貴音「こひのとらはれ」 (55)

「本番五分前でーーーす」

スタッフさんの声が響き、スタジオ内の空気がよりいっそうとピリピリするのを感じる。
収録が毎週あることくらいわかっているはずなのに、テレビ番組の準備というやつは常に不足している。

慌ただしい空気の中に凛と咲く一輪の花、なんて言いかたをしたってばちは当たらないだろう。
一輪の花の如く悠然と構えているのは、俺の担当アイドルである四条貴音だ。
数年前にデビューし、アイドルとしてまあ順当にステップを踏んでいたのだが、
ある事件をきっかけに猛スピードでスターダムを駆け上がることになる。

今やその活動範囲は女優、歌手、タレント、文筆と多岐に渡るものであり、
逆にいわゆるアイドルとしてのステレオタイプな仕事はほぼ鳴りをひそめていると言った状態だ。

それでありながら、貴音は今も自分がアイドルという呼び名にこだわり続けている。
短くない付き合いの中でわかったのだが、貴音は愛着心が強いのだ。
偏執狂的なラーメン愛好家として名を馳せているのはその好例である。
ひとつこれと決めたらそれ以外を拒絶してでも愛し続けるといった頑強さがある。
そんな貴音にとっては、アイドルという肩書きもまた寵愛すべき対象ということらしい。

そんなわけで暇な事務所でじゃんけんをしていた頃から一貫して貴音はアイドルであり
俺もまたプロデューサーであり続けているが、実情はまあ専属マネージャーみたいなものだ。

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申し訳ありません。

少し書き換え箇所がありましたので、もう一度最初から投下します。
言い回しが変わっただけなので、>>1を読まれた方は、
>>3は読んでいただかなくても問題ありません。

では、よろしくお願いいたします。

「本番五分前でーーーす」

スタッフさんの声が響き、スタジオ内の空気がよりいっそうとピリピリするのを感じる。
収録が毎週あることくらいわかっているはずなのに、テレビ番組の準備というやつは常に不足している。

慌ただしい空気の中に凛と咲く一輪の花、俺だけでなく誰しもがそう思うことだろう。
一輪の花の如く悠然と構えているのは、俺の担当アイドルである四条貴音だ。
数年前にデビューし、アイドルとしてまあ順当にステップを踏んでいたのだが、
ある事件をきっかけに猛スピードでスターダムを駆け上がることになる。

今やその活動範囲は女優、歌手、タレント、文筆と多岐に渡るものであり、
逆にいわゆるアイドルとしてのステレオタイプな仕事はほぼ鳴りをひそめていると言った状態だ。

それでありながら、貴音は今もアイドルという呼ばれ方にこだわり続けている。
短くない付き合いの中でわかったのだが、貴音は愛着心が強いのだ。
偏執狂的なラーメン愛好家として名を馳せているのはその好例である。
ひとつこれと決めたらそれ以外を拒絶してでも愛し続けるといった頑強さがある。
そんな貴音にとっては、アイドルという肩書きもまた寵愛すべき対象ということらしい。

そんなわけで暇な事務所でじゃんけんをしていた頃から一貫して貴音はアイドルであり
俺もまたプロデューサーであり続けているが、実情はまあ専属マネージャーみたいなものだ。

デビュー前からずっと貴音と二人三脚を続けてきた俺に取って
貴音の発する機微を捉え、それに応じてフォローするなどは雑作もないことだ。
喉が渇いたと言われる前に水を用意し、腹が減ったと言われる前にカップ麺に湯を注ぐ。
俺のような天才プロデューサーでなけりゃ、跳梁跋扈の世界を行くアイドルのパートナーは務まらん。

と言うのは真っ赤な嘘であり、喉が渇いたと言われてカップ麺に湯を注ぎ、
腹が減ったと言われて水を用意するような凡ミスばっかり犯している。

スタッフさんがセットの調整を終えるまであとわずかといったところか。
貴音は今、スタッフ用のパイプ椅子に座って少し手持ち無沙汰という雰囲気。
メイク、衣装、挨拶、本読みと、準備すべきことは全て終わっている。
その姿をみていると、よせば良いのについ口をついてしまうことがある。

「あのさ、この前は、ごめん」

だが、取り合ってすらくれない。

「いいえ」

「だって」

「何度も申し上げますが、わたくしは、あの件で怒ってなどおりません」

「でも」

「行って参ります」

「あ……うん、頑張って」

もう話は終わったとばかりに、貴音はすたすたとセットの方へ行ってしまう。
そもそも本番直前に面倒な会話をしかける俺さんサイドに問題がある。
プロデューサー失格の狼藉を働いた俺はただただ、遠ざかっていく後ろ姿を見つめながら立ち尽くす。

「怒ってない……か……」

ぼんやりとする俺の鼓膜に、スタッフさんの張り上げた声が叩き付けられる。

「まもなく本番はいりまーーーす……五秒前、四、三、二……」

この業界は、癒えることのない躁状態に冒され続けている。

ことの始まりは二週間程前。
あの日俺は酒に酔っていた。

「ごめんごめん、酔っちゃててさ~」などというのは体のいい責任回避のための文言であるが、
実際は酒に酔って車を運転すれば親切なおまわりさんにウィンドウをコンコンとやられるし、
もし親切なおまわりさんに遭遇(エンカウント)することが出来ずに、たまたま徘徊していた老人を
パンパーの角でちょいとでも小突こうものなら一生檻(プリズン)の中から出てくることは出来ない。
そもそも、おっさんが昼間ただ道を歩いているだけで事案の発生する時代である。
「酔っていた」などとのたまうのは、「わたしは犯罪者です」と宣言するようなものだ。

超絶へたれを自認する俺にとって、本来それはドラム缶一杯分の酒を飲んだところで
しでかすようなことではないのだが、あの時の俺には心強い味方がいた。
そう、彼らは赤の他人であるはずの俺の言葉に、親身になって耳を傾けてくれた。
俺は彼らに感謝し、彼らが立案してくれた計画に従い行動を起こしたという次第である。

だが、結果として俺はインターネッツに助言を求めた自分自身と、
他人事だと思ってアドバイスと言う名の落書きを好き放題書きやがった連中を激しく恨むことになる。

「あ……ご、ごめん」

「……いえ」

「あ、あのさ」

「……帰りますね」

「……ごめん」

撃沈である。
むしろ出航前に盛大にJI☆BA☆KUしたと言った方が正しいだろう。
誰だ「それはお前から手を出してもらいたくて待ってんだよ気付けks」とか言った奴。
おかげで俺は、貴音から世界の終わりを目の当たりにしたかのような目で見られたぞ。
俺がネットに強い弁護士だったら開示を請求してるところだ。

「……」

怒ってないと貴音は言う。
貴音がそう言うのなら、それはきっと真実なのだろう。
むしろ怒っているときは怒っているとはっきり言うのが貴音の性格である。
だがそこにあるのが怒りではなかったとしても、あの一件が俺と貴音の関係に
余計な一石を投じてしまったことは火を見るよりも明らかなのだ。

「結婚するまでは、その……そういうことはなしで……」
とかそう言う理由があるのなら顔を思いっきり真っ赤にしながら言ってほしいだけなのだ。
そう言ってくれるだけで非常に興ふ安心出来るのである。
宗教とか信条とかトラウマとかおばあちゃんの遺言とか、なにかしら理由はあるはずだろう。
なにも教えてくれないのは、つらいのである。
愛する人のことをひとつでも多く知りたいと思ってなにがいけないと言うのだ。

あの日の失態が、実は俺の想像上の存在に過ぎないのではないでしょうかと感じてしまうこともある。
確かに犯してもいない失態を謝られたところで怒る気にはならないだろうが、
だとしたら、あの日以降お互いの部屋の行き来がぱったりと途絶えてしまったことの理由がつかない。
あの失態は間違いなく引き起こしてしまったことなのだ。

「なにも言ってくれないなら、謝るしかないじゃん……」

休憩室の換気扇が、俺の溜め息をせっせと外気に混ぜ合わせる音のみが響く。

ふと背後でドアの開く気配がしたが、俺は窓の外を眺めたまま、振り返ることはしない。
今現在ここのスタジオは全てが収録中のはずであり、
収録中にトイレはともかく休憩室を訪れるような輩にロクなやつはいない。
どーせ使いっ走り中の下っ端がサボり気分でふらりと寄ったというのが関の山だろう。
こう言う場合は、お互いがお互いに無関心を保つのが正解である。

