【シャニマスSS】P「夏葉、桜、衣」 (18)
むせ返るような桜の匂いだった――。
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はらはらと散る花弁の波濤を受け、髪をなびかせ佇む少女がいた。
彼女の名前は有栖川夏葉。その真っ直ぐに伸びた背筋は、傍らに立つ桜の大樹にも負けぬ威風を備えていて、同時に、その見ようによっては華奢ともとれるシルエットは、辺りを舞う花の一片と同質の儚さを帯びていた。彼女と桜。彼女の存在は完璧なまでに遠景に溶け込んでいる。そう離れた距離でもないというのに、ひとたび気を抜けば、彼女を見失ってしまうかのような錯覚にとらわれる。
俺は、そんな彼女を坂の下から見上げていた。彼女はつい先ほどこの急坂を、我先にと云わんばかりに駆け上がっていった。その姿はまるで童女のようであったのに、今見上げてみれば、そこに立つのは洒脱な麗人である。春の日差しを目頭に感じて、俺は一瞬のめまいを覚えた。
声がふってきた。
「プロデューサーっ! 凄い景色よ! アナタも早くのぼってらっしゃい!」
弾むような声だった。応えて、俺も早足で坂を登る。
隣に立った。彼女の肩には桜片が乗っていた。彼女は随分とラフな格好である。黒のTシャツにデニムパンツ。髪を後ろに束ね、腰にはベージュの羽織ものを巻き付けている。『少し汚れてもいい服。動きやすい服』と今日の服装を指定したのは他ならぬ彼女である。かくいう俺も今日はスーツではなく私服だ。薄い白のストライプシャツにクリーム色のジーンズ。昨年に買ったものだというのに、まだ新品のような着心地である。
「ほら、絶景じゃない?」
俺は慌てて前を向いた。彼女しか見えていなかった。
「そう――だな。これは――」
前を見て、息を呑んだ。目に飛び込んできたのは樹木の群れだった。
桜。桜。山桜。
幾本もの桜が、折り重なるようにして緩やかな斜面に連なっていた。桜。どこを見ても桜である。競い合うように咲き、誇らしげに天に伸び、まるで桜たちがその白色を以って一山を覆いつくさんとしているようだった。
そこで俺は、この場所が台地状の丘陵地であることに気がついた。その台になっている部分を桜が埋め尽くしているのだろう。最初に見えていた桜――大樹にも思えたそれは、その実この樹木の海を構成する一要素に過ぎなかったのである。
「本当に――絶景だ」
ふらふらと、桜の海に足を踏み入れる。
天と地の境界が曖昧になった。
見上げれば、空の八割を桜の花と枝が覆い隠していた。対して下を見れば、同じく八割の比率で花弁が敷き詰められている。残りの二割。空の青と下草の緑で、俺はかろうじて空間を把握していた。
むせ返るような桜の匂いだった。
「夏葉――」
名を呼んだ。また見失ってしまいそうな気がしたのだ。
「なにかしら?」
彼女はあっけらかんとしていた。
この景色に全く気圧されていないようである。
「いや――その、よくこんな場所を知っていたな、と思って」
無理に捻りだした質問ではあったが、真実気になっていたことでもあった。
ここは事務所から車で二時間ほどのとある山里である。桜の名所がある、という彼女の案内でここまでやってきたのだ。穴場というやつなのだろう。ここまで見事な咲き振りだというのに、ひとっこひとりいやしない。
「昨日の撮影の時にね、訊いておいたのよ」
「昨日の――」
「カメラマンの方にね。秘境のようなところを教えてください、って。その通りの場所だったわ」
「ああ――あの時か」
昨日のことである。
