キタキタオヤジ「北北中学出身、アドバーグ・エルドル」キリッ  キョン「!?」 (461)

「この中に、キタキタ踊りに興味がある人がいたら私のところにきなされー!」


流石に振り向いたね。

半裸で腰ミノ一丁、丸坊主の男。

禿げ上がった頭がキラキラと照明を反射してやけに眩しかったのを覚えている。とんでもないオヤジがそこにいた。

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オヤジは周りの反応を確かめるかの如く、まるで鷹のような鋭い目付きでゆっくり教室中を見回してから、「ふむ」と一言だけ呟いて着席した。

「どうやら、このクラスには照れ屋が多いようですな」なんてことを小声で言っていたがまさか冗談だよな?

おそらく全員の頭の中に疑問符が浮かんでいたと思う「あれって制服?」

その後、後ろの席の女が「この中に宇宙人、未来人」とかうんたらかんたら言っていたが、多分、誰も聞いちゃいなかった。今、クラス中の関心と視線は一人のオヤジに注がれていて、「あの人、何年留年してるんだろう……」とかそんなヒソヒソ話で一杯だったからな。

やがて担任の岡部が「あー、涼宮……もう座っていいぞ」と言い出したことでさっきからずっと立っていた女は何故か地団駄を踏みつけながら着席した。

俺は未だに振り返ったままオヤジを凝視していたから、どんな表情だったかまでは見えなかったけどさ。

それに気が付いたのかオヤジがニカッとこちらに笑いかけてきたので、慌てて俺は前を向いて知らん顔を装ったが、最早手遅れだったように思う。



こうして俺たちは知り合っちまった。


しみじみと思う。過去に戻ってやり直したい、と。


このように一瞬にしてクラス全員のハートをいろんな意味でキャッチしたキタキタオヤジだが、翌日以降しばらくは割とおとなしく一見無害なオヤジを演じていた。

嵐の前の静けさ、という言葉の意味が今の俺にはよくわかる。

意味不明な自己紹介から数日後、忘れもしない、朝のホームルームが始まる前だ。何を思ったのか、オヤジは俺に突然話しかけてきた。

もちろん話題はあのことしかあるまい。

「キョン殿」

何で妹しか知らないアダ名をお前が知ってるんだ。

「私の自己紹介を覚えておいでですかな?」

「知らん」

腕組みをして口をへの字で結びながら、俺はオヤジと可能な限り目を合わさないようにして答えた。

オヤジは空気を読めないのか、お構いなしに俺の視線の先へと移動する。

「実は私、こう見えてキタキタ踊りの唯一の踊り手でしてなー」

「知らん。話しかけるな」

「キョン殿はキタキタ踊りには興味はありませんかな?」

「知らん。話しかけるな。マジで」

思わず「すみません」と謝ってしまいそうになるくらいの冷徹な口調と視線だったはずだが、オヤジは意に介した様子は全くなかった。

「キタキタ踊りは実に素晴らしい踊りでしてなー。神を祀るための神聖な踊りなのですぞ。この踊りを踊ると福を呼ぶと伝えられておりましてな」

「知らん。頼むからもう話しかけるな。やめてくれ」

「そして、私はここだけの話、この世界の人間ではないのです。いわゆる異世界人でしてな」

声をひそめてニマリと笑ってみせるオヤジ。見た目からしてわかっていたが、こいつ頭がおかしい。誰か助けてくれ。

この時、担任の岡部が教室にやって来たことで俺はどうにか救われた。

オヤジが残念そうに自分の席へと戻っていく。

そのことでほっと一息ついていたら、不意にこちらに視線を寄越していたかなり可愛げな、だがきつい顔をした女と目が合った。そいつは何か言いたげにこちらを見ていたが、結局何も言わずに自分の席へとついた。

一体、何だったんだろうな。

なんにしろこの時の俺は危機を回避出来たことで心の底から安堵していて、そんな名前も知らないようなクラスメイトのことなんかすぐに忘れてしまっていた。それぐらいあのオヤジのインパクトは強かった。

とまあ、おそらくファースト・コンタクトとしては最悪の部類に入る会話のおかげで、流石にあのオヤジも俺に関わらない方がいいのではないかと思い始めたんだろう、そのまま一週間が経過した。

オヤジはその間、通訳もつけずに日本に宣教にやって来たフランシスコ・ザビエルのように誰彼構わず話しかけてキタキタ踊りの勧誘を行っていたが、文化と常識の壁は大きく、当然、誰にも相手をされることがなかった。

だが、ごくたまに無謀と勇気をフル動員させる輩もいたりして、どうにか会話をしようと試みていたが、いかんせん相手が相手だ。

「その……ど、どうしてそんな格好をしてるの?」

「これがキタキタ踊りの正装ですからな」

ハッハッハと笑うキタキタオヤジ。そんなことを訊いているわけじゃない。

「でも、私たちはこうして学校に来ているわけだし、制服を着ないといけないんじゃ……」

「おや、もしかしてキタキタ踊りに興味がおありなのですかな?」

「違う違う違う違う違う違う!」

「いやいや、隠す必要などありませんぞー。良ければ早速、着替えを用意致しますからなー」

「いやあー!!」

とまあ、こんな感じだ。

普通に応答するならまだしも、常にキタキタ踊りの後継者の話へと持っていくので、全員が逃げ出すことになる。

「怖かったよ怖かったよ」

可哀想に。女子グループの群れの中に戻って半泣き状態だ。

よしよし。お前は一人でゾーマの城まで行ったカンダタなみによくやった方だ。出来ることならそんな優しい言葉をかけて肩の一つでも叩いてやりたくなったな。

ようやくハルヒは俺の襟首から手を離した。しかし、オヤジはまだ机の上で踊っていた。クラスメイトは我関せず、というか関わり合いにならないように全員が見てみない振りをしていて、大学出たての女教師は何事もなかったかのように授業を進めていた。

何かおかしい。

ともかくハルヒは大人しく着席し、女教師は相変わらずチョーク片手に板書をしていて、オヤジはノッてきたのか後ろから腰のキレがレベルアップした音が聞こえ……。

新しいクラブを作る?

ふむ。

まさか、俺にも一枚噛めと言うんじゃないだろうな。

俺の高校生活はどうなってしまうんだろう。とてつもなく嫌な予感が俺の心臓を鷲掴みにしていた。

結果から言おう。そのまさかだった。

次の休み時間、ハルヒは俺の手を強引に引っ張って屋上へと出るドアの前まで連れ込むと、そこで新クラブ創設の手伝いをさせることを俺の承諾なしに決めた。断ったら撲殺されそうな勢いで。

ハルヒってこんな暴走機関車のような奴だったのか?

というか、一体どんなクラブを作ろうって言うんだ。

そして、その日の学校終わりまでには部室も見つけ出したようだ。

「貸してくれるっていうクラブが一つだけあったのよ。今からそこ行くわよ」

よくそんな奇特なクラブがあったもんだ。そう口を開ける前に、ハルヒは俺のブレザーの袖を万力のようなパワーで握りしめ拉致同然に教室から引きずり出した。鞄を教室に置き去りにしないようにするのが精一杯だった。

「ここが部室」

文芸部と書かれたプレートが貼り付けられているドア。そこへノックもせずにハルヒは遠慮なく入っていき、中でピーヒャララーと踊っているオヤジを発見してすぐさまドアを閉じた。

「ちょっと、どういうことよ! 何であのオヤジがいるの!」

俺のネクタイをつかみあげガクガクと揺らす。俺の責任か? ここを見つけたのはハルヒだろ。

そうやってハルヒが傍若無人で完全にとばっちりな怒りを俺にぶつけていたら、不意にドアが向こうから開いた。

「入って」

と、中から小さな声。見ると眼鏡をかけた髪の短い少女がドアノブをつかみながら立っていた。「有希」とハルヒは言い、今度はその少女に文句を垂れ流す。

「なんなのあのオヤジは! どういうこと、何でここにいるのよ!」

「アドバーグ・エルドルはこの部の部員」

それだけ答え、有希と呼ばれた少女は再び抑揚のない平坦な声で言う。聞いた三秒後にはすっかり忘れてしまいそうなそんな単調な声だ。

「中へ。そこで説明する」

俺は帰りたかったが、ハルヒが説明を求めるためにずかずかと奥に入っていき、そしてハルヒは俺の手をつかんでいたので逃げられなかった。歯医者に無理矢理連れていかれる時の子供ってのはこんな気分なんだろうか? 生まれてこの方そんな経験が一度もない俺には実際のところは解らんのだが。

部室の中に入ってぐるっと見回すと思いのほか広かった。そして、その中にいるのは、男一人、女二人、オヤジ一人。しかもそいつは腰ミノ一丁で奇怪な踊りを踊っている。

俺を家に帰してくれ。お願いします。

「すまん、俺、大事な用事を思い出し」

「ちょっと有希! あのオヤジを追い出してよ! 邪魔よ!」

「……!?」

ガーン、という擬音が聞こえたような気がしたな。邪魔と言われてショックを受けるようなメンタルの持ち主だとは到底思えないんだが。

「それは出来ない。彼はこの部の一員」

「!?」

今度はハルヒだ。「何で出来ないのよ! 大体あのオヤジがいるなんて、そんな話あたし聞いてないわよ!」と詰め寄っている。

一方でオヤジは感動したように涙を流していた。「有希殿ー! 一生ついていきますぞー!」

ストーカーもいいとこだ。警察に通報したら風貌も相まって問答無用で捕まるだろう。

「長門有希」

貧乳ペチャパイの少女は俺に対してそう名乗った。ずいぶんとポエミィな名前だ。

それから視線を、眉を吊り上げていたハルヒへと動かし、

「アドバーグ・エルドルは踊る場所を探していた」

なんとなくそれは察していたけどな。

「彼は色々なところを回ってここへとたどり着いた。あなたが来たのはその後」

つまり、早いもの順にハルヒは負けたんだな。最初にオヤジが来て部室を貸して欲しいとのたまい、その後にまったく同じことをハルヒが。そういえば、ここしばらくオヤジが各クラブから追い出され
る様子を見ていなかったが、それはここを見つけたからか。

「そう」

長門は微動だにせず唇だけを動かして答えた。無感動のお手本みたいな表情だ。というか、お前は平気なのか、あのぼうぼうのスネ毛を見せつけられて。

俺は声をひそめて長門に尋ねた。

「よくあんなオヤジに部室を貸す気になったな」

「貸したのではなく半分譲渡した」

譲渡? はて? どういうことだ。

「ここの半分は確かに文芸部。だけどもう半分はKOK団」

長門は宣託を受けたばかりのジャンヌ・ダルクのように告げた。

「キタキタ踊りを、大いに広める為の、キタキタオヤジの団」

略してKOK団。百回ぐらいノックアウトされそうな名前だ。

そこ、笑っていいぞ。

俺は笑う前にひきつったけどな。見ると横のハルヒもひきつっていた。踊っていたのはオヤジだけでこれは通常運転だ。長門は全部の説明が終わったとばかりに手元の本を開いて読み出すし、なんかもうグダグダの状態だった。

「じゃ、じゃあ何よ、あのオヤジが先に来たからあいつを追い出せないって言うの!」

納得がいかないとばかりに、ハルヒが長門に食いかかった。よくよく考えたらこれほど自分勝手な言いようはないだろうなと思いながらも、俺は無関係を装って窓の外の青空を見つめていた。とてもいい天気だ。

「ここはあたしが見つけたんだから、あたしの物よ! ここでの全権はあたしにあるんだから、有希、追い出してよ!」

ハルヒはジャイアン理論を展開して懸命に抗議したが、長門は顔を上げメガネを軽く直しながら、

「それは出来ない」

「……!」

「嫌ならアドバーグ・エルドルに直談判する。わたしは一切干渉しない」

ふと視線を横に向けると、オヤジが無言で二着の腰ミノを持って立っていた。それ以上は何も言わない。意図は明らかだったので、俺はすぐさま見なかったふりをした。冗談じゃない、巻き込まれて勝手に団員にされるのはごめんだ。

「もういい!」

不意にバタンッと激しくドアの閉まる音。見るとハルヒの姿がどこにもない。おい、待てハルヒ。俺を置いていくな。慌てて鞄を引っ提げて俺もその後に続く。

「ああ! お待ちくだされー! キョン殿ー、ハルヒ殿ー!」

後ろからそんな声が聞こえてきたので、俺は更に加速した。脇目もふらずに駆け出す、とはまさにこんな状態のことを指すんだろうな。羽根より軽くADSLより速いスピードで俺とハルヒは一目散に校舎から飛び出していった。