備え付けのコーヒーメーカーから、コーヒーを紙コップに注ぐ音が聞こえる。
皆があくせく働く中でのんびりコーヒーを一杯やろうだなんてふてぶてしいやつである。
だがそいつはサーバーを元の位置に戻したかと思うと、俺に近づいてきた。

「コーヒー、飲むかしら」

「あ、どうもすいません……デ、ディレクターさん……」

激震である。
仕事をサボっていることが盛大ににHA☆KKA☆KUしてしまった。
誰だ「どーせ使いっ走り中の下っ端がサボり気分でふらりと寄ったというのが関の山だろう」とか言った奴。

「あら、どうしたのオカマでも見たような顔して」

いや、今はあなたが性的少数派であるなどということはどうでもいいのである。
この状況をどう取り繕うべきかと逡巡しているだけだ。

「いや、だって今収録中じゃないですか……」

「あら、あんただって担当してる女の子が今収録中じゃないの」

ああ言えばこう返されるのはわかっていた、十分にわかっていたのだ。
だが俺は口先でとっさに相手の矛先を逸らすのが苦手である。
大体の場合なにも言えずにそのまま斬りつけられるか、マズいことを言ってやっぱり斬りつけられる。

「それは……」

「あの子、今日はいつもより不安そうに見えたのよね」

「……」

「それもそのはず、公私を通じてのパートナーである愛しのプロデューサーさんがどこにもいない」

「……」

「今まで、どんな時だってあの子に付きっきりだったあんたがね」

「……」

「それで探しに来てみたら、こんなところでぼんやりしてたってわけ」

本当にそんな理由でわざわざ俺を捜しにきたというのだろうか。
なんとなく仕事をサボって休憩室に来てみたら面倒くさそうな奴がいたからつついてみただけではないか。
いやしかし現場責任者であるこの人がなんとなく仕事をサボるなどとは考えづらい。
今週の視聴者数が先週の視聴者数より五人少ないだけで偉い人にどやし付けられるのはこの人なのだ。

そんなことを考えていると、ディレクターさんはポケットから棒状のモノを取り出した。

「あんた煙草は」

「あ、いえ僕は大丈夫です」

「そう……」

俺より上の世代にとっての事情は異なるようだが、少なくとも俺の物心がつくころには
煙草イコール毒というプロパガンダはこの国に横行していた。
その上価格は上がる一方だわ非喫煙者からは害獣を見るかのような目をむけられるわで
この国の喫煙者の肩身は年々狭くなって行く一方だ。
今や、喫煙という行為そのものが廃絶すべき病気という扱いである。
俺たちの世代にとっては、わざわざ煙草を吸い始めるような理由が存在しない。

だが、迫害を受けながらも喫煙を止めようとしない人たちの気持ちも分かる気はする。
煙草を吸う人の佇まいからは渡世の酸いも甘いも知り尽くしたという感じの渋い雰囲気が漂うものである。
本能的にその姿は格好良いものに見えるし、でもやっぱり本能的に煙くせーとも思う。

「スーーー……フゥ……」

「……」

「スーーー……フゥ……」

「……」

わざわざ煙草を吸い始めるような理由が存在しないと言ったが、
副流煙でもくゆらせなければとても間が持たぬとなれば話は別である。

「あの、やっぱり一本貰ってもいいですか」

「どうぞ」

「すいません」

これはあれである、組長がおもむろに脱法ハーブを取り出したときに、
若頭がさっと火を付けるあのスタイルである。
問題は組長の役割(ロール)を下請け中小のヒラ企業戦士たる俺が担当して、
若頭の役割(ロール)を元請け大手の現場責任者たるディレクターさんが担当していること。

だが成り行き上こうなってしまってはもはや流れに身を任せる意外にない。
俺に渡した煙草に、ディレクターさんが火をつける。
息を吐き、火のついていない方を口に咥え、息を吸う。

「スーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー……ゲホッゲホッゲホッ」

おえ。
なんだこれは。
嗚咽がこみ上げてくる。

「無理に吸うこたないわ」

「いや、無理にだなんて」

嘘である。
無理である。
おえ。

「どっからどう見ても無理」

「……」

「……」

「……」

「……」

「……コホッコホッ」

「……貸しなさい、こんなもん身体に悪いだけなんだから」

取り上げられ、揉み消されてしまった。
いやまあ、俺が買ったもんじゃないから別に良いけどもったいなくはないのだろうか。
……間接キスされるよりはましか。

「……」

仕方がないので、コーヒーをすする。

「あんた、童貞ね」

「ブホッ」

コーヒー吹いた。

「わかりやすいわ」

なんだこのおっさん。

「可愛いわぁ~、食べちゃいたい」

性的少数派を公言する一般成人男性は、よくこの手合いのリップサービスを
性的多数派の一般成人男性に投げつけるものだが、そもそもサービスというのは
相手が喜ぶことを見越して行うものであり、その基準に照らし合わせて考えると
性的多数派の一般成人男性の多くがどん引きをする以外にないこの種の発言は
性的少数派を公言する一般成人男性による嫌がらせなのではないか。

「そ、そんナわけなイじゃないっすカ……」

噛み噛みである。
と言うか、このタイミングでそんなわけないとか言っても、
もはや何に対してそんなわけないのかがよくわからない。

「……」

「……」

「不思議ね」

「……」

「あの子が生放送であんたにまさかの告白をしてからもう何年も経つのに」

あれは大変だった。
とある性別が迷い人のおっさんがディレクターをしていたバラエティ番組で、
恋愛関係について聞かれた貴音が、俺のことを滔々と話し始めてしまったのだ。
普通そんな事態になれば話題を変えるなりniceなboatの映像に切り替えるなりするものだが、
その性別が迷い人のおっさんは「いいゾ~これ」と言ってその話題を止めるどころかもっとやれと指示した。
しかも貴音の話し振りたるや凄まじく、身に憶えのないようなことまで話されてしまったから大変である。

年齢とか逆算すると、こりゃあ今夜はブタ箱で寝てもらうことになるね、とか。
社会的影響とか鑑みると、こりゃあ今夜は会社を清算することになるね、とか。
ファンの心情とか考えると、こりゃあ今夜はファンの前でゲザることになるね、とか。
告白される側も命がけなのだと言う事実をあの日俺は知った。

「その節は、本当に……」

「おかげで番組史上最高視聴率を獲得したわ」

今の時代何かやらかすとすぐに【拡散希望】とかやられて雪だるま式に被害が拡大してしまう。
あの時ほど高視聴率に絶望したことはない。

「あの子はあれを契機にビッグになったし」

怪我の功名である。
あの時ほど日頃の行いに感謝したことはない。

「あんた達は人目を気にせず付き合えるようになった」

だがちょっと待って欲しい、俺はあの告白を受けるまでは健全なる社会人として
あくまで貴音とはプロデューサーとアイドルの清く正しい関係を維持していたのだ。
確かにめちゃくちゃ貴音のこと好きだったけれども、めっちゃくっちゃ好きだったけれども。
だから「本当は人目を盗んで青少年保護育成条例に抵触してたんだろ、ん」
と言った響きを包含するこの言葉に俺は断固として無罪を主張したい。したい。

「ここに、あの事件を恨む人間はいないわ」

しかしあの告白の結果俺と貴音は付き合っているわけで、それは周りから見れば
青少年保護育成条例に抵触していた過去を暗に認めたように映ってしまうのかもしれない。
まあ幸いなことに留置所で看守さんと添い寝することもなかったし、
結局のところ今の俺があるのはあの事件のおかげのようなものなので、こう答えるしかない。

「……ありがとうございます」

「感謝される筋合いもないけどね」

「はは……」

「で、幸せ者のプロデューサーさんは、なんでこんなとこで油売ってのかしら」

「……」

「喧嘩して収録ぶち壊そうが、今まで側を離れようとはしなかったじゃない」

ああ見えて貴音は結構感情表現が激しいのである。
というかアイドルに喧嘩を吹っかけられてプロデューサーが遁走してしまったら誰が場を収めるのか。

「その節は、本当に……」

「いいのよ、あの子はあんた込みで数字取るんだから」

「はぁ……」

「大物は、周りに迷惑かけてナンボよ」

道に転がるうんこと路傍に咲く花を比べると、うんこのほうが面白いと考えるのがこの業界である。
これは勿論例え話であり、貴音は間違いなく路傍に咲く一輪の花である。

「ねえあんた、あの子のこと、ホントはどう思ってるのよ」

「……グイグイ来ますね」

俺はさっきからこの性別が迷い人のおっさんに押されっぱなしなのだ。
この程度の抵抗(レジスト)は許してもらいたい。

「積極的すぎるくらいじゃなきゃ、オカマなんてやってらんないわ。で、どう思ってるのよ」

あっさりと防禦(プロテクト)される、性別が迷い人のおっさんのメンタリティは異常である。
いや、メンタリティが異常だから性別が迷い人になるのか。

「そりゃあ……」

大好きに決まってるだろ、いい加減にしろ。
でもなあ、ここであっさり「大好きです」と答えたらなんか軽すぎると思うんだよね。
かといって、気持ちの中にあるものを全てぶちまけようとすると例のコピペをひとスレ分書いても足りない。

