【モバマス】「隣の席の岡崎さん」 (60)

モバマスのSSです
岡崎泰葉以外のアイドルは出ないです
地の文多めです。
苦手な方はご注意ください

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 今年は春一番が吹かなかったらしい。
 そのせいか、バス停に降りたわたしたちを迎えてくれたのは、まだつぼみの残る桜並木だった。合格発表を見に来たときは、満開の並木道を想像したのだけど、まだ春は来ていないようだ。
 バスからはわたしたちと同じように、しわ一つない硬そうな制服を着た子と、スーツ姿のお母さんの親子がぞろぞろと出てくる。
 わたしは自分の格好を見る。他の子と同じような紺のブレザーの制服に、チェック柄のスカート。中学生の制服はセーラー服だったので、なんだかとても大人になったような気分。前々から練習していたから、赤色のネクタイもばっちり結べた。
 校門のところで在校生のお姉さんが受付をしていた。わたしが名前を言うと、一年三組です、と教えてもらった。眼鏡をかけたとても知的そうなお姉さんが、名簿にあるわたしの名前の横にマルをつける。
 そこでお母さんとは別になる。受付のお姉さんとは別のお姉さんが、わたしの胸に小さなバラの造花と『入学おめでとう』と書かれた紙をつけてくれた。
 それからそのお姉さんに連れられ、わたしは一年三組の教室へと入った。半分くらい席は埋まっている。黒板に書かれた座席表に従い、わたしは自分の机に座った。机の上には手書きでわたしの名前と入学おめでとう、と書かれた紙が置いてある。隅にはデフォルメされた猫が可愛らしい寝顔を見せていた。
 落ち着かない気持ちで待っていると、次々とわたしのクラスメイトになる人たちが教室に入ってきた。
 けれど、担任になる先生がやってくるまで埋まらなかった席があった。黒板に書かれた座席表を見ると、その席は岡崎という人のものらしい。
 結局、入学式が終わって、わたしたちが教室に戻ってホームルームが終わるまで、その席は空席のままだった。

 世の中はアイドルブームが訪れていると言われている。
 テレビをつけるとアイドルが一人は映っている。二人や三人も珍しくはない。いまのアイドルブームは第二次アイドルブームと呼ばれている。わたしが子供の頃からだから、もう十年くらいはブームが続いていることになる。
 最初のブームはわたしが生まれた頃、一人のすごいアイドルが出てきたことが始まりと言われている。それは彼女の引退で数年で終わった。それを見ていた女の子たちがアイドルに憧れ、わっとアイドル志願者が増えたのがいまの第二次アイドルブームと言われている。
 けど、わたしに言わせればいまは第三次アイドルブームだと思う。五年くらい前から出ているアイドルの性質が変わったように思う。わたしと同年代の子も増えた。だれそれに憧れてアイドルになった、という子も少なくなってきたような気がする。
 その辺りで区切って考えるべきだと思うのだけど、そういう話は聞かない。確かにいまのアイドルは多い。年々新人が増えているけど、質が落ちていないから最前線の人数は膨れ上がるばかりだ。
 だからと言って、十把一絡げにしてしまうのはどうなのかなあ、とわたしはアイドル雑誌を読んでて思う。
 わたしも子供の頃はアイドルになりたかった。テレビに出ているきらきらしている女の子の仲間に入りたかった。
 でも、何度かオーディションに書類を送ってかすりもしなかった。いつのまにかわたしは応援する側になっていた。友達とするような、昨日見たテレビに出ていたアイドルのだれそれの話だけは物足りないくらいに。

 だから、わたしの学校に、同じクラスにあの岡崎泰葉がいると知ったとき、思わず飛び跳ねてしまったくらいだ。
 だってあの岡崎泰葉だよ? 芸能人だよ?
 それなのにわたしの友達ときたら知らないというのだ。たしかに、テレビに出ずっぱりだったのは子役の頃で、わたしたちが物心つく前のことだ。テレビに出ている子役の名前なんて、興味すらなかった。
 彼女もずっと売れっ子というわけじゃなく、地上波のテレビにはずっと出ていない。調べたらここ最近はモデル部門にいるらしい。それもメジャーな雑誌にはほとんど載っていない。
 だから、わたしたちくらいの年齢になると、知らなくて当然なのかもしれない。わたしだって、この趣味がなければわたしも知らなかったことだろうと思う。

「岡崎泰葉って知ってる?」

 この前、台所で大根をおろしているお母さんに聞いてみた。

「誰? また新しいアイドルの子?」
「違うよ。昔子役やってた……」

 お母さんが思い出そうと首を傾げる。手が止まっているので、大根をおろすのをわたしが引き継ぐ。ごりごり、ごりごり、とおろしている間に、お母さんがハンバーグの仕込みをはじめる。コンロに火を入れたときに、お母さんが、あっ、と言った。

「ああ、あの子。よく覚えてるのねえ」
「思い出した?」
「うん。あんたは覚えてないかもしれないけど、あの子が出てたコマーシャルの、なんとかステッキ、ほしいほしいってわがまま言ったよ」
「覚えてない」

 そんなことあったのだろうか。自分ではあまりわがままを言わない手のかからない子だったと思っているので、そんなことを言ってお母さんを困らせた記憶がない。

「それで誕生日に買ってきてあげたら、いらないって。飽きちゃってたのね」

 そのことも覚えていない。なんともわがままな話だ。

「そのなんとかステッキはどうしたの?」
「ああ、あれ。あげちゃったわよ。いとこの――」

 と、お母さんは親戚の子の名前をあげた。わたしよりも二つ年下の子だ。その子はお父さんの転勤に合わせて引っ越してしまったため、もう何年も会っていない。

「その泰葉ちゃんがどうしたの?」

 お母さんは親しげにその名前を口にした。子役をやっていた岡崎泰葉のことはまったく記憶になかったけど、その響きはたしかに聞いた覚えがあるような気がした。
 同じクラスにその岡崎泰葉がいると話すと、お母さんは、サインもらってきてよ、となんともミーハーなことを言うのだった。

 そんな会話から数日して、クラスで席替えがあった。
 その日は岡崎泰葉は休んでいて――彼女は月に何度か休むことが珍しくなかった――本人がいないから遠慮なく、周りに交渉してこれ幸いと彼女の隣になった。
 これまでは席が離れていたから話す機会なんてなかったけれど、隣同士になったら自然と挨拶できるし、もしかしたら友達になれるかもしれない。
 サインならわたしだってほしいけど、でも、それってミーハーっていうか、なんていうか迷惑なんじゃないかって思う。芸能人だってプライベートの時間は大事だって思うし。
 なんていうか、こう、自然と。そう自然と友達になって、仲良くなったら会話の流れでもらえたらラッキー、みたいな。うん。

 次の日はいつもより早く家を出た。教室につくとまだ誰も来ていなかった。よし、と頷いて新しい席に着く。先に席に着いていれば挨拶しやすいような気がしたのだ。
 教室に入ってくる人にチラチラを目線を送りながら待つ。みんなが登校してきて、わたしの席にも、入学してからよく話す友達たちがやってくる。昨日見たテレビの話なんかをしていると、予鈴のチャイムが鳴った。周りにいた友達が自分の席に戻っていく。今日もお休みなのかな、と思ったところに彼女が入ってきた。
 何人かはちらりと彼女に目をやったけれど、挨拶をすることはなかった。教室はすっかり静かになっていて、声を出しにくい雰囲気がある。
 彼女は席に着こうとして、ぴた、と足を止めた。目線の先には、昨日まで彼女の席だった机と、そこに座って突っ伏している男子がいる。
 あ、そうか。席替えしたこと知らないんだ。

「岡崎さんっ」

 わたしは岡崎さんに向かって手を上げた。そんなに大きな声ではなかったけれど、岡崎さんの大きな瞳がわたしに向けられる。

「こっちこっち」

 そう言ってから、わたしは左隣の机を指さす。

「おはよう。席替えしたの。岡崎さんの席はここ」

 席に座った岡崎さんに言う。横から見ると姿勢がとってもまっすぐに整っている。

「そうなんだ、ありがとう」
 岡崎さんが小さく笑みを浮かべた。
 ありがとう、だって。うわあ、お礼言われちゃった。どうしよう。なんて綺麗な声なんだろう。わたしたちの粗野な声とは違う、清潔感のある声。芸能人なんだなあ、なんてミーハーなことを思う。
 隣の席ってことはいろいろ話しかけたりする機会もあるよね。どうしよう、お昼休みの時間に、一緒にお弁当食べようとか誘っちゃおうかな、迷惑かな。
 そんなことを考えているうちにホームルームが終わる。担任の先生の話なんて右から左だ。
 もしかしたら、教科書忘れたから見せて、みたいなこともあるかもしれない。うん。岡崎さんは休むこともあるから時間割を間違えたりするかも。
 そうしたら自然な形で仲良くなれるかなあ、なんて考えていると数学の先生が教室に入ってきた。

