こんな日が続けばいいのに.(403)

こんな日が続けばいいのに
こんな日が続けばいいのに - SSまとめ速報
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の続き


「何の話だよ?」

"俺"は苛立ったような口調でシロに問いかける。
 シロは起こっていることが理解できないみたいに周囲をあちこち見回し始めた。

 俺は、記憶を取り戻している。だから、シロはたしかに、俺の認識を元に戻すことに成功している。
 けれど、俺の体を支配しているのは"俺"であって俺じゃない。

 これはシロの力によるものではなかったのか? だとしたら、どうして俺の意識は分裂しているんだ?

「……とにかく、二人を探そう」

"俺"はそう言った。妹はすぐに頷いた。シロはまだ混乱しているような様子で俯いている。
"俺"は彼女の手を取った。

 ―-願いを叶える力には二種類あるの。願いを叶えると決めた瞬間に起きる、"神様の力"と……。
 ―-力を与えられたわたしが自分の意思で変化を起こす、"わたしの力"。

 シロの力じゃないとしたら……でも、"願いを叶えると決めた瞬間"という項目には反する。

 シロが何かを勘違いしてる?
 あるいは、俺の知らない、シロがまだ説明していない要因が存在する?


 夏祭りの雑踏を、俺たちは駆け抜けていく。あちこちを見回しても、二人の姿は見つからなかった。
 
 ――俺はシロに、"俺がこうじゃなかったら"の世界を見せてほしい、と頼んだらしい。
 ――どうして『見せてほしい』だったんだろう。

"見せてほしい"?

 ――"言葉"を、わたしが聞く。わたしはそれを"解釈"する。その解釈を、"神様の力"で実現してもらう。
 
 ……そうだ。
 叶える願いを決めるとき、シロは言葉を聞いて、それを自分なりに解釈して、神様の力を作用させていたらしい。

 だとするなら、そのシロの"解釈"が間違っていた場合、どうなるのか。
 願いもまた、その誤った解釈に則して実現されるんじゃないか。

"見せてほしい"という願いだったはずなのに、シロは俺に、"こうだったら"の世界を、実際に体験させていた。
 あれは、"神様の力"とはべつに、"シロの力"で行っていたことだった。

 つまり、シロは、"見せてほしい"という言葉を、"実際の現実として起こしてほしい"と解釈していた。


 ――でも、これは、間違っていたのかもしれない。

 シロはそうも言っていた。
 つまり、彼女は自分自身の解釈に疑問を抱いたのだ。
 
 そして、もっと信憑性のある、正しいと思える解釈を見つけ出した。
 彼女の"解釈"は、そちらに傾いていった。

"見せてほしい"という言葉は、そのままの意味で、"見せてほしい"だったのではないか、と。

 根拠はないし、唐突だ。理屈になっているかどうかだって怪しい。
 でも、今の俺の意識のありかたを見ると、そうとしか考えられない。

 俺は今、まさしく、そのままの意味で、"自分がこうじゃなかったら、の世界を見ている"。

 シロの解釈が変わったことで、"神様の力"も、願いの叶え方を変えたのか?
 そんなことがありうるのかは分からないけれど、そうじゃないとこの状況に説明がつかない。


 バカみたいだ。どうしてこんなことになるんだ?
 
 俺は今すぐに俺の体を取り戻して走り回りたかった。
 そして自分の足でユキトの姿を見つけたかった。見つけて安心したかった。

 ユキトが死ぬなんて嘘だ。

 でも、俺の体はまったく俺の思う通りに動いてくれない。身動きが取れないのと同じだ。
 もどかしくてたまらない。何もかもが徐々に手遅れになっていくような気がする。

 シロが走りながら嗚咽をこぼしている。ユキトの姿は見つからない。
 すぐ近くには姿がなくて、"俺"はようやくポケットから携帯を取り出して電話を掛けた。

 電源が切れてる。今度はサクラの方に掛ける。こっちはちゃんと呼び出し音がなった。

 コール音をやけに長く感じる。一秒一秒が奇妙な重みをもっている。
 雑踏が耳障りで、音が聞き取りにくい。"俺"は苛立ちまぎれに舌打ちする。
 電話は留守番サービスに繋がった。


「……はる兄」

 不安そうに、シロは"俺"を見上げた。

 その、心細そうな声とまなざしが、俺の記憶のどこかをかすかに刺激して、通り過ぎていく。
 
「……助けて」

 祈るような声。
 
 どうしてこんなときに限って、俺の体は俺の言うことをきかないんだ。
 どうしてふたりの姿を見つけられないんだ? どうしてふたりは電話に出ないんだ?
 まるで、何もかもが大きな力によって歪められているみたいだ。

 頭の中でどれだけ毒を吐いたって、俺は身動きもとれなかった。

"俺"はシロを妹に任せて、ひとりで雑踏の中を駆け抜けた。
 とにかく通りの端から端まで走り抜ける。

 ふたりの名前だって呼んだ。何度も。大声で呼んだせいで近くにいた家族連れが顔をしかめたくらいだ。
 けれど答えはどこからも帰ってこない。俺は顎に垂れた汗を手の甲で拭う。


「ヒメくん?」と部長の声がした。

「部長、ユキトたちを見ませんでしたか?」

"俺"は彼女の言葉の続きを待たずに訊ねた。
 彼女は戸惑いながらも、こちらの態度に切迫した何かを感じたようで、すぐに答えてくれた。

「見かけましたよ。ちょっと前に、あっちの方に歩いていきました。ふたりで。……はぐれたんですか?」

 彼女の指の先には、出店の並ぶ通りからはずれた裏通りがあった。
 古い家々が立ち並ぶ街並みを、縫うように流れる石造りの川。
 それに沿って長く伸びる、灯りの少ない暗い夜道。

 人気がまったくないわけじゃないけど、今時間になるとさすがに暗い。
 俺は部長に礼を言ってから、彼女が示した方向に駆け出した。


 息苦しさを、俺は感じている。肉体の感覚を、ちゃんと持っている。
 意思だけが、欠けている。連結が途絶えている。乗っ取られているのだ。

 速く走れよ、と俺は思う。もっと速く走れ。
 そこかしこから垂れ下がる枝垂桜の枝葉が、薄暗さの中で異様に不気味だった。

「ユキト!」と俺は叫んだ。叫んでから、自分の足が止まっていることに気付いた。
 足を動かす。動く。なぜだろう? 俺は急に肉体の操縦桿を取り戻した。
 そして立ち止まっていることに気付き、すぐに走り出す。

 肉体を取り戻せた理由はなんだっていい。
 とにかく暗い道をひたすらに走る。この道はこんなに長かったっけか?
 息はすぐに切れたし、汗はいくら拭っても絶えなかった。全身を消えない寒気が支配していた。

 道はいくつもの枝道に分かれていたけれど、俺はずっとまっすぐに進み続けた。
 彼らはまっすぐ進んだはずだと、俺はなぜか確信していた。


 この道の先は、大通りの見通しの悪い交差点に繋がっている。
 そう思い出した途端、いやな予感があった。

 祭りの日なんだ、と俺は思った。
 誰だって注意深く運転する。歩行者だってたくさんいるはずだし、そんなにスピードを出す車なんて多くないはずだ。

 ――でも、ないなんて言えるか?
 ありえないなんて、言えるのか?

 それはありえないことじゃない。
 そして、それが起きるのが"今日"じゃないなんて、そんなこと、誰にも断言できない。

 暗い道の先に、光が見える。大通りの灯り。行き交うヘッドライト。
 暗闇から光に躍り出た俺の視界は一瞬まばゆさに潰される。
 
 白い逆光に包まれた景色の中、誰かの背中が車道に飛び出す姿を、俺は見た。


「ユキト!」

 と叫んだのは俺じゃなくてサクラだった。
 俺はサクラに駆け寄りながら彼女の名を呼んだ。彼女は俺の名を呼んだ。
 そして俺に、"誰か"が飛び出した方を見るように示した。
 
「ユキトが……!」
 
 でも、俺たちが再び視線をそちらにやったときには、彼のすぐ傍まで、車がやってきていた。
 飛び出してきた歩行者に驚いたのだろう、車は大きく揺れ動き、進む方向を見失った。
 けれど、逃れられない引力でもあるみたいに、ヘッドライトが影を吸い込んでいく。
 
 鈍い音がして、俺の視界の中から外へ――ユキトの体が跳ね飛ばされる。
 その光景はすごく間抜けだった。コントみたいだった。悪い冗談みたいに。

 一瞬、時間が止まったような気がした。その一瞬を、とてもとても長く感じた。

 すぐに、混乱した鋭い音がそこかしこから響き始めた。思い出したみたいに。つじつま合わせみたいに。
 ヘッドライトがあちこちを照らす。何台もの車が進むのをやめる。怒声とクラクション。
 騒々しいオーケストラ。現実感のない光景。


「……ヒメ」とサクラは俺を呼んだ。俺は答えられなかった。

「ヒメ、ユキト、ユキトが……」

 声が震えていたのか、震えていなかったのか、それすら分からない。
 辺りの声は無関係の雑音になる。人々が一ヵ所に集まっていく。どこかにぶつかった車が渋滞を作り出す。
 
 誰かが呻き声のような悲鳴をあげた。救急車、救急車、と誰かが叫んでいた。
 
 足は根を張ったみたいだったけど、動けなかったのはそれが理由じゃない。
 意識に靄が掛かっていた。
 
 現に起こっていることを受け止めることができなかった。

「猫が」、とサクラは言った。

「猫が、いたの。交差点のまんなかに。猫が。怪我をしてたみたいで、逃げられなかったみたいで。
 車の前に、飛び出したまま、足を引きずって、それを見つけたユキトが……」

 ユキトが。
 ぐらぐらと、地面が揺れている。


 ヘッドライトの光。暗い道。騒がしい人ごみ。まるでお祭りみたいだ。
 背中には暗闇。喧騒は皮膜越しに感じるように曖昧だった。
 誰かが叫んでいる。助けを求めている。
 
 俺は、そちらに、首を巡らせる。

 遠目で、暗がりで、よく見えないけれど、そこには、"何か"が、転がっていた。

 パイプオルガンの音色と、赤い絨毯の幻覚。
 劈くようなクラクションと、赤い血だまり。

 ああ、ダメだ、と誰か怯えたみたいに言った。
 これは、助からない。咎める声もあがらなかった。

 耳鳴りと眩暈。
 光の明滅。


「嘘だ」、とサクラは言った。

「こんなの、嘘だ。嘘だよね?
 だって、言ってたもん。たくさん時間があるって。思いつくこと、全部できるって。
 さっきまで、今の今まで、言ってたもん……」

 不意に、視界が、歪み始める。

「……こんなの、嘘だ」

 光の明滅、収斂。歪む視界。
 雑多な音が響いている。

 それは意味を失っていた。
 音は、単なる空気の震えで、景色は、光のかけらだった。

 何もかもが意味を持たず、ただ曖昧に混じり合っている。
 世界は影絵の中だった。

 ノイズが走る。視界が黒く染まる。暗転。






 ――沈黙。

つづく

2-9,10 ―- → ――




 ――ひかり。

 沈黙の覆う暗闇の中を、目を覆うような、光が、差す。黒く染まった視界を破り、目を灼く、光。
 澄きとおる白い光。瞼から零れそうなほどに注ぎ込み、あふれる、光。 

 散らばった光の波は、たしかに何かの形をとっていたはずなのに、そこから意味を抽出することはできない。
 光のかけら。

「――――――――」

 音。
 空気の震え。単なる振動。音。
 けれど、それは単なる音ではないような気がした。

 ばらばらになって、曖昧に溶けた、意味のない景色。
 光景が、色彩を取り戻していく。
 光のかけらが、意味を取り戻し、景色を形作っていく。

 音が声になる。


 けれど声は、言葉ではなかった。

 ふと気付くと、俺はバス停のベンチに座っていた。
 目の前を横切る道路は太陽に照らされ、熱を宿している。

 太陽の光が、空から差している。見上げると、何もかもを吸い込むような青い空が頭上を満たしていた。

 誰かが、傍で泣いている。
 俺は隣に座る誰かの方を見た。

 そこには、見覚えのある少女が座っている。

「……泣いてるのか?」

 すぐ隣で、シロが泣いていた。

「……はる兄」

 と、彼女は俺をそう呼んだ。


「……はる兄、わかったよ、ぜんぶ」

 頭の中の記憶を洗いざらい探ってみても、俺のことをそう呼んでいた人のことを、俺は思い出せなかった。
 そんな人は、どこにもいなかった。

 それなのに、なぜだろう。いつか、こんなふうに彼女と過ごしたことがあるような気がする。 
 うだるような夏の熱気と、蝉の鳴き声の中で、誰かが俺の隣で泣いていたような気がする。

 世界から人が消えてしまったかのような、静寂と蜃気楼の中で、誰かが、俺の隣で泣いていた。

「わたしがやっていたこと、ぜんぶ、分かっちゃった。
 ずっと、わたしは、勘違いしてたんだ。はる兄、わたしは……」

 彼女は、泣きながら笑った。ばかばかしくてたまらない、というふうに。

「わたしが、ゆき兄を殺したんだ」




 彼女の声は蝉の鳴き声のなかに溶けてしまった。
 じりじりと、途切れたり、響いたり、辺りを埋め尽くす蝉の合唱。
 
 俺たちはその場にいつまでも取り残されていた。

「どうして、そう思ったんだ?」

 シロは、俯いて、またぽろぽろと涙をこぼしはじめる。
 彼女はとても悲しんでいる。

「ユキトは、車に轢かれていたな」

 俺の頭は、その光景を、しっかりと覚えている。 
 
「どうしてきみが殺したことになるんだ?」


 俺の声に、目元をわずかに拭いながら、彼女は顔をあげた。

「はる兄、わたしは、はる兄たちのこと、思い出したの。本当に、ついさっき。
 ずっと、あやふやだった。思い出せるところもあったけど、そのイメージはぼんやりしてたの。
 それを、今、思い出した。今までずっと、忘れてた」

「シロ……?」

「はる兄は、わたしのことを思い出せないだろうけど。わたしのことなんて、分からないだろうけど」

 縋るような瞳で、彼女は俺を見つめた。その瞳は、わずかに俺の記憶を刺激する。
 でも、なにひとつ思い出せなかった。

「……でも、今はそんなこと、関係ないか」

 彼女は自嘲気味に笑った。俺は急に悲しくなった。
 景色はなにひとつ動かない。今はもう、この街には誰もいない。

 飛行機は墜落してしまった。


「はる兄、わたし、いくつか、嘘をついてた。
 たくさん嘘をつきすぎて、どんな嘘をついたのか、自分でも分からないけど、ひとつだけ、思い出したことがある。
 はる兄……さくら姉の願いは、『ゆき兄を生き返らせること』じゃなかったんだよ」

 俺は黙り込んだまま、彼女の話に耳を傾ける。世界からは人の気配が消えてしまっていた。
 蝉の鳴き声と夏の陽射し、蜃気楼に歪むアスファルト、ぬるい風。
 俺たちは、引き伸ばされて停滞した世界に取り残されている。

「自分でも、どうして嘘をついていたのか、分からなかったけど、今、分かった。
 わたし、さくら姉の本当の願いを教えたら、はる兄がきっと傷つくって思ってたんだよ」

「……俺が、傷つく?」

「さくら姉はね、ゆき兄のことが好きだったんだよ。
 もちろん、はる兄のことも大事だったけど、でも、ゆき兄のことを、好きだったんだよ、きっと」

「……知ってるよ、それはもちろん」

「だからね、さくら姉は、はる兄のことを諦めたの。はる兄が自分たちを避けるようになったことを、仕方ないって。
 でも、せめて、ゆき兄とは一緒にいられますように、って、そう願ったんだよ。
 ゆき兄と、できるかぎり長く、当り前の日々を過ごせますようにって。当然のような日々が、続きますように、って」

「……そっか」


 けれど、ユキトは死んでしまう。願いは人の死を覆せないから、願いは巻き戻しという形で維持される。
 そういう意味では、サクラの願いはずっと叶っていたのか。

 ……でも、それって変じゃないか?

 願いの力は、既に起こってしまった人の死を覆すことはできない。
 でも、これから起こる誰かの死を避けることも、できないんだろうか?
 そんなこともできない願いが、いったいどんな願いを叶えられるっていうんだ?

「はる兄、さっきまでの"世界"の中で、わたしは、はる兄の意識に働きかけることができなくなった。
 はる兄にいくら思い出してもらおうとしても、ぜんぜん叶わなかった。そのことを覚えてる?」

「うん。……身動きが、とれなくなってた」

 けれど、今は、変な話だけど、体がちゃんと俺に従っている。
 そもそも、ここはどこなのだろう? 考えてから、どこでもいいような気がした。
 たぶんここは、繰り返しの一部でもなく、現実でもなく、世界ですらない、ただのイメージ。

 静止した一瞬に割り込んだ走馬灯のような場所。そういう実感があった。


「どうしてなのか、考えてみたの。どうしてわたしの思い通りにいかないんだろうって。
 それでね、やっと分かった。わたしよりももっと大きな力によって、世界があらかじめ変えられていたんだって。
 だから、決められた結果が揺るがないように、はる兄の意識や認識も、わたしの手では歪められなかったんだ」

「……もっと大きな力?」

「はる兄は、わたしに願いを言ったときのこと、覚えてる?」

 俺は、いまだに、繰り返す前の、現実の世界のことを思い出せずにいる。
 どうしてなのかは分からない。……なぜ、忘れているのか、それさえも分からない。

「はる兄は、わたしに『自分がこうじゃなかったら』の世界が見たいって言った。
 公園のベンチで、わたしたちは話をしてたんだよ。はる兄は、思い出せないみたいだけど。
 願いを言ってくれるまで、わたしたちは毎日みたいに公園で顔を合わせてた。
 猫を膝の上にのせながら。はる兄は、はる兄のことを思い出せていないわたしに、毎日みたいにお菓子をくれてた」

 餌付けするみたいに、とシロは言った。どうしても、現実の記憶を取り戻すことができない。

「そんなふうに毎日顔を合わせて話してるうちに、わたしたちは、ゆき兄とさくら姉がふたりで歩くのを見かけたんだ。
 はる兄は、自分に気付く素振りもみせず道を歩くふたりの姿を、遠くを見上げるみたいな目で見つめてた。
 そして、言ったの。『自分がこうじゃなかったら』の世界が見たいって」


 はる兄、と俺のことをそう呼ぶ、目の前の少女のことを、俺はまだ思い出せずにいる。
 記憶は厳重に封印されているのか、あるいは掠れて見えなくなってしまったのか。
 俺は彼女のことを知っているはずだ。そういう印象が、たしかにある。

 でも、思い出せない。頭をよぎる何かすらない。それが突然悲しくなった。

「わたしは、そのとき、はる兄がはる兄だって、分かってなかった。
 さくら姉のことも、ゆき兄のことも、忘れてた。
 わたしの記憶はとっくに曖昧になっていて、自分の名前すら思い出せなかったから」

 蝉の鳴き声が、一瞬だけ止んだ気がした。

「だからわたしはね、はる兄の願いを、言葉の通りには受け取らなかった。
 はる兄はきっと、さくら姉のことが好きで、だから、自分に都合のいい世界を望んだんだって、そう思った。
 自分の望むように、世界を変えてほしいんだって、そう思った。自分がさくら姉の隣にいられるように。
『自分がこうじゃなければ』っていうのは単なる手段で、『誰かが隣にいること』が願いなんだって思った」