「……」

「……」

「……」

「……」

「ああもうはっきりしないわね、好きなの好きじゃないのどっち」

「あ、はい、好きです」

結局出てきた言葉がただの「好きです」とはなんたることか
これならさっき「大好きです」と言っていたほうがいくらかマシだったではないか。

「はぁ~……」

「……」

溜め息を吐きたいのはこっちである。
急かすようなことをされなければ、身も心も溶かすような貴音への愛を語れたというのに。
でもそれって傍目から見たら俺がこの性別が迷い人のおっさんに
身も心も溶かすような愛を語っているように見えてしまうのではないだろうか。
もしそうだとすれば、結果的にこれで良かったということになる。

「あの子は、あんたの千倍、あんたにそう思ってるわよ」

「はぁ……」

というか、今の俺の「好きです」という言葉では俺の気持ちを千分の一も表現出来ていない。

「惚れた男に抱かれることを夢見ない女はいないわ」

「そうなら、良いんですけどね」

うれしいこと言ってくれるじゃないのと言いたいところだが、ソースに少々不安がある。

「それでもあの子があんたに見せてくれないものがあるのなら、それには理由があるのよ」

「……その理由を教えてくれないとしたら」

「理由を言えない理由があるってことよ」

「……」

ふと気付いたが、この人はすでに俺が童貞であることを前提として話を進めていないだろうか。
いやまあ童貞だが、俺はこの人にそれを表明したような記憶はない。
だが今さらそれを否定したところでより食べちゃいたいと思われるのが落ちである。

「恋は信じるか疑うかどっちかよ、半分だけ信じるとかちょっとだけ疑うとかそんなズルいのは許されない」

「……」

「嘘ごと愛すか、真実ごと疑うか」

「……」

良いことを言ってくれている気はするのだが、あんまり収まりの良い言葉を使われると
「あれ、ひょっとしてこの人これが言いたかっただけなのかな」と思ってしまうので、
もうちょっと洗練されてない言葉で言ってくれたほうが良かったかなーって。

「酔った勢いでなんとかしようとしちゃ駄目よ」

「……」

今度こそ俺はオカマでも見たような顔をしているはずだ。
なんだこれは、俺の部屋にはピンホールカメラでも仕掛けられているというのか。
今にもプラカードを掲げた貴音(仕掛人)が現れるのだろうか。

「男と女の組み合わせは星の数ほどあるけどね、やるこた限られてんのよ」

「……かないませんね」

俺は頭をうなだれてしまう。
ディレクターさんは立ち上がりながら、言う。

「女って、難しいのよ」

「わかってるつもりでは、あるんですけど」

「わかりっこないわ」

そう言い残し、男でも女でもそんな動きはしないだろうという身のこなしで
ディレクターさんは颯爽と休憩室を立ち去っていった。
今一瞬あの人のことをちょっと格好良いと思ってしまった俺をぶん殴りたい。

「わかりっこない、か」

俺はすっかり冷えてしまったコーヒーを一気に飲み干し、ディレクターさんの後を追う。
いやディレクターさんに用はないのだが、貴音の仕事に立ち会わなければいけないのである。

……貴音の顔が見たくなってしまったのである。

スタジオ内に戻ってみると、撮影はつつがなく進行していた。
一応現場をこっそりと抜け出していた身であるので
やはりこっそりと戻ってみたのだが、案の定誰もそんなことに気付きもしない。
でも貴音だけは気付いてくれたようで、俺に手を振ってくれた。
すごく嬉しいんだけれども、今は収録に集中してなきゃだめだよ。

ディレクターさんは俺がいつも貴音に付きっきりであると述べていたが、
業務契約書にはそうしなければいけないという条項は存在しない。
読んだ覚えがないからわからないけど、多分存在しない。
結局のところ俺が貴音に付きっきりなのはただ俺がそうしたいからであり、
さっきのあれは労働基準法第34条に定められた休憩をとっていただけで厳密にはサボリではない。

だがディレクターさんの場合ははっきりとサボリである。
今もせっせと指示を出しており、とても余裕がある仕事には見えないのだが、
さっきはいったいどんな手練手管を使ってこの現場を抜け出したのだろうか。

実際問題、今貴音の収録している番組は日本中からかき集めてきた芸能人が自分のエピソードを語り、
それを司会である中堅芸人のツッコミのほうがツッコンで、ボケのほうが便乗してボケるという
まあ世間からいい加減うんざりされているタイプのトークバラエティであり、
俺が立ち会ったところで大してやることはない。
だただひたすら貴音の活躍する姿を遠巻きに愛でるのが主だった仕事である。

かわいい。

撮影終了後ディレクターさんのところへ赴いたところ、挨拶もそこそこに追い払われてしまった。

「早くあの子のとこ行ってやんなさい」

だそうである。
俺もそうしたいと考えていたので素直に従う。

だがもともと、俺たちは別に喧嘩をしているというわけじゃない。
ただ俺が一方的に謝り、貴音がそれをあしらい続けると言う観客不在のコントが上演されているだけだ。

だがしかし、もうあの件に関しては言及をやめることにする。
もしかしたらあの件について話をすることこそが貴音を苦しめてしまうのかもしれない。
悲しい目をしながら「怒っていない」と言われるのも、結構きついのである。
確かなのは、俺が酔いに任せて貴音を組み敷こうとしたということと貴音はそれを怒っていないということ。
良いとか悪いとかでなくて、その事実がただ存在すると言うだけなのだ。
そう考えることにした。

荷物を後部座席に放り込み、運転席に乗り込む。助手席には貴音。
「普通それは違うんじゃないの」というツッコミは野暮である。
俺と貴音にとってはこれが正しいのだ。

なんとなくお互いに交わす言葉のないまま道のりの半分ほどまで差し掛かったころ
貴音がゆっくりと口を開いた。

「あなた様、次の休日ですが……」

「ああ、うん」

「何度も念を押しますが……」

「何があっても仕事を入れるなだろ、大丈夫」

「あなた様も、ですからね」

「ああ、わかってる」

なにやらどうしても俺を連れて行きたいところがあるらしい。
かれこれ一年以上前から、もう百回は念を押されている。
まだ二週間先であることを考えると、さらに百回は念を押される気がする。
まあ俺の凡ミス率を考えると、これくらい念を押されてしまうのも仕方ないとは思うが。

「お願いいたします」

仰せのままに。

「ところで、どこに行くのか、そろそろ教えてくれても良いんじゃないか」

「……」

「……」

この質問に口をつぐまれるのも毎度のことだ。

「あなた様、明日の予定は」

しつこいほどスケジュールを確認するのは仕事上の鉄則であるが、
この場合は話題を切り替えられてしまっただけである。

答えたくないなら答えてくれなくても構わない。
でも、もしかしたら今回は答えてくれるかもという淡い期待がつい口をついてしまう。
それで居心地の悪さを味わわせてしまっているとしたら、申し訳ないけど。

「……14時から緑が丘スタジオでドラマの収録。20時から朝日テレビで歌番組の撮影。そのあとまた緑が丘に戻ってドラマの収録だ」

「では、出迎えは」

「まあ12時ってところかな」

「承知しました」

つまらないやり取り。
俺と貴音でなければできない会話をしたい。
だが、もう貴音の住むマンションは間近である。
エントランスの近くまで行き、静かに車を停車させる。

「……着いたぞ」

「はい、ありがとうございました」

「うん、お疲れさま」

「あなた様」

「ん」

「あなた様はわたくしを愛してくださっておりますよね」

「うん」

聞くまでもないことである。

「では、そう仰ってくださいませ」

「ん」

「愛していると」

改めてそう言われてしまうとこれがなかなか難しく感じるものだ。
そもそも「愛してる」と言えと言われて言った「愛してる」は、
その発言が甲のものなのか乙のものなのか法廷で決着をつけるハメににならないだろうか。

「貴音」

「はい」

まあそんな御託は実際どーでもいいのであって、
それで貴音が喜んでくれるのなら三日三晩だろうが言い続けますよ。

「愛してるよ」

うん、表面上は無邪気な笑顔を浮かべたかのように見えるが、実際にはほっとした時の表情である。
見くびらないでほしい、欺けると思っているのだろうか、俺はそんな表情は見たくない。
なぜ「愛してる」と言ってこっそり安堵されなければならないのか。

