The Heavy Cruiser "USS Indianapolis"(50)

1945年7月30日。

日本海軍の伊号第五八潜水艦が、米海軍の重巡洋艦インディアナポリスを撃沈。

既に第二次世界大戦の終結に向け連合国が動き始めている中で起きたこの不運な事故により、883人の乗員の命が失われた。

だがこの船の運んだものは、その後20万人余りの日本人の命を奪うこととなる。

-第1章 Trinity-

1945年1月。

米海軍第5艦隊司令官スプルーアンス中将の名により、インディアナポリスは第5艦隊旗艦となった。

その後スプルーアンス率いる第5艦隊は、1月25日にハルゼー率いる第3艦隊から指揮権を委譲され硫黄島の戦いへ向かう。

硫黄島が米軍の手に渡り、ウルシー環礁へ帰投したのも束の間、インディアナポリスは日本本土攻略のため出撃する。

1945年3月24日。

上陸に先立ち、沖縄本島への艦砲射撃が開始される。インディアナポリスも海岸の日本軍陣地を攻撃に加わった。

攻撃開始からちょうど一週間後の3月31日。

笹川勉陸軍大尉率いる特攻隊誠第三十九飛行隊のうち一機が、火力支援部隊による三重の輪型陣をかいくぐってインディアナポリスの艦尾に突入。

燃料タンク付近で爆発し艦尾に浸水したインディアナポリスは、慶良間列島泊地での修理が試みられたが損傷は大きいと判定され、修理の為本国へ帰投する。

--

凡そ3ヵ月におよぶ修理を終えたインディアナポリスは、カリフォルニアにあるメア・アイランド海軍造船所からサンフランシスコへと向かう。

そしてそこで、ある極秘任務を言い渡されるのだった。

「輸送任務……でありますか」

インディアナポリス艦長であるチャールズ・B・マクベイ大佐が確認する。

「ああ、そうだ。そしてこの任務は非常に重要な意味を持っている」

そこでチャールズは自らが運ぶ荷物についての情報を聞かされる。それは現在開発中の新型爆弾のパーツであり、これをもって現在テニアンに保管されているそれらの爆弾は完成を見るとのことであった。

