八九寺「これは絶対に実らない初恋ですから」(144)

001

 「阿良々木さん。偽物語という物語を知っていますか?」
いつかの、僕と八九寺の会話である。
「お前なあ、いくらなんでもそれは直接的すぎるだろう」
一応説明しておくと、偽物語というのは僕達が出演(なのだろうか?)した、
今年の冬から春にかけて放送された大人気アニメーションである。
「うわ、自分で大人気とか言っちゃいます?」
「……ともかくだ。いくらメタな立ち位置のお前だからって、
そんな平気な顔して偽物語の話とかするのは、僕としてはどうかと思うけどな」
「失礼。噛みました。偽物語じゃなくて伊勢物語でした」
「畜生!あざとすぎるぞ!絶対わざとだ!」

行間は空けようぜ

「伊勢物語の有名な段のひとつに、筒井筒というものがあるのですが、
阿良々木さんはご存じでしょうか?」
八九寺は悪びれもせずに続ける。
「ああ、なんか羽川との古文の勉強会でやったな。
幼馴染同士が結婚する話だっけ?」
「まあ、幼馴染どころか友達さえいない阿良々木さんには関係のない話でしょうけどね」
「やめてくれ!お前はそんなことが言いたかったのか!?」
「いえ、そうではなくてですね。あの筒井筒という物語をもう一度思い出してみてください」

たしか、幼馴染と結婚した男が、別の女のところへ通うようになって、

けれど妻が自分を浮気相手のところへ怒りもせずに送りだすのを訝しんで

こっそりと妻を覗いてみたところ、妻が一人で自分を心配してくれる歌を詠んでいて、

心を打たれて浮気をやめるという話だった。

「概ねそんな感じですね。ですが、その話には続きがあるんですよ」

と八九寺。小学生とは思えない知識量である。

「浮気相手の女は生駒山を挟んだ向こう側、河内高安という所に住んでいるのですが、

彼女も男が会いに来てくれないので、歌を詠むんですよ。

『君来むといひし夜ごとにすぎぬれば頼まぬものの恋つつぞふる』

―あなたが来ると言っていた夜もことごとく過ぎて行ったので、

あてにはしていないものの恋焦がれて過ごしています。と」

「ほう。浮気相手も割と小洒落ているんだな」


>>2
こんな感じ?

