学校からの帰り道、死神に声をかけられた (90)


「ちゃーす」
 それは大通りから住宅地に入ったところでのことだった。妙にゆるくて軽い声がした。
 学がそちらに目を向けると黒いパーカーの女性がひらひらとこちらに手を振っているのが見えた。

 うっすらと焼いた肌、それから短い髪はあまり綺麗でない染めものの金。
 ホットパンツから伸びるむき出しの脚もそうだけれどなんだか派手な雰囲気の人で、女性というよりはギャルとかそういう言葉の方が近いかもしれない。
 見覚えはなく、だから多分会ったこともない。
 けれどもそのギャルはなぜだか気安い様子でこちらに近づいてくるのだった。

「はろーん」
「えっと……誰、ですか?」
「え、わたし? アケミだよ」
 聞いたことのない名前だ。余計困惑する学の様子に気づいてか、アケミとやらは言葉を付け足した。
「あと死神。オーケー?」
 何も分からないのはそのままだが、とりあえず関わってはいけない人種ということだけはしっかりと理解した。


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「なんでさー。なんで逃げるのさー」
 声を背中に聞きながら学は足をさらに急がせた。
「怖がんないでよー。ちょっと訊きたいことがあるだけだから止まってってばー」
 無茶な注文するなあと思いながら速度を上げる。

 もちろん走って逃げたかったが、下手に刺激するのもそれはそれで危ない。
 このまま距離を稼いで変質者が諦めてくれるのを待つのがベストではあるのだが。
 しかし。
「ねーえー、学クンってばー」

 なぜか名前を知られていた。
 ぞっと背筋を冷やして背後を振り向くと目が合う。
 フードの下のその顔は薄く笑みを浮かべている……
 学はとうとう堪えきれなくなって、一目散に駆けだした。


 帰宅はいつもより遅くなった。
 真っ直ぐ帰っては住所が割れてしまうなどと不安になったからだ。
 近くの通りを二周ほどして、尾行がないと分かってからようやく玄関をくぐった。

「ただいま」
 リビングの戸を開けながらつぶやく。といっても母は仕事だから返事はないのだが。
「おかえりー」
 だからあるはずのない返事が聞こえた時、学は体を硬直させるしかなかった。

 アケミはまるで当然のような顔でソファーにもたれてテレビを見ていた。
 こちらを振り向いて言う。
「や。遅かったじゃん」

「あ……え……?」
 なんで。鍵は? それよりどうして家を知って……
 いろいろな問いが頭を駆け巡るけれどどれも言葉にはならない。悲鳴すら上げられない。
 後ずさろうとしてけっつまづいた。


 尻餅の衝撃で閉じてしまった目を再び開くと、ちょうどアケミがソファーから立ち上がったところだった。
 こちらにゆっくりと近づいてくる。
 学は喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。
 恐怖で悲鳴を上げたいのに、その恐怖のせいで声が出ない。

 逃げ出すことを思いついた時にはすでに敵は目の前だった。
 こちらを見下ろすどこか冷たい視線。
 彼女はゆっくりとこちらに手を伸ばしてきた。
 学はきつく目をつむった。

「これさ。電池切れてるよね」
「……は?」
 不可解な言葉に思わず顔を上げた。
 アケミはこちらにかがみこんでリモコンを突き付けると、言葉を繰り返した。
「電池切れだと思うんだ、これ」


 意味が分からずアケミの目を見返すと、彼女は苛立ったように言葉を強くした。
「だーかーら、リモコンが反応しないんだって。チャンネル変えるのにいちいちテレビんとこまで行くのタルいんだってば」
「ええと……」
「替えの電池どこよ」

 ふらふらと離れた棚の引き出しを指さすと、アケミは立ち上がってそちらに歩いていった。
「まったく、いきなり逃げ出すわ質問にはすぐ答えないわ最近の子ってもう」
 何やらぶつぶつこぼしているようだが、学にはかなり訳が分からなかった。
(一体、何……?)

「いつまでそこに座ってんの?」
 電池を替え終わりソファーに着いたアケミが言う。
 学は混乱したままながらもなんとか立ち上がった。
 とりあえず危険な人ではないらしい。
 変な人であることは間違いないが。

 おそるおそるそばまで行くと、彼女は隣を示した。
「どうぞ」
「……どうも」


 自分の家にも関わらず居心地悪く相撲を見終わった後。
 学はアケミが立ち上がって伸びをするのを見上げた。
「あー面白かった」

 そしてそのまま玄関の方へ行こうとする。
「じゃーね」
「いや、あの!」
 面倒事を嫌う気持ちよりも知りたいと思う気持ちの方が勝った。

「ん?」
「いやその。何しに来たんですかあなた」
「んー?」
 何か妙なことを言われたかのようにアケミは顔をしかめた。
 が、数秒して理解したらしい。眉間のしわが消えた。

「聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいこと?」
「そう。そのためにわたしは来たの。とても大事なこと」
「……でも忘れてた?」
「うん、忘れてた」
 悪びれる様子もなく言う。今度は学の眉間にしわが寄った。


「まあいいじゃん。それよりさ、和泉香奈ちゃんって知ってる?」
「はあ、まあ。同級生ですし」
「その子の家、教えて」
「お断りします」

「えー。なんでよ」
 あなたが怪しすぎるからです。とは言えない。
「なんでって……。そんなことよりなんでここの鍵を開けられたんです? あと僕の家がわかったのはどうして?」

 話をそらすためもあったが、それも一応純粋に気にはなっていた。
 アケミはそれらの問いに一言で答えてみせた。
「死神だから」
 結局この人はやっぱり危ない人だということだけが分かり、幼馴染の住所は絶対に教えるものかと学は誓った。


