結衣「いやな夢」 (56)
たいせつなものほど、ちかくにあります。
いつでも、あなたのそばにあるはずです。
けれど、そばにあることがあたりまえすぎて、
そのたいせつさをわすれてしまってはいませんか?
いつだって、きにしてあげてください。
いつだって、さがしてあげてください。
そのたいせつなもののことを、かんがえてあげてください。
いまさらかんがえることもないだろうなんて、
はずかしがったら、かわいそうです。
なくしてしまってから、そのたいせつさにきづくなんて、
かなしいことには、ならないように。
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~
私が送った返信メッセージに既読がついて3秒も経たないうちに、家のチャイムが「ぴん……」と鳴った。
「えっ!?」と思いながら玄関の方を見る。ボタンを引く際の“ぽーん”がまったく鳴らないことで、懐疑の念は確信に変わった。「おかしいだろ……!」と一人突っ込みながら急いで扉に向かう。
「今からそっち遊びに行ってもいい~?」とのメッセージが来たのがつい3分ほど前。あいつの家からうちに着くまで、乗り物を使ったって3分で到達するのは不可能だ。まずそもそも私の部屋がある階層まで上るのに時間がかかる。となると、あいつはどうやらこの建物の昇降口も突破したところでそのメッセージを送っていたらしい。
そして私の「いいよ」という返信が読まれてすぐにこれだ。いったい何分前からうちの玄関の前にいたというのだろうか。
結衣「…………」がちゃ
「いよーっす! 今日大丈夫なんだよね?」
玄関を開けるとやはり、チャイムを押えていた指をぽーんと離して快活に手を挙げる京子がいた。
結衣「おいおい……私が今日大丈夫じゃなかったらどうするつもりだったんだ?」
京子「えへへ、そしたら結衣に気づかれないように大声で泣きながら帰ってたかな」
結衣「いや家の前で大声で泣いてる人がいたら気づくだろ」
京子はすたすたと私よりも先を歩いて部屋に入り、背負っていたぱんぱんのリュックをリビングの端っこにするりと下ろした。
結衣「今日はまた大荷物だな」
京子「色々持ってきたよ~! お菓子でしょ、ゲームでしょ、漫画でしょ、お菓子でしょ、あとお菓子と……」ぽいぽい
結衣「お菓子何個あるんだよ」
リュックの中身を取り出しては放り散らかす京子。肝心の着替えが入ってないぞと言おうとして、うちのクローゼットにまだ何着か京子の服があったのを思い出した。私でさえ忘れかけていたそれを計算にいれた上で持ってきていないのだとしたら……まったくこいつは、図々しいの域を軽く飛び超えている。
だが京子のそんな気遣いのまったくないところに、私もどこか嬉しさを覚えていた。
京子「今は何かしてたの?」
結衣「別に。軽く掃除でもしようかなと思ったけど、思った瞬間京子が来たからできなかったよ」
京子「掃除ってのは普段からしておかなきゃだめなんだぞー。ほらお菓子こんなとこに置いといたら踏んづけちゃうよ」
結衣「それは今京子のリュックから出てきたやつだ」
京子「これ最近発売したやつなんだけど結構おいしくてさー! 食べてみる?」
結衣「へぇ、じゃあ貰おうかな」
京子「よーし、さっそく食べながらゲームといきますか」
結衣「いいよ、なにやる?」
京子「あれ進めさせてよ、この前のやつ」
結衣「あーあれか。そういやまだ序盤だったな」
京子「今日一日でクリアしてみせるよ~! 私たくさん寝溜めてきたから、徹夜の覚悟はばっちり!」
結衣「私がばっちりじゃないよ……ま、頑張ってなるべく起きるけど。どうせ明日も何もないしな」
京子「そうそう。 いや~夏休みって最高だね~♪」
結衣「京子宿題どのくらい進んでる?」
京子「えーっとさしずめは装備の強化と魔法習得と……うーん、効率よくレベル上げもしないとだ」
結衣「……だと思ったよ」
京子「もうっ、これから遊ぶってときに宿題の話は禁止でしょ!」
結衣「とことん遊ぶからこそあらかじめ……はぁ、まあいっか」
京子「えへへ……私今日すっごく楽しみだったんだからね。よっしゃーとことん遊ぶぞ~!」ぱかっ
結衣(……楽しみ、か……///)
京子はてきぱきとゲームハードにディスクを挿入し、お菓子の準備も整えてさっそく万全の態勢を敷いた。
画面に映ったのは私がずいぶん昔にクリアしたファンタジーRPG。進めるのは以前作成したばかりの京子のデータだ。
きっと長い旅になるだろう。先の展開を知っているだけに新鮮味こそないのだが、私もやはり楽しみに思えていた。
――――――
――――
――
―
……自分でも、眠気が限界に来てしまっていたのを覚えている。
昨日寝た時間も遅かったわけではないのだが、淡々とレベル上げをこなす京子のゲーム画面を見ているだけでは当然瞼に重みが増していった。
お昼ご飯も作ってあげていないのに寝落ちだなんて申し訳ないな……でも京子お菓子たくさん食べてるし、あんまりお腹減ってなさそうだ……そんな葛藤を静かに繰り返しながら、私はじりじりと暑い午後の陽だまりの中、クッションを枕にして眠りの世界へと落ちてしまった。
どれくらい寝ていたのかは定かではないが、ほんの数十分ほどしか経過していない気がする。寝落ちというよりはしばらくうとうとしていただけと言った方が正しい。
……そのはずなのに、私が起きた時には窓の外が夕焼けに深く染まっていた。
結衣(ん……あれ……?)
寝ぼけまなこであたりに目を配る。ついさっきまで隣でかちゃかちゃとレベル上げにいそしんでいた京子がいなかった。ゲーム画面はポーズになっている。
結衣(トイレかな……)
むくりと身体を起こし、自分の身体が汗にまみれていることに気づく。居眠り後の独特な発汗作用によるものもあるだろうが、やはり何よりも真夏の日差しが暑いのだ。冷房が効いていてこの暑さはたまったもんじゃ……
……ふと見上げたところにあるエアコンの、電源のサインが消えていた。
結衣「えぇ……!」
急いでリモコンを取って冷房をいれる。これじゃ暑いのは当たり前だ。というか脱水症状にすらなりかねない危ないところだった。
しかしなぜ電源が切れているのだろう? タイマー設定にした覚えはない。とすると京子が切ったのか?
だが自分より暑がりの京子がそんなことをするとも思えない。何かのはずみで机の上に置いてあるリモコンの電源ボタンを押してしまったのかもしれない。Tシャツの襟元をぱたぱたと仰いで胸の内に風を送り、私は喉の渇きを癒すため冷蔵庫に冷やしてある麦茶を取りに行った。
冷蔵庫の前まで行ったとき……何かの物音を感じた。
耳を澄ますと、やはりノイズのような小さい断続的な雑音が聞こえる。よくよく集中すればそれが水の音だということがわかった。
水の音は風呂場の方から聴こえる。京子はトイレに行ったのかと思ったが、どうやらシャワーを浴びているらしかった。京子も汗をかいてしまったのだろうか。
脱衣所の扉をそっと開けると、やはり浴室には明かりがついていた。バスタオルを取り出してきれいにたたみ直し、わかりやすい場所に置いてあげる。京子も一応お客さんだし、この部屋の主としてこういうことくらいはしないといけない。
結衣「京子ー? バスタオルここに置いとくぞ」
シャワーの音で聞こえないのだろうか、返事はしなかった。まあいいかと思って戻ろうとするとき、私は背後に強烈な違和感を覚えた。
結衣「…………」
水の音が、いつまでたっても一定であった。
シャワーを浴びているのだとしたら、身体に当たった水はその部位によって不規則な音を発し、また風呂場の床に落ちる水の音にも当然差異が生まれるはずだった。
しかし今私の耳に届いているシャワー音は、言うなればシャワーを持ってただ床に流しているだけのような、変化のない一定した音だった。
心の中の違和感が、嫌な予感に変わった。風呂場の扉をノックする。
結衣「京子? 大丈夫か?」
……返事がない。相変わらず単調な水の音だけが聞こえる。
そしてふと気づいてしまった。脱衣カゴの中がからっぽだった。当たりを見渡しても特に脱ぎ散らかした服などがない。……京子の脱いだ服がどこにも見当たらない。
結衣「きょ、京子っ!?」
ばんばんばん、と扉を叩く。ここまで返事が無いのはさすがにおかしい。もしかしたら溺れているのかもしれないという不安が一気に高まり、ためらうこともなく風呂場の扉を急いで開けた。
結衣「!!!」
……溺れてはいなかった。
否、そこには誰もいなかった。
浴室では音から察した通りシャワーの水が流れていた。しかしそのシャワーは誰の身体にかかるでもなく、ひたすら床に流れ続けていた。
つまり、誰もいない風呂場でシャワーだけが出続けていた。
結衣(……!?)
身体がぶるっと震えた。それは私の目の前で展開されているまったく意味不明な光景に対しての悪寒だった。不気味さのあまり声を失う。
シャワーを止め、一応浴槽の中に誰もいないことを確認する。いったい誰がシャワーを出したのか。私じゃないとなると京子しかいないのだが。
結衣「はっ……京子!?」
小走りで脱衣所を飛び出る。風呂場にいないのだとしたら京子は一体どこにいるのか? すぐにトイレのドアも開けて確認したがそこにも誰もいなかった。
京子は今この家にいないのか? だとしたらどこに行った?
お菓子でも買いにいったのか? 飲み物でも買いにいったのか?
お菓子も麦茶も完備してある環境からそれは考えにくかったが、そうであってほしいという思いが私の心に強く貼りつく。携帯電話も確認したが一件の通知も入っていなかった。
不穏な緊張が私の胸を刺激する。冷や汗が身体からどっと噴き出ている。さっきから心の警鐘が鳴りやまない。何か大変なことがおこっているぞという感覚がギリギリと私の心を痛めつける。
結衣(京子、早く帰ってこい……!)
私は不安で泣きそうになりながら玄関を睨んだ。
さっきこの家に来たときと同じであってくれ。うちの部屋の玄関の前で待機していてくれ。見えない扉の向こうで壁を背に立っている京子の姿を思い浮かべる。
そして、いやなものが目に入ってしまった。
結衣「……っっ!!?」
玄関に、京子の靴がある。
私の靴もサンダルもある。この家にある全ての靴が玄関においてある。
そしてさらに嫌なものが硬直する私の視界に入ってしまった。玄関の鍵がしっかりしまっているのだ。恐る恐る振り返って鍵置き場を見ると、いつも使っている鍵がそこにあった。
誰もこの家からは出ていない。
じゃあ、京子はいったいどこに?
その時、カラスの遠い鳴き声が背後から聴こえた。
結衣「っ……」
気づけばベランダの大窓が開いていた。外は無風らしく、カーテンも微動だにしないためにてっきり閉まっているものと思っていた。
先ほどはカラスの鳴き声が聞こえたのに、今耳を澄ましても外からは蝉の声も何もしない。まったくの無音の世界が広がっている。
視界に入った夕焼けが、怖いほどに赤い。
そして、
結衣(!?)
私はベランダへ向けて歩き出した。
私自身の意志とは無関係に。
結衣(な……か、身体が勝手に……っ!!)
まるで、自分の視点が急に第三者のものに変わったかのようだった。
見ているのは間違いなく私の視界なのに、私はそれを制御できない。
身体がまったく言うことを聞いてくれない。勝手にずんずんとベランダの方へ歩いていってしまう。
結衣(こ、こわい……)
私はひどく恐怖していた。
勝手に歩かないでくれ、何も見せないでくれ。
しかし私の言うことを聞かない私は、赤すぎる夕日から視線を逸らさずに、そのままベランダに出てしまった。
私は……私が何をしようとしているのか……わかってしまった。
鳴りやまない心の警鐘が先ほどからずっと訴えていたこと。京子が一体どこにいるのか。京子は今どういう状態にあるのか。
トイレにもいない。風呂場にもいない。恐らくこの部屋に京子はいない。でも靴はある。鍵も閉まっている。外に出た形跡はない。
……そして、ベランダへの大窓が開いている。
結衣(うそだ)
ありえない。京子がそんなことするわけない。
京子は……絶対にそんなことは……
しかし私は確かめようとしている。ベランダを出て、柵のところまで出て、地上を確かめようとしてしまっている。
結衣(やめろ)
異様に赤すぎる夕日が、思い浮かべたくもないことを連想させてしまう。
そんなところに京子はいるはずない。
京子はこんなところから……飛び降りたりなんか……絶対に……
私がベランダの柵に手をかけてしまった。
そして、ゆっくりと視界を、夕焼け空から下に移し……
コンクリートの地上を……
結衣(やめろ)
結衣(やめろ!!!!!)
――――――
――――
――
―
結衣「っっぁ、っ……!!!」ばたっ
京子「うおお? どした?」
……気が付くと、京子が隣にいた。
結衣「ぁ……っ……」
京子「うわー、結衣汗びっしょりじゃん。髪がおでこに張り付いてるよ」
結衣「きょ……京子……」
京子「なに?」
コントローラを片手間にいじりながら、きょとんとした顔でこちらを見ている。
京子「わっやべ、回復回復……!」ぽちぽち
結衣「…………ゆ、ゆめ……?」
京子「あー死ぬとこだったぁ……え、ゆめ?」
結衣「夢……夢見てた、私」
京子「やけに大人しいと思ったら寝てたの? こんな昼間から」
結衣「昼間……!?」はっ
窓の外を見た。じりじりと差し込む光の向こう、上空には青く澄み渡る快晴が広がっている。
未だ私の目に焼き付いて離れない、血のように赤いあの夕焼け空ではない。
結衣「わ、私……どれくらい寝てたかな」
京子「えーほとんど寝てないと思う、5分くらいじゃない?」
結衣「5分!?」
京子「それまで普通に私の質問にも答えてくれてたもん。寝てたのさえ気づかなかったよ」
結衣「…………」
なんでもない京子の笑顔を見ていると……胸がすうっと涼しくなっていった気がした。
そしてほぼ同時と言ってもいいくらいのタイミングで、今度は身体がものすごい熱を帯びだした。寝ている間に下がった体温を戻そうとする身体的な働きのせいか、それとも急激な安心感に包まれてのことなのか、氷水に飛び込みたいくらい自分の身体が熱い。
そうだ、さっきの光景は全て夢なのだ。あんな不気味な世界はあり得ない。
たらりと落ちる額の汗を手で拭い、大きくゆっくり深呼吸をした。
結衣「………はぁぁ……」
京子「どしたの?」
結衣「……いや、怖い夢見ちゃってさ……ははっ」
京子「それでそんな冷や汗かいてるのか!」
結衣「そうみたい……あー、あっつい」
眠る前からコップに注いであった麦茶を一気に喉に流し込む。時間がたったせいか少しぬるくなっていたが、それでも今の私をクールダウンさせるには充分なものだった。
京子はゲーム画面に目を戻しながら、何の気なしに尋ねてきた。
京子「怖い夢ってどんな夢だったの?」
結衣「…………」
起きたばかりということもあって、まだ記憶には夢の内容が強く残っていた。
しかしあの不気味さを言い表そうとしても、言葉でうまく説明できない。
自分が感じたあの恐怖をそのまま言ってみたって、本質の10%も伝わらない気がする。
結衣「えっと……」
一体私は何に恐怖していたのだろう?
夕焼け空が血の様に真っ赤だったこと? エアコンの電源が勝手に切れていたこと? 誰もいない風呂場でシャワーが流れ続けていたこと?
京子がいないのに、京子の靴が玄関にあったこと? 開いていなければおかしいはずの玄関の鍵が閉まっていたこと?
……京子が、ベランダから飛び降りたかもしれないと……その可能性が少しでもあって、それを“私ではない私”が確認しようとしてしまったこと?
結衣「…………」
京子「気になるなー、教えて教えて♪」
結衣「きょ、京子が……」
京子が、いなかった。
京子「へ? 私がいない?」
結衣「京子のいない……世界だった」
京子「……それだけ?」
結衣「それだけじゃない、けど……ごめん、うまく言えない……」
京子「ふぅん……」
京子はあまり詮索することもなく、すぐにまたゲーム画面に意識を戻した。私は立ち上がり、汗にまみれた顔を洗うために洗面所に向かう。
風呂場に明かりはついておらず、もちろん何の音もしない。先ほどの夢の中のように、誰もいないのにシャワーだけが流れ続けているなんてことはなかった。
じっと浴室の扉を見ていると……夢の中で感じた得体の知れない恐怖が少し蘇って、思わず鳥肌がたった。
この浴室自体はまったくもって普通の場所だ。勝手にシャワーが出ることなんて絶対にないし、夢の中で起こったようなことはもちろん過去に一度も無かった。全ては夢の中の出来事であり、私はあんな光景を想像したことさえもないのだ。
しかし私は見てしまった。あれが寝ているときの幻覚だとしても、心にはしっかりとあの不気味な光景が残ってしまっている。出っ放しのシャワーをこの手でひねって止めたし、その時足元にシャワーの水が少しかかった感覚だってした覚えがある。
“体験”はしていないが、確かに“経験”した状態になってしまっている。
だから私は怖いのだ。経験があるからこそ、この浴室に恐怖を感じてしまう。近くに立っていることさえ怖いと思ってしまう。
結衣「…………」
たったそれだけのことなのに、冷静に分析しても貼りついた恐怖をすぐに消し去ることはできなかった。
さっさと顔を洗って京子のところに戻ろう。今日は楽しい一日のはずだった。これからずっと京子の冒険を見守りながら、クーラーの効いた涼しい部屋でお菓子を食べ、夜が更けても遊び続けるのだ。
流水をざばざばと顔に当てたとき、初めて自分の眼が泣いてしまった後のように熱くなっているのがわかった。
涙こそこぼれ落ちなかったようだが、よく見ると少し充血している。夢の中で自分が泣いていた記憶はあったが、現実の私まで涙していたというのだろうか。
結衣(……恥ずかしい)ふきふき
せっかく友達が遊びに来てるのに居眠りこいて、その上悪夢を見て泣いているなんてちゃんちゃらおかしな話だ。京子に笑われてしまうことだけは避けたかった。
でも今は……たとえ笑われることになってもいいから、京子の笑顔を見たい……とも思った。
――――――
――――
――
―
……眠らないように気を付けていた。それだけを覚えている。
あんな夢を見てしまった後だ、再び眠りの世界に行ってしまうことに少しだけ恐怖していた。夜になれば嫌でも眠くなってしまうだろうが、それ以外の居眠りなんかでまた夢の続きを見ることにでもなったら耐えられない。
それなのに……はっと気が付いたとき、私は自分の家の前にいた。
結衣「……!?」
辺りを見渡してみる。じりじりと照らす赤い夕焼け。ヒグラシが遠くで鳴く夏特有の環境音こそしているものの、付近に人の気配はなく……変に静かであった。
そして……私が今立っている場所はちょうど、先ほどの夢で私が見たくなかったコンクリートの地上。
結衣(……なんで……)
明確な理由なんてなくても感覚だけでわかってしまう。これはさっきの夢の続きだ。
ふと足元に異常がないことを確認し、少しだけ安堵した。もしここで先ほど夢の中でも想像してしまった、ベランダから飛び降りた京子が倒れていようものなら……きっと私はすぐに壊れていたことだろう。
夕陽がじりじりと私の首元を焼く。辺りには野良猫の影さえも見えず、きょろきょろと付近を確認しても本当に誰一人いないようだった。
結衣(京子……)
外から自分の部屋のベランダを見上げる。自分の部屋とはいえ、今あの部屋に帰りたくはなかった。また不気味な浴室が待っているのかもしれないし、そもそも鍵が開いているかどうかも怪しい。いずれにせよひどく居心地が悪い場所だ。
そして……きっとあの部屋に、京子はいない。
誰かがいた気配だけが不気味におかしく残っていて、一人ぼっちの私をからかって音もなくあざ笑っている。私の部屋なのに私の味方はひとつもいなくて、あそこに居続ければ私はきっとおかしくなってしまう。
考えているだけで胸が痛い。足がふるふると震える。暑さのせいもあってか頭の奥がぐわんぐわんと揺れ動き、膝に手をつかなければ立っていることすらできなくなった。
結衣(助けて……)
京子。
京子に会いたかった。
京子の笑顔が見たかった。京子と話がしたかった。今すぐにでも京子の温かい手を握りたかった。
結衣「どこだよ……京子……っ……!」
目を固くぎゅっとつむり、必死になって瞼の裏に京子の笑顔を思い浮かべる。
浮かんできた京子の顔は、自分の中にすぐさま不安とは別の明確な感情を芽生えさせた。
結衣(京子……!)
そうだ、京子を探してあげなくては。
京子だってきっと私を待っている。このおかしな世界、終わらない夕焼けの世界で私が来るのを待っているはずだ。
京子は本当は、私よりも怖がりで寂しがりなはずだった。少なくとも私は一緒に過ごしてきた時間の中で京子のそういった一面をよく覚えている。幼いころは泣き虫屋さんで、大きくなった今でもその根底は実は変わっていない。
歳を重ねる過程で、強がることと格好つけることを覚え……それで自分の弱みを覆い隠しているだけ。私にはそれがわかっていた。だからこそ京子が無理に明るく振る舞おうとしているときは、京子の傍にいてあげなくてはいけないという思いが静かに膨れ上がっていた。
京子を絶対に一人にしてはいけないのだ。誰も傍についていてあげなかったら……あいつは格好つけることすらできなくなって、泣いてしまう。
誰かが傍についていてあげないといけない……いや、私が傍についていてあげないといけなかった。
結衣「……っ……!」
もはや視界に入れることさえ嫌になった私の部屋に背を向け、京子の家へ向かって走り出した。
動き出した足はどんどんと速度を上げていく。胸の中の不安な気持ちが走り切る風で削り取られてしまえばいいとでもいうように、しまいには全力で疾走していた。
何もかもが苦しくて、心が張り裂けそうで、足を止めたら泣き叫んでしまいそうなくらい怖かった。
~
気づけば私は……京子の家の目の前に到着していた。
ひどく乱れていたはずの呼吸は案外すぐに整った。しかし胸の内の不安な気持ちは一向に消えることはない。それでも私に立ち止まっている時間などなかった。
急いで歳納家のインターホンを押す。ぴんぽーんという曇りがかった電子音が寂しげに鳴った。そのままスピーカー部分をじっと見つめる。京子の間の抜けた返事が返ってくることを心から祈った。
……しかし、しばらく待ってみても何の反応も返ってこない。
諦めずにもう一度ボタンを押した。京子じゃなくてもいい、京子の親でもいい、誰か出てくれ。そう願ってみても、無機質なインターホンには一向に何の変化も起きない。
ぽちぽちとインターホンを押すたびに心にどんどん不安が流れ込んできて、とうとう私は……インターホンを押す勇気もなくなってしまった。
恐らく10分以上は押して待ってを繰り返しただろう、だが一向にこの家から音沙汰はしなかった。見上げた歳納家はいつもより不気味に大きく感じられ、静かな威圧感に気圧されて思わず逃げ出したくなった。
だが私は京子を探さないといけない。京子はこの家にいるかもしれない。キッと睨んだ窓の先、あの部分にある京子の部屋で、ベッドに突っ伏して寝ているのかもしれないのだ。
京子の部屋の窓を外から見ていると不思議と勇気が湧いてきた。意を決して今度は家の周囲に回り込む。
一階部分の窓という窓から中を確かめてみたが、京子どころか京子の親さえいないようだった。だが車が置いてあるのは確認できたため、それならこの家に誰かしらいてもおかしくはない。
裏口に周ってみる。そこには存在だけは知っていて、私は使ったことのない勝手口があった。もしかしたらここが開いているんじゃないかと軽い気持ちで手をかけ、くいと引っ張る。
……開いた。
結衣「…………」
途端に呼吸が苦しくなる。以前の夢で感じた得体の知れない恐怖に似たものが私の意識を包んでしまう。
だがこんなことではいけない、こんなところで迷っている場合ではない。気持ちを奮い立たせ、顔をぶんぶんと振って恐怖を振り払った。
私は京子に会わなきゃいけない。京子の手を今すぐにでも握ってあげなきゃいけない。親御さんに何て言われてもいい、京子をこの静かな世界から救い出してあげなきゃいけない。その気持ちだけを強く持って、歳納家への無断侵入を試みた。
家の中はとても静かで、窓の外から眺めていた通りのままに誰もいない空間になっていた。
何度も来たことのあるこの家。リビングは掃除が行き届いているのか散らかっている様子すらなくて……この家にいつもあったはずの生活感が感じられなかった。
大きな窓から差し込む夕陽は相変わらずその色を変えず、まだ怖いほどに赤いまま。そうして照らされた室内は、もう私の知っているこの家の姿ですらないような気がして……私はいたたまれなくなってリビングを後にした。
身体の芯を抜き取られたようにバランスが取れない。恐怖のせいかなんなのか、私の身体はいつの間にか壁に手をつかなければ前に進むこともできなくなっていた。
家の中に虚しく響くのは自分の足音と荒い呼吸の音だけ。それが私から希望を奪っていく。思えばこの家どころか世界中から、自分以外の発する音が聴こえてこない。それでも静かに京子の名前を呼びながら、やっとのことで京子の部屋の前に立った。
結衣「…………」
扉の向こうに京子がいることを信じ、扉の向こうに京子がいる景色を思い浮かべて……私は優しくノックをした。
結衣「京子……私だよ」
しばらくまともに発声していなかった喉からかすれた声を振り絞り、京子の名を呼ぶ。
そこにあるのはまったく音沙汰のしない扉。沈黙にさんざん痛めつけられた苦しい胸を抑え、負けずにきっと睨みつけた。
結衣「……は、入るよ……」
最後の最後、一縷の望みをかけ……京子の部屋の扉を引く。
音もなく開いた扉の向こう……京子の部屋はやけに綺麗に整頓されていて、
そして、京子はいなかった。
結衣(っ…………)
私が馴染みのあるこの部屋の姿を思い出す。こんなに整頓されたところは見たことがない。
普段そこまで汚いわけでもないが、いつも読みかけの漫画や適当に脱いだ靴下などが片付けられずに散らかっているのが常だった。しかし机の上も本棚も、何もかもがきちんと片づけられており……先のリビングと同じように、誰かがいた痕跡を感じさせてくれない。
確かに京子の部屋なのに、京子がいた名残が微塵も感じられない。
その寂しすぎる光景に……今まで頑張って抑えていた涙がついに決壊してしまって、京子の部屋の床にぽたぽたと落ちた。
結衣「ぁぁ……ぁっ……」
世界の全てを探したわけではなかったが……感覚ですべてがわかってしまった。
この世界には、誰もいない。
きっと私の友達も、私の親も、町を歩く人さえ一人もいない。
京子は、いない。
結衣「……うぅぅ……ぁぁ……っ///」
熱い涙がとどまることなく溢れてくる。ぽつ、ぽつと涙の粒が床にぶつかる音と、かすれた泣き声だけが空虚な部屋に響く。それが自分の寂しさを際立たせて、さらに激しく泣いてしまう。
京子はいない。
京子は、もうどこにもいない。
結衣「京子……きょうこぉ……」
この部屋で過ごした京子との思い出が、一瞬のうちにぶわっと蘇ってきた。
京子と飽きるほど遊んだ。
京子といっぱい勉強した。
京子とたくさん話をした。
京子と一緒に寝た。
京子と……何をするでもなくただ一緒にいた。
私がこの部屋にいるとき、
隣には必ず、京子がいたんだ。
結衣「きょうこ……きょうこぉ……っ……!」
京子のベッドに力なく手を伸ばし、京子の枕を力いっぱい握りしめて、誰に聴かれるわけでもないのに声を押し殺して泣いた。
このベッドからは確かに……京子の匂いがした。
結衣「やだよ……やだよぉ……!!」
孤独に苛まれ、京子の温もりに必死にすがる。そして本当の自分に気づいてしまった。
京子を助けたいのは、京子を助けることが自分を助けることに繋がるからだった。
京子の傍にいないといけないのは、京子の傍にいないと自分がダメになってしまうからだった。
結衣「たすけて……京子ぉぉ……」
本当は、私の方が弱かった。
京子を助けること、それが幼いころからの私の信条であり……そうした信条はいつの間にか私という存在を支える柱になっていて、今度は京子が傍にいなければ私が崩れてしまうほどにまで、強く心に結びついていた。
思えば……京子はいつだって、私のもとに来てくれていた。
幼いころは、私を頼って近づいてきてくれていた。人見知りで弱気な京子には心から頼れる存在というものが少なく、私もそのころから既に京子の支えになる義務感すら覚えていた気がする。“単なる友達”である時間などあったかどうかもわからない。京子は私にとって守らなければいけない特別な存在だった。
京子を泣かせたくない。京子の笑顔がみたい。そうして時間は経っていき、京子はずっと傍にいた私の目から見ても変化がわかるほどにすくすくと元気に育った。いつでも場を明るくして、周りを笑顔にするような子になっていった。
もはや京子に自分は必要ないのではないか? という疑問を私が持たなかったのは、京子が幼少から今にかけてまで、ずっと私の傍にいてくれたからだった。そうした過程を踏んだ背景があったからこそ、京子は特別な理由もなく私の傍にずっといてくれたのだ。
こちらから誘わなくたって、いつでも向こうから遊びに来てくれた。私のところに来るのが楽しみだといつも言ってくれていた。私は気恥ずかしさに逃げてしまうこともあった。それでも京子は自分の傍にありつづけてくれていた。
京子を支えると言っておきながら、支えられていたのは間違いなく自分だった。
来てくれるのはいつも京子の方からで、それに比べれば自分から京子に向かったことなど……圧倒的に少ないと言っていい。
結衣(もっと……一緒にいればよかった)
結衣(もっと……京子を追いかければよかった)
結衣(たとえ隣にいたとしても……それを当たり前にしちゃだめだった)
結衣(京子のこと、何よりも大切にしないといけなかったんだ……)
涙の沁みこんだ京子の枕に頬をする。そこで急に身体が言うことを何もきかなくなった。身体を動かすための力がなくなってしまったのだ。
結衣「きょう……こ……」
重い瞼を支えられずに閉じる。薄れゆく視界の中……最後にそこに少しだけ、京子の顔を思い浮かべることができた。
思い出の中の京子は、安らかな笑顔を浮かべてくれていた。
なつかしく温かい京子の匂いに包まれ……私は身体を小さくまるめて、眠った……
――――――
――――
――
―
結衣「…………」
京子「よしよしよし、いけるいける……」ぽちぽち
結衣「………京子…」
京子「あーっ、結衣起きた?」
気が付くと、また自分はクッションを枕にして縮こまって眠っていた。
身体中汗びっしょりで、片腕は自分の身体に下敷きになって痺れていて、目の奥が熱をもっている。
ゆっくりと身体を起こすと、少し口をとがらせた京子が見えた。
京子「も~、せっかく遊びに来てるのに眠っちゃもったいないじゃんか」
結衣「…………」
窓の外は夕暮れも深く沈んでいた。うっすらと明るさが残る程度で、時計を確認すると19時をとうに回っていた。
先ほどとは違い、どうやら今回はしっかりと眠ってしまっていたらしい……一人用のRPGをずっとやっているとはいえ、せっかく遊びに来てるのに一人にされてしまっていた京子は少し不満そうにしていた。当たり前だ。お客さんを置いてけぼりにして眠ってしまった私が悪いのだ。
やっぱり……夢だった。
京子「……結衣?」
結衣「うん……」
全部、全部夢だった。よくよく考えれば夢の中でだってそれはわかっていたことだ。京子はずっと私の隣にいるし、世界中から人が消えるなんてありえない。
なのにどうして夢の世界はあんなにもリアルで、あんなにも私の心を痛めつけるのだろうか。あり得ないとわかっていても信じられない、すべてが真実味を帯びて身体に刻み込まれてしまう。
確かな孤独が心の傷となって残っている。この痛みがある限り、所詮夢だからと何もなかったことにはできない。
京子「どうしたの? やっぱり今日寝不足だったとか?」
結衣「ううん……」
様子のおかしい私を心配してか、京子はコントローラーを置いて私のもとに這い寄ってきた。近づいてきたその腕を反射的に握る……無意識でさえも自分の身体は京子の存在を求めていた。
京子「体調悪いの? 私変なときに遊びに来ちゃったかな……ごめんね」
結衣「ううん……大丈夫……」
汗にまみれて心も身体も弱っている私がやつれて見えるのか、京子は急に優しくなった。
その目は不安そうに私を見つめている。私の手が震えていることに気づいて、寒いのかと勘違いして両手で包み込んだ。
触れた場所からじわじわと京子の温もりが伝わってくる。その感覚が「京子はここにいる」ということを一心に感じさせてくれた。
そうして気づけば……熱いものが私の目筋を伝っていた。
結衣「きょ……うこ……」
京子「あわわっ、結衣!?」
結衣「う、うぅ……ぁぁあぁ……」ぽろぽろ
京子「ど、どうしたの……どこか痛いの? あっ、それとも熱がある?」
結衣「だい……じょぶ、大丈夫……///」
京子「大丈夫に見えないよ……! なんで泣いてるの?」
結衣「違、うんだ……私は……」
京子の問いかけに答えるたびに、泣き声が抑えられなくなった。
子供のように大声で泣きながら、京子の温かい身体を抱きしめる。小さな背中を掻き抱いて、その感触を必死に確かめる。未だに夢と現実の区別がはっきりついていない自分の不安定な心に、京子はここにいるんだよと言い聞かせた。
京子「もしかしてまた怖い夢見ちゃったの……? 平気だよ、全部夢だって」
結衣「きょ……うこ、きょうこぉ……!」
まるで子供を愛する母親のように京子は私を抱きしめてくれた。何も知らないはずなのに、私の見た夢のことなどこれっぽっちの想像すらつかないだろうに、京子は私の孤独を拭うような愛情を持って私を受け止めてくれた。
京子「ごめんね……私ひどいよね。結衣がこんなになっちゃってるのに、全然気づけないでずっとゲームしててさ……今日はゆっくり休もう、ね?」
結衣「うっ……うっうぅ、うぅぅ……っ」
京子「ほら、泣かないで……」
何も謝ることなんかないのに、「ごめんね、ごめんね」と繰り返しながら京子は私の背中をさすり続けた。私はその首元に泣きはらした目を押し付けているから顔は見えないが、語りかける声色から京子も泣いているのだとわかった。
いっぱいに吸い込んだ京子の匂いは、夢の中で京子のベッドに感じたものの何十倍も強かった。
もう離さない、絶対に離れない……静かにそう誓う私の腕の力は強すぎて、抱きしめられている箇所も痛いだろうに、京子は優しい抱擁を続けてくれた。
そのまましばらくの時間が経ってようやく私が落ち着くと、痺れた足で立ちあがった京子は「よし、早く休める準備しよう」と言って私の手を引いた。
京子に支えられて洗面所まで一緒にいく。私が顔を洗おうとすると、京子はそのままお風呂に入っちゃえと言ってきた。汗かいてるんでしょ、とぎこちない手つきで私の服を脱がせてくる。一人で脱げるよと言いたかったが、私は言われるがままに無言で脱がされていた。
最初の夢の中で不気味な恐怖を味わわされたこの浴室も、優しい京子と一緒に入ればなんてことはない温かな空間だった。
ようやく泣き止んだ私に対して特に何を詮索することもなく、京子は静かに背中を流してくれた。京子が視界からいなくなることさえ嫌だったが、私の髪を柔らかくほぐす手つきが心の傷に沁み渡っていった。
風呂を出ると、今度は京子が先導に立って夕飯の支度をしようとした。
私も静かにそれを手伝っていたが、たとえ張り切ろうとも京子の包丁使いなどは相変わらず危なっかしくて……落ち着いて見てもいられなくなり、結局私がメインの作業を変わることにした。
京子は面目なさそうに照れ笑いをしていたが、それが傷心の私にずいぶんと気力を取り戻させてくれた。ようやく大きな不安感が取り壊された気がした。
完成したご飯は……いつもよりうんと温かくて、そして優しい味だった。
片付けくらいは私が、と皿洗いを担当する京子の背中に、とっておきのラムレーズンをぴとっとくっつける。買い置きしてあるとはいえ、季節的にもう残りの数も少なくなっていた。だが今日という日は、うちにある在庫全部をあげてしまってもいいとさえ思えた。
京子は嬉しそうに笑うと皿洗いを中断してスプーンを取りだした。代わりに皿を洗おうとスポンジを手に取った私に、一口サイズに掬い取ったアイスを「ん!」と差し出す。最初は遠慮したものの、京子は私にこそ食べてほしいんだと言って聞かず、結局そのまま二人でひとつを食べきった。
未だかつて、こんなに幸せな時間があっただろうか。その中身は決して特別というわけでもないのに……
いや……きっと私はいつも最上級の幸せの中にいたのだ。それを幸せとも思うことなく過ごしていただけで。
寝るときは、夢の世界におびえる気持ちを何も言わずに組みとって……京子は私を抱きしめながら眠ってくれた。徹夜をするとまで意気込んでいたくせに、十数分も経てば京子の方が私よりも先に静かな寝息を立て始めた。
掛け布団はなく、薄い毛布一枚だけが私たちの上にかかっている。京子がいるためにいつもより暑かったが、そんな暑さもかけがえのない幸せなんだと感じられて……私はまた静かに涙してしまった。
「京子、ありがとう……」声に出さずにそう呟き、眠る京子の額の髪をかきあげて手を当て、私からも京子の身体を包むように手を回し……眠った。
……その晩、私は悪夢を見なかった。
それはそれは悪夢どころか、夢も何も見ない安らかな眠りであった。
京子の暖かさを胸の中に抱いて、やわらかな幸せに心も身体も包まれていたのをしっかりと感じていた。
しかし、夜が明けて、朝がきて……
私がゆっくりと目を覚ました時、
ずっと私の中にいたはずなのに、
京子は、もうどこにもいなくなっていた。
――――――
――――
――
―
夢とは、いったいどうすれば覚めるのだろうか。
朝が来ること?
ベッドから起きること?
さっぱりと目を覚まして、現実の日常を再開すること?
……いや、そのどれでもない。
夢とは、その夢の記憶が完全になくなった時……初めて覚めたと言えるものなのだ。
誰しも夢が現実に影響を与えた経験はあるだろう。だがそれは単に睡眠を終了して活動を始めたことにより、夢が終わって現実に移ったのだと勘違いしているだけだ。
夢の出来事に囚われている限り、夢は終わらない。
夢の記憶が存在している限り、夢は終わらない。
私は最初の悪夢のことも、二度目の悪夢のこともしっかりと覚えている。
だからこれは夢なのだ。
どんなに現実感を伴っていたとしても……夢に違いないのだ。
結衣「京子……」
日もすっかり昇って、気温がじわじわと上昇している、よく晴れた夏の朝。
私は京子が使っていた枕を抱きしめて泣いていた。
確かに京子はここにいた。
ほんのついさっきまでここにいたんだ。
夏の気温に溶けていくその小さな温もりは、とうとう胸の中で薄れて消えてしまった。
結衣(もう……こんなの……いやだ……)
どれだけ泣いても、どれだけの時間が経っても、この夢は終わらない。
京子がいないということ。その事実がある限り、私にとってこの世界は終わりのない悪夢だった。
結衣(…………)
夢を終わらせたいなら、夢の記憶をすべて忘れてしまえばいい。
しかし私にとってそれは、京子という存在を忘れてしまうことに他ならなかった。
世界で一番大切な京子の存在をを忘れるなんて……
たとえ私が死んだとしたって、ありえない。
結衣(最初から……夢も現実も、関係なかったんだ)
ゆっくりと身体を起こし、足を崩して小さく座った。
私の悪夢は、京子を取り戻すことで終わる。
私はまだ京子の笑顔を思い描ける。京子の名前を呼べる。京子のことを考えていられる。
それならば、やることはひとつしかなかった。
温もりの消えた枕を抱きしめ、京子へのメッセージを静かに想う。
結衣「京子……必ず、会いに行くよ」
だから、待っててね。
――――――
――――
――
―
……気づいた時には、私は学校にいた。
そこはまったくいつも通りの学校風景であった。廊下にはまばらに生徒がいて、その子たちからは楽しげな話し声も聞こえて、外からは部活の喧騒が聞こえる。よくよく見れば自分も制服を着ていた。
今私が立っている場所は、私もすっかり見慣れた、とある階の廊下。隣を向くとそこには「茶道部」と書かれた簡素な木の板がとりつけられた部室がある。
ここは、ごらく部室の前だった。
この中に京子がいるかもしれない。
授業が終わって放課後になると、いつも急げ急げと茶室に入っては、中でまったり遊んでいるだけの京子。
私と同じ制服姿で、いつものようにぐだぐだと持ってきた漫画を読んでいるかもしれない。
私は引き戸にそっと手をかけた。するとその時、隣から誰かの声がかけられた。
「あ、あのっ」
結衣「!」
ちなつ「あの……何か用ですか?」
目線を少し下げたところには、桃色のもふもふ髪を主張させた女の子がいた。
話しかけてきたのは、ちなつちゃんだった。
結衣「ちなつちゃん……!」
ちなつ「えっ、なんで私の名前を!?」
結衣「……?」
ちなつちゃんは少し驚いて大きな目を丸くしながら、何やら意味深なことを言った。
「なんで私の名前を?」とは……どういうことなのだろうか。
結衣「ち、ちなつちゃん? どうしちゃったの……?」
ちなつ「え、えっと……うわ誰だろ、私にこんなかっこいい知り合いいたっけ……小学校で一緒だったとか? ううん違うこんなかっこよかったら覚えてるはずだもん……」
ちなつちゃんは私の問いかけをそっちのけで、自分の記憶の引き出しを忙しく探っていたようだった。
「私だよ、結衣だよ」……そう言おうとしたとき、ちなつちゃんは目をきらきらさせて私の手を取った。
ちなつ「もしかして、茶道部に入部希望の方ですか!?///」
結衣「……!」
ショックに大きく揺り動かされた。
目の前にいるちなつちゃんはどうやら……いつも私についていてくれた、私のよく知っているあのちなつちゃんではないようだった。
ちなつ「あの、実は茶道部って今人数がいなくて廃部になっちゃってるんですけど……でも人が集まれば復活できるかもなんです! よかったらお話しませんか?」
結衣「茶道部……」
ちなつ「はい! 私は茶道部再興のためにひそかに部員集めを頑張ってて……っとその前に、お名前をお伺いしてもよろしいですか? 私は一年の吉川です」
結衣「…………」
茶道部の扉を開いたちなつちゃんが笑顔でこちらを振り返る。
私は……溢れだす悲しみを一生懸命無視して、泣かずに答えた。
結衣「二年の、船見結衣だよ」
ちなつ「あ、やっぱり先輩でしたか……! ここの座布団でお待ちになってください。今すぐお茶を淹れますからね」
室内にはいつもごらく部で使っている座布団があり、私はいつもの定位置に座らせてもらった。しかし周囲を見渡してみても……ここがごらく部室だと確証の持てるものはひとつも置いていなかった。
掛け軸もなければ、京子の持ってきた私物のおもちゃもない。ちなつちゃんがお茶を持ってくると、みんなで使っていた湯呑みさえないことがわかった。
ちなつ「なんといっても茶道部ですからね、お茶にはこだわってますよ! 飲んでみてください?」
結衣「……うん」
出されたお茶を静かに啜ってみる。
懐かしく染み渡るその味は、私が一番馴染みのあるお茶の味だった。
結衣「ちなつちゃん……」
ちなつ「はい! ……どうですか?」
結衣「ちなつちゃん、ここは茶道部なの?」
ちなつ「えっと、そうですけど……もっもしかしてまずかったですかこのお茶!? ああ私ったらとんでもない粗相を……」
結衣「お茶は美味しいよ。ちなつちゃんのお茶はいつも美味しい」
ちなつ「ほぇ?」
疑問符を頭の上に浮かべているちなつちゃんに、前かがみになって尋ねる。
結衣「ちなつちゃん……ここはごらく部じゃないの?」
ちなつ「は、なんですか? ごらくぶ……?」
結衣「ごらく部だよ。京子が作ったごらく部。京子と私とあかりとちなつちゃん……四人でいつも一緒にここに集まる部活!」
ちなつ「京子……って誰ですか?」
……ちなつちゃんの発言に全身の力が抜け落ち……危うく湯呑みを倒しそうになった。
しかしちなつちゃんは私をからかっているわけではない。本当に何事かもわからず、状況を把握できないという表情をしていた。
拳に力を込めて身体を支え、ちなつちゃんの綺麗な目を見据えて語りかける。
結衣「京子だよ……歳納京子!」
ちなつ「としのー……え、苗字ですかそれ? いや私の知り合いにそんな人はいないですけど……」
結衣「っ……」
私の頭はとうに混乱状態であったが、ちなつちゃんのここまでの発言のおかげで冷静に現状を分析することができた。
なんといっても、今自分は夢の中にいるんだと……そう自覚できたことが一番の救いであった。
この世界に京子はいない。どうやら最初からいなかったことになっているようだ。
だからごらく部が存在していない。茶道部は人数不足で廃部になっているようだが、茶室は誰にも使われずに残っているらしい。ごらく部を作らなかったことにより、ちなつちゃんと私たちが出会うことはなく……ゆえにちなつちゃんは私のことも京子のことも知らない。
ここは……ごらく部が作られなかった世界。京子のいないこの世界ではちなつちゃんは茶道部再興のために尽力しているらしい。ちなつちゃん以外にもそういったメンバーがいるのかは定かではないが、とりあえずこの世界ではそういうことになっているらしかった。
ちなつ「えっとぉ……船見さんは茶道部に入部希望ではないんですか?」
結衣「……ごめんね。この茶室は好きなんだけど……茶道部としてここにいるのは、心苦しいんだ」
ちなつ「ど、どーゆーことですか……?」
結衣「ちなつちゃん……そっか……京子がいなかったら、私はちなつちゃんとも友達になれなかったんだね……///」
ちなつ「わわわっ、船見先輩!? なんで泣いて……!」
結衣「……っう、ん……ごめん。こっちの話なんだ」
ここは、京子のいない世界だ。
どうやら私以外に、京子のことを知っている人はいないらしい。
それならば……私はここを出ないといけない。
結衣「私……元の世界に帰らなきゃ」
ちなつ「は……?」
結衣「京子のいる世界……私の知っているちなつちゃんがいる世界に帰らなきゃ」
ちなつ「な、なんのことです……?///」
おかしなことを言い出す私を見て、ちなつちゃんはまるで不思議ちゃんを目の当たりにしたかのように面くらっていた。
その抜けた顔がなんだかおもしろくて、不安な夢のはずなのに、私の心には笑顔になるだけの余裕が生まれた。立ち上がった足をもう一度座り直して、ちなつちゃんに面と向き合った。
たとえ私のことを忘れてしまったとしても……私はちなつちゃんを忘れないよ。
結衣「ちなつちゃんにはしっかり話しておこうかな。急にこんなこと聞かされても困るだけかもしれないけど……それでも聴いてほしい」
ちなつ「はぁ……」
結衣「……この部屋はね、昔は茶道部室だったんだ。でも私が入学してくるころにはもう部員不足で廃部になっちゃってた。それ以来この茶室は誰に使われることもない空き部屋になってたんだ」
ちなつ「はい、その通りです」
結衣「そこに私の友達、歳納京子はここぞとばかりに目をつけた。誰も使っていないなら好きに使わせてもらおうよと私を誘い、非公式だけど『ごらく部』という部活をここに勝手に作ったんだ」
ちなつ「ええっ、それは知らなかったです……!」
まるで後輩に昔話を聞かせているかのようだった。
この世界のちなつちゃんからすれば、今の私は適当にでっちあげた作り話を言い聞かせている変な先輩かもしれない。けれど真剣に聞き入ってくれるあたりに、ちなつちゃんの純粋な人柄の良さを感じた。
結衣「私と京子は一年生の間、二人でごらく部としてこの茶室を使わせてもらってた。秘密基地のような感覚で昼休みや放課後にここに集まり、まぁ……だべってたんだ」
結衣「そして二年に上がり、私たち二人の昔からの幼馴染であるあかりがこの七森中に入学してきたんだ。私たちは三人目の部員はあかりにしようと当初から決めてて、ここでようやくごらく部にメンバーが増えた」
ちなつ「ちょっと待ってください……あかりって、もしかして赤座あかりちゃんですか?」
結衣「あ、あかりのことは知ってるの!?」
ちなつ「ええ、同じクラスですから。お団子頭の、あのー……凄くいい子ですよね?」
結衣「ま、間違ってないけど……そうか、京子がいなかったら……二人の親交も深くはならなかったのか……」
あかりをきっかけに何かの糸口に繋がった気がしたものの、ちなつちゃんはあかりのことも詳しく知らないようだった。
わりかし残念なようで、けれどこの世界では当然だろうとも納得できていて……そんなおかしな寂しさが心の中を吹き抜ける。
結衣「ごめん、続けるね。あかりを招いて私と京子とあかり、三人でのごらく部生活が始まったんだけど……そこにすぐにやってきたのがちなつちゃん、君なんだ」
ちなつ「えっ、私!?///」
結衣「ちなつちゃんは茶道部への入部を希望してた。この茶室を使ってる私たちを茶道部の人と勘違いしてて……茶道部は廃部になってるんだよって教えてあげた時は、がっかりしてたっけなぁ」
ちなつ「…………」
結衣「でもそこで京子がすかさず、ちなつちゃんをごらく部に誘ったんだ。本当は、京子の好きな漫画に出てくるキャラクターにちなつちゃんがそっくりだった、っていう理由があったんだけど……でもなんだかんだでちなつちゃんはごらく部の一員になって、晴れて私たち四人は揃った」
ちなつ「…………」
結衣「京子はちなつちゃんが大好きだった。最初はその、好きなキャラクターに似てるっていう理由がきっかけかもしれないけど……もう今はそれだけじゃないよ。他でもないちなつちゃんのことが好きなんだと思う」
結衣「……私も、ちなつちゃんが好きだ」
ちなつ「!!」
誰かのことが好きだと……その本人に対して、面と向かって素直に言ったことが今までにあっただろうか。
これがこの世界のちなつちゃんではなく、私の知っている“本当のちなつちゃん”相手だったら……言えていたかどうかわからない。きっと恥ずかしくて言えないだろう。
夢の中だから言える。私の追い求める真実の世界には影響しないから言える……
結衣「私たち四人……色んな思い出を作ったね。とにかくいつも一緒にいて、いっぱい遊んで……きっとこれからもそんな日々が続くんだと思う」
ちなつ「…………」
結衣「う、うまく纏まらないけど……そういう世界が確かにあったんだ。私はその世界にいて……だから今の君をとても他人だとは思えなくて」
結衣「私にとってちなつちゃんは……かけがえのない大切な友達なんだよ」
ちなつ「……合格です」
結衣「……えっ?」
ちなつちゃんは小さくそう呟くと、おもむろに私をがばっと抱きしめた。
結衣「わっ、ち、ちなつちゃん!?」
ちなつ「結衣先輩……」
結衣「っ!!」
ちなつ「そうです……それでいいんですよ」
ちなつ「自分の見たもの、感じたもの、過ごした時間……それがある限り、目に映るすべては真実なんです。それを忘れないでください……」
結衣「ちなつちゃん……うそ……!!」
ちなつ「……京子先輩を探してあげてください。美味しいお茶を用意して、待ってますからね」
ちなつちゃんの可愛らしい笑顔を最後に……私の意識はすうっと遠のいていった。
――――――
――――
――
―
目を開くと……夕焼け空が目に入った。
結衣「…………」
私はまた学校にいた。しかし今度はごらく部室ではなく、自分の教室の……京子の席に座っていた。
結衣(京子の……机……)
何ら変哲のないその机でも、京子の温もりを確かに思い出させてくれるものだった。
勉強したり、居眠りしたり……ここで過ごした京子の面影を思い出しながらさらさらと表面を撫でていると、後ろからドアが開く物音がした。
「あっ……!」
結衣「あ……」
綾乃「ふ、船見さん……?」
結衣「綾乃……っ!!」
やってきたのは、日直日誌を胸に抱えた綾乃だった。
何やら驚いた表情をしていて、どうやら私がここにいることが綾乃にとって意外らしい……と思ったが、どうもそれとは別の要因があるようだった。
綾乃「ど、どうしたの……? そこ私の席……」
結衣「えっ……」
綾乃「ふ、船見さん……私に何か用でもあった? あ、あの……ごめんなさい、ちょっとびっくりしちゃって……」
結衣「…………」
綾乃の照れたような困ったような顔を見ていると……先ほどのちなつちゃんのことが思い出された。
結衣「ここ……京子の机じゃないの?」
綾乃「京子……さん? いや、そこは私の席だけど……」
結衣「……綾乃も……か……」
綾乃「えっ?」
察するに、ここも京子のいない世界。京子は最初から存在していないことになっていて、綾乃は京子のことを知らない……私が記憶している京子の席は、この世界では綾乃のものになっていた。
結衣「綾乃……よそよそしいな。なんか、懐かしい……」
綾乃「ふ、船見さん……?」
結衣「私は確かに綾乃と同じクラスだけど……でも京子を通じてよく接するようになったんだ。最初のうちはそれでもどこかぎこちなくて……気恥ずかしくてもどかしい距離があった……」
結衣「いつの間にかその距離はなくなっていったけど……でも、二人っきりになるとまだたまに、そんな感じにもなってたっけ」
綾乃「……? ……?」
綾乃はまったくわけがわからないとでもいうように首をかしげ、足元をもじもじさせて困っていた。そんな動きが可愛らしく思えて、私は立ち上がって綾乃のいる扉の方へ向かう。
綾乃「あ……もう帰るのっ?」
結衣「うん……」
綾乃「わかった。私も今日日直だから、これ出したら帰……」
結衣「綾乃、ひとつ聴きたい」
綾乃「へっ……?」
結衣「綾乃は今……好きな人、いる?」
綾乃「え……と、特には……」
結衣「……そう」
綾乃「……ええっ!? それってまさか……いやいや、船見さんが……ええっ! でも……いやそうよね、こんな時間まで……私の席もあれだし、うそ、でも……船見さんが……///」
結衣「綾乃……京子をずっと、好きでいてくれ」
綾乃「ふぇっ??」
目を白黒させながら忙しく考え事をしていた綾乃の肩を掴み、心から伝えたいと思ったことをこぼした。
結衣「綾乃……京子のこと、好きなんだよね」
綾乃「きょ、京子……? って誰……?」
結衣「私にはわかるよ……綾乃の気持ち、よくわかる。綾乃と京子が一緒にいて、綾乃が嬉しそうにするとき……それを見た私もなぜかうれしくなるんだ」
結衣「綾乃の感じる気持ちと同じものを、私もよく感じるからだと思う……」
綾乃「ふ、船見さん……?」
結衣「なんで……なんでだろうな」
結衣「なんでこんなに……京子のことが、好きなんだろうな……!」
綾乃「!」
京子に向かって言っているわけでもないのに……私は思わず泣き出してしまった。
すると綾乃は、こうべを垂れた私の頭に手を乗せ……先ほどまでとは変わった優しい声で囁いた。
綾乃「……初めて、ちゃんと言ってくれたわね」
結衣「!!」
綾乃「船見さん……私も……よくわかるわ」
結衣「あ……綾乃……っ!!」
綾乃「なんでかしらね……いつの間にか、どうしようもないくらい……あの人のことが、好きになっていたのよね……///」
薄れゆく意識の中で最後に……綾乃が私の涙を指でぬぐう感触があった。
――――――
――――
――
―
結衣「っ……」
気が付くと……自分の部屋にいた。
部屋は夕陽に照らされ、起き上がったところには昨日から出しっぱなしのゲーム機が置いてあった。京子が昨日プレイしていたものだ。
結衣(昨日……?)
なんとなく昨日のことだと思ったが……正確には今がいつで、あの時京子と過ごした時間がいつのものかもわからない。
夢でも、現実でも、どうでもいい。
ここにも……京子はいなかった。
結衣「…………」
テーブルの上には京子が持ってきたお菓子の残骸が少しちらかっている。京子がよくやる袋の開け方をしていた。京子の名残は他にもあちこちに見受けられたが、私の心は依然として「この世界に京子はいない」と信じてやまなかった。
結衣(どうすれば……会えるんだ……)
完全な無音の世界で、目を閉じて京子のことを考える。思い出の中の京子はいつも笑顔だった。目を閉じればそれが思い描けるのに、目を開けると誰もいない。
ならば目を閉じようか? 何も見ない方が幸せというなら、辛く悲しい現実に目を向ける必要はない。京子が世界のどこにもいないのなら、思い出に作り上げた幻想でもいいから、“京子”がいる方へ行けばいいのではないか?
京子、教えてくれ。
私は、どうすればいい?
京子「…………」
結衣「っ!!」
思い出の中の京子が、何かを喋った。
思わず目を開けて飛び起き、必死にイメージの京子を思い起こす。
京子が何かを伝えてきていた。京子はこっちを見ていた。京子は私に笑いかけていた。
何も聞こえなかったが……何かを京子から受け取ることができた。
私はどうすればいいのか……
私は、私にできることをやるしかなかった。
結衣(京子を信じる……京子を待つ……)
京子を強く想いつづける……それが私にできる最善であった。
京子のいない世界で……京子のことを考える人がいなくなったら、今度こそ本当に京子は消えてしまう。
私が京子を想いつづける。それこそが京子の存在を繋ぎとめる鍵に違いなかった。
京子が帰ってきたときのために迎えてあげる準備をする。京子が向こうから来てくれるのを、信じて待っていてあげる。“私のために京子を探す”のではない、京子がいない世界だからこそ、“京子のために待っていてあげる”のが大事だった。
信じていれば……京子はきっと、来てくれる。
たとえ言葉にしなくても、たとえ目の前にいなくても……二人の想いが一緒なら、二人は確かに繋がっていられるのだから。
結衣(よし……っ!!)
毛布を跳ね除け、まずは部屋を片付け始めた。京子が散らかしたものもきちんと片づける。京子が出したごみも片付ける。京子の食べ残したものも……残ってるぶんを自分がもらって、片付けて綺麗にした。
外を見渡すと徐々に暗くなる頃合いだった。きっと今日も少々寝苦しい熱帯夜になることだろう。
結衣「そうだ、お風呂……」
まだ少しだけ不気味さを思い出せる浴室に行き、怖くないように電気を全部つけて、風呂を入れる準備をした。
京子が帰ってきたら、京子を先に入らせてあげよう。もし京子が遠慮して私に一番風呂を譲ってきたなら……その時は、京子も一緒に入らせる。
京子と二人で風呂に入ることを想像して……以前京子と一緒にドラッグストアに行ったとき、京子が買った泡風呂の素が戸棚に入っているのを思い出した。
あの時の京子は面白そうだからといって買ったようだけど……一人で泡風呂に入っても仕方ないし、これは二人一緒の時に使うのがきっと一番楽しいのだろう。シャンプーの容器の隣に泡風呂の素を置き、京子が来た時のために準備しておいてあげた。
濡れた手足をぽんぽんと拭きながら部屋に戻ると、ゲームの電源がつきっぱなしなことに気が付いた。
結衣「あれ……テレビは消したけど、こっち消してなかったのか」
テレビの電源をつけてみる。表示されたゲーム画面は京子がプレイしていたセーブデータだった。
パーティーキャラクターはみんな体力ゼロ。強大なボスを目の前に、中央には「GAME OVER」の文字が浮かび上がっていた。いつの間にかゲームは終盤にさしかかっており、しかし私が見る限り……パーティ全体のレベルは育っていなかった。
結衣(ここのボスは……強いからな)
下準備もあまりせずにぶっつけでガンガン進んでしまう京子のプレイングで越せるほど簡単なボスではないことを思い出す。レベルも上げて、装備も整えて……万全の準備を敷いてあげたい欲に思わず駆られた。しかし京子のデータに手をつけるのはよくない。京子が自分でやりたいと言った事は好きなようにやらせてあげたい……そんなことを考えていると、だんだん京子がこの局面をどう打開するのかが気になってきた。今度は私も寝ないように、しっかり見届けてあげなきゃ。
ぐ~……
結衣(あっ……///)
落ち着いてきたら私のお腹が鳴った。自分が空腹であることを思い出す。
結衣(そうだ、ごはん作ってあげなきゃ……!)
冷蔵庫を開け、ちょうど良さそうな材料を吟味する。そこにあるありあわせの材料で何ができるかを考えてしまうのはもはや癖になっていた。
京子が好きそうなものを作ってあげよう……京子がいないときでさえ、そう思ってしまうこともあった。
結衣(今日はいつもより、ちょっと豪華にしてあげよう……京子が喜ぶように)
一人暮らしをするようになって、料理の大変さが身に染みてわかり、楽をしたいと思うことも少なくはなかったが……京子に作ってあげるときだけは別だった。
京子の喜ぶ顔を想像しながら作るのは……私にとって大切な「楽しみ」のひとつだった。
~
夕飯を作り終え、エプロンを外した時……ポケットにある携帯電話がひっかかった。
特に通知も何も来ていなかったが、京子へのメッセージを送ってあげようと思った。
風呂も沸かした、ごはんも作った。遊びの用意も、寝る用意だって済ませてある。あとは京子が来るだけだ。それを伝えてあげたかった。
二人だけのLINEトークは、京子の「今からそっち遊びに行ってもいい~?」に対する私の「いいよ」という返信から更新されていなかった。
普段こうしたメッセージでのやりとりを切り出すのは京子がきっかけになることが多かったが、今日は自分から送ろうと素直に思えた。
なんなら今日は既読が付くまで……送り続けてやってもいい。
[ 京子、早く帰ってこい? ]
[ 来れそうにないなら、言ってくれていいよ ]
[ でも来てくれると、ありがたいかな ]
[ ごはん、つくりすぎちゃってさ ]
[ いつも癖で二人分作っちゃうんだ ]
[ 京子が食べなかったら、余っちゃうよ ]
[ ひとりでごはん、食べたくないよ ]
[ ラムレーズンもまだ残ってるよ ]
[ 秋が来たら、一緒に買いに行こうな ]
[ 残ってるぶん、私も食べていいかな ]
[ 京子が好きな味を忘れたくないんだ ]
[ 京子との時間を忘れたくないんだ ]
[ 京子を感じていたいんだ ]
[ お願い、早く帰ってきて ]
[ 助けて、京子 ]
結衣「京子……!」
メッセージを打つたびに滲んでくる大粒の涙に視界が歪む。
ただひたすらに、想いを文字に表した。
文字に表すたび、色んな思い出が蘇ってきた。
京子と過ごした、いろんな時間。
京子と作った、たくさんの思い出。
カメラロールには、笑顔の京子がたくさんいた。
結衣「きょうこ……きょうこぉぉ……!!」
携帯を握りしめて、大声で泣いた。
何度も、何度も、京子の名前を呼んだ。
――――――
――――
――
―
京子との思い出は、本当に数えきれないや。
京子と一緒にしなかったことって、なんだろう?
思いつく全てのことを……京子と一緒にやった気がする。
全部全部、京子がくれた。
私の全ては、京子にもらった。
なあ、どこにいるんだ?
こんなに寂しいのに、不思議と京子を遠くに感じる気はしないんだ。
目を閉じれば、隣にいる気がして、
京子のリボンが、視界にちらつく気がして、
「結衣ー」って、呼ばれる気がして。
ああ、楽しかったなあ。
京子と一緒にいて、退屈だったことなんてないや。
京子はいつだって、私を楽しませようとしてくれてたな。
素直に楽しめないときもあったかもしれないけど、
本当に、本当に、楽しかったよ。
ありがとう、京子。
いつも、いろいろ、ありがとう。
私は京子が大好きだ。
ずっとずっと……大好きだった。
―
――
――――
――――――
鳥の鳴き声で、目が覚めた。
視界に光が入ってくる。優しい光は朝の陽ざし。夏の朝は早い。うだるように熱い日中に比べれば、早朝のなんと過ごしやすいことか。
けれど心地よい毛布の感触には敵わなくて、どれだけ暑くてもこちらの方が愛しく思える。
きっと時刻はちょうど6時くらいだろう。時計を見なくてもなんとなくわかった。
こんな早くから起きることはない。今日も私は、夏休みなのだ。
二度寝しようと思って、毛布を引っ張った。
その先に、毛布にしがみつく重い感触があった。
結衣「ん……」
京子「……」すぅ
結衣「京……子……」
目の前に、安らかに眠る京子がいた。
手を伸ばすと、京子の腕に触れた。
結衣「……きょうこ……」
京子「ん……」
結衣「京子……京子……」
京子「……んん、あぇ……? 結衣……?」
京子がもぞもぞと目を覚ます。
毛布を引っ張る感触のひとつひとつが……何よりも愛しかった。
京子「どしたの……もう朝?」
結衣「あぁ……朝だよ」
京子「まだ早いよぉ~……眠い……」
結衣「……そっか……」
京子「……んふふふ……うそうそ。ふぁぁ……せっかく泊まりで遊びに来てるんだし、早起きして長く遊ぶかぁ……」
もぞもぞ、もぞもぞ。
枕に顔をうずめるたび、ロングヘアーがもしゃもしゃと音を立てる。毛だらけの髪の隙間から、笑顔の京子が顔をのぞかせた。
京子「……おはよー」
結衣「…………おはよ」
京子「何時ー? 今……」
結衣「……6時、ちょい」
京子「はえー……まぁ、せっかく起きたしな~……起きるかー……」
携帯の日付は、京子が遊びに来た日の翌日だった。
ほんの半日前まで、一緒にゲームをしていた私たち。
けれど私は……とても久しぶりに、京子に会った気がした。
全ては……長い長い、夢のせいだろう。
京子「はー……よいしょっと」
結衣「…………」
京子「あぇ……結衣起きない?」
結衣「……して……」
京子「ん?」
結衣「起こして……それか、一緒に二度寝しよう……」
京子「なんだ、あまえんぼ」
京子にぷすっと頬をつつかれる。
その手を握った。
とてもとても、温かい手だった。
~fin~
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