
そして、恐らく。
そこへ、彼女の心を留まらせてしまった。
……それが魂なのか、彼女の残留思念だったのかは、最早分かりません。
もしかしたらそれこそ、芳乃さんの言う『幸運そのもの』だったのかもしれません。
兎に角、彼女はこの世に留まりました。
彼にとっては、ですが。
何かが起きていると察知した芳乃さんは、急いでその場所へと赴きました。
そして、全てを察しました。
そこで、既に一人の命が失われている事。
彼が、現実逃避に『何か』を作り出していた事。
勿論、止めようとしたそうです。
自身も辛い思いをしながらも、それでも『迷い人を導く』と言う役割を全うしようとしたそうです。
彼女によく似た『何か』を、解放させようとしたそうです。
彼の事を思って、だからこそ事実を受け入れて貰おうとしたそうです。
……はい、芳乃さんは失敗しました。
彼の想いが、余りにも強過ぎた事。
強力なペアリングによって、彼から切り離せなかった事。
彼女が悪霊や『良くないモノ』の類ではなく、当時はまだ純粋な思念体だった為、芳乃さんの力が十全に振るえなかった事。
彼女が、肉体と言う檻に囚われていた生前以上に、幸運だった事。
どころか彼女は、自身と彼を切り離そうとする芳乃さんを許さなかった様です。
彼の心を、勿論彼女視点からすればですが、二人の間を裂こうとする芳乃さんは看過出来ませんでした。
ですから、芳乃さんは一旦実家へと退いた訳です。
対処法が分からないまま彼女に立ち向かい続ければ、自身がどうなるか分かりませんでしたから。
救急車に、彼女の肉体は運ばれました。
けれど彼からすれば、どうでもいい事です。
彼女の死は、無かった事にしたのですから。
彼女は、側に居るのですから。
……それが、プロデューサーの身に。
あの日、起きた事です。
勿論事務所はてんやわんやでしたが、プロデューサーさんはまるで他人事の様に事後処理を進めていました。
周りもプロデューサーさん心配しましたが、仕事に打ち込んでないとやっていられないのだろう、と気を使いました。
だから、何事も無かったかの様に振る舞い続けたのです。
彼に、これ以上苦しい思いをさせない為に。
……ご自身でも、おかしいと思いませんでしたか?
七月七日以降、彼女の仕事を入れてない事に。
私や志希さん、小梅さんは多少の事情は聞いていましたから、普通に会話に出しましたが。
私たち以外と会話する時、プロデューサーさんは一度でも鷹富士さんの名前を出しましたか?
違和感は覚えませんでしたか?
彼女が、他の誰とも会話していない事に。
プロデューサーさんが彼女と一緒に、響子さんや楓さんに会った時、彼女達はその存在に気付いていましたか?
そして貴方もまた、その存在を隠そうとはしていませんでしたか?
私たちには、彼女の姿は見えていないのです。
聞こえないのです。
貴方の口から、彼女が今何をしているか教えて貰う以外に。
彼女の事は、一切分からないのです。
志希さんのみ、匂いで分かりますが。
本当に、断片的な情報と一切学んで来なかった分野の知識から、上手い事を考えたと思います。
プロデューサーさんが、彼女が香水に触れたと認識する事が必要だったのです。
彼女の身体は……と呼んで良いのかは分かりませんが、プロデューサーさんの認識によって作られていますから。
プロデューサーさんがそう認識すれば、彼女に香水が付いた事になるのです。
本人に気付かれれば終わりでしたが、上手く騙せた様ですね。
思念体が果たして脳の電気的な信号なのかどうかも、結局のところ分かりませんが……
兎に角、志希さんも志希さんで位置を特定するくらいの事は出来る様にと手を打っていた様で……
そして、無意識のうちかもしれませんが。
貴方は一度も、彼女の下の名前を呼ばなかった。
恋人だと言うのに、ただの一度も、今日その時まで。
分かってはいたのでしょう、頭のどこかで、彼女が彼女本人ではない、と。
……彼女は、貴方の想像と彼女の幸運の塊です。
肉体も実体もありません。
私どころか、小梅さんにも見えないそうです。
芳乃さんにも、そこに良い運気が溜まっている事しか分からないそうです。
貴方の恋人ですら、ありません。
私たちがプロデューサーさんに黙って動いていたのは、貴方が彼女の情報源になり得るからです。
彼女自身がプロデューサーに依存せず動けるのは勿論ですが、それ以上に彼女は、貴方に触れるだけで貴方の情報を全て抜き取れるからです。