 その気配が伝わったのかもしれない。アケミはちぇっ、と舌打ちして背中を向けた。
「まあいいや。今度こそじゃーねー」
 リビングのドアが閉まり、しかし玄関のドアの開閉音はしなかった。

 訝しく思っているとようやく音がしたけれど、仕事を終えた母が返ってきただけらしい。
「ただいま」
「おかえり……ってあの、誰かいなかった?」
「誰かって、どこに?」
「玄関のとことか、すぐそことか」
「いないわよ。……あんた大丈夫?」

 母は呆れたように肩をすくめるとキッチンに入っていった。
 途方に暮れた学が視線を巡らすと、鳥籠の中のインコと目があった。
 小さなそのインコはきゅっと首を傾げて見せた。

つづく


 朝、目を覚ましてすぐに学は周りを見回した。
 部屋に自分以外誰もいないことを確認し、ほっと息をつく。
 昨日のあれ以降、何となく気配が残っているように思えて気が休まらなかったのだ。
(本当、なんだったんだろう)

 朝食後、インコの餌と飲み水を取り替えて学校へと出発してからも胸のもやもやは晴れなかった。
 死神、それからアケミと名乗った変質者のことも気になるし、彼女が住所を知りたがっていた同級生のことも気になる。
 何か変なことにならなければいいけど、と学は心配になった。
 自分のせいで他人が何らかの被害を受けるなんてことになったら後味が悪い。
 まあ昨日のあの様子だともう学に用はなさそうではあったし、だとしたらもう会うこともないだろうけれど。

 住宅地を出て大通りに出て角を曲がるとアケミがいた。
「!?」
 学は息を詰まらせて立ち止まった。


 コンビニ駐車場の端に、彼女は昨日と全く同じ格好で立っていた。
 ポケットに手を突っ込んで、見るからに退屈そうというかタルいぜオーラを周囲に放射している。
 明らかにスーツや学生服といった朝の風景からは浮いていた。

 学はとっさに気づかれないように顔と視線を伏せた。
 心持ちアケミとは反対側に体を向けるようにして、目を引かないようにゆっくりと、だができるだけ速く前を通り過ぎようとした。
 のだが。

「なんか落ちてんの?」
「わっ!?」
 突然視界に現れたアケミに、学は小さく悲鳴を上げた。


 学の足元をしばらくじろじろ眺めながら彼女が言う。
「なんだろ。何もないように見えるけど」
「は、はあ」
「でもあんたにはなんか見えるわけ?」
「いえ何も」
「ふーん、見えないのに見てたんだ。変なやつ」

 あなたほどじゃありませんよ。
 思わずこぼれそうになった言葉を飲み込んで学は彼女に背を向けた。
「すみませんが僕、学校があるので」
 そそくさと逃げようとする学だったがぎゅっと首が閉まる感覚とともに後ろによろめいた。
 襟首を掴まれて引き戻されたのだ。

「なにするんですか!」
 ぞっとして今度こそ叫び声を上げる。
 ついに本性を現したか?

 アケミはあっけらかんと言う。
「いや、危ないから」
「あ、危ない?」
 確かに変質者に捕まっている今はとても危険な状態かもしれないけれど。
「うん。わたしの仕事の時間なんよ」
「仕事って……」
「死神の仕事。邪魔しないでね。手間増やすのも禁止」
 その時けたたましい音がした。


 鼓膜を刺すような高い音。それから腹に響く衝突音。
 角を曲がるのに失敗した車が、対向車にはじき出されて学の目の前を通過していき、コンビニの塀に激突した。
 それだけはしばらくして理解できた。
 それ以外の全ては何も頭に入ってこなかった。
 学は突然降ってきた静寂の真ん中で呆然と立ち尽くした。

 気づいたときにはどの道を通ったのかも分からないままに学校にいた。
 周りでは何やら興奮したように会話が交わされている。
 どうやらさっきの事故のことらしい。
 席に座ったまま、学はぼんやりと黒板を見つめた。

 アケミはいつの間にかいなくなっていた。

つづく


 呆けた頭で過ごす七時間弱はずいぶん早く過ぎたように思えた。
 朝いつの間にか学校にいたのと同じく、気づいたら放課のチャイムが鳴っていた。
 なんだか妙に感覚が遠いように思える。
 意識だけが別の世界にいて、そこから体を操縦しているような気分だった。

 全校清掃として割り当てられた東階段を箒がけしていると、喧噪に混じって声が聞こえた。
「やっぱりあれ、死んだんだって」
 学はびくりと手を止めた。
 顔を上げて声のした階下に目を向ける。

 声は心持ち低く抑えられて聞き取りにくかったが、確かに「死んだ」と言ったようだった。
 本当? と聞き返す相手に、そうなの、と最初の声は続けた。
「っていっても又聞きの話なんだけどね、とにかく車は運転席側がぺちゃんこでね、人が入る隙間もないくらいだったって。
 だから生きているはずないし、実際その後来た救急隊の人たちの雰囲気もなんかそんな感じだったらしいよ」

「そんな感じって?」
「なんかこう、あるじゃない。中見て首振るとか。多分」
「あー、なるほど?」

 二つの声はまだ会話を続けていたが、話しながら遠ざかったのか聞き取れなくなった。
 学は何もない踊り場を凝視したまましばらく微動だにしなかった。


 ホームルームが終わり、学は靴を履きかえて校門を出た。
 右に進むと大通りにぶつかり、その道を真っ直ぐ行けば学の家のある住宅地に着く。
 それが学の最短の帰宅コースだ。
 しかし今日は校門を左に曲がった。

 そちらは古めの家々が並ぶ区画で道は大通り方面よりも細く、進むにつれてさらに道幅は狭くなる。
 学校の敷地の縁を沿うように伸び、道の左にはポールが立ってネットが張られていた。
 その向こうに見えるグラウンドでは野球部やサッカー部が練習を始めていて、掛け声や準備運動のカウントが聞こえる。

