綾乃「千歳と温泉旅行」(89)
「ねぇ綾乃ちゃん。温泉旅行行かへん?」
大学が長期休暇に入る直前、同居人の池田千歳が唐突にそんなことを言い出した。
彼女とは中学からの付き合いで、当時から私の事を色々と支えてくれている大切な友達だ。
中学卒業後は同じ高校に進学。
高校卒業と同時に恋人になり、少し遠い大学に一緒に通うために同棲を始めた。
それから二回目の冬。
就職活動が本格的に始まり、忙しくなる前に…ということだろうか。
二人きりの時間が減ってしまうことが少し淋しいと思っていた矢先にこの提案だ。
本当に私の事をよく見てくれているんだな、と嬉しくなる。
「温泉旅行ねぇ…」
「どうかな?綾乃ちゃんと温泉行きたいなぁ~」
手の平を合わせ、上目遣いに私を見る千歳。
お願いがある時のお決まりのポーズだ。
そんなことをしなくても断ったりはしないけど、なんとも愛らしいこのポーズを見たいがために時々焦らしたりもする。
「ふふ、そうね。行きましょうか」
「ほんまに?やったぁ~」
ぴょんぴょんと跳ねながら全身で喜びを表現する千歳。
こんな姿を見せられては、彼女の頼みを何でも聞いてあげたくなってしまう。
「それで、どこに行きたいの?」
「伊豆とかどうかな?」
「いいわねぇ。それじゃあきちんと予定立てないとね!」
「その辺はウチに任せといて!」
自信満々に親指を立てる千歳に一抹の不安を覚える。
色々と良くしてくれるのは嬉しいが、時々的外れなことをしたりもするのだ。
最近ではそれさえも楽しみになってきてはいるが…、今回は旅行である。
「そ、そう…?じゃあ任せるわね…」
とはいえそんなことを言えるはずもなく。
期待と不安を胸に、旅行の日がやってきた。
◆
「では、出発!」
千歳の所有する車に乗り込み、七森町を後にする。
丸みを帯びたボディに黄色い塗装がされたこの車に、千歳は一目惚れしたらしい。
「たくあんみたいで可愛いやろ~?」などと同意を求められたが、私にはよく分からなかった。
長い付き合いだと思っているけれど、今でも時々その思考が読めなくなる。もちろん良い意味で。
「~♪」
カーステレオから流れる曲に合わせて鼻歌を歌う千歳。
「楽しい旅行になりそうね…」
そんな彼女の横顔を見て。
胸の中にあった不安もいつしか消え、思わず呟いた言葉に。
「うんっ」
千歳は満面の笑みで応えてくれた。
◆
「ついたで!」
「ここが恋人岬…?」
何度か休憩を挟みつつ、最初の目的地に到着した。
海からの風がとても心地良く、今自分が住み慣れた町を離れているんだということを実感させてくれる。
「恋人岬はあっちの遊歩道からやで~」
確かに、ここはまだ駐車場だ。
奥のほうに木々の中を通る小道が見える。
「じゃ、じゃあ行ってみましょうか?」
「綾乃ちゃんっ」
右手に触れる温かい感触。
「……!」
「ふふ、さぁ行くで~」
恋人岬。
その響きが、なんだかとてもくすぐったく感じる。
◆
「いい眺めね…」
遊歩道をしばらく進むと、展望台に出た。
目の前には青い海が広がり、そしてその向こうには。
「あれ、富士山かなぁ?」
「こんなに綺麗に見えるのね…」
「凄いなぁ~」
天気の良さと冬の澄んだ空気のお陰で、対岸や富士山がくっきり見える。
「そしてこれが、愛の鐘やね」
「あ、綾乃ちゃん見て見て!」
「うん?」
千歳の指差す先を見る。
そこは愛の鐘の台座部分。
「ほら、これ…」
「凄い…。小銭がハート型に並んでる…」
雨や風のせいだろうか。
少し形は歪んでいるものの、硬貨が大きなハートの形を作っていた。
「なんかこういうのええなぁ」
