小日向美穂「神様にはセンチメンタルなんて感情はない」 (57)

うづみほです

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たぶん物語の始まりには色んなきっかけがあって、それはもしかすると楽屋でキャンディ爆弾を一緒に食べたのが最初だったかもしれないし、もう少し遡れば彼女とユニットを組んだあの瞬間からかもしれなくて、でも究極的には宇宙が誕生したことがすべての始まりなので、私と卯月ちゃんの関係はじつは138億年前からすでに決まっていたことなのかもしれなかった。

だけど私たちはまだ地球に生まれて17年しか経ってなくて、実際のところ私がなぜ卯月ちゃんを「お姉ちゃん」と呼ぶようになったのか、その理由を説明するのはそんなに難しいことじゃないと思う。

べつに姉妹ごっこがしたかったわけじゃないけど……でも、なんだかそうなってしまったのだ。
とりあえず、今のところは。



星があまりにも高い場所にあったから、ベランダから落ちそうになった。
背中から「寒いよー」という声が聞こえた。

「外、きもちいいよ」

「寒いよ、夜だよ」

「ごめんね」

薄明かりの部屋のベッドで卯月ちゃんが頭まですっぽり毛布にくるまったのを見て、私はべランダの窓をしめた。
ヨレヨレのパジャマが夜風に吹かれて肌が少しさみしい。
歌でも歌いたい気分だったけど、またお姉ちゃんに叱られるから私は口をとがらせて夜空を見上げる。


この宇宙のどこかには、星ひとつをまるごとキャンディにしてしまうという恐ろしいキャンディ爆弾が今も飛び続けている。
むかし流行ったCMの歌の話。


♪~Do you have a candy?

…… a candy bomb!

”だけど気をつけるんだよ。この中にひとつ、食べてはいけないキャンディが混じっている……”

”それを食べると一体どうなるっていうの?”

”キャンディ星人になってしまうのさ……この僕のようにね!”

(悲鳴)


なつかしいなあ。

私たちの住んでいるマンションは小高い丘の上に建っていて、周囲にはこれより背の高い建物はない。

というか、ベランダのある方角には田んぼが広がっていたりする。
大きな川も流れてるし、マンションの周りがそもそも雑木林になっている。
そこだけ見ればちょっと田舎っぽい。
でも反対側(つまり田んぼじゃない方角)には民家もビルもひしめいているから、要するに都会の一番外側なのだ。

ここは。


私が卯月ちゃんのことを「お姉ちゃん」と呼ぶのは2人きりの時だけで、人前では普通に名前で呼び合っている。
だから私たちが姉妹だということは他の人には知られていない。

ちなみに卯月ちゃんは2人きりの時、私を「美穂」と呼び捨てにする。
まあ妹だから当然だよね。
でもどうして私が妹なんだろう? 
同い年なのに。

はっきり言って、卯月ちゃんはちょっとだらしないところがある。
彼女の部屋の散らかし方はもはや職人技と言ってもいいほどで、洗濯物は溜め込むし、休みの日はパジャマで一日中過ごしたりする。
私のコップとか食器を平気で使うし、寝相も場合によってはそうとうひどい。

「お姉ちゃんっていうのはね、そういうものなの」

「そうかな~っ?」

私がそう言って文句をつけると、卯月ちゃんはむっとして言う。
「妹がお姉ちゃんに逆らうなんて、生意気です!」

私のお姉ちゃんは、怒っても全然こわくないのだ。

寒くなってきたので部屋に戻った。

カーテンの隙間から漏れる星明かりをたよりに、そろりそろりとベッドにもぐりこむ。

「眠れないの?」

すぐ横の暗闇から声がして、じーっと目を凝らすとお姉ちゃんがぼんやり私の方を見ているのが分かった。

「起こしちゃったね」

「いま何時?」

「ん~、たぶん1時くらい」

「手、冷たいよ。大丈夫?」

お姉ちゃんの温かい手が私の手を握って、それから布団をもぞもぞ動かして2人でくっついて丸まった。

「ね。今頃はさ……」

と言い出したのは私。

「もう一人のお姉ちゃんは、寒いのがヤだからって南の国に遊びに行ってたりするのかな」

「どうかなあ。お母さんか美穂がいないところで生活できるかな、私?」

「むずかしそうだね」

お姉ちゃんは世界に無数に存在するもう一人のお姉ちゃんについてあまり関心を持たない。
私はけっこう、気になるんだけどな。
私たちがこうやって姉妹で一緒に暮らせるのも、卯月ちゃんが宇宙のあらゆる時空に偏在しているおかげなのだ。

ある種の信心深い人たちによれば、卯月ちゃんはいま神様に一番近いところにいるらしい。
でも、神様とは違うんだって。

じゃあ、天使?
そう言う人もたくさんいる。
確かにお姉ちゃんの笑顔は天使みたいにかわいい時があるけど、それは比喩的な意味の天使であって、私は必ずしもお姉ちゃんがからっぽの存在になってしまった事について天使と言いたいわけじゃない。

だって、それじゃまるで死んだ人みたい。
卯月ちゃんは天使である前に私のお姉ちゃんなんだから。

宇宙が膨張するのをやめて、地球上のいくつかの人たちは天使になった。
学者の偉い人がテレビで解説していたことによれば、ビッグバン以来広がり続けていた宇宙が収縮へと折り返す瞬間、過去と未来が重なり合って世界は完全な循環構造になる。曰く、ビッグクランチがどうのこうの。
それがどうして人間がからっぽになることに繋がるのか私にはよく分からなかったけど、世間の人々はおおむねその説を支持している。


『えーっとですね。つまり簡単に率直に申し上げますには、彼らはわたくしたち人間にはまったく理解できない原理でああいった風になっているわけでして、つまり私がこれまでに述べたことは全て彼らの話から推測された仮説にすぎないわけでして、天使? そんな神聖なもんじゃあないと思いますがね。ケチなんですよ、彼らは、全然自分のことについて話さないから。まあできることなら私も天使になってみたいもんですな! どわははは』

その学者さんの発言はあとで炎上しました。
でもまあ、言ってることはあながち間違いじゃないと思う。


「いま美穂がなに考えてるか、当ててみよっか?」

「え、そんなことできるの?」

暗闇のなかで、同じ枕のうえで、私たちはしばらく見つめ合った。

「……冷蔵庫にあるシュークリームのこと」

「全然ちがうよ」

「そっかぁ」

「お姉ちゃんがいま考えてること、当ててみようか?」

「え、そんなことできるの?」

「冷蔵庫にあるシュークリームのこと」

「すごい、美穂ってもしかしてエスパー?」

暗闇のなかで、同じ枕のうえで、私たちは小さく笑い合った。

次の日の朝、目が覚めたらお姉ちゃんは居なくなっていた。




秘密基地にね。
友達がいたの……昔の話。

小学生のとき、学校の裏の広い林の奥の方に大きな2本の樹があって、そこに秘密基地を作った。
最初は男友達と一緒にいろんなガラクタを拾ってきてそこに集めたりして遊んでたんだけど、だんだんみんな飽きてきて、いつの間にか秘密基地に誰も行かなくなった。

そして、誰もが秘密基地のことを忘れてしまったある日のこと。
私はうさぎ小屋の掃除当番で、放課後だった。
それでね……ちょっと目をはなした隙にうさぎが一匹逃げちゃったの!
慌てて追いかけるんだけどうさぎはもう林のなかに見失っちゃって、私は半泣きになりながら必死に探したんだ。

そうしたら、林の奥の秘密基地に知らない子がいるのを発見してびっくりした。
髪の長い女の子だった。
全然見たことない子だったから、もしかしたら下級生かな? と思って声をかけてみたら、あっちもびっくりしたみたいで、でも普通におしゃべりすることはできた。

「うさぎが一匹逃げちゃったの。一緒に探してくれない?」

「うん。いいよ」

お互い名前も名乗らずに2人で黙って林のなかを探し回った。
こんな場所で何してたの、とか、何年生、とか、そういうことはまったく聞かなかったし気にしなかった。

……でも結局、うさぎは見つからなかったんだよね。
暗くなってきたから探すのは諦めて、それで先生に謝りに行ったんだけどそんなに怒られなくてホッとした。
だけどやっぱりうさぎが一匹いなくなったのはすごく悲しくて、ちょっと泣いちゃったんだ。

「どうして泣くの……」

見ると、その子もなぜか泣いていた。
そうして2人でべそべそ泣きながら同じ帰り道を歩いてた。

そのとき、友達になろう、って言われたの。
私は、うん、って答えた。

それから放課後になると秘密基地に集まるようになって、名前も学年もそうやって知り合っていった。
じつは彼女は私よりもひとつ年上だった。けど私よりちょっと背が低くて、お人形みたいに綺麗な顔をしていた。

たぶん頭も良かったんだと思う。
彼女の言ってることはいつもむずかしかった。

「もし時間がまっすぐ前にしか進まないんだとしたら、太陽が毎日同じ時間に同じ高さにのぼるのはおかしいと思わない?」

「だって、地球は太陽のまわりを回ってるから……」

「地動説か天動説かって話じゃないのよ。今日が過ぎて明日になっても私たちは相変わらず朝8時に起きて夜10時に寝るでしょう? ちっとも前に進んでいかないじゃない。次の日の朝は32時に起きなくちゃいけないはずだわ」

「そんな遅くに目を覚ましたら遅刻しちゃうよ」

「そういうんじゃなくってえ……」

私たちは秘密基地の2つの大きな樹の間で時間のことについて話し合い、あるいは環境問題や少子高齢化問題のことについて話し合った。
と言っても私はもっぱら聞き役に徹していたけどね。

