少女「好きです、マスターさん」 (110)

※百合注意

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カランコロン

マスター「いらっしゃいませ」




わたしが初めて純喫茶『ねこのしっぽ』という喫茶店に入った時。
わたしとマスターさんは、客と喫茶店のマスターの関係だった。




少女「……」




その時のわたしは、学校から帰るときに間違った駅で降りてしまって、次の電車が来るまでぶらぶらしていたら道に迷ってお腹が空いてきて、偶然喫茶店があったから入ったという、なんともお間抜けな話で。




マスター「どうぞ、カウンター席にお座りになってください」

少女「あ、はい……失礼します……」

マスター「……」

少女「……」




……緊張で、落ち着きがなかったことをよく覚えてる。
初めての喫茶店で、どうすればいいのかわからなかったし。
だから、その時はマスターさんの顔とかを落ち着いて見ることができなかった。

マスター「……コーヒー、お好きですか?」

少女「……えっ、あっ、えっと……飲めますっ」

マスター「ふふ、そうですか。 では……どうぞ」コト

少女「え」

マスター「サービスです。 角砂糖はおいくつで?」

少女「あ、ふ、ふたつ、で……」

マスター「かしこまりました。 ……はい、どうぞ」

少女「あ、ありがとうございます……いただきます……」




何を注文すればいいかわからなかったわたしに、マスターさんはコーヒーをサービスしてくれた。




少女「あ……美味しい……」




その時のマスターさんの微笑みとコーヒーの味は、今でも忘れられない。

その日から、わたしは頻繁に ねこのしっぽ に通うようになって。
マスターさんともいっぱいお話して、だんだんと仲良くなり始めたころに、わたしはマスターさんから ねこのしっぽ でのバイトに誘われた。
嬉しかったけど、不安でもあった。
わたしは料理なんてできないし、コーヒーの淹れ方なんてさっぱりわからなかった。




マスター「大丈夫です。 料理も淹れ方も、すべて私が責任を持ってお教えしますから」




でも。
そう言って微笑むマスターさんを見て、なぜかはわからないけれど、不安が消えて。
わたしは、純喫茶『ねこのしっぽ』で働くようになった。

―――――――――――――――――――――――




少女「ありがとうございましたー!」

マスター「ありがとうございました。 ……さて、そろそろお店を閉めましょうか」

少女「はい! 看板下げてきますね」

マスター「お願いします」




一旦表に出て、『営業中』とポップな感じに描かれ、それにメニューが添えられている看板を店の中に仕舞う。
この看板はわたしが描いたもので、理由は、元々置いてあった看板に書いてあった文字が達筆すぎて読めなかったからということと、それが喫茶店の雰囲気に合わなかったからということ。




少女「おっけーです!」

マスター「ありがとうございます。 もう遅いですし、上がってしまってもいいですよ」

少女「いえいえ、まだ洗い物終わってませんし、それ終わってから上がります」

マスター「暗くなると、ご両親も心配するでしょう」

少女「大丈夫ですってば。 今日はお客さんも多かったですし、一人だと大変でしょ」

マスター「……確かに量は多いですが、大丈夫です」

少女「ダメです。 わたしも手伝います」

マスター「……」

少女「……」

マスター「……すみません、お願いします」

少女「はい♪」




スポンジを手にシンクに向かい、食器を洗い始める。

マスター「お礼にコーヒーでもと思いましたが……この時間に飲んでしまうと眠れなくなってしまいますよね」



顎に人さし指を当てて、マスターさんが言う。




少女「いえいえ、平気です。 飲みたいです」

マスター「ふふ、わかりました。 用意しておきます」

少女「やった!」




あの時……初めてマスターさんの淹れてくれたコーヒーを飲んだ時から、わたしはマスターさんの淹れてくれるコーヒーが好きになった。
だから、お礼のコーヒーをもらうために、こうして残ってお仕事をするのがわたしの密かな楽しみだったりする。




少女「終わりました!」

マスター「ありがとうございます。 もうすぐでできますから、着替えて待っていてください」

少女「はい」




バックルームに行って、私服に着替える。
カウンターに戻って席に座って、コーヒーが出来上がるのを待つ。




少女「……良い匂いですね」

マスター「ええ」




漂ってくる、コーヒーの香り。
この香りを、仕事終わりののんびりとした時間に楽しむのが好き。
……初めて来たときは落ち着いて見ることができなかったけど、マスターさんは綺麗な顔立ちをしている。
いっつも優しく穏やかに微笑んでいて、所作はゆっくりしているけど、すっごく丁寧で。
どこか育ちの良さが伺える。

マスター「……はい、お待たせしました」




コポコポとマスターさんがコーヒーをカップに注いで、わたしの前に置いた。
角砂糖二つを添えて。




少女「ありがとうございます、いただきます」




角砂糖を二つ入れて、スプーンでかき混ぜて。
ふーふーと少し冷ましてから、カップに口をつけて熱々のコーヒーを口に含む。




少女「んく、はふう……」




バイトの疲れとともに、息を吐き出す。
……美味しい。




マスター「いかがですか?」

少女「癒されます……」

マスター「……ふふ」




くすりと、マスターさんが笑う。

マスター「少女さんが初めてこのお店に来たときのことを、思い出してしまいました」

少女「う。 や、やめてくださいよ」

マスター「不安げに店内を見回す様は、なんだか小動物を連想させられましたね」

少女「やめてくださいってばー……」

マスター「ふふ、そうですね。 少女さんをいじめるのはここまでにしておきましょう」




くすくすと笑いながら、マスターさんが言った。
初めて来た喫茶店はあんなおバカな経緯からで、なんて恥ずかしいことは、早く忘れたかった。




マスター「でも……今の少女さんの顔は、初めて私のコーヒーを口に含んだ時と同じ表情をしています」

少女「え」

マスター「ふふ……さて、もう結構遅い時間ですし、そろそろ帰られたほうがよろしいのでは?」

少女「あ……うーん、そうですね……」




時計を見ると、確かにいい時間だ。
この空気と時間が惜しいけど、お母さんたちを心配させるわけにもいかないし……。




少女「ですね、帰ることにします」

マスター「今日もお疲れさまでした、少女さん」

少女「マスターさんも、お疲れ様でした。 お先に失礼しますね」

マスター「はい」

少女「あ。 でも、わたしが使ったカップくらいは片付けますね」

マスター「いえいえ、大丈夫ですよ」

少女「そうですか? じゃあ、ごちそうさまでした」

マスター「お粗末様でした。 また次のバイトの時に」

少女「はい。 失礼します」

―――――――――――――――――――――――




喫茶店のドアが開いてカランコロンと鈴の音が鳴り、来客を告げる。




少女「いらっしゃいませー!」




冷蔵庫にある食材の賞味期限チェックを中断し、やって来たお客さんに顔を向ける。




「こんにちは、少女ちゃん」

少女「あっ、こんにちは!」




やって来たのは、常連のお客さん。
いつも座る席に座って、お店を見回す。




「マスターは?」

少女「買い出しに行ってます。 何か用事でしたか?」

「ううん、いないのが珍しいと思っただけよ」

少女「コーヒー豆のことはよくわからないので、コーヒー豆の買い出しはいつもマスターさんが行ってるんです……お待たせしました」

「ありがとう」




いつも頼むコーヒー豆を使ってコーヒーを淹れ、お客さんにお出しする。

「……うん、美味しい」

少女「よかった」

「すっかり慣れちゃったみたいね、ここの仕事」

少女「ええ、なんとか」

「入りたての頃はあんなにあたふたしていたのに」

少女「う。 思い出さないでください……」

「ふふ……」




優雅に笑って、カップに口をつけるお客さん。
この人は、不動産会社の社長さんをやっていると聞いた。




社長「あたふたしてた少女ちゃん、可愛かったわ」

少女「す、素直に喜べないんですけど……」

社長「もちろん、今も可愛いわよ?」

少女「そ、それは……どうも……」




目を細めて、お客さんがわたしを見る。
……わたしは、このお客さんがちょっぴり苦手だったりする。
態度が悪いとかマナーが悪いとか、そういうのは全く無い、本当にいいひとなんだけど。
だけど……なんだか、わたしを見る目が店員を見る目とは違うような気がする。
なんとなく……熱がこもってるというか……。
その目が、わたしはなんとなく苦手で……。