 そしてさらに進むとグラウンドの一角に野球部らとは別にネットで区切られた区画がある。
 ラケットがボールを弾く乾いた打音を聞きながら、学は足を止めた。
 黒パーカーの後ろ姿を見つけたからだ。

 別にアケミがいると分かっていてここに来たわけではなかった。
 用事は別だ。
 だがいるかもしれないなという予感もあった。


 学は立ち止まった位置のままで口を開いた。
 話をするにはわずかに距離が遠いが人気がないので声は苦もなく届いた。
「どうしてここに?」

「死神だからね。その仕事をしなくちゃいけないっつーね」
 アケミは振り向きもせずに答えた。
 心底面倒くさそうな声だった。ついでにガムを噛む音も聞こえる。

「いや僕が訊いたのはどうやって和泉さんの居場所を突き止めたのかってことですけど……」
 言ってアケミの肩越しにテニスコートを見やる。
 当然そこではテニス部が練習をしている。
 和泉香奈はそのうちの一人だ。

「ん。まあ大変ではあったね。書類なくしちゃったからさ、対象の住所わかんなかったし。それがバレたら閻魔のジジイにどやされるからもっかい取り寄せるなんてできないし。
あとあんたが教えてくれなかったし。ケチ」
「いや失くす方が悪いでしょうよ」

 学はそう言ったがアケミは器用に聞き流して続けた。
「でもまあやりようはあるよ。書類の顔写真とか霊魂の色とかは覚えてたから地道に探してさ。偉いでしょ。褒めてよ」
「そもそも書類を失くさなければ」
「ま、そういうわけでここにいるってこと。オーケー?」


 指摘の言葉も無視されて、学は仕方なくアケミの隣に並んだ。
 離れたコートの方に目をやると練習着の部員たちがボールを打ち合っているのが見えた。
 素人目にも上手い部員もいれば下手な部員もいる。
 いまいちわからない部員が圧倒的に多いが。
 見間違えていなければ香奈は上手い方の部員だ。

 肩口ほどまでの髪を後ろでまとめた彼女の動きは無駄がなくしなやかだった。
 無理なく体を切り返して適切な位置に運び、返球にも躊躇がない。
 体格は小柄な方なのでボールにそれほど威力はないようなのだが鋭さでは他に劣っていない。
 まあ当然なのかもしれない。部長を任されるほどなのだから。

 学の口から息が漏れる。
 半分は幼馴染の能力の高さに感心して。もう半分はだいぶネガティブな感情からだ。


「アケミさんは本当に死神なんですね」
 朝の事故を思い出す。
 潰れた車と崩れたブロック塀。
「和泉さんは……死ぬんですか」

 パチン、と音がした。
 アケミの方を見ると割れたガムが口の中に戻っていくところだった。
 彼女の目はコートの方を見ているが、焦点はそこに合っているわけではなさそうだ。
 何事か深く考え込んでいるようにも見えるし何も考えていないようにも見える。

 長々とした沈黙の後、アケミは肩をすくめた。
 何か言おうとしたようだが結局何も言わずに歩いていく。
 学はその背中を見つめ、それからコートの方を振り向き、そしてまたアケミの方に視線を戻したときには黒パーカーの背中はどこにもなかった。

つづく


 なんでこの人が死ななければならなかったのか。
 そういった惜しまれ方をするであろう人間が世の中にはいる。
 香奈はきっとその一人なんだろうな、と黒板の問題を解く彼女を見ながら学は思う。

 既に一人が解答にしくじった難問なのだが、香奈は時折手を止めながらも順調に数式を連ねていた。
 香奈の頭はいい方だ。
 定期テストの合計点がクラスで何番目だの学年で何番目だのと聞こえてくることがある。
 部活動での成績はもっと優秀で、今年は全国レベルの大会も狙えるのではと噂になっているようだ。
 それから付け加えるなら見た目も悪くない。
 これについては上がもっといるらしいが。

 ただ、とにかく言えるのは彼女は才能に恵まれているということだ。
 香奈が解答を終えて席に戻った。
 教師の杉本は小さくうなずいて詳しい解説を始めた。


 休み時間になると、クラスメイトの一人が香奈に泣きついた。
 次の授業までの宿題をやっていなかったらしい。
 あまり時間のかかるような課題ではないのだが、そのクラスメイトはあまり成績の良い方ではなかったように思う。
 香奈は呆れながらも助けてやることにしたようだった。

 学がすごいなと思うのは、香奈は宿題の解答をそのまま見せてやるわけではなくしっかり順を追って教えることだ。
 彼女は要点を押さえて短く、的確に解き方を説明していた。
「答えだけ見せてよー写すから」
「その答えにした理由訊かれたらどうすんの。ほら、こことここに線引いて。この二つの記述から推測すると?」
「……三?」
「さあ。そのものずばりまではね。そこは自分で考えて」
「いいじゃんケチー」

 それから五分ほど。休み時間が終わる前にはどうやら全部解けたようだった。
「うっしできた!」
「解き方は覚えた?」
「多分だいじょぶ。ありがと、香奈大好きー!」
「それはいいけど毎回わたしに頼るのはやめてよね」
 香奈の答える声には苦笑いの響きが混じっていたが、だからといって嫌なわけではないようだ。


 才能に恵まれているだけではない。
 彼女は好かれている。
 好かれて、必要とされている。
 もちろん楽して宿題を終わらせるための道具としてではなく一人の人間として、ということだ。

