CASE1:海未→凛
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「うぅん……」
海未が真新しいノートとにらめっこを始めてから、はや一時間。握ったシャーペンは芯を出されることもなく、白紙の上を行ったり来たりするばかりであった。
これなら、歌詞を考える方がまだ簡単かもしれない。
「はぁ……一体なにを書けばよいのでしょう」
かちこちと鳴る時計の針が焦りを募らせる。普段ならとっくに床についている時間だが、かといってこのノートを真っ白なまま翌日に持ち越すわけにもいかず。ただただ明朝の目覚まし時計の活躍を期待するばかりである。
「それもこれも、凛がいけないのです!」
一つ年下の後輩。底抜けの明るさでにゃーにゃー動き回る彼女と、実のところそこまで深く関わりを持ったことが、海未にはなかった。μ'sとして、学校の先輩後輩としての関係性は持っていても、園田海未と星空凛の間にそれ以上のつながりは存在しなかった。
だというのに。
「まったく……凜はなにを考えているのでしょう」
ぼやきながら、何の気なしにノートを閉じる。
丸い、女の子らしい文字で書かれているのは、「交換日記」の四文字。
「はぁ……もう、わけがわかりません」
何度目かわからないため息を漏らしながら、思い返すは数時間前――
「はいこれ、海未ちゃんからだにゃ!」
「…………は?」
本日分の練習を終え、放課後。用事があるからと各々帰路につき、偶然凛と二人きりになった部室でのことである。
「私、からというのは……?」
戸惑いながら、差し出されたノートを受け取る海未。いぶかしげに受け取り、表紙を見て眉根を寄せた。
「これ……交換日記、ですか?」
「うん、そうだよー」
「誰が?」
「海未ちゃんが」
「誰と?」
「凛と」
「…………」
ぽけら、と矯めつ眇めつノートを見やる。続けて凛に同じ顔を向け、結局視線をノートに戻す。理解が追い付かなかった。
「な、なぜ私となのですか?」
動揺しているのは、その距離感ゆえに。
今までにこの後輩と、これほどまでの近さを感じたことがなかったから。
そこに見出した「特別」に、心の揺らぎを覚える。
「? もっと仲良くなりたいからだよ?」
当たり前、といった風の凛。たしかに仲良くはなるのかもしれないが、そもそもそこにある意図が読めない。
なんで私と仲良く? ……という言葉は、すんでのところで喉元に留まる。さすがにその質問が無粋であることは、海未にも理解できていた。それが目の前の後輩の顔を曇らせるであろうことも。
それに、その想いに嬉しさを感じていないわけではなかったから。
「これでね、お互いの秘密を交換したらどうかなって思ったんだにゃ」
「秘密、ですか?」
「うん、そう。女の子ってね、自分たちだけの秘密を共有しあえばすごく仲良くなれるって、凜は思ってるんだー」
にこにこと、臆面もなく。
目の前の後輩は、真正面から自分を見つめ、喋る。
その真っすぐな視線が、言葉が、少しだけ眩しい。
「だからね、海未ちゃんともっともーっと仲良くなるために、凜はこの秘密交換日記を提案するんだにゃ!」
勢いに圧倒されながら、海未は凛を見つめ返す。
少しだけ、彼女の持つ熱量が、自分の心に染み入った気がした。
そしてその日の夜。
「何を書けばよいのですかぁぁぁ……」
自分が返した了承の言葉に早速後悔する。交換日記自体が嫌なのではない。ただ、「誰かに伝えるための秘密」という矛盾を孕んだ言葉を自分の中でぐるぐる巡らせるのに嫌気がさしたのだ。
「そもそも人に伝えられないから秘密なのでしょう……」
言いながら、自分の言葉に得心する。それが無益であると理解していながらも、さきほどから自分の口は誰にともない語りかけをやめようとはしない。
そわそわ。もぞもぞ。うずうず。
心の奥で渦巻く気持ちが、意味のない言葉として形を手に入れる。
「――はぁ」
結局のところ、それらが落ち着きのなさからくるものであることは、自分でもわかっていたのであった。
「――――」
何の気なしに。
これから書く文章を読むことになるであろう人物を、思い浮かべてみる。
ぱっと思いつくのは、笑顔。いたずら少年のような底抜けの明るさ。決して自分にはない熱量。触れたらそのまま飲み込まれてしまいそうな、輝き。
その中に秘めた、少女としてのやわらかさ。
アンバランスだな。とりとめもなくそう思う。酷く不格好に思えた。にゃーにゃーと取り繕ったような口調の中に、時折垣間見える寂しさも。考えれば考えるほど不揃いであった。
「あ」
なるほど。
この疑問は、ある意味秘密にしていたことかもしれない。
「――えへへー。ちょっと恥ずかしいね」
翌日。再び二人きりとなった部室で、自分の書いた文章に目を通した少女は、そう呟いた。
「そっか、そっか。海未ちゃんには凛がこう見えてたんだねー」
「あ、不快にさせてしまったのならすみません。ただ……」
「ううん」
ゆるゆると、凜はゆっくり首を横に振る。
「えっとね、うまく言えないけど。なんかね、……うん、嬉しい」
「嬉しい?」
今度は、縦に。
「じゃあ、今度は凛の番だね。教えてあげる、凜のこと――」
そうして、秘密の交換は始まった。
ある時は自分のことを。
ある時は相手のことを。
時間をかけながら、日々を重ねながら、二人はゆっくりと互いの秘密を埋めていく。
その作業は、まるでパズルのピースをひとつずつはめていくかのようで。
いつしか海未にとって、そのノートは凛と自分をつなぐ大切な「関係」へと形作られていった。
そして、気づく。
(――――)
そのパズルに描かれているものが、自分にとって凜を明確な「特別」にするものだということに。
こそばゆかった。照れ臭かった。少しだけ、怖かった。
だけど、それ以上に。
(凛……)
自分の中に生まれたその感情は、とてもあたたかかった。
だからこそ。