 わたしは、そんなふうにスイッチを押した。
 蜃気楼で歪んだ夏の道路の上に、シロの言葉はそっけなく放り投げられた。


「その願いはうまくいかなかったんだって思った。すぐには何も起こらなかったから。
 でも、起こってたんだよ。どうして気付かなかったんだろう?
 さくら姉の願いを叶えた以上、他の要因がないかぎり、ゆき兄が死ぬはずなんてなかったのに」

 彼女は、頬を伝う涙をまた拭った。

「ゆき兄は、はる兄の願いの影響で死んでいたんだよ。
 はる兄の願いを、"神様の力"は、ゆき兄を殺すことで叶えようとしたんだ。
 はる兄の願いを叶えた上で、さくら姉の願いを叶え続けるために、世界は巻き戻されていたんだ」

 ああ、そうか、と、俺は納得してしまった。

「だから、ゆき兄の死を覆そうとしても、ずっとうまくいかなかったんだと思う。
 おかしいと思ってたんだよ。どれだけ世界に変化を加えても、ゆき兄の死だけは揺るがなかったから。
 まるでそこにすべてが収束してるみたいに」

 じゃあ、俺が自分の体を動かせなくなっていたのは、解釈が変わったからじゃなくて。
 シロの誘導でユキトの死が覆るのを、"神様の力"が妨げただけだったわけだ。


 蝉しぐれは、気付けば止んでいた。全身から、力が抜けていく。
 ぐらぐらと、地面が揺れているような気がした。

「……俺が、殺したのか」

「わたしが、受け取り方を間違ったんだよ。だってはる兄が、今のわたしなら分かるけど、はる兄が……。
 はる兄が、ゆき兄なんていなければよかったなんて、そんなこと、願うわけないんだから」

 彼女の言葉は、もう耳には入ってこなかった。

「俺が殺したんだ。また、俺のせいで人が死んだんだ。母さんのときみたいに」

「わたしが、スイッチを押したんだよ。ナイフで刺したときみたいに」

「スイッチを押させたのは、俺だ」

「……はる兄」

「……ばかみたいだ」


「はる兄がゆき兄を殺したわけじゃない。……そうでしょう?
 それは結果的に起こってしまっただけのことで、はる兄の意思じゃなかった」

「意思なんて問題じゃない。俺が殺したんだ。ユキトは俺のせいで死に続けていたんだ。
 そこに悪意があったかどうかなんてどうだっていいことだよ。事実として、ユキトは死んでしまったんだ。
 俺はユキトの死を前提にした世界の中で、バカみたいに誰かに好かれている妄想をして遊んでたんだ。
 都合の良い願いなんてもので自分の境遇を歪めようとしたせいで、ユキトが死んだんだ」

 俺という人間の快楽のために、理不尽な炎に焼かれて死んだユキト。

「俺はただ、あいつみたいになりたかったんだ。あいつに憧れてたんだよ。
 あいつみたいに、いろんなことを素直に感じてみたかった。灰色めいたフィルター越しの視界じゃなくて。
 綺麗なものは綺麗だって、楽しいことは楽しいって、心の底から笑いたかった。ばかみたいに不機嫌な顔なんてしないで」
 
 いつかユキトが言っていたみたいに。
「こんな日が続けばいいのに」と、過ぎ去るのが惜しくなるくらいに、日々を鮮やかに感じてみたかった。


「……どうして俺は、まだ生きてるんだ?」

「……はる兄」

「どうして、俺が、生きているんだ?」

「はる兄」

「さっさと死んでればよかったんだ」

「……はる兄!」

「俺なんていなければよかったんだ。生きてたって誰かを傷つけるだけなんだよ。誰かの邪魔をするだけなんだ。
 結局俺はユキトみたいに生きられないんだ。あいつと俺とじゃ根っこから違ってるんだ。
 俺が誰かを幸せにするなんて無理だ。誰にも何もしてやれない。誰も俺のことなんて好きにならない。
 結局どうしようもなかったんだよ。なにひとつ上手くは回らないんだ。
 他力本願に事実を歪めようとして、好きだった友達まで死なせて……誰かを苦しめてばかりだ」

 もう涙も、呆れた溜め息も、出てこない。
 誰かを傷つけるのは嫌だ。苦しめるのは嫌だ。

 生きているのが、怖くてたまらない。


「……ねえ、はる兄、信じてくれる?」

 掠れた声で、シロは言う。

「わたし、はる兄を、不幸にしたいわけじゃ、なかったんだよ」

「……わかってるよ」

「わたしは、願いを叶えられるのが、うれしかったんだよ。
 わたしの力で、誰かを幸せにできるかもしれないって思って。……でも、考えなしだったね」

「きみのせいじゃないよ」と俺は言った。

「違う」と彼女は即座に否定する。

「わたしのせいなの」

 俺はそれ以上何も言えなかった。


「わたしは、結局、自分に与えられた力の大きさを理解していなかったんだね。
 それがどんなふうに物事に影響しうるのか、考えてなかったんだ。
 でも、そんなものをわたしは、これまでずっと、ずっとずっと、気付かずに行使し続けていたんだよ。 
 そう思うと、わたしは、怖くてたまらない。……もう、力を使うのが、怖くてたまらない」

 シロはもう、泣いてもいなかった。
 俺たちはそれぞれの沈黙の中にいた。隣り合って座ってはいたけれど、たぶん、考えていたのは自分のことだけだ。

「……もう、生きるのはやめようか?」

 不意に、シロはそんな言葉を呟いた。

「……え?」

 俺は、思わず訊きかえす。彼女の言葉の意味が、うまく掴めなかった。

「この繰り返しの日々に、ずっと留まるの。この日々で起こっていることは、すべて、既に起こったことだよ。
 誰かの死も、誰かの傷も、ぜんぶ、既に、起こってしまったことなの。それは覆らない。
 だけど、この繰り返しの中にずっと留まっていれば、少なくとも、新しい死は、もう、存在しない。
 新しく、誰かが傷つくこともない。この繰り返しの中にいれば、わたしも、はる兄も、もう誰も傷つけずに済む」


 わたしはもう、何もかもが怖くてたまらない、と、シロはそう言った。

「……ほんとうに、誰かを苦しめるつもりなんか、なかったんだよ。
 でも、わたしが何かをすることで、誰かが苦しむなら、わたしはもう、何もかもやめにしてしまいたい」

 その言葉は、今の俺には、よく理解できた。 
 その気持ちも、痛いくらい分かった。俺だってもう、身動きをとるのが、怖くてたまらない。
 消えてしまいたい。

 でも、だからこそ、

「ダメだ」

 と、そう答えた。
 シロは、苦しげな顔で俺を見上げた。

「ダメだ。このままじゃ、ダメなんだよ。
 俺たちは、俺たち自身の感情の始末というものを、何か大きな力に任せちゃダメなんだ。
 そもそもそこからして、間違っていたんだよ。これ以上誰かを苦しめたくないとか、そんなのは、俺のエゴだ。
 俺のエゴなら、俺ひとりで処理しなきゃいけない。首でも吊って、実現するしかない。
 そんなばかばかしい願いひとつの為に、世界そのものを忽せにするわけにはいかないんだ」


「でも、それは、既に起こってしまったことなんだよ。
 既に起こってしまったことをなかったことにすることで、また誰かを傷つけるかもしれない。
 誰かを殺してしまうかもしれない。それは、世界を忽せにすることではないの?」

 シロの答えに、俺は首を振った。理屈ではなく感情で、俺は応じていた。
 自己嫌悪と自暴自棄のうねりに、頭の中がぐらぐらと歪む。 
 それでも俺は、誰かを苦しめたいわけじゃな。

「世界をこのままにしていたら、ユキトは俺のせいで死に続けるし、司書さんは記憶に苦しみ続ける。
 それは俺のせいなんだ。俺のせいでユキトは死んで、世界は巻き戻って、司書さんは苦しんでるんだ。
 そんなのは、明らかに間違ったことなんだ。起きちゃいけないことなんだ」

「誰かのエゴや勘違いや無思慮で誰かが苦しむのが間違ってるっていうなら、
 そんなのは、いつでも、どこでも、そこらじゅうで起きてることでしょう?
 わたしがされたみたいに。わたしがしたみたいに。だったら、"間違い"を起こさないためには、世界を止めてしまうしかないと思う」

「だからって、俺たちの一存で、時間の針を止めてしまうわけにはいかない。
 ……それに――いや、もう、そんな話はどうでもいいんだ」

 俺の言葉に、シロは息を呑んだ。

「俺のせいで二人が苦しみ続けるなんて、そんなの、俺が嫌なんだ」


 シロは、押し黙ってしまった。
 陽炎にくすんだ街並みが、他人事のように俺たちの声を吸い込み続けている。

「……ごめんな」

 俺の声に、シロは無表情で応じた。

「どうして、謝るの?」

「ユキトの死に、きみが後ろめたさを感じているなら、それは俺のせいだ」

「わたしに言わせれば、それは、反対だよ」

 シロは、深い溜め息をついた。

「わたしはいつも、はる兄にそんな思いばかりさせてきたような気がする」

 それから俺たちの間に、柔らかな沈黙が下りた。
 何かを言いたかったけれど、何を言えばいいのか、分からなかった。


「ねえ、結局わたしは、何がしたかったのかな?」

 シロは、ばかばかしそうな声音で、そう自問した。

「わたしたちをあんな目に遭わせた世界が許せなかった。
 だから、わたしは世界を変えようって思った。
 でも、気が付いたら、わたしが他の人を、似たような目に遭わせてたんだよ。
 ……どうして、こんなことになっちゃったんだろう」

「……」

「……ぜんぶ、なかったことにできたらいいのに」

 俺はなにも言えなかった。何も言う資格がないような気がした。


「……もうそろそろ、時間だよ、はる兄」

「時間?」

 訊きかえした声には答えをよこさず、シロはうわごとのように言葉を続けた。

「はる兄、わたしね、たぶん……」

 再び、視界を、白い光が覆う。

「たぶん、だけど、たぶんなんだけど、わたし――はる兄のこと、好きだったんだよ」

 景色が白く染まる。耳鳴りのような音、眩暈のようなぐらつき。
 俺は、彼女の名前すら、思い出せなかった。

「さよなら」と彼女は言った。

つづく


◇06-01[Gazelle City]
 
 
 瞼をひらいた。

 たぶんノックの音が聞こえたせいだ。枕元に置きっぱなしの携帯電話を開く。
 時刻は六時四十分。なにも変わらない。なにひとつ。

 俺は自分の体が自分の意思で問題なく動くことを確認した。
 けれど、本当のところどうなのかは分からない。俺の体は、俺の意思と偶然行動を重ねているだけだったのかもしれない。
 
 もちろんそんなのはどうでもいいことだった。

 俺は立ちあがってカーテンを開けた。太陽の光が差し込むと同時に、部屋の扉が開けられる。

「起きてたの?」と妹は言った。起きたんだよ、と俺は答えた。

 返事をしてから、妹は何か奇妙なものを見るような目でこちらを何秒か見つめた。
 そのあと呆れたみたいに溜め息をついたあと、「二度寝しないでね」と儀礼的に言った。俺は頷いた。


 俺は窓の外の景色を眺めた。ごく当たり前の光景。今まで何度も見てきたような風景。
 何も変わらない。何も変わってなんかいない。それから俺はもう一度瞼を閉じてみた。

 視界を覆う柔らかな肌色と、暖かな陽射し。
 その中で、夜の底に横たわるユキトの身体が蘇る。

 それからふと思い出して、俺はもう一度携帯を開いた。
 日付はまた元に戻っていた。今までと同じように。夏休みの二週間前。

 シロはどこにいったんだろう、と俺は思った。彼女はどこにいってしまったんだろう?

 彼女と夢の中で話したような気がする。あれは本当にただの夢だったのか?
 
 ……いや、夢ではないはずだ、と俺は思う。俺はちゃんと覚えている。
 細かな内容はともかく、彼女が言った言葉を覚えている。

 俺の願いがどのように叶ったのかも、ちゃんと、覚えてる。


 俺は家中の扉という扉を開け、部屋という部屋を調べた。
 けれどどこにもシロの姿はない。

 それとなく妹の前でシロという名前を出してみても、怪訝そうな顔をするだけだった。

「誰、それ?」

 公園でひとりぼっちで座っていた女の子でも、親戚の女の子でもない。
 妹はシロのことを忘れていた。

 もちろんそれは今までの経験上当然のことだったけれど、俺はその事実に打ちのめされた。
 かといって、シロのことばかりを気にしているわけにはいかなかった。




 俺は当然のように支度をして、制服を着て、学校に向かった。
 
 妹はいつものように俺の隣を歩いたけれど、ユキトとサクラの姿は通学路のどこにもない。
 当然だ、と俺は思った。これが本当なのだ。

 シロはきっと、もうこの世界では、誰かの認識を歪めたり、記憶を改竄したりしないだろう。
 それは「きっと」だったけど、俺はそれを信じるしかなかった。

「お兄ちゃん」

 と、不意に妹が俺のことを呼んだ。

「なに?」

「話、聞いてた?」

「……話?」

「さっきから、ずっと話しかけてたんだけど」

「……ごめん」


 もう、と妹は不服げに目を逸らした。

「最近、ずっとぼーっとしてる」

「そう?」

「うん」

「……それで、何の話?」

「だから、夏休みに入ったら……」

 何かを言いかけて、彼女は結局言葉を途中でやめてしまった。
 変なものを見るような目で俺の方を見たまま。

「……なんでもない」

 少し不機嫌そうに呟くと、妹は歩調を速めた。


「なに? お祭りのこと?」

「……お祭り? 違う。お祭りの後」

「……なにかあったっけ?」

 もういいよ、と妹は言った。それ以上俺はなにも訊かなかった。
 
「ごめん」

 と俺は謝った。彼女は溜め息をついてから、呆れたような目でこちらを見た。
 どことなく軽蔑しているような視線。それは俺の感じ方の問題だろうか。

「……お兄ちゃんさ、最近、変だよ」

「……変? 俺が?」

「うん。最近ずっと」

「最近って、いつから?」


「……わかんないけど。結構前から」

「そんなわけないよ」

 そんなわけない。
 俺の様子がおかしいとしたら、それは繰り返しの記憶の影響だから。
 シロの影響がないかぎり、俺の様子が変なわけがない。

「そんなわけないってなに?」

 妹は、なぜだかむっとしたような顔をして、俺の顔を覗き込んだ。

「そんなわけないって、どういう意味?」

 俺には彼女がどうしてそんなに怒っているのか、その理由がどうしても分からなかった。

「お兄ちゃん、ほんとに変だよ。最近ずっと」

「……そっか」

「他人事みたいだね?」と妹は刺々しい調子で呟いた。


 実際、俺には他人事のようにしか感じられなかった。
 繰り返しや巻き戻し、シロの力、神様の力。よくわからないものによって、世界は作り変えられている。
 
 どこまでが「本当」でどこからが「嘘」かなんて、もう区別のつけようがない。
 シロは力を使わない。でもそれは「きっと」であって、「絶対」じゃない。
 俺は彼女についてほとんど何も知らないのと同じなんだから。

 でももうどうだっていいことだ。

 俺が黙ったまま返事をしなかったせいか、妹は心配そうな顔をする。
 ころころと表情を変える。

 それから今度は、思いつめたような表情で俯いて、最後には覚悟を決めたようにもう一度こちらを見上げた。

「……わたしね、お兄ちゃんにずっと隠してたことあるの」

 深刻そうな声音。俺はちょっと不安になった。

「なに?」

「あのね、お兄ちゃん、昔、プラモデルつくってたでしょ?」

「プラモデル?」

「うん。車とか、飛行機とかの。いっぱい作ってた」


 そうだっけ、と言われてから考えてみて、たしかにそんなこともあったような気がしてきた。
 まだ母さんが生きていた頃のことだ。妹が小学生に上がったくらいのことだろうか。

 自分でさえ忘れていたのに、よく覚えているものだ。
 一時期はたしかに熱中していた気がする。すぐに、飽きてやめてしまったけど。

「でさ、その飛行機のプラモデルが、棚から落ちて壊れてたこと、あったでしょ?」

「……あったっけ?」

「あったんだよ。お兄ちゃん、すごく頑張って作ってた。わたしだってその様子を見てたもん。
 何日もかけて……たぶん、一番時間かけて作ってたんじゃないかな。でも、それが壊れた」

 そういわれてみれば、そんなこともあったような気がする。

「……あのとき、知らないふりしたけど、あれ、わたしが落としちゃったの」

 妹は俺と目を合わせようとしなかった。そのまま緊張したようすで、言葉を続ける。

「……ごめんなさい」

「いつの話をしてるんだ、おまえは」

 俺は思わず笑ってしまった。


「そんなこと、ずっと覚えてたのか?」

「だって、お兄ちゃんあのあとずっと落ち込んでたし、プラモデルつくるの、やめちゃったし」

「単に飽きただけだと思うけど」

 俺の言葉が聞こえていないわけでもないだろうけど、妹は俯いて黙り込んでしまった。

「そんなことないよ。お兄ちゃん、それまでずっと眠そうで、勉強したり本を読んだりする以外、何もしなかったけど。
 ……あのときは楽しそうだったもん。あの飛行機が壊れちゃうまで、ずっと」

「……まあ、そうだったかもしれないけど、今更だよ、そんな話」

 妹は俺の言葉に傷ついたように見えた。そんなつもりはなかった。でもそういう問題じゃない。
 溜め息はさすがに堪えたけれど、ばかばかしくて笑えてきそうだった。

「どうして今、そんな話をしたの?」

 責めるつもりはなかったけど、彼女はそういうふうに受け取ったかもしれない。
 でも、本当に気になった。どうして今更そんな話をしたんだろう。もう俺自身でさえ忘れていたのに。


「……わからない。でも、ねえ、お兄ちゃんは、わたしを置いてどこかに行ったりしないよね?」

「どうして?」と俺は訊ねた。妹は俺の目をじっと見る。
 それから首を横に振った。ばかばかしい、と言うように。

「……そんな気がしただけ。もしそうだったら、わたしのせいなのかなって」

 俺はとっさに言葉を返せなかった。太陽は他人事のように街を照らしている。
 人々はいつも通りの生活を送っている。まるでなにひとつ問題がないかのように。

「どうして俺が、おまえのせいでどこかに行ったりするんだ?」

「……だって、分からないから」

「なにが?」

「わたしはね、いつもちゃんとしようとしてる。できるかぎり。精一杯。
 でも、それが"ちゃんとできてる"とは限らないでしょ。ああすればよかったとか、どうしてあんなことしたんだろうとか……。
 いつも、考えちゃうの。そういうことを考えてるとね、段々不安になってくる」