その威力は凄まじく、仮に科学者の理論通りであればこれまでの爆弾の数十倍の威力を生み出すと見込まれていた。

「目下、研究者連中がニューメキシコの砂漠のただ中でこの爆弾のテストを進めている。実験が成功すれば我々は新たな『鬼札』を手に入れることになる」

1945年7月16日。

アメリカ・ニューメキシコ州ソコロの南東48kmにあるアラモゴード爆撃試験場の一区画でその実験は開始された。

広大な砂漠に設えられた高さ20mの鋼鉄製の爆発実験塔に、ずんぐりとした形状の爆弾が吊り下げられる。

それは、研究者達の間で「ガジェット」と呼ばれていた。

同、5時29分45秒。

遮光グラスをかけた研究者達が見守る中、それは強烈な閃光と熱風をもたらし、成層圏まで達する巨大なキノコ雲を形成した。

「動いたな」

ロスアラモス研究所長であるロバート・オッペンハイマーが呟く。

「--これで俺達は皆糞ったれだ」

--

同日、インディアナポリスはサンフランシスコを出港する。

「艦長、修理後の調整も終えずに出航せねばならぬというのは……」

「合衆国はこの任務に緊急性を要している。我々は可及的速やかに積荷をテニアンに運ばねばならない」

そして彼らは一路、テニアンへと向かうことになる。

-第1章 おわり-

-第2章 分岐点-

1945年7月17日。

インディアナポリスがサンフランシスコを発った翌日、サイパンに駐留する米軍第20航空軍第58航空団のB-29×130機の編隊が日本本土を爆撃。

海軍工廠や工場地区の建ち並ぶ沼津を標的としたこの爆撃は後に沼津大空襲と呼ばれ、270人余りの死者を出した。

前年にサイパンが陥落してからというもの、米軍は日本本土への爆撃を本格化させていた。

同じ頃、日本海軍所属の潜水艦伊58は、特攻兵器「回天」を搭載した多聞隊の一隻として呉を出港しマリアナ諸島へと向かっていた。

史実では伊58は搭載された回天のうち1基が特眼鏡に異常を起こしたため、豊後水道で一度内地へ引き返しマリアナ諸島への到着が2日遅れている。

だがこの時はこの異常が発生しなかったために、この後歴史は大きく変わることとなる。

1945年7月19日。

3日前にサンフランシスコを出港したインディアナポリスは、途中ハワイにある真珠湾へ寄港する。

「テニアンまでは、あと凡そ10日はかかるでしょう」

航法を行っていた士官がマクベイ大佐にテニアンへの到着見込を伝える。

「いや。ここから先は最速でテニアンへ向かう」

通常、敵潜水艦が存在する可能性がある海域を航行する際は、船の進路を小刻みに変えるジグザグ運動を取りながら目的地へ向かう。

だが、これには燃料を消費するばかりか単純により多くの時間がかかることとなる。

マクベイ大佐は任務の緊急性を鑑み、この回避行動を行わず最速でテニアンへ向かう決断を下したのだった。

翌20日。

テニアンに展開していた爆撃隊による爆弾投下訓練が始まった。これは数日後に配備される予定の新型爆弾投下に備えてのものだった。

テニアンを飛び立った爆撃隊は、一路福島県郡山市上空へと向かう。

途中、高射砲や日本軍機の迎撃を受けたものの、10000mの高空を飛行するB-29にはほとんど被害は無かった。

一行が目的地上空へ差し掛かった頃、突如地上との間に厚い雲が広がった。

「ダメだ。雲がかかってる」

「クソッ」

爆撃機隊のうち一機「ストレートフラッシュ」の機長、クロード・イーザリー少佐はその報告を聞いて舌打ちした。

「OK、俺達はこのままトーキョーに向かうぞ」

「トーキョーへ?」

「そうだ。イエローモンキーの親玉ヒロヒトに、俺達からどデカイプレゼントを見舞ってやる!」

かくしてイーザリー率いるストレートフラッシュは、皇居に向け訓練用の大型爆弾「パンプキン」を投下した。

「そうら、大統領からカボチャの差し入れだ!せいぜい餓えた子ザル達に食わせてやるんだな!!」

だが、投下されたパンプキン爆弾は皇居を外れ、東に1kmほどのところにある呉服橋に着弾する。

