都内にあるビジネス街は活気に溢れている。
たくさんのビルが立ち並び、
多くの人が行き交い、様々な仕事がある。
そのビジネス街には芸能プロダクションもあり、
そこには数多くのアイドルが所属する。
アイドル・プロデューサーのタケウチは、
そんなプロダクションに勤務している。
ある日、タケウチは担当するアイドルの渋谷凛から相談を受けた。
「プロデューサー、私、もっと歌が上手くなりたい」
真剣な面持ちでリンは言った。
「今だって十分上手いですよ、もっと上を目指すのですか?」
コーヒーカップを机に置きながらタケウチは答えた。
リンは黙って頷いた。
張りつめた空気が二人の間に横たわる。
夏の暑さを増幅させる熱気が、
リンの体表から発せられているようだ。
タケウチはリンの目を見据えた。
「ユニットの皆はどう言っているのですか、
今のままでは不満だと言っていますか?」
リンは首を横に振った。
「そういうことじゃなくて、私自身が思ったことだよ、
もっと上手くなりたいって、そう思う」
そう言ったリンの眼差しは真剣で、
緑色の瞳から強烈な気力が発せられた。
まとわりつく独特な粘り気さえ感じられる。
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「真剣なことは分かりました、
こちらも何とか期待に応えられるよう努力しましょう、
しばらくの間、お待ちください、
シブヤさんの期待に応えられる人にアポを取ってみます、
その方に会えば、何かヒントを掴めるかもしれません」
右手で首の後ろを押さえながら、タケウチは言った。
考え事をする時にそうした動作をする癖が、タケウチにはある。
今回、癖の発露は、少し考えさせてくれという意味だったろう。
「わかった、プロデューサーを信じて待つことにする、
ありがとう、プロデューサー」
リンは微笑みながらタケウチを直視して、
踵を返し部屋を後にした。
「ミスターPに頼んでみますか……」
リンが去った後、タケウチは独りで呟いた。
タケウチは、知人の音楽プロデューサーで、
業界では「ミスターP」と呼ばれる男に連絡を取った。
ミスターPはリンの事を聞いて彼女に興味を持ったようだ。
今度、自分のプロダクションまで連れて来いと言った。
タケウチはミスターPに礼を言ってから電話を切った。
連絡を終えたタケウチは、
アイドルたちの様子を見る為に、
アイドルたちが集まる部屋へと向かった。
部屋には3人のアイドルがいる。
本田未央、島村卯月、三村かな子だ。
テーブルの上に置かれた皿を見つめながら
三人とも険しい顔をしている。
三人が囲む皿の上には、吐瀉物みたいな物体が盛られていた。
「あ、プロデューサー、いいところに来たよ」
ホンダは喜んだ様子でタケウチを迎えた。
「なんですか、その皿の上の物は」
タケウチはホンダに訊いた。
「みくにゃん、大阪出身でしょ、
さすが大阪人だよ、自前のタコ焼きプレート持っているんだ、
あたし、タコ焼き作りたくってさ、
みくにゃんからプレート借りてタコ焼き作ってみたんだけど、
失敗してこんなことに」
苦笑いしつつ皿の上の物体を指差してホンダは答えた。
みくにゃんとは、同じ事務所に所属するアイドルで、
本名は前川みく。
猫キャラを演じているので、皆からみくにゃんと呼ばれている。
「それはタコ焼きですか?」
タケウチは、タコ焼きと皿の上の物体を結びつけることが出来なかった。
「プロデューサー、食べるの手伝ってよ!」
ホンダの一言を聞いたタケウチは身震いした。
皿の上のタコ焼きと称した物体は、
どう見ても食べ物には見えない。
それを食えと言われても、
大抵の人には困惑した反応しか出来ないだろう。
しかし、ここで食べずに済ませるわけにはいかない。
プロデューサーはアイドルを傷付けてはいけないからだ。
「食べます」
タケウチは声を喉に詰まらせながら返事をした。
「ほんと! うれしいなー!