>>7
うん
この方が良いと思うよ

「はい。しかし、男が河内高安の女のもとへ現われることはなくなったというのです」

誰も気にさえしないですけれど、と八九寺は呟く。

 その女の人、どういう気持ちで、その後どう過ごしたんでしょうね。

そんな話を、八九寺とした記憶がある。

 あれは、果たしてプロローグだったのだろうか。


>>8分かった
すまん頭悪いもんで。

002

 八九寺真宵という友人は、あらゆる点で、普通ではない。


僕の友人には普通でない人が多いが―もっとも、友人自体が少ないので、如何とも言い難いが―

それとは関係なく、八九寺真宵は、もっと根本的なところで普通ではない。

 怪異なのである。

 八九寺真宵。

大きなリュックサックにツインテール。

巧みな話術と丁寧な言葉遣いの裏に隠された毒舌。

蝸牛に迷った少女にして、怪異そのもの。死に続けている、浮遊霊。

そして、薄に消えた少女。

あの夏、あの空白の夜に、僕達、つまり阿良々木暦と忍野忍の経験した、八九寺真宵をめぐる冒険は、

しかしながらパラレルワールド云々の話(傾物語を参照されたい)だけでは、完全とは言い難いのだ。

忘れ去られた部分があるから。

意図的に、隠蔽された部分があるから。

意図的に忘れ去られるというのも、なかなかどうして奇妙な言い回しなのだろうけれど。

奇妙なもの。怪しいもの。けしきもの。それを怪異と表現するのであれば、

今回のこの『意図的な忘却』についても、けだし納得がいくだろう。

くどい言い方になっているけれど、要するに。

怪異の影響で、僕達はこの物語を忘れているのだ。

そして、もっと言えば、その犯人は。

他ならぬ、八九寺真宵その人である。

誤解を恐れずに言えば、八九寺真宵のせいで、この物語は隠蔽されているのだ。

もっとも、忘れているということを記憶している今の僕自身の立場については、

いささか疑問の余地を残すところではあるけれど。

つまるところ、この後悔の記憶のみが、僕の意識の奥底でのたうちまわっているといった感じだろうか。

八九寺ではないけれど、未練ある幽霊さながらに。

 そんなわけで。阿良々木暦本人すら顕在的には記憶していないその物語と、

これから直面することとなるあなたに。どうか分かってほしいのだ。

僕の。この、後悔を。

これは、僕と忍が八九寺を助けるべく、しかし偶然に、

十一年前の別ルートへ入り込んだ後の、帰り道の物語だ。

誰も語ることのない、沈黙の物語だ。

003

 気付いた人もいるのではないだろうか。

ゾンビやら、かの伝説の吸血鬼やらと相まみえることとなった話で、

出発したのは深夜だったのに、ふたたびこの歴史に帰ってきた時、八月二十一日の朝だったことに。

空白の十時間の間、阿良々木暦と忍野忍はどこにいたのかとパラドックスを感じた人もいるだろう。

結論から言うと、その空白は、空白なんかじゃなかった。

僕達は、出発した時間通りの午前零時に、北白蛇神社の境内に帰ってきたのだ。

「むこうの儂も、たいそう律儀なもんじゃの。こんないきなり戻ってきてしもうても、逆に感覚狂うわ」

忍が愚痴る。

「つーか、それはそれですごいよな。お前はこんな正確にできないだろう」

「むう、生意気な。儂は失敗など先祖」

「いきなり誤植してんじゃねーか」

それにしても。午前零時台に北白蛇神社にいきなり放り込まれても、どうしていいのか分からない。

忍は夜行性だから別に問題はないのだろうが、凡人たる僕にとっては、

半端ない眠気が襲って……来ない。

「そもそもお前様。さっき吸血鬼性を極限まで上げたではないか」

「ああ、なるほど」

「どうやら、朝までどこかで時間をつぶすことになりそうじゃの」

かかか、と。忍が愉快そうに笑う。久しぶりに、しかし実際にはさっきふれたとおりまったくタイムラグはないのだが、

ともあれ久しぶりにこの世界に帰ってきた僕達には、どんなことでも心から楽しめるようだった。

このまま忍と朝まで遊び呆けるというのも悪くない。僕は思い切りテンションを上げきって忍に尋ねる。

「じゃあさじゃあさ、何して遊ぶ?かくれんぼか?」

「鬼ごっこよ」

「なんでお前が絶望先生を知ってるんだよ……。しかもアニメの関連のアルバムじゃねえかそれ」

毎度思うが、こいつのそういう知識は、どうしてそんなに偏っているのだろう。

今度そういう情報の規制を行うべきかもしれない。

「儂はあれで新房シャフトにハマったのじゃ。新房監督はぱないの。

独特の演出で惹きつけておいて、掴むところをしっかり掴んでくる。

キャストもミスがまったくない」

「ああ、確かに。僕は最初、日塔奈美が新谷良子さんっていうのが想像できなかったんだけど、

いざ聞いてみれば完璧すぎて感動したぜ。

しかもそのキャストが後々原作にまで影響を与えることになるなんて、天才すぎるよ。

良子ちゃんの残念なキャラってのがねえ」

「お前様、楽しそうに話しすぎじゃ。それはもはや中の人が出てきてしもうておる」

忍が若干冷めた目で見ていた。ちぇっ、これから新谷良子がいかに残念で、

ウザくて、かわいいかについての談義をしてやろうと思ったのに。

「いいじゃないか。忍も出していけよ、中の人要素」

「にゅう、がくしけん♪」

「そっちの中の人じゃねえよ!」

そこは禁句のところだ!

「かかか、よいではないか、二次創作くらいでしかこれをネタにできんじゃろうて」

「黙れ!僕は結構楽しみにしてたんだぞ!平野さんのキスショットを!」

「ほう? 『平野さんのキスショット』じゃと? それはもう流出し―」

「意味が違えよ!」

「まさに『傷物語』じゃな」

「とんだ自虐ネタだなあおい!」

この話は不毛だ。もうやめよう。

「つーか、これからっしょ」

「やめようって言ってんだよ!」

「僕が言ってたのは鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼、

キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードのことだよ」

「というかお前様、一応その名は儂の前では二度と口にせぬはずじゃろう……」

「あ、そうだっけ?」

そういえば確かにそんなことも言った気がする。

「ま、いいんじゃね?これ二次創作だし」

「二次創作というのを逃げ道にしおってからに……」

「まあそう堅いこと言うなよ。元気がいいな、何か良いことでもあったのか?」

あの小僧の真似とは癪に障るのう、と忍。

まあ、実際に元気はいいが、真夜中特有のハイテンションだろう。

「良いことというか、むしろ少し滅入ることがあっての」

「へえ、忍が滅入るなんて珍しいな。何があったんだ?」

「なに、ついさっき人類が滅亡したパラレルワールドに迷い込んでしもうての」

「リアルに嫌な話だ!」

「ドロドロに腐ったキスショットとか出てきてのう」

「なにネタにしてんだよ!」

「水着を上下さかさまに着けてしもうての」

「結局平野さんに帰結するのか!だから平野さんの話はやめろって!」

「ほう、お前様も随分と冷たくなったもんじゃな。

少し前までは平野さんじゃなくてあーやと呼んでおったのに」

「恥ずかしい過去を弄くり返すな。僕は花澤香菜ちゃん一筋だ」

「そっちも十分恥ずかしいわ」

というかお前様、と忍が見事なシャフ度を作って僕を見る。

「そこは斎藤千和と言わねばならぬ所じゃろう」

「しくじった!訂正する!」

うわあ!僕の馬鹿!

「ほうほう。

お前様はガハラさんが彼女で、愛人が神原で、結婚するのは羽川で、本命は八九寺で、

その上千石撫子一筋じゃと」

「その認識は大きく間違っているし、ちゃっかりガハラさんとか言ってんじゃねえ!」

「しかるにお前様よ、儂はお前様の何なのじゃ?」

「それは深い質問だけれど、この流れで言ったら何を言っても軽くしか聞こえねえよ!」

ちなみに忍は、僕としては相棒という言葉がしっくりくるかと思う。

「なるほどのう、愛の棒と書いてアイボウか」

「そんなエロい意味じゃねえよ!」

「これでエロいことを連想するお前様は相当汚れておるわ……」

正論だった。

「お前様はあれじゃな、中学生の頃お口の恋人をエロい意味に捉えておった奴じゃな」

さすがにそれはないと思う。

「しかしお前様よ、あのお口の恋人というキャッチコピーはすごく良いと思うのじゃ」

「ああ、確かになんか頭に残るし、買おうという気になるよな」

「『初恋の味』カルピスとか」

「うん、あれも良いな」

「『愛の棒』ポッキーとか」

「結局それが言いたかっただけかよ!」

途中から何となく気づいてはいたけれど!

「神に愛された委員長、羽川翼」

「それもキャッチコピーなのか?」

「ツンデレというよりツンドラ、戦場ヶ原ひたぎ」

「ひどいフレーズだな」

「変態腐女子百合マゾ露出狂、神原駿河」

「もっとひどいのが来た!」

「ただのロリ要員、八九寺真宵」

「悪意あるなあ!」

「ラスボス千石」

「なんか強そう!」

「あと妹二人」

「途中から飽きただろお前!」

只今午前零時三十五分。まだハートステーションですらない。

「しかしお前様の周りにはキャラの立っておるのが多いの。ギャルゲーみたいじゃ」

「いやな喩えだな……」

「そうなると悪友キャラがおらんのう」

「そもそも友達がいないからだよ!悪かったな畜生!」

「あと幼馴染キャラもおらんの」

アマガミかよ!

「でもそうなるとほら、先輩キャラもいないじゃん」

「あの陰陽師なんてどうじゃ?」

「影縫さん攻略対象なの!?」

やべ、そのギャルゲー超やりたい!

