私にはだれにも言えない秘密があります。 (16)

 もう夏に近づいていて、少し暑くなってきた時期。風が体育館の屋上で寝そべる少年の前髪を揺らす。イメージはジョンブリアン。新しいことを感じる度、その色を連想するのが少年の癖だった。


「せんぱーい!」


 覚醒と睡眠の微睡みの中、少女の少年を呼ぶ声が現実へと連れ戻す。屋上から顔を出し、グラウンドを見ると少女が犬のように手を振っていた。 日が沈みかけているところを見ると、今から部活なのだろう。少女の背中にはギターケースが見られた。

 いつも気難しい顔で、無口で。しかもここにきてまだ数ヶ月の少年にとって唯一の友人だった。出会いのきっかけはそれほど特別な物ではなく、ただ単純に自殺防止用に鍵のかかった校内では体育館の屋上が二人にとってのお気に入りの場所だっただけだ。
 初対面のとき、ちょうど少年の寝転がっていた場所で二人は顔を合わせた。肩に触れるかどうかのショートヘアーに中性的な顔立ちはこの場所から追い出すのをためらうには十分な理由だった。

 ただ、少年は少女と付き合いたいだとか、もっと仲良くなりとは思わなかった。今の関係がベストだと思ったからだ。
 だけれど。


「先輩、ここから一緒に落ちちゃえば私たちあっという間に死んじゃえるんですかね?」


 校舎のベランダから1メートル程度はなれた体育館の屋上に、少年が先に屋上へ行き、少女の手をとった時だった。彼女は極めて笑顔でそう吐き捨てた。


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 少年には正しいか誤っているのか、完全に見極める能力があった。この能力を手に入れたのは大学に入って間もないことだった。国公立の芸大に入学した数ヶ月後のこと。

 YesかNoかで答えることのできる問いに対しては100%答えがわかってしまう。これだけなら便利な道具程度にしか思わないだろうが、これはそういう浅さのものではなかった。人格、道徳。人ですら誤っているか正しいかわかるのだ。
 ぼんやりとその人にかかる靄の色で判別できてしまう。これに気づいたのは少年が能力を手に入れて三日後のこと。ニュースで殺人者の顔を見た時、黒い靄がかかったのが原因である。

 その後はこの能力がどういうものなのか、気づくのには大して時間はかからなかった。これが神様か悪魔か……とにかく自分には理解できるレベルをどうしようもなく超えているということだけは理解していた少年にとって、それが正しいかどうかわかってしまうことはとても苦痛だった。

 これで少年が気づいたことは、いくつかある。まず神様だかなんだか、とにかく正しいかどうかを判別しているなにかは、人に失望し始めているということ。人に害を与える人、極端にいうと犯罪者。こういったタイプの人間はあまり黒い靄がかからない。それは「力を抑えるべき人類に攻撃を行うことは必要なことだ」ということ。
 だけど、殺人者にはその事件当時には必ず靄がかかっている。これは「俺の創った人間を人間が殺すなど、どういうことだ」ということなのだろうか。

 こういう経験から少年はいくつかのことを理解した。

1:なにかは人が絶滅してもいいくらいには失望している。だけど、人全体の改心を望んでもいる。
2:そのため、人の自滅行為に対しては寛容。ただし命を奪う行為は許さない。
3:この判断は実時間で行われる。つまり、過去に許されない行為を行っても改心さえすれば靄は消える。

 この他にもいろいろと細かいことには気づいたが、大まかにはこの通りである。

 少年にとって一番苦痛だったことは、政治家を見ることだった。どの政治家を見ても、黒い靄がかかっているのだ。少年が能力を使い、そのなにかに言及すると「そもそも、人はこれ以上繁栄すべきではなく他の生命に気を使うべきだ」ということらしい。靄がかかる人間はほとんど少なく、かかってもまず短期間で消える少年の社会ではこうして長期間、靄が消えない人間を見ることもそうした人間が国を治めていることも、そういった人間に悪気があるわけではないことも少年には辛かった。

 どうしても人を見ると判断してしまう少年は可能な限り機会を消した。テレビ、携帯電話に登録された友人たち、写真、そして人の多い都会。

 少年は春を迎える頃に大学をやめ、とある島へ渡った。人口3000人程度で小学校、中学校、高等学校が各一校ずつしかないような小さな島。心身ともに疲れた果てた少年に見かねた大学の恩師が紹介してくれたのだ。