「……不安?」

「わたしは、わたしが思ってる以上に、いろんな人を不愉快にさせたり、傷つけたりしてるんじゃないかって」


 何をどう言うべきなのか、迷ってしまった。言うべきことははっきりしているのに。

「どこにもいかないよ」と俺は答えた。本当のつもりなのか嘘のつもりなのか、自分でも分からない。

「でも、いつまでも一緒ってわけにはいかない」

「……どうして?」

「そういうものだろ。でも、なあ、もし、俺がいなくなったとしても……」

「……いなくなるの?」

「そうじゃなくて、『もし』だよ」

「いなくならないなら、どうして『もし』なんて言うの?」

 妹は泣きそうな顔をしていた。
 登下校を共にする兄妹というのもそう多くはなさそうだが、登校中にこんな話をする兄妹は更に珍しいに違いない。


「とにかく、もし俺がいなくなっても、これだけは本当に信じてくれ。
 もし俺がいなくなったとしても、それはおまえのせいじゃないんだ」

「……それを、わたしが信じるの?」

「信じるというより、事実だよ」

「……ばかなの?」

 妹はもうこちらを見てはくれなかった。

「もし、それを本気で言ってるんだとしても、わたしにはそんなの無理だよ」

 声は震えていた。こんな声を、なんだか近頃はたくさん聞いたような気がする。
 たぶん俺のせいで。

「……きっと、わたしはどうしたって、自分のせいだって思っちゃうよ」

つづく




 結局、都合のいい解決案なんて思い浮かばなかった。
「どうするべきか」も「どうできるのか」も、既に分かり切っていたことだ。

 とにかく俺はそれを行動に移すしかない。
 それが不可能だったら、もっと別の手段を考えるしかない。

 授業が終わるころまでまどろみもせずに考え事を続けていたせいで、肩と首が痛んだ。
 
 俺がとるべき行動なんて決まっている。 

 なぜ俺は、学校なんかに来てしまったんだろう。
 本当は来る必要なんてなかったのに。

 けれど、なんとなく分かるような気がした。
 俺はここに、何かを求めてやってきたのだ。
 それが何なのかは分からない。でも、何かがあるかもしれない、と思って俺はここに来たのだ。




 放課後、教室を出ようとしたところで、ユキトがこちらを見ていることに気付いた。
 
 ユキトは何も言わずに俺を見ていた。何か言いたげに。でも何も言ってこなかった。
 俺は彼に何を言えばいいのか分からなかった。

 何かを言うべきだという気もしたし、何も言うべきではないという気もする。

 結局彼が先に目を逸らした。だから俺はあまり気にしないことにして、教室を当たり前のように出た。
 
 ユキトを死なせるわけにはいかない。
 
 そのためにするべきことは明らかだったのに、なぜだか教室を出てすぐ、気だるさが俺を襲ってきた。 
 あるいは、虚しさ? 手足をやけに重く感じる。

 それでも足を動かさないわけにはいかない。

 考えるのは、終わった後だ。




 部室に来ていたのは、まだ部長だけだった。
 彼女は俺の方を見て、ちょっと意外そうな顔をした。
 まるで俺が来ることを予期していなかったような表情で。

「こんにちは」と彼女は笑う。

「こんにちは」と俺は返事をする。いつもみたいに。

「今日は早いですね?」と彼女は言った。

「そうですか?」

「いつもなら、もう少し経ってからくるような気がします」

「そうかもしれませんね」

 俺はどうして部室に来てしまったんだろう。
 その答えを、本当は自分でも分かっていた。俺は彼女と話がしたくてここに来たのだ。


 沈黙が部室の中を侵略する。這いうねる影のようにゆるやかに部屋の中を支配する。
 開け放たれた窓から音もなく水が注ぎこまれているような気がする。
 それは静かに部屋の中を飲み尽くし、俺たちから呼吸を奪っていくのだ。

 不意に部長は、くすりと笑った。

「しーもあぐらーす」

「……え?」

「ひどい顔をしていますよ」

「……はあ」

「女の子と砂浜で楽しく遊んでいる最中に、急に何かに気付いて遊ぶのをやめて、ピストル自殺しようとしてるみたいな」

 引用が適切だとは思えなかったが、状況だけをみれば間違いだとも言い切れないのかもしれない。

 彼女は、不意に何かを思い出したみたいに、自分がいつも座っている椅子に歩み寄った。
 近くに置いてあった鞄からごそごそと何かを取り出す。そしてもう一度俺の方へと近付いてくる。


「しーもあぐらーす」と言って彼女は笑った。差し出されたのは折り畳み式の鏡だった。
 彼女もこんなものを持っていたのだなあと俺は思った。それはそうなのかもしれないけど。

 俺は鏡に映った自分の顔を見た。たしかにひどい顔をしている。
 どこが変なんだろう? にきびもない。そばかすもない。クマだってない。青白かったりするわけでもない。

 でも変だ。どこか変だ。……『エスター』のキャッチコピーみたいだ。
 そう思うと自分の顔が『エスター』のジャケットの写真みたいに見えてきた。

 大人になりそこねた、けれど子供にも戻れなかった、怪物。

 バナナフィッシュはバナナの詰まった穴の中へと泳いでいく。穴の中に入ると、豚のようにバナナを食い漁り始める。
 行儀悪くバナナを食べすぎるあまり、彼らは冗談みたいに肥ってしまい、二度と穴から出ることができなくなる。
 そして、やがては奇妙な病にかかり、死んでしまう。

 ――言いにくいことだけどね、シビル、彼らは死んじまうんだ。


 俺は鏡から視線を外し、部長の顔を見た。
 彼女はつまらなそうに一度鏡を見下ろしてから、それをしまう。

「いったい何があったんですか?」

 いつもみたいなとぼけた調子とは違う、真剣そうな問いかけ。
 彼女がここで踏み込んでくることを、俺は少し意外に思った。
 それを求めていたのかもしれないにしても。

「何もありません」と俺は答えた。

「あったとしても、それは終わったことなんです。もう結論は出てる。やるべきことも決まってる。
 だから、あとは行動を起こすだけなんです。それだけなのに、妙なことばかり考えてしまう。
 考えているうちに、なんだか、良い所なんてひとつもない、ろくでもない人間のように思えてくるんです。
 きっと、それは事実なんです」

 彼女は奇妙なものを見るような目でこちらを見た。
 それからしばらく、考え込んでいるように見えた。何かを言おうとしているのだと俺は感じる。

 沈黙が静かに体を浸していく。水位は徐々に上がっていく。


「つらいの?」と彼女は言った。

「たぶん」と俺は答えた。

「どうして?」

「……自分というものが心底嫌になったんですよ」

「いつものことでしょう?」と彼女は笑った。俺も笑いそうになったけれど、心のどこかがそれを抑制した。

「自分の馬鹿げた願望のために、大勢の人を苦しめてしまったみたいなんです。
 俺はそれを、どうにかして、なかったことにしようと思っています。そうすれば苦しむ人はいなくなる。
 でも、それは、自分の都合じゃないかという気がするんです。自分が楽になりたいから、なかったことにしてるだけじゃないかって」

 彼女は感情の読み取れない表情でこちらを見上げた。
 真剣な顔をしていると、彼女は本当に子供みたいに見える。
 子供ではないのに。

「忘れるの?」

「……何をですか?」


「つまり、自分が罪を犯したってことを、忘れるの?」

「……忘れは、しないと思う」

「じゃあ、いいんじゃないでしょうか?」と彼女はあっさりと言った。

「覚えていれば、それで」

「覚えているだけで?」

 彼女は首を横に振った。

「間違いを犯した人にできることなんて、それ以外にはほとんど何もありません。"しなくていい"んじゃない、"できない"んです。
 罪をなかったことにはできない。罰を受けても罪はなかったことにはならない。償いや贖いなんて虚妄です。
 傷つけたことを謝れば傷がなくなるわけではないし、罪の意識を抱えていれば誰かを癒せるわけでもない」

 そんなのは全部、罪を犯した側が罪悪感から逃れたいがための、欺瞞です。彼女は真剣な表情で言った。
 
 どう返事をしたらいいのか、分からなかった。


「三十センチ四方、深さ五十六センチの木箱に――」

 と、彼女は不意に口を開いた。

「――砂を入れて、一本のライ麦の苗を植えて、水を与えて、数ヵ月間育てるんだそうです」

「……何の話ですか?」

「何かのエッセイで読んだんですよ。数字まで暗記しちゃいました。
 で、そうすると、木箱の中で、痩せていて色つやもよくない、貧弱なライ麦が育つわけじゃないですか」

「……はあ」

「そのあと、木箱を壊して、ライ麦の根の長さを確かめるんです。砂を落として、根の先の根毛まで。
 つまり、数ヵ月の間、その貧弱なライ麦の苗を生かし、支えるために、どれだけ根が伸びたのか、長さを計るわけです。
 三十センチ四方、深さ五十六センチの木箱の中に、一本の苗を生かし続けるために、どれだけの根が伸びたのか」

「……どれくらいだったんです?」

「一万一千二百キロメートル」

 と彼女は言った。


「……キロ?」

「はい」

「誤植じゃないんですか?」

「ないらしいんですよ、それが」

「だって、三十センチ四方の、深さ五十六センチの木箱なんですよね?」

「らしいです」

「……キロ?」

「びっくりですよね」と彼女は胸の前に両手で拳を作って子供みたいな顔をした。


「……で、その話がなんなんですか?」

「あ、つまり、えっと……」

 なんでしたっけ、と今度は首を傾げはじめた。俺はどうすればいいのか分からなくなった。

「そう、で、筆者はそのライ麦の話に触れて、言うわけです。
 そのライ麦の苗に向かって、実が少ないとか、色つやが悪いとか、そんなことを言えるだろうかって。
 だってそのライ麦は生きようとして、必死に根を伸ばし続けていたんですよ。一万一千二百キロメートル」

 一万一千二百キロメートルですよ、と彼女は繰り返した。「とんでもないことですよ」というふうに。

「たとえ見た目には色つやが悪くて、背丈が低くて、いかにも貧弱でも、それでも必死に根を伸ばしていたわけです。
 不毛の砂の中から、必死に水や養分を吸い上げていたんです。それってすごいことじゃないですか?」

「……で、その話が、どうしたんです?」

「つまり、生きてるってすごいなあって話です」

「……」

 部長の口から出るとなんとなく胡散くさく感じてしまうのは、俺の偏見なんだろうか。


「……えっと、つまり、人間だって同じじゃないですか。意思だけで大きく育てるわけじゃない。
 太陽の光や水、養分があって初めて大きく育つわけです。
 それらを上手に得ることができなくて、大きく育てなかったとしても、それはまったく本人の責任ではない」

「それ、他の人に言ったら怒られますよ」

「どうして?」

「周りのせいにするなって」

「言わせておけばいいんですよ」と部長は言った。

「人が百人いて、椅子が七十個あるとします。椅子取りゲームをしたとして、座れるのは何人ですか?」

「七十人ですね」

「座れないのは?」

「三十人です」

「座れなかったのは、座れなかった人たちの努力が足りなかったからですか?
 考えが足りなかったからですか? それとも、意思が弱かったせいですか? 
 ……違いますよね。椅子が七十個しかないせいです。座れた人も、もう一度やれば座れないかもしれない」

 俺はそのたとえについて少し考えたけれど、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。


「わたしたちの意思で選択できる領域なんてごく狭いものです。
 座れた人は、たまたま座れただけかもしれない。座れなかった人も、たまたま座れなかっただけかもしれない。
 それを本人の意思や努力の話にすり替えるのは、何もかもを自分の功績にしたいだけの、傲慢です」

「……部長、何の話をしていたんでしたっけ?」

「何の話でしたっけ?」

 俺は疲れてきた。

 部長は喋り過ぎたことを後悔するみたいにあちこちを見回し始めた。
 窓から風が吹き込む。空気が微かに入れ替わる。

「……ヒメくんは、眠るのが好きですか?」

 不意の問いかけに、俺は戸惑いながら答えた。

「好きだったと思います」

「……過去形ですか?」

「今は、あまり……」


 そうですか、と彼女は相槌を打った。

「わたしはあまり好きじゃありません。夢を見ることも、眠ることも。だんだんつらくなってくるから」
 
 彼女の言葉を、今は、理解できるような気がする。
 こんなことになる前なら、きっと理解できなかった。

「でも、ヒメくんが眠っているのは好きですよ」

 彼女は、困ったような調子で言う。まるで自分でも、その事実をどう処理すればいいのかわからない、というふうに。

「部活が終わった後、わたしはいつも掃除をしたり片付けをしたり、戸締りをしてから帰ってます」

「知っていますよ」

「知ってる人はあんまりいません。たぶんみんな、"誰か"がやってると思ってる」

 彼女は自嘲するみたいに笑った。


「きみは、部活中は寝てばかりだから、だいたいいつも寝過ごして、そんな時間になるまで起きてくれない。
 それでわたしがいつも、戸締りの前にヒメくんを起こしていましたよね」

「……はあ、まあ」

 そんなに寝てばかりじゃなかった、と思いたい、のだが。

「そのあと、きみは片付けとか、掃除とか、いつも手伝ってくれました」

「……そりゃ、まさか部長を残してひとりで帰るわけにもいきませんし」

「しーもあぐらーす」と彼女は笑った。俺はうまく答えられなかった。

「わたしが部長になってから、部室の後片付けを手伝ってくれた人は、きみ以外にはいませんでしたよ。
 わたしが頼まなかったから、当り前なんですけど。べつにひとりでだってできたけど、やっぱり嬉しかった」

 今日の彼女は、本当に饒舌だ。
 何かのタガが外れたみたいに。


「それでね、わたし、気付いたんです。きみが暗い顔をしてると、気になるんです。
 そわそわして落ち着かなくなる。話題を探してでも、話しかけたくなる。
 逆に、きみが眠ってると、すごく落ち着くんです。寝顔が穏やかだと、こっちまで穏やかな気持ちになる」

「……はあ、そう、ですか?」

「それでね、気付いたんですよ。わたし、きっと、苦しんでる人を見るのが苦手なんです。
 楽しかったり、うれしかったり、笑ってたり、安らかだったり、そういう人を見てるのが、好きなんです」

 俺はまた言葉に詰まった。

「これ、大発見ですよ。わたし、そんなこと全然気づかなかった。自分が何を求めてたのか、全然知らなかった。
 わたしはきみに笑っててほしいって思ってたんです。これってすごくないですか?」

 彼女の表情にも、口調にも、焦りのような緊張が伴い始めているように見えた。
 これはいったいなんなんだろう、と俺は思った。
 こんな景色を俺は見たことがない。

「……だから、笑ってください。今は無理でもいいから。そんな顔ばかり、していないでください」

 彼女は目を伏せた。俺は身じろぎもできなかった。
 窓から吹き込む風がカーテンを揺らす。空はまだ明るかった。




 それから、何かの言葉は交わしたのだろうけれど、どんな話をしたのかは思い出せなかった。

 部室を出てから、俺は彼女に訊き損ねたことがあったことを思い出した。
 あの森への行き方。彼女はそれを知っているはずだ。
 俺はバスの中で寝過ごしていたから、いまいち自信を持つことができない。

 まあいいか、と俺は思った。もう一度部長のところに言って話せば、自分が揺らいでしまいそうな気がする。
 俺は、部長の言葉についてはあまり考えないようにして、ひとり廊下を歩いた。
 道は、どうとでもなる。問題は、そんなところにはない。

"自分の欲しいものが何か分かっていない奴は、その欲しいものを手に入れることができない。"

 どこかで読んだ、そんな言葉を思い出した。
 俺が欲しがっているものって、なんだったんだろう?

 もう、よくわからなかった。

つづく




 部室を出た後、俺の足は屋上へと向かっていた。
 
 どうして屋上なのかは分からない。

 でもとにかく、俺は鉄扉を開いた。 

 暑い、と、出てすぐに感じた。。

 屋根がないから陽射しだってきついし、空だって眩しい。
 秋なら風が冷たいだろう。さらに冬には雪が降る。春なら、風が埃っぽいだろうか?

 フェンスにはいつのものともしれないゴミが落ちていた。パンか何かの袋。
 俺はそれを拾い上げて、後で捨てようと思い、ポケットにしまった。汚れるのは嫌だったけど、他にどうしようもない。

 利便性もなければ、劇的な要素もない。何もない場所。
 映る景色は何もかも遠い。手が届かない。

 遥か上空を、飛行機が飛んでいく。
 箱の中に似ている。


 空は青い。雲は白い。昼下がりの太陽は少し物静かだ。

 うだるような熱気と、フェンス越しの街並み。

 蝉の鳴き声が聞こえる。グラウンドから運動部の掛け声。
 吹奏楽部の練習の音。陸上部のホイッスル。ボールを叩くバットの鳴き声。
 低くて近い青空。切れ目を入れたみたいな細い飛行機雲。からりとした夏の日差し。

 風が吹きぬける。

 冗談みたいに、空は明るい。当たり前みたいに。

 俺は屋上の真中へと歩いた。それから辺りをすべて見回してみる。

 ここには誰もいない。
 その事実を受け入れるためには、少し時間が必要だった。


 本当は、俺はちょっとした期待を抱いてもいた。
 ひょっとしたら誰かが、今にでも扉を開いて、やってくるんじゃないかと。

 バカな期待はやめろよ、と俺は呟く。
 おまえが追い払ったんだ。おまえはおまえ自身の手でここから人を追い出してきたんだ。 
 もうみんな扉の向こうだ。いまさら誰もこんな場所に来たりはしない。

 誰がこんな場所に来るっていうんだ?
 ここには何もない。誰もいない。誰にも何も与えない、誰からも何も受け取らない。
 そんな場所にわざわざやってくる人間なんていない。

 たとえ、いたとしても、それを追い返したのはおまえ自身だ。

 深く深く溜め息をついた。それから空を仰いで瞼を閉じる。
 太陽が、閉じた瞼の内側の視界を、肌色に染め上げた。

 その光はあたたかだった。俺が知らなかっただけで。見逃していただけで。


 何かが起こりそうな昼下がりだ。 

 後ろから鉄扉が軋む音が聞こえてきそうだった。
 実際、何度か軋んだような気もしたけれど、結局それは錯覚だった。

 彼女は二度とここを訪れないんだ、と俺は思った。
 もう二度と彼女はここを訪れない。

 彼女と手を繋いだり笑い合ったりなんて景色は、全部都合のいい妄想でしかなかった。
 何か少し違えば、有り得たかもしれない。でもその「少しの違い」はこの世界のどこにもない。

 そう思った瞬間、シロの力を通じて見せられたさまざまな幻を、俺は思い出してしまった。

 笑顔、手のあたたかさ、何気ない会話、不器用そうに言葉を探す仕草。
 拗ねたような表情や、道端の向日葵に向けるいとおしむような視線。
 まるで小さな子供の相手をするみたいなやさしさ。

 彼女が傍にいてくれたらどんなにいいだろうと俺は思った。
 あるいは、"誰か"が傍にいてくれたら。
"誰か"が傍にいてくれたなら、俺だってこんな迷いは振り切れていたはずなのだ。


 けれどそこで"誰か"を頼ってしまったら、結局それは今までの繰り返しでしかない。

 いいかげん受け入れろよ、と俺は俺に向けて言った。
 無条件で肯定してくれる相手なんてどこにもいないんだよ。
 俺は自分自身で選択しなきゃいけないんだ。今までだってずっとそうだったんだよ。

 たとえ、俺の過去が、何かの些細な変化ひとつで、大きく変わってしまうようなものだったとしても。
 俺は俺自身の意思で、この未来を選び取ってきたんだ。誰のせいでもない、俺自身の選択の結果なんだ。
 動揺や焦燥に支配されていたとしても、強い感情の波に意思が歪められたとしても、選んだのは他でもない俺自身なんだ。

 自分自身から逃れることはできない。過去にしてしまったことをなかったことにはできない。
 俺のせいでユキトが死に続けていた。そのことを受け入れなきゃいけない。

 深呼吸をする。それから、両手で頬を叩いた。
 何かの大きな力を利用して、世界を都合よく変えるのは、もうやめにするべきだ。

 ……けれど、最後に、ひとつだけ、わがままに、世界を変えたい。
 ユキトの死だけは、回避したい。


 ユキトは俺のせいで死んでいた。"だから死ぬべきじゃない"と思うのは、俺の都合だ。
 ユキトは何も悪いことをしていない。"だから死ぬべきじゃない"というなら、死ぬべきじゃない人はたくさんいる。
 ユキトが死ぬことで悲しむ人がいる。"だから死ぬべきじゃない"というのは、やっぱり俺のエゴだ。
 それが既に起こったことだったなら。

