萩原雪歩「ココロをつたえる場所」 (32)

ミリマスの地の文ssです。LTP12の四人がメインのお話になってます。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1514721021

「765プロライブ劇場ラジオ、今日は『ココロがかえる場所』CD発売記念特集をお送りしました。お楽しみいただけましたか?」

「ロコたちのセンスとパッションが余すことなく詰め込まれたスペシャルな一枚になってますから、マストでチェックしてくださいね!」

「また、わたくし達が主役の公演も予定されていますわ。もちろん、新曲も盛りだくさんでお送りしますのよ? 詳細は劇場のホームページをご覧になってくださいな!」

「CDでちゃーんと予習して、桃子たちに会いに来てねっ! お兄ちゃんたちに会える日を、楽しみにしてまーす!」

「そ、それでは名残惜しいですが、そろそろお別れの時間ですぅ。お相手は、萩原雪歩と」

「二階堂千鶴と」

「ロコですっ!」

「……と、周防桃子でお送りしました。ばいばーい!」

 BGMがゆっくりとフェードアウトし、全員が一斉に息を吐いた。もっとも、その大きさや込められた感情はそれぞれに違っていたけれど。四人の中で最も小さく、事もなげに呼吸を整えた桃子が、一番に席を立った。

「お疲れ様でーす。桃子、先に荷物取ってきちゃうね」

「あ、それならロコも行きます!」

 二人の声と、ロコが少し慌ただしく席を立つ音が防音壁に囲まれたスタジオに独特な響きを残す。そんな様子を見て、千鶴は椅子に深く腰掛けなおした。

「それでは、わたくしはここに残っていますわ。何か連絡があるかもしれませんから。……雪歩ちゃんはどうしますの?」

「……えっ? あ、えっと、私も残りますぅ。二人とも、いってらっしゃい」

 少し反応が遅れた雪歩の声が、そそくさと出て行ってしまった二人に届いているかは少しばかり怪しいだろう。一仕事終えた感慨に浸っているのは自分だけだと気づいて、彼女は小さく苦笑した。

「雪歩ちゃん、改めてお疲れ様ですわ。率先して進行してくれたから、わたくしも話しやすくて助かりましたわ」

「ううん、こちらこそ……みんな、私なんかよりずっと堂々と話してて、見習わなきゃなって思いました」

「あら、そうだったかしら? 普段は確かに控えめな方かもしれませんが、今日はパーソナリティとしてしっかりとまとめていたように感じましたわよ?」

「いえいえ、私なんてまだまだぜんぜん…………ふふっ」

 このままだとお互い意地になって褒めては謙遜するやり取りの繰り返しになってしまうな、と二人して笑った。
 机の上に散らばったレターやメールを印刷したコピー紙を片付けていると、スタジオの扉が開く音がする。現れたのはスーツに身を包んだ男性……プロデューサーだった。

「二人とも、そっちは大丈夫だから支度して先に車に戻るようにロコと桃子にも伝えてくれ。俺も局のスタッフさんに挨拶したらすぐに行くから」

「わかりました。それでは、お先に失礼しますぅ」

「スタッフの皆様、本日はありがとうございました!」

 プロデューサーの言葉に従い、荷物やら上着やらといった支度を整えた四人は揃ってラジオの放送局を後にした。駐車場に停められた事務所の車の前に集まって、何をするでもなく時間をつぶしていたのだが。
 プロデューサーの到着は雪歩や千鶴に語った言葉とは裏腹に、たっぷり10分以上も後のことだった。

「悪い、話が長引いて遅くなった! それじゃあ、劇場に戻ろう」

「お・に・い・ちゃん! アイドルを四人も寒空の下で待たせるなんて、ちょっとプロデューサーとしての自覚が足りないんじゃないの? 風邪とかひいたらどうするつもり!?」

「いや、返す言葉もない……。本当に悪かった!」

 まず噛みついたのが桃子だった。ほら、屈んで! と無理やりに姿勢を低くさせ、そのままお説教を始めようとする。
 年明けのにぎやかさも街並みから姿を消して久しいこの時期は、確かに屋外で長居していたいとはとても思えないような寒気をその場にいる全員にぶつけていた。すぐに行く、という言葉を信じて待っていた四人にとって、桃子の怒りは多少なりとも同意するところがある。とはいえ、だ。

「うぅ、冬は手もかじかんで細かい作業が大変だし、ロコにはハードな環境です……。ユキホ、後でホットなグリーンティーをいれてもらってもいいですか?」

「うん、大丈夫だよ。……プロデューサー、何か連絡はありますか?」

 寒さに耐えかねたロコが大きく身体を震わせる。長引いてしまってはよけい身体を冷やすことになるだろうと、雪歩はそれとなく助け舟を出してみることにした。

「ん、ああ。あるにはあるけど……落ち着いた場所で話したいな。桃子、悪いけど今は先に劇場に帰ろう」

「……わかった。話が済んだら、今度こそオシオキだからね」

 それが功を奏したのか、あるいは単純に桃子も寒さに耐えかねていたのか、ともかく一時的にでも怒りは収まったらしい。プロデューサーは苦笑とともに車にキーを差し込む。
 車内には暖房が備え付けてあるし、風が通らないというだけでも屋外よりは数段ましな環境だった。全員が乗り込み、シートベルトをしっかり締めたことを確認して、プロデューサーは車を走らせ始めた。

「ようやく一息つけますわね。雪歩ちゃん、わたくしも後でお茶を頂いてもよろしくて?」

「はい、もちろんっ。……桃子ちゃんもお茶、飲む?」

「うーん……桃子は大丈夫。劇場に飲みかけのペットボトルが残ってるから、先にそっちを飲まないと」

「あぅっ……そっか、それじゃあ仕方ないね」

 誘いを断られた雪歩は、ちょっとだけ残念そうにうつむいた。折角だから四人でお茶しようと思っていたけれど、断られてしまったのに無理強いはできない。
 真後ろの席に座っていた桃子に雪歩のしぐさは見えなくても、声音から感情をなんとなく読み取ることはできた。少し気まずくなって、桃子は視線を逸らすように窓の外を眺める。灰色のビルに遮られた遠くの淡い青空に、ぼんやりと白い雲がかかっていた。


「……こほん。ええっと、それじゃあ」

 帰ってきて、そのまま劇場の控え室に集まる。話の前にプロデューサーがひとつ咳払いをすると、何を仰々しくしてるの、と言わんばかりの視線が桃子から突き立てられた。どうやら随分と機嫌を損ねてしまったらしい。

「改めて……みんな、ラジオの収録お疲れ様。これで、公演までに四人で行う宣伝活動の大部分が終了したことになる」

「これからは、公演に向けたレッスンに集中してほしい。トレーナーさんに指導してもらうレッスンについては日程を組んだから、確認しておくように」

 スケジュール表の書かれた紙が四人に配られ、各々が内容に視線を向ける。そこには四人分の仕事の予定と、全体、あるいは個別でのレッスンの日付が記されていた。ところどころ、何の予定も入っていない日も見受けられる。

「この日程以外に、自主的にレッスンをすることはできますの? 空いた時間が少し勿体ないですわ」

「自主レッスンの裁量はみんなに任せる。空き時間全部にレッスンを詰め込んでも息が詰まるだろうし、進み具合で各自判断してくれ」

「お兄ちゃん……そういうの、丸投げって言うんじゃないの?」

「まあまあ、順調に進めば予定してあるレッスンだけでも必要な練習量が確保できるって見通しにしてあるから、そう心配しなくても大丈夫だよ」

「あの、プロデューサー。ロコだけソロのお仕事のスケジュールがタイトですけど……もう少し、余裕を持たせられませんか?」

「あー……すまない、こればっかりは調整が利かなかったんだ。軌道に乗り始めてるアート関係の仕事はなるべく断りたくないだろ? できる限りのフォローをするから、どうにか頑張ってほしい」

 プロデューサーが向けられた質問に淀みなく答えていく中、雪歩だけはスケジュールをじっと見つめたまま言葉を発していなかった。傍からは集中しているようにも放心しているようにも見えるその様子は、質問が一段落してもそのままだ。

「おーい、雪歩? 聞いてるか?」

「は、はいっ!? あ、えっと、スケジュールの質問は大丈夫です他に何かありましたか!?」

 一転、ひと声かけただけでびくっ、と飛び上がって大慌てで受け答えを始める。雪歩の様子は少しちぐはぐで、いつものことと言ってしまえばいつものことだけど、そのいつもは彼女にとって気がかりがある時を指す言葉でもあった。

「い、いや、まだ特に他の話はしてないけど……何かあったのか?」

「あう、すいません、ちょっと考え事をしてました……」

「考え事? 相談でもなんでも、必要なことだったら言ってくれよ?」

「い、いえ、本当に大したことじゃないですから! 私なんかより、みんなの質問を……って、みんなはもう聞きたいことを聞き終わったんでしたっけ……」

 一度ペースが乱れると、とことんまでダメダメになってしまう。言い終わってすぐ、雪歩は内心で頭を抱えた。だって、たった今自分に課したはずの意気込みにそぐわない振る舞いを、早くもやらかしてしまったのだから。
 萩原雪歩は39プロジェクト発足前から765プロに所属しているアイドルである。つまるところ、今回CDの発売からその記念公演までの一連の仕事を共にする、三人の新人アイドルたちの先輩にあたるわけだ。
 自分より年上の相手もいれば、人生の半分近くを芸能界に身を置いて過ごしていたような子もいる。情けない話ではあるけれど、先輩らしく振舞うことについてはすでに諦めていた。
 しかし、それでもみんなが進んでいく道を、先んじて踏み固めた一人であることも確かな事実。情けないところなんて見せられないと思うのは、当然のことじゃないだろうか。

「と、とにかくっ。私は大丈夫ですから、話を先に進めてもらっても……」

「まあ、雪歩がそう言うなら。とはいえ、概ねは以上だ。良い公演を期待してるぞ」

「…………うぅっ。私、お茶をいれてきますね……」

 完璧に、この後ももう少し話が続くものだと思っていた。だから促してみたというのにこの有様ではあんまりである。もう自分に残された存在意義なんてみんなに温かいお茶を飲んでもらうくらいのものなんじゃないかと、雪歩は一瞬本気で考えた。

 控え室に置いてある自前のお茶道具を引っ張り出し、銀色の袋から茶葉を適量すくって移していく。とりあえずまだ確かな地位を残しているはずの作業に手を付けながら、雪歩は三人の様子をちらりと窺ってみた。

「むむ、この空き時間でロコアートをコンプリートするのはシビアになりそう……うーん……」

 ロコはスケジュール表とにらめっこしながら何事かぶつぶつと呟いている。普段から難しいカタカナ語を多用する彼女には、なんだか凄いな、という漠然とした印象を抱いていた。実物を見たことはないけれど、アートについて語っているときの真剣そのものな表情は記憶に残っている。それもまた、雪歩のロコに対する印象を決定づける要素の一つだった。

「……あら、雪歩ちゃん? わたくしに何かご用かしら?」

 千鶴は雪歩の控えめな視線にも気づいたようだ。今回のメンバーでは唯一の年上で、ふとした仕草からも周りをよく見ているんだな、と感じさせられる。人前に出ても堂々としているし、自分なんかよりもずっと人を引っ張れるんじゃないだろうか、と。そんな風に雪歩が半ば頼りにしてしまっている相手でもあった。

「だいたい、お兄ちゃんは業界人にしては計画性が足りてないの! 一人二人なら足でカバーできるかもしれないけど、自分が何人プロデュースしてるのか、ちゃんとわかってる?」

 桃子は宣言通り、プロデューサーにみっちりとお説教していた。随分と歳は離れているはずなのにそれを感じさせないどころか、プロとしての意識については誰よりも強いように思える。それが雪歩を少し委縮させている節もあるのだけど。
 ……うん。
 改めて、雪歩は共に歩む後輩たちが個性に満ち、まばゆいばかりの輝きをまとうだけの存在たりうるのだと実感した。自分よりも凄いところなんていくらでも挙げることができるだろう。だけど、それだけじゃない。
 そんな仲間と一緒だから、自分もまた次の一歩を踏み出せるんじゃないかと、期待を抱かずにはいられないのだ。
 だから、そう。まずは、もっと明朗な声音でみんなに呼び掛けてみるところから始めてみよう。

「みんなー、お茶ができあがりましたーっ! 桃子ちゃんも、ペットボトルでいいから一緒にどうかな?」

 出会ったばかりの頃よりはよく知っていて、だけど深いところまでは見せ合えていない。そんな関係をちょっとずつ進めていくために、小さなお茶会が始まろうとしていた。




 姿見の前に四人並んで、緩やかな音楽に合わせてステップを踏む。激しいダンスでは決してないから、振り入れにそこまで時間はかからなかった。しかし、当然ながらただ踊れればいいというものではない。