未央ちゃんの手作りタコ焼き、見た目は悪いけど、
美味しいと思うよ、たぶん」
ホンダは食べられる代物である事を強調した。
シマムラとミムラは黙って様子を眺めた。
箸でタコ焼きを取ったタケウチは、
恐る恐るそれを口へと運んだ。
そして、一気に口内に放り込み、噛み締める。
タケウチは顔が真っ青になり嘔吐しそうになったが、
必死に堪えた。
ここで吐くわけにはいかない。
「どう、あたしの作ったタコ焼き、美味しいでしょ、
見てくれは悪いけど、味は悪くないと思うんだ」
ホンダは笑顔でタケウチに訊いた。
タケウチは顔が固まってしまったため、
表情から心中を読んで貰えなかった。
「な、何とか食べられます」
タケウチは最大限の世辞を述べた。
「た、食べられそうかな」
シマムラが皿の上にある残りのタコ焼きを見た。
「プロデューサーさん、ちゃんと飲み込んだので、
食べても大丈夫ですよ……たぶん」
ミムラはタケウチの顔を見ながら言った。
誰が先に食べるか牽制しあっていた状況下で、
タケウチが来たことは彼女たちにとって好都合だったろう。
ちょうどいい実験台が来たわけだから。
シマムラとミムラはタコ焼きを口へ運び飲み込んだ。
反応はその後に現れた。
シマムラの顔が青ざめて、
瞳は土留色になり焦点が合わなくなった。
体が硬直して口は真一文字に結ばれた。
ミムラは口を押えて堪えた。
マスタードガスを吸った人みたいな咽びを上げたが、
勢いをつけて何とか飲み込んだ。
二人の反応を見たホンダは、
やっとタコ焼きの不味さに気が付いたようだ。
「あはは、味の方も失敗していたみたい、
ほんと、ごめん、そんなのを食べさせて、
今度はさ、ちゃんと作って来るよ!」
ホンダによってトラウマを植え付けられたので、
タケウチはしばらくタコ焼きを食べる気が起きなかった。
皆がタコ焼きに辟易している最中、
ミムラが部屋の隅にある荷物置き場へ行った。
「みなさん、クッキーを食べませんか、
私が焼いたクッキーを持って来たんですよ」
ミムラは籠を取って来て見せた。
「わあ、それは良いですね」
シマムラが笑顔になった。
「ナイス! 口直しに丁度いいよ!」
ホンダが右手の親指を上げた。
ミムラは籠の蓋を開けクッキーを皆に見せた。
美味しそうなクッキーが、タケウチの食欲をそそる。
「プロデューサーもどうぞ」
ミムラはタケウチにクッキーを勧めた。
タケウチは会釈してクッキーをひとつ取って食べた。
口内の不快感が一掃された。
「食べると不思議と落ち着く味ですね」
タケウチの顔がほころぶ。
「食べるとハッピーになれますよ、お菓子の魔法ですね」
ミムラが微笑んだ。
「バニラ味ですか?」
「バニラクッキーだね?」
シマムラとホンダがクッキーを飲み込んでから訊いた。
「フィジー産のバニラを使ったんですよ」
ミムラが答えた。
フィジー産バニラの香りと味が効いたクッキーは、
ミムラが言う通り魔法みたいに皆の雰囲気を和やかにした。
そういえば、フィジーは白魔術が盛んだ。
このクッキーにもフィジーの白魔術の効果があるのかもしれない。
「皆さんにお聞きしたいのですが」
タケウチは三人の顔をそれぞれ眺めた。
「シブヤさんは今の歌唱力に不満を持っているのですか?
みなさん、そういう話を彼女から聞いたことありますか?」
和やかな雰囲気の中、タケウチはリンの話題を出した。
タケウチの話を聴いて、真っ先にシマムラが反応を示す。
「リンちゃん、自分の歌には何かが足りないって、最近よく言っています、
今のままでも十分上手いって私は言ったんですけど、
リンちゃんは納得出来ないって言いました、
私は何が足りないのかよく分からなくて……
でも、リンちゃん本人も分からないみたいなんです」
シマムラは心配そうな顔をした。
「しぶりんは完璧主義で理想主義だからなあ、
追い求めても掴めないような理想を追いかけているんじゃない?」
ホンダは顎に手を当てて考えながら答えた。
「プロデューサーさんは何か心当たりがあるんですか?」
ミムラが訊ねた。
「私にもよく分かりません、何が足りないのか、
シブヤさんが何を足りないと感じているのか、
そこで有名な音楽プロデューサーに助言を乞うことにしました」
「音楽プロデューサー?