ほかにも、例えば学校のイヤな先生、好きな先生について批判を述べ、そして彼女は私に比べると嫌いな先生の割合がいくぶん多いように思えた。

「保健室の先生くらいかな。私あの人は好き。えこひいきとかしないし、優しいから」

私はなんとなく、彼女がクラスでいじめられているのではないかと疑っていた。
そしてそれはおそらく事実だったと思う。
でも彼女はそんなちっぽけな問題よりももっと大きな、つまり世界平和や宇宙の成り立ちといったものごとに関心があったみたいで、身近な話、たとえば家族とか友達についての話にはほとんど興味を示さなかった。


私たちは毎日のように秘密基地に集まっておしゃべりをした。

でもね。
今になって思うと、私はべつに彼女と会うことが特別楽しかったわけじゃなかった。

ただなんとなく、彼女に必要とされている気がしたのだ。
それが私の役割なんだ、って……

あるいは、憧れもあったと思う。
年上で美人だったし、賢かったし、一緒にうさぎを探して一緒に泣いてくれた、優しい人だったから。
だから私、いつの間にか彼女のことを「お姉ちゃん」って呼ぶようになったんだ。

名前? 名前は……なんだっけ?
もう思い出せないや。




お化けなんていうのはそもそも論理的に考えて存在するわけがなく、ましてやお化け屋敷などスタッフがお化けの仮装をして脅かすだけの非合理的なアトラクションなので行く意味がありません。
論破です。

とは事務所の橘ありすちゃんの言葉である。

「卯月ちゃんは怖いの苦手?」

「うーん、ちょっと苦手かもです……」

そう言う卯月ちゃんの表情はどちらかというと「かなり苦手」って感じだった。

私たちはペンキの剥げかかった固いベンチに座って一緒にアイスを食べていた。
真上には緑いっぱいの広葉樹がちょうどいい影になっていて、遊園地で歩き疲れた私たちはそこで休憩していたのだ。

メリーゴーランド、観覧車、くるくる回るコーヒーカップ。

ひととおり遊んだあと、最後に私たちの前に現れたのは遊園地にお決まりのちゃちなお化け屋敷。
私は怖いのはわりと耐性のある方で、もちろんものすごく怖いホラー映画とかはムリだけど、あれくらいの子供だましっぽいお化け屋敷は全然平気だった。

「私、お化け屋敷って入ったことないんです」

「ええっ、うそー」

「あ、そういえば小学校の学園祭で一回やったことありました」

「じゃあ本物は体験したことないんだ」

「本物?」

って卯月ちゃんがキョトンとしたから、私は目の前のお客さんが誰もいないお化け屋敷を指差して、

「ああいうのが本物っていうんだよ」

と言ったら、彼女の顔つきが途端にこわばって、

「ほ、本物の幽霊さんがいるんですか?」

なんて言い出すから、私は頬がゆるむのを懸命にこらえながらいかにも真実らしく答えるのだ。

「そうだよ。あそこはね、本物の幽霊が集まる場所なんだよ」

私は卯月ちゃんを怖がらせるだけ怖がらせたあとタネ明かしをした。

「まあ本当はスタッフが幽霊のふりをして脅かすだけなんだけどね」

「もーっ、美穂ちゃん怖がらせないでよ……でも、それなら全然こわくなさそうですね」

「じゃあ行ってみる?」

卯月ちゃんがみるからに「しまった」って顔をして、そうなるとこれはもう行くしかないよねって話になる。
悪ノリというやつだ。
「うえぇー、本当に入るんですかぁ」なんて言いながらも卯月ちゃんは私の前では結構強がりなところがあって、それは彼女が意外にも負けず嫌いな性格である事と無関係ではなくて、つまり私がしっかり者の妹を演じるほど卯月ちゃんは私の頼りないお姉ちゃんにならざるをえないので、なんだかんだ付き合ってくれるのです。


そんなわけで私たちはお化け屋敷に入ることになった。
相変わらず私たちの他には誰一人お客さんがいなくて、受付のお姉さんがすごく暇そうにしていた。

「あのー、入場したいんですけど……高校生2人です」

「……? あ、ああごめんなさい、お客さん……えっと、高校生2人? えーっと、あれ、ハンコはどこだっけ……」

お姉さんはそれまでボーッとしてたせいか急にわたわたし始めて、しまいには床に落としたハンコを拾ったときに机に思いっきり頭をぶつけて涙目になっていた。

大丈夫かな。
いや、お姉さんの頭のたんこぶも心配だけどそれ以上にその、全体的な意味で。

「ああ、お金はいりませんよ。入場チケットだけ見せていただければ」

入場料がいらないのはお財布的には助かるけど、それはそれでますます大丈夫かなって気がしてくる。

私と卯月ちゃんが不安に顔を見合わせていると、お姉さんが照れくさそうに笑って言った。

「じつはもう何ヶ月もお客さんなんて来たことなかったからちょっとびっくりしちゃって……あ、そうそう、先に説明しておかなくちゃいけないことがあるんだった」

お姉さんは机の上にあるプレートを手にとり、そこに書かれてある注意事項を読み上げた。

(1)走らないでください。また先に進んだら後ろは振り向かないでください。

(2)写真撮影はご遠慮ください。

(3)飲食物の持ち込みは禁止です。

(4)ときどき"時計男"が現れることがあります。話しかけられても無視してください。

「時計男?」

私がたずねるとお姉さんは肩をすくめて答えた。

「私はいままで一度も見た事がないけど、昔はよくここに住み着いていたらしいのよ。まあ居たとしても実害はないし、時計男が珍しかった時代はむしろそれ目当てに来たお客さんが大勢いたみたいなんだけどね」

時計男というのは卯月ちゃん的な存在の亜種みたいなもので、つまり天使の成れの果てのことだ。
まあ、天使と言ってもいろんなのがいるからね。

卯月ちゃんが緊張したように私の顔を覗きこんで言った。

「ど、どうしよう。時計男に会っちゃったら……」

卯月ちゃんにしてみれば自分の影におっかなびっくりするようなもので、それもなんだかおかしな話なんだけど、私は彼女の手をしっかり握ってこう言うのだ。

私がいるから大丈夫だよ、って。

お化け屋敷の入り口はプレハブ小屋みたいな安っぽい作りだったけど中に入ると真っ暗で道が狭く、雰囲気は案外しっかりしていた。
背後で受付のお姉さんの声が聞こえた。「振り向かないで歩いてくださいねー」

卯月ちゃんが私にぴったりくっついてぷるぷる震えながらついて来る。
私はどちらかというと(早くお化けが出てこないかな)と思いながら暗闇の通路に目を凝らしていた。
それというのは要するに、卯月ちゃんがびっくりして私に抱きついてきたらいいのになっていう下心のはなし。

最初の曲がり角を過ぎたところで急に冷たい風が顔に吹きかかってきたので卯月ちゃんが「ひゃあ」ってかわいい声を上げた。
そして私は、その風のなかにふいに懐かしい匂いを見つけてハッと息を呑むのだった。

しめった草木の匂い。

通路の奥のほうにぼんやり淡い光が広がっていた。
私たちがそろりそろりと近づいてみるとそれはひとつのパノラマだった。

「なんだろうね、ここ?」卯月ちゃんが私の腕にしがみつきながら言った。

けれど私には見覚えのある景色だった。

2本の大きな樹が……




どうやらうっかりしていたのは受付のお姉さんだけではなかったらしい。
そういえばあの人はここがお化け屋敷だなんて一言も言ってなかった。

「でも、遊園地のパンフレットにはお化け屋敷って書いてありましたよ」

「そうだっけ……」

私は私たちが思い出のなかに迷い込んでしまったことについて考えようとした。

けれど考えてみれば私たちが遊園地に遊びに行ったこと自体がひとつの大きな思い出にすぎないので、細部についてあれこれ突っ込みを入れるのはどのみち無意味なことだった。

人は多かれ少なかれ思い出のなかに生きようとするものだ。

それがたとえ天使の作り出したにせものの記憶だとしても。

「じゃあ、ここは美穂ちゃんの母校なんですか?」

「そういうことになるね。なつかしいなあ」

私の思い出はわりと単純な作りになっていて、辺りに生えている草木や校舎なんかはハリボテみたいにのっぺりしてリアルさを欠いていた。
けど2本の大きな樹や夕焼けの真っ赤な空、しめった草木の匂いはすごくよく出来ていたので懐かしさを感じるだけならそれで十分だった。

「脱出ゲームってことなんでしょうか? 思い出のなかには脱出するための色々なヒントが隠されてて……とか」

卯月ちゃんがあまりに呑気なことを言い出したので思わず笑ってしまった。

「え、え、私なにかヘンなこと言いました?」

「いや、でももしかしたら本当にそうなのかも」

私は卯月ちゃんの手をとって林の奥へずんずん進んでいった。

2本の樹のあいだに作られた秘密基地のすみっこにはガラクタがたくさん詰め込まれている。
牛乳瓶のふた、輪ゴム鉄砲、おもちゃの銀貨、道端で拾った漫画雑誌、誰のものかも分からない忘れられた小さな鍵……
そのどれもが与えられた役割の理不尽な空白を埋めるためにセピア色の光で自分たちを守っていた。

「わっ、これエッチな雑誌ですよ」

卯月ちゃんがボロボロになった雑誌をつまみあげて嬉しいだか不快なんだか分からない声で言った。

「美穂ちゃんもこういうの読んでたんですか?」

「たぶんそれ、クラスの男子がこっそり持ち込んだやつだと思う」

ポーカーフェイス。

「でもここにあるってことは、美穂ちゃんの思い出に強く残ってるものなんじゃないですか?」

う。
するどい。

私たちは秘密基地に隠された脱出のヒントを探すためにガラクタの山をあさってみた。

けれど私がそうやって思い出のかけらをひとつ掬い上げると今度はそれが次のふたつの思い出のかけらを呼び覚まし、結局キリがないのでおもちゃ箱をひっくり返すのはやめにした。

それに、そんなことをしなくても私はすでに分かっていたのだ。
この思い出を不完全なものにしている原因の正体について……

「秘密基地にね。友達がいたの……昔の話」

夕焼けの空をぼんやり見上げながら私は言った。
卯月ちゃんははしゃぎ疲れたのか地べたに座り込んで落ち葉をいじっていた。

「それがヒントなんですか?」

「さあ、どうだろう……」

私は卯月ちゃんに向かって、あるいは夕焼けに赤く染まっていくわたあめみたいな雲たちに向かって昔話をした。

むかしむかしあるところに……

「…………。」

私の不完全な思い出は言葉によって物語になり、そして私たちの現実はその物語のなかにあるのだった。
ハリボテの草木もできそこないの校舎も、綺麗な夕日や生ぬるい風も、みんなが私の話す言葉を静かに聞いていた。

私たちが本当に必要としていたもの、それは物語だった。

むかしむかしあるところに……つまり、そういうことだったんだね。

私は小さくあくびをした。
ふわぁ。
私のお話、退屈じゃない?