ですから、私たちが全てを貴方に明かす訳にはいきませんでした。
私は彼女に目を付けられていた様なので、嘘は一切吐かず、出来る限りの情報は開示していましたが……
私と志希さん、小梅さんが完全に別行動を取っていたのは、その為です。
私はただ、プロデューサーさんと事務所を守る事に徹しました。
動くのは二人に任せて、私はプロデューサーさんと彼女側に着いて動く。
……実際、彼女がただ『居る』だけなら、それは別に構わないと考えていたのですが……
……はい。
それは、多少の差異あれど私たちの総意でもありました。
彼女が特に害を為さない存在なのであれば、それで良かったのです。
ですが彼女は、貴方の側に居る為の手段を選ばなかった。
貴方の側にいる為ならば何でも為す『良くないモノ』となっていた。
……彼女はやり過ぎました。
犯人から運気を奪う事で厄を呼び、病気にさせて。
『幻影電車』の件では、狸も病気で殺し。
挙句の果てに、貴方と彼女を切り離そうと動く小梅さんにまで手を出しました。
『あの子』が身代わりになっていなければ、小梅さんも命を落としていたでしょう。
ですから、私たちも本格的に動かざるを得なくなったのです。
彼女が本格的に動いた理由もまた、私たちが動いたからでしょうけれど……
どの道明日には芳乃さんが戻って来てしまうと、彼女も知っていましたから。
芳乃さんが明日帰って来ると騙した理由ですか?
プロデューサーさんに伝えれば、彼女にも伝わるからです。
勿論、私にも明日戻ると伝えられていました。
私からウソを提示する訳にはいきませんから。
……彼女に、殺人をさせたくありません。
それはきっと、貴方も同じ思いでしょう。
勿論、彼女は貴方の恋人とは別人の、貴方が作り出した存在です。
それでも、止めるべきです。
そして、彼女も同じ筈です。
そんな事はしたくない。
ですが、せざるを得ない。
彼女が『良くないモノ』に近付き始め、芳乃さんが戻った時点で手遅れに近いのですが。
貴方が全てを知った時点で、彼女の目論見は瓦解しているも同然なのですが。
私たちに消される前に、なんとしてでも。
どうしても一人、殺さなければならない人がいるのです。
何故なら、鷹富士さんの目的はーー
夜夜中、草木が眠るより少し前の時刻。
夏とは思えない程に冷たい風が、肌を撫でる。
この場所に、こんな風には来たくなかった。
どの道いずれ、きちんと訪ねる予定ではあったが。
こんな形で来る事になるなんて、思ってもいなかった。
「……そなたー、足がクタクタなのでしてー」
「おんぶしようか?」
「ぐぬぬ……子供扱いはやめるのでしてー」
文香が用意してくれていた飛行機のチケットで。
まだ運行していた電車とタクシーで。
俺たちは、島根県のとあるお寺へと訪れていた。
「……文香にはおんぶに抱っこだな、本当に」
「そなたは子供なのでしてー?」
文香におんぶされた記憶は無い。
……いや、実際ずっと文香に頼りっぱなしだった。
心霊現象に巻き込まれる様になってから、俺と彼女だけでは対処法が分からず。
文香に相談した時から、ずっと、文香に頼り続けていた。
ようやく、目的のお寺が見えて来た。
そのまま本堂を素通りし、傍の墓所へ向かう。
目眩がする。
けれど、目を見開いた。
心臓が五月蝿く、息がつまりそうになる。
けれど、何故か夜風は心地良い程だった。
ざっ、ざっ
石畳の道を歩く。
墓石に囲まれた夜を、進む。
俺が目を逸らし続けて来たせいで、こうなってしまったのだとしたら。
もう今更、退く訳にはいかない。
「……こんばんは、プロデューサー」
「……おはようございますだぞ、茄子」
「そなた……!」
芳乃には、きっと見えてはいないんだろう。
元はと言えば、俺の現実逃避の妄想なのだから。
だから、俺が茄子を名前で呼ぶのを止められなかった。
彼女が、より一層確実に存在してしまうから。
……もう、良いんだ。
彼女の名前を呼ぶ程に、彼女の存在が確立してゆくのだとしても。
確かコックリさんの時、文香が言っていたな。
『名前を付ける』という事によって、ソレが今以上にこの世界で存在を持ってしまう、と。
終わらせ方なら、もう分かっている。
例え彼女の存在がどれだけ確実なものになっても、繫ぎ止める物を捨てれば良い。
皆んな最初は、俺にそれをさせない為に頑張ってくれてたんだろう。