不安があるなら怯えてくれれば良いし、怒りがあるなら怒ってくれれば良い。
嬉しい時には笑って、悲しい時には泣いてほしい。
欺かれると、傷つく。

ふいに貴音の顔が視界いっぱいにまで近づいてきたと思うと、俺の唇に柔らかなものが触れた。
俺が反応を示す間もなく貴音はすぐに身体を翻し、車から降りてしまう。
それから後部座席のドアを開くと、素早く荷物を手に取り、
なにごとかを言い残しエントランスの方へと駆けていってしまう。

声というより風の便りといったほうが正しそうなその言葉は、たぶんこう伝えていた。

「わたくしも」

一回目のオートロック、自動ドア、二回目のオートロック、自動ドア。
貴音は俺の視野の中で徐々に小さくなっていき、ついに視界の影へと消えてしまった。

俺は勿論あのオートロックの番号を知っている。
追いかけることだって出来る。
だが俺はただぼんやりと、無人のエントランスを見つめたまま、動かない。

夜間におけるマンションのエントランスというのは、不気味な場所である。
何百もの人間を収容しておきながら滅多に人は訪れないし、訪れてもただ通り過ぎるだけだ。
照らし出される者のない明かりが、ただ煌々とまばゆい光を放ち続ける。

「嘘ごと愛す、ね」

雑作もないことである、そのために俺が傷つこうがそれがなんだというのだろうか。
だがもし、もし、貴音が俺を信じるために傷ついているとしたら。
だとしたら……

「……なに考えてんだ俺の馬鹿」

馬鹿。

実際、今の貴音は非常に多忙である。
一見スケジュールに空きがあるように見えても、それは台本を読み、原稿を書くための時間に他ならない。
隙あらばちちくりあっているかのような捉えられかたをされても困るのである。

765プロと言えば今や名だたるアイドルプロダクションであり、
所属アイドルの各方面への露出は止まるところを知らない。
「765プロのアイドルをテレビで見ない日はない」などと言われて久しいが、
今や「765プロのアイドルをテレビで見ない日はないのか」との言われようである。

最近始めたソーシャルなビジネスも非常に好調であり、社長が小躍りして喜んでいた。
なんでも利益率の高さがかなりのものらしい。

かつて業界内で有名であったプロデューサー酷使の体制も現在はかなり改善されている。
俺はあの頃にたぶん軽く三回くらいポアされているんだと思う。
その功徳によって、サマディによって、修習によって今の世界を得たのである。
おかげで今は貴音のサポートに全力を注げているというわけだ。

まあ実際は何度も何度も何度も昇進を打診されているのだが、全て断っている。
皆の手前昇進させないわけにはいかないと言われたところで、
嫌々昇進させられる俺の姿を見て、誰も「よーし、俺頑張っちゃうぞー」とは思わないだろう。

皆だっていつまでも自分の愛するアイドルの近くにいたいはずだ。
こんな言いかたをすると765プロがまるで淫行斡旋所であるかのように聞こえてしまうかもしれないが、
アイドルとの清く正しい関係を保つことはプロデューサー業の鉄則である。
この程度のことを守れぬ者はプロデューサーどころか人間として失格であり、唾棄すべきである。

あの時からさらに二週間という時間は瞬く間に経ってしまった。
多忙を極める毎日の中にあって、二週間などという時間は
食うに困って道をほっつき歩いていた頃の二十分くらいの感覚で過ぎ去ってしまう。

貴音はその期間中も粛々と仕事をこなしていた。
平静すぎて心ここにあらずという風にも見えたが、仕事に影響を与えるほどではなかったので
特に注意を促すようなことも言っていない。
余計なことを言ってわざわざこじれさせることもない。
俺はただただ貴音をひたすら愛でるのみであり、ミスがあれば俺が悪者になればいいのである。

二連休の一日目、俺はいったいどんな強行軍に付き合わされるのかと身構えていたのだが、
意外にも午前中いっぱいはたっぷり休養を取れとのお達しであり、
待ち合わせ場所で落ち合ったのは日も沈み込むころであった。
マジックアワーというやつである。あと、なんとかが刻とも呼ばれていたはずだ。

さすがにラーメン屋で待ち合わせなどということはたまにしかない。
今日の待ち合わせ場所に指定されたのは駅の近くにある小洒落たカフェであった。
俺が到着する頃には、貴音は一杯目の紅茶を飲み終えていた。

貴音と向かい合わせに座り、俺がコーヒーを注文すると、貴音もお代わりを注文した。
貴音の物憂げな表情が、マジックアワーによって妖しく彩られる。
この世のものとは思えない美しさとはこのことを言うのだろう。

ここの所の調子に輪をかけて貴音は言葉少なである。
しかし、今日はいつものように仕事のために一緒に居るのではない。
俺は今まさに貴音の時間を占有しているのであり、貴音に俺の時間を占有されているのだ。
その事実を思うだけで嬉しさが溢れてしまい、俺も黙って幸せをかみしめる。

だが、まさか沈黙の茶会(主演:スティーヴン・セガール)のために俺を招いたわけでもあるまい。
お互いのカップが空になるころ、俺は会話を切り出す。

「で……これからどうするの」

ゆっくりと時間を置き、一語一語確かめるようにしながら貴音は返答する。

「ただ、わたくしに付いてきて下さいませ」

「わかった」

ついにこの日まで、行き先についてヒントすら聞くことはなかった。
たぶん到着するまで知ることはないのだろう。
まあ貴音が付いてこいと言うなら、例え地の果て天の果て、どこまででも黙って付いていきますよ。

「あ、あなた様、お願いが、あります」

「ん」

緊張を浮かべた貴音の目線が俺を釘付けにする。

「手を、つないで、下さいませ」

「うん」

そんなことを改めて言われてしまうとほぼイキかけます。
当たり前のように手を繋ぐ関係も良いけど、こういう緊張感を失ってしまうのは勿体ない。
貴音の気が変わらないうちに俺の左手は貴音の右手をとらまえる。

「なにがあっても、離さないで」

「わかった」

僥倖である。
こんなお願いをされてしまっていいのだろうか。
もうなんと言われようと離してあげないからな。

深呼吸ひとつおいて、覚悟を決めたと言う面持ちで貴音が席を立つ。
吸い寄せられるように俺も立ち上がる。

「では、参りましょう」

「うん」

右手でポケットから財布を取り出し、貴音の手を握ったままの左手に移す。
右手で札を取り出して勘定を済ませ、右手で財布をポケットにしまう。
喫茶店業の非正規雇用者風情にどんな目で見られようが構いはしないのである。

自動改札は縦並びにICOスタイルだと引っかかる可能性があるので、
横並びにおかあさんといっしょスタイルで通り抜ける。

魑魅魍魎でごった返すラッシュアワー。
貴音を痴漢から守らなければいけない。

「……」

「……」

ずいぶん長いこと電車に揺られ続けている。
乗り継ぎに継ぐ乗り継ぎで日はすでにとっぷりと暮れており、人影もまばらである。
泊まる場所は見つかるだろうか。

「……」

「……」

しかし妙である。
快速を走らせる時間でもないだろうに、先ほどから一向に停車する気配がないのだ。
ちらとスマホを確認してみると、表示されている時間は23時23分であった。
俺は間違いなく新浜松駅23時40分発の電車にのっているのでこれはエラー表示である。
まさかアプリをダウンロードする際にでもウィルスに感染してしまったのだろうか。
場合によっては初期化をしなければいけないかもしれない、面倒だ。

「……」

「……」

貴音は肩をすくめ伏し目がちに対面側のシートを見つめ、身体を強ばらせている。
そんな姿を見せられてしまうと抱きしめたくてしょうがなくなるのだが、他の乗客もいる手前控えておく。
まあ俺たち以外は全員寝ているのでばれはしないと思うが。

「……」

「……」

貴音の声が聞きたくなったので、会話を試みる。

「あのさ」

「はい」

「なかなか止まらないね」

「……」

「ちょっと車内を見てこない」

「あなた様」

「な、なに……」

強い語調で言われ、少したじろぐ。

「ここに、居て下さいませ」

「わかった」

いじらしいなあ。

「……」

「……」

あれから更に一時間以上停車せず走り続けている気がするがまだ止まる気配はない。
これはきっとたぶんなんかそういう珍しいタイプの長距離運行なのだろう。
今日はあいにく腕時計を着用していないので、
スマホの時間表示が頼りにならないとなると他に時間を確認する手段がない。
貴音に時間を聞いて、俺が貴音よりも時間のことを気にしていると思われるのは嫌だから絶対聞かない。