「戦場ヶ原ルートのバッドエンドは刺される」

「リアルにありそうで怖いわ!」

かーなーしーみのー、と忍が口ずさむ。忍野は一体、こいつに何を教えたのだろう。

 しかし暇じゃの、と忍。

「お前様、肝試しでもするか」

「別にいいけれど、果たして僕と忍で肝試しをやって、面白いのか?」

むしろ僕たちが、普通に怪異なわけで。

「それもそうじゃが、肝試しってなんか夏っぽくていいじゃろ?」

「まあ、普通なイベントだな」

「ふむ」

「……いや、忍。そこは『普通って言うなあ!』って言うところだろ」

「なんじゃその鋭角すぎる無茶ぶりは」

そんなことを話しながら。僕達は一番近くの墓地へと向かったのだった。

004

暇だから深夜に墓地を徘徊する受験生が、そこにはいた。

ああ、僕だとも。我ながらひどい話である。

「絶望したっ!自堕落な受験生活に絶望した!」

「どれだけSZBHが好きなのじゃお前様は」

「SZBHは僕の青春だ」

「なんと絶望的なことを。それを言うなら、涼宮ハルヒの憂鬱も儂の青春じゃった」

「そっちの方がよっぽど絶望的な発言だ!」

ふん、と忍が一笑する。坂本真綾さんの声で。坂本真綾さんの声でね!

004

暇だから深夜に墓地を徘徊する受験生が、そこにはいた。

ああ、僕だとも。我ながらひどい話である。

「絶望したっ!自堕落な受験生活に絶望した!」

「どれだけSZBHが好きなのじゃお前様は」

「SZBHは僕の青春だ」

「なんと絶望的なことを。それを言うなら、涼宮ハルヒの憂鬱も儂の青春じゃった」

「そっちの方がよっぽど絶望的な発言だ!」

ふん、と忍が一笑する。坂本真綾さんの声で。坂本真綾さんの声でね!

「さて、ここまで来たはよいが、どうするかの」

「ん。とりあえずこの道をまっすぐ抜けて、先のお寺の前まで行って、さい銭入れて帰ってこようぜ」

「丑の刻参りというわけじゃの」

「別に呪う気はねえよ。ただ、向こうの世界から無事に帰って来られたんだから、

ちょっとくらい神様にお礼をしたくなっただけだ」

「お礼参りというわけじゃの」

「だから別に恨みはねえよ!」

いや、こっちのがお礼参りの正しい用法なわけだけれど。

「というかお前様、神様にお礼をするのなら、北白蛇神社ですれば良かったものを。

ここに祀られているのは仏教の仏じゃぞ?」

もっともな指摘だ。だが、僕たち日本人は、神様だろうが仏様だろうが

大して違いを感じていないのだ。クリスマスを祝った一週間後に初詣をするように。

神様仏様稲尾様、なんでもござれ。神仏習合。シンクレティズム。

信仰心が薄いと思われるかもしれないけれど、これはこれで一つの形なんじゃないかと思う。

「聞き捨てならんのうお前様」と忍。

そういえば忍は、やはり西洋らしくキリスト教を信仰していたりするのだろうか。

いや、そもそも十字架が苦手だし。ってか、こいつ何人なんだろう?

何にしても、忍には理解できない境地だったらしい。無理もない。異文化交流というものは、

特に宗教においては、非常にナーバスなところだったりする。

「神様仏様ときたら、普通はバース様じゃろうが!」

前言撤回。忍が異論があるのは、そこじゃなかった。

「お前阪神ファンかよ!」

「当たり前じゃ。熱血すでに敵を衝く、じゃぞ?」

熱血の吸血鬼にぴったりじゃろう、と忍が目を輝かせる。

熱血以外の称号を省略しやがった。

「好きな選手は平野じゃ」

「だからやめろって!」

巨人には坂本がいるわけだが。

「ちなみにサッカーはジェフ千葉が好きじゃ」

「へえ。またどうして?」

「太陽は苦手じゃからの」

「誰も分からねえよその喩え!」

一応説明しておくと、ジェフユナイテッド市原・千葉というチームは、

太陽をモチーフにした柏レイソルというチームとライバルだったりする。

「僕はレイソルファンっていうほどじゃないけれど、

ACLとかで日本の代表として戦っていると、応援してしまうな」

「実を言うと儂も別にレイソルが嫌いというわけではないのじゃ」

「どっちなんだよ!」

「んー、キャラ付けって感じ?」

「それどっちのファンにも失礼だよ!」

「まあ、つまるところは阪神ファンじゃな」

と、忍が八重歯を見せて笑う。

僕たちはなおも霊園の小道を歩き続ける。当然ながら幽霊は出てこないのだが。

「獣王の意気高らかに―」

「無敵の我らぞ―」

真夜中に大声で六甲おろしの二番を歌いながら、

墓地を徘徊する高校生と幼女がそこにいた。

ていうか、僕たちだった。迷惑にもほどがある。

 「しかし、出てこぬの。幽霊」

忍がつまらなそうに言う。

「ええい、出てこんか幽霊!」

忍は時々、とても子どもっぽかったりする。

「でもさ忍。実際に幽霊が出てきてしまっても、それはそれで困るんじゃないのか?

その、退治とか」

「物騒なことを言いおるな。墓地には死者が弔われておるのじゃから、幽霊なぞおって当たり前じゃろう。

ここには、この街の住人の先祖が安らかに眠っておるのじゃ」

言われてみればそうだ。墓場。墓地。霊園。

霊なるものの、眠る園。

「そんな所にわざわざおちょくりに来て、幽霊を見つけたら退治、とは」

「すみませんでした!」

かかか、と忍は笑う。

うわあ。でも、よく考えたら、肝試しってかなり残酷な遊びだよな。

夜中に死者の安眠を妨げに行って、幽霊が見られなかったらつまんない、なんて。

それに、こともあろうに退治だなんて。

忍野なら、間違いなくこう言うだろう。

元気いいねえ、なにか良いことでもあったのかい?