時計男は返事もしないで帰っていった。




お姉ちゃんがいなくなったことについて、私が最初に相談しに行ったのは卯月ちゃんの両親でもプロデューサーさんでもなく、橘ありすちゃんだった。

というのは、ありすちゃんも私と同じような立場の人間だったからだ。

「それっていつの話ですか?」

「今朝だよ。起きたらベッドがからっぽになってたの」

「はあ」

「あ、ベッドがからっぽっていうのはね、私いつもおね……卯月ちゃんと一緒に寝てるから」

「そ、そういう話を聞きたいわけじゃなくてですね!」

ありすちゃんが頬を赤らめてあわてふためいた。
私も自分がヘンなことを言ったのに気付いて「えへへ」って笑ってごまかした。

「電話もメールも通じないんですか?」

「うん。でもプロデューサーさんと連絡は取れるみたい」

それを聞いてありすちゃんは「ああ」と納得したように言った。

「それはきっといなくなったんじゃなくて、見えないだけですよ」

「見えない?」

「はい。美穂さんがあまりにも卯月さんに近づきすぎたので、なんていうんでしょう、こう……2人がぴったり重なっちゃったんです」

そう言ってありすちゃんは自分の両手を握ってみせた。
それは神様にお願いするときの祈りのポーズに似ていた。

「灯台下暗しのようなもので、感覚の焦点をもう少し自分の近くに合わせてみたら卯月さんが見つかるかもしれません」

「なるほど~」

と感心してみたものの、それって結局どうすればいいんだろう。

「それは、えーっと……分かりません」

ありすちゃんは申し訳無さそうにうなだれた。

「ありすちゃんもこういう経験をしたことがあるんじゃないの?」

「そうですね。文香さんはよくフラッといなくなる人ですから」

じつはこの事務所には卯月ちゃんの他にもう1人、天使がいる。
ありすちゃんも私と同じように天使とつがいになった人間なのだ。

「ただ、文香さんの場合はいなくなってもすぐ戻ってきますし、たぶんいなくなる原理も卯月さんの場合とは違うと思います」

「じゃあどうしてありすちゃんは知ってるの? その、私と卯月ちゃんが重なってるってこと」

「以前、天使が宇宙ゆりかごの外にはみ出すときの主なパターンを文香さんから教わったので」

宇宙ゆりかごというのは大雑把に言えばいま私たちが生きている循環する世界のことで、つまりお姉ちゃんは私たちの世界からはみ出してしまったのだった。
まあ、天使のまわりで変わったことが起きる時はたいていそれが原因なのです。

「卯月ちゃんはそういうの全然教えてくれないんだよね。やっぱり天使ってケチなのかな」

私が冗談を言うとありすちゃんは面白くなさそうにムスッとした。
私と違ってありすちゃんは天使全般を尊敬しているので(と言ってもそういう宗教に入ってるわけではない)天使を貶すような言葉づかいに敏感なのだ。

「天使の中にも私たち人類に対して説明を試みる方々が少なくないんですよ。文香さんもその1人です。ただ大多数の天使が自分たちのことを言葉にして伝えることを諦めているのは事実のようですが……」

それは卯月ちゃんも言っていた。
『天使ってなんなのか、私にもよく分からないんです。だって、私はなにも変わってないんですよ?』
世界中の頭のいい学者さんたちですら理解できないんだから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないけどね。

「いまここに文香さんがいれば、卯月さんがいなくなったことについて相談できるんですけど」

「もしかして文香さんもどこかに消えちゃったの?」

「いえ、スタジオにこもってレッスンしてます。近いうちにライブがあるので」

天使もお仕事はしなくちゃいけないのだ。
あまねく人々に天使の祝福を!ってわけ。
あーあ。

その日の夜、卯月ちゃんは私より先にマンションの部屋に戻っていた。

「おかえり~、遅かったね」

お姉ちゃんはまるで一日中そこにいたみたいにソファに寝転がって雑誌を読んでいた。
私はなんだかホッとしたような呆れたような気持ちで溜め息をついた。

「もう、どこ行ってたの? 心配したんだから」

お姉ちゃんは困ったような笑顔で「ごめんね」って言うだけだった。
むしろ謝らなくちゃいけないのは私の方かもって気がしたけど、お姉ちゃんは全然そういうのは気にしてないみたいだった。

「でも、よかった。もう二度と会えないんじゃないかと思った」

「美穂はおおげさだなぁ」

「ていうか、どうしていなくなっちゃったの?」

「私もね、分かんないんだ。朝起きたら美穂がいなくて、先に学校に行っちゃったのかなって思ったんだけど玄関に靴はあるし、わ、どうしよ、って慌てたんだけど私も学校に遅刻しそうだったから急いで家を出たの」

「遅刻しちゃったの?」

「ううん、なんとか間に合った」

私は遅刻したけどね。
とは言わなかった。

「きっともう1人の私が美穂をさらって行っちゃったんだ、って思ったの。私だけが美穂を独り占めするのは良くないってことで、世界中の私が美穂を奪い合ってるんだ、って」

それからお姉ちゃんはソファから立ち上がって、私をそっと抱きしめた。

「ごめんね」

お姉ちゃんの声は震えていて、それで私は心のなかでこう言った。
ちがうよ、お姉ちゃんを独り占めしたかったのは私の方……
こんなにくっついたらまたお姉ちゃんが見えなくなっちゃうよ、って。

「帰り道は文香ちゃんに教えてもらったの」

「文香さんが?」

「うん。ありすちゃんに相談したんでしょ? それで文香ちゃんが美穂を探すのを手伝ってくれて」

あとでお礼を言わなきゃね、ってお姉ちゃん。

「教えてもらったって、何を?」

「お話を聞かせてくれたんだよ。むかしむかしあるところに……」




むかしむかしあるところに2人の女の子がいました。
1人はどこにでもいそうな女の子。
もう1人は、背は小さいけどかしこくて気の強い美人な子でした。
2人はまるで姉妹のように仲良しで、どこに行くのも一緒でした。

そんなある日、かしこい方の女の子が「遊園地に行きたい」と言い出しました。
普通の女の子は「なんで?」と聞きました。

「あそこにはたくさんの回るものがあるわ。私は回ることについて研究しているのよ」

かしこい女の子はかしこいだけあってとても研究熱心なのです。
そうして2人はおこづかいをためて遊園地に行くことにしました。

メリーゴーランド、観覧車、コーヒーカップ、ぐるぐる回るいろんな遊び。
2人の女の子は遊園地の乗り物をくまなく研究し、回るということについて考えました。

「回る、つまり回転するっていうのはどういうことだと思う?」

「うーん……めがまわって気持ち悪くなる」

「ばか」

そこでかしこい女の子はひとつの結論をみちびきました。

「つまり回るっていうのは、同じところをぐるぐるするってことなのよ。私たちは前に進んでいるようで、じつは元いた場所にまた戻ってきてしまうってわけ」

「ふーん」

「だけど私たちはいつも必ず同じ場所に戻ってきてるわけじゃない。少しずつだけど変化しているの。じゃなきゃ私たちは一生どこにも行けないから。それってなんでか分かる?」

普通の女の子はぶんぶんと首を振って「分かんない」と答えました。

「私たちの回転は厳密には螺旋をえがいているからよ。だから前にいた場所とは少しズレた場所に戻ってくるの。昨日の12時30分に私たちは学校にいたけど、今日の12時30分は遊園地にいるでしょ? つまりそういうことなのよ」

「えっ、もうそんな時間なの? どおりでお腹が空いたと思った」

「ばか」

そうして2人は遊園地の片隅で一緒にお昼のサンドイッチを食べるのでした。……

…………。


「……めでたしめでたし、ってこと?」

「ううん、まだ続きがあるんだ。そのあと2人の女の子は遊園地のなかで人ごみに流されて迷子になっちゃうの」

私たちはそれから一緒に遅い夕飯を食べた。
そして一緒のお風呂に入り、一緒のベッドに入って暗闇のなかでお姉ちゃんのお話の続きを聞いていた。

「迷子になった2人は一生懸命おたがいを探すんだけど、結局夕方になるまで見つからなかったんだって」

「そう……」

「ようやく遊園地の入り口で再会したとき普通の女の子はぐしゃぐしゃに泣きべそをかいてたんだけど、かしこい女の子は全然平気そうにしてて、それで泣いてる女の子にこう言ってなぐさめたんだ」