この時米軍は、降伏交渉相手であると同時に日本人に対する心理的影響を懸念し皇居を狙ったいかなる攻撃も禁止していた。

そのため、イーザリーのこの行為は命令違反とされた

その後も、日本本土への空襲は止まることはなかった。

4日後の7月24日には呉軍港に対する空襲、これにより戦艦日向ならびに空母龍鳳が大破。

さらに翌25日には保戸島国民小学校の児童124人が死亡する惨事となった保戸島空襲が行われる。

ここに来て国民達もいよいよ戦況の悪化をその身に痛感させられたのだった。

1945年7月26日。

イギリス・アメリカ合衆国・中華民国3国の首脳がポツダム宣言を発表。

同日イギリスでは総選挙の開票が行われ、ウィンストン・チャーチル首相の保守党がクレメント・アトリー率いる労働党に敗れた。

一方、10日前に呉を出港した伊58は史実より2日早くマリアナ諸島に到達していた。

-第2章 おわり-

-第3章 ブラッディ・ジパング-

1945年7月26日夕刻。

薄暮の中テニアン南西沖20kmの海域を遊弋していた伊58が、一隻の敵巡洋艦らしき艦影を捉えた。

敵は単艦、しかも魚雷を回避するジグザグ運動を行っていない。攻撃するには絶好の機会であった。

「艦長、この機を逃す手はありません。今こそ回天戦の準備を……お願いします、どうか自分たちに往かせて下さい!!」

回天搭乗員の進言を受け、巡洋艦との相対距離も遠かったため橋本以行艦長は回天による攻撃を決定する。

伴修二中尉、小森一之一飛曹の乗り込んだ2基の回天が伊58の前甲板から発進する。

やがて艦は爆発音を捉えたが、夕闇に紛れ目標への命中は確認することが出来なかった。

だが、実はこの時発進した2艇はインディアナポリスの船腹に食らいついていた。

特に小森艇はインディアナポリスの左舷中央に突入し、爆発によって生じた亀裂は艦体を完全に引き裂いた。

大量の浸水と乗組員の死傷によりダメコンを行えなくなった同艦は、瞬く間に海面に飲み込まれていく。

こうしてインディアナポリスは、闇夜の南太平洋で、誰にも知られること無く沈んでいったのだった。

数日後、米軍司令部はインディアナポリスからの通信が途絶えたことを受け、同艦の捜索を開始する。

この時日本もまた、敵の重要艦船が遭難したらしいことを無線傍受により掴んでいた。

だが、この時インディアナポリスに何が積まれていたのかは、一部の関係者を除いて知る者はいなかった。

1945年7月28日。

時の日本国首相である鈴木貫太郎は、ポツダム宣言を「黙殺」し戦争を継続することを表明。

これを受け、米軍からの日本への攻撃もより一層激しさを増し始める。

僅か一週間余りの間に、日本は青森、長岡、富山、前橋、高崎などの都市に猛爆を受けることとなる。

1945年8月6日。

インディアナポリスの喪失を受け、米軍はついに「ダウンフォール作戦」の発動を決定する。

ダウンフォール作戦は、関東上陸作戦であるコロネット作戦と、それに先立つ九州南部での飛行場確保のためのオリンピック作戦から成っていた。

作戦の構想としては、徹底的な海上封鎖を実施して資源の乏しい日本を兵糧攻めにするとともに、新型爆弾の投下及び大規模な化学兵器の使用により、日本を完全に屈服させるというものであった。

ルーズベルトの死後その跡を継いだトルーマンにより、一度はこの作戦は中止が決定されている。

新型爆弾の実験成功に伴い、もはや米英の力のみで日本を屈服させることができるとトルーマンは判断した。これは、元々米国がソ連の日本参戦を阻止したい目論見があったからだ。

しかし、インディアナポリスを失い、切り札となるはずだった新型爆弾の実戦投入が数か月遅れることが判明するとこの判断を翻さざるを得なくなった。

さらに、これまでイギリスを率いてきたチャーチルが失脚したことが大きい。新たにイギリスの与党となった労働党は、疲弊しきった自国の状況を鑑み対日戦には消極的であった。

