宮崎駿「イカ娘って漫画いいね。うちでやろう」 (352)

スタジオジブリ

鈴木P「イカ娘?」

駿「うん。イカ娘。知らない?」

鈴木P「いやまあ…知ってますけどね。一応」

鈴木P「こういった大衆漫画を宮さんがやるっていうのはその、珍しいと言いますか」

駿「前にも似たようなことはあったでしょう」

鈴木P「あれは…まあ」

駿「今回は僕が監督しますから」

鈴木P「いやあ、ははははは。…本気ですか?」

駿「企画通しておいて下さい。僕は必要なスタッフに声かけていきますから」

鈴木P(大変なことになったぞ…)

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1437051765

数日後

スタッフ「見ました?今朝の新聞」

スタッフ「これですか。ーーーー宮崎駿、ついにハジける。侵略イカ娘アニメ化決定!!」

スタッフ「長編アニメはもうやらないんじゃ」

スタッフ「ジブリ美術館で公開する短編…の予定らしいです」

スタッフ「短編…ですか」

駿「…」ズガガガガガ

スタッフ「全盛期の倍は働いてますけど」

スタッフ「もうイメージボード200枚描いたみたいです」

スタッフ「今作は何カットになるのやら…」

別室

高畑「…」

鈴木P「…」

高畑「やるんだ。長編」

鈴木P「本人は短編と言い張ってますけどね。まあ…『豚』の時と同じ空気を感じてますね」

鈴木P「間違いなく長編になるかと。ええ」

高畑「どうしちゃったんだろうねえ。宮さん、もう74でしょう」

高畑「今は別に短編で3Dアニメも始めてる訳でしょう。いやあ…死んじゃいますよ、宮さん」

鈴木P「(笑)」

高畑「死に場所を見つけたのかもしれない」

鈴木P「俗っぽい言い方ですけど…ロリですか」

鈴木P「ロリに死ぬという」

高畑「(笑)」

鈴木P「(笑)」

荒川D「今日から密着取材させていただきます荒川です。よろしくお願いします」

駿「…また君か」

荒川D「今作の制作過程もばっちり追わせて頂きます」

駿「はあ。もうこの際だから言わせてもらうけどね。邪魔なの」

駿「今度という今度はね、最後のつもりだから。集中しないといけないの」

荒川D「はあ。最後ですか」

駿「そう。最後。だから、べらべらくっちゃべってる暇なんて無いんだから」

荒川D「鈴木さんは許可してくれました」

駿「…」

駿「いくつか条件をのんでもらう。それならいいよ」

荒川D「分かりました」

駿「俺の言うことに対して一切笑うな。それなら取材を許可する」

荒川D「? 分かりました」

荒川D(笑うどころか、いつも緊張感で沢山なのに)

絵コンテ制作1日目

荒川D「おはようございます」

駿「おはよう」カキカキ

荒川D「早速描いてますね、コンテ」

荒川D「今回はペース早いんじゃないですか?」

駿「最初は早いよそりゃ」カキカキ

荒川D「はあ」

駿「企画だってそうだよ。やりたいこと思いついて、それをひたすら集積している間は楽しいよ、道楽でなくたってね」カキカキ

駿「ただ続けていくうちに、どんな作品を描く時も大抵は、問題点が出てくるんだよ。そういうもんなの」カキカキ

荒川D「問題点ですか」

駿「情報を継ぎ足していく内に、コンテから主張してくるようになるんだよ。その始まりが遅いか早いかは、その作品の難度で変わってくるんだけど」カキカキ

荒川D「『風立ちぬ』は企画段階から相当苦しんでましたね」

駿「自分のアニメーション作りに対する、根底からの否定、それをしないと始めることもできなかったから当然だよ。それでも作りたかったから作ったんだ。苦しいけど。映画っていうのはそういうもんだ」カキカキ

荒川D「今回は順調ということは…」

駿「うん。だから、その大否定、集大成を終えて、じゃあ次に何やるかってなったら、原点回帰だよ」カキカキ

荒川D「原点回帰ですか」

駿「そう。原点は簡単だよ。自分に従えば良いんだから。戦うべき課題はあるけれども、それは今回少ないよ。だから進むんだ」カキカキ

駿「本当はね、自分の中の枠組みで描いてちゃいけないんだ。仕事で描くのなら、それは守るべきルールであってね」カキカキ

荒川D「枠組みですか」

駿「嗜好で凝り固まった作品というものが、今の日本のアニメにはあまりにも多過ぎてね」カキカキ

駿「画面に映された絵からオタクの汗ばんだ何か…そういう匂いみたいなものがね。鼻をついて仕方ないんだよ」カキカキ

駿「嗜好っていうものはまさしく枠だよ。課題と戦うどころか、作品内にそれを設けることもしない。ただの現実逃避の道具だよ。情けない限りでね」カキカキ

駿「好きなものを対象化できていない。公衆の面前でそれを愛でてるだけ。だから吐き気を催す絵が出来上がる」カキカキ

荒川D「なるほど」

駿「対象化した上でね。それをどう描くかっていうのが大切なんだ。問題と戦って、それを越えようという力を込めて描かないと。それをしなきゃ駄目だ」カキカキ

駿「ところが大半の作家はそれをしない。だからオタクの巣窟なんだよ、今の日本アニメーションは。想像性のかけらもない」カキカキ

荒川D「それでいくとこと『イカ娘』は…」

駿「イカ娘は最高だよ」カキカキ

荒川D「え? あ、はい。そうですね。最高です」

駿「だからいいんだよこれで」カキカキ

荒川D(…………????)

~荒川Dの取材日記~

絵コンテ1日目を終えて。

宮崎さんは衰えを知らないのか、まるで若返ったように、何時間も机に向かってひたすら鉛筆を動かしていました。

コンテに描かれた鉛筆線はこれまでにない勢いで、まるで74にして新しい道を切り開いたかのような、そんな何かを感じさせてくれる素晴らしい…絵の数々でした。

気になることと言えば、あくまで凡人の僕目線から見ると、宮崎さんの言っていることは、宮崎さんの作る『イカ娘』と全て矛盾しているという点です。

宮崎さんの作品は素晴らしいです。その素晴らしさは絵作りを挙げるなら、生き生きとしたキャラクター以外にも、あの美麗な背景です。

それをより美しく魅せる画面をレイアウトしているのは、他の誰でもない、コンテの宮崎さんです。

ところが宮崎さん、今作の絵コンテ、何だあれイカ娘のアップばかりじゃねえか何なんだおい。

失礼。口汚くなってしまいました。

いつものように、日を改めた時、昨日の自分を全て否定する、あの大修正が待っているのでしょうか。

宮崎さんの作る『イカ娘』はどうなるんでしょうか。

今日は本屋で『イカ娘』を買って、帰ったら読むことにします。

少しでも宮崎さんの真意に近付けるように…。

絵コンテ制作2日目

今アニメ業界は騒然としていた。

国民的アニメ監督、宮崎駿が、イカ娘をアニメ化する。

そしてその内容は、今のところ宮崎駿周辺の者にしか、知る由もない。

一人は密着取材を行う荒川ディレクター。

彼の脳内は、嵐のような疑念で満ち溢れていた。

一人は鈴木プロデューサー。

困惑していた。

もう一人は、息子、宮崎吾郎だった。

彼は、

吾郎「どうしたの!!? ねえどうしたの!?」

全力で食い止めにかかっていた。

コンテ制作、僅か2日目のことである。

駿「うるさい! 俺は作るんだよ!」

駿「最高の『イカ娘』を!!」

宮崎駿、今年74になる。

別室

吾郎「ついに…ボケてしまったのかも」

荒川D「そんなことないですよ。いつものように、僕の疑問に対して理路整然と応答するあの様子は、とてもボケ…だなんて」

吾郎「僕はね。ハイジやパンダコパンダを観て、それを父親代わりに育ってきたんです」

吾郎「それがね。何をイカ娘に惜しみない愛を注いでるんだこのロリロリクソジジイ!とか何とか言うとね、血相変えて実の息子に右ストレートと左アッパーをかましてくる父に成り果ててしまったんですよ」

荒川D「ロリロリクソジシジイは言い過ぎですよ。今時小学生でもそんな幼稚な悪口言わないですよ」

吾郎「うん…」

鈴木P「やあ。きてたのか」

荒川D「鈴木さん」

鈴木P「悪いんだけどね。折り入って相談があるんだよ」

鈴木P「宮崎駿という男はねえ。キャラクターを通して、生身の人間を見ている人なんですね」

荒川D「それは僕もご本人からよく耳にすることです」

鈴木P「例えばポニョにしてもね。そりゃポニョというキャラクター自体は、この世界のどこを探したって、見つかりやしないよ」

鈴木P「けど確かな説得力、リアリティを秘めている。嘘の中で現実以上の本当を描いている。創作行為の極地点」

鈴木P「ポニョのようなふるまいを見せる生身の人間は、この世界のどこかに確かに存在する。そう確信させる現実味を、宮さんはこれまでの観察から得たものによって、形作っているんです」

鈴木P「そしてそれはキャラクターという個にとどまらない」

鈴木P「宮さんの作りたいという欲求を構成する多くの要素、その一つには、子供のためにというのがそれは勿論第一にあって、」

鈴木P「けどそれでいて、クリエイターの業とでも言いますか、確かに、自分が面白いと思うから、自分のために作りたい、そういう要素も持ってるんですよ宮さんは」

鈴木P「つまりね。あれだけ『イカ娘』に取り憑かれているという理由にはね、イカ娘のようなキャラクター、そしてその世界と、感覚的に、確かに『出会いたい』という点がね、凄く大きいと思うんですよ僕はね」

荒川D「出会いたい…」

荒川「出会いを求めている、と?」

吾郎「…」

鈴木P「そもそもなんでもの作るかってね、無いんだから作るんでしょう。多くの場合は」

鈴木P「宮さんの求める感覚というものは高次元的過ぎて、宮さん以外に実現できないんですよ」

鈴木P「ならいっそのこと、本物と見紛うような娘を連れてくればいいんですよ」

荒川D「…」

荒川D・吾郎「「は?」」

吾郎(ついにボケやがったな…)

荒川D「え、ええと。つまりあのキャラクターに酷似する娘を宮崎さんの元へ連れて行けば」

鈴木P「確実に満たされ、もう誤った道に突き進むことはなくなるであろうと」

鈴木P「何とかなりませんかねえ。テレビ屋さんならそんな子の一人や二人は手配できるでしょう」

吾郎「鈴木さんあのですね…」

荒川D「分かりました何とかしましょう。上に相談してみます」

吾郎「!?」

鈴木P「助かるよ」

荒川D「題して…『宮崎駿を救え!リアルイカ娘召喚の巻!」

鈴木P「いいねいいねえ。というかそれで数字取れるんじゃないの?」

荒川D「ですかねえ」

ーーーーだあっはははははは!!

吾郎「今日は帰ります。仕事あるんで…」

~荒川Dの取材日記~

絵コンテ制作2日目を終えて。

国を代表するトップクリエイター、百年に一人の大天才、宮崎駿。

実験と言うには甚だ失礼だが、試してみるにはこれ以上の素材はない。

僕は一人の人間として、宮崎さんに興味を抱いていた。

『風立ちぬ』で見せた、技術者の業。

夢を追う人間というもの、美しいものを見続ける者を、綺麗な部分から醜いところまで徹底し描き切った、日本アニメーション史上最も美しくも醜い作品。

宮崎さんは自分の正体を曝け出した。

しかし、僕にはまだ足りない。

宮崎さんは恐らく手が動かなくなるその時まで、作り続ける。手塚治虫氏のように。

充足などあり得ないのだろうか。満足できないのだろうか。

百年に一人の大天才であっても。いや、だからこそかもしれない。

そうなると、これは対決だ。百年に一人の大天才との決闘だ。

彼を満足させることができれば、その手を休めさせることができる。

必ずや、素晴らしいイカ娘を引き連れ、大天才の創作意欲に打ち勝ってやるのだ。

面白い取材になってきた。

絵コンテ制作3日目

荒川D「おはようございます宮崎さん」

駿「おはよう。…昨日の騒ぎの後で、よく来れるね」

荒川D「仕事ですから。休みませんよ」

駿「結構なことですね」

荒川D「コンテ進んでるじゃないですか」

駿「ん…。駄目ですよ。ついに問題点が浮上してきたんです」

荒川D「出てしまいましたか」

駿「ええ。出てしまったんです。いやあ、これは参った」

荒川D「ちなみにそれは、どういった問題なのでしょうか」

駿「このイカたそがね。魅力的すぎるんですね」

荒川D「なるほど(イカたそ?)」

駿「ほら。絵を描く人間なら分かるんですがね。描いてると、その経過、出来が良すぎてね。それ以上手をつけたくないんですね。そういう瞬間があるんです」

荒川D「ふむふむ」

駿「それでも始めた以上は完成させないといけないでしょう?」

荒川D「そうですね」

駿「ところがね。このイカたそというキャラクターは僕がどうこうするまでもなく、完成されているんです。もはや芸術の域なんです」

駿「イカたそは、芸術なんです」

荒川D(メモっておこう)

駿「原作があるというのはね。この点、難しいんですね。基本的には料理と同じ理屈なんですがね」

駿「あまりにも完成された素材がそこにあって、どうやって手を付けるよりも、もうそのまま食した方が絶対に美味しい。そういうものがね、ときたま現れるんですよ。ものを作っていると」

荒川D「はあ」

駿「つまり自分の解釈能力を逸脱するものなんですそれは。これが現れてしまったらね。こっちは黙っているしかないですから」

荒川D「どうするんですか?」

駿「そんなの分からないよ。それを考えてるんだから今」

駿「うーん…」ユサユサ

荒川D(きた。いつもの貧乏ゆすり)

荒川D(手が止まっている今がチャンスだ)

荒川D「…宮崎さん。そんな行き詰まっている宮崎さんのために、参考になるかと思って、イカ娘を彷彿とさせるような子供を何人か連れてきました」

駿「呼びたまえ」

荒川D「はい。Aちゃーん! おいで!」

A「…」トテトテ

駿「歩き方、ポイント高いね」シュバババ

荒川D「何してるんですか?」

駿「デッサン」

A「A。5歳です」

駿「5歳かあ。無敵だね」

荒川D「無敵?」

駿「5歳っていうのはね、天才なの」

荒川D「はあ」

荒川D「どうですか宮崎さん。コンテ、進める気になりましたか」

駿「ん。大分ノッてきたでゲソ」

荒川D(!? こいつぁノリノリだ…)

荒川D「で、でもですよ宮崎さん。この子を見ていると、何か充足されるような気分にはなりませんか」

駿「? ならないよ」

荒川D「どうして…」

駿「…ふん。君は分かってないね。そして僕は分かった」

荒川D「?」

駿「取材陣からわざわざ創作資料を提供してくるなんて丁寧な真似、どうかと思ったら」

駿「作る人間はね。本当に美しいものに出会うから満たされるなんてことはないんだよ」

荒川D「!(もう意図を見抜いた!)」

駿「むしろそこから刺激を得て、意欲を得る。食欲と同じ。終わりはないの」

駿「さしずめ『イカ娘』に目をつけた僕への配慮、鈴木さんの仕業なんだろうけど」

駿「誰に何を言われようと『イカ娘』は完成させる」

駿「それが分かったらその子を返してやりなさい。コスプレまでさせて、可哀想に。ご馳走様」

荒川D「…、分かりました」

A「おじいちゃんさようなら」

駿「はいさようなら」

~荒川Dの取材日記~

絵コンテ制作3日目を終えて。

やはり天才は違う。雲の上の存在だ。敵うはずもない。

戦意も早々に失せてしまった。これからどうすればいいんでしょうか。

正直に言います。今日試みたような、こんな楽しみでもないと、いくら興味を持っているにしても、一人の人間を長期間密着するのはしんどい。

ましてや相手は宮崎駿。

僕のメンタリティは早くも限界を迎えていた。

ならば徹底的に仕掛けてくしかない。

取材とは、戦いだ。

絵コンテ制作4日目

たった3日間で、彼の凄さというのを、実際にこの皮膚で十二分に感覚した。

天才はやはり凄い。

おそらくこのままでは『イカ娘』制作の完遂を阻止することは不可能だろう。

取材する人間が、制作する人間を阻止しようというこの状況に、疑問点が浮かばない訳がない。が、そんなことは今どうでもいい。

こうなったら物理的に右腕を、という訳にもいかない。捕まる。

残された道はただ一つ。

あえて、完成を促す。

むしろそのイカ娘に対する情熱に湯水のような油を注ぎ込んで、圧倒的速度で制作を終わらせてしまうこと(作画スタッフ陣のことは知らない。どうにでもなれ)。

そして作品が完成したならば、次は試写会だろう。

そこで、ありったけの批評。

無慈悲な批評。

これしかない。

貶しまくれば、さしもの宮崎駿も公開を断念する可能性が大きい。

浪費する時間の少なさも、それが一番少ないように思える。

>A「おじいちゃんさようなら」
>駿「はいさようなら」

ここ好き

マジレスするとロリは俗語
ペドはペドフィリアから来る学術用語

荒川D「おはようございます宮崎さん」

駿「おはよう」

荒川D「絵コンテ、どうですか」

駿「うん。イカたそに関してはもう割り切ってしまったからね」

駿「進んでるよ。順調なんじゃないかね」

荒川D「…!」

荒川D(宮崎さんに絵コンテの進歩を聞くといつも機嫌を損ねていたのに…)

荒川D(まさか「順調」なんて言葉が宮崎さんの口から出てくるなんて)

荒川D「す、少し拝見させていただいても宜しいでしょうか」

駿「公開までまだあるんだから。カメラには映さないで」

荒川D「勿論です」

荒川D「…」ペラ

荒川D「!!?」

荒川D「…………」

駿「ちょっと。どうしたの」

荒川D「これ描き始めたのって、僕が取材を始めたあの日からで間違いないですよね?」

駿「そうだよ」

荒川D(あ、あり得ない)

荒川D(既に300カットに到達してる…!?)