「じゃあまたあとでね、詩織」
「うんおっけ」
 学はその声でようやくクラスメイトが詩織という名前だったことを思い出した。

 学が名前を覚えているクラスメイトの数は少ない。
 顔を見て名前を思い出せる人数となるともっと少ない。
 別に自分から周りと距離を置いているわけではない。
 ただ、埋めたくても埋められない距離があるのだ。


 放課後、昨日と同じようにテニス部の練習を眺めていると後ろから気配がした。
 振り返らずにつぶやく。
「なんで和泉さんが死ぬんだろ」
「さあ?」
 アケミは学の隣まで来て足を止めた。

「和泉さんは頭がよくて、部活でもいい成績残してて、人柄もよくて、好かれてるんですよ」
「頭がよくて運動神経もよくて性格は最高で、それで好かれてると死んじゃいけないってこと?」
「それは……いえそうじゃなくて」
 アケミを見るが彼女は肩をすくめるだけだった。
「わたしも知らないよー、クソジジイが決めるもん。
そのクソジジイもなんかすっげ難しい規則で決めてるらしいし。
つか興味ねえわ」

 途方に暮れて学はコートの方に目を戻した。
 ちょうど香奈の打ったボールが相手の守備範囲外を抜けたところだった。
(僕の方がぴったり過ぎるほどぴったりだと思うんだよな)
 学はぼんやりと思った。

つづく


 いつ頃から差がついたのだろうと考えることがある。
 それは時々ふっと湧いてきて、学の頭をいっぱいにする。

 学と香奈は幼馴染だ。
 小さな頃から知っている同級生は他にもいるが、学が幼馴染と思っているのは香奈ただ一人で、それだけ香奈との思い出は特別だった。

 大きくなったら結婚しよう。
 はっきりとした記憶はないがその種の約束もしたかもしれない。
 だが約束をしたかどうかそのものは重要ではないはずだ。

 いつも一緒にいた、というほど始終べったりくっついていたわけでもない。
 もっと長く時間を共にした仲間も別にいたし、香奈の方だってそうだっただろう。
 それでも香奈と一緒に過ごす時間はそうでない時間よりもずっと楽しかった。
 香奈の方はそう思ってくれていただろうか。
 知りようもない。けれどそうであって欲しいと学は願っている。


 学校が終わって家に帰ると庭に出る。
 すると境を接する向こうの庭から香奈もやってくる。
 今日は何する? から始まって、また明日、までを一緒に過ごす。

 そのまま庭で遊ぶこともあればどちらかの家で遊ぶこともあった。
 それ以外の場合ももちろんある。
 あるときは一緒にとても遠くまで歩いてみた。

 まだ世界の広さを知らない子供にとって「輪の外」というのはとても恐ろしく、しかしだからこそ魅力的なものだ。
 この道はとても遠くまで伸びているけれどどこで途切れるのだろうと、疑問を持つ子供は少なくない。
 学たちもそれは同じで興味本位で歩き始めたのだった。

 どこまで行っても道は終わらないことを悟り始めたのは夕方になってからだ。
 景色は変わり、薄暗くなり始め、気づいた時には足がジンジンと痛んでいて、とうとう香奈がべそをかいた。
 その段になってようやく二人はとぼとぼ引き返し始めた。
 今にも泣き出しそうな香奈の手を、学がしっかり握って歩いたのだ。
 あの時はまだ自分の方が強かった、と学は思う。


 おそらくは中学生になってからだ。
 何かが変わった。
 わずかながらも確かなものなのに、はっきり言い表すことのできない変化。
 思春期という言葉でそれが括られるのだと知った時には香奈はずいぶん遠くなっていた。

 別々の友達が増えた。
 話す機会が減った。
 庭に集合することもなくなった。
 一緒に迷子になった記憶もいつしかかすんでなかったことになった。

 そして、それからだと思う。
 なんだかどうにも生きづらくなった。


 何をしてもわからない。
 何をしても違う気がする。
 友達と話していても別のことを考えていて、遊んでいても心はそこにない。

 思春期。
 便利な言葉だと思う。
 居心地の悪さ気持ちの悪さ苛立ちの積み重なりもその一言で片づけられるのだから。
 ああ思春期だね、それ。
 その言葉でまた鬱積するものもある。

 笑うことをやめた。
 それだけで人は寄り付かなくなった。
 機嫌を取ることもやめた。
 孤立した。

 それでいいと思った。
 なぜならそれでいいとしか思えなかったのだから。
 だから思う。
 死ぬなら僕なんじゃないだろうか、と。

つづく


 セキセイインコのモモを飼い始めたのはまだ香奈と付き合いがあった頃のことだ。
 青い色の小さな一羽で、しょっちゅうケージから出しては香奈と一緒に遊んでやったものだった。
 言葉を覚えさせるのには苦労した。人懐こいがあまり頭のいいインコではなかった。
 二人で一生懸命教えて、ようやくごちょごちょとつぶやくようになった。

 「おはよう」と「こんにちは」、それから――


 モモはその日の朝、学が目を離した隙に窓から逃げ出した。
 今までどれだけ自由にさせていてもそんなことはなかったので油断していたのだ。
 運よく、かどうかはわからないがその日は日曜日で、学はモモを探しに家を出た。

 住宅地をくまなく歩き、視線を方々に巡らせて。
 モモの好物の菜っ葉も持ってきていたが、どうにも楽観的な気分にはなれなかった。
 インコは逃げ出したくて逃げ出したのだから、もう彼は戻ってきたくないということだろう。

 どことなく因縁めいたものもまた感じる。
 あれは二人のインコだったのだから。
 香奈がさらに遠のいたように思った。

 夕方まで外にいたが、ほとんどの時間は公園の隅のベンチで過ごした。
 小さい子たちが遊ぶ声を聞きながら見上げる空は、昔よりもう少しだけ高い場所にある気がした。


 結局ろくに探しもしないまま帰ると、玄関前に人が待っていた。
「や」
 呆気にとられる学の前で香奈は片手を上げて見せる。
 もう片方の手に提げられたケージから、モモが元気な鳴き声を上げた。

「この子がね、庭の木にとまってたから」
「あ……うん」
 ようやくそれだけ答えて差し出されたケージを受け取る。 
「その、どうも。ケージはすぐ返すから」
「いいよ。もらっといて。うちでは使わないし」

 そっか、とだけ学は答えて香奈の目を見返した。
 香奈は何かを言おうとしたようだったが、結局小さく笑っただけで踵を返した。
「あそぼ」
 声がしたのはその時だ。


 学が見下ろすと、モモはケージの側面にしがみついてもう一度言った。
「あそぼっ」
 彼は必死に香奈を見つめているようだった。
 モモはさらに二、三度、「あそぼ」と叫んだ。

 香奈はインコを見下ろしていた目を学に持ち上げて、少し迷ったようだ。
 ええと、と一拍おいて彼女は言った。
「少しお邪魔していってもいいかな?」

つづく


 さらに三回ほどモモに吹き込んだところで学の視線に気づいたらしい。
「何? 文句?」
「いや、文句ってほどじゃない、かな……」
 どういう意図で教え込んでいるのか疑問ではあったが。

 立ち上がって新しい菜っ葉を持ってくると、モモは近寄ってついばみ始めた。
 その一生懸命な様子がおかしかったのか、香奈はちらりと笑顔を見せた。
「そういえばそろそろ定期テストだけど、まーくんは大丈夫?」
 学が絶句して何も言えないでいると、香奈はどうしたの、と怪訝そうな顔をした。

「あ、いや」
 学は首を振る。
「まあぼちぼちだよ、うん」
 まーくんか、と胸中でつぶやいた。
 そう呼ばれていたのはずいぶん昔のことだ。
 また胸の奥が痛んだ。


「でも今回範囲広いじゃない? おまけに杉本先生が結構張り切ってるらしいよ、見た目からじゃわからないけど」
 杉本教師はあまり気分の変化が大きい人間ではない。
 それでも声の微妙なトーンから機嫌の良し悪しは大体わかる。
 最近はずっと上がり調子のようで、多分家の猫が子供を産んだからだろうけれど、これがテストの難度に影響することは間違いない。
 過去のパターンから察するに、平均点がおよそ四点ほど下がる。

 以上を香奈から聞いて、学は感心した。
「和泉さんて観察力すごいねえ」
 言ってしまってからはっとした。
 ミスをした。

 香奈がじっとこちらを見ている。
 その視線の意味は分かる。
 だが、何も言うことはできなかった。
 目をそらしてごまかした。
「……何か飲む?」
「ううん。いい」


 昔、香奈と喧嘩した時のことを思い出した。
 確か何かの約束を破った破らないという食い違いだったように記憶している。
 言い合いではなくて黙り合いというべきか、重い沈黙の中で見つめ合っていた。
 あのきまりの悪さが今とよく似ているように思った。
 ただあの時と違うのは、これが喧嘩ではないということだろう。

 香奈がモモを指に乗せて「こんにちは」と語り掛けた。
 モモは首を傾げて何も答えなかった。
 それをもう二度繰り返して、やはり答えないモモを下ろし、彼女は立ち上がった。
「帰るね」

 何か言うべきだったかもしれない。
 だが結局何も言えず、玄関のドアが閉まる音を遠くに聞いた。

つづく


「暗いよー、どしたん?」
 声が後ろから追いかけてくる。
 正直うっとうしかったのだが振り切る気力もない。
 学はうつむいたまま学校からの帰路を歩き続けた。

「……アケミさんは仕事、いいんですか」
 背後を歩く死神に問うが、アケミはどこか楽しそうに、
「これも仕事仕事」
 とだけ答えた。

 仕事? 僕に構うことが?
 疑問だったがそれ以上訊く元気もなく、再び押し黙って歩き続ける。
 ただしアケミは黙らない。

「で、なになに? 失恋とか?」
 恋もしてないのに失恋なんかできるわけがないだろうに。
 そう思ってみるのだがしかしどこか核心を突かれた感は否めない。
 アケミもそれに気づいたのか、「ははあ」とつぶやいたようだった。


「そっか、ご愁傷様」
「何がですか」
「だいじょぶだいじょーぶ、そのうち新しいコが見つかるって」
「だから何がですか」
「いいからいいから。おねーさんは全部わかってるから」
 追いついて横に並んだ彼女は学の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 
「なんにも知らないくせに」
 小さな声だったがアケミは聞き逃さなかったようだ。
「んー、まあぶっちゃけそうね。説明してもらわなきゃなんにもわかんないね。
あ、いや想像はできるかな。カナちゃんと喧嘩しちまっただー、とか」
「違います」
「じゃあ喧嘩じゃないんしょ? 気まずくなっちゃったとか?」


「……実は見てたんじゃないですよね。昨日のこと」
「そんなワケないじゃーん。わたしこれでも結構忙しいし?」
「ならいいんですけど」
 もちろん全面的に信用はできない。
 何せ相手は死神だしその上変質者だ。

 アケミは少しの空白を挟んで再び口を開いた。
「でもいつかは死んじゃうんだし、悔いのないようにしときなよ」
 足が止まる。
 アケミも遅れて立ち止まった。
「どした?」


 ちょうどコンビニの前だった。あのコンビニだ。
 まだ事故の跡が残っていた。
 これから修繕もされるのだろうが、今はまだ残っていた。

「……」
 そこから目を離せない。
 数日前にここで一人が死んでいる。
 そう思うと冷たいものが足元から這い上がってくるのを感じた。

「怖い?」
 アケミの声で我に返った。
「大丈夫?」
「あ……はい」


 再び歩き出しながら、考えていたのはやはり例の事故のことだった。
 いや、もっと正確にいうならば、事故によってよりはっきり意識させられてしまう香奈の死のことだった。

 腹に響く衝突の音。金属のひしゃげる音、ガラスの割れる音。
 その向こうに人間がつぶれる音もあったのかもしれない。
 そしてそれが学が生まれて初めて触れた鮮明な死の形なのだった。

 香奈が死ぬ。それは香奈があの轟音に呑まれるということだ。
 そして、形をとどめない。
 潰れて、死に顔もわからない。


 立ち止まっていた。
 うつむいていたので自分の足とアスファルトの表面だけが見えた。
「後悔したくなかったら、後悔しないだけのことをしないとね」
 アケミの声が聞こえた。真面目、とは程遠いからかっているような口調。
「まあそれでも後悔するときはするけど。ていうかもっと後悔することもあるけど。
でもやったという事実は残る。変化は起きる。
それがほしけりゃまず行動ってね」

 顔を上げた。
 目の前には誰もいない夕日の道が伸びていた。
 死神はどこにもいなかった。

つづく


 電話番号を押す指が震えた。
 その後に通話ボタンを押すのにはさらに一時間ほどが必要だった。
 それでもちゃんと話をすることはできた。


 はい、どなたですか。
 答える自分の声が少し上ずるのを学は感じた。
「小林です。和泉香奈さんはいますか」
「あら、もしかして学くん? 久しぶりねえ」

 電話を取ったのはどうやら香奈の母親だったらしい。
 香奈に直接つながる番号は知らなかったので香奈の家の方に電話をかけたのだ。
 弾んだ声で元気か、変わりはないかと簡単に訊かれた後、少し待つように言われた。
 何かを察したようだった。

(当たり前か……)
 電話をするなんて小学生以来だし香奈の母親も学たちが疎遠になったことを知っていてもおかしくはない。
 学の変化も知っているかもしれない。
 いきなり連絡があれば何かあると感づくのも道理だ。


 もっとも、学には大した用事があるわけでもなかったが。

 待つ時間は長かった。
 気持ちの問題で長く感じたのもあるだろうが、それでも長かった。
「……はい」
 だが香奈のこわばった声を聞いて、彼女の方も電話に出る気になれなかったのだと悟った。

「ええと……学です」
「うん。何か用事? 小林君」
 ――覚悟していたとはいえダメージは大きかった。

「もしもし?」
 香奈の声が聞こえるまでかなり沈黙の間があいたことに気づかなかった。
「あ……ああ、いいや。なんでもないよ」


 唾を飲む。
 用意していた言葉を確認する。
 謝りたかったしもう一度あの呼び方で読んでほしかった。
 他にもいろいろ話がしたかった。
 そしてそれらが言葉にならないことを知った。

「で、何?」
 言葉にならないのだから何も言うことはできない。
 沈黙に苛立ったのか香奈の声が冷たくなった。
「用事がないなら切るね」
「僕らが迷子になったのって何年前だったっけ」
 とっさに出た言葉は自分でもよくわからないものだった。

つづく


「迷子?」
「うん、迷子。昔、道が途切れるところまで歩いてみようなんて馬鹿な真似したことあったよね」
 香奈は答えなかった。
 忘れてしまっているのだろう、無理もない。

「あれは何歳の時だったかな、と思ったんだ。何を見たか何をしたかはよく覚えてるんだけど、それだけは思い出せなくて」
「そんなことを聞くために電話したの?」
 香奈は本気で訝しんでいるようだったが、学は構わず続けた。

「思い立ったのは朝十時ごろ。時計が読めるようにはなっていて、それを、カナちゃんに自慢したから間違いない。
歩き続けてそれから六時間近く。ずいぶん遠くまで行ったように思ったけど、後で調べたら実際は隣町までしか行けてなかった。
香奈が転んで膝をすりむいた。手をつないでいた僕も転んでこっちは肘をすりむいた」

 一気に語る。
 ただカナちゃんと呼ぶ時だけはわずかに言葉に詰まった。


 電話機の向こうには沈黙だけがあった。
 それでも口を止めることはできなかった。
「夕焼けの道をべそをかきながら引き返して、家にたどり着いたのは確か七時だ。
時計を指さしながら母さんが怒ってたから多分これも間違いない。
我慢していた分が弾けて、香奈が見ていなかったのもあったから、すごい大泣きしちゃったんだ」

 まだまだ言いたいことはあった。
 遠くの町のにおいとか、そこに見た人の数とか、帰り道の香奈の手の温かさとか。
 だが口はそこで止まった。
「ごめん……」
 後悔が胸を満たしていた。
「変なことばかり言って、ごめん」


「十年前じゃないかな」
 香奈の声がした。
「え?」
「あの日の前か後にわたしの五歳の誕生日があったはずだから、多分十年前だよ」

 その声は淡々としていて、抑揚はなくて、でも冷たくはなかった。
「忘れてた。そんなこともあったね。わたしはその誕生日の方は覚えてたけど。
なんでかなって思ったら、迷子になってたんだ。
まーくんは、どう? 誕生日の方は覚えてた?」

「……忘れてた」
 また呼んでもらえた、と。
 そちらの方に意識を取られた。


「ひどいなあ」
 電話の向こうで声が笑った。
「その誕生日でまーくんは、まーくんが大事にしていたキーホルダーをくれたのに。
青い鳥の形のキーホルダー。
わたしが欲しがってるのをまーくんは知ってて、自分の宝物なのにプレゼントしてくれたんだよね」

 本当は生きている鳥を飼いたかった。
 でも母からは大きくなってからねと言われていて、代わりに渡されたそのキーホルダーを大事に大事に持っていたのだ。
 それを香奈にあげた。

「うれしかったなあ……。その後二人で約束したっけ。貯金して、本物の青い鳥を飼おうって」
 そうして手に入れたのが、セキセイインコのモモだ。
「今でも大事にしてるよ、あのキーホルダー。鞄のところについてるんだけど。
ちょっと汚れちゃっててそれはごめんかな」


 それから長い話をした。
 くだらないことと大したことでないこと、それから大切なこと。
 とりとめもない会話だったけれど、とても楽しかった。
 心がするりとほどけていくのを感じた。

「それじゃあおやすみ」
「おやすみ」
 名残惜しく耳から電話機を離す。
 だが電話を切る前に「ちょっと待って」と声がした。

「もう一つ思い出した」
 香奈は言った。
「あのキーホルダーね。本当はあれそのものが欲しかったわけじゃないの」
「え?」
「まーくんとお揃いの印が欲しくて、同じのを探してたの」


 つん、と鼻の奥が痛むのを感じた。
「それだけ。おやすみ」
 その声だけを残して電話は切れた。

 ツー、ツー、と無機質な音に、学はじっと耳を凝らしていた。
 目をつぶって一生懸命に聞き取ろうとしていた。
 それだけ。おやすみ。
 その「それだけ」がどれだけ僕の心を揺さぶるか、君は知っているのだろうか。
 学は耳を凝らしていた。

 電話機を下ろして学は目を開いた。
 心は決まった。

つづく


……

 放課後になった。学はネット越しにテニス部の練習風景を眺めていた。
「ちっす」
 声のした方に振り向くと、死神が片手をあげて笑っている。

「……どうも」
「うい。どーもどーも」
 軽く言って、彼女は学の隣に並んだ。
「どう、調子は」

「ぼちぼち、ですかね。そっちは?」
「順調順調。今日でこの仕事も終わりだよ」
「そうですか」
 学は答えながら一歩、さりげなく足を引いた。アケミは気づかなかったようだ。
「そうなんよ。ようやく一区切りついたんだ」
「……そう、ですか」


「今回はちょぉっと厄介だったよー。対象がなんか無理難題言ってきてさ」
 学は足音を立てないようにさらに下がる。
「死ぬ前に頼みを聞いてくれなんてあんまりあることじゃないんだけどね」
 もうアケミの言葉は聞いていなかった。学はそこにあった金属バットを何気なく拾った。
 おそらくは野球部のものだろう。まあそれは大したことではない。

「でも学クンもラッキーだよ。繰り返しだけどこんなこと頻繁にあるわけじゃないからね。
神様には嫌われてなかったってことだ。よかったよかったおめで――」

 学は持ち上げていたバットを勢いよくアケミの頭に振り下ろした。
 食いしばった歯の間から息が漏れた。
 そして、これから伝わってくるであろう嫌な手応えの恐怖に堪えた。


 ……空が見えていた。
 夕暮れが近づくどうにもすっきりしない空。
 鳥が高いところに一羽、飛んでいく。

「ぐ……」
 身体が、特に背中が痛んだ。
 上体を起こすとアケミがこちらを見下ろしていた。
「へえ」
 別段いつもと違う目ではないのだが、学はその視線に震えた。

「なるほど。そういうコト。カナちゃんを守るため、わたしをやっつけちゃうことに決めたんだ?」
 学は答えずに右手のバットを握る。
 まだ身体は震えているけれど、そうすることで少しだけ恐怖が消えた。
 立ち上がる。バットを構えた。


 少しの沈黙。
 アケミがため息をつく。
「やるなら早くした方がいいよ。後ろ見てみ。待ったげるから」

 その言葉が終わる前に、背後からはざわめきが聞こえていた。
 振り向くとコートの方に人だかりができている。
「誰か倒れたんじゃないかな。大丈夫かな」
「この……っ」
 怒りと共に突進した。

 そして路面に叩きつけられて息を詰まらせた。


「ぐう……」
 何度同じことを繰り返したかもうわからない。
 ただ、いつのまにか起き上がれなくなっていた。

 先ほどより空が暗い。
 深呼吸を繰り返し、ようやく上体を起こすことに成功する。
 バットはどこかに行ってしまったようだ。

「終わり?」
 アケミは立ち位置すら大して変えないままそこにいた。
「終わったならわたしは行くよ。仕事しなくちゃ」


 行かせてはならない。
 香奈を連れていかせるわけにはいかない。
 絶対に。

「取引……」
「ん?」
「取引……しよう」

 興味をひかれたわけではないのだろうが、アケミは「どんな?」と返してきた。
「香奈は殺すな。代わりに」
 息を吸う。
「僕を連れてけ」


「無理」
 即答だった。
「なんでだよ!」
「無理なもんは無理」
 それだけ言ってアケミは背を向けた。
「そんじゃね」

「待てよ! 香奈を連れていくな!」
 残った力を振り絞って立ち上がる。
「連れていくな……!」

 アケミは呆れたようだ。振り向かないまま肩をすくめた。
「頑張るねえ」
「必死にもなるさ。香奈はみんなに好かれてる。才能もある。必要な人間だ。僕とは違う……。
そう、僕とは違うんだ! 夢も持ってる! 学校の先生になりたいって……。未来を必要としてる人間なんだ!
だから連れていくな!」