社長「……可愛い」

少女「あ、あはは……」




蛇に睨まれた蛙……という表現は大袈裟かもだけど。
この目で見られると、わたしはその言葉通り動けなくなってしまう。

社長「私のことは苦手?」

少女「えっ? あっ、いえっ、その」

社長「いいのよ。 よく言われるの、お前は目が怖いって」




目が怖い……怖くはないような。




社長「私ね、初対面の相手を値踏みしてしまう癖があるのよ。 職業柄というかなんというか……たぶん、その時の目が怖いって言われてるんだと思う」




言い終えて、お客さんがコーヒーを口に含んだ。
目を閉じて、じんわりと味わう。
……思えば、確かに初めてこのお客さんと会ったときは、怖い人だなって思った。
それは目を見てそう感じたのかもしれない。




社長「でも、安心して。 私はもうあなたのことをそんな目で見てないから」

少女「……はい」




いい人なんだけどなあ……。
いい人なんだけど……。




社長「……ふふ」




な、なんだろ……。
視線がねっとりしてるというか……まさかね……。

マスター「ただいま戻りましたー」

少女「あ、おかえりなさい」

社長「おかえりなさい」

マスター「いらっしゃいませ、ごゆっくり」




ゴロゴロと荷物が乗った台車を押しながら、マスターさんが帰って来た。
お客さんに微笑みかけて、マスターさんがカウンターに入ってくる。
助かったぁ……。




少女「ずいぶん時間かかりましたね」

マスター「お砂糖が近場のスーパーで売り切れていたんです。 すみません、長く空けてしまって」

少女「いえいえ、お疲れ様です」

マスター「裏で買ってきたものを整理してますので、何かあったら呼んでください」

少女「わかりました」




台車を押して、マスターさんがカウンター裏に引っ込んでいった。

社長「……少女ちゃんがここで働くようになってから、マスターのいろいろな一面を見ることができるようになったわ」

少女「そうなんですか?」

社長「当然かもしれないけど、あなたがここで働く前は裏に引っ込むことなんて滅多に無かったし。 あなたが来てから表情も明るくなったし、仕事に余裕ができたんじゃないかしら」

少女「……そうなんですか」




わたしでも、マスターさんの役に立ってるのかな。




マスター「ごっ、ごめんなさい少女さんっ! 買い忘れてしまったコーヒー豆があるので、また空けますっ!」

少女「えっ? あ、はい、お気をつけて……」

マスター「すみません、お願いしますっ!」




マスターさんは本当に申し訳なさそうに頭を下げてから、慌ててお店を出ていった。




社長「……今日はマスターの珍しい姿がたくさん見られる日ね」

少女「あはは……」

―――――――――――――――――――――――




少女「ありがとうございましたー!」




最後のお客さんを見送って、時計を見る。
そろそろお店を閉める時間だった。




少女「マスターさんは裏で買ってきたものの整理してるし、勝手に閉めちゃってもいいかな」




お店の外に出て立て看板を取り、ドアに掛けてある『OPEN』と書かれた板をひっくり返して『CLOSE』にし、お店に戻る。




少女「さてと、洗い物しないと…………ん?」




カウンターに入り山盛りの食器の前に立つと、どこからかポリポリと豆をかじっているような音が聞こえてきた。




少女「なんだろ……?」




音の出所を辿ると、カウンター裏にある部屋、材料とかが置いてある部屋から聞こえる。
その部屋ではマスターさんが材料整理をしてるはずだけど……。

少女「も、もしかしてネズミがコーヒー豆をかじってるとかかな……?」




ネズミだったとすると、早めに何とかしないとお豆が全てダメになってしまうかもしれない。




少女「……よしっ」




勇気を出して、部屋に続く引き戸に手を掛ける。




少女「ふう……コラーーっ!!」

マスター「ひゃうぅっ!? しょっ、少女さんっ!?」




大声を出して追い払う作戦(触りたくない)で、ドアを開けながら思いっきり叫んだ。
しかしネズミはおらず、いたのはマスターさんのみ。




少女「……あれ?」




いつの間にかポリポリという音は止まっており、気のせいだったのかなぁと思っていると……。

少女「あれ? マスターさん、それ……」

マスター「あっ、あのっ、これはっ、そのっ……」




振り向いたマスターさんの手には、コーヒー豆が一粒。
足元にはコーヒー豆がたくさん入った袋。
つまり、さっきのポリポリという音は……。




少女「……コーヒー豆、食べてたんですか?」

マスター「あ、う…………はい……」




顔を真っ赤にして、マスターさんは俯いてしまった。




マスター「ごめんなさい……はしたないとは思っていたのですが、とても良いコーヒー豆でしたので……」




取り調べを受けて白状する犯人のように、ぽつりぽつりと話し出すマスターさん。
なんだか、わたしがマスターさんを虐めているかのような気持ちになってしまう。

少女「……わたしも、一粒もらってもいいですか?」

マスター「え……? は、はい、どうぞ……」




戸惑っているような表情を浮かべて、おずおずとマスターさんが持っていたコーヒー豆を差し出した。
それを摘まんで、口に運ぶ。




少女「ん……えへへ、苦いですね」

マスター「少女さん……」




なかなかの苦味があり、ブラックでコーヒーを飲むことのできないわたしには、美味しいとはとても思えない。
でも、コーヒー好きのマスターさんにとっては美味しいものなのだろう。




少女「すみません、びっくりさせてしまって。 てっきりネズミがコーヒー豆でもかじっているのかと思ってしまいました」

マスター「あっ、いえそんなっ! そもそもお店をほったらかしにしてしまって申し訳ありませんっ!」

少女「わたしもお仕事に慣れてきましたし、大丈夫ですよ。 マスターさんのお陰です。 ……それより、ずっとコーヒー豆を食べてたんですか?」

マスター「……」




すっ、とマスターさんが目を逸らす。
……あのお客さんが言っていた通り、今日は本当にマスターさんの珍しい姿をよく見る日だなぁ。




少女「……あっと、わたしお皿洗ってますね」

マスター「あ、はい。 お願いします……」

―――――――――――――――――――――――




マスター「いらっしゃ……あら、少女さん。 今日はシフトでしたか?」




ある日。
シフトの入っていない日に、わたしは ねこのしっぽ にやって来た。




少女「いえ、今日は客として来ました」

マスター「そうでしたか。 いらっしゃいませ、どうぞカウンター席に」

少女「はい」

社長「こんにちは、少女ちゃん」

少女「あ、こんにちは」




マスターさんに促されてカウンター席に腰かけると、お隣には例の社長さんが座っていた。

マスター「いつものコーヒーでよろしいですか?」

少女「はい。 あ、お砂糖は一つで」

マスター「あら、いいのですか?」

少女「はい」

社長「どうしたの? いつもは二つなのに」

少女「それはですね……この前コーヒー豆を食べたんですけど」

社長「えっ? コーヒー豆を?」

少女「はい。 マスターさんが食べていたので」

社長「……え? マスターが? お菓子に乗っかってたとかではなく? 生で?」

少女「はい」

社長「……」

マスター「……」




すっ、とマスターさんが顔を横に向ける。




社長「……嗜好はそれぞれよね。 それで?」

少女「はい。 すごく苦くて、わたし的にはちょっと美味しくなかったんですけど……」

社長「まあ、それは苦いでしょうね……」

マスター「……」




マスターさんは顔を横に向けたまま、こちらを見ない。




少女「そのあといつものようにマスターさんのコーヒーをお砂糖二つで飲んだら、なんだか物足りないような感じがしたんです」

社長「ふうん?」

少女「なので、今日はお砂糖一つにチャレンジしようかと」

社長「……まあ、ある意味コーヒー豆本来の味を知ったということなのかしら」




社長さんはそう言って、コーヒーカップに口をつけた。

マスター「……お待たせしました」

少女「ありがとうございます」




小皿に乗ったカップを受け取って、角砂糖をコーヒーに入れる。
スプーンでかき混ぜて、息を吹きかけてちょっと冷まして、カップに口をつけて熱々のコーヒーを口に含んで……。