そう言いながら、ハートの形を整えていく千歳。
「これを置いていった人達がウチらみたいに幸せだとええね」
千歳の笑顔。
見慣れているはずのその笑顔が、凄く眩しく見えて…。
「う、うん…」
熱くなった顔に、海からの風が心地良かった。
「それでな~」
顔が真っ赤になっているのを指摘されると思ったけれど、何事もなかったかのように話し続ける千歳。
それはそれでなんとなく寂しい。
「この鐘を三回鳴らすと、永遠に愛が続くんやって」
「三回ね…」
そんなことで永遠の愛が手に入るものなのだろうか。
半信半疑な私に、しかし千歳は人差し指をピンと立てて。
「結構難しいらしいで?」
と、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「そ、そうなの?」
「うん、恥ずかしがって回数が少なかったり…」
「勢い余って多めに鳴らしてしまうことが多いみたいやね」
難しい、と聞くと上手に出来るか不安になってしまう。
私の根っこはいつまで経ってもいわゆるヘタレのままだった。
「……」
「あはは、緊張することないで~」
そう言って微笑む千歳。
その笑顔に勇気付けられる。
「そ、そうよね…。じゃあ…」
「うん、いくで~」
「せーのっ」
ゴーンゴーンゴーンゴー…ン
「……」
やってしまった…。
鐘が思ったよりも重く、力を入れると今度は逆に勢い良く揺れてしまったのだ。
「お、落ち込むことないで!」
涙目になる私の頭に柔らかい感触。
「うぅ…、ごめんね千歳」
「よしよし~」
私が失敗したときは、いつも千歳がこうして励ましてくれる。
「旅行はまだ始まったばかりやで!」
「…うんっ」
◆
「綾乃ちゃん、そのアイス一口ほしいなぁ~」
駐車場に戻ってきた私達は、隣接している売店へ足を運んだ。
どうやらアイスが名物らしく、二人で別々の味のアイスを注文してみる。
少し高かったが、味のほうはなかなかのものだった。
「ふふ、いいわよ」
「あむっ」
アイスを差し出すと、てっぺんからかぶりつく千歳。
「美味しい~」
ほっぺたをおさえて美味しさを表現した後。
「はい、お返しやで!」
今度は千歳がその手に持っているアイスを差し出してきた。
「う、うん…。はむ…」
食べさせあいっこは未だに照れてしまう私。
少し躊躇した後、アイスを一口頬張る。
「美味しい?」
可愛らしく小首を傾げる千歳。
不意打ちは卑怯だ。
「え…ええ、こっちも美味しいわね…」
顔の火照りを沈めるかのようにアイスを味わう、が。
恥ずかしくて正直よくわからなかった。
「二人でいるとお得やね~」
千歳は相変らず満面の笑顔で。
「…ふふ、そうね」
その笑顔を見るだけで、私も幸せな気分になれた。
◆
恋人岬を後にした私達は、伊豆半島を南下。
ほどなくして次の目的地に到着した。
「らんの里、ね…」
「世界中のらんの花が見られるみたいやね」
らんの花にそんなに種類があるんだろうか…。
世の中まだまだ知らないことだらけである。
メインエントランスに辿り着いた私達が案内看板を見ていると。
「らぶぱわーすぽっと…?」
どうやら施設の奥のほうに、恋人の聖地と呼ばれる場所があるようだ。
「これは是非行かないとやね!」
「そ、そうね…」
またしても顔が熱くなる。
伊豆にはどれだけ恋人の聖地があるのだろうか。
「結構距離あるみたいやけど、頑張ろうな~」
看板を見てみると、ラブパワースポットを経由したコースは約45分と書いてあった。
「ファイトファイトファイファイビーチね!」
さっき失敗した分を取り返してやるんだから!