今日はここで終わり

河川敷。迫り来るオヤジの魔の手からどうにか逃げ切った俺とハルヒは何故かそこを二人で歩いていた。

逃げる時に特に何も考えず、というか考える余裕もなく、ただずっとハルヒの背中を追って走っていたのが原因だろう。明日あたり、女子高生を必死の形相で追いかけ回していた不審者がいたと噂が立っていたらそれは多分俺のことで、警察沙汰にならないかと少し心配している。

その架空の被害者であるハルヒはと言えば、俺のすぐ前を無言のまま歩いていた。その肩がどことなく落ちているのは、多分俺の気のせいじゃないだろうな。

「なあ、涼宮」

「…………」

返事がない。ただの屍のようだ。

そんな冗談は置いとくにしても。

少しハルヒのことが可哀想に思えたのは事実だった。意気揚々と新クラブを作ろうとしていたのに、オヤジがあらわれた、の一言で終わってしまったのだから。始まりの町を出る前に魔王にエンカウントしてしまった勇者みたいなもんだろう。どんなクラブを作るつもりだったのかは知らないが、嬉しそうにハルヒが桜全開の笑みを浮かべていた頃が遠い過去のように思えた。

「まあ……なんだ。そんなに気落ちするな」

俺はもう一度ハルヒに声をかけた。無理矢理拉致されただけの俺が実行犯であり首謀者であるハルヒを慰めるというのも妙な話に思えたが、このまま放置しておくのはあまりに不憫に思えたからさ。

ついでに言えば、これを機に宇宙人だのなんだの言い出すのは終わりにして、まともな女子高生になってくれればという思いが全くなかったというわけでもない。

ハルヒぐらいの容姿があれば少なくとも恋愛には困らないだろうし、数は少ないかもしれないがきっと友達だって出来るだろう。ごく普通の常識的な生活だってわりかし楽しいもんだと俺は思うんだ。普通に勉強して普通に恋愛して普通に遊んでも、それに満足している人間だって現実的にはかなりいるわけだし、お前も不思議探索とかはすっぱり諦めてそういった一般的なことに楽しみを見いだしてみたらどうだ? 悪い提案じゃないと俺は思うんだけどな。

「…………」

ただまあ、予想通りというかハルヒはやっぱり無言で、俺のかけた長い言葉も、どこからか聞こえてきたクッサーーーー!という叫びのせいで半分以上がかき消されてしまった。なんだろう、何だか自分が無性に哀れな存在に思えて泣きたくなった。

「……どうしてよ」

「?」

俺がやけに滲んでいる夕陽を見上げていたら、不意にポツリとハルヒが呟いた。かなり小さな声だったので俺は全神経を耳に集中させた。

「何であいつは毎回私の邪魔をするの」

ハルヒはそう言っていた。

何だか哀愁漂う口調で。

「自己紹介の時も仮入部の時も今回の新クラブの時も全部そう。毎回あたしの先を行って毎回あたしがしたいことを横取りしていく。こんなのおかしいじゃない。有り得ないわよ」

ハルヒの声は少し震えているように俺には聞こえた。

「あたしは高校生になれば何か変わるんじゃないかと思ってた。楽しいことが見つかるんじゃないかと心のどこかで思ってたのよ。でも逆に悪化するばっかりだった。もう嫌。もううんざり。こんなことばかりならもう何もしたくない」

「…………」

そう言い残してハルヒは去っていった。その後を追おうかとも思ったが、ハルヒの背中が「ついてくんな」と無言で言っているような気がして、結局、追えなかった。

なんて言葉をかけりゃいいのかもわからなかったしな。

一人ぼんやりと夕暮れ時の河川敷で頭をかきながら、誰もいない空間を見つめている俺は結構な間抜けに見えたと思う。自分でもそう思った。

「帰るか……」

なんとはなしに呟いて、俺はくるりときびすを返した。ついさっきの、こんなことばかりならもう何もしたくないというハルヒの言葉がやけに俺の頭の中に残っていた。

やれやれ。

明日までに何か気のきいた慰め文句でも考えておくとするか。多少だったらあいつのわがままに付き合ってやってもいい。このままだと俺まで憂鬱気味になりそうだからな。

そんなことを思いながら自宅へとだらだらとした足取りで帰った。普通だろ?

普通じゃなかったのは、俺の家の前で長門有希がキタキタ踊りを一心不乱に踊っていたことだ。

「何してるんだ……?」

つとめて平静な口調でそう尋ねたが、果たして本当に平静だったかと言えば、そうではなかったとこれははっきり断言出来る。この世の中にあのオヤジ以外でキタキタ踊りをダンシングする人間がいるとは夢にも思っていなかった。

俺はベタなことにも自分の頬をつねってみる。痛い。どうやら現実のようだ。じゃあこの方は何をされているんでせう?

「あなたの帰りを待っていた」

そうか。

夜分ご苦労なことだったな。それじゃ。

「待って」

いいや、待たない。というか俺の服を掴むな、離せ。俺は今から夕飯を食べなきゃいけないんだ。俺を家に帰らせてくれ。

俺は抵抗を試みたが、長門はこの小さな体のどこにそんな腕力があるのかと思うぐらいの怪力で俺の手を掴み、完全に拉致状態のまま俺を自宅の門の前から引きずり出してとことこと勝手に歩き出した。

どいつもこいつも何だっていうんだ。俺を拉致するのが流行になっているのか。

それともまさか俺をラグビーボールか何かだと勘違いしてるんじゃなかろうな。俺を敵陣にトライしても間違いなく点数は入らないぞ。

「知っている。あなたは人間」

だとしたら人権ってものを考慮してもらいたいんだが。一体俺をこれからどこへ連れ込もうっていうんだ。まさか、KOK団とやらへ入れとか言うんじゃなかろうな。

「大丈夫。勧誘ではない」

「じゃあ、何だってんだ」

「話がある。キタキタ踊りに関する重大な話」

やっぱり勧誘じゃないか。

陽がすっかり沈んで街灯だけとなった夜の街を一見仲の良い高校生カップルのような姿で強制連行されながら、俺は今日無事に帰れるんだろうか、いっそのこと恥も外聞も捨てて大声で助けを呼ぼうかなんてそんなことを真剣に考えていたら、不意に長門の足が止まった。

「ここ」

そこは駅からほど近い分譲マンションだった。どうやら目的地に着いてしまったらしい。

「どこだ、ここは」

玄関口のロックをテンキーのパスワードで解除している長門に尋ねる。返事はほとんど期待していなかったが、意外なことにも長門は口を開いた。

「わたしの家」

長門は無表情のままマンションのエレベーターへと向かって歩きだしたので、相変わらず手をしっかりと握られていた俺は思わずこけそうになった。何で俺が長門の家に連れ込まれなければならないのだろう。

「誰もいないから」

俺の心臓がどきりと跳ねた。待て待てそれはどういう意味でせう。

しっかりと握られていた長門の手はほんのり温かく、まさかそんなことあるわけねーでもちょっとは期待していいのかこれは、みたいな最小公約数的な妙な高鳴りを覚えていたら、待っていたエレベーターのドアが開きその中でキタキタオヤジが踊っているのを目撃して俺は再び必死の抵抗を試みた。

頭の中でどこからかジャーン、ジャーンという鐘の音が鳴り響いた気がしたな。しまった、これは孔明の罠か。助けてくれ。

「おやおや、これはキョン殿。それに長門殿。ほほう、お二人で手を繋いで、なんだか青春しておられますなー」

オヤジははっはっはと笑いながら嬉しそうに話しかけてきた。当然、俺は無視して逃げ出すつもりだったが、長門はしっかりと俺の手を握ったまま離さずおまけにエレベーターの中に乗り込んで閉じるのボタンを押したので俺は完全に捕らえられた敵将状態となった。

エレベーターが絶望を与えるかのようにゆっくりと上昇していく。

というかオヤジ、お前降りないのか? 一体、何のために乗っていたんだ。

俺の疑問を他所に長門は黙ったまま、ただ数字盤を凝視していた。ここぞとばかりにオヤジは踊り出しエレベーターはカオスの嵐に包まれた。

この間に俺が出来たことと言えば、目を閉じてこの拷問的な時間が早く終わるようにと神に祈るだけが精一杯だった。自分の無力さがとことん恨めしい。

目的地である七階に着くと長門はまた無言でとっとこと歩き出し、俺は再三に渡って抵抗を試みたが長門の手には強力な瞬間接着剤でも塗りたくられているのか一向に外れる気配がなかった。続いて後ろからオヤジが「おやおや、若いというのはいいですなあ」とか呑気な台詞を吐きながらついてきやがったので殴り飛ばしたかったがそれも出来ない。

内心ではこれから監禁され二人がかりで洗脳に近いことをされるんじゃないかと冷や汗をだらだら垂らしていた俺だったが、幸いそんなことはなかった。

途中でオヤジが「では私はこれで。お二人とも、ごゆっくりですぞ」とニヤリと意味深な笑みを見せて707号室の中へと鍵を開けて入っていったからだ。

というか、あいつ。本当にエレベーターの中で何をしていたんだ。まさか逃げられない空間の中でキタキタ踊りを見せつけようとずっと待ち構えていたんじゃないだろうな。

そもそも、あいつに家というものがあることにも俺は驚いていた。常識的に考えれば確かにオヤジにも家庭はあるんだろうが、両親の顔が全く想像つかない。一度ぐらいは双眼鏡を使って遠い安全なところから見てみたい気もするし、今すぐ説教してやりたい気分でもある。あなたたちはどういう教育方針であいつを育てたんですか、と。

不意にガチャリとドアが開く音。

見ると長門がその隣の708号室へと無遠慮に入っていった。おい。ひょっとしてここが長門の家なのか? オヤジの家のすぐ隣とはどういうことだ。

そう尋ねる暇もなく、強制的に俺は中へと連れ込まれた。ヘルプミー。

連れ込まれた部屋の中にはコタツ机が一つ置いてあるだけで他には何もない。なんと、カーテンすらかかってなかった。

「座って」

そう言われ渋々ながらも俺は従った。ここまで来てしまった以上、どうしようもない。腹をくくるしかないだろう。

それにしても、今日初めて出会った可愛い女の子に手を握られたまま誰もいない家に通されるというのは、字面だけを見るならとても甘美な響きなのだが、なのに何で俺は薬物実験前のハツカネズミのようにこんなに怯えているんだろうね。

「で……何の用だ」

「話がある。とても重大な話」

前の台詞にとてもが追加されたみたいだ。長門はようやくそこで俺から手を離し、

「アドバーグ・エルドルのこと」

移動して俺の正面に綺麗な正座でちょこんと座る。

「そして、わたしのこと」

それからついでのように、

「涼宮ハルヒのことも」

どうやらろくな話じゃなさそうだ。それだけはとてつもなく理解出来た。

「あなたに教えておく」

長門は極めて真面目な顔をしていた。

「あなたの立ち位置はとても重要」

「…………」

「だから教える」

どうにかならないのか、この話し方。

「……一体、何を教えてくれるんだ?」

ここで長門は出会って以来、初めて見る表情を浮かべた。困ったような躊躇してるような、どちらにせよ注意深く見てないと解らない、無表情からミリ単位で変異したわずかな感情の起伏。

「うまく言語化できない可能性がある。情報の伝達に齟齬が発生するかもしれない。でも、聞いて」

そして長門は話を始めた。

「アドバーグ・エルドルは普通の人間ではない」

見れば解る。

「アドバーグ・エルドルはわたしたちの神」

俺は吹き出した。

「彼のキタキタ踊りはこの銀河を統括する情報統合思念体に絶大な衝撃と感銘を与えた」

「情報のみで人間的な感情を有しない情報統合思念体に初めて『感動』という素晴らしい感情を与えた」

「完全な無から有を生み出すのは人間には不可能。だから、それを出来る存在を人間は『神』とカテゴライズする」

「だから、キタキタオヤジはわたしたちの神」

さて、おいとまさせてもらうか。俺は早々に立ち上がった。

しかしながら、長門は帰ろうとしてきびすを返した俺の足を素早く掴みあげると、柔道の出足払いの要領でぐいっと横へ引いた。おかげで下の階の住人に迷惑がかかりそうな感じで俺は思いっきり尻餅をついた。めっちゃ痛い。

「何するんだ!」

という抗議の声を無視して長門は、

「話を聞いて。最後まで」

言葉こそ丁寧形だったものの、やり方はかなり強制的でおまけに謎の真剣さだった。俺をじっと見据えるその瞳にははっきりとした意志がこもっている。

「聞くまで帰さない」と暗に言われた気がしたな。オヤジといいハルヒといい、人の意思を尊重しない奴が俺の周りには多すぎないか。

今更抵抗するのも無益だと悟っていた俺は仕方なくその場であぐらを組み直し、長門に話の続きを促した。おかげで俺は延々と続く長門の電波な話をひたすら右から左へ受け流すこととなった。

情報統合思念体? 対有機生命体なんちゃらかんちゃらインターフェース? キタキタオヤジが神? そしてハルヒがなんだかよくわからん存在っぽい?