アイドルのプロデューサーじゃないんですか?」
シマムラがタケウチの方を見ながら訊いた。
「はい、音楽業界では有名な人で、ミスターPと呼ばれています、
かなりアクが強い人物でして……
シブヤさんの話をしたら、彼は興味を持ってくれました」
タケウチは答えた。
「その人としぶりんを合わせてみるんだ?
何かヒントは掴めそうなの?」
ホンダが首を傾げる。
「それは会ってみないと分かりませんね」
タケウチは首の後ろを押さえながら返事をした。
「まあ、あたしたちにも手助け出来そうもないからね」
ホンダは右人差し指で頭を掻いた。
「リンちゃんの悩み、解決してあげてください!」
シマムラが力強い視線でタケウチを見つめた。
「はい、私も出来る限りのサポートはします」
タケウチは力強くシマムラを見つめ返した。
シマムラはそれに応えて頷いた。
リンの悩みを解決できる目処は立たなかった。
タケウチにも知人に相談すること位しか出来ない。
それでも、出来ることはやってみるつもりで、
タケウチはそれが自分の仕事だと確信している。
その想いだけはシマムラやホンダやミムラにも伝わったようだ。
後日、タケウチはリンをミスターPの事務所まで連れて行った。
ミスターPの事務所は、
西新宿超高層ビル群の谷間にある古いビルである。
ミスターPは毎週月曜日の午前中に自室でマッサージをする。
派手な水着の黒人女にマッサージをさせる。
超高層ビルで働く人達が
それを見て羨むだろうと考えているのだ。
タケウチとリンが到着した時、
ミスターPは寝台に寝そべりマッサージされている最中だった。
「久しぶりやな、タケウチ」
タケウチの方を見ながらミスターPが言った。
「お久しぶりです、先日お話した渋谷凛を連れてきました」
タケウチは深々とお辞儀した。
「おお、その娘がリンちゃんか、えらいべっぴんやないか」
ミスターPは口元を弛ませた。
「はじめまして、渋谷凛です」
リンはタケウチを真似て深々とお辞儀した。
ミスターPは小太りの中年男で、成金らしい雰囲気が感じられる。
独特の威厳があるとリンは思った。
「リンちゃん、音楽のことで悩んでいるんやろ?」
ミスターPはリンに訊ねた。
「はい」
リンが返事をするとミスターPは上体を起こした。
「歌が上手くなりたいというけど、具体的にどの辺に不満を感じるん?」
ミスターPの質問にリンは答えられず、
黙ってうつむいてしまった。
「具体的なことは、本人にもよく分からないみたいです」
タケウチは困り顔になった。
「技術的なことやろか? メンタル的なことやろか?
その辺すらも分からんと、話にならんな」
ミスターPは溜息をついた。
「私にもよく分からない……」
リンは首を横に振った。
「君の曲を渡されて聴いてみたけどな、
アイドル歌謡にしては上手い方やで、
少なくとも僕はそう思った」
寝台から降りながらミスターPは言った。
ミスターPの傍らに立つ背の高い黒人女が、
静かな目でリンを見つめる。
大柄なタケウチと比べても見劣りしない背丈の黒人女は、
威圧的な雰囲気を醸し出していたが、
リンは見つめられても気圧されなかった。
その様子を見た黒人女は、リンに微笑を送る。
リンはそれに対して微笑み返した。
それから、ミスターPのほうへ視線を移し注視する。
「肝はすわっとるようやな、きみは」
ミスターPは笑みを浮かべた。
タケウチとリンはミスターPと共に
ミスターPの自室へと移動した。
サファリをイメージした内装で、
アフリカの御面やガゼルの剥製が壁に飾ってある。
床にはシマウマの革が敷かれている。
「リンちゃんは今以上に歌が上手くなりたいんか?」
重厚な革張りの椅子に腰かけながらミスターPは訊ねた。
「はい、上手くなりたいです」
リンははっきりと答えた。
「歌が上手くなりたい言うてもな、難しいやろうな、
歌の才能があったとしても、
本職の歌手並に上手くなるのは難しいんやで、
アイドルは踊りやらパフォーマンスもやるからな、
そっちの練習に時間を割くわけやから、
歌手と比べると歌に割く時間は限られるわけや」
ミスターPは淡々と説明した。
「出来る範囲内で上手くなりたいと思います」
リンはミスターPを見据えて強い口調で言った。
「その心意気はええんやが……具体的に何がしたいのや?」
ミスターPは太った体を背もたれに預けながら訊いた。
「それが……よく分からない」
リンは困惑する。
「彼女も不満の正体を掴めずにいます」
タケウチがリンの話を補足するように説いた。
そのときの顔は、リンと同じく困惑に満ちていた。
「なんや、抽象的な話ばかりやな、
それって何となく不満を感じているだけやないか?
