遅筆
書き溜め無し
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思わず耳を疑った。
教師「――新2年の担任ですか?」
校長「うむ。前任の先生が急に退職を願い出てね」
校長「急遽、副担任だった君にお願いしたいんだ。君はあの先生の下で1年学んでいたわけだからね」
校長「なに、我々もサポートする。安心したまえ」
突然校長室に呼び出したかと思えば、校長は何の前置きもなくとんでもないことを口にした。
笑みのうちに何かを含みながら早口で言い立てる校長に唖然とする。
しかし校長はひとつ頷くと、くわしくは学年主任に聞くように、とだけ言い置いてさっさと出て行ってしまった。
ぽつんと私1人が部屋に残された。風に揺れた窓の先にはいまだ葉が落ちたままの木々。
時にして2月末。
こうして私は、中学校教諭2年目でクラス担任を任ぜられることになったのだった。
教師「どうなることかと思ってたけど……」
副担任「なにがですかぁ、センパイ?」
教師「ああいや、なんでもないです」
首を振って目をスクリーンに戻す。
新年度が始まってから1ヶ月、担任の業務自体はスムーズに運んでいた。
教師(まあ、先輩方に相談しながらなんだから、当然といえば当然か……)
教師(問題はむしろその外……)
鼻歌まじりにキーボードを叩いている副担任を横目に見る。
この男は今年度採用の新米なのだが、いわゆる年上の後輩というやつである。なんでも教員採用試験に幾度か落ちたからだとか。
若干のやり辛さはあるが、新人教育を任されている立場上、私には彼を適切に指導する義務がある。
なにせこの新人、社交性が高じてか(試験不合格も当人の言である。自分の不始末を自己紹介で話のタネにするとは恐れ入る)、生徒との距離が近すぎるきらいがあった。
よくもまあこんな男を教師に採用したものだと呆れたが、思えばお辞めになったかの前任も似たようなタイプだった。
度々、教師は生徒の友人ではないのだと指摘するが柳に風、まるでつまらない冗談でも言ったかのような反応をされるのが常だった。
しかも大抵は、他の先輩にまあまあと仲裁されてうやむやになる。これも前任と同様。
『生徒の自主性を育てる』という我が校のモットーは教える側にも適用されるらしかった。
敬うべき先達はおよそ叱るということに無頓着だった。
教師(しかも本当の問題はこいつじゃない……)
終鈴がなった。ため息をついて教室へ向かう。
ホームルームを副担任に任せて手早く済ませれば、後は掃除だけだ。監督のために方々を歩いてチェックする。
美化委員を設置していても所詮は中学生同士、どうせなあなあで済ますに決まっているのだった。また真面目に掃除をする者ばかりのはずもなく。
適当に叱ったりしつつ、教室に戻る。その足取りが重いのは気のせいではない。
教室では生徒他が数人で固まっていた。女子1、男子5、副担任1。
この時点でもう嫌な予感がする。
教師が扉を開けた途端、話がピタッと止まった。紅一点の少女は、会話に参加していなかったのか伏せていた面をあげて口元をわずかにほころばせた。
それを見た男子生徒達が一斉に教師に目を向ける。視線に敵意がこもっているのを副担任からも感じてげんなりする。
思わず漏れそうになったため息をぐっと堪えた。
そう、私が直面していた問題は、この少女に端を発していた。
私の受け持つ2-Aは生徒数30名、うち男子が17、女子が13である。この30人はそれぞれ複雑に連結しあい、グループ化や階層化を経て複雑な社会を形成していた。――ただ1人を除いて。
この少女だけが完全にクラス内の人間関係から浮いてしまっていたのである。
それだけならよくある程度の、しかし本人には深刻な話、ということになる。
ところが厄介な事に彼女の場合、責任は彼女にはなかった。少なくとも彼女の内側は原因たりえない。
例えば。
例えば伏し目がちの、しかし本当は大きな瞳。すっきりと通った鼻梁、輪郭の描く繊細なラインとそこに覗く白い首筋。それと対照する鮮やかに赤い唇。清流のようにつややかな黒髪。そして控えめな表情に不釣り合いな、セーラー服を押し上げ、自己主張する肢体。
その少女は公立中学校の教室の一角に置いておくにはあまりに異質だった。
誰かと親しく話している姿をついぞ見た覚えがない。教室の喧騒をよそにただ独り、居住まいを正して座っている……。
――中学生にあるまじき『何か』を生まれながらに持った、そしてそのために周囲から疎外される少女。
それが私にとって彼女とはそういう生徒だった。
教師(単に友達がいないってんならともかくなあ)
思いながら声をかけた。
教師「他の当番はどうした?」
少女「なにか外せない用事があるらしくて……」
教師「5人全員がか? 偶然って怖いな」
言った教師に少女はくすりと笑った。鈴を転がしたような声。先程来の視線がさらに強くなる。もう慣れたものだったが、さすがにそろそろ鬱陶しい。
男子生徒らに顔を向けると、露骨に怯んで目を逸らす。ビビるくらいなら最初からそんな目で人を見るな、と思うが口にはしない。
1人、副担任だけが口を開く。
副担任「ああ、お疲れ様です、センパイ」
教師「うん。お前達は? 手伝ってやってたのか?」
「は、はい。他の奴らが帰ったらしくて」
「そうそう、それで俺たちが手伝ってやったんだよな」
「もう終わったんで皆で仲良く話してたとこです」
『皆で』と『仲良く』をやけに強調して言った1人に追従するように、他の4人が頷いて笑い合う。しかしその笑みはどこか空々しい。
時計はすでに4時近くを指していた。
教師「掃除が終わったなら早く帰りなさい。気を付けてな」
男子生徒達は不平の声を上げるが、少女だけはきまじめに、はい、と頷いた。
少女「……先生」
教師「うん?」
意識を向けた時には少女の顔が意外なほど近かった。突然のことに身動きがとれない教師に、少女はほんの少し目元を緩めた。背伸びするようにして小さくささやく。
少女「……ありがとうございました」
何に対して言っているのかはすぐに分かった。辛うじて頷きを返すと、少女は一礼して歩き出した。
軽く息を吐く。ふと目を上げると、男どもは険のある表情で教師を睨んでいた。
心に重いものがのしかかる。言葉を呑み込んで、早く帰れよと再度言い置いて教室を出ようと歩く。その足が止まった。
少女はまだ教室を出ていなかった。扉の目の前で体を返し、教師をじっと見ていた。
教師が視線に気づいても動じない。少女はそっと目を落として会釈して、今度こそ出て行った。
その背中を見送る。しばらく待って、教師ももはや振り返らずに立ち去ることにした。
職員室に向かう道すがら、胸中に凝るものを吐き出そうとしたが、なかなか上手く行かなかった。
プロローグはこんなもので
ハッピーエンド目指して頑張る
『ああ? えこひいき? そんなことするわけないだろう!』
『ああ!? ふざけるな! 俺は教師だぞ!? これぐらいは普通のコミュニケーションなんだよ、若造!』
『俺はお前より20年は長くこの職やってんだ!』
『いいから黙って言うことを聞け、ガキが!』
『お前に何が分かるんだ! ええ!?』
『お前に……お前なんかに……』
はっと目が覚めた。見やったカーテンの外はまだ白みかけたばかりだった。
寝直すわけにもいかず、さりとてベッドから這い出るのも億劫で、しばらくベッドに腰掛けることにした。
教師(さっきの夢……)
教師は物思いに耽る。
聞き覚えのあるあれは前任のものだった。教師が前任を思い起こす時は、必ず彼の怒鳴る声がセットになる。
それほど、教師は前任にとって厄介な後輩だったということか。
特に彼女の件で衝突することが多かったように思う。
教師(しかし、前任の最後は、それまでと様相が異なっていたな……)
あの目。いつも以上に顔を赤黒くして怒りに震えながらこちらを強く睨みつけた、その目にはかすかに涙が浮かんでいた。
凶悪に決した眦と怒号が彼の怒りを十分に伝えていた。
教師はその涙を怒りによるものだとずっと思っていた。強すぎる感情が涙となって浮かんだのだと。しかし本当にそれだけだったのか。
教師(……)
感情に任せて身も声も震わせる時、そこには相手への怒りしか存在しないのだろうか?
『お前に何が分かる。……俺の何が……』
担任が発した最後の言葉を思い返す。
それならば、何の話だと問い返した後の、彼の悄然と落とされた肩は、堪えるように食いしばった歯は一体何故だったのか。ぐっと俯いて隠れた表情からは何も窺い知ることはできなかった。
思えば彼は時たま怒りだけでは説明できないような表情をすることがあった。そう、それは苛立ちと呼べるもの。相手の無理解への憤り。
当て所なく逸らされた目には失意があったのではないのか――しかし、何の?
教師(前任は私に、彼の何を分かってほしかったのだろう?)
答えはとうに失われていて、教師には見当もつかなかった。
前任のクラス指導が教員として適切だったのかどうか、実は教師にはわからない。というよりも、経験という判断材料がない教師にはなんとも言えなかったというのが実際だった。
しかし、その光景は、明らかに異常だったと今でも思っている。
全ては最初から始まっていたのかもしれなかった。
入学式のあの日。前任の後に従って入った教室は、一見普通と変わらなかった。初めての中学校生活に浮き立ち、あるいは不安で、初めて会う同級生と談笑する。
教師自身がそうだったような、どこにでもあるありふれた光景。
それがあまりにもありふれていたから、崩れるのも一瞬だった。
生徒たちが入ってきた教師たちに反応したのは、その入った丁度一瞬だけで、すぐに一斉に目を逸らしたのだ。
全ての視線の行き着く先、窓際最前列。そこにいたのが彼女だった。
椅子に礼儀正しく座り、薄い唇を引き結んで窓の外を眺めている1人の少女。その少女に教室中の興味が注がれていた。
突然のことに戸惑う教師が前任に助けを求めようとしたが、前任もまた目を見開いて少女を凝視していた。
確かにその少女は類稀なほど美しかったが、事前に写真でわかっていたことである。
今はHRで入学式の案内をするのが先決だった。
前任に声を掛けるも反応がなく、仕方なく肩を揺するとうるさがるように振り向いた。
『ああ!?』怒鳴り声付きだったが。
そこで前任はやっと我に返ったようで、もごもごと口ごもった。しかし何も言うことなく生徒に向き直って挨拶を始めた。
生徒への指示の最中にも前任は度々窓際の少女に目を遣り、クラスの雰囲気も漫ろだった。遠巻きに誰かを伺って誰1人声を掛けず、ただチラチラと目を遣るだけ。
しかも皆の注意が一点にのみ集中していた――初対面の方が多いだろう1人に。
その様子はひどく気味が悪かった。
気味が悪かったが、しかし教師の脳裏に焼き付いているのはそのことではなかった。
鮮烈に記憶しているのは、ただ外を茫洋と見つめる横顔。周囲にまるで無関心なそれ。決してこちらを見ることはないという事実だけが、心にトゲのように刺さっていた。
5月は家庭訪問の季節である。今年は担任なので教師が各家庭に赴かなければならない。
教師(去年は前任が行ってたんだけどな……)
自転車のペダルを漕ぎながら思う。
本来ならば、家庭訪問の様子は前任に訊いておく必要があるのだが、あいにく前任は急に職を辞してしまっていた。
そこで学年主任らに話を伺ったが、どうにも当を得ない。ひたすら口を濁していた。
都合の悪い事情でもあるのか、と訊きかけた教師ははっとした。
教師(まさか何も報告を受けていなかったのか――それとも、報告させなかったのか? 問題となるものは、何も……)
疑念の黒い雲が湧き起こったが、口に出さないだけの分別は教師にもあった。あったので、ただ、
教師『今までは何も問題はなかったんですね? でもこれからはどうなるかは分かりませんね? よく分かりました、ありがとうございます』
と話を打ち切っただけだった。抗議か何かの声を無視してデスクに戻った。
教師(やはりクロだ。何かある)
それも、おそらくは今日の家庭訪問で判明するだろう。
晴天だった空にはいつの間にか雲が差していた。翳った日はすでに天頂を通り過ぎていて、遠からず西に消えるだろうと思われた。
沈みゆく太陽の行く先に、目的地はあった。
築数十年は経過している古いアパート。二階建ての外壁は塗料がはげて、コンクリートのくすんだ色合いを曝けていた。階段や備え付けられた手すりも錆が浮いている。
自転車を止めてアパートを眺める。不意に感じた肌寒さは、きっと日が隠れて気温が下がったせいだ。
脇に自転車を止めて階段を上った。2つ先の表札を確認して立ち止まる。
チャイムを鳴らしてしばし。はい、という返事が聞こえて、ドアが開いた。
少女「……こんにちは、先生」
少女は薄く笑みを浮かべてそう言った。その笑顔から逃げるようにドアの上に掲げられた表札を見やれば、書き込まれているのはその少女の苗字。
覚悟を決めて頷き、促されるまま家に入った。
というところで一つ。
ゆっくり進行します
投下
意外と知られていないことだが、教師が生徒とコミュニケーションを取る機会というのは、実はそれほど多くない。
例えば授業、掃除、公的なイベント、面談などがあるが、それだけどうやって生徒の抱える悩みや不安を察することができるのか。
そもそもの話をするならば、相手を理解することが容易いはずがないのだ。たとえ相手が子供でも――あるいは子供だからこそ余計に難しい。
社会人経験のない教師には、生徒を単なるイメージで把握することが精一杯だった。
大人しい者、友達の多い者、勉強のできる者、集中力に欠ける者……その程度である。
それを肉付けし、人間性やその背景を探るのに、生まれ育った家を訪ねるというのは有効だった。
持ち家か、金回りに苦労はないか、親との関係はどうか、子供部屋はあるか……等々。
学校という一種特殊な空間から離れた、生徒たちの素の姿が垣間見えるのだ。これを利用しない手はない。
その意味で前任の、そして学校側の怠慢がもしあるなら、それは恐ろしく罪深かった。
そこからわかることで、最悪の事態――例えば自殺などは一発で終わりだ――を防げるかもしれないのだ。
特に学校で孤立していたりする生徒には特別気を配らなければならない。
……と玄関で靴を脱ぎながら教師は心中で呟く。必要以上に気構えてしまうのを感じる。
玄関から正面に居間があり、右手に続く廊下の先にもう1部屋と洗面所があるようだった。
ふと違和感を覚えた。
教師(親の挨拶がないな……?)
教師(この少女は母子家庭だ。だから母親がいるはずだが)
少女「……先生?」
呼ぶ声にはっと我に返って、反射的に一歩踏み込んだ。それで違和感の正体を悟った。
このアパートは極々小さく、精々部屋数は2つあるかどうかというところだろう。
家に居れば来客に気づかないわけはないのだ。
家に居さえすれば。
教師「……お母様は?」
居間の手前に立って、湯呑みを2つ手にした少女に確信を込めて訊く。少女は申し訳なさ気に目を伏せた。
やっぱりか、と嘆息するが、同時に口角が釣り上がるのも事実だった。
教師「まさか、すっぽかされるとは、な」
学校への不信が裏付けられた瞬間だった。
運命というものがはたして存在するならば、もしかしたら、ここが大きな分岐点だったのかもしれない。
長いものに巻かれて面倒事を避けたいなら、見たもの聞いたものに目を耳を塞ぎ、知らぬ存ぜぬを通すべきだったのかもしれない。
そして後になって悔やむのだ――"ああ、あの時ああしていれば"、"あの時あんなことをしなければ"と。
しかし、得てしてその時にはすでに賽は投げられてしまっている。
転がる石はいくら足掻こうと決して止まらず、万物はただ運命という名の濁流に押し流されてゆくだけなのだから。
……終着に至るまでは。
狭い部屋のテーブルを挟んで、教師と少女は向かい合って座った。
心なし落ち着かないものを感じて、少女の淹れてくれたお茶に口を付ける。
少女は制服を着替えていた。学校が昼までで家庭訪問が夕方近くなのだから当然である。
当然ではあるのだが。
白地のシャツに柔らかい色合いのカーディガン、それに膝丈のふわふわしたスカートを合わせていた。
いつも目にする制服姿はあまりに嵌りすぎていて困るが、一方の私服姿は私服姿で新鮮だった。なぜか目のやり場に困る。
いやいや、と首を振って意識をリセットする。
さて何から訊くべきか。考えるが、質問事項が多くてまとまらない。
そんな教師を見かねてか、少女が助け舟を出してくれた。これ幸いと話に乗る。
少女「あの、母は用事があると言って出て行ってしまって……」
教師「希望日と時間は今日、確かにこの時間だった。急なお仕事か? 連絡はなかったが」
少女「それは……」
ふっつりと黙り込んだ少女を尻目に部屋の様子を検める。
よく整頓されている家だった。というよりは、物自体が少ないという印象。
ベランダを見ても洗濯物は見当たらない。きっちり取り入れてタンスなり何なりに仕舞っているのだろう。
家庭訪問をすっぽかして連絡一つよこさない母親が、掃除や洗濯だけは勤勉に励むだろうか?
そんなはずはなかった。
教師「一つだけ訊かせてくれ。一つで十分だ」
少女「はい。何でしょう」
教師「お前の母親は、いつこの家を出たんだ?」
少女はわずかに目を瞠って、くすくすと笑い出した。あくまで声を立てない辺りに品を感じる。
少女「ふふ、先生に隠し事は出来ませんね。はい、母親が出て行ったのは一昨日です」
含羞むように頬に手を当てて、少女はなおも上機嫌に笑みを浮かべる。意を図りかねたが、それよりも問題は言葉の内容である。
口調は自然、問い詰めるようなものになった。
教師「お前の母親が家を空けるのは珍しくないんじゃないか? 仕事かそうじゃないかはともかくとして」
少女「はい。この家に帰ってくるのは……そうですね、週に2、3度でしょうか」
教師「その間、この家にはお前だけなんだな? 家のことをしているわけでもなさそうだ。家事全般もお前がやっている」
そういえばこの家には今、私と少女の2人きりだな、と思った。どうでもいいことだったので忘れることにした。
少女は教師の様子に気付かないように続ける。
少女「はい。ただ、母の部屋には立ち入らないようにしています」
教師「だろうな。……さっき、『この家に帰ってくるのは』と言ったな」
教師「もう一度訊くぞ。お前の母親はどこにいる?」
笑みを湛えた口元を、少女は手の平で覆い隠した。隠しきれない何かがそこから溢れ出でもするのだろうか?
一回り以上年上の男に詰問されて、それを楽しんでいるとでもいうのか?
しかも母親の、社会一般にはあまり褒められない所業を訊き出されて、かばうような素振りも見せない。
目の前に佇む少女の心の動きがさっぱり理解できなかった。
言葉の端々に昂ぶりを滲ませる少女が、まるで未知の何者かにも思える。
教師にできることはただ返答を待つことだけだった。
はたして少女は、鮮やかに赤い舌で、艶めく唇をぺろりと湿らせた。
少女「おそらく、今お付き合いしている男の人のところだと思います。先生が予想していらっしゃるとおりに」
教師「『今』? しょっちゅう男を取っ替え引っ替えしているようだな」
まさに育児放棄の役満御礼だった。暴力を振るわれていないようなのが唯一の救いだ。
ため息を吐くのは、少女の母親の無責任さに対してだけではない。これからする質問と、予想される答えが憂鬱だった。
教師「去年。前任が家庭訪問を行ったな。三者面談もそうだ。私は副担任だったから直接は関わらなかった。……母親はどうした?」
少女からふっと笑顔が消えた。眉をしかめて、片手で反対の腕の肘をつかむ。
嫌な記憶を思い出した、という表情に、去年からずっと胸に凝っていた疑心が確信に変わった。
教師「来なかったんだな? 三者面談にも。しかし私はそんな報告は受けていない。ということは、だ」
考えられる顛末は1つだけだ。
教師「アイツは報告書も何もかも偽装していたんだな? 私にも嘘を言っていたわけだ。何してんだよ全く……」
教師「アイツは報告書も何もかも偽装していたんだな? 私にも嘘を言っていたわけだ。何してんだよ全く……」
長いため息が漏れる。前任やそれを放置していた連中に嫌悪を覚えるが、薄々勘付きながら何もできなかった教師も同罪だった。
所詮同じ穴のムジナか、と消沈する。
ふと視線を感じて顔を上げた。見れば、何とも言えない顔で、少女がこちらを見つめていた。
教師「なんだ? 何かおかしいか」
少女「いえ、そうじゃなくて……」
言い差す最中にもゆるゆると頬が緩んでいく。どこか呆れたような、しかし一方で慈しむような微笑みを向けてくる。
困惑半ば、微妙に腹立たしいが、ともあれ少女の家庭環境と学校の不手際が明らかになった。
しかしこれからどうするのか。何がどこまでできるのかも探っておく必要がある。
解決すべき対象と、そのための手段を検討しなければならない。
頭の痛い問題がさらに増えてしまったらしかった。
ここまで
これからは教師をどんどん追い詰めていきたい
続きー
教師「お前の家庭環境に関して確認しておきたい事がいくつかある。言いたくないことがあれば言わなくてもいい。無理強いはしない。いいか?」
言葉を投げかけておいて、ひとまず様子を見る。自分の発言がどう影響するかを注意深く観察するためだった。――それほど、この少女の置かれた環境はおよそ教師の知っている生活とはかけ離れていた。
ひとつには、戸籍上は唯一の肉親であるはずの母親から完全に見放されているという家庭環境のために。あるいは、1年以上を経過してなお一切の友人を持つことなく、孤立を深めていく一方であるという学校環境のために。
教師(しかも、その母親をかばうこともせず、友人を欲することもない……)
おそらくはこの少女には頼るべき何者も存在しないはずであった。少なくとも、教師の目にはそう見えたし、少女自身も臆面もなくそのようにふるまっていた。周囲からの疎外に対し、彼女もまた関係の拒絶を返すことによって自身の孤独を全うしていた。
ならば、この想像を絶する極限状況下で、傍目には普通の顔をして日々を営んでいるように映る少女は、その内にいかなる闇を抱えているのか?
いささかの問題行動も起こさず、決して誰にも心を許さず、息を殺すようにして日々を暮らす。確固たる居場所をひとつたりも持たないとでもいうのだろうか?