 でも、それが「起こったこと」なのか、「起きること」なのか、その判断は俺には難しい。
 だったら都合の良いように考えよう。それはこれから「起きること」で、俺はそれを変えることができるのだ。

 俺は、自分の行為の後始末のために、「大きな力」に頼らなきゃいけない。
 
 でも、これで最後にしよう。
 
 きっと誰も俺のことを責めたりはしないんだろうな、と俺は思った。
 俺のことを謗ったり咎めたりなじったりなんて気の利いたことは、誰もしてくれない。
 だって誰も覚えていないんだから。

 だからって俺は、それをなかったことにするわけにはいかない。
 俺自身が引き起こしたことだ。

 あとは意思の問題だ。思わず溜め息が出る。
 俺自身がいったいいつまで、「なかったことにするわけにはいかない」と思い続けていられるか?
 意思とか、努力とか、そういうのは俺にとっては一番自信のないところだ。

 でも、それが一番必要なことだった。


「さて」と俺は言った。そして、フェンス越しの景色に背を向け、鉄扉に向き直る。
 扉は単なる扉ではなく、屋上は単なる空間ではない。そんな錯覚がする。
 そこにはもっと別の意味が含まれているような気さえした。
 
 彼女はここには来ない。
 自分が何を求めていたのか、まだはっきりとは分からない。
 何かを誰かに伝えたいような気がする。誰かの言葉がほしいような気がする。

 まだはっきりと分かっていないことだってたくさんある。

 でもいいや、と俺は思った。
 頭上を通り過ぎた飛行機のことは、もうあまり気にならなくなっていた。

 ノブを握る。ひねる。ドアを開ける。扉は来たときよりもずっと重く感じた。
 けれど開く。当たり前のことだ。開けようと思えば開く。そういうふうにできているのだ。

 ぎいという硬質な軋み。
 とにかく、いかなければいけない。
 
 そうすることでしか、始まらない。

つづく




 時間の感覚は曖昧だった。

 あっという間という気もしたし、途方もなく長い時間が既に過ぎ去ってしまったという気もした。 
 真実がどちらであるにせよ、ようやく例の洋館を見つけた頃には、既に空は暗くなっていた。

 暗がりで見る洋館は、以前見た時とは姿を変えているような気がした。
 以前の印象では、廃墟は単なる廃墟でしかなかった。

 長い時間を経て擦り減り、痛み、傷つき、綻び、破れた場所。
 耽美的ですらあるほどの虚無。けれど今は、そんな印象はどこにもなかった。

 その場所は、そうした空虚な光景とは無関係に、俺の目に不思議な印象を与えた。
 圧倒的高所から俺を見下ろす、高次の存在の棲家。

 ここに住む"誰か"は、俺に審判を与えるつもりなのだ。……誇大妄想だ。


 大きな悲鳴をあげながら、扉は開いた。外れてしまいなほど大きな音。
 開かれた扉がその奥の暗闇をあらわにした。

 埃っぽい空気と何かが腐ったような匂い。古びた時間の匂いだ。

 暗闇に足を踏み入れる。頼れる灯りは携帯のフラッシュライトだけ。

 馬鹿げている。

「誰かいるか?」

 俺は暗闇に声を投げ入れた。井戸の底に石を投げいれるみたいに。
 静寂が暗がりから這い寄ってくる。俺は後悔しそうになったけど、その気持ちを努めて封じ込めた。

「いない、です」

 と、声が返ってきた。
 思わず肩の力が抜ける。反応に困った。


「……いるじゃん」

「あっ……」

 困ったような声が続いたので、どうもわざとではなかったらしい。
 いまいち緊迫感に掛けるやりとりだった。

「話があるんだ」

「……わたしには、ない、です」

「俺に、あるんだ。きみは神様なんだろ」

「……わたしは、神様じゃ、ないです」

「でも、そう呼ばれてた」

 沈黙。俺は足を踏み出す。震えるような空気が伝わる。
 彼女は怯えているんだろうか。

 何に?


 暗がりを照らしながら進む。彼女の声はすぐ近くから聞こえたように感じたのに、姿は見当たらない。
 以前来たときは瀟洒な印象すら受けた建物なのに、今はどこもかしこもよそよそしく、寒々しい。

 それでも俺は彼女と話をしなきゃいけない。

 以前、部長と来たときと同じように、俺は左側の部屋へと向かった。
 おそるおそる部屋の中を照らしてみたが、誰もいない。ここじゃない。

「帰った方が、いいと思います」

 彼女の声は、やっぱりすぐ傍から聞こえたような気がした。どこにも姿は見えない。
 考えたってしかたないか、と俺は割り切った。そういう存在なのだ。

「お願いがあるんだ」

「……これ以上、何を?」

「"神様"は願いの数に制限をかけてない、って、シロが言ってた。
 ひとつだけっていうのは、シロが決めたんだって」

「……そう。でも、わたしも、彼女の言うことは、もっともだと思いました。
 だから、ひとつ以上の願いを、叶える意思は、いまは、そんなにありません。それに……」


 彼女の声はそこで途切れた。俺は部屋を出て、廊下に戻る。入口と、階段に向かう道。 
 それから、廊下の奥にまっすぐ伸びる暗闇。

 俺は奥へと向かう。

「それに、なに?」

 問いかけると、小さな溜め息が聞こえた気がした。

「彼女が、いなくなってしまったから。わたし、あの子がいないと、何も分からないんです」

「……シロは、どこにいったんだろう?」

「……わからない。どこにも行けるはずは、ないんですけど」

 廊下は突き当りで二つに分かれた。ひとまず左へ向かう。扉がいくつか並んでいた。
 ひとつはトイレ、ひとつは物置。更に突き当りに進むと小さな部屋があった。
 暗い上に埃が積もっていて、何のための部屋なのかは分からない。

 けれど、なんとなく嫌な感じがした。

「……そこ、人殺しがあった部屋です」

 彼女の声は、そう言った。



「……女の子が監禁されていたっていう部屋?」

「そう。あ、ううん。ちがうかもしれない。それは、どっちの?」

 ……"どっち"?

「……どっちって、何の話? 俺が知ってるのは、三人の女の子が監禁された話だけだ」

「この家に、元々住んでいた家族、です」

 元々住んでいた家族。……たしか、部長に聞いた。
 住んでいたのは、夫婦と、子供三人。二人の娘と一人の息子。
 ……"殺された"?

「殺されたって、何の話?」

「この家に住んでいた女の子が、ひとり、父親に殺されて、埋められたんです」

 俺は一瞬、その言葉をうまく受け取ることができなかった。
 飲み込んだ後に、なんだか笑い飛ばしたい気分になる。

 妙に腹が立つ。なにが神隠しだよ。ばかばかしい。


 俺は部屋を後にして、今度はまっすぐに進んだ。いくつかの部屋が並んでいた。
 そのすべては、住人たちの寝室を兼ねた私室になっていたらしかった。

 彼女の姿はない。

「シロはどこにいったんだろうな」

 俺の質問に、彼女は「分からない」と答えた。

「でも、たぶん、嫌になったのだと思う。結局わたしは、期待させるだけさせて、叶えられなかったから」

「シロの願いのこと?」

「……彼女の友達を生き返らせるには、途方もない時間が必要だから」

 俺はそのことについて、少し考えてみた。


「……本当に、できなかったの?」

「なにが、ですか?」

「シロの願いを叶えること。だって、きみはべつに、ひとりにつきひとつなんて制限もなく、願いを叶えられるんだろ。
 だったら、願いの力が、彼女が望む過去まで及ぶようになれば、可能なんじゃないのか。
 今は、俺の願いのせいでややこしいことになってるけど、世界は現に過去に巻き戻ったんだろ。
 だったら、その未来を変えることだって、できるはずじゃないのか」

「……たぶん、不可能、だと思います」

「どうして?」

「あの子があなたに、どんな話をしたのか、分からない、ですし、わたしも勘違いしてたんです。
 でも、繰り返しの中は、蓄積ではなくて、"書き換え"ですから。最初は、上手くいったと思ったんですけど……。
 繰り返すたびに、蓄えた力が、なかったことになっていたことが、分かったんです」

「……どういう意味?」

「つまり、繰り返しの中で、願いを集めても、巻き戻される際に、叶った願いも、なかったことになるわけですから。
 そうなると、蓄えられた力も、なかったことになってしまう」


「……どうも納得できない。シロは、願いの力は、感情の蓄積だって言ってた。
 だったら、願いを叶えたという記憶がシロの方にあれば、力は強まっていくんじゃないの?」

「それが、誤解の原因だったんです。感情の蓄積とは無関係に、願いの力はたまっていた。
 わたしが、うまく伝えられなかったから、彼女に誤解させた、みたい。わたしも、よくわかっていなかったのに」

「でも、シロは、出来ることが増えてきたって言ってたような気がする」

「力の使い方に、慣れてきただけだったんだと、思います」
 
 溜め息が出る。じゃあ結局は馬鹿げた誤解だったのか?
 廊下の最奥には書斎があった。娘を殺した父親の書斎だろうか?

 結局彼女の姿は見当たらなかった。俺は階段の地点まで戻ろうと踵を返す。

「じゃあ、繰り返しの中で願いの力を集めるっていうのは、できないわけか」

「……そうなります」

「ごく平凡な時間の流れの中で願いを集めても、彼女の過去までは遡れない。
 だから、永遠に戻りたい地点に戻れない。差はどんどんと広がっていく」

「……はい」


 シロは、なんて言ってたっけ。

 ――いろんなことをしたし、いろんなことをされた。
 ――普段は、ちゃんと割り切ってるんだよ。誰かと眠るのも、暗いのも、気持ち悪いのも。 

 俺はいつか見た夢のようなイメージの断片を思い出す。
 
 汚された少女。泣き叫ぶ少女。
 脳裏をよぎるイメージ。

 シロは拒絶している。肉体を激しく動かし、抵抗している。
"誰か"はそれを殴る。シロの声はとまらない。酸素を求めて喘ぐように、彼女の形相は必死そうに歪む。
 
 シロは叫ぶのをやめ、苦しげな呼吸に嗚咽を混ぜる。大粒の涙をこぼしながら、彼女は必死に痛みをこらえている。

 俺はそれを眺めている。それを眺めている自分に気付く。
 そして、声をあげる。「やめろ」、と。震えた声だった。馬鹿げた話だ。
"誰か"は、鬱陶しげに、気だるげに、こちらを振り返る。

 その顔は、俺の顔によく似ていた。


 誰かの願いを、シロが叶えるということ。
 
 ――最初は、願いを集めるのに、抵抗なんてなかった。
 ――誰かの願いを叶えることで力が溜まっていくんだから、それはすごくいいことだって思った。
 ――でも、段々と分かってきたの。みんな自分勝手な欲望を満たしてるだけなんだって。

 いったいこれはどういう話なんだよ、と俺は思った。
 何が悪いんだ? 誰が悪かったんだ? 
 誰のせいでこんなことになったんだ? 誰も悪くないとしたら、どうしてこんなことになってしまうんだ?

 暗闇を怖がる子。誰かと一緒に眠ることを怖がる子。
 シロは自分をすり減らしてまで願いを叶えようとしたんだ。その結果がこれなのか?

 今俺がしなくてはならないことは、彼女とは無関係に存在する。
 ましてや俺自身が、彼女にできることなんてひとつもない。

 俺だって、同じなのだ。彼女に直接何もしなかっただけで。
 自分勝手な欲望で、世界を歪めた。……俺は彼女をすり減らした誰かとパラレルに存在している。


 階段から階上を見上げる。やはり景色は暗闇だ。ほんの少しの光では、照らすことすらできない。

 なぜだか分からないけれど、視界がうるんだような気がした。
 暗いせいで、本当はどうだったのかは、分からない。

 急に苦しくなって、呼吸がうまくできなくなってしまった。

 俺はなにをやってるんだろう? 俺だって、誰かを不幸にしたかったわけじゃない。
 誰かが憎かったわけじゃない。何かを台無しにしようと思ったわけでもない。

 でも、それは俺がしたことなのだ。

「なあ、いるんだろ」

 俺は階段の上に向けて、声を掛けた。

「どうして姿を見せてくれないんだ?」

「……人と顔を合わせたり、話したりするの、苦手なんです」

「どうして?」

「うまく、伝わらないから。誤解させてしまって、怒らせたり、悲しませたり、そんなことばかり」


「……でも、きみに頼みたいことがあるんだよ」と俺は言った。

「きみにしかできないんだ。他の誰にもできない。
 俺の願いをなかったことにしてほしいんだ。俺の願いのせいで、不幸になる奴がいる。
 きみだって、それを望んだわけじゃないだろ」

「それは、そうですけど、でも、願いを解いたら、どうなるんです?」

「……どうなるって?」

「願いを解いたら、幸せになるんですか? そうなんでしょうか?
 わたしにはもう、なにもわかりません。願いを解いた結果、もっと不幸な結果が生まれるかもしれない」

 俺は、すぐには答えられなかった。

「繰り返しの中では、なにひとつ確定しませんから。どんな不幸も、なかったことになります、から。
 だから、この中にいれば、誰も傷つけずに済みますし、誰も傷つけられずに済みます」

 どういえばいいんだろう。どんなふうに言えば伝わるんだろう。
 分からない。誤解は宿命だ。だから言葉は不便だ。それでも、何かを言おうとするなら、言葉にするしかない。

 人を傷つけるのが嫌なのは、傷つけることで自分も傷つくからだ。
 自分が傷つくのが嫌なんてことは、当り前のことだ。


「分厚い壁があるとして、さ。その中に一人で籠っているとして、だ。
 その中にいれば、誰とも出会わない代わりに、誰のことも傷つけずに済む。誰にも傷つけられずに済む」
 
 それはたぶん、俺がもともと願っていたものだ。
 そして、手に入れていたもの。

 何ひとつ求めなければ、与えられないことを悲しむ必要はない。

「べつにそれだって、いいと思うんだよ。それだってひとつの生き方だと思う。
 俺だって似たようなやりかたをしてきたんだ。今までずっと。
 今となっては、もうちょっとやりようがあったんじゃないかって思うけど……でも今更、やり直そうなんて気はない」

 俺は階段に足を掛けた。
 床板は不穏な軋みをあげる。

「でも、その生き方を押し付けるのは違う。
 きみ個人の認識では、たしかに世界には不幸が溢れているかもしれないけど。
 生きることは苦しみの連続かもしれないけど。そう感じてない人間だっているんだ。
 だから、そいつらまで自分の都合で巻き込むってわけには、いかないだろ」

 俺が次の段に昇ろうとしたところで、不意に、家の中の空気が切り替わった気がした。


「……おい?」

 呼びかけてみるが、返事はなかった。
 俺は慌てて階段を昇る。二階にもまた、いくつかの部屋が並んでいる。
 扉を開けると、それぞれが、子供部屋や物置になっているようだった。
 
 どこにも彼女の姿はない。

 さっきまでたしかに感じられた彼女の気配が、建物の中から消え失せてしまった。

 俺はしかたなく階下に降りると、もう一度それぞれの部屋をくまなく調べて、結局何の収穫もなく、外に出た。

 逃げられてしまったのだろうか。屋敷の外に出てから空を見ると、月が煌々と空を照らしていた。
 その光は、わずかだけれどここまで届いて、たしかに地上を照らしている。
 
 だからどうというわけでもないのだけれど。

 溜め息が出た。
 諦めるわけにはいかない。それでも、自分が正しいことをしているだなんてまったく思えない。
 深くは考えないようにしていても、どうしても考えてしまうことがいくつかある。


 俺は目を閉じてから、ユキトとサクラのことを思い浮かべた。

 ……願いをなかったことにしても、更に不幸になるだけかもしれない、と彼女は言った。
 そうかもしれない。それでも願いをなかったことにしたい。それは俺のエゴだ。

「……こっち」

 と、声が聞こえた。
 声の方に目を向けると、そこにはいつか見た、和装の少女の姿があった。
 月の下、森の中で、その子の姿はほとんど幻想的な印象を俺に与えた。
 
「いなくなったのかと思った」

「わたしだって、このままじゃだめだって、分かってます。あなたに言われなくても」

 声は、少し不機嫌そうにも聞こえた。

「あの子との約束がなくなったら、わたしの神様ごっこにも、もう、意味はないんです。 
 わたしは、約束のために、今まで、やってきたんですから。だからもう、願いを集める意味なんてない。
 本当はもう、わたし、何もする必要はないんです。でも、前にも言ったけど、誰かを不幸にしたいわけじゃないから」


 彼女はぼんやりとした調子でそう言うと、寂しそうな顔で月を見上げた。
 
「ねえ、前にここに来た時のこと、覚えていますか」

「前にって、部長と一緒に来たときのこと?」

 彼女は頷いた。

「あのとき、この道の向こうに、何があったか、覚えていますか」

 例の、空き地のことだろうか。何もない、ただ広いだけの空間。"焼け落ちてしまった"という言葉。
 あそこに辿り着いたとき、部長が急に体調を崩してしまったのだった。

「あそこは、神様の跡です。偽物の、痕跡。わたしが燃やしました。わたしが、売られたところ」

「……売られた?」

「娼館でした」と彼女は言った。

「子供を使いにして、人の願いを叶える……。その噂は真実だったけど、ごまかしで、"神様"というのは、暗号のようなものでした」

 俺はなにも言えなかった。


「わたしは、こんな世界、壊れてしまえばいいと思っています。誰にとっても、それが望ましいと、思います。
 それでも、あなたが望む通り、元のかたちに、世界を戻そうと思う。たぶん、それが自然だから。
 でも、あなたのせいではない。あくまで、わたしの判断です。あなたの願い、なかったことにしてあげます。」

「……ありがとう」

「どういたしまして。でも、あなたの願いをなかったことにするだけで、いいんですか?」

「どういう意味?」

「もう片方の願いをなかったことにしないと、あなたの友達に何かあったとき、やっぱり、繰り返しが起こりますよ」

「……ああ、そっか」

 サクラの願いは、そういえばそういう代物だったか。
 サクラの願いをそのままにしておけば、ユキトだって、すぐに死んだりはしなくなるかもしれないけど。
 でも……。

「じゃあ、そっちもなかったことにしてくれ」

「……いいんですか?」

「まあ、あいつの場合、シロに訊かれたからなんとなく答えただけだと思うんだよな。
 あいつは、自分の願いを叶えるために何か大きな力に頼ったりしない。自分で努力する奴だよ」

 俺みたいな奴とは、違う。もしそうじゃなかったとしても、やっぱりそれは……。
"俺のエゴ"だけど、おかしいと思うから、なかったことにさせてもらおう。あいつには悪いけど。


「それなら、いいんですけど」

 それから彼女は静かな溜め息をついた。
 彼女は目を瞑って、また開いた。

「とりあえず、あなたの願いを、なかったことに、しました」

 嘘だろ、と俺は思った。

「……今ので?」

「はい。もっとも、完全になくなってはいません。この世界においては、まだ機能し続けている、と思う。
 でも、もう一度繰り返せば、完全になくなります」

「……そっか。あっさりしてるんだな」

 と、拍子抜けしたような気持ちで答えてから、引っ掛かりを覚える。


「もう一度、繰り返せば?」

 俺の鸚鵡返しに、彼女はきょとんという顔で首を傾げた。

「……はい。あなたの願いの強制力はなくなったから、次の世界では、もう、あなたの友達は死なないと思う。
 でも、この世界では、あなたの願いの誘導だけは、かすかに残っているから。それももう、絶対ではないだろうけど。
 次の世界では、誘導もなくなるでしょうし、あなたの記憶も、なかったことになるはず。それで、ぜんぶおしまい」

「つまり、世界はもう一度繰り返さなきゃいけない、ってこと?」

「そう、なります」

「じゃあ、サクラの願いはまだ残ってるわけ?」

「何もかもなかったことにしたあとに、戻した方が、いいと思うから」

「……で、次の世界では、俺の記憶はなくなってる?」

「あなたの記憶については、わたしではなくて、あの子の領分ですから。あの子が何もしなければ、わたしも、何もしない」

 繰り返すということは、ユキトは死ぬ、ということだ。

 つまり……。
 俺がもう一度、もう一度だけユキトを見殺しにすれば、世界は何事もなかったかのように、元に戻る?
 俺は、何もかも忘れて、ごく当たり前のように生きることになる?