茄子は、とある墓の前に腰掛けていた。
まるで、恋人を待つかの様に。
デートの待ち合わせの時間まで、恋人に想いを馳せる様に。
困った様な表情で、けれど茄子は微笑んだ。
「……全部、聞いちゃいましたか?」
「あぁ、文香が話してくれた」
「むむ~、恋人の前で他の女の子の名前を出すなんてダメダメです」
「……すまん、悪かったな」
全部じゃない。
芳乃も、志希も、小梅も。
多分、知らなかったんだと思う。
文香だけは、きっと分かっていただろう。
それでも、それだけは、隠そうとした。
俺の心が揺らいでしまうから、と。
俺が、茄子を諦められなくなってしまう、と。
やっぱり全部、俺のせいだったんだ。
茄子が、こうなってしまったのも。
「……じゃあ、プロデューサー」
「ああ」
茄子は、言葉を続けた。
まるで、悪い事は言っていないかの様に。
一切悪びれずに。
恋人に、プレゼントをねだる様に。
「ごめんなさい、死んで下さい」
勿論、答えは決まっていた。
彼女の目的は、『自身の蘇生』です。
……夢物語だ、と笑い飛ばすなら、それで構いません。
ええ、はい。
本来であれば、そんな事は不可能です。
彼女が、この世に再び生を受ける事は出来ません。
ですが、彼女はプロデューサーさんに作られた存在です。
プロデューサーさんの生命を、『命の枠』を、彼女が奪う事は可能なのです。
それこそ『憑依』や『降霊』に近い形で、貴方の命を貰おうとするでしょう。
そして、プロデューサーさんと彼女の立場は逆転します。
彼女が『生者』として、プロデューサーさんが『死者』として、この世に留まる事になるのです。
彼女が『生者』としてこの世に存在する限り、私たちにはもう手出しは出来ませんから。
やってはいけない事をしたとは言え、だからと言って私たちが生きる彼女を殺す事も、彼女と貴方の魂を反転させる事も出来ません。
正直、彼女に憑く形となったプロデューサーさんの魂を、私たちがなんとか出来るとは思えません。
彼女は問答無用で、不運(私たち)を跳ね除ける。
貴方が祓われる事が無い様に、決して私たちに手出しさせないでしょう。
もしかしたら、更にそこからプロデューサーさんを蘇らせ様としてしまうかもしれません……
……いいえ、違いますね。
最悪な話、彼女は貴方を殺せさえすれば良いのです。
そうすれば、彼女は貴方から離れる事はない。
……貴方と、ずっと側にいる為です。
彼女の目的は、最初からずっと、それだけです。
貴方と共に添い遂げる、何をしても、他の何を殺してでも。
それが例え死者であっても、魂だけの存在であっても。
例え、貴方を殺しても。
貴方は最初から、分かっている筈です。
それが、貴方に作られた『彼女』の理由なのですから。
「……悪いな、出来ない」
「なんでですか~?」
「恋人を人殺しになんてさせたくないに決まってんだろ」
「……だめ?」
「だめ」
まるで喫茶店での恋人同士の、なんて事無い会話の様に。
他愛のない、雑談の様に。
……大切な恋人が、恋人だった事すら忘れていたくせに。
今更、俺は何を考えているんだろう。
彼女のせいで事務所が滅びると言う事は、『件』の予言で分かっていた。
もう、目を逸らせない。
俺と茄子が大切にしてきた346プロを、失う訳にはいかない。
俺の為にも、茄子の為にも。
「助けてくれるって言ったじゃないですか」
「助けるよ、ちゃんと。今度はもう、引き留めたりしない」
「ふふ……正直、断られるとは思ってました。だから何も知らないうちにぱぱーって済ませちゃおうと思ったんですけど……」
だから今日、本格的に俺を弱らせに来たのだろう。
俺の周囲の人間に厄を振り巻いて、俺自身の五感を騙して。
心を弱らせれば、直接手を出せる。
それが出来ない今、本人に直接承諾して貰うしかないのだ。
「……でも、きっと……」
それに、と。
俺は、続けた。
「……あの時も、きっと俺は助けた筈だ」
空気が、止まった。
茄子の表情が凍り付いた。
芳乃が息を飲む音が聞こえた。
遠くからは、蝉の鳴き声が聞こえた様な気がする。
「……だって俺は、お前にペアリングを渡せていない。自分ではめた覚えも無い。だから、お前は指輪を着けてないんだ」
ああ、分かってたんだ。
彼女が俺の生んだ妄想なのだとしたら、彼女は俺の知らない格好は出来ない。
だから、指輪を着けていない。
じゃあ、どうして。
俺は、渡せなかった指輪を着けているんだ?