「あ、かよちーん。これ、今度はかよちんの番だにゃ!」
「うん、凜ちゃん。今度は私が秘密を書く番だね」
ある日自分の目の前で当たり前のように行われたそのやり取りに、目を疑う。
「…………え?」
凜が花陽に手渡したのは、ひどく見慣れたノートである。いや、違う。自分と凛をつなぐそれが濃い青色であるのに対し、目の前のそれは薄い緑色をしていた。
見慣れていたのは、表紙の四文字。
「それ、って」
おそろしいほどにかすれた声。一瞬喋り方を忘れたかのような錯覚に陥る。呼吸が、うまく、できない。
「これ? 凜ちゃんと私の秘密交換日記だよ?」
「海未ちゃんともやってるやつだにゃ! ノートの色はみんなのイメージカラーに合わせてるんだにゃ!」
みんな。
その言葉が意味するものを、考える前に、理解して。
「っ」
海未はとっさに顔をうつむける。
「え、え? 海未ちゃんどうしたの?」
「おなか痛くなったにゃ?」
「ちが、い、ます」
必死に言葉をつむぎながらも、顔は決してあげない。
あげられるはずがない。
恥ずかしかったのだ。
凛が自分を特別扱いしていると勘違いしていたことが。
凜が自分を特別な目で見てくれていると勘違いしたことが。
凜が自分と特別な関係を築こうとしているのだと勘違いしたことが。
そんな凜に。
大きな大きな、勘違いをしてしまったことが。
とても、とても、恥ずかしかったのだ。
だからこれは、赤く染まった顔を見せないため。
涙を隠すためじゃ、ない。
その日も。次の日も。その次の日も。
海未は、凜と秘密を交わし合う。
もうおかしな勘違いはしていない。
純粋に、仲間として仲良くなるため。
青色のノートを、彼女へと差し出す。
「はい、凜。次はあなたの番ですよ」
いちばん大きな秘密には、そっと鍵をかけたまま。
こんな感じで思いついた組み合わせ・シチュエーションで短編を書いていきます
次は思いついたらそのうちに
途中ちょいちょい凛ちゃんの名前が誤変換されてるのに今気づいた
見逃してください
CASE2:絵里→にこ
「傘忘れた、って顔してる」
「……嘘」
「ほんと」
くすくすと。からかうようなにこ笑い声が、雨音に混じる。そんなまさか。半信半疑のまま、絵里は自分の顔をぺたぺたと撫でる。もちろん、それで自分の表情がわかるわけでもなかったが。
「第一どんな表情よ? それって」
「手鏡、あるけど?」
「…………」
鞄をまさぐるにこの手を、無言で制止する。いずれにせよ情けない表情をしているであろうことは、確認せずともわかりきっていたから。
朝からぐずついていた空模様は、昼を回ったあたりから機嫌を損ね大泣きを始めた。ここ数日の冷え込みで穂乃果が体調を崩したことから、μ’sの活動は見合わせ。めいめいが帰路についた、その放課後。雨色にけぶる玄関口の向こうをぼんやりと眺めているところを、絵里はにこに声をかけられたのであった。
「雨降ることなんて、朝からわかりきってたじゃない。天気予報見てないの?」
「いや、そういうわけじゃないのだけど……」
「ったく、しょうがないわね。――ん」
「え?」
ぶっきらぼうに差し出される、開かれたピンク色の折り畳み傘。その意味を嫌というほどに理解していながらも、絵里の口から出てくるのは、疑問。
「え、っ……と?」
「なに? ご丁寧に説明されなきゃわかんないわけ?」
強まる雨足。日常世界の音が激しい雨音にかき消されていく中、なぜだかにこの声だけは耳に届く。
はっきりと。
くっきりと。
不思議と、心地のよさを感じた。
小さな傘をはんぶんこしているものだから、二人ともが濡れないようにするにはなにせ窮屈である。時折肩を触れ合わせながら、その柔らかさに鼓動を弾ませながら、絵里は傘の柄をぎゅっと握りなおす。
「それにしても、穂乃果も災難よねぇ。テスト前のこの時期に風邪をひくだなんて」
「ほんと、そうね」
「……なににこにこしてるの? 絵里」
「ん? 別に?」
「ふーん?」
とぼけながら、内心では自分をたしなめる絵里。いけない、いけない。どうも今日の自分は口よりも表情で多弁に語っているようであった。
「ま、最近の絵里ってば、にこにこしたりぷんぷんしたり、ころころ表情変わるからねぇ。らしいっていえばらしいんじゃない?」
「え」
意外な返答に、思わず足を止めそうになる。
「っ、ちょおっ! 傘持ってるのアンタなんだから急に止まんないでよ!」
「……私、そんなに表情豊かだったかしら?」
「え、今さらそんなとこに疑問持っちゃうわけ?」
なにを当たり前のことを、と言わんばかりのにこ。
「なったんじゃない? 表情豊かに。――μ’sに入る前に比べたら、さ」
「……ああ」
言われて、納得する。
それはそうだろう。あの頃の――ただの「生徒会長絢瀬絵里」の自分は、きっと、今ほど楽しく笑うことはできなかった。
生徒会長だって、好きでやっていたはずなのに。
それを義務と捉えるようになってから、なにかがずれ始めた。
しがらみに縛られながら、本当にやりたいことに手を伸ばすことも叶わず、自分を殺していた、自分。
そんな自分だったからこそ。
「まあ、私としては今の絵里の方が好きだけどね」
臆面もなくこんなことを言える同級生に、惹かれるようになったのかも知れない。
矢澤にこは、自分と正反対の人間である。絵里は、ひそかにそんなことを思っていた。
目指すものに向けて、ただひたすらに、まっすぐに。
笑われても。
呆れられても。
嫌われても。
「好き」を「好き」でいられる彼女が。
「やりたい」を続けられる力を持つ彼女が。
絵里にとっては、ただただ眩しかった。
「ちょっと絵里、手、すっごい冷たくなってる!」
え? と。
意識が現実に引き戻されると同時。
傘を握っていた手が、火傷しそうなほどのぬくもりを感じる。
「や、にこ、ちょっ」
「もー、寒いなら寒いって言いなさいよね。借りてる立場だからって遠慮しちゃって」
「ま、待ってにこ、大丈夫だから!」