「……待ってくれ。方法はそれしかないのか?」

「なにか、問題でも?」

「いや、問題はないんだけど……なさすぎる」

「……意味が、よくわからないです」

「俺は、忘れたくない」
 
 彼女は不思議そうに首を傾げた。

「それはあなたの都合でしょう? あなた、この期に及んで、まだ自分に都合の良い世界を望むんですか?」

 なんだか、頭が混乱してきた。俺にとって、どっちが都合がいいんだ?
 ……いや、そんなことより、もっと、大きな問題がある。

 そもそも。
 もう一度ユキトを見殺しにするなんて、そんなの、できるわけがない。
 あいつがこれから死ぬことを、俺は既に知ってしまっているんだから。

 知ったうえで、何もせずにいることはできない。
 たとえなかったことになるとしても。


「でも、方法、ないわけじゃないです」

 彼女は、呆れたような顔をしながら、それでも教えてくれた。

「この世界では、もう願いの強制力は消えている。あるのは誘導だけ、ですから。
 うまく現実に変化をくわえられれば、結末は変えられると思う。
 でも、そうすればあなたの記憶は残ったままだし、二度と巻き戻しは起こらなくなる」

「……ユキトを助けてしまえば、もう巻き戻しは起こらないし、事実は確定するってことか」

「はい。もう起こったことをなかったことにはできなくなります」

「……まあ、それが自然だろ。一応聞くけど、本当に願いはなかったことになったんだよな?
 もう、世界を変えることはできるんだよな? それは嘘じゃないな?」

「はい」と彼女は言った。それを信じる以外にできることはない。

 これで、一応、やるべきことははっきりしたわけだ。


「なあ、ひとつだけ訊いてもいい?」

 俺の声に、彼女は首を傾げる。

「きみはさ、俺のせいで巻き戻しが起こってるって、知ってたの?」

 彼女は首を横に振った。

「きみの力なのに?」

「わたしにとっても、この力は、よくわからない力、でしたから。
 本当のことを知ってから、まだ、そんなに時間、経ってないです」

「……そっか」

 結局、大きな力に振り回されたのは、みんな一緒だということだろうか。

「……繰り返しが終わったら、きみはどうするの?」

「質問、ふたつめです、けど」

「ごめん。答えなくてもいい」

「かまいません。……どうするかは、まだわかりません。約束もないし、もう、神様の真似事、する意味もなくなりました。
 こんなふうに、変なことばかり起こしてしまったから、なおさら」

「……そっか」


「……もし」と彼女は言った。俺の方をまっすぐに見つめたまま。

「もし、あの子に会ったら……」

 でも、その言葉の続きはなかった。彼女は首を横に振って、諦めたように溜め息をつく。

「なんでも、ないです。あなたも、気をつけて」

「……うん。ありがとう」

「……ごめんなさい。いろいろ、迷惑かけて」

「こちらこそ」と俺は言った。

 それから最後に、もうひとつ、気になったことを思い出す。

「なあ、最後に、もうひとつだけ訊きたいんだけど……。
 きみは、シロが、ひょっとしたら……って、最初から気付いてた?」

 彼女は息を呑んだ。それから深く深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

「知ったのは、今回の巻き戻しが起こる、直前でした。もし気付いていたら、わたし、そんなことをさせるわけ、ないです。
 それは、わたしがさせられたこと、ですから」

「……そっか。そうだよな」

 何もかもが入り組んでいる。……それ以上の判断は、今はできなかった。

つづく




 ノックの音で目がさめた。

 扉が軋む音に隠れて、ぺたぺたという足音が聞こえる。

 朝が来たんだ、と俺は思った。思ってから、自分が眠っていたことに気付いた。
 眠らない。そう思ってたのに。
 ベッドに横になった記憶もないのに気付いたら眠っていたというのは奇妙な話だった。

 とはいえ、仕方ないといえば仕方ないことだ。
 夏祭りまでまだ期間がある。それまでずっと眠らないなんて現実的に不可能だ。

 それは肉体の問題だ。意思でどうにかできる領域なんてそう多くない。
 好むと好まざるとに関わらず、俺たちには眠らなきゃいけない。

 体を起こして瞼を擦り、部屋の入口に目を向ける。

「おはよう」と妹は言った。

「おはよう」と俺も返事をした。
 
 彼女は満足そうに頷く。昨日までより、いくらか明るい顔つきになったように見えるが、気のせいかもしれない。

「二度寝しないでね」

 そう言い残して、彼女はあっさりと居なくなってしまった。




 朝食にトーストを焼いて、二人で向き合って食事をとる。
 俺たちはハックルベリーのジャムをこんがり焼けたトーストに塗りたくった。
 
 サクサクという気持ちのいい音が口の中から聞こえる。

 テレビでは天気予報士が今日の気温についてぼやいていた。
 夏の暑さに呆れているのか感心しているのか分からない。
 
 四角い窓に切り取られた空は、隣の家に削られてとても狭かったけれど、青だった。
 深い青。春先なんかだと白っぽい、薄い色合いだけど、夏の空は塗りつぶしたみたいに深い。

「ハックルベリーってどんな果物?」

 妹は、テレビの方に視線を向けながら、不意に訊ねてきた。
 当たり前のような調子。昨晩のことなんて何もなかったみたいに。
 
 昨日のことが気になって、俺はいくらか緊張していたんだけど。
 彼女の態度があまりに自然だから、結局深くは考えないことにした。
 
 普段通りに接して来るということは、普段通りに接したいということかもしれないし。
 あるいは、昨夜のことは、夢だったのかもしれない。


「ブルーベリーみたいな感じ。実物は見たことないけど」

「……名前の響きで言ってるわけじゃないよね?」

 妹が疑わしそうな顔でこちらを見てきたものだから、俺はちょっと不安になった。

「いや、ホントに。ブルーベリーに似てる、と思う。だから色も似てる」

「……ふうん? でも、ブルーベリージャムより青っぽい感じするよね?」

「そうかもね」

「……うん」

 どうでもいい話題だったのだろうか。妹はトーストをかじるのを再開して、話はそのまま途切れてしまった。
 何を言う必要も、ないのかもしれないけど。


「むしろ俺は、今まで自分を甘やかしすぎていたような気がするんだよな」

「そうかな」

 妹は困ったような顔をした。
 それからしばらく考え込んでいたようだけど、結局諦めたみたいな顔で溜め息をついた。

 そう思うなら、それでいいんじゃない、と言いたげに。

「とにかく、今日は早く帰ってくるんだよね?」

「うん」

「本当に?」

「うん。本当だ」

「じゃあ、信じる」

「ありがとう」

 妹は毒気を抜かれたみたいに目を丸くしてから、仕方なさそうに笑った。




 早めに家を出たおかげで、学校にはまだほとんど人の気配がなかった。
 教室についてすぐ、自分の席に荷物を置いて、それから誰もいない教室の中から窓の外を眺めた。

 太陽は既に辺りに光をまき散らし始めている。
 何も留まってなんかいない。

 誰もいない教室にいると、いつものように自分が箱の中にいるあの錯覚がやってきた。
 なぜなんだろう?
 なにが問題なんだろう?

 誰かと話しているときは感じない。
 誰かが傍にいるときは感じない。
 それなのに、ひとりになると、いつも、こんな感覚に陥る。
 
 自分が発した言葉や何気ないひとつひとつの仕草が、おそろしくなる。
 それはきっと誇大妄想なのだ。誇大妄想なのに、その想像をするたびに恐ろしくて息が詰まる。
 
 下唇を噛む。


 どうして俺はこうなんだろう、なんてことを俺はいつまで考え続けるつもりなんだろう?
 もう考えるのはよせよと言いたかったけど、考えるのをやめたところでどうすればいいのかも分からなかった。

 いつも行き場がない。どこに行くべきなのか分からない。どこに居られるのか分からない。
 何をすべきなのかも。何をすることができるのかも。
 
 俺はどんな音楽を聴くべきなのか? どんな音楽なら聴くことができるのか?
 どんな映画を観るべきなのか? どんな映画なら観ることができるのか?

 誰かと一緒にいるのも、話すのも好きだった。
 ユキトのことも、サクラのことも。でも、離れてしまうと、いつも後悔に襲われた。
 自分という人間の無神経さがいちいち気になって仕方なかった。

 だから人と話すのが嫌になった。……自分が嫌になるから、人と話せなくなった。

 廊下から足音が聞こえた。
 誰だろう、と考えてから、それがユキトじゃないなら誰だってどうだっていいことだと思った。

 やってきたのはタイタンだった。


「やあ」と俺は気安げに声を掛けてみたのだが、上手くできたのかどうかは自信がない。

「やあ」とタイタンはどうでもよさそうに返事をしてから、眠たげにあくびをした。

「眠そうだな?」

「眠いし、暑いし、しんどいよ」

 彼はなにもかも忘れて以前のような態度に戻っていた。
 物静かで、穏やかで……でも感情をあらわにすることがないわけじゃない。

「夢は見たか?」と俺は訊ねた。

「夢?」

 彼はいぶかしげに眉間にしわを寄せる。

「なんで夢のことなんて訊く?」

「興味本位」と俺は答えた。

「最近ラカンの本を読んだから」

 もちろん嘘だったし、俺はラカンもフロイトも読んだことがなかったんだけど、彼はそこには無反応だった。


「花畑の夢を見たな」

「天国か?」

「天国なんてないよ」と彼はつまらなそうに言った

「じゃあ、花畑ってのはなんだ?」

「そういうイメージなんだよ、きっと。いかにも楽しげで、幸せそうで、穏やかで、居心地が良くて、優しくて……。
 ……宗教臭くて、ファンタジックで、メルヘンで、作り物めいた、イメージだ」

「そんな夢を見たわけか」

「いかにもつまらない夢だった」

「どうして?」

「夢の中にしかないからだよ」




 ユキトがやってきた。たぶん教室にいた誰よりも早く俺が彼の登校に気付いた。
 彼が机の上に荷物をおいている途中で俺は声を掛けた。

「話があるんだけど」と言うと彼は奇妙なものを見るような目でこちらを見た。
 戸惑いとか、疑念とか、いろいろあるんだろう。でもそれどころじゃない。
 
 こっちにはこっちの都合があるし、時間はあらためて考えるまでもなくそんなに残されていない。
 採りうる手段だってそう多くはない。

「いいけど、急になに?」

「命にかかわる話なんだよ」

「物騒だな」

 本当なんだ、と言ったってどうせ信じてくれないだろうから、あまり強調はしない。どころか、

「まあ、命にかかわるっていうのは、嘘かもしれない」

 自分でもあまりに胡散臭いと思ったので、あらかじめ訂正した。本当は命にかかわるんだけど。


「……なんだ急に。変な奴だな。なに?」

「ここじゃあ、ちょっと」

「言いにくい話?」

「そこそこ言いにくい」

「……そこそこ、ね」

 彼は困った顔をしていた。

「大事な話なんだよな?」と彼は仕方なさそうに笑った。
 笑うと爽やかさが二割増しくらいになって、そのたびに俺は太陽の光を浴びた吸血鬼みたいにダメージを負う。
 
 あんまり話さなくなっていたせいで忘れていたけど、こういう劣等感もたぶん嫌になった一因なんだろう。
 離れていると良いところしか思い出せなかったりするものだ。




 俺自身の提案で、ユキトを連れて屋上にやってきたのだが、殺意のこもった直射日光によってミイラになりそうな気がした。

「で、話ってなに?」

 という質問に対して、

「おまえ、死ぬぞ」なんて言えるわけがないので、とにかく状況を確認することから始めることにした。 

 確認すべき事項はひとつだけだった。……たぶん。

「ユキトさ、最近、サクラと話したりする?」

 彼はちょっと緊張したみたいだった。

「いや。最近は、あんまり」

 そっか、と溜め息をつく。本当のことなのか、嘘のことなのか、今は判断がつかない。

 ユキトとサクラは二人で夏祭りに行く。いつごろ約束したのか、俺は知らない。
 そこで事故が起きるわけだから……簡単な話、二人は祭りに行かなきゃいい。

 神様の話だと、「誘導」だけで「強制力」は消えてるらしい。
 ちょっと作為を加えてやれば、未来は簡単に変わるはずだ。
 彼女の言葉を信じるなら。もちろん俺には、そうする以外になにもできないんだけど。


 続けてどのような質問をするべきなのか、迷っていたら、

「ごめん」

 と彼が先に謝った。

「……なに、急に」

 思わず素で問い返すと、彼は気まずげな様子を強めた。

「あんまり話はしないけど、なんもないってわけじゃない」

「どういう意味? ……なにかの約束してるとか?」

「いや。これから、誘うつもりだった」

「……そっか。べつに、謝るほどのことじゃないと思うけど」


「俺はさ、サクラとふたりでいると、いつもヒメのことを思い出すんだ。
 サクラもそうだと思う。ふたりでいると会話がはずまないとか、そういうことじゃないんだ。
 ふたりだけだと楽しくないってことでもない。でも、ヒメのことを考えるんだよ」

「それは、なんというか、悪かった」

「うん。おまえ、ほんとに反省しろよ。今朝になって、急に話しかけてくるし。今までずっと避けてたくせに。
 ……それに、前、ここで会ったときも……」

 ここで会ったとき、というのが、俺にはよく思い出せなかった。
 たぶん、本当の「現実」で起こったことも、俺は思い出せているんだろうけど。
 何度も同じ時間を繰り返したせいで、どれが「そう」なのかはっきりしない。

「でも、俺決めたんだよ」

「……なにを?」

「サクラに告白するつもりなんだ、俺」

 彼の表情はちょっとこわばって見えた。たぶん、緊張しているんだろう。
 緊張で表情がこわばる、というのも、ユキトがやると青春ドラマめいた爽やかさが宿るような気がした。
 ある意味悲劇的だ。


「夏祭りに誘って、そのとき、告白しようと思う」

「……そっか」

「そしたら、きっと、二人でいても、ヒメのことが気にならなくなると思ったんだ」

 そこまで俺に言うか、と俺は思った。実際そうなんだろうけど。
 さて、と俺は思った。どうするべきなんだろう?

 まさか「告白はやめろ」とか「夏祭りに行くな」なんて言うわけにはいかなかった。
 ユキトは、俺がサクラのことを好きなんだと、いまだに思っていそうな節がある。

 そうだとすると――そうじゃないとしても――まともに聞き入れてもらえるとは思えない。

 だからといって、ユキトを監禁するとか、そういう物理的な手段に訴えてしまえば、今度は俺がまずいことになる。
 ユキトを拘束して夏祭りをやり過ごしたところで、俺が犯罪者になるだけだ。
「こうしなければユキトは死んでいた」なんて言ったところで、誰も信じてなんてくれない。


 ましてや、ユキトは、俺とは違う。
 俺とは違って、現実的な手段で、望む世界を手に入れようとしている。
 その邪魔をする資格が俺にあるわけがなかった。たとえ命が掛かっていても。

 俺のせいで彼は死ぬかもしれないのだ。
 まさかそのために彼の告白を邪魔するなんてできない
 せめて日取りでもずらしてくれれば助かるんだけど、なにせイベントごとの日だ。
 
 そういうわけにも、きっと、いかないんだろう。

「そっか」

 しばらく考えた末に、俺は頷いた。ユキトがどう受け取ったのかは分からない。
 少なくとも、世界がどうとか、繰り返しがどうとか、願いがどうとか、そんなことを考えているとは思いもよらないだろう。
 それが自然だ。

「じゃあ、ひとつだけ頼みがあるんだ」

 ユキトはいぶかしげに首を傾げた。

「もし上手くいったら、必ず俺に報告してくれよ。祝福するから」

 いいのか、という顔をユキトはした。彼なりに覚悟を持って、俺に話したのかもしれない。

「絶対だ」と俺は強調した。彼は頷いた。

>>165>>166の間、1レス分抜けてました


「……あのさ」

 沈黙に耐えかねたというわけでもなく、かといって自然に口に出したというのでもなく。
 言葉を口から出した。

 口から出した言葉は引っ込んでくれない。
 言葉は誤解の種だから、俺はなにかを話すことがいつも怖かった。

 でも、言わなければ何も伝わらないのだ。
 何も口に出さないくせに、伝わらないことを怒るなんて、馬鹿げてる。

「……今日は、早めに帰ってくるよ」

「そう、なの?」

 妹は戸惑ったような顔でこちらを三秒くらい見つめて、それから視線をあちこちに巡らせた。

「うん。買い物もしてくる。ちゃんと」

「……ねえ、お兄ちゃん。無理してないよね?」

>>179が165と166の間に入ります。

つづく




 コンビニで傘を買うこともなく、バスの停留所まで走った。

 制服も髪も濡れていたけれど、かまわなかった。
 昼下がりの街を、同じ学校の生徒たちが堂々とうろついている。
 終業式の日の、この、なんとも言えない解放感。

 気持ちいい感覚。ひさしぶりに、そんなものを感じた気がした。

 濡れて歩くのは気持ちいいから好きだった。
 ずっと昔から。

 いつから忘れてたのかも、思い出せないけど。 
 好きだったのだ。


 停留所のベンチに、ヒナが座っていた。
 
 俺は一瞬、困ってしまった。どうすればいいのか分からなかった。
 どんな態度をとればいいのか、分からなかった。

 ただでさえ、例の告白から話もしていないのに。
 くわえて俺は、"もしかして"の世界を覗いた後だった。
  
 いろんな気持ちがないまぜになったけれど、同じバスを待っている以上、そこにいるしかない。

 俺は立ったまま、停留所の屋根の下から、雨に濡れる街を見ていた。

 不意に、

「座ったら?」

 とヒナが言った。
 俺はどう答えていいのか分からなかったから、「どうも」と儀礼的に言ってベンチに腰かけた。
 腰かけてから、制服が濡れていたこととか、「どうも」ってなんだよ、とか、そんなことを思う。

 いつも失敗ばかりしている。
 三十秒くらい、どうにか訂正したりできないものか考えていたけれど、結局やめた。


「びしょ濡れだよ」

 とヒナは言った。俺は困った。

「傘持ってなかったから」

「……天気予報、見てないの?」

「……見た」

 本当は見なかった。でも、雨が降るのは知っていた。
 忘れてきただけだ。本当に頭から抜けていたのだ。

 彼女は少し俯いた。どうしたのかと思って様子を窺っていると、どうやら笑っていたらしい。

「ほんとに、もう……」
 
 おかしそうに笑ってる。俺はなんだか居たたまれなくなった。


 当たり前だけど会話はまったく弾まなかった。
 だからといって無音になったわけじゃない。
 通り過ぎていく人々の話し声や、か細い雨の音が沈黙を埋めてくれた。

 だからだろうか?
 気まずいはずなのに、沈黙が苦ではなかった。

「……気になってたことが、あるんだけどさ」

 やがて、彼女が口を開いた。俺はちょっとだけ意外だった。
 意外といえば、今このタイミングで言葉を交わしていることだって、意外なんだけど。

「最初に屋上で会ったとき、言ってたでしょ。幼馴染の子と、結婚の約束がどう、とか」

 今となっては、そんなどうでもいい世間話ですら、とても重要なことだったような気がする。
"あんた"という言い方がなんだか懐かしかった。距離を置こうとするみたいな、素っ気ない言い方。
 
「……それが?」


「……相手は、かわいい子だった?」

「なに、急に」

「べつに、これといって理由はないんだけど、ずっと気になってた」

「なんでそんなことを?」

「……なんでかな。自分でも、ちょっとわかんないけど」

「……そっか」

 俺は少し戸惑ったけれど、その質問について真面目に考えてみることにした。
 つまらない、ままごとの延長みたいな、ごっこ遊び。
 
「……たぶん、かわいかったんだと思う」
 
 記憶はおぼろげで、どんな流れでした約束なのか、覚えてすらいない。
 それでも、その事実だけはしっかりと覚えていた。


 彼女はいつも泣いてばかりだった。
 俺はやりたくもないままごとに付き合わされて、付き合わないとすぐにしゅんとなって俯いて。
 
 いつも俺の後ろをトコトコついてきた。探検するときも、学校に忍びこむときも。
 知らぬ間に懐いた子猫みたいに。
 妹と一緒にいるときには、俺はカルガモの親子になったみたいな気がしたものだ。

 愛想のいいユキトじゃなくて、なぜか俺のうしろから離れなかった。

 ……"うしろ"?