「……」

「……」

ついに減速の気配を感じる。
さすがにこれだけ走っていればもう終点だろう。
たっぷりと時間をかけて停車し、空気が抜けるような音と共にドアが開く。
ここは、きさらぎという名前の駅のようだ。

きさらぎと聞けば、やはり真っ先に思い出すのは世界の歌姫如月千早である。
しかし、この駅は如月ではなくきさらぎだ。
きさらぎという言葉に如月以外の漢字が存在するのかどうかは知らないが、
市名や駅名をわざわざひらがなで記すのには、存外面倒くさい理由があったりするものだ。

「着きました」

そう告げると、貴音はおもむろに腰をあげた。
俺は貴音の後に続くようにして電車を降りる。
俺たち以外の乗客に降りる気配はない、というかまだ全員寝ている。この国は労働者を酷使しすぎである。
だがここが終点なら運転手なり駅員なりが起こしにくるはずだから、まだ終点じゃないということか。

「ここが、目的地」

「はい、ここから少し歩いた所です」

電車のドアが閉まる、俺たち以外に降車した人は居ない。
やはりまだ終点ではなかったようだが、この路線はこれで採算が取れるのだろうか。
走り去る電車の音を聞きながら駅名の書いてある看板を眺め、ふと気付いた。

「なんで次の駅も前の駅も書いてないんだろう」

「……」

まあ地元の人間しか使わないようなローカル線であればこんなこともあるのだろう。
しかしまあなんというか四方八方がらんどうと言った趣きの場所である。
田舎の良さを表現して「なにもないがある(キリッ)」とか言われるとなんかもやもやするものだが
ここは本当になにもない。あるのはこの駅と、線路と、草原と、見渡す山々。
駅員も不在の無人駅のようだし、タクシーも見あたらない。
まあこんな駅をシマにしてタクシーを営業したところでやっていけないだろうことは俺にもわかる。
これがいわゆる秘境駅というやつなのだろう。

「……」

「あなた様」

「……」

「あなた様」

「……」

「あなた様」

「えっ……ああ、うん」

ハッとして、貴音にかなり強く身体を揺さぶられていたことに気付く。
休養はたっぷり取ってきたはずなのだが、やはり取りきれない疲れが溜まっているのか。
だが表舞台で活躍する貴音は俺以上に疲労が蓄積しているはずなのだ
裏方の俺が貴音に叩き起こされるようじゃ立つ瀬がない。

「ぼんやりとしてはいけません、持っていかれてしまいます」

「持っていかれるってなにを……ちょっと貴音」

貴音に持っていかれるかたちで、俺は歩き出す。

「あなた様」

「なに」

「目を、閉じてくださいませ」

サプライズかな。

「わかった」

素直に目を閉じる。
楽しみだ。

「わたくしが良いというまで、絶対に目を開かないでください」

フラグである。

「りょーかい」

だが俺にとってこの程度のことはフラグでもなんでもない。
そもそも、目を開けてしまったら貴音の用意したサプライズが台無しではないか。
貴音が初めて俺に今日のことを切り出したのは、一年以上前のことなのである。
それだけの時間をかけて用意してくたサプライズを台無しににしてたまるか。
貴音に言われなければ死ぬまで光を見ないつもりで、目をぎゅっと閉じる。

「……」

「……」

歩きながらふと思ったのだが、俺はいつあの電車の料金を支払ったのだろうか。
こんな秘境駅にまで来るような路線は、大方第三セクターの経営する赤字路線である。
意図せずとはいえキセル乗車をしてしまったかもしれないと考えると申し訳のなさがこみ上げてくる。
応援するなどとおこがましい言いかたをするわけではないが、せめて正規料金は支払いたい。

「……」

「……」

もう、ずいぶん歩き続けている気がする。
行き先をわからなくするためなのか、貴音は草原の中をつっきるかたちで俺を先導する。
歩調はきわめてゆっくり。
俺が転んだ拍子に目を開いてしまわないように配慮してくれているのだろう。
その思いやりが嬉しい。

遠くから太鼓を鳴らすような音と、鈴のような音が聞こえる。
だんだんとその音に近づいているようだ。

足から伝わってくる感覚が、草原から道路のような固いものに変化する。
人工物の気配だ。
音の反響具合からも、正面になにかが存在するのを感じる。

「着きました」

「……」

貴音が立ち止まり、俺も立ち止まる。

「目を、開けてください」

「……」

目の前にある巨大な建造物に唖然とする。
日本古式の御殿というか、神社の本殿の巨大版というか、とにかくでかい。
この大きさでは、視界に全体像が収まらない。

「これは……」

疑問とも驚嘆ともつかぬ声を出す。

「こちらです」

「あ、うん」

まだ秘密のようである。

貴音と横一列になって石段をのぼる。
一段一段がでかいのでのぼりづらい。

石段をのぼり終えると、これまた巨大な扉が目の前に現れる。
人が出入りするのにここまでのサイズは不要なのではないか。
金に物言わせるって言ったって、もうちょっと使い方ってものがあるだろう。
っていうかこの扉、人の力で開けることができるのか。
城門みたいなもんだぞこれ。

と、思っていると扉が自動で開く。
こんな巨大な扉すら自動化させてしまうんだから、やっぱり日本の技術はすごい。

「……」

「……」

ウェイターが出てくる様子はない。
サプライズはまだなのかな。

「こちらへ」

「あっ、うん」

貴音に導かれるままに中へ入る。
靴は……履いたままで良いようだ。
後ろで扉の閉まる音がした。

歩きながらだんだんと暗闇に目が慣れてくるが、広すぎるせいで四方の壁までは見通せない。
こんな人里離れた場所に巨大な施設を建立するのはおおかた宗教法人だが、
貴音になんかそういう折伏めいたことをしかけられた覚えはないので、それは、大丈夫だと、思う。

「……」

前方に、なにかがある。

最初は小さなものかと思ったが、行けども行けども辿り着けず、
それは俺の視野の中でどんどん巨大になっていく。
近づいていくと、それがごつごつした風合いのものであることがわかってきた。

これは……岩だ。
俺は岩を見ているはずだが、山を見ているような気分である。
それだけ、でかい。
上の方までは、とても霞んで見えない。

「……」

「……」

貴音が立ち止まったので、俺も立ち止まる。
一息吐いてから、貴音が口を開く。

「……お久しぶりでございます、お父様」

「えっ、お父様」

マジで。
スーツ着てくるんだった。

「……」

「……」

お義父様が現れる気配はない。
つい最近は岩に隠れているのだろうか。
俺は取りあえずシャツの襟を正し、姿勢を良くして、一番良い作り笑顔を浮かべる。

「……」

「はい」

「……」

「お願い致します」

「……」

俺が貴音を無視しているわけではない。
間違いなく貴音が岩に向かって喋っているのである。

「……」

「……」

ん、何かおかしい。
画角のきつい広角レンズで被写体にぐっと近づくかのように視界が歪む。
周囲の空間が急速に雲散霧消し、岩が近づいて来る、岩に引きずり込まれる。
めまいがして倒れそうになり、貴音が俺を支えようとしてくれるが、意識が持ちそうにない。
もう少し意識が保てば貴音の身体の感触を楽しめるというのに、もったいな……

……

「……」

……

「……」

……

「……」

……何かが見える。
……走っている。
……緑色の原野。

鎧武者だろうか。
戦国時代の鎧よりも古いデザインだ。
板を何枚も組み合わせたかのような、鎌倉時代の武者が着ているような。
草たちが大地の栄養を吸い上げて、我先に所狭しと繁茂する原風景を、鎧武者が駆け抜ける。

鎧武者の向かう先に一人の人影がある。
十二単を着た女性のようだ、ここは平安時代なのだろうか。
髪の色はたわわに実った小麦の様な黄金の輝きをたたえている。
金髪に十二単、不思議な組み合わせである。
花を、見つめている。

「……」

十メートルほど近くまで来た鎧武者が、十二単の背中に声をかける。
はっと振り向いたその顔は、その顔は……貴音である。
間違いない、俺が貴音の顔を見間違えるものか。

だが貴音は時代劇に出演したことはない。
銀髪のイメージが強すぎてオファーが来ないのである
つまり、これは、時代劇ではない。

「……」

鎧武者が貴音になにごとか語りかける。
貴音は……なにも言えずに呆然としているようである。
ふいに貴音は鎧武者に背を向け、走り出す。
だがすぐに、十二単の裾に引っかかり転んでしまう。
鎧武者が駆け寄り、貴音を助け起こす……