人はそこまで強くないし、ましてや子供が耐えられるものではなかったはずだった。
それだけでも教師の理解の範疇を超えているのに、ことこの少女に関わる限り、無視せざる事情がもうひとつあるのだ。
反応を窺うような言葉を放った教師に対し、少女はあくまで笑みを崩さない。
先を促すように閉じられた唇はいつものごとく優美な弧を描き、かすかに漏れ聞こえる吐息の音が鼓膜を揺らす。どこからともなく匂い立つのは、頭がぼうっと痺れるような危険な甘さ。
――毒だ。理性をたやすく侵す、おそろしく甘美な毒……。
わかっていてもなお欲するだけの価値があるように思えた。他の何をなげうってでも、ただその視線を、肌を、声すらも独占したいと渇望させるそれ。
そう、この少女は己の無価値故に顧みられなかったのではない。もちろん、何らかの劣等により迫害されていたのでも断じてない。
男女の区別なく、また老若にかかわらず1人の少女の関心を買うことに躍起になり、それに成功したものを妬み、排撃する――それはもはや全なる女神への信仰に近い。
彼女の微笑みを賜った者は望外の喜びを得ただろう。一度でも、ただの気まぐれでも彼女の興味が己に向かうのならば、それだけでもはや人生の成就する、無上の歓喜に酔いしれることができるのだから。
しかしその恵みに預かれなかった敬虔な信者達は己の不運を怨み、世の不条理に憎悪するだろう。
自らに果実が与えられぬ苛立ちが、恐れ多さのために女神へは向かないとするならば、その行く先はただひとつ。至上の栄誉を手に入れた同胞であった。
教師が気付いたのは、水面下で空恐ろしくなるほどの闘争が繰り返された後のことだったらしい。
前任の担任すら巻き込んで疑心暗鬼がエスカレートしていき、入学式から1ヶ月足らずで牽制と制裁の跋扈が頂点に達した。そして唯一の解決として、聖域への不可侵こそが唯一にして絶対のルールとして暗黙の内に了解されるに至ったのだった。
ただし彼女は一度でも、額づいて忠誠を誓いかねない愚衆に要求したことはない。下らない争いはやめよと鎮めることもしなかった。
あるいはそれこそが彼女の罪、事態を悪化させ、クラスの誰にとっても悪夢のような終着に至らしめた原因なのかもしれない。
彼女は何一つ手を下さないまま、教室の影なる支配者として君臨した。
事態は進級してクラス替えが行われても変わることはなく、彼女は依然、何一つ物言わぬ支配者だった。
己の意思さえも超越して人を惑わし、正気を失わせるものをこそ“魔”と呼ぶのだ。この目の前の少女はまさに魔性の権化であった。
意識して息を吸い、吐く。やるべきことをさっさと済ませよう。教師としての職責を果たしに来たのだから、そのとおりにしなければならない。
教師「4つ訊く。1つ、家庭訪問の日時にいないが、これは何らかのやむなき理由によるものか? 2つ、母親の帰ってくる頻度は? 3つ、お前の生活資金は? 4つ。……母親はお前に対して何をした」
少女「1つ目は、私にはわかりません。母は外出する時、私に言伝をしませんので。2つ目は……そうですね、週に1、2度でしょうか。たいてい数日は帰ってきませんし、一週間以上家を空けることもあります。3つ目は、お金だけは母が残しておいてくれていますので、それで。4つ目は……」
少女はひそやかに笑う。その声には自嘲の響きがあった。
少女「母は私には何もしません。本当に、何も」
一切のコミュニケーションを拒否しているということか、と唸る。体育や身体測定では、身体の異常は確認されていない。つまり、身体的虐待は存在しない。
そしてそれは、精神への陵辱がないことを意味するものではない。質問はより慎重なものになった。
教師「……お前の母親が育児に対して、そうだな……『極端に非協力的』であることを、学校側は認識しているはずだ。少なくとも前任は、去年の家庭訪問や面談で知っていたはずだ。母親がうまくやらない限りは」
今日の行動からして、その可能性は著しく低いが。
少女「……。はい」
少女は不快げに眉をひそめた。苦々しいものを飲み下すような表情を意外に思う。同時に何があったのか気になった。
教師の知る限りこの少女は、精巧に作られた陶器の人形のような無表情か、目を伏せた憂い顔か――教師にだけ向けるかすかな微笑みのみを感情表現としていたのだが。
少女の肩が強張っている。膝に伸びた手はテーブルに隠れて見えないが、きっと拳が固く握られ、ただでさえ白い手からさらに血の気が引いていることだろう。
ここで少女の過去を訊き出すべきかどうか、迷う。理解が及ばないにしても、同じ人である以上、何を訊かれても傷付かないということはないはずだった。
いや、考えるまでもなく、無理に過去をほじくり返すよりも、これからについて目を向けたほうがよい。
そのうち、機が熟せば自分から話してくれるだろうか、という淡い期待もあった。
教師「嫌なことを思い出させたなら謝る。すまなかった」
少しきまりが悪くて、少女が返事をする前に続ける。
教師「お前の母親の行動は、子供を保護し、監督するべき義務を怠っているものだ。これは広義の児童虐待にあたるもので、私は児童相談所か、市町村の所定の福祉事務所に通報する義務がある」
少女はまっすぐ教師を見つめる。ひたむきな視線にたじろぐ自分を確かに認めた。
不憫な娘だと思う。美貌といえば聞こえがいいが、度を超えて完成された美は容易に人を狂わせる。
少女がこれまで辿ってきた道筋と、これからの運命を思った。
教師は決して人間が良く出来たというわけではない、と自分を評価している。
他者に無条件に優しさを振りまけるほどの前任ではなく、前任との不和のように、職場と調和してやっていけないくらいには対人能力も高くない。
きっと、教師がこの少女にできることはそれほど多くなかった。
それでも、自分にできる範囲で、職務上の権限が許す限りのことはしてやりたかった。少女がなにか困っているなら、その傷害を取り除くか軽減してやるくらいの手助けはできるだろう。
もしかしたら、教師がそのように考えること自体、教師もまた彼女の“毒”に酔っているのかもしれなかったが。
教師「……ただし、通報は今すぐにはしない。学校が始点となるなら、こちらもそれなりの用意が必要だし、できればいきなり通報するよりは、その前に母親とコンタクトを取りたい」
教師「少し時間は掛かるが、きちんと段取りを踏んでいったほうがいいだろう。母親と学校との関係が決裂して、お前に危害が加わるのは避けなければならないからだ。学校側も態度を統一しないとな。……わかってくれるか」
その時、花が綻んだ、と思った。少女がこんなにも幸せそうに笑うのははじめてだった。
わずかに潤んだ瞳も、ほんのりと赤く染まった首筋も、唇の間から漏れ出る熱を帯びた呼吸すらも、彼女の情感を押しとどめることは能わなかった。
一体なにが彼女の琴線に触れたのか、そんな疑問がどうでもよくなるほどの衝撃に心臓が殴りつけられるようだった。彼女以外の何も視界に入らず、何もいらないとさえ思った。
――自分だけが彼女の心を独占しているのだ!
実感が、脳が焼き切れるほどの幸福感をもたらす。忘我の心地に浸る己を、頭の中の冷静な部分が見下ろしていた。
所詮はお前も、お前が見下し、軽蔑してきた連中と変わりないのだ。
冷笑する声なき声に、そのとおりだ、と口の中で呟いた。
家庭訪問終了。
やっぱバッド一直線だな、これ
むむむ
主任「育児放棄ぃ? 帰ってきて早々、物騒なことを言うねえ」
学年主任は顔をしかめて胡乱げに教師を見上げた。
少女の家を辞した頃には既に辺りは暗くなっていたが、教師は学校に戻っていた。家庭訪問の簡単な報告や残務処理のためだ。
職員室についてすぐに、教師は学年主任のもとに向かった。そこで少女の家庭状況――母親からの育児放棄を報告したのである。
教師の手筈としては、今日のところは簡単な概要報告にとどめ、通例的に家庭訪問期間の終了を待って開かれる職員会議の場で議題に取り上げ、対策を協議するつもりだった。
ここで最初に学年主任を頼ったのは、まだ経験の浅い教師のフォローアップは基本的に主任に割り振られていたからだ。
しかし、どうやらその判断は失敗だったらしい。
教師はその最初の関門で躓いてしまっていた。
主任「あのねぇ、親御さんと会って、話しもしてないんだろう? それで軽々に育児放棄してるだなんて決めつけるのはねぇ……。だいたい、本当にお母さんの方には今日が家庭訪問日だって伝わってるの? 忘れてるだけかも……」
教師「そもそも子供を1人で残して頻繁に家を空けています。それも何日も。家のことは全くのノータッチらしいですし、ご存知のとおり、以前からあの母親はPTA会議等への不参加が目立っていました。ですのでこれは――」
主任「あのだねぇ!」
唐突に主任は金切り声を挙げて教師の言葉を遮った。苛立ちも露わに、台詞に乗せて指先で机を強く、何度も突付く。わざわざ書類を避けているのは音を際立たせるためだろうか。
普段の粘着的な口調のまま語気だけが勢いづいて、時折甲高く裏返る声は聞く者の神経を逆撫でる。
嫌味な所が多分にある男だが、ここまで冷静さを失っているのは初めてだった。
主任「キミはそうして、無闇に人を疑う癖があるようだねえ……前任の先生の件で、まだ懲りてないのかぁ? ああ?」
教師「仰っている意味が分かりませんが……」
主任「はぁああ?」
主任の顔がかっと赤黒く変色した。この激烈な反応は“怒り”以外には説明がつかない。
教師(でもなぜ、それもこのタイミングで主任は怒っていて、怒気の矛先が私に向くんだ?)
思い当たる節がなく、とりあえず主任自身の口からその理由が明かされるのを待ったが、つづく主任の非難はさらに教師を混乱させた。
主任「あのなぁ、前任の先生はキミのせいで退職されたようなものだろう? まだまだお若く、わが校にとっても必要な方だったのに……キミは何の責任も感じないのかね?」
教師「……いや、何が言いたいのか理解に苦しみます。そんなことよりも、今は彼女のほうが先決でしょう。なにかしら手を打たないわけには――」
主任「口答えするなぁ! キミのそういう所が原因で、保護者の方からも信用されていないのではないかね? 少しは反省する態度を見せたらどうだ!」
教師「ですから私はあの母親とは、話したことはおろか会ったことさえ皆無に近いんです。それ自体が問題だと今まで何度も――」
主任「うるさい! まだ言うのか! キミは本っ当に余計な問題ばかり起こしてくれるねぇ……! 大体だねぇ、キミは――」
抗弁しようとした教師を頭ごなしに怒鳴りつけた主任はすっかり激昂していた。椅子を蹴立てて立ち上がって教師を悪罵し、吐き捨てるように人格を否定する。支離滅裂な罵倒と回り切らない呂律は、何の建設性もない時間の訪れを予感させた。
抗弁の内容ではなく、抗弁という行為それ自体が怒りに火を注いでいるようだった。ならば何を言っても逆上するだけだろうと思い、口を噤む。主任の気が鎮まるのを待つほかない。
教師(そういえば、よく前任にもこうして怒鳴られたな……)
前任からもしばしば理不尽な苛立ちをぶつけられていた。前任の時も何が引き金なのかわからなかったが、これはなにかの符号だろうか。
問題の根は同一だという直感があった。前任の怒りも、今この主任の怒りも、表面上の理由はどうあれ、その底流にはまったく同じ種類の激情がうねっている……。
主任「聞いているのかね!? まったく、どうしてこんなヤツに……」
教師「――あ、はい。『私に』、どうかしましたか?」
教師が訊き返すと、なぜか主任ははっとした顔をした。しまったという表情。すぐに素知らぬ顔を取り繕うが、取り返しの付かない暴言を吐くのを直前で踏みとどまったのか。
可能性を考えてみて、ひっそりと笑う。
主任が教師に向ける言葉の刃に、いまさらタブーなどあるはずがない。
教師「主任。『どうしてこんなヤツに』――なんでしょう?」
主任「い、いや、それは……」
あからさまに怪しく主任の目が泳ぐ。露骨な狼狽ぶりに呆れる一方、いささかの不安もあった。
主任のもつタブーが不明である以上、最大の警戒を持ってしかるべきだったし、なにより、『どうしてこんなヤツに』――その続きに不吉なものを感じたからである。
教師(『どうしてこんなヤツに“何らかの権限”が与えられているのか』――それとも)
教師(『“誰か”が、“何らかの振る舞い”を向けているのか』、か――?)
実のところ、空欄に入る言葉には薄々気付いていた。ずっと疑ってはいたのだ。ただ言葉にはしてこなかっただけで、去年この学校に着任した時から――この学校で彼女の存在を知ってから、ずっと。
教師「主任――」
主任「とにかく! この件はもうしばらく様子を見るように。校長先生や教頭先生には私からそのように説明しておく。いいな?」
主任は苦しげな唸りを自ら断ち切って、教師の返答を待たずに職員室を出て行った。呼び止めるが主任の足は止まらず、遠ざかる姿を呆然と見つめた。
主任がこれからする報告はほとんど無意味なものになるはずだった。
ならば主任のこれは、これ以上話を聞く耳は持たないという意思表示と捉えるべきだった。
きっともう校長は学校にはいないだろう。一切の責任を教頭に覆い被せて自分だけは安穏を決め込む、校長はそういう人間だ。
一方の教頭もそういう事情を了解していて、問題や不祥事を極端に嫌った。とくに問題に対してはその発覚を恐れ、表沙汰にしないまま有耶無耶にしたがるところがあった。教頭はこの学校に長く居着いていて、教頭こそがこの学校の校風の中枢となっている。
禿げ上がった頭皮以上に、校長への昇進が滞っていることを気に病んでいる教頭は、問題そのものに蓋をすることで少しでも経歴に傷がつかないようにすることのみを優先する。
保身という名の隠蔽体質こそ、この学校が冒されている病名だった。
さざめくような、けれどもどこか聞こえよがしな忍び笑いが漏れ聞こえる。
振り向けば、計ったように職員室の面々が首を巡らし、目を背けた。まるで当てつけのように気まずい雰囲気を醸される中、ただ一人、副担任だけがニタニタとした笑顔を教師に向けていた。
いや待て、と流されそうになる自分にストップをかける。本来不満を託つなら冷笑を受けていた教師の側であるべきで、ただ見ていただけの連中が何を当てつけるというのか。
一見理解し難い光景だが、この学校では日常茶飯のことだった。この学校では“集団”に属することが何よりも尊いとされ、しかもここでいう“集団”は固定されることがない。
先ほどまで親しげに笑い掛けていた相手でも、ひとたび“和”を乱せば即座に侮蔑の対象となり、罪人のような扱いを受ける。罪人は身を縮めて針の筵に甘んじて、新たな罪人が生まれれば、また晴れて集団に属し、強者の一員として弱者を虐げる。
そしてこの場合の“和”とは現状維持のことであり、それを逆立て、荒立てるような行為はそれだけで目を付けられた。
“生徒の自主性”の名のもとに己の行うべき職務さえも放棄し、同僚に対しては謂れ無き格差を醸成し、問題となるものをそもそも看過させ、なかったことにする。
それがこの学校の、『育てられるべき自主性』なるものの正体だった。
教師(病巣は深く、症状はあまりに重い……)
しかもこの病は繁殖に旺盛で、学校職員の全体を覆っていた。ため息をつくよりほかに手がない有り様だった。
いつまでも薄気味悪い笑みを浮かべる副担任から目線を切って、教師は自分のデスクに戻った。
とりあえずは残務処理に専念することにしたが、思考は上滑りするばかりだった。
教師の取った行動は間違っていないはずだった。
教師(私一人でどうこうできる問題でないことは確かだ)
仮に児童相談所が指揮を執るにしても、関係各機関の担当者を集めて行われる関係者会議に教師は出席しなければならない。
また事情聴取や学校側の対応も報告・指導を受ける必要があり、そもそも教師が独断専行で決められるレベルの問題ではないのだ。
さらに教師は担任するクラスが有る。平日の丸一日を空ける必要に駆られるかもしれず、副担任も老練なベテランではなく新任であるならば、クラス運営にも不安が残る。
いずれにしても学校全体の協力が不可欠なのだった。
教師(明日の職員会議で無理やり議題に挙げても、連中に黙殺されるだけだろうな……)
しかし単独で児童相談所に相談するのはどうかといえば、これは考えるまでも採りえない。
教師の言と学校側の言が食い違うとしたら、彼らはどちらを信じるだろう? 個人と組織という違いだけでなく、所詮教師はたかが教員生活2年目の若造なのだ。
信じるに足らずと切り捨てられるのは間違いなく教師の方だった。少なくとも教師の証言は相当割り引かれることを覚悟しなければならない。
教師(これ以外に最善手があるとは……)
思えない、と考えかけてふと自嘲の笑みが漏れた。
――言い訳と自己弁護に終始している。
誰に対する申開きかといえば、それはもちろん、かの麗しき少女に対するものだった。
そう、教師は出来る限りのことをしたが、学校の愚か者どもの無理解ゆえに上手くいかなかったと。
つまるところ、私は悪くない、と主張して許しを請うのだ。
救うべき対象に自らの無力と無能をさらけ出し、同情を求めんとする己のなんと薄汚いことか。
彼女の置かれた異常事態の解決にはまるで寄与しないのに、くどくどと繰り言めいた言い訳を聞かせることに何の意味がある。
ただ教師の不全感に塞ぐ心を解消するためだというのなら、その行為は彼女に対して無益であり、極めて礼を失している。
教師(しかし、学校が頼りにならないことは言っておかなければならない)
言い訳どうこうではなく、少女が事態を正しく認識することは絶対に必要だった。
たとえ教師の人間性が、教師が見下げ果てている亡者達と同じ程度に賤しいものであっても、教師は己に課された義務を果たさなければならなかった。
とはいえ、と低く笑う。
自分の無能を告白しなければならないというのは、なけなしの自尊心を掻きむしられるようだった。
まあ、その程度で傷つくような安い自尊心に用はないか、と声には出さずに独りごちた。
ここらで布石終了かな
あとは状況を悪い方向に一気に塗り替えていくだけ
ごめん、もう一点ミスあった
最初の方は一人称で進んでたのに、途中から三人称になってる
これ全部「私」→「教師」で統一して下さい
何度もごめんなさい
投下開始
教頭「そ、それでだね……我わっ我々としては、お母さんとまだ話し合いもしていないからして……」
教頭「――……あっ、はな、話し合いをだね、しないといけないんだよ。分かるよねぇ? うん、うん……」
少女との会見はここ生徒指導室を借りて行われていた。会見には彼女の他、担任である教師と副担任、そして教頭が出席している。
教頭の臨席は本人たっての希望だった。教頭は本来、こうした面倒事を病的に嫌う男である。平素は何かと理由をでっち上げて主任らに押し付けるよう動くのが、今回は珍しく強引に介入してきていた。
参加券をもぎ取った教頭は当たり前のように会見を主導した。序列上それよいのだが、話がほとんど進まないのはどうしたことか。普段から吃音が強い気があったが、今日はいつにも増して吃る回数が多い。
口ごもるだけの良心はあるのかと、教師は皮肉に思う。
そもそもこの場で彼女に伝えられるのは正式に決定した学校の対応を伝えるためだったが、これを"対応"などと大袈裟に呼ぶのは、自己欺瞞にほかならなかったからだ。
結局あの後も主任を説得することはできず、職員会議は現状の静観を結論づけた。
当然ながら教師は反論し、関係各位と協力の上事に当たるべきだと強く主張した。しかし教師の熱意は同僚たちの嘲笑をもって迎えられた。
彼らの意識上では、教師は平時に乱を起こす厄介者で、その主張はいたずらに事態を煽るものでしかない。
教師(私が思うところを述べれば、彼らはいつも薄ら笑いを浮かべて、私の意見は穏当ではない、穏便に事を運ぶべきだと言う。そして雑音は封殺され、議論を彼らにとって既定の路線に着陸させる)
それが彼らのやり方だった。
そしてその笑みの裏側には、平穏をかき乱す教師への無言の怒りと、人と和することに信奉しない精神の幼稚さに対する憐憫が隠れているのだ。
何を言っても無駄だった。無力感が泥のように絡みつき、教師は沈黙の内に敗北した。
しかし、教師どれほど頑強に抵抗したところで、所属する組織の決定には逆らえない。教師が少女の一件から外されることだけは避けなければならなかった。
これもやはり言い訳だろうかと、沈んだ気持ちで思った。
そうして、打つべき方策をことごとく拒否し、怠惰に甘んじることをもって"対応"となすことに、教師はいつまでも納得できないでいる。
生徒指導室は大の大人3人を含む4人が落ち着いて座るには少し手狭だった。
備品や椅子、机は通常の教室のものとほとんど変わらない。ややもすれば規模の小さいふつうの教室にも見えた。
これは、この学校が生徒の生活指導に力を入れていないか、むしろ半ば放棄しているからだと教師は考えている。
机を4つ向かい合わせ、もう1つを横付けした計5つの机に教師たちは座っていた。一方に少女、もう一方になぜか教頭と副担任が座って向き合い、教師が少女と教頭らとの間に入る形になる。
この配置は、教頭が生徒指導室に入ってすぐに差配したもので、彼が会見の主導権を握るための措置なのだろうと思う。
教師としては別にそれでもよかったのだが、このまま教頭に任せていたのでは埒が明かない。
そこで教師が口を挟もうとすると、やにわに教頭はぎょろりと目を剥いて、「うるさい! お前は黙ってろ、今俺が話してるだろうが!」とヒステリックに怒鳴りつけた。
その後も教頭は、しばらくは少女そっちのけで教師を面罵し、気が済めば少女に詫びる。そしてまた会見は遅滞するということの繰り返しだった。
口出しはむしろ逆効果だった。諦念に塞ぎながら、少女の真正面に陣取った教頭の様子をまじまじとうかがう。
教師の観察する限り、教頭は少女の方を見つめては固まることを繰り返している。その都度言葉を忘れて見入っているのが原因だった。
教師(たしかに教頭がこの少女と面と向かって相対する機会は多くない)
だから仕方がないといえばそれまでかもしれない。この天女と見紛う神々しい美貌を前にして動揺しない男はいないのだから、それを責めるのは酷だろう。
だが、と教師の腹の底には強い不快感がとぐろを巻いていた。
教師は苛々と教頭を睨めつける。その理由、教頭の少女に向けた視線にあるのは、疑いようもないほど露骨な好奇と媚び。
――この男は見るからに欲情していた。
たしかにこの少女は美しい。こうしてただ腰掛けているだけでたおたかな風情を醸し出す。
それは、物憂げに伏せられた睫毛が目の下につくる、あるかなしかの陰影のなすわざか、それとも礼儀正しく膝に置かれた手の滑らかな白さのためだろうか。柳を形作る眉は細い筆を払ったように目尻に抜け、綺麗に揃えられた前髪が濡れたように黒い瞳をよく引き立てた。
清冽な雰囲気と淑やかな形が不思議に共存していた。
一方で、 単に優美だというだけではない。
この少女には、華と呼ぶにはあまりに真に迫るものがあった。
教頭の視線は、何の変哲もない仕立てのセーラー服をなめている。襟に隠れた胸元からはえも言われぬ色香が目に見えるようだった。つ、と視線を下に辿ればネクタイを押し上げて豊麗な曲線を描き、すとりと重力に従って布地が降りていた。
教頭が瞼の裏に映している幻は、間違いなく服に覆われ隠された少女の肢体だった。
彼女自身は決して己を強く主張しない。なのに目を背けることを許さない存在感があった。
この少女の持って生まれた美は、見る者を圧倒するだけのものではない。
ただ鑑賞するに止まらせず、人を惑溺して人倫を侵食する類のそれだった。
例えばこの匂い立つようなうなじはどうだろう。光に当てれば透け、闇の中にあってはぼうっと浮かび上るような、その白粉とは比べるべくもない白さ。
それは人を驚嘆せしめると同時に、ある一つの衝動を抱かせるのだ。
――この肌に、自分の痕を残せたら。
きっとこの少女には傷一つ、染みすら一つとて存在しないだろう。それに己の証を刻みつけることは、取りも直さずこの天の与えし至宝たる少女を掌中に収めることを意味した。
幻に浮かぶ少女の瑞々しい柔肌はきっと、切なる願いを容易く叶えるだろう。
まるで新雪を踏み荒らす喜び、何も描かれていないキャンバスをカッターナイフで切り裂く愉悦、人の持つ征服欲を刺激するのにこれ以上のものはなかった。
ところが、彼女は人を惑わす一方で、相手を誑かす意思はない。人であるならば誰しもが彼女を求めるが、彼女はそもそも誰かに身を委ねる意思を持たなかった。その様は教師に、闇に巣を張る女郎蜘蛛と、それに群がる虫々を思わせた。
教師(獲物を捕らえるくせ決して捕食せず、獲物が飢えに腐り溶けて死んで行くのを見ることもしない、残酷な支配者……)
この蜘蛛は自らの力によってではなく、天与の才として否応なく巣を張っている。
白銀にきらめく糸を放射状に織り成してできる端整な幾何学模様。獲物は蜘蛛を求めて近づき、知らぬ間に自ら糸に絡み取られていく。
それでも中心に向けてもがく哀れな獲物は、目の前に夥しい数の、同じく心を奪われた同胞が横たわって蠢いているのに気付くのだ。
彼らの望みはただ一つ、蜘蛛を一目でもその瞳に焼き付けることだけだった。
長い脚は黄と黒の鮮やかなコントラストで、毒々しさよりはその足先に貫かれる甘美な痛みを想起させる。あるいは遠目にも鋭く研ぎ澄まされた牙に切り裂かれることで、麗しき蜘蛛の血肉と成り果てるのも、抗いがたいほど魅力的だった。
欲望の命ずるままに同胞を押しのけ踏みつけて、彼らは互いに互いを喰らいあってもがくことを繰り返す。
しかし、と教師は思考する。
身を灼きつくすほどの衝動の果てに彼らを待ち受けていたのは、最初の地点からただの一歩も近づけていない絶望だけだったのだ。
彼女は常に独り、望まぬ巣の只中に独りであった。彼女は這いつくばって恨めしげに慈悲を乞い願う彼らに一瞥もくれない。
胸から心臓を掻き出して彼女に絶対の忠誠と愛を誓ったところで、それは彼女の望むところではない。
彼女の不興を買うことは全てを失うことにちがいなかったから、彼らにはもはや為す術がなかった。
彼女に少しでも近づきたい、あわよくばその隣に侍り、伴侶としてありたいという思い上がりはその時、身を切るほどに深い傷となったのだろう。
それでも諦めきれない妄執だけを残して、魂を腐らせるように頽廃し――誰かが彼女に近づくことを許さなくなる。
おそらくはこれが彼女の身に起きている事態の全容だった。
ふと、では、少女の母親はどうだったのだろうと思った。彼女に決して触れず、ただ生活の糧だけを与えているという母親。
彼女の縛めから解き放たれたのか、それとも強く囚われるからこそ別離を余儀無くされたのか。
彼女を憎んでいるのか、それとも。
教師(そして、この私はどうなのか?)