「…………そこまで分かった上で断られるなんて、ショックです」
「…………ごめん、本当に……」
だから彼女は、事ある事に俺から指輪を求めたのだろう。
より一層、『鷹富士茄子』に近付く為に。
それでも俺は、死ぬ訳にはいかないんだ。
茄子を人殺しにしたくない、と言う理由もある。
けれど、それ以上に。
どうしても、絶対に。
茄子に助けて貰った命を、失う訳にはいかなかった。
「……あの時の貴方は、本当に格好良くて、ヒーローみたいで……本っ当に、バカでした……」
「……だろうな」
バカだと思う。
けれど、約束は絶対に破れなかったから。
だからきっと、どんなに焦っていても。
茄子を、守ろうとしたんだろう。
「私、運は良いんです。だからきっと、襲われても大丈夫だと思ってました」
「包丁だぞ、刺されるとメチャクチャ痛いんだぞ」
「それでも、です。私は幸運だから、きっと守ってくれる、って……」
「……守ったぞ、ちゃんと」
「……はい。幸運なのは、私だけでした……だから、貴方は…………私を守ろうとして…………」
あの時刺されたのは、俺の方だった。
あの時死ぬ筈だったのは、俺の方だ。
「……失いたく無かったんです。私の幸せは、貴方と居る事なのに……なのに! 貴方が死んじゃうなんて……そんなの……!」
致命傷だったのだろう。
俺の意識は、記憶は、刺される直前で途切れている。
けれど、茄子だけは守った。
……守れた、筈だった。
「……だから……私は、貴方を……」
きっと逆の立場で、俺に同じ事が出来たのなら。
多分俺も、そうしていたかもしれない。
だから俺は、指輪をしていたんだ。
茄子が最期に、俺にはめたから。
だから茄子は、最期のあの時、指輪をしていたんだ。
決して、離れない様に。
「……祈ったんです。私の大切な人がいなくなりませんように。私の命なんていらないから、この人の命だけは助かりますように、って……」
それが、叶ってしまった。
運が良いから、なんてレベルでは無い。
けれど茄子の祈りは、奇跡を起こした。
自分の命と引き換えに、という形で。
人身御供と言う文化は、世界に古くからある。
人間にとって最も重要と考えられる人身を供物として捧げる事は、神への最上級の奉仕だと考えられている。
きっとこの世界にも、神はいるのだろう。
様々な体験をしてきた今、それを疑う事もない。
だが、対価は必要だった。
神の奇跡は起こった。
奇跡の代償は、彼女の命で。
祈りは、届いてしまった。
「……もしかしたら、また生き返れるかもしれませんよ? 私ほら、とっても幸運ですから」
「……ダメだ」
隣に立つ芳乃が、『いけません』と目で語って来た。
聴こえていなくても、分かるのだろう。
俺がどんな風に唆されているのか。
俺自身が、どんな都合の良い夢を見ているのか。
分かってる。
二度目はない。
都合の良い事だって分かってる。
それでもだ。
茄子の為なら命を張れた。
かける事だって出来る。
けれど、捧げる事だけは出来ない。
死に掛けの人を助けるのと、死んだ人を蘇らせるのでは、話が違うのだ。
「……助けて下さい」
「……ああ。俺は茄子を助けるよ。茄子に助けて貰った命も、絶対に」
「……離れたくないんです……」
「…………ごめん……」
「……もっと、一緒に過ごしたくありませんか?」
「……楽しかったよ、この夏」
色々あったし、危険な事もあったけど。
一緒に過ごせて、俺は幸せだった。
一歩。
また一歩。
俺は、茄子の座る墓へと近付いた。
この距離になれば、文字が読めてしまう。
墓石に掘られた名前が、読めてしまう。
月明かりに照らされて、はっきりと、目に映った。
『鷹富士 茄子』
涙で視界が滲む。