少女「はふう……」




角砂糖が二つのときとは全く違う味。
苦味は強いけど、後から来る角砂糖のほんのりとした甘さのお陰で嫌じゃない。





社長「……味はどうか訊こうと思ったけど、必要なさそうね」

マスター「ふふ、そうですね」

少女「えっ? な、なんでですか?」

社長「顔を見たらわかっちゃったもの」

少女「えっ」

マスター「うんと……そうですね、いつも通りの表情でした」




顎に指を当てて考えてから、マスターさんが言った。

少女「い、いつも通りの表情……?」

マスター「初めて私の淹れたコーヒーを飲んだ時と同じ、ということです」

少女「えっ! ど、どんな顔ですか……?」

社長「初めて飲んだ時の顔は見たことないけど、美味しそうな、癒されるーって感じの表情をしているわね」

少女「え……うわ、お恥ずかしい……」




思わず両手で頬を抑える。




社長「恥ずかしがることなんてないわ。 可愛かったもの」

少女「う」

社長「そういえば、今日は学校の制服姿なのね。 少女ちゃんが制服を着ているところ、ゆっくり見るのは初めてかも」

少女「ええ、学校の帰りに寄ったので」

社長「そうだったの……ふぅん」




まじまじと全身を眺められる。
……なめ回すように。

社長「……可愛いわね、制服姿も」

少女「ど、どうも……」




太ももあたりに視線を感じて、慌ててスカートを抑える。
社長さんは微笑んで、カップに口をつけた。




マスター「ここはそういうお店ではありませんよ?」

社長「ごめんなさい。 少女ちゃんが可愛くて」

少女「か、からかわないでください!」

社長「ふふ……」

少女「むう……あ、マスターさん、お会計お願いします」

マスター「あら、もっとゆっくりしていかれてもいいのですよ?」

少女「ゆっくりしたいんですけど、親からおつかいを頼まれてしまってるんです」

マスター「あら……残念です。 次は是非ゆっくりしていってください」

社長「またね、少女ちゃん」

少女「はい、また! 失礼します」




ぺこりと頭を下げて、お店を出る。
さてさて、寄り道しちゃったから急がないと……。

社長「……本当、いい子よね」

マスター「そうですね」

社長「あなたも相当お気に入りね?」

マスター「何の話でしょう?」

社長「……本当、可愛いげの無い子。 そんなだと、少女ちゃんに嫌われちゃうわよ?」

マスター「少女さんは、こんなことで他人を嫌うような人ではありません」

社長「……そういう所は変わったわね、本当に」

マスター「あまり少女さんを誑かさないでくださいね……姉さん?」

社長「実の姉に随分な物言いじゃない、誑かしてなんていないわ。 それに、そんなに大事ならキープしておけばいいじゃない」

マスター「……私は姉さんと違って、同性愛者ではありませんから」

社長「そうよね……なら、私が貰っちゃっても文句は言えないわね」

マスター「っ!?」

社長「あの子、可愛いし。 純粋な所も私好みだし」

マスター「……」

社長「今度、デートに誘ってみようかしら……そういえば、彼氏がいるって聞いたことある?」

マスター「いえ……」

社長「ふふ、そう……ならイけそうね」

マスター「……姉さんのその女癖の悪さは、すぐに直したほうがいいと思います」

社長「今度は本気よ」

マスター「……」

社長「ところで……」

マスター「なんですか?」

社長「あなた……コーヒー豆を食べてしまうほどコーヒーが好きだったの?」

マスター「……」

社長「目を逸らさないの」

―――――――――――――――――――――――




少女「おはようございまーす」

マスター「おはようございます、少女さん」

社長「こんにちは、少女ちゃん」




いつも通りシフトの日に ねこのしっぽ へ行くと、社長さんがいた。
社長さんは、お仕事のお昼休み中にほぼ毎日ここに来ているようで。




少女「着替えてきますね」

マスター「お願いします」

社長「急いでくれると嬉しいわ」

少女「ふふ、はい」




なぜかはわからないけど、どうやらわたしは社長さんに気に入られたらしい。
だから、こうして急かされることが時々ある。

少女「よいしょっと……」




いつもの制服に着替えて、カウンターに向かう。




社長「あ、来た来た」

少女「お待たせしました」




社長さんに微笑みかけてから、水道で手を洗う。




マスター「少女さん」

少女「はい?」

マスター「いきなりで申し訳ないのですが、コーヒー豆の買い出しに行ってきてもいいでしょうか?」

少女「はい、もちろん大丈夫ですよ」

マスター「すみません、お願いします」




マスターさんがバックルームに引っ込む。




社長「あら、少女ちゃんと二人きりになれるのね」

少女「あはは……そうですね」




社長さんのこういう言葉にも、ちょっとずつ慣れてきた。
着替えを済ませたマスターさんが、台車を押してお店を出ていくのを見送る。

社長「少女ちゃん」

少女「はい?」




社長さんが、飲んでいたコーヒーカップを置いてわたしを見る。




社長「私とデートしない?」

少女「へっ? でーと……?」

社長「ええ。 デート」

少女「わたしと……社長さんが、ですか?」

社長「そ。 あなたと私で」

少女「……」




女同士でもデートっていうのかな?
わたしなんかに対するこのお誘いもただの社交辞令なのか、社長さんがどこまで本気なのかわからないけど……。




社長「……」




……じっと見つめてくる社長さんの目を見ると、本気そうだった。

少女「構いませんけど……」

社長「本当? よかった、断られたらどうしようって不安だったのよ」

少女「そこまでですか……」

社長「ええ。 日時は……うーん……」




社長さんがスケジュール帳を取り出して、顎に指を当てる。




社長「ええと……そうね、近いうちに都合をつけておくわ」




社長さんはスケジュール帳から紙を千切ってそれにボールペンを走らせ、わたしに差し出した。




社長「これ、私のメールアドレス。 これにメールを送ってもらえたら、日時が決まり次第伝えるわ」

少女「あ、はい。 ありがとうございます……というか、日時が決まってないのに誘ったんですか?」

社長「こういうことがないと、休みが取りづらいのよ。 一応責任者だからね」

少女「あー……大変なんですね」

社長「わかっててやってることだから。 私が選んだ道だしね」




そう言って微笑んでから、カップに口をつける。
……カッコいいなあ。

社長「……ふう、ごちそうさま。 お会計お願いします」

少女「あ、はい。 ……ええと、丁度ですね。 ありがとうございます」

社長「それじゃ、少女ちゃん。 連絡お願いね」

少女「はい。 バイト上がったら送りますね」

社長「お願い。 それじゃね」

少女「ありがとうございましたー!」




ひらひらと手を振って、社長さんがお店を出て行く。
……ほんと、いちいち所作がカッコいい人だなあ。




少女「……うわっ、このメアド筆記体で書かれてるし!」

―――――――――――――――――――――――




少女「ええと……」

社長「少女ちゃん」

少女「あ……」




そして、デート当日。
待ち合わせ時間の5分前に待ち合わせ場所である駅前に来たけど、社長さんは既にわたしを待っていた。




少女「すみません、待たせてしまいましたか?」

社長「ううん、今来たところよ」




にっこりと笑って、社長さんが言う。
……私服姿の社長さんは初めて見たけど、スーツ姿のカッコいいという印象とは打って変わって、綺麗でおとなしめな雰囲気だった。




社長「少女ちゃん、バイトに来る時とは雰囲気が全然違うわね。 とっても可愛いわ」

少女「えへへ……気合い入れてきましたから」

社長「嬉しいわ。 じゃ、行きましょう」

少女「はい……どこへ?」

社長「少女ちゃんのコーディネートに、よ」

少女「へっ?」

社長「車、あっちにあるから」

少女「は、はい」




わたしのコーディネート……??
なんだか不安を覚えながらも、車が停めてあるという駐車場に向かう。

社長「さ、乗って」

少女「う、うわあ……」




車のカギを開けて、社長さんが乗り込む。
……たぶん、外車だこれ。
車のことはよく知らないけど、見た目がすごくカッコいいし、めっちゃピカピカしてる。
なんだかどこかで見たことがある気もするし、たぶん有名な車なのかもしれない。
ドアを開ける部分を触るのも躊躇してしまう。




少女「お、お邪魔します……」




勇気を出して車に乗り込む。
中もすごく綺麗で、さすがというかなんというか。




少女「す、すごい車ですね……」

社長「車が好きってわけでもないけど、マトモなのに乗れって父の教えなのよ」

少女「マトモ……」




確かに高そうだし、値段的に見ればマトモなのかもしれない。




社長「シートベルト締めて。 出発するわよ」

少女「あ、はい」




ちょっとドキドキしながら、シートベルトを締める。
こんな車だし、スピードとか出すのかな……?

