ありす・イン・シンデレラワールド (50)
前置きを少し。昨年末に「アイドルマスターシンデレラガールズ」のノベライズゲームが出るというジョーク広告を見ましてそこにシナリオ募集が書いてありました。
最初に見たときジョークだと気付かずに本気でシナリオを書いて応募しようとしたものをここに投稿致します。
前に書いた物をシナリオ募集要項通り、「デビューに至るまでの前日譚」を4万文字程度で未発表のもの。
メインキャラクター以外のシンデレラガールズは登場させない。
それ以外のオリジナルキャラクター(プロデューサー、シンデレラガールズの家族など)は登場させても良い。
初登場時のプロフィールを元に大きな矛盾がなければ設定を付与しても良い。という取り決めの中で書き直したものになります。
ジョーク広告自体を「まとめサイト」で見ましてこちらを訪れたのはほぼ初めてになります。色々と初心者で拙い部分が多くありますがよろしくお願いします。
「まとめサイト」で見て、そちらでストーリーを考えた旨をコメントで残したところ反応頂けて「スレを立てても良い」と言ってくれた人が居たんです。
色々と悩みましたが新しいことに挑戦したく初めてスレッドを作成させてもらいます。
注意事項としましては名前のある明確な登場人物としてプロデューサーを登場させます。苦手な方はご容赦下さい。
こちらを訪れるのは最初で最後にしますので何か自分の良くない点に気付かれた方は遠慮無く言って下さい。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1389397967
1
秋から冬へと空気の冷たさが変化していく季節、一人の少女が草木を掻き分けるようにして走っていた。時は空が白み出す前の誰もが未だ夢の中、そこは人々にとって間隙であり一人の少女はとある総合病院の緑多い中庭の奥へと足を踏み入れていった。
その姿はまるで、ウサギを追ってこれから不思議の国へと迷い込む"アリス"のようであった。病や怪我を負っている人の心を癒やすために設けられた草木生い茂る中庭は大きく、少女が進む奥へと向かうほど緑は深くなっていく。
腰まで届く黒髪をハーフアップにして青い大きなリボンで留め、チェック柄のマフラーを首元に巻いて袖と裾に意匠を凝らしたコートの下には学校の制服を着ている。コートの裾からは深い青のプリーツスカートが覗け、そこから伸びる細い脚は頼りない。
凛とした目が印象的な整った顔立ちをした少女だ。しかし、大人びた雰囲気を見せる少女が持つあどけなさ――ぷにっとした触ることを誘う柔らかそうな頬――は彼女を十二歳という年齢相応に感じさせる。
橘ありすという日本では幾分珍しい名前を持つ少女は、深緑の葉に乗っていた朝露が弾かれる様に心奪われるように足を止めて見つめる。自分の指先が葉を揺らして散っていく水滴は目が暗闇に慣れているからこそ気付けることだった。湿った指先を彼女は拳を握って親指で擦ることで温める。元から冷たくなっており、それでは足りずに温かい息を吹きかけた。
そして、そこからありすは歩を緩めて森林のようになっている場所で少し開けた場所へと辿り着いた。ここが市街地であることを忘れられるほどに静かだった。大通りに面した総合病院、そこにある大きな中庭はまるでコンクリートのビル群とどこかの森が入れ替わったように錯覚する。斜向かいには小さな教会があり定時で鐘が鳴らされる。その瞬間に人々は目覚めて大通りが賑やかになる。
ありすは、今だけが自分の時間。と冷たい空気を吸って弾んでいる脈を落ち着かせる。自分もこの朝霧も今だけ形を成しているように思う彼女は木の根に学生鞄と胸に抱えていたタブレットPCを置く。マフラーを外してその上にそっと乗せると落ちないように細心の注意を払って手を離した。
開けた場所の中心に立つありすはピンと張っている背筋を少し逸らす。それは彼女なりの『背伸び』なのかもしれない。まだ背が低く華奢な少女が少しでも大人になろう、近付こうとする行為は誰にでも憶えはあるだろう。すぅっ……と全身に酸素を行き渡らせてありすは静かに、だが力強く歌い出した。
楽曲は日によって違く、今日は先日耳にしたアイドルの歌を歌い出した。寂しさを感じさせる曲調だった。何かに耐える強さとそれに反して何か後ろ髪引かれるものを感じさせる。普段のありすはアイドルの楽曲など歌わないどころか気にも留めないが、テレビ画面に映る厳かに歌うアイドルの姿に思わず目を見開いて耳を傾けた。
しかし、幼いありすには『恋』という言葉のすぐ後に出てくる『別れ』という歌詞を理解することは出来なかった。疑問に思うが頭の中に何度浮かべようと声に表そうとも疑問が解けることは無かった。冷たさの中に秘められた熱に触れるのを怖がるように、少女は恋に恋するように歌い続ける。
少女の歌声は土に吸われ木々に吸われ空へと抜けていく。ありすが自分の立つステージを"自分の場所"と定めた理由がこれである。誰にも気付かれることはない、自分の秘めたる思いの丈を。
そして、ありすは読書やゲームをしている時以上の集中力を発揮して歌いきる。目を閉じてコートを脱ごうか考えていると瞬間、冷たい風が吹いてほっそりとした脚に鞭打つ。こんな厳しい冷気が噛みついてくるときばかりはこの時間でしか思い切り歌えないことを恨めしく思う。
どこか頑なな少女、これも自分で決めたことと思いを一新してさぁもう一曲……と思ったところに不意の音で彼女の思考は遮られた。
拍手の音、ありすは怯えた表情でバッと振り返った。一瞬ありすの視界が自分の黒髪を振ったことによって覆われる。それがパラパラと下りていくと次に大きな瞳に映るのは長身に黒い短髪の男だった。
少女と向き合うのは若い男であり、きりりとした太い眉が特徴的で熱く優しい眼差しをありすに送っている。男は柔和な表情を取っていたが相手の怯えている顔に驚いて息を飲んでしまう。よくよく見ると男は水色のワイシャツの下にはパジャマズボンを穿いており、総合病院の患者であることが見て取れる。たまたま入院患者が早朝に散歩してありすの元まで足を向けてもおかしな話ではない。
しかし、ありすにとってこの場所に自分以外の人間が居ることは初めてで驚きと戸惑いが入り交じる。大人に対する、それも若い男に対して自然と恐怖を感じてしまう。自分の歌を聴かれた気恥ずかしさまでも昇ってくる。まだ十二歳の彼女の思考はぐちゃぐちゃになってしまう。
様々な感情が複雑に絡み合う頭と心でありすは言葉を詰まらせる。そんな様子に男は自分が何かとんでもないことをしでかしたのではないかと彼もまた言葉を失っている。その時だった、鐘の音が聞こえてくるのは。
冷たい静寂を破る厳格な鐘の音に男も女も、年齢さえも関係なく教会へと目を向けてしまう。それによって世界は動き出す、少女もまた例に漏れず。ありすは木の根元に置いていた学生鞄とタブレットPCを慌てて手に取り、急いで胸に抱くと脱兎の如く逃げ出した。
男は「あっ」と声を上げて少女の背中へと手を伸ばしてしまう。空は白みだし、駆ける少女の黒髪はさらさらと流れて陽光を弾き、男はぽつんと取り残される。長身の男、三笠 灯(みかさ ともる)は後頭部を掻いて呆然とする。
灯という男はアイドルプロデューサーであり、交通事故に遭って打撲と全身の至る箇所に骨折を負って入院していた。プロデュースする女の子と初めて出会うその朝に彼は車に吹き飛ばされたのだ。彼がプロデューサーとしての第一歩を踏み出そうとした時、それは掬われて盛大に転んだのだから完全に笑い話である。
怪我も治り、退院まで秒読みとなった彼は鈍った体の調子を戻すために散歩の足を伸ばすとアイドルの歌を耳にしてありすと出会ったのだった。そしてまたしても女の子に逃げられる。
灯はありすが立っていた場所に自分も立ってみる。ちょうど朝日が差し込んできて開けたそこだけ明るくなる。まるでスポットライトみたいだ、と彼は心地よい温もりを全身で浴びた。
「悪いことしちゃったのかな?」
灯が心に浮かんだ言葉をそのまま口にしてみせる。それと同時に腕を組んでため息をつくと申し訳なさの先、あの少女のために自分に何か出来ないかを考える。綺麗な顔立ちに柔らかな頬は良いアクセントとなっている。そして、人目を忍ぶように歌っている姿は絵画として扱われていてもおかしくなく思う。
「それなら」
ぐっと拳を握り、灯が掴んだ答えは最初から彼が気付いていたものだった。灯は自分と同じく少女に置き去りにされたチェック柄のマフラーへと視線を向けた。
その日の夕暮れ時、ありすはあの場所へと戻ってきていた。逃げるように、実際に逃げ出したのだが慌てて鞄とタブレットPCを手に取ったためにマフラーが手からこぼれ落ちてしまったのだ。本当ならすぐに取りに戻るはずなのだが逃げ出した相手を前にどう対処すれば良いのか分からずに学校からの帰りに意を決して足を踏み入れたのだ。
病院の敷地内にある中庭は日中は解放されているが夜から早朝にかけては基本的には立ち入り禁止になっている。もちろん、ありすは許可などもらっている訳もなく無断で抜け道を通って中に入っていた。もしも長身の男が病院関係者で怒られるかと思うと心細さを感じてならない。しかし、マフラーを無くしたことを親に勘づかれたら自分の行動を事細かに訊ねられてしまう。そのときに嘘を突き通す自信はなかった。だからこそマフラーを持って優しく微笑む男の前にやって来たのだ。
ありすの"自分の場所"に立つ長身の男は夕焼けのオレンジ色に染まっていた。彼だけでなく辺り一面が彼女が知る"自分の場所"とは変わってしまっている。一瞬まったく違う所に来てしまったのでないかと感じるも、それはただ彼女が一つの場所でも違う色を見せる事を知らなかっただけだった。
朝日が一日の始まりを告げるのなら夕日は一日の終わりを告げる。夜の帳が降りてくる時間にて名前も知らぬ若い男と幼い少女は再会を果たした。
「学校が終わって少し経ったこの時間に来ると思ってたよ」
ありすにとって灯の言葉と笑顔は今まで接してきたどの大人のものとも違っていた。ミステリー小説の受け売りだが『どういう風に人間を観察するか』というものを知っていた。ありすが見る彼のそれは事務的なものでも彼女を騙そうとする類いのものでもない。純粋に相手の警戒心を解こうとしていた。このまま何も言わなければ自分の経歴を話し出しそうな笑顔にありすは面食らう。
怒られることはなさそうでありすは少しばかり警戒心を解くとそこで一つの発見をする。男の肩が寒さによって微かに揺れていたのだ。男は早朝と違ってスーツを着こなしてネクタイも締め、いかにも社会人といった格好になっている。ありすはふと、目の前の男が病院関係者でなければ何の仕事をしているのか気になった。
(私を待っていた?)とありすはついつい口を開きそうになってしまう。
この男となら話が出来てしまうのではないかと思ったが、まだ完全に警戒を解くには早いともありすは感じる。そして無言で近付いて手を上げた。たださえ背の低いありすに対して灯の背は高く、物を受け取ろうとすれば手を上げなければならない。かかとを上げても彼の頭には触れることが出来ないだろうと改めて自分たちの身長差を感じ取る二人だった。
「はい。これが無くて寒くなかった?」
灯がありすにマフラーを返す。そのときにありすは寒い思いをしたのはあなたでしょう、と再び言葉が出そうになる。それと共にありすは相手の手が自分以上に冷たいことを感じながらマフラーを受け取って何の警戒もなしに首に巻いた。そして一礼だけでして回れ右、背中を向けて歩き出す。その背中に灯は声をかけた。
「今朝はごめんね、驚かせてしまって。あのさ……アイドルに興味あるの?」