その答えは教師にとって分かりきったものだった。
教師も決して例外ではないのだ。教師は特別な存在であることはないし、そうやって無邪気に自意識を肥大させることが教師にはできなかった。
だから教師が少女の置かれた状況をどうにかしてやりたいと思うのは、そこに下心があるからだということは明白だった。
教師には、教員として以前に品性が下劣な自分が疎ましかった。
そんな自分が教員然として振る舞うことはそれこそ欺瞞だったし、彼女を始めとする生徒全員に対する背信も同然だった。
――だが。
教師(私が教員失格であることと、教員としての義務を放棄することは全く別の問題だ。いや、むしろだからこそ、私は彼女を救わなければならない)
そもそも教師は社会の一員として、未成熟な児童が不当に虐げられているならば、それを救わなければならない。その義務を、教員という立場を通じて履行しなければならないのだ。
望むと望まざるとにかかわらず、この義務は万人に課せられている。これを放棄することは、拠って立つべき社会規範の一切を喪失することで、それはつまり社会からの逸脱を意味する。
その意味で、教頭の行為は許しがたかった。
ひとつには精神的に未だ未熟な児童を教導すべき義務を果たしていない点、また教え子に対する下劣な品性をむき出しにしている点で、二重に罪深いといえた。
せめて同じ教員の端くれであるなら、少しは品性に悖る己を恥じたらどうだと思う。
教師もまた同じ穴の狢であるために、その思いはなおさら強かった。
時計を見れば、教頭の話が始まってから悠に30分が経過していた。
教頭は相変わらず、少女の常と変わらぬ艶姿を目の当たりにして恍惚としては我に返り、媚を売るように笑う。
眉根が釣り上がるのを感じた。同時に、副担任が教師に視線を向けているのに気付いた。
副担任はにやにやと気色悪い笑みを浮かべている。
なにが愉しいのかわからないが、どうせ大したことはあるまい。教師はさっさと目線を切った。瞬間、副担任の表情が変わった気がしたが、どうでもいいことだった。
しどろもどろにもごもご言う教頭を遮って要点のみを伝える。
教頭「だだ、だからだねえ……私たちとしてはぁ……」
教師「学校としては今すぐに児童相談所等に通告しない。お前の保護者と連絡を取るなどして、しばらく様子を見ることになる」
驚いたように振り向く教頭を無視して続ける。
教師「これは事前に児童相談所等の学校外の機関を介入させないことにより、お前の保護者との信頼関係を損なわないためだ」
教師「そのために、まずはお前の保護者と会見する必要がある。話はそれからだ、というのが先日の職員会議で出た結論だ」
我ながらいけしゃあしゃあと言うものだ、と小さく笑う。児童相談所への事前通告は奨励されているし、そもそも少女の母親との間に信頼関係などない。
母親が学校教育に対して不干渉を決め込んでいる以上、学校側の取れるアプローチに有用性は低かった。
実のところ学校は、保護者に対して何らかの強制力を働かせる権限を持たないのだ。特に児童保護においては公権力執行の主体は各市町村に置かれた専門部局であり、学校はその媒介をするに過ぎない。
つまりこの通告は、学校は現時点では様子見を決め込み、何ら実効性のある対策を打たず、そのための協力を拒むという意思表示なのだ。この怠惰が覆されるときには、事態の収拾はほとんど不可能になっているかもしれない。
それを思うと居ても立ってもいられないほどの焦燥が教師を襲うが、教師は学校の決定に逆らえない。逆らうための実力が教師にはなかった。
表情を変えないでいるのは多少の努力を要した。沈痛な体を見せるのはいかにも同情を誘うようで嫌だった。
一息に言い切った教師を、教頭は殺気を篭めた眼で睨みつけた。大きく見開かれた目は血走って、不穏な光を放つ。
そんなに憎いか、と教師は教頭を見返した。
彼らが掲げる“和”に与しない教師は不倶戴天の敵か、獅子身中の虫か。彼らにとって教師は所詮、彼らの信ずる秩序に反逆する裏切り者だった。
しかしこれは教師が悪いのか? 臭い物に蓋をして、必死に目を閉じ耳を塞いでも、覆い隠した現実は常に目の前にある。事実をいくら遠ざけようとも、それは彼方で護るべき人を襲っているのだ。それを見て見ぬふりをして自らは殻に閉じこもって安逸を貪るのは、これ以上なく罪深く、――彼女に済まない。
そもそも彼女への奉仕をなぜここまで嫌がるのか、教師にはさっぱりわからなかった。彼女の境遇を救ってやれるなら、彼らは喜んで教師に賛同するのが道理ではないか。
たとえ彼らがいかに教師を敵視していようと、それと彼女への慕情は釣り合うものではないはずだ。ゆえに彼らの消極的姿勢は教師への敵意によるものではないことになる。
では何が気に入らないのか、教師には何も思い当たることがなかった。
なぜここまで疎まれなければならないのか、と考えかけてはっとする。
前任、主任、教頭と、同じことばかり考えている。三者に共通して言えることは、皆教師の手の届かないところで不信感を育て、教師にぶつけてきていた。
教師はそのたびに意図がわからず困惑した。これは偶然だろうか?
教師(本当は私はその答えを知っているのではないか――ただ目を背けているだけで)
愕然とする思いで教頭を見つめた。教頭は口元をひくつかせ、さらに眉間に力を入れて教師を射殺さんばかりに凝視していた。
彼の怒りが増していることに違和感を覚えて、はたと気付く。おそらくは教師の無意識が言語化する前に打ち消してきた可能性。言語にしなければ意識に上らず、意識に上らなければそれはないのと同じ。それはまったく、教師が軽蔑してきた教頭たちのやり口と同一だった。
恐る恐る顔を横にすべらせた。
少女が教師を見つめていた。
象牙の頬に差した赤みは夕焼けのせいだけではあるまい。少女は心配そうに、わずかに眉尻を下げていた。ゆるく頬に添えられた手は同時に口元を隠していて、隙間に見える瑞々しい口唇は物言いたげに閉ざされていた。
少女は教師の様子がおかしいことに気付いたのか、ことりと首を傾ける。ややあって、その瞳が申し訳なげに伏せられる。薄布のベールを翳したように瞳の色は複雑で、深い感情を湛えているように見えた。
これだったのだと確信した。その事実はあまりに残酷で、教師にとっては存立する社会基盤を根こそぎひっくり返す危険なものだったから、必死に否定してきたのだ。
しかし今や逃げ道はなく、迫り来る絶望感に押し潰されそうだった。
教師(こいつらは私に嫉妬しているのだ。私自身の行いは大した問題ではなかった――中心はやはり彼女以外ではなかった。彼女が私に対してだけは心を開き、感情を向ける。そのことが耐えがたく恨めしい。肥え太らせた憎しみはその背後に燃え盛る嫉妬を飼っていた)
教師(私が率先して彼女の境遇を救うのを断じて許すわけにはいかなかったのだ。私に手柄をくれてやり、少女からの信望を厚くせしめるくらいなら、みすみす協力してやる義理などない。はじめから成功するわけがなかった)
教師(それなら私は、無駄に状況を悪化させただけだ……)
なんということだとつぶやく声は言葉にならず、唸るような低い呻きとなって出た。
窓から差し込む夕焼けは血のように赤く、太陽の断末魔の叫びが聞こえてくるようだった。陰惨な化粧をほどこされていく部屋の中で、教師はその前途を失った。
今日はこれで終い
つーかただ少女に対応伝えるだけがなんでこんなに長くなんの?
あとイベント2、3あるのに(震え声)
とりあえず出来たとこまで投下
今回は短め
思い至った結論に目眩がした。同僚たちは教師に対して向けてはいけない感情をさらけ出している。
それは許されないと思ったが、それは教師のためではない。彼らは教員として特定の生徒を贔屓せず、皆を公平に遇する義務を負っているからだ。
その義務こそ教員の本分だと教師は考えている。中学生という多感な時期にある子供にとって、教員は親の次に身近な大人であり、子供に与える影響は非常に大きい。教員の行動が子供の心に深い傷を残すこともある。
教員に必要な資質とは、常に己を律し、社会人の模範として生徒に接する姿勢を貫くことである。その努力を厭うのなら、そもそも教員を志した理由を失ってしまう。
彼らは彼ら自身の手で、生徒らを正しい方向に導き、社会の尊敬を受け続ける未来を握り潰してしまっていた。
そして、資格なく教壇でふんぞり返り、大上段から講釈を垂れる心性の醜さに、生徒もまた敏感だろう。一方で教員たちは彼女以外をまるで無価値に扱うが、逆に生徒らは連中を見下げ、軽蔑し、彼らからの一切の働きかけに背を向ける。
関係の拒絶が双方向から行われるなら、対話も歩み寄りも望めまい。
教師(……あるいは)
その続き、そのおぞましい可能性を、心中で言葉にした。ずっとずっと、もしかしたらと心の片隅で思い続けながら、そんなはずはないと退けてきた、あってはならない事態。
――もしかしたら、もう手遅れかもしれない。
そして、それはおそらく正しいのだと教師には分かっていた。
「――先生?」
静かでか細いのに自然とよく通る声。少女の声だと教師は我に返った。混乱しているくせに口だけは滑らかで、とにかくと前置きした上で、少女の母親との面談を学校側が希望していると言付けた。
視界の隅で教頭が憤怒の表情を向けているのが見えたが、もう付き合っていられない。手筈通りに少女に封筒を手渡した。封筒には教師が用意した、学校の意向を記した書面が入っている。
この書面が少女の母親に渡れば、今回の会見の目的は達せられる。両手で封筒を受け取る少女から目を逸らして、教頭に目配せした。会見の終了まで教師が取り仕切ってしまっては教頭の立場がないだろう、という配慮からだったが、教頭はぎりぎりと歯軋りが聞こえてきそうなほど歯を噛み締めて教師を睨んでいる。
教師は眉をひそめて教頭を見返した。教師にも言い分はある。教頭がどうだかは知らないが、教師にはこの後も別の仕事があるのだ。教頭の遅延行動がなければとっくに取り掛かれていたものを、と恨み事の一つも言ってやりたい気分である。夏の足音が聞こえてくる季節、夕暮れ時は思っているよりも遅くなる。教頭が無駄にした時間は、実際以上に教師の心から余裕を削り取っていた。
教頭はさっと顔を背けて、阿るような下卑た笑みを取り繕って少女に話しかける。その態度も教師の反感を刺激するが、口に出さない程度の冷静さは残っていた。
教頭「それじゃあ、よろしく頼むねぇ。私も、できる限り力になるから」
はい、と頷く少女の姿に気を良くしたのか、教頭は満面に笑みを湛えて揚々と会見の終了を宣言した。やっとか、と教師はため息を吐いていると、副担任が少女に退室を促した。副担任の右腕が、何気ないふうに少女の背に伸びていくのが見えた。
教師「おい」
教師が声を上げると、副担任はさっと手を引く。何をしようとしていた、と訊く前に、副担任は悠然と「なんですかね、先パイ」と嘯いた。
ここで副担任を問い詰めても白を切るだけだろうし、証拠も証人もいない。当の少女も実際に見ていてわけではなかった。
追求は無意味だと諦める。ぱっと顔を上げた少女に声を掛けた。
教師「今日はもう遅い。気を付けて帰りなさい」
教師が手の平で先に部屋を出るよう示すと、少女はあるかなしかの微笑みを浮かべて頷きを返してみせた。
少女が一礼して教師の前を通り抜ける。揺れた髪から立ち籠める、胸をざわつかせるような馥郁とした芳香は、きっとシャンプーか何かのものだと教師は決めつけている。
男と比べて髪が長いから、女子の髪の毛にはシャンプー類の香りが残りやすいのだろうか、と埒もないことを考えて教師も退室し、そのまま職員室に向かった。
結局教師には、自分が周囲の嫉妬を買っていると悟った段階でさえ、なぜ同僚が教員としての職分を簡単に押し遣ってしまうのか、本当の意味では理解できていなかった。
個人を存立させるアイデンティティとして、生業とそれに対する忠誠は大きな比重を占めている。一方で職業選択の自由が認められているのだから、自分がそれに適わないなら職を辞する事もできる。職業上要請される精神と自分のあり方が埋めがたいほど乖離しているのなら、わざわざその職にしがみつくべきではない。
教師には、職と個人の関係を、単なる向き不向きの問題として単純化する面があった。
だから、少女の美貌は、たとえそれが魂を抜き取るほど凄烈だったとしても、教員としての職分を脅かす理由にはならなかった。
教師はむしろ、彼女の異常性を前にして、より教員らしくあろうと自分を戒めた。彼女も齢十半ばの未成熟な少女なのだから、彼女の健全な心身の発達を妨げるような――例えば劣情を隠さず押し付けるなどの――行為は断じて峻拒されなければならない。
教師にとって自分の拠って立つ論理があまりも自明だったし、どう客観的に見ても正論に思えた。だから教師は無自覚に、自分の職業倫理を周囲にも求めてしまった。
彼女を求める気持ちは本能的な部分に根ざすものだが、その衝動を押さえ込めないのなら、そもそも教員として要件を満たさない。
それならさっさと見切りをつけて職を辞したほうがよほど本人の人生のためでもあろう。
しかし教師の目の前には、自分のように振る舞おうとしない周りの人々の姿が常にある。あまつさえ後ろ指を指されたのは、教員たらんと努めて自律する教師の方だった。
教師は、なぜ自分が異分子にならねばならないのか理解に苦しんだ。
実際のところ、周囲の白眼視は教師自身の態度の裏返しだったが、教師が態度を曲げることは周囲の気が違ったような振る舞いを看過することだ。そうである以上教師は同調圧力に屈するわけにはいかず、必然、孤立はその度合を深めていく。
そして、周囲の行動が理解できないのだから、その行動に至らしめた心情など全くの埒外であるのもまた道理である。
そうして、「なぜ自分を異端視するのか」という疑問が壁となり、その先の、「ならば彼らは自分に対していかなる暴挙に出るのか」という問いを覆い隠してしまった。
すなわち――“自分たちが排斥せんとする者が、女神のように崇め求める存在の寵愛を、少なくとも彼らの心情においては独占しているとするならば?”
答えが牙を向いて教師に襲いかかるのに、さほどの時間は残されていなかった。
今日はこんだけ
繋ぎは終わったから、次から本イベか……
今回もちょっと短いけど、これから時間取れなくなるだろうから投下します
少女との会見から数日、穏やかな日々が続いていると教師は感じていた。
授業等もつつがなく進行しているし、事務仕事も順調といえた。
教師(……いや、そうでもないか)
授業の準備をする教師が見やるのは斜め向かい、少し遠くのデスクである。既に始業時刻を迎えているのに、数人の教員が事務員を交えて仕事もせずにごそごそと喋っているのが見えた。
「やっぱり学校の先生というのは、色んなことに気を配って、相手のことを思いやらないといけませんよ、本当に」
「全くです。その点先生は一生懸命頑張っておられますよ。何より思春期の子供たちの相手をするのだから、しっかり見ていてあげなくては……家庭のこととか、ね」
「あんまり厳しいことを言ったり、事を荒立てたりすると繊細な部分を刺激しますもの。慎重な対処が必要ですよ。……まあ、でも……」
「うちの学校には……ねえ?」
「まったく、困ったものですよ」
何が楽しいのか、彼らはしばらく笑い合っていたが、教師の視線に気付くと途端に会話をやめる。一様に、気まずげというよりは渋面という方が近いような表情を浮かべた。そのまま解散して、めいめいの仕事に戻るまでをなんとなく見守った。
教師の職場では同僚に対する陰口が常態化していた。その場にいない誰かを悪し様に罵ったそばから、席を外した者への非難を平気で行い、輪に戻ってくればまた誰かを罵る――そんな光景は、もはや慣習の域だった。
教師自身は陰口の類は言うのも聞くのも嫌だという性質だったので、最初こそきっぱりと拒絶したり、それとなく注意したりもしたが、同僚たちが反省することは一度もなかった。終いには逆に怒り出す者が出る始末で、教師はそのうち何も言わなくなっていった。
今回教師が無言の内に同僚の会話をやめさせたのは、話題が明らかに教師への悪口だったからだ。さすがに聞こえよがしに自分の批判を垂れ流させるほど教師はお人好しではなかった。
教師(含むものがあるなら、直接私に言えばよいものを……)
と思いはするが、一方でこうした行いは一般にそう珍しいことではない。教員は意外にストレスの溜まる職場だし、その解消として口を衝いて出るのかもしれない。
なにより問い詰めたところで問題は解決しないし、むしろ悪化させてしまうだろうと思ったので、これをどうにかするのは諦めてしまっている。陰口の対象が自分であることは教師にとっては大事でなかったこともあり、放置するのが最善策だった。
懸念があるとすれば、最近とくに、教師に聞こえるような声で教師を貶める発言がされることが多くなってきていることだった。むしろ教師に聞かせることが目的のように感じるのは被害妄想だろうか。
前々から自分が陰で叩かれていること自体は認識していたが、明確に悪意と呼べる感情を、直接ではないにしても突きつけてくることは今までなかった。
それは彼らの弱さとか卑怯さの表れだが、同時にささやかな良心の抵抗という側面もあろう。人の心は善悪が互いに表裏をなしているものだ。いずれにしても良心の制止を振り切って人が悪心に走るなら、相応の理由やきっかけがあるはずだった。
そして、そんなものはひとつしか存在しない。
教師(私が彼女の家庭環境をどうこうしようとするのがそんなに不満か……)
胸の内に苦いものが広がる。確かに教師に一切の私心がないとは言えないが、彼女の置かれた状況を改善してやることは同僚たちも異存はないはずだった。その意味では教師を敵視することも、ましてや妨害することは何ら意味を持たない。
教師はそう考えていたが、現実は教師の想像とは真逆だった。彼女への奉仕の道を開いてやるのだから、むしろ自分は感謝されてしかるべきだ、――その思惑は同僚の敵愾心の篭もった眼を前に簡単に打ち砕かれてしまった。
もしかすると教師にとっては、彼女だけでなく、同僚たちの思考様式までも埒外なのかもしれなかった。
そしてそれが意味するのは。
教師(おかしいのは彼らの方ではなく、彼女ですらなく……私の方ではないのか?)