 おかしいな、と俺は思った。

 サクラはいつだって俺の前を歩きたがったし、ままごとなんてやりたがらなかった。
 不満があっても黙ってなんていないで口に出すような奴だった。
 今はともかく、昔はそうだった。

 妹がついてくることもあったけど、俺たちはいつだって三人で行動してた。
 何をして遊ぶのも、三人一緒だった。


 じゃあ、誰だ?
 当然、妹じゃないだろう。
 そもそもあいつは大人しかったけど、めったに泣いたりしなかった。
 
 おいおい、消去法でいくとユキトってことになるぞ、と考えて、馬鹿らしくて思わず笑った。
 ヒナが怪訝そうにこちらを見ているけれど、俺はまだ考えごとを続けたかった。

 あの約束はユキトが来る前の出来事だったはずだ。

 でも、だったらなんだったんだろう?
 俺はずっと、あの出来事を事実みたいにとらえていたけれど、そうじゃなかったんだろうか。
 妄想を真実だと思い込んでいたんだろうか?

 記憶はたしかに示してる。覚えてる。
 そういうことがたしかにあったんだと、からだが言っている。
 
 でも、サクラとユキトと俺以外の相手と、俺は頻繁に遊んでいた記憶がない。
 この食い違いはなんなんだろう?


「ねえ、知ってた?」

 不意に、ヒナが、俺の思考を遮断した。

「……何を?」

 俺は少しの間だけ、隣に座る彼女の存在を忘れていた。
 彼女はそのことに気付いたみたいに、ちょっと困ったみたいに笑った。

「わたしたち、同じ小学校に通ってたんだって」

「……へえ」
 
 と、俺は初めて聞いたみたいに驚いてみせたが、本当に驚いているように見えたかどうかは自信がない。
 本当だったのか、と俺は思った。
 
 てっきりシロが、そういう"認識"を、ヒナに植えつけていたのかと思っていた。
 シロ。
 
 ――はる兄、わたしね、たぶん……。

 はる兄、と、彼女は俺を、そう呼んだ。記憶にない呼び名……。


「話したことなんて、一度もなかったけど、わたし、あんたのことなんとなく覚えてる」

「……なんでまた」

「なんでだろう?」と彼女は首を傾げた。

「まあ、それだけの話なんだけどさ」

「どうしてそんな話を?」

「……つまり、あの頃に会って、話をしてたら、今だってもっと違ったのかなって思ってさ」

「……ごめん、よくわかんないんだけど」

「こう、漫画みたいにね、仲良かったけど離ればなれになって、高校に入ると同時に再会、みたいにさ」

「……」

「そういうの、できないから、ちょっと悔しいっていうか、羨ましいなって、思って」

 彼女の言葉は、やっぱりよく分からなかった。
 
 しばらく沈黙が続いた。やがてバスがやってきた。
 同じタイミングでバスに乗り込んだのに、俺たちは別々の席に座った。




 家に、妹の姿はなかった。
 確認してみると、携帯にメールが来ていた。

『お姉ちゃんの家に寄ってから帰ります。夕食の時間までには戻るから』

 説明のない唐突な報告。
 お姉ちゃんというのはサクラのことだろうけど、どうしてサクラの家なんだろう。

 これまでの世界でも、妹は終業式の日の午後、サクラたちと会っていたはずだ。
 だから、べつに会うことは不思議じゃない。

 それでも、どうして突然そんな話になるのか、分からない。
 
 まあいいか、と思って、俺はリビングのソファに体を埋めた。
 目を閉じて、ヒナとの会話を思い返す。

 ――かわいい子だった?


 シロは、俺のことも、サクラのことも、ユキトのことも、知っていたみたいだった。

 急に悲しくなった。本当に涙が出そうだった。
 
 ――神様と協力するって決めたとき、神様の力を借りるかわりに、こうなったの。
 ――肉体は成長を止めて、人々の記憶から、わたしという人間が薄れていくって。
 ――事実の形も、少しずつ歪んでしまうって。だから、家族に会ったって、誰もわたしだって気付けないの。

 ……シロなのだろうか。
 俺は彼女のことを知っていて、彼女のことを忘れていたんだろうか。 

 ――でも、もし生きているとしたら、ヒメくんと同い年くらいになりますね。

 彼女が言っていた、「全部思い出した」って、そういうことだったのか?

 ――たぶん、だけど、たぶんなんだけど、わたし――はる兄のこと、好きだったんだよ。

 でも、俺は今、この今でだって、彼女の本当の名前を思い出せずにいる。
 彼女が俺のそばにいたことを、確信できずにいる。

 それでも彼女は、俺のことを「はる兄」と呼んだのだ。ずっと前から、知っていたみたいに。


 俺は、誰かにそう呼ばれていたことを、思い出せない。
 そんな相手はいなかったような気がする。

 でも、いなかったような気がするというのは「認識」だ。
 俺の認識では、そんな相手はいなかった。

 でも、記憶には、たしかに「誰か」がいる。名前も顔も思い出せないのに。
 そんな誰かがいたことを、俺は覚えてる。からだが覚えている。

 不意に、誰かから見られているような気がした。
 いいかげん、俺はそのまなざしに慣れきっていた。

 分かっている。
 確実な手段は結局、なにひとつ思いつかなかった。

 俺はポケットから携帯を取り出して、電話を掛けた。
 ユキトはすぐに出た。


「もしもし」
 
 ユキトは意外そうな声だった。

「やあ」

 どんな言い方をすればいいか分からなかったので、俺は相槌のような挨拶をした。

「どうしたの、珍しいな」

「まあ、ちょっと。どうしてるかなって思って」

 話し始めてみると、不思議なほど自然に言葉が出てきた。
 ……当たり前かもしれない。

 俺たちは、とても長い時間一緒にいたんだから。
 
「おまえの妹に会ったよ、今日」

「ああ、そうなんだ。まあ、それはいいんだけどさ、おまえ、夏祭り行くんだろ?」

「……ああ、うん。もう誘ったよ」


 どうして、ユキトの答えが悲しかったのか、自分でも、とっさにはよく分からなかった。
 少し考えてから、気付く。

 昔のことを思い出していたからだ。
 母さんが死ぬ前のこと。
 
 まだ俺がこんなふうじゃなくて、みんなと楽しくはしゃいでいた頃。
 そんなときのことを思い出していたから、「今」を意識した途端、悲しくなったのだ。
  
「ひとつだけ言っておこうと思って」

 俺が口を開くと、ユキトはちょっと緊張したみたいに息を呑んだ。
 俺は笑いそうになったけど、やめておいた。

「最近さ、事故が多いみたいだから……気をつけろよ」

「……事故?」

「うん。事故」

「先週、部長にも言われたな。わざわざ電話してまで、そんなこと?」


「そんなことじゃないよ」と俺は言った。

「そんなことじゃない。こんなふうに言われても、そりゃ分からないだろうけど……。
 本当に大事なことなんだ。事故に気をつけろ。それから、暗い場所には近付くな。
 どうしても近付かなきゃいけないときは、注意深くなれ」

「どうしたんだよ、急に」

 そこらじゅうに、ひそんでいるのだ。影の中に隠れるみたいに。
 形を変えて、うごめいて、そこから触手を伸ばしてきて、誰かの足首を捉えて引きずり込む。
 誰にだって起こりうることだ。だからこそ……。

 ……急に、納得した。自分がどうして、こんなことを考えていたのか。

 母さんのことがあったからだ。
 俺の不注意で母さんが死んだから。
 だから俺は……。

 そう気付くと、急に自分がやっていることがみっともない代償行為に思えて、恥ずかしくなった。
 俺は自分の過去を、勝手にユキトに投影しているだけなのだ。


「……ごめん」

 俺の謝罪に、ユキトは溜め息をついた。

「いいよ。いいけど、そんなふうに言われると、こっちも心配だ。
 おまえはいつも、思ったことをあんまり言わないし、言ったとしても、どっかで壁を作ってるから。
 俺はいつも、自分の知らないところで、おまえが傷ついてるんじゃないかって心配だったんだよ」

「……」

「言いたいことは全部、言ってくれていいんだ」
 
 見透かしたみたいに、ユキトは言った。それから自嘲するみたいに笑う。

「なあ、だから聞かせてくれよ。おまえ、サクラのこと、どう思ってるんだ?」

「どうって?」

「つまり、好きなのかってこと」


 どう答えるか、少し迷った。 
 でも結局、いまさら取り繕うのも馬鹿らしいような気がして。
 話すことにした。思っていたこと、全部。

「好きだよ」

 本当に好きだった。ユキトは息を呑んだ。

「でも、たぶんおまえが思ってる『好き』じゃない。
 俺はサクラのことが好きだし、ユキトのことも好きだ。
 一緒にいるのはいつだって楽しかった。でもさ、なんていうか……」

 疎外感、劣等感、罪悪感。名前ならいくらでもつけられる。
 でも、今ここにある「これ」を、どう説明すれば、うまく伝えられるのか、分からない。
 どんな名前をつければ、余すことなく伝えられるのか。
 きっと、無理なんだろうけど。

「おまえも、サクラもさ。良い奴だよ」

「……なんだよ、急に」


「つまりさ。おまえらが良い奴だから、俺はいつも不安だったんだ。
 二人と一緒にいるのがさ。なんだか不釣り合いなことをしてるみたいだった」

「おまえってさ」

「なに?」

「前から思ってたけど、バカだよな」

「うん。それで、おまえらが互いに好意を持ち始めてるって気付いて、俺は思ったんだよ。やっぱりなって」

「ちょっと待て」

「なに?」

「"互いに"ってどういう意味?」

「そのままの意味だよ。結局、いつかはそうなるだろうって分かってたんだな、俺は。
 だからずっと怖かったんだ。ずっと不安だった。いつか、それまでの関係が終わるんだと思って。
 だって、もしそうなったら、俺は自分がどうすればいいのか分からなかったんだよ」


「……意味わかんねえ」

 ユキトは戸惑うみたいに言った。俺は一応、言葉を続けた。

「つまり俺は、ユキトやサクラのいない人間関係っていうのを、自分で築きあげるのが怖かったんだ。
 ひとりで新しい誰かと知り合ったりするのが。きっとぬるま湯の関係に甘えすぎていたんだな。
 でも、関係が変わってしまえば、俺だってそういう自分と向き合わなきゃいけなかった。そう思って、だから……」

「……だから、避けるようになった、とか?」

「一緒にいて、いつまでも甘えてるわけにもいかないって思ったんだろうな、たぶん。
 俺は自分が、二人の邪魔をしてるような気がしたから」

「……」

「……よくわからないんだよ。自分が何を思って、どう行動したのか。
 逃げたかったのもあるだろうし、変わらなきゃって思ったのもあっただろう。
 二人を見てるのがつらかったのかもしれないし、ひょっとしたら、母さんのことも関係あるのかもしれない」

「おまえは、自分のことばかり責めるよな。自分のことばかり責めすぎて、それはいっそ……」

 ユキトは、そこで一拍おいて、笑い飛ばすみたいに言った。

「他人を責めてるのと変わらないよ」


 俺は少し笑った。そうすると、ユキトもほっとしたみたいに笑う。

 それから、彼は言った。

「なあ、夏休み、暇だろ?」

「どうかな」

「うん。もし暇だったら、どっか遊びに行こう。報告も、聞いてくれるんだろ」

「かまわないよ」

「もし上手くいったら、のろけ話だって聞かせてやるよ」

「うん」

「……車には注意するよ。暗い場所にも」

「そうだな。できる限り、そうしてくれ」

「でも、そっちもな?」

「ああ」

 それから俺たちは、二言、三言、言葉を交わして、適当に挨拶して、通話を終わらせた。
 俺は深呼吸をしてから、全身の力を抜いてソファにもたれかかり、自分が緊張していたことを自覚した。




 妹が家に帰ってきたタイミングで、ちょうど夕食の準備が終わった。
 俺たちはいつものように向き合って座り、黙々と食事を進めた。

 夕食はオムライスだった。
 はっきり言えば手抜きだったが、妹はオムライスを作るといつも喜んだ。

「サクラの家に行ってきたの?」

 訊ねると、「うん」とあっさり頷かれた。

「なんでまた?」

「偶然会って。それで、夏祭りの話になって……」

 あ、そうだ、と妹は思い出したみたいに言葉を続ける。

「お兄ちゃん、夏祭り、行く予定ある?」

「……ないよ」

 と答えておいた。本当は行くつもりだったけど、「誰と?」と質問を続けられたら答えられない。
 俺が一人で夏祭りに行くなんて、明らかに奇妙な話だし。


「じゃあ、一緒にいかない?」

「……俺とおまえで?」

「うん」

「どうして」

「……どうして、って。昔は一緒に行ったでしょ」

「そりゃ、昔はな。でも、おまえだってもう一緒に行く友達くらいいるだろ」

「それは、まあ。でも……」

 そういえば妹は、繰り返しの中で、夏祭りに行っていたっけ?
 ……よく、思い出せない。
 
「……誘ってもらったんだけど、断った」

「……どうして?」


「……浴衣を、ね」

「え?」

「みんな、浴衣を着るんだよね。お祭りって」

「……」

 それは、まあ、そういう子だって、多いだろうけど。
 と、素朴に反応しかけて、俺はようやく気付いた。

 この家で、いったい誰が、妹に浴衣を用意するんだ?
 子供の頃は、母さんが着せてた。

 でも、今は母さんはいなくて、父さんだって家にはいない。
 それでも、こいつが口に出していれば、俺だって、きっと父さんだって、準備くらいしただろう。
 着付けのやりかたが分からなくったって、あてに出来る相手だって、いたはずなんだから。

 でもこいつは……そういうことを口にしない。
 わがままを言わない。そういう奴として育ってしまった。
 そういう妹に、俺がした。俺たちがした。


「……今日お祭りの話になってさ。浴衣がないって話をしたら、お姉ちゃんのお古借りられるかもって。
 着付けもおばさんにやってもらえるって。……でも、友達の方は、一回断っちゃったし。
 だから、だからね、お兄ちゃん。もしよかったら、なんだけど……」

「……ごめんな」

「……ううん、無理なら、べつに」

「違う。そっちじゃなくて」

「……え?」

「気付けなくて、ごめん」

 妹は一瞬、あっけにとられたみたいに目を丸くした。
 それから慌てたみたいに、困ったみたいに首を振る。

「べつに、そういうつもりじゃなくて」

「俺は、おまえに何かしてもらってばかりで、何も返せてないって気がする」

「そんなこと」と、抑え込むみたいな口調で言いかけてから、一度言葉を止めて、妹は俯いた。


「……そんなことないよ」
 
 その弱々しい声は、それでもきっと本音のつもりだったんだろうけど。 
 俺にはやっぱり、そうとは思えなかった。

「お兄ちゃんは、お兄ちゃんはさ、自分がやってることを、すぐに忘れちゃうんだよ」

「……うん。そうかもしれない」

「そうじゃない。責めてるんじゃないの。
 わたしが言いたいのはね、お兄ちゃんだって十分すぎるくらい頑張ってるってことなの」

 彼女の言葉は、なんだか気遣いめいていて、俺の気持ちはいっそう暗くなった。
 それを見透かしたみたいに、妹は怒ったような顔をつくる。

「本当に。お兄ちゃんは、自分が誰かに何かをしてあげたりってことに対して、無関心すぎるんだよ。
 自分がしたことで誰かが喜んだこととか、誰かが助かったこととか、すぐ忘れちゃうんだ。
 できていない部分だけをみて、できてる部分を見過ごしてるんだ。
 でも、お兄ちゃんのおかげで助かってることだってたくさんあるんだよ。
 お兄ちゃんがいることで救われてる人だって、いるんだよ。お兄ちゃんが、見逃してるだけで」


 俺はその言葉について少し考えて見たけれど、やっぱりそんなふうには思えなかった。
 俺は、俺の主観、俺の視点で物事を感じているから。
 そして俺の実感として、俺は「できていない」んだから。

 妹は諦めたみたいに首を横に振った。

「……今は分からなくてもいい。でも、ちゃんと気付いてね」

 まるで、俺が気付いていないだけで、事実はそうなのだというみたいに、妹は話を終わらせた。
 俺は反論すらできなかった。

 夏祭りは、一人で行こうと思っていた。
 確実な方法が思いつかない以上、俺の採りうる手段は決まっていた。
 それをするには、誰かが一緒では、うまくいかないかもしれないから。

 でも、これ以上妹を蔑ろに出来る気がしなかった。

「……夏祭り、一緒に行こうか」 
 
 声を掛けると、彼女はまだどこか納得しかねるような顔をしていたけれど、それでもほっとしたみたいに、

「……うん」

 と小さく頷いた。

つづく




 夏祭りの当日になっても、シロは俺の前に姿を見せなかった。
 それはまったくおかしなことではないのかもしれない。

 彼女は元々、俺の生活、日常にとって、いないはずの存在だった。
 もしも俺の記憶におぼろげな姿をとどめる女の子が、シロと同一人物だったとしても。
 もうずっと長い時間、俺は彼女のことを忘れて生きてきたのだ。

 俺はそれでも、シロがどこかから、ひょいと顔を出してくれるんじゃないかと期待していた。
 意地悪そうな笑みでもいい。精巧な作り笑いでもいい。
 笑ってなんかいなくてもいい。

 彼女が俺の前に現れて、何かを言ってくれることを期待した。
 でも彼女はどこからも現れてなんてくれなかった。




 サクラの家で着付けをしてもらう関係で、妹とは待ち合わせをすることになっていた。
 商店街のアーケードの入口で、俺は彼女が来るのを待っていた。

 妹は夕方頃でいいんじゃないかと言ったけど、俺は起きることを見越して早めの時間を指定した。
 怪訝そうにしながらも頷いていた妹は、まだ人通りもそう多くない商店街の入り口に、十分前に姿を現した。