荒川D(たった3、4日で。……人間かこの人…?)

荒川D(しかも…)

荒川D(序盤のあのアップの連続も、まるでふざけていたかのように、まるっきり別物に修正されてる)

荒川D(改めて思う…怪物だ)

※現実に3日間で300カットは不可能です

荒川D(情熱を煽るまでもない。自分は…)

荒川D(自分は何のためにここにいるんだろう)

荒川D(天才を理解するどころか、その足元の影を追いかけることもままならない)

荒川D(これじゃ、取材にならない)

荒川D「宮崎の言う原点回帰、そしてイカ娘の魅力とは、そこまで計り知れないものなのか)

駿「今回の制作体制は今までにない新しいシステムでね」

駿「絵コンテと同時に原画、動画、美術の制作…これは変わってないけれど、もう音楽や声入れから全てを進行させてる」

荒川D「コンテを描き出してすぐに他全てを同時進行…。そういうことですか?」

駿「うん」

荒川D「な、何をそんなに急いで…」

駿「…」

駿「『侵略!イカ娘』。読んだ?」

荒川D「え? いや、まあ。取材するからにはってことで。読みましたけど」

駿「そう。実はね。僕はほんの触りしか読んでないんだ」

荒川D「え?」

駿「原点回帰というのは実はね…」

鈴木P「宮さん! 大変大変!」

荒川「! 鈴木さん」

駿「どうしたんですか騒々しい」




荒川D「……これは」


スタッフ「もう…限界です」

スタッフ「」

スタッフ「いくら何でもこの短期間にこのカット数は保ちませんよ」

スタッフ「帰りたい…」

スタッフ「自分なんてほら。見て下さい、この酷い腱鞘炎」

スタッフ「制作進行さんはどこですかあ」


鈴木P「作画スタッフ陣がね。音を上げてるんですよ」

駿「…」

駿「全く。情けないね。70過ぎの老人がこんだけやってるってのに」

荒川D「破いた紙が散乱してる無人の机が…。逃げ出したのか……」

鈴木P「……宮さん。ちょっとね。いくらなんでも急ぎ過ぎじゃないですか」

駿「何言ってるの。遅かったら遅かったで、いつも色んな方面からぶつぶつ言われるのに」

駿「庵野のスタジオに腕のいいスタッフが多くいたでしょう。また助けを借りましょう」

鈴木P「いやでも…」

駿「全く! 情けない!」

駿「ほら寝てるんじゃないよ君たち。鉛筆を持ちなさい!」

スタッフ「う…ん」

荒川D「宮崎さん…!」

鈴木P「うーん…」

鈴木P(これは流石に、今まででも一番の緊急事態だ)

その夜 スタジオジブリ

鈴木P「遅くにすまないね。宮さんが帰らないことには中に入れられないから。隠密なのよ、これ」

庵野「いえ」

荒川D「…どうして庵野さんを呼びつけたんですか。まさか協力を仰ぐために」

鈴木P「それもある。いや、そうなる可能性もある」

鈴木P「ただ、その協力というものが、どういう形に収まるのかは分からないんだけど。実際に鉛筆を増やすために助力してもらうのは最後の結論に取っておきたいから」

荒川D「?」

鈴木P「僕は宮さんと付き合い長いから。と言っても、天才であり、同時に変わり者である彼を、全て知り尽くすというのは無理な話でね。彼もまた動態で、一生向上し続ける人だから。変わり続けていく人だから。これからも」

鈴木P「だから僕一人の見解じゃどうにも心細くてね。真面目な話だし、久しいからね。こうして顔を付き合わせてね。ちょっと話し合いをしたかったんだよ。宮さんについて」

庵野「僕はあなたほど宮さんに近しくないと思いますけどね」

鈴木P「いや近い」

鈴木P「君は作る人間だから」

荒川D「…」

鈴木P「……始めようか。カメラは…」

荒川D「切ってあります」

鈴木P「つけていいよ。残して。宮さんを本気で追いたいなら、咎められることも恐れちゃ駄目」

鈴木P「傷付くことを恐れて、他人を知ろうだなんて。そんなの愚かだと思わない?」

荒川D「……、」

荒川D「」カチ



鈴木P「体調の問題は考えたよ。そりゃあね。老人がことを急く理由なんて、そう数多くないでしょう」

荒川D「元気そうですよ。実に。演技と思えません」

鈴木P「演技であっても本当であっても、問題にはならないんだよ。宮さんが仮にね、自分の時間を悟った瞬間があったとしてもね」

鈴木P「こうはならないんだよ。彼は筋を通すから」

鈴木P「みっともない真似をすることをみっともないとする人じゃないんです、宮さんは。だけどね、人に迷惑をかけてまで何かを強行しようとする。これだけはしないんです。間違いなく」

鈴木P「つまりね、万一、自分の時間を悟ったとしても、こんな状況は作らない。自分のできる範囲…まあ漫画が一番手頃でしょう。その域で彼はものを作りますよ。そんな瞬間があって、あったとして、やり残してはならないことを遂げるのであれば。…アニメだとしても、本当に短いもの。ひょっとしたら1カットだってあり得る」

庵野「それはあり得ますね。宮さんの究極性なら、1カットのアニメーションで凄いものを作る可能性は否定できない」

鈴木P「でしょう? ところが今作、例によって長編。それも無茶苦茶なスケジュールで迷惑千万。よってこの仮説は没」

鈴木P「次の説。やっぱり宮さんという人は、基本的に子供のためにアニメーションを作ってきた人ですから。今回は特に、子供に限らず、親しさだとか、想いだとか、何か強い気持ちを寄せる相手がいて、そういう存在のために今、作っているという説」

荒川D「あれほどスタッフを消耗させてまで必死になる理由に繋がりますか? 『千と千尋』だって、そういう具体的な相手はいましたよね」

鈴木P「そうなの。だから、特別だって。そう言いたいんだけどねえ」

鈴木P「それこそ病床に伏す小さな子供と何らかの形で知り合って…とかね」

荒川D「現実味が薄いですよね」

鈴木P「そう。だから、そういうことだからね。宮さんであろうが、どこぞの小さい子供であろうが、誰であろうが、とにかく『最期』っていう言葉をくっ付けてしまうのは、どうも現実味がない」

庵野「宮さんも長生きしてますから。そういう対象は、これまでにも多くいたと思いますよ。実際に何人か知ってます」

鈴木P「うん。だから、今回に限って…というのはこじ付けになってしまう」

鈴木P「宮崎駿は急いでいる。つまり時間が、何らかによって限られている。それもどうやら『イカ娘』でないと駄目ならしい」

鈴木P「三つ目の説」

鈴木P「限られた時間の中、これまでとは何かを画しているモチーフ、イカ娘を制作する。これをそのままに捉えればいいんじゃないかと。要するに」

鈴木P「ーー宮崎駿は、イカ娘を作る約束をしていた」

荒川D「約束…となると、期限付きの理由にも充分ですね」

鈴木P「で、庵野に聞きたいのがね。宮崎駿はそういう約束をする男かどうか」

鈴木P「彼の艶やかな才能に潜むおぞましい非人間性は、そういった約束を許すのかどうかということ。庵野もクリエイターなら、ましてや『エヴァンゲリオン』みたいな残酷なものを描く性質が秘められた君になら、同じような場所に立って考えることができるんじゃないかと、そう思ってね」

鈴木P「で。どう? 実際」

庵野「…難しい問いですね(笑)」

鈴木P「僕はねえ。作ることには興味がないの」

鈴木P「皆で作っていく、その環境、過程、有様。その中で仕事していくスタンスに、活路を見出したのがもう何十年前だかの話になるんだけどさ」

鈴木P「だから実際にね、机に向かって地蔵のように毎日毎日、不動を貫き鉛筆を動かし続けるその才能、執念をね。そういうものを持ってる人たちの負の部分を、ある程度の想像でそれを捕まえることはできるけど。こればかりは秀でた才能の持ち主に直接聞くのが一番早いでしょう?」

鈴木P「あの宮さんに、何を考えているか分からない、まるで宇宙人だって、そう言わしめた君の性質であれば、同じとはいかないまでも、近い場所に立って想像することはできる。違う?」

鈴木P「宮崎駿は限られた創作人生を、膨大な作業量が要されるアニメーション制作という約束に注ぐことのできる、人間性においてもエンターテイナーである存在か、否か」

鈴木P「誰かのためにという志を持つ自分の為にやってきたのか。本当に誰かのためにやってきたのか」

鈴木P「後者ならば。人間性においてもエンターテイナーであるならば。彼は約束をする。そうなっても、おかしくはない」

庵野「…」

庵野「……、」

庵野「…」

荒川D「……」

庵野「宮さんはエンターテイナーだと思います」

鈴木P「うん」

庵野「…」

庵野「けど、そうですね。うーん…」

庵野「約束と仕事を結び付けるようなことはしないんじゃないでしょうかね」

庵野「宮さんは趣味…よく『道楽』と言ってますけど、それと仕事とを、そう混同させたくはない人なんです」

鈴木P「『風立ちぬ』も元は道楽で描いた漫画だって言って、なかなか映画にすることを許さなかったねえ」

庵野「要は公私混同ですよ。適切な言い方」

庵野「宮さんはそれをしない。あくまで基本的にはですが」

庵野「いかに可愛い子供がいても、約束事を作って、それを仕事に持ち出すようなことはしませんよ」

庵野「子供のために作りますけど、約束とは違いますから」

庵野「それは宮さんの信念であって」

庵野「人は信念の奴隷ですから。宮さんは映画の奴隷ですから」

庵野「約束とは違う。でも間違いなく、生粋のエンターテイナー。というのが、僕の見解です」

鈴木P「これでもう僕の仮説はお終い」

庵野「難しいこと考えすぎですよ。いいじゃないですか、作らせれば。手伝いますよ」

鈴木P「でもねえ」

庵野「迷惑も被ります。僕はまだ宮さんに恩を返し切れてませんから」

庵野「宮さんがアニメを作っていなければ、僕のアニメに対する見方はもっと浅いところで止まっていた」

庵野「今の自分は、宮さん抜きにはあり得なかったんです」

庵野「これくらいどうってことないですよ。宮さんの動機がどうであれ、それがどれほど周囲へ影響を及ぼそうとも」

庵野「僕はアニメ監督である前に、一人のアニメファンですから」

庵野「僕は宮さんの新作が見たい」

鈴木P「……うん」

鈴木P「まあ。だよねえ。そういう落ちに着くよね」

鈴木P「庵野がそういうなら、このまま『イカ娘』、続けさせても…。お客が来るかは分からないけど」

荒川D「…」

荒川D「原点回帰…」

鈴木P「ん?」

荒川D「原点回帰。宮崎さん、そう言ってました。これは原点回帰なんだって」

絵コンテ(長編『侵略!イカ娘』)制作30日目

4日目の夜、僕と鈴木さんと庵野さんの三人は、宮崎さんの動機を探り当てることで、そこから上手くこの無茶苦茶な制作を阻止しようと、深い思索が一時は繰り広げられたものの、庵野さんの意向により、被害が例え大きくても、天才の舞台を瓦解させるような事態は何としても避けよう、その努力は惜しまない、そういう結論に至った。

宮崎さんの焦燥感?とは裏腹に、コンテのペースはみるみる落ちていった。何かまた大きな問題に当たってしまったのだろう。

鉛筆を持つ手は、序盤のような活発な動きを見せず、しきりに煙草を吸い、髪を掻き毟り、脚を揺すり、そんなことを繰り返しながら、宮崎さんの呻き声は、果てしない葛藤から生まれる美しい一瞬を伴って、毎日スタジオを徘徊する。

それに感応するように、スタジオカラーから足を運んだ作画陣の眉間にもしわがよる。

皆悩んでいた。苦しんでいた。ずっと。ずっと。それでも、描き続けた。考え続けた。

僕は撮り続けた。時折、天才の影を捕まえたくて、凡人たる自分は要領を得ない問いを投げかけるが、宮崎さんを取り巻く空気はどんどん重くなっていき、やがて、あまり口も聞いてくれなくなった。

沈黙と葛藤が渦巻く、狂気的な空間。スタジオジブリ。

ここが、この空間が、あのような美しいアニメーションを作っているんだ。

凄い。凡人の感想だった。

駿「…………、」

駿「はあ」

駿「……」

駿「荒川くん」

荒川D「! はい?」

駿「君に見せたいものがある」

荒川D「はい…? 何でしょうか」

駿「イカ娘の定期試写。今もう半分超えてるから」

荒川D「え?」

駿「言った通り全てを同時進行させてるから、カットのチェックだけじゃなくて、音楽や声、放映するそのままが観れるよ」

荒川D「……いいんですか?」

荒川D「素人の僕に大した感想なんて」

駿「素人でいいんだ。素人がいいんだよ」

駿「鈴木さんに見られたら、バレちゃうだろうからね。多分」

荒川D「…?」

駿「大したことなんて言わなくていい」

駿「思ったまま、素直な感想を聞かせて」

荒川D「ほ、本当に大したこと言えないですよ」

駿「言わなくていいんだよほら来て。試写室だよ早く」

荒川D「は、はい」



ーー

ーーーー


タララララー…

~夜の海、いかの娘~

海が鳴っていた。

夜は暗い。

けれど、明るい夜。

海の家れもん。

波風を感じて、静かに生きる。

れもんは生きている。

れもんは話さない。

ただ、生きる。

木のように。

強い風が吹いた。

何かがやってくる。

海辺に涼む栄子と千鶴は、髪をなびかせてその風を受け止める。

波が、引いた。

イカ娘「…」

ザザー……

栄子「…え?」

千鶴「女の子が…倒れてる」

千鶴「大変!」タタタ

千鶴「大丈夫?」

栄子「ちょ、ちょっと姉貴」タタタ

イカ娘「…」

千鶴「……漂流?」

栄子「息はあるみたいだ。顔色もそう悪くない」

イカ娘「…、」

イカ娘「ーーーー」

千鶴「え?」

栄子 「今、何か言ったか?」

イカ娘「ーーーー」

栄子「駄目だ分からない…」

千鶴「とにかく海の家へ」

イカ娘「…」

海の家れもん

千鶴「…」

千鶴「よし」

栄子「どうだ?」

千鶴「少し熱があるけど。大丈夫」

栄子「夏の発熱もまた厄介だ。早く治るといいんだけどな…」

千鶴「大丈夫」

千鶴「この海の家、れもんが助けてくれる」

栄子「私達はそうかもしれないけど」

イカ娘「…」

イカ娘「ん…」

栄子「!」

千鶴「ほら、気が付いた!」

イカ娘「……ここは」

イカ娘「!」

イカ娘「お」

イカ娘「お前達…」

千鶴「良かった。元気になって」

栄子「……こいつもれもんの恩恵を受けるのか」

イカ娘「何のつもりでゲソ」

千鶴「?」

イカ娘「どうして敵である私を助けたのでゲソ!」

栄子「…敵ィ?」

千鶴「まだ熱があるから…。ゆっくり寝てていいのよ」

イカ娘「て、敵地でゆっくり寝ているなど…」

イカ娘「う…」ヨロ

千鶴「ほら。無理しちゃ駄目」

イカ娘「ぐ。く、屈辱じゃなイカこれは」

栄子「いいから寝てろ。明日になったらゆっくり話を聞いてやる」

翌朝

イカ娘「…」

イカ娘「…」

イカ娘「!」

栄子「…………おはよう」

イカ娘「お、お前っ」

栄子「敵より遅く起床とはなかなか肝が座ってるんじゃないの?」

イカ娘「ぐ。た、戦うでゲソ!」ガバッ

栄子「やめろ」

イカ娘「今更泣いて謝ったって無駄でゲソ!」

イカ娘「この触手は強力そして自由自在、人間の敵う相手じゃないってことを思い知らせてやるでゲソー!」ビュン

栄子「おい、だから家の中で」

千鶴「ーーーー家の中で暴れたら、駄目」

ギュオオオオオオオオオ!

ズバババババババババババ!!!!

イカ娘「」

千鶴「れもんはね。大切なお家」

千鶴「海辺の小さなお城」

千鶴「人と海の境界」

千鶴「神聖な場所」

千鶴「何か壊したりでもしたら…」

イカ娘「し、したら?…」

千鶴「したら…」ゴゴゴゴ……

イカ娘「きょ」

イカ娘「今日のところはかかか勘弁してやるでゲソ」

千鶴「はいお利口さん」

栄子「だからやめろって言ったのに」

イカ娘「うう」



栄子「お前どこから来たんだ。家は?」

イカ娘「…海でゲソ」

栄子「海。は、そんな馬鹿な」

イカ娘「馬鹿じゃないゲソ!」

イカ娘「この動く触手が何よりの証拠でゲソ!」ウネウネ

栄子「やめろ動かすな気持ち悪い」

栄子「…どうせ何か仕掛けがあるんだろ」

イカ娘「ぶ、無礼なっ」

イカ娘「ならばこのイカ墨を見るでゲソ!」ペッ!