「ただの人間には興味ありません。この中に自縛霊、浮遊霊―」

「『私のところに来なさい、以上』じゃねえよ!」

まさかの中の人リターンズ。

「思ったのじゃが、お主様、この場合ただの人間に会う方が、怖くないかの?」

「……。……おい、リアルに鳥肌が立つようなこと言ってんじゃねえ!」

この夜中に墓場で生身の人間が徘徊しているとしたら、確かにその方がよっぽど怖い。

……。

……まあ、僕なのだが。

 そうこうしているうちに、分かれ道に出た。まあ、当たり前だ。

一本しか道のない墓地というのも、なかなかないだろう。

「お前様よ。ここはひとつ、一人で行ってみんかの?」

「ああ、そうだな」

忍と二人で行っていると、結局ギャグパートになってしまうしな。

「まさかお前様、怖いのか?」

「うるせえよ」

つい今しがたゾンビの大群に遭ってきた僕が、怖がるわけないだろう。

それに忍の話を聞いていると、ここの幽霊は攻撃性がないようだし。

 そんなわけで僕たちは別行動をすることになったのだが。

「なんだあれ」

忍と別れてすぐ。前方に微妙な炎がひとつ、見え始めたのだ。

雑木林がざわざわと揺れる。

さっきは怖がるわけないなんて言ったわけだけれど、訂正しようと思う。

ちょっと怖い。

しかしあの炎。怪異の知識に関しては素人ながら、なんとなく分かる気がする。

子どもの頃に見たゲゲゲの鬼太郎の知識だが。

真夜中の墓地に、炎といえば。

人魂。

立て続けに前言撤回して非常に申し訳ないが、今一度訂正しよう。

やべえ。かなり怖い。夜の墓場は、一人で来ない方がいい。

炎は、だんだんと近づいてくる。

「うわあ。やめて。やめてください、僕まだ死にたくない!」

真夜中に一人で墓場を訪れて、腰を抜かす高校生の姿が、そこにあった。

マジびびりだった。

天使ちゃんマジ天使。

暦ちゃんマジびびり。

それらしく言っても、全然可愛くない。

その時。浮いていると思っていた炎の下に、ぼんやりと影が見え始めた。

小柄でひょこひょこと動くツインテール。その影は。

「おや、そこにいるのは阿僧祇さんじゃないですか。こんなところで何をしているのですか?」

八九寺真宵その人だった。

005

「人をとてつもなく大きい数の単位みたいに言い間違えるな、僕の名前は阿良々木だ」

腰を抜かした状態で反応できたのは、我ながら素晴らしいと思う。

「失礼。噛みました」

「わざとだ……」

「かみまみた!」

「わざとじゃないっ!?」

「ワイナイナ!」

「古い!」

「バイバニラ!」

「新しい!」

「ビアビアニ!」

「関係ねえ!」

「つーかお前、なんでたいまつなんて持ってるんだ?」

そう。八九寺は、いつもの格好に、たいまつを持っていた。僕はこれを人魂と見間違えたのだ。

しかし、八九寺は答えを渋った。

「……まあ、これも八九寺Pの仕事と言いますか」

「どんな仕事だよそれ!?」

「丑の刻参りです」

「そんな物騒な仕事があるか!」

迷い牛の刻参り、なんて。八九寺は割と楽しそうにのたまった。

「いやあ、でも安心したよ。俺はてっきり、その炎が幽霊か何かかと思った」

「いえ、それ以前にまず私が幽霊なのですが」と八九寺。

「なんにせよ、僕の杞憂でよかった。幽霊の正体見たり枯れ尾花ってところだな」

「人を枯れているみたいに言わないでください。私はぴっちぴちですよ?」

「その表現が既にぴっちぴちじゃないな」

「じゃあビッチビチですよ?」

「それは嫌だ!」

八九寺は穢れないロリのままであってほしい!