 あれ、と思って教室の前にある掲示板に貼られた時間割表を見る。
 一時間目が数学なのは木曜日だ、と確認したところでようやく今日が水曜日じゃないことに気がつく。あっ、と声が出そうになった。
 なんでだろう、昨日は毎週楽しみにしている番組を見て、また水曜日まで待たなきゃいけないのか、なんて思ってたはずなのにどこで間違えたのか。
 でも、教科書を鞄に入れるとき、見ていたのは水曜日の時間割のような気がする。気がするっていうか、そうだから鞄の中に数学の教科書がないのだけど。
 みんなが教科書を開くなか、わたしは悩んで身体を岡崎さんに寄せた。うわっ、髪の毛さらさら。思わず触ってみたくなる衝動を抑える。
 なんだかいい匂いもする。なんだろう、どこかで嗅いだことのある匂いだった。
 岡崎さんがわたしに目を向ける。鼻とか口とかとても小さくてお人形さんみたい。

 先生に聞こえないように声を小さくして言う。

「教科書忘れちゃった……」

 顔が熱くなる。高校生にもなって恥ずかしい。岡崎さんは何度か瞬きをして、何も言ってくれない。あれ、お前に見せる教科書はないってこと?

「……よろしかったら見せていただけないでしょうか?」

 へりくだって言うと、岡崎さんは、あ、の形に口を開け、それから教科書を右側、わたし側に開いておいてくれた。ありがとう、でもちょっと遠い。

「……ありがとうっ」

 でも、見せてもらうわたしに文句を言えるはずもなく、わたしは自分の席を岡崎さんの席にくっつけた。やっぱりいい匂い。知ってるような気がするけど、なにかの香水だろうか。
 わたしの席だけ列から異様にはみ出している形になる。当然先生も気がつくわけで、目が合ってしまったわたしは、ヘビに睨まれたカエルのように身を固まらせる。
 でも、先生は何も言わずに小さくため息だけついて授業を始めてくれたので、わたしはほっとした。
 わたしは黒板の内容をノートに書き写していく。もちろん数学のノートも持ってきていないから、日本史のノートの後ろを使う。ページの一番下まできて、ノートをめくったとき、唐突に気がついた。なんでわからなかったのだろう。
 ――そっか。岡崎さんが使ってるシャンプー、わたしと一緒なんだ。

 よし、今日、今日こそ言おう。
 席替えをしてから早くも一週間以上が過ぎていた。
 わたしは黒板の上にある時計の針を見ながら、決意を固め直す。チャイムが鳴ればお昼休みだ。ちらりとわたしは隣の岡崎さんに目を向ける。真剣なまなざしで先生の話を聞いている。わたしなんて先生が黒板に書いた内容を書き写したら手を止めてしまったけれど、岡崎さんは先生の話をノートに書き込んでいた。
 授業の進みが早かったからか、先生がチャイムよりも先に授業を終えた。騒がしくすると怒られるので、わたしたちは教科書などをしまいながら一息つく。ひそひそと話し声がいくつも聞こえてきた。
 一足遅れてチャイムが鳴る。日直の号令で礼をして、先生が教室を出て行くと我慢していた分が吹き出たように一気に教室が騒がしくなった。
 よし、とわたしは椅子に座らず、立ったまま岡崎さんに向き直る。岡崎さんはそんなわたしのことなど目に入っていないように、着席して鞄からお弁当箱を取り出していた。ピンク色のシンプルなお弁当箱。芸能人効果だろうか、なんの変哲もなさそうなお弁当箱がとても高価なものに見える。
 一緒にお昼食べよう。
 そう言うのがわたしのここ一週間の目標だった。
 いや、何を悩むことがあるのだろうか、と自分でも思う。たった一言だ。まさか嫌だというはずもないだろう。たぶん……きっと。
 アイドルにサインをくださいとお願いするわけじゃない。クラスメイトに一緒にご飯を食べようと言うだけなのだ。
 話しかけたこともない意中の男子ならともかく、毎日挨拶を交わし、ときには世間話もちょっとだけするような相手なのだ。
 岡崎さんと一緒にお昼食べたいんだよね、と友達に話せば、食べればいいじゃん、と言われるような話なのだ。
 小学校のとき、理科の授業で習ったことを思い出せ。物は動き出すときに一番エネルギーを使う。一歩踏み出してしまえば後はなるようになる。ええい転がれ。

「あの……っ」

 声が少しうわずってしまった。恥ずかしい。しかも岡崎さんは聞こえてないのか、鞄からペットボトルのお茶を出して飲んでいる。

「岡崎さんっ」

 そうしてようやく岡崎さんがわたしを見てくれた。お弁当の蓋に伸ばした手が止まる。

「一緒にお昼食べよう」
「……一緒に?」

 岡崎さんが小さく首を傾げる。あ、なんとなく言いたいことが伝わった。ここ一週間は隣同士でお昼を食べてる。それって一緒に食べてると言えば、一緒だ。
 いや、そういうことじゃなくて、ええと、なんて説明しよう、もういいや、とわたしは鞄を掴んで、空いている岡崎さんの前の席に座った。いつもこの席の男子は仲間同士で食べていて昼休みの間は戻ってこない。
 鞄からわたしもお弁当を取り出す。黄色いお弁当箱で、大きさは岡崎さんのものと同じくらい。だけど、こうして並べてみるとあまり可愛くない。

「岡崎さんはお弁当、自分で作ってるの?」
「うん。余裕があるときだけだけど」
「そうなんだ」

 やっぱりと思う。岡崎さんはお弁当の日とパンの日が半々くらいだ。わたしのお弁当は毎朝お母さんが用意してくれる。岡崎さんはそうじゃないから、コンビニのパンの日があるのだとにらんでいた。パンの日はサンドイッチとメロンパンとかの菓子パンの組み合わせだけど、今日はその余裕のある日だったみたいだ。

「偉いなあ。わたしなんていつもお母さんに作ってもらってる」
「そんなことないよ」

 お母さんは昨日の晩の残り物を使うから、わたしの嫌いなものでも平気で入れてくる。そのくせ残すと怒るのだから理不尽だ。
 自分で作れば好きなものだけ入れられる、と考えると悪くないのかも、と思うのだけど朝の睡眠の魅力にはかなわない。やっぱり岡崎さんは偉いなあ、と思うのだった。
 わたしはにんじんを口に入れる。息をしないようにして素早く噛んで飲み込む。目尻に涙が浮かんだ。にんじんを入れないで、とお母さんに抗議しても、昔は好きだったじゃない、とかいいながら詰め込んでくる。ひどい。
 でも、今日はこれだけ我慢すればあとは大丈夫。

「私は経験だと思っているから」
「経験?」

 口直しにペットボトルに手を伸ばす。アップルティーの香りで気持ちを落ち着かせる。

「推理小説を書くのに、実際に人を殺したりする必要はない、って話はよく聞くよね」
「うん……たぶん」

 聞いたことはないけど、それはそうだろうと思う。当たり前だ。

「演技をするときに大切なことは想像力だと思う。人はすべてのことを経験できるわけじゃないし、経験してはいけないこともあるから」

 岡崎さんが芸能人だということをわたしが知っている、ということは話の流れで岡崎さんに話していた。というかわたしの口が滑った。それでも岡崎さんは嫌な顔をしなかったのだから優しいと思う。

「でも、経験をしなくていいというわけじゃない。経験という積み重ねがなければ、どうしても薄っぺらくなってしまうときはあると思う」
「お弁当も?」
「うん。お料理をしたことのない人がするお料理の演技はどうしても嘘くさくなってしまうから」

 そうじゃない人もいるけどね、と岡崎さんは付け加える。なんだか実感のこもった言い方だった。
 話を聞きながら、わたしは感心しっぱなしだった。わたしが偉いと思ったのは、ただお弁当を自分で作っている、ということだけで、岡崎さんが何を考えてそうしているのかなんてまったく考えもしなかった。
 朝起きるのがつらいからお弁当を作りたくない、なんて考えているわたしがひどくちっぽけな人間に思えてしまう。

「お弁当一つにそこまで考えたことなかったなあ」

 そう聞いて一つ納得できることがあった。
 岡崎さんのお弁当の中身を見たとき、硬そう、と思ったのだ。なんでそう思ったのかわからなかったけれど、それはきっと練習だからだ。
 わたしが思ったのは見本みたいということだったのだろう。綺麗に並べられたおかずは料理の雑誌に載っているものをそのまま再現したようだった。その見本から、レストランの店頭に並べている見本を連想して、硬そう、と感じたのではないだろうか。
 もちろん、硬いなんてことはなく、岡崎さんは普通にお弁当を食べている。
 岡崎さんは嫌いな食べ物とかなさそうだな、と思った。

 家に帰ったわたしがやったことは、空っぽのお弁当箱を洗い、お母さんに次の日のお弁当を作りたいと言うことだった。
 どうしたの、とお母さんに聞かれたけど、笑ってはぐらかした。その日は夕ご飯の手伝いをして、お弁当は明日の朝、今日の残りと卵焼きを作って入れることになった。
 さあやるぞ、という気になっていたわたしは、物足りなくなってしまってお風呂掃除も買って出た。

「そんなことしてもなにもでないよ」
「ううん、いいの」

 お小遣いもらえたりしないかな、と考えなかったわけじゃないけれど、とにかく綺麗になったお風呂に一番に入る。
 家でやることといったらアイドル番組を見るくらいのわたしだから、こんな何でもないことでもちょっとした達成感がある。
 汚れを落として湯船につかりながら、そういえば同じシャンプーなんだよなあ、と思い出す。洗ったばかりの髪から香る匂いが、岡崎さんのことを思い出させる。
 このシャンプーは大手のメーカーのものではない。衛星放送でやっているアイドル専門チャンネルのCMに流れていた、あまり聞いたことのないメーカーのものだ。アイドルが歌うタイアップ曲がとても好きだった。
 だいぶ前に見たものだったから、歌詞は覚えていないけど、曲はすんなりと思い出せた。鼻歌を歌っていると、そのときの映像が浮かんでくるのだけど、綺麗な黒髪だったこと以外は思い出せない。
 岡崎さんも見たのかな、それとも誰かの関係者だったのかな。
 わたしも岡崎さんと同じように髪は短い。いままではそっちの方が楽だったからそうしていたけれど、岡崎さんを見ているとあのさらりと流れるような髪に比べ、自分のものがひどくみすぼらしいものに思えてしまう。

「少し、伸ばそうかな……」

 そうすればもう少し女の子らしくなるのだろうか。

 翌朝、わたしは目覚まし時計のけたたましい音にたたき起こされた。気持ちよく二度寝に入ったところで、携帯のアラームが邪魔をする。
 簡単に身繕いしてから自分の部屋から洗面所へと向かう。ぱしゃり、と顔を洗うと、冷たくて一気に目が覚めた。なにもこんな勢いよく水を当てなくてもいいのに、と寝ぼけていた頃の自分に文句を言う。
 顔を拭いて、台所に入る。すでにお母さんが朝ご飯の用意をしていた。お父さんがパン派だからトーストに目玉焼き。余った卵がわたしのお弁当に使われる。
 ふあ、とあくびをしているとお母さんに鼻で笑われた。やけどしないようにね、と脅される。はじめて包丁を握る箱入り娘じゃないのだから、心配しないでほしい。
 あれやこれやと手ほどきを受けながら卵焼きを作る。お母さんの料理の手伝いをたまにする身としては余計なお世話である。
 ちょっと形の悪い卵焼きができあがった。昨日の余った白米をお弁当箱に半分つめ、もう半分に卵焼きを入れて、あとのおかずは昨日の残りだ。これも見た目にダメ出しをいただきながらお弁当の隙間を埋めていった。
 余った卵焼きはそのままぱくりと食べる。

「おいしい」
「自分で作ったからでしょ」

 言われてみるとそこまでおいしくないような気がしてきた。
 なんにせよ、わたしの自作のお弁当ができあがった。半分くらいはお母さんの作ったものだけど、作るという行為が大事なのだ。そう、経験だ。うん。

 制服に着替えて学校に行こう、という段階で妙に不安になって鞄の中を確認したら、数学の教科書とノートが入っていなかった。宿題をやったまましまい忘れていたらしい。危ない危ない。
 早起きしたからか、いつもより早めに家を出ることができた。バスも普段と違って渋滞に捕まることもなく、すんなりと学校に着くことができた。
 学校の前の桜並木はすっかり緑色になっている。満開の桜に見とれていたのも、もう懐かしいような気がした。
 早めに学校に着いて、身も心も引き締まって授業を受けられる、というわけではなく、ときおり襲ってくる眠気はいつもよりも強烈だった。それと戦いつつ、なんとかお昼休みまで終えると、わたしは勝手知ったるという感じに、昨日と同じように岡崎さんの前の席に座って、岡崎さんと向かい合ってお弁当を広げる。
 岡崎さんのお弁当は昨日とまったく別物のメニューだった。ご飯も今日は梅干しじゃなくふりかけがのっている。

「む、卵がかぶってる」
「え?」

 卵焼きは岡崎さんのお弁当の中にもあった。他にはブロッコリー、ミニハンバーグなどが、お手本のように綺麗に詰まっている。卵焼きの形も岡崎さんの姿勢のようにぴしっと整っていた。
 わたしの方が明らかに見劣りするので切り出しにくいが、このために早起きしたのだ。

「今日、わたしがお弁当作ってきたんだ」
「そうなんだ」
「昨日の残りものだから、作ったのは卵焼きだけなんだけど」
「それでも偉いと思う」

 岡崎さんはそう言ってくれたけど、わたしはあんまり偉いとは思わなかった。普段からお弁当を自分で作っている岡崎さんに言われても、悪く言えばお世辞にしか聞こえない。
 でも、それは本題ではなくて。

「交換してみない?」
「交換?」
「漫画とかでよくあるじゃん。お弁当のおかずを交換するの」

 岡崎さんはあまりそういうのを見ないのか、首を傾げる。まあ、よくよく考えてみれば、わたしもお弁当のおかずを交換ってやったことがない。小学校も中学校も給食だった。遠足とか運動会ではお弁当を食べたけど、誰かと交換なんてした記憶がない。

「私のはその、おいしくないと思うから……」
「おいしくないの?」
「そういうわけじゃないけど、好みとかも……」
「大丈夫だって。こういうのも経験だと思わない?」

 昨日の岡崎さんの言葉を使って、わたしは説得する。なにもいま思いついたわけではない。昨日、岡崎さんの話を聞いて、わたしもなにかやってみなくちゃいけないという気になったのだ。
 こんなこと何かの役に立つとは思わないけど、そういうことじゃないと思う。あと、岡崎さんのお弁当を食べてみたかった。

 わたしは岡崎さんのおかずを物色していく。ブロッコリーは嫌いだ。あのいかにも野菜ですって見た目や、くきの食感が好きになれない。ミニハンバーグは好きだけど、これを取っちゃうのは申し訳ない。

「卵焼き、もらっていい?」
「えっ? 卵焼きにするの?」
「あ、そっか」

 つい自分が好きなもの、って選んでたら自分のおかずにも卵焼きがあるのを忘れていた。でも残ってるインゲンもちょっと苦手だ。

「卵焼きにする。いいよね?」
「う、うん……」

 許可をもらって、岡崎さんのお弁当箱から卵焼きを一ついただく。本当に綺麗な形をしていて、わたしの卵焼きとは大違いだ。

「岡崎さんも」

 わたしは自分のお弁当箱を岡崎さんに寄せる。岡崎さんはまだ迷っていたようだけど、経験、経験、と言うと渋々とお箸を伸ばした。その先には一口サイズにカットされたカボチャ。
 あ、と声が出そうになる。お母さんの作る煮カボチャは好きだ。昨日、おかわりしてしまったせいで一個しか入ってない。ああ、持って行かれちゃう。

「じゃ、じゃあこれで……」
「それでいいの?」

 岡崎さんのお箸はカボチャの先の卵焼きを掴む。わたしとしては煮カボチャが残っているからいいんだけど……。

「じゃあいただきます」
「……いただきます」

 お互い交換した卵焼きを口に運ぶ。なんだか食べ比べみたいで気恥ずかしい。

「柔らかい」
「え?」
「ううん、なんでもない。おいしいよ」

 硬そうという変なイメージがあったからか、口の中に広がった柔らかい感触にびっくりしてしまった。わたしはもう少し味の濃い方が好みだけど、ふわふわした食感が、ああ卵焼きだなあって思う。作ったばかりの温かい卵焼きも食べてみたくなる。

「わたしのは味が濃いかも」

 卵焼きはわたしの好みに合わせて少し濃いめに作ってある。岡崎さんの卵焼きはその逆だと思うから、あまり岡崎さんの好みに合わないと思った。

「……ちょっとね。でもこういう味付けもいいと思うよ」
「うん、ありがとう」

 次に作るときは薄味にしようかな。なんだかそっちの方が上品な気がする。

 それから他愛もない話をしてお弁当を食べた。岡崎さんはドールハウスを作るのが趣味らしい。ドールハウスというものがぴんとこないでいると、岡崎さんが携帯で画像を見せてくれた。
 洋風の建物がテーブルの上に置かれていた。果物に包丁を縦に入れたみたいに、建物の中が見えるようになっている。建物の中は小さな家具が並べられていて可愛らしい。