ベチャ

千鶴「…」

栄子「な、口から…イカ墨?」

栄子「おい姉貴、全身真っ黒…」

千鶴「」ペロリ

栄子「!?」

千鶴「あら本当。イカ墨」

栄子「あのなあ…舐めるなよ……」

千鶴「え? だってほら、こんなに美味しい」

栄子「いらん!」

イカ娘「これで信じてもらえたでゲソ?」

栄子「…まあ、普通じゃないってことは分かったよ。色々とな」

千鶴「……イカ娘ちゃん」

栄子「え?」

千鶴「いかの娘(こ)。だから、イカ娘ちゃん」

千鶴「そう呼ぶね」

イカ娘「呼び方なんてどうでもいいでゲソ」

イカ娘「そんなことより二人とも、こんなところに私を監禁して…ただで済むと思ってるでゲソ?」

栄子「別に監禁してないけど」

イカ娘「私は海の使者、人間世界を侵略するためにやってきたのでゲソ」

栄子「侵略って。物騒な」

イカ娘「平然としていられるのも今の内でゲソ」

千鶴「そうかもね」

栄子「! 姉貴?」

千鶴「最近、れもんがね。泣いてるの」

栄子「…そうか?」

栄子「姉貴は特にこの家に敏感だよなあ」

イカ娘「…? 何の話でゲソ」

栄子「むしろお前が何故ついてこれない」

イカ娘「家が泣くわけないでゲソ」

栄子「それで言ったら、イカが話す訳ないしなあ」

イカ娘「うう」

千鶴「れもんが何かを恐れているの」

千鶴「とても強い恐怖…」

千鶴「イカ娘ちゃんがここに来たってことは、ついに人と海の関係が壊れてしまう、その予兆なのかも」

栄子「…まじで言ってるの?」

千鶴「ええ」

イカ娘「ふふん。だから言ったでゲソ」

イカ娘「海をけがす人間達め、このまま滅びるがいいのでゲソ!」

千鶴「そうね」

千鶴「…でもね、イカ娘ちゃん」

千鶴「滅びるのが私達だけならいいけどね」

イカ娘「……何言ってるのでゲソ」

千鶴「私達は確かに反省してる。けど、もうこの流れは止められない」

千鶴「世界は滅びてしまうのよ」

イカ娘「…」

イカ娘「!?」

栄子「お前がそこまで驚くか!」

イカ娘「な、な」

イカ娘「わ、私は、人類をこらしめるためにやってきたのでゲソ」

イカ娘「そんな話、聞いてないでゲソ!」

千鶴「…」

千鶴「イカ娘ちゃん」

イカ娘「……何でゲソ」

千鶴「人はね。もう既に、一度海にこらしめられてるのよ」

イカ娘「?」

千鶴「…気付いてない?」

栄子「…」

イカ娘「な、何なんでゲソ…」

千鶴「今この世界には、私と栄子の二人だけ」

千鶴「イカ娘ちゃんを含めても、三人しかいないのよ」

イカ娘「…」

イカ娘「!?」

栄子「だろうな」

千鶴「だから少し驚いた。女の子が流れ着いてきたのを見た時」

千鶴「ああ、一人、返してくれたんだって思ったの。海が、人を」

千鶴「でもイカ娘ちゃんはイカ娘ちゃんでしょう?」

千鶴「海の使者」

千鶴「人ひとりを返すどころか、最期のお告げがきてしまったのね」

イカ娘「…そ、」

イカ娘「そんなこと、海は望んでないでゲソ」

イカ娘「世界がなくなっちゃうなんて、嫌でゲソ~!」

栄子「…」

千鶴「…」

イカ娘「ど、どうして海はそんなことをするのでゲソ」グスン

千鶴「最初に作ることも、最期に壊すことも、自然の役目だからよ。きっと」

千鶴「抗えないんだわ」

イカ娘「どうしてそんなに冷静ゲソッ?」

栄子「…」

栄子「静かなんだよ。海が」

イカ娘「ゲソ?」

栄子「前、いや本当にな、大昔の話。もっとこの海の家ってボロっちくて小さなもんだったんだけど」

栄子「人がいなくなってからというもの。れもんがさ。突然…。そう、まさしく突然変異ってやつ?」

栄子「城みたいに立派なものに変わっちゃって。そして最期の二人である私達を、あらゆるものから守ってくれてるんだよ」

栄子「本当にあらゆるもの。自然災害は勿論」

栄子「流れる時間からも」

イカ娘「ふ、二人は一体何年生きてるのでゲソ」

栄子「さあ。数えるのなんてとっくにやめちゃったし」

栄子「でさ。この海の家を出て、遠くに離れようとすると、身体が重くなるっていうか」

栄子「出られなくもないんだろうけど。本当に離れてしまったら、多分その時は終わりなんだと思うと踏ん切りがつかなくて」

栄子「何をするわけでもなく。ただ、大昔に賑わってた海とこの家のことを思い出しながら、その時とはまるで違う静かな海をずっと眺めてるんだ」

栄子「いつか。いつか、一人でもいいから。誰か返してくれるんじゃないかと思う期待も込めてな」

栄子「この中まで入って言葉が通じるようになったってことは、思えばお前は人に許された自然との対話手段みたいなものなのかも」

千鶴「どうか分からないけど。れもんが受け入れたんだから、あなたは私達のお友達」

千鶴「例え最期のお告げでも。私達はそれを受け入れる」

イカ娘「う」

イカ娘「うわああああああ」

イカ娘「そんなの嫌でゲソ~!」

栄子「おい。泣くな。それでも侵略者か」

イカ娘「もっと皆で仲良くわいわいできると思ったのでゲソ」

栄子「滅べとか何とか言ってたくせに」

イカ娘「勿論でゲソ。ただ、多すぎたのでゲソ!」

イカ娘「人が少なくなれば、私達、海とのバランスも安定して、仲良くやっていけるんでゲソ」

イカ娘「勿論、その時は人間は海の侵略下でゲソ」

イカ娘「でも…」

イカ娘「まさかたった二人だけだったなんて…」

イカ娘「しかも海までなくなっちゃうなんて…」

イカ娘「聞いてないでゲソ~!」

栄子「……はあ。よう泣くなあ」

千鶴「…」

千鶴(どうしてこんなに何も知らない…?)

千鶴(海は何を考えてイカ娘ちゃんをここに送り付けたのかしら)

千鶴「…イカ娘ちゃん」

千鶴「あなたは海から来たのよね?」

イカ娘「そう言ってるでゲソ」

千鶴「泳いで来たのよね?」

イカ娘「そうでゲソ」

千鶴「途中、人はいた?」

栄子「!」

イカ娘「…」

イカ娘「見たことないでゲソ」

千鶴「じゃあ、海の中での記憶はある? 家族は?」

イカ娘「そ、そんなの…」

イカ娘「そんな……の…」

イカ娘「…」

栄子「おい…」

千鶴「…」

千鶴「無理ないわ」

千鶴「イカ娘ちゃんは、海の存在だけど、海の意思じゃない」

栄子「え?」

千鶴「侵略者という記憶はただの記号。この子には何もない」

千鶴「イカ娘ちゃんは、昨日、生まれたのよ」

栄子「はあ?」

イカ娘「…私のことを、私を無視して話すのはやめるでゲソ!」

千鶴「イカ娘ちゃん。聞いて」

千鶴「あなたは私達の希望かもしれない」

栄子「希望?」

千鶴「イカ娘ちゃんは昨日、生まれた。どうしてか」

千鶴「栄子ちゃんの言う通り、この子は私たち人類と海が対話するための存在なのかもしれない」

千鶴「完全な中立なのだから、イカ娘ちゃんが海の意思じゃないのは、理にかなってる」

千鶴「もし完全に海側の存在だとしたら、こんな何も知らない子を寄こす必要がないもの」

千鶴「海の意思をしっかり持たないと、こちらへの伝達手段になり得ない」

千鶴「数え切れない年月を経て、たった二人の人類が反省した頃合いに、人でも自然でもない、もっと上に位置する何かが、イカ娘ちゃんという存在を生み出したの」

千鶴「今、私と栄子は、答えを出さないといけないみたいよ」

千鶴「その答え次第で、海が奪っていった人たちを返してくれるかもしれない」

栄子「…本気?」

千鶴「本気よ」

イカ娘「ううううう何が何だか分からないからちゃんと説明するでゲソー!」



イカ娘「」スースー

栄子「泣き疲れて寝ちまったよ」

千鶴「…可哀想に」

栄子「自業自得だ」

千鶴「そうじゃなくて」

千鶴「こんなに幼くてあどけない子に、再生と破滅の宿命が秘められているなんて」

栄子「姉貴の言うことが本当なら、世界滅亡も人類帰還も、私たちの答え次第で、そしてそれを判断するのは…」

千鶴「多分。神様であるところの、イカ娘ちゃんね」

栄子「本気かよ…」

千鶴「人と海の境界、れもん。現れた海の存在、そして神様の使い、イカ娘ちゃん」

千鶴「ここからの景色は、全てが見えている」

千鶴「海も、栄子ちゃんも、イカ娘ちゃんも、勿論れもんも」

千鶴「世界の全部が見えてしまう景色って、恐ろしいのね」

栄子「…」

千鶴「世界は、見えないものがあるから、美しいのに」

千鶴「見えないものを見ようと努力する人が、美しいと信じるから、美しいのに」

千鶴「全てが見えてしまうなんて、とても恐ろしい」

栄子「…」

栄子「それでも私は、ここから見える海が好き」

千鶴「…」

千鶴「私は、ちょっと嫌」

栄子「奪われたから?」

千鶴「…。目に見えるものなんて、分からないわね」

千鶴「イカ娘ちゃんみたいに可愛い娘が、神様の分身かもしれなくて」

千鶴「夕焼けをこんなに綺麗に見せてくれる海は、時に牙を向いてくる」

千鶴「何が本当で何が嘘なのか、私には分からない」

千鶴「海の深さがそれを思わせるの。だから、嫌い」

栄子「姉貴は考えるなあ」

千鶴「考えちゃうの」

栄子「…」

千鶴「…」

イカ娘「…」スースー…

千鶴「……答え…出さないとね」

栄子「」コクリ

深夜

千鶴「」スースー…

栄子「」スースー…

イカ娘「…」

イカ娘「私が…」

イカ娘「私が神様の分身だなんて」

イカ娘「そんな訳ないでゲソ」

イカ娘「本当にこの海の家が生きているなら」

イカ娘「私はここに呪われているのでゲソ」

イカ娘「記憶がないのもそれが原因なんじゃなイカ?」

イカ娘「…」

イカ娘「人間。思ったより優しそうだったでゲソ」

イカ娘「礼を言うでゲソ」

イカ娘「…」クル

イカ娘「この家を出れば」

イカ娘「海に帰れば」

イカ娘「記憶はきっと戻るでゲソ」

海辺

ザザー…

イカ娘「…」

イカ娘「じゃあ」

イカ娘「出発。ゲソ」ス…

ザプン!…

イカ娘「…」

イカ娘「……」

イカ娘(不思議でゲソ)

イカ娘(海の中は…落ち着くでゲソ)

イカ娘(やっぱり、ここは帰るべき場所)

イカ娘(間違いないでゲソ)

イカ娘(どこへ向かっていけばいいのか分からないのでゲソ)

イカ娘(記憶は…まだ……)

ゴポ…

イカ娘「!」

イカ娘(海の…様子が…)

イカ娘(水の流れが)

イカ娘(う)

イカ娘「うわあああああああ!」

栄子「ーー姉貴!」

千鶴「…ん」

千鶴「…」

千鶴「まだ真っ暗」

千鶴「こんな夜中にどうしたの?」

栄子「あいつが。イカ娘がいないんだよ!」

千鶴「!」ガバッ

千鶴(しまった…)

栄子「どうする?」

千鶴「外に出ましょう。きっとまだ遠くには…」

栄子「そう思いたいけどな」

海辺

ビュゴオオオオオオ…

栄子「…大嵐じゃんか……」

千鶴「人がいない世界は厄介ね。大昔には、天気予報なんてものもあったのに」

栄子「あの頃。人は、自然を分かった気でいたんだ」

栄子「今思えば何が予報だ。くだらないよ」

栄子「地震だって台風だって何だって」

栄子「あれはただの警告でしかなかったんだ」

千鶴「今はそんなことを言ってる場合じゃない」

栄子「どうする? 泳いで助けに…」

栄子「…、」

千鶴「……私達は。この海の家から遠くには、行けない」

千鶴「離れられない」

栄子「…く、そ」

ビュゴオオオオオオ…

栄子「籠の中の鳥でいろってことか…?」

栄子「やっと現れた希望だ!」

栄子「見捨てるって言うのか!?」

千鶴「……、」

千鶴「栄子ちゃんはここにいて」

栄子「ふざけるな! 一緒に行く!」

千鶴「駄目」

栄子「何で!?」

千鶴「身体能力なら私の方が断然上。それに」

千鶴「もし二人ともいなくなってしまえば、それは人類滅亡を意味するということ」

千鶴「それは駄目。世界から人がいなくなったら、自然はいよいよこの世界を終わらせてしまう」

栄子「一人ここに残れって言うのか!?」

千鶴「…人類滅亡とは言うけど」

千鶴「もしかしたら、この世界には私と栄子ちゃん以外にも誰かがいるのかもしれない」

千鶴「だって私達は今まで籠の中の鳥だった」

千鶴「こんなに広い世界。結局は『そんな気がしていただけ』で、世界にはまだ人が残されているかもしれない」

千鶴「栄子ちゃんだってそう思ってるから、イカ娘ちゃんを初めて見た時に、海から誰かが帰ってくることを望みながらも、それを信じるよりまず、どこからやってきたのかを疑った。そうでしょう?」

千鶴「私がいなくなっても、希望はまだ残されてる」

千鶴「だから信じて」

栄子「…、……、でも」

栄子「でも……!」

栄子「……嫌だ」

栄子「信じられないよ」

千鶴「…」

栄子「私は弱い」

栄子「こんな世界で。一人取り残されて」

栄子「何を信じればいいんだ」

栄子「何を支えに生きて行けばいいんだ」

千鶴「……信じ続ける心こそ、人に残された最後の強さよ」

千鶴「世界は必ずしも自分に優しくしてくれない」

千鶴「でも。そう、ひとつ」

千鶴「誠実に生き続けることだけは、諦めちゃいけない」

千鶴「自分に誠実にできない人は、他人に誠実になることはできないし」

千鶴「それは世界に対して誠実で在ることを諦めるということ」

千鶴「それじゃ世界は、答えてくれない」

千鶴「世界はいつだって私達を試してる」

千鶴「自然だってそのひとつ」

千鶴「戦わないと、駄目」

千鶴「生きて。栄子」

栄子「姉貴ッ!!」



ーーザプン!

ーー勿論、その時は人間は海の侵略下でゲソ

千鶴(妙に響いた言葉)

千鶴(人と自然が調和するには、互いが互いを認める以外に道はない)

千鶴(それにはまず、文明を進化させることだけに邁進してきた愚かな人類は、それを全て破壊されることで、一度大きく反省をし、そして次へと進まなければいけない)

千鶴(人は今こそ自然を認め、イカ娘ちゃんの言うように、自然の上でなく、下に在り続けることが必要)

千鶴(そうして自然から恵みを受け、また、自然も人の手によって、豊かな生命力を保存し続ける)

千鶴(人には生まれついて知恵を持つ)

千鶴(その知恵は、自然を保ち続けるための道を生み出す)

千鶴(…そんな、あまりにも理想に傾倒した、鮮やかな世界は)

千鶴(少なくとも、残された人類である私が一歩踏み出さないことには、絶対に実現できない)

千鶴(ーー海よ、どうか)

千鶴(人を、返してください)



ーーーーソ

ーーーーで…ソ

ーーーーき……

イカ娘「起きるでゲソ!」

千鶴「!」

千鶴「…」

千鶴「イカ娘ちゃん!」

イカ娘「やっと起きたのでゲソ」

千鶴「う…ん」

千鶴「…………」

千鶴「ここ…は……?」

ワイワイガヤガヤ…

千鶴「……………………人」

千鶴「人だわ!!」ガバッ

イカ娘「ようこそ。我が家へ、でゲソ」

千鶴「我が家?…」

イカ娘「そうでゲソ。思い出したのでゲソ」

イカ娘「こここそ、私の家。ーー『龍ノ国』でゲソ」

千鶴「たつの、くに…?」

海辺

ザパーン!