教師の耳に予鈴の鐘の音が飛び込んできた。はっとして時計を見つめて、手元の書類に目を落とす。どうやら物思いに沈むあまり、作業の手を止めてしまっていたらしかった。
朝のホームルームに遅れないよう、慌てて教室に向かった。
事件は一限目の授業中に起こった。
その時教師は、担任するクラスの教室で教科書の読み合わせをしている最中だった。これは授業の一環というよりは生徒に退屈する隙を与えないための措置である。
教師が授業を受け持つクラスのうち、教師の担任するクラス――彼女のいるクラスは他と際立って生徒の意欲が乏しい。しかし別の先生の話では、教師以外の手による授業は問題がないという。
これも彼女関係か、と憂鬱になる。どこまでも教師にとって少女の存在は鬼門であるらしかった。
それとも、教師は全ての不都合を彼女のせいにして責任逃れをしているのだろうか。
教師(そうだったらどんなにいいか……)
教師に責任があるなら改善のしようがあるのだから。
とはいえ今さら他人に任せることもできない。そもそも配置転換を要請しても、なんのかのと理由をつけて却下されるのが落ちだろう。
だから、このクラスに関わる限り、教師は特別慎重に授業運営にあたっていた。生徒の側も、教師を完全に無視するというわけではなく、指示をすれば渋々ながら従ってくれるのだから、まだ最悪の状況というわけではない。
そう自分を納得させながら、さてそろそろ本題に入っていこうかと考えていると、突然教室の扉がノックされた。
時計を確認するが、まだ授業開始から三十分も経っていない。この時間に授業を中断させなければならない用事はなかったはずで、不審に思いつつも引き戸を開ける。
ノックの主は事務員だった。怪訝な表情を隠さずに用件を訊く。
事務員はひどく動揺しているようで説明は要領を得なかったが、どうやら誰か生徒の親が来訪しているらしかった。しかも極度の興奮状態だという。
そうなったか、と教師は落胆を隠せなかった。事務員はわざわざこのクラスの担任である教師に伝えてきたのだ。来訪者の正体は容易に想像がついた。
しかし目の前の事務員は明らかに平静を欠いている。訪れた親の名前を、その子供がいるだろうクラスの目の前で言わないという配慮ができるようには見えなかったので、教師は事務員の話を遮って職員室に行こうと手で促した。
ところが事務員はやにわに教師の手を引っ叩いた。驚く教師に怒り狂ったように絶叫する。
事務員「お前のせいであの子の親が学校に苦情を申し立ててきているんだぞ! 全部お前のせいだ! お前が余計なことをしなければこんな事には……!」
教師「落ち着いて下さい。とりあえず職員室に行きましょう、道すがらにでも話を伺いますから――」
事務員「ふざけるな! いつでも自分だけが正しいみたいなツラしやがって、お前の独断専行がこの事態を招いたんだ、分かっているのか! どう責任を取るつもりなんだ、ええ!?」
教師「それは今する話ではありません。行きましょう」
激昂する事務員の姿に説得は不可能だと悟って、急いで教室を離れることにした。事務員の腕なりを掴んで連行するよりは、教師が先行して事務員に後を追わせた方が賢明だろうと計算しての行動だったが、これが裏目に出た。
事務員が自分を押しのける形で横を通り抜けようとする教師の胸ぐらを引っ掴んだのだ。咄嗟の事に反応が遅れた教師に、事務員が来訪者の名前を怒鳴った。
ある少女の苗字を。
どうするつもりだ、というような事を迫る事務員を打ち捨てて、教師は教室を振り返った。
教室の後方、窓に近い席に彼女は座っていた。絶句する少女は、ただでさえ雪のように白い容貌を蒼白にして教師を凝視している。
クラス中がざわつき始めた。集団が爆発するように騒ぎ出す、独特の空気が漂うのを肌で感じる。その一瞬前に滑りこむように、教師は言葉を放った。
教師「これよりこの時間は自習とする。今日やる範囲自体の説明は終了しているから、問題集の該当ページをやっておくように。次の授業で集めて平常点に加えるから、そのつもりで」
そう言って、教師は少女の名前を呼ぶ。見開かれた目をしっかりと受け止めて告げる。
教師「これから私達は職員室に向かう。従いてきなさい」
少女を連れて行くのは、少女をこのまま教室に置いて行くのが心配だったからだ。このクラスは危うい均衡の上に成り立っている。それがひと度崩れれば彼女の身に何が降りかかるか、考えるだけでも恐ろしい。
激震の走った生徒らは、大義名分を得てここぞとばかりに少女に接近するだろうし、同時並行して今までは水面下だった相互の牽制が一気に溢れかえれば、想像を絶するパニックが惹起される恐れがあった。
醜い欲望の渦の中に少女を放っては置けなかった。
戸惑う様子を見せていた少女は、教師の言葉に決心したように頷いた。少女が立ち上がるのを見てから、教師は事務員の手を振り解いて教室を出た。
狼狽えた様子の事務員の後ろから、少女が廊下に出てきた。少女がドアを閉める、それだけの所作が不思議に胸を打った。
からからと音を立てて閉まる引き戸に添えられた左手、その指はほっそりとしているのにいささかも骨張ったところがない。美しく整えられた艶めく爪はおよそ傷に無縁で、女性らしさという概念をまさに体現していた。
ドアを閉める動きで、彼女の腕が彼女自身の胸元を寄せていく。年齢不相応に豊かなそれは、腕に押さえつけられてわずかに形を歪ませたようだった。彼女の所作が生み出す服の皺、衣擦れは、胸が掻きむしられるほど扇情的だ。
ふと事務員を見やれば、完全に鼻の下の伸びた顔で見入っている。教師の様子を不審に思ったのか、首を傾げた彼女が問うような瞳を向けてくるのに頭を振って、同族嫌悪を抱えながら職員室に向かった。
少女親襲来・導入編、終了
今日の投下で4000字だから、残りあと何字書いたら終わんだこれ
チャプター分けると……最悪あと10個あるから……?(絶句)
もっと増えるかもしれないしね
ヤバイぜ
やっぱり短いけど投下
職員室への道中を利用して事務員から説明を受ける。少女の母親が来校したのは十分ほど前のことで、来て早々かなりのヒステリーを起こしていたという。下手をすると職員室どころか教室にまで乗り込みかねない勢いだったので、とりあえずのところ、今は応接室で対応しているらしかった。
事務員「担任を出せ、校長はどこだと……職員たちが必死になだめても、こんな学校に娘は置いておけない、連れて帰ると言って喚くので、仕方なく先生方にお任せするしかなく……」
教師「今対応しているのは?」
事務員「教頭先生と学年主任と、あと副担任さんが。副担任さんもまだ新人なのにこんなことに駆り出されるなんて、本当にお可哀想なことです」
事務員は言外に皮肉を滲ませて言った。副担任も関係者の一人なのだから当然だろうと思ったが、いちいち訂正しても詮無いことである。
きっぱり無視して少し後ろを従いてくる少女に首だけで振り返った。
教師「お前から見て母親の様子はどうだった?」
既におおよその見当は付いているが、母親との対決の前に、その怒りの由来を確定しておくのは有益だろう。
おそらく母親が帰ってきたのは昨日の深夜か今日の朝で、実際に手紙を読んだのは今日、少女が家を出た後だ。
そうでなければ昨日の内に電話なりなんなりで接触してくるはずだし、少女が家を後にする前に手紙に目を通したならその時点でアクションがあるはず。
――少女の息遣いが色濃く残る部屋で、テーブルに置かれた手紙を手に取る女。文面に目を通し、その意味するところを理解したときの憤怒の貌が目に浮かぶようだった。
少女が頷きを返す。さらりと揺れる髪を軽く指で払う仕草が、惹き込まれるほど艶かしい。
少女「はい。朝起きたら母が居りましたので、手紙を見せて、先生が面談を希望していると伝えました。その時は、母は少し不機嫌になっただけで、とりたてて特異ということはありませんでしたけれど……」
やはり直接の契機は手紙にあったのだと教師は頷く。歩みを止めぬまま、前を向き直して続ける。
教師「こちらの意図を察するのに時間がかかったということだろう。面談の結果いかんによっては一定の強硬手段に打って出る必要が生じるからな。そうなれば母親はお前から引き離されることになる」
育児を完全に放棄しているくせに子供との別離を拒む。教師の目には奇異に映るが、研修資料によれば虐待親が子供を奪われまいと必死になるのはよくある事例だった。
それは世間体というものかもしれないし、あるいは子供を愛せない自分を認めたくないという意識のなせる所業なのかもしれない。
教師(だから母親の怒りは理解できる。――が)
その理由がどうあれ、子供を育てる環境がどうしても整わないとすれば親や友人など、頼れる者がいるならその人に頼らなければならない。
親の影響というのはとりわけ幼児・児童期においては甚大だ。成人ならば自分の身を自分で処すことができるが、未成年ならばそうはいかない。
そして、ただの個人が他人の家庭に踏み込み、ああだこうだと指示することは容易ではない。だからこそ行政がその職権において介入することが許されているのだ。
しかしこうした措置は、実は子供だけでなく保護責任者の救済という側面も兼ねているのである。子を生せば否応なく親としての責任が生ずることになるが、一方で万人が親たるにふさわしいとは限らない。
そもそも子供を育てるとは、一人の人間の人生の、少なくともその一部の責任を負うということだ。その重さは察するに余りあるし、様々な要因や巡り合わせから耐え切れずに押し潰されてしまうこともあろう。
そこで、頼る者がないにもかかわらず、責任感の強さからあくまで育児を自分の手で行おうとすれば、心身の疲弊は尋常のものではないはずだった。無理に無理を重ねた皺寄せは、子供だけでなく親にまで及んでしまう。
そうなればもはや家庭は完全に破綻する。そして行政側もいつまでも子供を保護するというわけにもいかないのだ。そうなれば、子供はひとりで社会に放り出されることになってしまう。そのような事態はどうしても阻止しなければならない。
だからこそ、児童相談所は行政執行として、保護者の親権を停止し、子供から一時的に引き離す権限を持つのだ。
そうして十分な観察期間を経た後、親の経済事情や心因的問題などが解決されたと判断されれば、もう一度子供を家庭に返す措置が取られる。
しかし、そこで改善が認められなければ、保護者の親権は完全に剥奪される。子供の身柄は児童養護施設に送致され、里親が見つかればそこに預けられることもある。親と責務から解放してやり、もう一度人生をやり直す機会を与える。行政執行にはこうした作用もあった。
いずれにしても、学校には行政上の責任はないのだから、単独で状勢を判断し、強引に事態解決に動くのは危険だった。
だから最初から児童相談所に通告して判断を仰いでおけばよかったのに、と唇を噛む。子供を奪おうとする学校への怒りは激烈だろう。行政の後ろ盾もなく、独自には実効性のある処置を打つ権限もない学校だけで立ち向かうのはあまりに心許なかった。
教師(とはいえ、こうなってしまったからには仕方ない、今できることをしなくては……。とにかく慎重に、母親の怒りの背景を探っていくことだ。とくに彼女との関係において、母親の意向がどこにあるのか、だな)
そもそも母親は少女に手を上げるどころか触れさえしないという。教師はそこにヒントがあるような気がしている。余人には言いがたい特別な理由がそこに隠されている……。
不意に思い付いたことがあってもう一度少女を振り返った。
教師「母親がお前に不干渉的な態度をとり始めたのはいつからだ?」
少女「ええと……」
続きを躊躇するふうを見せる少女に違和感を覚える。考え込んで言葉を選んでいるわけではなさそうだった。そんなに答えづらい質問だっただろうかと、小首を傾げて困ったように眉根を寄せる少女の姿を見て思う。
確かに相手の嫌な過去を掘り返すようで、さすがに無思慮すぎたかと反省する。しかし、家庭訪問の際は教師の質問を嫌がる素振りは見せなかった。今回も回答すること自体を拒んでいるという様子はなく、一体あの時と何が違うのかわからなかった。
教師「ああ、そういえば……、どうされました?」
他に聞いておかなくてはいけないことがあるのを思い出して、横並びに歩く事務員に話しかけた。どこか夢見心地だった事務員は、教師の言葉にやっと我に返ったという体を見せた。緊張感に欠ける男だと内心毒づきながら訊く。
教師「まさか母親の対応をしている応接室にこの子を連れ込むわけにもいかないし、職員室に置いておくのも落ち着かないでしょう。別室に待機させておきたいのですが、構いませんか」
事務員「あ、ああ……はい、それはそうですが……」
教師「生徒指導室がいいでしょう。同階だし距離も近い。ああ、それなら教科書等を持って来させておけばよかったな……長い間座って待たせるというのも良くない」
少女「取りに戻りますか?」
教師「いや、いい。事務員さん、申し訳ありませんが、彼女を生徒指導室まで案内した後、教室にまで荷物を取りに行くよう手配してもらえますか。できれば女性のほうがいいかと思います」
教師は少女に首を巡らせる。
教師「それで構わないか? お前が他人に自分の物をいじられたくないのなら、もう一度教室に戻ることになるが」
少女「……私が嫌だと言ったら、先生はどうなさるのですか」
教師「私も一緒に戻る。そのくらいの余裕はあるだろう」
言うと、少女は吐息一つで笑って首を振った。穏やかな笑みを口元に残して言う。
少女「でしたら構いません。我慢します」
少女は一流の冗談でも口にしたように悪戯っぽく微笑した。教師が、我慢することはない、嫌なら嫌でいいと諭しても、さらに笑みを深くしてかぶりを振るだけ。
そもそも提案したのは教師である、少女がそう言うのなら、それを教師の方から否定するのもおかしな話だった。そうかと頷きはしたものの、どうにも奇妙な感が拭えなかったが、不思議と悪い気分ではない。
釈然としない高揚感を持て余しながら先を行く。
少女親襲来・導入②、終了
今日はこれだけ
なかなか親のとこまで辿り着かんな……スタンド攻撃か何か?
投下
生徒指導室の前で少女と別れた教師は、事務員に少女の荷物を持って来させるように再度言い付け、単身で職員室に向かった。
教師(今対応しているという教頭たちがどういう方向性に立っているのか、ある程度打ち合わせてから少女の母親と対決したほうが得策だ)
教師は当たり前のようにそう考えたからこうして職員室に向かっているのだが、はたと、事務員は一言も職員室で詳しい説明を受けるようにとは言わなかったことに気が付いた。
教師にとっては職員室で詳細を訊いておくというのは既定路線だった。
もともと前回の職員会議では、少女の母親に関しては精々『できるだけ刺激しないようにする』という程度の曖昧きわまる方針しか決定していないのだ。
そして事務員を教師のもとに寄越したということは、教師を母親との面談の矢面に立たせるということだ。
教師(ならば当然、何らかの指示や注意があるはず……)
そう自分に言い聞かせながらも、漠然とした不安が拭い去れない。自然と足は早まった。
喧騒に沸き返る職員室に入るやいなや、教師はドア近くに座っていた、妙にそわそわしている同僚をつかまえて面談の諸注意を尋ねた。しかし同僚はまるで信じられないものを見るような目つきをして、そんなものはないと言った。
教師「――ない? なにも?」
そうだが、と当惑した表情で同僚は答えた。一瞬、言葉を失った教師に、同僚は嫌悪感もあらわに顔をしかめた。
顔を背けてしまった同僚にそれ以上の追求をするのは、さすがの教師でも憚られる。戸惑いを隠せない教師は救いを求めて辺りを見回した。
ついさっきまでざわめいていた室内は今や静まり返っていた。誰も教師に目を合わせようとはせず、我関せずと言わんばかりに仕事に打ち込んでいる。少なくともそのように見える。
今の今まで騒いでいたのはなんだったのだ、とその白々しさに唖然とする教師の耳に、咳き込むような声が聞こえた。教師は声の主に目をやる――口元を片手で抑えた女。その肩がぶるぶると震え出し、段々と震えが大きくなっていく。
笑い声だった。ついに女がこらえ切れないといったように声を上げて笑い出す。それを皮切りに、笑い声は一気に職員室中に伝染した。複数人の、どこか投げやりでヒステリックな大音声が鼓膜をつき破らんばかりに叩いた。
笑っていないのは教師だけだった。教師以外は呵呵として笑い合っている――その笑声に潜む狂気。
たまらず、教師は職員室を飛び出した。
爆発的な大笑に沸く部屋のドアを閉める。それでやっと教師は息をついた。
数歩後退って、教師は自分が閉ざしたドアを呆然と見つめる。
静寂に満ちた廊下と熱気に包まれた部屋、両者を区分しているのは薄い木の板だけだった。しかしこちら側とあちら側、教師と同僚たちの間にはそれ以上の、超えようもないほど深い断絶が横たわっている。
教師からすれば狂気に侵された集団から逃げただけだが、それは反面、理解しがたいものを自分のうちから締め出したということだ。そうすることで教師は自分を守っている。きっと今までも同じようにしてきたのだろうと今になって思う。
だが、と教師は心中に言葉を作った。
教師にとって異常だったのは常に職員室の彼らだったが、一方の彼らにとっては、教師にとってのそれと同じ程度の重さで、教師こそが異物だったはずだ。だからこそ教師は孤立感を深め、周囲に温かく迎え入れられることがなかった。
そして自分たちとは違う異質なものを排除しようとするのは集団の中では当然の営みである。この論理自体は明快だった。――が。
教師(私には、自分と他人の何が違うのか、なぜ私が排除されなければならないのかがわからない……)
わからないから対策の立てようがなく、対策が立てられないなら、教師にできることは自分の考える最善を忠実に実行していくことだけだった。そしてそれさえも、彼らと教師の阻隔を、広げこそすれ埋めることはない。
ここにきてやっと、教師は自分の置かれた現実を直視した。
――ここには教師の味方はひとりもいない。
だが、と教師は拳を握りしめた。
だからどうした。それが何だというんだ。
教師は目の前のドアを強く見据える。
教師が周囲から迫害されているからといって、それは教師が自分の役目を放棄していいという免罪符にはならない。そんなことをすれば、教師はどうして教壇に立っていられるというのだ。
教員としての最低限度の義務を手放してしまえば、教師は教員としての自分を失ってしまう。それだけはどうしても我慢ならない。
教師は、自分が自分であるために、ここで退くわけにはいかなかった。
決意を込めて踵を返し、応接室を目指して歩を進める。
脳裏をよぎる可能性はおそらく現実のものとなるだろう。そうして、事態は教師の考える最悪のシナリオをたどっていく。
教師(……それでも)
おめおめと引き退がることはだけはできないのだ。
職員室から応接室は比較的近い。階段を上がって左に曲がり、突き当りを右に曲がればすぐそこだった。
「……! ……!」
階段を上がった時には、廊下まで女性特有の甲高い怒声が漏れ聞こえていた。この距離で聞こえるくらいなのだから、その音量たるや凄まじいものがある。
教師はこれからそれをじかに受け止めなければならないのだ。重い足を引きずるように一歩一歩近付いていく。
とうとう応接室の目の前に立った。ドアの震えが見て取れるような怒気の発散に思わず足が竦む。ぐっと歯を食いしばってノックして、教師は自分の到着を告げた。
「――……」
「あ、ああ、入りなさい!」と女の話を遮った声は教頭か。瞑目する間をひと呼吸だけ置いて、教師はドアノブを回した。
この学校の応接室は、規模に比べていささか広く、調度も立派だった。実のところ、そうして外面だけは並以上に保とうとする神経がいちいち教師の癇に障っているのだが、今はそれは置いておこう。
設えられた革張りのソファの一方に教頭と主任、副担任が並んで座っていた。その対面に、教師を射殺さんかのように強く睨みつける女。
教師(これが少女の母親か)
挨拶をした教師は立ったまま、不躾にならない程度に母親を観察する。
白を基調にしたスーツは細身の体によく似合っていた。床に投げ出すほど長い足はしなやかに組まれていて、踵の高いピンヒールまで伸びている。
肩の長さで揃えられた茶髪、ゆるやかなウエーブの掛かった毛先に隠れる口元のほくろ。きりりとつり上がった眼は怒りによるものだろうか。
十四才の子供を持つ母親とは思えない、『女』を感じさせる出で立ちだった。間違いなく美人の部類である。
しかし、と教師は面に出さないように注意しながら内心で首を傾げた。
教師(これが『あの』少女の母親なのだろうか……?)
美人には違いなかったが、それだけだった。精々がテレビの向こう側の人間を見て感じる程度の、通り一遍の感想しかない。
あの少女のような――ひと目見ただけで心臓を鷲掴みにされるような衝撃はない。なにもかもが平々凡々としたレベルに留まっていることに意外の感を禁じえなかった。
しかし考えてみればそれも道理、彼女の母親だからといって、彼女のごとき存在がふたつとあるわけがない。
教師(ではやはり、どこまでも彼女だけが特別というわけだ……)
少女母「――それで? あなたがあの子の担任というわけね」
明らかに険を含んだ母親の言葉に、沈思していた教師はやや慌てて返答した。こうして所構わず考え込んでしまう癖は何とかしないといけないな、と反省しながら口を開く。
教師「申し訳ありませんが、私は途中からお母様へのご説明に参加することとなりますので、我々があなたにどのようなお話をしたのか、まず確認したく思います。少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか――」
少女母「とぼけんじゃないわよ!」
努めて柔らかく言った教師の言葉尻にかぶせるように母親は怒鳴り声をあげた。激発して立ち上がる母親は、その顔を憤怒に赤く染めて、硬直する教師を指差して絶叫した。
少女母「あんたでしょう、この茶番は! あんたがあたしからあの子を奪ろうとしてるんだ! あんたなんでしょう!? ほら、なんとか言ってみなさいよ!」
教師「……申し訳ございませんが、私は今ここに来たばかりで、お母様が何にお怒りになっているのか十分に把握しておりません。ですから先ほど、少々お時間を頂戴したいと申し上げた次第です」
少女母「ああ!?」
凄む母親をひとまず放置して、教師は教頭の名を呼ぶ。弾かれたように面を上げる教頭を尻目に、教師は母親に微笑んでみせた。
教師「私はこれから、こちらの教頭から少しの間説明を受けたいと思います。決して長い時間は取りませんので、どうぞご容赦下さい」
教師は深々と頭を下げる。しばらくして頭を上げた教師は、母親が口をぱくぱくとさせて言葉に詰まっているのをいいことに、教頭に目配せする。
教師がドアを開けて教頭に示すと、教頭は慌てて立ち上がった。すいません、だの少し失礼します、だのと口ごもりながら何度も頭を下げ、しきりに頭を掻きながら出口にやって来る。
教頭は教師に向き直ると、それまでのいやに愛想のいい笑顔から一変して歯を剥いた不機嫌面になる。教師は応接室を出て行く教頭に何も言わずに目礼だけを返して、再度応接室の母親に一礼してから自分も廊下に出た。
音を立てないようにドアを閉める。瞬間、教師は間髪入れず教頭に振り向いた。
教頭は面食らったような表情だが、時間がない。口調は矢継ぎ早に問い質すものになった。
教師「どういうことですか」
教頭「な、なにがだね?」
教師「母親の、私のせいだという発言です。なぜ今回の件が私一人に帰着するのです」
教頭「それは……」
言いあぐねるように教頭は口を閉ざす。教頭の返事を待つのは時間の浪費なのでさっさと答えを出してやった。
教師「誰かが口を滑らしましたか?」
教師が鋭く問うと、教頭は見るからに狼狽えた。いや、それは、と言い募る教頭をきっぱり無視して続ける。
教師「私が母親との面談、児童相談所への相談などの措置を強く主張したと? それをわざわざあの母親に伝えることが何を意味するかは、教頭先生もご存知でしょう」
児童虐待が恐ろしくデリケートな問題であることは論をまたない。それは被害者である子供だけでなく、その親と学校においても同様だ。
世間体や執着・依存心など理由はいくらでもあるが、古今東西を問わず、親なら誰しもが子供との別離を拒絶するものだ。
もし虐待が疑われる家庭に対して、自分たちが矢面に立って相対することを怖れた学校側が、教員の中の誰かを悪役に仕立てあげたら?
虐待への疑惑は学校側の総意ではなく、特定の誰かの強硬な主張によるものだ、と弁明してしまったなら――事態の収拾はほぼ不可能だ。
誰か一人に責任を押し付けてしまったなら、もはや親との対話はその一人を詰り、学校側の不明を詫びるだけの不毛なものにならざるをえない。そうでなくては、そもそも一人の人間に全てを覆い被せた意味がなくなってしまう。
一度そうなってしまえば、その後の学校側のアプローチが功を奏するわけがないのだから。
教師(そんなことをこいつらはやってのけたのだ。まるで無造作に、なんの考えもなく、軽率に……)
歯を噛む教師に教頭は何を思ったのか、額から滝のような汗を滴らせながら釈明らしきものを口にした。
教頭「た、たしかに良い判断ではなかったが、しかたないだろう? 副担任君もまだまだ新人、そう、今年入ったばかりなんだし、そんなに目くじらを立てなくても……」
教師の目の辺りがかっと熱く燃えた。
教師「この期に及んで――」
言い逃れをするのか、という台詞は寸でのところで飲み込んだ。
激情に呑まれたまま糾弾してやりたかった。この男だけではない、室内の主任も副担任も、この学校に関わる者全員の罪を明らかにしてやりたかった。
だが、今は母親への対応策を思案することのほうが先決だ。
感情を胃の底に押し込める教師の目の前で青くなっている中年の男は、いっそ哀れになるほど情けなく映った。男は言葉にならない呻き声を上げて、ひっきりなしに視線が泳いでいる。
二回りも年下の若輩者になにをそんなに脅えることがあるのか、とも思う端、対母親の思案を止めることはしない。
いずれにせよこの男は頼りにならない。だが、とりあえずの事情が分かったのは収穫といっていいだろう。
教師(つまり、私一人で何とかしなければならないということだ)
いつものことだ、と思った。
静かに腹を決めた教師は、なおも何事か口をもごもごさせる教頭を振り返りもせず、ドアをノックした。
室内の返答を待たずにもう一度応接室に入った。
今日はこれだけ
あれ、一部抜け発見
>>121に訂正
↓
教師(自分は悪くないとでも言いたいのか、この男は!)