ありすの足が止まりスレンダーな彼女のアクセントなっているぷにぷにとした頬がぴくりと震える。ありすはこのとき、なんで自分が振り返ってしまったのか分からなかった。もしかしたらこの場所に来にくくなって文句を言いたかったのかもしれない。それとも自分の歌のことについて話したかったのかもしれない。すれ違いの赤の他人は夢にて自分の心に触れるかのように……
「アイドルに興味がある訳じゃないです、歌が好きであの楽曲はつい最近耳に残っていたので。歌った曲がたまたまアイドルのものだった、というだけです」
「すごく綺麗だったよ」
男の笑顔が更に優しくなる。まるで幼い子供が百点満点のテストを見せてきてそれを褒める親のようだった。ありすはその『綺麗』という言われ慣れてない言葉に自分のことを言われたのではないかと顔をイチゴのように真っ赤にする。
「曲に合った繊細な声は伸びがあって思わず聞き入って拍手を送ってしまった。
ごめんね、ここはきっとキミにとって大切な場所なんだよね? 今朝は驚かせて本当にごめん。
もう、ここには来ないから……」
灯は名前も知らない少女をアイドルにスカウトしようとしていた。しかし、それを取りやめる。何故だかありすに触れることは彼女のアイデンティティを壊しかねない行為であると思えたからだ。彼女は誰かに聞かせるために歌っていた訳でないと思った。だから今度は灯がありすへと背を向けた。しかし前に出そうとした手に違和感、見るとうつむきながら自分のスーツを袖を引っ張るありすがいた。
ありすは何かを言おうと口を小さく動かすが声に出来ていない。胸に抱きしめるように持っているタブレットPCにぎゅーと力を込めていた。そして顔を上げる。その顔は真っ赤で瞳は潤んで今にも泣き出しそうになっている。
灯が目を白黒させてているとありすは遂に言葉を発することが出来た。それは歌声ではない男に聞かせる初めての声だった、少女は辿々しくも思いを乗せて。
「あの……もし、お時間があるのなら少し……いえ、一曲だけで……あのワンコーラスだけでもいい。違う……いいので、少しだけ聞いてくれませんか?」
灯の返答次第によっては本当に泣き出してしまうのではないかと感じるほどに言い終えたありすは口をわなわなと震わせていた。そんな少女に灯は振り向いて意外な言葉を返した。
「俺にキミをスカウトさせてもらいませんか?」
まるでプロポーズ、ありすの心が弾けてしまうほどに脈打つ。日が沈み灯の絶やさない笑顔が隠れていく。変わっていく時の中でありすと灯に教会の鐘の音が降り注いできた、それは何かが変わるか二人が自身を変えていく声なのかもしれない。
次の鐘の音が二人に届くには遠く果てしない。
2
アイドルプロデューサー灯と、少女ありすが出会いと別れと再会を果たした日から数日が経ったある日にありすは『三笠 灯』と書いてある名刺を手にして応接用のソファーに腰掛けていた。
彼女が居るのは大きなオフィスビルの一フロア、デスクが並ぶ事務所の一画にて目隠しとなる仕切りが設置、ソファーが足の短いテーブルを挟んで向き合っている。その片方にちょこんと座るありすは心細さを感じてしまう。
灯はありすにアイドルとなってもらうためにスカウトして相手の両親と顔を合わせて承諾をもらい、ありすを事務所へと招いたのだ。病院での中庭で少ない言葉を交わした日から再び会うのはこれで初めてとなる。
些か緊張した面持ちでいるありすの前に湯気の立つ湯飲み茶碗が差し出される。ありすが視線を上げるとそこには後ろ髪を三つ編みで纏めて胸元に垂らす女性がお盆を持って立っていた。緑色のジャケット、黒いタイトスカートを着用している背の低い女性はにこりと笑うと口を開いた。
「私はここで事務員をしている千川ちひろと言います。これからよろしくお願いしますね。
何か分からないことや不安に思うことがあったら遠慮無くお姉さんに言ってね。特に」と百五十センチほどの低い背の女性、ちひろはありすへと身を乗り出して人差し指を立ててみせる。「プロデューサーさんからのセクハラを受けたら絶対に伝えて下さいね。アイドルはイメージが第一、クリーンでいなくちゃいけませんからね」
そして、ちひろは柔らかに頬を緩ませる。ありすは相手から微かに感じられる柑橘系の良い香りや暖かい笑顔に気持ちが自然と浮き上がる。アイドル並みに整った顔立ちの女性の後ろに大柄な男がやって来る。
「お待たせ、ようこそマネキプロダクションへ」
灯がちひろと会釈しながらありすの元へとやって来て手を差し伸べる。ありすは緊張した面持ちで立ち上がり中指がピクリと跳ねる。迷い、結論は黙礼だった。そして、
「橘……橘ありすです」
彼女は一度自分の名前を言うことを悩んだ。一つの区切りとして改めて自分のことを話そうと思い、
「橘と呼んで下さい。その……アイドルには興味なかったのですが、将来は歌や音楽をお仕事にしたいと思っていました」
その言葉は彼女の本心だった。まだ誰にも言えなかった胸の内はきっかけが欲しかったのだ。言い出せなかった。もしも口にして否定されれば抗うだけの意志を見せることは出来ず誰かに肯定されたくても自分を表現する手段を知らない少女は灯に歌を聞かれて逃げ出すほどに幼かった。
頑なになることが自分を維持すると思った。だからこそ最初に宣言するように言い放つ。続けざまに灯に向かって、
「言われた仕事はしますから心配しないでください」
恭しく一礼するありす。それに対して灯は口角をひくつせる。灯はまだ彼女の歌とそこに隠している思いしか知らなかった。それだけで十分かと思っていたが自分の甘さを年端も行かぬ少女に気付かされる。
ちひろが二人のやり取りを見て灯の顔を覗き込む。そんな灯は初めてプロデュースする相手に自分の困惑を悟られないように無理やり口の端を上げて拳を握って二の腕の力こぶを見せるようなポーズを取る。
「そうだね、ちゃんと自己紹介すべきだったか。三笠 灯です。
実は頭を使うよりも体を動かすことが得意なんだけど、どんな社会でも体が資本だ。これから一緒に頑張ろう。よろしく頼む!」
溌剌とした口上にありすは何度目かの息を飲む。大人びた少女に子供のように笑う男、思いはすれ違って挨拶は交わされて互いに言葉を見失って黙ってしまう。自然と出来てしまった沈黙を破るのは大人の役目と、
「……えと、まずはアイドルとしての初仕事をしようか」
「初仕事ですか?」
ありすにとって魅力的な言葉、『初仕事』という音は彼女の心を弾ませる。
3
それから数日後、オレンジ色の空の下でありすは河川敷沿いを走っていた。長い髪を後ろで束ねて真っ青なジャージ姿をして横には同じくジャージ姿の灯がいる。その後ろには自転車に乗るちひろも居て単純な話、体力作りのために二人で走り込みを行っているところであった。
ありすの初仕事、宣伝材料用写真の撮影を終えた後にボイストレーニングを行ったのだがそこで重大な事実が判明する。橘ありすという少女はアイドル活動をするには決定的に体力が足りないのだ。
簡単なボイストレーニングを十分間ほど続けただけで全身から汗を噴き出して息を切らしてしまった、更には気分の悪さまで訴える始末。トレーナーに指摘を受けて灯はありすに基礎体力をつけさせるためにランニングをしていた。
季節は移り変わって冬となった。河川敷沿いの柔らかい土の上に居る者はありすたちと同じくジャージ姿で走っている者や犬の散歩や単なる散策に来てる者まで様々。そんな中で遠目からでも分かる身長差のある男女が並んで走っているのだ。
片方、少女は荒い呼吸を繰り返して汗で額に前髪を張り付かせている。片方、涼しい顔で走る男がいた。ありすは前髪が張り付いている気持ち悪さなど気に掛からぬほど疲労しておりそんな彼女に灯は、
「ありすちゃん、呼吸が乱れてるよ。教えたようにやってみて」
「ありすって呼ばないで下さい」
ありすは切れ切れの言葉で力なく灯を睨み付ける。だが、そんなありすに灯は首を横に振ってみせる。
「駄目駄目、走り切るまでは名前で呼ぶって約束でしょ? 基礎体力のない子にはお仕事はありませんよ」
灯の言葉にありすはむっとする。だが口を噤んでしまう。それと同時に最初にランニングをした時のことを思い出す。一キロメートルも走ることも出来ずに灯に背負ってもらって事務所に帰ることを余儀なくされたありすは自分の力不足を痛感して自責の念に囚われた。
その時に二人は約束を交わした、『橘ありすを必ずトップアイドルにする』という。
ファン一号――プロデューサーの男と、未来のトップアイドル――今は候補生と呼ばれる少女は共にまだ見えぬゴールを目指して走る。そして、そのゴールとしている河原へと下りる階段が遠くに見えてきた。名前を呼ばれたくない少女は一気に駆け出した。
「あらら、逃げられちゃいましたね」
太い三つ編みが風にたなびくちひろが灯へと視線を向けて灯は「はい、追いかけます!」とありすから視線を外さずに一心に相手の背中を追いかける。ぐっと脚に力を込めてボートを漕ぐイメージ、彼は全身で風を切る。すぐさまにありすの背中に追い着き、
「負けたら今日も名前で呼ぶね」
それだけ声を掛けて灯はありすから一気に距離を離していった。その姿にありすがかぶりを振って膝を折った。その場に手をついてアゴの先からぽたぽたと汗を垂らしていく。ありすの限界を知らせるサインであり、ちひろは自転車を止めて戻ってきた灯と目を合わせるとくすりと笑う。
ありすは灯に抱きかかえられて河川敷から腰を落ち着けられる場所まで降りる。肩で息をするありすはスポーツドリンクをちひろから受け取って一気に飲もうとするが三分の一を飲む前にむせてしまう。
「お疲れ様、ありすちゃん」
灯に声を掛けられて再び力のない射るような視線をありすは放った。しかしその矢は到達する前に地面に突き刺さる。広い階段の一画に三人は並んで腰掛けて日が沈んでいく様を見つめる。
「呼吸を整えたら帰ろうかね」
ありすとの走り込みが始まってからそろそろ一週間が過ぎようとしていた。帰りはちひろが乗る自転車の後ろに乗せてもらうか灯に背負ってもらって事務所へと帰ることになっており、ありすは最初こそ頑な拒んだものの体験したこともないような疲労感に泣く泣く従ってしまう日々であった。
ありすがどれだけ拒もうとも灯やちひろなどが手助けして幼い少女は何度もその手を受け取ってしまった。そんな自分に自己嫌悪しそうになるがアイドルの歌に興味が勝って今に至る。
知れば知るほど興味が湧いてくる世界にありすは居た。彼女は言う、「歌には"力"があると思う」と。灯から幾つもサンプリングを受け取り聞いてみてまだ遊びたい年頃の少女はアイドルとなるための活動に自分の時間の全てを割いている。
学業を終えて走り込みの後、帰宅すれば今まで見向きもしなかった楽曲を聞いて気付けば深い眠りに落ちているという日々を送っている。ありすへと訪れた変化は彼女が想像していたものとは少しばかり違ってしまった。
ありすが口元にタオルを当てて呼吸を整えていると灯は急に立ち上がって彼女たちから離れて河原まで降りる。そして、ありすとちひろから見れば逆光の中で彼は屈伸しながら腕を振り上げる動作を繰り返す。ありすは小首を傾げてちひろも不思議に思って訊ねる。
「どうしました?」
「はい、ちょっと久しぶりに……」
そして灯はふっと息を素早く吐いて膝を曲げて腕を前へ、屈伸運動と腕の振りの連動、地面を大きく蹴って滲んでいく橙色の光の上弦をなぞるように空中で背を逸らす。突然のことにありすは呼吸を忘れてその動きを見つめた。
灯はアゴを上げて空中で回転してみせる。大きな音を立てて両足を再び地面につける。刹那、上半身がバランスを失って後ろに受け身も取れずに倒れた。
「ははははっ、やっぱり体鈍ったなー」
地面に大の字に寝そべる灯は空を仰ぎながら何が面白いのか肩を揺らして大口を開けて笑う。そんな彼に周りの視線は集まっていた。ちひろが慌てて灯へと駆け寄っていく。