知ったこっちゃねー。

頼むから厨二病的な妄想からはいい加減卒業してくれ。よしんばそれが無理だったとしても俺みたいな一般人まで設定に巻き込むのはやめてくれないか。

だいたい何で俺は今日初めて会った女からそんな話をされているのか。しかも誰もいない家まで連れていかれてだ。年頃の女のたしなみはどこへ行った。俺が紳士でなかったら今頃何をしているか解ったもんじゃないぞ。

美少女だけになんともありえそうで危険な話である。せめて社会の常識というか、それ以前に貞操観念ぐらいは身につけるべきであろう。後でそのことをさりげなく注意しておいた方が良さそうに思う。

そんなことを思案して、あわよくばそれをきっかけに長門とのキャッキャウフフ的な日常に突入出来ないかと俺が妄想していたら、突然隣の部屋から、ドーン!というギャグマンガみたいな爆発音が。

「おい、何だ今の! 何があった!」

慌てて立ち上がる俺。しかし、長門は微動だにせず、座ったままだった。

「ただのガス爆発。このマンションではよくあること」

とんだ欠陥住宅じゃないか。冗談じゃない。大体、隣の部屋ってあのオヤジが住んでいるんじゃないのか? お前らの神の危機を放っておいてもいいのか?

「問題ない。へいき」

長門はテレビのニュースキャスターのように無表情に応じると、

「これまでも、何度か爆発事故は観測されている。いつものこと」

「…………」

どこまで冗談でどこまで本気なんだろうか。長門の表情からだとそれがさっぱり(ハァー、さっぱりさっぱり)だ。

「情報統合思念体はキタキタオヤジを守るためにわたしを送り込んだ」

長門はまだ淡々と話を続けていた。言動と行動の不一致が甚だしいことこの上ない。だったら助けてやれよ。

とりあえずいくらあのオヤジと言えど流石にこのまま見過ごすわけにもいかず、まずは警察か消防に連絡をと思って俺は携帯を取りだし『通話不能、おならぷう』という生まれて初めて見る液晶画面を眺めることとなった。なんだ、これ。

「キタキタオヤジの存在はかなり特異。だから保護が必要だった」

長門。呑気に話してないで、お前の家の電話を借り――またも隣からドーン!という爆発音。

「誰も住んでいないマンションを与え、起こした事件は情報操作をすることで上手くやり過ごした。闇の総裁の協力もあり何年かはそれで上手くいっていた」ドーン!

「だけど、今年になってキタキタオヤジは涼宮ハルヒと出会ってしまった」ドーン!

「涼宮ハルヒはキタキタオヤジの存在を害と認識し始めた。無意識的に彼が消される可能性は極めて高い。それは情報統合思念体にとって神殺しと同じ行為」ドーン!

「出来ればもう少し時間をかけてあなたと接触するつもりだった。でも、今日の夕方に起きた情報爆発のせいで時間がなくなった」ドーン!

「このままだと神殺しはいずれ遂行される可能性がある。だから、わたしたちはあなたにお願いすることに決めた」ドーン!

「涼宮ハルヒを抑制してほしい。これは情報統合思念体の総意」ドーン!

つうか、あのオヤジもう死んでないか……? 完全に手遅れに思えるんだが、俺には。

普通そうだよな? ……だよな?

それからも長門の電波話は延々と続き、ついでにキタキタ踊りがどれだけ素晴らしい踊りであるかを小一時間ほど熱弁され、更に小一時間ばかり目の前でキタキタ踊りを見せつけられてからようやく俺は解放された。

いや、長門のキタキタ踊りは可愛かったけどさ。

制服のスカートがひらひらと揺れて下着がギリギリ見えそうで見えないところが更に良かった。今度は是非メイドコスでお願いしたい。

「涼宮ハルヒは危険な存在。気をつけて」

帰り際、長門はそう忠告した。そして、詫びのつもりか賄賂のつもりかは知らないが、俺に花の髪飾りを手渡した。

「使って。役に立つはず」

こんな物をもらってもな。俺に女装趣味があるとでも思っているのだろうか。本当にこいつの考えていることはわけが解らん。

手元の花の髪飾りをどうしたものかと眺めている俺をおいてけぼりに、ドアはそっと閉められた。いやはや(これって死語か?)どうしたものか。

横に目を向けると、隣の707号室はドアがひしゃげているわけでもなく、周りにやじ馬がいるわけでもなかった。いくら耳をすませてもサイレンの音なんか聞こえてきやしない。

実は夢だったのだろうか? いわゆる明晰夢というやつだ。そして、本当の俺はベッドで心地よく眠っていて、しばらく経てば目を覚ますのだろうか? この混沌とした有り様は夢によく似ているし、その可能性もなくはないんだが。

だといいんだけどさ。

もらった髪飾りを適当に鞄の中に放り込むと、俺はエレベーターへと足を進めた。すると、また背後からドーン!という爆発音。

それと共に、

『ぬおおおぉっ!?』

というオヤジの大声。

『ふむ……。最近の電子レンジはよく爆発するものですなあ。パンが焦げてしまいましたぞ』

なんかもう精神的に疲れきっていた俺は振り返ることなく、そのまま足早にマンションを後にした。ハルヒじゃないが、もう色々とうんざりだった。

今日はここで終わり

良くはない、と自己反問した俺は、相手がハルヒだということもあって出来る限りオブラートにチンコとケツという単語を使わずにそのことを説明したのだが、言い方が穏やかすぎたのかもしれない、完全にどこ吹く風だった。

「確かにちょっとアレだけど、謎の転校生だし、この際文句は言わないよ。さっき古泉君がやってたことだって軽く魔が差しただけでしょうしね。何より、謎を自分で確かめようとする姿勢が実にいいわ。それに転校生だし」

何を評価したんだろう、一体。ハルヒは転校生を世界を救う勇者か何かだと勘違いしてやしないだろうな。そいつが妙な箱に手を突っ込んでも、出てくるのはきっとジャンケンぐらいなもので、剣がビローンと飛び出てくるなんてことは絶対に有り得ないと思うんだが。

「ああ、そうだ。忘れてたわ」

と、ハルヒ。

「あたしは涼宮ハルヒ。こっちはキョン」

あだ名で紹介するな。

「それと、あと一人連れて来なくちゃ。我が部のマスコット担当として、めちゃくちゃ可愛い子をスカウトしといたのよ。ちょっと待ってなさい」

そして、足首にブースターでもつけてるかのようなスタートダッシュで飛び出していった。

おかげで部室に残されたのは(ここを部室と言っていいのならだが)爽やかなスマイルを浮かべてる変態野郎と間抜け面が一人、俺のことだ。どうすりゃいい。

「参りましたね」

俺のセリフだ、バカ野郎。

「古泉とか言ったか?」

声をかけると「何でしょう?」という剣呑な返事。どうにもまだハルヒの危険性というものを理解していないようなので、俺は親切心から忠告しておいた。

「言っておくが、あいつが勧めているクラブは、まだ出来てもいないし、何を目的とするクラブなのかも謎なんだぞ。悪いことは言わないから巻き込まれない内に逃げた方がいい」

多分、ハルヒの頭の中では、勝手に古泉も部員の一員だともう決めつけているに違いない。だから、このままとんずらするのがベストだ。幸いお前はハルヒとクラスが違うし、あいつも追いかけてまで勧誘したりはしないだろうからな、と俺はこんこんと説いてやったのだが、あろうことか古泉は、

「構いませんよ。というより、すでにそうならざるを得ない状況になっています。事態はあなたが考えているよりもかなり深刻なんですよ。こちらからアプローチする必要が出るくらいにまでね」

意味がわからん。人の話を聞いてたのか?

「ええ、もちろんですとも」

古泉はウニョラー、トッピロキーと叫んだ後、

「その内、あなたにもお話する時が来るでしょう。今はその時ではないのでまた今度」

何で俺はこの場所にいるんだろうかと、真剣に思わざるを得なかったな。こいつは色んな意味で危ない。

かくして、俺が「たたかう」か「逃げる」かのどちらかを選択しようと考えていたら、急にドアが蹴飛ばされたように開いた。

「へい、お待ち! ちょっと捕まえるのに手間取っちゃってね!」

片手を頭の上でかざしてハルヒが登場した。後ろに回されたもう一方の手が別の人間の腕をつかんでいて、どう見ても無理矢理連れてこられたと思しきその人物共々、ハルヒはズカズカ部屋に入ってなぜかドアに錠を施した。

ガチャリ、というその音に、不安げに震えた身体の持ち主は、おっぱいぽよんぽよんのすんげー美少女だった。プチプチー。

「なんなんですかー?」

その美少女は言った。気の毒なことにマジ泣き状態だ。

「ここどこですか、チンコの修行場とかどういうことなんですか、かか鍵を閉めてわたし今から何をされるんですかー!」

「黙りなさい」

ハルヒの押し殺した声に少女はビクッとして固まった。まるで監禁ものの三流AVみたいだ。

とか、言ってる場合じゃないか。

「おい、ハルヒ。この人、完全に誤解してるじゃないか。このままだと警察に通報されるぞ」

「何が?」

キョトンとした顔を見せるハルヒ。仕方がないので再び俺はチンコという言葉を出来るだけオブラートに包んで事の重大性をハルヒに説明してやった。一種の羞恥プレイのようで少しだけ興奮したことは内緒だ。

「何を言ってるのよ。あたしはみくるちゃんを犯すつもりなんかないわよ。あんたとは違うんだから」

「ひぃっ」

「俺にだってない!」

「もちろん僕にもありませんよ。してみたいとは思いますが」

お前は少し黙ってろ、古泉。話がややこしくなる。あといい加減、ケツに挟んでるパンを外せ。

と、まあ、すったもんだの末に、どうにか彼女の誤解を解き、そして再びすったもんだの末に、彼女――朝比奈みくるさんは書道部を辞めて、ハルヒの新クラブに入部する運びとなった。

どうしてこうなったんだろうか。

疑問が残るが、その場のノリというものだろう。深く考えたら負けな気がする。

「よし、これであっという間に部員が五人になったわね。ついにあたしの新クラブがベールを脱ぐ時が来たわよ」

ハルヒは力強く宣言した。ちょっと待て、五人?

「そうよ。昨日、文芸部にいた有希って子がいたでしょ。あの子があたしの新クラブに入りたいって今日言ってきたのよ。もちろんオヤジは抜きでね。だから、有希も入れて五人よ」

長門が?

一体、どういうことなんだろうか?

あいつはハルヒを敵視してたと思うんだが。いや、あれは俺の夢の中での話か? だけど、長門からもらった髪飾りは確かに今ハルヒがつけているし。はて?