社長「今日はね、デパートに行くの」

少女「デパートですか? ここから近い、あの?」

社長「ええ、去年できたばかりの。 私の会社、あそこの地主なのよ」

少女「えっ!!」

社長「この辺、大きい商業施設ってあそこ以外ないでしょ? 誘致してあそこに建ててもらったのよ」

少女「へえ……」

社長「経営にも関わってるから、半分オーナーね」

少女「ふえ~……」





さらりと言ってるけど、相当大変なことなのだろう。
……改めて、この人はすごい人なんだって感じさせられる。




少女「ところで、わたしのコーディネートとは……?」

社長「あそこ、化粧品が結構充実してるのよ。 少女ちゃんお化粧してないみたいだし、いろいろ教えようって思ったの」

少女「えっ、いいんですか?」

社長「ええ。 あそこなら、オーナー割みたいなのが効いて安くなるし」




ちろりと舌を出して、社長さんが笑う。




社長「ま、少女ちゃんはそのままが一番可愛いんだけどね」

少女「またまた、学生にそんなこと言っても何もありませんよー?」

社長「ふふっ」




デパートまでの道のりはさほど混んでなく、程なくして到着した。
意外……と言うと怒られそうだけど、普通に安全運転でした。

社長「さ、行きましょうか」

少女「はい!」




社長さんと並んで、デパートの中を歩く。
休日ということで、家族連れやらカップルやらで人がたくさんいる。
わたし自身はあまりここに来ることがないので、なんだかわくわくしてしまう。




社長「そうね、まずはどこから寄ろうかしら……」




隣を歩く社長さんが、顎に指を当てて考えている。
社長さんの背は、わたしよりも頭ふたつ分くらい高い。 わたしが低いわけではない。
自分よりもいろいろな意味で上の人と歩くのは両親以外で初めてだから、緊張してしまう。





社長「あ、ここにしましょう」




社長さんの目に留まったお店に入る。
化粧品を売ってるお店ってどこもキラキラしていて、わたしにはイマイチ違いがわからない。

社長「少女ちゃんは素材が良いから、薄めがいいわね……まだ高校生だし」




リップがたくさん置いてある棚の前で、社長さんが顎に指を当ててうんうん悩んでいる。
うんうん悩んでいるところを見かねたのか、店員さんが近付いてきた。




店員「何かお困りですか?」

社長「あら、ごめんなさい。 この子に合う色を探しているのだけど……」




そう言って、社長さんと店員さんがわたしを見る。




店員「あら、可愛らしい……これは悩みどころですね。 妹さんですか?」

社長「残念ながら違うんです。 こんな子が妹だったら毎日が幸せなんですけどね」

店員「こちらの色はいかがでしょう?」

社長「ふむ、私はこれがいいかなと思ったのだけど」

店員「そちらの種類でしたらこちらのほうなどは……」

社長「ふむふむ……」

少女「……」




……わたしのことがそっちのけのまま、店員さんと社長さんの化粧品議論が始まる。
いや、議題はわたしのためだからそっちのけってわけじゃないかもだけど。

社長「ううん……いざ現物を目の当たりにして考えてみると、なかなか悩ましいわね……」

店員「なにぶん元が良いですから、あまり派手目にすると勿体無いですし」

社長「さすが、店員さんは目利きですね。 少女ちゃんはどう思う? どんな感じのがいい?」

少女「えっ、わ、わたしですか?」

社長「ええ。 本人の意見も聞かないと」

少女「えっ、えっと……」




ずらりと並んだリップたち。
それを見るだけでも目が眩みそうなのに、選べだなんて。




少女「う、うーん……」




正直、色以外の違いがさっぱりわからない。
どうしてこんなに価格差があるのか……。




少女「え、えーと……じゃあ、これとか……」

社長「駄目よ少女ちゃん、そのメーカーのはあまり品質が良くないの。 飾るために元を壊してしまうのは本末転倒よ。 元があるから飾るんだから」

少女「えええ」




結局わたしの意見は通らず、あれやこれやと化粧品の話や化粧の方法などを聞いて、色々買って、化粧品コーナーを後にした。

少女「あの……本当にいいんですか? こんなにもらってしまって……」




右手に持っている小さな紙袋を持ち上げる。
中にはたくさんの化粧品が。




社長「いいのよ、少女ちゃんのために選んだんだもの」




さらりと言うけど、買った化粧品の総額は、少なくともわたしにはさらりと出せる額ではない。
そんなものをもらってしまうなんて、恐縮してしまう。




社長「今日は少女ちゃんのコーディネートがメインだもの。 さ、次は服を見に行くわよ」

少女「ひー!」




わたしの腕を引いてずんずんと歩いていく、社長さん。
……なんというか、すごく強引な人だなあ。
それなのに、その強引さが嫌にならないのは社長さんの人柄があるからなのか。

社長「……おっ、と」




ずんずん歩いていた社長さんが、急に止まる。
何かと思って、社長さんの視線の先を見てみると……。




社長「……うん! じゃあまずはここから見ていこっか!」

少女「えええっ!? ここですか!? ここから見ていくんですか!?」




社長さんの視線の先を見ると、そこは女性用下着売り場であった。




社長「まずは”中”から始めないとね!」

少女「わあぁっ、あのっ、あのーっ!」




グイグイと背中を押され、やむなく入店。

社長「そうねぇ、少女ちゃんに似合うのは……んふふ」




……化粧品を選ぶときとは違って、社長さんの目がアブナイ。 非常にアブナイ。
身の危険を感じる。




社長「あら、いけない。 サイズがわからないことには選べないわね」

少女「うげっ」

社長「というわけで少女ちゃん、スリーサイズ教えて?」




今まで見たことのない、すごく清らかな笑顔で清らかじゃないことを聞いてくる社長さん。




少女「あっ、あのっ、下着はいいですから!」

社長「あら、言ったでしょう? ファッションは内からよ。 見えないところこそ気を配るべきなの」

少女「そ、それは、そうかもしれませんけど……あ、あ! えっと、ごめんなさい! 忘れました!」

社長「あら、忘れちゃったの? そう、ならしょうがないわね」

少女「ほっ……」

社長「それじゃあ、測ってみましょうか」




どこから持ってきたのか、測定用のメジャーを構える社長さん。

少女「いっ……いえっ、あのっ……!」




血の気が引いていくのを感じる。
これはピンチだ、間違いない。




社長「さ、試着室に行きましょうか♪」




ぐいぐいとわたしの背中を押して、試着室に促す社長さん。




少女「あああっ、ごめんなさい覚えてます! 覚えてますからああっ!」

社長「サイズが変わっているかもしれないじゃない? いいタイミングだし、測ってみましょうか♪」

少女「そんな……あっちょっと引っ張らないでくださっ、わああああぁぁぁぁ…………」

―――――――――――――――――――――――




少女「はああああぁぁぁぁ……」

社長「お疲れ様、少女ちゃん♪」




ぐったりとテーブルに突っ伏する。
あのあと下着だけでなく服を選んだりしているうちに日が暮れてきてしまったので、少し遅いお昼ご飯を食べにハンバーガー屋さんまでやってきていた。




少女「もー……わたしは着せ替え人形じゃないんですよう……」

社長「うふふ、しょうがないじゃない。 何着せても可愛いんだもの」




輝くような笑顔でそんなことを言われる。
そのまま社長さんは、頼んだホットコーヒーのカップに口をつけた。

社長「……あまり美味しくないわね、こういうところのは」




顔をしかめて、ぽつりと呟く。
社長さんはこういうファストフード店に来るのが初めてらしい。




少女「今時珍しいですよね、こういうお店が初めてって」

社長「興味はあったんだけどね。 健康とか、スタイルにはあまり良くなさそうだったから」

少女「なるほど……社長さんのそのスタイルは、そういうところから来てるんですか」




社長さんは細身で、しなやかそうな身体をしている。
胸こそさほど……ではあるが、痩せすぎず背の高い綺麗なプロポーションは、社長さんの性格通り。




社長「自分のスタイルに自信はあるけど……どこぞの喫茶店のマスターには負けるわ」

少女「ああ、大きいですもんね……どこがとは言いませんが……」




……マスターさんは、すごい。
普段着ている制服ではサイズに余裕を持たせているからかわかりにくいけれど、すごく大きな胸を持っている。
そのくせ太っているというわけでもなく、また背が低いわけでもない。 わたしより高いから。 わたしが低いわけではない。
ゆるふわな髪型と、ふわふわな体型と、柔らかな物腰、優しげな表情。
……女性の理想のひとつかもしれない。