「大丈夫ですか!?」
ちひろに心配されて灯は「大丈夫です」とはっきりとした声と共にしっかりと頷いてみせた。体勢はそのままに灯は首だけ動かしてありすへと視線を向けた。
「失敗、失敗」
白い歯を見せて笑う灯にありすは赤くなっているであろう顔をタオルで隠し、ちひろは少し困ったような笑みを浮かべて腰に手を当てた。
申し訳ありません。行間については今回は利用していないのですが有用に使う場合があるので空けません。
4
またある日、スチール製空気振動遮断ドアを越えて防音設備の整ったレッスンスタジオにてジャージ姿のありすは壁を覆うパネルミラーに映る自分と向き合ってダンスの振り付けを一つ一つ確認しながら踊っていた。
まだアイドルとしてデビューをしていない少女に持ち歌もそれに合わせた振り付けもなく、ありすは自分が所属するマネキプロダクションに在籍する先輩アイドルのそれを真似ていた。
いつも持ち歩いているタブレットPCを鏡に立てかけて画面に映る眩しい笑顔を浮かべるアイドルの動きを再現する。それを巨大な鏡できちんと再現出来ているか確かめていく。そこに灯がやって来る。
「お疲れ様、ありすちゃん」
「橘で。苗字で呼んで下さい」
ありすがスポーツドリンクを持ってきた灯へと鋭い視線を飛ばした。一瞬場の空気が固まるのを二人は違う熱を感じることで共有する。ありすは自主的なダンスレッスンが中断してしまい灯は曖昧な笑顔を浮かべて、
「駄目?」
「駄目です」
短い言葉でのやり取り、灯は笑みを作りながら眉根を寄せる。ありすはこの笑顔に何度かほだされて名前で呼ぶことを容認してきたが今日の私は違う、という意気込みを持って毅然と答えたのだった。
「今はどんな曲を練習しているの?」
灯の分かりやすい話題変更にありすは敢えて乗る。近付いてくる背の高い男にタブレットPCを操作、動画を再生させて示す。凛とした少女の雰囲気とは似ても似つかぬファンシーな曲調のものだった。
「動き自体は少ないのですがそれだけにメリハリを効かせないと何をやっているのか分からなくなるが難しいんです」
ありすが胸元の高さでタブレットPCを持って灯は身長差を考えて腰を大きく曲げて画面を覗き込む。急に顔が近付いたことにありすだけが内心慌てふためく。灯は神妙な面持ちで砂糖菓子のような甘くとろける歌詞に耳を傾けて色鮮やかな衣装に身を包む少女を見つめる。端から見れば珍妙であるが本人たちは真剣そのものだった。
「よっしゃ! じゃあ、ちょっと一緒に踊ってみようか」
背広姿の男がその背広を脱いで腕まくり、ありすの横につく。
「え?」ありすの不安。
「え?」灯の疑問。
二人が顔を見合わせる。「どうしたの?」と灯に言われてありすは、
「一緒に踊るんですか?」
「うん」
しばしの沈黙、後のため息混じりの少女の発言。
「プロデューサーは、プロデューサーらしくないです」
「ははっ、この間ちひろさんにも言われたよ。でも今はトレーナーさん忙しそうだしさ。
俺がその代わりにならないことは分かってるけど見てるだけっていうのは違うと思うんだよね。もちろん一緒にステージには上がれないけど」
「当たり前です」
「うん。だから自分に出来ることは見送りたくない」
頑なな表情の少女に柔らかそうな表情の男。どこを切り取っても真逆になりそうな二人は視線を交える。灯が一方的に受け取っているような印象を受ける中でありすもまた相手から何かを感じ取っていた。だからだろう、頬を緩めるのは。
「プロデューサーは変わってますね」
「あははっ、それも何でかよく言われるんだよ」
ありすが深く息を吐いてそれと共に肩から力を抜いていく。脱力を自然と出来る自分に少しだけ驚きながら年上の男に何を言っても駄目そうなので一緒に踊ることを決めて鏡に映るちぐはぐな男女と向き合う。
二人は踊りながら、
「プロデューサーはどうしてアイドルプロデューサーになったんですか?」
ありすから声を掛けられて灯はいつもよりも声を弾ませて、
「実は別で就職先が決まってたんだけど『そっち』に行ったら何だか自分が今まで積み上げてきたものから逃避するように思えたんだ?」
二人は「ステップが逆です」や「ちょっと早いよ」と互いに声を掛けながらタブレットPCから流れてくる音楽に合わせてダンスを続けていく。灯の言葉がありすにとって意外であり頭に浮かんだ言葉がそのまま出てしまう。
「逃避ですか?」
「うん。妥協……かな? したくなかった。そんな時に樫木社長に声を掛けられたんだ。就職案内のパンフレットを持っていたから多分それを見て、声を掛けてきたんだと思う。
『ピンときた』って言われて最初は何が何だか分からなかったんだけど『夢を追う』って言葉に惹かれて慣れない背広に袖を通すことを決めた」
「『夢を追う』……ですか?」
「ああ……!」
ありすが灯の眼差しを見つめる。彼は今パネルミラーに映る自分たちを見ている訳でないと気付く少女は男の瞳を通してまだ遠い先のことに思いを馳せた。自分たちは同じ目標、同じ未来を目指していることに気付く。
「そしてキミに出逢った。そして、惚れた!」
灯が何の臆面もなく言い切りその声を受けた少女は硬直する、片足を上げたアンバランスな体勢で。当たり前にありすは背中を引っ張られる形で体を大きく後ろに傾ける。それを察知する灯は目を剥いて大きな手を必死に伸ばした。
灯の反応は素早く、彼の行動はありすが倒れるの食い止める。腕を掴んで本気で力を込めればぽっきりと折れてしまいそうな頼りなさを自分へと引き寄せると少女の軽い体は二人が思ったよりも浮き上がる。それをキャッチ、気付けばありすは灯に抱きかかえられていた。
「大丈夫? ありすちゃん」
「は、はい」
何が起きたのか分かっていないありすは相手の温もりを感じ取ることで不思議な浮翌遊感の正体にやっと気付いた。すると、ありすの体温がどんどん上がっていく。顔を赤くしてうつむくありすに灯は心配になって顔を覗き込む。
「本当に大丈夫?」
灯は声を掛けながら腰を下ろしてありすを自分の太ももに乗せて片腕を空けるとその手で相手の前髪を掻き分けて表情を覗いた。隠れていた小動物が見つかって焦る様をそのまま体現してありすは視線をさ迷わせる。その視線の先に回り込むと目が合い少女は目をギュッと閉じた。
相手の反応に合点のいかない灯は首を傾げながら、しょうがないと再びありすを両腕で抱きかかえるとパイプ椅子まで運んで座らせた。
「疲れちゃったのかな? 少し休んだら事務所に戻ろうか。今タブレットを持って来るね」
灯がありすから視線を外してパネルミラーに立てかけられているタブレットPCの元まで行こうとする。しかし、自分を引く小さな握力に気付いて足を止めて振り返った。そこには未だうつむいたままのありすがいた。
ありすの細腕が自分の服の端を持っているのを見て灯は口を開く。
「どうしたの?」
「…………」
声を掛けるとありすは灯の服を掴む力を強めた。そして、つっかえつっかえ――初めて出会った日と同じように――言葉を紡ぐ。
「……あの、『惚れた』……って」ありすは知りたいという思いと知ったら怖いという思いが交差して訊ねないといけない言葉を小さく言い、「どういう……意味ですか?」
「そのままの意味だよ」
思わずありすが灯から手を離してしまう。灯はありすと視線を合わせて向き合い、
「キミの歌に惚れた」
「へっ?」
青天井となっていた少女の体温がぴたりと上昇を止める。そんなことなど露知らず灯はぐっと拳を握りしめて力強く訴えかける。
「初めてキミの歌を聞いたときに一目惚れしたんだ。……って、あれ? 前にも言わなかったけ?」
灯とありすが思い出すのは病院の中庭で灯が述べたありすの歌への感想だった。少女の高翌揚が嘘のように冷たくなっていく。冷めた眼差しを向けられる灯が相手の名前を呼ぶ。
「ありすちゃん?」
「名前で呼ばないで!」
言葉と共に突き出されるようにして振られる平手。灯の頬を打つ快活な音がレッスンスタジオに心地よく反響する。そして頬に綺麗な紅葉を咲かせた灯は、
「えと……ごめんなさい」
5
オフィスビルの一フロアにある三笠 灯と橘ありすが籍を置くマネキプロダクションはアイドル業界では中堅どころとしてそこそこ名の通った事務所であった。自社ビルではないもののビル群の中で頭一つ高いビルに収まっている。
そのビルの中にはアイドルとは縁遠い企業も入っているために時として背広を着た男性と奇抜な格好をしたアイドルが同じエスカレーターに乗ることもある。最上階ボタンを押せないほど小さな女の子とその母親と同い年のOLが乗り合わせることもあり、このビル内では日々奇々怪々な光景が展開されていた。
そんな日常の中で終業を知らせる夕暮れ時、オレンジ色に全てが上塗りされるが冬場のために今はこの時間は儚い。窓から夕日の色を受け取る通路を背の高い男と背が低く髪を三つ編みで纏めた女性が並んで歩く。
「倉庫の片付けを手伝ってくれてありがとうございました、灯さん」
「いえいえ、あれぐらいはおやすいご用ですよ。ちひろさんには走り込みに付き合ってもらってますからね」
アイドルグッズの試作品や等身大ポップなどを置いておく倉庫を整理整頓してきた二人は言葉を交わしながら事務所へと戻っていく。灯の言葉にちひろは少し申し訳なさそうに、
「付き合うといっても私も手が空いてる時しか出来ませんけどね」
「それで十分ですよ。そもそも力仕事なら男がやらなきゃ」
「はははっ、灯さんはフェミニストなんですか?」
「? そうなるんですかね? 昔から力仕事が回されてくるんで自然と自分のやることなんだなって思ってるんですよ、俺の場合」
ちひろはポンと手を合わせてその片方を上げて相手の背を測ろうとする。
「本当に大きいですよね。肩幅も大きいし『男の人』って感じです」
目に見えて身長差のある……もっとも灯の背は百九十センチに届こうとしていて大体の人間と並ぶと自ずと相手を小さく見せてしまう。そんな二人は微笑み合い灯は頷く。
「この間測ったら前より一センチ伸びてましたよ」
さすがにちひろの笑顔が幾分引きつる。
「まだ大きくなるつもりなんですか? あなたは」
「プロデューサーとして成長途中で伸びしろがあるってことですかね?」
灯が笑い、それに釣られてちひろも引きつっていた笑顔が自然なものになる。そんな折に灯の笑顔に少し影が差して躊躇いがちに口を開いた。
「あの……」
灯にしては珍しく口籠もってちひろが相手の変化を敏感に感じ取る。一瞬のまばたきをして視線を改めて相手へと投じる。そして相手の発言を待つ。
「彼女は、どうしてますか?」
またしても珍しく言葉を濁して使いちひろは最初何のことを言っているのか分からなかったが人差し指を振ってみせ、自分の頭の中に入っている情報と灯の言葉を結び合わせることに成功した。
「ああ、あの子でしたら……」
そこで事務所の扉に辿り着いて会話は中途半端なところで切られる。ちひろが扉を開ける途中でその手を止めた。その様子に灯が相手の顔を覗き込んで声を掛ける。
「ちひろさん?」
ちひろは半開きにしている扉を静かに閉めて灯へと表情を廃した顔を向ける。突然の無表情に灯が出掛かった言葉を飲み込む。
「私、倉庫に忘れ物しました」
「そうなんですか? あっ、重たい物ならてつだ……」
「一人で大丈夫です」ちひろが灯の言葉を遮る形でぴしゃりと言い放つ。続けざまに「少し時間かかりますから。それと今は一つのことに集中して上げて下さい。そうだ、変なイタズラはしちゃ駄目ですからね」と口を挟ませる隙を与えずに灯の肩をポンと軽く叩いて小走りでその場から去って行った。
頭に『?』マークを浮かべる灯が事務所の扉を開いて中に入る。整然と並べられたデスクの数々は夕日に彩られて長い影を伸ばして何かの影絵になっているようだった。静かな室内に灯は少しばかりの心地よさを感じる。だが、その完全ではない静寂を揺らす吐息が聞こえてくる。