軽く混乱をしているところに、コンコンとドアをノックする音。

「噂をすればなんとやらね。多分、有希よ」

ハルヒが手早く鍵を外してドアを開けると、その通り、昨日とまったく同じ無表情さで長門が突っ立っていた。

「有希、遅いわよ」

と、ハルヒ。それからやや警戒気味に、

「あのオヤジは来てないでしょうね?」

「いない。文芸部で鏡を見ながらポージングしている」

「ならいいけど」

レジスタンスがアジトに仲間を迎え入れる時のような慎重さでハルヒは素早く周りを見渡し、一つうなずいてから再びドアを閉めて施錠した。昨日のことが余程尾を引いているらしい。警戒レベルをMAXにしているようだ。

「じゃあこれで晴れて五人揃ったので、このクラブの存在意義と活動目的について発表するわよ」

ハルヒはようやくオヤジの呪縛から逃れられたことに余程満足したのか、行儀悪くも机の上に乗って高らかに新クラブ創設に伴う所信表明演説を始めた。

この退屈でどうしようもない世の中を面白く変えていきましょう。世の中にはまだまだ不思議が一杯あるはずなので私たちはそれを探して見つけ出してとか、うんたらかんたらそんな話だ。

俺は正直、この場に立ってるだけでも億劫で今すぐ帰りたくて仕方がなかったのだが、ハルヒがあまりにも生き生きと演説をしているので、流石にここで帰るとか空気の読めないことは言えず、なんとはなしに他の三人の顔を眺めてみた。

長門はいつも通りの無表情。古泉も印刷されたかのような微笑を張りつけていてまったく代わり映えがない。朝比奈さんはと言えば、どことなく落ち着かないような表情を見せてはいたが、ハルヒの話を真剣に聞いている風である。

多分、この中で最も適当に話を聞いていたのは俺で、いや、当然だよな? 何でこんな話を真面目に聞かなきゃならんのだとそう思うのだが、他の面子を見てるとそれも言い出しにくい。本当にどうなってるんだろうね。

そして、最後の締めのつもりか、ハルヒは十分な間をためてから、新クラブの名称と具体的な活動内容とをついに明らかにした。

お知らせしよう。何の紆余曲折もなく単なるハルヒの思いつきにより、新しく発足したクラブの名を。

ヒッポロ系ニャポーン団。

意味がわからんがヒッポロ系ニャポーン団。

語呂も素晴らしく悪いがヒッポロ系ニャポーン団。

早口で言うと絶対噛むがヒッポロ系ニャポーン団、

今の俺のレベルではどうにも理解出来ない。

そうそう、ちなみに団の活動内容は「宇宙人や未来人や超能力者や異世界人を探し出して一緒に遊ぶこと」らしい。

それを聞いた時、俺は単に「やっぱりか」と思っただけだが、しかし残りの三人はそうもいかなかったようだ。

朝比奈さんは完全に硬化していたし、長門もほんのわずかだけ目を見開いていた。同じ厨二病同士でもこれには意表を突かれたようだ。この話をラノベにして角川書店にでも送れば大賞を取れるかもしれない。

最後に古泉だが、ウニョラーとかトッピロキーとか小声でぶつぶつ言っていたので俺は完全に放置した。こいつは厨二病どころの騒ぎじゃない。何か可哀想な病気を患っているに違いない。

「それじゃあ今日のところはこれで解散。明日から全員毎日ここ集合ね。みんな、一丸となってがんばっていきまっしょー」

ハルヒは最後まで御機嫌な表情を見せて帰っていった。思えば、あんな晴れ渡ったような笑顔を見せたのはこれが初めてかもしれない。

ハルヒがいなくなった後も古泉はキロキローとか言っていたし、何だか暴れ始めもした。心なしか顔が猫っぽくなっていたのは流石に俺の気のせいだろう。

「恐らく、彼は青とうがらしを以前に食べた。これはその影響」

こんな状況でも厨二がブレない長門。ある意味尊敬に値する。

「大変。じゃあ、早く大地の治療を行わないと」

と、どこからか大量の草を取りだしそれを古泉にかぶせ始める朝比奈さん。あなたもですか。

その横で長門は「はァァー……」とためを作った後、「ニャッポトナー」と何やら怪しげな儀式を行っているし、何の集団なんだ、これは。

付き合いきれず俺は草まみれにされている古泉を尻目にそっとドアを閉めた。こんな部活、二度と来るか。変人の集まりじゃないか。

今日はここまで

その翌日。当然、俺はチンコの修行場には行かなかった。

授業終わり、ハルヒが「来なかったら死刑だから」とか言っていたが、そんなあからさまのウソ脅しに屈する俺じゃない。死刑にでもなんにでもしてみろってんだ。

携帯電話の番号は訊かれてもいないからハルヒから呼び出しがかかってくることもないし、流石に住所を調べて家まで押し掛けるようなことは有り得ないだろう。

グッバイ、ハルヒ。危うくそっちの世界に少し引きずり込まれかけたが、昨日の一件で俺はこれから真っ当な高校生活を送ることに決めたんだ。もう巻き込まないでくれ。

家に帰る時、ハルヒの笑顔がやけに頭にちらついたが、しかし、俺にも許容できる範囲ってものがある。古泉のウニョラー化がまさにそれで、あれはゆうにファールラインを越えていた。

あいつだって、その内あの三人の持つ異常性(特に古泉の)に気付くはずだ。そうなるのも時間の問題だろうし、俺はそれまできっと襲いかかってくるであろう「どうして部活に来ないの!」というハルヒの小言やら文句やらにひたすら耐え抜けばいいだけの話だ。どうせ、そんなに日数のかかることじゃないだろうからな。

そう思っていた時期が俺にもありました。

ええ、そうですとも。ハルヒがきっと古泉や古泉や古泉の持つ残念な病気に気付いて、それと同時にふと我に返り厨二病を卒業してくれるんだと。

結果的には大間違いでしたけどね。

え? どうしてかって?

そりゃ決まってるでしょう。言うまでもなく想像出来るじゃないですか。

長門ですよ。長門有希。

俺は忘れていたんです、あいつの存在を。なんせ無口ですからね。

まさか、あんなことをしでかすなんて思いもしませんでしたよ。困ったもんですね、ははは。

ははは……。ははは…………。

はあ……。

ちくしょう……長門のやつ……。何てことをしやがるんだ。

『KOK団、及びヒッポロ系ニャポーン団の創設に伴うお知らせ』

そんな見出しの後に、ご丁寧にカラーで印刷されたチラシの活字はこう続く。

『わたしたちKOK団はキタキタ踊りの後継者を広く募集しています。

過去にダンス歴のある人。ないけどこれからダンスを始めようと思う人。ダンスなんてしたことないけど、キタキタ踊りには興味があるという人。ダンスにもキタキタ踊りにも全く興味のない人。

そういう人がいたら、わたしたちのところへ来なさい。たちどころにキタキタ踊りをマスターさせます。確実です。

キタキタ踊りは素晴らしい踊りです。感動を与えます。キタキタ踊りは間違いなくこの世界を救います。

このチラシを見た人は友人五人を連れて必ず文芸部まで来て下さい。もしくは、お近くの団員まで報告に来るように。

KOK団メンバー。
団長、アドバーグ・エルドル。(通称、キタキタオヤジ)
副団長、長門有希。(通称、ゆきりん)
団員、涼宮ハルヒ・朝比奈みくる・古泉一樹・キョン。


あと、ついでに世の中の不思議とかもヒッポロ系ニャポーン団では募集しています』

次の日、ハルヒは学校を休んだ。

ハルヒだけじゃなく、朝比奈さんもだ。もしやと思ったが古泉まで休んでやがる。

すでに校内に轟いていたキタキタオヤジの名は、昨日のチラシ騒ぎのせいで有名を超越して全校生徒の警戒の的になっていた。

それはどうでもいい。元から好かれてるわけでもないし、俺は何があろうとも無視すると決めているから、例えあいつが人類全体から避けられようとも知ったことではない。

問題はキタキタオヤジの関係者として俺のアダ名が全校生徒に知れ渡ったことと、周囲の奇異を見るような目が俺にも激しく突き刺さるようになってしまったってことだ。

「キョンよぉ……お前は常識人だと思っていたんだけどな……」

休み時間、谷口が憐れみを感じさせる口調で言った。距離は三メートルぐらい離れている。

「ホント、昨日はびっくりしたよ。帰り際に腰みのをつけている女子高生二人と中年オヤジに出会うなんて、夢でも見てるのかと思う前に自分の正気を疑ったもんね」

こちらは国木田。奴も四メートルぐらい離れたところから、俺には全く見覚えのない藁半紙をぴらぴらさせて、

「残念だけどしばらくの間は他人のふりをするから。悪く思わないでよ」

友情なんてのはまやかしだなとつくづく実感した。それもこれも全てチラシをばらまいた長門とあのクソオヤジが悪い。自分の席で何だかいつもよりもキリリとした表情で踊っているあいつを出来ることなら社会的に抹殺してやりたいところだ。

ふと周囲を見渡せば、俺の周りには誰も近寄ろうとせず、たまたま目が合っても慌てて逸らされる始末だ。授業中に配られたプリントでさえ、空いてるハルヒの席にぽとんと置かれるだけで直接手渡しもしてくれない。

ちょっとしたイジメだよな、これ。

泣いてもいいか?

この日まともに俺に話しかけてくれたのは誰あろうクラスのマドンナ、朝倉涼子だけだった。あの残念な太い眉毛も今や天使の象徴のようにすら思える。

「長門さんもちょっとやり過ぎよね。これじゃキョン君が可愛そうだわ。へっくしょん、宇宙人」

不可解なくしゃみは置いとくとして、神様仏様朝倉様は俺に深い同情を示してくれた。

「あの子は良く知ってる子だから、後でわたしからも強く言っておくね。自分の都合に他人を勝手に巻き込むなんて良くないことだもの。へっくしょん、バックアップ」

……風邪気味なんだろうか? 少し心配ではある。

「大丈夫、気にしないで。心配してくれてありがとうね。優しい男の人ってあたし好きだよ。キョン君も身体には気を付けてね。へっくしょん、ナイフ使い」

そう言い残して、朝倉は聖母マリアのような優しい笑みを浮かべて去っていった。なぜだろう、心臓がドキドキして落ち着かない。変な汗も出る。ひょっとしてこれが恋というやつなのだろうか。朝倉との恋愛フラグが立ってしまったのだろうか。あいつとならこちらも大歓迎なんだが。

とまあ、朝倉とのほんわかドキドキタイムがあったおかげで、俺の気持ちもいくぶんか和らいだものの、しかし、当然の如く俺はまだ事の元凶である長門とキタキタオヤジに対して怒りを覚えていた。

しかし、オヤジと教室で話そうものなら、後ろ指を指されまくることは確実である。ただでさえ仲間だと誤解されてるのにこれ以上誤解を生むような行為は慎むべきだろう。

なので、代わりに長門に文句を言うべく、俺は授業が終わると旧校舎へと赴き、真っ直ぐチンコの修行場へと向かった。どうでもいいが、この呼び方どうにか出来ないものだろうか。

ドアをノックもせずに開け放つと、長門はパイプ椅子に座って人形のように分厚いハードカバーの本を読んでいた。その横には何故か今日学校を休んだはずの古泉が立っていて、少し意表を突かれた。律儀に制服まで着ている。

「おや、これはこれは」

相変わらずの人を食ったような笑みを絶やさないまま古泉は、

「その顔から察するに、あなたも長門さんに文句を言いに来られたんですか?」

あなたも、ってことはお前もだよな。

「ええ、そうです。あまり刺激的なことをされては僕の苦労が増えてしまいますから。その点を理解してもらいたくて、こうして直談判に来たという次第ですが……。残念ながら実のある話し合いにはなりませんでしたね」

両手を広げ、やれやれ、といったポーズを見せる。表情がまったく変わらないので一見すると参っているようには見えないのだが、多分、困っているというのは本当なんだろう。でなければわざわざ学校に来る必要なんてない。

それに、あんなことをされて迷惑だと思わないやつがいたらそいつはとうに人生を諦めているか、悟りを開いているかのどちらかだ。俺はもちろんそのどちらでもなかった。

「長門。何でお前、あんなことをしたんだ?」

役に立たなさそうな古泉の代わりに、俺は長門に問い質した。少し語気が強くなってしまうのは仕方がない。むしろ冷静な方だと自分で自分を誉めてやりたいぐらいだ。

長門は本から視線を外し、俺の顔を見上げる。心なしかその表情はわずかながら困っているようにも見えた。

「昨日のチラシの件だ。いや、別に目的は解ってるからそれ自体はいい。問題はどうして俺やハルヒまで巻き込んだかってことだ。こっちはいい迷惑なんだ」

「それについてはわたしも反省している」

長門はハードカバーをパタリと閉じると、じっと俺の瞳を見つめ、

「軽率過ぎた。許してほしい」

ほんのわずか頭を下げて妙にしおらしい態度を取る。くそっ。怒るに怒れない。これは卑怯だろ。

いつもよりも微かにうつむきながら長門は、

「元々はヒッポロ系ニャポーン団のチラシだった。涼宮ハルヒが持ってきた」

まるで柱をカリカリしてるところを怒られた仔猫のような様相だった。だから、それは反則だぞ、ゆきりん。

「そのチラシを配ると言って、涼宮ハルヒはバニーガールの衣装も二組用意してきた」

何をしてるんだ、あいつはあいつで。

「彼女曰く、目立つ格好でこういったチラシを配れば、知名度が大幅にアップするとのことだった」

そりゃ確かにそうかもしれないけどな。しかし、手段ってものを考えるべきじゃないか。

「それを聞いた時、不意にわたしに電流にも似た閃きが発生した。これはわたしにとって初めての経験」

おい。まさか。

「その後はまあ、お察しの通りです」と、古泉。

「嫌がる朝比奈さんを取り押さえてあっという間にキタキタ踊りの衣装に着替えさせると、ちょっぱやで着替えないとけつかっちんだから、と言いながら自分も手早く衣装に着替えて、チラシをざっくり書き換えそれを大量印刷して――あの涼宮さんでさえ呆気に取られるほどの早業だったそうです。ああ、もちろん僕は朝比奈さんと長門さんの着替えシーンは見ていませんよ。その場にいませんでしたから。涼宮さんから聞いた話です」