……

「……」

……

「……」

……

「……」

……声が、聞こえる。

「……な……さま……」

……声が、聞こえる。

「……あな……ま……」

……声が、聞こえる。

「……あなたさま……」

「……たか……ね……」

「あなた様、あなた様」

「貴音……」

「あなた様……」

貴音。
俺の愛しい人。
一瞬でも近くにいないと不安になる。
もっと近寄りたい、もっと近寄ってほしい。

思考の歯車が少しずつ噛み合ってゆく。
貴音の顔、貴音の吐息、貴音の香り、貴音の体温、貴音の柔らかさ。
目がさめてすぐ全身に愛しい人を感じる以上に幸せな瞬間は他にあるだろうか。

「出会ったんだな……あの時……」

「はい」

知ったのではない、分かったのではない、気付いたのではない、思い出したのではない。
ただ、そうであるというだけだ。

「……わたくしの父は、正暦のころ大江山にて打ち取られし鬼の首領」

「……」

「酒呑童子」

「……」

しゅてん、どうじ。
歴史の成績が散々だった俺でも、名前は聞いたことがある。
日本史上最強の、鬼。

「頼光とその四天王によってお父様の首は京に持ち去られました」

「……」

「しかし京人は、お父様の強さを、全き理解してはいませんでした」

「……」

「首を失っても、身体にはまだ、命が残っていたのです」

「……」

「ですが、もはや再起するだけの力はなく、逃れ付いたのがこの場所でした」

「きさらぎ……」

「はい」

「この地でお父様は石となり、その身体を永劫に癒し続けることを選んだのです」

「……」

「ここは、そのための禰(みたまや)」

「……」

「わたくしの役目は、お父様にあだなす者からここを守り続けること……でした」

「でした……って」

「わたくしは、お父様に背いてしまったのです」

「……」

「あのころのわたくしの毎日は、明けては花を数え、暮れては星を数える退屈なもの」

「……」

「もはや世の中はお父様のことを忘れてしまっていたのです」

「……」

「そんなわたくしの目の前に現れたのが……」

「……俺」

「はい」

「あなた様は、風の便りを聞きつけてこの地に辿り着いた」

「……」

「お父様を、斃すため」

「……」

「初めてあなた様に出会ったとき、わたくしは恐ろしくなりました」

「……」

「あのころのわたくしにとって、あなた様を殺めるなど雑作もないこと」

「……」

「ですが、この地で初めて人に会うまでに、わたくしは胡乱な時間を過ごしすぎてしまった」

「……」

「もしあなた様を殺めてしまえば、もう人がこの地を訪れることはないかもしれない」

「……」

「それに気付いたとき、わたくしはわたくしという存在の意味がわからなくなってしまいました」

「……」

「だから、逃げ出そうとした」

「……」

「ですが、所詮わたくしはお父様の力に縛られた身」

「……」

「逃げ出すことなど叶わない」

「……」

「ですが……」

「……」

「ですがあなた様は、お父様を斃すという使命を措いて、わたくしを救い出そうとして下さったのです」

「……」

「あなた様は、わたくしの話を聞き、わたくしを連れて帰りたいとお父様に掛け合った」

「……」

「長い時間、何度も、何度も、お父様の説得を試みて下さいました」

「……」

「そして、長い、長い、やり取りの末、お父様はついに条件を出されました」

「……」

「鬼であることを隠し、ここであった一切のことは口外ならぬということ」

「……」

「千年間、お互いを愛すこと」

「……」

「千年間、交わらぬこと」

「……」

「これを果たし、千年後再びこの地を訪れること」

「……」

「嬉しかった、この無間の時間を抜け出すことが出来ると」

「……」

「ですが……わたくしはまだその時生きるということを知らなかったのです」

「……」

「あなた様は、煩悶の末その条件を受け入れられました」

「……」

「果たすはずだった使命を忘れぬようにと、お父様に鬼(キ)の禰(ネ)にちなみ貴音の名を賜り」

「……」

「そしてわたくしは、あなた様に連れられ都に上った」

「……」

「四条は都で一番最初に訪れた場所の名前」

「……」

「楽しかった、歌を詠い、書を読み、釣りをして、愛を唱える、全てが新しく、全てが刺激的」

「……」

「ですが、ついに理解しました……わたくしと人では流れている時間が違うことを」

「……」

「そのとき、あなた様はもう臨終の床でした」

「……」

「そして、わたくしに誓って下さったのです」

「……」

「何度生き返っても、必ずわたくしを見つけ出し、愛すと」

「……」

「その夜、わたくしは一人ぼっちになってしまいました」

「……」

「何日も、何年も、ただ泣きはらす日々」

「……」

「ですが、その涙も枯れたころ、わたくしはまたあなた様に出会ったのです」

「……」

「あなた様は、またわたくしを愛して下さり、わたくしもまた再びあなた様を、愛しました」

「……」

「ですが、困ったことが」

「……」

「……ここであった一切のことは……口外ならぬ……」

「……」

「それはもちろん、相手があなた様であっても同じ」

「……」

「人は、愛する者の身体を求むるもの」

「……」

「わたくしは、あなた様の愛にお応えできず、その理由も口にできない」

「……」

「わたくしはまた、泣きました」

「……」

「ですがあなた様は、それでも構わぬとわたくしを愛してくださったのです」

「……」

「その時、気付きました」

「……」

「……わたくしは、あなた様に呪いをかけてしまった」

「……」

「口では愛していると言うくせに、決して身体を許さず、その理由も言わぬ」

「……」

「そんな女を、あなた様は愛し続けなければならない」

「……」

「わたくしたちは、何度も出会い、別れ、そしてまた出会い、別れを繰り返す」

「……」

「生まれ変わったあなた様がわたくしを見つけ出すのは、必ず一番最初に出会ったのとおなじ齢のとき」

「……」

「わたくしを見つけたあなた様は、とても、とても嬉しそうな顔で駆け寄ってくる」

「……」

「その笑顔を見るのは嬉しくて、悲しい」

「……」

「その笑顔は、始まりと、終わりの報せ」

「……」

「でも、愛してしまうのです」

「……」

「何度あなた様を苦しめても、何度あなた様を悩ませても、何度あなた様を悲しませても」

「……」

「わたくしは、あなた様を愛してしまうのです」

「……」

「わたくしの髪が色を失うだけの年月が過ぎ、人々の語る言葉が変わりきってしまったころ」

「……」

「満開の桜のなかで、あなた様はまた、わたくしを見つけました」

「……」

「あなた様」

「……」

「わたくしは、あなた様に謝らなければなりません」

「……」

「あなた様の魂を、もてあそんでしまったこと……」

「……」

「あなた様の愛を、裏切り続けてしまったこと……」

「……」

「あなたさ」

「貴音」

貴音の言葉を、遮る。

息を吸って、吐く。

貴音の、目を見る。

目をつむる。

伝えなければいけない。

息を吸って、吐く。

姿勢を、正す。

目を開く。

貴音の、目を見る。

覚悟を、決める。

口を、開く。



「愛してる」



貴音の双眸が潤んだかと思うと、水分が瞬く間に横溢し、そして決壊する。
すぐに貴音の身体を抱き寄せる。
貴音は俺に身体を預け、押さえ込むようにすすり泣く。
頭を撫でてやると、だんだんと息づかいが規則性を失い、荒くなる。

「愛してる、ずっと、今までも、これからも」

俺もちょっと涙声だ。
言い終わらないうちに、すすり泣きはむせび泣きへと切り替わる。
何度も嗚咽を繰り返し、顔は充血する、全身を使って、貴音は泣く。

抱きしめる、愛情をこめて。
抱きしめる、悔悟をこめて。
抱きしめる、贖罪をこめて。

俺の馬鹿。

俺が死にさえしなければ、悲しませずに済んだ。
俺が忘れさえしなければ、悲しませずに済んだ。
俺が求めさえしなければ、悲しませずに済んだ。

全部、全部、全部、俺のせいじゃないか。

どれだけの涙を、流させてしまったのだろうか。
どれだけの時を、一緒に過ごしたのだろうか。
どれだけの愛を、忘れてしまったのだろうか。
どれだけの……

どれだけの……

「……」

「……」

長い、時間が過ぎた。
愛しい人の泣く姿を、ただただ眺めていなければいけないのは、つらい。
俺は今、貴音を抱きしめているんじゃない、抱きしめさせてもらっているのだ、いやしくも。
俺が代わりに泣くことができれば良いのに。
俺が代わりに背負うことができれば良いのに。
俺の、罪なのだから。