「大きなミスは減ってきましたが、まだかなり粗がありますね。特に、全体で動きが揃っていません」

「周防さんとロコさんは走りがち、逆に二階堂さんは少し遅れ気味です。萩原さんは全体としてはよく合わせられていますが、誰かが大きくずれた時、それに引っ張られる場面が目立ちます」

 ひとしきり曲に合わせて踊りきって、トレーナーから受けた評価も相応に厳しいものだった。ミスを指摘されるたび、各々の表情も少しずつ曇っていく。
 第一回目のレッスンの総まとめがこの結果である。もちろん、まだレッスンの機会は十分に残っているけれど、上手くできなかったという事実はちょっとだけ重たい。

「穏やかな曲とダンスですから、ここまでは簡単だったかもしれません。ですが、それは動きのズレがあれば、見ている人にもすぐにわかってしまうということでもあります」

「全員でぴったりと動きを合わせられるように、練習を重ねていきましょう。今日はお疲れさまでした」

「ありがとうございましたっ!」

 トレーナーがレッスンルームを後にして、少しだけ緊張感がやわらぐ。数秒を置いて、雪歩と千鶴はようやく現状を苦笑として受け流すことができた。

「暗に、まだ息が合っていないと言われてしまいましたわね」

「あはは……もっと頑張らなくっちゃ、ですぅ」

 対して、ロコと桃子は難しい顔をしたままだ。桃子は真剣な表情を崩さないままミスを指摘された箇所を確認しているし、ロコもロコで余裕なさげに、息を整えきれていない様子でスマホを操作している。二人の会話にも口を挟もうとする様子はない。
 何かフォローを入れたほうがいいだろうか。雪歩がかける言葉を考え始めたタイミングで、ロコがぱん、と手を叩いた。全員の意識が音の中心に向けられる。

「皆さん、スケジュールを見た限りだと三十分だけなら時間をとれるので、ミーティングをしましょう! ロコたちはまだお互いのビジョンをシェアできてないって思います。スピリットのエクスプレッションにはコミュニケーションが一番です!」

「す、すぴ……えく? ……えっ?」

「コロちゃん、もう少しわかりやすく言い直してもらえませんの?」

 自信たっぷりに宣言したロコに対し、その意図を正しく汲み取れた者は誰もいなかった。ロコは不満げにむくれて、千鶴の方へひとつ歩みを進める。

「そういうところがバッドなんです! ロコはロコであってコロではありません! そういうアイデンティティを、チヅルやモモコ、ユキホにとって何がインポータントなのかをロコは知らないんです!」

「……つまり、どういうこと? 桃子にもわかるようにお願い」

「……うぅ、ロコの言いたいことは、誰にも届いてくれないんですか……?」

 取り付く島もない桃子の言葉に、流石のロコもちょっとめげてきた。考えてみれば学校で本格的に英語を学ぶような歳でもないし、彼女に上手く伝わらないのは仕方のないことでもあるのだけど。
 ロコなりに考えての言葉であることは理解できるのだから、と。どんどん元気を失っていくロコを見て、雪歩はどうにか発言の意図を汲み取ろうとしてみる。ぱっと意味が出てこない単語はイメージで補って、上手くまとまるまで数秒の時間を要してしまった。

「つ、つまり! ロコちゃんはみんなで話し合いをして、表現したいことを伝え合おう、って、そう言ってるの、かな……?」

「ユキホ……! イグザクトリーです! よかった、ちゃんとわかってもらえた……じゃなくて、それでどうですか?」

 自信がなくて雪歩の言葉尻は弱まっていくばかりだったけれど、対照的にロコの表情は輝きを取り戻していく。どうやら概ね正しく訳すことができたみたいだ。
 これでまたしても首を傾げられてしまったら、という心配もどうやら杞憂に終わったらしい。千鶴も桃子も、先ほどよりはずっと納得した表情を見せていた。

「はじめからそのように言ってくれればよかったのに。……いえ、コロちゃんの言葉がちゃんとわかるように、わたくしもコロちゃんのことを知らないと、ですわね」

「……チヅル? 気持ちは嬉しいですけど、ロコはコロではなく……」

「時間。ないんでしょ? だったら早いうちに始めた方がいいと思うけど」

「う、モモコの言う通りですね。それじゃあ、ミーティングを始めましょう!」

 ペースを掴んでいるようでイニシアチブは全然握れてないな、とロコはしみじみ思った。提案して、進行して、それだけ。もちろん、それが悪いかと問われればそんなことは全くないのだけど、もうちょっと得意になれる場面があってもいいのにな、とは考えてしまう。
 でも、一旦そういう考えは横に置いて、自分の言葉に集中しようと目を閉じる。いつだって頭の中を駆け巡っている情動を少しでもはっきりさせられるように。

「とりあえず、言い出しっぺのロコからアイディアをプレゼンしますね。ロコは、何といってもアーティスティックにステージを彩りたいと思ってます!」

 ロコは自分の理想を、今度こそ自信に満ちた笑顔で宣言した。

「アイドルは歌って踊るもの。でも、それだけじゃないってロコは思います。ステージを、公演を、その全部をクリエイトしてこそアイドルです! そして、ロコがクリエイトするステージに、ロコアートは欠かせません!」

 言葉の一つ一つが、まるで五線譜をなぞる旋律のように彼女の口からこぼれ出る。歌っているみたいに楽しげに語るのだ。言葉の意味が全て伝わるわけじゃなくっても、ロコはそれをロコなりに表現している。そう感じさせるだけの魅力がそこにあった。

「ただ……これは、ロコだけのステージじゃありませんから。アートだって、四人全員にフィットしたものじゃなきゃ意味がないです。そのためにも、三人のビジョンを聞かせてください!」

 淀みなく紡がれながらも、決して聞き取りづらくなるほどの早口ではない……そんな言葉が聞いてくれた三人に届いていると信じて、ロコはゆるやかに一礼した。
 ぱちりぱちりと、人数ゆえにまばらではあるものの拍手が響く。一番大きな音の主でもあった千鶴は、満足げな表情とともに一歩前へ出た。こつ、と木張りの床を踏みしめる音が拍手の代わりに反響する。

「いい演説でしたわね、コロちゃん。それでは、コロちゃんの希望に応えるためにも、わたくしが続かせていただきますわ!」

 ロコは褒められた嬉しさと、未だに名前を正しく呼んでもらえないことへの小さな憤りに挟まれて、なんともいえない表情をしていた。
 彼女にとって名前は大事なアイデンティティだ。千鶴がニックネームのつもりで呼んでいることはわかるけど、まだちょっと複雑な心境なのである。
 千鶴がロコの様子に気づいているか否かは判然としない。ただ確かなのは、彼女がロコの意を汲んで真っ先に名乗り出てくれたであろうということだった。

「わたくし二階堂千鶴といえば、やはりセレブ! 豪華絢爛ながら気品に満ちたステージこそが相応しいに違いありませんわ! おーっほっほっほ……けほっ、こほっ!?」

 その言葉は彼女が常々から主張しているものと変わらない、一貫したこだわりだった。高笑いの途中でむせ返ってしまったことだけは失点だったようで、千鶴は少しだけきまりが悪そうに目を逸らし、咳払いをした。

「とにかく、わたくしは劇場に足を運んでくださった皆様が憧れすら抱くような……そんな、二階堂千鶴の名に恥じない姿を見せることのできる公演を希望しますわ」

「コロちゃん、こんなところでいいかしら?」

「ロコはロコですが、グッドなプレゼンでしたよ! チヅルのエレガンスが、ロコの中でさらに確かなものへとアップデートされました!」

「そ、それじゃあ私も、まだしっかりまとまってるわけじゃないですけど……」

 雪歩も千鶴に続くように、おずおずと声を上げる。三人目ともなれば聞く側もなんとなく感覚が掴めてくるもので、すぐさま雪歩の言葉を待つように視線が集まった。
 もっとも、そのスムーズさが逆に彼女を緊張させてしまうのだけど。

「え、えっと、私は……やさしい、雰囲気の公演にしたいな。みんなで歌う曲は、穏やかで、静かだけどしっかりと未来に夢を見るような曲、だから」

 はじめは少し覚束なかったけれど、雪歩はふわりとやわらかな笑みを浮かべて言葉を続けた。胸に手を当てて、その奥底にある気持ちをそらんじるように。
 本当はこれくらいのこと、緊張する必要なんてないはずなのだ。それでも、どこかで何かが引っ掛かって、雪歩が感じる鼓動は早まってしまう。

「手を取れるほど近くじゃないかもだけど、ちゃんと繋がってる。そんな風にみんなと思いあえたら、素敵だなぁ、って思います」

「…………」

 その言葉を聞いて、桃子は雪歩に向けていた視線を外した。それも、雪歩と目が合ったタイミングで。それは今まで口を挟まずにただ話を聞いていた彼女が見せる、初めての明確な反応だった。

「えっと、桃子ちゃん……?」

「次、桃子の番だよね」

「え、ええ。そうなりますわね」

 桃子の言葉には、どこか冷めた響きがあった。困惑するだけの時間もほとんど与えないままに、桃子は口を開く。

「桃子は自分が表現したいことなんて、わかんない。やりたいことを教えて、って言われても、答えられないの。だってそんなこと、考えたこともないもん」

「だから、皆さんで決めてください。桃子は、それをこの四人で一番ってくらい完璧に演じてみせるから」

 桃子は抑揚をつけず、感情を乗せようとしないままでただ淡々と意見を伝えるためだけに言葉を紡いでいた。
 桃子が経験してきた仕事は、監督と脚本に沿って形作られる物語の歯車になることだった。そこにアドリブや解釈の余地はあっても、演技の根本を決める権利なんてない……それが当然だと思っていた。
 アイドルの世界がそうじゃないってことは、なんとなくわかってる。でも、だからって今すぐ意見を出せって言われてもわからないとしか言いようがないのだ。桃子は、右も左もわからないまま、見よう見まねでアイドルを演じているひよっこだから。

「……オブジェクションです! モモコにだってアイドルとして、アクトレスとしてのコミットメントがあるはずだって、ロコは思います! それに、モモコを抜きにして決めるなんて……」

「ロコさん」

 不満を持っているようにも、悲しげにも感じ取れるロコの言葉を、桃子はあえて遮った。

「桃子はね、カタカナ語の意味、ちゃんとわからないから。……ロコさんが言いたいこと、全然伝わってないんだと思う。でも、謝らないよ」

「っ……わかり、ました。ロコも、アプローチを変えようと思います。チヅル、ユキホ、ソーリーです。コンセプト決めはリスケさせてください」

 桃子の言葉にはっとした様子のロコは、眉を下げながら力なくミーティングの終了を持ち掛ける。桃子は感情を感じさせない表情でその言葉を聞き届けた。
 二人の会話をどうにか取り持ちたい……そう思うけど、雪歩には適切な言葉が浮かばなかった。険悪というほどとげとげした雰囲気じゃないけど、息苦しいのは確かだというのに。

「わかりましたわ。今は、レッスンに励みましょう。積み重ねは無駄にはなりませんものね!」

「……はいっ」

 前向きに振舞ってくれている千鶴の言葉に明るい声音を重ねることが、雪歩にできる精一杯だった。不安と、不安に負けないために頑張らなくちゃという感覚が、じわりじわりと雪歩の頭の中を埋め始めていた。




 交わした言葉は十分じゃなくて、それでも時間は流れていく。それを仕方のないことだと考える者もいれば、どうにかしたいと思う者もいた。
 そして、全員が自分なりの最善を尽くしながら、最初のレッスンからさらに二度レッスンが重ねられた。

「ふうっ、今日もお疲れ様ですわ。少しずつ良くなってきているとはいえ、なかなか完璧にはいかないものですわね」

「全員揃ってだと、ほとんど時間を取れてませんからね……。ロコちゃん、忙しそうですし」

 千鶴が発した言葉は、レッスン終わりの少し気難しい沈黙を破り、現状を誇張も楽観もなく伝えるものだった。
 一人ひとりが空き時間に自主レッスンを行うことはできても、全体で合わせてみないことには感覚を掴むのは難しい。その上、スケジュールの空き具合がまばらなせいで上達にも差が出始めている。お世辞にも余裕があるとは言えないだろう。

「すいません、ロコはアートの仕上げをしたいので、今日は早めに抜けさせてもらいますね」

「……待ってよ、ロコさん」

 そんな中で、桃子はレッスンルームを後にしようとするロコを呼び止めた。その語気は少しだけとげとげしい。

「……? どうしましたか、モモコ?」

「ロコさん、今一番ダンスの進み遅いよね。お仕事で忙しいのは仕方ないけど、だからこそ空いた時間はなるべく自主レッスンに使った方がいいと思う。今からなら桃子たちも付き合えるし……」

「も、もちろんロコだってわかってます。でも、このアートをフィニッシュさせることは、今のロコたちに必要なことだってロコは思ってますから」

 ロコの返答に、桃子は表情をより険しくする。わかっているならどうして、と問いただしたかった。だって、そんな風に言われたら都合よく誤魔化されているみたいじゃないか。

「っ、ねぇ、ロコさんにとっては桃子たちとレッスンすることよりも、アートの方が大事なのっ?」

「……そうじゃない、んです。ロコは、ロコのビジョンを伝えるベストなアプローチが、アートなんです! だから、だからモモコ、このアートが完成したら――」

 ――その先の言葉が、桃子に伝わることはなかった。

「完成したらレッスンします、って!? ロコの言ってること、わかんないよっ! アートなんかにかける時間があるなら、今は少しでもレッスンしなきゃでしょ!?」

 桃子は衝動的に、抑えきれなくなった憤りを爆発させていた。ロコが答えを出すでもなく、先延ばしにするような返答をしているように思えて、それが許せなかった。

「……っ!! ぅ、モモ、コ……。っ、モモコは、わからず屋ですっ! ロコがっ、ロコが、間違ってました……!」

 ロコは大粒の涙を浮かべながら、震える声で苦しげに叫んでレッスンルームを飛び出した。誰かが止める間もなく、乱暴に開け放された扉が閉まる音だけがうるさいくらいに響いて聞こえる。
 数秒の間、誰もが何一つとして行動に移すことができなかった。

「……! わたくし、コロちゃんを追いかけてきますわ!」

「……ぇ、あ、はいっ。お願いします」

 言い争いの間はあたふたして止めに入ることができず、いざロコが飛び出してしまっても、呆然として千鶴に任せることになってしまう。また何もできなかったな、と雪歩は口惜しさに手のひらをぎゅっと握った。
 だけど、自分よりもずっと強い悔しさと、戸惑いと、憂いを混ぜ合わせたみたいな顔をして立ち尽くしている桃子がそこにいたから。唇を真一文字に引き結んで、それがまるで意識して怒りの表情を作っているように見えて仕方がなかったから。
 桃子を励まして元気づけるだけの言葉、なんて偉そうなことを言えた人間じゃないけど。何か声をかけてあげたいという些細なエゴに従って、雪歩は気づけば桃子に歩み寄っていた。

「ね、桃子ちゃん」

「……なに、雪歩さん。お説教するならしてもいいよ。桃子は間違ったこと、言ってないと思うけど」

「ううん、私なんかがお説教しても、そっちの方こそどうなんだって感じだから……」

 桃子の言葉はロコと言い争っていた時とは比べ物にならないくらいに小さい。頑なに思える言葉も、自分がどんな態度をとられて然るべきか、桃子なりに想像した結果を感じさせた。
 だから雪歩は自責の念で握りしめていた手をほどいて、両手で桃子の手を取った。

「あ……」

「こうしてた方がお互いに気持ちが楽になる、って私は思うな」

「…………へんなの。それに、馴れ馴れしすぎ」

「あぅっ……。ご、ごめんね、桃子ちゃん」

 やっぱり、距離感を掴み損ねていただろうか。自惚れて近づきすぎてしまっただろうか。そもそもさっきまで怒っていた子にこんな態度をとるのが見当違いだったかな。
 一瞬で膨れ上がる自己嫌悪から、慌てて手を離す。桃子が小さく声をこぼした。

「待ってよ……。…………離さないで」

「…………うん」

 もう一度、桃子の手を握りなおした。小さくて柔らかい手は、態度と裏腹の幼さを今更のように感じさせた。

「ロコさん、怒ってたよね」

「うん」

 ぽつぽつと、ひとりごとみたいな小さなつぶやき。それに反応を返すと、雪歩の両手に桃子のもう片方の手が重ねられた。

「……どうしてだろ。桃子が、怒らせたんだよね」

「どうしてだろう。私にも、わからないかも」

「雪歩さんから見ても、桃子は良くないことを言ってるように見えた?」

「私は……ううん。きっと、私がどう思ったかは、あんまり関係ないって思うな」

「…………」

 それっきり桃子は何も語りかけてこなくなった。両方の手に、不器用に握ったり緩めたりする感触が伝わってくる。
 言葉が途切れてからしばらくして、桃子は落ち着いた調子で口を開いた。

「雪歩さん。桃子はもう大丈夫だから……少しだけ、一人にさせて」

「……いいの?」

「いいの。心配しすぎ。……考えごと、したいから」

「そっか。それじゃあ、お茶いれてくるね。今日こそ飲んでもらわなくっちゃ」

 雪歩は桃子の言葉に従って、レッスンルームを後にする。後ろ髪を引かれる思いはあったけど、これ以上心配しても余計なお世話でしかないことだってなんとなくわかっていた。離した手が所在なさげに戸惑っていたことには、気づかないふりをした。

 劇場の廊下は部屋の中ほど暖房が強くないから、厚着とも言えないレッスン着だと少し肌寒い。小走りで控え室に向かう途中、遠くから千鶴がロコを呼ぶ声が聞こえた。
 もしかして、まだ見つかっていないのだろうか。手伝いに行こうかとも考えたけど、今更自分一人が加わったところであまり役には立てないだろうと思い直す。

 目当ての部屋にたどり着いて、最近出番が多くなってきたお茶道具を引っ張り出した。みんなが各々好きに持ち寄った道具を所狭しと収納した部屋の中で、よく使われるものはそこまで入り組んだところに行ってしまわない傾向にある。冬のお茶道具やコーヒーメーカーは、その代表例と言ってもいいだろう。
 お茶をいれることにしたのは、温かい飲み物があればもっと落ち着けるはず、なんて月並みな考えから。湯のみの数に少し迷ったけど、ちゃんと必要になりますように、とほんの小さな願掛けを込めて四人分のお茶を用意することにした。

 ポットのお湯が切れていたから、水道から水を汲みなおしてお湯が沸くのをぼうっと待つ。雪歩の頭に浮かぶのは、ロコがレッスンルームを飛び出す直前に見せた泣きそうな表情だったり、むすっとした表情で強がっているように思えた桃子の姿だったり。
 それはきっと、見ていたいと思うような姿ではないはずなのに。どうしてか、雪歩は以前よりも二人が近くにいるように感じられた。
 考えごとでお湯が沸いていることにすぐ気づけなかったけど、それ以外は概ね慣れた調子でお茶をいれる。湯のみを四つお盆にのせてレッスンルームに戻ると、ロコと桃子が向き合って、お互いにかける言葉を探っているような様子だった。
 少し離れたところにいる千鶴が人差し指を唇の前で立てる。雪歩は少しだけ張り詰めた様子の彼女にならって、声をかけずに見守ることにした。

「え、と……その、ロコ、さん」

「は、はい。……何ですか、モモコ」

 たどたどしく言葉を向ける桃子に対し、ロコもまた落ち着かない様子で返していく。ひとつひとつの会話の間に、窺うような空白が含まれていた。

「ごめんなさい。……きつい言葉を使いすぎた、って思ってる。嘘とかじゃなくて」

「それを言うなら、こっちこそ。モモコがロコのミステイク……間違いを指摘してくれたのに、もっと大事なことがあるって思いこんでて、だから……。ソーリー……じゃなくて、ごめんなさい、です」

 ロコは何度も言葉に詰まって、言い換えて……いつか、桃子に言っていることがわからないと言われたことを気にしている様子だった。普段の勢いや自信はどこにもなく、その声は少し震えていた。

「…………」

「…………」

 何を話せばいいのかわからなくなって、だけど何か言わなきゃいけないことがあるような気がして、結局お互いに何も言い出せない。そんな沈黙がしばらく続いた。

「それで二人とも、相手を許してあげられそうですの?」

 見かねた千鶴が二人に声をかけた。意識の外から届いた声に、向かい合って硬直していた少女たちは目を見合わせる。

「許す……」「それは……」

 そう思っているのは自分だけなんじゃないか、そんな考えが頭をよぎっただけで、どうしようもなく怖かったのだろう。二人ともはっきりとは言葉にできず、だけどゆっくりと頷いた。
 千鶴の表情が、安心したように緩む。

「なら、仲直りですわね。この話はここまでにしましょう!」

 言葉の終わりと同時に雪歩に向けて目配せが届いた。タイミングを用意してくれたことに感謝を覚えながら、こぼさないように気を遣いつつ三人に向けて歩いていく。

「お茶、いれてきたよ。今日も外は寒いし、冷めないうちにどうぞ」

 湯のみを手で持ってもやけどしないことを確認して、一つずつ渡す。最後にお盆の上に残った一つを手に取って、一口だけ飲んでみた。ほんのちょっとぬるくなっていたけど、飲みやすい温度と言い張れる範囲ではあると思う。
 とはいえ、やっぱり相手にどう思ってもらえたかは気になってしまうもので。

「味とか、大丈夫だった?」

「はいっ。ユキホのいれるお茶は、落ち着く味がしてフェイバリットですよ」

「……桃子には苦いかも。でも、あったかい」

 ほう、と息をついた二人が感想を述べていく調子がとても似通っていたから、なんだか無性に口元がほころんで仕方がなかった。桃子はそんな雪歩の様子に気づいて目を逸らしてしまったけど。
 言葉はぽつりぽつりと些細なものを交わす程度に、ゆっくりとお茶を味わっていたら、気づけば自主レッスンをするには少し余裕のない時間になっていた。

「次のお仕事の時間が近いから、桃子はもう行くね。雪歩さん、お茶、ごちそうさまでした」

「おそまつさまでした。次いれる時は、ちょっと薄めにしてみるね」

「あっ……ぇっと、うぅ…………」

 桃子が歩き出そうとした時、ロコが小さく声をあげた。桃子も少しだけぎこちなく足を止めるが、ロコはどうにも上手く言葉が出てこない様子である。
 やっぱりなんでもありません、そう口を開こうとする間際で、千鶴がロコの背を押した。

「コロちゃん。まずは、言葉にしてみることですわよ」

「……そうですね、チヅル。えっと、モモコ。今日はダメになっちゃいましたけど、次の機会には……ロコと一緒に、レッスンしてくれますか?」

 桃子が答えを返すまでに、ほんの一瞬だけ間が空いた。背を向けて扉を前にした彼女の表情は誰にもわからなかったけれど、なんとなく、身体をこわばらせていた力が抜けたようにも見えた。

「いいよ。でも、厳しくいくからね。……それと」

「カタカナ語、教えてよ。ちゃんとコミュニケーションできないのは、よくないってわかったし」

 ぶっきらぼうに小さく付け足された言葉に、ロコは先ほどまで見せることのなかった大輪の笑顔を咲かせて。

「はいっ! ロコに任せてください!!」

 喜色を隠さない明朗な声が、レッスンルームに響き渡った。




「コンセプトはやっぱり悪くないはず。でもモチーフをプラスするとなるとアイディアがまだ足りないし、それに何より時間が……」

 ぶつぶつと、ロコが独り言を呟いては机の上にばら撒かれた紙に何事かメモをしていく。そんな光景が劇場の一室で繰り広げられて、すでに随分と時間が経っていた。
 桃子と喧嘩して、他のアイドルがレッスンに使う時間も近かったからレッスンルームを退散することになった。それからずっと、彼女は真剣な面持ちで机に向かったままだ。窓の外から見える空はとっくの昔に真っ暗になっていた。
 贅沢にも机をひとりじめしている紙のひとつひとつには、イラストのようにも図案のようにも受け取れる絵が描かれている。その上に現在進行形で書き加えられている走り書きのコメントは、そろそろ余白を埋め尽くしてしまいそうだ。
 ふと、ロコが固まるように動きを止める。一秒、二秒……たっぷり十秒ほど硬直したのち、一気に体勢を崩して絶望的な表情とともに机に突っ伏した。

「コロちゃん、そろそろ劇場も戸締りの時間ですわ。その辺りにして今日は帰りましょう?」

 ロコの様子は見ていて飽きないものだったけど、このタイミングで声をかけないと本当に何時間でも繰り返してしまいそうな気配があった。流石にそれはまずいと声をかけた千鶴に、机に突っ伏したままの小さな芸術家は力なく返事をする。

「チヅルぅ……そうしたいのはやまやまですが、コンクルージョンを出さないことにはロコは帰れません……」

「まったくもう、今日はレッスンの終わりにあんなことがあったのに、コロちゃんは元気ですわね」

 ほんのちょっとの皮肉を交じえれば乗ってくれるんじゃないかという目論見はどうやら外れてしまったらしい。ロコは顔を上げ、浮かない表情で千鶴を見つめる。元気、という評価は大きく間違っていたかもしれない。

「……だからこそ、なんです。レッスンだってしっかりしたいから、アートにかけられる時間はもっと減ってしまいます。アートがなくちゃ、ロコは、ロコは……」

 どんどんと声音が落ち込んでいくロコの様子には覚えがあった。これはちゃんと話を聞いてあげる必要がありそうだ、と千鶴は思い直す。とはいえ、何から聞き出したものか。

「ねえ、コロちゃん。ひとつ聞いてもいいかしら?」

「いいですよ、チヅル」

 ロコの悩みを吹き飛ばすために必要な質問がすぐに思い浮かぶことはなかった。だから、まずはずっと気になっていたことを率直に聞いてみることにする。

「コロちゃんにとって、アートって何ですの?」

「アートは…………ロコの気持ちを、伝えてくれるものです。ハートビートも、エモーションも、まっすぐに。ロコの言葉がたまに首を傾げられていることは、わかってますから」

 千鶴は少しの間、口元に手を当てて考え込んでいた。ロコが吐露した言葉は彼女の悩みを想像させるには十分すぎるくらいだ。そして、それを解決してしまう言葉を用意するのは、実はとても簡単なことなんじゃないかと思うのだ。
 例えば、そう。おあつらえ向きの具体例がすぐそこにある。

「でも、今日はアートに頼らなくても、桃子と仲直りできましたわよね?」

「それは……。チヅルが背中を押してくれたからです。ロコひとりじゃ、キャンノットでした」

 小さな物置に、膝を抱えて座り込んでいたロコの姿を思い出す。見つかりたくないという以上の感情を受け取れない場所に隠れている彼女を、千鶴が見つけられたのだって本当に偶然だった。
 幾らか励ましの言葉をかけて、どうにか連れ出したことを覚えている。確かに千鶴がいなければロコが勇気を持てたかは怪しいだろう。でも、それでいいと千鶴は思うのだ。

「今回の公演は一人でやりきらなきゃいけないものではありませんわ。むしろ、力を合わせることが大事なはず。だから、誰かの助けがあって前に進めたのなら、それも正しいのではありませんこと?」

 つい言い聞かせるような口調になってしまった千鶴の言葉を、しかしロコはしっかりと聞き届けていた。それこそ、まるで指導を受けている生徒のように。
 そして、弱弱しく揺らした瞳の焦点が千鶴に向けてはっきりと定まる。その表情は思い詰めているようにも見えて、震える声からは、焦りのような感情を感じさせた。
 ロコは、視線の先にいる、一回り年上の少女に問う。

「……チヅルはっ」

「…………チヅルには、ロコの言いたいこと、ちゃんと伝わってますか?」

 どきり。千鶴の心臓が跳ねた。切実な声音と向けられた視線が、鋭敏で透き通った刃のように、すとんと胸を突き抜けるような感覚を覚えた。
 恐ろしく感じることなんてどこにもない、弱弱しくて、抱きしめてあげたくなるような悲鳴のはずなのに。千鶴には、易々と応えることのできない重さをはらんでいるように思えた。
 だけど、わかっている。彼女が求めている言葉を、二階堂千鶴は知っている。ためらう時間はほんの一瞬あれば十分だろう。きっと、自信たっぷりに笑みを浮かべて。

「……ええ、もちろん! 当然、全部が全部わかるわけではありませんけど、わたくしなりに感じ取っていると思いますわ」

「……! サンクスです。ロコも、決心がつきました」

 ロコが千鶴の言葉をどう受け取ったのか、完璧に理解することはできるはずもない。だけど、彼女が迷いを振り切ったことは確かだとわかるから、それで十分だと信じてみる。
 ……そして。

「チヅルは頼りになりますね。これからも、ロコが迷ったときはアドバイスをお願いします!」

 少しだけ照れるように笑うロコの言葉を、裏切ってはいけないと強く思わされるのだ。




 口に出して伝える言葉を信じてみることにしたの。
 だから、今は――




「あれ、ここにあったビデオカメラ、どこにいっちゃったのかな……?」

「ああ、それならレッスンも終わったから片付けてしまいましたわよ」

 レッスン終わり、後片付けの最中だった。雪歩は置いてあるはずの備品の場所を問い、それに千鶴が答えたというだけの、なんでもない会話。だけどそれは少しだけ間違ったやり取りだった。
 真っ先に違和感に気付いたロコが、首をかしげて千鶴への疑問を重ねる。

「……んん? チヅル、プロデューサーがネクストレッスンでも使うことになったから、カメラはそのままでオーケーだって言ってませんでしたっけ?」

「え、あら、そう……だったかしら? …………ああっ! 大変失礼いたしましたわ! すぐに取って参ります!」

 千鶴は慌ただしくレッスンルームを飛び出した。残された三人は、思うところがある様子で顔を見合わせる。その表情は不安げだったり、訝しむような様子だったり、心配そうだったり、ニュアンスは異なっていても似たような感情をにじませていた。

「……最近、チヅルの様子がなんだか変だって思います。二人はどう思いますか?」

 問いを向けられた二人はロコの言葉に肯定の意を込めて頷く。確かに最近……ロコと桃子が諍いを起こした数日後くらいから、千鶴の態度がどこかぎこちなくなっているように感じられた。レッスンの最中も精彩を欠き、初めの頃のようなミスをしては叱られることもあった。

「桃子もそう思う。普段の千鶴さんなら絶対しないミスが目立ってるな、って」

「そ、そうだね……。何かあったのかな……?」

 雪歩の疑問に答えられる者は誰もいない。心当たりは欠片もなかった。始動してまださほど長い時間の経っていない39プロジェクト、その中でも三人は千鶴とのかかわりが多い部類のはずだ。それでも、千鶴の変化は前触れのないものにしか見えなかった。

「それで、ロコも気になってチヅルと話してみたんです。でも、グッドなクエスチョンが浮かばなくて……チヅルも自分から相談しようってムードじゃなかったし、結局上手く聞けませんでした」

 そう語るロコの表情は不安げに曇っていた。言葉の節々にはもどかしさのようなむずむずとした感情が見て取れる。

「それに、その……ロコと話しているときのチヅルが、なんだかぎくしゃくしているように見えて。ロコの言ってること、ストレンジだったかな、って……」

「そんなこと、ないと思うよ。私はロコちゃんと話してても、ヘンだなって思わないから」

「ロコさんの話し方は普通とは違うかもしれないけど……ずっと前から変わってないでしょ。千鶴さんが急に態度を変える理由にはならないと思う」

 悪い方へ悪い方へ、最近のロコはちょっとしたきっかけから自信を無くしてしまう様子をたびたび見せている。簡単なフォローを入れるだけでも持ち直してくれるとはいえ、雪歩にとっては心配の種だ。
 ロコも桃子も、少し主張が控えめになった。その影響はレッスンにも表れていて、フリや、ボーカルの表現が小さくなっていると叱られる場面も見受けられた。桃子だって、態度にロコほどはっきりとした変化はなくても、以前の諍いを気にしている節があるのだろう。
 先輩として、じゃないけれど。こういう時にできること、してあげられることをちゃんと探して、行動に移していきたいと雪歩は思うのだ。

「私からも千鶴さんに聞いてみるね。人によって話しやすいことも、そうじゃないこともあると思うから」

 だから、そう提案した。いつも周囲に気を配っている千鶴のことを思えば、ただでさえ本調子かわからない二人にこれ以上心配をかけたくないと考えていても不思議ではない。それなら、まだ自分から声をかけた方が何か答えてくれるような気がするのだ。

「お待たせしましたわ! ……と言っても、まだ次のレッスンには時間がありますわよね。こんなに急がなくてもよかったかしら……」

 三脚とビデオカメラ、そしてA4サイズの紙を一枚持って戻ってきた千鶴が、ごまかすように笑う。そして、少し言いにくそうにしながら何かしらのリストが印刷されたコピー紙を三人に掲げて、口を開いた。

「先ほど美咲さんとすれ違って、劇場の日用品類が足りなくなっていると聞きましたわ。それでつい買い出しを引き受けてしまったのだけど……どなたか手伝ってもらえませんこと?」

 またちょっと空回りしているようにも、元来の気遣いが発揮されているようにも見える千鶴の様子に苦笑する。とはいえ、タイミングよく訪れた機会には違いない。雪歩は真っ先に名乗り出ることにした。




「結構な量になってしまいましたわね……雪歩ちゃん、重くないかしら?」

「大丈夫ですぅ。こっちの袋はかさばるだけで、中身は軽いですから」

 ドラッグストアや百円ショップの袋を両手いっぱいに抱えて、雪歩と千鶴は劇場への道を歩く。日が傾くのも早い季節だから、空はもうオレンジ色に染まっている。これなら誰かに車を出してもらうべきだったなと二度、三度後悔した。

「そもそも、こんなに一気に買い出しに行くのが間違いだと思いますわ……手間でも、こまめに買い足すべきじゃないかしら」

「いざ足りなくなってから、っていうのもぞっとしますしね……」

 千鶴が恨み言を口にする様子はあまり見かけない。雪歩にとっては少し意外な話だけど、もしかしてこういったやりくりには慣れているのだろうか。買ったものを袋にまとめていく手際にも、堂に入った様子が見受けられた。

「も、もちろん家ではこういった作業は使用人の仕事ですけど! 良きセレブは自分が直接かかわらない仕事にも通じているべきですわよね! おーっほっほっほ! ……っとと」

 少し不思議に思って見つめていたことに気づいてか、千鶴は大慌てで言葉を付け足す。口元に手をそえて高笑いしようとしたおかげで、袋を落としかけていた。
 しばらくは雑談に興じて歩いていたけれど、そろそろ本題に入らないといけないな、と雪歩は思い直した。劇場に戻ってきてしまえば、こうして二人で話す口実もなくなってしまう。よし、と両手をぎゅっと握って、開いて、少しだけ歩調をゆるめた。

「千鶴さん。公演のことで、ちょっとだけお話があります」

「話、ですの? ええ、わかりましたわ。どういった要件かしら」

「えと、最近の千鶴さんのこと、かな。……何か、ひとりで抱えてるんじゃないかって、みんなが心配してますから」

 千鶴はあら、と小さくこぼす。すぐに言葉が続くことはなく、雪歩から目を逸らすようにうつむいた。

「……心配されるほど、わたくしの様子はおかしかったのですわね」

 声のトーンは一段階低い。言葉にしなくても、その態度は遠回しに肯定しているように見えた。

「だから、何でも相談してください。これでも、アイドルとしてなら先輩ですから」

「…………」

「千鶴、さん?」

「……ふふっ」

 しばらくの間、無言で歩き続けていた千鶴が不意に眉を下げて小さく笑った。

「そうでしたわね。雪歩ちゃんは、頼れる先輩でしたわ。……ありがとう、気にかけてくれて」

 苦笑がほんの一瞬だけゆがむ。それを指摘するよりも早く、千鶴はぎゅっと目を閉じ、ゆるく笑った。彼女の態度に、雪歩の心の内側で警鐘が鳴り響く。距離を取られている、そう気づいた時にはもうかける言葉がなくなっていた。

「でも大丈夫。少し、気疲れしていただけですわ」

「でも、やっぱり……」

「雪歩ちゃん、安心してくださいまし。わたくしはセレブとして、誰かに心配をかけてしまうような振る舞いはしないと約束しますわ」

 千鶴は強気な笑顔を浮かべていた。だけど、それを浮かべるに至るまでの複雑に揺れ動いた表情が、言葉通りに受け取ることを拒ませる。
 だけど、どれだけ歩みを遅らせても、彼女からそれ以上の弱音がこぼれることはなかった。笑顔が崩れて張り詰めた素顔が垣間見えたとしても、決して千鶴は口を開かない。
 それは雪歩に対してさえも相談できないような何かを、千鶴が抱えているという事実に他ならなかった。先輩という肩書を持ち出すようなズルをしても、自分では役者不足だったのだ。雪歩にとって、その事実がいちばん胸を締め付けた。




「お帰り、雪歩さん。話はできた?」

 雪歩と千鶴が買い出しに行ってからしばらく。桃子は時間つぶしも兼ねて読んでいた台本から視線を上げ、一人戻ってきた雪歩を迎えた。
 千鶴はこれ以上世話になるわけにはいかないからと買ってきた日用品の整理と収納を一手に引き受けているそうだ。彼女らしいと思うし、報告を聞く丁度いいタイミングができたことは、桃子にとっては都合がよかった。

「うん。……ロコちゃんは?」

「お仕事が入ってるって、行っちゃった。もう、お兄ちゃんはロコさんにムリさせすぎ。公演が終わったら、皮算用をみっちり反省してもらわないと」

「あはは……お手柔らかにね?」

 プロデューサーへの不満は話し出せば幾らでも出てきそうなものだけど、今はあまり関係のない話だ。桃子は思考を切り替えて、向かいの席に座った雪歩の方へ向き直る。

「それで、千鶴さんの様子はどうだった?」

「……話してくれなかった。やっぱり、何かあるとは思うんだけど……本当に、私たちに心配をかけたくないみたいで」

「……ふぅん」

 五分五分くらいかな、と思っていた。千鶴が何か言えない事情を抱えているという確信はあった。ただ、彼女がどれくらいそれを隠そうとしているかまでは、桃子に推し量ることはできなかった。だから聞き出せたとしても、そうでなかったとしても不思議ではない。

「……やっぱり、私なんかが相談に乗ろうだなんておこがましかったんだよね。あはは……」

「雪歩さん……?」

 自嘲するような色が、雪歩の声音からは滲み出ていた。具体的な行き先を持たない誤魔化しの笑いが空虚に響く。

「ううん、仕方ないの。だって私、先輩って言ってもこの通りすごく頼りになるってわけじゃないし、みんな色々心配なことがあるはずなのに、何にも解決できてないし……」

「……そういう自分が、一番いろんなことを心配してて、だからみんなにもそれが伝わってるんじゃないかって思うと、申し訳なくて」

 こぼれ出て、止まらないみたいだった。誰にも聞かせるつもりのない独り言のようで、それでも桃子が受け取ってしまうような指向性を有していた。こんなにも明確に負の感情を溢れさせている雪歩の姿を、桃子は初めて見た。

「雪歩さん」

「あっ、ごめんね……。こんなこと、聞いてても面白くもなんともないし、壁とでも話してろって感じだよね」

「まったくもう……そうじゃなくて」

 声をかけても変わらない様子に、小さくため息をつく。自虐的な表情を浮かべる雪歩の姿に全くショックを受けなかったと言えば、それは嘘になる。だけどそれ以上に、自身を貶めている彼女の言動が気に食わなかった。
 だって、そう。桃子が悩んでいた時に一番欲しかったもの……桃子すら気づいていなかったそれを、一番優しいカタチでくれた人が傷つけられているのだから。
 強引に雪歩の手を取った。手の大きさが少し足りなかったけど、両手で無理やりに包むようにする。少し前まで冬の寒さと戦っていたその指先は、まだひんやりと冷たかった。

「……別に何か解決したわけじゃなくても、桃子は雪歩さんにこうされてて、楽になったよ」

「…………!」

 雪歩は少しだけ目を丸くして桃子の方をじっと見ていた。あの時、雪歩はどんなふうにしてくれていたっけ。思い出そうとしても、今は冷え切ってしまっている彼女の手のあたたかさしか浮かばなかった。だからもう、思ったことをそのままに。

「心配事があっても、不安でも。……楽になったら、頑張ってみようって思えた。ちょっとだけ、建設的に考えられるようになった。それじゃ駄目なの?」

「……ダメ、じゃない。……のかな?」

「わかんない。だから、聞いてる」

「……桃子ちゃんの手、あったかいね」

 ふ、と。雪歩は力が抜けたように微笑んで、桃子の手を頬っぺたまで引き寄せた。滑らかで、握っていた手よりもずっと柔らかい感触を手の甲に感じる。

「……っ。いいけど。そのままで、いいけど…………恥ずかしい」

 ぼそぼそと、消え入るような桃子の声は雪歩には届いていないように見えた。聞かれていたとして、それはそれで気恥ずかしいから都合は良かったのかもしれない。それに、雪歩の冷やっこい頬っぺたに手をむにむにと押し付けられる感覚が心地いいのも確かだし。
 しばらくの間……少なくとも、桃子が雪歩の体温を冷たいと感じなくなるまでそのままでいた。そろそろいいか、と思った桃子は、いたずらっぽく笑いかける。

「雪歩さんって、時々びっくりするくらい大胆だよね」

「え? ……ああっ! ごごごめんね桃子ちゃん!」

 一瞬フリーズした雪歩は、桃子の予想と全く違わない反応を返した。わたわたと慌てて煙を吹きそうなほどに赤面した彼女の様子を、桃子はくつくつと笑いながら眺めていた。




 何が重なったのか、ひどく頑なに口を閉ざされたものだと桃子は思う。胸を張って未来を語っていた時の活き活きとした姿は、もう振る舞いにしか残っていないように見えた。
 悩んで、もやもやして、でも打ち明けようとすることもできなくて……それなら何でもないように見せた方がずっと良いから、普段の自分を演じている。こと演じることについては一家言もっている桃子にとって、そういう様子はむしろ異変を浮き彫りにして見せているようで気持ち悪かった。
 ただ、そのきっかけは自分だったかもしれないと桃子は自省する。最初に不和を起こしたのは間違いなく自分だ。それが巡り巡ってこの結果を招いていたとして、何もおかしくはなかった。今桃子が感じているものだって、ひどく余計なお世話なのかもしれない。でも。
 桃子の考えを変えたのが、そういう余計なお世話であることは間違いないから。自分の手を簡単に包み込んでしまえる、あたたかでやわらかな両手の感触を覚えているから。
 伝えてみようと思う。嫌なものにばかり気付いてしまうどうしようもない目聡さを、変わってほしいという願いで包んで。今一番歪んだ演技になってしまっている彼女に。

 まとまった考えを、オレンジジュースと一緒に飲み込む。ドリンクバーと、セットにして安くするために頼んだアイスクリームを前にして、桃子は禁煙のテーブル席に一人で座っていた。

『二人で話したいことがあるから、今日の空き時間にファミレスで待ってる』

『わかりましたわ』

 今朝方、千鶴に送ったメッセージの履歴を読み返す。少し強引な誘いと手短な了承の返事は、ちょっとだけ重苦しい空気を感じさせている。断られたくないからって、ストレートに書きすぎたかもしれない。
 アイスクリームを食べ終わったくらいのタイミングで、待ち人はやってきた。

「お待たせしちゃったみたいですわね。桃子ちゃん、お話というのは?」

「桃子が早く来ただけだから気にしないで。それと、先に何か頼んだ方が良いと思う」

 それもそうですわね、という言葉と共に千鶴は席に座る。そのままメニューを見ることもなく呼び鈴を鳴らし、ドリンクバーを単品で注文した。随分と慣れた調子で、それを気にした様子もない。庶民的なお店がどうこうと自分から言い訳をしていた姿も桃子の記憶には残っているのだけど、今日は違うようだ。
 空になった桃子のグラスも一緒に持って飲み物を取ってくる彼女の様子を、桃子はやっぱり手慣れているな、という感想を抱きながら眺めていた。

「ありがと。それじゃ話に入るね。……単刀直入に」

 自分の考えていることをまっすぐに伝える上で、前置きとか口調に気を遣えるほど、桃子は自分自身というものをしっかり理解していないから。直接的な言葉で、遠慮なく、はっきりと口にする。

「千鶴さん、最近何か悩んでるか、隠してるよね? 様子、ヘンだよ」

「……! コロちゃんにも、雪歩ちゃんにも似たようなことを聞かれてしまいましたわ。そんなにおかしいかしら、最近のわたくしは」

 千鶴の反応からは、何を問われるのか想像がついていたような様子がうかがえた。返答は淀みない。確信を持つだけの根拠がなければ、これ以上の追及はためらっていただろう。

「それを認めないで誤魔化そうとするところが、二階堂千鶴らしくない。心当たりがないならなおさら、どこがおかしかったのかを聞いてすぐにでも改善しようとするのが、桃子から見た千鶴さんのイメージだったけど……違う?」

 疑問形でありながら、桃子の言葉は返答を求めていなかった。二階堂千鶴らしくない……桃子の含んだ言い回しに、千鶴は瞳を揺らす。

「どうして、そう思いますの?」

「だって千鶴さん、普段から自分を演じてるでしょ。他の人がどうかは知らないけど、桃子はそういうの、ちょっとだけわかるから」

 そして、それを指摘することがひどく無遠慮で無粋な行為であることも、桃子は理解している。だから今まではっきりと指摘することはなかったし、今はそれを言わなきゃ仮面を崩せないくらいに、千鶴が頑なになっているように思えた。
 きっと千鶴には、見て欲しいと感じている自分の姿がある。それを保つために、時に不自然にも思える言動をしてしまう時もある。お仕事の中で愛想よく演じる必要性は桃子にも理解できるけど、プライベートでそれを徹底する理由まではわからない。でもきっと、千鶴にとってはそれもまた必要なことだ。
 だから、桃子にとってこの場所が、自分の感性で千鶴に踏み込める限界。これ以上は偏見か憶測か、心ない言葉で無理やりに踏み荒らしていく行為に他ならないだろう。ついこの間、ロコにしてしまったように。
 千鶴が着けている仮面とその綻びを同時に指摘してもなお、彼女が素顔を晒せないというのであれば……その時は潔く諦めるしかない。

「そういえば、女優でしたわね、桃子は……敵わないわけですわ」

「話してくれるつもりになった?」

「ええ。ここまで言い当てられてしまったら、これ以上隠していても仕方ありませんもの。それに……」

「桃子なら、ここだけの話にしてくれそうですから」

 千鶴はバッグから折りたたまれた数枚の紙と、ブレスレットのようなものを四つ取り出した。ブレスレットはどれも似たようなデザインで、煌びやかでありながら柔らかさを感じさせる。そして一様に、どこか簡素で物足りない印象を桃子に与えていた。

「……それは?」

「ロコアート。それとそのデザイン画みたいですわ」

 千鶴の手によって開かれた紙には、確かに机の上のブレスレットによく似た絵が描かれている。沢山の文字で埋め尽くされていて、よく見えない部分もあるけれど。

「……ふぅん。ロコさんが作ってるアートって、オブジェみたいなものだと思ってたけど……こういうのもあるんだ。でも、ちょっとシンプルすぎるデザインかな」

「それはきっと、これがまだ作りかけだからだと思いますわ」

 みたい、きっと……千鶴の言葉の節々には違和感があった。ほんの少し考えてみれば、その感覚はそもそもの部分で生じうる疑問につながっていることに、桃子は気づく。

「……あれ。でも、どうしてそれを千鶴さんが持ってるの?」

 そう。ロコアート、それも完成品でないものや、誰かに渡す理由もないはずのデザイン画を千鶴が持っていること自体が妙なのだ。千鶴は数秒ためらい、そして諦めるように口を開いた。

「…………捨てられていましたの」

「……え?」

 想像もしていない答えが返ってきた。ロコと、アートを捨てるという行為が桃子には全く結びつかなかった。

「劇場のゴミ出しを手伝っていた時に、偶然気づいたんですわ。デザイン画とにらめっこしている様子を見ていたから、目に映ってしまって」

「でも、どうして捨てるなんて……? 確かに最近、ロコさんからアートの話はあんまり聞かないけど」

「……コロちゃんにとってアートは、気持ちを伝えてくれるもの、らしいですわ。自分の言葉が人に伝わりにくいと、悩んでいるみたいでした」

「それじゃ、なおさらアートを手放す理由がわかんない。……大事な物の、はずでしょ?」

 桃子は苦々しげに疑問を重ねる。ロコが自身の言動について自覚していた……それどころか気にしていたと聞いて、無遠慮な言葉を突き付けていたことへの罪悪感に苛まれた。

「アートに頼らなくても、言葉で気持ちは伝わる、と。わたくしは、そう言ってしまいましたの。……コロちゃんはわたくしの言葉を信じて、決心したのだと思っていますわ。でも……」

 千鶴はデザイン画を桃子の方へ差し出した。傍目から見てもわかっていたことだけど、改めて近くで見たそれは、まさしく情報の塊だった。
 “みんなの腕にフィットするようフレキシブルに” “やわらかさとゴージャスさ、予算のバランス” “モモコはどんなデザインがフェイバリット?” “サビの右手を掲げてスウィングする振り付けでお揃いだって伝われば、きっとファンタスティックなインプレッションになるはず!”
 他にも数えきれないほど、ロコの思索の跡が記されている。読みつくすことも、語りつくすこともすぐにはできそうにない。でも、簡単にわかることが一つある。
 ロコは公演の時にみんなで身に着けるためのアクセサリーをアートとして作っていたこと。デザインには、みんなが表現したいと語った言葉が取り入れられていること。そのみんなの中に、当然のように桃子も含まれていたこと。

「……そんな、これ」

「ここに書かれている言葉の、ほんの一部しかコロちゃんの気持ちとして受け取れていませんでした。わたくしは、耳障りのいい言葉を並べていただけでしたわ」

 千鶴の言葉が、ずっと遠くの方で聞こえるように桃子には感じられた。こんなの、知らない。聞いてない。アートを送る相手への気持ちが、ロコが口にすることのできなかった言葉が、溢れるほどに詰め込まれている。

「千鶴さん、ロコさんとその話をしたのっていつ。教えて」

 余裕のない早口で、桃子は問いかけていた。答えは想像がついていたけど、そうでなければいいと心から願っていた。

「…………ちょうど、コロちゃんと桃子ちゃんが喧嘩した日の夜、でしたわ」

「っ、ぅく……そんな、の」

 感情のままにロコに打ち付けた言葉がフラッシュバックする。

 ――ロコさんにとっては桃子たちとレッスンすることよりも、アートの方が大事なのっ?
 ――アートなんかにかける時間があるなら、今は少しでもレッスンしなきゃでしょ!?

 なんてこと、言ってたんだろう。ロコはずっと公演のためにアートを作っていたのに。みんなのことを……ロコに対していい態度を取っていたとは決して言えない桃子のことすらも考えて、ここまで形にしたというのに。その情熱を、向けてくれていた優しい気持ちを、真っ向から否定していたのだ。
 それでもなお、仲直りをして、ずっと普通に話してくれていたことが、桃子には信じられなかった。余りにも釣り合いの取れていないお互いの感情が、重くのしかかるみたいだった。

「桃子、は……」

「桃子、あなたの気持ちは想像することしかできませんけど……これだけは胸に留めておいて。コロちゃんがこのアートを捨てようとした理由は、決して桃子にはないですわ」

「…………気休めは、よしてよ。そういうの……」

「気休めではありませんわ」

「確かに桃子は、コロちゃんにひどいことを言ったかもしれませんわ。でも、このアートが完成していたら、コロちゃんの気持ちだってはっきりと伝わって、わだかまりを溶かしてくれたとわたくしは思います。……そういう可能性を奪ったのは、わたくしですわ」

「…………」

「二階堂千鶴ともあろうものが、女の子ひとりの気持ちを汲んであげられず、大切なものを自分から捨てさせるなんて……。本当に、セレブらしからぬ振る舞いでしたわね」

 千鶴は自嘲するように、懺悔するように、あるいは桃子に向けられているかもわからない言葉を吐き出していた。だからこそ、下手な慰めよりもずっと、桃子の心を楽にした。

「ありがとう、桃子。吐き出すだけでも楽になるものですわね。そして、ごめんなさい」

「謝らなくて、いい。桃子が聞きだして、千鶴さんが答えただけでしょ」

 感謝だって、桃子がしてもらうような筋合いはないと思うけど、それでも否定はしなかった。桃子は暗黙の中で連帯感のようなものが生まれるのを感じた。
 話せないな、と思う。ロコにアートを作ってほしいと願ってしまった。不合理な考えだってわかってるし、自分にそんなことを言う資格なんてないことも、十分に理解している。だって、桃子は否定してしまった側の人間だから。
 でも、嬉しかったんだ。この気持ちは嘘じゃない。嘘にしたくない。
 この話がロコに伝われば、自然と話の焦点はアートの処遇に向かうだろう。そうなってしまった時のロコの答えを、桃子は聞きたくなかった。もういらない、って。そう言われてしまうのが怖かった。




 本番と同じ環境で練習する機会を数多く用意することができることは、765プロが劇場を有することによる恩恵の一つとして挙げられる。特に、新人アイドルにとっては公演によって顔を知ってもらう機会を増やせることに並ぶ大きなメリットと言えるだろう。
 当然ながらスケジュールの調整は必要になるものの、外部の会場と比べればそのハードルも大幅に低くなる。公演やその準備、片付けが入っていない時間であれば、ステージの広さに合わせた動きをするための練習も比較的気軽に行えるわけだ。

「衣装に袖を通して、本番と変わらないステージの上で歌い踊る……プロデューサーは気負うほどのものではないと言っていましたが、一種のリハーサルのようにも思えますわね」

「全体の流れを確認するための通し練習だから、ちょっと似てるかも? 練習には変わりないですけど」

 薄暗い舞台裏に四人揃って小声で話していた。千鶴と雪歩の言葉に、ロコは小さく身体を震わせる

「あ、改めてそう言われるとちょっとだけ緊張しますね。モモコは……こういうの、慣れてるんでしたっけ」

「え? ……え、と、うん。別に、ステージに立つなんて、珍しいことじゃないし」

 何か別のことを考えていたというわけでもないはずだけど、桃子の反応は薄く、遅れていた。少し気にかかったけど、公演で披露する曲はロコのソロが最初だ。今回はMCのパートを飛ばして進行するから、そろそろ舞台に上がらないと。

「……そうですか。それじゃあトップバッター、行ってきますね!」

 いってらっしゃいの声をひとつ背に受けて、ロコはステージへと駆けていく。ステージライトは簡素で客席も空っぽ。初めて見る光景でも何でもないのに、どうしてか胸の内側がざわついた。
 無音の舞台に、ロコの曲が流れ始める。ロコはマイクを握り、アップテンポな音楽に合わせてステップを踏む。そして、歌いだす。
 マイクを通じて劇場の音響機器から流れるロコの歌声は、彼女の耳に普段のレッスンと全く違う響きで届く。初めての経験じゃない。困惑するほどのことでもない。そのはずなのに、ロコはどうしてか追い立てられるような不安に駆られた。
 ロコは、歌を通じて表現したい感情をきちんと表に出せているだろうか。踊りはどうだろう。そんなような言葉が頭の中をぐるぐる回る。集中しているとは、とても言えない状態。
 だから、それは必然だった。ターンが一呼吸遅れたことに気づいて、焦って次のステップを踏もうとしたら、ロコの身体はおおよそ立っていられるはずもない姿勢になっていた。がたん、と硬質な音を何倍にも大きくした雑音がスピーカーから響く。

 盛大に転んでいた。その事実に気づくまでにも数秒の時間を要した。はっとして地面に転がったマイクを拾う。プロデューサーが心配して音楽を止めるその前に、もう一度歌い始める。必死だった。
 ダンスも区切りのいい所から再開して、ただやりきることしか頭になかった。気づけば曲は終わり、その間の記憶は、ほとんど残っていなかった。

 誰もいなくても、ステージに立っているアイドルとしてのプライドがロコの姿勢を保っていた。でも客席から見えない場所まではけてしまえば、もうとぼとぼと歩くばかりだ。

「その……大丈夫ですの、コロちゃん?」

「ノットソーグッド、です……。じゃなくて、ロコのことよりもまずはファイトですよ、チヅル!」

「……そう、ね。いってきますわ」

 次の出番のためにステージへ向かう千鶴には、情けない姿を思いっきり見られてしまった。張り詰めた、あるいは物憂げな千鶴の表情が瞼の裏に張り付いている。自分のせいであんな顔をさせているのだとしたら嫌だな、とロコはうつむいた。それは、なおさら暗い顔を強調させてしまうというのに。

「……ただいま、です。クールに決めたかったんですけど、ダメでした」

「おかえりなさい。……そういう日もあるよ。次、頑張ろう?」

 光の届かない舞台裏に戻ってきた。雪歩の優しげな声が、少しだけロコの気持ちを楽にした。
 桃子はロコから目を逸らしている。面持ちはほろ苦く歪んで見えた。……ロコのミスをみんなに引っ張ってほしくなんてないからと、声をかけてみるけど。

「……その、モモコ」

「…………ごめん。励ましとか、そういうの、思いつかないの。……また酷いこと、言っちゃうかもしれないから」

 返ってきたのは、配慮に包まれた否定だった。桃子の指摘は確かに厳しいものも多くて、怖いと感じることもある。でも、それ以上に苦しいのは、これから立つ舞台に注がなきゃいけない集中を桃子から奪ってしまうことだ。
 伝えようにも、どうにもできなかった。ただ、桃子の気遣いを無駄にしないために押し黙ることが、ロコにできる全てだった。


 ロコの心配とは裏腹に、その後の練習は大きなミスもなく順調に進んだ。だけど、全体曲だけはまだ上手くいかなくて、四人の動きは揃ったり揃わなかったり……ぎこちなくほんの一部分だけが重なり合っていた。




 ――最近、チヅルとモモコがよそよそしい。
 がたんがたんと揺れる電車の中で、ロコはそう思っていた。レッスンの合間に挟まっていたお仕事を終えて、これで残りはあと少し。もうすぐレッスンに専念できるようになるというのに、それとはまた別の不安を抱えてロコは一人で劇場へ帰っていた。プロデューサーは他のアイドルのお仕事のためとかで、直接車を回して次の現場へ向かっている。

 ロコの中で根を張って、芽を出し始めているこの感覚は、いつか千鶴の様子がおかしくなった時と同じものだ。最近の彼女は少し落ち着いてきて、いつもの頼れる千鶴に戻ったようにも思える。だけど、ロコに対する態度のぎこちなさだけは変わっていなかった。
 桃子は……わからない。千鶴と同じように、前触れなく変わってしまった。口論になったわけでもないし、仲良くはまだできていないかもしれないけど、普通に話せていたはずなのに。
 ……あるいは、そう。この前の通し練習で思い切りやらかしてしまったから、愛想をつかされたとか? 想像するだけでぞっとして、頭を大きく振った。
 考えを止めて窓の外の景色を眺める。電車の窓と席の配置は、座りながら外を眺めようと思うと少し不親切だ。無理やりに身体をねじらないといけない。ちょっとつらい姿勢になってまで見えたのは、知らない街並みが記憶にとどめる間もなく流れていく光景だけだった。

 気を紛らわすには面白みの薄い車窓から目を離して、またとりとめのないもの思いにふけってしまう。二人とも何かを知られたくないみたいだと感じた。それは、ロコの持つ感情と真逆のものだった。
 伝えたいのに、伝えきれない。何をしようとしてもついて回る感覚だった。アートを通じてしか満たされることのないロコの渇望だった。伝わればきっと認めてもらえるのに、なんて、そんなのはただの自惚れだってわかってるけど。
 桃子に普段使っているカタカナ語を教えようとしたことがある。ひとつひとつの単語の意味を日本語にして、それだけのことだと思っていたけど、それは大きな間違いだった。
 説明するたびに自分がその言葉を使っているときのニュアンスとズレが生まれていくのだ。誰のものでもないロコの感情が、どこにでもあるものになってしまうようで怖かった。桃子がその、正しく伝えられていると思えない説明に納得していたことも、恐怖をより大きくした。
 結局、カタカナ語を教えるという約束は一度限りで途絶えている。今の桃子にそれを持ち掛けても受け入れてくれるか分からないし、そもそもロコ自身がこの行為を続けたいと思えなくなっていた。

 最近、ふと気づいたときに両手が虚空を動いているときがある。無意識のうちに、アートを作るように何もない場所を行ったり来たりと……まるで禁断症状だ。
 アートに熱心になりすぎることで迷惑をかけてしまったから。アートがなくても大丈夫だって背中を押してくれた人がいたから。だから、ロコはアートを捨てる決意ができたというのに。
 行き詰ったわけでもなく、作り足りないアートを捨てたのは初めてだった。思い出すたびにかぶりを振って思考の外へ追い出そうとしている。それでもまた、ふとしたときにロコの指先は何もない場所にその続きを作り出そうとするのだ。
 アートを作りたい。アートを作りたい。まるで呪いみたいだ。

「……はぁ…………」

 大きなため息が出た。誰かと話せば気も紛れるだろうか、と思い立って今日のスケジュールを確認してみる。劇場に帰って来れる頃には、雪歩が空き時間であることが分かった。
 千鶴や桃子は更にもう少ししないと時間が空かないらしい。少し安心してしまったことに、ロコの胸はじくじくと重く痛んだ。

『ユキホ、今劇場にいますか?』

 期待して不在だったなんてオチがついたら切ないからと、メッセージだけ送ってみる。返事が来るのは、あともう一つ電車を乗り継いだ後かな。ロコは降りる予定の駅名がアナウンスされたことに気付いて、席を立った。偏った暖房のおかげで、ふくらはぎの辺りだけやけに暖かかった。




 こうしてみんなにお茶をいれるのも、なんとなく板についてきたかな、と雪歩は思う。もうすぐ劇場に戻ってくるはずのロコのために、とびきり熱いお茶を用意していた。
 ちょっとだけでいいからお話したい、とメッセージが届いたときには少しだけ驚いたけど、そういう受け皿に自分がなれるのであればそれは願ってもないことだと思う。ロコが精神的にも本調子でないことは彼女の素振りからも感じ取れたから。
 何かを解決してあげなくちゃと気を張る必要はない。話を聞いて、寄り添って……それだけで、相手が乗り越えるための勇気を少しでも蓄えられるなら、それで十分。桃子から教わったことを、心の中で繰り返す。
 控え室の扉が開く音がした。水玉模様の黒いリボンで髪を結んだ少女の姿に、雪歩はゆるく微笑む。出来上がったばかりのお茶を湯のみに注いで、ロコに差し出した。

「ロコちゃん、おかえりなさい。お茶をいれたところだから、どうぞ」

「サンクスです、ユキホ。それじゃあ遠慮なく……熱っ!?」

 でも、雪歩は忘れていたのだ。長いこと暖房の利いた室内にいた自分の手と、さっきまで外にいたロコの手の温度は大きく異なっていて。つまり、雪歩には温かい、程度で済むはずの湯のみが、ロコにとっては持っていられないくらいに熱く感じられるということを。
 重力に従って落ちていく湯のみは、地面にぶつかったときの衝撃に耐えきれなかった。

「あ、そ、ソーリーです!」

「私こそごめんなさい、ケガしてないっ? やけどは?」

 大慌てでロコの元へ駆け寄る。見たところお茶がかかっていたり、手を切っていたりする様子はなくて安心した。ロコは眉を下げてうつむく。

「ロコはノープロブレムです。でも、湯のみが……」

「よかった……湯のみはまた新しいのを買えばいいから、気にしないで。とりあえず、片付けちゃおう」

「わ、わかりました。ロコはほうきとちりとり……あと、破片を入れるための袋を取ってきますね」

 動揺しているようにも見えるけれど、彼女の判断は素早かった。アートの関係で割れ物の扱いには慣れているのかな、とすぐに納得して、雪歩は濡れ布巾を用意することにした。
 ロコを待つ間に思い切りお茶がこぼれてしまった床をふき取っていく。まずは破片が余り散らばっていない方から、それでも念の為注意深く。
 小さなほうきとちりとり、そしてビニール袋を手に戻ってきたロコが欠片を一つ一つ回収していく。さっきまで湯飲みの形をしていたそれが一通り袋の中に収まってから、改めて床を拭きなおした。

「目に見えないくらいのピースがついてるかもしれませんから、布巾を流すときはケアフルに、ですよ」

「うん。……ごめんね、帰ってきて早々ばたばたしちゃって」

 片づけを一通り終えて、改めてお茶をいれなおすことにした。雪歩の分を飲んでもらおうかと思ったけど、申し訳ないからと断られてしまった。

「……ユキホ、ロコは……色んなものをダメにしていくばっかりじゃないでしょうか」

 ロコは割れた湯飲みのかけらをじっと見つめたまま、暗い声でそうこぼした。まるで、これが動かぬ証拠だと信じきっているみたいに。

「上手くいかないことばっかりで、ままならないことばっかりで、ロコは何も出来ないんじゃないかって。みんな、離れていっちゃうんじゃないかって」

「大丈夫、私は、そうは思わないよ。……ゆっくりでいいから、話してみない?」

 フォローを入れようとした。それとなく、吐き出してもらおうと思った。だけど、ロコは緩慢な所作で首を横に振った。

「……ダメなんです。ロコには、この感覚を伝えることなんてできないんです」

「そんなことないよ。ロコちゃんの言ってること、ちゃんと」

「違いますっ! そんなはずないっ。だって、ロコ自身が誰よりも、ロコの言葉がロコの気持ちと違うことを、わかってるんですから!」

「っ……!?」

ロコは言葉とともに、だん、と両手で机を突いて立ち上がった。目を見開いて、余裕なく叫んで……その勢いは、すぐに失われていったけど。

「それに……それに、みんなロコに気を遣って、悩んでるところを見せないようにして」

「そんなロコが、みんなに何を伝えられたって言うんですかぁ……っ!!」

 その声音は胸が詰まるほどに痛切で、震える姿は手を差し伸べることすら躊躇わせるような激しい情動を抱えて見えたから。雪歩には、何もできなかった。
 ロコから伝えてもらったこと……数えてみれば、言葉にすれば、すぐに時間が過ぎていってしまうくらいたくさんあったはずなのに。たった今ぶつけられた一言に勝る感情が、雪歩には見つけられなかった。その事実が、どうしようもなく悲しいのだ。

「ロコ、ちゃん……」

「っ……! ぅ、あ……。その、ユキホ、ごめんなさい。……頭を、クールダウンしてきます」

 はっとして、ロコが申し訳なさそうに背を向ける。落ち着いて、そして落ち込んでいるように見えたけど、それ以上に暗然とした決意を感じさせた。

「しばらく時間がかかるかもしれません。だから、レッスンもお休みします。……きっとモモコが知ったらアングリーでしょうけど……ロコを庇ったり、しないでください」

「え、ロコちゃん、ちょっと」

「チヅルには……やっぱりロコにはできませんでした。ごめんなさい、って。伝えてください」

 ぽつり、ぽつりと矢継ぎ早に。雪歩の言葉を押しつぶすように。返事はいらないから、代わりに伝えてほしい……そんな、置手紙のような言葉だった。




『事務所に戻ったら控室に来てください』

 個別レッスンが終わり、雪歩から届いたメッセージに従って劇場の廊下を歩いていた千鶴は、こちらは仕事終わりと思しき桃子と鉢合わせした。

「お疲れ様ですわ。もしかして、桃子も雪歩ちゃんに呼ばれて?」

「……ってことは、千鶴さんも? ステージ練習を踏まえてミーティング、とかかな」

「かもしれませんわね。待たせてしまってはいけませんし、向かいましょうか」

 二言、三言を交わし、足早に指定された部屋まで向かう。開いた扉の先で、深刻そうな表情をした雪歩が一人で待っていた。それだけで、尋常でない様子を感じ取ってしまう。

「雪歩ちゃん、どうしましたの?」

「あ、二人とも。……その、ロコちゃんが」

 いやな予感が膨れ上がった。それが確証に変わってしまうよりも早く、雪歩は言葉を続ける。

「しばらくレッスンを休むって……。それで、千鶴さんに伝言してほしいって」

「……コロちゃんは、なんて?」

 声が震えなかったのは、ほとんど奇跡だった。すぐに打ち砕かれて意味をなくしてしまう、脆いものでしかないけれど。

「やっぱりロコにはできませんでした、ごめんなさい……そう、言ってました」

 ぎゅっと目をつぶって、ぎりぎりと音が鳴りそうなくらいに雪歩の言葉を噛みしめた。そうしないと、二階堂千鶴が一片も残さずに崩れ落ちてしまいそうだったから。

「ろ、こ……? それって、どういう……」

 千鶴の隣で呆然と声を震わせる桃子のように。彼女の姿が、かえって千鶴を踏みとどまらせた。
 ロコがこの前の通し練習での失敗を気にしている様子はあった。でも、できなかったという言葉は、そのことを指すものじゃないだろう。きっとそれはアートに頼らず言葉で気持ちを伝えるというロコの決心についての言葉だ。

「雪歩ちゃん、もう少しだけ、詳しく聞かせてもらっても、大丈夫かしら?」

「うん。そのために、来てもらったから。……二人も、話、聞かせてほしいな」

 そうして、雪歩はつい先ほどの出来事を語り始めた。その内容は――


 ――千鶴の中で、自分のしてしまったことを繋げるに足るものだった。読み取れていなかった空白を理解してしまえば、自分が守ろうとしていた二階堂千鶴が、いかに矮小かを思い知らされるようだった。

「…………自分に、怒りを通り越して呆れしか出てきませんわ」

 そう、簡単に言ってしまえば一言で済む話。千鶴がロコに説いた言葉とは裏腹に、千鶴自身はロコに何も伝えようとしていなかったのだ。
 頼りになる、と小さくこぼしたロコの言葉を、その幻想を守りたくて……いや、それも美化している。誰かに頼られる二階堂千鶴を守りたい一心で、彼女の気遣いを受け流した。それがロコの自信を奪い続ける行為だって、自覚もせずに。
 千鶴こそが、真っ先に心を明かしてロコを支えてあげなきゃいけなかったのだ。ただ一人、それができるはずだったのだ。言葉を受け止めていたはずのに、彼女から伝えられたもの一つ教えてあげられなかったから。だから今、ロコは苦しんでいる。

「わかってしまえば愚かな話ですわ。聞き苦しい話になるでしょうけど……聞いてくださるかしら」

 頷く雪歩に、これまでのことを一つ一つ語っていった。ロコの相談に乗ったこと、その結果としてロコがアートを捨てたこと、捨てられたアートから受け取れた情動が、千鶴が言葉から受け取っていたそれよりも何倍も大きくて動揺したこと。そして、一人で抱えると決めたこと。その態度がロコをなおさら傷つけたのだと思うこと。
 見つけて以来ずっと離さずに持ち歩いているブレスレットも机に並べて、取りこぼさないようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
 桃子は眉を寄せ、目を薄く開きながら、苦々しく。雪歩は膝の上に重ねた両手を時に握りしめながら、悲しげに。いずれも重い沈黙と共に千鶴の話を聞いていた。

「桃子には、このことを少しだけ話していました。……コロちゃんに直接伝えていないというのに、一度吐き出して少し満たされてしまったことも、酷い勘違いですわね」

 雪歩は小さく息をつき、話を終えた。数秒、間が空いて。

「……ロコ、今何してるんだろ」

 桃子が掠れた声で小さくこぼす。

「そっとしておいた方が、いいのかな。……桃子にできること、何もないし」

 本当は何かしたくてたまらないのだと痛いくらいに伝わってくる。彼女もまた、ロコにつけた傷が鎖のように重く絡まって動けなくなっていた。
 それきり桃子も口を閉ざした。どこかから届いたピアノの音だけが、空間を揺らしていた。

「みんなの話、聞けてよかった。……私、そんなことがあったなんて全然知らなくて、先輩なのにって思ってばっかりだけど」

 雪歩は目を瞑り、静かに涙を流すようにそう言った。頬を濡らすしずくはどこにもないけれど、透明な声が千鶴の胸に響く。

「今は伝わってるよ。すごく、苦しくなるくらい。千鶴さんも、桃子ちゃんも、ロコちゃんも……こんなに、ううん、もっともっとつらかったんだよね」

 哀感のこもった、だけど悲痛ではない言葉。雪歩は眉を下げて、それでも微笑みとしか呼びようのない表情で静かに言葉を紡いでいた。

「でも、まだ誰かが誰かをどうしようもなく嫌いになったわけじゃないんだって、わかったから……安心したんです」

 雪歩は片方の手で机の上のブレスレットを愛おしげに撫でて、もう片方の手を胸元でぎゅっとかき抱くように握った。

「だって、ロコちゃんが捨てようとしてしまったものも、千鶴さんはちゃんと拾ってくれたから。持っていてくれたから」

「だから、壊れてない、残ってるって思えるんです」

 少しだけ、千鶴の目元がうるんだ。裏目だらけの自分の行動を、肯定することだってできるんだと思うだけで、少しだけ気力が込み上げてきた。

「そうですわね。過去の行いをどれだけ省みても、未来につながらなければ意味がありませんわ」

 手放そうとするどころか、持ち出さずに置いておくことすらも千鶴に躊躇わせていたアートを、改めてじっと見つめた。ひとつ手に取って、腕を通して……また、元の場所に戻す。

「きっと、このためだったのでしょうね。このアートは持つべき人のところへ返そうと思います。コロちゃんにはやっぱり、持っていて欲しいですわ」

「二人とも、少し手伝ってもらってもよろしいかしら?」

 寸前で拾い上げることのできた小さなアートが、四人をもう一度繋ぐ架け橋になってくれますように。そんな願いを込めようと、千鶴は決意を新たにした。




 ――そんなロコが、みんなに何を伝えられたって言うんですかぁ……っ!!

 驚くほどに、どす黒い声が出た。
 きっと、傷つける言葉だ。わかっていた。八つ当たりですらあるだろう。それなのに、信じられないほどストレートに、効果を発揮する言葉を使っていた。
 こんなことだけは、思ったままを伝えられるんだ、と。そんな、何も嬉しくない発見だった。


 ロコは雪歩に伝えた言葉の通り劇場に行かず、レッスンもさぼって、アートを作り始めた。みんなを裏切っているという事実に胸が痛んで、視界が滲むことも一度や二度じゃなかったけど、どうしようもなく楽しかった。楽しくて、時間を忘れて熱中してしまう。苦しかった。

 たくさんのメールやメッセージが届いた。見るのが怖くて、通知を切って開かないようにした。しばらくして着信が来るようになったから、家の電話にはかけないでくださいとだけメールを打って、スマートフォンの電源ごと切ってしまった。
 自分の部屋にこもってアートを作って、数日が過ぎた。次第に楽しさは薄れていって、寂しくなってきた。完成したアートたちだって誰にも見てもらえていないし、きっと寂しいだろう。
 でも、見てくださいなんて、今のロコに言う資格があるはずもないのだ。がむしゃらに思うままをぶちまけたアートは、悲しげな表情をしているようにロコの目には映った。

 みんなのためにアートを作りたい。たったそれだけのことだったはずなのに。

 こらえきれなくなって泣いてしまった。その願いはロコにとって、とっくのとうに矛盾したものになっていた。アートを作ることと、みんなのためになることは、相容れない。
 作業机に突っ伏して、嗚咽交じりでみんなの名前を縋るように呼んで……そのまま眠ってしまってからは、アートを作ることもなくなった。外から届く音をヘッドホンで遮断して、抜け殻みたいにみんなで歌うはずだった曲を聞き続けていた。




 何日経っただろう。何の刺激もない毎日は、数えようとすら思えなかった。そしてそれは、唐突にロコの元へ訪れた。
 小さなダンボールに入った配達物。何かを注文した覚えはないし、贈り物があるだなんて話も、最近どころか生まれてこの方ほとんど聞いたことがない。
 ――ロコに届け物なんて、なんだろう。
 気になって開いた包みには、一枚のDVDと、作りかけのブレスレットが一つだけ入っていた。

「これ、ロコの……。捨てたはずなのに、どうして……?」

 手紙も何も入っていない。メッセージらしきものを伝えてくれそうなのはDVDだけだったから、震える手でパソコンに読み込ませて、中身の動画ファイルを再生した。

 木張りの床に、たくさんの姿見。劇場のレッスンルームだろうか。レッスン着の雪歩と桃子、千鶴が並んで映っている。
 流れ始めたのは、この数日間、ロコがずっと再生していた曲だった。CDが発売されたばかりの、公演も予定されている、未来を夢見るような優しい曲。
 三人が、きれいに歌い、踊っていた。ぴたりと揃った動きに見とれてしまう。ああそうか、ロコがいないうちにこんなに上手くなったんだ。一瞬で理解できた現実に、それでも実感は追いつかなかった。そんなことよりも目の前に流れる映像と音楽に夢中になっていた。
 そして、夢中になっていたからこそ気づかなかったのだ。サビが始まるのと同時に歌声が止んだ。みんなは、笑顔で右腕を高く掲げて。
 三様にデコレートされたブレスレットが、光を反射してきらめいた。

「ロコ! これが、桃子の色。ずっと言えなかった、桃子の色っ! だから……ロコの色も、教えてっ!」

「言葉だけでも伝わることはあるかもしれません……でも、撤回しますわ。だって、伝えられるものは全部伝えなくちゃ、勿体ないですもの!」

「……みんな、待ってるよ。笑い合いたいから。伝え合いたいから。だから……ロコちゃんとも、会いたいな」

 じわりと、滲む。みんなが大きく手を振って……それももう、ぼやけてよく見えないけど。みんなの笑顔は、少しだけ寂しそうで、精一杯で。

「っ、ぅあ、ああぁあぁああ……!」

 まだうまく名前のつけられない気持ちが、優しくあたたかく押しよせてきた。嗚咽の形でしか吐き出せない、ぐちゃぐちゃの感情。
 どうして? どうして? わからない。わからないことばっかりだ。あのブレスレットがみんなの腕に、そしてこの場所にあることもそう。覚えのない飾りが増えたそれをみんなが着けていることもそう。でもなんだか違う、それはぜんぜん大事じゃなくて。ああ、ああ、そっか。そうなんだ。ロコの胸をいっぱいにするこの想いは。
 嬉しいんだ。感じたこともない嬉しさに、どこかのねじが飛んでいってしまったんだ。ようやく理解すると同時に、流れ続けていた曲が止まった。わずかな余韻を残して、動画も再生し終わったみたい。

「っ、ぐす、あ、はは……。なに、してたんだろ」

 難しいことなんて、いらなかったはずなのに。なんだかすごく久しぶりに笑った気がした。
 ……もう一回。もう一回だけ再生したら、作業に取り掛かろう。
 少しだけ未練がましく、でもこれで充電も最後にするから。ロコは目元を拭って再生ボタンをクリックした。さっきはよく見えなかった三人の姿を、目に焼き付けたかった。




 公演を一週間前に控えて、レッスンもいよいよ大詰め。そんな日になっても、ロコはまだ劇場を訪れていなかった。できることはしたはず。そう信じていても、不安は隠せない。
 反応が完全に途切れてからもたびたび連絡をしてみたけれど、どれも繋がることはなかった。プロデューサーに掛け合ってみても首を横に振るばかり。どうしても気になるなら家の方に連絡を入れようかという提案は、ロコの意思を尊重して断ることにした。

「ロコ、今日もまだ来てないね」

「ええ……どれだけの力を尽くそうとしても、これ以上は限度がありますわ」

「だ、大丈夫。きっと、来てくれるよ」

 レッスンルームに時間より早く集まって、そわそわと言葉を交わしあう。最悪の場合、公演は三人で行うことになっていた。時間が経つごとに、不安は倍増しに積もっていく。
 ロコがビデオを見てくれているかすら判然としなかった。彼女があのアートに少しでも未練を抱いていたなら、きっと手に取ってくれるはずだけど。時計の針が動く速度が異様なほどゆっくりにも思えるし、一瞬で過ぎ去っていくようにも感じられた。
 そうして、レッスンが始まる五分前。今日も駄目か、と諦めに近い空気が流れ始めた頃に。

「控え室に誰もいなかったし、もしかしてスケジュールをミステイクしたんじゃ……あ」

 彼女は少しだけ不安げに、それでも三人と比べれば何食わぬ顔でレッスンルームの扉を開いた。目が合って、少しの間お互いに硬直する。

「三人とも、こっちでスタンバイしてたんですか!? ロコはてっきり……うわわっ!?」

 ロコの言葉が終わる前に、三人がロコのもとへ駆け寄る。その中でも桃子は怒りに身を任せた全速力で、半ばタックルのようにロコの身体へ突撃していた。

「ロコ、おっそい! 間に合わなかったらどうするの!? 本当にギリギリなの、わかってるよね!?」

「も、モモコ、テリブルです! どれだけハードなレッスンでもロコはやりきりますから、許してくださいーっ!」

「……うん。いいよ、許してあげる」

 鬼の形相だった桃子は、一瞬でなりを潜めた。ロコは拍子抜けして、ぽかんとした表情を浮かべる。桃子がほんの少しだけ目を逸らした。

「おかえり、ロコ。来てくれて、嬉しかった」

「……はい。ただいま、です。モモコ、チヅル、ユキホ……お待たせしました」

 きまり悪く笑ったロコの右手で、花とリボンをあしらったブレスレットがきらりと輝いていた。




「どうにか、ここまで来れましたわね……!」

「ロコのコンディションはバッチリです! ファンタスティックなステージにしましょう!」

「当然でしょ。お客さんにはいつでも最高のパフォーマンスを見せるのが、プロの仕事だよ」

「……それじゃあ、みんな。手を出して」

 円陣を組んで向かい合い、右手を重ね合わせる。四色のブレスレットと、みんなの表情をそっと見やって。

「765プロ、ファイトー……!」

「「「「おーーーっ!!!」」」」


 手を取って四人で歩き出した舞台は、笑顔と歓声に包まれて進んでいった。
 一人ずつソロ曲を披露して、合間のMCではアドリブで色々なことに挑戦した……いや、挑戦させられた、の方が正確かもしれない。ロコはわたわたと、千鶴はやせ我慢とともに、桃子はそつなく、雪歩は目を回しながらくじ引きで出てきたお題をこなした。
 そうして高まる期待を感じながら、四人はステージに並んで最後のMCを進行していた。残るは、今回の公演の題目でもある一曲のみ。その前フリでもある会話の中で、唐突にロコが一歩前へ出た。

「オーディエンスのみなさん、ここでロコたちの右手に注目してください!」

「ブレスレットを着けてるの、わかりますか? なんとですね……このブレスレットは、みんなで協力してクリエイトしたものなんですっ!」

 驚きと感心のどよめきが客席に広がる。得意げな表情で言葉を続けようとしたロコを遮って、千鶴が少しだけ意地悪く笑う。

「あらコロちゃん、それはちょっと正確じゃない言い方じゃないかしら?」

「チヅル、ステージではコロちゃんで呼ばないでって、何度も言ってますよね! オーディエンスがトレースしたらどうするんですか!?」

「このブレスレットは、ロコアートなんだよ! ベースの部分はほとんどロコが作ってて、桃子たちはそれをデコレーションしたんだ。……ロコ、すごいよね?」

 ――おおーっ!!

 先ほどよりも明確な歓声が響いた。千鶴と漫才じみた掛け合いをしている隙に空気を完全に持っていかれたこと、そして思っていた以上にストレートな称賛が届いたことにロコは困惑する。

「え、あ、ちょっとモモコ……?」

「それじゃあ、ちゃーんと褒めてよね。せーの、コロちゃんすごーい!!」

 ――コロちゃんすごーい!!

「モモコまでっ!? ちょっと、ストップ、ストーップ!」

 大慌てしたロコの声が客席まで届くことはなかった。桃子は先ほどの千鶴以上に意地悪く笑い、観客を叱咤した。

「声が小さいっ! お兄ちゃんたちならもっとできるよね? それじゃあもう一回、せーのっ!」

 ――コロちゃんすごーい!!!!

 繰り返されて、なんとなく意図が分かってしまって、ぞくぞくとした感覚がロコの背中を走った。普段の桃子ならそう簡単に口にすることのない直接的で、熱烈な感情。ステージの上に立っている高揚と熱量を、ロコのために向けてくれているのだと気づいたら、もうだめだった。

「っ……ほ、ほんとに、褒められることじゃ、ないですから……。ぅ、その、ぐす……ストップです…………」

「……もう、泣くのが早いよ、ロコ。お兄ちゃんたち、ありがとっ! もうすぐ始めるから、ロコが泣き止むまでちょっとだけ待っててね。ほら、雪歩さんからも何かないの?」

 桃子は誤魔化すように無理やり雪歩へ話題を放り投げる。そしてロコに寄り添ってぐずつく彼女をなだめ始めた。MCは完全に投げっぱなしにするという意思表示に、雪歩は困惑することしかできない。

「ええっ!? き、急にそんなこと言われても、えっと、その……」

「わたくしたちの先輩、ですものね。しっかりと決めてくださいまし?」

「ち、千鶴さんまでーっ……! え、えっと。今日の公演、ここまで楽しんでいただけましたかーっ?」

 ――楽しかったー!!

 どうにかこうにか話し始めてみれば、言葉は自然と浮かび上がってきた。歩んできた軌跡をそのまま語れば、きっと時間は繋げそうだ。

「名残惜しいですが、次が最後の曲です。何を歌うかは……もうわかっちゃってるかもしれませんね」

「みんなでこの曲を練習する中で、こんな公演にしたいよねって、たくさんの夢を描きました。きっと、どれも叶えられたんじゃないかなって思ってます」

「悩んだり不器用にすれ違うこともあったけど、そんな思い出が全部、今の私を包んで勇気をくれるんです」

「そんな優しい気持ちを、みんなにも分けられるように歌います! ……準備、大丈夫そうだね。それでは、最後の最後までお楽しみください。曲は――」


 ――ココロがかえる場所。


おしまい

以上、ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。お楽しみいただけていれば幸いです。

シアターデイズのココロがかえる場所にストーリーがあったらこんな感じなのかな
乙です

>>2
萩原雪歩(17) Vi/Pr
http://i.imgur.com/RlfVXxz.jpg
http://i.imgur.com/7cn67jb.jpg

ロコ(15) Vi/Fa
http://i.imgur.com/TBTQqzs.jpg
http://i.imgur.com/jD7Zpgg.jpg

周防桃子(11) Vi/Fa
http://i.imgur.com/WeLiMZ0.jpg
http://i.imgur.com/6TZLzdj.jpg

二階堂千鶴(21) Vi/Fa
http://i.imgur.com/qcabLku.jpg
http://i.imgur.com/pcAd01d.jpg

『ココロがかえる場所』
http://www.youtube.com/watch?v=DcsHvTXlQbc

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