「涼宮ハルヒは途中で帰宅した。憤慨した様子だった」

そりゃそうだろうな。というか、あいつもやっぱりどうかしてるが。やり方がキャバクラの客引きと同じじゃないか。

「実際、宣伝効果は確かにあったと思います。もっとも……ついたのはマイナスのイメージでしょうがね。困ったものです」

長門は首肯して、

「方法が悪かった。そのせいで涼宮ハルヒにも朝比奈みくるにも迷惑をかけた。今度会ったら謝るようにと眉毛からも説教された。もう少しこの世界での常識を学ぶべきだと」

なるほど。流石、俺の眉毛天使だ。即、行動してくれたらしい。一生ついていきたい。

なんて冗談はここまでにしても。

とにもかくにも事情と経緯はあらかた理解出来た。そして、それを踏まえた上で俺は言いたい。

完全にとばっちりだ、と。

どうやらこのアホどもを放置しておくと、なぜか俺にまで被害が回ってくるようだ。対岸の火事どころか隣の大火事だ。歯止めになるやつがここには誰にもいないというのが一番間違っている。

この世界は、俺に何の責任もないというのに、ダメージだけは人一倍食らうという鬼畜仕様になっているらしい。

一体、俺が何をしたっていうんだ。前世で坊主でも殺したのだろうか。

「謝罪する。申し訳なかった」

下を向いて素直に頭を垂れる長門に、ヘタレな俺はそれ以上何も言えず、「ああ」とか「うう」とか呻くだけで結局この一件をうやむやに終わらせてしまった。こんな性格の自分が俺は嫌いだ。

仕方なしに隣の古泉をちらりと眺める。

もしかしたら、俺の代わりに何かきついことを言ってくれるかと微粒子レベルで期待したのだが、それはやっぱり無駄に終わった。所詮は微粒子レベルの期待だ。

「まあ、白眼視されること自体は涼宮さんと関わり合いになる必要経費と割り切って、それはもういいんですが……」

お前が言うか。トッピロキー野郎。

「それよりも我々が困っているのは、閉鎖空間の方です。これだけ頻繁に発生すると僕たちの身体が持ちませんし、それどころか、いつ世界が新たに書き換えられるかわかったものではありませんから。すでに御存知だとは思いますが、今日だけで三回ほど閉鎖空間が発生しています。おかげで学校にも今の時間まで来れませんでした。はっきり言って、長門さんには自重をお願いしたいんです」

駄目だ。変態な上、こいつも厨二病だ。どんだけ凝った設定を自分たちの間で作れば気が済むんだ。

とにかく、こんな人通りの多いところで騒いでいたら目立ってしょうがない。キタキタオヤジの仲間だと思われてしまう。

仕方なく俺は、長門と一歩も譲らない言い合いをしているハルヒをどうにか説得して近くの喫茶店へと場所を移させた。

途中、「ついてくんな!」とハルヒに散々言われたにも関わらず、キタキタオヤジは長門に付属している衛星のようにぺたぺたと後を追ってきた。何でいつも裸足なんだ、こいつは。

「そうはいきませんぞ。キタキタ踊りを広める集まりともなればこの私が参加せぬわけにはまいりませんからなあ」

我に七難八苦を与えたまえと願ったどこぞの戦国武将のように使命感に燃えるオヤジ。

長門、お前今日の不思議探索のことをキタキタオヤジに何て言ったんだ。とんでもなく愉快な勘違いを起こしているじゃないか。

ロータリーに面した喫茶店の奥まった席に腰を下ろす謎の六人組。本当に謎だろうな。店員と客からの好奇な視線がレーザービームのように突き刺さってとても痛い。

ちなみに席割はと言えば、↓のような感じ。

窓 ――――――――――――――
窓 古泉 朝比奈さん 俺

窓 ハルヒ 長門  オヤジ
窓 ――――――――――――――

ちゃっかりオヤジも同席してやがる。古泉がやけに素早く席に座ると思ったら、これを予期していやがったんだろう。おかげで俺はオヤジの真向かいに座る羽目になった。出来るだけ目を合わさないようにせねば。

恐る恐る注文を取りに来たウェイターに向かってオヤジは、

「めでたいものはなんですぞ?」

それはお前の頭の中身だ、とりあえず黙ってろ。

オヤジを店員含め全員が華麗にスルーしておのおのオーダーを言うものの、長門だけがメニューをためつすがめつしながら不可解なまでの真剣さ――でも無表情――で、なかなか決まらない。インスタントラーメンなら食べ頃になってくる時間をかけて、

「マタデー」と告げた。

なんだそれ。メニューにあったか、そんなの?

あったみたいだ。

しばらくすると、妙な形をした丸っこい生物らしきものが皿に山盛りで運ばれてきた。何だ、これは。アフリカの奥地にでもありそうな民族料理っぽいが、しかしなにゆえこんな普通の喫茶店にそれが置いてあるのか。

「……何ですか、これ?」

俺と全く同じ気持ちだったんだろう。朝比奈さんが不思議そうに尋ねるとウェイターは、

「マタデー料理」

「材料は……?」

「マタデー」

ウェイターはにこりともせず去っていった。

長門……その怪しげな料理、本当に食べるのか?

「この料理には裏技がある」

と、いつもの無表情で長門。

「大好物だぜーっ! と言って残さず食べると不思議なことが起こる」

どんだけー。

「それ、本当なの、有希」と、喫茶店に入ってからずっと仏頂面のまま窓の外の景色を見ながら黙りこくっていたハルヒがゆっくりと振り返って、いかにもうさんくさそうに尋ねた。

「ほんとう」

「……じゃあやって見せてよ」

「あたしには出来ない。アイドルはそんなことをしない」

まだそんなことを言っていたのか。

「じゃあキョン。代わりにあんたがやりなさい」

どんだけー。

無言で差し出された大皿を俺は長門ばりの無表情でごく自然に左から右へと受け流した。

「こういうのは古泉が得意だ」

「じゃあ、古泉君。お願い」

「え」

この時ばかりは、古泉もいつもの微笑ではなく素の表情を見せた。あいつが目を見開いて驚きの表情をしたのは、これが恐らく最初で最後のことだろう。

「僕が……ですか? これを……?」

「得意なんでしょ? 頼んだわよ」

「…………」

しばらく無言のまま俺とハルヒと長門と皿をキョロキョロと助けを求めるように忙しなく見ていた古泉だったが、「早く」とのハルヒの言葉により最早逃げられないと観念したのか、

「大好物だぜーっ!!」

手掴みでバクバクと食べ出す古泉。俺が言うのもなんだが、よく食べれるな、あんなの。食べてる最中、涙を流していたがそんなに美味いのか。

古泉は十分後ぐらいには完食を果たしていた。それだけは俺も讃えようと思う。

で、しばしの沈黙。しかし一向に何も起きない。

「なによ。やっぱり嘘だったんじゃないの。冗談を真に受けたあたしがバカだったわ」

もはやハルヒのテンプレ顔とも言える不機嫌面を見せて、ふんっとまた窓の外の景色に目を向ける。

朝比奈さんは気まずそうな表情で頼んだミルクティーをちびちび飲んでいて、古泉は机に伏して完全にグロッキー状態、長門はウェイターをまた呼んで「アプリコット」と告げ、オヤジは顔だけ二倍ぐらいに大きくなった状態でホットコーヒーを静かに飲み、俺はと言えば吹きだしたミントティーを一人おしぼりで必死に拭いていた。

おかしい。何かおかしい。

しかし、誰もそのことについて何も言わないということは、つまりはやっぱり俺の方がおかしいのだろうか。

きちんと拭き取った後、もう一度キタキタオヤジの顔を確かめる。元に戻っていた。普通の大きさだ。

「おや、どうされましたかな、キョン殿。何か私の顔についておりますかな?」

「何でもない。本当に何でもない。マジで何でもない。気にするな」

俺は下を向いて携帯電話を取り出し、声をそれ以上かけられないよういじり始めた。ノイローゼ気味なんだろうか。

そういえば、物が大きく見えたり小さく見えたりする「不思議の国のアリス症候群」という変わった名前の病気が確かあったはずだ。Google先生に尋ねて診断してもらおうかどうしようか。

その後、ハルヒが出した提案はこのようなものだった。

六人いるから、これから三手に別れて、二人組で市内をうろつく。不思議な現状を見つけたら携帯電話で報告、後で落ち合って反省会と今後の展望を語り合う。

この間、オヤジからの「おや? キタキタ踊りは?」という質問は完全に無視された。

「じゃあ、くじ引きね」とハルヒは爪楊枝を四本差し出す。どうやらキタキタオヤジを完璧に無視して話を進めるつもりらしい。連れてきた長門に押しつけるということだろう。

この場で最も薄着な人間だけを除いて全員が暗黙の了解のまま、くじを引く。「ハルヒ殿、私のがありませんが?」

「あたしは……古泉君とか」

必然的に俺が朝比奈さんと組むことに。眉を寄せて印なしの爪楊枝を眺めるハルヒ。「ハルヒ殿、聞いておられますかな?」ハルヒは残っていたアイスコーヒーをチュゴゴゴと飲み干し、

「キョン。先に言っとくけど、マジ、デートじゃないんだからね。遊んでたら殺すわよ」

「そんなことはいいから、早くここを出ないか」

むっとした表情を見せたが、ハルヒもおおむねそれには同意したんだろう。長門達を急かしてどかさせると、大股でさっさと店の外に出ていった。おい、勘定は?

「有希の奢り。罰金」

ひでえ。

そう思った俺はとりあえず自分の分だけは長門に渡しておいた。「すまん」と、なぜか俺が謝る。

「へいき。予想はしていた」

長門は淡々と全員分の会計を払っていた。なんというか、その姿にはそこはかとなく哀愁が漂っていたな。可哀想に。

というか、古泉。せめてお前だけは出してやれよ。長門の代わりにマタデーとやらを食っただろうが。

喫茶店を出ると、駅を中心にして、ハルヒチームが東、俺と朝比奈さんが西を探索、オヤジチームが自由行動となった。元からフリーダムの塊みたいな二人を放置しておいて、大丈夫なのだろうか?

なんだか不安だ。警察にお世話になる事態がいつ発生しても不思議じゃない組み合わせと格好だからな。

「おい、長門」

別れる際に俺はこっそり長門に耳打ちした。

「もしサイレン音が聞こえてきたら急いで逃げろよ。オヤジは放っといても構わんから」

「大丈夫」

「お前の大丈夫は、全然大丈夫じゃない時の方が多いんだ。とにかく一目散に逃げろよ。車の通れない小さな道を選ぶのがコツだ」

「理解した」

「ちょっとキョン! なにやってんのよ、さっさと行きなさい!」

へえへえ。しかし、ハルヒも冷たい奴だ。長門にはそんなに悪気がないと思うんだが。……あくまで多分だけどさ。そうだろ、長門?