社長「……ん、うーん……」




コーヒーを一口飲んで、また社長さんが顔をしかめる。




少女「わたしも一口もらってもいいですか? マスターさんのコーヒー以外飲んだことなくて」

社長「ええ、どうぞ」




カップを受け取って、飲んでみる。
……苦い。
それだけ。
砂糖を入れても、苦甘くなるだけだろう。




社長「……美味しくなさそうね?」

少女「美味しくないです……」




社長さんにカップを返して、お茶で口直しをする。

社長「ねこのしっぽ以外でコーヒーを飲んだのは久しぶりだけど、こんなに不味いものだったかしら」

少女「ここが特別、ってだけじゃないですか?」

社長「そうよね……」




社長さんは再びカップに口をつける。




少女「こんなにお客さんがいるのに、空いてる場所があるんですね」




このハンバーガー屋さんの通路を挟んだ対面の場所を見て、呟く。
そこは空きスペースになっていて、柱にはテナント募集と書かれた貼り紙があった。




社長「……ああ、あそこのスペースの話ね。 つい最近まで小さなファミレスがあったのよ」

少女「じゃあ、ここに負けて?」

社長「でしょうね。 撤退しちゃったから、あそこが空いてるの。 まだ目ぼしい応募はないから、なかなか埋まらないのよね」

少女「なるほど……」

―――――――――――――――――――――――




少女「今日はありがとうございました。 しかもこんなに色々買っていただいて」




帰りの車の中。
家まで送ってくれるという社長さんに、今日のお礼を伝える。
わたしの足元には、たくさんの紙袋が。




社長「お礼なんていいのよ。 私は楽しかったし……少女ちゃんはどう?」

少女「楽しかったです! 疲れましたけど……」




スリーサイズ測られてしまったり、着せ替え人形にされてプチファッションショーになったり。
いろいろあったけど、お店じゃ見られない社長さんの姿を見ることができた気がして、得した気分でもあった。




社長「ちょっとはしゃぎすぎちゃったわ」




ぺろりと舌を出して、社長さんが苦笑する。
自覚あったんだなあ。

社長「最近仕事が忙しくて。 誰かとお出かけって久しぶりだったのよね」

少女「そうなんですか?」

社長「ええ。 久しぶりだったから、羽目を外しすぎちゃったわ。 相手が少女ちゃんだったから、尚更ね」

少女「またまた~……そういえば、どうしてわたしを?」

社長「誘ったのかって?」

少女「はい」




社長さんなら、同年代の友だちくらいいるだろうし。
どうしてその人たちではなく年下(実年齢は怖くて聞けないので不詳)のわたしだったのか、疑問だった。




社長「そうねぇ、んー…………ヒミツ」

少女「えー、なんですかそれ」

社長「ふふっ、オトナの女には秘密があるものよ」

少女「なんだかその秘密が怖いんですけど……次の信号で右です」

社長「はいはい」

少女「曲がって二番目の交差点で左に曲がって、左側の三軒目がわたしの家です」

社長「あら……私の事務所もこのあたりなのよね」

少女「えっ」

社長「ここで左ね? 私の事務所、ここで右に曲がったところにあるのよ」

少女「右に…………あっ」




ふと、何となく見たことがあったこの車の外見とわたしの記憶がカチリと一致した。
そういえば、家の近くのどこかでこの車が停まっていたところを見た記憶がある。

社長「住んでるのはこの辺じゃないけど……ご近所さんだったのね、私たち」




社長さんがくすりと笑う。
そのままわたしの家の前で、車が停まった。




社長「ここよね」

少女「はい。 ありがとうございました、楽しかったです」

社長「私も楽しかったわ。 また行きましょうね」

少女「はい、ぜひ!」




荷物を持って、車を降りる。
窓越しに手を振ってから、社長さんの車が発進していった。

続きはまたのちほど

―――――――――――――――――――――――




マスター「社長さんとデートに?」

少女「はい」




数日後。
バイトだったわたしは、社長さんとデートに行ったことをマスターさんに話した。




マスター「……そうですか。 楽しかったですか?」

少女「はい! すごく疲れましたが……」

マスター「あの人とお出かけは……確かに疲れそうですね」




苦笑しながら、マスターさんが言う。




マスター「そうですか……あの人は、本当に……」

少女「どうかしましたか?」

マスター「いえ……こちらの話です。 そろそろお店を閉めましょうか」

少女「あ、はい」




外に出て『CLOSE』表示にし、看板を回収して中に戻る。

少女「お皿洗いますね!」

マスター「はい、お願いします」




スポンジを手にじゃぶじゃぶとお皿を洗っていると、コーヒーのいい香りが漂ってくる。




少女「ん~~……この香りだけで癒されます……」

マスター「ふふ……」




最後のお皿を洗い終え、棚に置く。
バックルームへ行って私服に着替えてから、カウンター席についた。




マスター「もう少しだけ待ってくださいね」

少女「はい」




早く飲みたいなぁとそわそわしながら、出来上がるのを待つ。
……完全に中毒だ、これ。

マスター「お待たせしました」

少女「ありがとうございます!」




カップを受け取って、角砂糖一つを入れてかき混ぜる。
息を吹きかけて軽く冷ましてから、カップに口をつける。




少女「ん……はふう……」




いつものように、バイトの疲れとともに息を吐き出す。




少女「……あ、そうだ、聞いてくださいよマスターさん」

マスター「なんですか?」

少女「社長さんとお出かけした時の話なんですけど……ハンバーガー屋さんに寄って、社長さんの飲んでいたコーヒーをちょっと飲ませてもらったんです」

マスター「……ほう?」

少女「そしたら、全然美味しくなくて……そこのコーヒーが特別不味いだけなのかなって思ったんですけど」




区切って、コーヒーを一口。

少女「はふ……そのあと、色々なコーヒーを飲んでみたんですよ」

マスター「色々な、とは?」

少女「缶コーヒーとか、ねこのしっぽじゃない喫茶店とか……」

マスター「どうでしたか?」

少女「お、美味しくなかったです……」

マスター「あら……」

少女「それで……ふと思ったことがあるんです」

マスター「ふむ?」

少女「これは……マスターさんのせいなんじゃないかって!」

マスター「あら、それはどうして?」

少女「今まさに証明されてます! マスターさんの淹れてくれたコーヒーは美味しいのに、他のは美味しくない! マスターさんが美味しいコーヒーを淹れてくれるせいで、他が飲めなくなってしまってるんです!」

マスター「なるほど……それは確かに私のせいかもしれませんね。 それでは仕方ありません、これから少女さんには私のコーヒーを我慢していただくしか……」

少女「わーっ!! 嫌です!! そんなの嫌です!! ごめんなさいっ、これからも飲ませてください!!」

マスター「あら、いいのですか? 他では飲めなくなってしまうのでしょう?」

少女「そ……う、なんですけど。 こ、コーヒー以外を飲めばいいだけですし……」

マスター「ふふ……」

少女「おっと、そろそろ帰らなきゃ。 それじゃ、マスターさん。 お疲れ様でした!」

マスター「はい、お疲れ様でした」

―――――――――――――――――――――――




カランコロン

マスター「いらっしゃいませ」

社長「やほ、いつものお願い」

マスター「はい」

社長「ふー……」

マスター「お疲れのようですね?」

社長「最近何かと忙しくてね~……いいことなんだけど。 ……そう言うあなたは、何か浮かない顔をしているようだけど?」

マスター「……そんなことはありませんよ」

社長「私に嘘が通じると思わない方がいいわよ。 何か悩み事?」

マスター「……」

社長「……無理に聞き出すつもりはないけど。 相談相手が必要だったら、いつでもなるから」

マスター「……ありがとうございます。 お待たせしました」

社長「ん、ありがとう……うん、美味しい」

マスター「……以前に少女さんとデートに行ったと聞きましたが。 その後はどうなんですか?」

社長「あら、少女ちゃんから聞いたの? そうね、その後も何度かデートしてるわ。 気になる?」

マスター「……いえ」

社長「本当、純真で可愛い子よ。 慕ってくれてるみたいだし。 ただ……」

マスター「ただ?」

社長「……」

マスター「?」

社長「……まあ、私に取られたくなかったら、自分で動くことね」

マスター「何の話でしょう?」

社長「別に~?」

少女「おはようございまーす!」

マスター「おはようございます、少女さん」

社長「こんにちは、少女ちゃん」

少女「こんにちはー! 着替えてきますね」

マスター「はい」

社長「……後悔しないようにね、いろいろと」

マスター「何の話かはわかりませんが、肝に銘じておくことにします」

社長「姉に隠し事ができると思ってるの?」

マスター「……」

少女「……ん、何の話ですか?」

社長「あら、少女ちゃん。 何でもないわ、大人の話よ。 今日も可愛いわね」

少女「お、大人って……わたしももう子どもじゃないんですけど!」

社長「ふふっ、そうやってムキになっちゃう時点でまだまだね」

少女「ぐぬぬ……」

マスター「……」

―――――――――――――――――――――――




今日の開店業務が終わって、閉店作業中。
テーブルを拭いて備品の補充を終えて、わたしはカウンターに戻った。




少女「テーブルと椅子の整理終わりましたー!」

マスター「……」

少女「……あれ、マスターさん?」




マスターさんは拭いていたコーヒーカップをぼんやりと見つめているだけで、反応がない。

少女「マスターさん? 大丈夫ですか?」

マスター「あっ……? すみません、少しぼーっとしてました」

少女「大丈夫ですか? 具合が悪いとか……」

マスター「いえ、大丈夫です。 少し考え事をしていただけですよ」




そう言って、マスターさんは弱々しく微笑む。
そんなマスターさんの笑顔を、わたしは今まで一度も見たことがなかった。
本当はすごく具合が悪いのか、あるいは大きな悩みを抱えているのか。
大丈夫だと言われても、その無理矢理な笑顔を見ると素直に信じることができなかった。