激情に呑まれたまま糾弾してやりたかった。この男だけではない、室内の主任も副担任も、この学校に関わる者全員の罪を明らかにしてやりたかった。
だが、今は母親への対応策を思案することのほうが先決だった。
感情を胃の底に押し込める。目の前では中年の男が青くなっていた。男は言葉にならない呻き声を上げ、ひっきりなしに視線を泳がせていて、いっそ哀れになるほど情けなく映った。
二回りも年下の若輩者になにをそんなに脅えることがあるのか、とも思う端、対母親の思案を止めることはしない。
いずれにせよこの男は頼りにならない。それにこの様子では、これ以上踏み込んだ説明を要求してもなかなか要領を得るまい。
だが、とりあえずの事情が分かったのは収穫といっていいだろう。
教師(つまり、私一人で何とかしなければならないということだ)
いつものことだ、と思った。
静かに腹を決めた教師は、なおも何事か口をもごもごさせる教頭を振り返りもせず、ドアをノックした。
室内の返答を待たずにもう一度応接室に入った。
に変更
今日中に少しでも進められたらいいなと思う
投下
教師「お待たせしました」
一礼して部屋に入った教師の後に教頭が続く。教頭が少女の母親に頭を下げている間に教師はドアを閉めた。
応接室の中に向き直ると、教頭がふらふらとした足取りでソファのもとに向かっているところだった。
教頭の様子がおかしいことを不審に思ったのか、主任たちは表情を曇らせたが、心配する言葉を掛けることはなかった。
少女の母親はそもそも教師しか眼中にないようで、親の仇とでもいうように(あるいは子の仇というべきか?)ずっと教師を睨みつけている。
薄情なものだと思うが、教師がとやかく言うことでもない。
母親の対面となるソファは教頭たち三人が占居している。しかたなく教師は、背中を丸めてうつむき加減に座る教頭の後ろを通って、椅子の一つに陣取った。
これで教師は、少女との会見の時と同じ、母親と教頭たちとの間に挟まれる構図になる。
この辺りに教師が学校で疎外されている状況が表出していたが、あいにく教師はそれに勘づくための繊細な感性を持ち合わせていなかった。
ともあれこうした場では、やはりいかに対話の主導権を握っていくかが重要になる。
そこで教師はあえて迂遠な手は取らず、母親が何を言うより先に、問題の核心部に斬りこむことにした。
教師「既に教頭ら説明があったかもしれませんが、我々が今回お母様に手紙を差出しましたのは、文面にありましたとおり、お子様の家庭環境について少々お伺いしたい点があったからです。今日はお母様もその件で我々を訪いなさったのですよね?」
少女母「そうよ。あたしからあの子を引き剥がそうってんでしょ? あたしに問題ありとか何とか難癖つけて、あんたが勝手な妄想で……!」
教師「そこに関して、少し誤解があるようです」
少女母「はあ?」
教師「というよりも、我々の方が誤解を招く発言をしてしまったようです。お母様からお話を伺いたいというのは学校職員全体の会議で決定した事項です。私の一存で決められる案件ではありませんし、その権限も私にはありません」
少女母「はああ!? じゃあさっきその人が、『学校としては反対したけど担任が無理やりねじ込んだ』って言ったのは何なの? その人が嘘ついたって言いたいわけ?」
教師は、自分の作った笑顔が強張るのを感じた。教頭をはじめとする連中全員への怒りの残滓がまだ残っていて、少しでも気を抜くと怒鳴り散らしてしまいそうになる。
努めてゆっくり呼吸をして口を開く。
教師「嘘とも本当とも言いかねます。私が議題を提出したのは事実ですが、それが通るためには過半数の賛成が必要になるのです。その意味で私の独断はそもそもありえません」
我ながら苦しい言い分だった。しかし他に言いようがない。
この場で絶対に避けなければならないのは、少女の母親が学校に不信感を強く育ててしまうことである。学校と母親のチャンネルが途絶すれば、この後児童相談所が介入するにせよ、学校という重要なピースが欠けたまま対処せざるを得なくなる。
副担任にはこちらから厳重に注意する、という台詞でこの件の幕引きを図ろうとした時、母親が憎々しげに頬を歪めた。
少女母「さっきから聞いてれば訳の分からないことをぐちぐちと……」
地を這うような低い声に背筋が凍った。そこに込められていたのは、教師が今まで向けられてきたものとは比べ物にならないほどの激烈な憎悪だった。
母親のおどろおどろしく震える声、ぎりぎりと強く強く握りしめられた拳――教師に向けられる鋭利な眼光。
はじめて人を怖いと思った。恐怖に身動ぎもできないなか、母親の唇が動くのが殊更ゆっくりと見えた。
少女母「結局、あんたが悪いってことでしょう……? あんただけは絶対に許さない。あたしがあの子の母親なんだ。あたしだけがあの子と血が繋がってる。全部、全部あたしだけだ。あたしだけなんだ」
せせら笑う母親の瞳が教師を捉えた。瞳の奥に覗く、闇よりも深い情念。このどろどろと粘り着くような激情は、執着以外の何物でもない。
一方で母親の眼差しには、教師を憐れむような気配があった。かすかに漂う優越感が鼻をつく。
この女は、自分ひとりがあの少女を独占しているつもりでいる。たしかに母親と子供という繋がりはいかなる時にも消えない。あの少女の唯一の肉親であるというからには父親はすでに故人か、行方が掴めないかだろう。
自分の骨肉を素体に、この世のあらゆる美の完成形が顕現したなら、人にとってこれ以上の誉れはない。教師にしても、身の内を灼くほどの羨望を目の前で勝ち誇る女に向けているのだから。
この女は誰しもが羨む幸福の絶頂にある。彼女をこの世界に産み落としたことは、それだけで値千金の価値があった。それが分かっているから、自分をその座から引きずり降ろそうとする試みには死に物狂いで抵抗するだろう。
そしてきっとこの女は、教師が妬みから少女との関係を断ち切ろうとしていると考えている。それが優越心の根源だ。母親の瞳が雄弁に語る。
――どうせお前もあの子の歓心が欲しいだけだろう。母親の私が恨めしいんだろう?
だからこそ、教師は問わずにいられなかった。
教師「ならどうして彼女から距離を取るんですか」
母親の反応は劇的だった。瞬間的に顔を真っ赤に紅潮させ、喚き声を上げながら椅子を蹴立てた。母親は即座にテーブルを蹴って教師に肉薄し、首元を女にあるまじき膂力で締め上げた。
教師はとっさに飛び退ろうとしたが、椅子に座ったままでは距離を置くこともままならない。次の瞬間には母親の顔は教師の目と鼻の先だった。教師の身体を椅子の背に強く押し付けるようにして、母親は身も世もなく絶叫した。
少女母「お前になにが分かる!? あの子の母親はあたしだけなんだ! あたし以外にはいない! あたしの気持ちがお前なんかに分かってたまるか! 他にどうできたっていうのよ、言ってみろ! 他に選択肢なんて……!」
突然の出来事に呆気にとられていたのか、今ごろ教頭と主任が駆け寄ってきた。しかし母親を教師から強引に引き離そうとはせず、落ち着けだの何だのと言うだけ。
あくまでも事なかれ主義を貫く姿勢に、教師はかなり焦燥した。なにせ呼吸が確実に苦しくなり、自力で振り払うこともできないのだ。このままでは窒息してしまうと本気で恐怖した。
パニックに陥った教師の視線は辺りを激しく彷徨った。そしてあたふたと母親を説得しようとしている教頭の肩越しに、副担任の顔を見つけた。
副担任は取り乱した様子もなく悠然と立って、じろじろと教師の顔を眺めていた。副担任の貌は教師に降りかかった不幸が愉快でならないというように歪み、覗きこむような仕草は教師の表情を伺っているようでもあった。
急激に身体の中が冷えていくのを感じた。
自分はいったい何を期待していたのだろう。
ここには教師の味方はいないことなど、とうに承知していたことのはずだった。それを思えば、自分の情けない姿が無性に笑えてきたし、胸の内にぽっかりと穴が空いたような奇妙な虚脱感もあった。
教師は母親をはっきりと見返した。襟を締め上げる母親の指に手を添え、訊かなければならないことを質した。
教師「『他に選択肢がなかった』。本当はどうしたかったのですか?」
「キ、キミ!」と咎めるような声を出す教頭たちを無視して、教師は母親を見つめた。
母親は、「え……」と吐息を漏らしたきり微動だにしない。多少息苦しかったが、構わず教師は続ける。
教師「あなたは彼女の世話をほとんどしていない。食事の用意も勉学についての相談も何もかも放任だ。でも、それはあなたの望みではない」
母親の凍りついた瞳に、教師は自分の言葉が正しいという確信を得た。
教師「あなたはずっと、彼女の母親として恥ずかしくない家庭を築きたかったのではありませんか? 仲睦まじい母娘、満ち足りた幸福な家庭生活、――しかしあなたの望みは叶わなかった。どうしてです?」
少女母「それは……」
両目を大きく見開いて、母親は黙り込んだ。教師の襟首を掴む力は強まったがその腕は震え、教師を慄然とさせた煮えたぎる怒気が衰えていた。そうして不意につぶやく。
少女母「そんなことできるわけないじゃない……? あたしはあの子のお母さんなのに、あたししかいないのに、なのに、あたしは……」
母親はぽつりぽつりと言葉をこぼした。その、迷子の子供のような頼りなげな表情に、母親が今まで抱えてきた苦悩の跡を見た気がした。
母親であろうとしてあれない、理想と現実の狭間で一歩も前に進めなくなっている。教師たちへの異常な攻撃性は、現状への苛立ちと自分への憤りの裏返しだったらしかった。
この様子では、この女はきっと、自分を今にも押し潰そうとしている苦しみを、誰かに相談したりはしなかったのだろうと思う。
誰にも打ち明けられない悩み、切望する母親像への憧憬と無残な己のギャップ、それでも失いたくない家族という繋がり。
日増しに強まる孤独感と自責心が、いつかの時点で極限にまで達したのだ。しかし荒れ狂う悲嘆と絶望の矛先は決してあの少女に向かうことはない。徹底した不干渉が唯一、事態を均衡させたのだろう。
その有り様に教師は覚えがある。それは少女の入学以来、毎日欠かさず繰り返された教室の日常的な光景だ。
教師「……そういうことか」
教師のつぶやきに母親はぱっと顔を上げた。母親は怯えたような、様子を探るような上目遣いで教師を凝視する。
教師はもう一度、母親の顔貌をまじまじと見つめた。三十路を超えているわりに若やいだ容貌は、間違いなくかの少女に面影を残している。
しかしそれは所詮は素体としての価値しかない。あくまでも目の前の女は教師と変わらない、普通の人間だった。どこを取っても――美貌と呼べる容姿さえも常人の域を逸脱するものではない。
この女は特別だからあの少女を産み落としたのではない。それでは順序が逆転している。この女は彼女の母親となってはじめてこの世に比類なき特権を手に入れたのだ。万人が奉仕すべき価値は彼女を頂点とする。彼女こそが源泉であり、何人もその真理を侵すことはできない。
そうであるならば、母親が娘に向ける眼差しが尋常のものであるはずがない。彼女が万物の頂点に君臨する女王である以上、彼女を娘とする母娘関係が普遍的な形で現出するはずがないのだ。
この女は彼女の母親としてのみ特権的な地位を手にすることができたが、彼女の存在感は平凡な交流でよしとできるほど生易しいものではなかったはずだ。母親も必ず、傅き身を投げ出して彼女に尽くし、少しでも心を寄せてほしいという衝動に襲われたに相違ない。
そしてその欲望は、希求する母としてのあり方と共存することはない。
この女の心は決定的な亀裂を生じ、ふたつに引き裂かれてしまったのだろう。どちらかを選んで一方を捨てることも叶わず、両方を失うことは断じて許せない。
そうして心が壊れる寸前で、唯一残された手立てが彼女からの逃避だったのだ。取捨を留保して一時をしのぎ、彼女の母としての社会的立場を死守する。それ以外にどうすることもできないほど、この女は追い詰められていた。
教師(……私を憎むはずだな)
そうまでして守ろうとしている母親の座が、横合いから取り上げられようとしているのだから。
そして、こうして怯えているということは、自分が娘に対して抱いている情動を誰にも知られたくないということだったが、それも然り、この女は母親としてあるまじき心理状態にある。そのことが暴露されれば、母親として立つべき社会的根拠を剥奪されてしまう恐れがあった。
教師(そうなればこの女はなりふり構わない手段に打って出るだろう――)
そう考えた教師の顔から血の気が引いた。この女は教師が女の魂胆を洞察したことに気付いている。それは取りも直さず、母親が排除の対象にするのは教師であるということだ。
しかも教師を弾き出すのに十分な口実はすでに用意されている。母親はただ感情的になったふりをして主張し続けるだけでいい。教頭たちが教師を擁護することはありえないとすれば……。
焦燥に突き動かされて反射的に口を開こうとした教師から、母親は突き飛ばすように手を離した。息を詰めた教師を指差して、女は甲高い声を上げた。
少女母「もういや! こんな無礼な男と話すことなんか何もないわ! 不愉快よ、あたしはこれで帰らせてもらうから、いいわよね!?」
教師が待て、というより先に、教頭が取りなすようなジェスチャーをした。
教頭「い、いえ、ご無礼は謝ります、どうかご容赦下さい! 今後は担任は外させますので、それでどうか許してくだされば――」
主任「そう、そうです、担任は多少、物事の分別がつかないところがございますので、我々もしっかり指導いたします。お心を鎮めて、もう帰るなどと仰られては、その……」
教頭に主任も追随した。阿るような卑屈な笑みを見て、少女の母親はことさら安心したように息を吐いてみせる。
少女母「……まあ、それならいいんだけど」
勝手に進行する会話に教師が待ったを掛けようとすると、教師以外の三対の眼が教師に突き刺さった。その中でもただ一人、嘲笑に目を細めた副担任が次のように言い放った。
副担任「――ということらしいですよ、先パイ? ここに居ても邪魔なだけだし、どっか行っといたほうがいいんじゃないですかぁ?」
そうだね、と応じたのは教頭だった。
教頭「こうなっては仕方ない、ここは私たちに任せなさい。なに、信用してくれて構わない、しっかり話をするからね」
教師「……私は彼女の担任なのですが」
教頭たちは物分りの悪い生徒を前にしたように顔を見合わせあって、さもおかしげに笑い声を立てた。
教頭「心配しなくても君には我々からしっかり伝えるよ。安心しなさい」
そうですか、と教師は答えるしかなかった。
少女母襲来編、終了
やっと教師を排除できた。よし
久しぶりに投下
教師が頷くのを待ち構えていたかのように、部屋の入口に移動していた副担任がドアを開けた。教頭たちは教師を愉しそうに眺めている。どす黒い笑みを浮かべて、教師がこの場から排斥される瞬間を待ち望んでいる。
ただ少女の母親だけは、息を詰めたような面持ちで教師を凝視していた。揺れる瞳は教師への怖れによるものか……。
教頭たちは自分たちが少女への干渉権を独占するために。母親は自身の地位を安んじるために。理由は違えど、教師を排除せんとする意志は共通している。
事務員が有無を言わさず教師を引っ立てたのも、職員室での非協力も、すべては教師を陥れることを企図したものか、とも思ったが、おそらく違う。
もともと、彼らの間には教師に対する敵意が底通している。この事態を予見していたわけではなく、それぞれの取った態度や行動が複合的に組み合わさったのだろう。
きっとこの観測はおおよそ間違っていない。だが。
教師(そんな観測に意味はない)
今必要なのはこの状況を打開する思案のはずだった。
実際、教師の頭は打開策を探して沸騰していたが、妙に冷めた部分があるのを感じていた。それは、成り行きを洞察させるだけでなく、教師の足をも動かした。
母親から視線を外し、教頭と主任の間を足早に通り抜けて、開いたドアに手を掛けて支える副担任を見遣ることもせず。
そうして教師は、まるで最初から決まっていたことであるかのように面談から放逐された。
廊下に出た教師は、ほとんど無意識に応接室を振り返った。すでに半ばまで閉まったドアの隙間に副担任の姿が見えた。その貌は凶々しく嗤っていた。教師を揶揄するような嘲笑の中には哀れみさえも浮かんでいたが、それもいやにゆっくりと閉まるドアに遮られて見えなくなっていく。
ドアの閉まる、かたり、という微かな音はあまりにも軽く、空虚な音色で廊下に響いた。
空調の効かない廊下は、室内と違って初夏の蒸し暑さが濃い。夏本番にはまだ遠いのに、不快な汗がシャツを肌に張り付かせる。額に滲んだ汗が水滴となって顔を伝ったが、教師はそれを拭うこともできず、その場に立ち尽くした。
もはや教師の出る幕はなくなってしまった。ここにはもう教師の介入する余地はない。学校側と保護者が、教師の退場という一点のみでも一致している限り、それを覆すだけの力は教師にはないのだ。
教師にできることといえば精々、生徒指導室で黙々と自習に励んでいるであろう彼女に、教師の無力を教えてやることくらいだ。
今日にしても、この後学校を早退するなり何なりの措置をとるのかもしれない。少女の母親との面談が終わって、教頭たちの手で彼女の処遇が決まれば、少女と接触する機会がなくなってしまう懸念もあった。
彼女のもとに行かなければ。――頭ではそう理解しているのに、身体は一歩も動かなかった。
教師には、自分の身に降りかかった現実が信じられなかった。固く閉ざされた扉の向こうでは、あの少女の家庭という細心の注意を要する事案が話し合われている。
それなのに、どうして担任である教師が追い出されて、あの下らない、他人の足を引っ張ることしか能のない連中が大きな顔をしているのか?
しかし一方で、目の前の扉は教師に向かって閉じている。教師を中に入れないために、拒絶の意思をはっきりと示している。
教師が中に入ることは決して許されない。教師はその資格を失ったのだ、と思った。
ぽつりと呟いた。
教師「……何の茶番だ、これは」
資格? 資格とは何だ。教師は担任の任を与えられて、その職務をこなそうと今まで尽力してきたつもりだった。
とはいえ教師もまだ二年目の若輩者、不明の点は確かに多かった。力量不足は教師も認めるところだ。あるいはそれが理由だったのか。
――だが、教師が今爪弾きにされたのは、本当に教師の無能によるものだったのか、という気がしてならない。
母親の怯えは罪に踏み込むことを恐れてのことではない。教頭たちに至っては、教師を陥れることが愉快でならないという様子ですらあった。
泥で衣服を汚すように、罪に塗れて喜びに浸る神経がおぞましかった。
教師(しかし……なぜ?)
どうして他者を貶めることを是として自らに許すことができるのか。彼らは教師への攻撃に血道を上げているが、教師には彼らを罪に駆り立てた理由がどうしてもわからない。
確かなことがあるとすれば、彼女の存在が全ての根源だということ、それだけだった。
だが、教師は本気でそれが唯一の真実であると信じてはいない。彼女の魔性はたしかに事実だが、それだけで他者を虐げせしめる動機になるはずがない、と。
そこで思考が打ち切られるから、なぜ、という疑問だけが繰り返される。まるで出口のない迷路に迷いこんだように、疑問はぐるぐると同じ所を巡った。
そして、教師の疑問は誰にも答えられることはなかった。問いを放つのはいつも教師の方で、周囲は常に教師の問いかけを遮絶した。
教師の眼前で沈黙する扉は、教師と周囲との関係の象徴だった。職員室の扉も、この応接室の扉もそうだったし、記憶をたどればいくらでもいき遭っていたはずだ。教師が気づかなかっただけで。現実の方に蓋をして見ないふりをしてきただけで。
ふと、手の平に痛みを感じた。知らない間に両手を固く握りこんでいたらしい。痛みのあった左手を開くと、さして長くもない爪が食い込んだ痕が残っていた。爪痕は皮膚を突き破って鮮血を滲ませていた。
どこかで窓が開けられているのか、生暖かい風がゆるく吹いている。わずかに雨の気配があった。知らず、詰めていた息を吐き出すと、それは大きな溜め息になった。
この先、教師にできることはほとんどないだろう。自分に残された、少女のためにできる数少ない事のひとつを済ませるために、教師は生徒指導室に向かった。
足取りは床に粘り着くように重い。窓の外を見ると、分厚い雲が太陽を覆い隠し、大地に陰鬱な影を投げかけている。輝かしい陽光は黒々と隆起する暗雲によって簒奪された。
応接室と生徒指導室は割合近い。移動にはほんの数分もかからなかったが、教師にとっては永劫に続くかに思うほど遠かった。
あるいは、それは教師の願望だったのかもしれない。生徒指導室まで永久に辿り着くことがなければ、教師は自分の直面した現実と向き合わなくて済む。
しかし悲しいかな、教師の足は止まることを知らず、着実に距離を刻んでいた。
行く手に見えた「生徒指導室」のプレート。予想だにしないものを見つけた気がして教師の足が凍りついた。
ややあってから、そこが自分の目的地だと思い出した。自分自身に自分の愚かしさを突き付けられているようだった。そんな自分が、たまらなくおかしい。
教師(私はこんなにも己の矮小さに無自覚だ……)
その帰結がこのざまだった。敗北感に打ちのめされながら引き戸の前に立ち、戸をノックする。中から澄んだ応答が聞こえて、教師は力なく戸を引いた。
生徒指導室には少女しかいなかった。教師は自分が指示せずとも、誰か監督の人員が寄越されるものと一人合点していたが、監督者の姿がない。不審げにする教師に、少女が座ったまま答えてくれた。
少女の言によれば、事務員はわざわざ数人がかりで荷物を持ってくると、全員すぐにどこかに行ってしまったらしい。
そうか、と応えながらも釈然としない気持ちが残ったが、むしろ好都合だと考え直した。余計な横槍を入れられなくていい。
生徒指導室は中央で五つの机が向かい合わせにされていて、あとの机はまばらに並べられている。少女は入口に近い、前から二番目の一つを使っていた。
教師は少女の前の席に腰掛けた。椅子の前後を反転させて少女と机一つを隔てて向かい合う。
少女の瞳の色は深かった。底を見通せないその瞳は、吸い込むように見る者を囚える。その奥底に潜む――何かが潜んでいると錯覚させる妖しさがあった。
教師は少女の視線を受け止めることができなかった。教師が微妙に目を逸らしたのを訝しんだのか、少女が小さく首を傾げたのが分かった。
教師は少女の様子に気が付かないふりをして、面談の顛末を説明した。
教師「……というわけだ。私はこれきり、この件に――お前の家の事情に関われなくなった」
生徒指導室の一角で、教師は目を伏せて言った。とても顔を上げて、少女の目を見て話すことができない。
教師はうなだれて少女の言葉を待った。机の角あたりにじっと目を落とす。教師の耳が小さな音を捉えて、少女が息を吸う音かと身を強張らせた。しかし、衣擦れに似たその音は断続的に続いている。
すぐに雨だと気が付いた。顔を上げて横を向けば、カーテンを引いていない窓からは外の様子がよく見える。
水滴が地面を打ち付ける音がする。脳裏に描いた光景はどこか痛ましかった。天を遮った黒雲が大地を打ち据え、穿つことで屈服させようとしているようで、教師は居たたまれなさを感じた。
できることなら耳を塞いでしまいたいが、まさか少女の目の前でそんな醜態を晒すわけにもいかない。それでも見ていられなくて、教師は窓の外を視線から外した。
少女「……そうですか」
唐突な声に、思わず教師は顔を上げた。少女がこんなに冷たい声色になったことは今までなかったのだ。
少女はうっそりと笑う。人智を超えた美貌は、かんばせを冷笑に歪めても損なわることはなく、むしろ凄絶さを増してさえいた。
細められた瞳は研ぎ澄まされた刃となって教師を射抜いた。その瞳に、教師は燃え盛る焔を見た。容赦の無い冷徹な声音を前にして、教師はいっそ叫び出したいほどの恐慌に襲われたが、教師の喉は引きつけたように呼吸すら満足にできない。
憤怒に声を凍てつかせた少女は、やがて不意に穏やかに微笑んだ。
少女「先生はよく頑張ってくれました。今回の件だけをとっても、私のためにたくさん尽力してくださったことは私が知っています。……それを」
少女は申し訳なげに目を沈ませたが、それも一瞬のこと、すぐに不快げに眉をひそめた。少女の眼は教師ではない誰かを睨んでいる。宙を睨んだ視線が誰に対して向けられたものかは容易に察せられた。
――そして教師の感情が一気に点火した。
少女の激怒が自分ではなく、自分を陥れた連中に向いていることを知って、教師はなにを思ったか。
教師(事もあろうか、私はほっとしたのだ。少女が私を見限っていないことに安堵した! あまつさえ、私はいい気味だと思った。彼らに対して、当然の報いだと……!)