「大丈夫なわけないでしょ? こんなに冷たくしちゃって。しばらく私がこうしてあっためたげるんだから」
自分の手に添えられたにこの手が、熱い。
「もう……もう」
自分の頬も、その温度に侵されていることには、気づいていた。
わかっている。にこの行為に、自分の持っているような感情が込められているわけではないことは。
ただの仲間で、ただの同級生で、ただの友達。
自分にとっては違っても。にこにとっての自分はそういう存在なのだと、理解はしていた。
だから、大丈夫。この距離は守れる。
この気持ちを伝えれば、今の距離は壊れてしまうから。
だから、大丈夫。この距離は、きっと、守れる。
にこはただの仲間で。
にこはただの同級生で。
にこはただの友達。
呪文のように。
まじないのように。
自分に、言い聞かせる。
鞄の奥に忍ばせたアイスブルーの折り畳み傘が、いやに重く感じた。
ネタは思いついていてもなかなか文章にならないジレンマ
次はまたそのうち
CASE3:真姫→ことり
「はい、真姫ちゃん。真姫ちゃんの分のチケット、買ってきたよ」
「……ありがと、ことり」
人ごみに。ざわめきに。あるいは、ことりの手の中で風に揺れる紙切れに。
うんざりとした感情を抱きながら、真姫はそれを受け取った。
「ふりーぱす? っていうのかなぁ? とにかく、これ一枚でこの遊園地の乗り物、今日一日乗り放題なんだって!」
「あら、そう。楽しみね」
「うん!」
皮肉を込めたつもりなのだが、ひとつ年上の彼女にそれが通じた様子もなく。
「はぁ……」
気づかれぬよう、真姫はそっとため息を忍ばせた。
ことの発端は数日前。ことりの一言から始まった。
「だからね、遊園地に行きたいなって思ってるの」
「……はい?」
だからね、のつながりを理解できず、呆けた顔で聞き返す真姫。おかしい、自分がセンターを飾る新曲の話し合いをしていたはずなのに、どうして急にこんな逸れ方をするのだろう。
「はいはいはーい! 穂乃果は賛成、だいさんせーい!」
そんな真姫の動揺を知ってか知らずか、μ'sのリーダーは高々と挙手をする。きらきらときらめく星を湛えたその瞳は、これまでの話の流れなどすでに銀河の彼方へ放り投げているようであった。
「いや、穂乃果も乗らないの……ことり? その提案は素敵なのだけれど、ちょっと時間と場所と状況を考えて発言を……」
「あ、ごめんなさい、そういうことじゃなくて」
たしなめるような絵里の言葉を否定しながら、ふるふると首を横に振ることり。
「ああ、うん、そうよね。穂乃果ならともかくことりがそんな突拍子もないこと言い出すはずが……」
「私ね、真姫ちゃんとふたりっきりで遊園地に行きたいの」
「…………ハラショー、あったみたいね」
「…………う゛えぇ!?」
唐突な指名に頓狂な声が口をつく。目を白黒とさせメンバーを見渡す真姫であったが、皆同じような顔をして首を振るだけであった。
「な、なんで私とふたりっきりなのよ? みんなと一緒じゃだめなわけ?」
「……嫌、かなぁ?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
ためらう真姫に、ことりは続ける。
「ほら、これ。海未ちゃんが作詞してくれた歌詞のこの部分、見てみて」
大学ノートに書かれた新曲。「Music S.T.A.R.T!!」と題されたその歌詞の一部分、ことりの細い指が示す箇所に残る八人の視線が集まる。
『だってパーティ終わらない』
サビの出だし、楽曲中何度も繰り返されるワンフレーズ。
それを指さす少女の瞳は、先ほどの穂乃果の何倍もの輝きを灯していた。
「このフレーズを見た瞬間ね、朝から夜までキラキラ輝き続ける遊園地がぱって浮かんだの。終わらないパーティ。終わらないパレード。もうこれしかない! ってくらい、頭の中から離れないんだぁ」
言葉の端々からにじみ出る興奮は、今まさにその光の渦の中にいるかのような熱を感じさせた。
「そしたらね、この曲に合う衣装もやっぱりそのイメージで作りたいなって思っちゃって。みんなと一緒に行くのも楽しいんだろうけど、だけどそれじゃあきっと『楽しい遊園地の衣装』になっちゃう」
「それじゃダメなわけ? だってそれがことりの中にある形なんでしょ?」
真姫の言葉に、ことりは再度首を振る。
「ダメだよ。それだけじゃ、ダメ」
ことりには珍しい、強い否定の言葉。
「だってこの曲は、『終わらないパーティを楽しんでる女の子の曲』だから。だから、『遊園地を楽しんでる真姫ちゃん』を衣装にしたいの」
それは自分と同じ、この曲を理想の形に仕上げたいと望む作り手の意志であり。
「だから、真姫ちゃん――だめ、かなぁ?」
「う、ううぅぅぅぅ……」
作曲者としてそれを理解する真姫に、断れるはずなどがなかった。
「見て見て真姫ちゃん! ジェットコースターだよ!」
「……そうね」
そんなことを思い出しながら、現在。明らかに自分より楽しんでいる先輩の言葉に、半ばあきれながら真姫は返事をする。自分を誘った張本人は、なんのために来たのかすでに目的を見失っているようであった。
まあ、それならそれでよいのだ。
遊園地ではしゃぐ自分なんて、そう――柄じゃないのだから。
「もう! そうね、じゃないよ! 真姫ちゃんも一緒に乗るんだよ!」
「えぇ……」
文字通りの乗り気のなさを、一言で体現する真姫。というより、それを言うならここにいること自体乗り気ではない。ことりの言葉に乗せられて、半ば強引に連れられたようなものなのだから。
もちろんそんな言葉口にはしないが。一度約束をしてしまったのだし、なによりことりを悲しませたくなかったから。
「まぁ、いいけど」
「わーい、それじゃあ決まりだねっ」
言うやいなや、わっしと真姫の手をつかんだことりは、一目散に目的へと駆け出す。いや、真姫を引き連れているものだからほとんど早歩きのようなものなのだが、それでも彼女のはやる気持ちは握った手のひらから伝わってくる。