「ところで阿良々木さん、私のリュックを返していただけないでしょうか」

「ああ、そうだった」

そういえば。別ルートに入る前の僕は、

八九寺が忘れて帰ったそのトレードマークとも言える大きなリュックサックを

八九寺に渡すという案件を抱えていたのだった。

「あれなら僕の家にあるわけだけれど、僕はまだあのリュックの中身を確認してないんだ。

渡すのはその後でもいいかな?」

「だめです!」

女子小学生の荷物の中身を覗こうとして全力で拒絶される高校生以下略。

もういいや。全部僕なんだよ。どうせ。

「でさ、八九寺。実際あの中には何が入ってるんだ?」

「夢と希望です」

「格好いい!」

「金と欲望です」

「汚らわしい!」

「鬼に金棒です」

「もうわけが分からない!」

「痴女と佳奈坊です」

「ひだまりラジオっ!?」

こいつといると本当に飽きない。

「でも真面目な話、あれはツインテールと並んで、

私のキャラクターを具象化したものなんですよ」

「ああ。迷い牛、ね」

迷い牛。蝸牛に迷った少女。

確かに、後ろに殻のように大きくリュックサックを背負っていると、それらしく見えないこともない。

「ですから、リュックを背負っていない今の私は、さしずめナメクジといったところです」

「気持ち悪いわ!」

うわー、と八九寺が冷たい目で見てくる。

「女子小学生に向かって気持ち悪いとか、イジメに発展しますよ?」

まごうことなき正論だった。

「そういえば、エスカルゴってめちゃめちゃうまいじゃん?」

「う……。私にそんな話をするとは嫌がらせですか?もしや本当にイジメですか?」

「いや、お前も実はうまかったりするのかな、なんて」

「」

八九寺がツインテールをぴんと張って身構えた。明らかに警戒している。

「だって、お前が噛みついてくることはあるけれど、ほら、僕から噛みつくことは少ないだろ?」

「少ないってことはあるにはあるんじゃないですか!」

これも正論だった。

「いや、お前に出会いがしらに抱きつく時に舐めたり甘噛みしたり頬ずりしたりすることはあるけれど、

あれはあれでルーチンワークみたいになっていて、いまひとつ味わえてないんだよな」

「」

「ここはひとつ公平性という観点でも、僕に八九寺の二の腕、いや、そうだな、

耳たぶくらいで構わない。左の耳たぶを少しだけ食べさせてくれてもいいと思うんだ。

いや、本当は全部食したいくらいの気分なのだけれど、そこはほら、やさしさというか、

年上としてがっつくわけにもいかないかなと思ってさ。はは、僕ってつくづく優しいな」

「」

「というか、エスカルゴは熱処理が必要だよな。あ、お前今たいまつ持ってんじゃん。

ちょうどいいや。それで八九寺の耳たぶを焼いて、あとは、ガーリックが要るな―」

「近寄らないでくださいこの変態!!」

ここでようやく、僕の長きにわたる耳たぶフェチ講義――もといツッコミ待ちのボケは、

八九寺がたいまつで僕を殴り飛ばすという形で終止符を打たれた。

「いってえな、何すんだこの野郎!」

「正当防衛です!」

「殴ってきたのお前からだろ!」

「では正当攻撃です!」

「そんな攻撃は存在しない!」

「……まったく、小学生を《性的に》食べたいだなんて、阿良々木さん、お里が知れますよ?」

「僕は性的になんてエクスキューズは入れていないし、そんな性犯罪者まがいの発言で特定されるお里なんてない!」

僕は単に八九寺を食事として食べたいと言ったんだ。

「どちらにしても犯罪じみています!」

やっぱり正論だった。

「今ので思い出しましたが、私ずっとカニバリズムってサンバのことだと思っていたんですよ」

「ブラジルの人に全力で謝れ!」

正論の後に暴論だった。

カーニバルのリズムでカニバリズム。

「そういえば、こんな感じのネタ、原作ですでにやってましたね」と八九寺。

「ああ、神原とのギャグパートでやったな。ブレスレットがどうとかいうやつか」

「まあ、今さら原作とネタ被りとか言うつもりはありませんが、

どうせなら原作で絶対にできないような話題をしてみたいと思いませんか?」

「……随分と挑戦的だな。どんな話題をする気だ?」

「『ひぐらしのなく頃にって、正答率1%とか言って、結局はミステリーですらなかったよねー』とか」

「皆が薄々思っていることを言うな!」

「『とある魔術の禁書目録って、萌え豚に媚び売りすぎで、キリスト教に対する偏見がひどいし、

本当に信仰している人たちを馬鹿にしてるよねー』とか」

「片っ端から批判をするな!」

「『化物語って、―』」

「やめんかい!」

グーで殴った。女子小学生を。

いのちにかかわるパンチをしますよ、だった。

「何するんですか!」

「何するんですかはこっちの台詞だ、よりによってそんな大人気作品に喧嘩売るんじゃねえ!」

「うわ、化物語が大人気とか自分で言っちゃいます?」

なんかデジャヴ。

「……とにかくだ。原作で絶対にできない話ってのは、単に毒舌になればいいってことじゃない」

「えー、でも折角だし、シビアなことが言いたいですよー」

八九寺がむくれる。

「―そういう年頃ですもん」

「どんな年頃だよ」

「十歳と十一年間の亡霊生活」

「シュールな年頃だっ!?」

「というかですね、阿良々木さん、私が見る限り阿良々木さんはこの夏休み

遊んでいるようにしか見えないのですが、受験勉強は大丈夫なんですか?」

う。結局シビアなことを言ってきやがった。

「ま、まあ? それなりに、かなー? あはは……」

「それなりにやってもそれなりの結果しか得られませんよ」

「……うん」

「大体ですね、阿良々木さんには受験生としての自覚がないんですよ。

意識的に勉強をするのではなく、常に勉強をしていて、たまに意識的に休むのが受験生です」

「……はい」

「阿良々木さんは、気がついたら勉強していたなんてこと、ありましたか? ないでしょう?

それくらい意識を高く持たないと、とてもじゃないですけれど戦場ヶ原さんと同じ大学なんて無理ですね」

「なんでお前そこまでシビアなんだよ!?」

「今日はいつになく攻めてます」

えへん、と八九寺。なんだこいつ。

大学受験とか経験してないくせに。

「つーか、お前、忍を見かけなかったか? 忘れていたけれど、あいつ、

今ごろ寺の本堂に一人で佇んでいるはずなんだよな」

「露骨に話題を変えないでください阿良々木さん。というか、あれ?

たしか阿良々木さんと忍さんはペアリングされていて、そんなに離れられないのでは?」

「細かいことを言うな、二次創作の脆さが露呈するだろ」

正直な所、ペアリングとかなんとか、僕にはまだ今ひとつ分かってないんだよな。

「うわあ、丸投げですか……」

「……少なくとも私は見ていませんね、忍さんのことは」

「そうか。じゃあ、僕は忍を探しに行くとするよ」

「……」

八九寺が急に黙り込んだ。

「……ん? どうかしたか?」

「……あ、いえ。……では、ごきげんよう……」

八九寺のテンションが、明らかに下がっている!?

「どうした八九寺!? そんなに僕と離れるのがいやなのか!?

とうとう待ちに待ったデレ期突入なのか!? ひゃっほう!」

「うるさいです阿良々木さん、消えてください」

強めに言われた。ちょっとショックだ。

 そんなわけで、僕は八九寺と別れ。

忍のもとへと向かったのだった。

 もしこの時、八九寺の異変に気付いていたなら、否、気付いていたところで物語の結末に

なんら変化は生じなかったのだろうが、それでも。

この時気付くことができなかったことは、非常に悔やまれるばかりだ。

松明を持って。寂しそうに黙りこむ少女のうしろ姿。

気付く要素はいくらでもあったのに。

僕は、何も考えず、八九寺真宵と別れたのだった。

006

 「遅い」

「ごめん―」

「お・そ・い」

「だからごめんって」

「……ふん」

午前三時の寺の前。僕はひたすら忍に平謝りしていた。

忍さん、いささかご立腹の様子だ。

「まったく、いつまで待たせる気じゃ。それに、お前様の体から、

よく分からん怪異のにおいもするし」

うわあ。こいつ怪異のにおいとか分かんのか。

「儂を深夜の寺の本堂なんぞにほったらかしにして、どこをほっつき歩いておったのじゃ。

まあ、そのにおいからして、怪異に絡まれでもしたのじゃろうが」

「……それがさ、境内で八九寺に会ったんだよ。ほら、僕がたまに道端で世間話をする―」
「―『道端でセクハラをしておる』、あの蝸牛の小娘か」
「……」
ひどい認識だった。まあ、異論ないけれど。
「それで? そのあと何があったのじゃ?」
「いや、普通に一通り話をして、それだけだけれど」
「……ん?」
忍の目が三角になっている。『三角の目をした羽根ある天使』って、こんな感じの目なのだろうか。
ていうか、僕のちっちゃい方の妹、阿良々木月火のご立腹のときにそっくりだ。