ふざけるな、という言葉が頭の中で反響する。とてつもない不義理を働いた感覚があった。誰に対する、何に対する不義かも判然としないのに、激烈な衝動が身中を駆け巡った。
無理に絞り出そうとして嗄れきった声もそのままに、教師ははじめて少女を正面から見据えた。
教師「お前はこれからどうする」
少女「……私が私のことを話したのは、先生だからです。先生でなければ、私が話すことなど何もありません」
教師「駄目だ」
教師があえて語気を強めて否定すると、瞳に不穏な光を宿していた少女は驚いたように目を丸くした。きょとんとしてこちらを見る少女は、一転して年齢相応のあどけない女の子に見えた。
きっとこの少女のこんな表情は、教師以外の誰も見たことがないだろう。胸に確かな疼きが走る。少女の言葉もまた、教師の胸の疼きをさらに高鳴らせるものだった。
だからこそ、教師はこう言わなければならない。
教師「連中は確かに信用出来ない。ともすれば、お前が話したところで全て握りつぶしかねない。そういった懸念は間違いなくある。だがそれは、お前が私以外の連中を拒むに足る理由にはならない」
少女「どうしてですか? 私は、先生以外には――」
教師「事態はすでに動いているからだ。お前の母親を引っ張りだして面談が行われた時点で一定の目的は達している。そもそも私の――担任の存在を前提として諸々の対応が組まれているわけではないのだから、私の不在は、それ自体では大した問題にならない」
少女「そんなことは……」
教師「聞きなさい。保護者面談という実績がある以上、この件の進行はすでに不可逆だ。調書も作られるし、職員会議でも取り上げざるをえない。レールさえ敷いてしまえば、あとは私がいなくても動く。――それに」
口元に自嘲をのせて、教師は呟くともなしに小さく言った。
教師「……連中もがどれほど私を嫌っていようと、お前を助けてやることには異存もないだろうさ」
少女は途方に暮れたように教師を見つめた。それで、自分の言い草が少女を見捨てるというか、完全に放り出すように聞こえると思い至った。慌てて言い添える。
教師「いや、たしかに私はこの件から降ろされたが、全く無関係になるわけじゃない。連中のやり方に口を挟むことくらいはできるだろうし、道を外れるようならその都度手を入れる。……まあ、今回にしても私の力不足は明らかだが、少なくとも努力はしよう」
約束する、と教師は言った。少女は少し呆れたような、どことなく諦めたような表情で微笑った。なにか納得するように小さく二、三回頷いて瞑目する。
噛みしめるような静けさを纏った少女は生きた彫像のようだった。その横顔にさっと光がかすめた。
雨は止んでいた。雲間から差し込む太陽の光が少女を照らしていた。
絵画のワンシーンのような光景に、教師は言葉も忘れて見入った。
そしてついに、教師は陽光が自分に差さなかったことに気が付かなかった。少女と教師の間、机を境として、世界は光と影に二分されていた。陽光の住人としてふさわしいのは少女ひとりであって、教師は後景に退く存在でしかない。
少女の住む世界に教師の居場所はない。それは誰にもどうにもできない、厳然とした事実だった。
終焉の足音はすぐそこに迫っていた。
今日はこんなところで
終りも近いかな
投下
それが起こったのは、面談から一週間ほど後、終礼のショートホームルームだった。
普段は単に連絡事項を伝えるための時間だが、その日ばかりはそうもいかなかった。ここ最近、このクラス全体の授業態度がすこぶる悪いというのだ。
といっても、実は教師の授業ではほとんど私語は見られない。教師は教員間で最もこのクラスの生徒に恨まれているのは自分だと自認しているが、生徒の敵意は授業の妨害よりはむしろ消極的姿勢に向いていた。
しかも教師が容赦なく評点を付けることを否が応でも熟知しているからか、積極的ではないながらも宿題などの提出率は悪くない。そのため教師はさしたる不都合を感じていなかったのだが、他の教員の場合は様相を異にするらしい。
私語をするばかりで全く授業を聞かない、ノートも取らず注意をしても聞く耳なし、宿題も提出する者はほとんどいない――いったいどういう教室運営をしているのか、と他の連中は教師を口汚く罵った。
だが、教師はその論難を頭から信じるわけにはいかない。副担任の例を引くまでもなく、連中が教師を陥れたがっているのは明白だった。教師に難癖をつけるためなら、たとえ針が水面に漂っているというほどの事実でも竜が天空を自在に泳いでいると口やかましく喧伝するだろう。
しかし、一笑に付さずにこうして終礼で取り上げているのは、教師にも心当たる節があるからだった。
顕著なのは教師に対する視線の変化である。今まではずっと、多少の毛色や種類の違いはあれど、敵意という感情に収斂していた。ところが、ここのところは、それに様子を窺うような気配が混じることがある。
たとえば授業で演習を申し渡して黒板を消しているとき、首筋にちりちりするものを感じて振り返ると、少なくない数の生徒がじっと教師を見つめている――それも授業が理解できないというふうでもなく、何かを探るような眼差しを向けてくる。そんなことが跡を絶たなかった。
このクラスの秩序とでもいうべき部分が変質しつつある――そんな予兆がある。そして変質は、あの母親との面談以後に起こっている。教師にはそれが、ひどく示唆的に思えてならない。
あの時を境に、教師は一切のプロセスから排除された。少女の家庭事情に参画する権限を教師の手から剥奪せしめたのは、教師が連中にとって共通の敵だからだ。彼らには、教師を陥れるために、まだ経験の浅い副担任の失言をまんまと利用してみせた。
そうして少女を巡って、教師と同僚たちとの関係は激変した。教師は一方的に敗者の烙印を押され、少女の家庭環境改善について、表立って活動することができなくなった。
そして、その後になって、生徒たちが普段には見られない行動をとっている。これが何を意味するのかは判然としないが、間違いなく良い方向に転がることはない。それだけははっきりしていた。
しかし彼女の不在は、教室の変調を牽制するには好都合でもある。
意識して語調を鋭く、授業参加の義務を説く。そのなかで、生徒が教員の指示に従わない場合の措置について、脅しの意味を込めて言及した。
――必要なら臨時の保護者会や懇談会を開催する。
そう言ったとき、ひとりの生徒が大きな声で笑った。教師以外は死に絶えたように静かだった教室に、乾いた笑い声は場違いに浮いた。
教師「どうした」
教師が目を向けると、待っていたと言わんばかりに更に大声で笑った。投げ遣りな響きのある笑声は、しばらく待つと唐突に止む。
せせら笑いを顔に張り付けて生徒は立ち上がった。椅子と床が擦れる耳障りな音、それに負けないほど不愉快な、人を馬鹿にしきった調子で、聞かれもしないのに勝手に生徒は喋り出した。
生徒「さっきから、授業は黙って聞けとか、嫌なら親呼び出すとか好き勝手言ってるけど、お前いったい何様なんだよ? あ? お前そんなに偉いのかよ?」
そこで不自然に言葉を切った生徒に続きを促すと、生徒は当惑した表情を見せて口ごもる。少しでも自分の思った通りにいかなくなると途端に動揺してしまうあたりが、幼さというものなのだろうか。
ため息をついてみせて、教師は仕方なく手助けをしてやった。
教師「お前が私を嫌っているのはわかった。だが私はお前の担任で、お前たちの授業態度や生活態度に関して指導する立場にある。お前の行動は、学校の授業中には許されないことだ。私以外の誰でも同じことを言うだろう。もし自分の行動が正しく、私が間違っていると思うなら、自分のご両親にでもそう言ってみたらどうだ?」
言うと、生徒はたじろぐふうを見せた。唇を噛んで教師を睨む生徒を、気のない様子で見遣る。
教師「まだ言いたいことがあるなら言いなさい。ないなら座りなさい」
その瞬間、生徒はにやりと笑った。生徒の浮かべた笑みが、脳裏に残映する副担任の嗤笑と重なった。自分の言葉に相手がどれだけ衝撃を受けるかと、憎む相手の不幸が成就することを喜ぶような暗い愉しみ。
教師の背筋をひやりとしたものが撫でた。
生徒「……知ってるんだぞ、オレは」
知ってるんだ、と生徒は執拗に何度も繰り返す。教師の口から訊き出させたくて仕方がない、という貌は、獲物をいたぶる喜びに満ちている。
教師が硬い声で、何を、と訊くと、生徒は勝ち誇ったように傲然と顔を振り上げた。
生徒「オマエ、ハブられたんだって?」
意味を一瞬計りかねた教師に、生徒は喜々とした様子で続ける。
生徒「イイトコ見せようと息巻いて、結局何にもできないようにされるとかミジメすぎんだろ。そんで余所にその役目奪われるって……。なあ、取り入ろうと必死に考えた計画が横取りされるキモチってどんなの? 教えてくれよ、コーガクのために、ってやつで」
なあ、と生徒は口角を釣り上げて笑う。満面に湛えるそれは、まるで勝者の笑みだった。
生徒の語った内容には“誰に”という要素が抜けているが、その空欄に誰の名前が入るかは、生徒や教師のみならず、このクラス全員にも明らかだった。
そもそも、“彼女”はめったに話題に上らない。それは、名前を呼ぶのもおこがましいからだし、あるいは自分の知る情報を、他の誰にも知られずに独占したいからでもある。
ほかでもなく、あの少女である。
だが本来、一介の生徒が学校の裏事情を知りえるはずがない。わざわざ教えてやる意味も必要もなく、それどころか有害ですらある。
ならば教員の立ち話でも耳にしたのか、とも考えられるが、それにしては妙に確信的なのが解せない。教室の中に座る面々を見渡しても、突然の生徒の奇行に驚いている様子はない。むしろ余興を楽しむように互いに目を交わし合い、ひそひそと笑っている。
生徒の様子は確かな情報源の存在を感じさせるが、そんなはずはない。何も利益を生み出さず、教師と生徒たちの間に修復不可能な亀裂を生むだけの行為に何の意味がある。
教師(――本当にそうか?)
天啓のように降りてきた言葉、その意味するところを考えて愕然とした。
たった一週間前に、教師は正面から悪意をぶつけられたばかりではないか。その結果、教師は担任として彼女に関わる権限を取り上げられ、教師の企図した行動は、連中が彼女に近づくための格好の口実にもなりかねない危機を招来した。
同じことがここでも再現されているのではないか。
それが誰の手によるものか――そんなことができる人間は、この学校にひとりしかいない。
生徒「しかもオマエ、センセーたちからも嫌われてんだろ? はは、どうやったらそんなことできんの? つーかそれで、なんで学校来て偉ッそーに教壇立ってオレたちに説教できるわけ? なあ……」
教師「副担任だな。お前たちは副担任から聞いたな」
「え……」
教師「あいつか。あいつだったのか……!」
未熟ゆえだと思っていた。母親との面談での失言は、教師経験の浅さによるものだと。しかし、教師の認識は甘すぎた。
教頭をはじめとする連中は、陰口を叩き、面罵こそすれ、その攻撃性と裏腹な不安が見え隠れしていた。手痛いしっぺ返しを食らうかもしれない、という臆病さは、一方で自分の行動が社会悪であると認めているということだ。彼らは良心を振りきって悪心に従っているのであって、その事実こそ、彼らに良心が残っていることの証左だ。
副担任も連中の同類だと考えていた。だが奴は新人という立場を利用して、教師を完璧に追い落とした。
それが意図的なものでないと、どうして言い切れる。
現に今、教師の立場に致命的な打撃を与える、この絶好の機会を演出してみせている。生徒に手を汚させるため、生徒に良からぬことを吹き込んだ。彼女の面前であんな台詞を履けるはずがないから、彼女の不在というチャンスも作ってやった。
奴は眈眈と牙を研ぎ、ついに奴の顎は教師を捕らえたのだ。
教師(なぜ見落としていた……ほんの少しでも疑えば気付いたはずなのに、どうして私は……)
良心の呵責もなく、口実や言い訳も必要なく他人を誹謗し、喜んで人を傷つけて恬として恥じない。そんな人間が存在するとすれば、副担任しかありえなかった。奴はいつだって、教師の苦境を愉しむさまを隠していなかったのに。
がさがさという物音に顔を上げる。教室の後方では、生徒が教科書などを乱暴な手つきで鞄に仕舞いこんでいるところだった。
まずい、と直感的に思った。このまま帰したら大変なことになる。この生徒を皮切りに全員が帰ってしまえば、このクラスは教師の制御下から離れていってしまう。
教員と生徒の関係において、授業などの活動が円滑に進むためには、生徒が教員の指示に従うことを事前に了承している必要がある。あらかじめ、“生徒は教員に従う”という前提条件が生徒の中に定着していなければ、一切が上手く運ばなくなる。
疑問を持ち、問うことに旺盛な姿勢は評価の対象になるが、教員をはじめから疑ってかかるようでは困るし、頭からなめてかかるというのも論外だった。
そしてもともと、生徒の間には教師に対する敵意という素地がある。今までは消極性に埋没していたそれが、何かの拍子に教師への攻撃的姿勢に転化することは十分に考えられた。
――生徒の心は荒廃している。それは天女の如き少女の寵愛を受けられないことへの苦悩のためであり、同時に担任という立場から少女に信を置かれる教師に対する嫉妬のためでもある。
今までは危ういながらも、教師と生徒たちの関係は、教職者と学生の枠内に収まっていた。この均衡が破れることは、それは教師の担任するクラスの秩序が崩壊するということだ。
待て、と声を投げかけるが、生徒は頑なに荷物を片付ける手を止めない。再度制止をかけようとしたが、一面に物音が拡大した。教室の全員は、誰ひとりとして教師の指示に従わず、荷物をまとめ始めていた。
絶対に止めなければならない。この瀬戸際で踏みとどめなければ、生徒たちはこれ以降、教師を担任として認めなくなる。頑なに教師を拒むようになれば、教師には生徒たちの放埒を押しとどめることは困難を極めるだろう。
教師(しかし、どうやって?)
聞く耳を持とうとしない――何も聞くまいと思い極めている相手に、何と言えばこちらの言葉が届くというのだろう。
教師は必死に言葉を探したが、誰も動きを止めることはなかった。
数分と経たず、潮が引くように教室からは一切の音が失われて、教師は奇妙に広い教室に取り残された。
今日はここまで
たぶんあと二、三回の更新で終わるかなー
少なくとも五回以内には終わるはず
投下
ちょっと短め
誰もいない教室は意外なほど広く感じる。掃除もされずに放置された教室は椅子も机も野放図に歪み、床にはごみが散乱している。
殺伐とした教室は、教師に生徒たちの憎悪の深さを突き付けるようだった。
言いようのない敗北感に襲われる。矢も楯もたまらず、教師はまろぶように教室を飛び出した。
教師が担任のクラスは校舎の二階、くの字に曲がった角に当たる教室を割り振られている。ほとんどを壁に遮られた廊下からは、他の教室の様子を直接伺い知ることはできない。
そうしてできた死角の彼方から物音が聞こえた。床を擦る音は机を運ぶ音だろうか。明るい笑い声が遠く響く。窓の向こうにちらつく生徒たちの談笑が、より一層教師の心胆を寒くした。
荒れ果てた教室は、一歩外に出れば、すぐそこにありふれた光景が広がっているのだ。どこにでもある普通の学校、このクラス以外はそのイメージ通りだった。このクラスの生徒だって、元はそうだったはずだ。そうだったはずなのに。
教師「……なんなんだ、これは」
教師の誰にも向けていない呟きに、しかし、応える声があった。
副担任「ナニがっすかぁ? 『先パイ』」
教師と生徒を混沌の渦に落とし入れた張本人がそこにいた。
教師と副担任は数メートルを隔てて対峙した。
副担任は光満ちる先からやって来た。まぶしいほど明るい学校生活の奏でる音色を背景に、副担任は余裕綽々に笑っている。
ひるがえって教師はどうだ。背後に広がる静寂は規律によって生まれたものではなく、拒絶と憎悪の産物だった。温度のない無音、荒廃こそを教師は背にしている。
泰然と笑う副担任を、教師は強張った顔で睨み据える。
何かが間違っていると思った。
これでは、まるで副担任が正しく、教師が間違っているようではないか。
教師「どういうつもりだ」
副担任「だーから、『ナニが』ってさっきから訊いてんでしょ?」
教師「どういうつもりで彼女の――受け持つ生徒の個人情報を漏らしたと訊いているんだ! お前のしたことは重大な服務規律違反だ、わかっているのか!」
副担任「証拠は?」
教師「他の生徒に漏れているのは事実だ。これを少女と少女の母親に伝えて、お前を問責する。証拠集めはその後で十分だ。然るべき処分を――」
副担任「……おいおい、え、マジで言ってんの? なあ、おまえ、それ、本気で言ってるわけ?」
教師「は?」
怪訝な表情をする教師を見て、副担任は呵々大笑した。大口を開けて下品に笑い転ける副担任は喘鳴混じりに、真性だ、と繰り返した。
副担任「はは、……なあ、おまえ、できると思ってんのか? あの母親に伝えて、キョートーたちに報告上げて、おれを問責? できるわけねーだろバカじゃねーの!? さすがに頭ン中お花畑すぎんだろ、先パイさんよぉ」
教師「何を言って――」
副担任「おまえ、ジャマなんだよ」
副担任は目を眇めて、顔の動きで教師を見下した。いつもの軽薄さは見る影もない。情の通わない酷薄な容貌がこの男の素顔だったのか。
副担任「いっつもいっつもジャマばっかしてさぁ。おれはまだ精々二ヶ月ぐらいだけど、他の人らは一年以上だろ? そりゃあストレス溜まるって。あの母親だっておまえに協力するわけねえだろ。いやマジで、よく今まで保ったよな」
いっそ殺してくれてれば楽だったのにな、と副担任は冗談を言うように嘯いた。
その言葉に、教師は自分の過ちを悟った。相手をまともな人間だと考えるべきではなかった。
目の前の男は、人のなりをした怪物だった。他の連中は狂気に心奪われて正常さを失ったが、この男は正常なままに狂っている。魔が差したのでも、元は普通の人間性を持っていたのでもなく、生のままで尋常の精神にない。そんな人間を呼ぶ言葉を、教師は怪物以外に知らない。
副担任「つーか、本っ当に目障りだったんだよなぁ。てめえだけ善人面でさ、あからさまにごま摺って、ウザイったらなかったよ」
教師「……何が言いたい」
嫌悪にせり上がってくる吐き気をおさえて、教師は呻いた。副担任は喜悦におぞましく口元を釣り上げて、言った。
その名前を。
副担任「偉っそうなことばっかいってたけどさ、結局、おまえもアイツに取り入りたかっただけなんだろ? 上手くいったか? ほかのバカどもみぃーんな踏み台にして、自分だけ好感度上げんのはどんな気分だった? でも、それももう終わりだ」
副担任は心底楽しそうに笑う。
副担任「おまえはもう、オシマイだよ。残念でしたね、『先パイ』」
たっぷりに毒を含んだ言葉を投げつけて副担任は踵を返した。振り返る気配もなく、どこかに――おそらくは職員室に歩いて行く副担任を、教師は引き留められなかった。
なぜならこれは、副担任たちの勝利宣言なのだから。
副担任が少女との面談の後、教室に来る必然性はない。それがこうしてわざわざ出向いてきたのは、教師に自分たちの勝利を誇示するためでしかありえない。
そう、勝敗は決着した。副担任や教頭たち、そして生徒は勝負に勝って、教師は無様に敗北した。副担任は敗者を辱めるためにここに来たのだ。敗者をいたぶって、自分の勝利を確信するためだけにここに来て、気が済んだから帰った。それだけだった。
副担任の凱旋は歓呼をもって職員室の連中に迎え入れられるだろう。副担任は彼らにとって、紛れもなく功労者だ。労いだけでなく、感謝すら口にするかもしれない。憎っくき教師の立場を完膚なきまでに粉砕したのだから。
――実際、教師の敗北は戦うまでもなく明らかだった。教職員のすべてを敵に回している以上、彼らの助力は得られない。たとえ教師の訴えが正当なものであっても、それが教師の主張であるということは、それだけで彼らにとっては撥ねつける根拠になるのだ。
現実に何の立脚点も有さない思考は妄想に過ぎない。
そんな、あまりにも自明な事実から、教師は自分でも不思議なくらいたやすく遊離してしまっている。
現実から目を背けていたのは教師の方だった。担任としてクラスをまとめられなかったのだから、教師の教員としての評価は地に落ちた。しかも、訴え出る相手が策謀を巡らせているのだから、彼らは完全に教師の存在を黙して抹消するにちがいない。
彼らの乱行をさらに上位の機構に告発することはできない。それは最悪手だ。だから、教師のやり方は、備え付けられたシステム通りにあらゆる処理が執行されることを前提としていたのだが――これでもう、その芽もない。
彼らの戦いとは、いかに少女の褥に這入る権利を勝ち得るかにあり、狂気と自制心をせめぎあわせることではなかった。
一方の教師はといえば、暢気に自分の中の劣情と闘っていたのだ。そうして教師は、教師を除かんとする策動をみすみす見過ごした……。
いや、と教師は力なく首を振る。
教師(……この敗北感はそれだけではない)
教師が副担任を引き留められなかったのは、その言葉の切っ先が、教師の痛いところを正確に抉っていたからだった。
教師は「おまえと一緒にするな」と抗弁しなければならなかったが、どうしてそんなことが口にできるのか。
教師の精神が決して高潔でないことは事実なのだから。
第一、副担任は完全に教師の人間性を、劣悪なものと決めつけてしまっている。教師の抗弁など一笑のうちに掻き消されるだろう。
そもそも人倫の基は他者への自己投影である。思いやりも何もかも、人間性の本質は、他者に自己を投射して「自分ならどうか」と想像することにある。
他者への共感性、想像力の涵養こそ教師の教導すべき人道である、と教師は任じてきたが――ここに見落としていた論理の矛盾がある。
他者への自己投影を人道とするなら、人は自らを通してのみ他者と関わりあえるということになる。自分の内側にないものを他人の中に見出すことはできないのだ。
副担任だけでなく、教頭も主任も母親も誰も彼も、かの少女への求愛に奔走しているのだ。教師の言動は、自己欺瞞を孕みつつも全てが嘘だったわけではないはずだ。だが、彼らが教師の胸の裡に、自分たちの同質のものしか嗅ぎ取れなかったのも無理からぬことではないか?