ほんのり汗ばんだ、その手は。
「――――」
なぜだろう。あたたかくて、少しだけ、懐かしい。
汗ばむ彼女の手のひらは、もはや限界寸前といわんばかりに震えている。視界いっぱいに広がる青空は、一秒一瞬ごとに近づいていく。
ひょっとして、断頭台をのぼる罪人はこんな気持ちだったのだろうか。年頃の女子高生にはおおよそほど遠い考えがよぎるのは、自分も少なからず緊張しているからか。
「ま、ままま、真姫ちゃん? こ、怖かったら、ことりの手、もっと強く握っても、いいい、いいんだからね?」
「いや、別にいいけど……」
「握ってよー!」
ことりの口からついに本音が飛び出る。周りのお客さんの視線が気になるから、あまり大声は出さないでほしいのだが。
「で、でも大丈夫だよ? 私の名前、ことりだもん。空はむしろ得意分野なんだよ?」
「そ。でも」
「へ」
かたん、とひと際大きく揺れて。
「これ――もう、地面に真っ逆さまよ?」
二人を乗せたジェットコースターは。
「ぴ――――ぴゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!?」
無慈悲に高度を下げていった。
「――はい、これお茶」
「あ、ああぁぁ……ありがとう、真姫ちゃん」
「そんなになるなら乗らなきゃいいのに……」
ぐわんぐわんと天地が逆転するおよそ二分間の旅路は、ことりの精神を砕くには十分すぎたようであった。ベンチでグロッキーになっていることりに、真姫は自販機で買ったお茶を渡す。
「えへへ。でも、これが楽しいから……いただきます」
言いながら、受け取ったペットボトルを傾ける。
こくん。ことりののどが小さく動いた。
――この先輩は。なにをしても、かわいくなるんだな。
「――――っ」
ふと生まれた思いに、かぶりをふる。
「……まったく、世話する方の身にもなってほしいんだけど」
出てきた悪態は、ちっぽけなごまかしだった。
「ごめんねぇ」
ことりに悪びれた様子はない。自分が別に怒っているわけではないことを、知っているからだろう。
「あ、それじゃあおわびに」
とん、と軽く立ち上がったことりは、白く細い指で一点をさす。
「あれ、買ってあげるね」
あれ、とことりが指し示すほうに視線をやり。
「っ」
真姫の呼吸が、一瞬止まる。
「ちょっと子供っぽいかな? でも、こういうところだし――」
「いらない」
出てきた言葉の冷たさに、誰よりも自分が一番驚く。
「え?」
唐突な温度差に、ことりの言葉が凍る。二度三度真姫の顔とそれ――風船屋とを見比べて、なにかを悟ったのか、ふっと力を抜く。
「――ん。じゃあ、やめよっか」
「あ……」
今更になって後悔の念が真姫を襲う。
気を遣うようなことりの笑顔が、痛い。
謝らなければ。気持ちばかりがはやる一方で、素直でない口は開こうとしない。
ごめん。一言で済む謝罪が。
「ぁ、う……」
どうしても、出てこない。
『ままー! はやくはやく!』
『ほらほら真姫ちゃん、そんなに走らないの』
遠い日の面影。幼い両足で駆ける赤毛の少女と、それを見守る母の姿。
『あんまり慌てると転んじゃうわよ?』
『だいしょうぶだもーん!』
たまにしかない親の休日。それに合わせて遊園地に来るのなんて本当に久しぶりの話だったから。
だから、柄にもなく――はしゃいでしまった。
『あっ……』
小石か段差か、なにかがあったのだろう。転びこそしないものの、躓き二、三歩たたらを踏む真姫。
その拍子に手からすりぬける、真っ赤な風船。
『あ、……あああぁぁぁぁ!』
ぶわ、と感情が鎌首をもたげる。ぽたりぽたりとこぼれる涙の粒は、重力に逆らうこともなく。昇っていく風船とは真逆に、地面に跡を残すばかりであった。
『ほらもう、言わんこっちゃないんだから。……新しいの買ってあげるから、行きましょう?』
母の優しい言葉。聞こえてはいても、心には届かない。
悔しさや悲しさばかりを残したまま、幼い少女の心は、高い空の彼方へ消えていった。
コーヒーカップ。お化け屋敷。メリーゴーラウンド。
遊園地の定番を網羅する二人であったが、真姫は終始心ここにあらずといった様子である。
「…………」
そんな後輩を見て、ことりは。
「真姫ちゃん」
「……え?」
「最後に。あれ、乗ろ?」
「あれ、って……」
優しく指さす、その先には。
「……観覧車?」
沈む夕日が、狭い箱の中をオレンジに染める。
正面に座ることりは先ほどから窓の外を眺めるばかりで、一向に口を開こうとしない。時間的にもこれが最後の乗り物になるのだろうが、果たして目的は遂げたのだろうか。
――遂げたはず、ないか。
真姫の心を黒い何かが満たしていく。
あの日もそうだった。大好きだった真っ赤な風船を失ったことよりも、なによりも。
ぐずつく自分に、一日中母が気を使ってくれたことが。
自分のせいで、母の顔がずっと曇っていたことが。
なによりも、悲しかった。
「ね、真姫ちゃん」
二人を乗せた船が十二時を回ろうとしたその時。ゆっくりとことりが口を開く。
「飛んで行った風船は、どこに行くと思う?」
「っ! なんで、そのこと……」
「なんとなくね。そうかな、って思って」
優しい声色。それは、いつか感じた母のもののような。
「それで。答えは?」
「答え、って……どこか遠いところじゃない? 中のヘリウムがなくなればしぼんでどこかに落ちるだろうし」
真姫の答えに、ことりはくすくすと笑いをこぼす。
「な、なによ? なにがおかしいわけ?」
「ううん、ごめんね。真姫ちゃんらしいなぁ、って思って」
「……なにそれ」
そうしてしばらく、柔らかい笑い声が二人を包む。
「それで。答えは?」
「へ?」
ひとしきりことりが笑い終えたあと。真姫は先ほどの言葉をそっくりそのまま返す。呆けたことりの表情が、少しだけ小気味よかった。
「質問したからには、模範解答くらい用意してるんでしょ?」
「あ、うん」
こほん、と小さく喉を整え。