灯は自分のデスクに誰か居ることに気付く。相手は彼に気付いていない、それもそのはずで小さな少女は椅子の背もたれに身を預けて寝ているからだった。さらさらの黒髪が夕日を映して蠱惑的な光彩を放つ。コートを机の上に置いて暖房の効いた室内でタブレットPCを胸に抱えたまま、柔らかな頬をもつありすは可愛らしい寝息を立てていた。
(ありすちゃん)と心の中で相手の名前を呼ぶ。本人は嫌っているが灯は彼女の名前が純粋に好きだった。そしてこれからアイドルとして活動するのなら名前で呼ばれる機会はぐっと増えてくる。そのことを考えると今から慣らしておくべきと感じる彼であった。
そっと精巧に作られた人形のように眠るありすへと近寄る灯は相手を起こそうか考える。首を少し横に倒したまま綺麗な寝顔をしているありすを見るとどうにも起こし辛くなるがもうすぐ日が暮れることを考えれば、いやしかし……
暖房が作動している音が響き渡る室内で灯は音には出さずに唸ってみせる。そうこうしていると彼は自分の手が勝手に動いていることに気付く。
「!? 体が勝手に……」
思わず声に出して灯は咄嗟に手で口を塞ぐ。しかし、ありすへと伸びている手はゆっくりとだが着実に彼女の頬へと近付いていく。初めて見た時から気になっていた部分であった。マシュマロと表現しようか天使のほっぺたと表現しようか、柔らかくも張りがあってしっとりと指先を包み込む感触に、
(すでに触れている!?)灯は自分の行動とありすの頬の感触に驚嘆して声が漏れそうになるのを瀬戸際で阻止した。
灯の中指がありすの頬に接触している、触れたところで止まっているのだ。しかし彼の手は更に伸びてしまう。指先一本で満足するはずがなく未知の領域に踏み込むように、新雪を踏みしめる無邪気な子供のように求めてしまう。
親指をあてがい頬に滑らせる。ただ滑らすだけでなく感触を確かめるようにほんの少しだけ押し込む形でスライドさせていくのだ。その終着点、親指のはらを名残惜しむようにありすの頬は弾んで離れる。
そこで慌てて灯は息を深く吐いた。自分が呼吸を忘れていたことに気付く。自分の知らない感覚が自身を支配していく。隣のデスクから椅子を引っ張ってきて灯はありすの頬と相対する。真剣な眼差しは夕日を受けてなのだろうか真っ赤な火が灯っていた。
人差し指の手背の部分で柔らかさを確かめるようにぷっくりとした僅かな膨らみを持ち上げる。不思議な感触だった、人の温もりが伝播して柔らかさは緩さでも脆さでもない。張りがあって形を保つそれに嫌味はなく絹の肌触りよりも良質、この時間が終わることなど考えられないほどにありすの頬を触る者は魅了されて意識は集中される。
だからだろうか、
「何をされてるんですか?」
などと声を掛けられて手の平全体でありすの頬を弾ませている灯はやっと相手が目を開いていることに気付けたのは。
「ひぅっ!?」
灯がその大きな体には似付かわしくない小さな悲鳴を上げて固まってしまう、手は未だにありすの頬につけたまま。
欲望と理性のせめぎ合い、激しい火花散らす鍔迫り合いは熱をエスカレートさせていく。誰も近付くことの出来ない触れれば断たれる切っ先と切っ先が闇夜へと溶けるように……とおかしな空想に囚われそうになる灯は慌てて手を引っ込めた。オレンジ色の光が差し込まれていても分かるほどに灯の顔は紅潮しており、そんな彼の様子にありすも気恥ずかしさを感じる。
「あの……」
先に声を発したのはありすだった。次の言葉が出てくる前に灯は合掌、頭を大振りして一声、
「ごめん! 本当にごめん! ごめんなさい! すみません! 申し訳ありません! あってはならないことでした! 弁解の余地もございません! 深く反省しております! 今後、このようなことがないように全力を尽くす所存であります!」灯が述べる謝罪のオンパレード。
そんな様子にありすは言葉を失ってしまう。灯は首が取れてしまうのではないかというほどに下げて硬直していた。微動だにしない彼にありすは少し考えて鼻でため息、椅子から腰を下ろして中腰で相手の表情が見える位置にまで移動すると灯の頬に触れた。
「私のほっぺた触ってたんですか?」
目を閉じて口を真一文字に結んでいた灯が表情筋を緩めてありすの顔を覗く。
「ごめん、ありすちゃんを見てたらついつい手が伸びてたんだ」
「もういいです。これで『おあいこ』で」
合わせていた手を離して灯が顔を上げるとありすは椅子に座り直した。
「実は友達にも時々ほっぺた触られるんです。ちょっと驚きましたけど、あれだけ謝られたら何も言えなくなっちゃいます」
「えと……夢中になるぐらい気持ちよかったです」
「なっ!」
ありすが自身の熱が上がってくるのを感じて身を乗り出そうとした刹那、ふっと辺りが暗くなった。日が完全に暮れたのだ、部屋の明かりが灯っていないために一気に暗くなる。それと同時に灯が照明スイッチの元へと行こうと立ち上がる。二人の行動が一致、速度が合致、目が暗闇に追い付かずにぶつかれば体の小さい方が自ずと弾かれる。
「ありすちゃん!」
男が必死で手を伸ばす。少女の背中に手が回って自分に引き寄せる。ほっと一息つけるのは少女の温もりが間近に感じられるからだった。暗闇の中、相手の顔は分からぬというのに体温と鼓動は二人の間で行き来する。
「……プ、プロデューサー」
自分でも分かるほど鼓動が耳障りに、それを聞かれたくない少女は声を上げる。男はすぐに手を離してしまう。名残惜しむように小さく「あっ」と声を漏らすがそれは相手に届かずに、
「大丈夫だよね? いきなり暗くなっちゃったね。すぐに明かりをつけるからここから動かないで」
暗闇に溶けていく大きな背中に少女は自分でも気付かずに手を伸ばしていた。繰り返し、しかし今回は届かなかった。空を切る少女の手はどこに行くでもなく闇に紛れて拳を作っては開いた。
不安が形を成している、ありすは直感で自分の行動を推し量る。そんなときカコンと何かと何かがぶつかる音と男の「いてっ」という声が重なる。不安が自然と拭われて少女は頬を緩ませていた。
6
「ありすちゃん!」
「名前でよば……」
お決まりの光景が展開されようとした。昼下がりのアイドルプロダクションにて背の高い男が少女の元まで駆け寄ろうとする。男の上げられる脚が床に置いてあった段ボールにひっかかり中に入っていたケミカルライトスティックを盛大に吹き飛ばす。その事に気付かない笑顔の男が少女の視界一杯に広がってくる。
小柄な少女にとって恐怖でしかなくありすの全身が硬直、言葉が出てこない初めての感覚に戸惑ってしまう。灯はいつも以上に子供のようにはしゃいで手に持つ紙を振るう。
「オーディションを取ってきたよ!」
固まっていたありすを解きほぐす言葉だった。ありすの瞳がまんまるに見開かれる。灯が手に持つ紙面を相手に見せる。そこには『Hallo IDOL』と書かれてあった。灯の後方では先輩プロデューサーたちが床に散らばるケミカルライトスティックを回収している。誰もが担当アイドルのデビューへと繋がる道が初めて見えた時の高翌揚感を思い出すと叱るのは後にしようと思ってのことだった。
"Hallo IDOL"とは有象無象にアイドルが輩出される今の時代に作られたテレビ番組でありアイドルが新しいアイドルを紹介してトーク。そして持ち歌発表の場としてアイドル業界の人間も見ていると噂されるメジャー番組であった。
オーディションの倍率は高く灯の今の熱気も頷ける。ありすが灯から紙を受け取ってそこに自分の名前を見つけて嬉しさたくさん、少しだけわだかまりを憶えた。
「ありすちゃんのデビューのチャンスだよ」
ありすの中でわだかまりが大きくなる。顔を上げてやっといつもの言葉が出てくる。
「だから、名前で呼ばないで下さい」
「うーん……」灯は腕を組んで眉根を寄せた顔を見せる。「駄目?」
「駄目です」
二人が顔をつき合わせる。
「でもデビューした時にフルネームが全国放送されるんだよ? 出来れば名前を呼ばれるのを少しでも慣れて欲しいんだ」
灯が困ったような顔のまま知らず知らずのうちにありすの心に揺さぶりを掛ける。だが彼女も譲れないものがあってこの場にいることを自覚する。
「私、ありすって名前が嫌いで……個性的と言えば、そうですけど」
互いに平行線を辿りそうになる重い空気を感じてか灯は相手を安心させるために微笑みを浮かべた。
「……今日は走り込みはお休みして少しお話しよう」
ありすは制服の下に体操服を着てきていることを言い出せず彼に従って応接用のテーブルに腰を掛けた。そして灯が淹れてきた紅茶を受け取って向かいに座る男を目にしながらラベンダーの香りを口に含ませた。
「えとね。何から話そう? じゃあ、橘ちゃんって呼ぶね」
「は、はい」
ここに来て灯は初めてありすのことを苗字で呼んだ。そのことに彼女は普段とは違う反応を取った。自分でも分からない心境に頭がついていかないが頷いてしまったものを撤回は出来なかった。
「そうだ。俺の名前も少し変わってるだろ? トモルって」
「え、ええ……」
ありすは「灯」と頭の中で繰り返した。年上の若い男性を名前を呼ぶ感覚に言い知れないものが生まれる。
「『火が灯る』って意味合いで名付けたんだって。俺の場合は自分の名前に疑問とか違和感を覚えなかったんだけど色んな人に『三笠 灯』を一回聞いただけで覚えてもらえたんだ。そのことに気付いたのも最近になってからなんだけどね」
笑う灯にありすは何故笑えるのか不思議に思いつつ自分のことを語る彼の言葉を待っていた。
「人に覚えてもらえる。……人の記憶に残るのって実はとっても大変なことなんだ。同時に素晴らしい」
「人の記憶に残る……」
灯が言ったフレーズをありすが自然と反芻する。灯が柔らかな笑顔になって頷く。
「うん。それは小説や映画、テレビゲームや漫画でも一緒なんだけど人の記憶に根付くように残ると時間の経過なんて関係なく鮮明にリフレインされる。時として人を動かす原動力になるんだ。
ありすちゃん、前に歌には"力"があるって言ってたでしょ?」
その言葉にありすが深く頷く。相手の迷いない意志を見て灯は言葉に出さないも嬉しく思った。思いを知らぬうちに共有している。だから灯は次にこんな言葉を持ってきたのだった。
「歌は文化や言葉の垣根を越えられる。でも、それを届けるためにはまずは"自分"を捨てないといけない。"自分の想い"を誰かに伝えるためには自分を顧みたらいけないんだ」
「"自分"を顧みない」
灯は少し眉根を寄せて苦い顔を相手に見せる。
「って、偉そうに言ってるけど俺自身何か出来た訳じゃないんだよね」
ありすはその言葉を否定しようとした。そんなことありません、あなたは……なんて言葉が出てくるはずだった。しかし少女の言葉が形になる前に男はありすを見据えてまっすぐと言った。
「でも、キミの歌は俺の記憶に残っているよ」
思いもしない言葉、思い掛けない温もり、小さな体に秘められた高鳴りは瞳からこぼれ落ちて姿を見せた。
「あっ、ありすちゃん!?」
思い掛けないのは灯も同じで立ち上がってありすの傍らで膝をつく。決して相手のことを責めるようなことは口にしていない自信はあったが『女心』という言葉を考えると自分がまた何か失敗してしまったのではないかと慌ててしまう。
ありすは顔を伏せて片手で相手を制してもう片方の手でとにかく拭っていく。
「違います、違うんです……」
違うと繰り返すばかりのありすに灯は困惑するばかりだったが彼女は何とか呼吸を落ち着かせて彼にこう言った。
「続けて下さい」
「へ?」
何のことを言われたか理解など出来ない。灯が何を続ければ良いのかと思考を走らせる。こうやってあたふたしていろという意味なのだろうか?