一体どうすれば自分の考えを理解してもらえるのか、教師には何もわからなかった。
ざり、と砂利を踏む音が耳に障った。足裏に違和感を覚えて足元を見ると、教師は教室用のスリッパ履きだった。外靴にも履き替えずに廊下に突っ立っていたのか、と失笑した。
なんて無様なのだろう。自分の間抜けっぷりが情けなく、憤ろしかったが、それさえも突き抜けて、倦怠感に似た感情が胸に満ちた。
重い手足をぶら下げて虚脱したように見つめる廊下は、蛍光灯の無機質な光だけを光源として、ひどく寒々しかった。外を見れば、やはり太陽が見えない。夜の帳も落ちていないのに陰鬱な天気は、あるべき初夏の陽気を一切奪い去っている。
教師はどこかに光がないか茫洋と見つめたが、地に差す温かな陽光は一条すらも見つけられなかった。
そして日が落ちてしまえば、暗転した世界には二度と光明は昇らないのだ。
もうちょっと進めたかったけど今回はこれで
次で完璧に心を折る
投下行くよー
翌日以降、教師の教える授業は完全に破綻してしまった。
宿題の放棄などはまだ生易しい。授業中に当たり前のように騒ぐ、立ち歩く、人目をはばからず飲食する。勝手に席を移っていることもある。
教師の授業だけは無断で欠席しておいて、前後の授業はちゃんと出席する、という生徒まで出る始末だった。
ただし、彼らの反抗は、教師に対する積極的な攻勢という方向には向いていなかった。
彼らは叱責する教師に、一分の関心も振り向けなかったからだ。目もくれず耳も傾けず、言葉を返すこともない。
壁がある、と教師は思った。
教室は教壇の内と外で分断されていた。生徒たちにとって教室とは教壇の外、自分たちのみで完結する世界だった。
教師は教室に存在しないも同然だった。教壇からの声は彼らの築いた壁に阻まれて、誰にも届かず墜落した。
究極の拒絶とは相手の全存在の否定なのだと、教師ははじめて思い知った。
何とかしなければ、と気ばかりが逸ったが、もはや教師だけでどうにかできる次元ではないのは明らかだった。
しかし、教師には頼れる誰かなどいない。
教頭も主任も校長も、教師と生徒の関係をぶち壊しにした共犯者なのだ。
窮地に立つ教師に救いの手を差し伸べてくれるわけがない。
それでも、もしかしたら事態の重大さを理解してくれるかもしれない。
僅かでも希望があるならと一縷の望みをかけて教頭に助力を乞うたが、案の定彼は教師の主張を一笑の下に却けた。
侮蔑も露わに、主任や副担任たちと顔を見合わせて笑って、教師の努力が足りないのだと言った。
――しかしこの異変は全学年に波及する。一クラスの一教員に向けた敵対姿勢は、爆発的に全学全クラスに拡がったのだ。枯れ木に火を放つがごとく、一週間も経たない間に、すべての学年のすべてのクラスが学校に反旗を翻すという前代未聞の事態に発展した。
当初は教師の無責任さをあげつらって楽しんでいた連中が、ようやく事態の緊急さに気付いた時には、収拾の付く段階はとうに過ぎ去っていた。
彼らにとっては対岸の火のはずが、みるみる内に母屋に燃え移ったのだから、彼らの混乱ぶりは見るに堪えられないほどだった。
浮き足立つ同僚に、教師は冷ややかな目を向けていた。自分たちの行いがこの災いを招き寄せたというのに、そんなこともわからないのかと思った。
そもそも生徒というものは、学校に対して、大なり小なり恨みを抱いているものなのだから。
教育の美名の下に自分を管理しようとするものに反感を感じずにはいられないだろう。暴発の火種はそこここに満ちている。だからこそ教員は、彼らの鬱屈を正しい方向に導き、道を踏み外さないよう見守らなければならない。
だというのに、この学校では、問題生徒に対する指導が甘い。指導力の欠如のしわ寄せは、それ以外の優良な生徒にのしかかった。
教員間に蔓延る事なかれ主義、その歪みは目に見えない。しかし地表深く、本人たちでさえ無意識の深層では、負荷は加速度的に増大していたにちがいない。
崩壊の素地は出来上がっている。
だから、教師のクラスがああなった以上、この最悪の事態を予見することは難しくないことだった。
こうなる前に手を打ちたかったのだが、今さらそれを言っても始まるまい。
少なくとも、四の五のと文句を言っていられる場合ではないのは事実だ。
そして、それは彼らも同じはずだった。
教師(事態の収拾、少なくともその一点だけは折り合えるはず……)
教師はそう考えていた。
――実際、舞台は整えられつつあった。日曜日を臨時休校として一切の学校活動を停止し、緊急職員会議が行われることになったのである。
簡単な伝達は職員室で行われるが、重大案件の職員会議は会議室で行われるのが通例らしい。教師が着任して以来、はじめてのことだった。
それだけ彼らも焦っているのだ。些末な諍いに囚われず、本気で問題解決に取り組もうとしている表れだと、少し安堵している自分がいた。
彼らにも教員としての自覚が残っていたのだと思うと嬉しかった。
ただ、心に何の曇りもないというわけではない。単純に喜ぶには大事なことを見落としているような、胸の痼りが消えずにいる。
だから教師はこうして、開会の一時間前に職員室に向かっているのだ。
職員室には直前まで会議の資料を準備している教頭たちがいるはずで、その会議資料を事前に入手するためだった。
会議資料の作成は、到底教頭ひとりの手に負えるものではない。だから当然、当事者として深く関与している教師も加わるものと思っていた。事の成り行きを考えれば教師の参加はあるべきだが、そうはならなかった。
教頭は資料作成から教師を排除したのである。他の連中も同調して、教師は何もしなくてよいと繰り返した。
表面上は軟らかい態度だったが、裏にきっぱりとした拒絶を感じた。教師が要求を強くすれば、それ以上の強さで撥ね退ける――そういう気配があった。
それならそれで、当事者である自分の意見を挿入してほしいと言えば、教頭は、自分たちが信用できないのかと言って話を打ち切った。
では、職員会議前に資料がほしいと申し出れば、いつ完成するかわからないからと、これまた却下される。
ここに教師が彼らを信用しきれない理由がある。どうして今、教師を締め出す必要があるのか、真意がまったく掴めない。
日毎に催促しても生返事ばかりで埒が明かなかった。
だがそれも終わりだ。さすがに会議前を捕まえれば、資料を渡すのを嫌がる口実はあるまい。
教師は職員室の扉を開けた。
教師を迎えたのはむっと篭もった蒸し暑さだった。空調を確認するが、冷房が点いていない。しかもデスクのパソコンはひとつも立ち上がっていない。資料を準備している形跡はどこにもなかった。
物音の絶えた室内を教師は見渡した。ブラインドの隙間から日差しを洩らすだけの薄暗い部屋は奇妙に静かだった。
職員室は無人だ。そう理解した教師は印刷室に向かった。もしかしたらたった今作成が終わって、刷り出しているのかもしれない。
だが、そこでも教師を待っていたのは空虚な静寂だった。
教師はほとんど駆け足で会議室に向かう。まさか、そんなはずはない、という言葉を頭の中で繰り返す。資料を準備しているはずだ、それが終わって、皆は会議室にいるのだ。
そうして会議室の扉を開け放った教師を、咎める声はなかった。優に三、四十人は入れる広さの会議室に人の姿はなかった。
肩で息をする教師の呼吸の音だけが物音の全てだった。
教師は携帯電話を取り出して教頭に掛けた。コール音が数度鳴って留守番電話サービスにつながった。通話を切ってもう一度掛ける。つながらない。主任、同僚、副担任にまで掛けたが誰も出なかった。
教師は椅子のひとつに座り込んだ。会議室の時計は、会議まで四十分ほどだと告げている。
教師には待つことしかできなかった。
じりじりと時を過ごす教師が近づく足音を捉えたのは開会の十分前だった。それもひとつではない、複数人のものだ。思わず腰を浮かせた教師が振り返ると同時に扉が開いた。
「……おや、早いね」
そう言って教頭は顔をしかめた。
教頭の後ろからぞろぞろと同僚たちが姿を現した。手に持った座席表のような紙に目を落としたまま、挨拶もせずに席に着いていく。教頭は満足気に頷いて、たった今教師に気が付いたというふうな表情をした。
教頭「おや、そこは私の席なのだが。どいてくれないかね?」
教師「……それは申し訳ありません。私の席がどこかわからなかったもので」
教頭「ほう? 前もって座席表は渡してあっただろう。まさかとは思うが、失くしたというのではないだろうね」
教師「それは――」
教頭「確かに渡したはずだよ、私はね。私は渡して、君たちは受け取った。だから、ほら」
教頭が手で示した同僚たちは整然と座って、鞄から何かの紙束を取り出していた。
教頭「君以外の全員が自分の席にいる。ああ、その様子だと、座席表どころか会議資料まで持って来ていないようだね。いったい何しに来たのかね? やる気が無いのか?」
くすくすと笑う声がそこかしこから聞こえた。ひときわ大きい、耳障りな話し声は副担任だ。ざわざわとする会議室に、教頭はしたり顔で頷いて椅子に座った。
教頭「なにをぼーっと突っ立っているんだね? さっさと席に着きたまえ。ああそう、予備の資料などはないよ。手ぶらで職員会議に来るような不届き者のためにわざわざ用意する必要などないだろう?」
教師は無言で、唯一空いている向かいの端の席に行った。資料を見せろと言っても無駄だろうから、隣の副担任が何事かを話しかけてくるのを聞き流す。
彼らの魂胆が、教師に職員会議の準備期間を与えないことだったのは明らかだ。わざわざこんな小細工を打ってくるということは、この会議の方向性も怪しくなる。
胸騒ぎが止まらない教師に関係なく、校長の到着を待って、緊急職員会議は定刻通り開会した。
教頭が立ち上がって、厳しい面持ちで会議室の面々を睥睨する校長にこの学校の現状を報告する。
保護者からの突き上げ、教育委員会からの指導通告を哀切悔悟たっぷりに慨嘆する教頭を、校長は右手を挙げて遮った。じろりと教頭を睨んで、重々しく口を開く。
校長「御託はいい。つまり、私の学校は危機的な状況にあるということだな。それで? それは誰の責任だ? 君の管理責任なのではないか? それとも、私のせいだとでも言うつもりか?」
教頭「いえいえ、滅相もございません! 校長先生の責任だなんて、そんなことは……」
校長「だが実際にこんなザマじゃないか! これで私も貴様もおしまいだぞ、どうするつもりだ! ふざけるなよ、こんな、こんなことで私の……!」
今にも掴みかかりかねない勢いで教頭を罵る校長に、教頭は真っ青になって、違うのです、と激しく首を振った。
教頭「こ、これは、私でもどうにもならないことでして……」
校長「はあ? そんなことで言い訳になるとでも――」
教頭「それもこれも、あいつが悪いのです!」
そう言って教頭が指を差したのは、ほかでもない、教師だった。え、と瞠目する教師に、教頭はなおも指を突き付けて言い募った。
教頭「生徒の暴走はあの教師の担任するクラスから始まったのです! あいつは生徒をちゃんと管理するどころか、あからさまに依怙贔屓をするなどして、全く話しにならないことを……!」
そうなんですよ、と追従したのは副担任だった。
副担任「ワタシも何度も言ったんですけどね? あんまりそーいうことすんのはどうなんすかね、って。でも、この人、これは教育だっつって、セクハラとかしちゃったりして、もう、タイヘンだったんスよ」
教頭「そう、そうなんです、そういう悪評が生徒たちに伝わってしまい、このようなことに……! ですので校長先生には責任などあろうはずもありません! 全部、あの男のせいなのです!」
「そうだそうだ!」「お前のせいでこんなことに!」「どう責任を取るつもりだ」「教員失格だ失格」「辞めちまえ」「そうだ辞めろ!」「辞めろ!」「責任を取れ!」
会議室は教師に対する非難の声で沸騰した。誰も彼も、憎悪の眼差しで口々に教師を責める。襲いかかる怨嗟は息ができないほどだった。
ほう、という校長の一言で、会議室は水を打ったように静かになる。校長はねっとりとした猫撫で声で教頭に語りかけた。
校長「それで? 彼が元凶だとして、どうやって収集をつけるんだ?」
教頭「ええはい、それは、資料に書いているとおりでして……」
校長「資料……ああ、これか」
資料に目を落とした校長は、ややあってから教師を含み有りげに見上げた。
校長「『かかる事態を引き起こしたのは教師である。ゆえに生徒の疑心は教師にのみ向いているのであるので、教師の追放により、学校の平和は取り戻されることは疑いない』。そういうことだな?」
なるほどねえ、と教頭を称えるふうの校長に、教頭は恐縮したように頭を下げる。その光景が現実のものとは思えなくて、教師は校長たちとそれを見守る同僚たちを見比べる。
ああ、と校長が思い出したように教師を振り向いた。
校長「ということだが、君はどうだ? 何か言いたいことがあるか?」
本心が口を衝いた。
教師「……なんですか、この茶番は」
校長「ちゃ、茶番?」
教師「私が辞めた程度のことで、本当にどうにかなるとでも? そんなおためごかしが通用する段階など、とうに通り過ぎています。今、我々や生徒たちが置かれた状況は、あなた方が考えている以上に深刻だ」
校長「――」
教師「この職員会議は、どうやって彼らを落ち着かせるかを議論するためのものでしょう。彼らの行いがどういうものかを教え諭さなくてはならない。私を攻撃したところであなた方の気が晴れるだけで、建設的な意味はありません」
さっと教頭の表情が消えるのが見えた。
これが最後の機会だ。ここで退いたら、この学校を救う機会は永遠に失われる。教師は学校にあるべき姿を取り戻さなくてはならない。その一心で言葉を紡ぐ。
教師「責任のなすりつけ合いは今すべきことではありませんし、生徒の暴挙で教員が追放されるという前例を作るのは将来に深い禍根を残します。個別的な生活指導や保護者・生徒との三者面談などが――」
机を強く叩く音が響いた。驚いて目を向けると、満身に力を込めて主任が立ち上がった。眉間に深い皺を刻んだ顔から発される声はいつにも増して金属を擦り合わせたように不快だった。
主任「聞いてられないねえ、キミ……。結局は、自分は悪くないと言いたんだろう? そんな言い分が通用すると思っているの? 人を舐めるのも大概にしろ!」
そうじゃない、と反論しようとした教師の口を封じたのは、すぐ隣から聞こえた呟きだった。
副担任「アンタがいなくなりゃ全部うまくいくんだよ」
だからさっさと消えろ。声の主はそう言って笑った。
突然すべてが腑に落ちた。教頭たちは単に教師を追放するために芝居を打っているのではない。教師がいなくなれば万事うまく運ぶと本気で考えているのだ。
たとえ虚言を弄して讒してでも、教師を追いやることができればいいのだ。
彼らにとって教師は、敵であり、邪魔者であって、協力しあう仲間ではないのだから。
校長「とりあえず、言い分はわかった。彼の教員としての適正が疑わしいこともな。それで、どうだろう。しばらく彼を謹慎させて、様子を見るというのは?」
参加者は校長の名案に拍手で応えた。満面に満足そうな笑みを湛える校長は、そういえば、と教頭を振り返った。
校長「生徒が暴走していると言っても、ちゃんと授業を受けている生徒はいるんだろう? ならその子たちのケアをしっかりしないとな」
教頭「ええ、はい。そのとおりです」
うん、と校長は脂ぎった顔面を好色に歪めた。反射的に立ち上がった教師に、気のない視線を向けた校長は、あっさりと休憩を告げた。
目の前の出来事が上手く飲み込めないでいる教師は、横合いから突き飛ばされた。急のことにうずくまった教師が後ろを振り向くと、副担任が薄く嗤っていた。
副担任「会議のジャマっすからねぇ」
と男は笑う。教師はうずくまった姿勢のまま顔を上げた。机の上に居並ぶ顔は皆笑っていた。にやにやと教師を見て、教師の醜態を嘲笑っている。
凍りついたように動けない教師を副担任は無理やり引き掴んだ。そうして教師は会議室から叩きだされた。
教師の居場所はこの学校のどこにもなかった。
教師は「会議室」というプレートから目を背ける。教師は副担任が放って寄越した鞄を拾う。いったん動き始めた足は止まらず、ついには駆け出して、逃げるように学校を後にした。
自分の家に逃げ帰った教師は、玄関の鍵を閉めてようやく息をついた。ずるずるとその場にへたり込む。
どうしてこんなことに、と呻く。なぜだ、と繰り言にように呟いて、茫洋と家の中を見つめて。
ここはどこだろうと思った。
廊下はざらついて、隅には綿埃がたまっている。部屋に上がると、中はさらに悲惨だった。部屋はゴミやら何やらで足の踏み場もない。台所のシンクは皿とコップで埋まり、ごみ箱はカップ麺の容器で溢れかえっていた。
干している洗濯物がないことを不思議に思って、そういえば、干す時間が惜しくて全て洗濯乾燥機にかけていたことを思い出した。
こんな荒んだ生活はしている自覚はなかった。
もう駄目だ、と思った。限界だった。知らない間にこんなに追い詰められていたとは思わなかった。
自分の脆さを突き付けられたような気がして、教師は失笑した。自分の弱さを認めるのは奇妙な愉快さがあった。
さて、休職届でも書こうか、と思い立ったが、最近封筒や便箋の類を買った覚えはない。こんなことなら帰るついでに買えばよかったな、と、玄関で靴を履いて、錠を開け、
ドアノブに手を掛けた、カチャリ、という微かな音が、教師の蓋をしていた感情を呼び起こした。
脳裏を映像が駆け巡った。(笑う顔、顔、顔――)記憶の彼方から声がする。(こちらを向いて笑う男)奔流のように流れだす記憶が止めどなく(怒鳴る声――“何様のつもりだ!”)視界を走る。映像は次々と場面を変える。(嘲笑う口元、嗤笑、机を叩く音)教師が耳を塞いできたものだ。(“ジャマなんだよ”)目を閉じて見ないふりをしてきた、(目。こちらを見る目。怒り、嘲り、蔑み、憎しみ。瞳に映るのは――)これが教師にとっての全てだった。
(少女のふんわりとした優しい微笑み)
気が付くと、教師は玄関にひざまずいてドアにすがりついていた。身体はがくがくと震えて思うようにならず、か細い息を呼吸を繰返すのがやっとだった。
頬の違和感を拭ってみると、そこはしとどに濡れていた。
教師「なんだよこれは……」
教師の声に応えはない。
というところで今回はここまで
短いけど投下投下
教師「どうして……」
無意識に後退った背が壁に阻まれて止まる。
逃げ場はない。
「先生が休職したと聞いて、居ても立ってもいられなくなって――」
教師「帰れ」
「……え?」
少女の声はどこまでも透き通って、ぞくぞくと脳を揺らす。それを遮断して、教師は同じ言葉を繰り返した。
今ここに誰かを招き入れることはできない。たとえ少女の心根がどうあれ、他者の存在を受け入れられるようなまともな精神状態ではなかった。
絶対にあの扉を開けさせてはならない。そう思うのに、振り絞った声は情けなく震えて、帰れと繰り返す度にか細くなっていく。帰ってくれ、と絞り出した声は懇願するようでもあった。
それでも声は遠ざからなかった。
「先生? あの……」
言葉を探すような間を空けて、少女の囁きが聞こえた。
「大丈夫ですか?」
教師「私は――」
大丈夫だと続けられなかった。
少女の一言が、教師の深いところに突き刺さった。
教師は『大丈夫』なのだろうか。
そう応えなければならないと、頭では分かっている。教師は大丈夫だから、学校に戻るか家に帰るように言わなければならない。
なのに、教師の口から転がり出たのは違う言葉だった。
教師「……わからない」
教師には、ずっと心に沈めてきたものがあった。夜ごとに煩悶し、自問自答を繰り返しても誰かに話すことなんて考えもしなかったそれは、いったん口に出してしまえば、一気に水面から飛び出した。
教師「他人の考えていることがわからない。これっぽっちもわからない……だから怖い。あいつらはいったい何を考えていたんだ? どうしてあんな簡単に……倫理観だとか仕事への態度だとか、そういうものを捨てられるんだ? どう考えても、どんな説明をつけても私には理解できない」
壁にもたれた背がずるずるとずり下がる。
教師「どうしてこんなことになるんだ? こんなのおかしいだろう? 奴らは絶対に間違っているのに、全然自分たちを正そうとしない。校長も教頭も主任も生徒も誰も彼も、私が何度言っても、何を言っても聞きやしない。こんなのってないだろう?」
教師「なあ、それとも、間違っていたのは私だったのか? 間違っているのもおかしいのも本当は私のほうで、だからこうなったのか? だとしたらどこからだ。どこから私は……はは、私がおかしいとすれば、答えなんかひとつしかないな」
教師「最初からだ。最初から私は間違った。そうじゃないと説明がつかない。私が間違っていて、私がそのことに気が付かなかったから、余計私は人に恨まれた。私は誰にとっても厄介者で邪魔者で、憎むべき敵だったから、彼らは私を追い立てた。そういうことだよな?」
教師「だが私には、自分のどこが間違っていたのかわからないんだ。何がいけなかったんだ? 何が悪かった? 考えても考えてもわからない。なにかが間違っていたならそれは私のはずなのに、私にはそれが何だったのかがわからない。わからないんだ……」
廊下に座り込んだ教師は両手で顔を覆った。目を閉じれば世界は闇に閉ざされる。
いつの間にか雨音がきつくなっているのを聞く。
この世界に教師はひとりきりだ。膝を抱えて俯いた教師はほんとうにちっぽけだった。どこまでも矮小で、惨めで、なんて下らない――自分。
「いいえ、先生はなにも間違っていません」
沈黙を切り裂いて、凛とした声がそう言った。顔を上げた教師に、扉の向こうの声は、ここを開けて下さい、と言う。
哀願するような響きを、教師は拒むことができなかった。
教師「……鍵なんて、はじめから掛かっていない」
言った教師の瞳に、ドアノブが下がって、ゆっくりと扉が開いていくのが見えた。
扉の向こうには、やはり少女が立っていた。
少女は教師を見て、切なげに眉をゆがめた。そうして少し笑ってみせた少女を、教師は放心したように見つめた。
濡れてほつれた髪はさらに光沢を増している。雨に濡れたセーラー服は肌に張り付いて下の色を透かした。生ぬるい雨のにおいに交じって、もっと生々しくて芳しい何かが漂った。
灰色の空の下で、少女の存在感はあまりにも鮮烈だった。
それを見て教師は、救われた、と思った。少なくとも教師はひとりではない。周囲の人間をすべて敵に回した教師にとって、少女は唯一の理解者だった。
教師にはそれだけで十分だったから、それ以上の思考が欠落してしまった。
そうして教師は深い考えもなく、少女を自分の部屋に上げた。
扉を閉めた少女に、ひとまず脱衣所でタオルを使うといい、と促す。脱衣所に目を向けた瞬間、玄関の鍵が掛かる音がしても、聞き咎めることもなかった。
ただ、部屋の中の惨状を思い出して、少女が身体を拭いている間に片付けなければ、と頭を掻いただけだった。
これだけ
ついにここまできたか
感慨深い……
生存報告も兼ねて投下
少女「先生? その、着替え、終わりました」
教師「ああ……」
教師は顔をしかめたが、あまり少女を待たせるわけにもいかない。ため息を軽く頭を振って追い出して、少女に部屋に入るように言った。
はい、と応える声に顔を上げる。
部屋に入って来た少女は、もとの制服姿ではなく、教師の用意した着替えに身を通している。服が濡れたままでは風邪を引いてしまうと、教師としては配慮したつもりだったが、
教師(……しまった)
と思った。
少女に用意したのは地味な色合いの部屋着である。無地の味気ないシャツとスウェット。
そのラフな格好に、こうも目が泳いでしまうのはどういう心のなせる動きなのだろうか?