立ち去っていく長門の背中を少し眺めてから、俺はちょっと先で待っている朝比奈さんの元へと走った。

これからどうしましょうか、という朝比奈さんの問いに対して明確な答えを持つはずもない俺が出した結論は適当にそこらをぶらぶらして時間を潰すことだった。

河川敷を北上し桜並木を抜け、休憩がてら近くの備え付けのベンチに座るとそこでしばしの間歓談。こうしてると、ハルヒの言ではないが、確かにデート中のカップルのようである。

朝比奈さんは可愛いし巨乳だ。ただ、眉毛が細いのがな。俺の好みは最近太めになってきているので、そこだけが残念だ。あと、厨二病というのが決定的に問題なのだが。

特にこの日の朝比奈さんは全開フルスロットルだった。「お話ししたいことがあります」と決意を込めた瞳で言うものだからなにかと思い尋ねてみたら、俺がノイローゼ気味になってもおかしくはないということを改めて実感するような内容だった。



ハルヒの姿は廊下にはなかった。


ほとんど直感に従って俺は校門へと走り出したが、それが間違っていた。ハルヒの姿は途中どこにも見当たらなかったし、下校のために坂を下っていくまばらな生徒たちの中にもその後ろ姿はなかった。

どこへ行ったんだ、あいつ。

時間的にそこまで足止めをされていたわけでもないはずだから、校門から出てもう見えないところまで行っているということはないだろう。となると、まだ学校の中か。

一旦戻って、グラウンドや中庭や校舎内も探し回ってみたが、しかしどこにも見当たらない。まさか部室に戻ってやしないだろうなと思い引き返すと、そこにいたのはハルヒではなく、ポツンと行儀よく椅子に座っている朝比奈さんだけだった。

「あ、キョンくん」

風邪で休んでいた友達が久しぶりに登校してきた時とそっくりな声だった。

「来るの遅かったですね。わたしも隣のクラスメイトの子と話してて遅くなっちゃったんですけど、でもまだ誰も来てなくって。今日はお休みなのかなって少し心配してたの」

「ってことは、ハルヒはここに来てないんですね?」

「え、はい……。そうですけど……?」

小首を傾げる朝比奈さんに「今日は解散だそうです」とだけ告げ、俺はまた部室から飛び出した。

廊下を渡り、グラウンドに出て、中庭を通り抜け、校舎内を探し回り、再び校門前に。やっぱりハルヒの姿はどこにも見当たらず、よくよく考えてみれば初めからずっと出入り口のここで待っていれば良かったんじゃないかということに気づいた俺は、汗でじっとりとへばりつくシャツの不愉快さと走り回った疲れから、大きく息を吐いて門へともたれかかった。

なにやってんだ、俺は。

こうして見当違いなところを探し回っている間に、ハルヒはとっくの昔に家に帰ったに違いない。携帯の時刻表示を見ると午後五時ちょい過ぎ。どんなに少なく見積もってもあれから三十分以上は経っているはずで、つまり俺が今やっていることは完全に徒労でしかないわけだ。はっはっは。

大体、ハルヒを見つけたところで俺は何を言えばいいってんだ。見事なぐらいに何も思い浮かばないぞ。どうせアホ面下げて無言でその場に立ち尽くしていたか、トンチンカンなことを言ってハルヒを逆ギレさせていたかのどちらかだろう。

疲れた、帰る。俺は歩き出した。

もういい、知るか。そんな気分だった。

暗鬱とアンニュイな気分をごちゃ混ぜにした想いを抱えながら帰宅すると、何故か家の前には今は絶対に見たくない奴の顔があった。

どうして住所まで知ってるんだ。長門といい、こいつといい。

「こんにちは」

十年前からの友人みたいな微笑が非常にそらぞらしい。制服に通学鞄という完璧な下校途中スタイルで、古泉は馴れ馴れしく手を振りながら、

「いつぞやの約束を果たそうと思いまして。帰りを待たせてもらいました。連チャンで疲れてるんですが、そうもいきませんから」

帰れ。お前の顔も声も、今は見たくもないし聞きたくもない。

「そう言わずにお話を。どうしても案内したいところがあるんです」

カルト宗教の総本山にか? 冗談じゃない。

「そうではないと知ってもらうためなんです。今日のあなたの行動により、世界はのっぴきならない状態になっています。僕はこの世界にそれなりの愛着を抱いてますから、壊されてまったく別の世界へと作り替えられたくはないんですよ」

「どこの宗教も大体似たり寄ったりなことを言うんだよ。終末が近づいてますとかな」

「確かに限りなく近づいているとは思います。いえ、それどころかとうの昔に始まっているのかもしれません。三年前に魔法の失敗によってあの人たちがこちらの世界に来た時から」

超能力の次は魔法か。適当さ加減にも程があるな。

「それを説明すると長引くので今は横に置いといて下さい。それよりもこの世界の危うさのことを僕は知っていただきたいんです」

古泉はごく真面目な顔になって、

「あなたの影響もあってのことでしょうが、涼宮さんは異世界人をこちらの世界に呼んでいます。それはつまり、異世界にも憧れを持っているということです。魔王や勇者がいるようなそんなファンタジー世界にね。これは僕たちからしたらちょっとした脅威ですよ」

だから何だってんだ。どうだっていいだろ。

「果たしてそうでしょうか? 例えば、涼宮さんがこの世界に嫌気がさしたら。あるいは愛想を尽かしたりしたら。この現実世界を壊して、明日からファンタジー世界に塗り替える可能性だってあるんです。あるいは三年前からすでに異世界と少しずつ融合させていっている可能性もあります。現実世界とファンタジー世界がごっちゃになった世界にね。それも我々がまったく気が付かない内にです」

「いい加減にしてくれ。お前のその馬鹿みたいな妄想話は聞き飽きた。金輪際、俺にその話をするな」

「そうもいきません。あなたはキーパーソンなんですから。とにかくその目で見てもらえれば流石のあなたでも信じると思います。閉鎖空間をお見せしますよ。どうぞ、乗って下さい」

古泉は有り得ないくらいのタイミングの良さで通りかかった黒塗りのタクシーへと俺を促す。どこかへ連れ込んで入信するまで監禁するつもりだと暗に言っているようなもんだ。しかも準備万端ってわけか、デンジャラスな奴だ。

「どうぞ」

行くならお前一人で行け。例え明日で世界が終わることになったとしても、俺は絶対に行かないからな。

さっさと門をくぐると、俺は玄関のドアをバタンッ!と勢いよく閉めた。腹が立っていた。

外からは古泉の『待って下さい。本当に世界が今、危ないんです。洒落や冗談ではないんですよ』という何やら必死めいた、しかしいかにも嘘臭い台詞が。

どうかしたの? 何かあったの? と誰何する母親に「変質者が騒いでるみたいだ」と適当なことを言って俺は自室へと戻った。枕に顔を埋めるようにしてベッドに横になる。何だか泣きたくなった。頭の中がごちゃごちゃしている。きっと古泉のせいだ。

息苦しくなって、ぐるりとひっくり返り、天井を見上げ――そこで俺は初めて、朝倉をフッてしまったことを思い出した。

何であんなことを言ったんだろうな、俺は。

思い返すと後悔しか残らない。理由や経緯はともかく、朝倉は俺のことを好きだと言ってくれたのに、何で。

不意にこれまでの朝倉との思い出がまるで走馬灯のように頭の中を次々とよぎっていった。


《せっかく一緒のクラスになったんだから、みんな仲良くしていきたいじゃない?》

《長門さんもちょっとやり過ぎよね。これじゃキョン君が可愛そうだわ》

《大丈夫、気にしないで。心配してくれてありがとうね。優しい男の人ってあたし好きだよ》

《キョン君が望むなら、あたし何でもしてあげるよ。キス以上のことだって何でも》

《あたし、キョン君の隣にいる時が一番安心するんだ。落ち着くっていうか、心地いいっていうか……》

《良かった。キョン君、気に入ってくれて。腕によりをかけて作った甲斐があったなあ。まだまだおかわりあるからどんどん食べてね》

《キョン君、世界で一番好きだよ。愛してる》

《高校出たらすぐに結婚しようね。新婚旅行とかどこ行きたい? 今から楽しみだね》


思わず涙がこぼれそうになった。ああ、自分でも気が付かなかったが朝倉との思い出はこんなにもあったのか。

ひょっとしたらいくつか思い出補正とやらが入って美化されているかもしれないが、まあほんの少しだろう。あんなにも愛し合った朝倉をどうして俺はフってしまったのか。自分でもまるで理解出来ない。とんでもない大馬鹿野郎だ、俺は。

取り返しのつかないことをしてしまった今となっては、楽しかった思い出も辛い記憶ばかりとなって後から後から甦ってくる。

何か音楽でも聴いて気を紛らわそうかと、俺は起き上がりコンポの電源を入れたところで、カーテンの向こう側で何やら動く影を発見した。それと同時に取って付けたような歌が。

『ここのキョンは良いキョンだー♪』

影は振り子のように揺れ、その度に聞き慣れた声の、だが奇妙な歌がドップラー効果をともなって響いてくる。

『話は聞くし、信じやすいー♪』

俺は周りを見渡して、丁度近くに手頃なティッシュ箱があったのでそれを手に持って全力投球の構えを取りながらカーテンを一気に引いて窓を開けた。

『ああ、キョンよ。フェーエバーソーファイふごっ!』

そしてすぐさま窓を閉めた。おかげでしばらくは静かだったのだが、『……やはりアダ名がまずかったのでしょうか』とかブツブツ言っているのが外から聞こえてきたので、もう一度窓を開けて今度はスリッパを投げつけてやった。「出てけ!」

それからは音楽をガンガンに鳴らして何も聞こえないようにした。ストーカーか、あいつは。それもかなり悪質な類いのだ。やってられん。

俺はドアを開けて母親に今日の夕飯はいらないことを告げ、ついでに不審者がいると110番した。

そして、その後すぐにベッドの中へと潜り込んだ。朝倉との一件もあって食欲はまるでなかった。


そうやって横になること十分ぐらいだろうか。走り回ったせいで疲れていたのだろう、俺はどこか遠くから聞こえてくるパトカーのサイレン音を子守唄にいつのまにやら深い眠りに落ちていたみたいだ。

ところで人が夢見る仕組みをご存知だろうか。睡眠にはレム睡眠とノンレム睡眠の二種類があって周期的に繰り返されるわけなのだが、いや、こんな夢の解説はいいか。閑話休題。そんなことはどうでもいいんだ。

頬を誰かが軽く叩いている。うざい。眠い。俺の睡眠の邪魔をするな。

「……キョン」

まだ目覚ましは鳴ってないぞ。何度鳴ってもすぐ止めてしまうけどな。お袋に命じられた妹が面白半分に俺をベッドから引きずり出すにはまだ余裕があるはずだ。

「起きてよ」

いやだ。俺は寝ていたい。胡乱な夢を見ているヒマもない。

「起きろってんでしょうが!」

ガクガクと揺り動かされ、はずみで後頭部を固い地面に打ち付けて俺はやっと目を開いた。

……固い地面?

上半身を跳ね上げる。俺を覗き込んでいたハルヒの顔がひょいと俺の頭を避けた。

「やっと起きた?」

俺の横で膝立ちになっているセーラー服姿のハルヒが、白い顔に不安を滲ませていた。長かった髪がバッサリ切られショートヘアになっている。

「ハルヒ、その髪……」

「ここ、どこだか解る?」

さえぎるように訊いてきた。あるいは俺の言葉なんか聞いちゃいないのか、ハルヒは重ねるように、

「ここよ、どこだか解る?」

言われて辺りを見回す。解る。学校だ。

俺たちの通う県立北北高校。その校門から靴脱ぎ場までの石畳の上。明かり一つ灯っていない、夜の校舎が灰色の影となって俺の目の前にそびえ――

違う。

夜空じゃない。

ただ一面に広がる暗い灰色の平面。単一色に塗り潰された燐光を放つ天空。月も星も雲さえない、壁のような灰色空。

世界が静寂と薄闇に支配されていた。

……どこだ、ここは?