「――話……私の歌が記憶に残っているというのならどうなるんですか?」
いつまで経っても話し出さない灯にありすは促す言葉を提示する。それでやっと相手が何を言っているのか分かって彼は少しだけ頭の中を整理して言葉を選んでいく。
「ありすちゃんの歌はまだ初めて会った時に聞いたものだけ。でも……いや、だからこそもっともっと聞きたいと思った。
もっとたくさんの人に届いた時の光景を見たくなったんだ、アイドルプロデューサーとして。
だから人に聞いてもらえられる機会を逃したくない。たとえ本当に良いものでも人に触れないと記憶には残らない。ありすちゃんの名前はね……この業界では武器になるんだ。だから使って欲しい。人の記憶に残って欲しい」
(この人、結局名前で呼んでる)と、ありすは思って止まっている涙の代わりに今度は彼のことがおかしくなって笑みがこぼれた。
目尻に溜まった涙を払い落としながらありすは顔を上げた。彼女が見たものは自分の事を心の底から心配している灯の顔だった。彼は不安そうな顔で、
「でも、もしもありすちゃんが嫌だったら芸名ってことで……」
「プロデューサーは……」
「ん?」
言葉を遮られて小首を傾げる男に幼い少女は少し大人びた笑みをつくり、
「プロデューサーは私がたくさんの人の記憶に残れると思いますか?」
しばし唖然とするのは答えに迷ってではなくありすの言葉を飲み込むのに時間が掛かったためで受け止めると一も二もなく灯は言った。
「うん、ありすちゃんなら大丈夫。たくさんの人の記憶に残ってトップアイドルになれるよ」
朗らかな笑顔にありすもつられて微笑んだ。小さな小さな蕾が恥じらうように開いてみせたのだ。誰だって嬉しくなるのは当たり前なのだが、
「あ! 初めて笑ってくれた。思った通りに可愛いよ、ありすちゃん」
如何せんやることなすことが大味になるきらいを持つ男の言葉にありすは彼に初めて笑っている顔を見せたことに気付く。気恥ずかしさ、顔を伏せる。
「ねぇねぇ、もっと見せて。ありすちゃんの笑顔、もっと見たいよ」
子供のように要求してくる屈託のない笑顔に向かってありすはタブレットPCに手を伸ばして筋肉痛を経て手に入れた筋力を全てそれに注ぎ込む。
「名前で呼ばないで下さい!」
人間の死角、アゴの下から抉るように硬質プラスチックの角がめり込む。肉を越えて骨の形すら変えようとする力は大の男を見事に吹き飛ばした。顔をイチゴのように真っ赤にしたありすはぷるぷると震えて自分のしたことに気付くのは灯が失神しているのを確かめてからだった。
そして灯は落ちていく意識の中ではっきりと思った、「まだ道は遠い」と――
7
橘ありすという少女がアイドルになろうとしてた。腰まで届くほどに長い黒髪は美しくハーフアップにして青く大きなリボンで留めていた。静かな力強さを持つ瞳と相反するようにぷにっとした柔らかい頬はあどけなさを見せる。
タブレットPCを胸に抱えて理論や理念といった理(ことわり)を独自に持ち合わせてそれと共に歌が持つ目には見えない"力"を信じる少女だった。理屈の冷たさに秘められた熱い理想を抱く彼女は数日後に控えたテレビ番組のオーディションを合格すればアイドルとしてデビュー出来る。
幼いながらスポットライトに照らされる夢のステージへと上がる様は神々しくもあった。その舞台の裏で何人の少女が涙を流すのか歓声送るファンの人々は知らない。
ありすは白い息を吐きながら歩道を走る。片手に学生鞄を持ってもう片方の手でタブレットPCを胸に抱えてオフィスビルの中へと入っていった。エレベーターに乗って目的の階まで昇る。エレベーターホールから通路へと、更には自分が所属するマネキプロダクションの事務所へと進んだ。
ありすは自分よりも背が高く年上の少女たちに常に気負いを感じていた。自分に出来ない自然な笑顔が眩しい、目を当てるのが辛いほどに。自分をプロデュースする体は大きいのに子供っぽい男を捜すが見つからない。あんな目立つものがあればすぐに分かるというのにありすは事務所の中で跳ねてみせた。
「お疲れ様、ありすちゃん」
ありすが後ろから声を掛けられて振り返る。そこには髪を三つ編みに纏めた女性が立っていた。事務員をしているちひろという女性は時間が不規則な芸能業界らしい挨拶をしてありすもそれを返す。
「お疲れ様です、ちひろさん。プロデューサーはどこに居ますか? それと名前で呼ぶのは止めて下さい」
笑顔とはほど遠い顔のありすを見てちひろは微笑む。
「ふふっ、ありすちゃんは本当に灯さんのことが好きなのね」
ありすが自分の名前を呼ばれたことよりも『好き』という単語に強く反応する。柔らかな頬が強張って眉根を寄せるありすは反論する。
「違います。あの人は私のプロデューサーで、私は担当アイドルなんですから事務所に来たら仕事の話をするために顔を合わせないといけないだけです!」
ちひろはありすに論破されてもにこにことして笑顔を崩す気配はない。だが、降参するように答えた。
「灯さんなら下の階の倉庫に居ると思うわよ」
「そうですか、ありがとうございます」
ありすが一礼、灯とすれ違いになった時のことを考えて自分が来たことを知らせるために学生鞄を彼のデスクに置いてそれから少し考えてタブレットPCも置いていった。階段を使って下の階へと行く。迷路を巡っている気分になってくる。その出口へと辿り着く扉を開ければ男が待っていた。
ありすが僅かな陽の光が差し込む薄暗い室内で大きな背中を見つける。見間違うはずがない、ありすの思いが弾むのと同時に落ち着きを取り戻す。自分の知らない感覚だった。矛盾を孕んでいるようで何よりも自然なそれにありすは誰に見せるでもなく首を傾げた。
「プロデュー……」
ありすが声を掛ける途中で男は振り返る。そしてありすは息を飲む。彼の瞳から滴が弾けたのだ。驚きの表情を浮かべる灯はありすを見ると急いで首を振って親指で擦るようにして目尻を湿らすものを拭った。
「ありすちゃん居たんだ。全然気付かなかったよ」
取り繕う様な不自然な笑顔を見せられてありすは戸惑ってしまう。
「あの……どうされたんですか?」
天井に届く背の棚が設置されて様々な形の段ボールが置いてある。少し埃っぽい空間で
二人は言葉を交わす。
「え? どうしたって?」
ありすはぐっと空手を握って険しい表情を見せた。
「プロデューサーは嘘が下手です。今、泣いていたじゃないですか」
灯の不自然な笑顔に影が差す。手に持つ文字盤がひび割れている腕時計に視線を落としてから、
「ごめん、変なところ見せちゃったね。ごめんね、格好悪い男がプロデューサーで。これじゃ、ありすちゃんを不安にさせちゃうよね? ……ごめん」
馬鹿にされたくないものを卑下されてありすはむっとする。壊れたオーディオでもあるまいし、ごめんなんて繰り返されても気分は沈むだけで害にしかならないことを不満としてありすは相手に言葉をぶつける。
「何があったんですか? 私は別に男の人が泣いていたからって軽蔑しません。でも心配するじゃないですか! 子供扱いするつもりですか?」
その言葉に灯は何かに気付かされるように目を大きく見開いて唇をぎゅっと結ぶ。そして目頭を押さえる仕草をして一拍、
「これ……見てもらえるかな?」
灯が手に持っていた壊れた腕時計をありすに差し出す。ありすはそれを手に取りながら降ってくる言葉に耳を傾ける。
「キミのことを最初から子供扱いしてるつもりはなかったけど、さっきのは確かに大人のエゴだよね。キミはキミなのに」
ありすが腕時計を観察しながら名前で呼ばれてることを思い出してそれを口に出さなかったことを一瞬だけ思考にノイズとして走らせる。ありすの手に収まる男物の腕時計は動いておらずに長針は曲がって短針は折れていた。強い衝撃が加わったことが何となくだが分かる。
「俺たちさ、病院の中庭で出会ったよね?」
ありすの記憶に残っている情景が目の前に広がるように鮮明に思い出される。
「あの時、俺は入院患者だったんだ」
ありすがそんなことは分かってると言った調子で頷く。中々本題に入ろうとしない男に業を煮やす形で瞳に力を込める。
「交通事故に遭って怪我で入院してたんだけど事故に遭った日は俺がプロデューサーとして初めてここに出社する予定だった。そこで一人の女の子のプロデュースを任されるはずだったんだけど俺が入院したから話は一度白紙になった。
でも女の子のプロデュースを遅らせる訳にはいかないから俺の先輩に当たる人がプロデューサーになったんだ。この間までプロダクションに居たんだよ。たまたま、ありすちゃんとは顔を合わせなかったけど」
「この間まで……って」
ありすの言葉に灯は力なく頷く。
「たくさんの女の子がアイドルになりたくて芸能事務所に入る。その際に事務所でのオーディションを受ける子もいればキミみたくスカウトされる子もいる。
でも同じなのはその数は極端に少ないということ。事務所に所属してもお仕事が必ずもらえる訳じゃない。本当にアイドルになれるのは更に少数、そこから知名度を上げて単独ライヴが出来るのはもっと絞られてくる。トップアイドルはゼロか一……」
灯の話が段々と見えてくるありすだが、今は自分の手にある腕時計は未だ霞がかっている。
「俺がプロデュースするはずだった女の子が今日事務所を辞めたんだ。決して珍しい話じゃない。でも……何だか、自惚れなのは分かってるんだけど自分がもし事故に遭っていなければ。もしも先輩がプロデュースを進めていてもそれを無理やりにでも自分の手に戻していたら。
『彼女』はアイドルを諦めずにデビュー出来ていたんじゃないかって考えちゃうんだ。その腕時計は俺が事故に遭った時にしていた物で無くしたと思っていたらその子が持っていたんだって。帰り際にここに置いていったらしい。
キミなら分かるかな? 『彼女』はどんな気持ちでそれを持っていたんだろう?」
灯の大きめの瞳をありすは覗く。猛烈という言葉を使いたくなるほどに灯っていた火が今は沈んでいる。それとは逆にありすは自分の腹の底で昇ってくるものを感じた。腕時計をぎゅっと握って少女の瞳は燃え上がる。
「そんなこと、私に分かるはずがないじゃないですか!」
「っ!?」
今までとうとうと語っていた男が少女の一言に黙される。ありすが灯に寄って背伸び、腕を取って少しでも近くに行こうと力を込める。
「今、あなたが見なくちゃ……プロデュースしないといけないのは私です。この私なんです。『もし』とか『たら』とかの話じゃなくて約束したじゃないですか、私をトップアイドルにするって。それは絶対なんです、絶対の絶対なんです」
ありすにしては珍しい感情の向くままの言葉。しかし、それは触れれば火傷するほどに熱かった。だからだろう灯火が広がっていくのは。
「私だってアイドルになることがどれだけ大変かちゃんと調べました。下を向いてる暇はないことを知ってるんだから!」
少女が感情を発露する。それはインターネットで調べる必要がないほどに人として生まれて来た者には最初から秘められているものだった。情報はいらない。ありすは自分の視界が揺れて滲んでいることを苛立ち、それすらも相手にぶつけようと情緒を揺り動かす。
「私はあなたにとってその女の子の代わりだったんですか? そんなの嫌です。だって、あなたは私がどれだけ嫌がっても『ありす』って名前を呼び続けてきたじゃないですか!