少女「何か悩み事ですか?」

マスター「……ふふっ。 今日、社長さんにも同じことを訊かれました。 平気ですから、安心してください」

少女「……マスターさんがそう言うなら、信じますけど……」




弱々しい微笑みはなくなって、いつもの優しい微笑みを浮かべてマスターさんはそう言うけど。
その弱々しい微笑みは、家に帰ってからもずっと忘れられなかった。

―――――――――――――――――――――――




少女「最近、マスターさんが変だと思いませんか」

社長「マスターが?」




何度目かの社長さんとのデート中。
お昼のためにレストランでスパゲティなんぞを食べていた時。
わたしは社長さんに、そう切り出した。




少女「最近、ぼーっとしてることが多くなってて。 何か考え事をしているというか、悩んでいるみたいなんです」

社長「ああ……私もそれは感じてた。 訊いてみたけど、はぐらかされちゃったわ」

少女「そうなんです。 わたしもはぐらかされるばかりで……でも、無理には聞けませんし」

社長「なかなか頑固な所があるのよねー……」




腕を組んで、社長さんが目を瞑る。

社長「本人が大丈夫だって言ってるんだから、それを信じるしかないのだけど……」

少女「信じられませんよね……わたしはあんなマスターさん初めて見ましたし」

社長「私も初めてよ。 本当、少女ちゃんがあそこで働くようになってから珍しい姿ばかり見るわ」

少女「はっ……もしかして、わたしが原因とか……?」

社長「それは無…………無いわよ、ないない」

少女「な、なんですか今の間は!?」

社長「本当のところはどうかわからないけどっていう間よ。 私は無いと思うし? うん、少女ちゃん良い子だから」

少女「わたしも無いと思いたいんですけど……すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます」

社長「ええ」




席を立って、お手洗いに向かう。
本当、マスターさんはどうしちゃったのかな……。




社長「……ある意味、少女ちゃんの所為っていうのも間違いではないのかもしれないわね……」

―――――――――――――――――――――――




少女「お皿洗い終わり、っと……」

マスター「……」




最後のお皿を棚に乗せて、マスターさんをちらりと盗み見る。
……やっぱり、ぼーっとしていた。




少女「……よしっ」




勇気を出して、マスターさんに近づく。




少女「マスターさんっ!」

マスター「ん……あ、すみません、また……」

少女「あのっ、わたしがコーヒーを淹れますから、一息つきませんかっ? わたしが奢りますっ!」

マスター「え……? いえ、コーヒーなら私が……」

少女「いいんです、マスターさんは座っていてください!」

マスター「……わかりました、いただきます」

少女「はい!」




マスターさんがカウンターを出て、カウンター席に座る。
その間にわたしはコーヒー豆を用意したり、器具を用意したりした。

マスター「……」




座っていても、マスターさんはぼーっとしている。
こんなの普通じゃない。
絶対に大丈夫なわけがない。
でも、わたしには無理に聞き出すことができない。
だから……わたしが淹れたコーヒーを飲んで、少しでもマスターさんの悩みを和らげることができたら。
わたしがそうだったように……少しでも、マスターさんを癒やすことができたら。
そう思いながら、わたしはマスターさんのためにコーヒーを淹れた。




少女「……お待たせしました」

マスター「あ……ありがとうございます」




マスターさんがコーヒーカップを受け取って、息を吹きかける。
……マスターさんにコーヒーを淹れたのは初めてなので、ちょっと緊張する。




マスター「いただきます……」




そう言って、マスターさんがカップに口をつける。

マスター「んく…………はふう……」




カップから口を離して、マスターさんはひとつため息を吐き出した。
その表情は……初めて見る表情で。




少女「ど、どうですか……?」

マスター「とっても……美味しいです……」




これがマスターさんの言っていた、コーヒーを飲んでいる時のわたしの表情なのかもしれない。
まさに、癒されるって感じの表情。
その表情に……不覚にも、ドキリとした。




マスター「……あ、あれ……?」

少女「ま、マスターさん!?」




そんなマスターさんの表情をぼんやりと見ていたら、マスターさんの目から涙が一筋零れ落ちた。

マスター「わ、私……」

少女「わっ、わっ」




そのままぽろぽろと、マスターさんの目から涙の粒が止めどなく零れ落ちていく。




少女「だ、大丈夫ですか? やっぱり何か悩みが……」

マスター「いえ、平気ですっ……平気ですから……っ」




ぐすぐすとしゃくり上げながら、マスターさんが言う。
全然平気そうに見えない。
きっと、マスターさん自身もどうして泣いているのかわからないのだろう。




少女「あっ、あのっ、とりあえず、これを」

マスター「あ、ありがとうございます……」




慌てながらも、ポケットからハンカチを取り出してマスターさんに手渡す。
マスターさんは受け取ったハンカチで、涙を拭った。

少女「あ、あの……」

マスター「すみません……少し、独りにさせてください……」

少女「でも……」

マスター「私は大丈夫です……大丈夫ですから……」




また、あの微笑み。
無理に作ったような、弱々しい微笑み。
大丈夫なわけがない。
でも……。




マスター「お願いします、少女さん……」

少女「……っ」




こんなマスターさん、独りにできない。
でも、マスターさんの目が、声が必死だったから。




少女「……わかりました。 着替えてきます」

マスター「ごめんなさい、少女さん……ありがとうございます」




わたしには、どうすることもできなかった。

―――――――――――――――――――――――




翌日。




マスター「いらっしゃいま……あら、姉さん」

社長「やほ……今日はずいぶん元気そうね。 久しぶりに見た気がするわ、無理矢理じゃない笑顔」

マスター「ふう……姉さんには敵いませんね。 どうしてわかってしまうのでしょうか」

社長「好きになった子のことはよく見てるのよ」

マスター「……」

社長「いつものお願い」

マスター「……はい」

社長「……本当、表情が晴れやかね。 何があったの?」

マスター「ずっと悩んでいたことがあったのですが……昨日、ようやく決心がついたんです」

社長「やっぱり何か悩んでいたのね。 内容を聞いてもいいかしら」

マスター「はい。 このお店……ねこのしっぽを、閉めようと思うんです」

社長「え……」

マスター「もともと、売上も黒字ギリギリで。 ずっと考えていたことだったんです」

社長「閉めることを?」

マスター「はい。 ただ……そこに、少女さんが現れてしまったので」

社長「……」

マスター「……昨日、少女さんが私にコーヒーを淹れてくれました。 初めて少女さんの淹れたコーヒーを飲んで……悩んでいたことの二つともが、解決したんです」

社長「お店を閉めることだけじゃなかったのね」

マスター「はい。 でも、その内容は秘密です」

社長「何となく察せられるけどね。 私に隠し事ができると思う?」

マスター「……あなたは、もう少しデリカシーというものを知るべきです」

社長「ゴメンね。 当ててもいい?」

マスター「ダメですってば」

社長「少女ちゃんが好きだってわかったんでしょ?」

マスター「……ダメだと言ったじゃないですか」

社長「私に隠そうとするからよ。 まったくもう、ようやく認めたのね」

マスター「……」

社長「ま、譲るつもりはないけどね。 私に取られないように、後悔のないように行動しなさい」

マスター「……後悔はしませんよ」

社長「どういうこと?」

マスター「少女さんに、この気持ちを伝える気はありませんから」

社長「……それこそ、後悔しそうだけど」

マスター「この気持ちこそ認めましたが、戸惑ってもいるんです。 姉さんを見てきたとはいえ……同性愛を、何とも思わないわけではありません」

社長「……」

マスター「私自身が中途半端なまま、気持ちを伝えても無駄でしょう。 それに、少女さん自身は…………あのひとは、とても優しいですから……伝えても私を嫌うようなことはないと思いますが、辛い思いをさせてしまうだけです」

社長「……相変わらず優しいわね、あなたも」

マスター「臆病なだけですよ」

社長「そうとも言うわね。 なら、私が取っちゃっても後悔はしないのね」

マスター「私が選んだことですから」

社長「……私は絶対に後悔すると思うわ」

マスター「……」

社長「……お店を閉めることは、もう確定なの?」

マスター「はい。 そう決めましたから」

社長「あれほど、この場所は立地が悪いって言ったのに……頑なに私の助けを拒むんだから」

マスター「姉さんに迷惑をかけたくないだけです。 それに、続けられないのは私の技量が足りなかっただけですよ」

社長「……私はそうは思わないけどね。 ここよりいい場所はたくさん知ってるけど、やり直す気はないの?」

マスター「ありません。 喫茶店を開くことは夢でしたが……私には向いていなかったのでしょう。 先程も言いましたが、姉さんの手は借りられませんし」

社長「そう……少女ちゃんには?」

マスター「まだ……折を見て、伝えようかと」

社長「あなたが決めたのなら、私は口出ししないわ。 希望を言うなら、続けてほしいけど。 辞めてからはどうするの?」

マスター「知り合いのコーヒーショップに誘われているので、そこで」

社長「ふふっ、コーヒーから離れることはないのね」

マスター「好きですからね」

社長「そう……うん、わかった。 お疲れ様、マスター」

マスター「まだ閉めませんけどね。 一ヶ月後くらいを目処に、です」

―――――――――――――――――――――――




少女「ありがとうございましたー!」

マスター「ありがとうございました」




最後のお客さんを見送って、伸びをする。




少女「う~~んっ……今日は忙しかったですねぇ」

マスター「そうですね」




あの日……マスターさんが私の淹れたコーヒーを飲んでから、マスターさんの様子は元に……というか、前よりも明るくなったように見える。
やっぱり悩み事があったみたいだけど、どうやら解決できたらしい、と社長さんから聞いた。
どんな内容だったのかは、社長さんも聞いていないとのことだった。
わたしもマスターさんから話してくるまで、聞くのはやめようと思ってるけど……。




マスター「では、お店を閉めましょうか」

少女「はーい」




ここまで晴々とした顔をされると、一体どんな内容なのか、非常に気になる。

少女「看板おっけーです」

マスター「ありがとうございます」

少女「お皿洗いますね」

マスター「はい。 私はコーヒーの準備をしていますね」

少女「お願いします!」




全速力でお皿を洗って、バックルームに入って着替える。




マスター「できましたよ」

少女「はーい!」




いそいそとカウンター席に座って、マスターさんからカップを受け取った。
息を吹きかけて少し冷まして、コーヒーを口に含む。




少女「はふう……バイトの後はやっぱりこれに限ります……」

マスター「ふふ……」




くすりとマスターさんが笑う。
……本当に、明るくなった感じがするなぁ。

少女「あの……」

マスター「はい?」

少女「社長さんから聞いたんですけど……悩み事が解決したって」

マスター「ああ……はい。 少女さんのおかげで」

少女「わたしのおかげ、ですか?」

マスター「はい。 内容も聞きましたか?」

少女「いえ。 社長さんも聞いていないと……」

マスター「そうでしたか。 あの人には話してあるんですけど」

少女「えっ」

マスター「きっと、私自身の口から話せということなのでしょう」

少女「聞いてもいいんですか?」

マスター「ええ。 少女さんにも深く関わることですから」

少女「え……」




わたしにも深く関わること……?




マスター「折を見て話そうとは思っていたんですが……実は、お店を閉めようと思っているんです」

少女「え……? おみせ、しめる……?」

マスター「はい。 なかなか、経営がギリギリでして……続けられないこともないのですが、無理を押して続けると後々反動が返ってこないとも限りませんから」

少女「あの……わたし、もっと頑張ります。 お給料だっていらないです。 だから……」

マスター「……ありがとうございます、少女さん。 その気持ちはとっても嬉しいです。 ですが、そういうわけにもいかないんですよ」




すごく辛い決断なはずなのに、マスターさんは暗い顔もせず、辛そうな声色もなく、むしろハキハキと述べていく。

マスター「報告が遅れてしまって、申し訳ありません。 本来ならば、真っ先に少女さんに伝えるべき事でした」

少女「いえ……」




お店が、無くなってしまう。
その衝撃的な事実は、わたしの頭の中を空っぽにさせた。




少女「わ、たし……続けてほしい、です……」




子どものようなワガママな言葉しか、出すことができない。
その言葉を聞いて、マスターさんは優しく微笑む。




マスター「少女さん……本当に、ありがとうございました。 元々、少女さんがここに来る前から悩んでいたことだったんです」

マスター「それを、少女さんが現れて、私のコーヒーを美味しいと言ってくださって……もう少しだけ続けてみようと、思えるようになったんです」

少女「……マスターさんは、後悔してないんですか」

マスター「はい。 私の夢は、もう叶いましたから」

少女「夢、とは?」

マスター「昔からコーヒーが大好きでして。 いつか喫茶店を開いて、私の淹れたコーヒーで、誰かがコーヒーを好きになってくれたら……それが、私の夢でした」

マスター「ただ、こうしてコーヒーがメインの喫茶店を開いてみてわかったことは、元々コーヒーが好きな方しか来ない、ということでしたね」




マスターさんが苦笑する。

マスター「そして……そこに現れたのが少女さんです。 普段はあまりコーヒーを飲まないという少女さんが、突然ふらりと迷い込んできて。 そして初めて私の淹れたコーヒーを口にして……」




懐かしむように、マスターさんが目を閉じる。




マスター「……あの時の少女さんの表情は、一生忘れません。 コーヒーの美味しさに目覚めてくれたんだって、すぐにわかったあの表情は。 私の夢が叶ったって思えた、あの表情は」

少女「マスターさん……」

マスター「ここで喫茶店をやっていたことは、無意味なことではなかったと実感できました。 私のコーヒーを好きになってくれた少女さんのおかげで、私の夢が叶いました。 なのでもう、後悔はありません」

マスター「だから……本当に……」




言葉に詰まったように、マスターさんが俯く。
けれど、すぐに顔を上げて。




マスター「本当に……ありがとう」




涙を流しながら、マスターさんがにっこりと笑った。
……すっごく、寂しそうな笑顔だった。




少女「ま……ます、たー……っ」




胸が詰まる。
わたし自身は、マスターさんに感謝されるようなことをした覚えがない。
ただコーヒーを飲んで、バイトとして雇われて、むしろわたしがお世話になっている側だった。
なのに、わたしのお陰だって、マスターさんは。
……頑張って考えた。
わたしにできることはないのかって。
でも、なかった。
涙を流しながら感謝してくれてるのに、マスターさんのためにわたしができることは、何もなかった。

―――――――――――――――――――――――




その日の夜。
ねこのしっぽを出て、帰宅途中。
駅から家への道を歩きながら、ぼんやりとマスターさんのことを考えていた。




少女「ねこのしっぽが……なくなっちゃう……」




わたしが、コーヒーを好きになれた場所。
美味しいコーヒーを飲みながら、マスターさんとお話しして、社長さんともお話しして。
わたしが、癒される場所。
そこが、一ヶ月後にはなくなってしまうという。




少女「わたしじゃ……何もできないよ……」




寂しそうな、マスターさんの笑顔を思い出す。
あんな顔で後悔してないなんて……信じられるわけがない。
でも、わたしにはどうすることもできなかった。

―――――――――――――――――――――――




社長「ん~~っ……ふうっ。 つっかれたわ~……」




とある不動産会社の事務所。
その二階にある社長室に、私はいる。




社長「こんな時はあの子のコーヒーを飲みたいものだけど……っと?」




普段はこの時間に鳴ることのない受付からの内線電話が、突然鳴り始める。
何かあったのかと不安になりながら、受話器を取る。

社長「もしもし? どうかしたの?」

受付『すみません、面会時間は終わってるんですけど……社長にお会いしたいという方がいらっしゃって』

社長「こんな時間に? 誰?」

受付『少女様、だそうです』




その名前を聞いて、すぐに思考が切り替わる。




社長「今すぐ行くから。 少し待ってもらって」

受付『え、あ、はい。 わかりました』




どうしてこんな時間に?
どうしてメールとかではなくわざわざここに?
色々な疑問が浮かんだけれど、それほどの事があったのだと解釈し、階段を駆け降りて一階の受付に急ぐ。