栄子「…ぐっ」

ザザー…

栄子「……、」

栄子「!」

イカ娘「ただいまでゲソ」

栄子「イカ娘! 無事だったのか!」

イカ娘「とても泳げるような状況じゃなかったからすぐ戻って来たのでゲソ」

イカ娘「あ、それと!」

イカ娘「人を、見つけたのでゲソ!」

栄子「姉貴か!」

イカ娘「? 違うでゲソ」

栄子「………姉、貴」ガク

栄子「いや。やっぱり助けに!」タッ

ドクン!…

栄子「!? 身体が…」

栄子「く、そ。重い。何だ」

栄子「海が私を拒否してるのか?」

イカ娘「イカの話を聞くでゲソ!」

栄子「るさいッ! 今それどころじゃ…」



たける「…」

イカ娘「ほら。人でゲソ」

栄子「…………、」

栄子「た」

栄子「たける!?」

龍ノ国

ガヤガヤ…

千鶴「…嘘みたい」

イカ娘「ゲソ?」

千鶴「こんなにたくさんの人」

千鶴「海が奪っていった人は皆、ここに集められていたなんて」

イカ娘「これからどうするのでゲソ?」

千鶴「…まずこの事実を栄子ちゃんに伝えないと」

イカ娘「どうやって伝えるのでゲソ?」

千鶴「どうやってって」

千鶴「……、」

千鶴「そもそも、私はどうやってここへ」

千鶴「戻り方、分かる?」

千鶴「出口はどこ?」

イカ娘「広すぎて分からないでゲソ…」

イカ娘「出れたとしても、あの海の家までの道だって分からないのでゲソ」

千鶴「…うーん。家なのに、出口知らないの?」

千鶴「イカ娘ちゃんはどうやってここに来たの?」

イカ娘「泳いでいたらいつの間に中に来ていたのでゲソ。ここはそういう場所でゲソ」

イカ娘「出入り口なんて考えたこともないのでゲソ」

千鶴「……何だか私はとても不思議な所に来てしまったみたい」

イカ娘「ワタツミ様なら何か知っているかもしれないのでゲソ」

千鶴「わ、たつみ様?」

イカ娘「この国の主でゲソ」

イカ娘「どこにいるのか聞いていくでゲソ」

千鶴「え、ええ」

ガヤガヤ…

イカ娘「うう。相変わらず賑やかなのでゲソ」

イカ娘「おーい。そこの者!」

「……ワシか。何じゃ」

イカ娘「ワタツミ様がどこにいるのか教えてほしいのでゲソ」

「ワタツミ様? さあ…忙しいお方じゃからの」

「それよりお前、見ない顔じゃな」

イカ娘「そうでゲソ?」

千鶴(…そのはず。だって、イカ娘ちゃんは昨日に生まれたばかりの存在)

千鶴(ここを自分の家だって認識している記憶もただの作り物。だからここのことをあまり把握できていない…)

「で、お前は新入りか」

千鶴「えっ。わ、私?」

「可哀想じゃのう。まあ賑やかで豊かな国じゃ。ゆっくりしていけ」

千鶴「は、はあ…?」

千鶴(さっきのお爺さん…何だったのかしら)

千鶴「!」

千鶴「ね、え。イカ娘ちゃん。あれ…」

イカ娘「? 人間は知らないのか?」

イカ娘「あれは亀でゲソ」

千鶴「それは知ってるけれど…」

千鶴「宙を泳いでる…」

イカ娘「亀は泳ぐ生き物でゲソ」

千鶴「!!」

イカ娘「あ、」

千鶴「…………龍…」

イカ娘「今日もかっこいいでゲソ」

千鶴「凄い…」

イカ娘「龍は、この国の安寧を保っている監視役みたいなものでゲソ」

千鶴「じゃあ、亀は?」

イカ娘「亀は案内役みたいなものでゲソ」

千鶴「……なら、亀さんにワタツミ様の所へ案内してもらうのは?」

イカ娘「うーん。どこにいくかを指定できないと亀はそこへ連れていってはくれないのでゲソ」

千鶴「亀さんがワタツミ様の居場所を知っている訳じゃないのね」


ザワッ…!

千鶴「今度は何?」

乙姫「ーーそこの者」

イカ娘「!!」

イカ娘「お、おおおお」

イカ娘「乙姫様でゲソ!」

千鶴「! ……、」

千鶴(龍ノ国…亀…乙姫様……)

千鶴(なるほど)

千鶴(本当にあったのね…。竜宮城みたいな世界は)

千鶴(……海は文明を破壊し、人間をさらった)

千鶴(さらわれた大勢の人間が、竜宮城…に?)

千鶴(私はどうしてここへ…?)

千鶴「……はい」

乙姫「そなたが贄の娘か」

千鶴「……贄?」

乙姫「知らぬのか?」

乙姫「そなたは死んだということぞ」

海の家れもん

たける「う…ん」

栄子「たける、たける!」

たける「ぐ…」

たける「……」

たける「…、」

たける「!!」

たける「…………あ」

栄子「たける!」

たける「栄子…姉ちゃん」

栄子「たける、会いたかったぞ…!」ガバッ

たける「や、やめ、苦しいって」

栄子「お前には分からないだろうけど、途方もない年月の間、ずっとお前のことも考え続けてたんたぞ…」

たける「と、途方もないって」

たける「何が、どうなってるの?」



栄子「……という訳だ」

たける「…」

たける「……、」

たける「そんな話を信じろっていうの?」

栄子「外に出て気の済むまで走れば私の話も理解できるさ」

栄子「本当にいないんだ、誰も」

栄子「最も、この籠の中からは出られやしないんだけどな」

栄子「きっとたけるも同じだ」

たける「……」

たける「何年経ったの?」

栄子「数えるのは昔に止めた」

たける「……嘘でしょ?」

たける「そうだ、どっきりだ」

たける「そうだよ、この辺りに全く人がいないのだって、姉ちゃんの仕業で」

栄子「たける」

たける「…………」

たける「そんな…」

たける「そうだ。千鶴姉ちゃん。千鶴姉ちゃんは?」

栄子「…」

たける「え…」

たける「千鶴姉ちゃんも海に?」

栄子「いや…」

栄子「ついさっきまで私と一緒だった」

たける「え?」

栄子「こいつを助けにな」

たける「…」

イカ娘「…」

たける「…………誰?」

イカ娘「地球を侵略しに」

栄子「話がややこしくなるだろ!」

栄子「まあ、端的に言えば、こいつは希望だ」

栄子「海から人を返してもらうために、自然と対話する唯一の手段」

たける「ええと…」

イカ娘「イカ娘でゲソ!」

たける「じゃあ。イカ姉ちゃん」

たける「イカ姉ちゃんは自然と話ができるの?」

イカ娘「無理でゲソ」

栄子「その答えは聞くまでもない」

栄子「だから、何かしらの特別なシチュエーションだとか、要は条件みたいなものが必要になってくるんだろうけど」

栄子「姉貴。具体的なことは何も言ってなかったもんな」

栄子「答えって、何なんだよ。出したところでどうすればいいんだ」

栄子「どうすれば…」

たける「……」

たける「千鶴姉ちゃん、よく言ってたよ」

栄子「え?」

たける「本当にどうしようか分からない時、それでも考えて考えて」

たける「そうして闇の奥深くにちらりと見える光が必ずあるから」

たける「それを掴み取ることを諦めないでって」

栄子「たけるの宿題の手伝いの時だっけ。やけに大袈裟な物言いだったっけ」

栄子「…でも本当、そうだよ」

栄子「超えないと。自分を」

栄子「それが、新しい世界に繋がってるんだと思ったら、苦しくても頑張る気になれるもんな」

イカ娘「前向きなのはいいことでゲソ」

栄子「闇の中。新しい世界…」

栄子「……」

栄子「…」

栄子「たける」

たける「ん?」

栄子「ここは、海の家。れもん」

栄子「話したとおり、この家は生きてる」

栄子「私と姉貴をずっと守り続けて来た」

栄子「守り続けてきたんだ」

たける「…うん?」

栄子「でも、ここは鳥の籠」

栄子「ここから、今を守り続けてくれたれもんから、私は出て行かないといけないんだと思う」

栄子「前にさ…大昔に、何かの難しい本で読んだ」

栄子「ーー調和を破壊しなければ、新たな創造はあり得ない」

栄子「……だったっけ」

栄子「この家から出ないと、やっぱり何も始まらないし、終わらないんだ」

たける「でもこの家から遠くには離れられないんでしょ?」

栄子「そうなんだよな」

栄子「…いや」

栄子「そんなの、ただの言い訳だ」

栄子「何かあるはず」

栄子「この家から出れなかったんじゃない」

栄子「出ようと思わなかっただけなんだ」

栄子「それだけなんだよ、きっとさ」

栄子「たったそれだけのことに気付くまでが、あまりにも遅すぎたんだけど」

栄子「イカ娘が現れて。海に姉貴をさらわれて。たけるが帰ってきて」

栄子「今。ようやく、踏み出す勇気が芽生えたよ」

栄子「探そう。イカ娘に託す答えを見付けて、皆を返してもらうまでは」

栄子「もう絶対に、何も諦めたくない」

たける「僕も手伝う!」

イカ娘「同じくお手伝いするでゲソ!」

栄子「ようし。まずは改めて、この生きる家、れもんを隅々まで調べよう」

たける「おー!」

イカ娘「おー!でゲソ!」

千鶴「なら、私の無意識にある願いが、私一人分、向こうの世界で実現しているということね」

龍ノ国、龍宮

乙姫「いかにも」

乙姫「……それよりも、お主は死後の世界へ足を踏み入れたことに何も感じぬのか?」

乙姫「なぜそう気丈でいられる?」

千鶴「…栄子ちゃんが、全て取り戻してくれるって信じてるからです」

乙姫「全て取り戻す…」

乙姫「そうするには、またひとつ、それは得ようとするものだけ大きく、調和を破壊することを選択しなければならぬぞ」

千鶴「…」

千鶴「海は、私達とその文明と奪っていった」

千鶴「代わりに、何が生まれたっていうんですか?」

乙姫「新たな調和であろう」

千鶴「調和…」

千鶴「……あんな世界の、何を調和と言うんですか!?」

千鶴「人間も人間かもしれません。でも…」

千鶴「自然も自然。勝手が過ぎます!」

乙姫「新たな調和は確かに生まれた」

乙姫「私はそれを知っている」

千鶴「教えてください!!」

千鶴「あんな世界のどこに…調和なんてものがあるのか!」

乙姫「できぬ」

千鶴「どうして!」

乙姫「私は元よりこの世界の…この国の住人」

乙姫「人間世界の者に、自然の本意を言葉で語ることは許されぬ」

乙姫「私は、自然側の存在」

千鶴「対話する気なんてない、そういうことですか」

乙姫「…人と自然の共存を望むか」

千鶴「そうしなければ、またあなたたち自然は文明もろとも滅ぼすんでしょう?」

乙姫「であろう…」

千鶴「なら!」

乙姫「勘違いするなよ人間」

乙姫「人は自然の下に位置する存在。それを認めぬ限り、自然もまた人を受け入れることはしない、ということぞ」

千鶴「…その通りだと思います」

千鶴「でも、人の知恵は、まだ共存の可能性を導き出せていないんです」

乙姫「なればその答えは、人類を代表してそなたが導き出せ」

千鶴「…………答え」

乙姫「そなたはここにい続ければ、海の意志に身を支配され、完全に死の世界の住人となる」

乙姫「導き出した答えが正しいかどうか。そこにいる神の遣いが、判決を下すであろう」

イカ娘「……ゲソ?」

千鶴「…」

千鶴「……、」

千鶴「!」

千鶴「…………私一人じゃ、ありません」

乙姫「……む…」

千鶴「今、分かりました」

千鶴「イカ娘ちゃんは、人でも自然でもない、もっと上の…そう、神様の遣い」

千鶴「神様の分身」

千鶴「今。栄子ちゃんも答えを探しているはず」

千鶴「なら。そこに、答えを問いに現れたイカ娘ちゃんがいないはずがない」

千鶴「神様の分身だもの。必要なだけ、必要なように在る。そのはず」

千鶴「ということは、死後の…自然側の世界にいる私と、人間世界にいる栄子を繋いでいるのは、他の誰でもない、イカ娘ちゃん」

千鶴「今まで人間がしてこなかった…自然の側に立って、共存の可能性を探ること」

千鶴「そして人間世界での栄子と」

千鶴「この二つの目から、本当の答えを探し出せば、きっと神様は応じてくれる」

千鶴「数え切れない年月の中、鳥籠の中で、世界から孤独を受け続けた私と栄子の二人だけが、きっと答えを提示する権利を持ってる。イカ娘ちゃんが現れたのがその証拠」

千鶴「あなたの言う通り、私と栄子が、私達なりに答えを導き出してみせる」

千鶴「そのための視点を提供する義務が、今あなた、あなた達自然の存在にはあるはず」

千鶴「もっとこの国…この世界のことを、教えて下さい」

乙姫「……」

乙姫「世界の真理は、いつも子供にある」

千鶴「?」

乙姫「何ゆえか。子供は可能性そのものであるがゆえ」

乙姫「子供二人に世界の行き先を託したその意思とは、そういうことぞ」

千鶴「…」

乙姫「……おっと。語らずと口にした矢先であったか」

乙姫「神は問う。自然は試す」

乙姫「人は、答えを探す」

乙姫「私に着け。龍ノ国を見せようぞ」

千鶴「……、」

千鶴「はい!」

龍と亀が宙を泳ぐ世界。

龍は美しく遊泳するように、空に光る軌跡を漂わせ、世界を見守る。

対し亀は群れる鳥のごとく空を飛び交い、その数が見えざる海水を乱舞させる。

賑わう人々に降り注ぐ光の粒は、自然の神秘を感じさせる。

人気をもたらす無数の家々。

屋根瓦に積もった光の粒が、生命的に輝いては、弾け、そして消えていく。

女の子の声が響いた。



イカ娘「出発、進行でゲソ~!!」

亀「お客さん、暴れられては他の亀と事故を招きます」

イカ娘「とにかく高く飛ぶのでゲソー!」

千鶴「イカ娘ちゃん落ち着いて…」

千鶴「初めて来た私よりはしゃいでるんだから…」

千鶴(でも…凄く気持ちがいい)

乙姫「……無邪気なものだな」

千鶴「生まれたてですから」

乙姫「さて。空の遊泳を堪能しに甲羅に腰を預けている訳ではあるまい」

乙姫「千鶴よ。まずは自然の尊さというものを教えてやろうぞ」

千鶴「尊さ、ですか」

乙姫「人が触れてはならぬ領域というものがある」

乙姫「美しく、恐ろしい世界ぞ」

ヒュオオオオ…

イカ娘「快適でゲソー!」

千鶴「…」

乙姫「どうした。龍ノ国の空は気に入らぬか」

千鶴「いえ…」

千鶴「逆です」

千鶴「何て素晴らしい世界なんだろうって…」

千鶴「空を泳ぐ。絶景の数々を上から見下ろしながら、清涼な空気を浴びる」

千鶴「気持ちいいんです」

千鶴「人の世界じゃあり得ません…」

千鶴「色んな生き物が。植物が…」

千鶴「深海に理想郷があったら、こんな所だったのかと思うくらい」

乙姫「…さてどうか」

千鶴「?」

乙姫「人がむやみに自然に手を入れなければ、自然は人の文明よりもいっとう美しく発達し、」

乙姫「そしてこのような世界になっていく。そんな未来もあり得るぞよ」

乙姫「人間の用いる俗語で言うところの…所謂ファンタジーというものは、実はそうではなく」

乙姫「現実に存在している。それが見えていないだけ」

乙姫「世界は人間が絵や物語に思い描くような美しさを秘めているかもしれぬぞ」

ーー世界は、見えないものがあるから、美しいのに

ーー見えないものを見ようと努力する人が、美しいと信じるから、美しいのに

ーー何が本当で何が嘘なのか、私には分からない

千鶴「……そうですね」

千鶴「今。私、楽しいです」

イカ娘「亀よ、もっと急ぐのでゲソ~!」

亀「お客さん、甲羅の上で暴れないでくだされっ」

乙姫「…」

乙姫「もうすぐ到着する」

乙姫「龍ノ国。この世界の『秘境』のひとつ…」

乙姫「亀よ。其処を何と言ったかな」

亀「乙姫様。ーー真名井の滝、にございます」

イカ娘「見るでゲソ千鶴、凄く綺麗な滝が見えてきたでゲソ!」

ドドドドド…

龍ノ国、真名井の滝

千鶴「…綺麗」

イカ娘「水が光ってるでゲソ…」

千鶴「イカ娘ちゃんはここに来るの、初めて?」

イカ娘「初めてでゲソ! 感動でゲソ~!」キラキラ…

千鶴(まあ…そうよね)

千鶴「……水の中で、目に見える水が流れているなんて。不思議」

千鶴「これは一体?」

乙姫「…理由か。はて」

乙姫「そんなものは意識下に位置する他愛ないものぞ」

乙姫「考えている暇があるなら、まず感じ、想像してみることぞ」

千鶴「…」

乙姫「時に千鶴よ。そなたは八百万の神という考え方は知っているか」

千鶴「え? ええ、勿論です」

乙姫「海における神は、まさしくそれに当たる」

千鶴「……海の神様は、文字通りワタツミ様なのでは?」

乙姫「…」ニヤリ

乙姫「お父様…ワタツミ様は、至るところにおられる」

千鶴「え?」

乙姫「私と同様、意思の核はこうして人に似た形で存在する」

乙姫「が、他は、この世界…この海のあらゆる場所に潜んでいる」

乙姫「龍もそのひとつ」

乙姫「意思の核から外れたもの故、その疎通は極めて困難だが…」

乙姫「それもまた神秘的で良かろう」

乙姫「姿形を持つものだけに意思が備わるわけではない」

乙姫「神々、また、それに繋がる存在というものは、自己の外にも意思を纏う」

乙姫「だから自然を操ることもできる、そういうことぞ」

千鶴「へえ…」

千鶴「…」

千鶴(でも……)

乙姫「今そなたはこう思っているだろう」

乙姫「この情景のどこに恐ろしさがあるのかーー」

ーー美しく、恐ろしい世界ぞ

千鶴「はい…」

乙姫「美しい花には棘があるというな」

乙姫「美しさには、いつも恐ろしさが同居している。自然の摂理ぞ」

乙姫「先の言葉は、花という小さなもので自然の全てを言い表した良きものぞ」

乙姫「一は全」

乙姫「さて…」

乙姫「当然、この滝にもそれは当てはまる」

乙姫「ということだ。千鶴よ」

千鶴「はい?」

乙姫「少しばかり、この滝に潜む神にいたずらをしてやろうか」

千鶴「…」

千鶴「え!?」

乙姫「なあに。ほんのいたずら程度なら、神の脇腹をくすぐるようなもの」

乙姫「心配はない」

千鶴「ちなみに本気で怒らせてしまったらどうなるんですか?」

乙姫「そなたの魂は跡形もなく消滅するだろう」

千鶴「かなり困るんですけど」

乙姫「私がいる。心配はない」

千鶴「…」

イカ娘「この水気持ちいいでゲソー!」ザブンザブン

亀「ちょ、ちょっとお客さごぼがばばばばばばば」ザブンザブン

千鶴「あれでもう罰が当たりそうです」

乙姫「邪気なきものに神は怒りを示さない」

乙姫「それに、あの娘は、海の神々よりも上に位置する神に等しい存在」

乙姫「つま先を踏まれようと何をされようと怒れないであろう」

千鶴「つくづく、凄いんですね。イカ娘ちゃんは」

千鶴「…」

乙姫「あまり情を注ぐな」

千鶴「え?」

乙姫「…」

乙姫「忘れろ」

ーーーー千鶴

ーーーー何?