完璧主義の若い子にありがちな思い込みと違うんか?」
ポマードで撫でつけてあるオールバックの頭を掻きながら
ミスターPは気怠そうにしている。
「思い込み……そうかな……」
リンは考えを巡らしてみたが、確信はつかめなかった。
錯覚なのかどうかさえ分からない。
ただ、もやもやしたわだかまりが感じられるだけだ。
「たしかに、そういう感覚はアイドルにありがちでしょう、
レッスンをいくら重ねても安心できない、
そういう気持ちがアイドルには誰しもあると思われます」
タケウチは首筋を押さえながら困惑の表情を浮かべた。
無言のまま時間が過ぎて行った。
そうしている内に約束の面会時間は終わりに近づいた。
「これ以上はここで話しても無駄なようや、
今夜、新宿で中華を食べるんやけど、二人も一緒に来んか?
そこで改めて話し合ってみようやないか」
ミスターPが提案した。
タケウチとリンはほぼ同時に頷いた。
食事の誘いを受けることに決めたのだ。
タケウチは事務所での仕事が残っていた為、
リンだけを先に中華料理屋へ向かわせた。
目的地である店でタケウチと合流する予定だったリンだが、
途中の裏路地で迷ってしまった。
複雑な迷路のような路地を持つ街。
リンはその街の中で途方に暮れる。
その路地は薄暗くて不潔だ。
まだ夕陽が残っているにもかかわらず、
周囲の建物が空を覆い隠すので暗い。
その上、吐瀉物と小便の匂いが立ち込める不潔な狭路だ。
そんな場所でリンは不快に顔をしかめた。
リンは一休みして周囲の様子を眺めた。
乞食の老婆が空き缶を拾い集めており、
手に持った袋には空き缶が一杯詰まっている。
リンと老婆は一瞬だけ目を合わせたが、
老婆のほうがすぐに視線を逸らした。
薄汚い服を着た男がリンに寄って来た。
「ねえちゃんねえちゃん、こんな所で何やってる?
たちんぼか? いくらでやらせてくれる?」
男は下品な笑みを浮かべながら問いかけたが、
リンはその男を無視した。
「無視することないだろ、なあ、
俺と楽しい事しようじゃないか、なあ、いくら?」
「あの、そういうのじゃないんで、放って置いて」
不機嫌そうな目で睨みつけながらリンは強く自己主張した。
「うそだろー、ねえちゃん男を誘う格好しているじゃないか、
若いのにピアスなんて開けて、遊び慣れているはずだ!」
リンは歩き始めて男を引き離そうとしたが、
男は下品に笑いながらつきまとう。
「な、な、ねえちゃん、頼むよ、一発やらせてよ、
俺、黒髪ロングのねえちゃん好きだから」
「しつこい! どっか行って!」
リンは声を張り上げた。
それでも男はつきまとってくる。
「おまんこにまんえん」
男は股間を揉みながらリンの進路を妨害する。
リンは近くに落ちていた空き缶を拾い上げて男の足元へ放り投げた。
空き缶は路面に当たって甲高い金属音を立てながらバウンドした。
「あんたなんか大嫌いだから!」
リンは怒鳴りつけて追い打ちをかけた。
「なんだよ! このアマ!
お高く留まっているんじゃねえよ、
どうせおまえなんかアバズレだ!
気取っていたって俺には分かる、
女なんかセックスだけしか能がないんだ、
ただのおまんこが偉そうにすんな!