都内の公園で行われた撮影。そこで彼女が務めたのが、『和装と桜』というコンセプトの写真集のモデルであった。主役は服と桜で、夏葉の他にも多くのモデルが集められていたが、その中でも群を抜いて夏葉が綺麗であったように思う。もちろん贔屓目も入っている。薄紅を基調にした花柄の小紋友禅。柘植のかんざし。手には巾着。ありありと思い出せる。その撮影の終わり際に、彼女とベテランカメラマンのひとりが話し込んでいた。写真集を出すその出版社は毎年のように何かしら桜にまつわる企画を行っているので、こういう穴場を知っていてもおかしくない。
まったくの余談ではあるがのだが、スタッフと以前から懇意にしていたせいなのか、俺にも衣装が用意されていたそうである。折角だからプロデューサーさんも撮りましょう、と言われたのだが、時間が押しそうだったので丁重にお断りをした。
俺は少し先を進む彼女の、背中越しに問いかける。
「とすると、そもそも夏葉は――」
なんで桜を見に行こうと思ったんだ、と訊こうとした。桜自体は昨日たっぷりと見ているはずである。
だがその質問が口から出ることはなかった。彼女が立ち止まったせいだ。彼女は一本の桜の樹を前にして立ち止まり、幹に触れて上方を見つめて目を細めている。その表情がとても真剣そうであり、かつ楽しそうだったので、俺は訊く気がすっかり失せてしまったのである。野暮な気がしたのだ。
彼女はアイドル。世間にはそれなりに知られている。だから人目につかない所で静かに桜を楽しみたいのだろう、と勝手に納得することにした。
「大きな樹だな」
彼女が触れている樹は、大木ぞろいの周囲の樹と比較してもひと際大きかった。
「ええ。これなら大丈夫そうだわ」
彼女は悪戯っぽい口調で言う。俺は首をかしげる。
「――大丈夫そう?」
何の話だ、と言う前に彼女は動き出した。
「よ――っと」
彼女は太めの枝を選び、手に取り足をかけて、するりと宙に駆け上がった。木登りである。全く危なげのない軽やかな動きであった。彼女は二メートルほどの高さにある頑強そうな枝の上に立ち、俺の方へと向き直った。
「ええ、思った通りだわ!」
俺は驚いて、奇妙な高揚感を覚え、そして不安になった。
「な、夏葉? 大丈夫――なのか?」
「大丈夫よ。あのカメラマンさんからちゃんと聞いているわ。『あのあたりの太い木なら登っても問題ない。ただし絶対に細い枝を傷めないように』って」
「ああ、そうか。公園の樹とかは登っちゃいけないもんな。――って、いやいや、そういうことを訊きたいんじゃなくて」
危なくないのか、と俺は不安になったのだ。
「それも大丈夫。これ以上は登らないもの。危なくなるところまでは行かないわ。それに前に話したでしょう? 木登りなら問題ない、って」
「それはそうだが、しかし――」
その時は彼女の兄が樹の低いところから落ちた話もされている。
「――大丈夫よ。本当にてっぺんまで登りたい木は、他にちゃんとあるんだから」
彼女は、わかるでしょ、と視線で問いかけてくる。
それは狡い。
俺は何も言えなくなった。不安もなくなった。
「……わかったよ。だけど、本当に気をつけてくれよな」
「ええ、もちろん。アナタの期待を裏切るようなことはしないわ」
うふふ、と彼女は笑った。
「アナタもどうかしら?」
彼女は立っていた枝に腰かけ、身体ひとつ分を幹から離した。そしてポンポンと空座になった枝を叩く。登ってこい、ということだろうか。はらりはらりと彼女の隣に花弁が落ちた。
「俺はいいよ」
そう言って俺は、彼女のいる樹の幹に寄りかかって座った。
位置的には隣り合って座っている形になる。だけど高さが違う。上空から見れば隣り合っているように見えるかもしれないが、それだけだ。
俺が樹の側に寄ったことで、向き合っていた形でなくなり、視界から彼女の姿が消えた。代わりに先ほどまで登っていた緩やかな坂道が見える。
声だけが降ってきた。
「あら、どうして?」
「そうだな。万が一に夏葉が落っこちてきた時に、だれか受け止める人が必要だから――かな」
冗談めかして言った。そんな心配はもはや露ほどもしていない。誤魔化しだ。
実際は――多分、この距離感が丁度いいと思っているからなのだろう。もし今が夏ならば俺は間違いなく登れていただろう。だがこの艶やかさが際立つ桜花の世界では、いささか分が悪いように思ってしまう。距離が詰まることに要らぬ気後れが生じてしまう。
それなのに、彼女の存在を感じられなくなるのは御免だと思っているのだから、きっと俺は狡い人間なのだろう。
「そう――なら、仕方ないわね」
彼女は寂しげに、優しげに呟いた。彼女なりに何かを察したのだろうか。
そして一瞬、言葉が消えた。
交信が途絶えた。
視界に映るのは桜だけ。耳に入るのは枝の擦れる音だけ。濃い桜の匂い。風を感じ、ふと昨日の撮影では風がなかったことを思い出した。だから昨日は咲いた桜はあっても、散る桜はなかったのだ。
また俺はたまらず声を出した。
「夏葉」
「なにかしら」
「そこからだと、何が見える?」
少し間を置いて、彼女は言った。
「ちょっと遠くに川と田園。もっと遠くに海」
「他には」
「あと――空も見えるわ」
「そうか。数メートルの高さでも全然違うんだな」
ここからだと桜しか見えない。
「そういうものじゃないかしら」
「そうだな」
「ふふっ、鳥も見えたわ。あれはホオジロかしら」
笑う。
彼女が楽しそうなのが何よりだ。
心の底からそう思う。
「来て――よかったじゃないか。木登りもできたわけだし」
人目につく所では木登りなんてできないだろう。
「……? 別に木登りの為にここに来たわけじゃないわよ」
「え――」
勝手にそうだとばかり思っていた。
思わず、俺は首を大きく傾けて彼女を見上げる。
「大きな樹の話を聞いて、童心に戻ってみたくなったのは間違いないわ。でも目的は――ちゃんと別にあるの」
俺は桜樹を初めて真下から捉えた。
それは花弁の渦だった。
真下から見据える桜樹は視界のほとんどが白で覆われていて、ただその中にポツリと彼女の黒と存在が浮かび上がっているように見えた。白と黒のコントラスト。それが彼女の周囲でだけ淡く滲み、互いの存在を際立たせている。木々から放たれ落ちる花弁は、気がつけば波濤から渦へと変わっていた。その中心に彼女がいる。後ろに縛っていたはずの髪はいつのまにか解け、花弁交じりの風を受けて大きく膨らんでいた。風になびくというより、風で遊び、風と一体になっているようだった。そして彼女の端正な横顔。その表情は力強く、儚く、幽く、矛盾した要素を見る角度の妙によって無矛盾的に内包させていた。
それは、
震えるほどに――美しかった。
「プロデューサー」
彼女が呼びかけてくる。
それで俺は手のひらほどの現実感を取り戻す。
「私がいいと言うまで、目をつぶっていてくれないかしら」
「え? あ、ああ――つぶったぞ」
訳も分からず、言う通りにした。
「私が言うまで絶対に開けちゃ駄目よ」
目を閉じると視界は黒に染まり、代わりに聴覚が鋭くなった。
断続的な風の音。それに呼応する木々の音。
風を切る音がして、それから土を叩く音がして、地面の軽く振動した。彼女が枝から地面へと飛び降りたのだろう。音だけでも綺麗な着地だとわかった。
そして花弁を踏みしめる音。足音だ。その音はしばらく続いて、俺の前で止まった。互いの呼吸音が聞こえる。彼女は俺の真正面にいるのだ。
「ゆっくりと、目を開けてちょうだい」
「あ、ああ」
おそるおそると目蓋を開く。それと同時に彼女が言う。
「プロデューサー、私はね」
目を見開くと、溢れんばかりの花びらが、彼女の腕いっぱいに抱かれていた。
そして、彼女はそれを思いっきり打ち上げた。
「こう――したかったのっ!」
視界が黒から白に染まった。白い花弁。赤みがかった花弁。形の悪い花弁。花弁。花弁。数えきれないほどの花びらが宙に舞い、ひらひら、はらはらと降り注ぐ。咄嗟のことで回避などできない。容赦なく俺は桜の雨を浴びせかけられる。彼女もまた例外ではなかった。腕を振り上げた反動もあり、かなり近くにいたこともあり、彼女も同じく桜に呑み込まれた。
花弁はその数秒を縦横無尽に舞い踊り、俺と彼女を蹂躙して、やがて地に落ち沈黙した。
「夏葉――なにを」
彼女を見た。
彼女は桜にまみれていた。頭のてっぺんから爪の先に至るまで、花弁がかかっていない箇所を探す方が難しい。少し風が吹けば、あるいは身を揺すれば、彼女の身体から桜が舞う。
彼女はまるで――桜の衣を纏っているかのようだった。
「私とアナタって、大切なパートナーよね」
彼女は不意にそう言った。
「ああ」
間髪を入れずに答える。
「この格好、桜を着ているように見えないかしら」
「見えるよ」
考えたことを言い当てられて、少しドキリとした。
満足そうに彼女は頷く。
そして、
「一度くらい――アナタとお揃いの衣装を着てみたかったのよ」
やはり彼女は、悪戯っぽく笑った。
俺は彼女の瞳を覗いた。
そこには、彼女同様に桜の衣を纏った、間抜けそうな男がひとりいた。
「――」
俺は絶句し、全てを理解した。
見立てだ。
彼女は表舞台に立つアイドル。俺は裏方でプロデューサー。仕事で同じ衣装を着ることなどまずない。それは当然ことで、本来ならそんな可能性ひとつ考慮することはない。ないはずだったのだが――そこに昨日の撮影のことである。あの仕事がうまく進めば、半ば悪ふざけとはいえ俺も何らかの衣装を着られるはずだったのだ。
おそらく彼女は昨日の俺とスタッフの会話を聞いていたのだろう。彼女にとって、ひいては放課後クライマックスガールズにとって、コスチュームというのは重要な符丁だ。だから期待してくれたのだろう。せめてコンセプトだけでも、同じ衣装を着て肩を並べられるのではないか、と。
結局その話は流れてしまった。だが、そこで彼女は思いついたのだ。まだ散っていない桜を見て、今日のこの計画を思いついたのだ。
この――桜の衣の見立てを。
俺は上擦った声を出す。
「それだけの為に――ここまで来たのか?」
「それだけよ。信じられない?」
「いや――夏葉はそういうことを本気でする奴だけど」
「ふふっ、わかってるじゃない」
彼女は頷く。
再び彼女から桜が舞う。
だが意味はない。意味なんてないのだ。
同じ衣装を着ることなんかに、本質的な意味は何もない。
ユニットの仲間とは違う。アイドルとプロデューサーの関係で、そんなものは何の意味もないはずなのだ。
だと、いうのに――
「ふふっ……」
俺の口から声が漏れた。
「ふふふっ、あははっ……」
それはやがて大きくなり、抑えきれないほどに膨張して、俺の中を一息に吹き上がった。
「あっはっはっはっはっはっはっはっは――!」
天を衝くような笑い声だった。
嬉しかった。
馬鹿馬鹿しかった。
腹の底から楽しさと誇らしさが湧き上がってくる。
「ぷ、プロデューサー?」
今度は彼女が絶句する番だった。
無理もない。大の大人が笑い転げていたら誰だって言葉を失う。
それでも笑うのをやめられない。だけどこの気持ちは伝えたい。
ならば言葉ではなく身体で語ろう。
俺は、
素早く地面の花弁を掬い上げて、
それを夏葉の頭上めがけてぶちまけた。
「きゃっ!」
彼女が声をあげる。
「お返しだっ」
ようやく俺も意味のある言葉を発せられた。そして彼女から一歩離れて、体勢を整える。彼女とは向かい合う形になった。
彼女はその瞳に闘志を宿らせて不敵に笑った。
「不意打ちとはやってくれるじゃない、プロデューサー」
心底楽しそうに――笑った。
「夏葉ともあろう者が、まさか卑怯だなんて言わないよな」
俺も挑発的な笑みを返す。
「いいわ。アナタとも一度はこういう勝負をしてみたかったもの。私はどんな勝負だって――負けないわっ!」
彼女の一声で、この桜だけの世界に熱が満ちた。
その熱にしばし俺たちは身を委ねる。
彼女が駆け、衣が落ちる。
再びぶつけられて、また衣を纏う。
俺が笑う。
彼女も笑う。
彼女がやり返す。
また駆ける。
ぶつけられる。
息を切らす。
隠れる。
不意をつく。
ぶつける。
笑い転げる。
また、駆ける――。
やがて疲れ果てて、俺たちは最初の場所に戻ってきた。
そして、その一際大きい樹に寄りかかり隣り合って座った。
俺は息絶え絶えだった。
「はあ……はあ……やっぱり体力は……学生の頃みたいには……いかなよなあ……」
彼女の方はまだ幾ばくかの余裕があるようだった。
「そんなこと……ないんじゃないかしら。アナタはまだ全然元気じゃない」
「それだと……いいん……だけど……っ」
彼女も俺も、桜に染まっていた。
髪の奥、服の裏側にまで花弁が入り込んでいる。じんわりと滲み出た汗によって、花弁がいっそうしっかりと皮膚に張り付き、大きく息を吸うたびにぞわぞわとした感覚に襲われる。それがおかしくて俺は吹き出す。彼女もつられて吹き出した。
俺も、彼女も、同じようにして桜に染まっていた。
風が吹き桜が舞う。俺は身震いし、彼女は腰に付けていた羽織物を纏う。風によって舞い上がった花弁が、彼女の上にさらなる衣をかぶせる。
その花弁の軽やかさが、俺の口を軽くした。
「書類仕事、結構溜まってるんだ」
俺はぶっきらぼうにそう言った。
「それなら、早めに帰らないといけないのかしら」
彼女が残念そうに言う。
「いや」
俺は否定する。
「ただの――愚痴だよ」
彼女はきょとんとした顔をした。
そして「愚痴」と鸚鵡返しに呟いて、それから「あら意外」と破顔した。
風がさらに強まって、宙に舞う花弁がその勢いを増した。
「俺は仕事人間だ。いつまでも続けていたいと思うくらい、今の仕事が大好きだ。それでも人間だからな。タスクが溜まっていたら辟易するし、仕事で嫌な気分になることもある」
「――ええ」
清風が吹く。
「俺が日本人だからかな。桜が咲いていたら気持ちも上向くし、その中をちゃんとした格好で歩いてみたいとも思う。夏葉と対になるような格好だって、結構してみたかったんだ」
「――それは、気づいてたわ」
光風が吹く。
「俺は大した人間じゃない。だけどそんな俺にだって矜恃はある。夏葉には負けていたくないし、ちゃんと胸を張って夏葉の隣に立っていたいと思う。それに、夏葉のプロデューサーが務まるのは俺だけだって――そう信じてる」
「ありがとう――」
その刹那、ピタリと風が止まった。
須臾の静寂。
花弁たちはゆっくりと、静かに垂直に落ちていく。
これは先触れだ。
「夏葉は前に、俺になら何でも言える、って言ってくれたけど、俺だってそれは同じなんだ。そう気づいた。愚痴だって、子供っぽい感情だって、口に出すと恥ずかしい信念だって、俺は夏葉にだったら言えるんだ。だから――」
突風――。
この丘に落ちる全ての桜を巻き上げんとする強風が吹き抜けて、言いかけた俺の言葉をさらっていってしまった。花弁はついに踊り狂い、吹雪へと変じる。残りの二割もまた俺や夏葉と同じように白に染まる。視覚も、聴覚も、嗅覚も全てが無効になった。
言葉は完全に消滅した。
そして――彼女は代わりに肩を寄せる。
右肩と左肩で触れあった。
これでもう大丈夫。
これでもう、見えなくとも、見失うことはない。
風は吹けば止まるもの。止まればまた吹くもの。
気まぐれな風はまた停止して、わずかな二割の天地が戻ってくる。
春の日差しを目頭に感じて、ほんの一瞬のめまいを覚える。
それでも俺は息を吐き、眼下をしかと見据えた。
肩の熱を感じる。
視界が開ける。
満開の――桜である。
(了)
終わりです。お目汚し失礼しました。
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