ーーーー人間は優しいでゲソ

ーーーーそうよ。だから侵略なんて止めなさい

ーーーーそれとこれとは話が別でゲソ

ーーーー別になっちゃうの?

ーーーーおーい! イカ墨スパゲッティ三人前まだか!

ーーーーおっと。栄子がしびれを切らしてるでゲソ

ーーーー早くしないとお客さん帰っちゃうわ

ーーーーうう千鶴。今日はもうイカ墨出ないゲソ

ーーーー頑張って。イカ娘ちゃん

ーーーーうううう

ーーーー……千鶴

ーーーー何?

ーーーー千鶴は神様になったら何がしたいでゲソ?

ーーーーこの忙しい時に、どうしたの?

ーーーー毎日こうして働きながら、海に来る人間を見ていると、

ーーーーゴミのポイ捨て、喧嘩、まともじゃないのも沢山目についてくるのでゲソ

ーーーー人間世界を侵略できたら、それはまさに神様でゲソ

ーーーーそうなったら、ああいう人間だって正すこともできるでゲソ

ーーーーううん。なったらなったで、凄く大変そう。きっと今みたいな日常に戻りたくなる

ーーーーでもイカ娘ちゃんみたいな子が本当に神様になってくれたら、世界は平和になりそうね

ーーーーそ、そうでゲソ?

ーーーーおーい! イカ墨スパゲッティまだか!!

ザブンザブン…

千鶴「で…いたずらって何するんですか」

乙姫「うむ…そうだな。軽く投石のひとつでもしてみるか」

ザブンザブン…

千鶴「え…。本当に大丈夫なんですか?」

ザブンザブン…

乙姫「何度も言っている。大丈夫だ、心配は」

ザブンザブン…

乙姫「……む」

ザブンザブン…

千鶴「!」

千鶴「イカ娘…ちゃんっ?」

ザブンザブン…

亀「あれ。お客さん?…」

ザブンザブン…

ーーコオオオオオ…

千鶴「イカ娘ちゃんの身体が光って……!」

乙姫「…」

乙姫「……融合? いや…」

乙姫「…………しまった!!」

千鶴「え?」

乙姫「そこまでとは…!!」

乙姫「生まれたての神の欠片。自我が芽生え、運命に背くかっ」

千鶴「何が、どうなって」

乙姫「秘境めぐりは止めだ!」

乙姫「ーーあの娘、海の神を吸収している!」

イカ娘「」コオオオオオ…!

海の家れもん

栄子「…」

たける「何だろう、これ」

栄子「手紙…」



千鶴、栄子へ。

突然のことで申し訳ないが、この度イカ娘は海に帰ることが決まったでゲソ。

もしかしたらまた海の家に戻ってくるかもしれないし、そうでないかもしれないゲソ。

海に帰ったらまず、ここであったことを全部話そうと思ってるでゲソ。

今まであった色んな嬉しいことや悲しいことを海で話すのにどれくらいかかるのか想像もつかないでゲソ。

話し終える頃には、千鶴も栄子もお婆ちゃん、たけるだってお爺ちゃんになってるかもしれないでゲソ。

歳を取らない魔法があればいい、そう思わなイカ?

今回、人類の侵略は失敗となってしまったでゲソ。けど、いつかまた改めて、今度はちゃんと侵略しにまたやってくるつもりでゲソ。

侵略したら、千鶴や栄子やたけるが、ずっと笑っていられるような世界を作りたいでゲソ。

そのためにどうするか、海で勉強してくるでゲソ。

それじゃあ、さようならでゲソ。

また会おう。  イカ娘

栄子「お前が書いたのか?」

イカ娘「覚えがないゲソ」

たける「紙が凄く古びてる。最近書いたようなものじゃないよ、これ」

栄子「…でもイカ娘ってちゃんと書いているしなあ」

栄子(歳を取らない魔法…)

栄子(この家のことだろう)

栄子(となると、この家を作ったのは……イカ娘?…)

栄子(イカ娘と出会ってそう間もない。どういうことなんだ)

栄子(大昔、海は、人とその文明を奪っていった)

栄子(残されたのは私と姉貴と海の家れもん)

栄子(イカ娘は海からきた存在。なら、人と文明を奪い、海の家をこんなにしたのはイカ娘?)

栄子(でもイカ娘は海の意思じゃない。もっと上の神様の意思)

栄子(なら自然は、より上の神様から命令されただけで、実際にあの罰を下すことを決めたのは…その一番凄い神様ってやつなのか?)

栄子(……何が何だか、分からない)

栄子(もし。人と文明は破壊されず、平穏な日々を送る、全く別の世界が存在するとして、そこにはイカ娘もいるのだとしたら)

栄子(この手紙は『その』イカ娘が書いたもので、今ここにいるイカ娘は関係がない)

栄子(…)

栄子(姉貴は海にさらわれ、そして海は私を拒否する)

栄子(今れもんは姉貴曰く、怯えている)

栄子(この古びた手紙の内容から察するに、イカ娘とこの海の家は何か繋がっている)

栄子(人と文明を奪ったのは一番偉い神様とやらで、イカ娘はその分身)

栄子(…)

栄子(……)

栄子(…………)

栄子(れもんは人と海の境界)

栄子(なぜなられもんは海から私と姉貴を守り続けてくれた)

栄子(けど、それだけじゃないとしたら)

栄子(れもんは人と海だけでなく、色んな世界の境界だと考えてしまったら?)

栄子(こんな手紙がある理由にも繋がる)

栄子(そしてそんな存在は神としか言いようがない)

栄子(…つまり……)

栄子(イカ娘は神様で、れもんも神様)

栄子(イカ娘とれもんは、同じ存在)

栄子(れもんは世界が壊れることを恐れている。神様は、恐れている)

栄子(だからイカ娘を生み出し、私と姉貴を離した)

栄子(なぜ離したか。姉貴には姉貴が行くべき世界があるから)

栄子(それは別世界。平行世界かもしれないし死後の世界かもしれない)

栄子(私は私、姉貴は姉貴で出すべき答えがきっとある)

栄子(この仮定が正しいなら…)

栄子(やっぱり人とその文明を奪ったのは一番偉い神様の考えで)

栄子(それはきっと世界が壊れることを恐れてのことだと思う)

栄子(そして奪ってしまったら今度は、人類が少なくなり過ぎて、また自然との均衡が崩れる。再び、世界の危機)

栄子(これは神様のドジか? そんな訳がない)

栄子(託したんだ。ガキ二人に世界なんてものを)

栄子(途方もなく長い孤独な年月は考える時間だった。そして答えを問いに現れたイカ娘…神様)

栄子(辻褄が合う)

栄子(この古びた手紙ひとつで、別世界の存在を肯定したら、ものの可能性は大きく広がる)

栄子(この推測が、あながち妄想とも言えなくなってくるんだ)



イカ娘「……手紙をじっと見ながら何考えてるでゲソ?」

栄子「イカ娘。この手紙に触れてくれ」

栄子「それで多分、進めるから」

イカ娘「? 別にいいでゲソ」

栄子「答えが見えてきたかもしれない」

栄子「けど、裏付けがない。それを得るために私は、今一度向き合わないといけないものがある」

栄子「少しだけ、この世界に居心地の良さを感じてしまう自分がいた」

栄子「ここから見える海を好きになってしまった」

栄子「でも、きっとだめなんだ」

栄子「それじゃだめなんだ」

栄子「私は人間だから」

イカ娘「?」

栄子「人間を肯定しないといけないんだと、そう思うから」

栄子「人を肯定するために、あのボロっちい海の家に行かないといけないんだ」

栄子「お前なら連れていってくれる。イカ娘」カサリ

イカ娘「? …よく分からないけど触るでゲソ」

栄子「ああ」

スッ…

「イカ墨スパゲッティひとつください!」

ガヤガヤ…

海の家れもん

栄子「…………ん?」

栄子「ここは…」

栄子「人が…沢山……」

千鶴「ちょっと栄子ちゃん。オーダー」

栄子「え、あ、姉貴っ?」

千鶴「……どうしちゃったの。ボーッとして」

栄子「いや。な、何でもない」

千鶴「ビールもお願いね」

栄子「オッケー」

栄子「……」

栄子「!」

栄子「おい、イカ娘!」

イカ娘「何でゲソ! 今忙しいでゲソ~」

栄子「……!」

栄子「い、や。何でもない。ついでにビールよろしく」タッ

イカ娘「! 人任せでゲソー?!」



栄子(…)

栄子(来た)

栄子(別世界)

栄子(『あっちの』イカ娘が導いてくれたんだ)

栄子(となると、反応から見てもあのイカ娘は漂流してきた『あっちの』イカ娘じゃない)

栄子(…)

栄子(裏付けを得るには…)

栄子(この人のありふれた世界で、見付け出さないといけない)

千鶴「…こちゃん、栄子ちゃん」

栄子「あ、ご、ごめん。オーダー?」

千鶴「そうじゃなくて…」

千鶴「…、」

栄子「どうした?」

千鶴「ここ一週間たける見ないんだけど何か知らない?」

栄子「たける?」

栄子「たけ…」

栄子(そういえば)

栄子(イカ娘は違うとして、たけるはどうなんだ)

栄子(私と同じようにここに来たのか?)

栄子(…たけるが、いない……)

栄子(なら)

栄子「探すしかない。流石に一週間は心配だな」

千鶴「そうよね。どこか遊びにいってるものかと思ってたけど」

千鶴「店が落ち着いたら心当たりある限り連絡しましょう」



栄子「…どう?」

千鶴「駄目。どこに連絡しても全然」

千鶴「どうすれば…」

千鶴「……誰かにさらわれたのかしら…」

栄子「うーん…」

栄子「来るお客さんは常連が多い」

栄子「たけると面識のある人も少なくないはず」

千鶴「…そうね。お客さんに聞いて回るしかないのかも」

イカ娘「どうしたでゲソ?」

栄子「イカ娘。お前、最近たける見なかったか?」

イカ娘「……そういえば見てない気がするのでゲソ」

栄子「そっか。仕方ないな」

千鶴「何だか…急に心配になってきたわ」

栄子「大丈夫だよ、きっと。大丈夫」

栄子「はい、イカ墨スパゲッティ二人前」

「どうもー」

栄子「つかぬ事を聞くんですけど、お客さん、たける見なかった?」

「ああ。あの子か。そういえば最近見ないね。どうしたの?」

栄子「一週間姿を見せないんです。どこに連絡しても見つかる気配がなくて」

「…それ、大変じゃない?」

栄子「大変なんです」

栄子「もし見かけたら連絡くれませんか」

「ああ、いいよ。知り合いにも声をかけておくよ」

「心配だね。早く見つかればいいね」

栄子「…ありがとうございます」

栄子「スパゲッティ、少し大盛りサービスしておきましたんで」

「本当? 悪いねー」

イカ娘「焼きそば三人前でゲソ!」

「ありがとう」

イカ娘「ところでたけるを知らなイカ?」

「たける…君? ああ、あの子」

イカ娘「一週間もどこかに行ったまま、連絡もつかないでゲソ」

「一週間っ? 大変じゃないか」

「どうしてそんなに経つまで」

イカ娘「たけるは毎日必ず海の家にいるわけじゃないでゲソ」

イカ娘「でも一週間姿を表さない、そして連絡もつかない、ようやくことの大きさに気づいたのでゲソ」

「そりゃあ危ないよー。警察に連絡してみたら?」

イカ娘「千鶴がもう捜索願を出したでゲソ」

「見つかるといいね。周りにも話しておくよ」

イカ娘「ありがとうでゲソ!」



千鶴「ーーえ? 見た?」

「あ、ああ。確かここから一番近くの離島に探検しに行くとか言って、」

千鶴「!」

栄子「!」

イカ娘「!?」

「えっ。まだ帰ってないの? ……それヤバイよ」

イカ娘「千鶴!」

栄子「姉貴、急ごう!」

千鶴「…」

栄子「姉貴っ?」

千鶴「……、」

千鶴「こんな時に…」

栄子「え?」


ーーポツ

ーーポツ、ポツ…

ーーポツ……

ーーサアアアア……!!

千鶴「栄子。今日の天気予報、見た?」

栄子「……いや」

千鶴「ーー大雨に、暴風」

千鶴「まるで自然に試されてるみたい」

ーー今思えば何が予報だ。くだらないよ」

ーー地震だって台風だって何だって」

ーーあれはただの警告でしかなかったんだ

栄子(また…このシチュエーション)

栄子(また助けに行けば、大切な人を海にさらわれてしまうかもしれない)

栄子(でも。向こうにはたけるが…)

栄子(…)

ーー……嫌だ

ーー信じられないよ

ーー…

ーー私は弱い

ーーこんな世界で。一人取り残されて

ーー何を信じればいいんだ

ーー何を支えに生きて行けばいいんだ

ーー……信じ続ける心こそ、人に残された最後の強さよ

ーー世界は必ずしも自分に優しくしてくれない

ーーでも。そう、ひとつ

ーー誠実に生き続けることだけは、諦めちゃいけない

ーー自分に誠実にできない人は、他人に誠実になることはできないし

ーー……嫌だ

ーー信じられないよ

ーー…

ーー私は弱い

ーーこんな世界で。一人取り残されて

ーー何を信じればいいんだ

ーー何を支えに生きて行けばいいんだ

ーー……信じ続ける心こそ、人に残された最後の強さよ

ーー世界は必ずしも自分に優しくしてくれない

ーーでも。そう、ひとつ

ーー誠実に生き続けることだけは、諦めちゃいけない

ーー自分に誠実にできない人は、他人に誠実になることはできないし 

ーーそれは世界に対して誠実で在ることを諦めるということ

ーーそれじゃ世界は、答えてくれない 

ーー世界はいつだって私達を試してる

ーー自然だってそのひとつ

ーー戦わないと、駄目

ーー生きて。栄子

ーー姉貴ッ!!

痛烈なコピペミスすみません
何となく分かってください

ドクン

栄子(くそ。何だ。何なんだこの状況)

ドクン

栄子(イカ娘を通じて別世界に来た途端に…何なんだ一体)

ドクン

栄子(試されてる。間違いない)

ドクン

栄子(助けに行くか?)

ドクン

栄子(当たり前だ。大切な家族なんだ)

ドクン

栄子(これで死んでも構わない)

ドクン

栄子(でも…それはたけるを悲しませることになるんじゃ)

ドクン

栄子(くそ。くそくそくそ!)

