ツバキの道と少女の話(21)
慣れた道、少し飽きた道を、いつもの通り会社へと歩く。
まだ眠気を残していた頭も、一級河川を渡る長い橋の上で寒風に吹かれ、少しずつ覚めてきた。
徒歩や自転車、それぞれのスピードで橋上の歩道を渡りゆく人々。
朝のラッシュに連なり、歩くよりも遅く停滞した車道。
この橋は住宅やマンションが多く建つエリアと市街地を結ぶ、渋滞の名所だ。
川面を見下ろすと冷たそうな水が透き通って、底のごろた石の模様がよく見える。
測った事は無いけれど、たぶん三分ほどの時間をかけて橋を渡りきり、僕はいつも通りその袂を右へと折れた。
そこからは舗装もされていない土道、周りには樹木が生い茂った川沿いの遊歩道となっている。
市街地に近い場所に、不釣り合いに残された緑豊かなエリア。
それが保持された理由は、この雑木林の向こうにある。
そこには築庭から三百年を数える、由緒正しき大庭園が広がっているのだ。
この地の殿様が城下に造らせた広大な庭で、今は自治体による運営管理の下、観光地としても有用な施設となっている。
その外周を巡るこの遊歩道は通勤や通学のルートとして、また朝の散歩道としても多くの人に利用されていた。
車がいないから比較的安全な、街までの近道。
それもこの道が多くの人に利用される要因のひとつではあるが、何よりもこの趣が心地よいというのが一番の理由だろう。
朝夕、少なからず憂鬱な職場と心休まる自宅との行き来にここを通る事によって、気分は大いにリフレッシュされていると思う。
林の向こうの庭園は、数キロ離れたところに横たわる低い山々を借景としているそうで、その障害とならないよう近隣は建物の高さが制限されているらしい。
それ故に遊歩道からも人工的な建造物はあまり目につかず、里山を散策しているかのような気分に浸る事ができる。
木立越しに川面を望む側に設置された人止め柵も、丸太を型取ったコンクリート製の擬木で作られており、人工的ではあるが景観を損なうほどではない。
僅かずつでも日々変わりゆく景色を眺めつつ、今朝もその小径をゆっくりと歩いていた。
ふと、擬木の柵の一点に目がとまる。
丸太を模した柵は約2メートル間隔ほどに親柱が建ち、その先端からおよそ10センチ下に横の丸太が渡された形になっている。
その親柱の天端、年輪を象った直径15センチ位の円形部分に、鮮やかな色彩が置かれていたのだ。
まだ瑞々しさを残すツバキの花、一輪。
一輪丸ごとが首から落ちるという理由から、縁起が悪いと言われる事もある花だが、この彩りの少ない時期に花を開く貴重な花木である……という位は、僕でも知っている。
上を見ると、大きなツバキの木立が歩道にまで被さり、まだまだたくさんの花が咲き誇っていた。
おそらくいち早く寿命を迎えた一輪が落ちる時、偶然この柵の上に乗ったのだろう。
まるで飾られているかのようなその鮮やかなピンク色を見つけた事で、僕は少し得をしたような気分になった。
今日は良い事がありそうな気がする……そんなありきたりな、何の根拠も無い都合の良い期待も、自分が心の内で抱くだけなら誰も困らない。
そこを通り過ぎ、やがて業務に身を置いた僕は、その考えがただの幻想に過ぎない事を思い知らされたのだけれど。
しかし翌朝、同じところを通りながら僕は少し驚く事になる。
花が、増えている。
ツバキの木立を中心として、およそ10メートルほどの区間。
柱の数にして六本の頭上に、それぞれツバキの花が置かれていたのだ。
一番端っこの柱など、ツバキの枝が被さる範囲から外れてさえいる。
どう考えても誰かが置いている、それしか思いつかない。
向きを揃えるでもなく置かれたその花を眺めながら、また少し嬉しい気持ちでそこを通り過ぎてゆく。
そして数十メートルほど進んだ先で、僕はその小さな悪戯の犯人を目撃する事になる。
今度は歩道の反対側に佇むツバキの木立、その下に落ちた花を拾い上げる一人の少女。
近くの私立小学校の制服を着た彼女は、手近な柱の頭に何気なくそれを置いた。
手にはまだ数輪の花、順番に柱の上に置きながらこちらへと歩んでくる。
やがて僕とすれ違った彼女は、おそらく小学校の高学年くらいか。
校区の限定される公立の学校であれば班体制で通学するのだろうが、様々な地域から児童が集う私立校に通う彼女は一人で歩いている。