「こーこっ」
とんっ。
ことりの指先が、真姫の胸の真ん中を示す。
「…………はい?」
「私もね。ちっちゃい頃遊園地に来たとき、風船を買ったことがあったの」
疑問符を浮かべる真姫をよそに、ことりは続ける。
「真っ白な風船。たぶんおうちに持って帰って、それで……真姫ちゃんの言う通り。きっと、しぼんでどこか行っちゃった」
「……たぶんとか、きっととか。曖昧すぎない?」
「うん。だって、今日まで忘れてたもん」
「いや、あなたね……」
呆れる真姫に、それでもことりは笑顔で返す。
「忘れちゃうよ、普通。子供のころに買った風船なんて。でも、それが真姫ちゃんの心に残ってたのって、さ」
もう一度。
ことりの指が、胸を指す。
「その風船が――空へ飛んで行ったから、じゃないかなぁ?」
「――結果論、でしょ。それに、断じていい思い出なんかじゃないし」
かたくなに否定をする真姫。
そうだ。
あの時の気持ちを。
悔しくて、みじめで、涙が止まらないくらい悲しかった、あの思い出を。
自分以外の誰がわかるというのだろう。
だけど。
どうして。
青空に吸い込まれていく小さな赤は、美しさを感じさせるほど、鮮明に自分の中に彩づいているのだろう。
「私はね、真姫ちゃん。今日一日、ずっと嬉しかったんだ」
「えっ」
それは、意外すぎる感想だった。ずっと仏頂面の自分と並んで歩いて、少しも楽しそうにしない自分と過ごして、どうして嬉しかったと言えるのだろう。
自分の表情から察したのか、ことりは再びくすくす笑いながら続ける。
「うん、そう。真姫ちゃんはずっと難しい顔してた。風船屋を見た時――ううん、きっと私が誘ったあの時から、ずっと気持ちは浮かなかったんだよね」
「…………」
態度から雰囲気が伝わっていたのであろうことは、自分でも理解していたものの。
それでもこうしてずばり言い当てられると、むずがゆくなるものがある。
「だけど真姫ちゃん、つまんないとかもう嫌とか、一言も言わなかったでしょ? ことりのこと、気を使ってくれてるんだなぁって、すっごく伝わってきた」
「それは……」
意識したつもりはなかった。自分だっていい歳だし、子供のようなわがままでことりを困らせたくなんてなかったから。
「たしかにね。今回の目的は果たせなかったかもしれない。だけどね」
言いながら、三度。
ことりの指が、言葉が、笑顔が。
「真姫ちゃんの『ここ』に、私がしっかりいるんだって、わかったから。今日はそれで、じゅうぶん嬉しかったんだぁ」
真姫の胸を、射抜いた。
人の流れに身を任せながら、真姫とことりは遊園地を後にする。
まっすぐ伸びる影を追いかけながら、ことりはずっと楽しそうに鼻歌を歌っていた。
――今、自分も、同じ顔をできているだろうか。
表情はわからない。だけど。
気持ちは、きっと、ことりと同じものを共有できている気がした。
だけどそれは、やっぱり少しだけ照れ臭くて。
真姫の口から出てくるのは、ごまかしの言葉。
「もう、一体なにがそんなに楽しいわけ? 私はもうくたくたなんだけど」
「んふふー、私はとってもゴキゲンだよ? だって――真姫ちゃんとのデート、すっごく楽しかったんだもん!」
「……………………はぁぁぁああああ!? でぇとぉ!?」
「わっ。もぉ、真姫ちゃん。急におっきな声出したらびっくりしちゃうよ?」
「だ、だだだ、だって!」
頬の温度が上がる。染まる朱色は、夕日のせいだと言い訳できるだろうか。
「で、デートだなんて――ばっかみたい! 冗談じゃないわ!」
言ってから、はっとする。
ことりの表情が、ほんの一瞬、ともすれば気づけなかったほどの短い間。
色と、温度を、失っていたように見えたから。
「――もぉ、真姫ちゃんてば酷いんだから! そんなに否定しなくってもいいのに!」
気のせい、だったのだろうか。
ことりはすぐに頬を膨らませると、にこっと笑いながら踵を返す。
「さ、早く帰ろ? 今からじゃ遅くなっちゃうし」
歩を進めることりの表情は、見えない。ただゆっくりと、その後姿が小さくなっていく。
それはさながら、手放した風船のように。
手を伸ばしても、届かない。
「あ……」
取り繕う言葉を探しても、その口からは意味をなさない呟きしかこぼれない。
ことりの言葉に深い意味がないことくらいわかっていた。友達が、先輩が、仲間が使うような、軽い言葉であることくらい、わかっていた。
なのに。
いや、違う。
だからこそ。
心の奥から湧き出る熱いなにかを、抑えられなかった。
「ことり……」
取り返しのつかないくらい小さくなる背中に、呟く。
悔しさがあった。
みじめさがあった。
悲しさがあった。
だけど、なにより。
友達にも、先輩にも、仲間にも向けるものとは違う、揺れ動く感情があることに気づいて。
そんな気持ちに対して。
「――意味、わかんない」
自分すらも騙せない、ちっぽけな嘘をついた。
ギリギリセーフ
次はまたそのうち
CASE4::希→花陽
「あ、花陽ちゃん。そっちの本とってもらってええ?」
「えっと……これ、かな?」
「じゃなくて、もいっこ右の」
「えと……これ!」
「それ!」
書架からすっと本を抜き出した花陽に、希は手を伸ばす。本を差し出す花陽。受け取りながら自分の頬もほころんでいるのを、希は感じていた。
授業が午前で終わった、土曜の午後。希と花陽は図書館まで足を運んでいた。ダンストレーニングの資料探しを、という絵里の命であったが、希が喜々として選んでいるのははやりの恋愛小説ばかりである。
「そもそもダンスなんてカラダで覚えてなんぼやんな? 文字とにらめっこしてうまくなろうなんて都合よすぎるよね」
「うーん、運動が苦手な私としてはそれもありかなー、なんて思っちゃうけど……」
「っていう割に、選んでる本はずいぶんラブコメしてるみたいよーん?」
「そ、そういう希ちゃんだって、絵里ちゃんには『ばっちり学んでくるよ』とか言ってたのに、選んでるのは私と変わらないし!」