ドクン

栄子(一人でいくら考えたって、答えなんか出やしない)

ドクン

栄子(でも私は、この世界で一人ぼっちだ)

ドクン

栄子(たった、一人……)



イカ娘「ーー栄子!!」

栄子「」

イカ娘「…」

栄子「あ、ああ」

イカ娘「何考え込んでるでゲソ!」

イカ娘「もう千鶴がレスキュー隊呼んだゲソ!」

栄子「…」

栄子「いや、でも。大雨に暴風なんじゃ」

千鶴「船。出してくれるって」

栄子「…姉貴」

千鶴「それでも。天候次第では中止の可能性も大きいけど」

栄子「……助かると思うか?」

千鶴「助けなきゃ」

栄子「助けられると思うのか?」

千鶴「…どうしてそんなに弱気なの?」

栄子「…」

千鶴「…」

栄子「……言えない」

栄子「信じて、もらえない」

千鶴「栄子」

千鶴「私は信じる」

栄子「え…」

千鶴「何でも話して」

千鶴「人を、頼って」

千鶴「一人にならないで」

千鶴「世界はもっと優しいはずよ」

千鶴「…………ね?」

栄子「……」

栄子「…」

栄子「あの、さ。私…」



イカ娘「…」

千鶴「…」

栄子「…」

千鶴「信じるわ」

栄子「えっ?」

栄子「……どうして」

千鶴「だって、話してくれたでしょう」

栄子「…」

イカ娘「栄子。一人でふさぎ込むのは良くないでゲソ」

栄子「イカ娘…」

イカ娘「私達はまだ子供だから、大人よりももう少し、きっと素直になれるはずでゲソ」

イカ娘「栄子はもう大人でゲソ?」

栄子「…いや」

栄子「そんなことは…ない。と、思う」

千鶴「なら、頼って。尚更」

千鶴「時に人って、心を純粋にしないと見えないものがあると思うの」

千鶴「世の大人の多くは、濁ってしまった心によって、それを見失ってしまっている」

千鶴「でも強い意思があれば、またそれを見ることはできるはずなんじゃないかしら」

千鶴「勇気、出そう」

千鶴「他人を許す勇気を」

千鶴「あなたは一人じゃない」

イカ娘「私もついてるでゲソ!」

栄子「……ありがとう」

ビュオオオオオ…

船内

イカ娘「たける…待ってるでゲソ」

栄子「…」

千鶴「栄子ちゃん」

栄子「ん…」

千鶴「今、何考えてる?」

栄子「……」

栄子「不安なんだ」

栄子「全部を失う未来ばかり浮かんでくる」

千鶴「無理ないわ。別の世界でそれだけの目にあっているなら」

栄子「…本当に信じてるのか?」

千鶴「信じてるわ」

栄子「姉貴の許容度の凄さは、こっちでもあまり変わらないみたいだ」

千鶴「海に人を返してもらうためにはどういう答えを出せばいいか。そのために、ここにいるんでしょう?」

栄子「うん」

千鶴「もう。答え、出たんじゃない?」

栄子「…」

龍ノ国

乙姫「もっと速く!」

亀「これ以上は…」

乙姫「もっと速く逃げねば奴に飲み込まれるぞ!」

イカ娘「ーーーー!!」コオオオオオオオ…

千鶴「どうして…暴走を…」

乙姫「…」

乙姫「神は気まぐれぞ」

乙姫「神は時に自然にさえ、牙を剥く」

千鶴「あなたも神様なんでしょう?」

乙姫「神は神でも、自然の、海の神ぞ」

乙姫「その上位に位置する神とは根本が違う」

乙姫「自然の神は自然を裏切らぬ」

千鶴「……イカ娘ちゃんは…一番偉い神様は、何に従って行動するんですか?」

乙姫「神のみぞ知る」

千鶴「言葉遊びです」

乙姫「理解し得ぬもの。これは覆らぬ。仕方がない」

千鶴「こっちは仕方がないじゃ済まされないんです!」

乙姫「説明できぬ理不尽がある。倫理さえ逸脱する時さえある」

乙姫「人間世界も同様。神はあらゆる域を逸脱するから神ぞ」

乙姫「枠の中にいる我々では理解できぬ。一生な」

千鶴「……」

千鶴「人を罰したのは、自然の意思じゃない」

乙姫「…」

千鶴「神様の意思。自然はただ、従っただけ」

千鶴「理解できないのなら、人は、その理解できないものじゃなくて、自分自身を信じて戦うしかない」

千鶴「信じ続けるしかない」

乙姫「…止めておけ」

乙姫「神と戦う気か?」

千鶴「……人は確かにどうしようもなく醜くて、愚かな存在」

千鶴「でも、そんな人間だって、必死に生きてるんです」

千鶴「誰だって、自分に足りないものと戦って、何かを信じて、そうして生きてるんです」

千鶴「それを…」

千鶴「気まぐれだとかで全てを奪い去って行くなら」

千鶴「どんな理由があったって」

千鶴「敵です」

乙姫「…思いの外、思わぬ形で、早かったようだが」

乙姫「それがそなたの答えか?」

千鶴「人も自然も悪くない。人は人と自然を信じることができる。自然も人と自然を信じることができる」

千鶴「悪いのは、理に反するもの」

千鶴「つまり…神様よ」

乙姫「ならばあの娘を葬り去るか?」

千鶴「っ」

乙姫「あの子も神の一部ぞ」

千鶴「……」

千鶴「今なら分かる」

千鶴「あの海の家こそが調和の象徴」

千鶴「神様は世界の破滅を恐れ、人と文明を奪い去り、海の家、生きる小さな城、れもんを作った」

千鶴「れもんは神様の一部だった。調和の象徴だった」

千鶴「…イカ娘ちゃんのように」

乙姫「…」

千鶴「調和を破壊しなければ、新たな創造はあり得ない」

乙姫「答えになっておらぬぞ。敵は分かった。信ずるものも」

乙姫「そのためにあの娘を討つ覚悟がそなたにあるかどうか、それを聞いている」

乙姫「手を組んでもいい。が、生半可な覚悟であるなら別だ」

乙姫「いざという時に迷われては困るからな」

千鶴「神様は、私と栄子、子供二人に答えを託した」

千鶴「イカ娘ちゃんは答えを問いに生まれた」

千鶴「海の家だって、曲がりなりにも新しい調和のために生まれた」

千鶴「こういう部分を見ると、神様はまるで親のよう」

千鶴「討つべき敵には値しない」

千鶴「それでも世界は理不尽に見舞われる」

千鶴「神様は何を考えているのか」

千鶴「分かるわけもない」

千鶴「けど、きっと神様は待ってる」

千鶴「自分に牙を剥いてくれる存在…いえ」

千鶴「人が自分から離れ自立していくのを」

乙姫「……ふむ」

千鶴「ひとつ、聞きたいの」

乙姫「言ってみよ」

千鶴「意思の核とはこうして対話できるけど、その他はその限りじゃない。だから疎通が困難」

乙姫「うむ」

千鶴「イカ娘ちゃんは神様の一部だった。でも確かに話ができたの。これは何故?」

乙姫「…」

乙姫「イカ娘と最初に出会った時、言葉は交わせたか?」

千鶴「え…」

千鶴「…………あ…」

乙姫「通じなかったろう。でも、すぐに意思を交わせるようになった」

乙姫「すぐに認めたのであろう。お前とその妹を」

乙姫「だから核を移した」

千鶴「……………………」

千鶴「なんで…そんな。認めたの?…」

千鶴「だって、本当に会って間もなかった」

乙姫「さあな」

乙姫「もしかすると、答えを問いに現れたのと同時に、自分を葬ってくれるよう向こうから現れた、ということかもしれぬな」

千鶴「そんな。じゃあ…。じゃあ」

千鶴「どうして、あんなにも、可愛らしくて、心に接近してくるような」

乙姫「会って間もない。情が薄い。それはそなたにもあの娘にも、双方に言えることであろう」

千鶴「私は…どうして、こんなにあの子を想うの?」

千鶴「イカ娘ちゃんはどうして、私と栄子に託すの?」

乙姫「……」

乙姫「ーーもしかすると、あの娘は、全く別の世界、言ってみれば、極めて平穏な世界があったとして、」

乙姫「そこにはあの娘もそなたも妹もいた」

乙姫「その別世界で過ごした日々、受けた恩と思しきものを、忘れられないのかもしれぬ」

千鶴「そんなの、関係ない」

乙姫「だが己の想いに嘘はつけない」

千鶴「おかしい!」

千鶴「一部でも、確かに神様は神様でしょう!」

千鶴「そんな別世界で一緒に平穏に暮らしてるなんておかしい」

乙姫「おかしくはない」

千鶴「え?」

乙姫「神は意外に寂しがり屋でな。その存在を『忘れてほしくない』思いがあって、あらゆることをする」

乙姫「可愛げな娘に化けて人間世界に現れたりな」

乙姫「人類の歴史もだいぶ長くなるが、その中で神の概念が抜けていた年月はいかほどであろうな?」

千鶴「…………なんて、理不尽な」

乙姫「さあ…人間」

乙姫「親離れの時か?」

乙姫「神を討つか?」

乙姫「あの娘を討つ覚悟があるか?」

乙姫「決めるのはそなただ」

千鶴「う、ぐ」

千鶴「うう…」

千鶴「…………栄子…」

千鶴「あなたは、どんな答えを出すの?」

千鶴「何を信じるべきなの?」

千鶴「何を信じて何と戦うの?」

千鶴「私は…私は……」

イカ娘「ーーーー!!」コオオオオオオオ…

千鶴「…」

千鶴「!」

千鶴(言葉が分からないのは…暴走のせい?」

千鶴(今。イカ娘ちゃんの意思はどこに?)

千鶴「…」

千鶴「………ちゃん」



千鶴「ーーーーイカ娘ちゃん! どこにいるの!?」

栄子「ーー戦う。皆で戦うんだ。世の理不尽と」

栄子「たけるを。家族を助けるためなら、神様とだって戦ってみせる」

船内

千鶴「……そう」

イカ娘「…」

ピカッ!

ゴロゴロゴロ!!

千鶴「きゃあっ!」

栄子「わっ!」

ゴゴゴゴゴゴ…

ビュオオオオオ!!…

「まずい、波が凄すぎる!」

「慌てるな。冷静に対処しろ!」

バタバタバタ…

栄子「……島が。島が見えてきた」

千鶴「…」

千鶴「ねえ。よく見て。あれ…」

栄子「え?」

栄子「……」

栄子「!」

栄子「たける!!」

ーーー

ーー



荒川D「…」

駿「今はここまで」

荒川D「もうほとんど終盤じゃないですか」

駿「そう」

駿「栄子と千鶴は、決断をしたんですね」

駿「人はもっと強くなれると思う。その可能性はやっぱり子供が持っているものなんだ」

駿「栄子は人間世界で、千鶴は自然世界で、それぞれの視点から、信じるものと戦うものを見定める」

駿「本当はその選択に至るまでの過程をもっと書くべきなんだけど。時間がないから」

荒川D「……お聞きしても、いいですか?」

駿「いいよ。でもその前に、君の感想を聞かせて」

荒川D「あ。そうでした」

荒川D「…」

荒川D「では素人らしく、浅く簡潔にいきます」

駿「それでいいよ」

荒川D「絵が…」

駿「うん」

荒川D「絵が」

駿「…」

荒川D「ーー絵が綺麗でした!!」

駿「…」

荒川D「…」

駿「…」

荒川D「…」

荒川D(……………………やっちまったか?)

鈴木P「いやいや的確じゃないですか」

駿「!」

荒川D「鈴木さん!」

駿「…」

鈴木P「こっそり荒川君の後を付けてたんですよ。悪く思わないでください」

駿「はあ。鈴木さんに見られちゃったら…」

駿「いや、鈴木さんでなくとも…」

駿「今作の意図は、ある程度アニメーションに造形がある人であれば、すぐ看破できてしまうんですよ」

駿「だから素人である君に見てもらう必要があった」

荒川D「は、はあ」

鈴木P「宮さんのことだから、こういう原作にはかなり手を入れるだろうと。或いは、あまり原作を読まないまま、想像力で補完してしまうのだろうと思っていたら、まあやはりと言いますか」

荒川D「別物ですよ。完全に」

鈴木P「そう。路線で言えば『もののけ姫』や『ポニョ』に近い」

鈴木P「イカ娘というモチーフは…いや。難しい話はまた後々」

鈴木P「テーマ性一点で言えば、エンタメとは遠い。つまり、難しいお話」

荒川D「はい」

鈴木P「となると、素人がそれを見せられたら、それを作った監督を前にして下手なこと言えないでしょう?」

鈴木P「なら触れるべき点は本筋から逸れて、まあ安全な着地点としては、そう」

鈴木P「絵になる」

鈴木P「宮さん…今回の制作であなたが自分に課した最も大きいもの。それは」

鈴木P「リミテッドアニメーションでしょう?」

駿「そう」

鈴木P「割りにあっさり答えますね(笑)」

駿「そんな、鈴木さん相手にごまかしたって仕方ないでしょう(笑)」

荒川D「えっと…」

鈴木P「74にしてこの向上心」

鈴木P「宮さんは生粋の作り手ですよ」

鈴木P「つまりね。うん…まず」

鈴木P「まあ今の時代、ネットですぐ分かっちゃうんだけど」

鈴木P「対としてはフルアニメーションがあるの」

荒川D「はい」

鈴木P「予算の都合上ね、日本のアニメは基本的にリミテッドアニメーション」

鈴木P「それはね。カラーであろうとIGであろうと。…サンライズであろうと京都アニメーションであろうとね」

駿「厳密には枚数による定義は成されてない、と言って間違いじゃないですね」

鈴木P「ディズニーも必ず毎秒24枚描いてるわけじゃないですからね。でもディズニーは基本的に、フルアニメーション」

荒川D「? ?」

鈴木P「まあこれはね。突っ込んで行くとややこしい話。そんなことはどうでもいいの。詳しくは調べて」

鈴木P「原点回帰っていうのは、この点で言えば、しっくりくるのは『カリオストロの城』」

鈴木P「『カリオストロ』はね。とにかく今のジブリみたく時間的にも予算的にも人材的にも恵まれた環境下で作られたようなアニメーションじゃないの」

鈴木P「簡単に言えばね。徹頭徹尾、限られた条件の中で、どれだけ最良のものを作れるかっていう、そういう要素を、突き抜けるところまで突き抜けた、日本アニメーションでも随一と言っていいかもしれない作品」

鈴木P「おそらく宮さんは、この恵まれた制作環境であえて、リミテッドアニメーション的要素を追求し、自ら時間さえ制限して、究極の演出を求めた」

鈴木P「だから、素人に見せた時に、絵を褒められるというのはね。リミテッドアニメーション的要素を追求しながらも、普段のジブリ作品と遜色ないものが描けてしまえたという、ひとつの達成を表すことになるんです」

荒川D「な、なるほど…」

鈴木P「宮さんはイカ娘をほとんど読んでいないでしょう」

鈴木P「宮さんが目を付けたのは、イカ娘というその、1キャラクター」

鈴木P「下手な話ね。物語、本筋なんてどうだってよかったんでしょう」

駿「いやそんなことないです(笑)」

鈴木P「まあ言い過ぎかもしれませんが(笑)。主軸にはない。あくまで演出がメイン」

鈴木P「そういうチャレンジ…挑戦をね。するにあたって、当然アニメーションなんだから、何かしらキャラクターだとかが必要になってくるでしょう?」

鈴木P「描くに値するキャラクターを探してたんですよ、宮さんは」

荒川D「それが…イカ娘」

鈴木P「まあ宮さん、コンテを頑なに見せてくれないものだから、気になってスタッフにいくらか絵を見せてもらったら」

鈴木P「これが違和感を覚えずにはいられなくてね。どのカットもさほど動かさない」

鈴木P「それでいて長編な分、カット数は多い。何が目的か気になって、おおよその推測はついてたんですが」

駿「そこまでしてたんですか(笑)」

鈴木P「確信に変わりました。ええ見事です」

鈴木P「日本アニメーションの可能性ですよ。演出には限界がない。素晴らしいですね」

鈴木P「宮さんは後継者を育成することにそう力を注いできた人ではない…というと語弊があるかもしれませんが」

駿「面倒はたくさん見てきましたよ。それ以上に追い出した人のが多いかも分かりませんが」

鈴木P「細田くんは活躍してるじゃないですか」

駿「彼はそう面倒見てないです」

鈴木P「もともと才能ありましたからね。だから宮さんを納得させるような才能なら、わざわざジブリに縛り付けるようなことはしない。ジブリにいる以上、宮さんの下に着くことでその影響がどれほど強くかかってくるか、またそれを宮さん自身も重々分かってたでしょうから」

鈴木P「だから宮さんの下で後継者が育たないのはある意味、自然なこと。新たな芽が出るのを、宮さんは待ってたんです」

鈴木P「今度『バケモノの子』について詳しくお話伺いたいんですがね。熱いラブコール、受けてましたでしょう?」

駿「まだ観てません」

鈴木P「(笑)」

荒川D「後継者とは?」

鈴木P「ああ、そうそう」

鈴木P「宮さんも宮さんなりにね。表には出さないし、ある種の悲観や諦めも持ってるんだけど、業界の行く先には無関心もあるんだけど、どこか罪悪感というか、そういうのを持ってるんですよ」

鈴木P「これから先の日本アニメーションはよりCG重視になるでしょうし、より海外の手を借りることになる」

鈴木P「日本という輪の中で安定的で理想的な環境を作り、制作をし続けていくことは、あらゆる視点から考えた時、難しいというのがはっきり分かるんです」

鈴木P「そんな時に、どんなに条件が限られていても、演出ひとつで全てを覆せるぞと、そしてその知恵を、今作の『夜の海、いかの娘』のような作品に少しでも残して、後世のアニメ作家さん達の役に立てれば、贖罪としてはいいだろうと、そう思ったんでしょう」

駿「僕は作りたいものを作っただけです」

鈴木P「ええ(笑)」

駿「聞きたいことって?」

荒川D「なぜ『イカ娘』なのか…まあ、疑問は全て今の話で払拭できました」

駿「そう。良かった」

駿「じゃあ僕はコンテ作業に戻るから」スタコラ

鈴木P「僕の疑問も晴れたんで今日は帰ります」スタコラ

荒川D「あ、はい!」



荒川D「…」ポツン

荒川D(……一時は無慈悲な酷評で公開を阻止しようだなんて思ってたのに)

荒川D(自分の思いに嘘を付けない、本当にそうなんだ)

荒川D(圧倒される演出だった)

荒川D(でもどことなく宮崎さん…)

荒川D(隠している風だったけど、表にそれがにじみ出ていた)

荒川D(ーー何かミスをしてしまい、それを悔いている)

荒川D(短期間で至高の演出。凄まじい挑戦)

荒川D(でもいくら天才と言ったって、何かリスクは出てくるはず)

荒川D(そう…例えば、本筋)

ーーーー本当はその選択に至るまでの過程をもっと書くべきなんだけど。時間がないから。

荒川D(…)

翌日 スタジオジブリ

駿「ーー直します」

制作進行「…………」

制作進行「へ?」

駿「ですから。ここからここまで、約100カット、コンテに加筆します」

制作進行「…どうしてでしょう?」

駿「どうしても何もないでしょう? このコンテ、読んで分かりません?」

駿「栄子も千鶴も、選択に至るまでが早すぎるんですよ」

制作進行「それはまあもともと短編というお話でしたから多少は仕方ないのでは」

駿「多少仕方ないって何だ!」

駿「この業界で働く人間が、よくそんなことを言えたもんだ!」

制作進行(…また始まった……!)