◆
世界中の様々ならんの花を見ながら、施設の中を奥へ奥へ進む私達。
「ここから分岐みたいね…」
分岐の先は、フォレストゾーンと書いてある。
ラブパワースポットは、このフォレストゾーンの中にある。
森の中を進むわけではないのだろうけど…。
「結構大変そうやね…」
途中には吊り橋やらアスレチックもあるようだ。
仲が深まることうけあいである。
「が、頑張りましょう!」
「ふふ…」
ここまで来た以上は引き下がれない。
千歳の手を引いて。
フォレストゾーンのゲートへ歩き出した。
◆
「…思ってたより小さいなぁピラミッド」
長い長いエスカレーターを上り終えると、少し歩いた先にそのピラミッドはあった。
そのピラミッドこそが、どうやらラブパワースポット「愛の絆」らしい。
「中に入ってみましょう?」
「そやね」
中を覗き込んでみると少し薄暗い。
入り口の左右にはおみくじや絵馬があり、ピラミッドというより神社のようだ。
中に入ると内壁が私達を歓迎するかのように点灯し、星空のイルミネーションを映し出す。
そしてピラミッドの中心には、大きな水晶が鎮座していた。
「この石は…?」
「これは玻璃塊(はりかい)いうて…、これに触りながら、願いを込めて周囲を回るんよ~」
「そうすると成就するの?」
「…ということやろうね」
さっきの鐘を鳴らすよりは簡単そうである。
「じゃ、じゃあ…」
「バターにならないように気をつけような~」
また何を言っているのか分からない…。
けれど、緊張を和らげようとしてくれているのだということは分かった。
「……」
「……」
玻璃塊に手を乗せ、二人でゆっくりと周りを回る。
「これでええんかな?」
「なんだかお願いしてばっかりね…」
愛の鐘に引き続いてこれである。
困った時の…ではないが、お願いしてばかりというのもなんだか気が引けてしまう。
「たまにはええんちゃうかな」
「それに、ウチら二人がお互いを想い合う事が一番大事やねん」
確かに。
中学時代から、千歳の愛情は身をもって感じている。
しかしその台詞は少し恥ずかしすぎる。
「さ、次は復路を頑張ろうな~」
顔を赤くする私に、千歳の非情な一言が突き刺さる。
吊り橋にアスレチックかぁ…。
もう少し動きやすい服装で来れば良かったと、今更後悔。
実際にはそこまで険しいものではなく、杞憂に終わったのだが。
◆
「ふぅ、良いお部屋ね…」
「畳はやっぱりええなぁ~」
その日の宿。
二人で泊まるには少々広いくらいの和室に通され、とりあえずお茶を淹れてくつろぐ。
「窓からの眺めもなかなか…」
千歳の言葉に窓の外へ目を向ける。
どこまでも広がる海と、そこに浮かぶ大小様々な岩場。
「あ、あそこ…」
下のほうへ目を向けると、この旅館から出ることが出来る岩場で釣りをしている人達が目に入った。
「うん…?ああ、そういえば釣りができるってフロントの人が言うてたね」
「釣り…」
「まだ夕飯まで時間あるし、やってみる?」
私は今まで釣りをした事がない。
チャレンジしたとしても、恐らく一匹も釣れないだろう。
けれど、開放的な気分になっている今なら何でもできそうな気がした。
「そうね、やってみましょうか!」
◆
「むむむ…」
「綾乃ちゃん、どお?」
やっとのことで竿に糸と針をつけ、今度は餌になる冷凍エビと格闘する私に千歳が声をかけてくる。
「なかなかエビがとれなくて…」
少し溶けはじめた小さいエビは、一匹ずつとろうとするとボロボロと形を崩していく。
ちゃんととれたかと思えば、今度は針につけようとすると形を崩す。
「貸してみ?」
なんだか手馴れた感じでエビをとり、針につける千歳。
「……はい、できたで!」
「あ、ありがとう」
千歳は私の世話を焼くのが本当に好きなようだ。
時々手間をかけてばかりなのが申し訳なくなってしまう。
私も千歳の為ならなんでもしてあげたいと思っているのだけれど…。
「いえいえ」
笑顔の千歳。
怒った顔や泣いた顔や悲しそうな顔は、見たことがない。
「釣り針で怪我せんように気をつけるんやでー?」
「え、ええ…」
そんな顔も見てみたい。
そう思うのは我侭なんだろうか。
「……」
水面を見つめながら、一人考える。
(そういえば…)
ふと気がつく。
(この後どうすれば釣れるのかしら…)
こんな基本的なことも、私は知らなかったようだ。
◆
「なかなか釣れないわね…」