「すると何か、お前様は、その小娘と話をしたために、儂をこんなにも待たせたと言うのか」

「……うん。まあ」

「ふむ。ふむふむふむ。……死刑じゃな」

忍は少し考え込んだ後、にっこりとそう言った。

つーか、本当にいつぞやの歯磨き事件のときの月火ちゃんみたいだ。

「死刑、じゃなっ♪」

「かわいく言ってんじゃねえ!」

「し☆けい」

「美水かがみ劇場っぽくしてんじゃねえ!」

「しけい!」

「かきふらい先生原作の四コマ漫画っぽくもするな!」

「……ん? 待てお前様、それだけのはずがないじゃろう」

忍が思い出したように遮る。

「え? どういうことだ? 本当にそれだけだぜ?」

「いやいや、その怪異のにおいは何なのじゃ?」

その、って言われても、僕は全く分からないのだけれど。

「なんだ? 八九寺のにおいじゃないのか?」

「いや、そんな小便臭いにおいではない」

「そうなのか……ってちょっと待て! 今お前なんつった!?」

八九寺のにおいが小便臭いって? マジで!?

「うわ、今度会ったら絶対嗅いでやろう! ……うぐっ!」

殴られた。忍にグーで殴られた。

いのちにかかわるパンチをしますよ、だった。

「話の腰を折るな愚か者めが」

「すみません」

「……しかし、このにおいは、迷い牛ではなく、むしろ何か、そう、炎の燃えた後ような……」

「いや、確かに八九寺は萌える存在かもしれないけれど、……」

「うるさい、黙っておれ」

「……」

今日の忍ちゃん、微妙に厳しい。

「……逆に、あの小娘のにおいはせんの。お前様よ」

「なんだ?」

「蝸牛の小娘に何か普段と違う所はなかったか?」

「そうだなあ……。……あ」

そうだ。

「あいつ、リュックを背負ってなくて、たいまつみたいなものを持って―」

「―たいまつ、じゃと?」

「うん」

「……ふむ」

なんとなく。ヤバい予感がした。

ギャグパートは唐突に終わりを迎え。

物語は急激に展開しだす。

007

「薄火」

忍が言う。

「名前の通り、弱い炎の怪異じゃ。消えかかっている炎のことを指して薄火と言う。

しかしの、お前様、薄いという字には、別の読み方があるのを知っておるか? 薄―すすきじゃよ」

薄。

イネ科ススキ属の総称。

「あの小娘―ハチクジとかいったか―あやつは今、迷い牛ではなく、薄火という怪異じゃ。

そうそう。すすきというのは、別の言い方では尾花とも言ったのう」

幽霊の、正体見たり、枯れ尾花。

八九寺真宵の、正体。

「少しメタな話をすると、あの委員長の猫物語にも火に関する考察が出てくるがの、

まこと、火と言うのは、様々な比喩に使われる。よって薄火にも色々な存在意義がある。

嫉妬の炎であったり、意欲の炎であったり、生命の炎であったり、叡智の炎であったり。

まあ、薄火の場合は、そのどれもが、薄い炎なのじゃが」

薄い炎。消えかかった炎。

枯れ尾花。

「あやつがどのような経緯で迷い牛から薄火に憑かれたのかが分からぬゆえ、

あやつの炎が何の炎なのかも分からぬが、火の不始末は惨事を招くというしの。

追ってみるに越したことはないと思うぞ」

「……そうだな」

少なくとも、僕の大切な友人、八九寺が何かに巻き込まれていることは確かなのだ。

 否。これも後からの追想でしかないが。巻き込まれているなんていうその時の僕の考えは、

あまりに身勝手で、押しつけがましくって、被害者面もいい所だったのだが。

なにしろ、八九寺も。そして僕も。

紛れもなく、この物語の当事者なのだから。

008

そんなわけで、忍の霊圧探知(BLEACHか!)によって、僕と忍が八九寺を追ってやってきたのは、

他でもない北白蛇神社だった。

「マジか」

「マジのようじゃのう」

「今日はここにご縁があるのか?」

「単に背景画を少なくして予算を浮かそうと言う算段じゃろう」

「エロゲーかよ」

「戦場ヶ原ルートのバッドエンドは刺される」

「もういいって! ネタを再利用するんじゃねえ!」

そうこうしていると、前方にぼんやりと、あの人魂が見え始めた。

「ふむ。確かに、人魂に見えんこともないの。どうやら肝試しは成功じゃな」

かかか、と忍が笑う。

いや、僕としては八九寺のピンチをそんなに楽しむ余裕はないのだけれど。

「おーい、八九寺!」

ぼんやりと、人魂が近づいてくる。

薄火。

八九寺真宵が、ゆっくりと闇の中から姿を現した。

「こんなところまでついて来るなんて、阿良々木さんはストーカーですかー?」

八九寺は相変わらずリュックのない不自然な格好に、たいまつの炎をゆらゆらさせて。

いたずらっぽく笑った。

「否、むしろ憑いておるのはうぬの方じゃ」と忍。

「おや、今度は忍さんもいらしたのですね……」

……。……おかしい。今、あからさまに八九寺の機嫌が悪くなった。

「あのさ、八九寺。落ち着いて聞いてくれ。お前は今、薄火という―」

「そうやって」

八九寺が遮る。

「そうやって、こういうことには必ず首を突っ込むんですね、阿良々木さんは」

八九寺の言葉には、明らかな棘があった。

「無駄に嗅覚がいいというか……。ま、いいですけど」

「おい八九寺、どうしたんだ―」

「お察しの通り―」

八九寺がまた遮る。

「―私は、今、迷い牛ではありません。リュックを早くに返していただきたかった理由も、

半分はそれです。リュックを背負えば、いつもの私に戻れるかなって、この炎を、消せるかなって」

炎を、消す?