「しっかり学ぶつもりよ? れ・ん・あ・い・を♪」
「……や、やっぱり真面目にダンスの勉強した方がいい気が……」
「あー! ここまできて裏切るのは卑怯やん! 一緒にラブコメしようよー!」
「ちょ、希ちゃん、声大きい!」
ぽふ、と口元に軽い衝撃。
しっとり汗ばんだ花陽の手のひらを、唇に感じた。
(あ……)
不思議と甘い香りのするその手のひらに、ぞくぞくと背筋にくすぐったさが走る。
背骨に沿って指が這ったような、なんだかおさまりが悪くて、でも、ちょっとだけ気持ちイイ。
一言で表すなら、それは、きっと、快感。
(これ、やば……)
体の奥が――カラダの奥が、きゅう、と締め付けられる。
呆れた顔でひとりごちる花陽の声を。
少し恥ずかしそうに頬を赤らめる花陽の表情を。
唇を覆う花陽のぬくもりを。
鼻をくすぐる花陽の香りを、感じながら。
ああ、いっこたりないな、と、ぼんやりとした頭で考えて。
ちろ、と舌を出す。
「ひぅ!」
「あっ」
ひきつったような花陽の声に、希の意識は現実感を取り戻す。焦りから一瞬で汗にまみれた肌を、冷房の無機質な風がひやりと撫でていった。
「な、なななななな、な!?」
先ほどの自分の注意など知らぬ存ぜぬで、花陽は大声を上げる。
「なめ、なめ、舐め!?」
「い、いやー、ははは……つい」
「つ、ついじゃないよ、もう! ……はぁぁ、びっくりした……」
「ご、ごめんごめん。ちょっとしたいたずらのつもりだったんだけど」
「度が過ぎてるよ!」
必死さをアピールしたいのだろう、握った両の手をぶんぶんと上下に振るその姿が、まるで小動物じみていて。
「……ふふっ」
「な、なにがおかしいの!?」
「や、ごめんごめん」
曖昧にごまかしながら、でも、ホントのことは口には出せない。
あなたを好きになった日のことを思い出したんだよ、なんて。
アイドルにあこがれていて、でも一歩前に踏み出せない内気な少女の存在を、実は希はμ’sに入るより前から知っていた。
穂乃果たちが廃校阻止のためアイドル活動を始めた頃だったろうか。やりたいことを押し殺す絵里のため穂乃果たちをうまく誘導しようとしていた矢先のことである。
『かよちーん、早く行くにゃー』
『あ、うん、ごめんね凛ちゃん……』
穂乃果の作ったポスターを前に呆ける一人の少女。
失礼な話、第一印象は「あなたには関係ない話よ」であった。
もじもじと指先をもてあましながら、上目遣いに、恥ずかしそうにポスターを眺める少女。彼女がアイドル? 考えられない。それだけの存在だった。
しかし穂乃果を追いかける中で、その少女の存在は何度も希の前に現れた。ついには穂乃果たちのファーストライブの陰の立役者にまでなってしまったのだから驚きである。
そんな彼女がμ’sに入ったという話を耳にしても、もう驚くようなことはなかった。
そしてある日のこと。
『きゃうっ』
『っとお?』
廊下を歩いていた希の背中に軽い衝撃。振り返れば件の少女小泉さんが鼻を押さえて涙目になっていた。
『ご、ごめんなさひ』
なにせ鼻を押さえているものだから、情けない声ばかりがその口から出てくる。意識せず自分の頬が緩むのを感じる希。
『へ? な、なにかおかしいですか? 私』
笑われていると捉えた花陽が、なにかついているのかとぺたぺたと自分の顔を撫でる。
そんな花陽がなおのことおかしくて。
違うよ、大丈夫だよ。そう教えてあげようとして。
きょとんと首をかしげる花陽と、まっすぐ目が合った。
(…………っ)
瞬間、心の中でなにかが湧き出た。
それは心地よさとほんの少しの居心地の悪さを孕んだ不思議な感情で。
(あかん、これ……)
きっと恋だ。すぐにそう思った。
(あの後目を白黒させてる花陽ちゃんをごまかすの、大変やったなぁ……)
自分のぶつかった相手がじっと自分を凝視しているのだから、不審に思うのも当たり前だろう。結局その時の花陽は希に訝し気な表情を向けたまま去っていった。
そんな少女が。
「ん、んぅ……むにゃむにゃ」
(こーんなに油断して肩にもたれかかりながら居眠りしてるんやから、うちも信頼されたもんやなぁ)
しみじみと思う希。なんとか花陽をなだめ、二人して備え付けのソファで各々選んだ本を読み始めたのが一時間ほど前。隣に座る花陽の口からあくびが漏れ始めたのが三十分ほど前。自分の肩で船をこぎ始めたのが――十分ほど前か。
(ちょっと席取り、まずったかもなぁ……)
最初のうちはそうでもなかったが、傾いてきた日差しが窓から二人を照らすようになってきた。冷房が効いているものの、じわりとにじんだ汗が服を張り付かせる。
そしてそれは花陽も同じで。
(……若葉色、かぁ)
透けたブラウスの奥にあるそれに、つい視線が落ちる。
じんわりと、心の中に強い衝動がにじみ始めていた。
わしわしMAXと名付けたセクハラまがいのコミュニケーション法を、実のところ花陽に試したことは一度もない。
わかっていたからだった。それが他の娘に対して行うものとは違う意味合いを持つであろうことを。
文字通り、花陽に手を出せば。
そのやわらかさを知ってしまったら。
自分はもう、引き返せないであろうことを。
わかっていたからだった。
だというのに、隣で無防備に眠る少女は、呼吸にあわせてその悩ましげな膨らみを揺らしていて。
ごくん。
鳴った喉の音の大きさに、希自身が一番驚いた。
そして、それが、始まりの合図だった。
鼓動が早まるのを感じる。右手がゆっくり動き始めた。どくんどくんと耳障りな音。動いた手は迷いなく伸びていく。頬が熱い。あと数センチ。呼吸が荒い。指先が、ちょんと、触れて――
「――んぅ?」
「ひぐっ!?」
前触れもなく目を覚ました花陽に、希の口から声にならない声がついて出る。驚きのあまり体を跳ねさせたものだから、そこに寄りかかっていた花陽の体もがくんと揺れる。
「ぅえ!? なになに!?」