ようやく理解が追い付いたとは言え、心の方はついては来なかった。
膝から崩れ落ちそうになる。
目を逸らしていた現実が、一気に襲い掛かって来た。
「……ほら、やっぱり辛いんじゃないですか」
「……ダメだ、茄子」
今、俺の心は完全に弱り切っているだろう。
やろうと思えば、また五感を騙せたかもしれない。
けれど、してこなかった。
それは芳乃が近くに居るから出来なかったのか、それとも彼女自身にはもうそんな意思が無かったのか。
「……ねえ、芳乃ちゃん」
「…………迷える人を導くのが……依田の、役目でして……」
「貴方は、私と一緒に居たくありませんか……? ずっと一緒に……私と……」
耳は塞がなかった。
目を逸らさなかった。
全部、俺は受け止めた。
受け止め切れなかった分は、目から零れ落ちた。
「……私は……私はっ! 貴方と、っ! ずっと一緒に居たいだけなんです……! ねえ、貴方は! 私の事を……!」
水鉢の近くに置かれたそれに、俺は手を伸ばした。
それが全ての始まりだと、皆分かっていた。
それで全てが終わるのだと、俺は分かってしまっていた。
それは、俺が渡せなかったもの。
俺と茄子を繋ぎとめているもの。
俺が……茄子の事を……
「……愛してるよ、ずっと」
自分の指からも、同じ物を抜き取った。
シルバーのペアリングを二つ、芳乃に渡す。
「頼む、芳乃」
「……はいー……っ!」
「私は! 貴方と……イヤです! ねえ、助けて下さい! 守って下さい! 私は…………!!」
「愛してるよ、茄子……っ」
溢れる涙は三人分。
夏の夜に、跡を残す。
「貴方の事がーー」
芳乃が、両手を閉じた。
ただ、それだけで。
俺の夏の、現実逃避の逃避行は、終わりを告げた。
9、夏
「プロデューサーさん、最近元気になりましたよね」
「そうか? 自分では分からないが……」
「うーん……憑き物が落ちた、みたいな表情です」
どんな表情なのだろう。
自分では分からないが、痩せたとかそういうのだろうか。
「……どうだ美穂、俺カッコいいだろう」
「うわぁ……」
あんまりな反応である。
バカな事などするのものでは無かった。
いつも通りの日常だった。
ありふれた現実だった。
ぽかりと空いた穴は、未だに埋まらないけれど。
きっと、沢山の幸せで埋めてゆけるだろう。
八月二十四日、土曜日。
あの日から約一週間。
夏は、まだまだ続いていた。
全てを終えた八月十八日。
身も心も疲れ果てていた俺は、どうやらそのまま墓地で眠りに落ちたらしい。
翌日起きれば、寺に寝かせて貰っていた。
芳乃が上手く話してくれたらしく、住職さんと和やかにお茶を飲んでいたのは覚えている。
それから既に用意されていた券で(文香が用意してくれていたらしい)飛行機に乗り。
東京に戻った直後、俺は疲れ果てて空港で再び寝た。
連続で三回も飛行機に乗って疲れた芳乃も寝ていたらしい。
起きたら文香がステキな笑顔で笑っていた。
図書券をプレゼントしたら普通の笑顔になった。
『厄が、呼び込まれやすかったのです』とは帰りの車内での文香の談。
それは、俺がずっと気になっていた事だった。
俺は346プロダクションに勤めてそこそこ長いが、こんなにも沢山の心霊現象に遭遇した夏は初めてだった。
それは、俺が作り出した『彼女』の性質に起因していた。
彼女は半分は俺の妄想だったが、もう半分は芳乃曰く『幸運そのもの』だ。
そして周りからすれば、空白でもある。
そこには、何もない。
砂浜に掘った穴に海水が流れ込んで溜まる様に、『彼女』が通った跡には厄が流れ込み易かったらしい。
周りの幸運を自然とその身に溜め込み、運や福が無くなった空白に厄が流れ込む。
だから、こんなにも沢山の心霊現象に遭遇したのだ、と。