 形としては高校の美術教師のサポートという名目のアルバイト。ただ、少年の毎日の仕事はほとんどなく美術室の準備室に200号のキャンパスを置かれ「とりあえず、描いてみようか」そう美術教師に言われた。

 少年は去年の十月、あの時から一度も筆を取っていない。どの色をどこに置くかを常に自分に問い続けてきた少年にとってそれの答えがわかってしまうことは、究極的な終了で、芸術は自分自身と同じくらいに無関心なものとなった。

 その結果、少年は校舎の三階のベランダから隣接した体育館の屋上で人を見ないよう空を見続ける日々を送っていた。


「ずっと日に当たり続けてると喉乾いちゃいません?」


 少年の背後で女の子の声が聞こえた。振り向くと水筒を差し出す少女、肌はとても白く全体的に色素の薄い少女だった。直感に近い好意を少女に感じた。この少女は僕にとってとても大切ななにかだ。同時に理性は真逆のことを考える。


「飲みませんか?」


 ぐっと差し出す少女に少年は何も言えなかった。手からつま先で、彼女は真っ黒だった。嘘だ。少年は初めてこの能力に対し否定的な感情を生む。

 喉が痛い。痛みを無視して少年は口を開ける。


「貰うよ。ありがとう」


 少し不思議そうな顔をする少女から水筒を受け取り、一気に喉へ流し込む。と同時に吐き出す。灰色の床に透明なオレンジ色の液体が撒かれる。イメージはカドミウムグリーン。


「あれ?先輩、ロボットじゃなかったんですか!?わたし、てっきり」


 演技じみた声で少女はふひひと笑った。口に残る違和感と床のオレンジ色の液体の臭いから気付く。


「これ……石油?」


「まあ正解です。厳密には近くのガソリンスタンドで買った軽油です」


 ふひひー。少女はそうやってまた笑った。
 少年は改めて少女の顔を見つめた。さっき見た黒い靄はもう見えない。


「いや、実はですね。一ヶ月ほど前から先輩がここでいつもいるのには気がついててですね」


 少女は一ヶ月近く、僕のことを見ていたこと。変な人だなと思っていたこと。ここは少女にとってお気に入りの場所だということ。いろいろと矢継ぎ早に話して、話し終えれば満足したように。


「今から部活なので……また、明日お話ししましょうね先輩」


 そう言って、あっという間に少女は帰ってしまった。
 この日から、少年は少女に関するすべての物事に対し、能力を使えなくなる。

「せんぱーい、これわかんないですー」


 少年の隣、宿題とにらめっこしていた少女は少年と同じように寝転ぶ。


「もう少し頑張って」


 少女は実際、勉強はできる。授業も真面目に受けているし、テストだってちゃんと受けている。ただ、集中力が驚くぐらい低いのだ。


「先輩、やってくださいよ」


 少年の目の前でプリントをひらひらとさせる。ちらっと見た感じ、マーク型の数学だ。


「2、3、6、1、5、5、4、3」


 少女はその解答と自分の解答を照らし合わせる。少年の能力を知ってから、少女は度々その能力を試すような行為をする。


「おー」


 解答と少年の答えが一致しているのを確認して、少女は心にもないような、感嘆の声を上げる。


「言っとくけど、記述ではこれ使えないからね」

「いやけど、これは無敵な能力ですね。これ使って世界でも救っちゃいましょうか!」

「意味わからん」

「世の中の悪を滅ぼしに行きましょうよー」


 心臓が跳ね上がった。一体、何人殺せば世の中の悪が消えるというんだ。


「あれ?せんぱい?」

「お前は、世の中の悪ってのはどういうものだと思う?」


 そんなことを尋ねるつもりはなかった。動揺のせいか、田舎での安堵感のせいか、久しぶりにできた話し相手のせいか。


「んー。まずは政治家ですかね。だいたい大きなお金を動かしているのは悪人なんじゃないでしょうか!」


 少女は溌剌とそう言い。


「あとは……自分が悪だと思っている人でしょうか」


 そう呟いた。

予鈴が聞こえる。昼休みが終わる合図だった。


「じゃあせんぱい。またお話ししましょう」


 少女は手を振り体育館から校舎へと飛び移り、大げさに足を曲げて着地の衝撃を受け止める。
 そうして少女が大きく姿勢を低くした時、少年には一瞬少女が視界から消え、まるで体育館から飛び降りたように見えた。