オーディションまで時間は限られている。立ち止まったんですか? 怖いんですか? ふざけないで下さい、本当に怖く思ってるのは私なんですよ!」
少女の感情が爆発。それを包み込む男はまず震えている相手のほっそりとした二の腕を優しく掴んだ。そして、
「ごめん」
綺麗な形をしている目元に溜まっている水滴を拭い、相手と視線を同じにする。背伸びする必要がなくなった少女へと男は真摯な言葉を放った。
「キミは『彼女』じゃない。誰も誰の代わりにはなれないなんて分かっていたことなのにキミの不安に気付けずに俺は馬鹿ばかりして。
俺が迷ってたら駄目だよな、どうかしてた。ありがとう、目を覚まさせてくれて」
「本当……です。でも」口籠もるありす。自分の本心を表してしまったことの気恥ずかしさが今になって昇ってくる。だからこそ、もう少しぐらいはいいかなと気まぐれが働く。あくまでも気まぐれで「プロデューサーは私の周りの大人とはすこし違います……良い、意味で」
自分を初めて子供扱いしなかった大人に対して少女はそんな言葉を口にした。灯はやっと自然な笑みを浮かべられて自分の小指を立ててありすの前に出した。
「こんな俺で良ければもう少しだけキミをプロデュースさせてもらえないかな? 頼りないかもしれない。でもキミとならトップアイドルを目指せると思うんだ」
少し赤くなっている目をした少女は素直な気持ちで自分も小指を立ててみせた。それを重ねる。
「本当にしょうがない人です。私が見放したら可哀想ですので『もう少し』だけですからね」
「ああ……!」
そのとき誰にも気付かれず壊れていた時計の針が動き出していた、少女の熱い温もりを帯びた手の中で。
8
快晴、青天、好天、雲一つない抜けるような空は温かい空気を全て逃していく。放射冷却――冬は曇り空よりも晴れの日の方が寒いのはこの現象によってだった。
一人の少女と一人の男は今岐路に立っていた。薄暗い室内は広く一点にスポットライトの明かりが当てられる。ミュージックがかかり明かりの下、舞台の上で少女が踊る。審査員が射るよう視線で見守る中、少女はたった一人で踊り歌い己を表現する。
オーディションという品定めのために少女たちが身に付けるのは煌びやかな衣装とはかけ離れたジャージ姿だった。よくよく見ると誰のジャージも年季が入っており所々ほつれていたりもする。努力の証だった。たくさんの汗を流して時には血を滲ませてアイドルになろうと夢見る少女は現実の中で笑顔を向ける。だが、その努力は誰にも気付かれずに終わるのだった。
その舞台袖で祈るように胸の前で手を合わせて震えている小柄な少女がいた。緊張した顔は固まって頬の柔らかさも今は見る影もない。周りにいるどの少女よりも小さく幼い。そんなありすに寄り添う大柄な男はありすの合わせている手に自分の手を重ねた。
冷たく小さな手に暖かくて大きな手の平が被さる。正反対の手の熱が均衡を図る。灯を見上げるありすは今にも泣きそうな顔になっていた。
「落ち着いて。大丈夫……大丈夫……」
優しく語りかける灯にありすは反発を見せてしまう。
「何を根拠に大丈夫だと言うんですか?」
「キミの素敵な歌声と歌唱力……」
灯の指が彼女の手をノックしていく。
「キミの愛らしい顔立ちと容姿」
一瞬何を言われているのか分からなかった。だが、ありすは相手が何かとてつもなく恥ずかしいことを言っていることに気付く。
「キミの輝かしい将来性――」
それでも少女の不安はすっと消えて行くのだから不思議なものだった。
「――そして、橘ありすって名前は俺は大好きだから」
「名前で……っ……今日だけは、特別です……よ」
「行っておいで。俺はキミから絶対に目を離さないから」
「は、はい」
そっと背中を押されてありすは一歩、前に歩き出した。そしたら後はすんなりと本物のスポットライトの下へと身を投じることが出来た。一礼するありすにもう震えはない、怯えも不安もどこ吹く風か見えない青空へと飛んでいったようだった。
そして、橘ありすという少女は情感を乗せて歌い出した。他の少女よりも動きの少ないダンスは歌に集中するためだった。それでも小さな体に秘めていた大きな想いを精一杯に表したのだった。
結果――彼女の努力は報われた。
呆然とするありすにスポットライトが当たって周りに立っていた少女からは拍手が送られる。周りの少女たちの顔は暗くて分からないというのに舞台袖にいる自分のプロデューサーの顔ははっきりと捉えられた。自分と同じで呆然としている、何となくだが自分たちが同じ顔をしていることに互いに気付いた。
灯の前にありすが歩み寄る。
「た、ただいま」
少し間の抜けた発言をするありすに灯は「お帰りなさい」とこれまた間抜けな返事をする。
「あの、受かっちゃいました」
「あ、うん」
しばしの沈黙、やっと灯は事態を飲み込んで周りを見渡す。閑散として後片付けに働くスタッフは彼らをくすくすと笑っている。視線を少し下げると自分を見上げながら呆然としている少女に気付く。自然と手は相手の頭へと伸びる。そして、
「おめでとう。よく頑張ったね」
さらさらとした頬と同じくいつまでも触っていたくなる髪質とそこから香る緊張の汗と花の香りが混ざった天然のフレグランスに鼻腔をくすぐられながら灯は何度もありすの頭を撫でていく。
ありすは灯の大きな手の平から伝わる温もりでやっと自分がどこに立っているのか気付く。むずむずとくすぐったそうに口元を緩ませたと思ったら目を細めて年相応の笑顔を浮かべたのだった。
9
「お仕事ですか、了解です」
この時、少女は確かにそう言った。『仕事ならば自分に合わずとも少しは我慢』という思いは嘘ではなかった。だが画面越しの世界の恐ろしさを知らない少女に大人は浅はかという言葉を使ってしまうだろう。
ありすがアイドル紹介番組"Hallo IDOL"のオーディションを合格してデビューが決まってから幾つも仕事のオファーが舞い込んできた。"Hallo IDOL"の収録日はまだ少し時間があり別番組の収録へと向かう途中でありすと灯は会話をする。
「"Hallo IDOL"がデビューなのに先に別の番組を収録したらデビューする日が変わりますよね?」
タクシーの後部座席での会話、灯は首を横に振る。
「いや、収録自体はこっちが先になるけど放送は"Hallo IDOL"の方が先になるんだ」
「何だか変な話ですよね」
ありすの苦笑いに灯も「確かに」と苦笑いで返した。そして、ありすを幾つかバラエティー番組の収録へと臨んだ。他のアイドルと一緒にひな壇の端に座ったり体を使うゲームに参加させられたりティーン向けの雑誌でモデルもやってみた。どれもが小さな仕事であってこれはありすが特別な訳ではなく"Hallo IDOL"のオーディションを合格した女の子なら誰もが通る道であった。
しかし、そこでありすは他の女の子とは違うものを見ていた。
"Hallo IDOL"の収録を控えた前日に事務所でありすは灯に向かってこんなことを言った。
「私、アイドルというものが分からなくなりました」
ありすが参加した番組で何人もアイドルを見たが誰も一度たりとも歌うことはなかった。これはありすの想像の範疇ではない、驚きだ。中には歌唱力が高くて有名なアイドルとの共演に心躍らせたというのにそのアイドルが笑いを取るのに必死な姿を見て正直な話幻滅するほどだった。
"アイドル"――偶像は煌びやかなものでそれに疎かった少女は今のアイドルの実情を知る由がなかった。絵を描かされたり自分には似合わない服装で寒空の下、何時間も待たされて雑誌に載るのは一枚、もしくはゼロだというのは一緒に撮影したアイドルから聞かされた話。
翼をもがれた鳥のように自分の存在意義を失ったアイドルに価値を毛の先ほども感じられなかった。彼女の疑問は当たり前の話だと言える。しかし、
「どうしたの!? ありすちゃん!」
デスクで書類整理を行っていた灯が驚き、その顔を見ながらありすは内心で「どうしたのじゃないだろう」と呆れにも似た思いが募った。
「だって歌わせてもらえると思ったら口を開くこともままならなくてこれでは何のために頑張ってきたのか分からなくなりそうです。
モデルとかならまだ分からなくはないですが、お笑い番組で小麦粉のプールに飛び込んでた人なんて完全に汚れ役じゃないですか!」
ありすのよく通る声が事務所の喧噪を貫く。向き合う灯とありす、ありすの背後で他のプロデューサーが頭の上で手首を交差させる。灯はそれに「分かっている」とアイコンタクトで答える。わざとらしく咳払いして灯はペンを置いてから少しばかり目元に力を込めて口を開く。
「ありすちゃんの気持ちはよく分かったよ」
最近になって柔らかくなっていた心がまた石のように冷たく固くなっている。そんな頑な少女は憤りを越えて相手に怒りを覚えた。
「簡単に気持ちが分かるなんて言わないで下さい!」
怒声が響き渡る。そして、ありすは涙を拭おうともせずに灯に背を向けて逃げ出したのだった。
「ありすちゃん!」
呼び止める声など聞いてくれるはずもなく灯は慌てて立ち上がる。その腕を引くようにちひろが掴んで自分へと向かせる。灯の険しい表情とちひろの真剣な眼差しが向き合う。先に口を開いたのは灯だった。
「彼女がアイドルに対して疑問を持っていたのは知っていました。でもそれは誤解で自然に解けるものだと自分勝手に思っていたんです。行かせて下さい、俺はありすちゃんのプロデューサーだから」
灯に嘘偽りがないことを見たちひろは頬を緩ませて灯の腕を掴む力を抜いた。灯はありすが走っていった方向を見つめて深呼吸、
「セッ! ハッ!」
自分で自分の頬を叩く。周りに居る者の耳をつんざくほどの大きな音が鳴り渡る。視界がぐらりと揺れながらチカチカとフラッシュが焚かれる。自分を奮い立たせるために常に行ってきた儀式的作業を終えてヒリヒリと痛む頬に手の平は握って拳を作った。
これで何度目か、自分の馬鹿さ加減に嫌気を差しそうになるが自身のことになんて構ってる場合じゃないと感じる男はぐっと脚を踏み込んで駆け出していた。エレベーターへと消えて行く小さな少女を追って手を伸ばす。閉じていく扉へと体を差し込んで無理やり開かせる。
エレベーターに乗り込んだありすが一階へのボタンを押そうとしたとき迫力ある光景がありすの前に広がってボタンを押すことが出来ずに後ずさってしまう。
「待って!」
灯はエレベーターに乗り込んで「悪い悪い」と微笑むとそのまま後ろ手に屋上へのボタンを押した。彼女が向かう行き先とは真逆の方向。まるで灯とありすの人間性そのものが向かう先を示しているようだった。そんな二人が一つの箱に納まる。
「ごめんね、あそこはゆっくりと話をするには少し騒がしいかな?」
自分よりも年下の少女に向かって何度でも謝る男に対してありすはうつむく。その顔は複雑な心境そのままを投影する。心を吐露せずには自分の形が保てなくなりそうと、
「私……嫌な子ですよね?」
「え?」
か細い声で呟かれた言葉は灯の耳に中途半端にしか届かずに霧散する。聞き直そうとするがそこでエレベーターは目的の場所へと辿り着く。屋上に出るまでスペースには自動販売機が置かれて灯はありすの手を引いてそこで紅茶とコーヒーを買ってから二人で外に出る。
「寒いっ!」
冷たい風吹きすさむ中で開口一番、灯は大きめの瞳をバッと見開く。
「当たり前ですよ。こんな季節にこんな場所に訪れる物好きなんてプロデューサーぐらいなものです」
「じゃあ、物好きにつき合ってくれるありすちゃんは良い子だね」
そのままありすの頭でも撫でようかという灯を遮る形でありすは堰を切るように開口する。
「子供扱いしないで。名前で呼ばないで下さい!」
ぴしゃりと言い放つありすに灯は面食らう。そういった素直な反応がありすの頑なな心を逆立てる。そして一度口を開いたからには止める術をありすを持ち合わせていなかった。橘ありす――十二歳の少女は『幼い』のだった。
「私は歌を歌いたいんです!」
「うん」
感情を昂ぶらせるありすに灯はいつもと変わらない調子で頷いた。
「歌には目に見ない力があります、純粋な活力やエネルギー。私は言葉の壁を越えられる『歌』に乗せて世界に届けたい、お笑いなんかやりたくない!」
「うん」
普段の落ち着きを失ったありすに普段では見せることのないような落ち着きを見せる灯は再び頷く。
「トーク番組! モデル! そんな一過性の何も記憶に残らない仕事をして何になるんですか!? 必要性が見えない! あなたのいう『記憶に残るアイドル』というのはただ奇異の目で見られて注目を集めるものなんですか?
今までやって来た番組なんてすぐに忘れられてしまう。何の意味も成せない。私はそんな仕事したくない!」
「うん、いいよ」
灯が目を細めて優しく微笑みかける。駄々をこねる子供を突き放す大人の対応ではなかった。その場限りの取り繕うような、諦めと呆れを交えたものでもない。純粋にありすの声に応える。
そして彼は微笑んだままに、
「ごめんね。まずはアイドルがたくさんの仕事をすることを知って欲しくてたくさんの仕事をしてもらったんだ」
ありすが思い出す。仕事に臨む際、緊張でガチガチに固まっている自分の隣にはいつだって灯がいた。灯は他のアイドルへとよく頭を下げていた、頑なな自分に出来ない笑顔をする年上の女の子たちへと。
そんな笑顔を見る度にありすは自分も同じことを強要されていると思ってしまう。変わりたくない自分がいて、変われない自分がいて、そんな自分を責めている自分がいて、責められて我慢に我慢を重ねる自分がいて優しい年上の男性に言葉を荒げてしまう自分がここにいる。
そんな彼女に灯は何よりも優しい微笑みを見せた。アイドルたちと似ていて少し違う一人の少女にだけ向けられる笑顔は、
「変わらなくていいよ」
人の優しさを受け止められない自分にありすは涙を流した。
「どうして?」ありすの震える声。
「変わる必要なんてない。やりたくない仕事ならやらなくていい」
冷たさに隠していた熱が隠せない。頑なさが壊れていってしまう。怖い、怖い。何が怖いのか分からないから怖い。
「どうしてそんなことを言うんですか!? 私は今あなたを困らせることを言っているのに! 怒らないんですか!? そんなに優しくして私は怒ってもらった方がよっぽど清々する」
「怒ることなんて何もないよ。だってキミが言っているのはキミが成りたいアイドルについてじゃないか。歌に誰よりも取り組むアイドルは昔からあるように見えて本当の意味で存在していない。
アイドルは時に高い歌唱力を抑えて分かりやすさを優先させる。だけど誰よりも綺麗な歌で芸術性を高めるんだったら俺の仕事はそういうキミのプロデュースなんだよ」
核心を突かれてしまった、心の内側を覗かれてしまった。ありすの怒りはブレーキを失ってしまう。
「あなたなんかに私の何が分かるっていうのよ! 何も何も知らないくせに!」
「分かってるよ、知ってるよ。キミがどれだけ頑張っているか……
他人との違いが怖くて最初の一歩を踏み出すのは大変だよね。すぐに結果に繋がらないから目には映りにくい頑張り。言葉にはしたけどキミは体力作りを最後までやり遂げた。受けた仕事を放り出さなかった。少しの時間があれば歌の練習を欠かさない。
そんなキミはとってもキラキラに輝いている、俺は知ってるよ。そして、その頑張りは世界に伝わることも知っている。分かるよ。だって俺はキミの『プロデューサー』だから」
そう言ってありすに向かって手を広げる灯の目は真剣だった。何の迷いも無くありすだけを映す目は火が灯るように熱く、この時ありすは初めて気付くことが出来た。
この言葉を待っていた。名前を嫌う私を見る目が『変われ』と言う。向けられる笑顔が『変われ』と言う。心のどこかで変わりたがっていた。でも変わることが怖かった。手を引かれても背中を押されても踏ん切りが付かなかったというのにどうしてだろう。
ありすが実感する。体に染みこんでいく言葉――『変わらなくていい』
(どうしてだろう……?)と、ありすは瞳を閉じて火照った体に冷たい風を浴びた。今は素直に受け止められる。
「変わりたい」
呟いた直後ありすがしゃくりを上げる。その振動が灯に伝わる。
「私……無理をしていた」
「うん」
再び灯は小さく頷いた。触れるものを傷付けないようにゆっくりと……
「頑なで……自分のありすっていう名前を嫌って受け止めることが出来なかった。
でも、『変わらなくていい』。初めて聞いたその言葉で『変わりたい』と思えた。どんな自分に成れるか分からないけど私は今変わりたい思いでいっぱいです」
「大丈夫、泣かなくていいよ。辛いのも悲しいのも苦しいのも全部俺が引き受ける。全部俺にぶつけてくれて構わないんだよ」
「この涙は違います」
見えぬが肩で感じる涙に灯は彼女の背中を優しくさする。彼女が自分へと一歩を踏み出してくれたことを喜んでこの一歩をまだ彼女を知らない人々へと届けたいと思った。だからこそ、こういった言葉を掛けるのだろう。
「一緒に探していこう。キミらしいアイドルを見つけていこう?」
「私らしく?」
「キミらしく、変わっていこう」
ありすはもう一つだけ気付いたことがあった。苛立ちが抑えられなくなった理由とその原因が既に変わり始めた自分の思いに。ずっとずっと見て見ぬ振りをしていたことを……
屋上に出るためのスペースでちひろや他のプロデューサー、アイドルたちが事の顛末を見届けて聞こえないように拍手を送ったことをありすも灯も気付くことはなかった。
泣き腫らした目のありすを連れて灯は事務所へと戻ってきていた。他の者に謝ろうと思ったのだが無人になっていることに驚く。鍵も掛けずに不用心と思いながら辺りを見渡すが暗くなっていく事務所に本当に人っ子一人存在していなかった。
考えを切り替えて灯はありすの肩に手を置く。
「それじゃ、良いかな?」
ありすの頬が紅潮する。そしてありすは更衣室へと入っていった。灯は紅茶を淹れながら自分のデスクで彼女が出てくるのを待った。静かな室内で扉が開かれる音でも鮮明に響かれる。
灯の元まで自分の脚でやって来た少女の姿に灯は息を飲んだ。
ありす――肩を出した深い深い紺色のクラシカルなドレスにはラインストーンを散りばめてまるで宇宙に光る星々を彷彿とさせる。静謐さの中に光る情熱を秘めていた。星形のアクセサリーや真珠も所々に配置して可愛らしさと神秘的な雰囲気が同居している彼女らしい衣装を身に纏う。
「こうやってドレスを着ることが出来て、本当にアイドルになれた気がします」スカートの裾を軽く持ち上げてありすが微笑む。
「そうだね。でもステージに上がってこそのアイドルだよ。明日の"Hallo IDOL"は全力を尽くそう、ありすちゃんの全力を出し切ってくれ。テレビの向こうにいるみんなに受け止めてもらうんだ。絶対に支えて上げるから!」灯が拳を握って見せる。
ありすが緩んでいる頬を引き締めて初めての大舞台、それでも表現者としては小さくも彼女にとっては大きな一歩となるステージへと臨むアイドルの顔を見せる。
「あの……」ありすはうつむき上目遣いで灯を見ながら、「一つお願いがあるんですけど」
「何でも言って」
「それじゃあ……」気恥ずかしさを最高潮にしたありすは震える声で「『可愛い』って……言ってもえませんか?」
(ありすちゃん、いきなり性格変わった?)と、口に出来ない灯は一瞬面食らうが彼女の頭に手を伸ばした。
「一番最初に褒めるべきだった。遅れたけどとっても可愛いよ、本心でそう思う。今度の衣装は一緒に考えようか……」
大きな手でありすの頭を優しく撫でていくとありすは口元をむずむずと歪めてくすぐったそうにしていき我慢の限界で破顔一笑、子供らしい飾らない笑顔を見せる。
「ふふ、えへへ……私、色々と答えを急ぎ過ぎていました。まるで迷子ですね」頭を撫でられながらくすぐったそうにしながら言葉を綴っていく。「でももう少し迷子でいいです」
「迷子? でも迷子でいいの?」
「ええ。迷子でも見つけられる……ううん、迷ったからこそ見つけられることがあるって気付けましたから」
「そうだよね。簡単に『答え』に辿り着けるものじゃない。だからこそ一緒に……」灯は相手の手を取って頷く。「答え――トップアイドルを目指して頑張っていこう」
「はいっ!」
子供らしさを少なくしてありすは彼女らしい答えを示した。
10
"Hallo IDOL"の収録が終わってありすと灯は自分たちが初めて出会いと別れと再会を果たした場所へと来ていた。病院の大きな中庭の中でありすの"自分の場所"で二人は立っていた。
「さすがに寒いなぁ……」
灯が白い息を吐きながら呟く。ありすが収録を終わらせたことに喜び熱気を増していたために彼はコートを着ずに来てしまっていたのだ。分かっているが彼は自動販売機を探してしまう。何かで暖を取りたいところだがありすに手を引かれてしまう。
「ダメです。どこかに行ってしまったら一緒に見られなくなりますよ? この季節、本当に短い時間だけのことなんですから」
「そうだね。我慢我慢」
身を震わせて腕を体に回して耐える灯の目は真剣で、そんな真剣な彼に対してありすは思案した。出した結論は気恥ずかしくあった。だから顔を赤くし、
「あの……」
灯の視界が突然何かで塞がれて真っ暗になる。「おおぅ!?」と声を上げて驚く彼にありすはあたふたと手にするマフラーを下げた。何が起きたのかまだ把握出来ない灯は心底不思議そうな顔をして彼女の顔を覗き込んだ。腰を曲げて目線を合わせる。困ったようなありすの表情はパッと緩んで手に持つマフラーをもう一度彼の首に回した。
「こんなので良ければ……」
自分の首に巻かれたありすの温もりを含んだチェック柄のマフラーを見て自分に何が起きたのか理解する。
「でも、それだとありすちゃんが寒いでしょ?」
優しい言葉を掛けられるありすだが伏せた顔は真っ赤になっている。湯気を上げようかというほどに熱くなってコートすらも必要ない心境であった。だがその心の内だけは今は触れて欲しくなく黙ってしまう。
そんな彼女に今度は灯がありすの首にマフラーを巻き付ける。
「これで良しっ!」
にこやかな灯は自分にマフラーをかけたままありすにもかけたのだ。だが彼の腰は綺麗に九十度の角度を保つ。百九十センチに届こうとしている長身の男にやっと百四十センチを越えた身長の少女ではこれが限界だった。気恥ずかしさよりも呆れの到来。
「それで本当に良いと思って?」
大人びた台詞に灯がドキリとした、自分の浅はかな考えを一蹴されたことによってなのだが。慌てる彼の取った行動はありすを再び年相応の少女に戻す。
ありすの腰に灯の腕が回る。ひょいっと抱え上げられて灯は自分の腰を芝生の上に下ろしてあぐらを掻く。そこにありすを乗せると彼女は真っ赤な顔に目は白黒とさせる。アゴを上げて相手の顔を上目遣いで見やる。
「今度こそこれで良しっ!」
「何が良しなんですか?」