 浴衣姿だった。
 
 ……どうして気付かなかったんだろう?
 俺は毎年のように、ユキトやサクラと一緒に、この祭りにやってきていたのだ。
 妹は友達と行くだろうと思って。

 実際、彼女はそう言っていたこともあった。
 でも、どうしてそんなものにごまかされてしまったんだろう。
 
 待ち合わせの場所で、妹は落ち着かないような素振りで俺の姿を探していた。
 すぐに声を掛けようと思ったけれど、なぜだかそれができなかった。

 しばらくきょろきょろと不安そうに辺りを見回したあと、彼女はようやくこちらに気付いた。


「お兄ちゃん」

 俺を見つけて駆け寄ってくると、彼女はほっとしたみたいに頬を緩めてから、自分の姿を何度か確認した。

「うん」

 と俺は頷いた。それ以上とっさに何を言えばいいのか分からなかった。
 綺麗だったのだ。
 意識的に、妹だってことを思い出さなきゃいけなかったくらいに。

 そのぶん余計にしんどくなってしまった。

「似合ってる」と言った俺の声は、そのせいでなんだか退屈そうに響いたかもしれない。
 だから妹はまた不安げな顔をした。

 俺は意識的に声のトーンをあげて、繰り返した。

「似合ってるって」

 彼女は困ったように笑って、照れたみたいに溜め息をついて、ちょっと苦しそうに俯いた。




 商店街はまだ明るくて、道行く人々もまだ何かの始まりを待っているような表情をしていた。
 
 見覚えはあるけど話したことのない誰かと、すれ違いざまに少しだけ視線が交わった。
 そういうことが何度かあった。

 昼過ぎは、若者よりも家族連れや子供の方がずっと多かった。
 
 小学生くらいの、男女の集団に、小さな子供を連れた母親の姿。
 俺は彼らとすれ違うとき、何か奇妙な感じを覚えた。
 なんだろう? 時間の流れからはじき出されてしまったような錯覚。

 見ている景色はたしかに「いま、ここ」にあるものなのに、それがもっと別なものであるかのような感覚。

 どこか遠い場所でいつか目にした景色だという気がした。
 そして俺は、かつてその景色の一部だったはずなのだ。


「かきごおり」、と妹が言った。

「食べたいの?」と俺は訊ね返す。彼女は頷いた。

 大勢の人がいるというわけでもないのに、俺たちの声はすごく小さく頼りなく聞こえた。
 かき氷の値段は店によって違ったけど、安い店をさがしている時間がばからしかった。
 
 俺たちは近くにある店の中から適当に選んでかき氷を買った。

 妹はいちご、俺がメロン。
 でも、自分の舌の上で広がる甘味がどんなものかなんて俺にはほとんど分からなかった。
 
 なんとなく所在なく、俺たちは道の端っこに座り込んで、黙々とかき氷を食べた。
 子供たちのはしゃぐ声がなんだか遠い。


 かき氷を食べ終える頃、俺は自分が緊張していることに気付いた。
 心臓がやけに自己主張を激しくしていたし、視界に映る景色もどこか目に馴染まなかった。

 俺たちはかき氷を食べ終えると、ふたたび歩きはじめた。

 雑踏の中で、俺はわけのわからない不安を覚えた。

 自分が何をすればいいのか、どこに行けばいいのか、分からなかった。
 俺はいったい何をしにここに来たんだろう。
 そう思ってから、急にバカバカしくなった。

 何をしたらいいのか、なんてことを考える意味があるのか?
 やるべきことはひとつだけだ。
 それ以外には、べつに何かをしなきゃいけないなんてことはないんだ。
 
 ただ美味しいものを食べればいい。楽しいと思えることをすればいい。 
 好きな相手と一緒にいればいい。行きたい場所に行けばいい。

 どうせ意味のないバカ騒ぎなのだ。
 楽しめるなら楽しんだ方がいい、というのも間違いじゃなさそうだ。

 俺たちはそういう場所で生きている。
 生まれたときからそうだった。何も変わってなんかいない。


 それでも、どうしても、どうあがいても、楽しむことができなかったら。
 嫌気がさしてしまったら。オプティミズムにうまく馴染めなかったら。
 所詮はくだらないバカ騒ぎで、意味なんかないと言い切るなら。

 ……誰だって、自分の意思で、祭りを抜け出すことができる。

 祭りの始まりから終わりまでを、自分の意思でショートカットできる。
 そこに善悪は存在しない。ただ選択の余地があるだけだ。

 そうではなくて、嫌気がさしたわけじゃなくて、意味がないのが寂しいだけだったら……。
 いったい、どうすることができるんだろう?




 目の前で男の子が転んで、俺は自分の思考が現実から離れていたことに気付く。
「大丈夫?」と妹が訊ねる。子供は持っていた荷物を地面にばらまいてしまっていた。

 俺たちは一緒になって荷物を拾い上げた。
 子供はそんな俺たちの手をちらりと見遣る。
 それはほんの一瞬のことで、そんなこと気にならないみたいに心配そうに前方を見ていた。

「待って!」とその子は言った。少し大きな声だったから、俺たちは戸惑った。

 俺と妹はその子の視線の先を追った。女の人が立っていた。女の子と手を繋いでいた。
 家族だろうか。母親だろうか。兄妹だろうか。

 母親はこちらを振り返ると、状況をすぐに察知したのか、踵を返してこちらに向かってきた。
 彼女は男の子に笑いかけてから、俺と妹が拾い上げた荷物を受け取って頭を下げた。
 母親と手を繋いでいた女の子は警戒するような目で俺たちを見上げた。

「ありがとう」と母親は言った。男の子は立ち上がって母親の服の裾を掴む。
 母親は頭を下げ、子供たちは男の子は思い出したみたいにこちらを見て、気まずげに頭を下げた。

 俺は彼らの背中を見送りながら、できるだけ大勢の人がこのばかげた祭りを楽しめたらいいと思った。 
 本当にそう思ったのだ。




 ふと、俺は誰かに見られているような気がして、振り返った。
 
 俺はまた、自分があのイグアナの視線にさらされているのかと思った。
 祭りの雑踏の中でやるべきことを見失いそうな俺を監視しているんじゃないかと。
 
 でもちがった。その視線は、もっと現実的なものだった。
 錯覚かと思うくらいにささやかだけれど、そのまなざしは、たしかに俺を見ていた。

 そこに居たのはタイタンだった。

 俺は一瞬、戸惑った。
 明らかにこちらに気付いているのに、彼は俺に声を掛けてこなかった。
 目が合ってからも、しばらくはじっとこちらを見つめていた。

 彼の視線からは感情というものが抜け落ちている気がした。
 いや、抜け落ちているというより、隠されている、というような。

 そのなかには――勘違いかもしれない――敵意のようなものが含まれているように思えた。


 しばらく、目を合わせたまま互いに立ち止まっていたが、やがて彼の方から歩み寄ってきた。

「よう」

 と彼はぶっきらぼうな態度で言った。

「ああ」と俺は頷く。「一人か」と訊ねると、彼はそうだと言った。

 どことなく、彼は苛立っているように見えた。
 隣にいた妹が、怪訝そうにタイタンの方を見た。顔を合わせたことがないのだ。

「知り合いだよ」と俺が言うと、「そんなことは見れば分かるけど」と言いたげに、妹はこちらを見た。

 タイタンがなんとなく何かを言いたげにしているように見えたので、俺は妹にリンゴ飴を買いに行かせた。
 彼女は少し戸惑った顔をしていたけれど、それを引き受けてくれる。

 俺とタイタンは雑踏の流れから外れ、道の脇に並んで立ち止まった。

「一人でどうしたんだ?」

 訊ねると、彼は困ったように笑った。うまく笑おうとしたのに笑えなかったときの表情みたいに。


「べつに、たいした意味があるわけじゃない。偶然だ。気まぐれに、ひとりで来てみただけだ」

「ふうん……?」

 まあ、そういうときもあるのだろうと思った。
 
「なあ、ヒメ」

「……なに?」

「こんなこと言ったら、戸惑うだろうけど……」

 彼は言いにくそうに口籠ってから、笑い飛ばそうとするみたいにわざとらしい笑みを作った。
 それもやっぱり、引きつって見えた。

「……俺、昔からずっと、おまえのことが嫌いだったんだよ」


 タイタンは、俺の顔を見ようともせずに、そう言った。
 一瞬、周囲の音が遠のいたような気がした。
 
 視界が、少しだけぐらりと動いた気がした。
 俺は彼が冗談だと言って笑ってくれるのを待ったけど、彼は真剣な表情で地面を見つめ続けていた。

 わけがわからなくて、俺は言葉も出なかった。
 
「……急に、なに?」

 仕方なく、俺は自分で笑い飛ばそうと思ったけど、途中で馬鹿らしくなってやめた。
 彼はもう笑みを作ろうとすらしなかった。

「なんでなんだろうな。自分でもよく分からないんだけど、ずっとそうなんだ。
 最近は特に、そういうふうに感じるんだよ」

「……どうして?」

「分からない。自分でも、こんなの馬鹿げてるって思うけどな。
 だって、俺がおまえを嫌う理由なんてないはずなんだ。でも腹が立つんだよ」


 俺は返事ができなかった。心臓が騒ぎ始める。
 
「つまり、俺は、おまえの苦しみに共感できないんだよ。
 俺はおまえの家の事情もなんとなくは知ってる。小学校から一緒だったしな。
 だから、苦労してるんだろうってのは分かるんだ。
 でも、俺に理解できないのは、おまえの苦しみかたなんだよ」

「……どういう意味?」

「つまり、おまえの苦しみかたっていうのは、なんていえばいいのか分からないけど……。
 現実的じゃないんだ。社会と関わってないっていうか、精神的すぎるっていうか……」

「……観念的?」

「……まあ、たぶんそれ」

 彼は溜め息をついた。

「おまえはたしかに大変な目に遭ってきたんだと思う。
 でも俺の目には、おまえが自分の意思で苦しみを水増ししているように見えたんだよ。
 自作自演的っていうか、必要以上っていうか、まるで苦しみたがってるみたいに見えた。
 それが、なんていうか、自分を不幸だと思いたがってるみたいで、可哀想だと思いたがってるみたいで……」

 腹が立ったんだ、とタイタンは言う。


 俺は彼の言葉にショックを受けた。たぶん。
 よくわからない。悲しかったのか、腹が立ったのか。

「つまりおまえの言葉が、俺には意味のない言葉遊びに聞こえたんだ。
 おまえはそうすることで現実から逃げてるんだと思った。
 現実的に物を考えるのが怖いから、現実的じゃない考え方をしてるんだって。
 等身大の自分の身の周りのことから逃げて、見下ろすみたいに高い場所からものを見ているんだって」

 間違ってるか? とタイタンは首を傾げる。
 俺はなんだか馬鹿らしくなってしまった。
 
「なあ、どうして現実からかけ離れた思考遊びを続けるんだ?
 俺にはそんなのは逃避にしか見えなかった。だから腹が立ったんだ。
 だっておまえは十分すぎるくらいに恵まれていたじゃないか。
 傍にいてくれる人だっていたし、何かの現実的な困難に直面していたわけでもない……。
 それなのに頭の中で、自分で苦しみを作り出して、そこに引きこもってる」

 そんなのは間違ってるって俺は思う、と彼は言った。

 ……この感情を、なんと呼べばいいのか分からない。


 それでもどうにかして、口を開く。

「……まあ、その通りって部分もあるかもしれないけどね。
 観念的な苦しみなんてのは、おまえが言った通り、自作自演的なもんかもしれない。
 自縄自縛って言った方がいいか。結局、自分で自分を苦しめてるんだ。たぶんな」

「……そうだよ。俺たちは選択できるんだ。
 苦しみに溺れるか、それともそこを抜け出すために努力をするか。
 俺の目には、おまえが、努力もせずに不平ばかり言っていたように見えたんだ。
 そんなの、おまえの態度次第で、抜け出せたはずなんだよ」

「……タイタン、あのさ、おまえが俺のことをどう思っていたかは知らないけど……。
 俺はおまえのことを尊敬してたんだよ。いつも前向きでさ。努力家だし。
 自分なりの倫理観みたいなものを持ってて、他人に弱いところを見せようとしない。
 そういうところに憧れてた部分もあるかもしれない。でも……」

「……"でも"?」

「俺はたしかに観念的な人間かもしれないけど、おまえは少し感覚的すぎるところがあると思う」

「……俺にはおまえの言っていることが分からないけど、満足か?」

「話を聞けよ」

「……おまえはいつも、曖昧に言葉を濁してばかりだ」

 苦しそうに、タイタンは吐き捨てた。


「……自分の無知を他人のせいにするなよ」と俺は言った。

 タイタンは嘲るように笑った。

「……ほらな。結局おまえは、自分が他人より頭がいいんだって思ってるんだよ。
 自分が一番物事を考えてるって。小難しい言葉を使って得意げになってるだけなんだ。
 理屈で頭が凝り固まって、現実的な感覚ってものを蔑ろにしているんだよ」

 俺は一瞬、思い切りタイタンのことを殴り飛ばしたくなったけど、やめた。
 タイタンに感覚的な倫理があるのならば、俺にだって観念的な倫理がある。

「俺は、現実的な感覚を蔑ろにしているつもりはない。
 ただ、なんていうか、実感できないんだ。薄い皮膜越しに感じるみたいにさ。
 感情も感覚も、なんとなく遠く思えるんだ。蔑ろになんてしてない。
 俺はむしろそれを求めてるんだよ」

「……結局、自分の不幸を憐れんでいるようにしか、俺には聞こえないけどね。
 自分が苦しむことで頭をいっぱいにして、他人を気遣えなくなってるだけだろ。 
 でも、みんな同じだろ? それぞれに、苦しみながら生きてるんだよ。
 みんな必死に、自分で抱え込んで生きてるんだ。それくらい分かってもいい歳だろ?」


「……おまえには、分からないだろうな」

 俺の呟きをとらえて、タイタンは低く重く呟いた。

「結局、おまえの本質はそれだろ。自分の苦しみなんて人には理解できないって言ってるだけだ。
 自分の苦しみを、何か特別なものだと錯誤しているだけだ。違うだろ。条件はみんな一緒なんだよ」

「……違う。おまえが俺の言葉を理解できないのは、おまえが理解しようとしていないからだ。
 頭から決めつけて掛かって、こっちの話に耳を貸していないからだ。
 最初に自分の結論があって、そこを動こうとしていないからだ。
 おまえは俺が現実的な感覚を蔑ろにしてるって言った。
 でも俺に言わせれば、おまえは観念的なものを軽視しすぎてる」

「観念的なものというのがおまえのような考え方だというなら、蔑ろも何も、価値なんてない。
 小難しく考えて、話をややこしくするだけで、むしろ有害だ」

 俺は深く溜め息をついた。
 それから、どういえば伝わるのだろう、と考える。
 あるいはタイタンの方も、そんなことを考えているのかもしれない。
 自分が正しいと信じて、俺の考えを改めようとしているのかもしれない。

 ……でも、俺には彼の考えを改めさせるつもりなんて毛ほどもなかった。
 俺は分かり合いたかったわけじゃない。
 分からないなら、放っておいてほしかったのだ。


「選べないんだよ」と俺は言った。

「何が?」

「俺たちは、自分がどんな人間になるかなんて選べないんだ。
 俺は、こんな性格になろうと思ってなったわけじゃない」

「意思次第だろ」とタイタンは言った。

「その気になれば考え方だって変えられる」

「そう考えられるようになったのは、おまえ自身がそうなろうとした成果なのか?」

「……何が言いたい?」

「つまり、おまえが感覚的にしかものごとを考えられないのと同じようにさ。
 観念的にしかものごとを考えられない人間だっているんだ。
 そこに縛られてる人間だっているんだよ。本人の意思じゃどうにもならない。
 そうだろ? 味の好みみたいなもんだよ。同じものを食べたって好き嫌いは違う。
 本人がそうと望んだわけでもない。でも、そう感じてしまうんだ」

 そこまで言ってから、俺は溜め息をついた。


「なあタイタン、俺にいったい何を言ってほしいんだ?
 おまえの言葉に素直に頷けばよかったのか?
 そうだな、俺は自己憐憫に囚われていたよって? 苦しむかどうかはたしかに選択可能だって?
 世の中考え方次第でバラ色だって? 目から鱗が落ちたとでも言えばいいのか?
 なあ、おまえがどんな考え方をしようと自由だよ。
 おまえみたいな奴の方が、きっと世の中じゃ評価されるし、理解されるよ」
 
 タイタンは不機嫌そうにこちらを睨んだ。
 俺は馬鹿らしくなった。相互理解の意思のない意見の交換なんて無意味だ。
 どちらかが一方的に相手を啓発できるほど上下関係が決まっているなら、もともと対立なんて発生しない。

「俺はさ、前向きに物事を考える人が好きだよ。他人の痛みが分かる奴も好きだ。
 でも、前向きさを他人に強要する人間は嫌いだし、他人の痛みを軽視する奴も嫌いだ。 
 たとえおまえの言うように、小難しく考えて、自分で話をややこしくしてるだけだって、
 本人がその事実に気付いていなければ、そいつ自身にはどうしようもないんだ。  
 そこにはたしかに袋小路が存在して、その人はたしかに苦しんでる。そんなのは当たり前のことだろ?」

「……おまえが何を言ってるのか、俺にはさっぱり分からない。
 話を大袈裟にしているだけにしか聞こえない」


「異なった種類の人間がいるというだけだろ」と俺は言った。

「どっちかが間違ってるとか、どっちかが正しいとか、どっちの方がどうだとか……。
 そんなことを決めてどうするんだ? 天秤ではかって重かった方に、誰かがご褒美でもくれるのか?
 俺はおまえが間違ってるなんて思ってない。でも、自分が間違ってるとも思ってない。
 だからおまえが、自分だけが正しくて、俺が間違ってるって言うんなら、俺は自分なりの正しさを守るために反撃する。
 でも俺は、おまえの正しさを攻撃するわけじゃない。俺にとっての正しさを弁護するだけだ」

「……結局、言葉遊びか」

「俺はたしかに、観念的なものに傾いて生きてるかもしれない。
 でも、べつにそれで悪いなんて思ってない。
 疑うなよ、俺は俺なりに前向きなんだ。たしかに、ちょっとバランスを崩しがちかもしれない。
 でも、それでも俺なりの倫理ってものもちゃんとあるし、俺はそれに従って生きてるんだよ」

「……もういい。話すだけ無駄だ」

 タイタンは苛立たしげに首を振って、口を閉ざした。 
 俺は悲しかったけど、自分が何を悲しんでいるのか、よく分からなかった。

 それでも俺は、彼にそのまま黙り込んでほしくなんてなかった。


「タイタン、おまえの言う通りかもしれない。
 俺は自分で苦しみを作り出して、その中に引きこもっていたのかもしれない」

 それは、自己処罰だったのだろうか。
 なんてことを考えるのも、きっと観念的すぎる。

「でも、俺をそこから救い出してくれるものがあったとすれば、それはおまえの言葉じゃない。
 北風と太陽なんだよ。分かるだろ? ただ間違いを指摘するだけじゃ何も変わらないんだ」

「……べつに俺は、おまえを救いたかったわけじゃない。
 ただ、おまえが間違ってると思った。それを思うさま罵ってみたかっただけだ」

「だとしたら」と俺は言って、一拍間を置いてから、笑ってしまった。

「おまえは最低だな?」

 そんなわけがあるか。こいつはすごくいい奴なんだ。
 俺が笑うと、タイタンもちょっと気まずげに笑った。


「ヒメ、あのさ」

 少しの沈黙のあと、以前と同じような親しげな声で、タイタンは、こちらの様子をうかがうように口を開いた。

「俺、引っ越すことになった」

「……え?」

「急に、そういうことになった。いろいろあってさ。
 べつに、だからこんな話をしたってわけじゃない。
 おまえのことが嫌いなのは、本当だよ。……たぶんな。でも、よくわからない。
 たぶん、嫌いってだけでもなかった。自分でも、そういうの、はっきりとは分からないんだ」

「……」

「とにかく、そういうことになったんだ。今日、会えてよかったよ。……よかったんだと、思う。
 もしかしたら、もう会えなかったかもしれない」

「……そっか」

「……そろそろ行くよ」

「……うん」

「じゃあ……元気でな」




 タイタンがいなくなったのを見計らったようにして、妹は戻ってきた。
 両手にはリンゴ飴。その片方を俺に渡してくれた。

「なにかあったの?」と彼女は言った。

 なんでもないよ、と俺は答えた。なんでもないんだ。
 いつものことだ。当たり前のことだ。

 何もかも同じ形のままではいられない。
 俺たちは変化のただなかを生きているんだ。
 誰も免れることはできない。

 ただ当たり前のように過ぎ去っていく。




「どうしたの?」と妹は似たような質問をもう一度繰り返した。

 俺は諦めて答えることにした。

「引っ越すんだってさ」

「……友達が?」

「……うん」

「……そっか。それは、寂しいね」

「――寂しい?」

「……寂しくないの?」

「……いや」

 そうか、と俺は思った。寂しかったのだ。
 変わっていくこと。誰かがいなくなること。今のままではいられないということ。
 自分だけが変わらないまま、置き去りにされること。


 ――お兄さんの、本当の願い事って、なんだったの?