制作進行「し、しかし…」

駿「しかしも何もない。やるんです」

駿「もう決めましたから」

駿「釈で言えば長編に部類される作品になってしまった以上は、それに合わせた肉付けを施さないといけないんです」

駿「スケジュールどうにか直してもらえませんか」

制作進行(ひええ…)

鈴木P「やってくれたねえ君…」

荒川D「…すみません」

荒川D「本当…すみません…………」

自分はどうやらタブーを犯してしまった。

全ての疑念が晴れたことで浮かれていたのか、いつものような段取りで、いつも以上に意気揚々とスタジオジブリに足を運んだある日のこと。

宮崎さんはコンテを遡って何度も同じところを読み返していた。

どうしても気になるところがあったらしい。

それは以前に口に出していた、栄子と千鶴の「選択」についてだ。

短編を予定していたこともあり、物語の進行における人物の心情とその整合性は、観客の想像で補完させる形に収めるはずだったらしいが、

コンテを進めるうちに、宮崎さんはイカ娘のキャラクター性、その本質に心を奪われ、腰を据えて描くことを無意識に決意したようで、

そうなると、その膨張した情報は、周囲から浮き立ってしまい、宮崎さんのイメージ世界は崩壊の危機を迎え、

そしてその危機を回避すべく、イカ娘というキャラクターに合わせて、世界と人物心理のスケールを広げた。経緯としては、こういうことらしい。

自分は取材を取り付けるにあたって交わした最初の約束を完全に失念していた。

ーー俺の言うことに対して一切笑うな。それなら取材を許可する。

これに対し先日、

ーーここどう思う?

珍しいことだった。あの大天才、宮崎駿が、こんな自分に相談を持ちかけてきたのだ。

正直、気持ちが上ずってしまったのは否定できない。だから、言い訳もできない。

ーーここですか。

ーーうん。

ーー僕には凄く良いようにしか見えません。

ーーうーん。

ーーうんん……。

ーーでもさ。そう、登場人物になりきって考えてみてよ。

ーーいきなり異世界にすっ飛んでさ。こんな子供だったら、まず戸惑いだとか高揚だとか恐怖だとか、

宮崎駿は、リアリティを追求する人間だった。それを忘れていた。

ーーそういうものでもっといっぱいだと思わない? こんなのさ、

ーー確かに、まるでテレビでよく見る妙に大人びた気味の悪い子役みたいですね(笑)

ーー……、

ーーあ…

物語は大詰め、終盤を迎えるはずだった。

「…………まだやるんですか?」

スタッフの一人がこぼした一言。

スタジオジブリ 作画室

「いやでも、皆もうへとへとですよ?」

「もうコンテも終盤、それを想定した上で皆気力体力を作画にあてていたのに」

「……取材って、本当に取材してるんですか? 遊びにきてるだけじゃ」

悪いのは自分だ。言い訳もない。

皆に事情を話し、謝って回ろうとしたところ、やはり避難の眼差しは想像以上に鋭く、

さしものジブリスタッフも、鉛筆を武器に今にも襲いかかってきそうな苛立ちを見せていた。

鈴木P「まあ…君に責任の全てを負わせるのは少し辛辣だろうけど」

荒川D「…はい……」

鈴木P「まあね…見るからに猛省してるからこれ以上は何も言わないけど」

鈴木P「でもよく考えて」

荒川D「へ?」

鈴木P「言ったよね? 傷つくことを恐れて、他人を知ろうだなんて、そんなの愚かだと思わないかって」

荒川D「…はい」

鈴木P「今このジブリの状況。カメラに収めるに値するものだと思わない?」

鈴木P「その価値があると、そう思わない?」

荒川D「…」

鈴木P「そう思えなきゃ。そうできなきゃ」

鈴木P「君にここを撮る資格はないよ」

荒川D「……」

荒川D「…」

ーー取材とは、戦いだ。

荒川D「…」

荒川D「…!」

絵コンテ(長編『夜の海、いかの娘』)制作78日目

いよいよ宮崎さんの超人さを表す有名な作画チェックが始まった。

当然コンテは終わっていない。

それでも一切の妥協を許さず命を削りながら指導と修正を繰り返す。

この様子は、世界を見回してもスタジオジブリでしか見られないだろう。

駿「ここは枚数かけるところだから、いわゆる見せ場」

駿「もっと動きを大胆にしないといけない。それは君も分かってるからこう描いてるんだろうけどさ」

駿「普通、こう…右足をぐっと前に出した時さ。千鶴だったら、顎がこう…少し上がると思わない?」

駿「君はどうしてここを下げようと思ったの? 千鶴をちゃんと理解してる?」

「す、すみません」

駿「ああここも違うよ。…ここも、ここも。ここもここもここも」

駿「大胆性で誤魔化した非現実的なアクションか、アニメーションの教科書に描いてあるような何の捻りのない無機質な動き。そのふたつしか描けてないんだよ」

駿「まるで対象を観察していない。解釈していない。理解には到底及ばない」

駿「漫画ばかり描いて。ろくにスケッチしてないだろお前」

「すみません…」

駿「性格さえ掴めずにどう動きを描こうっての?」

駿「もうここ辞めちまえよお前。保育園じゃないんだからさ」

駿「そのつもりがないならもっと観察してもっと考えて描け。いい?」

「は、はい!」

撮っているこっちの背筋が凍りそうになる、宮崎さんの迫力のある指導。

スタジオジブリのアニメーターはレジェンドクラスばかり。

それでも宮崎駿を前にしては、見習いの新人のような振る舞いになってしまう。

レジェンドクラスのアニメーター達は、その実力を持つからこそ、宮崎駿の凄さを、おそらく日本のどのアニメファンや評論家よりも、知っていた。肌で感じていた。

トップクラスの世界はまるで地獄だった。

絵コンテ(長編『夜の海、いかの娘』)制作81日目

荒川D「宮崎さんは制作にシナリオライターを使おうと思ったことないんですか?」

駿「僕はないですね」

荒川D「それはどうして」

駿「…」

駿「ストーリーっていうのは要は出来事の連なりでしょう?」

駿「その出来事というのは、常に何かの意思の下で起こるものなんです」

荒川D「意思ですか」

駿「その意思っていうのは世界であったり人間であったり、はたまた自分でも映画の中のものでもない全く別の、目に見えない何かであったりね」

駿「そういうものを捕まえて、膨らませて、形に起こす過程はね。予定できないんです。意思は揺れ動くから」

荒川D「はあ」

駿「僕らは完成された世界の中、目に見えない海水のような大きな意思を切り取って、それを映画に起こしてる訳ですから」

駿「だからまずライターさんを使うなら、その世界を、見えない水とその流れを理解してもらわないといけない」

駿「でも僕が作った世界をね、わざわざ他の人に解釈してもらって一本道にしたものを、僕がまた絵に…コンテに起こすなんていうのは手間だし、意味がないし、そもそも成り立たないんだよ。人に伝達できないものをコンテにするから、コンテなんじゃんね」

駿「その伝達できないものを形成することから既に物語は存在が始まっているんだから。始まっていて、どう落ち着いて行くかは予定できない」

駿「脚本っていうのは要は予定でしょう?」

駿「原作があったって同じですよ。それをどう感じ想像するかが要だから。予定なんて役に立たないんだ。予定通りに行かない。常に狂って、壊れて、それでも別の形で再生させようと筋道を探り出すんです。そういうことですよ」

駿「その過程で、僕にはライターさんが必要とは思わない。それだけです」

絵コンテ(長編『侵略!イカ娘』)制作96日目

金元寿子「ーーだから、私は栄子と千鶴が大好きでゲソ」

駿「 …」

駿「このシーンのイカた…イカ娘はですね。やはり他のどの場面よりも大人びてないといけないんです」

金元「はい」

駿「けど、それでいて、何ですかねえ。死に間際というと違うんですけど、何かを悟ったような、受け入れたような、そんな子供のようで」

駿「イカ娘は神様の一部ですが、この場面では神の意思を持っているんです」

駿「なので全てを俯瞰するようなものを含め持つ反面で、やはり神様ですから、この乙姫の解釈のように、寂しがり屋な側面もあって、それはイカ娘という姿形をした子供と非常にマッチするんです」

駿「繰り返すんですけど、何かを悟ったような、受け入れたような、そんな子供のような、愛と孤独を秘めた声音になるんです。聞いてる側に無為に寂寥感を引き起こさせるようなものでなくてですね、ただただ、感謝なんです」

金元「感謝、ですか」

駿「ええ。愛と孤独を秘めた感謝なんです」

駿「その真に迫る、本当の感謝の瞬間っていうものは、もう子供でも大人でもないんですね」

駿「その境目を意識しない、いや意識はするんですけど、意識した上で、その境界を払い去ってしまうような、」

駿「そういうニュアンスで、お願いしたいんです」

金元「…分かりました」

「じゃあ行きまーす」

金元「…」

金元寿子「ーーだから、私は栄子と千鶴が大好きでゲソ」

絵コンテ(長編『夜の海、いかの娘』)制作118日目

駿「」カリカリ

荒川D「…宮崎さんは、映画を作ることは、好きですか?」

駿「そんなの当たり前じゃない。好きだからやってるんでしょう」

荒川D「でも宮崎さん、いつも苦しそうです」

駿「…」

駿「随分と初歩なことで、言葉に起こすにも値しない、くだらないことだと思うんですけど」

駿「好きだから、苦しいんですよ」

荒川D「好きだから、苦しい?」

駿「ええ」

駿「これは綺麗事でも何でもなくてね。半世紀ほどアニメーションに向き合っているとね、確信するんだよ」

駿「1%の才能と99%の努力とかよく言うけどね。あれ意味わかる?」

荒川D「必要な才能は1%でいい。99%の努力が大切。……ですかね?」

駿「それは間違ってないんだけど、凄く上っ面な部分を捕まえた考え方でね」

駿「ーー間違いなく才能は皆が持ってるんです。間違いなく」

荒川D「はあ」

駿「ただ、それを引き出せるかどうか。そこでいわゆる、努力とやらが大切になってくるんですね」

駿「頑張ることは当たり前なんだよ。それでも上手くいかない。自分の才覚を形にできない人が、圧倒的なんだ。引き出せないでいるんだ」

駿「引き出そうとする過程はね。つまり奴隷としての働きに近しいんです」

駿「自分が持ってる、見えている、自分だけにしか分からない、形のないもの、その1%をね、追いかけるんです。一生。で、これって堪え難いほど苦しくて、苦しくて、苦しくて仕方ないんですよ。苦しい。どうしようもなく、苦しい」

駿「でも情熱はありますから、やるんです。好きであることと楽しいことってまるで違う一面があると、個人的には基本的にそうであると、僕は思ってるんです」

駿「苦しくて当然ですよ。僕は映画の奴隷ですから」

駿「今回の映画だってね。無意識にあるはずのイメージが引き出せるかどうか。いつものようにそこにかかっていて、」

駿「そしてこれもいつものように、この映画は果たして形になるのか、完成できるのか、そんな強烈な不安に苛まれてるんです、制作期間中ずっと」

駿「一寸先は闇だよ。いつもね。映画を作ること。つまり夢を追うこと。同じですよ」

駿「そのイメージをね。追いかける情熱があるかどうか。死に物狂いで、不安と戦い続けられるかどうかが、始まりなんです。そしてそれは全てなんです」

駿「言いたいこと分かった?」

荒川D「…………はい」

絵コンテ(長編『夜の海、いかの娘』)制作134日目

駿「…」

鈴木P 「…」

鈴木P「どうですか。終われそうですか」

駿「……うん。まあ」

駿「見えてきたよ。ようやく」

鈴木P「ジブリは、『思い出のマーニー』以降、長編映画の公開をしてないんですよ」

駿「…」

鈴木P「どうします? やります?」

駿「……すみませんねえ」

駿「多分、もう周りから散々言われてるんでしょう。全国のスクリーンで公開するように」

駿「でもその雑音が僕の耳にあまり入ってこないのは、鈴木さんの図らいのおかげでしょう?」

鈴木P「いえいえ。そんな」

鈴木P「まあ外野はいつだってうるさいですよ。宮さんに限らず」

鈴木P「…庵野がね。新作みたいって、そう言ってましたよ」

駿「(笑)」

駿「あいつはまだエヴァンゲリオンやってるの?」

鈴木P「ヱヴァですか。宮さんに感化されて、進んでるらしいですけど」

駿「そう。随分長くかかった決着だねえ。庵野も」

鈴木P「……決着、しましたか?」

駿「どうなんですかねえ」

駿「…」

駿「未来の僕に聞いてください(笑)」

鈴木P「(笑)」

駿「今の自分に何を聞いても、あてになりませんよ」

鈴木P「そうでしょうねえ…ええ」

駿「…」

鈴木P「…」

駿「鈴木さん」

鈴木P「はい」

駿「ありがとう」

鈴木P「こちらこそ」

絵コンテ(長編『夜の海、いかの娘』)制作162日目

荒川D「キャッチコピーが決まったらしいじゃないですか」

駿「うん。ほら、そこのポスター」

荒川D 「…」

ーー人は、答えを探す。

荒川D「…」

荒川D「華やかなイラストに重めのキャッチコピーっていうのは、もしかして初めてなんじゃないですか?」

駿「そのギャップが狙い目らしいね」

荒川D「らしいって…宮崎さんが考えたんじゃないですか?」

駿「作中の台詞の引用だから。考えたと言えばそうだけど、それを選んだのは別人」

駿「宣伝は自分の仕事じゃない」

駿「もののけ姫ってタイトルすら、半ば無理やり鈴木さんに決められちゃったんだから」

荒川D「そうなんですか?」

駿「まあ決まったものは仕方ないって思ってね」

駿「でも今も自分がこうして作っていられるのは、そういう人たちの助けのおかげとも思わないといけないんだ」

荒川D「そうですね」

駿「どんな才能の持ち主もね。独力を過信してたらいずれ沈むんです」

駿「自分は誰かに支えられて今がある。それを想像する力がなければ駄目だ」

駿「そういう映画のストーリーとは全く異なるようなね。日常的な想像性っていうものを疎かにしていたら、いいものは作れないよ」

駿「耳栓してレジに向かうことが何を意味するんだろうとかね。この道端にある空き缶は放っておいたらどうなるんだろうとかね。相手の痛みを理解しようとする心構えだとか」

駿「日常的に人は想像することを強いられていて、それを無視する人と、そうでない人がいる」

駿「そういうのは別に訓練だとかそういうんじゃなくてね。そういうことさえ想像できないんじゃ何をやったって駄目なんだ」

駿「感謝することは想像力がいるんだよ。大人になると」

荒川D「なるほど…」

長編『夜の海、いかの娘』制作180日目 

「ーー完成、おめでとうございます!」

パパパン!