「これって中にお人形さんとか置いたりするの?」

 建物の最上階である三階にはベッドの置いてある部屋もある。ドールハウスというのだから、人形が主役になるのだろう。
 わたしが訊ねると岡崎さんは小さく苦笑いする。

「まだどんな子にしようか決めてないんだ。時間があるときにお店とか見て回ってるんだけど」
「なるほど……」

 わたしは、ほうほう、とわかったように頷く。
 住む子が決まっていないから、こんなに綺麗に整頓されているんだ。
 なんだかその家はとても寂しそうに見えた。

 サンドイッチを食べ終わり、メロンパンを袋から取り出す岡崎さんに、わたしは自分のお弁当をそっちのけで語りかける。

「それでね、その子がすごいの! なんていうか、他の子と違って緊張していないっていうか、しているんだけどそうじゃないっていうか……ううん、とにかくきらきらしているのっ」

 息を荒くして言い切ってから、あっ、と気づく。またやってしまった。
 わたしの話を聞いていた岡崎さんが少し困った顔をしている。

「えっと……ごめん」

 つい気持ちが盛り上がってしまって、勢いのまま何も考えずに喋っていた。アイドルのことを考えたりすると、胸の奥からがーっと何かがきて、それがそのまま口から出てしまう。
 最近は特に気をつけていたのだけど、昨日、衛星放送でやっていたアイドル専門番組に出ていた子がすごかった。そのときの興奮が蘇ってしまった。
 岡崎さんは食後のデザートみたいにメロンパンを食べている。今日はお弁当じゃない日だ。コンビニの袋から出てきたのはサンドイッチが二つとメロンパンだった。
 わたしはたまたま自分で作ったお弁当。今日の卵焼きはうまくいった自信があったので、岡崎さんに食べてもらうと、おいしいと言ってもらえた。
 最近はずっと岡崎さんとお昼を食べている。それで気がついたのだけど、岡崎さんはお弁当じゃない日は決まってサンドイッチだ。具は日によって違うけど、どこのコンビニで買ってくるのかも決まっているみたいで、一月もあればどんな順番なのかもわかる。
 それから決まって菓子パンが一つ。これはメロンパンとそれ以外の菓子パンが交互。メロンパンが続く日はないし、菓子パンが続く日もない。
 わたしはお弁当に残っていたままだった煮カボチャにお箸を伸ばした。お母さんの作ったものほどじゃないけど、おいしい。

 食べ終えたわたしはお弁当を鞄にしまう。岡崎さんはまだメロンパンを食べていて、自然と沈黙してしまう。何か話せる内容はなかったかと頭の中を探す。アイドル以外の内容があまりに少なくて頭が痛くなりそうだった。

「あっ、そういえば、文化祭、喫茶店だって」
「そうなんだ」

 昨日、岡崎さんはお仕事があったみたいで学校を早退していた。授業が終わったあと、文化祭のクラスの出し物をどうするか話し合うホームルームがあったのだ。
 誰からともなく喫茶店という意見が上がり、他に意見もでなかったので喫茶店に決まった。飲食系は学年に二つまでだから、喫茶店は通らないかもしれない、と先生には言われた。もしそうなった場合はまた放課後にホームルームを行うそうだ。
 そんな昨日の話をしたのだけれど、岡崎さんは考え事をしているように話半分という様子だった。
 肩が落ちて、ため息が出そうになった。
 昨日見たテレビの話だけをしようと思っていたのに、つい盛り上がってしまった。
 岡崎さんの前ではあまりアイドルの話をしないように気をつけていたのに。

 今は第二次アイドルブームと言われている。小さな女の子はみんながアイドルになりたがるし、わたしだって昔はそうだった。
 テレビで見るのはアイドルばかり。
 歌手みたいに歌が上手くて、女優みたいに演技力があり、芸人みたいに話が面白く、モデルのように綺麗。
 それがアイドルなのだ。昔のトップアイドルと比べると見劣りするかもしれないけれど、全体的な質は間違いなく上がっている。
 それ自体はいいことだと思うのだけど、よくない部分もあったりする。
 アイドルとそれ以外を比べて、下に見る人がいる。
 歌は上手いけどアイドルのように可愛くないから歌手をやっている。
 演技はできても踊れないから女優をやっている。
 綺麗でも歌えないからモデルをやっている。
 そんなことを言う人もいる。

 この間、可愛いんだからアイドルやればいいのに、とテレビの番組で言われている女優がいた。彼女は笑ってはぐらかしていたけれど、わたしは見ていて面白くなかった。
 アイドルは可愛いからってちやほやされているだけ、と言う人だっている。
 岡崎さんは他がどうとか、そういう話をしたことはない。自分のことにまっすぐな人だと思うから。……たぶん。
 心の中では面白くないかもしれない。言わないだけで、アイドルのことをよく思っていないのかもしれない。
 そう思ったから、あまりアイドルの話はしないようにしていたのに。
 普段から友達に熱くなると周りが見えなくなるから気をつけろと言われていたのにやってしまった。
 今度こそため息が出そうになったとき、岡崎さんがぽつりと言った。

「アイドルを見るのって、楽しい?」

 一瞬、どう返事するか迷った。
 だけど、わたしの答えはすぐに決まった。嘘を言っても仕方ない。というか、今更楽しくないよって言ってもばればれだ。

「うん。楽しいよ」

 わたしは昨日見つけたアイドルのことを続けて話そうとして、言葉を飲み込んだ。岡崎さんが聞きたいのはそういう話じゃないと思う。

「わたし、小さい頃はアイドルになりたかった。テレビに映るアイドルはきらきらしていて、とっても楽しそうにしてた。わたしもアイドルになればあんなふうになれるんだ、って思ってテレビの前でマネして踊ってみたりしてた」

 踊っていたら転んで、テレビ棚のガラス戸を割ってしまい、お母さんに怒られて以来やらなくなったけれど。

「アイドルにはなれなかったけど、テレビでアイドルを見るときの気持ちは変わってないと思う。やっぱり歌を歌ってるときが一番かな。本物のライブには行ったことないけど、テレビで見ていても、胸がぎゅってなって、でも苦しくないの。ふわふわするような気持ちになって、ああ、きらきらしてる、素敵だなって気持ちがすっと心に入ってくる」

 上手く言葉にできていないのはわたし自身がよくわかっているのだけど、岡崎さんは真剣な眼差しでわたしの話を聞いてくれた。

「だから、楽しいんだと思う。見ているだけだ、って言う人もいるけど、確かにそうなんだけど、でもわたしはスポーツしたり、音楽したり、本を読んだりするのと違わないと思う」

 わたしはアイドルが好きだ。頑張れって応援して、きらきらしている姿に見とれて、素敵な笑顔を見るとわたしも笑顔になる。
 ただ画面を見ているだけで、何も残らないのかもしれない。
 でも、わたしの心は、わたしの身体がスポーツをするより、音楽するより、本を読むよりも、大きく動いてくれる。

「えっと、なんて言ったらいいかわからないけど、でも、とにかく、楽しい」

 たぶん、何かの部活をやっていたら、わたしはそれを楽しいと思ったのだろう。岡崎さんにこういうことがあったと楽しげに話したのかもしれない。
 でも、こんなに自分の気持ちを話そうとは思わなかっただろう。

「うん。わかったよ」

 岡崎さんは小さく笑って、残っていたメロンパンの最後の一切れを口に運んだ。
 そこで都合よくチャイムが鳴った。わたしはさっと席を立ち上がって、自分の席に戻る。
 岡崎さんの見せた笑みは小さなものだったけれど、今まで見た笑みよりもずっと素敵だった。
 わたしは岡崎さんに見えないように息を深く吸う。
 あの笑みが、わたしの心を受け止めてくれたような気がして、不覚にも目が潤んでしまいそうだった。

 英単語帳を見ながら、単語カードに書き写していく。来週の小テストの範囲だった。
 中学生だった頃は、単語テストがあっても前日にぱらぱらと単語帳を見ていればいいやという人間だった。高校に入ってもそんな感じでいいかなと思っていた。
 でも、わたしの隣で休み時間の間も勉強している人を見ると、わたしも頑張らなきゃ、って気持ちになる。
 だから、家に帰って宿題ついでに、単語カードを作ったりする。
 もともと、不真面目な人間だから、さあ勉強するぞ、とはならない。お風呂からあがって、テスト範囲を単語カードに書いたら終わり。
 たったそれだけでも、終わりに近づいてくると、身体がむずむずして、生で見るのを我慢して録画している番組を見たい気持ちが大きくなる。