『だから言ったでしょ。私たちは同じところをぐるぐる回ってるんだから、いつかまた絶対会えるのよ。ま、多少はズレちゃうときもあるでしょうけどね』

「…………」

「おしまい」

お姉ちゃんはまるで部屋の電気を消すみたいにそう言った。
なんだかなあ。

「2人はそれからどうなったの?」

「さあ。文香ちゃんはそこまでしか話してくれなかったけど」

私はそっぽを向くように仰向けに体をなおして天井をじっと見つめた。
どこか遠くでカラスの鳴き声がして、ときどき夜のなかを車が走っていく音も聞こえた。
私たちの部屋は白いカーテンに濾過された月の光のやさしい成分に満たされていて、気が付けばお姉ちゃんは私の横ですやすやと寝息を立てていた。

どうか明日はお姉ちゃんが消えていませんように、と私は願った。




「卯月ちゃんは飴って好き?」

「あめ? うーん、ときどき降るくらいならいいけど、じめじめしてるのはあんまり……」

「んーっとね、レインじゃなくてキャンディのほう」

「あ、そっちの飴?」

卯月ちゃんははにかみながら「好きですよ」と言った。

私は鞄のなかからキャンディ爆弾を一袋取り出して卯月ちゃんに勧めた。

「はい、あげる」

「ありがとうございます! へー、キャンディ爆弾っていうんですか? 初めて見ました」

「そうなの? けっこうCMとかやってる印象だけど」

私は言いながらキャンディを1つつまんで口に入れた。
卯月ちゃんもそれにならって1つ食べた。

「あ、言い忘れてたけど、袋のなかに1つだけものすごくすっぱいキャンディが入ってるから気をつけてね」

「………! ~~~っ!!??」

あーあーあ。
ちょっと遅かったみたい。

「はひ~、ほ、本当にすっぱいですぅ……><」

「ご、ごめんね? まさかドンピシャで引き当てると思わなかったから……」

私は申し訳ないと思いつつ卯月ちゃんのくしゃくしゃになった顔が可笑しくて笑いを堪えるのに必死だった。

ところが次の瞬間、私の口の中にするどい衝撃が走り、とても笑っていられなくなった。
まさに時間差攻撃、しかも油断していたところに不意打ちだったので効果は倍増。

なんと私がついさっき買ったキャンディ爆弾、一袋に2つ爆弾が入ってる超レアものだったのです。

それからしばらくのあいだ楽屋では2人ぶんのひーひー言い合う声がひびいた。

私はとびきりすっぱいキャンディをなんとか口の中に押し込みながら言い訳をした。

「あのね、ちがうの、ほら私って緊張しいでしょ? だからリハの前にはいつもこれ食べて落ち着かせてるの、ねえ本当だってば」

「なんでわざわざこんなハズレがあるお菓子!」

「リハの前にハズレを食べちゃったらどうしようって緊張するでしょ? だから緊張を緊張で上書きしようっていう、そういう運試し?ジンクス?みたいな」

我ながら意味の分からない理由だけど、でも本当のこと。
卯月ちゃんは目をすっぱくさせながら納得したような納得してないような微妙な角度でうなずいた。

「あはは……でも確かに緊張はやわらいだかも」

ほとんど涙目になりながら卯月ちゃんは言った。
私にとってそれはもはや慰めに近い言葉だった。
だって、まさか2人して同時に爆弾を引き当てるなんて思わなかったし、こんなときに善意が裏目に出るなんて。

実際、私たちはあと少しで歌番組のリハーサルが始まるところで、少なからず緊張していたのだった。

べつに初めての番組出演というわけでもないし、私たちもユニットを組んでそれなりに日は経っていたからそろそろ慣れてもいいはずなのに、特に私なんかはリハーサルでさえ手が震えちゃうくらいのあがり症をまだ克服できずにいた。

「それにしても爆弾2つ入りの袋だったなんて、運がいいんだか悪いんだか」

「もしかして不良品なんじゃないですか?」

「ううん、これはそういうのがあるんだよ。ほら、むかしあったじゃない、スナック菓子の袋に超低確率でヘンな形のが入ってるっていう……」

卯月ちゃんはそれは知っていたみたいで、「ああ!」って懐かしそうに言った。
もうあのお菓子はだいぶ前に生産中止になっちゃったけどね。

「今度はもっと普通のお菓子もってくるね」

「あ、私もうちょっとそれ食べてみたいかも」

卯月ちゃんがそう言うので私は鞄に仕舞いかけたキャンディ爆弾の袋をおずおずと差し出した。

「もう爆弾は入ってないんですよね?」

「うん。もし入ってたら不良品だね」

ぱくっ。

「ん、おいしいれふ。私これけっこう好きかも」

「そう? 気に入った?」

「私も買ってみようかな。それでパパに何も言わずに食べさせるの」

「あ、ひどーい」

笑い。

「プロデューサーさんにもあげてみようよ」

「あの人すっぱいのでも平気で食べちゃいそう」

「一緒に食べたらまた私だけ引き当てちゃったりして」

「それはありえるなあ」

「見分ける方法ってあるんですか?」

「うーん、あるのかもしれないけど、私は知らないなぁ」

「じゃあ先に自分で食べられるだけ食べてみて、次に選ぶ人が爆弾を引く確率を上げてみるっていうのはどうかな」

「それって自分だけすごくハイリスクじゃない?」

私たちはそんな冗談を言い合いながらキャンディをつまんでいった。

爆弾のない平和な世界、万歳!

その日の歌番組で私たちは楽屋で起きた珍しい出来事を雑談風にしゃべった。
まあスポンサーのあれこれでたぶんカットされるんだろうけど、とりあえず収録はおだやかに進行していった。

それから私たちはテレビのなかで平和と愛についてうたい、たまに恋愛にまつわるひどく個人的な歌をうたった。

でもそれがテレビの向こう側にいる人たちとなんの関わりもないなんて、どうして言いきれるだろう?

私たちは電波によって拡散され、あるいは切ったり貼ったり繋げたりする人たちによって分解され、そして平らな広告に引き伸ばされておまけにこんな宣伝句が添えられる。
わたくしたちはまごころをこめて安全と安心をみなさまにお届けいたします。
なるほど、遺伝子組み換えでないことを保証するのはいつだって自分以外の誰かなのだ。

あーあ。




収録が終わったあと、おたがい時間があったので駅まで一緒に散歩をした。

「おなかすいたねー」

「どこか寄っていきますかー」

「うーん、どうしようかなー」

駅までの道のりは大きな道路のこれまた広い歩道をまっすぐだった。
午後のすごしやすい時間なせいか、外はいつもよりたくさん人がいる気がした。
かんかんどんどん、ざわざわざわ。

「今日はあったかいねー」

「風がきもちいいですー」

私たちの会話が間延びしているように聞こえるのはべつにお腹が空いてるせいじゃなくて、ましてや太陽のせいでもない。

私は何気なく見上げた青空の、右側半分をばっさりナイフで切り取ったような巨大な万里の長城にむかって溜め息をついた。

「いつになったらあれ完成するんだろーねー」

「えー? なんですかあー?」

「いつになったら完成するのかなああってええ」

「あー! あれのことですかああ」

かんかんどんどん。
ぐるぐるぐるぐる。
工事の音がうるさくて会話もまともにできないよ。

テレビ局から駅に向かうには万里の長城のすぐ横を通っていかなければならず、そのせいでここら一帯は見渡すかぎりに工事中の看板が立っているのだ。

万里の長城っていうのはまあ言ってしまえばスラングみたいなもので、あれの本当の名前はえーっと、なんだっけ。
なんとかベルトっていう覚えにくい名前だったのは覚えてるんだけど。

要するにそれは地球をぐるっと一周して繋げる超巨大な壁なのです。
完成するのにあと何十年はかかるんだって。
そのせいで世界中の多くの街は騒音問題に悩まされているらしいけど、でもベルトを建造することに反対する人は実はそんなに多くない。

なんでかって?
さあ、なんでだろう。
この突如あらわれた巨大建造物のことは、たぶん両親に聞いても学校の先生に聞いても誰も答えられないと思う。
いったい誰が最初にこれを作ろうって言いだしたのか、そもそもなんのために作られるのか、誰も知らないんだから。

おそらく天使のしわざだろうってみんなはそう言うけど、でもそれはあくまで「おそらく」でしかないので、べつに神様のしわざでもいいし秘密結社の陰謀ってことにしてもいいのだ。
もしこれがノアの箱舟なら、誰だって助かりたいって思うもんね。

「私はノアの箱舟じゃないと思う」

静かな喫茶店を探して私たちはそこに落ち着くことにした。
すると出し抜けに卯月ちゃんが言いだしたのだった。

「それってつまり二度目の大洪水は起きないってこと?」

「うーんとそうじゃなくて、あれはもっと身近に関係するものなんじゃないかなって思うんです」

「えーなんだろ」

私はあごに手をあててなぞなぞを考えるみたいなポーズをとった。

「ヒント」

「ヒント? ヒントはですね~……うーん……私と美穂ちゃん、かな?」

「えーますます分かんないよ」

卯月ちゃんはオレンジジュースのストローを咥えてちゅーと吸った。
その「ちゅー」はまるで人類に偉大な閃きが訪れる直前みたいにまぬけな「ちゅー」だった。

「まあ、私も答えを知ってるわけじゃないんですけど」

と前置きしてから、

「たぶんあの建物は天使と人間をつなぐ架け橋なんだと思うんです」

「架け橋」

私はしばらくその言葉の意味を考えてみた。
ちゅー。
卯月ちゃんの手元のグラスにはもう氷しか残っていない。

「私たちも天使のことを理解できるようになるってこと?」

「うーん、理解っていうか気付くっていうか……うまく言えないですけど」

卯月ちゃんは言ったことを後悔するように悲しそうに笑った。
そんなことできっこないのにねって、あとから付け加えるみたいに。

「でもね、私思うんです。天使ってなんにも特別な存在じゃないって……どこにでもいる、普通の、みんなと変わらない人間なんだって」

「それは卯月ちゃんが天使だから言えるんだよ」

「ううん、そんなことない。美穂ちゃんだって、自分で気が付いてないだけなんです。私たちはみんな同じなんだって」

卯月ちゃんの言葉は私を苛立たせた。
そんなこと言っても、私には分からないよ。
もっと分かるように説明してよ。
私はただ卯月ちゃんに遠くに行ってほしくないって、そう願ってるだけなのに。

……いやな耳鳴りがした。
このお店は、私には少し静かすぎると思った。

その日から私はことあるごとに万里の長城にむかってお祈りするようになった。

はやく天使に近づけますように。
卯月ちゃんが遠くへ行ってしまいませんように。

そうして単なる謎めいた鉄壁はいつしか私にとって希望の象徴になり、天国への階段が完成した暁には私を含めたありとあらゆるものごとがうまくいくようになると信じて疑わなくなった。

でも不思議なことに、それを現代のバベルの塔と形容した救世主はほとんどいなかったんだ。

誰もが自分たちは人形遊びではなく神話のなかで語られるべき時代だと考えるようになっていた。
だから、実は人類はもう取り返しのつかないところまで罪を重ねてきてしまったのかもしれない、なんていう馬鹿げた思想は、戦争がロボットたちの娯楽になった時点ですでに過去のものになっていたのだ。
今の私たちにとって戦争なんてものはせいぜいキャンディ爆弾の袋のなかでしか起きないような奇跡だった。

むかしの天使はこんな言葉を残している。
『汝の隣人を愛せよ。』
もし私の祈りが本当は天国じゃなくて遠い遠い宇宙のキャンディ星人に届いてたとしたら、こんなに滑稽な悲劇ってある?
まあ、天国が駅から歩いて5分の場所にあったらの話だけどね。


ふわぁあ。
眠くなってきちゃった。
今日のところはこれでおしまい。




2人で映画を見に行った。

映画館は貸切状態で(その映画は公開からだいぶ経っていたのと、評判があまりよくなかったから)、私たちは一番良い席に座り地味な恋愛映画をきゃーとかわーとかつまんないねと言い合いながら結局最後までたのしんで見た。

「どう? お芝居のいい参考になった?」

映画を観終わったあと、私たちはデパートの最上階にあるイタリアンレストランで夕食をとっていた。
お姉ちゃんがいたずらっぽくそう言ったとき、私は窓の外の綺麗な夜景に気を取られていたので曖昧な返事しかできなかった。

「まあまあかな」

「ほんとー?」

それで少し考えてから、

「でもあのキスシーン、あれはちょっとヒドかったよね。ふたりともぶきっちょな感じだったし、全然ロマンチックじゃなかった」

と偉そうに批評してみせると、

「え? 美穂あのシーンきゃーきゃー言ってまともに見てなかったじゃない」

それは確かにそうだ。
だってなんか恥ずかしいし、私にはまだ刺激がつよいんだもん。

「そういうお姉ちゃんも自分の手で隠しながらちらちら見てたじゃん」

「美穂に気を使ってわざとそうしたの」

「うそだー」

「うそじゃありませんー」

まったく、そんなところで無理にお姉ちゃんぶらなくてもいいのに。

つい先週、あれよあれよという間にとあるドラマに出演することが決まって、それで私はただでさえ人前に出るのに緊張するのに演技なんて出来るのかなってお姉ちゃんに相談したら、じゃあお芝居の勉強をしようって私を誘ったのがきっかけだった。

でも今日見た映画は、映像はけっこうキレイだったけどストーリーがしっちゃかめっちゃかで、なんていうか監督のジコマンゾクって感じの内容だった。
というようなことがネットのレビューに書いてあって、そう言われるとなんだかそんな気がしてしまうから私は自分が面白いと思った映画はなるべくネットの評判は見ないようにしている。
我ながら流されやすい性格だと思うのであった。


私たちはおいしいイタリアンをほどほどに平らげると最後にデザートを注文し、窓の向こうにどこまでもひろがる夜景を一望しながら、そして遠くの方に不気味な影をひそめている天国への階段を眺めながら、のんびり時間が過ぎるのを愉しんだ。

もう少し大人になればきっとここにはオシャレなカクテルとか高級な赤ワインなんかが添えられるんだろうけど、残念ながら私たちはまだあらゆる面で子供で、秘密基地にえっちな雑誌を持ち込んでドキドキしていた頃のままの純粋さを今も捨てられずに持て余していたので、大人になるための儀式はよくできた恋愛映画の中にしかないと思い込んでいた。

そしてアイドルというのはいつも出来合いの舞台の上で踊り続けなければならなかった。
そう教えてくれたのは誰?

だから私たちは子供同士のキスをすることにした。

ツギハギだらけのストーリーにおあつらえ向きな、都合のいいハイライトシーンみたいに。




夕食と夜景とおしゃべりを堪能したあと、私とお姉ちゃんは未成年に許されるギリギリの時間にマンションの自宅に到着した。

お姉ちゃんは玄関で靴を脱いだと思うとそのまま靴下も上着もぜんぶソファのうえに放り投げて気持ち良さそうにベッドにぼふんと倒れ込んだ。

今日は映画館以外にもたくさん遊んでまわったから、けっこう疲れたんだよね。
それは私も同じだった。

「もう、せめて洗濯カゴに入れてよね」

「ん~」

ベッドにうつぶせになったまま気の抜けた返事をする。
外ではそうでもないのに、家のなかだと本当にだらしないんだから。
こまったお姉ちゃんだ。

シャワーを浴びてさっぱりした後、ソファでくつろぎながらなんとなくテレビを見ていた。
ニュースによると明日は雨が降るらしい。

「雨かぁ」

私が呟くと、お風呂上りに歯を磨いていたお姉ちゃんがキッチンから出てきて、

「あめ? 食べたいの?」

「キャンディじゃなくてレインの話。明日降るんだって」

「なーんだ」

そう言って奥の洗面所の方に引っ込んだ。
そしてすぐ戻って来るとソファの隣にぼすんと座って甘えるように寄りかかってきたので私は「なぁに?」と聞いた。

「美穂ってさ、キスしたことある?」

「いきなりなに」

私は平静を保とうとして真正面のテレビ画面をじっと見つめていたけど内容は全然頭に入ってこなかった。
そもそも心臓がドキドキ鳴る音は抑えようがなくて、それでお姉ちゃんは私の胸にそっと手をあてて言うのだった。

「そんなに緊張しなくていいのに」

「べ、べべ別に緊張なんかしてないもん、お姉ちゃんがいきなりヘンなこと言い出すから……」

「じゃあ興奮してるんだ。わー美穂ったらヘンタイー」

「もう、怒るよ」

「ごめんごめん」

私の機嫌を損ねるとたいへん面倒なことになると分かっているのでお姉ちゃんは多少ふざけることはあってもふざけすぎるということは滅多にない。
でもこの時のお姉ちゃんは口ではごめんと謝りながらも私の胸に当てた手はどけてくれなくて、それで私は真面目な話をしているんだと思った。

「さっきお風呂に入ってる時に思ったの……美穂が今度出るドラマって恋愛ドラマなんだよね?」

「うん」

「そのドラマでね、もし……仮定の話だけど、もし美穂が今日観た映画みたいに他の誰かとキスすることになったら美穂はどうする?」

「ど、どうするって言われても……」

私は耳まで真っ赤になって言葉に詰まった。
そもそも私が演じるのは脇役も脇役だし、事務所の方針を考えてもそういうことにはならないはずで、だからお姉ちゃんが言ってるのは的外れもいいところのまったくありえないナンセンスな仮定の話なわけで、それで私は頭の中で一生懸命それを否定しようとぐるぐる言葉を探すんだけど本当はお姉ちゃんが何を言いたいかなんてことは聞き返すまでもなくすでに分かっていたことだった。

でも私は、

「どうもしないよ、だってお仕事だし……」

「うそ」

「うそじゃないよ」

沈黙。

「じゃあ私の本音、言っていい?」

「私に他の誰かとキスしてほしくないって言いたいんでしょ?」

「すごい、どうして分かったの」

「だってお姉ちゃんのことだもん」

「そっかあ、美穂はなんでもお見通しなんだね」

なんでもなんて、そんなことないよ。
だって……

「だって、私もイヤだよ、好きでもない人とキスなんて」

もしお姉ちゃんが同じようにお芝居で他の誰かとキスするかもって考えれば、私だってそう思うもん。

「あ、本当のこと言った」

「まあね」

そして私たちは見つめあいながら小さく笑うのだ。

「じゃあさ、好きな人とだったらいいの?」

「んー、場合によるけど……」

「美穂はいま好きな人はいるの?」

「え?」

「好きな人」

私は自分の心臓がまた一段と高く跳ね上がるのを感じた。
そして目の前のお姉ちゃんの潤んだ瞳のなかにこの不可解な胸の鼓動の意味を探そうとした。

私は、私の胸にそっと触れているお姉ちゃんの手を抱きしめるようにぎゅっと握った。
そうすることで自分自身のこの不明瞭な感情が卯月ちゃんにもそっくりそのまま伝わらないものかなあと願いながら……

「キス、してみる?」

耳元で卯月ちゃんが囁いた。

「誰と?」

「私と」

そこから先はもう言葉はいらなかった。
私たちは無言のうちにそっと唇をかさねあった。

全然、情熱的でもなんでもない、ただお互いのくちびるに触れただけのぎこちないキスで、そこには私が思い描いていたような激しい感情はなかったけど、卯月ちゃんのやわらかい感触とぬるい体温を感じられることがなぜだかとてもうれしくて、私は、キスってこんなにやさしいものだったんだって思った。

そしてたぶん、やろうと思えばそこから先へ進むことだって出来たはずだった。
でもやっぱり私たちはまだ子供だったから、そのキスの意味だって何も知らなかったんだ。
それを悲しいと思えるようになるにはあとどれくらい大人に近づけばいいんだろう?

「……どうだった?」

「思ってたのとちょっと違ったかな」

「わたし、ファーストキスだったんだよ」

「わたしも」

何かが変わるのかなって期待してた。
けれど私もお姉ちゃんも、何が変わったのか、何が変わらなかったのか、それすら分からないまま、ただじゃれあうようなキスに不思議な安心を感じただけだった。
それは私たちにとって何も特別なことじゃなかったんだ。


それから何事もなかったように私たちはテレビを消して寝る支度をした。
いつものように同じベッドに横になって、おやすみって言うかわりにもう一度キスしてみることにした。
でも今度のはちょっとわざとらしい、キザっぽい感じがして、2人で思わず笑ってしまった。

ふと、こんなことを思った。

お姉ちゃんは私のファーストキスを奪ったけど、私もお姉ちゃんのファーストキスを奪ってしまったわけで、そうすると世界中にいる他の卯月ちゃんのファーストキスも同時に奪ったことになり、そのことについて他の卯月ちゃんは知ってるんだろうか?
あるいは、まったく気にもかけていないんだろうか?

もしかしたら地球の裏側では今もまだ映画を観続けている卯月ちゃんがいるかもしれず、あるいはもうすでに私以外の人にファーストキスを捧げている卯月ちゃんがいるかもしれなくて、私はそんなことを思うたびに胸が苦しくなるのだった。

隣ではお姉ちゃんがすやすや眠っていて、でも私はなんだか寝付けなかった。
だから夜のベランダに出ることにしたんだ。
ベッドからこっそり抜け出して、冷たい風と満天の星空にやさしく慰めてもらうために。
この宇宙のどこかには、星ひとつをまるごとキャンディにしてしまうという恐ろしいキャンディ爆弾が今も飛び続けている……



――夢のなかで朝を迎えた。

隣で寝ていたお姉ちゃんは居なくなってて、私はまた見えなくなっちゃったと思って一生懸命ベッドのうえを探しまわった。

そうしてくちびるに残っていたわずかな思い出に気付いて、お姉ちゃんが最後の別れのキスをしたんだと分かった。

私はぐちゃぐちゃになったシーツのうえで遊園地で迷子になった子供みたいに泣きじゃくった。

すべては泡のような思い出にすぎなかったこと、天使が作り出したにせものの記憶にすぎなかったことに

夢のなかでようやく気付いた愚かな人間が私だった。

私はエンディングテーマが流れ始めるのを待った。

でも夢の終わりにエンドロールはなくて、この悪趣味なシナリオを終わらせるにはもう一度最初から夢を見るほかに方法がなかった。

だから私は歌ったんだ。

あの歌を……




私の事務所のもうひとりの天使について簡単に紹介しようと思う。

名前は鷺沢文香さんといって、よく本を読んでいる人です。

他には、えーっと……アイドルをやっている人です。
ってそれは当たり前か。

まあつまるところ、彼女について私は何も知らないのだ。
とはいえ彼女は別にミステリアスなキャラクターで売り出してるわけじゃなくて、単にこれまでほとんど接点がなかっただけなんだけど。

「天使について、ですか?」

「はい。おね……卯月ちゃんが最近どうも不安定みたいで、あっ、不安定っていうのは病気とかそういうのじゃないらしくて、本人が言うには天使の症状のひとつみたいで、でも卯月ちゃんはその、あんまりそういうのを人に相談しない子だから、だから私が代わりに相談しようと思って、それで文香さんしかいなくて」

「そうですか……であれば近いうちに私から卯月さんに話を聞いてみましょう」

「あっ、えっとその、できれば私に教えてほしいな、なんて」

「……ああ、それは失礼しました……」

文香さんは驚いたように呟いて、それから私のほうに向き直った。
それはまるで言いたいことは全て承知しましたって感じの仕草だった。
実際、文香さんにまっすぐ見つめられると心の奥底を覗かれたような気分になる。
それが天使的なちからによるものなのか、それとも文香さん個人の生まれ持った資質によるものなのか、私には分からないけど。

「これからお時間は空いていますか?」

「は、はい」

「ではあちらのスペースで……」

そう言って文香さんはビルのすみっこにある小さな休憩室に誘った。

偶然、仕事終わりに帰ろうとしている文香さんを見かけて反射的に声をかけたはいいものの、具体的に何をどう相談するのかぜんぜん考えてなかったから、私はしどろもどろになって文香さんに誘われるがまま付いて行くのだった。

休憩室の自販機でお茶とジュースを買い、奥の目立たないテーブルに向かい合って座った。
そしてどうやって話を切り出したらいいか分からなくて私がもじもじしていると、文香さんがゆっくりと話しはじめた。

「卯月さんは、具体的にどのように不安定なんでしょうか?」

「えっと、本人が言うには時間の感覚がちょっとおかしくなったりだとか、位置がずれるだとか、そういうことを言ってました」

「ふむ……」

文香さんは考え込むように目線を机の上に投げかけた。

「程度によりますが、私自身もそういった違和感をときどき感じることがあります。時間が伸び縮みしたり、自分の心の位置と体の位置が思ったように重ならないということは、天使にはしばしば起こりうることだそうです」

「はあ……?」

「卯月さんの抱えている悩みが実際的な意味でのずれだと仮定して、それが極端に不安定になる、というのは、様々な原因が考えられますが……」

それ以上のことは本人に確認してみないと分かりません、と続くのを文香さんは沈黙で語った。
まあ、それは分かっていたことだ。
天使じゃない人間の話を聞くだけでは限界がある。
私もそこまで自分に期待していたわけじゃない。

「私、卯月ちゃんのちからになりたいんです。でも卯月ちゃんは全然、自分のことについて話してくれなくて」

「話したくてもそれが難しいということもあるのです。とくに私たち天使は全員が同じきっかけで目覚めたわけではないので」

「でも文香さんは天使について詳しいんですよね? ありすちゃんがそう言って……つまり、天使ってなんなんですか? それを教えて欲しいんです」

私は単刀直入に質問した。
文香さんは落ち着いた様子で答えた。

「それは私にも分かりません」

がっくり。

「卯月ちゃんは、自分はからっぽなんだって言ってました」

「それは天使に限らず、人間や動物といったあらゆる現象に対して言えることです」

文香さんは意外なくらいはっきり答えた。
でもやっぱり、肝心なところは教えてくれない。

「美穂さんのお気持ちは分かります。が、私はなにも正しい答えの話をしているわけではないんです。私はしがないアイドルであって学者ではないし、ましてや医者でもありませんから」

「私は……私は正しい答えを知りたいんです。そう思うのは間違っているんですか?」

「……何が正解で何が不正解かということは、私から美穂さんに教えられるようなものではありません」

文香さんはそう言って悲しそうに私を見つめ返した。
それは卯月ちゃんが自分のことについて説明するのを諦めるとき、いつもするような切ない微笑と同じ眼差しだった。

「……ですが」

私が落胆するのを見かねたように文香さんは語りだした。

「ですが、私自身の考えを……美穂さんに知ってもらうことはできます」

「それは、どういう……」

文香さんは自分が言ったことを後悔するようにじっと目を伏せて、しばらく黙った。
と思うと手に持ったペットボトルのお茶を両手で包み込み、何か思いつめたように顔を横にそむけた。
やがて読んでいた本のページを閉じるみたいに小さく溜め息をついて、それから口をひらいた。

「これは美穂さんの記憶の話なんです」

「記憶の話?」

「私の役割は、物語を語ることです。そしていま、私は美穂さんの物語を語っています。それが私の考えです」

「えっと……」

私は目をぱちくりさせて文香さんの言ったことの意味を考えようとした。
ぜんぜん分からない。

「私たちは語られることによってここに存在している、ということです。こんな経験をした覚えはありませんか? 本を読んでいる時、ふと登場人物が自分の思い出のなかに現れてくることが……あるいは、本のなかで起きた出来事と自分自身の思い出との区別がつかなくなるようなことが」

ある……ような、無いような。

「人は多かれ少なかれ思い出のなかに生きようとするものです。それは天使も例外ではありません」

私はふと、時計男のことを思い出していた。
思い出のかけらを食べて生きている哀れな天使の成れの果てについて……

「記憶が現実の小さなレプリカだというなら、物語もまた、記憶によって作られるもう1つの現実なのではないでしょうか?」

文香さんは手にしたペットボトルのふたの淵を指先でそっとなぞった。

「私はそのように考えています」

「……えーっと、つまり……」

私はなんとか話の要点をまとめようとしたけど言葉が出てこなかった。

「……すみません。やはり私はどうも説明するのが苦手で、それが私自身のことになると余計、むずかしいものですね」

「いえ、そんなこと」

文香さんはうなだれるように首をかしげてみせた。
それが自嘲の意味だと気付くのに少し時間がかかった。

「卯月さんのお力になりたい……美穂さんは先ほどそう仰っていましたね」

私は力強くうなずいた。

「であれば私から言えることは2つあります。ひとつは祈るのを止めないということ、もうひとつは――」

突然、文香さんがハッと何かに気付いたように視線をわきに逸らした。
その驚いたような嬉しいような表情の向く先を見ると、休憩室の入り口に卯月ちゃんがぼんやり立っているのが見えた。
まるで幽霊みたいに半透明になって。

「――何が正しくて何が正しくないのか、それを決めるのは美穂さん、あなた自身に他ならないということです」

そこで話は終わった。
文香さんはオープニングスピーチを終えた司会者が舞台袖に引っ込むみたいにスッと立ち上がり、

「では、またいつかの機会に……」

そう言い残して去って行った。
あとには私と卯月ちゃんがぽつんと取り残された。

「…………」

「……えへへ。びっくりした?」

うん。
けっこう、いやすごくびっくりしたかも。

「どうしたの、お姉ちゃん」

「文香ちゃんに呼ばれたの。べつにおどかそうって思ったわけじゃないよ?」

「透けてるみたいだけど……」

「ああ、これ? うーん、今日はちょっと調子が悪いみたいです」

お姉ちゃんは……卯月ちゃんは困ったように笑った。

明らかに無理してるって感じの顔だった。
私は椅子から立ち上がって卯月ちゃんに近寄り、その薄明るい腕を掴もうとした。

けど、もう遅かったんだ。
私の差し出した手は卯月ちゃんの半透明な体を通り過ぎて冷たい壁に行き当たった。

「……少しのあいだ、お別れですね」

私はいつの間にか涙を流していた。

ぽろぽろ。

自分の涙じゃないみたいに、それは私の思い出のなかから溢れ出てきた。

ぽろぽろ。
ぽろぽろ。

「いつかまた会えますよ、きっと」

「お姉ちゃんを……お姉ちゃんを返してよ」

卯月ちゃんは何も答えなかった。

私は最後に卯月ちゃんの天使みたいに優しい笑顔に触れようとした。

でも次の瞬間にはもう消えてなくなっていた。

私はその場にへなへなと座り込み、遊園地で迷子になった子供みたいに泣きじゃくった。……

暗転。

舞台の幕が降り、文香さんのナレーションが場内に響き渡る。

『――ただいまより○○分間の休憩といたします。席をお立ちの際はお手元に貴重品を――』

誰もいない劇場でたったひとり、私は第2幕が始まるのを待った。




ねえ、わたし思ったんだけど。

なに?

どうして映画って素直にハッピーエンドにしてくれないのかしら。

うーん……映画監督にはひねくれものが多いから。

あのね、とんちをやってるんじゃなくて純粋な疑問よ。
映画に限らず小説や漫画だって、なにもかもハッピーに終わる作品なんてすごく稀じゃない?

そうかなあ。あまり気にしたことないや。

まあ、あんたはそうでしょうね。いつも幸せそうにしてるもの。
きっと不幸が目の前にぶらさがっても気付かないでしょうよ。

そんなことないよ。わたしだってふ幸せなときくらいあるもん。

へえ? たとえば?

……宿題をわすれて先生に叱られたときとか。

それはあんたが悪いんでしょ。そういうのは不幸せとは言わないの。

じゃあ、ほんとうのふ幸せってなに?

そうね……一番の不幸せは、自分が大事にしてるものを失ってしまうこと、とか?

さっき観た映画みたいに?

そう、それを言いたかったのよ。
まったく、何かを失うことでしかストーリーを描けないなんて三流脚本もいいところだわ。
あんたは面白かった? あの映画。

うーん、よく分かんなかった。
でもおもしろかったと思う、たぶん……

それはハッピーなことね。

お姉ちゃんはおもしろくなかったの?

つまんなかったわ。
あーあ、もったいないことしたなぁ、せっかくおこづかい貯めたのに。……

私たちは大きな建物の屋上でアイスキャンディーを食べながらさっき観た映画の感想を言いあっていました。

それでお姉ちゃんがあんまり映画の出来をけなすので私は映画がかわいそうだと思って反論しようとするんだけど、お姉ちゃんにさからうと後がこわいので仕方なくキャンディをぺろぺろ舐めてごまかすのでした。

この屋上は私たちのお気に入りの場所で、昼間は遠くの景色までよく見えるし、夜は星がとても綺麗なので、私たちは映画を観終わったあとはいつもここに来るのです。

「明日はなんの映画にしよっかな」

「わたし、もうおこづかい無い……」

私がそう言うとお姉ちゃんはフェンスにがっくり寄りかかって大きな溜め息をつきました。

「度重なるキャンディ税の負担により私たちは健康的で文化的な最低限度の生活も保障されていません、ってね」

「??」

「お金がないならアイスキャンディなんて買ってんじゃないわよ」

「だって、お姉ちゃんが食べようって言うから」

「はいはい、それは悪かったわね」

地平線の遠くで夕日が輝いていました。
反対側の空には半分に欠けた月がさみしそうにぶらさがっています。

「どうして最後、女の子は消えちゃったんだろう?」

そう質問したのは私でした。
まぶしそうに目を細めて夕日を眺めていたお姉ちゃんは答えました。

「主人公が気付いてしまったからよ。最初から全部、都合のいい自分の妄想だったってことにね」

「え、そうなの? ぜんぶ妄想だったの?」

「全部っていうか、その女の子に対してだけね。たぶん」

「じゃあ女の子は最初からいなかったの?」

お姉ちゃんは少し考えてから言いました。

「たぶん、そういうことじゃないと思う。この映画で言いたかったことは、人はみんな自分に都合の良いように現実を歪めて見ていて、それを思い出として自分のなかにもう1つの現実を作ってしまうってことなんだと思う」

「ふーん……?」

「でもそれって悪いことじゃないと思うの。だって人は生きてる限り、好むと好まざるとにかかわらず誰かの思い出になるわけでしょ?」

「私も誰かの思い出になってるの?」

「そうよ。実際、あんたは私やあんたの両親、いろんな友達、学校の先生の思い出の一部になってるんだから」

「じゃあ、お姉ちゃんも私の思い出なの?」

「まあね」

そう言ってお姉ちゃんは恥ずかしそうにはにかんで私の頭を撫でました。

「あんたが私のことを忘れたりしない限りね」

「忘れないよ、ぜったい」

「宿題は忘れるのに?」

お姉ちゃんがばかにしたように笑ったので私はぷくーっと頬をふくらませるのでした。

「ま、もし忘れたら化けて出てやるから、その時はせいぜい報いを受けなさい」

そう言ってお姉ちゃんはお化けみたいに手を前にぷらぷらさせて私をおどかす真似をしました。
でも私はお姉ちゃんの幽霊を想像すると怖いというより悲しくなってしまうのでした。

「あんたもいつか気付く時が来るわよ。世の中ハッピーエンドだけじゃないってことにね」

「思い出を忘れちゃうから?」

「物語には必ず終わりがあるからよ」

私は考えました。
ほんとうにそうだろうか?

もしお姉ちゃんの言うとおり物語に必ず終わりがあるなら、あの2人の女の子の物語が今もまだ心のなかに残り続けているのはどうしてだろう?

私はこんな風に考えました。

たぶん、物語というのは私たちがそれを忘れないかぎりいつまでも終わらないもので、そしてきっと私自身も、私以外の誰か――たとえばお姉ちゃんなど――の思い出のなかに残り続けるかぎりいつまでも終わらないものなんだと思う。

そうして物語は私とお姉ちゃん、あるいは他のもっとたくさんの思い出とのあいだをぐるぐるぐるぐる回りつづけるのだ。

私にはその考え方がとても素敵なことのように思えました。

だって、そうすれば世の中にバッドエンドなんて必要なくなるし、たとえ私がお姉ちゃんのことを忘れちゃったとしても、それが物語の終わりにはならないからです。
あ、でもそれだとハッピーエンドも一緒になくなっちゃうのかな。
それはそれでちょっとさみしいかも。

「ね、お姉ちゃん」

「んー?」

「回ることについての研究、わたしもすこし考えてみたんだ」

「へえ、どんな?」

「それはね……」

私はお姉ちゃんみたいにリロセイゼンと話すことが苦手なので、ときどきヘンな方向に話が逸れちゃったりしたけど、なんとか自分の考えてることをお姉ちゃんに説明しようと試みました。
お姉ちゃんはふんふんと相槌をうちながら私のへたくそな話を聞いてくれました。

「なかなか興味深い考察ね」

はじめてお姉ちゃんが私の意見を褒めてくれたので私は有頂天になりました。
でも、

「でもね、残念ながらわたしの研究はもっと先に進んじゃってるのよ。もっと根本的なところに目を向けなきゃって思ってね」

「根本的って?」

「回るものの中心には何があるのかってこと。万有引力の法則にしたがって考えればそこには引力が働いていると分かるけど、じゃあ引力の正体って何? それがいまの私の研究課題」

バンユウインリョクなんて言葉を初めて聞いた私にはおそらく全然ついていけない研究だと思いました。

「こればかりは結論を出すのに少し時間がかかりそうね。まあ、あんたの意見も参考にして考えてみるわ」

夕日はもうほとんど沈みかけていて、反対側の月が少しずつ明るくなっていきます。
そろそろ空気も肌寒くなってきたので私たちは建物のなかへ入ることにしました。

そうして埃っぽいカーペットの通路を歩きながら壁一面に貼られている映画のポスターたちを眺めやり、次に観る映画はどれにしようかとあれこれ話し合いました。

「たまにはこういうのなんてどう?」

お姉ちゃんが指差したのは大人向けの戦争映画でした。
私は目をまんまるくしてぶんぶんと首を横にふります。

「わたしこっちがいい」

私が指差したのは粘土で作られた動物たちが冒険するアニメ映画でした。
お姉ちゃんは呆れたように溜め息をついて、

「そういう幼稚なのはもう卒業したら?」

なんて言うから私はムキになって反論して、それでちょっと喧嘩してしまいました。
でも最後には仲直りして、結局どっちも観に行くことにしました。
本当はあんまり乗り気じゃなかったんだけど、戦争映画のほうはお姉ちゃんがお金を出してくれると約束してくれたので。

それに、せっかくここで上映されるなら、観てあげないとかわいそうだなって思ったのです。

なぜならここは世界中で生まれた物語が漂流して最後に行き着く場所だからで、ここで私たちが観てあげないときっといつか忘れ去られて消えてしまうからです。

私や私の友達はこのとても大きな長い(星を一周するくらい長い)建物のことを世界の果てだとか天国に一番近い場所だなんて呼んだりするけど、お姉ちゃんに言わせればここはただ祈りを捧げるためのグウゾウにすぎないんだって。

グウゾウっていうのは調べたら神様を真似して作った神様そっくりのレプリカのことで、祈りを捧げるためのものらしい。
前にお姉ちゃんにそのことを話してみたらなぜか神妙な顔つきをしてこんなことを言われました。

「願掛けじゃないんだから、お祈りしたからって物事が良い方向に向かうとか期待しちゃダメよ。神様にはそんなセンチメンタルなんて感情はないんだから」

確かに、あんな奇妙な四角い姿をした神様には感情なんてなさそうだなって思う。
どっちにしろそれは何か目的があって建てられたものには違いなくて、けれど今はもう誰もその目的を知らないのでした。

でも、なんのために作られたかは分からなくても、私たちは暇があればここへ遊びに来て迷子になった物語たちを拾ってあげます。

だから、もし私の物語がみんなから忘れ去られて最後にここに辿り着くことがあったら、ちゃんと拾ってくれたら嬉しいなって思います。

あ、そうだ。
もしその時が来たら、次の物語にうまくバトンタッチできるように最後はこんな風に言おうと思っています。

私たちは幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。




ずっと祈りつづけていた。

天国への階段はマンションの部屋の窓からも見えるようになっていて、しかもすごく遠くにあるのにとても近くに見えるくらい大きかったから、毎朝毎夜ベランダに出て祈りを捧げるたびに私は何か偉大な存在に見守れているような気持ちがした。

卯月ちゃんにもう一度会えますように。
天使にもっと近づけますように。

そうして祈り続けるうちに私はひとつの真実に気がついた。

私の祈りは、卯月ちゃんのことを忘れないための祈りだということを。
卯月ちゃんを忘れたくないという願いのために祈っているのだということを。


やがて私の祈りの言葉はこんな風に変わった。

卯月ちゃんがいつも私のそばにいてくれますように。
私から離れて行ってしまいませんように。……


私はすでに祈りによって救われていたのだった。

思い出のすべてを取り戻した私はもう、天使の夢を見ることはなくなった。

代わりに色んなことを考えるようになった。
それはたとえば、文香さんのことだったり、ありすちゃんのことだったり、あるいは昔いた友達の――私はお姉ちゃんと呼んでいたけれど――研究していたテーマについてだったり。

私はあんまり賢くなかったから考えるのにも限界があって、でもそれを考えることはなぜか私にとって必要なことのように思えて、ときどき文香さんやありすちゃんとお話したり、天使にまつわる論文を調べてみたりして、そうして私と私以外のいろんな物語について考えつづけた。



そしてある日、夜空に飴が降った。


私は寝巻きのままベランダに飛び出して夜空いっぱいに降り注ぐキャンディたちの光りを見上げた。

もしこれが爆弾だったらいまごろ地上は火の海だ。
でもほとんどが地面に落ちるまえに燃え尽きてしまっていたし、ニュースを見てもとくに避難勧告は出ていないみたいだからたぶん安全なんだろう。

私はベランダの手すりにそっと寄りかかり、世界の終わりのような光景に見とれた。
遠くの景色にはあいかわらず祈りの壁が悠然と横たわっている。
その壁一面に飴たちの炎が閃光のような痕を残し、そして消えて行った。

それにしても、燃え尽きる前に地上に落ちた飴はどうするんだろう?
まさか拾って食べるわけにはいかないよね。
そんなことを考えていると、ふいに頭のなかにあの懐かしいメロディーが流れてきた。
なんとなく口ずさんでみると、自分でも意外なくらい歌詞がすらすら出てきてびっくりした。

♪~Do you have a candy ……?

♪~A cancy Bomb ……

「…………」


……ああ、そっか。

そういえば最初はこのベランダから始まったんだっけ。

なんだか妙に寝付けなくて、それで外の空気に当たろうと思ってベランダに出て、そしたら卯月ちゃんが……

「…………」

私は昔の記憶を思い出すみたいにゆっくり振り向いた。

……でもね、本当は振り向く前から気付いてたんだ。
こんなこと言って信じてもらえるか分からないけど、私もけっこう、成長したんだから。
もう私は泣き虫の私じゃないんだって、そう決めてたから、だから……

「卯月、ちゃん」

「……ただいま、美穂ちゃん」

飴降りの夜、私たちは再会した。

「っ……もう、どこ行ってたの? 心配したんだから」

卯月ちゃんは困ったように笑って、

「少し時間がかかっちゃいましたね」

とても長い時間だった。
それこそ天国への階段がほとんど完成してしまうくらいに。

「待ってたんだからね。ずっと……」

「ふふっ、それはお互いさま、ですよ」

でも私はまだ子供のままで、卯月ちゃんもそれは変わってなかった。

ただひとつだけ違うこと……
卯月ちゃんはもう私のお姉ちゃんではなくなっていた。

「ね、ほら。こっちに来てみなよ。すごく綺麗だよっ」

卯月ちゃんは私と同じように寝巻き姿のままでベランダに出た。

「わぁ、本当にすごい、綺麗……」

卯月ちゃんはそして切なそうに口をつぐんだ。

私はベランダの手すりにかけた彼女の白い手に自分の手をそっと重ねた。

そうすることで私たち2人の曖昧な関係をそのまま少しでも引き留めておくことが出来でもするかのように……

「でも、どうして?」

そう言ったのは卯月ちゃんからだった。

「思い出したんだ」

夜空を見上げていた卯月ちゃんが私のほうを振り向いた。
その天使みたいにかわいい顔に、飴たちが燃え尽きる炎の悲しい光りがちらちらと当たってかがやいていた。

「なにを思い出したの?」

「私がどうして卯月ちゃんをお姉ちゃんって呼ぶようになったのかってこと」

たぶん物語の始まりには色んなきっかけがあって、それはもしかすると卯月ちゃんと映画を観に行ったのが最初だったかもしれないし、もう少し遡れば卯月ちゃんとお化け屋敷に入ったあの瞬間からかもしれなくて、でも究極的には宇宙がいまも回り続けていることがすべての始まりなので、結局、私たちは元いた場所に戻ってきてしまうのだ。

だから私がなぜ卯月ちゃんをお姉ちゃんと呼ぶようになったのか、その理由を説明するのはそんなに難しいことじゃない。

「前にさ……自分はからっぽなんだって、卯月ちゃんそう言ってたよね」

「うん……」

「私もやっと気が付いたんだ。私たちって本当は何者でもない、ただのからっぽの存在なんだって……」

「うん」

「それでね。たぶん私って、私以外の誰かがいるから私になれるんだと思ったの。私の真ん中の部分はからっぽのままだけど、でも私のまわりとぐるぐる回る世界があるから、私は私の形でいられるんだ、って……」

「…………」

「でもね。やっぱり人って自分がからっぽなことには耐えられないんだと思う。さみしくて、せつなくて、こわくて、だから私たちは自分以外の誰かの近くにいようとして、それでからっぽの自分を埋めようとするの」

「……でも美穂ちゃんにとっての私は、たった一人の私じゃなかった?」

「そう、だから私は卯月ちゃんのことをお姉ちゃんって呼ぶことにしたんだと思う。世界中にいる卯月ちゃんの中でたった一人、私だけの卯月ちゃんを独り占めしようとして……」

「ごめんね」

「ううん、私こそずっと気がつけなくてごめんね」

「そっかあ。私たちはからっぽだからお互いに引かれあう……そうだったんですね」

「私の考えでは、ね」

私は得意気に微笑んで見せた。
すると卯月ちゃんは子供みたいにへにゃって感じの笑顔を返してくれた。
その瞬間、私は幸せってこういうのを言うのかなって思って涙が出そうになった。
でももう泣き虫は卒業したからぐっと夜を見上げて我慢するのです。

その時、こつんと音がしてベランダに飴がひとつ落ちた。

「わっ、飴ですよ」

卯月ちゃんが拾って見せてくれた。
それは燃え尽きずに地上に辿り着いた偉大な飴玉だった。

「どうしましょう」

「なんか捨てるのも悪いね。かと言って食べるわけにもいかないし……」

私はふと閃いて、

「卯月ちゃん、それ貸して」

「? どうするんですか?」

「こうするの。えいっ」

私はベランダから空にむかって飴玉をやさしく投げた。
すると偉大な飴玉は夜空に向かってふわりと昇っていって、そして星になった。

「わぁ、すごいです!」

卯月ちゃんがキャッキャと喜んで、そして私は彼女の天使みたいな横顔を見てこう思った。

私たちもあの夜空にかがやく星たちみたいに宇宙のなかをいつまでもどこまでも回りつづけていて、そしてときどきお互いの引力に引っぱられてくっついたり離れたりするのを繰り返すんだろう。

私たちの姉妹ごっこは終わってしまったけど、でも私と卯月ちゃんの思い出はまだ始まったばかりで、それにもしそれが終わってもまた次の新しい物語が始まるだけなんだって、そう思えば私のからっぽも少しは救われるのかもしれない。


だから私は思い出を忘れないように生きていこうと思った。

世界の果ての小さなベランダで2人きり、私たちは夜空の星星に祈るのでした。




          めでたしめでたし  ☆彡

SSはこれでおわりです

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