 いつか、シロが、俺にそう訊ねた。
 その答えを、今になって俺は知る。

 ユキトが世界を、どんなふうに感じていたのかも。
 きっとそれは、特別な視界じゃないのだ。
 何かが鮮やかに見えたり、素晴らしく感じられたりするからってわけでもない。

 ただ、変わっていくことが寂しい。
 良いことなんてなかったとしても。
 楽しくなんてなかったとしても。
 
 なくなったら寂しいから、そう願うんだ。
 なんてバカな勘違いをしていたんだろう。そう思った。

 失いたくないと思えるだけのものを、俺は最初からちゃんと持っていたのだ。

 深呼吸をして、考え事をそこで打ち止めにした。

 ……さて、そろそろ、行かなきゃいけない。




 出店が並ぶ大通りを離れて、俺と妹は、裏通りへと向かった。
 ユキトにあんなことを言っておいて自分はこれか、と少し嫌な気分になる。

 でも、俺がここを通らないわけにはいかなかった。

 古い家々が立ち並ぶ街並みを、縫うように流れる石造りの川。
 それに沿って長く伸びる、灯りの少ない暗い道。

 けれど、今はまだ薄暮だ。

 ……ずっと前。ずっとずっと前に、俺はこの道を歩いたことがあるような気がする。
 この場所を、こんなふうに、誰かと並んで。
  
 その誰かを、俺は思い出せなかった。





 見通しの悪い交差点に出る。
 妹は黙ってついてきていたけど、明らかに俺の行動を不審がっている様子だった。

 サクラが、あのとき言っていた。怪我をした猫だ。
 怪我をした猫がいなければ、あの出来事は起こらない。
 あの猫を見つけ出せれば、それでもう、この繰り返しは終わる。

 とはいえ、猫がどこから現れるのかは、分からない。車の通りは少なくない。
 場合によっては、猫を見つけることができても、道路に飛び出すのを止められないかもしれない。

 そのときはどうにかして、ユキトを止めなきゃいけない。
 あるいは、体を張ってでも……。

 どこか、楽観的な自分がいるのを、俺は自覚している。

 もし、神様が言っていた通り、「強制力」がなくなって、「誘導」だけが残っているなら。
 場合によっては、あの出来事は、既に起こらないんじゃないか?
 バタフライエフェクト的に、あの出来事は阻止されているんじゃないか?

 そう思う自分もいたが、それはあまりに都合のよすぎる考えだった。
 とにかく、今日は最善を尽くすしかない。あるいは、それ以後も、というべきかもしれないけど。




「ねえ、お兄ちゃん」

 交差点のあちこちに視線を巡らせていると、不意に妹が口を開いた。
 今まで文句のひとつも言ってくれなかったけど、そろそろ嫌気が差したのかもしれない。

「なに?」

「何を考えてるの?」

「少し、やらなきゃいけないことがある」

「……そう」

「……訊かないのか?」

「訊いてほしいの?」

「そういうわけじゃないけど……」

「そう。だったらいいでしょ」



 信号が切り替わるたびに、車は交差点を通り過ぎていく。

「……でも、ひとつだけ答えて、お兄ちゃん」

「……なに?」

「どこにも行かないって、約束したよね?」

「……うん」

 誰も俺たちのことなんて気に掛けてはいない。

 今夜ここで誰かが死ぬかもしれないなんてこと、誰も考えてない。きっと。
 ありえないことだと思ってるわけじゃない。
 それでも、頭の隅の方に追いやられてる。


 俺だってそうだ。今日を無事に乗り越えられたら、俺だってそういう日々に戻ってしまう。
 今日を無事に乗り切ったって、明日、何があるかも分からないのに。

 べつに、想定しないことが間違ってるわけじゃない。
 あらゆる可能性を恐れていたら、人間はなにひとつ行動できない。

 でも、だから最善を尽くすべきなんだろう。
 後悔のないように。

 そんな当たり前のこと。
 誰だって、子供だって知っているようなこと。
  
 それを俺は、こんな入り組んだ手順を通してでなければ、実感できなかったのだ。




 ずいぶん長い時間、そこに立ち尽くしていた。

 不意に。
 なきごえが聞こえた。

「……お兄ちゃん、猫だよ」

 なきごえ。

 足元から。

 その声に、聴き覚えがある。

 俺は、自分の足元を見遣る。
 そこにいたのは、シロだった。猫のシロ。
 俺が名前をつけた。綺麗な毛並みの、白い猫。

 妹は屈みこんで、猫を抱き上げようとして、眉をひそめた。

「……この子、怪我してる」


 怪我。
 言葉につられて、俺は猫の足を見た。
 
 ひどい怪我だった。
 怪我と呼んでは簡単すぎると思えるほど。

 猫同士で喧嘩をしたとか、どこかにぶつけたとか、そういう傷じゃなかった。
 それは明らかに、"誰か"によってつけられた傷だった。

 何かの理不尽にさらされてできた"傷"だった。
 俺にはそんなふうにしか見えなかった。

「……ひどい」と妹は言った。

 シロは抱き上げられたまま、不穏ななきごえをあげる。
 警戒するような唸り。それも当然かもしれない。
 逃げ出さないのが、不思議なくらいだった。

 不意に俺は、辺りの暗闇が、あの景色に似てきていることに気付いた。
 ユキトたちは、姿を現してはいない。
 でも、猫はここにいる。


 ユキトが助けようとしたのは、シロだったんだろうか。
 だとすれば、この猫を捕まえてさえいれば……。
 少なくとも、誰かが死ぬことはなくなる?

 ――信号が変わった。

 不意に、後ろから足音が聞こえた。

 振り返ると、そこにはユキトとサクラがいた。
 シロはまだ、妹の腕の中にいる。不機嫌そうに唸りながら。

 ふたりはこちらに気付くと、当たり前みたいに俺たちに声を掛けた。
 
 その声に驚いたみたいに、シロが急に、妹の腕の中でもがき始める。
 猫は唸り声をあげながらするりと腕の中を抜け出すと、まっすぐ走り出そうとした。

 進んだ先に交差点があって。
 ヘッドライトがちらついている。


 まずい、と俺は思った。ユキトとサクラは俺の後ろにいたし、だから飛び出せなかった。
 目的は達成したのかもしれない。……でもそんな問題じゃなかった。

 俺は思わず猫を追いかけようとした。
 けれど、それよりも少し早く、視界の隅から、道路の方へ、飛び出すみたいに猫を追いかけた影があった。

 その影は、猫の方へと手を伸ばしていて。
 バランスを崩しそうになりながら、白い猫を、大事そうに抱き寄せた。

 光に吸い寄せられるみたいに腕を伸ばした影は、妹のものだった。

 その影に、光が近付く。

 ――ひかり。

 ひかりが、目を覆う。
 ひかりが、影を塗りつぶす。

 彼女の着ていた浴衣が、どんな意味を持っていたかだって、まったく関係なく。
 ひかりが、塗りつぶす。





 ――景色が、鋭く、歪んだ気がした。
 ――風を切る、音が聞こえた。

つづく


◇01[Happy Birthday]

 
 ――クラクション。
 
 痛みと共に、意識が浮上した。

 誰かが俺を呼んでる。
 誰か? 違う。この声は、妹の声だ。

「お兄ちゃん!」

 そんな、必死そうな呼び声。ついでに猫が唸る声が聞こえる。 
 瞼を開くと、夜空が見えた。飛行機が、視界を横切っていく。
 体に何かが乗っているような重み。

 体の上に視線を向けると、浴衣姿の妹が、俺の上にのしかかっていた。
 俺と妹の身体の隙間で、猫がもがいている。

 車が行き交う音。誰かの足音。

「大丈夫?」

 サクラの声だ。……後ろの方から、近付いてくる。


「ふたりとも、大丈夫? 怪我、ない?」

「わたしは大丈夫ですけど……」

 状況がまだつかめなかったけれど、妹が「大丈夫」というのを聞いて驚いた。
 どうして無事なんだ?

「お兄ちゃん、大丈夫?」

 俺は背中や後頭部にざらついた痛みがあることに気付く。

「……痛い、けど、たぶん平気」

 何が起こったのか分からない。
 いったい何がどうなって、こんな状況になったのか分からない。


「びっくりしたよ、急に車の前に飛び出すんだから」

「……ごめんなさい」

「ホントに、びっくりしたんだからね」
 
 サクラはほっとしたような溜め息をついた。
 妹は、どこかしゅんとした表情のまま、こちらを見下ろしている。
 
 浴衣姿の女の子に見下ろされるっていうのはなんか気分がいい。
 と、意識がぼんやりしているせいか、そんなことを考えた。気の迷いだ。

 頭が痛い。
 内部じゃなくて、外部が。鋭く痛い。


「……ここ、どこ」

 と、出した声は、自分のものながら、なんだか眠たげで、気だるげで、間抜けだった。
 そんな声だったのに、妹は緊張の糸が切れたみたいに泣きそうな顔をしていた。

「……お兄ちゃん」 

「ヒメ、頭打ったりした?」

「……わかんない。なんか、猫が轢かれそうになって……」

「うん。それを追いかけて、しいちゃんが……」

 しいちゃん。そうだった、と思った。サクラだけが、そんなふうに妹のことを呼んだ。

「で、しいちゃんを追いかけて、ヒメが飛び出してって……」

 ……俺が、飛び出した?


「しいちゃんが猫を抱き上げて、猫を抱き上げたしいちゃんを、ヒメが間一髪で歩道に引き戻して……」
 
 その勢いで、地面にドン、と……。

 サクラの説明は大雑把だったが簡潔だった。

「大丈夫? 起きられる?」

「ごめんね」と妹は謝った。
 謝るなよと俺は思った。言ってしまえば俺が不注意だったのだ。 
 こういうことが起こりうるって分かってて、こいつを連れてきてしまったんだから。

 ……と、考えるのも、なんだか今は馬鹿らしかった。

「……じゃあ、生きてるのか」

「死ぬかと思った?」

 サクラがちょっと意地悪く笑うと、ユキトが「冗談になってないよ」と不機嫌そうに呟いた。

「本当に危なかったんだぞ。道路に飛び出すなんて……」

 ユキトは大真面目な顔で言った。
 ……でも、こいつだって飛び出してた。 
 あれも俺のせいだっけ? ……これが結果論ってことなんだろうか?


「……ごめんね、お兄ちゃん」

 緊張したのだろうか。怖くなったのだろうか。
 妹は、謝りながら泣きそうな顔をした。
 
「泣くなよ」と俺は言った。

「でも、危うく……」

 なおも言葉を続けようとする妹に、俺は言葉をぶつけた。
 ほとんど考えもせずに、言葉は溢れてきた。

「無事だったんだ。結果的にはだけど。結果的にはだけど……全部いい方向に動いたんだよ」

「……」 

「猫だって死ななかったし、車だって誰も轢かずに済んだ。
 俺だっておまえを見殺しにせずに済んだし、おまえだって猫を見殺しにせずに済んだ」

 これはほとんど、奇跡みたいなものだ。
 少し、疑わしいほどに。


 妹はまだ納得がいかないような顔をしていた。
 俺はなんとなくあたりの様子を見回すけれど、傍には誰もいなかった。

「誰かに助けてもらったような気がする」

 ユキトが、不思議そうに首を傾げた。

「誰かって誰?」

「分からないけど……」
 
 本当は分かっているような気がしたけど、口に出したら途端に嘘っぽくなりそうだったから、やめた。

 もしそうじゃないとしても、今はそういうことにしておきたい。
 妹はしばらくあっけにとられたような顔で俺を見ていたが、やがて息苦しそうな溜め息をついて、

「わたしを助けてくれたのは、お兄ちゃんだよ」

 と、小さく呟いた。


「立てる?」

 とユキトが俺たちに訊ねた。

 俺が立ち上がらずにいると、妹は心配そうにこちらを見た。

「どこかぶつけたの?」

 真剣な表情に、おかしくなる。

「……おまえが避けてくれないと、立てない」

 妹ははっとしたような顔になり、咳払いをしてから、平静を装って立ち上がった。
 追うように、俺も立ち上がる。

 体を動かしてみる。手足は擦りむいているみたいだったし、頭は地面に軽くぶつけたらしく、痛みがある。
 でも、無事だった。

 ……奇妙なことだ、と俺は思う。 
 そんな都合の良いことがあるのか? と。
 明らかに、間に合うような距離ではないと感じたのだけど。


「ほんと、危なかったね」

 サクラが、心底ほっとしたように溜め息をついた。
 猫が、静かに走り去っていった。
 足を引きずったまま。

 またあいつが車に轢かれそうになったらたまったもんじゃないと思ったけど、とっさに追うことはできなかった。
 逃がしてしまった。

「本当にね」とユキトが言った。

「よりにもよって、こんな日に危ない目に遭わなくてもいいのに」

「……こんな日?」

 俺が問いかえすと、ユキトは気まずそうにサクラと視線を交わした。

「……だから、せっかくのお祭りなのにってこと」

 あえて問い詰めることはせずに、俺は猫を抱いた。
 それから、不意に――ひかりのことを思い出した。
 
 思い出せる自分に気付いた。




 祭りからの帰り道を、俺たちは四人で歩いた。
 
 ふわふわと浮かんでいるような気分だった。
 夢の中にいるような気分。

 ひょっとしたら本当に夢の中なのかもしれなかった。
 
「なあ、ヒメ」

 ユキトが、半歩後ろを歩いていた俺に声を掛けてきた。
 俺はなんだか夢心地で、本当にこれが現実だという実感が湧かなくて、困っていた。
 
「一応、報告」

「……ああ、うん」

 何の話なのか、とっさに思い出せなかった。
 今日と昨日の繋がりも、一時間前と今との繋がりも、今の俺には曖昧だ。

「俺、サクラと付き合うことになったから」


「あ、うん」と頷きを返そうとしたところで、サクラが「ちょっと」と声をあげた。

「今言うの?」

「ダメだった?」

「ダメじゃないけど……」

 ふたりの表情はなんだかぽわぽわしていた。たぶん浮かれているのかもしれない。
 特にサクラの表情は、普段だったら絶対に見せないような戸惑いを浮かべていた。

 ユキトがその表情を見て、なんだか嬉しそうに笑う。
 
 妹がちらりと俺の方を見た。俺は溜め息をついてから、

「おめでとう」

 と仕方なく祝福した。その態度に、ふたりがむっとした表情を見せる。


「なに? 何か言いたいことでも?」

 サクラが妙に強気につっかかってくるが、たぶん気恥ずかしいのをごまかす照れ隠しなんだろう。
 あるいは、自分の表情からユキトの注意をずらしたかったのかもしれない。

「まさか」と俺は言った。

「心の底からおめでとう」と俺は言った。
 べつに皮肉のつもりもなかったけど、なんとなく皮肉っぽい言い方になってしまった。
 サクラは何か言いたげに口を開いたけれど、結局すぐに閉ざした。

「……とにかくそういうことだから」

「うん。それならよかった」

 本気で言ったんだけど、サクラはまだ、からかわれているときみたいな顔で拗ねていた。
 照れているのかもしれない。
 
「よかった」と俺は繰り返した。ユキトは不思議そうに笑った。
 
 俺たちはそのまま家までの道を一緒に歩いた。
 妹がサクラの家に着替えを置いてきていたらしかったので、俺たちはそのまま彼女の家へと向かった。


「こうしてると、なんか、懐かしいね」

 そんなふうに、サクラが言う。

「うん」とユキトが頷いた。

 妹は何も言わずに俺たち三人の顔を見比べた。
 俺は答えなかった。たしかに、懐かしい。
 
 でも、まだ俺は不安だった。
 今にまた何かが起こって、いろんなことが台無しになるんじゃないか。
 すべてが駄目になってしまうのではないか。

 そんな不安が消えてくれない。


 それが顔に出ていたのかもしれない。

「どうしたの、ヒメ?」

 問いかけてきたのは、サクラだった。

「……え?」

「なんか怖い顔してる」

 俺は自分の顔に手をあてて、そのまま頬を指先でつまんで揉んでみた。
 その様子を見て、三人は笑う。

「最近はずっとそんな顔ばっかり」

 サクラの声はすごく自然だった。
 ユキトも、妹も、笑っていた。笑えていなかったのは俺だけだったのだ。

 俺は、今、三人と一緒に、同じ道を歩いている。
 そう思った瞬間、今まで俺の心の奥の方で凝り固まっていたものが溶け落ちた気がした。
 巨大な岩のような予感。……それは、岩ではなくて氷だったんじゃないか。


「いつか」、「どこか」のことは分からない。 
 でも、「今」、「ここ」で、少なくとも俺たちは、一緒にいる。
 それなら、「いつか」「どこか」のことよりも。
「今」、「ここ」のことを考えればいいんじゃないのか。

 自分が何か見当違いのことを考えていたような、そんな直感と納得。

 そんなことに気付いて、思わず声をあげそうになるくらいびっくりして。
 それからそれが、すごく当たり前のことなんだと気付いた。

 だから思わず笑ってしまった。
 ばからしくて。

 三人は、夜道でひとり笑い始めた俺を見て、あっけにとられたような顔をする。

「……どしたの、ヒメ。頭、やっぱり強く打ったの?」

 そんなことまで言い始める始末だった。
 それすらもおかしくて、俺は更に笑ってしまった。

つづく

332-12 猫を抱いた → 溜め息をついた

たぶん次で終わります

乙でした
もしまだ見てるなら今後は深夜で書くのか速報で書くのかだけでも教えてほしい

>>398
本当に追ってたなら過去作わかるんだよなあ
まあ解釈をしたくなるのはよくわかるけどな。ヒナのこととか

>>400
短編は深夜、長編は速報というふうに使い分けようと思っていますが
次に何を書くか決まっていないのでなんとも言えません

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