いかに装えども、天性の造形美は隠せないということか。あるいは、はき溜めの鶴を見ているようで見るに耐えないのかもしれない。
理由ならいくらでも考えつくから、きっとその中のどれかが答えなのだろう。そんなことを漠然と考える。
当の鶴は部屋の様子を窺っていた。はっと教師の表情が強張る。それに気が付いた少女は、すぐに教師に向き直って、ふっと眉をゆるめる。
少女の微笑みに滲む気遣いが教師には辛かった。
――はき溜めに鶴とは決してものの例えではない。実際ここは、少女にとっては言うまでもなく、教師にとってさえはき溜めだった。
たとえば棚の本は天地表裏なく押し込められているし、床を踏めばざらつきがある。取り除く時間のなかった塵埃は部屋の隅に固まって視界を汚す。
そもそもが、床やテーブルに散乱するものを一纏めにゴミ袋に放り込んだだけなのだ。
たかだか8畳にも満たない部屋には荒廃の残滓がこびり付いていた。
こんな所に他人を通すなど、普段の教師ならありえないことだ。まして相手がこの少女であればなおの事、自分の怠惰が招いた失態が呪わしい。
教師の恥部を曝すことも耐え難かったが、それよりも、少女にこの部屋に立ち入らせたことへの後悔のほうが重大だった。麗しき天女を汚穢な空間に招いてしまった。教師のせいで、床の埃がその足を穢すかもしれないと思うと、ほとんど気が狂いそうだった。
しかし少女は、部屋の有り様にまるで頓着せずに教師の元に歩み寄って、不思議そうに首を傾げる。
少女「どうかしましたか? あ、それとも……」
少女はほんの少し目を落として、上目遣いに教師を見る。
少女「私の格好は、なにか変でしょうか……」
不安げに胸元で手を握る少女。そこに思わず目が吸い寄せられて、慌てて目を逸らす。
成人男性である教師と少女ではさすがに体格差がある。だから少女の着ている服は、相応に大きめのはずだ。
そのために襟ぐりも深くなって、首から胸元にかけては、むしろ大きく露出してしまっていた。ずり下がる袖から覗く白い腕、服の陰影はその中のシルエットを幻視させる。
そう、きっと罪悪感なのだと思う。本来ならば少女がここに、教師の部屋に存在することはあってはならないのだ。それを拒むことができなかった後ろめたさや、気後れで、この感情は説明がつく。
――そのはずだ、と結論づけて、教師は少女に座布団を勧めた。
こんだけ。ごめんなさい
次はもうちょいなんとかしたい
投下
教師の部屋は雑然としている。とはいえ、これは掃除が間に合わなかったからで、物自体はそれほど多くない。家具といえば衣装箪笥と寝具、本棚にテーブルと、キッチン横の冷蔵庫だけだ。
教師が勧めたのは、二つ並べて敷いた座布団のうち、部屋の手前側の方だった。
本当はテーブルを間に挟んで相対したかったのだが、このテーブルは部屋の狭さに比べて不相応に大きい。テーブルを端に寄せてスペースを空けないと、とてもひと二人が満足に座れる場所を確保できなかったのだ。
教師(少女と直接向かい合うことになる、か)
そう思いながら教師は座布団に座る。
よからぬ勘違いを招きはしないか、という危惧がちらりとよぎった。
しかし少女は素直に頷き、折り目正しく膝を揃えて座った。膝を折った拍子に、少女の黒髪が揺れる。一房、耳に掛かった髪を、少女は人差し指で後ろに払う。――背筋をピンと伸ばした跪座の凛とした風情。
少女の形の良い耳から顎に抜けるラインを惚れ惚れと目で描いた。ふ、と視線が下ると、だぶつくシャツの襟から胸の谷間がわずかに覗いて、心臓が跳ねた。
早鐘を打つ心臓の鼓動が疼痛のように脳を打つ。巡る血液に硬くなった教師の身体は、いつになく熱を増している。
呼吸が浅くなっていくのを、あえてゆっくりと行う。
目の前の少女は敏い。教師の不調などはすぐに見抜いてしまうだろう。
教師は冷静さを取り戻そうと焦ったが、昂る身体はなかなか言うことを聞かず。
口火を切ったのは少女のほうだった。
まずは、と言って、少女は身を前に倒す。胸元で突っ張ったシャツが、そのすぐ下ではひらひらと風に靡くのがわかった。
少女「もう一度ちゃんと謝らなければいけませんね。こんな風に突然、先生のお宅に押しかけるなんて、大変な失礼を……。でも、どうしても居ても立ってもいられなくて」
教師「いや、構わない」
少女の声が心底申し訳なげなのが胸に痛くて、やや遮るように言った。言った後に、自分の発言がいかにも不遜に聞こえると思い当たって、急いで言い添える。
教師「本当に気にしなくていい。というか、謝るのはむしろこちらだ」
一瞬、言い淀みそうになるのを勢いで押し切る。未だに残る、体面を保ちたいという未練ごと、教師は吐き出した。
教師「どうも昔から人を招くということに縁がなくてな。白状すると、うちに客が来ることなんてこれが初めてなんだ。それでこんな無様なことになった。本当にすまない」
今度は教師が頭を下げる。と、少女が息を呑む気配がした。
なにか妙なことを言ったろうかと顔を上げる。目に入ったのは少女の驚き顔、しかしそこに喜色が混じっているのが不可解だった。
教師の当惑に少女はすぐに気が付いて、面を伏せる。
――赤く染まった耳、上気した頬。きゅっと拳を握って突き出した肩。羞恥に表情を隠そうとして身体を縮め、かえっていっそう顕になる肉感が、おそろしいほど熱を煽った。
胃の腑の底が燃え燃えて、眩暈がしそうだ。
少女「どうして……」
教師「え?」
自分のことで手一杯だった教師は、少女の声を危うく聞き逃すところだった。少女は小さく咳払いをして、もう一度、どうしてと言う。
少女「どうして先生が休職しなければならないのですか。いえ、これではほとんど追放です。けれど、先生には何の責任もないでしょう。なのに、どうして」
教師「ああ、それか……いや、あながち間違ってはいない。学級崩壊は私のクラスから始まった。それは、言葉を換えれば、私が引き起こしたということだ。ならば当然、私も責任を免れない」
少女「ですが、それでは休職が先生だけ、というのが解せません。それに、あのクラスの崩壊が全校に拡がった理由にもなりません。どこに先生個人の落ち度があるのですか?」
教師「それは――」
痛いところをつかれて、教師は喘ぐように息を吸う。
教師「だが、私が教室運営に失敗したのは確かだ。そして、その責任者は担任だった私にほかならない。だから、端緒を開いたものを真っ先に糾弾する、という心理が働いたと見ることはできないか?」
少女「あの人たちは責任を取りませんよ。自分たちは関係ないという顔で、先生にすべて押し付けるだけです。そうして自分だけは安全な場所にいようとする。――いいえ、先生だって、そんなことはよくご存知のはず」
言って、触れれば斬れそうな剣呑さで少女は微笑んだ。
少女「それなのに先生は、ご自分を欺き、陥れた人たちを、まるで庇うような言い方をするのですね」
教師「そんなことは――」
ない、とは言えなかった。あまりにも少女の言葉が正鵠を射ていたから。
教師の背筋を悪寒が這い上る。身体に寒気がしているのは、頭の中に熱を吸い上げているからだ。熱にぐらぐらと焦点を失って、思考は半ばショートしているのに、それでも少女の声は清冽に透っていった。
少女「ようやく、私にも見えてきました。そして、私が先生に差し上げられる、唯一のことも」
歌うように少女は言って、笑った。
うっとりと夢を見ているように。万願成就の歓喜に打ち震えるように。
瞳の奥にぞろりと陰が蠢くのを、教師はたしかに見た。
少女「真実を、先生に差し上げます」
ここまで。
やっと獲物が罠にかかりました
投下
そうですね、と少女は考えこむ仕草を見せた。顎を押さえる、細くしなやかな指には、この近さでも節くれひとつ見当たらない。
薄暗い部屋に、少女だけがぽうっと仄白く光っているようだった。
そうして居住まいを正した少女は、落ち着いた声で質問を飛ばす。教師はそれに、ふわふわと芯の抜けた頭で答えていく。
少女「まずはあのクラスからにしましょう。先生はあのクラスを、どうご覧になっていましたか」
教師「あまりいい状態ではない、と思っていた」
少女「『いい状態ではない』、ですか」
教師「うん。そもそもあの学校は、教員と生徒の間が緊張している。どこにでも素行の悪い生徒は一定数存在するものだが、そうではない普通の生徒が、教員への反抗的な姿勢を剥き出しにする。そしてこの背景には、あそこ特有の校風が深く関わっている」
少女「『わが校は生徒の自主性を最大限尊重する』……」
教師「そうだ。私も嫌になるほど聞かされた。『自主性』、なるほど美しい言葉だな。しかし彼らは本当によく考えてそう言っていたのだろうか」
教師「彼らは『自主』という言葉を軽々しく使いすぎる。私からすれば、彼らにとっての自主とは、彼らが楽をするための方便のように見えた。生徒に好き勝手やらせて、自分たちでは一切責任を取らない――そのように」
教師「自主とは、野放図な無軌道を許可するということではない。だがこれは、生徒の行動を逐一監視せよ、というのでもない。生徒の意思は尊重されるべきだが、自由意志を認めるには彼らはあまりに幼い。ときには道を踏み外すこともあろう」
教師「つまるところ教員の責務とは、生徒が道を誤らぬように最善を尽くすことにある。生徒の主体性を評価する部分と、彼らの行動を監督し、指導を与えていく部分との整合を取らなければならない」
教師「『生徒の自主』とは、その矛盾する二つの間を、どちらかに偏らないよう、慎重に見極めながら進んでいくことだ。教員に要求される覚悟は並大抵のものではないし、生徒に自分たちの行動の責任を自覚させるのだから、生徒への負担も大きくなる。教育目標としては、たしかに申し分ないな」
教師「――彼らは理解していなかったようだが。さらに悪いことに、彼らはおとなしい生徒の前では強気なんだ。『自主性を育てる』と言った口で、本当に問題のある生徒は放置するのに、そうではない生徒に口喧しい。これでは、生徒もたまったものではないだろう」
教師「あの学校は最悪だな。あれより悪くなりようがない」
少女「……」
教師「どうした? 私はなにか、間違ったことを言っただろうか」
少女「いえ、そういうわけでは……。ただ、先ほど先生はあのクラスを、『いい状態ではなかった』と仰いました。それが少し気になって」
教師「ああ、それだがな。もちろん条件はあのクラスも同じだが、余所に比べれば多少はマシだったろう? 少なくとも教員と生徒の間も改善されていたと、私は感じている」
少女「それは……どういった点が、ですか?」
教師「そうだな……例えば、授業態度だとか、教員に対するものの言い方だとか、かな。最初こそ酷いものだったが、そのうちに問題行動も見られなくなくなったし。むしろ生徒同士でピリピリしていたから、そちらの方が問題だったな」
少女「――質問を変えます。学級崩壊の直接の原因となった生徒について、先生はどのように考えていらっしゃいますか?」
教師「どう、と訊かれても困るな。特に言うべきことはないはずだが」
少女「本当にそうですか? なにか、あの生徒特有の事情がありませんか」
教師「たしかに、最初の頃こそ問題行動が目についたが、最近ではそんなこともなくなったからな。本人も心を入れ替えてよく頑張っていたから、彼については解決済みだと、そう考えている」
少女「問題行動が改善された理由について、詳しく伺ってもいいですか?」
教師「単純に、本人の意志確認とカウンセリング、保護者を交えた面談を行っただけだ。学校というやり方に馴染めないなら、別の方法を模索するべきだ。それで、本人が学校に残りたいと言って、態度も良好だったから、そうした」
少女「その生徒が学校に残ることを希望したのはなぜですか?」
教師「さあ。本人が何も言わなかったから、私は知らない。理由はどうあれ、本人がそう望んで、周囲に迷惑を掛けていないのなら、それを止める権限は私たちにはない」
少女「他の教員はどうでしたか? 先生の障害にはならなかったのでしょうか」
教師「なったな。というか、あの連中は私のやる事なす事すべてに文句をつけたよ。その生徒のこともそうだし、授業運営上の要請などもな。たいていは意味のない言いがかりレベルだったから、反論するのも簡単だったが」
少女「そういえば、体育の授業の方式が変わったことがありました。自由に二人組を作るのが、生徒に番号を振って、授業ごとに違う相手と組むように。あれも先生が?」
教師「まあ、そういうことだ。だが、私の具申した意見がすんなりと通ることはなかったな。私も嫌われたものだ」
少女「……失礼を承知で伺います。どうして先生は他の教員から敵視されてしまったのだとお考えですか?」
教師「……さて。私も知らないな」
少女「これは重要な事なのです。お答え下さい」
教師「……ひとつ、あるにはあるが、私の口からは言えない。それ以外の理由は、本当にわからないんだ。私自身、その答えを探しているのだが、どうしてもわからない」
少女「……そうですか」
ありがとうございます、と少女は言って、ほんの数秒、目を閉じた。眉を寄せた表情からは少女の苦悩がありありと見て取れた。教師は食い入るように少女を見つめた。
しかし少女は決然と目を見開いて、教師にひたと視線を向ける。
少女「先生はひとつ、思い違いをされています」
教師「……やはり、私はなにか間違っていたのか」
少女「いいえ。おそらく、先生の仰ったことはすべて正しいのです」
少女の喉がこくりと動いた。ひとつ呼吸をついて、少女は言った。
少女「私ではないのですよ、先生。私はたしかに大きな要素ではありましたが、あのクラスがああも壊れてしまったのは、私だけの責任ではありません。また、先生が他の教員から疎まれたのも、私だけが理由ではない。先生が感じていらっしゃるのは、そういうことでしょう?」
教師「な――」
少女「あのクラスも、決して良くなっていたわけではないのです。むしろ、より悪化していた。あのクラスの人間は、先生のおっしゃる他の教員などよりも、ずっと先生を憎んでいましたよ。そして、畏れてもいました」
少女は言う。
少女「先生はいかなる問題行動も見逃しはしませんでしたでしょう? 例の生徒のことですが、私はよく覚えています。私たちが入学してきて、ひと月もしない頃でした。先生の授業中、何度注意しても私語を止めない彼らに、先生はこうおっしゃいました」
――授業を受けたくないのなら、別に受けなくてもいい。君たちが負っているのは義務ではなくて権利だから、君たちに何かを強制することは誰にも許されない。それは私も、他の教員も、君たちの保護者も同様だ。君たちの意志な何よりも尊重されなければならない。
少女「だから、授業が受けられないなら、君たちには別のやり方がある。一定のハンデは生じるが、無理をして学校という枠内にこだわることはないだろう。これは君たちの今後に関わる重大な問題だから、保護者の方と相談しあって進めよう、と。先生は本当にそのとおりになさいました」
少女「けれど、彼は本当は、学校が嫌だとか、授業を受けたくないと思っていたのではないのです。ただ、教員の言うことを聞かない事で自分は自尊心を満たして、他の生徒に対しても大きな顔をしたかっただけなのです。この学校ではよくあることのようですね。ここの教員は総じて、強い指導をしないものですから」
少女は笑う。
少女「でも、先生は違いました。先生はきっと、本気であの生徒のことを思って、彼によいように計らおうとしていたのでしょうけど、彼は違ったように捉えたはずです」
学校から追い出される――、と。
少女「彼らは、自分で自分のことを決めたくはなかったのです。学校から離れたいわけではなかった。学校という箱に押し込められるのは窮屈だけれど、それはそれで仕方がない。でも、腹が立つから、教員の言うことは聞きたくない。それで教員よりも優位に立てるなら、なお良いでしょう」
少女「だから畏れたのです。先生は当たり前のような顔で、彼から学校を取り上げようとなさいました。望まないのならば与えない、その当然の論理を、先生は実行しました。このままでは学校から排除される。だとすれば、彼らはどこに行けばいいのでしょう?」
教師「それは、フリースクールだとか、保健室登校と言う手立てもある。教育課程もクリアする方法はあるし、日本では認められていないが、家庭教育で補うということも出来る。これには裁判などで権利を争う必要もあるが――」
少女「ですから、そういうことではないのです。彼らにとっては、学校という社会は当然のようにそこにあるものなのです。彼らがどんなに放埒に振る舞っても、学校は彼らを拒絶しない。だから、それを失いかねなくなって、彼らはどんなにか不安に駆られたでしょうね?」
口ではそう言いながら、少女はくすくすと笑っていた。
少女「彼らは先生に対して従順になるしかなかったのです。そうしなければ、学校から放逐されてしまうから。――そして」
私の存在が、ドミノ倒しの最後の一枚でした、と少女は言った。
少女「先生があの人達に憎まれたのは、私が近づいたからではないのです。それは理由の一部ではありましたが、それ以上に大きな要因は、ほかでもなく先生ご自身に存在します。……本当に、気付いていらっしゃらないのですね」
陰のある笑みを見せた少女は、そっと教師を見やる。
少女「先生は、なぜ私を助けてくださっていたのですか?」
そこに浮かぶ表情の名前を、教師は知らない。
教師「そうしなければならなかったからだ。お前の置かれた状況は、その性質がほかの誰とも違っていた。おそらくは悪い方だった。だから私は、私の出来る限りで、お前の障害を取り除かなければならない。それが私の、教員としての責務だ」
それだけは本当だった。そこに少女への執着がどれだけ混じっていようとも、教師はそのために行動したのだと。それだけは、誰にも恥じずに胸を張れる。
だから、少女が切なげに目を伏せたのが、妙に気掛かりだった。
少女「だから、だとしたら?」
教師「え?」
少女「先生は正しいのです。先生のおっしゃることも、なさることも、すべてが正道。――だからこそ、疎まれ、憎まれたのだとしたら」
教師「何を……言って」
少女「先生は畏怖の対象だったのです。クラスの生徒だけでなく、あの学校の人間全員にとって。先生に敵対するということは、自分たちの不義を認めるということです。どちらかしかないのです。先生を全面的に支持するか、あるいは全員で先生を亡き者にするか。先生に敵対する限り、正当性の是非は明らかなのですから」
少女「本来ならば先生に味方する人たちもいたのでしょうが、あの学校は特殊でした。これは私のせいでもあります。あの学校で私が信頼できるのは、先生ただ一人でしたから。私が先生を頼るようになるのを、彼らはどのように見ていたのでしょうね」
教師の心がさざめいた。揺れた水面に映るのは前任の幻、その瞳の涙が語る叫びが、今なら分かった。
教師「……嫉妬か」
少女「はい。私はどうやら近寄りがたいようで、素直に私に近づいてくる人はいませんでした。私をどうこうしようというなら、それは不正な手段によるしかなかった。それでは先生と衝突してしまうでしょう?」
たとえば、と少女は人差し指を立てる。
少女「私の私物が盗難されたことがありました。あれも一年次のことでしたね。あのときは先生に相談して、私物の管理を徹底するように取り計らってくださいました。個人ロッカーの錠を厳重にして、生徒個人で管理できるようにして。けれども、当時の担任とは揉めていらっしゃいましたね?」
少女「私も小耳に挟んだだけですが、あの人は担任に鍵の管理を一任するよう言ったそうですね。先生が突っぱねてくださって、事なきを得たようですが」
少女はため息を吐いて、目を眇めるように教師を見る。
少女「――先生は眩しいほどに清廉でした。先生の行動は、どこと照らしあわせても間違いはなかった。だからこそ、そのように在れない者にとっては怖ろしいのです。先生の存在を許容していては、自分たちの正当性が脅かされる。自分の罪を見せつけられる苦しみは、私には想像を絶します」
少女「だから先生はあの学校で孤立してしまった。それだけでは飽きたらず、先生を排除しなければならなかったのは、そうしなければ彼らは彼らでいられなかったから。これが、あの学校の真実です」
教師「お前は」
教師の身体も顔も強張っている。なのに、握りしめた拳が震えて、止まらない。
どろどろと身体の底が燃えている。
教師「お前は何もかもわかっていたのか。あの連中の下卑た望みも、罪を悖らない本性も。私が愚かにも右往左往するのを、お前は眺めていたのか。お前は――」
少女「それは違います。……嬉しかったのです」
そう言って頬を染める少女を、教師はぽかんと見つめた。
何を言っているのだ、この女は?
少女「私にとっては、親も家庭も学校も、何もかもどうでもいいものでした。どれもこれもつまらなくて、退屈で、貧しく、下らない。ずっとそう思っていました」
教師は唐突に、入学式の少女のことを思い出した。
あのとき、やはり少女の瞳は誰も、何も見ていなかったのだ。
少女「先生だけが、特別でした」
教師「特別……?」
特別といったか、この女は。
教師を。私を。
特別と。
少女「この世界で、先生だけが光り輝いて見えました。誰とも狎れず、媚びず、ただ決然として正しい。そんな人は先生が初めてです」
教師「……違う」
少女「先生は、先生だけが、この世界で唯一価値のある人です」
教師「違う。私は違う」
それだけは違う。違わなければならない。
少女「けれど……」
教師「私は特別なんかじゃない。それだけは違う。私が特別であるはずかない。絶対に、そんなことはあってはならないんだ!」
少女「どうしてそんなに否定なさるのです? 先生はこの世界で、唯一の『本物』なのに」
『本物』とお前が言うのか。
――お前が!
少女「え……」
凶悪な衝動に突き動かされるままに、教師は少女を押し倒していた。
この世界は正しい。正しくあらなければならない。間違いは正される。不正は暴かれる。私の世界は瑕疵なく、常に整合するよう動いている。
荒い呼吸が喉を灼いた。
教師(殺してやる)
この女は違う。この女は正理に満ちた世界を乱す異分子だ。波紋の中心、崩壊はいつだってこの女だった。
震える手を、ゆっくりと少女の首にあてがう。少女は何も言わず、じっと教師を見上げている。
透明な眼差しが教師を映す。
殺さなければならない。この女を殺さなければ、私は唯一残されたよすがを失ってしまう。
手が震えて力が入らない。呼吸がどんどん激しくなって、早くしなければと思えば思うほど、震えが強くなる。
歯を食いしばり、満身の力を込めて少女の細い喉を握りつぶそうとしたとき、少女がかすかに微笑ったように見えた。
少女が目を閉じるのを呆然と見つめた。
私の中のなにかが弾けた。
私は柔い首筋に齧りつき、自分を刻みつけるように、少女を犯した。
今日の更新終了
俺の9ヶ月はこの瞬間のためにあった
このSSまとめへのコメント
おい嘘だろ!早く更新してくれたのむよ!あんたのせいで今日は寝不足だ!
とても面白い、一貫して雨後の森の様にほの暗くじめじめした話、森を彩る狂気、というか狂喜
とても好きです