「よし、終わりっ」

 机の上に芯が出たままのシャーペンを放り投げ、わたしはテレビのリモコンを掴む。
 わたしが小さかった頃はリビングにあった液晶のテレビ。何年か前、税制なんちゃらでテレビが高くなるからその前に買ってしまおう、とお父さんを説得して、もともとリビングにあったテレビがわたしの部屋にやってきた。
 それから少しして、高校の入学祝いに、とお願いしたのはレコーダーだった。これで裏番組に出ているアイドルも見逃さなくて済む。
 困ったのは容量で、あれもこれもと録画していくとすぐにいっぱいになってしまう。とにかく見ては消して、本当に気に入ったのだけ残している。

 はじめて容量がいっぱいになったとき、泣く泣く録画した番組を消していった。でも、一つだけこれはと選んだものがある。レコーダーを買ってもらったばかりの頃に録画した、新人アイドルの紹介番組。
 それに出ていた子の一人が夏には期待の新人として取り上げられることが増えた。わたしははじめからこの子が来るってわかってましたよ、と人に自慢したい気分になる。
 またそろそろ録画した番組の整理をしないといけない。本当に気に入った番組以外は見たら消しているのだけど、それでも貯まっていく番組が容量を圧迫している。どうしようかな、と思いつつも今日の録画分を再生し始めた。
 わたしが毎週楽しみにしている、新人アイドルの紹介番組だ。前後編で二週間やる番組で、前半は出演する新人アイドルの紹介と、番組テーマ曲をそれぞれに歌ってもらう。後半はバラエティっぽくミニゲームで対決、というものだ。
 衛星放送でやっているあんまり有名じゃない番組だけど、本当にこれがアイドルとしての初お披露目、という子も多くて面白い。お父さんが野球を見るために放送の契約しているのだけど、その内容の中にこのチャンネルも入っていた。地上波の番組に出るような大成したアイドル以外の姿も見られて、本当にありがたい。
 この番組で見たきり、他で見ることのない子も多い。だけど、その中に混じって、この子は、という子が確かにいる。後々、地上波に出るような子は、最初から輝いている。
 そういう子は、一年もすると有望な新人として話題に上るようになる。でも、そうじゃない子もいる。絶対に売れる、と思っても、それきり出ない子もいる。たまにそういう子のことを思い出しては、わかってないなあ、とわかったような独り言を言ったりする。

 番組の冒頭は、お笑い芸人の司会と、季節ごとに変わる助手の若手のアイドルが軽くトークする時間だ。その間に机の上に出した勉強道具をしまっていく。書いたままだった単語カードをリングに戻して、鞄にしまった。
 机の上に散らばった消しゴムのかすを捨てたところで、新人アイドルの紹介に入った。番組のテーマ曲と一緒に、おそろいの衣装を着た四人の女の子が出てくる。
 ふりふりのたくさんついた可愛らしい衣装は、番組で用意されたものだ。あまり予算がないから使い回しているのだ、と巷では言われている。番組後半のミニゲームで、勢い余って衣装を裾を破いてしまった子がいて、顔を青ざめさせていたのは今でも覚えている。
 同じ衣装を着ているけど、もちろんみんなバラバラの事務所に所属している。一見すると同じユニットに見えるけど、ライバル同士だ。
 消しゴムとシャーペンをしまった筆箱の口を閉じようとして落としてしまった。かしゃん、とカーペットの上に中身が散らばった音がする。だけど、画面から目を離すことができなかった。
 画面に映っていた女の子の一人が、どうみても岡崎さんにしか見えなかった。

 司会者がマイクを渡し、自己紹介の時間になる。マイクを渡された子が前に出て、左から順に簡単に名前を言っていく。その下には名前と年齢がテロップで表示されている。右端にいる一番小柄な女の子にマイクが渡る。

『岡崎泰葉です。よろしくお願いします』

 テレビから聞こえてきた声は岡崎さんの綺麗な声だった。いつも聞いている声とは違うちょっと丁寧な声。でも、間違いなく岡崎さんの声だった。

「本物だ……」

 画面の下に表示されたテロップを見ながら、意味のわからないことを口走る。
 そこから先は自己紹介した順に、その子の紹介のVTRが流され、それが終わると番組のテーマソングを歌う。それをひとりひとり順番にやっていく。
 岡崎さんは最後なので、もどかしい思いをしながら前の子が終わるのを見ていた。録画だから早送りすればいいのだと気がついたのは、三番目の子が終わって流れたCMの最中からだった。
 子役の頃の映像があるからか、岡崎さんの紹介VTRはしっかりとしたものだった。それが終わり、またCMを挟んでから岡崎さんが歌を披露する。。

 さすがだな、と思ったのは前奏の間や歌い出す瞬間に緊張がほとんど見られないことだった。
 こっちから見てわかるほど身を硬くしている子は珍しくない。でも、岡崎さんはカメラ慣れしているように自然体だ。慣れていて当然なのだけど。
 岡崎さんの歌はお手本のようだった。たぶん、わたしが見てきた中でここまで完璧に歌った子はいないだろう。緊張して音やリズムが微妙にずれてしまう子がほとんどで、たまに気持ちが入ってしまい自分の歌にしてしまう子がいるくらいだった。
 後者は新進気鋭のアイドルとして台頭することもある。そういうエネルギーに満ちたアイドルを見るのは楽しい。身体の内側にある何かを爆発させるようなパフォーマンスは、拙いからこそ今だけのもののように思う。
 岡崎さんはそのどちらでもなかった。子役としての経験はあっても、アイドルとしてカメラの前で歌って踊る経験なんてこれがはじめてだろうに、そんな気配を微塵も感じさせない。
 すごいすごい、とわたしは感動しっぱなしで、我に返ったときには、もう再生が終わっていてレコーダーのホーム画面が表示されていた。

 翌日、あくびをかみ殺しながら登校すると、わたしよりも先に岡崎さんが来ていた。背筋を伸ばしたまま単語カードをめくっている。
 いつもの岡崎さんがそこにいて、まるで昨日のことは夢だったような気がしてくる。
 あの後、番組を見終わった後、わたしはシーンを戻してもう一回岡崎さんの場面を見直して、それから歌のところはもう一周した。そして岡崎さんにメッセージを送ろうか悩んで、そのうちに寝てしまった。
 岡崎さんの姿を見ると、やっぱりあの番組を見たことを伝えたくなる。見たよ、と自分の感じたことをすべてぶつけたい。それで握手してもらって、サインしてもらいたい。

「おはよう、岡崎さん」

 岡崎さんは単語カードから目を離して、おはようとわたしに挨拶を返してくれる。テレビの画面越しに聞いた声よりも柔らかい声。
 わたしはそのまま席につく。言いたいことはたくさんあったけど、それはアイドルの岡崎泰葉に対してであって、ここにいるのはわたしの友達の岡崎さんだ。
 きっと岡崎さんは嫌がったりしないと思う。だけど、握手をしてください、サインください、なんて言ったりしたら、なにかがおかしくなってしまうような気がした。

「岡崎さん、昨日見たよ」

 なるべく言葉を少なくする。たくさん喋ってしまえば、それだけ間違えてしまいそうな気がした。
 わたしがあの番組を見ていることは岡崎さんも知っている。これだけで伝わると思った。
 岡崎さんがまっすぐにわたしを見つめている。何かを窺うように、まるでわたしの目を越えてその先にある心を見るよう。
 きっと、わたしも同じ目をしている。

「とってもかわいかった」

 それだけ言って口を閉じる。出そうになったいくつもの言葉が戻っていく。でも、それはいまは必要のない言葉だ。
 岡崎さんがすっと笑みを浮かべる。

「ありがとう」

 その顔は少しだけ誇らしそうだった。

 緑色をしていた桜並木に、気がつくと紅い葉が混じりはじめていた。
 展示系のクラスでは早いところだと有志が放課後に残って作業をはじめているらしい。来週は中間試験があるから、今週は居残りが禁止されているけど。
 わたしたちのクラスは喫茶店で、特に凝ったことをするわけではないのでまだ余裕がある。三年生のやる喫茶店だと手作りのクッキーを目玉にするらしい。わたしたちは既製品のお菓子を用意する予定だった。
 お皿やカップなどは学校で毎年使っているものを使うらしい。そのため、毎年飲食系をやれるクラスは学年に二クラスだけだ。わたしたちのクラスは文化祭実行委員の子がじゃんけんに勝ったため、希望通りの喫茶店をやることができる。
 教室に入ると、ほとんどが空席のなか、その実行委員の二人の座席に鞄がかかっていた。二人は教室にいないみたいで、文化祭の定例会なのだろう。文化祭が近づいて忙しくなってきたのか、ここのところ週に一度、そういう日がある。
 今日は岡崎さんが先に教室にきていた。おはよう、と声をかける。文化祭が終わったあとはまた席替えをするらしいので、もう二週間ほどしか隣にいられないと思うと寂しくなる。
 岡崎さんは教科書とノートを広げて勉強していた。いつものようにわたしは声のトーンを落として言う。