1945年8月8日。

ソビエト連邦が日本に宣戦布告。モスクワでの通告から数十分後の9日未明、満州・朝鮮・樺太で一斉にソ連軍の進撃が開始された。

現地守備隊の努力虚しく、ソ連軍はその日のうちに満州・朝鮮・樺太の国境を突破し、怒涛の勢いで日本領内に攻め込んできた。

翌8月9日深夜。

急遽開催された御前会議にて、日本はポツダム宣言を受諾すべきか検討する。

しかし、先にこの宣言を黙殺した鈴木貫太郎主将や陸相阿南惟幾の主張を受け、史実の通り昭和天皇の「聖断」が下されることは無かった。

9月に入り、既に満州・朝鮮・樺太の大部分を失った日本は「一億玉砕」のプロパガンダ通り、男子は15歳から60歳、女子17歳から40歳までを根こそぎ徴兵。

国民2600万人を軍へ編入し、本土防衛を主眼とした第一総軍(東日本)、第二総軍(西日本)に振り分け、それぞれの司令部を市谷と広島に設置する。

これらの兵力は、竹槍や農機具などで武装した民間人が中心であり、挺身攻撃、すなわち自爆を前提としたゲリラ作戦を展開することが想定されていた。

1945年10月20日。

既に日本国内の主要な都市は連合軍の空襲により完膚なきまでに破壊されていた。

この日米軍は8万人の兵力からなる第9軍団を用いて、太平洋上で大規模な陽動作戦を実施。

同時に11月1日に予定されているオリンピック作戦の為の事前攻撃として、種子島、屋久島、甑列島などの島嶼への上陸を開始した。

1945年11月1日未明。

遂に米軍を中心とした連合軍によるダウンフォール作戦が発動する。

日本各地に展開していた守備隊は、文字通り決死の攻撃を行った。

無謀にも竹槍を携えて向かってくる日本兵の中には女子供まで含まれている。

一方的に彼らを打ち倒す米軍の将兵にもまた、精神を病む者が多かった。

時を同じくして、ソ連軍も日本本土への侵攻を開始した。

10万人の将兵から成るソ連軍の部隊が一気呵成に北海道へなだれ込み、数週間のうちに津軽海峡を渡り本州へ上陸。

今や日本陥落は時間の問題だった。

翌1946年2月1日。

米軍はついに、世界初の核による攻撃を日本へ行う。

関東上陸作戦であるコロネット作戦に先立ち、米軍は上陸予定地であった湘南海岸に新型爆弾を投下した。

これは、元々昨年夏に長崎に投下される予定だった原子爆弾「ファットマン」に、14ポンドのプルトニウムのコアを組み込むことにより威力を増幅させたものだった。

既に壊滅状態にあった日本軍は、この新型爆弾の威力の前に完全に抵抗する術を失った。

1946年2月8日。

日本国政府は連合国へ無条件降伏。

かくして日本は、米・英・ソ・中の4か国により分割統治されることとなった。

この戦争における1300万人余りという死傷者数は、当時の日本総人口の18%以上という莫大なものだった。

これは、第二次世界大戦における各国の人的損失の中でも群を抜いて高いものであった。

-第3章 おわり-

-エピローグ-

その後、世界は米ソが対立する冷戦の時代へと突入していく。

史実のドイツがそうであったように、日本もまたアメリカの統治する西側陣営とソビエトが統治する東側陣営でそれぞれ別の国家が誕生した。

そしてこの分断国家の状態は、戦後もなお長く続いていくこととなる。

太平洋戦争終戦からちょうど50年目の節目となる1996年3月20日。

東西日本はそれぞれの国の制度を維持したまま、緩やかな同盟を結ぶこととなる。

これは、日本に先駆け東西再統一を果たしたドイツが統一後の東西の経済格差から来る問題に苦慮していることからとられた措置であった。

ある歴史研究家はこう言う。

歴史にifはない。だがもし--あの時、日本がインディアナポリスを沈めていなければ。

恐らく日本には最低でも2発の試作型原爆が投下され、ポツダム宣言を受諾せざるを得なかっただろう。

そうなれば、国としての体裁も、天皇も失うことは無かったのではないか。

福岡区内にある国会議事堂の桜の花が、今年も風に揺れていた。

-おわり-

※この物語はフィクションです

今日は重巡洋艦インディアナポリスが撃沈された日です

広島に原爆を投下したエノラ・ゲイの最後の乗組員が亡くなったニュースをみて妄想してみまんた。

分岐する前の正史との矛盾や誤り等あったら適宜脳内変換のほどよろしくおねがいします。

以下、参考までに史実の主な出来事


第1話近辺
1945年1月中頃 - インディアナポリスがスプルーアンス大将の将旗を掲げて第5艦隊旗艦となった。
1945年1月14日 - インディアナポリスはウルシー環礁へと向かい、1月25日に到着。
1945年2月14日 - にインディアナポリスはサイパン島を出撃し、ミッチャー中将の第58任務部隊に加わった。2月16日と17日、第58任務部隊は硫黄島攻略支援のため関東地方を攻撃した。これは1942年4月18日のドーリットル空襲以来の機動部隊による日本本土への攻撃だった
1945年3月 9日 - 、インディアナポリスはウルシー環礁に帰投した。
1945年3月18日 - 米海軍機動部隊は九州の飛行場や呉軍港などを空襲し日本軍に大きな損害を与えた。
1945年3月24日 - 上陸に先立つ沖縄への攻撃が開始され、インディアナポリスも海岸の陣地を砲撃した。
1945年3月31日 - 午前7時10分、陸軍特攻隊誠第三十九飛行隊(笹川勉陸軍大尉。一式戦闘機5機)の1機が火力支援部隊による三重の輪型陣をかいくぐり、インディアナポリスの艦尾に命中。燃料タンク付近で爆発し、スクリューの一部を破損した。艦尾に浸水したインディアナポリスは慶良間列島泊地に移り、洋上で工作艦による修理が試みられたが、損傷は大きいと判定された
1945年4月 5日 - 、旗艦が戦艦ニューメキシコ (USS New Mexico, BB-40) に移され、メア・アイランド海軍造船所に修理のために戻った。
1945年7月16日 - 第二次世界大戦: 先の修理を終えた重巡洋艦インディアナポリスがサンフランシスコを出港
1945年7月16日 - マンハッタン計画: アメリカ合衆国がニューメキシコ州アラモゴードにおいて、人類初の原子爆弾の実験に成功。(トリニティ実験)

第2章近辺
1945年7月17日 - 第二次世界大戦: ポツダム会談。英首相ウインストン・チャーチル、米大統領ハリー・S・トルーマン、ソ連共産党書記長ヨシフ・スターリンがドイツのポツダムで会談し、戦後処理と日本の降伏条件について話し合う。
1945年7月17日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 沼津大空襲
1945年7月19日 - 第二次世界大戦: 重巡洋艦インディアナポリスが真珠湾へ寄港
1945年7月20日 - 第二次世界大戦・日本への原子爆弾投下: アメリカ軍が模擬爆弾・パンプキン爆弾による原子爆弾投下訓練を開始。郡山市の天候悪化のため皇居に向けてパンプキン爆弾を投下(昭和天皇の殺害を目論んだとも言われている)するも目標を外し、呉服橋に着弾させている。これにより広島への原爆投下機がストレートフラッシュからエノラ・ゲイに変更される(、降伏交渉相手であると同時に日本人に対する心理的影響を懸念し、皇居を狙ったいかなる攻撃も禁止していた為、イーザリーのこの独断行為は命令違反とされた)
1945年7月24日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 呉軍港空襲。戦艦日向、空母龍鳳が大破。
1945年7月25日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲:保戸島空襲が行われる。
1945年7月26日 - 第二次世界大戦: イギリス・アメリカ合衆国・中華民国3国の首脳がポツダム宣言を発表。
1945年7月26日 - イギリス総選挙の開票が行われ、ウィンストン・チャーチル首相の保守党がクレメント・アトリー率いる労働党に敗れる。ポツダム会談中のチャーチルは帰国。
1945年7月26日 - 第二次世界大戦: 広島・長崎に投下されることになる原子爆弾の弾頭を載せた巡洋艦「インディアナポリス」がサイパン・テニアンに到着。

第3章以降
1945年7月27日 - 労働党党首クレメント・アトリーがイギリスの首相に就任。
1945年7月28日 - 第二次世界大戦: 日本の鈴木貫太郎首相が、ポツダム宣言を「黙殺」し戦争を継続することを表明。
1945年7月28日 - エンパイアステートビルにB-25爆撃機が激突。乗員3人を含む14人死亡。
1945年7月28日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 青森大空襲
1945年7月28日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 大山口列車空襲事件
1945年7月30日 - 第二次世界大戦: 日本の伊号第五八潜水艦が、アメリカの巡洋艦インディアナポリス(原爆輸送の帰路)を撃沈。乗員883人が死亡。
1945年8月 1日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 長岡空襲
1945年8月 2日 - 第二次世界大戦: ポツダム会談が終了。
1945年8月 2日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 富山大空襲
1945年8月 3日 - 第二次世界大戦: アメリカ軍が、B-29による機雷敷設で日本の港湾と内海航路を完全に遮断したと発表。
1945年8月 3日 - 日本陸軍の病院船「橘丸」が米軍に拿捕、同船が国際法に違反する形で兵員・兵器を輸送していたことが発覚し陸軍史上最大の千五百名の捕虜を出す。(橘丸事件)
1945年8月 5日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 前橋・高崎空襲
1945年8月 5日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 湯の花トンネル列車銃撃事件
1945年8月 6日 - 第二次世界大戦: 広島市への原子爆弾投下。
1945年8月 6日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 都城大空襲。都城駅が全焼。
1945年8月 7日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 豊川海軍工廠が空襲され、女子挺身隊員・国民学校児童ら2477人が死亡。
1945年8月 7日 - 日本海軍が開発した日本初の国産ジェット機「橘花」が初飛行。
1945年8月 8日 - 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: ソビエト連邦が日本に宣戦布告。モスクワでの通告の数十分後の9日未明、満州・朝鮮・樺太で一斉に進撃開始。
1945年8月 8日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 福山大空襲
1945年8月 8日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 筑紫駅列車空襲事件
1945年8月 9日 - 第二次世界大戦: 長崎市への原子爆弾投下。約7万4千人が死亡。
1945年8月 9日 - 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: ソビエト連邦が満州・朝鮮・樺太の国境を突破。
1945年8月 9日 - 第二次世界大戦: 8月6日の広島に続く2度目の原爆投下と前日のソ連対日宣戦布告を受け、御前会議を開催。翌8月10日にポツダム宣言の受諾を決定。

1945年8月10日 - 第二次世界大戦最末期の、未明、前日から行われていた御前会議で、国体護持を条件としてポツダム宣言の受諾を決定する。
1945年8月10日 - 東安駅事件 :第二次世界大戦最末期におけるソ連対日参戦の局面。満洲国の東安駅(現 中華人民共和国黒竜江省密山市)で撤退する日本軍が駅施設を爆破するが、まだ発車していなかった避難列車があり、開拓民数百人が死傷。
1945年8月12日 - 第二次世界大戦: 日本政府の国体護持を条件とするポツダム宣言を受諾
1945年8月12日 - 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 麻山事件。満州国鶏寧県麻生区で避難中の日本人開拓団がソ連軍に襲撃され、421名自決。
1945年8月13日 - 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 小山克事件
1945年8月14日 - 第二次世界大戦: 最後の御前会議でポツダム宣言受諾を再確認し、無条件降伏を決定。
1945年8月14日 - 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 葛根廟事件。満州国興安総省葛根廟で、非武装の日本人避難民がソ連軍の攻撃を受ける。
1945年8月14日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 京橋駅空襲。大阪で空襲があり1トン爆弾が国鉄京橋駅に命中、駅に避難していた200名以上が死亡。
1945年8月14日 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: 深夜から翌日未明にかけて、秋田・伊勢崎・熊谷・小田原・岩国・光で空襲。第二次世界大戦最後の空襲。
1945年8月14日 - 第二次世界大戦: 宮城事件。深夜から翌日未明にかけて、陸軍省と近衛師団の一部将校が終戦阻止のため決起。近衛師団長を殺害し玉音放送の録音盤奪取を図るが失敗に終わる。
1945年8月14日 - 中ソ友好同盟条約が締結される。
1945年8月15日 - 第二次世界大戦: 未明、宮城事件が鎮圧される。
1945年8月15日 - 第二次世界大戦: 正午、昭和天皇が「戦争終結の詔書」を読み上げる玉音放送により、ポツダム宣言受諾・連合国への降伏が日本国民に伝えられる。(日本の終戦の日)
1945年8月15日 - 鈴木貫太郎内閣が総辞職。
1945年8月15日 - ソウルで朝鮮建国準備委員会が発足。

(以上、wikipediaほかより)


一般人受けする内容ではなかったけど個人的にはとても考えさせられる作品だったよ

ありがとうございます

>>46
それゆえの潜水艦進行です
また、敢えて作中の人物・用語の補足も省いたのでよりとっつきにくいと思います

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