俺はゆっくりと立ち上がった。寝間着がわりのスウェットではなく、ブレザーの制服が俺の身体をまとっている。

「目が覚めたと思ったら、いつの間にかこんな所にいて、隣であんたが伸びてたのよ。どういうこと? どうしてあたしたち学校なんかにいるの? それに、空もなんか変だし……」

ハルヒが珍しくか細い声で訊いている。俺は返事の代わりに自分の身体にあちこち手を触れてみた。手の甲をつねった感触も、制服の手触りも、まるで夢とは思えない。髪の毛を二本ばかり引っ張って抜くと確かに痛い。

「ハルヒ、どうして俺はこんな所にいる?」

「それをあたしが訊いてるのよ。あんた、話を聞いてた?」

聞いていたような聞いていなかったような――とにかくわけが解らん。寝ている間に二人揃って古泉に拉致されたなんてことでは流石になさそうだし、一体全体どう考えればいいんだ。

とにかく学校の外に出ようと、二人してつかず離れず校門まで歩いていったら、なんてこったい、見えない壁なんていうこの世にあるまじきものにぶつかっちまった。本当にどうなってやがる。

俺は学校の敷地沿いに歩いて確認してみたが、その不可視の壁は歩いた範囲内では途切れることなく続いていた。

まるで夢だな。……そうだな、これは夢だ。前の長門の時と同じで異常にリアル感のある俺の夢に違いない。ていうか、そうでなかったら非常に困った事態となる。

学校に閉じ込められてしまったようだ。

レスキューに通報したら、イタズラ電話だと勘違いされることは間違いなさそうだ。見えない壁に閉じ込められてしまったので助けて下さいなんて――いや待て。今、俺は何を考えた。電話? 電話か。

「ハルヒ、とりあえず職員室に行かないか? そこなら電話もあるだろうし、どこかと連絡が取れるはずだ」

「……そうね。そうした方がいいかも」

ハルヒが不安げな顔でうなずいた。そんな顔をするな、俺だって不安なんだ。

戻って校舎の中に入ってみたが、得られたものなんか何一つなかった。

職員室の電話は何故か不通状態でコール音すらしない。二人で最上階まで上がって窓から外の景色を眺めてみたが、見渡す限りダークグレーの世界が広がっているだけだった。

左右百八十度、視界が届く範囲に、人間の生活を思わせる光なんてどこにもなかった。まるで、この世から俺たち以外の人間が残らず消えてしまったかのように。

「どこなの、ここ……」

ハルヒが自分の肩を抱くようにして呟いた。

「気味が悪い」

俺もまったく同じ気持ちだった。眼下に広がる光景が不気味過ぎて俺たちはしばらくそこで立ち尽くした。

行くあてだってない。

そんなわけで俺とハルヒは勝手知ったるチンコの修行場へと場所を移した。電気はつくから問題はないがネーミングには未だに問題が残っている。部室のプレートをもうそろそろマジでどうにかしようとも思うが、今はそんな心の余裕もありはしない。

蛍光灯の下、見慣れた根城に戻った安心感はあったものの、どちらとも不安をため込んでいるのは確かだ。パソコンの電源を入れてもろくに起動しない。ラジオをつけてみてもホワイトノイズすら入らない。

「どうなってんのよ、何なのよ。さっぱり(ハァー、さっぱりさっぱりー)解らない。ここはどこで、なぜあたしはこんな場所に来ているの?」

ハルヒが半ば呆然と窓から灰色の外界を眺めながら言った。後ろ姿がやけに細く見えた。

「おまけに、どうしてあんたと二人だけなのよ?」

知るものか。俺が訊きたい。

そういえば……と、ふと思い出す。朝比奈さんのお姉さんから、困った時はこの言葉を思い出して下さいとか、そんなことを言われていたな。今の今まですっかり忘れていたが。

なんて言ってたか? 確か、肩の後ろの二本のゴボウの真ん中にあるスネ毛の下のロココ調の右か。何の役にも立ちゃしねー。

ハルヒは「探検してくる」と言って、スカートと髪を翻して部室から出ていった。「あんたはここにいて。すぐ戻るから」とは言われたものの、少し心配ではある。やはり俺も一緒に行った方がいいだろう。

そう思いパイプ椅子から腰を上げたら、いきなりコンコンとドアをノックする音が。危うく変な声を出して飛び上がるとこだった。

「やあ、どうも。驚かせてしまったようですね」

場の雰囲気にそぐわない能天気な声を出しながらそいつは部室のドアを開けて入ってきた。制服姿の宗教勧誘員だ。例えこんな奴でも、誰かに会えたってだけで今はほっとする。俺がそれだけ不安だったって証拠だ。

「お前もいたんだな、古泉。途中ハルヒに会わなかったか? それと、どこか外の様子が変なんだ。学校からもなぜか出られないし、一体何がどうなっているか解るか、お前?」

一気に早口で尋ねると、古泉は少し困った様な顔を見せ、

「色々と質問にはお答えしたいのですが、今は説明している時間も惜しいですし、恐らくあなたはその説明について一切信じてくれないでしょう。ですので、先にこちらの用件から伝えます」

時間がそれでもまだ残っていればきちんと説明はしますから、と前置きしてから、古泉は持っていた長剣を俺に手渡し――剣? なんだこれは?

しっかりと鞘に納まっているそれを差し出しながら古泉は、

「この剣を持っていて下さい。護身用です」

今まで一回も見たことのないような真剣な眼差しだった。剣だけに真剣ってか。いや、そんな冗談を言っている場合じゃないか。

「これは僕と僕の仲間たちからの贈り物です。身に危険が迫ったらこれを使って下さい」

「使えって……だからどういうことだ、古泉。バイオハザードでも起きて、ゾンビがそこらをうろついてるとでも言うのか? そんなヤバイ状態なのか、今は?」

「ある意味、それよりも危ない状態でしょうね」

さらりと凄いことを言われた。

「とにかく色々と危険はあるでしょうが、その中でも一番危険なのは猿です。猿に触れると即死ですので気をつけて下さい」

「何だって?」

「あと、長門さんと朝比奈さん、朝倉さんからも伝言があります。これを伝えたら僕からの最低限の用件はお仕舞いです」

「って、ちょっと待て! 長門や朝比奈さん、それに朝倉もここにいるのか!?」

「ええ。今、外にいますよ。後は……キタキタオヤジさんもいますね。不本意ながら、彼の力を借りて僕らはここまで来たんですから」

「あのオヤジもか? 力を借りてってのは何だ? どういうことだ? それに猿って何だ? むしろ、それが一番気になるんだが」

「キタキタオヤジさんの件については、『闇の魔法結社』が研究していた物体転移魔法を長門さん経由で闇の総裁に頼み込んで利用させてもらったので――いえ、それについて話しているとかなり長くなりそうなので割愛します。猿についても時間が惜しいので、それはまた後ほどということにして、とにかく伝言を聞いて下さい。危機が迫った時はこの伝言を思い出すようにお願いします」

古泉はこれ以上はないというほどの真剣な表情で、

「長門さんからは、『キタキタオヤジのケツを見るように』と。朝比奈さんからは『愛・そして生きるために死ねますか』、朝倉さんだけは助言ではなく謝って欲しいと伝えられました。『ごめんなさい、私のせいで……』と」

もう意味がわかんねえ。なんだこのカオスっぷりは。こんな伝言を伝えられて、それで俺にどうしろってんだ。

ダメだこいつじゃ話にならんと俺は思い――当然だよな?

あの三人の中で唯一まともな朝倉を探そうと、俺は振り返って窓から外を眺め――

青白い光が窓の枠内を埋め尽くしていた。

中庭に直立する光の巨人。そうとしか表現出来ない。

くすんだコバルトブルーの痩身は発光物質ででも出来ているのか、内部から光を放っていて、肩の後ろから二本の角みたいなのが出ている以外輪郭もはっきりとしない。背中には何故かトサカのようなものがあり、その右にはウロコらしきものもあったが、しかし目と口があると思われる部分についてはそこだけが暗くなっているだけで他には何もない。全体としては単なるのっぺらぼうだ。

何だ……アレは?

「神人です。もうここまで来てしまいましたか……」

古泉が苦い口調で呟いた。

今日はここまで

光の巨人がまた一歩近付いた。

助けは来ないだろう。

どれだけ待とうともきっと来ない。古泉も長門も朝比奈さんも朝倉も大勢の謎のジジイたちも、自分たちの近くにいる巨人やら猿の相手やらで手一杯だ。今、ゆっくりとこちらに向かってきている化物にまで手が回らない。

俺しかいない。

だけど、俺に何が出来るってんだ。

武器といえば古泉からもらった長剣が一つだけだぞ。剣一本であの馬鹿デカい巨人に立ち向かうなんて、竹槍一丁持って全裸で米軍に宣戦布告するようなもんだ。第一、俺は剣道どころかバットの素振りすら自信がないってのに。

何か手立てはないかと俺は焦りながら周りを無意味に見回し、いや待て、思い出せ。古泉は言っていたはずだ。危機が迫った時はこの伝言を思い出して下さいと。

長門は『キタキタオヤジのケツを見るように』だ。

見たぞ。気持ち悪いだけだ。

朝比奈さんは『愛・そして生きるために死ねますか』だ。

どっちにしろ死んでいやしませんか。

朝倉は謝っているだけだから関係ない。これはスルーだ。

そして朝比奈さんのお姉さんからは、『肩車して後ろ向きに乗り二本のゴボウを持った歌舞伎顔の男』だ。

何のこっちゃ。大体、今ここにゴボウなんかない。ふざけるな。

どうにもならない。助かる方法がまるで思いつかない。

こうなったら冷酷で非人道的とも言える最後の手段だが、逃げて来たオヤジを囮にしてこの場をやり過ごすしか――

「キョン殿」

先ほどまでハルヒに向けられていた真顔が不意に俺にも向けられた。キタキタオヤジはこれまでの奇行はどこへやら、まるで別人のような顔つきになって、

「その剣は何のために持たれているのですか? 自分自身と大事な人を守るためではありませんか? 勇気を出さねばいつまで経ってもスタート出来ませんぞ。そろそろ誇りを持たれてはいかがです?」

「…………」

オヤジのくせに、とは思った。

しかし、俺もハルヒ同様、一言も返すことが出来なかった。

このクソオヤジ、何でこんな時だけまともなことを言うんだ。おかげで覚悟を決めざるを得なくなったじゃないか。

やるしかないのか。戦うしかないのか。

剣を持って得体の知れない巨人と一戦交えるなんて、そんなリアルファンタジーな真似が出来るわけがないと理性がさっきからエマージェンシーコールを鳴らし続けているのだが、やらなきゃどうしようもない。何もしないよりは遥かにマシだ。

足が震えた。また横のハルヒを見る。ハルヒはせっかくのプレゼントを取り上げられた挙げ句、目の前で踏みつけにされた子供のような表情をしていた。やり場のない怒りと絶望的な悲哀が混ざったような、そんな複雑な表情。

「……キョン、あんたも解ってくれないの? あの巨人は悪くないの。あたしたちの味方よ。もう勇者や魔王がいなくてもいい、とにかく今より面白い世界に変えてくれるなら何でもいい! だから!」

子供のように涙目で駄々をこねだすハルヒ。

しかし、変わらずその瞳には恐怖の色は一切なかった。未だにあの巨人が俺たちに危害を加えないと信じきっているようだ。

そんなはずない。踏み潰されて終わりだ。


俺は覚悟を決めた。


剣の柄に恐る恐る手をかけ、いつでも抜ける状態にする。高層ビル並の巨人だろうと、ひょっとしたら見かけ倒しかもしれないし、刺せば一撃で死ぬような弱点だってあるかもしれない。

あまりに前向きで希望的な推測だと自分でも思うが、そうでも思い込まないと到底立ち向かうことすら出来そうになかった。窮鼠、猫を噛むってのはまさにこのことだ。断言して言えるが、ここまで追い詰められなきゃ俺は絶対にやれやしない。

「ハルヒ、お前は下がってろ」

一歩前に出て、ハルヒを背に身構える。

「キョン殿。私はどうすれば宜しいですかな?」

お前はそこらで踊ってろ。いや、間違えた。黙ってろ。喋るな。

「ちょっと……何する気なの、キョン!」

背中からハルヒの抗議とも心配ともとれる声。俺は振り向かなかった。どうせ見てれば解ることだ。

深い息を吐いてから、更にもう一歩進んでそこで待ち構える。

狙うは光の巨人の足元だ。アキレス腱なんてものがこいつにあるかどうかは知らないが、そこをぶった斬るつもりだった。上手くいけば転ぶぐらいはしてくれるかもしれない。

背後から「一肌脱ぎますぞー!」という嬉しげな声と共に聞こえてくるピーヒャララーという間抜けな戦闘ミュージック。これ以上脱いだらお前、間違いなく全裸だろ。ズシリと重量感のある剣を片手に脳汁たぎる頭の中では、ライオン師匠が現れ「アルスよ、決して諦めるなガオーン」誰だこいつは。


俺はタイミングを見計らって、一気に剣を引き抜いて――



不意に目の前がまっ暗闇になった。


それが巨人の繰り出した手だと気付くまでにはほんの少しの時間を要した。

気が付いた時には、どうしようかなんて考えている暇もなかった。

まるで壁のように迫り来る巨大な手。その動きがやけにスローモーションに見えた。

おい、これってひょっとして死ぬ前に見るアレか……?