おまんこー! おまんこー!」
男は血走った目でリンを睨みつけた。
高純度のコカインでもキメたように興奮した様子で、
男は口汚くリンを罵った。
「うるさい!」
リンは男の脇を通って追い抜いた。
後ろに取り残された男は、
汚い言葉を喚き散らしているが、
リンを追ってくる気配はなさそうだ。
一歩進むごとにリンは安心した。
汚い場所で迷った上に絡まれるという災難に遭った。
しかし、リンはめげずに目的の中華料理店を探す。
途中、人の良さそうな初老の紳士を見つけたので、リンは道を尋ねた。
彼は親切に助言してくれた。
それによって店の場所が判明する。
リンは助言の通りに道を進んだ。
意外にも、迷っていた区域から近い場所で目的の店を発見。
「はあ……やっと見つけたよ」
リンは落胆した。
金箔で飾られた中国風の赤提灯が入口にぶら下がっており、
頭上の看板には上海家庭料理と書いてある。
路地裏にある小さな店だ。
外観は何の変哲もない。
あのミスターPが選んだ割には案外普通の店だ。
リンは拍子抜けした様子で溜息をついた。
「ふーん……なんだか普通の中華料理屋だね」
リンは店の中へ入って行くと、
タケウチとミスターPをすぐに見つけた。
店の奥に位置する壁際の席に座っている。
「遅かったじゃないですか」
心配そうな顔でタケウチはリンを見つめた。
「ごめん、ちょっと道に迷ったんだ」
リンはタケウチを安心させようと思い笑みを浮かべる。
「もう料理は注文してしまったんやで」
ミスターPがテーブルの上に並んだ料理を指差した。
「遅くなってすいません」
リンはミスターPにお辞儀しながら謝った。
「まあええわ、揃ったんなら早よ食おう」
リンは四角いテーブルから椅子を引き出し腰かけた。
左隣にはタケウチが座り、
対面にはミスターPが座っている。
「それじゃあ、今日はごちそうになります」
リンはミスターPに会釈した。
「おう、たくさん食べていけや」
ミスターPは笑みを浮かべた。
彼の肉付きのよい頬は大きくゆがんだ。
「結構、刺激的な料理が多いですよ、大丈夫ですかシブヤさん」
タケウチは心配そうな表情を浮かべた。
「辛そうには見えないけど」
リンは首を傾げた。
「そういう意味ではなく……まあ、食べてみれば分かります」
タケウチの態度を理解できないまま、
リンは黒い小海老のような物を箸でつまむ。
間近で見たそれは、見たこともない料理だ。
「黒い海老……かな、これは何?」
リンは口に入れるのを躊躇った。
「それはサソリやで、サソリの唐翌揚げや」
「サ、サソリ!」
ミスターPの言った事にリンは驚いた。
「食べると精がつくんやで」
リンはサソリと聴いて戸惑う。
そんなものを食材と認識したことはなかったからだ。
「た、食べてみる」
勇気を出してサソリを口に入れたリンは、
好奇心と恐れが入り混じった複雑な表情を浮かべた。
サソリを噛んだリンは、意外にも普通の味だと思った。
沢蟹のような食感と味がした。
「案外……普通に食べられる……あ、苦い!」
サソリの身を強く噛み締めた瞬間、
強烈な苦みがリンの舌に拡がる。
「苦いけど体に良いんやで」
「か、かなり苦い……」
リンは顔中の表情筋を強張らせて、
まさしく苦虫を噛み潰したような顔になった。
傍らに置いてある湯呑を手に取り、
中身の中国茶を一気に飲み干して、
リンはサソリを胃の奥まで流し込んだ。
「どうや、刺激的やろ?」
「大丈夫ですか、シブヤさん」
タケウチは心配そうな目でリンを見つめている。
「刺激的って意味……ようやく分かったよ」
リンは苦笑いを浮かべた。
「それじゃあ、次はこれや」
ミスターPは小さな土鍋を指差した。
土鍋の中身を箸で取って見たリンは目を丸くした。
それは何の変哲もないゼラチンだった。
「牛筋……それにしては肉が少ない……ゼラチンの塊みたい」
訝しげに観察しながらリンは呟いた。
「食ってみ」
ミスターPはゼラチン質の物体を食べるよう勧めた。
リンは勧められるまま食べてみる。
「匂いも味もしないよ」
リンは、ゼラチン質の物体をよく噛んでから飲み込んだ。
無味無臭で味気なかった。
「それな、牛のペニスのカレー煮込みや、
要するに牛のおちんちんやで」
ミスターPは笑いながら言った。
リンは箸を空中で静止させたまま呆然とした。
「あの……アイドルにそれは、ちょっと」
タケウチは困惑した顔で言った。
「なんや、牛のおちんちんを口にしたって大丈夫や、
スキャンダルにならんやろ、
人間のおちんちんを咥えたらまずいやろうけど」
ミスターPはにやりと笑う。
「た、食べてみると意外と無難でした」
リンは引きつった笑みを浮かべた。
「な、意外と何ともないやろ?