ゆめうつつのところを半ば強制的に現実に引き戻された花陽。きょろきょろ辺りを見回して、すぐ隣に座る希と目が合う。
「あ、あはは……お、おはよう? 花陽ちゃん?」
「んー……ん?」
いまいち状況を呑み込めていない花陽。ぼんやりとした表情を、こくん、と横に傾けて。
「あ……」
それが、あの日希が恋した少女の姿と重なって。
やっぱり自分はこの子が好きなんだと、思い知らされる。
言いたかった。好きですと。何度もそう伝えたかった。
そして、今もそう。
高ぶる感情は、もう理性では抑えきれないほどだった。花陽のすべてが愛おしい。抱きしめたくて、好きだよって叫んで、ずっと自分のものにしたかった。
(――してしまえば、いいやん)
そうして自分がゴーサインを出してしまえば、もう止めるものなどなく。
口を開いて。
息を吸って。
喉を震わせて――
舌先で感じた、彼女の味を思い出す。
「――――っ」
冷房なんかよりずっと冷たいなにかが、自分の背中をべろりと舐める。込み上げてきた吐き気を抑えるためとっさに口元を手のひらで覆う。
――ああ。さっきの感触とは大違い。
「え、え? どうしたの希ちゃん?」
ようやく意識を目覚めさせた花陽が、突然の希の行動に動揺する。問題ないと力なく左右に振った首は、花陽の不安を煽るだけのようであった。
「大丈夫希ちゃん? 気持ち悪いの?」
投げかけられた問いに、頭の中だけで答えを返す。
うん。そうだよ。
気持ち悪いんだよ、自分が。
こんなのきっと恋じゃない。そんなきれいなものじゃない。
たとえるなら、きれいにデコレーションされたケーキを両手で食べ散らかすような、醜さ。
好きなんじゃない。恋なんかじゃない。
ただただ、花陽が、ほしい。
こんなにきれいで美しくてかわいらしい少女が、ただひたすらに、ほしい。
これが気持ち悪くなくて――いったいなんだというのだろう。
慌てる花陽の声を聴きながら、希は自分の心がゆっくり罪悪感に飲まれていくのを感じていた。
一か月以上考えたのがしっくりこなくて勢いでがーっと書いたのがなんか納得いく不思議
希好きな人ごめんねこんな扱いで
でもこの二人の話考えるとこんな話しか思い浮かばんなぜだ
次はまたそのうち
CASE5::にこ→穂乃果
「――生きてるー? 穂乃果」
ノックもせずに扉を開けたのは、そういえばマナー違反であることににこが気づいたのは、そう声をかけてからであった。
「ほわっ!? に、にこちゃん!?」
案の定というか、なんというか。自室のベッドで横たわっていた穂乃果は、バネが壊れたおもちゃのように跳ね起きた。おでこに張られた冷えピタに、なんとなく彼女らしさを感じてにこの頬が緩む。
「ふふ……ごめんごめん。お見舞いに来たんだけどね、アンタんとこのお母さんがどうぞ上がって勝手に入っていいからなんて言うから、ついお言葉に甘えちゃった」
「う、えぇ……もう、お母さんってば……」
弱っているところを見られるのがそれほど恥ずかしいのか、それとも単に体調がすぐれないせいか。穂乃果はいつもの元気をどこか遠くへ置いてきたかのようにしおらしい。
――役得、役得。
内心でほくそえんでいるのを悟られぬよう、にこはそっと顔をそらした。
「でも、なんでにこちゃんが来てくれたの?」
どきり。つつかれたくないところをいきなりつつかれ、にこの額を汗が流れる。
「な、なによそれ? わ、私には来てほしくないってこと?」
「ご、ごめん、そういうことじゃなくって……なんでにこちゃんが一人で? ってことなんだけど……」
「そ、それは……」
口ごもるにこ。頭の中を部室でのやり取りがよぎる。
『さて、今日のトレーニングはこれくらいにしましょう』
いつもの屋上の、いつもの練習風景。それを遮る海未の声もいつも通り。そこにいつもと違う要素があるとするならば、リーダーである穂乃果の姿がないことだけ。
『……いつもより早くない? 下校時刻までまだもう少しあるんだけど』
練習に物足りなさを感じているのか、少し不服声の真姫。なだめるように、海未は続ける。
『風邪で休んだ穂乃果の容態が気にかかりますし、みんなでお見舞いに行ってはどうかと考えたのですが……真姫も練習に集中できていないのも、穂乃果のことが心配だからなのでは?』
『は、はぁ!? 意味わかんないんだけど!』
『ふふ。はいはい、真姫が素直になれないのはいつものことでしたね。それではみんな、帰り支度を済ませましょう』
『ちょ、ちょっと! 聞き捨てならないこと言い残さないでよ!』
『はいはいはーい! 真姫ちゃんのツンデレ劇場はそこまでにして、にこから提案がありまーす!』
『ツンデレ劇場ってなによー!』
顔を真っ赤にしながら喚く真姫を、おかまいなしと言わんばかりににこが続ける。
『穂乃果って今日は熱出して休んでるわけじゃない? あんまり大勢でお見舞いに行くのって正直どうかと思うのよねぇ』
『そう……ですか?』
『そうよ! せっかく静かな環境で休んでるところを8人で押しかけたら治るものも治らないわよ!』
『私は、にこちゃんの言うことも一理あると思うな』
『そうよね花陽! あんたならわかってくれると思ったわ!』
『ひゃうっ!?』
食いついてきた花陽に、逆に食らいつくような勢いのにこ。圧倒される花陽は目を白黒させながら2、3歩足を引いた。
『じゃあ、誰が行けばいいんだにゃ?』
花陽に代わって凛がにこの相手を始める。会話の相手など、この際にこにとってはどうでもよかった。
ただ、話を自分の望む展開に持っていければ。
「――で、話し合いの結果にこちゃんが選ばれた、と?」
「そ、そういうわけなのよ。私も自分磨きのための時間を削るのは惜しいと思ったんだけど、でもみんながここはぜひアイドル研究部部長の私が行くべきだ、なんて言うんですもの。さすがのにこにーでも可愛い部員たちのお願いは断れなかったわぁ」
「ふーん……」
自分がいつになく饒舌になっていることを自覚しながら。それを見る穂乃果の視線に疑いの色が混ざっていることに気づきながら。しかしにこの言葉は止まらない。止められない。