この花を飾り歩く悪戯は、寂しい通学路で彼女が見つけた小さな楽しみなのかもしれない。
すれ違ったばかりの少女を目で追う事は、このご時世では躊躇われる。
わざと十数秒の間を開けて振り返ると、彼女はさっき僕が通り過ぎた木立の下で、また屈んで花を拾っていた。
少し迷った後、僕は周りを伺う。
幾人かの通行者は見られるが、特徴もないサラリーマンを気にとめる人などいない。
その存在には気づいていた、自らの足元に転がる一輪の花。
照れ臭さを拭い、それを拾い上げる。
少女が置いた場所の次、彼女が進む方向にとってはひとつ手前になる柱に、その一輪をそっと置いた。
何も悪い事をしてるわけじゃない。
誰も責めてはいないのに、自分にそう言い聞かせてしまう。
また少し周りを気にした後、わざとらしい知らんぷりの顔を作って、僕はさっきよりも早足で歩き始めた。
日々、少しずつ増えてゆく柱上のツバキ。
その行為に慣れ始めた僕は、数日経って色が褪せたものがあれば新しいものと交換しながら、日に二つか三つほどツバキの小径の伸ばしていった。
彼女は自分の他にも同じ悪戯をしている者がいる事に気づくだろうか。
たまに彼女とすれ違う事はあったけど、その目の前ではあえて花を持つ姿は見せないようにしていた。
この1キロ程の遊歩道には様々なツバキが点在している。
だんだんとツバキの花が落ちやすい時期に近づいているのだろう、素材を拾う事には苦労しなかった。
やがてその小径が一日に延びる距離は、飛躍的に長くなる。
「あ、あそこ落ちてる」
「そこのやつは色が悪くなったな」
「白もあってもいいかなあ」
朝の散歩をするお年寄りが、僕と同じように通勤する男性が、ベビーカーを押した母親が、ツバキを拾っては柱に置いてゆく。
「ちょっとストップ!」
「もう、急に停まらないでよ」
自転車に乗った女子高生が、わざわざブレーキをかけてまで風で落ちた一輪を柱に戻すのを見かけた。
「よっしゃ、いっぱいあったぞ」
「お前、それはもう汚いだろ」
普段なら顔を逸らしてすれ違うだろう、一見がらの悪そうな建設作業員が両手にたくさんの花を持って笑っている。
遊歩道の最初と最後には誰かの手によりゴミ袋がかけられたダンボール箱が置かれ、周知があったわけでもないのに色が褪せた花はそこへ入れられるようになった。
「これ、侘助かな」
「そうじゃない? さっきの木の花に似てるもの」
『ヤブツバキ』
『侘助』
『西王母』
『乙女椿』
いつしかツバキの木立には木札で作られた手書きの樹名札がつけられている。
色んな形の花があるな……とは思っていたけれど、やはり品種はいくつもあったらしい。
庭園にあわせて人為的に植えられたものも多いのだろう。
「ああ、今日も綺麗に並んでますね」
「おはようございます」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」
「今朝は少し暖かいですね」
きっと名前も知らない人と人、それでも挨拶を交わしている。
前からあった事なのかもしれないが、前より多いのは間違いなく思えた。
そんな中、誰よりも大きな声で、誰よりもたくさんの人に挨拶をする人が、今朝も向かいから近づいてくる。
「おはようございます」
「おはよう、だいぶ拾う花が減ってきたね」
「はい、なかなか見つからなくて」
近くの私立小学校の制服を着た彼女は、にこにこしながら「だけどね」と続ける。
「もう、春がくるから」
そう言いながら上を向く彼女につられて、空を見上げる。
そこには、ついこの前までの冬枯れていた落葉樹の枝が、僅かに新緑の彩りを湛えて覆い被さっていた。
次にツバキが咲き、その花を落とし始めるのはいつになるだろう。
でもそれまでもこの道は様々な彩りに満ちて、僕を迎えてくれるはずだ。
そして少しだけ深まったすれ違う人々との繋がりは、一年を通じてそこにあるに違いない。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
僕はまた、少し憂鬱な職場を目指して歩き始めた。
おしまい
とある街の実話……を脚色しただけ
短いのにスレたててすみません
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