普段であれば小梅や芳乃が何とかしていたが、この夏に限って芳乃は東京に居なかった為、俺たちにお鉢が回って来ていたのだ。
俺の疑問を見透かした様に、文香は話してくれた。
本当に、この夏は文香にお世話になりっぱなしだった。
七月の半ば辺りからその様な体験をして、一番知識がありそうな文香に相談した時からずっとこうだ。
彼女もまた、俺と『彼女』を監視する為近くに置いておくのに丁度良かったのだろうが。
まぁ、つまり。
今後はもう、こんな不思議な体験を俺がする機会は無いのだろう。
事務所前に溜まった厄は、全て芳乃が祓ってくれた。
これでもう、事務所にデカデカと描かれた『件』の絵も必要無いのだ。
やっと消せる、もうこれ以上専務に頭を下げなくて良いんだ。
とても嬉しい、高垣さんと飲みに行こう。
事務所に戻ると、小梅が迎えてくれた。
既に体調も良くなった様で、『あの子』の残滓が何処かに残ってないか探しに行くらしい。
志希はまた研究室(事務所内の部屋)に篭りっきりらしい。
今度こそちゃんと除霊出来る香水を作るとかなんとか。
皆んな、既に日常に戻っていた。
例年通りの夏に、戻っていた。
だから俺も、そろそろ戻ろうと思う。
目を逸らし続けていた現実に。
誰にも秘密にしていた(何故か文香にバレてたけど)恋人は、もういないんだという現実に。
それと……
「プロデューサーさん、たっくさん書類溜まってますからね?」
目の前に積まれた、沢山の白い紙という現実に。
「そう言えばプロデューサーさん。こんな事、聞いて良いか分からないんですけど……」
「どうした?」
背中をぼきぼきと鳴らしながら伸びをする俺に、美穂は質問を投げかけて来た。
申し訳無さそうに、けれど興味は津々と言った様に。
「……茄子さんの事、好きだったんですか?」
噎せそうになった。
おかしいな、誰にもばれて無いと思っていたんだが。
もしかしたら、その後の反応で察した人もいたのかもしれない。
茄子の葬式、思いっきり俺と同じ指輪付けてただろうし。
「ええっと、その……わたし達、こないだコックリさんやったって言ったじゃないですか」
「そうだな。結局、どんな事を教えて貰おうとしたんだ?」
美穂だけは、あの『コックリさん』がホンモノだったと言う事を知っていた。
降霊された者が彼女達の求めた『コックリさん』なのかどうか自体は定かではないが。
「……プロデューサーさんの好きな人は誰ですかー! って……」
「学生かよ」
「学生ですっ!」
そうだった。
自分基準で話すものではない。
もし俺が学生の時に『コックリさん』が流行していても、多分尋ねたのはそう言う系統のものだっただろう。
「そしたら……『た、か、ふ、じ』って……」
あぁ、成る程。
それは果たして、『コックリさん』がホンモノだったのか。
それとも又は、『彼女』がイタズラして自分の名前を示したのか。
「……『たかふじ』って名前の人なら、日本にいくらでも居るだろ」
「……誤魔化すんですねー、へー……ふぅーーん……」
どうやらお気に召さない反応だった様だ。
「……あれ? プロデューサーさん、指輪着けてませんでしたっけ?」
「外したよ。いつまでも過去に縋ってられないだろ」
嘘である。
正直毎晩デスクに置いた指輪を見て泣いている次第である。
「……もしかしてチャンスある……?」
突然上機嫌になった。
女心は秋の空より分からない。
今は夏だが。
「……夏、今年はまだ暑いなぁ」
「熱い夏にしちゃいましょうっ! 午後ってお休みだったりしませんかっ?」
「あー悪い、旅行行ってくる」
「旅のお供に!」
「結構です」
お昼が過ぎる前、俺は再び島根に戻って来た。
正直午前中から参加させて頂きたかったのだが、どうしても仕事で外せなかった。