現時点では炎の怪異たる八九寺が、自分から炎を消そうとしている?

「でも、阿良々木さんが丁度いいタイミングで現われてくれたので、その必要はなさそうですね。

いいですよ、私が何の薄火なのか、全て、お話します」

それで、終わりにしましょう。

そういう八九寺は、妙に元気で。

不自然なほどに、笑顔だった。

009

「阿良々木さん。伊勢物語という物語をご存じですか?」

「……そんな話をしたこともあったな」

「おや、覚えていらっしゃいましたか。いやはや、ネタ被りは駄目ですね、すみません」

八九寺が誤魔化すように笑う。僕は先を促す。

「筒井筒、だっけ?」

「はい。幼馴染の女の子と仲良く暮らすだけの話です」

違う。

「お前は、その後日談、浮気相手の話もしてくれたよな」

「ああ、河内高安の女ですか」

ははは、と八九寺は鼻で笑う。心底馬鹿にするように。

「どうしたことか、今、私に憑いているのは、その霊の薄火なんですよ」

「河内高安の女の、霊?」

僕は訊き返す。

「ええ。男に相手にされなくなって、忘れ去られていく女の、霊です」

「けれど、伊勢物語って、実話じゃないんじゃないか?」

「無粋なことをおっしゃいますね。怪異が実在のものかどうかだなんて」

……。確かに。怪異が実在か、非実在かなんていうのは、ナンセンスもいい所だ。

「阿良々木さん、」

重要なのは、その女が、忘れ去られていくということですよ。

と、八九寺。

「もうお分かりかと思いますが、よって、この薄火は、他でもない恋の炎です」

「……なるほどのう」

忍が、口を開く。八九寺はなぜか眉をひそめた。

「待つ、のか。その男を」

待つ。掛け詞、松。

古語辞典を引けばすぐに分かるが、松というのは、しばしば松明―たいまつのことを指す。

受験生にとっては常識ともいえることなのに。

受験生の心得がないという八九寺の指摘が、今更になって僕の心にのしかかる。

「この小娘の初恋が―絶対に実らない初恋が―河内高安の女と惹かれ合った、ということじゃの。

惹かれ合って―曳かれ合った。まったく、不運な娘よのう」

かかか、と忍が哄笑する。八九寺が忍を睨む。

「……八九寺。お前は、誰を、待っているんだ」

しかし。答えを訊くまでもなく、僕にはそれが誰なのか分かっていた。

だって。

八九寺真宵が、この街で待つ可能性のある男といえば。

「……あなた以外、誰を待つというのですか……」

八九寺が溜息とともに、俯いた。

「いつから、と訊けば、おそらく我が主様がうぬを家に連れ込んだ時からじゃろうな。

家での逢瀬があって、そして、うぬはリュックサックを忘れた」

蝸牛の殻を、出たのだ。

その瞬間から、八九寺は蝸牛ではなくなった。

彼女の、殻の中に籠っていた想いは、おぼろげな炎となって、とうとう燃えだしたのだ。

「八九寺……」

八九寺を巡って歴史を弄りまくった旅を終えた今、僕は図らずも八九寺から告白をされた。

なんというか、本当に……。

「あ、先に言っておきますが阿良々木さん。これでハッピーエンドを迎えない所が、

今回の絶対条件なんですよ。忍さんが言ったように、これは絶対に実らない初恋ですから」

八九寺が当たり前のように、機械的に話す。

自ら。絶対に実らない、と。

「当たり前でしょう? 私は幽霊であなたは生者です。実るはずもないですよ。

薄火というのは、その名の通り弱い炎です。消えかかった炎です。換言すると、

消えるためにある炎なんです。さながら河内高安の女の存在のように」

「恋の薄火の怪異としての特性は、消えることじゃ」と忍が言葉を継ぐ。

「恋心を忘れさせて、その物語を終わらせる。儂の記憶からも、お前様の記憶からも、

そして、その小娘の記憶からも、の。今回の薄火は、最も無害な類のものじゃったようじゃの」

その薄は、最初から枯れ尾花なのじゃから。

「待てよ。それって、こいつの想いは、誰にも記憶されずに―」

「―というかですね」

八九寺がみたび遮る。

「当たり前ですが、幽霊が恋愛なんてのはあり得ません。君の為なら死ねる、なんて言っても、

もう死んでるわけですし。さしずめ、忍ぶ恋でなく偲ぶ恋といったところですよ」

八九寺は冗談のように笑い飛ばす。

けれど。

僕には彼女が笑っているようには見えなかった。

「ですから、幽霊は幽霊らしく、そんな感情なんて忘れてゆくべきなんです。

河内高安の女は、幼馴染と仲直りしたら用済みです。物語の中では、すでに死んだ者なんです。

彼女との恋はあり得ないし、アマガミだって彼女のルートなんて用意してませんよ」

渾身のギャグだったのだろうが、今の八九寺は、どんなジョークを言っても全然面白くなかった。

「……やめろよ、そういうの。笑えないぜ」

「仕方ないですよ。攻略対象外なんです。棚町さんの親友の田中恵子さんみたいなものですね。

いえ、私だって、田中恵子さんを攻略したいなって思ったことはありますよ?

まあ、それに関しては、トゥルーラブストーリーにあるじゃんってことになったんですけどね―」

「やめろって」

なおも八九寺は早口でまくしたてる。

「―しかしですね、トゥルーラブストーリーだと名前が田中恵子にならない可能性もあるんですよ。

佐藤宏子、とか言われても誰だよ! って感じでしたね―」

「……八九寺、もういいって―」

「う る さ い で す ね 阿 良 々 木 さ ん ! ! ! !」

僕は、一瞬何が起こったのか理解できなかった。

目の前には八九寺真宵。

しかし、八九寺にいつもの元気で挑戦的な笑みはない。その目は、怒りで猛っていた。

そしてようやく理解した。八九寺が、怒鳴ったのだ。

「こうやって割り切ろうとしているってのが分からないんですか!?

ではあなたは私と結婚できるんですか!? 私は死んでるんですよ!?