それも精がつく料理なんやで、
元気がないときには最適なんや」
ミスターPは自信ありげに言った。
そして、皿に盛られた脂肉を食べ始めた。
鴨のロースト、豚ばら肉の角煮、スペアリブのグリル……
ミスターPの前に並んだ皿を見てみると、
脂が滴る肉ばかりが置かれている。
「こってりした肉が好きなんですか?」
リンがミスターPに訊ねた。
「そうや、僕は脂肉が大好きなんや、
子供の頃に食わせて貰えなかったから、
大人になってから食べ続けるようになったんや、
脂肉を食わないとやる気が出ないんやで、
僕にとっては活力源や」
ミスターPはリンに鴨のローストを勧めた。
リンは会釈してから鴨肉を摘まんで食べた。
「肉を食べている感じがする」
濃厚な脂の旨味が口内に拡がる。
動物を頂く罪の味だと思った。
「食べてばかりいても仕方ないやろ、
そろそろ、昼間した話の続きを始めよか」
ミスターPは豚ばら肉を飲み込んでから言った。
脂身を食べて滑りが良くなったのだろうか、
今までよりも喋り方がスムーズになっている。
「シブヤさんが何か不足感を訴えている件です」
タケウチが話題を切り出した。
「それやそれ! リンちゃん、何か足りないって感じなんやろ」
「具体的には分からないけど」
リンは中国茶を飲みながら答えた。
「それなんやけどな、アーティストは慢性的に感じている、
なんとなく足りないって感覚だと思うんや、
それが向上心に繋がることもあるから、
悪いことばかりやないんやけど、
スランプに陥ってしまうとあかんことやね」
ミスターPが持論を述べた。
「私がアーティスト……?」
リンは考え込んだ。
「そういう悩みを感じるってことは、
たぶん美意識について悩むってことやろ、
美の探究者はアーティストと呼べるんやで」
豚の角煮を箸でつまみながら、ミスターPが言った。
「そういう悩みを、皆さんどうやって解決するんですか?」
タケウチは首根っこを押さえながら訊ねた。
「そうやなあ、舌をちょん切った歌手もおるで」
「舌?」
不安に満ちた声でリンは復唱した。
「声質を変えるために自分で自分の舌先を鋏で切ったんや、
その歌手は声質が変わってスランプを脱したんやで」
この話を聴いたリンとタケウチは、顔が真っ青になった。
「さすがにそれは……無理かな……」
リンはうつむいた。
「ミスターP、ちょっと過激すぎますよ」
タケウチはこめかみを掻いた。
「そりゃあ無理に決まっとる、
僕もそんな方法はお勧めしない、
あくまで一例として出したまでや」
ミスターPはそう言ってから中国茶を啜る。
リンは少し身震いした。
「悩みに行き詰った人はどうなるんですか?」
リンはミスターPに訊ねた。
その声は震えていた。
ミスターPは少し考え込んでから口を開く。
「そりゃあ、人によって色々やで、
才能に限界を感じて創作から離れる人もおるし、
趣味で気楽に創作を続ける人もおるし、
スランプを脱して一皮剝ける人もおる、
リンちゃんがどのタイプか、そこまでは分からんな」
リンは考えながら発言した。
「限界は感じていないし、
趣味でやるつもりはないし、
スランプはどうだろう……今、スランプなのかな」
「そういう自己分析は大切なことやけど、
一人で閉じ篭っていても見えないこともあるんやで」
「プロデューサーである私も、出来る限りサポートします」
リンは微笑む。
「そうか、私には支えてくれる仲間がいるんだね、
プロデューサーやアイドルの皆がついている」
「自分と向き合っていても自分が見えてこない、
むしろ自分を見失ってしまうこともあるんや、
だから仲間がいるのは心強いことやね」
三人は中華料理を食べながら夢中になって話をしたので、
帰る時間が遅くなった。
ミスターPは愛車のロールスロイスで
リンを自宅まで送り届けた。
リンはプロデューサーとミスターPに礼を言って自宅に戻った。
自宅に戻ったリンは台所に向かった。
リンの母親が料理をしている。
テーブルに置かれた皿にはトマトが積まれており、
暖色の照明に照らされて赤く輝いている。
「おかえりなさい」
「ただいま」
リンの母親はトマトピュレを作っている最中で、
潰れたトマトがボウルの中に見えた。
「食事は済ませて来たんでしょう?」
トマトを潰しながらリンの母親が訊ねた。
「うん」
「それじゃあ、トマトは朝食まで取って置くから、
今日はお風呂に入ったら寝なさい」
「わかった」
入浴した後、
頭にタオルを巻いたままリンは自室に戻った。
タオルの内側に束ねられた髪は湿気を含んでいて気持ち悪い。
髪を解き放ちたいと思ったので、
ベッドに腰掛けてからタオルを外した。
髪がほどけた瞬間、悩みの内の何かも解けた様な気がした。
潰れたトマトを思い出しながら、悩みが潰れていく感覚もあった。
「そうだ、明日、私の歌を聴いてもらおう」
翌日、シブヤはホンダとシマムラを呼んで、
三人でレッスンルームに集まった。
「しぶりん、何だか晴れやかな顔をしているね」
ホンダは渋谷の顔を眺める。
「リンちゃん、悩みが解決したんですか?」
シマムラが微笑みながら訊いた。
「うん、ヒントは得られたかな」
シブヤは二人の顔を眺めて答えた。
「私たちに出来る事って何かあるの?」
「今日は歌を聴かせてくれるんですよね」
「うん、今日は私の歌を聴いてほしいんだ」
シブヤは二人の前でソロ曲を熱唱した。
観客は二人だけだが、真剣に歌って聴かせた。
「やっぱり、しぶりんは歌上手いよね」
ホンダがしみじみ感想を述べた。
「リンちゃんは特技があって羨ましいです、
私もリンちゃんみたいに歌が上手かったら……
そう思うことがありますよ」
シマムラが目を潤ませて感激している。
「二人にもそれぞれ持ち味があるでしょ、
私には……私の持ち味って歌なのかな……」
シブヤは照れくさそうに言った。
「私はしぶりんの歌って上手いと思うよ」
ホンダが真顔になった。
「上手だから悩むんですか?」
シマムラが心配そうな顔をした。
「分からない……足りないと思う所はあるし、
そういう気持ちは常にあるんだ、
本当に分からないんだ、自分の歌が上手いかどうか、
人に上手いって言われても納得できない部分があって、
もしかしたら、それって消えない不足感なのかもしれない」
シブヤは考え込んだ。
「私も演劇の練習でそう感じることがあるよ」
ホンダはシブヤの目を見つめた。
「私なんか……そもそも、
自分には何が出来るんだろうって思いますよ、
アイドルとしての取柄は笑顔だけなのかなって」
シマムラは困った様子で気持ちを打ち明けた。
「みんな、そういう悩みを抱えているんだね」
シブヤは二人を眺めた。
「失礼します」
タケウチがレッスンルームに入って来た。
「あ、プロデューサー」
ホンダが最初に挨拶した。
何をしているのか訪ねて来たタケウチに、
シブヤが歌を歌って聴かせているのだ、とホンダが説明した。
タケウチは自分もシブヤの歌を聴いてみたいと申し出た。
「わかった、歌ってみる」
歌を歌ったシブヤには、
今までにない感覚が沸き起こった。
皆に支えられていることの実感、
皆に期待されているという事実、
仲間がいるから頑張れると思えた。
皆、それぞれ不足感を抱えている。
自分もその一人だ。
不足感と向き合いながら頑張れるのは、
仲間が支えてくれるからだ。
一人で解決しなければいけないときが来るかもしれないが、
今は仲間に支えられていることが重要だ。
アイドルは一人で演じる仕事ではないと、
シブヤは実感した。
「聴いて! これが私の新しい歌だよ」
仲間達の前で歌い解放感を覚えた。
―おしまい―
村上龍っぽい感じってどんなだろう……と考えながら
物真似芸に挑戦してみました
正直、似ている自信はあまりないのですが、楽しんで頂けたら幸いです
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