「出席番号25番、長富蓮実」 (39)

20年以上教師をやっていると、それはもういろいろな生徒に出会うことになる。
大別すれば「扱いやすい子」と「扱いづらい子」になるけれど、そこからさらに細分化される。

例えば、学力的な扱いづらさ、本人の性格からくる扱いづらさ、家庭環境からくる扱いづらさ、etc、etc.……。

長富蓮実という生徒にそういった要素はない。
学力も性格も家庭環境も問題なし。
生徒として考えれば、扱いやすいことこの上ない。
ごく普通の高校2年生として考えれば、だ。

ただ、彼女はごく普通の高校2年生ではなかった。
往年の海外ドラマ風に言うならば、

『でもただひとつ違っていたのは、長富蓮実はアイドルだったのです!』

となる。

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25番と言われて『たしか…吉沢秋絵!』と解答できる程度には、アイドル全盛期の80年代をアイドル全盛期の思春期男子として過ごした。
聖子よりも明菜派で、ノリピー語なんてものを日常生活でも使っていた。
下敷きは菊池桃子だったかな?
いや、河合奈保子だったかもしれない。

まぁ要するにあの当時の「ごくごく普通の男子」で、別に自分の過去を、いま風に『黒歴史』なんて言うつもりもない。
ビーバップに影響されて硬派を気取るヤツでも、部屋には斉藤由貴やキョンキョンののレコードを所持していた時代だ。

ただ、アイドルが自分の生徒、となると話は変わってくる。
20年以上教師をやっていても、アイドルの教え子なんていなかった。

「アイドルが自分の教室にいたら」

という『あの頃』の妄想が実現したわけだけれど、同級生としてではなく『教師と生徒』となると、やっぱり違う。

それは他の先生方にとっても同じだったらしく、

「夏休み明けから1年生に転入してくる生徒は芸能人らしい。どのように扱うべきか」

というテーマで職員会議が開かれた結果、

「どうもアイドルらしいから、歌も歌うだろう。じゃあ音楽教師の田原先生にお任せしよう」

という、

「これはもうどう控えめに考えても丸投げだろう」

な落とし所に納まった次第だ。
音楽教師だからアイドルを扱う教育を受けているとでも思われたのだろうか?
そんなもの、どこの教育学部でも教えていないと断言できる。

決まってしまったものは仕方ないので、高校1年生の夏休み明けという『難しい時期』から、

『アイドル長富蓮実』

を生徒として受け持つことになった。

ご両親を伴った彼女と生徒指導室で初めて対面したとき、素直に

「綺麗な子だな」

と思った。
教師にあるまじき、というご意見もあるかと思うが、

『思想、良心の自由は、公共の福祉によって制約されない』

のだから問題はない。
基本的人権である。
つまり、思うのは自由だ。
正直に言うならば、

「うおっ、可愛い」

と思った。
しかし問題はない。
基本的人権である。

「なぜ芸能コースのないウチの高校に?」

と聞いたとき、彼女はちょっと恥ずかしそうに答えた。

「事務所から近いのと…あとは、セーラー服だったから」

制服で高校を選ぶ女子は多い。
だけど、選ばれる高校の大半は学校ごとの個性を表現しやすいブレザーで、セーラー服は「なんだか古くさい」という理由で敬遠されることすらある。
それに対する長富蓮実の解答。

「アイドルはやっぱりセーラー服だと思うんです!」

苦笑するご両親。
そして私。

「私の影響で、古いアイドルが好きなんです、この子」

母親の説明に、古いアイドルが好きなその子が反論する。

「古いことはないわね!年数を重ねただけだけん!」

どうやら島根県の方言で、

「古くないもん!年数を重ねただけだもん!」

という意味らしい。
その発言に再び苦笑するご両親。
だけど、私は笑わなかった。
その言葉に、長富蓮実という少女の本質のようなものを垣間見た気がしたからだ。

英語にすれば

「It's not old , just older. 」

あたりになるのだろうか。
そういえば、海外のミュージシャンの曲にそんな歌詞があったような気もする。

ともかく、まだ高校1年生だったその少女から、

「私はこれで行きますから!生きますから!」

という『意思』を感じて、ただただ感心したのを覚えている。
高校1年生当時の自分と比較すると、なんだか負い目すら感じてしまうくらいハッキリとした『意思』の発露。
あの頃の私は……。