餌に魚が食いつく、ということは恐らくぐいぐい引っ張られるんだろうと結論付けた私。
なんとなく水面を見続けていたが、魚の陰も見当たらないことに気付いた。
千歳のほうも収穫はないらしく、何度か竿を引き上げては、また針を水の中に投げ込んでいるようだった。
「釣りは忍耐やで~」
楽しそうにこちらを向く千歳。
その視線が私の持つ竿の先、水面へと向き…。
「…って、綾乃ちゃんそれ食いついてるんちゃう…?」
「…え?」
反射的に竿を引き上げようとする。
すると、ぐいぐい引っ張られる感覚。
「ち、千歳…これ…!」
「綾乃ちゃんファイトッ」
「うぅ…、このっ!!」
千歳の声援を受け、立ち上がりながら竿を思い切り引き上げる。
竿から伝わる抵抗がなくなり、その先に少しの重みを感じる。
糸の先を見ると、そこには小さな魚が一匹引っかかっていた。
「や…」
「やったなー、綾乃ちゃん~!」
足場が不安定な岩場に立っているというのに、勢い良く抱きついてくる千歳。
「ちょ、ちょっと千歳っ」
「あ、ごめんなつい…」
「い、いえ…」
…抱きつかれて嬉しくないわけじゃないけれど。
「こ、これ…どうすれば…?」
釣れたらこの袋に入れてください、と小さいビニール袋を渡されていたのを思い出す。
しかし竿ごと入れられる訳がない。
「そしたら魚の口から釣り針とって……」
「………」
やっぱり、そうなるわよね…。
「綾乃ちゃん…?」
もう一度言おう。
私の根っこの部分はヘタレなのだ。
「ち、千歳…。怖くて触れない…」
涙目になりながら訴える。
魚は未だピチピチと元気が良く、本当に怖くて触れない。
「……」
そんな私を無言で見ていた千歳が。
何故か鼻血を出して倒れる。
「千歳ー!?」
うわごとで。
「だから上目遣いは反則やで…」と言っていたのが、かろうじて聞こえた。
◆
「美味しかった…」
「せやな~」
部屋に戻り、温泉を堪能し、海の幸をふんだんに使った豪華な料理を食べ終えた私達。
「まさか釣った魚を調理してくれるやなんて思わなかったわ~」
フロントに釣った魚を渡したところ、天ぷらにして夕飯と一緒に出してくれたのだ。
「温泉も気持ち良かったし…」
「露天風呂最高やね~」
満天の星空の下で入る露天風呂はとても気持ちが良かった。
「危うくのぼせるとこやったけど…」
露天風呂でなかったら、また鼻血を出して倒れていたかもしれない。
「……」
「……」
沈黙。
あとは寝るだけ、その状況のせいで。
なんとなく、緊張してしまう。
「あ、そうや綾乃ちゃん」
「な、なに?」
またしても、いたずらっぽい笑みを浮かべる千歳。
「もっと気持ち良い事…せぇへん?」
「…!?」
その言葉に。
今度は私がのぼせそうになった。
◆
「あ…そこ…」
「ここがええのん…?」
「んっ…」
「綾乃ちゃん、凄く綺麗やで…」
千歳の言葉に、顔が紅潮する。
そう言いながらも手を止めない千歳。
「んふふ、気持ち良さそうな顔やね~」
「い、言わないで…」
同棲しているのだから何度もしていること。
とは言え、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
「千鶴も気持ち良さそうな顔するんよ~」
「千歳が上手だから…」
本当に上手だと思う。
痛みも感じない。
「えへへ、嬉しいなぁ~」
耳元で聞こえる千歳の声。
柔らかい、千歳の…。
太もも。
「…はい、おしまい!」
「あ、ありがと…」
顔が熱い。
手をパタパタさせながらお礼を言う。
「収穫はなしやね~」
広げたティッシュを私に見せる千歳。
「一応毎日してるから…、耳掃除」
「次はウチの番やね!」
千歳の耳掃除をした後、二人で再び温泉に入り、就寝した。
◆
翌日。
朝食を食べたあと、宿を出る。
遊覧船に乗る予定だったのだが、あいにくの悪天候で欠航。
仕方なく伊豆半島を回り、次の目的地へ。
「寝姿山についたわ!」
「ここも縁結びの名所みたいやね~」
最早定番となった千歳の解説。
今ではそれを聞くのが楽しみになっている。
「女性の仰向けの寝姿に似ているから寝姿山っていうみたいやで」
「な、なるほど…」
そう言われてもピンと来ない。
一体どんなセンスの人が言い出したんだろう…。
「まずはロープウェイに乗らんとな!」
「ロープウェイ…」
昨日の釣りに引き続き、これまた初体験である。
ロープ一本で車両を支えている…、そう考えただけで凄く怖い。
「怖いのん?」