無責任に調子のいいことばかり言って、いいですよね!? あなたは生きているんだもの!!」

八九寺真宵の本気の怒りは、僕の体に、心に、容赦なく突き刺さった。

「お父さんもお母さんもいて、帰る家があって、あまつさえ奇麗な彼女さんまでいて!!

あなたに何が分かるんですか!! あなたが他の女の人といちゃついている間、

私はこの街で話す相手もいなくて、帰る家もなくて、独りぼっちで迷い続けるんですよ!?

あなたにその孤独さが分かりますか!?」

さるった
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今更にして思う。僕にとって、八九寺と話している時間はすごく楽しかったし、
八九寺も楽しんでくれているという自信はあったけれど、僕は一度だって、考えたことがなかったのだ。
僕と別れた後の八九寺の気持ちなんて。
八九時が、どんな気持ちでこの街を徘徊するのか、なんて。

その事実から目を逸らし続けてきたのだ。
そしてそれと真剣に向き合った時。
その事実はどうしようもなく悲痛で、そして耐えがたいものだった。
「ええ、あなたには分からないでしょうね!! 私のことなんて興味がないんでしょう!?
どうだっていいんでしょう!?
あなたに、あなたなんかに、恋をした私の、気持ちなんて……」
八九寺は俯いて、肩を震わせる。怒声は尻すぼみになり、かわりにその声は潤みを帯びだした。

「……私だって、阿良々木さんが好きです。逢いたいです。話したいです。結婚したいです。

今だって、亡き身でありながら、阿良々木さんに恋をしています。恋焦がれています。

あなたを思うと胸がどきどきします。あなたの笑顔が見たいです。

でも、でも! ……どうしようもないじゃないですか……。

私は幽霊。あなたは人間。あなたには恋人がいるし、河内高安の女というのは、

結ばれない役回りなんですから……」

そういう、物語なんです。と、八九寺は。必死に泣くのをこらえた。

僕は。八九寺を撫でてやろうとして、その手が動かなかった。

たった一メートルの距離なのに、頭を撫でる手すら届かない。

そこには、圧倒的な壁があった。

生者と、死者。

大和男と、河内高安の女。

「……物語は、歌を詠んで幕引きとなります。歌を詠めば、私の初恋に関する全ての記憶が消え、

このたいまつの光も消え、私に憑いたこの怪異―河内高安の女は、消え去ります」

八九寺が静かに言う。その声は、震えもなく、しっかりとしていた。

 気がつくと、あたりは白みがかって。朝一番の山鳥が鳴きはじめている。

僕の胸に熱いものが込み上げてきた。

あまりに不条理すぎる運命だった。八九寺真宵は、死んで、迷って、彷徨って。

恋して、失って、忘れられるのだ。

そんなのってねえよ。死にきれねえよ!

「おや。どうして阿良々木さんが泣くのですか、おかしな人ですね」

八九寺がからかうように微笑んで尋ねる。そういう八九寺も、目元が赤くなっている。

「……お前が泣かないから。だから代わりに、僕が泣くんだ」

「うわ、Angel Beatsからのハガレンですか」

と八九寺。こんな時でもこいつは突っ込みを怠らない。

本当に今さらながら白状しよう。僕は八九寺が大好きだ。この想いが届かないとしても。

たとえすぐに忘れてしまうとしても。

僕は八九寺が大好きだ。

「……八九寺、僕は、僕は、お前が好きだ。大好きだ」

「おうおう、ここに来て泣かせることを言ってくれますね阿良々木さん」

「八九寺、は、はちくじ、愛している!」

「小学生にマジ泣きしながらガチ告白しないでください、阿良々木さん。

これは、ハッピーエンドではないのですから」

「さあ、阿良々木さん。あなたの言霊で、この物語に幕を下ろしてください」

と、八九寺が言った。その声に、迷いはなかった。

 まず八九寺がゆっくりと歌を詠み始める。

『来ぬ人を まつの明かりに かさぬれば うち堰き合えぬ 袖のしがらみ』

その姿は、さながら大和撫子だ。教養のある、そして格調高い歌だった。

僕は大泣きしながら、歌を詠み返す。根っからの現代人であるところの僕は、

即興で短歌を詠むなんて器用な真似はできるはずもないのだが、この時の僕はどうかしていたのだろう。

疲れていたのか、憑かれていたのか。

どっちにしても、僕にとっては“つきもの”だ。

言葉は口を衝いて出た。

僕は、まるで初めから決まっていたかのように、その歌を詠んだ。

『今はなき 社にすまる むらぎもの 心はまよひ ものかなしけり』

それは。真宵に詠う、真宵の歌だった。

人知れず、忘れ去られて、それでも闇夜の中で、阿良々木暦を待ち続ける。

そんな河内高安の女。

八九寺真宵に捧ぐ、歌だった。

八九寺が満足そうに微笑むのが見えるや否や、たいまつの灯りが消え。

僕は意識と、その大切な記憶を失った。

010

後日談というか、今回のオチ。

翌日、さすがのエキスパートである二人の妹、火憐と月火でも、北白蛇神社と地上を繋ぐ階段で

引っ繰り返って眠る僕を叩き起こすことはできなかったようで、僕はその日、普通にぼんやりと、

太陽の光で目が覚めた。

「起きたか、お前様」

「……おう。待たせたか?」


(以後、傾物語本文三三○頁に続く)



イセ物語『まよいラバー』
‐終わり‐

途中ほんとにごめんね
一応最後の和歌の解説を載せておきます

・来ぬ人を まつの明かりに かさぬれば うち堰き合えぬ 袖のしがらみ
来るはずもない人を、たいまつの明かりにその姿を重ねながら待っていると、
袖から溢れる涙を、押さえることができません。
※掛詞「待つ」と「松(松明)」

・今はなき 社にすまる むらぎもの 心はまよひ ものかなしけり
今はもうないけれど 北白蛇神社に集まっていた霊的エネルギーのように 心は彷徨って、
でもって真宵に傾いて 物悲しくって、八九寺が愛おしいことだ。
※掛詞「今は」と「今際」、枕詞「むらぎもの心」、掛詞「迷い」と「真宵」、
掛詞「もの(接頭語)」と「もの(物の怪)」、掛詞「哀し」と「愛し」

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