呆れが沈んでありすに気恥ずかしさが昇ってくる。
「これでありすちゃんの視点に近付いたってこと」
おそらく彼の辞書には『悪ふざけ』という文字が載っていない欠陥品なのだろう。灯の強く優しく暖かな眼差しの先にある風景が段々と変わっていく。「ほら、変わっていくよ」といつもよりも近くで聞く灯の声にありすは言葉に出来ない震えを覚えた。
「寒い?」目線はそのままに灯が訊ねる。
「いえ……違います」ありすは彼の視線を追ってみる。
木々の隙間から覗ける青い空が白み、すぐに濃いオレンジ色に変わった。赤とオレンジを複雑に混ぜ合わせた色に彼女たちは包み込まれて変わっていく。ありすが知る"自分の場所"が様変わりしていく。知らない、見ようとしなかった一面にやっと触れることが出来てありすは口を開けたまま辺りを見渡す。
「まったく違うように見えます」
「でもね。このまま夜が来て……」
灯が空を見つめたまま語り出す。初めて会った時から何一つ態度を変えない彼はありすが彼女の人生の中で初めて出逢った『変わり者』なのだろう。子供っぽい面が多々見受けられる。だが、夕日を映す彼の瞳は燃えるように真っ赤で何者にも侵されることのない雄勁な顔つきをしていた。
「暗い暗い夜が終わればキミが知っている風景にまた変わるんだよ。
『変わる』ってことは別の何かになってしまうことじゃない。どんなに時が経ってもありすちゃんの名前は『ありす』なんだよ。でも自分の名前に対する思いは変えることは出来る。変わろうとすることはきっと大事で良いことだよ。
けれどもキミの頑張り屋な所や歌に対する情熱を変える必要なんてない。自分らしさを大切に出来るのは結局、自分でしかないんだから」
「はい。プロデューサー」
言葉にしたかった――ありすの尊い願いはすぐに叶うものではなかった。
「それにしてもありすちゃんは小っちゃくて軽いね。ちゃんとご飯を食べてる?」
そうその通りだ、とありすは思った。自分の体は小さい、年齢的にも小柄であることは理解している。早く大きくなりたい。子供が一度は思う願いをありす深く胸で唱えてみる。大人になって体も大きくなって彼にマフラーを掛けたい。一つのマフラーを掛け合って目線を同じに一緒に歩いてみたい。
ありすはもう一度心の中で唱えた。――あなたの隣に……――
今はまだ背伸びだと他人に笑われてしまうかもしれない。しかしこの相手に限ってはそれはないと確信する。自惚れ? 甘え? そうなのかもしれないが違うかもしれない。どんな言葉を使って検索すれば答えは出てくる? いえ、きっとそれは目に見えるものじゃないから……
「プロデューサー」
「なんだい?」
灯が視線を下げる。そこには見慣れた少女の顔があった。ありすはコートのポケットからある物を取り出して相手に見せる。見せられた物に灯は静かに驚いた。就職祝いで姉に買ってもらって初出社の日に壊した腕時計だったのだ。
だが、それはどこも壊れていなかった。静かにだが確かに時を刻んでいる。
「あの……修理業者を探して直してもらいました。受け取ってもらえませんか?」
言葉にせずに灯は呆けたような顔でありすから腕時計を受け取る。少女の温もりに触れて人肌ほどに温められたそれを見ると黙ってしまう。そんな反応にありすは怯えてしまう。
直したことによって壊れてしまうことがあるんじゃないかと不安に思う。しかし、ありすを不安にさせる男が彼女から不安を取り除く。不思議な関係だった、彼女らは。
「ありがとう。そっか、ありすちゃんに渡してそのままだったんだね。こういう形で戻ってくるとは思ってなかった」灯は代わりに付けていた安物の腕時計を外してありすから受け取ったそれを手首に巻く。相手に見せて「この腕時計はこれから本当の意味で動き出すんだよね。まるで俺たちみたいだ。ここからキミと一緒に時を刻んでいこう」
これではプロポーズ、ありすがハートを射貫かれたようにふわりと体を傾けた。それを男が受け止めた時だった、教会の鐘の音が聞こえてきたのは。
祝福の鐘の音だ。世界は静寂とはほど遠く、しかし今だけは厳かな鐘の声だけが二人へと降り注ぐようだった。これから暗闇が訪れるも二人にとってそれは大した問題ではなかった。何故ならば朝は絶対にまたやって来る。世界も自分たちもこれからどのようにも変わっていける、また鐘の音は降ってきてくれるのだから。
灯は言う、「大丈夫」と。
ありすはそれに答えて微笑んでみせる。不思議の国へと舞い込んだ"ありす"は一人ではない。隣にはいつだって自分を見てくれる勇敢な男がいる、誰よりも自分を信頼してくれるからこそ私はそれに応えてあなたを信じる。少女の歌も笑顔もその証であった。
やっとスタートに来た少女と男は遠く果てしないゴールへと共に歩んでいくのだった。
これにて終わります。じっくり読んで下さい。元々こういう文章をいつも書いてる者でして何かありましたらお気軽に声をかけて下さい。
クソメンタル灯さんは必要だったのか問題
>>28さん
あいつはドのつくアホなんで。
完結したなら
■ HTML化依頼スレッド Part14
■ HTML化依頼スレッド Part14 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1387923864/)
にURLとスレタイ、完結したうまを書き込むことがルールなの
あとは
■ SS速報VIPに初めて来た方へ
■ SS速報VIPに初めて来た方へ - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1382282036/)
ここを読んだりとか
縦書き原稿用紙ならこの書き方もいいとは思うけど、こっちで書くなら可読性あげるために改行工夫するのがいいと思うよ
いくつかこっちの地の文を読むか、ブーン系(○○ようです)を読んでみるとよくわかる
いくつかの反応ありがとうございます。
少し目を通す項目が少なかったようでHTML化については完全に見落としてました。すみません。
読みづらさに関してはここが「ノベル」も含んだ投稿場なので文章として成立してると思って出しました。
それとプロデューサーの名前の有無については少し言わせてもらうとゲームなどのプレイヤーの分身として動くプロデューサーとは違ってこれは一つの「お話」なので一人の「登場人物」としてさせるべきだと考えてのことです。
場違いなのは分かってるので前置きは必要かと思ったのですが言葉が足りなかったですかね?
「1人の登場人物」であっても、名前がないっていうのはそこそこあると思うよ
SSで名無しで通るPのキャラクター性だけでも変態、有能、おっさん、若者、天才、凡人といろいろあるわけで
名前を呼ばせる、名前を出すことなく通せるなら、別にプロデューサーの名前を出さなくてもいいんじゃないかと俺は思う
1人のキャラクターとしてプロデューサーを書くときに、名前以外の要素で指せるならその方が読む人も増える
ありすがプロデューサーの名前を呼ぶとか、そういう時に名無しじゃかっこつかないっていうのはわかるけどそういうのでもなし
Pのことを名前で、要するに「P」と呼ばせないまま関係性の変化を書いたのもあるけどかなり難しいからそれはちょっとおいとくとして
こういう書き方のSSはそこそこ数があって、評価されてる物もあるって踏まえたうえで
パッと見て把握できる絵とは違って文章は読まれなきゃ内容もわかんないから、読みやすいように工夫するのはありじゃない?って話
横書きだとどうしても目が滑るから縦書きとは違う工夫をしないと読みづらさは増す、と思うんだ
例えば一文の中での改行もそう。ここは原稿用紙みたいに字数が決まってない
だから横長に、改行を挟むことなく文章を並べ続ければ人によって改行位置が左右されて画面端まで視線を持っていかれることになる
意図しない改行になるぐらいなら、自分の読みやすい、一目でおさめられる文量で改行したほうがいい
他で改行一切なしで地の文オンリーってSSも読んだことはあるけど、面白さは置いといてすごく読みづらかった
横書き掲示板、行間狭いっていう環境のせいだけど、合わせるのもありじゃないって話だと思うよ
前書きは叩かれる、というかヒかれる原因になりがち。ここPixivじゃないからキャプションにもなんないしね
登場人物だからって名前が無くてもいいじゃないか、って考え自体が合わないとか
余計なルールや縛りが煩わしいっていうならもちろん無視でいい。ここでの「普通」はそういうもの
ついでにすごくどうでもいいことを付け加えるなら
これ、例の公式の募集が釣りじゃなく本当にあって応募したとして「Pに名前をつけて登場人物にした」って部分で没食らうと思うの
だってあの募集は「デビューに至るまでの前日譚」だもの
ここから「あなたがトモルさんです。さぁ、ありすちゃんをプロデュースしてください!」って言われたら「えー」ってなるもん
盛り上がってきて「トモルさん」って呼ばれたらしょんぼりするもん
ここは間違いなくいちゃもんだけども
あ、ちゃんと読みました。結構面白かったです
文章表現自体は手慣れてるとは思いました。でもやっぱり若干読みづらかったです
縦書き投稿ができるサイトならこれでも大丈夫だとは思うけど、やっぱりここは掲示板だから
反応ありがとうございます。登場人物は名前ありきだと少し頭が固くなっていました。容姿の説明をするならば名前も必要だと意固地になっていましたね。
確かに名前のないキャラクターでも確立している話はたくさんありますものね、考えを改めることが出来ました。
送った際に「三笠 灯」の名前は別に廃してもらっても構わないと頭で考えていましたが愛着が湧いていることに気付かされました。
実は場違いなのを承知でここに投稿したのは匿名性の高いこの場なら本音の感想を頂けると思ったからです。今まで幾つか文章を書いてきたのですがあまり反応を頂けずに悩んでいたんです。
あと「Hallo」に関しては完全にスペルミスです、恥ずかしい。「フェミニスト」についてはわざとであることを話させて下さい、せめて。
ためになる意見、本当にありがとうございます。
このSSまとめへのコメント
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