――言えない。自分が絶対当たるよう細工したくじ引きを使ったなんて、言えない。
あはは、と乾いた笑みを張り付けるにこ。普段のμ'sの様子を知る人間であれば、今のにこの言葉が偽りであることを察することは容易であったはずだったが。
「……ふふ。そっか。みんながそう言ったんじゃ仕方ないよね」
にこのものとは全く違う印象を与える笑みとともに、穂乃果はそう言うだけであった。
「ところでにこちゃん、その袋は……?」
「あ、そうそう! あんたにお見舞い、買ってきたのよ!」
話題が変わったことに安堵しながら、にこは手から提げていたコンビニ袋をまさぐる。
「飲み物とかご飯は実家暮らしだし問題ないでしょ? だからこういうのはどうかなーって思って」
「わっ、アイスだぁ」
「高価なものじゃないけどね。コンビニによくある安物よ」
「でも、嬉しいよ」
アイスを受け取った穂乃果は、優しくそれを手のひらで包む。冷たさを感じているのか、ゆっくりとまぶたがおろされた。
「正直ね、熱高くて、ちょっと厳しいんだ。だからね、冷たくて、きもちくて――嬉しい」
にこ、と。
自分の名前のように微笑む後輩に。
「ぁ、う……」
にこもまた、自分の体を侵す熱量を感じていた。
アイドルにかける情熱は誰にも負けない。矢澤にこが決して曲げない信念であった。
事実、今までもその想いが誰かに劣っていると感じたことはない。アイドルになりたい。誰かの笑顔のだめに。誰かの「にこ」のために。自分は最高のアイドルになりたい。そ
その熱に、偽りなど一切混じっていなかった。――はずなのに。
「すぅ……すぅ……」
アイスを完食した穂乃果を、にこはすぐに眠らせた。熱があるのに接客などさせておくわけにもいかずすぐに寝るよう忠告してから、それと急な訪問を詫びて、部屋を後にしようとしたところ、眠るまで一緒にいてほしいと直々に懇願されてしまった。
そばに人がいることに安心したのか、眠りに落ちるまでそう時間は要さなかった。
「ん、んぅ……すぅ……」
時折熱に浮かされたようにうなる後輩を見ながら、思い出すのは出会いの1ページ目。
そう、自分は――彼女らがアイドルになろうとするのを、妨害した。
自分がひたむきに目指していた、その純粋さを、自らの手で汚した。
「――――」
嫉妬、だったのだろう。
自分の持つ情熱についてこれずアイドル研究部から人がいなくなり、孤独を味わった1年の時の思い出。
その苦さを、黒さを、醜さを。
自分が望むものを手にした穂乃果に、すべてぶつけた。
それでも穂乃果はあきらめなかった。
自分の目指すものにむけて、時に愚であり、でも直に。
だから、彼女の周りには人が集まるのだろう。
自分がアイドルに傾ける情熱と同じ。
穂乃果の持つアイドルへの情熱が、人を惹きつける。
μ'sのメンバーを。
そして、自分を。
「ぅ……んん。……ふぅ、ふぅ……」
そんな彼女の熱量が、エネルギーが、もっと物理的な熱で鳴りを潜めてしまっているというのだから、皮肉な話である。
でも、そんな弱々しい穂乃果が相手だからこそ。
「……早く元気になりなさいよ、穂乃果」
自分も少し、肩肘張らなくて済むのかもしれない。
「……帰ろっと」
物音を立てないよう、ゆっくり立ち上がるにこ。懸念とは裏腹に穂乃果が目覚める様子はない。
荷物をまとめ、忘れ物がないかをぐるりと見まわし――穂乃果を視界にとらえる。
――目を覚ましませんように。
信じていない神様に一度お祈りをし、穂乃果の額に手を伸ばす。
ちょっと子供っぽい冷えピタ。オレンジのペンで「ほ」と落書きしてあるのは、妹さんのいたずらか。
「…………」
ためらったのは一瞬。
端をつまみ、ゆっくり剥がしていく。音もなく剥がれたそれは、てろーんとにこの指先で力なく揺れる。
目的はそちらでなく――
こつん。
できる限り優しく。
穂乃果の額と自分のそれを、合わせる。
熱い。
触れ合う一点から、穂乃果からにこへ、熱が渡る。
これで少しでも穂乃果が楽になりますように、なんていうのはきれいなきれいな建前で。
「――――」
数センチ前で呼吸を繰り返す穂乃果に、にこもぼーっと浮かされる。
ほんの数センチ。唇が、近づけば。
「ほの、か」
口をついて出てきた相手の名前。お互いの吐息を混じり合わせながら、にこはゆっくりその距離を縮め、そして――
「……こ、ちゃん」
「っ!」
穂乃果の寝息に言葉が混じり、慌てて顔を離す。穂乃果が目を覚ました様子はなく、寝言がこぼれただけのようであった。
それよりも。
「に、こ……ちゃん」
「え?」
穂乃果の口から出てきたのが、自分の名前で。
「…………えへへ」
ふにゃ、っと。
さっきよりも何倍も柔らかい笑顔を浮かべるのを見て。
「――――っ!」
鼓動が、速くなる。
寝る直前まで一緒にいたから。
最後まで穂乃果の意識に残っていた人物だから。
だから、だから、さっきの言葉に特別な意味なんてない。
さっきの笑顔に、特別な意味なんてない。
慌てて穂乃果の家を飛び出した、その帰路。日が落ちた肌寒い道を、急ぎ足で歩く。
勘違いしてはいけない。
いくら自分にとって穂乃果が特別であったとしても。
穂乃果にとって自分がそうだなんて、限らないのだから。
だから、勘違いしてはいけない。
傷つくのは自分だから。
だから、落ち着かなきゃ。冷静にならなきゃ。
何度も何度も、にこは自分に言い聞かせる。
びゅうと一際強く吹いた風も、ほてった体をさあっと撫でて冷ましていく。
――なのに、どうして。
「もう………もうっ!」
穂乃果から受け取った額の熱だけは、いつまでたってもじんじんとにこを苛んでいた。
ここまで
もうちょっとペースあげられたらと思います
しかしいかんせんネタ切れ感
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