「そ、そんなわけないないナイアガラよ!」
最近はツンツンしないように頑張っているのだが、ふとしたときに強がってしまう。
「んふふ」
はいはい、わかってますよ~という千歳の笑顔。
「さぁ、行くわよ!」
その手をとり、いざロープウェイへ。
◆
結局千歳にしがみつきながらロープウェイに乗ってしまった。
ロープウェイを降りると売店があり、そこを出るとちょっとした展望台になっていた。
目的の愛染堂は山の上である。
「ここからまた少し登らないといけないのね…」
「ファイトやで綾乃ちゃん!」
愛染堂を目指して歩き出す。
道端には池があり…。
「あ、見て千歳」
「うん?…鯉やね」
赤や白、黄金に輝く鯉が悠々と泳ぎまわっていた。
「大きいわね…」
「ほんまやね…、何歳くらいなんやろ…」
「うーん…」
考えても分かるはずがない。
こんなことを真剣に考えてしまう自分達が、なんだかおかしくて。
「ふふっ」
「あはは、いこか~」
「ええ」
見つめ合い、笑い合ったあと。
再び手を繋いで山頂を目指す。
◆
「ここが愛染堂やね」
「ハートの絵馬があるわ…」
珍しい形の絵馬である。
書いてあるのはやはり恋愛成就の願い事ばかり。
中には家族へのものもあったけれど。
「もちろん書くやろ?」
「そ、そうね…」
またしても満面の笑顔。
なんでもお見通しである。
恥ずかしい気持ちが大きいが、私がこういったことに人一倍憧れているのを分かっているのだ。
「これだけお願いすれば、きっとウチらは死ぬまで幸せやね~」
絵馬に願いを書き込む私に、ニコニコしながら言う千歳。
「そう…だといいな…」
「絶対そうやって!」
千歳の力強い言葉に。
「…うん、そうよね」
私はまた、勇気を貰った。
◆
「今日の露天風呂は貸し切りにできるみたいやね」
その日の宿。
どうやら家族や恋人向けに、貸し切り露天風呂のサービスがあるようだ。
「貸し切り…」
「楽しみやね~」
にこにこする千歳。
恋人向けの貸し切り露天風呂。
そう言われると変に意識してしまう。
けれど…。
「……」
「綾乃ちゃん?」
私の顔を覗き込む千歳。
「…ふふ、そうね」
自分でも自然な笑顔になっていたのがわかる。
「どしたん?」
予想外の反応だったのだろう。
少し心配そうな千歳。
「ううん、なんでもないわ」
楽しみだと言う千歳の言葉に嘘はない。
千歳が楽しみにしているのは、私と想い出を作ることなんだ。
その気持ちが嬉しくて。
「楽しみねっ」
この旅行の中で、一番の笑顔になれたはずだ。
◆
貸し切り露天風呂は、温泉にしてはそこまで広さがあるものではなかった。
しかし家族向けという言葉通り、二人で入るには充分な広さだった。
お風呂の隣のガラス戸は外に繋がっていて、そこにはもう一つお風呂がある。
「外のお風呂は…、少し小さいわね…」
「くっついて入ればええやん」
「く…くっついて…!?」
「うふふ」
くすくすと笑う千歳。
さすがにそれは恥ずかしい…、けれど。
「…そうね」
大切な想い出作り。
そう自分に言い聞かせて。
◆
「夜景が綺麗やねー」
「本当…」
昨日とは違い、今度は夜景が目の前に広がる。
上へ目を向ければ、満天の星空。
「綾乃ちゃんもうちょっとこっちおいで?」
「う、うん…」
外のお風呂は、さすがに二人で入るには狭すぎたようだ。
肩が、腕が、触れ合い。
なんとなく黙り込んでしまう。
「……」
「……」
けれどその沈黙も嫌なものではなく。
「明日は七森に帰るんやね…」
「…ええ」
二人きりの旅行も、終わりが近づいている。
「また二人で旅行しような~」
旅行中も、何度も見た千歳の笑顔。
「うん、また…二人で」
それはいつだって私の心を柔らかく、温かくしてくれる。
「次は綾乃ちゃんがエスコートしてな?」
その笑顔に、私は何を返せるだろう。
「ふふ、任せておいて!」
七森に帰れば、じきに就職活動が始まる。
二人だけの時間が減り、一緒の休みを迎えることも難しくなるかもしれない。
それでも。
(いつまでも、二人一緒にいられますように―――)
旅の途中、何度も願った想いと。
今までより大きくなったお互いへの気持ちを胸に。
私達は、日常へと帰っていく。
おしまい!
記憶が曖昧なので描写不足やらはご容赦を
支援ありがとうでした!
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