呼吸が、落ち着きを取り戻していく。
涙はもう、止まっている。
でも、俺の服にこぼれ落ちたそれは、まだ、乾かない。

背中をさすりながら、たずねる。

「どう、落ち着いた」

「はい」

「よかった」

よかった。

「あなた様」

「ん」

「わたくしはあなた様を愛しております」

「うん知ってる。俺も、貴音のこと、愛してる」

「ふふっ、存じ上げております」

「ははっ」

千年前からの、常識。

「……」

「……」

貴音はふたたび居ずまいを正し、俺を、見据える。

「まだ、お話しなければならないことがあります」

「うん」

知りたい。
なにもかも。
どこまでも。

「……お父様はわかっていたのです」

「……」

「その上で、わたくしを試したのです」

「試した……」

「あなた様が真実を目にする間、わたくしもお父様に真実を教えていただきました」

「……」

真実……。

「全てのことには理由があったのです」

「……」

理由……。

「千年の時間は、わたくしの身体から鬼の力を抜き去るため」

「……」

「口外せぬのは、わたくしの命が危険に晒されることのないよう」

「……」

「千年愛すのは、あなた様が寄り代となり、わたくしが幽鬼と化すことのないよう」

「……」

「千年交わらぬのは、鬼の子を成さぬよう」

「……」

「千年後ここへ訪れたのは、あなた様とわたくしが望むなら、わたくしを人間にするため」

「……人間に……」

「今までのことは、すべて、お父様の掌の上」

「じゃあ、最初から……」

「はい」

「俺が初めてここを訪れる……前から」

「はい、最後の最後まで首を縦に振らなかったのは、容易ならぬことであるのを理解させるため」

父の、愛。

「……人になるってことは……お義父さんとは……」

「はい、もうお会いすることはできません」

「……」

「……親子で、話し合って決めたことです」

「……」

「あなた様」

「……」

「わたくしは、人になりたい」

「……」

「人になり、終わりたい」

「……」

「あなた様と、ともに」

「……」

「あなた様」

「……」

「あなた様は……」

「……」

「あなた様は、望んでいただけますか」

「……」

「……」

「……」

「……」

貴音を、人にすること。
貴音から、永遠を奪うこと。
貴音を……愛し続けること。

「……貴音が……」

「……」

「……貴音が望むなら……それが……俺の望みだ……」

「……あなた様」

「……俺は、貴音なしじゃ、生きていけない」

「……わたくしも」

「……」

「わたくしもあなた様と共に『生きたい』」

「……」

「通り過ぎるあなた様を、ただ眺めるのでなく」

「……」

「あなた様と生きたい」

「……」

「……」

「……」

「……」

俺の気持ちを……伝える番だ。
伝えなきゃいけないことは、わかってる。
上手く言えるかどうかは、わかんないけど。
でも、心だけでも、伝えなければ。

「……ありがとう」

「……」

「こんなお願いを……」

「……」

「こんなお願いをされるなんて……」

「……」

「……幸せだ」

「……」

「生きてて、よかった」

「……」

「出会えて、よかった」

「…」

「愛して、よかった」

「……」

「世界で一番、幸せだよ」

「……」

「……」

「……いいえ」

「……」

「世界で一番は、わたくしのものです」

「……」

「……」

「……」

身体の固さが、緩んでいく。
穏やかさの、萌芽。

「……ははっ」

「……ふふっ」

「いや、俺が一番だね」

「いいえ、わたくしが一番です」

「……」

「……」

心地よい、沈黙。

「じゃあ……どっちも一番ってことで」

「はい、それで手打ちにいたしましょう」

貴音の両手を、両手で拾い上げる。

「それで……どうすればいいのかな」

「……あなた様とわたくしが、共に望まなければできぬことを……」

「共に望まなければ……」

「ここで、しろと」

「ここで……」

「……」

「……」

「……」

共に望まないとできないこと、する、ここで。
貴音の顔が、赤くなる。
共に……
貴音が、目線を逸らす。
する……
貴音が、身体を強ばらせる。
ここで……
貴音が、目をぎゅっとつむる。
んんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんん?

「えっ……もしかして……」

「……」

「それって……」

「……」

「つまり……」

「……」

「えっと……」

「……」

「あの……」

「……」

「その……」

「……」

「だから……」

貴音が顔をそらしたまま、目線だけこちらに向ける。

「あなた様」

「はい」

ちょっとだけ、怒ったような口ぶり。

「あなた様は、いけずです」

「はい……」

真っ赤にした顔を、ぷんとさらにあっちへ逸らしてしまう。

「わたくしの口から、言わせるつもりですか」

ヤバイ。貴音ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。貴音ヤバイ。
まず可愛い。もう可愛いなんてもんじゃない。超可愛い。
可愛いとかっても「天海春香20人ぶんくらい?」とか、もう、そういうレベルじゃない。

「……俺、はじめてだから」

「……」

「うまく、できるか、わかんないけど」

「……」

「……うん……わかった」

顔をそらしたまま、貴音が言う。

「……あなた様」

「はい」

かすれそうな声な声に、切実さを感じる。

「……わたくしも……はじめてです……」

「はい」

「あなた様は千年間……」

「うん」

「わたくしは、それより更に長く……」

「うん……」

うん?

「ん、俺って、千年間」

「はい」

「……そっか」

一瞬マジかよと思ったが、すぐに納得する。
あの条件を考えると、俺は別に愛人とか現地妻とか作ったって問題はなかったはずだ。
でもきっと、今までの俺は全員同じことを考えたのだ。
貴音がいてくれさえすれば、それでいいと。