「昨日の放送、見たよ」

 昨日は岡崎さんが出た番組の放送日だった。地上波ではないし、一つのコーナーにちらっと出ていただけだったけど。
 岡崎さんの所属している事務所は結構しっかりしている大手で、ホームページに行けばひとりひとりの出演予定が簡単に見ることができる。岡崎さんのページをチェックするのが最近の日課だった。

「こう、なんていうか、やっぱりかわいいなあって思った」
「うん」

 今日の岡崎さんの返事は気もそぞろという感じで、わたしなんて見えていないようだった。いつもなら、ノートを見たままでも会話してくれるのに。
 そこでやめとけばいいのに、つい続けてしまった。

「あ、それとね、前に出た番組で紹介されてたドラマ、昔岡崎さんが出てたやつ。この前借りてきたら面白かったよ。小さいのに――」
「ごめんなさい、集中させてもらっていいかな」
「あ、ごめん……」
「……学校の方も大事にしたいから」

 中間試験を控えているけれど、岡崎さんは仕事が忙しくなったのか、前に比べ学校を休んだり早退することが多くなっていた。授業の合間にわたしのノートを写すのも一苦労で、今ではコピーしたものをそのまま渡している。
 そういう状況で、中間試験を受けてちゃんとした成績を残すのは難しいことだろう。でも、岡崎さんはそんな言い訳をしたくないようだった。
 そんな岡崎さんを邪魔してしまったということもそうなのだけど、岡崎さんの声が今まで聞いたこともないような冷たい声で、そのことが衝撃的だった。
 わたしの方が悪いのはわかっているのだけど、そればかりが頭の中をぐるぐると回り、お昼休みの時間も何を話していいのかわからなかった。
 向かい合ってお弁当を食べ、それが終わると岡崎さんがまた試験勉強をはじめてしまうので、わたしは自分の席に戻った。午後の授業はほとんど耳に入ってこなかった。

 次の日、岡崎さんは学校に来なかった。たぶん、仕事なのだろう。
 楽しみにしていた番組も、どうせ録画しているから、と見なかった。形だけの試験勉強をして、ベッドに倒れ込む。
 岡崎さんは本当は子役の頃の話をされたくなかったんじゃないだろうか。
 まぬけなわたしはいまになってそのことに気づいた。わたしがするアイドルとしての岡崎さんの話もあまりよく思っていなかったのかもしれない。
 少しミーハーに接してしまっていたのかもしれない。
 考えれば思い至るふしがいくつもあって自分が嫌になる。
 謝ろうと思ったけれど、次の日の教室で真剣な様子で勉強する岡崎さんを見て、言葉が出てこなかった。
 集中しているから、邪魔しないようにしよう。そんなことを言い訳にして、ずるずると先延ばしにしてしまった。
 すぐに週末がやってきて、月曜日からは試験が始まった。朝の時間も、テストとテストの合間もずっとノートや単語帳を見ている岡崎さんに、わたしはどう言葉をかけていいのかわからず、言い訳のように自分のノートを見直した。

 試験が終わるとすぐそこまで文化祭が近づいてくる。
 岡崎さんにはまだ謝ることができていなかったけれど、わたしたちは前のように一緒にお昼を食べたりすることができていた。
 なるべくテレビの話はしないように気をつけた。自分でそうしてはじめて気がついたのだけど、岡崎さんはほとんど自分の話をしてくれない。最初の頃は仕事に取り組む姿勢みたいなのが伝わってくるような話もあったのに、思い返してみればここのところほとんどそういう話をしていない。
 やっぱり、そういう風に扱われるのがいやなんだろうな、と自分の考えなさが嫌になる。
 テレビの話をしないとなると、わたしの話せることは少なくなり、自然と来週末に迫った文化祭の話になる。

「岡崎さんは文化祭は大丈夫なの?」
「どうかな。出たいけど……」

 テレビにはあまり出てこないものの、今月に入ったくらいから岡崎さんは急に忙しそうにするようになった。外から見えないだけで、他の新人アイドルもこんなに忙しそうにしているのか、それとも岡崎さんだからなのかはわからない。

「準備とかはほとんど手伝えないと思う」
「仕方ないよ」

 わたしたちのクラスは喫茶店だから、文化祭前日にある準備日にほとんどのことをしてしまう予定だった。簡単な飾り付けなどはやる気のある人が作ったりしている。
 むしろ忙しいのは当日になるだろう。作って終わりの展示系とは違い、交代制でクラスの半分近くは常に教室いる予定になっている。
 その中から一人減るとなったら、よく思わない人もいるかもしれない。岡崎さんと一緒に文化祭を楽しめないんじゃないか、という心配と同じくらい、そのことが心配だった。

 岡崎さんがアイドルになって少ししてから、クラスのみんなにはそれが伝えられた。いつかはわかることだし、この先欠席や早退が増えるだろうから事前に話しておくという形で、先生から伝えられた。
 クラスの反応はわたしよりもだいぶ薄いものだった。いまどきアイドルになるなんて珍しいことじゃない。わたしの通っていた中学にも、同学年と先輩に一人ずついた。難しいのはみんなが知っているアイドルになることだ。
 みんなの反応が、「ふうん、頑張ってね」程度だったことは少しショックだった。あの岡崎泰葉なんだよ、と腹を立てそうになったくらい。
 でも、変に騒ぎになるよりは、そっちの方がいいのだろう。
 そんな感じで、仮決めしたシフト表には岡崎さんの名前もある。わたしも同じ時間帯に入っていて、いざとなったら二人分働くつもりだった。
 ここ最近の岡崎さんは充実しているように見えた。忙しそうにしていても、それを苦にしていないような気がする。
 それこそ楽しそうにしていて、わたしはそれを応援してあげたい。岡崎さんがテレビに映ったり、ラジオで話したりしているのを見たり聞いたりしていると嬉しくなる。
 でも、それに浮かれすぎてしまって、テスト前みたいなことになってしまったのかもしれない。あのときのことを思い出すと、胸に重石でも乗せられたみたいな気分になる。
 普段通りに戻ってしまったせいで、よけいに切り出せなくなったまま、時間が過ぎていった。あっという間に文化祭の前日になっていた。

「今日は打ち合わせがあるから早退するね」

 朝、岡崎さんがそう教えてくれた。
 文化祭の準備日は授業がなく、丸々一日が準備にあてられる。文化祭実行委員の二人は委員会があるからクラスにはいられない。委員長がクラスをいくつかの班にわけて、作業を分担する。
 わたしと岡崎さんは装飾の担当になった。あらかじめ買ってあった折り紙を切ったり張ったりして飾りを作っていく。テーブルごとに置くメニューもわたしたちの仕事だ。
 折り紙とはさみなんて久しぶりに使うからもどかしい。最初は折り紙に折り目をつけてまっすぐ切るようにしていたけど、だんだんと集中できなくなり折り目が曲がり、次第に形が悪くなっていく。

「わあ、すごい!」

 隣の子の弾んだ声にふっと顔を上げると、みんな岡崎さんの手元を見ていた。折り目のついていない折り紙なのに、岡崎さんが入れるはさみは定規で引いたみたいにまっすぐだ。しかも、そんなに綺麗なのに、切る早さはわたしたちよりもずっと早い。

「器用なんだねー」
「細かい作業は慣れてるから……」

 岡崎さんはみんなに囲まれ、少し照れたようにして作業を続けていた。なんだか取られてしまったみたいでちょっとむっとする。
 みんなで分けた作業が終わってしまった岡崎さんは、切った折り紙を装飾していく。なんてことのない作業なんだけど、岡崎さんがやると様になっている。やっぱりアイドルなんだな、なんて思ったりする。

 岡崎さんのおかげで作業がスムーズに進んだ。予定よりもだいぶ早かったので、誰かがもっと作ろうと言い出した。みんなが賛成したのだけど、そうなってくると買ってあった折り紙が足りなくなった。
 そこで誰かが買い出しに行くことになった。

「岡崎さん、一緒に行こうよ」
「あ、うん」

 わたしが岡崎さんを誘うと、一度時計を見てから頷いてくれた。まだ時間はあるはずだった。
 買い出しは何人かがすでに行っているけど、やり始めてみると足りないものが出てくる。わたしたちは他の班のそういったものも買いにいくことになった。
 携帯にメモを取り、委員長に言って教室を出る。職員室にいた担任の先生に許可をもらって学校を出た。お金は先生から封筒に入ったものを受け取った。領収書をちゃんともらってこないと先生の自腹になってしまうらしい。
 学校から出てバス停に向かう。わたしたちが横断歩道を渡ったところでバスがきたので、走って乗り込んだ。
 バスの中はガラガラで、わたしたちの他にはおばあさんが二人しか乗っていなかった。おっとりした口調で何かを話している。
 わたしたちは一番後ろの座席に座った。いつもは立っているので不思議な感じがする。

「なんだかサボってるみたい」
「そう?」

 わたしが言うと岡崎さんが首を傾げた。そっか、岡崎さんはたまに仕事で早退しているから、こんなに人の乗っていないバスも珍しくないんだ。

「岡崎さんって、ああいうの得意なんだね」
「得意というか、細かい作業ならよくやるから……」
「あ、ドールハウスって小さいんだっけ。中の物は、これくらい?」
「そこまで小さくないかな」

 わたしが親指と人差し指で、これくらい、を作って訊ねると、岡崎さんは笑みをこぼした。

「学校を出るのは何時くらい?」
「お昼過ぎかな。ごめんね、最後まで手伝えなくて」
「しょうがないよ」

 岡崎さんがどんな気持ちでアイドルをやっているのか、わたしは知らない。だけど、それが軽い気持ちではないということはわかる。そうでなければ自分の時間をあそこまで捧げることはできないだろう。
 たぶん、わたしが思うよりもずっと多くの時間を仕事やレッスンに使っているはずだ。それに加えて学校の成績を維持するために勉強も欠かすことはない。本当に自由な時間なんてないのかもしれない。
 でも、そうまでしてもやりたいことがあるのだ。それを邪魔することなんてできない。むしろ応援したい。
 最近の岡崎さんはとても充実しているように見える。教室にいるだけなのに、テレビの画面を通してみるアイドルのように錯覚してしまうこともあった。

 バスが駅前に到着して、わたしたちはバスを降りた。駅前にあるビルに入った雑貨店へと向かう。
 雑貨店にはわたしたちと同じように買い出しに着ているのか、同じ制服姿のグループがいくつもいた。
 わたしたちもメモを見ながら買い物かごに商品を入れていく。フロアを一周しただけで必要だったものは手には入ってしまった。

「他になにかあるかな」

 学校から借りる食器のうち、足りなそうなものはもともとの買い出し班が買う予定だ。
 テーブルクロスも去年の先輩たちが新しいの買ったから、今年はそれを使うことになっている。

「ねえ、これとかどう?」

 岡崎さんが指したのは小さな鉢に入ったバラの造花だ。
 濃い赤色と薄いピンク色のバラの花だけで鉢自体も小さい。これならテーブルに置いてもよさそうだ。

「かわいいね」
「うん。値段もそんなにしないし」

 岡崎さんが値札をわたしに見せる。これなら全部のテーブルに置く分を買ってもそんな額にはならなそうだった。もし怒られたらわたしのお財布からでもなんとか出せる。
 わたしたちはそれも買い物かごに入れ、レジに向かった。

 順番待ちしていると、岡崎さんの携帯が鳴った。ごめん、と小さく謝って岡崎さんが列を離れる。なんか仕事っぽい感じだったな。
 会計を済ませても岡崎さんは戻ってこなかった。急に仕事になってしまったのかもしれない、と思ったけれど、岡崎さんならちゃんと一言伝えてくれるだろう。
 手持ち無沙汰のまま、レジの近くで待っていようと思ったら、面白そうなものを見つけた。それを買ったところで岡崎さんが戻ってくる。

「ごめんね」
「大丈夫。領収書もちゃんともらったし。お仕事?」

 わたしがそう訊ねると岡崎さんは歯切れが悪そうに苦笑した。

「時間は大丈夫?」
「うん。一つ持つよ」

 岡崎さんがわたしの持つレジ袋を、一つ受け取ってくれる。
 雑貨店を出てから、クレープ食べていっちゃおうか、と誘うと、お弁当あるからと断れてしまった。真面目だ。
 がらがらのバスに乗る。今度はわたしたちと同じように買い出しから戻ってくる生徒の姿があった。空いてる席に座り、レジ袋からさっき買った物を取り出す。
 岡崎さんに見られないように包装を取って、長方形のそれを見せる。

「じゃん、これなんだ?」
「えっ? カメラだよね?」
「わかるの?」

 わたしが見つけたのは使い捨てのカメラだった。こんなのもあるんだ、と思ったのだけど、岡崎さんは知っていたらしい。
 簡単な使い方を教えてもらった。本当に簡単で、ゼンマイみたいなのを回して、シャッターを押すだけだった。
 あまりにも簡単すぎて、バスの床に向けているときに、カシャ、と鳴ってしまった。

 クラスに戻るとわたしたちの班はテーブルに置くメニューを作り終えていた。追加の折り紙と一緒に、岡崎さんが選んだ造花の鉢を見せると、わっと小さな歓声があがる。
 作業を再開して少しするとお昼休みになった。今日は岡崎さんとだけじゃなく、装飾担当の班のみんなで食べることになった。
 やっぱりみんな岡崎さんの綺麗なお弁当に興味津々で、自分で作っているのだと聞くと驚いていた。
 お昼を食べ終わって、作業を再開するまでの合間に、わたしはポケットからさっきのカメラを取り出して岡崎さんに言う。

「ねえ、岡崎さん、写真撮ろうよ」

 わたしがそう言った瞬間、岡崎さんの顔に影がさしたような気がした。えっ、と思う間もなく、岡崎さんが鞄を取って席を立つ。

「ごめんなさい、私これからお仕事だから」

 岡崎さんの声があのときと一緒のもので、わたしは身がすくんでしまう。岡崎さんが教室の出て行くまで、わたしはその背中を目で追うだけだった。ドアが閉められた音に、びくりと肩が震える。
 どうしよう。また岡崎さんを傷つけるようなことを言ってしまったのだろうか。胸が締め付けられるように苦しくなる。
 そんなつもりじゃなかった。
 胸の痛みをこらえるように、両手に力がこもった。痛い、と思ったら親指に使い捨てカメラのゼンマイが当たっている。
 あのときどうすればよかったのだろう、ってずっと考えていた。いつもいつも最後に思うのは一つだけだった。
 またちゃんと謝ればよかったって後悔するのはいやだ。
 わたしは使い捨てカメラを制服のポケットにしまい、岡崎さんの後を追って教室を出る。
 どこのクラスもいまはお昼休みだから、廊下に人の姿はない。他のクラスが廊下に出したままの展示物を踏まないようにして、廊下を走る。岡崎さんの姿はない。
 階段を落ちるように降りていく。一階まで降りて、昇降口に向かってまた走る。下駄箱にも岡崎さんの姿はなかった。下駄箱から自分の靴を出そうとして、岡崎さんのところを確かめてみると、まだ革靴が残っていた。
 ほっとすると同時に、肺が内側に抑えつけられたようになる。脇腹も痛い。頭がくらくらした。みっともなくはあはあと息をしていると、岡崎さんがやってきた。

「ど、どうしたの?」

 汗だくのわたしの顔を見て、岡崎さんが驚いた声を上げる。

「帰っちゃったのかと思った」

 息を落ち着けてから言う。汗が目に入りそうで、ハンカチを出して拭った。

「職員室に寄ってたの。勝手に帰るわけにはいかないから」
「そっか……」

 どうしよう。ここまで来てみたけれど、どう切り出していいかわからない。岡崎さんが何が嫌だったのか、まだよくわかっていなかった。

「写真、嫌いだった?」
「ううん。……お仕事に好きも嫌いもないよ」
「お仕事?」
「そう。テレビに映っている間だけが仕事じゃないから」

 そうか、岡崎さんにとって誰かと写真を撮るってそういうことだったんだ。
 わたしも町で憧れのアイドルに出会ったら、一緒に写真を撮ってくださいって言うかもしれない。そのときにわたしたちが求めているのは、道を歩いている誰かではなく、テレビに映っている芸能人だ。

「制服の写真は学校に迷惑がかかるから」

 岡崎さんの声音はひどく事務的なものだった。芸能人として扱われるなら、芸能人として対応する。声だけで岡崎さんの気持ちが伝わってくる。

 たった一言で岡崎さんとわたしとの間に越えられない壁ができたような気がした。身体が震えるような思いだったけれど、同時に、表現する力はやっぱり本物だ、なんて馬鹿みたいな気持ちが浮かんできた。
 どうしたって、わたしは岡崎さんのファンなんだ。ファンを辞めろと言われても、岡崎さんがアイドルを辞めてしまったとしても、きっとそれは変わらない。

「どうしてそんなに冷たい声なの?」
「どういうこと?」
「仕事だって言ったけど、岡崎さんなら写真を断るとき、もっと優しく断るよ」
「勝手に決めないで」

 勝手に決めちゃうよ、ファンだから。テレビに映る見た目や、ほんのちょっと喋ったくらいで、この人はこんな人だって決めつけて、好きになる。テレビの画面が、都合の悪いことはなにもかも隠してくれる。
 いつだってわたしたちが受け取るのは光り輝く世界だ。
 だけど、いまの岡崎さんはそうじゃない。自分がどう喋れば相手にどう伝わるか、岡崎さんならわからないはずがない。
 つまり、これは仕事としてじゃなく、ただの岡崎さんとしてわたしに言っている。
 わたしに芸能人として扱われた感情が、そのままわたしに向けられているんだ。

「……ごめんね」
「え?」
「そういうつもりで写真を撮ろうって言ったんじゃないの」

 わたしも、声を上げるべきだと思った。全部話してしまうのは、自分がとてもみっともないと告白するようで恥ずかしいけれど、それでも岡崎さんに勘違いされたままだというのは嫌だった。
 声に出せばきっと届く。わたしたちの間にはテレビの画面もなにもないのだから。

「わたし、岡崎さんがアイドルになってからどこかに行ってしまうような気がして、こわかったんだ。友達だって思ってた岡崎さんが、テレビの中だけじゃなく、クラスでもきらきらしていて、素敵だって思ってて……そうしたらわたしが好きなのは岡崎さんなのか、アイドルの岡崎泰葉なのかわからなくなっちゃって」

 知り合って半年しか経っていないけど、わたしは岡崎さんのいろんなことに真剣に取り組むところとか尊敬しているし、ドールハウスのことになるといろいろと教えたがるところとか可愛いと思っている。
 それはきっと、岡崎さんが子役をやっていたとか、モデルをやっていたとか、アイドルだからとか、そういう理由じゃない。
 でも、アイドルとしてテレビに映った岡崎さんのことも好きだ。一生懸命なところが伝わってきて胸が温かくなる。一番好きなアイドルをあげろと今言われたら、わたしは迷わず岡崎泰葉と答えるだろう。

「だから、どうしたらいいかわからなくって……。それで、証拠がほしいって思ったの」
「……証拠?」
「うん。集合写真撮りたかったの。岡崎さん、この前の社会科見学、休んでたし、入学式もそうだったよね。みんなで撮った写真がほしかったの」

 クラスメイトの岡崎さんの映ってる写真。それがあれば、すべてが解決するわけじゃないと自分でもわかっている。だけど、ちゃんと岡崎さんがわたしのクラスメイトだって証拠がほしかった。わたしの友達として映ってる写真がほしかった。

「そうだったんだ……。ふふっ、写真って、そんなことで?」

 そんなにおかしかったのか、岡崎さんはくすくすと笑っている。かあっ、と顔が熱くなるけれど、岡崎さんが大笑いしているならともかく、声を上げて笑うのを我慢するように肩を震わせているので、なにも言えなかった。
 ようやく波の収まった岡崎さんが、目尻に浮かんだ涙を拭う。そこまで笑わなくてもいいのに。
 さっきまでの海の底にいるような声とは打って変わった声で言う。

「私こそごめん。友達じゃなかったんだ、って思ったらつい……」
「ううん、わたしもそういうところがあったんだと思う」
「お互い様だね。私だって、アイドルになったら、前と同じように私と話してくれないんじゃないか、って心のどこかで疑っていたんだと思う」

 岡崎さんは自嘲するように笑って、ポケットから携帯を取り出した。何かのメッセージを送ってからポケットに戻し、わたしに微笑みかける。

「教室に戻ろうか。みんなで写真、撮ろう?」
「うん。……あ、待って」

 わたしは教室に戻ろうとした岡崎さんの手をとっさに掴んだ。指が細くて長いとか、わたしよりも少しだけ冷たいとか、そんな浮かんだ感想を追い出して、言う。

「お願いがあるんだけど、いいかな」

「どうしたの?」
「さ、サインがほしい。岡崎さんのっ」

 ぽろっと口から出てしまった。さっきの話はなんだったんだ、って思われるかもしれない。でもそうじゃない。
 わたしは思ったままを口にする。きっと岡崎さんなら受け止めてくれるから。

「あのね、そうじゃないの。岡崎さんのサインがほしいの。わたしの、友達の、岡崎さんのサイン。岡崎さんがトップアイドルになったら、それを自慢するの。友達なんだ、って。最初からずっと応援してたんだ、って」

 最初から岡崎さんがアイドルだったら、わたしはサインをほしがらなかっただろう。岡崎さんはそれも仕事だと言ったけれど、わたしは学校にいる間の誰かをアイドルとは思わない。サインをもらおうとするのは間違っていると思う。
 でも、岡崎さんは違う。岡崎さんはわたしの友達で、たまたまアイドルになっただけだ。きっとモデルをやっているままだったら、わたしはサインをもらおうなんて口にしない。
 だから、わたしは岡崎さんのサインがほしい。

「うん。わかったよ」

 岡崎さんは小さく笑って、わたしの手を握り返してくれた。
 ちゃんとわたしの気持ちが伝わったかどうかはわからない。でも、わたしの心はきっと受け止めてくれたと思う。

「それで、どこにすればいい?」

 さっとブレザーのポケットからサインペンが出てくる。そんなすぐ出てくると思わなくて、思わず笑ってしまう。

「今度、色紙買ってくるから、それでもいい? 明日は、だめなんだっけ?」

 たしか文化祭の日は来られないかもしれないと言っていた。もしそうだったら、やっぱり少し残念だ。

「調整してもらうようには頼んだから大丈夫だと思うけど、相手の都合もあるから絶対とは言えないかな」
「そっか……」
「ねえ、私からもお願いしていいかな?」

 わたしはこくこくと何度も頷く。どんなお願いでも断るわけがない。

「前に見せたドールハウスがあったよね」

 岡崎さんが今作っているドールハウスのことだ。洋風の三階建てで、はじめて見せてもらったときに置く人形を決めてないと言っていた。
 あれから何回か見せてもらった。細かな家具の配置だったり、小物が入れ替わったりしていたけれど、結局相応しい人形は見つかっていなかったはずだ。

「この間、仕事の合間に寄ったお店であの家に似合う子を見つけたの」
「よかったね、どんな感じの子?」

 一番岡崎さんが悩んでいたところで、それさえ決まれば完成、ということだった。いろいろお店を回ったり、もう持っている子を合せてみたりとやったみたいだけど、どうも満足していなかったみたいで、本当によかった。

「少し髪の長い、元気そうな子。それで今度見に来てほしいなって」
「え? それって……」
「やっぱり写真だけだと伝わらないと思うから。実物を直接目で見ると、他の物との対比でそこだけ――」
「行く! 絶対行く!」

 つい嬉しくなって、長くなるであろう話を遮ってしまう。話を続けたかったのか、岡崎さんは少し不満そうにしたけれど、サインはそのときにもらうことになった。

 ほっとしたところで予鈴が鳴った。

「写真、撮らなきゃ」

 買い出し組はもう買い物を終えたから教室で作業の手伝いになるけど、文化祭実行委員の人たちは休み時間が終わればまた委員会の作業に戻ってしまう。みんなが揃っているのはお昼休みか下校の前だけだ。

「ほら、急ごう?」
「うん」

 岡崎さんが教室への道を引き返す。早足というよりはほとんど走っているような速さだ。おいて行かれないようにわたしも走るように足を動かす。

「廊下は走っちゃいけないんじゃないの?」
「バレなきゃ大丈夫っ」

 真面目な岡崎さんらしくない言葉に、お互いに笑い合う。四階の教室まで一気に駆け戻る。
 教室の前に着く頃には、わたしは顔中から汗が噴き出て、脇腹もへこんじゃうんじゃないかってくらいに痛かったけど、岡崎さんは汗を浮かべているものの涼しい顔をしている。
 もうすぐ本鈴が鳴るだろうけど、写真を撮るくらいならみんな許してくれるだろう。
 息を整えて、教室の扉を開ける前に、わたしは岡崎さんに訊ねる。

「ねえ、アイドルの岡崎さんのことも応援してもいい?」
「もちろん。岡崎泰葉をよろしくお願いします」

 顔に浮かべた汗を輝かせ、岡崎さんは一番の笑顔をわたしにくれたのだった。



 ――了――

以上です
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