思春期男子特有の

「俺は何者かになれるんだ!」

という根拠も何も無い自信に充ち溢れていて、そのくせ手を伸ばして何かを掴もうとすることすらしなかった。
むしろ、手を伸ばすこと自体を恥ずかしいことのように感じていた。

それはいまの思春期男子も同じで、

「汗とか努力とかさぁ(笑)」

と思っている生徒はたくさんいることだろう。
自分がそうだったのだから、彼らを責める気など無いけれど。

今日はここまで
必要ないとは思いますが、酉をつけておきます
コツコツ投下して、一週間くらいで完結できたらと思っています

学校の話をそっちのけにして『The '80s』の話題を交わしていると、唐突に、自分の女房のことが頭に浮かんだ。
私と同い年の我が妻は、アイドル全盛期の80年代を、アイドル全盛期の思春期女子として過ごしたことだろう。

トシちゃんにヨッちゃん。
うん、ど真ん中だな、やっぱり。

「そうなんです。同級生よりも、そのお母さんたちと話が盛り上がってしまうんです」

まぁ、そうなるだろう。
同級生のお母さん方と連れ立って、カラオケに繰り出しそうな気配。

「良いですね、それ!」

当人による解答。
そこに交ざりたい気は……。
無い、ということにしておこう。
一応教師なので。

「私の着信音、なんだと思います?」

理科室の前を通り過ぎながら、彼女が言った。

「なんだろう?『ヤマトナデシコ七変化』とか?」

「ぶっぶーっ」

口を尖らせながら『不正解』の効果音。
その仕草もなんだか懐かしい。

「正解は『時代おくれ』です!」

「河島英五!?」

「はい!私っぽいかなって」

時代おくれの女になりたい、というわけでもないだろうけど、彼女のテーマソングにはピッタリかもしれない。

「だけど私、機械の操作とか苦手で…だから友達にやってもらいました」

スマートフォンが機械なのかどうかは機械好きの間で議論が分かれそうだけれど、まぁ、それはよい。

「レコード針の交換は?」

まさかな、と思いながら聞いてみた。

「それは出来ます!」

ー当然じゃないですか!

と言わんばかりの顔で声で返されてしまった。
なんとなくだけれど、オーディオテクニカの針を愛用してそうな雰囲気。
使用感云々ではなく、あのロゴマークに惹かれて。

いまでもカセットテープ、傘はもちろん白色、浴衣にはすすきのかんざしですよね、等々、一部に

「それもう70年代だろ」

なやり取りをしながら、再び生徒指導室に戻ってきた。

「あの、何かご迷惑かけませんでしたか?」

と問う父親に、私よりも先に

「大丈夫!田原先生、アイドルソングとかに詳しかった!」

と返す彼女。

「あら、良かったねぇ」

と嬉しそうな母親。
長富家におけるそれぞれの立ち位置が想像できて、ちょっとだけ面白かった。

「心配ありませんよ。明るくて素直な娘さんですし、すぐに友達もできますよ」

と、教師らしいことを言ってはみたが『教え子がアイドル』ということに対するやりづらさのようなものは、正直払拭できずにいた。
ご両親もその点について不安だったようだけれど、当の本人はあっけらかんとしている。
案ずるより産むが易し、ということなんだろう。

彼女のパーソナルな部分については問題なく、芸能活動が学業に及ぼす影響については担任の勉強次第、つまりは私の頑張り次第ということになる。
『明確な夢を抱いている教え子』に対して出来る限りのことをしてやりたいと思うのは、教師として当然のことだろう。

ただひとつ懸念材料があるとすれば、

『アイドルの同級生』

になるクラスメイトたちの心境だった。
芸能人をはじめとする『有名人』に対して憧れを抱きやすい年代でもあるし、特に女子たちがどういった反応を示すかは気がかりだった。

「田原先生、心配しすぎです」

やはりあっけらかんとしていたご本人。

ー心配するのも親と教師の仕事だ。

なんてことを考えていると、ふと、

ーそういえば、アイツの試合、しばらく観に行ってないな。

と、小学校6年生の1人息子のことが思い浮かんだ。
彼は少年野球のチームで、6番レフトを任されている。
今度時間をつくって観戦に行こうと、目の前にいるアイドルの笑顔を眺めながら思った。

そして迎えた二学期の始業式。
蒸し暑い体育館で、

「校長先生、今回もお話が長いです」

と、教師としてではなく一個の人間として心中で愚痴を言いながら、生徒指導室で待機している長富蓮実のことを考えた。

慣例に従えばこの始業式で転入生の紹介をするべきなのだけれど、彼女の『特殊性』を慮った結果「始業式が終わったあと、クラスで」紹介する運びとなった。

担任である私はすでに腹を括っていたが、他の先生方はそういうワケにもいかないらしい。

「長富さんが有名になって、テレビが取材にきたら」

なんていう心配をしている先生までいた。
そんなことにやきもきする暇があるなら、あなた方のその化粧をなんとかするべきだろうと思った。
もちろん、心中で。

「転入生を紹介します」

クラスに戻り、1年C組の37人を前に言った。
小さくどよめく生徒たち。
廊下には、38人目の生徒を待たせてある。

彼ら、そして彼女らがなにを思っているのかが、手に取るように分かる。

男子=可愛い女子だったらいいな。

女子=カッコいい男子だったらいいな。

だ。

80年代だろうが90年代だろうが7650年代だろうが、これはきっと変わらない。

「女子です」

男子諸君から『おおっ』という声が挙がる。

「入りなさい」

廊下に向かって声をかけた。
ガラっという音とともにドアが開き、長富蓮実が教室に入ってくる。

「おおっ!」

男女入り交じった声。
気持ちは分かる。
性別に関係なく無条件に声を挙げてしまうほど、セーラー服姿の長富蓮実は可憐だった。
広辞苑の『可憐』という言葉の横に参考画像として載せられそうなほどに。

「島根県から来ました、長富蓮実です。よろしくお願いします」

アイドルを目指すだけあって、やはり胆が座っているのだろう。
初対面の37人を前にして動じる様子もなく言い終わると、ペコリと頭を下げた。

その後は諸氏による10分ほどの質問タイム。

ー何か部活はやってましたか?

「服や小物を作るのが好きなので、手芸部でした」

ー趣味はなんですか?

「昔の音楽を聴くことです」

ー昔ってどれくらい?

「80年代とか、それよりもっと昔です。聖子さんとか明菜さんとか、ピンクレディーさんとか」

この辺りから、諸氏の頭の上に『?』が浮かび始める。
長富にすれば超メジャーどころの名前を挙げたのだろうし、生徒たちもその名前くらいは知っているだろう。

では頭上の『?』の意味は?
それはきっと、

『なんでそんな古いのを』

だろう。

ある男子が発した

「先生みたいなオジサンしか聴いたことなさそう」

という言葉が、それを端的に表している。

そういった反応には慣れているのだろう。いや、内心は複雑なのかもしれない。
それでも『やっぱりそう言われるのか』を表情には出さず、

「でも、良い曲がたくさんあるんですよ?」

と答えた彼女の微笑みは、柔らかくて優しかった。
まるで『あの頃』のアイドルのような。

ーアイドルの資質

その微笑みを眺めながら、そんな言葉が頭に浮かんだ。

なんにでも、資質はある。
才能や努力とも少し違う、だけど重要な要素。
才能を右、努力を左とするならば、資質とは真ん中にあって、才能と努力を回転させる『芯』のようなものだろう。
曲がればバランスを失い、歪な円しか描けなくなる。

長富蓮実に才能があるのかは知らない。
努力は、惜しまない気がする。
だけどひょっとすると、右と左の大きさは全く違うのかもしれない。

それでもーーー。

彼女はその『芯』の力で、綺麗な円を描いてみせるかもしれない。

長富蓮実の『芯』
それは『自らを規定すること』なのではないだろうか?
それも『力強く』だ。

『初恋を知らず、いつもレモンの香りがして、トイレにも行かない、清純な少女』

あの頃はそうだった。
いまは違う。
そんなものファンタジーだと、みんな知っている。
だからアイドルはテレビで己を晒し、笑いに変えるようになった。

だけど長富蓮実は『そうあろう』としている。
トイレを我慢するあまり、膀胱炎でも患うかもしれない。
そんなもの、物笑いの種だ。
だけど、あり得る。
それが彼女の『芯』だからだ。

本物の芯は、嘲笑を恐れない。
蔑まれても、曲がらない。
たとえ小さな半径だとしても、綺麗な円を描く。
古いか新しいかなど、彼女にとっては『3年前に食った晩飯』程度にどうでもよいことなんだろう。

「島根県では、ありがとうを『だんだん』って言うんです」

柔らくて優しい微笑みをたたえる『新しい教え子』に目をやりながら、本気でそう思った。

杞憂という言葉がある。
ざっくりと言えば『心配していたほどじゃなかった』ということになるだろうか。
長富蓮実のアイドル活動に関するアレコレも、ひとまずは学校側の杞憂だった。

彼女はまだ、アイドルと言うよりは『アイドル候補生』または『アイドル実習生』といった立ち位置で、研鑽を重ねながら飛躍のときを待つ、という感じだった。

いちおうは担任だから、活動について質問することもある。
ある日、長富蓮実が言った。

「歌のオーディションも受けているんですけど、昔の曲は審査員さんの受けが悪いみたいで……」

楽曲を売り出すというのは明確にビジネスで、供給側としては売れる方が良いに決まっている。
そして「いま売れる」ことと『長富蓮実が歌いたいもの』は、やはり明確に違うのだろう。

私はギョーカイの素人としての意見を返す。

「AKBとか歌った方が審査員に受けるんじゃないのか?」

おそらく事務所や関係者から異口同音なことを言われているであろう少女が答える。

「 たぶん。だけど…それは私じゃなくても構わないと思うから」

ー私じゃなきゃダメなこと

裏返せばそういう意味だろう。
それは確かに尊い思想で、誰からも汚されるべきではない。
けれど……。

ー先は長いだろうな

ギョーカイの素人は、口には出さずに呟いた。

「バッハやモーツァルトって、すごく昔ですよね」

音楽の授業を終えた生徒たちが音楽室から足早に出てゆく中、教材を片付けていると長富蓮実に声をかけられた。

「二人とも18世紀の人だからね」

200年以上昔だね、と返した私に、真顔で

「200年たてば、バッハの音楽みたいに扱われるのかな……」

と問う。
何が、とは聞かずとも分かる。
難しい質問だと思ったけれど、夢を壊すのはよろしくない。
そしてなにより、彼女は『夢を与える人』になろうとしているのだ。
だから、

「長富がバッハやモーツァルトにすれば良いんだよ。そのためのアイドル長富蓮実だろう?」

と答えた。

「…そうですよね。うん、そうでした!」

それは『眩しい』などという形容詞では言い尽くせないほどの、笑顔。
まだ夢を夢のままでいられた『あの頃』の光を写したような瞳。
私が生きている限り、その笑顔と瞳の煌めきを忘れることはないだろうと、本気で思った。

『青春というのは、ひまで、ときに死ぬほど退屈で、しかもエネルギッシュで、こまったことにそのエネルギーを知恵が支配していない』

なにを偉そうなことを、と思われるかもしれないが、私の言葉ではない。
司馬遼太郎の坂ノ上の雲からだ。
もちろん個人差はあるけれど、教師としての経験上、大半の高校生に当てはまる。
私自身もそうだった。

だから教える側にとっては最も難しく、危険で、そして面白い年代でもある。
何しろあっという間に変化するのだ。
三日会わざれば、どころではない。
私のような「オジサン」から見ればどうということのない出来事や会話をきっかけに、ほんとうに一瞬で変わってゆく。

私は言った。

「そのためのアイドル長富蓮実だろう?」

当たり障りのない言葉を選んだつもりだった。
『だからまぁ、頑張れ』ぐらいの。
けれど、受け取った側はそうではなかった。
長富蓮実は、ハッキリと変わった。

すでに持っていた『芯』が、さらに太くなったような印象だった。
『そうあろう』から『かくあるべし』に。

相変わらずうまくはいかないオーディション。
どうやら、ダンスも思うようには上達しないようだ。
同年代の少女たちが先にデビューしていくのを見るのも、辛いことだろう。

しかし、長富蓮実は言った。

「辛いこともありますけど…でも決めたんです。うつむいたりするのは、見えないところで、って」

そして、あの煌めきを宿した笑顔と瞳で言いきった。

「私はアイドルですから」

不純物ゼロの可燃性。

生まれる時代を間違えた、と言われ続けるかもしれない。
それでもその『芯』は、すり減ることは無いだろう。

夏が終われば冬がくる。
本当に早い。
別に、夏休みにサイパンに行ったわけではないけれど。

「俺がオジサンになったら」

などと言うまでもなくすでにオジサンなわけだけれど、職業柄、常に高校生と接しているせいか、同年代のオジサンと比べると気持ちだけは若くいられるのかもしれない。

コソコソと流行りの漫画や芸能人をチェックすることももはや「日常」だし、今どきの曲をピアノで弾いてみたりもする。
若者迎合、と言われれば

「だって仕方ないもの」

と答えるしかない。
その「若者」が『ぶつかり合う相手』なのだから。
敵(?)を知る、ということだ。

そういう点において、長富蓮実は気楽な敵(?)だった。

カセットテープにウォークマン、レコードプレイヤー。
松田聖子に中森明菜、キョンキョンにフィンガー5、さらには神田川や拓郎までカバーしている。
そのうちエラ・フィッツジェラルドやオーティス・レディングが飛び出してくるかもしれない。
 
オジサンとしては、とてもやりやすい。
勉学も品行も問題ないし。

しかし、彼女は松田聖子やキョンキョンになろうとはしていない。
『レトロ趣味』ではあるけれど、懐古主義ではない。

現代を生きる少女として、コピーでないオリジナルのアイドル像を築こうとしている。
クラシック音楽を志した者がバッハやベートーベンになろうとしているわけではないように。

長富蓮実は、長富蓮実というアイドルになろうとしている。
それはとても尊いことだと、教師としてではなく一個の人間として思う。

「オーディション、受かりました!」

そう告げられたのは、冬休みも間近に迫った日のことだった。

「3月から始まるラジオ番組のアシスタントです!」

「それはおめでとう。どんな番組なんだい?」

「島根県の魅力を全国に届けよう、っていう番組です!同じ事務所の鷹富士茄子さんも一緒なんですよ?茄子さんも島根なんです!」

島根県……。
出雲大社と、出雲そばと、石見銀山と……。

「いっぱいありますからね、島根県には」

勉学不足で申し訳ない……。
地理は苦手なんだよな。

「メインMCはエンペラーワッキーさんで」

「…どちら様?」

「すごく有名なタレントさんです!島根では!」

それは知らなくても責められるべきではない、と思うけども……。
まぁ、卑猥な内容のラジオではなさそうなので、喜ぶべきなのだろう。
アイドル長富蓮実の記念すべき第一歩として。

いつの間にか少女は…と歌ったのはたしか井上陽水だったはずだ。
それをアレンジさせてもらうなら、

「あっという間に長富蓮実は」

辺りになるだろうか。

ひとつのキッカケさえあれば、少年期や少女期の諸君はいとも簡単に階段を昇ってゆく。
一段どころか、三段跳ばしくらいで。
そんな当たり前のことを、いまさらながらに実感している。

初めてオーディションに受かったとの報告から一週間も経たないうちに、次なる慶事がもたらされた。
すでに冬休み中だったこともあり電話越しとなってしまったけれど、声の明るさはいつも以上だった。
彼女のあの笑顔が目の前に浮かんできそうなほどに。

「本格的なデビューに向けてデュオを組ませてもらうことになったんです!」

興奮しているらしく、珍しく早口でまくし立てる長富。
重要そうなワードをメモに取った。

ファンシーフリルス
今井加奈
私と同い年
誕生日も近い
同じ魚座
加奈ちゃんはとっても可愛いんです×4回

「それでね、加奈ちゃんはとっても可愛いんです!」

5回目なので『正』と書いた。
正正正、くらいになりそうな勢いだ。

「おめでとう」

感情的になりそうな自分を抑え、短く言った。

「それでね、えっと、私、えっと……」

すでに感情過多になっている長富に向けて、もう一度繰り返した。

「うん。おめでとう、長富」

「…ありがとうございます、先生」

お礼を言った声に湿り気を感じた。
あの大きな瞳も、
きっとそうなのだろう。
だから、いっぱしの教育者らしいことを言ってみた。

「泣くのは電話を切ってからにしなさい。アイドルはいつも笑顔で、だろ?」

「…はい。はい!先生、おやすみなさい!」

電話が終わり、静寂がひろがる。
その、静寂に向かって、小さく呟いた。
同じような場面で、おそらくは何百万、何千万回と使われてきたであろう言葉を。

ー頑張れ、長富

と。

年が明けて新学期が始まると、長富のファンシーフリルスとしての活動が始まった。
どうやら良心的な事務所のようで、仕事は土日祝日に限定されるようだ。
それでもこの先、デュオとして、そして長富蓮実個人としての『重要』が増えてくれば、平日の早退くらいはあるかもしれない。

となると、当然、

「2年生も田原先生のクラスで」

ということになる。

となると、当然、

「もう卒業まで田原先生のクラスで」

となるのは目に見えていて、これはもう「象さんはお鼻が長いのね」レベルで確定的だ。

「まぁ、別に、いいですけれど」

と無愛想に答えておいたが、押し付けられたという感情はもう無かった。
教え子の成長にいくらかでも貢献できるのならば、それは教師冥利に尽きるのだから。

オジサンにとっては一瞬とも言える月日の中で、彼ら彼女らの輝きは日々増してゆく。
それを間近で目に焼き付けることができるのだから、私きっと幸せ者なんだろう。

ー自分は教え子たちに何を伝えてやれるのだろう

それは教職にあるものが決して忘れてはならない、命題のようなものだ。
実習生も、新任も、ベテランも、そして教頭や校長も、教師である限り繰り返し繰り返し自問すべきものだ。
ひょっとすると、退職するその日まで答えは見つからないかもしれない。
けれど、志す、とはそういうことだ。

教え子に、ひとりの少女がいる。
特殊かもしれないが特別ではない、ひとりの教え子だ。

彼女はひとつの道を志した。
これから先、私たちと同じように、自問する日々を送ることだろう。

ー自分はファンのみんなに何を伝えてあげられるのだろう

と。
平坦な道ではなく、上り坂が果てもなく続くのかもしれない。
しかし、彼女は歩みを止めないはずだ。

再び引用を許されるなら、長富蓮実は、ただ、前をのみを見つめながら歩く。

そして、

『上って行く坂の上の青い天に,もし一朶の白い雲が輝いているとすれば,それのみを見つめて,坂を上っていく』

ことだろう。

ーまだ前段にすぎない彼女の物語が、自信と、そして多くの人々によって紡がれてゆきますように

心から、そう願う。

桜が咲き、春霞が空を覆っている。
20年以上教師をやっていても、やはりこの空気には高揚を覚えるものだ。

2年B組、38名。
私の新しい教え子たち。
その最初のホームルームで、いままでもそうしてきたように、ひとりのひとりの出席番号と名前を読み上げた。

「出席番号1番、相田真彦」

はい、という少し照れくさそうな返事に、1年間よろしくな、と返す。
番号と名前、そして声と顔。
ひとりひとりに対して、

ー俺は君を一生忘れない

と、心の中で誓う。
いままでもそうだったように。

「出席番号25番、長富蓮実」

「はい!」

「2年生でもよろしくな」

「こちらこそ、田原先生!」

特別なことは何もない。
ただ少しだけ、特殊なだけだ。

私のクラスにはアイドルがいる。
それもきっと、忘れない。



お し ま い

終わりです
予定よりはるかに長くなってしまいましたが、読んでくれた人、ありがとう。
蓮実ちゃんの魅力が少しでも伝わりますように!

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