納骨自体は既に済まされているとか。
その辺は地域や家系によって異なると言う事は、文香から聞いていた。
そもそも家族の方は、俺と茄子の関係なんて……知ってるか、ペアリングで知られてるわ。
本当に、数々の非礼を詫びなれければ。
本来であれば真っ先に、挨拶に伺うべきだった。
門前払いされたら、それは仕方ない。
誠心誠意謝罪して、非礼を詫びさせて欲しい。
七月七日から、七週間。
今日は茄子の、四十九日だった。
蝉の鳴き声が煩くて、夏の日差しが眩しくて。
纏わり付く様な暑さの中、俺はまた、此処へ来た。
あの夜とは違って、全てはっきりと見えて。
これからきっと、何度も訪れるだろう。
大切な恋人の墓。
俺を守ってくれた人が眠る場所。
大切な恋人を演じてくれた『彼女』の、最期の思い出。
俺が殺した『彼女』が消えた場所。
周りからしたら、非常に危険なものだったかもしれないが。
俺からしたら、『彼女』はこの夏、俺を守り続けてくれた。
俺の大切な恋人は、死後も俺を守り続けてくれた。
だから、もう一度。
「……ありがとう、茄子」
名前を呼ぶ。
大切な恋人の名前を。
「……ありがとう、茄子」
名前を呼ぶ。
鷹富士さんの、名前を。
水鉢の近くには、既に指輪が置かれていた。
あの後芳乃が、置いて行ってくれたのだろう。
……はてさて、困った。
正直、壊された物だと思っていた。
鞄の中には、もう一組のペアリングが入っていた。
八月に入ってからもう一度、彼女にプレゼントしようと思い購入したものだ。
これ、置く訳にはいかないよな。
……茄子なら許してくれそうだな、いやでも家族の方に怒られるわ。
親御さんは、俺を受け入れてくれた。
それどころか、優しい言葉を掛けてくれた程だ。
あの人達を悲しませる様な事はしたくない。
墓に異なる指輪が二つ置いてあったら間違いなく大問題だ。
仕方がないので、住職さんに供養してもらう事にした。
それが良いだろう。
渡す相手がいないのであれば、持っていても仕方ないし。
置く場所が無いのであれば、そうして貰うのが一番だ。
そう思って、鞄に手を伸ばす。
「ん……」
開けた箱には、指輪が一つしか入っていなかった。
「……せめて俺から渡させてくれよ」
今回もまた、結局渡せなかった。
自分の不甲斐なさに呆れる次第だ。
けれど、なんとなく。
自分から取っていく方が、彼女らしい気がした。
……さて、帰ろう。
今度こそ、俺は日常に戻る。
いつも通りの夏に戻る、奇怪な夏は終わる。
心霊体験にも化け狸にも心霊スポットにも地方伝承にも。
海デートにもプレゼント探しにも不審者にもネットのフラッシュにも。
恋人にも縁の無い生活に、戻るとしよう。
ーーとした筈だった。
『はぁ……貴方と言う人は……』
「電波繋がってる? これ幻聴だったりしないか? 信じるぞ? 信じるからな?!」
電車に乗って、空港へと向かっていた筈だった。
途中で寝落ちして、気付けば見た事も聞いた事も無い駅に辿り着いていた。
辺りは既に暗く、何も見えない。
人の気配もしないし、音も聞こえない。
焦った俺は、迷わず文香に電話した。
繋がらなかったら不安に押しつぶされていたと思う。
『……迂闊に動かないで下さい。今、近くに見えるものは……?』
「駅名が書いてあるな……きさ……らぎ……汚くて上手く読めん」
『あぁ……成る程。芳乃さん、島根に旅行に行きたくありませんか……? いえ、先日行ったばかりと言うのは重々承知で……』
俺がいつも通りの夏に戻れるのは、もう暫く先の事になりそうだった。
終
以上です
お付き合い、ありがとうございました
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