しかし、実際に草しか食ってない時代から草食系とは……
人間国宝級である。

「あなた様」

「はい」

覚悟を決めたと言った表情で、俺の方を振り返る。

「わたくしは、女です」

「うん」

「女は、愛しい殿方と閨を共にしたいと思うものです」

「そっか……」

どこかで聞いた気がする。

「わたくしだって、ずっと、ずっと……ずっと我慢してきたのです」

緊張をごまかすように、貴音は声を張り上げる。

「……」

「お願い……いたします」

貴音がきゅっと頭を下げる。

「い、いや、俺の方こそ……よろしくお願いします」

俺も頭を下げる。

「……じゃあ、ええっと」

貴音に、ぐっと、近づく。
貴音の上着のボタンに手をかける。

「……あ、あれ……」

しかし、手が震えて思うように動かせない。

「あなた様」

「あ、ご、ごめん、緊張しちゃって」

「いいえ」

「い、いざ目の前にすると、なんか……どうすればいいかわかんなくなっちゃうっていうか……」

震える俺の腕を、貴音の手が、そっとやさしく掴む。

「……一月前のこと、覚えていますか」

あの、俺の、失態。

前後ろ調教済みの貴音って…

「……うん」

「わたくしも、同じ」

「……」

同じ……

「あのようなことは、千年間、数えきれないほどありました」

「……」

「でも、困るわたくしに無理強いをするようなことは一度も」

「……」

「ですから、わたくしは、あなた様を疑う必要などなかった」

「……」

「でもあの時は、残り一月……」

「……」

「もしかしたらと、邪念がよぎってしまった」

「……」

「そのせいで、冷たい態度をとってしまった」

「……」

「あなた様を苦しめてしまった」

「……」

「そして……急に怖くなってしまった」

「……」

「嫌われてしまうのではと」

「……」

「目の前にあるもののせいで、積み上げてきた時間を疑ってしまった……」

「……」

「……」

千年間信じてきたものを、最後に俺が疑わせてしまった。

「貴音」

謝らなければ。

「ごめん」

「いいえ、わたくしが……」

「ううん、言わせて」

「……」

「もし俺が全く悪くなかったとしても……それでも、やっぱり謝っちゃうんだ」

「……」

「貴音が、大切だから」

愛しているから。

「……」

「だから、貴音を疑いなんてしなかった」

「……」

「つらかったのは確かだけど、きっと理由があるはずだって、信じてた」

「……」

「貴音を、信じてた」

「……」

緊張は、もう蒸散しきっている。

「あなた様」

「うん」

「愛しております」

「うん」

知ってるよ。

「貴音」

「はい」

「愛してるよ」

「ええ」

千年前からの、常識。

もう、震える必要はない。
俺の手が震えるときは、貴音が助けてくれる。
貴音の手が震えるときは、俺が助けてあげる。

これからまた、順番に、ひとつ、ひとつ、積み上げていこう。
もう、焦る必要はないのだ。

ゆっくりと、あじわうように、ボタンを外してゆく……

……

「……」

「……」

貴音が、岩を見つめながら、何も言わず、寂しそうな目をしている。

「貴音」

声をかける。

「……もう……お父様の声は聞こえません」

泣きながら笑うような、笑いながら泣くような面持ち。

「……そうか」

「お父様は最後、わたくしに、いつまでも愛していると……」

「……声が聞こえなくたって、親子だよ」

どこにいたって。
かたちが違ったって。

「……ええ」

ふと思い、俺は岩の方に向かい正座をし、背筋をはる。

「えっと……お義父さん……って呼び方で大丈夫かな」

ちらりと貴音の方を見る。

「ええ、わたくしの父なのですから、あなた様の義理の父です」

穏やかな笑みを浮かべて、貴音は言う。

「わかった」

「はい」

俺は改めて岩の方に向き、居住まいを正し、手を床につく。

「お義父さん」

「今まで、僕は、僕が不甲斐ないばかりに、散々お嬢さんを悲しませてしまいました」

「その罪が消えることはありませんし、絶対に忘れません」

「そして、約束いたします」

「これからはもう、絶対に悲しませるようなことはしません」

「絶対に」

「約束します」

「それを踏まえた上でお願いいたします」

頭を、床につける。

「お嬢さんを、僕に、下さい」

「僕を、お嬢さんに、捧げます」

貴音も手をつき、頭を床につける。

「わたくしも、誓います」

「……」

「……」

突如しじまを圧すように、岩が響きを発する。
身体を芯から震わせるような、深く、厳かで、重みのある低音。

「……これは……」

「ええ」

そういう、意味だろう。
貴音と俺は安堵の顔を浮かべ合う。

もう一度改めて、頭を下げる。

「ありがとうございます」

「ありがとうございます、お父様」

幸せへの符丁が、癒合した。

「……」

「……」

貴音が、立ち上がる。

「もう、いいの」

まだいたければ、いても良い。

「はい」

「そうか」

でも、それぞれの親子には、それぞれの親子の距離があり、伝統があり、しきたりがある。

「じゃあ、行こう」

貴音の右手を、俺の左手がとらまえる。

「はい」

貴音の右手の指たちが、俺の左手の指のあいだに絡み、あるべき形を取り戻す。
立ち上がり、岩に向かいもう一度深く頭を下げる。

石段を下りてふと気がつくと、俺たちはきさらぎ駅のホームに立っていた。
目の前に電車が止まっており、発射のベルが鳴り響く、急いで乗り込む。

この駅も、あの場所も、同じ場所だったのだ。
同じ場所でありながら、別の場所でもある。
人間に、それを理解する力はない。
だから、俺たちが今ここにいることは、そういうこと。

はなむけを、送ってもらったのだ。

がらんとした車内のシートに腰掛ける。
新たな一日を伝える光芒が、瞳孔を収縮させる。
左手を伝い、全身で貴音を感じる。

ふと、疑問がわく。

「あのさ」

「はい」

「ちょっと思ったんだけど」

「ええ」

「貴音って……いままでずっと、何歳だったんだ」

「わたくしの時間は……十七の時に、止まったままでした」

「そうか」

「はい」

そうか……

さて、あの日の出来事は一夜の話だと思っていたのだが、実際は数日間経っていたようである。
何本もの仕事に穴を開けてしまったが、事務所の皆がなんとかフォローしてくれていた。
各所に謝罪に回ったのだが、どこに行ってもそんなことより大丈夫なのかと心配されてしまった、
申しわけないやらありがたいやらだが、これもひとえに貴音の人徳なんだろう。

あのディレクターさんなんて貴音を見るなり駆け寄って抱きしめていた。
そして俺は渾身の闘魂を注入された。
いろいろ複雑である。

謝罪会見も開いたのだが、実際には結婚会見に近いかたちになったので、うまい具合に話題が逸れてくれた。
世間的にも「ははぁ、なるほど、さてはこいつら」といった具合になんとなぁく理解してくれたみたいである。

それでも復帰後しばらくは、あれはステマであるといった主張をする輩もいた。
いやまあ確かにステルスはしてたけれども。

そんなわけで貴音はいまだにアイドルである。
最近ではそれに触発されたのか「永遠のアイドル宣言」を行う若手アイドルが後を絶たないが、
こういうものは一番最初のひとりだけが名乗るのを許されるものであり、
後に続く者がぞろぞろと出てくると一気に新興宗教じみてくるので正直やめてもらいたい。

「ふぅ……」

再生医療の進歩で年寄りが老眼に苦しめられることはなくなったが、
なんだかんだで老いというやつはいまだ人類にこびりついて消える気配を見せない。
人類はあたりまえに死に、あたりまえに生まれてくることで全体のバランスをとっている。

俺のプロデューサー人生最後の仕事も、今やっと完成したところだ。
今や世界中でその名を知らぬ者はいないと言われる「アイドル・四条貴音」だが、
その生涯がどうもミステリアスでつかみ所にかけるので、
試しに本人でなくこいつに書かせてみようと白羽の矢が立ったのはもう十年くらい前ではないか。

体調を考慮しつつも貴音は可能な限り仕事を受けていたので、
俺もまたプロデューサーとして忙しく、実際の執筆は遅々として進まなかった。
結局、腰を据えて執筆に取りかかれるようになったのは一年前に俺が倒れてしまってからだ。

貴音もあれ以降、全ての仕事をすっぱりと断ってしまい、
今の俺たちの人生では初めて、夫婦水いらずゆったりとした時間を楽しんでいる。

俺の身体は、本来であればなにをするにも激痛を伴い、寝たきりでいるしかない状態らしいのだが、
医学の進歩が間に合ってくれたおかげで、俺はほとんど痛みを感じないでいられる。
歩行器で室内を徘徊するくらいのことはできるし、頑張れば屋外を徘徊することもできるだろう。
治療の副作用で、熱すぎるお茶を飲んでも全く気がつかなかったりするのだが
貴音にふーふーして貰ってから飲むお茶は格別に美味しいので、特に問題はない。

先日原稿が完成しそうであるという連絡をしたら、編集者に驚かれた。
もう完成しないだろうとおもわれていたようだが、それは心外というものだ。
俺はやるべき仕事はきっちり終わらせるのである。
明日編集者に原稿を渡して終了だ。書き直す時間は残っていない。

本来のコンセプトに逆行するようなことを言うが、
この本は貴音の人生にあるミステリーを解き明かすものではない。
俺の書いた内容は、俺と貴音からみればまごうかたなき真実なのだが、
周りからみればまあほんとかどうかわからん内容になってしまうのだ。
結局ミステリアスさは貴音の魅力のひとつであって
読者も本当っぽさなどさして望んでいないことと思う。

この本が次の俺たちの目に止まってくれれば幸いである。
俺が書いた本なのだから、俺が読めばわかってくれるのではないか。
自分たちがなぜここまで幸せでいられるのかと。

ゆっくりと襖が開き、貴音が部屋に入ってくる。
世間の若造にとってはそりゃあ若いころの貴音の方が綺麗に見えるだろうが、
俺には皺が一本増えるたびさらに美人になっていったとしか感じられない。
つまり今が一番美しい。
明日はたぶん、もっと美しい。

「子供達に週末と伝えておきました」

「うん、ありがとう」

自分の残り時間は、自分が一番よく知っている。

「少しの間、またお別れだね」

「ええ」

その少しがもどかしいが、仕方ない。

「わたくしも、もう長くはありません」

「うん」

俺たちの魂は一体不可分なのだ。
たまたま二つに分かれて見えるというだけである。
片方が終わればもう片方も終わり、そして……

「貴音は」

「はい」

「人になったこと、後悔してないか」

無論、そんなことはつゆほども疑念に思っていない。

「あなた様は、いけずです」

言うことを聞かなくなった身体の代わりに、口先でちちくりあっているだけだ。

「人の一生は」

うん。

「一緒に泣き、一緒に笑う」

うん。

「時に喧嘩をして、どちらからともなく謝り」

うん。

「一緒に歳を取り、一緒に死んでいく」

うん。

「また始まって、必ずあなた様に出会う」

うん、絶対に。

「なにを後悔しろとおっしゃるのですか」

ちょっと、目頭が熱くなる。
この歳になってもまだ涸れてないってことは、涙を使わなすぎたな。

「俺は、世界で一番幸せだ」

「いいえ」

「俺たち、だね」

「ええ」

「貴音」

「はい」

「これからも、ずっと」

「ええ、ずっと、ずっと……」




をはり。

ありがたうござひました。

乙乙

おっつー

うむ

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