 その風景は、少年にとっては少し、羨ましいなんて思ってしまうんだ。

 歯車はいつの間にか少しずつズレていって。よくそんな言葉を物語の中で見かけるものです。ただそれは私にとって言い得て妙な表現でした。
 性癖。歪んだ性癖。というより、歪みきった癖なのでしょうか。

 はじめは本当に何気ない行為でした。子供ながらの純粋さがイコールで残酷さや知識欲と結びついていた頃のことです。

 多分、そう言いながら私は確信しているのですが、多分。この国の人は全員が一度は意図的に虫を殺したことがあると思うのです。それを行う原因は蟻を踏みつぶすという残酷さか、蚊を叩き潰す苛立ちかもしれません。

 まあたいていの人は虫を殺すことに慣れているのだと思います。それはヒトとはかけ離れた形をしているからでしょう。そんな人間の残酷さは何歳になっても消えることはないと思います。そうして差別というものが生まれるのでしょう。


 いえ……そんなことはどうでもよくて。私が言いたかったことは、ヒトと違って足の多い虫も、ヒトと違って四足歩行の猫も犬も私にとってはどれもヒトとは全く違って見えるということなのです。

 変化というものは少年にとって、どんなものでも好感の持てるものであり続けた。イメージはリオトマト。暑く、苦い夏の始まりだった。

 この頃から少年は再び筆を執るようになる。六月から感じていた少年の違和感は数週間経つ頃には明確になった。最初に描く方針さえ見失わなければ最後まで描くことができた。

 そうやって少しずつ取り戻していく勘と技術は新しいものを求め、少年はそれに応えたかった。

 少年は、少女のことが知りたくなった。

「なあ。僕とちょっと遊びに行かないか?」


 そうやって少女を誘ったのが昨日のこと。本当は今週の休日にでも行く予定だったのだが。


「え、マジですかせんぱい!わたし、せんぱいみたいなロボットと水族館行くの夢だったんです!」


「僕は”先輩みたいなロボット”じゃなくて”先輩”だ。あと水族館は先週行った」


「はぁ!?なんでですか!?わたしを誘わなかったのも謎ですし独りで行ってるせんぱんも謎です!」


少女は少年に向かって水筒を投げつける。中身は以前と変わらず軽油だったし、蓋は開きっぱなしだった。


「お前……本当に一回職質受けてこい」


「やだなあせんぱい。わたしが人前でそんなポカすると思いますか?」


ふひひといつものように少女は笑った。

「じゃあですね。映画でも観に行きませんか?」


 少女はそう言いながらまっすぐに少年を見つめた。イメージはシュネー。透明だった。


「そういう所に行きたがるタイプじゃないと思ってた」


「そうなんですし、そうだったはずなんですけどね。最近、ネットでよく映画を観るのが趣味なんです」


「じゃあネット観るのは駄目なの?」


「何言ってるんですか。せんぱいが遊びに行こうっていったんじゃないですか。正直、わたしとしてはせんぱいがそんなこと言ったほうが驚きですし、そういうタイプじゃないと思っていました」


「まあそうだけど。一緒に映画を観るってのは想像もしてなかったな」


 少年がそう言うと、少女はへんな顔をした。初めて見る表情。オレンジ。


「ストーリーがちょっと気になるんです。ネットにアップされるのを待ちきれないぐらいには」


 少女はやりかけていた宿題に集中し始める。


「じゃあ今週の日曜な」


 横顔が、笑ったような気がした。

『いつになったら来るんだ』


 島で唯一のションピングモールの前。少年が都会に住んでいた頃にはほとんど見たこともないような小さい駐車場で少年はメールを送る。幸い、梅雨の時期だったため暑さでのぼせることもなかった。

 少女と約束の時間から30分はたっている。湿気でべたつく服は不快感でしかなかった。


『雨止んだら行きますね』


「こいつ……本当に……」


 会ったら水たまりにでも放り込んでやろうか、そう考える。

 周りを見れば休日に加え島で唯一の娯楽施設というのもあり、この島では珍しいくらい人が集まっている。

 頼むから、早く来てくれ。願う。少女と物事を結びつけなければ、飛び降りたいぐらいなんだ。


「だーれだっ」


 後ろから荒い息とともに明るい声。振り向けば、白い肌は赤く火照っており髪は水滴を帯びるほどに濡れていた。


「そういうことを言う時は僕の目を隠すべきなんじゃない?」


「せんぱいにはわたし以外に話しかけてくれる友人がいたんですか!」


 少女はいつものように笑う。

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