脳内を虫が這うようなとんでもなく嫌な予感が頭の中を駆け抜けていった。


ベタな映画ならきっとここらで颯爽と誰かが助けに入ってくれるんだろう。だが、現実では起こるわけもない。

希望なんてのは初めからなかったんだろうな。俺のしたことは完璧に無駄なあがきだったんだ。


いやに冷静な頭でそんなことを考えていたら、



巨人の手が俺の顔面を砕いた。


そうなるはずだった。

だが、そうはならなかった。

恐る恐る瞑っていた目を開けてみると、そこにはとっさに俺をかばって飛び出したのか――


ハルヒが――いた。


あいつは腰が抜けたように地面に座っていて、その周りには温かな光が包むように覆っていた。

本人も何が起きたのかという顔をしていて、きょとんと大きく目を見開いている。

ハルヒの丁度すぐ真下には、割れた髪飾りが。そこから光が放たれていて、それはまるでハルヒを守るかのように優しく輝いていた。

「キョン……。あたし、なんで……。殴られたと思ったのに……」

辺りを不思議そうに見回す。そして、ハルヒも地面に落ちている割れた髪飾りを発見した。

「……キョンからもらったやつ。……割れちゃったんだ。……大切にしてたのに。でも……」

独り言のように小さく呟く。

見上げると、巨人もその動きを停止していた。まるでハルヒを包む温かな光が、作用したかのように。

今しかない。

俺は素早く剣を引き抜いた。

ポンッ! という不可思議な音がして――ホワイ??

鞘から抜かれた剣は、まるで手品のように剣以外のものに変わっていて、それを見たハルヒもぽかんとした顔――から、みるみる赤面へと変化していった。

ハルヒの目線を追って俺もそれを眺めやると、まるで旗差し物のようになっているそこには、大きくこのような文字が。

『ハルヒ、好きだ。愛している』

おい、古泉! なんだこれは、どういうことだ!!

「キョン、あんたそれ――何のつもりよ!」

まだ頬を赤らめたままのハルヒが抗議の声をあげた。知るか。俺が聞きたい!

「大体あんた、朝倉とデキてるんじゃなかったの!」

「それはお前の誤解だ! 俺と朝倉は付き合ってない! 確かに告白はされたが断った! あの時も俺はお前の後を追いかけたんだ!」

「……は?」

ハルヒは二・三回瞬きをした後で、むしろなんでそんなことをしたのかと言わんばかりの怒りの眼差しをいきなり俺に向けてきた。いや、俺だって後悔したさ。嘆きもしたさ。

「あんた朝倉のことが嫌いなの? 断るってどういうことよ。確かにあいつ眉毛太いけど、性格も良さそうだし顔も可愛いじゃないの!」

確かにそうだ。朝倉は可愛い。あの太目の眉毛なんか俺は特に大好きだ。面倒見が良さそうで気が利いて優しくて健気なところもあって、彼女や嫁にするとしたら俺は朝倉みたいな女がいい。

「だったら!」

俺は旗差し物を放り出してハルヒの側に駆け寄りしゃがみこんだ。そして、まだ何か文句を言おうとしていたハルヒの唇を強引に奪った。

だけど、俺が好きなのはハルヒ、お前なんだ。

「こんな状態になって初めて気が付いた。もう人生最期かもしれないから今の内に言っておくぞ。ハルヒ、俺はお前みたいな面倒くさくてわがままで厨二病こじらせていて傍若無人な上とてつもなく自分勝手でおまけに眉毛が細い女なんかと付き合いたくはない。だけど、それでも俺は、誰よりもお前のことが好きなんだ。お前しかいないんだ!」

一旦唇を離した後、呆然としているハルヒの瞳をしっかりと見据えながら俺は早口でまくし立てた。クッサーーーーー!という声がどこからともなく聞こえてきたが知ったことか。

それに対してハルヒの口がほんの少し開き、多分何か俺に返事かあるいは文句を言おうとしたんだろうな。俺はもう一度ハルヒの唇に自分の唇を重ねて目を閉じたから、その時、ハルヒが何を言おうとしたのかも、どんな顔をしていたのかも結局解らず仕舞いだ。

あんたなんかお断りよ、とか、こんな時に何を言い出すのよ、とか、勝手にキスするなんてサイテー死ね、とか、あたしは古泉君が好きなのよバカ、とかそんなところかもしれない。あたしもそうよ、前からずっと、みたいな展開もありえたが、それは俺の期待であって推測ではなかろう。

俺は肩に手をかけ、ハルヒを抱き寄せるようにその手に力を込めた。しばらく離したくない。死んでもいいと、この時ばかりは本気でそう思った。

すぐ近くからズン!という重量感のある音と共に揺れるような震動が伝わった。

多分、髪飾りの効力が消えて光の巨人が動き出したのだろう。

とはいえ、俺にはもう武器もなかったし、俺たちには逃げ場もなかった。せめてハルヒだけでもと、反射的にかばうよう抱き寄せていたが、それも無駄なあがきなんだろうと思う。

すまん、ハルヒ。俺はお前を守れなかった。何の力にもなれなかった。本当にすまん。許してくれ。

ハルヒをまた強く抱き締める。不意に目からとめどめもなく涙がこぼれだし、嗚咽が漏れた。

どうせなら生きてる内にもっときちんとした形でハルヒに告白しておけば良かった、例えフラれようともそっちの方が絶対にマシだった、とか思った次の瞬間、俺はいきなり無重力下に置かれ、反転し、左半身を嫌と言うほどの衝撃が襲って、ああ、ついに俺は光の巨人に踏み潰されて死んだのか、短くて後悔の残る人生だったなと思い最期の光景を脳裏に焼き付けようと目を開いたら、見慣れた天井がそこにあって固まった。


ここは部屋だ。俺の部屋。

首をひねればそこはベッドで、俺は床に直接寝転がっている自分を発見した。

着ているものは当然スウェットの上下。乱れた布団が半分以上もベッドからずり下がり、そして俺は手を後ろについてバカみたいに半口を開けているという寸法だ。

当たり前のことだが、思考能力が復活するまでには結構な時間がかかった。

半分無意識の状態で立ち上がった俺は、カーテンを開けて窓の外をうかがい、ぽつぽつと光る幾ばくかの星や道を照らす街灯、ちらちらと点いている住宅の明かりを確認してから、部屋の中央をバターになってしまった虎のようにグルグル円を描いて歩き回った。

夢か? 夢なのか?

見知ったクラスメイトの女と悲劇だか喜劇だか解らないカオスなラブサスペンスを演じた挙げ句、無理矢理キスまでしてしまうという、フロイト先生に話したら失笑して精神科医を紹介されそうな、そんな意味不明な夢を見ていたのか。

ぐあっ! 今すぐアヒルになりてえ! アヒルになって全てをなかったことにしたい!

この世界に魔術だとか魔法の類いがなかったことに感謝すべきだったかもしれない。手の届く範囲に魔法薬入りの料理があったなら、俺は躊躇なく「大好物だぜーっ!」と言いながらガツガツ食い散らかしていただろう。

あれがごくまともな夢だったなら、まだ俺は自分が見た夢の内容について正しい自己分析が出来ていたものを、なのによりにもよって即死の猿ってなんだよ、神人とかアホか? 女神朝倉は尻から魔法みたいなのを出していたし、ハイパー化したキタキタオヤジまで出てきやがった。俺の深層意識はいったい何を考えているんだ? 死ぬのか?

俺はぐったりとベッドに着席し、首をくくる五秒前程度には頭を抱えた。あれほどリアルな夢は長門の時以来だが、今回はそんな生易しいもんじゃない。じっとりと汗ばんだ右手、体に微かに残るあいつの温もり、それに唇には湿った感触がまだ。

なんであんな夢を見たのかと今すぐ誰かに逆ギレしたい。

俺は目覚まし時計を持ち上げて現時刻を確認、午前二時十三分。

寝よう。寝るしかない。それしかない。

俺は布団を頭まで被り、冴え渡った脳髄に睡眠を要求した。


一睡も出来なかったけどな。

そんなわけで俺は今、這うようにして不元気に一年五組の教室へとやって来ていた。

開けっ放しの戸口からは今日も半裸のオヤジとメケメケの姿が見える。改めて思うが、何だろうね、あのオヤジ。制服の代わりに腰ミノつけて奇怪な踊りをする中年姿の高校生っていくら何でも無理があるだろ。いつものようにハゲ頭が太陽の光を乱反射して眩しいしさ。

中に入ると、教室の端、オヤジからの避難場所である定位置にハルヒがいた。だが今日は不思議なことにもいつもの髪飾りをしていないし、夢と同じでショートヘアに変わっている。ついでに言えば、何だか眉が太くなっているような気もした。

まさかな……。んな訳ないよな?

「眠たそうだな」

近寄ってハルヒに声をかけると、何か不機嫌なことでもあったのか、すぐに目を逸らされた。一応尋ねてみる。

「髪切ったんだな……。それに今日はいつもの髪飾りをしてないし。イメチェンか?」

「別に。どうでもいいでしょ」

ひどくぶっきらぼうな返事。そのため、俺が返す言葉を失っていたら、やや間を空けて、

「あれ……落ちて割れちゃったみたいなのよ。……悪かったわね」

ふてくされたような口調だった。偶然……ってのは怖いよな、ホント。

いや、これはひょっとしたら予知夢ってやつか? 知らない間に俺は超能力に目覚めたのかもしれない。

「ハルヒ。もしかしたら俺、予知能力者かもしれないぞ。昨日、お前の髪飾りが壊れる夢を見たからな。髪もショートヘアになってたし」

「あ、そう」

軽く流されて少し凹む。ハルヒは熱心に壁の傷でも数えているのか一向にこちらを向いてくれないしな。

俺は昨日よりもほんの少しだけ勇気を出してこう言った。

「今度、お前に似合いそうな髪飾りを買ってくる」

ハルヒは更に顔を背けて、

「ふん」

表情は見えなかったが、少しだけ耳が赤くなっていたような気もする。気のせいでないと思いたいところだが、さてどうなんだろうか。

「約束だからね。忘れたら死刑だから」

そんなことを小声で言われたな。

その後のことを少しだけ語ろう。

ハルヒはその昼には似合ってないと自覚したのか、あっさり眉のメイクを落としてしまった。やはり眉毛が太くてそれが似合う天使は朝倉しかいない。あいつは特別というより別格な気がする。


キタキタオヤジとは授業が始まる直前に少しだけ話をした。後ろからツンツンとつつかれ続けたから振り向かざるを得なかったんだ。

「昨日はお互い大変でしたなあ、しかし全員無事で何よりかと。それもこれも全て、私のアドバイスとキタキタ踊りのおかげですかな?」

意味は解らなかったし、そのドヤ顔に対して無性に腹が立ったのも事実だったが、俺は何も言わずに前を向くだけにとどめた。今度、何か言ってきたら問答無用でラリアットをかまそうと思う。

古泉とは、休み時間、トイレに行った帰りに廊下で出会った。

「あの剣、役に立ったでしょう?」

あの件と言われても、何の話だかさっぱり(ハァー、さっぱりさっぱりー)だ。大体、こいつとは一分一秒たりとも関わりたくない。俺はこいつのことが嫌いだしな。完全にシカトしておいた。


そして、昼休みには朝倉から話しかけられた。気まずくてお互い話しかけられないという事態だけは避けられたようだ。

「ごめんね、キョン君。まさかこんなことになるなんて思ってなかったから……。全部、あたしの責任」

何のことだろうな。俺は朝倉から謝られるようなことをされた記憶はないんだが。むしろ、どちらかと言えば俺が謝る側だろう。

朝倉は困ったように笑った後で、

「本当にキョン君って優しいね。でも、駄目。もうあたしに優しくしないでね。辛くなるから」

くるりと後ろを向いて、

「涼宮さんには朝イチでキョン君にフラれちゃったって伝えておいたから安心して。……本当のことだしね」

秋のそよ風のように朝倉は去っていった。後ろ姿が何だか切なそうに見えたが、それはやはり俺のせいなんだろうな。胸がズキリと痛む。

放課後の部室にはいつも通り長門がマウス片手にパソコンをカチカチいじっていて、朝比奈さんはなぜか知らんが涙ぐんでいたな。

「よかった、また会えて……」

ハンカチ片手に涙をふきふき、まるで卒業式の様相で、

「もう二度と……(ぐしゅ)こっちに、も、(ぐしゅ)戻ってこれないかと、思、」

何か余程怖い体験でもしたのかもしれない。それとも今日はそんな設定で役柄を作って遊んでいるのだろうか。

どうしたものかと長門に目を向けると、

「あなたはイベントの大半をすっぽかした。そのせいで彼の活躍シーンはなくなった」

無表情に変わりはないんだが、何故かほんの少しだけ怒ってるような雰囲気だった。何の話だ?

「クソゲーの話。特に猿が強敵だった。あれは無敵状態に近い。ひきょう」

それ以上は一言も喋ろうとしなかった。俺が見た夢のことかと思い最初焦ったが、そうではなく、どうやらゲームの話のようだ。ていうか、そうでなかったら俺は自殺もんに恥ずかしい。死にたい。

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