制作期間は約半年間。

全国スクリーン公開が決まった『夜の海、いかの娘』。宮崎駿監督作品として、既に壮大な宣伝が国内を蹂躙している。鈴木さんの力、恐るべし。

『風立ちぬ』で長編からの引退を宣言した宮崎さんは、今回のインタビューで「中編なので問題はないです」と記者の笑いを誘った。

宣伝ポスターは日本中の映画館で見かけた。Twitterでは、イカ娘原作者のサインが書かれたそれの写真がよく話題になった。原作者のアカウントで「まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった」と呟かれ、それが万を超えるほどリツイートされた。

僕はと言えば、この打ち上げを最後に、密着取材を終了する。

開放感や達成感よりも、寂寥感がやや目立つ自分に少し驚いた。

宮崎駿の隣にいるということは、例えるなら嵐を追い掛けるハエのようなものだ。

突然嵐が止んでしまったら、油断した瞬間に羽がぽろっと落ちてしまいそうな、今まさに自分はそういう感覚に苛まれていた。

駿「やあ」

荒川D「宮崎さん」

駿「浮かない顔してるね。もっと食べなよ」

荒川D「…」

荒川D「宮崎さん。今まで、本当に。ありがとうございました!」

駿「いやいや」

駿「君も良く仕事を全うしたと思う。途中から何か吹っ切れたでしょう?」

荒川D(流石…宮崎さんは見抜いてしまう)

荒川D「僕はどれだけ蔑まれてもいいから、やり遂げたかったんです」

荒川D「映像に。宮崎駿とスタジオジブリを、作る人間を、その軌跡を。残したかったんです」

駿「そうそう」

駿「奴隷になるっていう気持ち、少しは分かったでしょう?」

荒川D「…はい」

駿「情熱に目覚めた時ね。自分よりも、自我なんてくだらないものより価値あるものが外に発生した時、もう自分の身なんて滅びたっていいから、これを何としても完遂させないといけない、そういう宿命みたいなものがね。見えてくるんだ」

駿「君にそれが見えたなら、今まで密着取材を許した甲斐があったってもんだよ」

荒川D「感謝してます。本当に…」

駿「僕も君には感謝してる」

荒川D「え?」

駿「あの時に君が遠慮のない指摘をしてくれなければ、自分は最後の最後で妥協を許したみっともない作品を世に送り出すところだった」

駿「本当に感謝してる。ありがとう」

荒川D「そんな! あの時は本当に失礼な真似を…」

駿「いいんだ」

駿「立場が上になるとね。ああいう指摘をしてくれる人間っていうのはどんどん減ってくるものなの」

駿「君でよかった」

荒川D「…………宮崎さん」

駿「最後に何か、聞きたいことある?」

荒川D「え?」

駿「何でも答えるよ」

荒川D「……」

荒川D「こういう状況でいきなりそれを問われると、逆に難しいですね」

駿「焦らなくてもいい。ゆっくり考えて」

駿「もうこんな連日ずっと一緒にいるようなこと、まずないだろうから」

駿「軽い別れの意味も込めてね」

駿「最後の取材だよ」

荒川D「……!」

荒川D「…」

荒川D「…………では」

荒川D「改めて、お聞きします」

荒川D「宮崎さんはなぜ映画を作るんですか?」

駿「じゃあ、改めて答えるよ」

駿「作りたいから、作るんだ」

駿「僕は『白蛇伝』という映画を観て、アニメをやろうと思ったんだけど」

駿「きっかけなんて何だっていいんだよ。何だって」

駿「ひとつの映画にしてもね。始めるのは実に簡単なんだ」

駿「続けることが難しいっていうのはね。映画がね。世界がね。自分を否定してくるんだ」

駿「そして自分の世界が瓦解していくんだ」

駿「だからひとつの映画を完成させる頃にはもうズタボロでね。作り終えるといつも回復するのに相当の時間がかかる」

駿「今回も達成感なんてないんだ。ただ、ただ疲れた」

駿「自分の世界は絶えず破滅するんだけど、でも諦めずにそれを再生する、その情熱がね、その99%こそが本質で、何より大事なことなんだ」

駿「何をやっていたっていい。人は何をして生きていてもいい」

駿「大事なのは、1%を見つけること。そして99%を燃やし続けること」

駿「僕は、そうして頑張っている人達のためにも、物語を書くんだ」

駿「少しでも。少しでも、元気になってくれるように。暗闇の中を、血と傷に塗れながら歩き続けるんだ」

駿「面白かった。そのたった一言のために、全人生をかけて戦うんだ」

駿「物語はいい。映画はいい。だから、君も映画を、物語を作ろう」

駿「…だなんて言わない」

駿「ーー夢を追うことは死ぬことよりも残酷だ。本気なほど。君も夢を追おうとは、絶対に言わない」

駿「ただ、どういう形であれ、世の中は、元気を求めている。どんな時代でも。夢を追う人も。日常を愛おしむ人も。何かと戦い続ける人も。だから与えるんだ」

駿「一番は、可能性を持った、子供にね」

荒川D「…ありがとうございます」

駿「そういえば、あれから定期試写、来てなかったよね」

荒川D「え? あ、はい」

駿「完成したからには、完成品の、ちゃんとした試写会やるからさ」

駿「それが明日」

駿「観たくない?」

荒川D「……え?」

荒川D「も、勿論! 観たいです!」

荒川D「でもいいんですか? だってもう、取材は今日で終わりなのに…」

駿「友人を試写会に招待するのは別にそんないけないことじゃないと思うよ」

荒川D「…」

荒川D「はい。是非、行かせていただきます」

駿「じゃあ。僕はこれで」

荒川「え? 打ち上げはまだこれからですよ?」

駿「一杯飲めればそれでいい」

駿「次こそはジブリ美術館でやる短編を作らないといけないから」

駿「その原作ももう目星はつけてるよ」

荒川D(……また)

ーーーー「~って…いいね。うちでやろう」

荒川D(って言い出して、今回みたいに死に物狂いで何かやり出すんだろう)

荒川D(もしそんなことがあるなら、また密着取材させていただきたい)

駿「もう取材は勘弁してよ。もう喋る体力すら減って来てるんだから」

荒川D「ばれましたか(笑)」

駿「まあたまには遊びに来なよ。歓迎するからさ」

荒川D「……はい」





ーー

ーーー

千鶴「ーーーーイカ娘ちゃん! どこにいるの!?」



イカ娘「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」




千鶴「! 何…これっ」

千鶴「頭にいっぱい情景が叩き込まれていくようなッ……」

乙姫「彼女の悲鳴を通してっ…星の歴史を垣間見ているのかもしれぬ……」



イカ娘「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」



千鶴「どうなって…更に暴走ってことは、干渉は成功しているのっ?」

乙姫「おそらくっ…干渉に成功したからこそ、神の中で意思と意思がせめぎ合っているので――は」フラッ

乙姫「」

千鶴「乙姫様!」

亀「いけません…このままでは……私も」

千鶴「ぐ…」

千鶴(乙姫様の言うことを信じるのであれば…)

千鶴(神様という意思の核の中に、平穏な別世界で私達と仲良く暮らしていたイカ娘ちゃんがいて、その意思が、今目の前にいる神の中に生まれつつある)

千鶴(私のこの想いも、きっと別世界の私と共鳴しているんだわ)

千鶴(あの神の中のイカ娘ちゃんを解き放つことができれば、神の意思がイカ娘ちゃんに継承されることで、神を倒すことも、同時にイカ娘ちゃんを取り戻すこともできる)

千鶴(全部憶測だけど…この頭に叩き込まれた情景が…それを思わせるの。きっとこれが正解)

千鶴(解き放つにはイカ娘ちゃんの意思を強くするしかない。それには別世界のイカ娘ちゃんが必要)

千鶴(……世界は、繋がっている)

千鶴(きっとその扉は神様クラスの存在でないと開くことはできない)

千鶴(乙姫様は気を失ってしまった)

千鶴(私ではできない)

千鶴(そうなると残るは…)



イカ娘「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」コオオオオオオ!

亀「!」

千鶴「危ない避けて!!」

亀「ぬっ…!」ヒュッ

ーードゴオ!!

イカ娘「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

亀「ひえええええ」

千鶴「もっとスピード上げて!」

亀「い、意識を保つのが精一杯でして…」

千鶴「…攻撃してくるってことは、神様の意思の中全てが、イカ娘ちゃんのように味方してくれる訳じゃないのね」

千鶴「戦う意思を見せた途端、凶暴性が間違いなく増してる」

亀「この騒ぎ。ワタツミ様は何を…」

千鶴「……そのワタツミ様が助けに来てくれるまでは粘るしかないわ」

千鶴「絶対に帰る。あの海の家に」



イカ娘「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

人間世界

栄子「たけるーーー!!!」ヒュッ

ドボン!

千鶴「!?」

イカ娘「栄子!」



たける「がば…ば……」

栄子「たける! たける!!」

たける「…栄子……姉ちゃん」

栄子「助けに来たぞ、掴まれ!」ガシッ

たける「なん、で。一緒に溺れちゃうよ」

栄子「分からないけど! 身体が勝手に動いたんだ!」

ピカッ!

ゴロゴロゴロ!!…

栄子「たけ…る。お前は、私の知ってるたけるだな?」

たける「…………え?」

栄子「イカ娘を通して…孤独な世界から私とここにやってきた。そうだろ?」

たける「う、ん。気付いたら、こんなところ、に」

たける「離島にいて…」

たける「助けも呼べなくて…」

たける「小さな船があったから、それで帰ろうと思ったら…嵐が」

栄子「そうか…、分かった」

栄子「思えば…姉貴が海にさらわれて、たけるが帰ってきたことは、調和の破壊と創造ってやつをそのまま示していたんだ」

たける「え?」

栄子「なら…この海に、元の世界の住人である私とたけるが身を捧げれば……」

たける「何…言ってるの?」

栄子「この別世界は…私とたけるの二人分だけ、調和を崩す」

栄子「それはどこかの世界のイカ娘にとっては大事だ」

たける「姉ちゃん」

栄子「私とたける…そして海の向こう側にいる姉貴が、私達が帰る場所にたどり着くには、そして海から人を取り戻すためには」

栄子「ーー神様という調和を、倒す。それしかない」

栄子「イカ娘が神様の一部だって言うなら、イカ娘の意思が神様に打ち勝つ以外に、方法はない」

栄子「イカ娘と繋がりができている今。私とたけるが、その引き金になる」

たける「姉ちゃん!」

栄子「聞け、たける」

栄子「私は感じてるんだ。別世界の私を。別世界の姉貴を」

栄子「別世界のイカ娘を。初めてイカ娘に会ったその瞬間から」

栄子「気のせいだと思ってた。何かの錯覚だって。でも」

栄子「もう…そんなことを疑うような状況じゃない。分かるだろ?」

栄子「ーー信じてくれ。たける」

ピカッ!

ゴロゴロゴロ!!…

たける「…………、」

たける「……………………うん」

栄子「よく、言った」

栄子「付き合わせちゃって、悪いな」ギュッ

たける「姉ちゃん。怖いよ」

栄子「私もだ。でも信じてる」

栄子「信じ続ける。それしかない」

栄子「…じゃあ。波への抵抗を解け。けど私からは離れるな」

たける「う、ん」

ピカッ!

ゴロゴロゴロ!!…

栄子「イカ娘ーーーーーーーッ!!」


千鶴「呼んでるっ」

イカ娘「…ゲソ?」



栄子「信じてるぞーーーーーー!!」

イカ娘「…」



ドクン




「ーーもう良いのか?」

「決めたのでゲソ」

「私が滅びれば世界はますます不安定になる」

「私が守るのでゲソ」

「イカ娘は侵略者でゲソ?」

「私が新しい神様になるのでゲソ」

「だから栄子と千鶴にもう危害を加えるのはやめるでゲソ」

「いいのか?」

「それはつまり全世界のお前が。神の一部であるお前もそうでないお前も全てのお前が世界から離脱することになる」

「それはあの者達と一緒にいられる全可能性を捨てることにもなる」

「それでいいのか?」

「構わないでゲソ」

「人と自然を、もっと信じてみるのでゲソ」

「答えは、皆が探してくれるのでゲソ」

「……分かった」

「今から新しい神はお前だ。イカ娘」

「一部でなく。全世界のお前が、全可能性が、この神という概念に集結する」

「もうお前は世界から存在を消す」

「孤独になる」

「私は、栄子や千鶴やたけるに、笑っていてほしいのでゲソ」

「…」

「では」

龍ノ国

イカ娘「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」コオオオオオオ!!

ワタツミ「オオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」

亀「!!?」

千鶴「…っ、」

千鶴「…………ワタツミ、様?…」

ワタツミ「乗れ!」

亀「はいっ」

千鶴「…!」

ワタツミ「上に飛ぶぞ!」

ヒュオオオオオ!!

イカ娘「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」



千鶴「…………助かった…」

ワタツミ「すぐ大人しくなる」

千鶴「?」

イカ娘「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

イカ娘「アアアアアアアアアアア…」

イカ娘「…」

千鶴「本当…」

ワタツミ「聞け。人間」

ワタツミ「ーーーー今。神が入れ替わった」

千鶴「え?」

千鶴「…………え?」

ワタツミ「たった二人の人類の答えは一致した。お主と千鶴は同じ答えを導き出した」

ワタツミ「イカ娘を通して答えは共鳴し、そして自然もその答えを受け入れた」

ワタツミ「お主はここ死後の世界に来た全ての人間と共に元の世界に返るだろう。だがそれでは間に合わない」

千鶴「何、に?」

ワタツミ「最後の別れだ」

千鶴「別、れ?」

ワタツミ「今送ろう。そこには妹も弟もいるだろう」

ワタツミ「よく頑張った」

ワタツミ「ではまたいつか」







栄子「…」

千鶴「…」

たける「…」

栄子「! 姉貴!」

千鶴「…栄子! たけるも!」

たける「良かった! 良かったあああ!」

栄子「やっと三人揃ったな…」

たける「うん。うん…」

千鶴「でも…」

千鶴「ここはどこ?」

栄子「……真っ白い世界」

たける「僕たち、浮いてない?」

千鶴「足場も分からないのよ」



イカ娘「ここは、私が用意した仮の世界でゲソ」

たける「! イカ姉ちゃん」

千鶴「イカ娘ちゃん!」

栄子「イカ娘!」

イカ娘「間に合ってよかったでゲソ」

千鶴「…」

千鶴「イカ娘ちゃんが、神様になってしまうのね」

イカ娘「今この世界にいる私と三人は、全世界、全可能性の私達の記憶を一時的に継承しているのでゲソ」

イカ娘「だから。何だか。これからお別れだと思うと…」ウズ

栄子「…」


イカ娘「……凄く、凄く…寂しいでゲソ…………」

イカ娘「思い出が強すぎて…」

イカ娘「涙が止まらないのでゲソ……」ポロポロ

イカ娘「うわああああああ」

イカ娘「やっぱり神様なんてなるんじゃなかったでゲソ~!」
 
イカ娘「もう会えないなんて寂しすぎるでゲソ~!」

たける「…イカ姉ちゃん」

千鶴「……、」

栄子「…いや」

栄子「会える」

イカ娘「ゲソ?」

千鶴「…そうよ。会える」

栄子「今は全く方法なんて、思い浮かばないけど」

栄子「答えを探し続ければ、可能性は消えない」

栄子「何だってできるさ」

たける「そうだ。そうだよ! だって、僕たちここまで来れたんだ!」

千鶴「元の世界に戻っても、絶対にイカ娘ちゃんを探すわ」

イカ娘「…それはできないのでゲソ」

イカ娘「可能性ごと世界から消えるのでゲソ」

イカ娘「だからもう三人が私を思い出すこともできないのでゲソ」

たける「……そんな」

栄子「そんなの分かるか!!」

イカ娘「!」

栄子「そんなの…分かるか……」

栄子「消えるのはあくまでお前だ。でも、私たちはそうじゃない」

栄子「私たちがいる限り、可能性は無くならない」

栄子「お前と出会った事実が完全に消えてなくなるなんて、そんなこと、神様にだって分かるもんか!」

栄子「お前にこの宇宙が生まれた理由なんて分かるか?」

栄子「本物の奇跡なんてものは、神様にだって理解できない」

栄子「神様は絶対的な存在だから」

栄子「でも人は神様や大自然に比べればちっちゃいもので、不完全もいいところだ」

栄子「けど絶対でない分、可能性だって秘めてる」

栄子「私は誓う。絶対にまた会える。約束だ」

栄子「イカ娘。次の冒険が始まったら、」

栄子「その時は必ずお前を救いにくる」

イカ娘「栄子…」

栄子「ーー約束だ」

千鶴「イカ娘ちゃん」

たける「イカ姉ちゃん」

栄子「…イカ娘」

イカ娘「…私は、いかの娘」

イカ娘「イカは恩を忘れないのでゲソ」

イカ娘「最初に出会った時。二人はこんな私をすぐ受け入れてくれたのでゲソ」

イカ娘「ーーだから、私は栄子と千鶴が大好きでゲソ」

イカ娘「たけるも大好きでゲソ」

イカ娘「人間。大好きでゲソ」

たける「」ヒクッ

千鶴「」グスリ

栄子「」グスッ

イカ娘「…」

イカ娘「……」

イカ娘「また会おう!」

イカ娘「…で、ゲソ」

千鶴「うん」

たける「絶対」

栄子「約束」

イカ娘「……」

イカ娘「さようなら」







ザザー…

ワイワイガヤガヤ…

海の家れもん

「ーーイカ墨スパゲッティくださーい!」

栄子「はいよー!」

千鶴「焼きそばも三人前よ」

栄子「はいはい。あーくそ、今日は忙しいな!」

千鶴「イカ墨、人気ねー」

栄子「すっかり定番メニューだな」

たける「千鶴姉ちゃーん! 在庫の補充してきたよ!」

千鶴「ご苦労様」

「こっちのビールまだー?」

栄子「ただいまー!」

休憩時間

栄子「…あーっ。疲れた」

千鶴「今日作ったかき氷、全部溶かしたらきっと湖ができるわ」

たける「すげー!」

栄子「いやいや。無理無理」

栄子「…」

栄子「姉貴」

千鶴「ん?」

栄子「うち、なんでイカ墨スパゲッティ始めたんだっけ」

千鶴「…」

千鶴「忘れちゃった」

たける「えー? 大丈夫二人とも」

栄子「うるさい」

栄子「……」

栄子「何だか…」

栄子「海はこんなに賑やかなのに。なぜか静かな気がする」

栄子「……あのさ」

栄子「本当に何となくだけど。このイカ墨スパゲッティ始めた理由って、凄い大事なものな気がするんだ」

千鶴「……そうね。何でかしらね」

栄子「だからさ。探そう。理由」

千鶴「私宿題残ってるの」

栄子「宿題なんていつでもできる! けどイカ墨スパゲッティは今じゃないと駄目な気がするんだ!」

千鶴「逆じゃない?」

たける「じゃあついでに僕にもイカ墨スパゲッティの作り方教えて」

栄子「オッケー」

千鶴「…休憩中なのに。熱心ね」

千鶴「でも。私も少し考えようかな」

ザザー…



海が鳴っていた。 

夜は暗い。

けれど、明るい夜。

海の家れもん。

波風を感じて、静かに建つ。

れもんは待っている。

れもんは話さない。

ただ、待つ。

木のように。

強い風が吹いた。

何かがやってくる。

海辺に涼む栄子と千鶴は、髪をなびかせてその風を受け止める。

波が、引いた。



~夜の海、いかの娘~

終劇。



ーーーー監督 宮崎駿

ーーーー2015年8月1日公開

これで完結です
もうなんて言うか間違えまくりですみません
沢山のレスありがとうございました。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom