【ミリマス】私という撫子の (41)

種を埋めたら芽が出て、茎が伸びて花が咲く。
そういう自然の理のなかで。
私の種はまだ蕾すらもつけないで。よく見えない光を探しながら。
その花が何かも知らぬまま。


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 控室で抹茶を飲んで一息つく昼下がり。この時間がたまらなく好きだった。大好きな日本で大好きな抹茶を飲むということの幸福に浸っていると扉が開く。そこから顔を覗かせたのは仕掛け人さまで、私を見ると「ここにいたのか」と呟いた。

「仕掛け人さま」

 今の口ぶりだと私を探していたみたい。用事だろうか。手にしていた茶碗を置いて姿勢を正した。
「特に急ぎじゃないんだけど今度の取材のことでちょっと渡したいものがあってさ」
 そんな私を見て仕掛け人さまは硬くしないでいいよと笑う。お言葉に甘えて肩の力だけを抜いた。今度の取材、と聞いてすぐに思いついたのはあるけれど確認のために尋ねておく。

「着物の松山さんの、ですか?」
「そうそう。取材で聞く質問はこんな感じですよ、っていうメールが届いたからコピーして早めに渡しておこうと思って」
「わざわざありがとうございます。確認しておきますね」
「まぁあんまりしっかり考えすぎない方がいいと思うし、こんなこと聞かれるんだなって何となく目を通しておいてもらえばいいから」

 仕掛け人さまから用紙を受け取る。よほど早く渡そうとしてくださったのか電子手紙の画面がそのまま印刷されていた。上から目を通すと読めたのは仕掛け人さまのお名前と担当者の方のお名前と時候の挨拶。

 着物の松山。
 といえば着物を着る人で知らない人はいない。それくらいに有名な老舗の着物屋さん。
 そんな着物屋さんと私がお仕事をするわけになったのは勿論仕掛け人さまのご尽力のおかげである。若者向けの着物を宣伝する際の手本として松山さん側から私を指名してくださったとのこと。

「それにしてもエミリーをイメージモデルに選んでもらえて良かったよ」

 いつもより優しい目をした仕掛け人さまは私の前の椅子に腰を下ろした。急いでいない様子なのでこの後の用事は特にないのだろう。その言葉に思わず紙を持つ手に力が入る。

「はい。本当にありがたいことです……」

 なんでも松山さんが外国人を手本として選んだことは今までになかったらしい。松山さんが掲げる題目は「日本人女性を美しく見せるための着物」。それなのに私を選んでくださったのだ。
 その意味がわからないほど私は幼くなくて。
 今回のお仕事のために仕掛け人さまがどれほど努力してくださったかがわからないほど世間知らずでもなくて。
 何度も電話をして掛け合ったり、たくさん資料を用意していたりしていたことを私は知っている。松山さんへ一緒にご挨拶しに行ったこともあった。

 だからこそ、このお仕事が決まったときに不安もあったけれどやっぱり嬉しくて。
 思わず涙をこぼして「ありがとうございます」とお礼を言うと仕掛け人さまは「エミリーにどうしてもしてほしくてやったことだから頭下げなくてもいいよ」と笑った。そうやって私の頭を撫でた手が少しだけ、本当にわずかにだけれど震えていたから。その震えの理由は未だにわからないけれど。いつも以上に気を引き締めてこのお仕事に向き合おうと誓った。

「で、どんなこと聞かれるって書いてるんだ?」
「ええと、そうですね……」

 紙を一枚めくって質問項目が書かれているらしき部分に目を落とした。

< Q.1 初めて着物を着たのはいつですか? >

「着物を初めて着たのはいつか、だそうです」
「なるほど……。それでいつくらいに着たの?」
 
 そう促されて記憶をたどってみる。たぶん小学校に上がる前のことだった気がする。あの時は冬で、父に連れられて……。

「確か、五つの頃だったと思います。……そういえば、あの時の着物も松山さんのでした」

 そうだ。私が初めて着たあの赤色の着物は。
 あの日、父が買ってくれたのは、松山さんのところの着物だった。

「すごい偶然じゃないか!」
 仕掛け人さまの驚いた顔がなんだかおかしくてくすりと笑う。
「そうですね。ご縁があったのかもしれません」

 何気なく言葉を落としてからハッと仕掛け人さまを見る。きょとんと私を不思議そうに見るばかりで何も気づいていないみたいだが、私はとんでもない失言をしてしまったのだ。

「で、ですが! このお仕事はご縁だけではなくて、仕掛け人さまのお力があったからこそで……!」

 先ほど仕掛け人さまへの感謝を忘れずに臨もうと決めたばかりなのにこの失態。つくづく大和撫子には遠いと感じる。

「なんだ、そんなこと。全然気にしてないよ」
「申し訳ありません……」

 小さくなる私を見て笑う仕掛け人さまは本当に気にしていないようだった。そういう懐の大きさが羨ましい。私もいつかは、と決意をしながら次の質問項目を見た。

< Q.2 日本に憧れるようになったきっかけはなんですか? >

 なぜか不思議なことに。他と同じ書体のはずなのにその質問だけがやけに目立って見えた。強く瞬きをしてみてもそれは変わらずに、蛍光筆で印を入れられたように光っている。

 途端に記憶はよみがえる。先ほどまでは朧気だったはずの記憶の断片がひとつ、またひとつと重なり鮮明な映像になっていく。空気も匂いも、胸の高鳴りまでも鮮やかに。
 
 きっかけはあの日。それは、私のはじまり。
 私が日本に憧れるようになった理由。
 私が初めて大和撫子を知ったあの日。
 それまで日本という存在を知らなかった私のこと。

 *
 
 五歳になってすぐのことだった。年が明けてもまだまだ寒い日が続いていて、外には雪が積もっていた。家の中から見ると柔らかそうに見える雪は実際のところ冷たくて硬い。

『Emily!』
『Dad, what’s up?』

 叔母さんが誕生日にくれたお人形で遊んでいるところにお父さんが話しかけてきた。ニコニコしていてなんだかとても嬉しそうだった。

『お昼から一緒に出掛けないか?』
『どこへ?』

 そんなお父さんの提案に私は少し眉をひそめる。だって雪は私の膝くらいまで積もっているというのに。できることなら暖かい家の中でもらったばかりのお人形で遊びたいというのが本音だった。
 しかしお父さんはそんな私の表情が見えていないのか見ようとしていないのか変わらず笑顔で続ける。

『父さんの働いているところでやっているNihonのものを集めたイベントなんだけど』
『Nihon……?』

 ただ繰り返しただけで、口にしたそれは知らない言葉だった。いつだかお父さんが言っていたような気もするけれど確証はなくて。その単語について想像を膨らませるほどの知識を私は持っていなかった。

『そう、父さんが大好きな国』

 私の目を見ながら笑ったお父さんはあまり見たことがなくて。お父さんにこんな顔をさせるものとはいったい何なのだろうか。そんな興味が少しだけ湧いた。

『いつも帰りが遅いから休みくらいはエミリーをどこかに連れて行ってあげたいのよ』

 お母さんがエプロンで手を拭きながら私に声をかける。持っていたお人形をそっと床に置いて確かめるためにお父さんの顔を覗き込んだ。

『そうなの?』
『まぁ、それもあるけど……。一番はNihonの文化をエミリーに見てほしいなって思ったから』

 照れたように頬を掻きながら言ったお父さんは相変わらず微笑んでいる。
 お父さんが私に見せたいものってなんだろうか。そんなに良いものなのだろうか。
 Nihonが何かを私は全然知らないけれど。
 いつも落ち着いたお父さんが目を輝かせて話すそのNihonは。その国は。
 なんだかとても素敵なもののように思えてしまって。

『……じゃあ、行く!』

 わからないことは知りたいと思ってしまう性格だった私はそう答えた。
 そんなに素敵なら見てみたい。それほど魅力的なら知ってみたい。

『ほんとか!? 母さんも……』
『はいはい、行きますよ』

 私の返事を聞くなり、嬉しそうな声でお父さんは台所に立っていたお母さんの方を振り返る。お父さんと目が合って答えたお母さんは溜息混じりだったけれど優しい顔をしていた。
 すぐに出かけると決まったので、私は立ち上がってお人形はおもちゃ箱の中に片づける。お母さんが選んでくれたよそゆきの洋服に袖を通して、髪の毛を二つに結んでもらった
 玄関でお気に入りのブーツを履いて、雪の降るなか傘も差さずにお父さんの車に乗った。

 車で揺られて三十分ほど。
 着いたのは大きな建物。その門の前に置かれた看板には『Japan Festival』の文字。また、知らない言葉だ。前を歩くお父さんに尋ねる。

『Japanってなに?』
『Nihonのことだよ』

 同じ国なのに呼び方が二つ……? よくわからないと思って俯いている間にお父さんは係員の人と話を済ませてしまっていた。気づけば私は係員の人に会場の方へと誘導されていく。

 初めに通ったのは見たことのない絵がたくさん飾っている部屋だった。

 絵を見上げることしかできない私に「これはNihongaって言うんだよ」とお父さんは言う。どうやらNihonで描かれるものらしい。私が使っている絵具と違って、自然のものを使って色をつけている。これを描くにはとても高い技術が必要なものなのだそう。お父さんが私に説明する言葉を頭の中で繰り返しながら絵を見つめる。

 お父さんは、私とお母さんが見ている時間よりも長く一つの絵を見るものだから部屋の出口付近でお母さんと二人でお父さんを待つ。なんだかんだこの中で一番楽しんでいるのはお父さんのようだった。

 次に入った部屋で見たのは、家の中で見たことのある器に似たなにかだった。いつかお父さんに教えてもらった気がする。
 確か、Toukiだったような……。合っているかを確かめるためにその単語を口にするとさっきまで笑顔だったお父さんの頬が溶けそうなほどに緩んでいた。
 展示品に当たらないようにゆっくり歩いていると、一つのToukiが視界に入る。なぜだか惹かれた。

『家にあるのと似てる……』

 思わず指を差したそのToukiは家の棚の一番上に飾られているものと同じに見える。夏の海の奥に似た色をした器。
 誰かが使っているのを見たことはなかったけれど、やけに綺麗な色だったから記憶の中にあったのだ。
 お母さんは私の手を繋ぎながら指の先にあるToukiを見る。

『そうね。家にあるのはお父さんがNihonに行ったときに買ってきたものだから、よく似ているのかもしれないわね』

 お母さんの言葉でお父さんはNihonに行ったことがあるのだと初めて知った。だからよく知っているし好きなのだろうか。
 こうしてNihonのものを見ているけれど、いまいちお父さんが目を輝かせる理由はわからないまま。

 見ていくうちにどうやらToukiは家で普段使っている食器とはまた違うものなのだと気づいた。それらは家の食器と違って茶色や緑色で濃い色もあって模様も多くはないのに、だけどなんだか心が落ち着くような。
 
 今回はお父さんの方が先に進んでおり、部屋の出口付近で私たちを待っていた。転ばない程度に少し駆け足で向かう。

 そうして入った次の部屋の光景に。
 私は思わず息を呑んだ。心が奪われた。

 見渡す限り、全く見たことのない景色と色と知らない世界で囲まれている。
 木の棒にかけられた色とりどりの布がたくさん飾られていて、それはまるでカーテンみたいで。だけどカーテンのように薄くはなくて、波打ってもいなくて。
 すごく、すごく綺麗だと思えた。

『これは……、なに?』

 先を行こうとしたお父さんの袖をたまらず引っ張って尋ねる。
 この世界をもっと知りたい。この景色をもっと見ていたい。
 私は、この世界に。

『Kimonoだよ。Nihonの女性が着る服のこと』
『Kimono……』

 袖を引っ張られて後ろにつんのめったお父さんに教えてもらった言葉をそのまま繰り返す。
 知らない言葉が私の中に入ってくる。乾いた土に水が染み込むように。何も知らない私の中にじわりと響いていくその言葉。

 NihongaもToukiも綺麗だった。素敵だと思えた。
 けれど、このKimonoはまた違う。

 こんな胸の高鳴りは初めてで。今までになくて。知らない感情で。
 心臓の音が早い。それになんだか顔も熱い。
 何より、世界が輝いて見えて。
 どうすればこれが抑えられるのか私はちっともわからなくて。

『ほら。ああいう風に着るんだ』

 お父さんの指が示した先にいた女性。
 少しくすんだような赤色のKimonoを身にまとい、Obiというらしいものを腰に巻いていた。

 その女性を見た刹那に。
 言葉が出ないというのはこういうことなのかと痛感した。
 立ち尽くすというのはこんな感覚なのかと思い知った。
 
 その立ち姿。薄く微笑むような表情。上品にまとめられた髪の毛。落ち着いた動作。周囲の空気。
 私の眼にはどうしようもなく美しいものに映ってしまった。
 その女性が単に綺麗だけだったのではなくて、その周りの雰囲気も含めて全てがいっとう美しくて。

 思わず目で追って手を伸ばしそうになるほどに。

『ああいう女性のことを、ヤマトナデシコっていうんだ』

 ――ヤマトナデシコ
 
 お父さんが口にしたその言葉に。
 私は出会ってしまった。知ってしまった。
 自分がいちばん美しいと感じたものの名前を聞いてしまった。

 だったら、そんなの。絶対に思ってしまうだろう。

『ねぇ、お父さん』
『どうした?』
 
 どうしたって願ってしまうだろう。

『私……、ヤマトナデシコになりたい!』
 
 なりたいって、口にしたくなるだろう。
 

 そうだ。なりたい。
 私は、ヤマトナデシコになりたい。
 それでしかこの衝動は抑えられない気がした。

『あら、エミリー。ヤマトナデシコっていうのはね……』
『なれるよ。エミリーなら』

 お母さんの言葉を遮ってお父さんが私の頭を撫でる。その手はあたたかくて優しくて、いつか本当になれる気がした。

『本当!? お父さん!』
『あぁ、本当だ。』
『……そうね。きっとなれるわね』
『なりたい、私! ヤマトナデシコになる!』

 その後しばらくずっとヤマトナデシコヤマトナデシコと口にしながら部屋を歩いていると、お父さんがせっかく一緒に来たんだからKimonoを買ってあげようかと声をかけた。

『いいの!?』
 
 Kimonoを着れば私だってヤマトナデシコになれるのではないか。さっきの人のような、素敵な女性に。
 
『ヤマトナデシコへの第一歩、ってことで。いいよな、母さん』
『うーん……。その分お仕事頑張ってくださいね?』

 お母さんは少し迷ったようだったけれどお父さんと私の表情を見て折れたのか一つ溜息をついた。

『エミリーと母さんのためならいくらでも頑張るよ』
 
 そのまま売り場に連れていってもらう。どの色がいい?と聞かれたのであの人が着ていたような赤色がいいと言うとちょっとエミリーには渋すぎるんじゃないかなと笑われた。結局買ってもらったのは真っ赤な生地に菊や牡丹の花がかわいくあしらわれた子供用のものだった。
 その場で着付けをしてもらって鏡に映った自分を見てみる。

 なんかちがう。

 第一印象はそういうものだった。

 Kimonoを着ているというよりもKimonoに着られているみたいで。さっきの人のような美しさはどこにもなくて。なにより鮮やかな赤色に黄金色の髪の毛はひどく浮いていた。

 鏡に映った女の子は、なりたいと思ったようなヤマトナデシコなんかでは到底なくて。はしゃいでKimonoを着ただけの英国の女の子で。
 
 その時、私の憧れは遠い場所にあるのだと知った。届くとも知れないところにあるのかもしれないと思った。

 だけど。
 お父さんとお母さんがなれると言ってくれたから。
 あの胸の高鳴りを忘れることなんてできないから。
 運命のように出会った憧れを、離したくはないから。

 それになにより、私自身がなりたいと思ったから。
 いつかこの黄金色の髪の私が、胸を張って『ヤマトナデシコ』と言えるようになるまで。
 歩き続けたい。

 ❀
 
 その日から私は人が変わったように日本のことばかりを調べるようになった。父が日本を好きということもあって一歩を踏み込むのは容易かった。

 初めは語学からだった。
 ひらがなとカタカナから始めて徐々に漢字も覚えていく。漢字の成り立ちを調べていると面白くて夜更かししてしまうこともしばしば。知らない言葉とその意味が自分のものになっていくことが面白くて楽しかった。

「Da……、お父さん。今日は学校に、……学校で、お友たちと日本のお花のこと、お話しした……のですよ!」
『おお、すごい。随分上手になったじゃないか』
「けど、お父さんみたいな……、上手でないから。もっと頑張りないと……!」

 語学の定着は日常生活から、ということで家では練習のように日本語ばかり話すようになった。父は仕事の関係で日本語が達者だったため指導もしてもらいながらひとつひとつ着実に日本語を自分の中へ染みこませていった。

 そうしていく中でNihonは日本に、Nihongaは日本画になってToukiは陶器になり、Kimonoは着物になった。

 憧れのヤマトナデシコは「大和撫子」と書くのだと知った。

 大和とは日本の昔の呼び名で、撫子とはその日本に昔から咲いている花の名前。
 子供のように撫でたくなるほどかわいいから撫子。
 だけど見た目にそぐわず強くてたくましい。そのおかげでずっと日本と共にあった花。
 大和撫子がそうであるように。この花のように。私もいつか咲きますように。
 そんな想いを込めて、撫子の花の鉢植えを部屋に飾った。

 だけど現実はすぐに花開くほど甘くも優しくもなくて。
 私のそれは花どころか芽すら出ない。憧れの花は部屋の中にこうしてあるはずなのに何故だか遠くて、靄がかかっているようによく見えなかった。
 
 日本語を学ぶのは楽しいけれどそれと同じくらいに難しい。そんな言語の壁はどうしようもなく高いものだったけれど、これを乗り越えなければ芽は絶対に出ないのだと言い聞かせて必死に勉強する。

 他にも日本の文化を英国で学ぶことには苦労した。

 日本舞踊に関しては父の知り合いを通じて、英国に住んでいる日本人の先生にお稽古をつけてもらえているが、茶道や陶芸、日本画の先生を見つけることはできなかった。流石に全部を一人で学ぶのは難しいため、着物も着られて作法も学べる茶道から始めることにした。揃えられる道具を揃えて日本語で書かれた本と辞書を並べて、試しに点ててみる。

 初めて点てた抹茶は顔の部品が全部中心に寄りそうになるくらいに苦くて飲めたものではなかったけど残すのは日本の美学に反すると、思いきり飲み干した。父にも飲んでもらうとものすごいしかめっ面をされて「練習あるのみだな」と言われた。

 どちらかと言えば負けず嫌いだった私はうまくなりたい、という気持ちも相まって一層勉強に励んだ。家に帰っては日本語の教科書と学習書を読み込んだ。休日にはお茶を点てて父に飲んでもらった。時間が空いたときは正座をして慣れようとした。着物を綺麗に着られるように練習した。

 おかげで部屋中の日本語の本は付箋だらけで、辞書はすっかり開ききってしまって。一畳だけ用意してもらった畳はいつも座っている部分だけが変色してしまって。部屋の中は日本のものであふれかえった。

 そういう努力をするのは決して苦しくない。自分が望んでやっていることなのだから楽しいとさえ思える。

 だけど、果たしてこの努力が本当に大和撫子へと繋がっているのかはわからない。

 父も母も努力すればいつかはなれるよと言ってくれるけれど。
 年を重ねていくごとに大和撫子になることは決して容易くないのだと思い知らされる。

 私の撫子は花を咲かせるのだろうか。
 いや、そもそも――。

 大和撫子という言葉を調べるたびに出てくる「日本人女性」の文字にため息をついた回数は数知れず。学校で日本語を話して「外見がそんな風なのにおかしい」と笑われたことだってある。
 日本語が上達しても相変わらず着物は似合わなくて、和服を着るたびに鏡の中で私だけが浮いていた。あの頃から何も変わっていない。

 自分の外見を恨んだことがないと言えば嘘になる。雑誌や本で見る大和撫子と呼ばれる人はいつだって濡羽色のつややかな髪だった。

 だけど黒髪に染めることは、あの日の私の決意を否定する気がして。それをしてしまうと私は大切な何かを落としてしまいそうで。どうしてもそれだけはできなかった。

 だから日本語ばかり話すように努めた。それは私のせめてもの抵抗。この見た目を否定する私に対する私へのせめてもの抵抗。外見が駄目ならと、中身を磨こうとした。

 努力が報われるのはそうだと思う。実際あの頃に比べれば私は日本語が上手になっているし日本舞踊だって先生に褒められるようになった。抹茶も自分で美味しいと思えるし一人で着物を着られるようにもなった。
 中身はできる限り最大限磨いてきたつもりだった。

 でも、どれほど努力をしたところでどうにもならないことがこの世にはあるのかもしれない。
 私みたいな英国人が大和撫子になるなんて最初から無理な話なのかもしれない。
 だって外見がこうだ。いくら覚悟を決めても、意地を張っても事実は事実のまま変わることはなくて。
 花は咲かない。芽も出ない。土を汗と涙で湿らせているだけのこの花が咲く日など訪れるのだろうか。

 それに、そもそも。
 この必死に育てているものは果たして撫子なのだろうか。

 いくら中身を磨いても、咲いた花が薔薇だったら? 薔薇は決して撫子になれなどしない。
 けれど種はもう土の中にあって、これを薔薇ではないと証明できる術を私は知らない。撫子だと知るためには咲かせるしか方法を知らない。

 花は咲くの? 蕾はつくの? 芽は出るの?
 この花は撫子なの?
 私は本当に大和撫子になれる?

 ねぇ。
 だれか、おしえて。
  
 十一歳の誕生日、両親から着物をもらって部屋で着た私はあまりの不釣り合いさに泣いてしまった。
 あの日から何も変わらない。浮かれた英国少女が着物を着ているだけの像が鏡に反射していた。

 部屋で問いかけても答えを返してくれる人はおらず。代わりに部屋に飾った撫子の鉢植えは冬のくせに憎らしいほど艶やかに咲いていた。

 だからといって大和撫子を諦めることもできなくて。あの日感じた胸の高鳴りを忘れることができなくて。日本語を勉強し続けた。日本舞踊も、独学の茶道も続けた。
 今さら、この道を引き返すことはできなかった。振り返っても暗闇の道をそうできるほど私は強くも弱くもなかったのだ。

 そうして迎えた十二歳の夏。

 父が帰ってくる少し前から突然強い雨が降りだした。傘は持っているのだろうか、などと考えていると玄関が勢いよく開き、ずぶ濡れの父が入ってきた。

『エミリー!』
「Wow! お父さん!? 早く身体拭かないと風邪ひいて……」
『そんなことはどうでもいいんだ!』

 父は床が濡れるのもお構いなしに私に近づいた。開けっ放しの扉から雨に濡れた土の匂いがする。風が吹きこんで私も少し雨に当たる。だけど不思議と悪い予感はしなくて。

『聞いて驚くなよ』

 それは父の瞳が輝いていたから。あの日見たものとよく似た目の輝きだったから。

『来年から日本への赴任が決まったんだ』
「え……」

 赴任。

 知っている言葉だったけれど飲み込むのに時間がかかる。頭の中で赴任の意味を検索した。赴任とは、新しい勤務地に赴くことという意味で。
 だからつまり。

『みんなで日本に行こう』

 そういうことで。

『Serious……?』

 思わず英語が漏れた。もしかするとこれは疲れた私がみている夢なんじゃないかと古典的に頬をつねってみる。じわり痛かった。ということは夢じゃないということで。これは現実で。
 疑る私に父は笑いかける。

『こんな嘘なんかつかないよ。今日はエイプリルフールじゃないんだから』

 嬉しさと喜びと驚きが多くの感情を占めているなかで、片隅に小さな不安がひとつだけ。

 芽すらも出せない私が、日本で何をできるのだろう。
 大好きな国で、憧れの国で、想いをくすぶらせたままの私に何ができるのだろう。

 もし、行ったところで大和撫子になれなければ?
 私はどこで憧れになれるというのだろう。

 ❀
 
 小さな不安は消えないまま。十三歳の春、家族で日本に引っ越した。

 ようやく地面を踏んだ日本は思っていたよりも洋風だった。都会には高い建物が立ち並んでいるし、少し道を外れてみても木造住宅よりも鉄筋でできた住宅ばかり。
 本で見たような風景は多くないのだと知った。

 日本を歩く女性も着物を着ている人はほとんどいなくて、見渡す限り洋服ばかりを着ていた。せっかく着物が似合うのにもったいないと思った。
 忍者や侍がいないことはなんとなく知っていたけれど、ここまで違うとは知らなくて。憧れの土地にいざ来てみたものの、どうやらここでも大和撫子になることはそう容易くはないらしい。

 どうしたら近づけるのだろうか。ここでしかできないことをやらなければ大和撫子にはなれない。

 だけど何をすればいいのかちっともわからない。日本画をやるのか陶芸をするのか華道をするのか。空手や剣道でもいい。知識として知っている様々な日本の文化が思いつくと同時に、だけどどれもなんとなく違うような気がした。

 私がなりたい、大和撫子ってなんだっけ。
 そんなことを考えてばかりで特に何もできずに時間だけが無情に過ぎていく。

 ある日。
 街を歩いていると「アイドル」という文字が目に入った。

 日本に来て初めて見た知らない言葉だった。
 正確には知っているけれど知らない言葉。

 おそらくアイドルとはidolからきているのだろう。だけどidolというのは偶像という意味のはず。

 アイドルという言葉で示されていたのは私よりも少し年上らしい女の子。だけど女性というには幼い。写真の中のその人は綺麗な服を着て、笑顔でこちらを見ている。

 この人たちが、偶像……?

 偶像とは、崇拝の対象。それはつまり信仰とかそういう宗教的なものだろう。日本には八百万の神さまがいるとはいってもどうも違和感がある。
 不思議に思って携帯電話で偶像の意味を調べた。
 いろんな辞書を見比べていると、ある辞書の最後の項目に書かれていたのは。

 ――あこがれ。

 偶像は、あこがれ。
 アイドルは誰かの憧れ。誰かのなりたい姿。
 私の憧れは、あの日からずっと変わらずに大和撫子だった。

 だから私のとってのアイドルは――。
 

 あれ、どうしよう。
 この感情を、私は知っている。
 一度だって忘れたことはない、あの日の胸の高鳴りと同じ。
 鼓動が速い。全身が熱い。動き出したくてたまらない。
 抑えきれないこの衝動が、私の中にふつふつと湧いて踊って。
 片隅のどこかにあった不安を見つけられないほどに心が騒いでいる。
 
 私がここにいる理由は。

 大和撫子になりたいから。
 この花を咲かせたいから。

 そうだ。たったそれだけの理由で私はここにいる。そのために努力をしてきて八年間を過ごしてきたのだ。思えば、日本に触れた期間の方が触れていない期間よりも長くなっている。

 それくらいに、人生の半分以上を捧げるほどに私は、大和撫子になりたくて。
 そのための努力は惜しまなかった。だって私は誰よりも大和撫子になりたかった。
 
 なれるだろうか。大和撫子に。
 なれるだろうか。私が、アイドルに。
 名前も知らぬ、花とも知らぬこの花を私は知りたい。

 ここでしかできないこと。日本でしかできないこと。
 それは、日本のアイドルになること。
 アイドルになって、憧れになって――。

 ぎゅっと手を強く握りしめて、顔をあげた先の広告にとある事務所の選考会の情報が目に映る。

 芽の出るような高揚感。空に向かって葉を広げてようとしている気がした。

 そうして、アイドルを知った私は一歩を踏み出して。私はこの場所とあなたに。
 


 ――初めまして。エミリースチュアートと申します。



 劇場と仕掛け人さまに出会ったのだ。

 *

「……ー。……ミリー。エミリー?」
「は、はい!」

 仕掛け人さまに声をかけられていると気づいた途端我に返る。不安そうに顔をのぞき込まれていることに気づき慌てて顔を逸らした。

「なんかボーっとしてたみたいだけど大丈夫か?」
「も、申し訳ありません……」

 少し過去のことを思い返していたらしい。先に質問を見ておけてよかった。本番でこんな風になってしまっては迷惑になるだけだった

「なんか変なこと書いてあった?」
「いえ、そういうのではなくて……。少し、昔のことを思いだしていました」

 つい最近のような遠い昔のことのような想い出だ。忘れていたわけではないけれど頻繁に思いだしていたわけでもないから、なんだか懐かしいような感覚に落ちていた。

「そういえば……、エミリーの昔話ってあんまり聞いたことないかも」
「言われてみればそうですね……。ですがお聞かせできるようなものでもありませんよ?」
「恥ずかしい?」

 仕掛け人さまがそう尋ねる。少し不安そうな目をしていた。
 だけど、私はもうそんなに弱くない。

「いいえ、恥ずかしくはありません。今までの私がいるから今の私がいるんだということは、ここにきて十分教えていただきましたから」

 思い出を話すことが恥ずかしいというのは多少あるけれど、自分の過去を恥じたことは一度もない。それはここにきて、この劇場で、仕掛け人さまと皆さんに教えてもらったことだった。

「ですが……」

 恥ずかしくはない。自分の過去も努力も恥じたことは決してない。

 だけど、それでも。それとは別に。
 ずっと心のどこかで感じていた不安を私は思いだしてしまった。

 初めて着物を着た日から今日までずっと抱えていた私の弱さ。
 ぽつり落としてしまった言葉は私の中にずっとあった本音。

「ときどき、わからなくなるんです。進んできたこの道が正しいのか。この道の先に大和撫子はいるのか。今までの努力は正しいかったのか。そういうことがわからなくて……」
「……」

 黙りこくる仕掛け人さまに気づいてハッとなる。私は何を言っているんだろう。こんなこと言っても仕掛け人さまを困らせてしまうだけなのに。

「すみません、変なこと言って。こうして劇場にいることも皆さんと出会えたこともどれも素敵な経験で、できることならもう一度同じ道を進みたいなと思っているんですよ」

 今の私はうまく笑えているだろうか。いま言ったことは本心。

 でも、そう思えるくらいに素敵な道だったとしても。その道が実は大和撫子に繋がっていないのなら今までの私の努力は一体なんだったのか、なんて強くない私はきっと思ってしまう。

 だって私が努力してきたすべての理由は。
 大和撫子になりたいからで。
 誰かに笑われても自分で無理かもしれないと思っても、ただそれだけを強く願ってきた。
 日本という国を知って、大和撫子という言葉を知って、なりたいと思ってきた私だから。

 やっぱりどうしても大和撫子になりたい。
 この道の先にあるのはどうしたって大和撫子がいい。
 
「……これは、エミリーには言わないでいるつもりだったんだけどさ」
「仕掛け人、さま?」

 なんとなく仕掛け人さまの表情が曇ったような気がする。変なことを言ったから心配させてしまったのだろうかと思い、「大丈夫です」と言おうとする前に仕掛け人さまは口を開いた。

「最初に今回の仕事……、着物のモデルの仕事があるって聞いたときに真っ先に頭に浮かんだのがエミリーだった。他の誰でもなくてエミリーだったんだ」
「そう、なんですか……」

 それは知らなかった。尽力してくださっていたことは知っていたけれど、そういう仕掛け人さまの胸の内までは何も知らない。

「松山さん、最初はエミリーをモデルにすることで全然首を縦に振ってくれなくて。金髪の外国人はモデルにしない、着物は日本人が一番似合うの一点張りで」
「それは……。私も、着物が一番似合うのは日本の方だと思っていますので」

 仕掛け人さまの言葉に思わず俯いてしまう。

 それは自分の身をもって嫌というほど痛感している。髪色から骨格から何から何まで、私なんかよりもずっと似合うのは日本の人だ。それは紛れもない事実で松山さんはなにも間違えたことを言っていない。このお仕事が決まったときから不安に思っていたことはそれだった。

 本当に、私で良いのだろうか。
 花の名前も知らない私なのに。
 そんな私が日本の女性の美しさの象徴である着物の手本など。

「だけど、どうしてもそうは思えなかった。だって真っ先に浮かんだのはエミリーだったからさ。でも浮かんだ理由までは深く考えてなかったから、改めてどうしてだろうって考えたときに、エミリーだからなのかなって思って」
「私、だからですか……?」

 私を思い浮かべた理由が私だから……?

 仕掛け人さまの言っていることがいまいちわからなくてその言葉を繰り返してみる。仕掛け人さまは「うん」と頷いた。

「エミリーが着物を着ていると、日本人が着たときとはまた違った着物の魅力が引き出されてるんだ。日本人じゃできない引き出し方。でもそれは金髪の外国人だからじゃなくて、エミリーだからできることなんだよ。だからエミリーが浮かんだのかなって思ってさ」

 まっすぐ私を見つめるその目はきっとおそらく本心で、嘘偽りなんてどこにもなくて。

 私、だから。

 その言葉にどうしてか胸が熱くなる。

「日本が大好きで、大和撫子になりたくて、一生懸命努力して。そういう風に歩いてきたエミリーだから伝えられる着物の魅力があるんだって松山さんには知ってほしかったから。……なにより」

 そうして仕掛け人さまは言葉をつづけた。

「エミリーに知ってほしかったんだ。エミリーにしかできない日本の魅力の伝え方があるって。エミリーだけの大和撫子で見せられるものがあるって」

「私だけの……」

「そう。エミリーが歩んできた道の先にある、エミリーだけの大和撫子」

 膝を抱えて部屋で泣いている。いつまでも芽が出なくて悔しい思いをしている。日本語が上手に話せなくて嫌になっている。正座で痺れた足を恨んでいる。鏡を見てため息をついている。

 そんな私。

 大和撫子になりたいと願っている。日本が大好きでいる。躓いても立ち上がって進み続けている。日本語を覚えて喜んでいる。上手に抹茶を点てられて笑みがこぼれている。努力を続けている。

 そういう私。
 
 いつだってそうやって歩いてきた。
 大好きだから。なりたいから。

 たったそれだけの理由でここまで歩いてきた。がむしゃらに歩き続けて、周りなんてほとんど見えていなかった。
 振り返っても後ろは遠くて見えなくて、前だって霞んでよく見えなくて。

 だからわからなくて、だから怖くて。
 この花が撫子でないといつか知ってしまうのが嫌だった。

 だけど、この花は。

「私だけの大和撫子に……」
 
 いつだって私と一緒だった。
 あの日から今日までずっと、傍にいた。ようやく出した小さな芽だけの花とも知れぬ花。

「エミリーのこれまでの努力は絶対に力になってる。先が見えなくて怖いかもしれないけど、必ず一歩前は照らしてくれている。それに、エミリーがこの道を歩んだことを間違いだなんて言わせない」

 仕掛け人さまはそう笑うと私の震えていた指先に触れる。そんな仕掛け人さまの手も、あの時のように微かに震えていたことに気づく。
 怖いのは私だけではないらしかった。

 歩んできた道は正しいのだと。今までの努力は無駄なものなんて一つもないのだと。
 まだ蕾もつけない名前も知らない花だけど、それは必ず咲くのだと。

 撫子がずっと日本の傍にあったように。
 そういう花。
 誰のものでもない、私だけの私の花。

 撫子でなかったとしても、もう私にとっては同じくらいに大切な。
 
「……あの、仕掛け人さま。ひとつお聞きしてもよろしいですか?」
「なに?」

「一緒に、歩いてくれますか?」

 私がこの花の名前を知るまで。名前も知らぬ花を咲かせるまで。
 私だけの大和撫子を見つけるまで。

 暗くて霞んで前も後ろも見えないこの道を、あなたと。

 仕掛け人さまは一瞬目を丸くしたあとに小さく笑って言う。その言葉は何よりも心強く、靄なんて吹き飛んでしまうくらい。

「そのための仕掛け人じゃないか」
「ふふっ。そうでしたね。心強いばかりです」

 顔を合わせて仕掛け人さまとくすくす笑いあって私は印刷された最後の紙を見る。

 そこには最後の質問と、今回の特集で雑誌の表紙になる予定の着物の画像が添付されていた。画像の下に書かれていたのは。

< エミリーさんのために、一からデザインいたしました。>

 その一行に込められた意味を感じて、目頭が熱くなってしまう。だけど涙は流さない。

 だって、私は大和撫子になるのだから。
 今の私にできる限りで、精一杯着こなそう。絶対に似合わせてみせよう。

 これは、そういう花だ。
 弱いように見えて実は強い花だ。
 
 蕾もつけていない花だけど。
 それでも確かに咲こうとしているのは。
 誰のものでもない、私だけの花の――。



 <了>

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

エミリーの過去に想いを馳せていたら出来上がりました。
エミリースチュアートという彼女について思うところはたくさんありますが自分なりの一つの答えを詰めてみました。

拙文でしたが少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。

こういう過去があっての話凄く好みだわ
乙です

エミリー(13) Da/Pr
http://i.imgur.com/qncJj2m.png
http://i.imgur.com/u8HsCVu.png

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