「それだけ? それだけで仕事を放棄しろって?」
 学はうつむいた。
 これを言うのには勇気が必要だった。こんな時でも自分は臆病だと知った。

 それでも言った。
「好きなんだ……」

 さらさらと風が砂を撫でる音が聞こえる。
 先ほどのテニス部のざわめきはもう聞こえない。

「駄目か? 僕の命じゃ安すぎるって――」
「分かった。いいよ」
 アケミが振り向いた。
「あんたを連れてこう」


 それまでゆる軽さのためにアケミを死神と意識したことは一度たりともなかった。
 だがその時の彼女の目は、確かに死神のものだった。
 人の命を刈り取る者の目。

 きゅっと喉の奥が締まった。
 アケミが近寄ってくる。
 後ずさりして、踵を引っかけて尻餅をついた。

 悲鳴も上げられない。
 そして敵は目の前だった。ゆっくり手を伸ばしてくる。
 学はきつく目をつぶった。
 その瞬間は、とても長く感じた。
 死の暗闇と輝きが学のすべてを飲み込んで――
(ああ、香奈……)


 ぽん、と頭を叩かれた。
「――なーんちゃって」
 はっと目を開けると、死神は悪戯っぽく笑っていた。
 学は一瞬ぽかんとした後……目から涙があふれるのを感じた。

「生きていたい」
 つぶやく。
「香奈と一緒に生きていたい」
「うん。知ってる。よーく、知ってる」
 アケミは優しい声で言った。


……

「死は人を選ばない。誰もが死に得るし、死なない人は一人もいない」
 夕暮れが空を覆っていた。
 ネットに寄りかかりしゃがみ込んで、同じくネットに背を預けたアケミの言葉を聞いていた。

「生前にどんな偉業を成し遂げていようが人に慕われていようが死ぬときは死ぬ。逆もまた然り。
覚えてる? あの事故で死んだ人。あの人医者でね。たくさんの人を助けてたくさんの人に好かれてた。でも死んだ」
「理不尽ですね」
「そう理不尽。不条理で不平等。でも本当にそうかな?」
「え?」

「平等か不平等かなんて見方によるんだよ。死だって本当はものすごく平等かもしれない」
「でも」
「どんな人でも必ず死ぬ。これ以上の平等なんてある?」
 学は答えられなかった。
 正しいと思ったわけではないが、さりとて間違っているようにも思えなかったからだ。


「良い人は死んじゃいけないのかな。悪い人は生きてちゃいけないのかな。
その答えは知らないけど、いろんな人が死んできたことをわたしは知ってる」
 アケミはそう言ってネットから背を離した。
「そろそろ行かなきゃ」

「待ってください」
 立ち上がる。
「香奈を連れていくなら、僕も一緒に連れて行ってください」

 アケミは無言でこちらを見下ろした。
 それから急にふきだした。
 呆気にとられる学の前でひとしきり笑ったあと、彼女は涙を拭いて言った。
「どっちもお断りかなあ。だってどっちも重そうだし」
「え?」


「わたし、カナちゃんを連れてくなんて一言も言ってないよ」
「……?」
「連れてくのはこの子」

 いつの間にか、アケミの肩に青い鳥がとまっていた。
 セキセイインコのように見える。
 いや……

「モモ?」
「今回のわたしの担当はこのインコだったわけよ。テニス部の人だかりも偶然ね。だれか日射病かな」
「は!?」
「でもこの子、死ぬ前に頼みたいことがあるなんて言うんだもん。すっげえ苦労しちった」

 なぜいきなり自分のペットが出てくるのかわからなかった。
 だが混乱する学に構わずアケミは続けた。
「この子に感謝しなよ。こんなことでもなけりゃあんたカナちゃんと一生口利けなかっただろうし」


「いや、でも、ええ?」
 言葉のまとまらない学に、モモが嬉しそうに「ご注文どうぞー」としゃべった。
「ま、そういうわけ」

 アケミはこちらに背を向けた。
「それじゃこんどこそお別れだよ。バイバイ」
 そのまま歩き始め、いつの間にか降りてきていた夜の闇に黒パーカーの背中は消えた。


……

「モモちゃんいなくなって寂しいね」
 空になった小さなカゴの前で香奈がつぶやいた。
 学は土を掘る手を休めてそちらを振り返った。
「……そうだね」

「なんでいなくなっちゃったのかな」
「僕にもわからない」
「そっか」
「うん」

 泣くかと思ったが、香奈は泣かなかった。
 昔よりずっと強くなった。
 代わりに空を仰いだ。涙がこぼれそうだったのかもしれない。


 本当は香奈には打ち明けようかと思った。
 今回あったいろいろなこと。
 いやまだ迷っている。
 ただ、すぐには打ち明けることはないだろうとも思う。

「できた」
 穴は結構大きかった。
 モモの代わりにカゴを埋めることにしたのでそのためだ。

 香奈がカゴを穴の底において、土をかけ始めた。
 五分もしない内に全部が埋まってわずかに盛り上がった地面だけが残った。


「モモちゃんはさ」
 黙とうの後香奈が言った。
「死んじゃう前にわたしたちを仲直りさせてくれたのかもね」


 庭に並んで座ると風が気持ちよかった。
 草が柔らかく手に触れてくる。

「なにしようか」
「何って?」
「何だろうね」
 学はそうだ、時計を見た。
 ちょうど朝の十時。
「迷子になってみないか」

 香奈は少しだけ考える風にしてから、
「テスト近いんだけどね」
 と笑った。


 どこまでも伸びる道を一緒に歩きながら思う。
 人はいつか死ぬ。いつか誰もが死んでいく。
 不条理にして条理。
 不平等にして平等。
 だからこんな自分でも、もしかしたら香奈の隣にいることを許されるのかもしれない。

 同じ高さになくていい
 同じものを見なくていい。
 それでも共に生きることはできるのだから。

 香奈の手が、自分の手の隣に揺れていることを意識する。
 まだそれを握る勇気はない。
(もうちょっと僕が強ければなあ)

 その時どこかで「ご注文どうぞー」と声がした。
 気のせいかもしれない。
 気のせいに違いない。
 それでも学は念じてみた。
「僕に死ぬまで生きる強さを」

おわりさんくす

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