社長「お待たせ…………と」

少女「社長さん……」




少女ちゃんを一目見た瞬間、察した。
たぶん、ねこのしっぽのことだろうと。




少女「社長さん……ねこのしっぽが……」




やっぱり。
やっと話したのね、あの子は。




少女「ねこのしっぽ、が……っ、ぐすっ、わたしっ、なにもできなくてっ……!」

社長「っ!? と、とりあえず私の部屋に来て!」

―――――――――――――――――――――――




社長「……落ち着いた?」

少女「……はい……」




なんとかマスターさんを助けられないかと考えていたら、気が付いたら社長さんの事務所に足を運んでいた。
社長さんの顔を見たら、お店で我慢していた涙が溢れてきてしまって。
止めないとと思っても、止まらなくて。
そのまま社長さんのお部屋で、社長さんに背中をさすられながら、しばらく泣きじゃくってしまった。




少女「あの……ごめんなさい。 迷惑をかけてしまって……しかも、こんな時間に」

社長「いいのよ。 少女ちゃんならいつだって大歓迎なんだから。 それで、どうしてここに来たのか聞いてもいい?」

少女「はい……あの、マスターさんから聞きました。 もう、お店を閉めると」

社長「そう……やっぱり、そのことなのね」

少女「続ける気はないのかって聞いたら、ないって、もう夢が叶ったからって……わたしに、ありがとうって……」




最後にわたしに見せた、マスターさんの笑顔が浮かぶ。
やっぱり……すごく、寂しそうだった。

少女「マスターさんがそう決めたから……わたしは口出しするべきじゃないって、わかるんです。 でも、でも……マスターさん、寂しそうに笑ってたんです……後悔してないはず、ないんです……」

社長「うん……」

少女「わたし、そんなマスターさんの笑顔を、見たくなくてっ、マスターさんを助けたくてっ……でも、わたしには、なんにもできなくてっ……だからっ、あのっ……」

社長「うん?」

少女「こんなこと、お客さんの社長さんにお願いするなんて、おかしいってわかってます。 でも、でも……マスターさんを助けられるのは、社長さんしかいないんです。 どうか、どうか、マスターさんを助けてあげてくださいっ……!」

社長「……それが、ここに来た理由なのね」

少女「はい……あの、あのっ、わたしっ、何でもしますっ! だからっ、だからっ……!」

社長「こら、女の子がそう簡単に何でもするなんて言っちゃ駄目よ。 自分の身体を安売りしちゃダメ」

少女「で、でもっ……!」

社長「でもじゃないの。 わかった?」

少女「っ……」




怒ったような……いや、本気で怒っている表情で、社長さんがわたしを見る。
思わず息をのんだ。




少女「……は、い……ごめんなさい……」

社長「うん、わかってくれてよかった。 あのね、そんなことを言わなくても、私は少女ちゃんのお願いを聞くことくらい喜んでやるわよ。 ……でもね」




ふう、と社長さんがため息をつく。

社長「……私もね、助けたかったのよ。 でも、あの子は私に迷惑をかけたくないからって断ったの」

少女「……マスターさん……」




こんな時でも……マスターさんは、マスターさんらしい。




社長「一度決めると、もう変えないのがあの子なの。 取り付く島もないというか……説得は難しいわね」

少女「っ……ですが……」

社長「やらないとは言ってないから、安心して。 出来る限り説得するから。 少女ちゃんを泣かせたことも許せないしね」

少女「え……あの、マスターさんは悪くないので、あまり怒らないであげてください……」

社長「ふふっ、冗談よ。 少女ちゃんの頼みっていうのもあるけど……何より、可愛い私の妹のことだもの、出来る限りのことはするわ」

少女「あっ、ありがとうございっ…………は? 今なんて?」

社長「え? 可愛い私の妹のことだもの、って?」

少女「は……? えっ、誰が、誰の、妹……?」

社長「ねこのしっぽのマスターが、私の、妹」

少女「…………へぁっ!? ま、ま、ま、マスターさんがっ、マスターさんがっ、社長さんがっ、妹っ!!!?」

社長「逆、逆よ少女ちゃん。 私が姉、マスターさんは妹」

少女「あ、姉……妹……姉……妹………………うーん……」バターン

社長「きゃあっ!? 少女ちゃんっ!?」

―――――――――――――――――――――――




翌日




マスター「ふう……お皿はこれで最後ですね」

マスター「あとはバックルームの整理を……ん?」カランコロン

マスター「すみません、今は閉店中で……あら?」

社長「やほ、お疲れ様」

マスター「姉さん……どうかしましたか?」

社長「んー、ちょっと話したいことがあって。 時間あるかしら」

マスター「はあ……? 大丈夫ですけど」

社長「よかった」

マスター「とりあえず、座ってください。 今コーヒーを……」

社長「ううん、コーヒーはいいの。 それで、話なんだけど」

マスター「はい?」

社長「お店……本当に続ける気はないの?」

マスター「またその話ですか? 何度も言っていますが、ありませんよ」

社長「そう……どうしても?」

マスター「はい」

社長「少女ちゃんには話した?」

マスター「ええ、昨日に」

社長「そうね、そう言ってたわ」

マスター「?」

社長「昨日ね……夜に、少女ちゃんが来たのよ。 うちの事務所に」

マスター「え」

社長「少女ちゃん……泣いていたわ。 お店がなくなっちゃうって、わたしにはどうすることもできないって。 自分を責めるみたいに」

マスター「……そんな」

社長「我慢していたのでしょうね。 あなたを困らせたくないから、あなたの前では泣かないようにって」

マスター「……」

社長「それでね……私のところに来た理由が、あなたを助けられるのは、私しかいないからって」

マスター「私を、助ける……?」

社長「……少女ちゃんね、あなたが寂しそうに笑ってたんだって、言ってたの。 後悔してないって言ってたけど、後悔してないならそんな顔で笑わないって」

マスター「少女さん……」

社長「私もそう思うわ。 後悔してないのなら、あなたがあんなに悩むはずがないもの。 ……で、どう? これを聞いても、後悔してないって言える?」

マスター「っ……決めたこと、ですから」

社長「……ねえ、わかる? 私、怒ってるの。 後悔してないって、私に嘘をついたことはいいの。 嘘だってすぐにわかってたし、あなたは頑固だから。 でもね、あなたは少女ちゃんにまで嘘をついたの」

社長「少女ちゃんに嘘をついて、少女ちゃんを泣かせて……初めてよ、あなたにこうやって怒るのは」

マスター「……」

社長「あなた、一番大切な人に嘘をついて、泣かせたのよ? 少女ちゃんが泣いてるところ、あなたは見たことある? 私は無かったわ。 暗い顔ひとつしなかったあの子が、あなたのために泣いてたの。 それくらい……あの子は、あなたを想ってる。 だからあの子は、あなたが寂しそうだったって気付けたのよ」

マスター「……!」

社長「ねえ、本当に続ける気はないの? 我慢してるだけじゃないの?」

マスター「……」

社長「……」

マスター「……気持ちだけでは、どうにもならないんです。 夢が叶って、可能性は広がった。 でも、その前に現実を、経営を何とかしないといけない。 でも、どうにもできない……」

マスター「そう、もう、どうにもできないんです。 どうにも、ならないんですっ! 後悔していますっ! お店を開こうとしたとき、姉さんの手を借りていたら、きっとこんなことにはならなかった! 本当は、続けたいと思っていますっ! 信じてきたことが……夢が叶って、これからかもってようやく思えたんです!」

マスター「ですが、ですが……もう、どうにもできないんです……」

社長「……バカね」

マスター「ふぇ……?」

社長「自分じゃどうしようもなくなったら、頼りなさいよ。 何のための姉だと思ってるの」

マスター「で、ですが……私は、姉さんの気持ちに応えられなくて……あの……」

社長「それで負い目を感じていたの? 私があなたに告白して、あなたはそれを断ったから? ……バカね。 ほんっとうにバカで、お人好しで……優しいんだから」

マスター「う……」

社長「そんなことに負い目を感じなくていいの。 私だって、わかってた答えだったもの。 私たちは姉妹なんだから……そうね、あなたが、どうしようもなくなったらでもいいから」

社長「たまには、頼りなさいよ。 断られて、諦めたとしても……私は変わらず、あなたを妹として愛してるんだから」

マスター「姉さんっ、私っ……」

社長「あなたは独りで十分頑張ったわ。 だから、少しは周りの人の手を借りなさい、ね?」

マスター「っ……はい、はいっ……!」

―――――――――――――――――――――――




少女「う、うぅ……」

社長「そんなに肩肘張らなくていいのよ」

少女「で、ですがぁ……」




社長さんの事務所で泣きじゃくった日から、しばらくして。
社長さんに、何でもするって言った約束、果たしてもらうわよ? って、怖い笑顔で言われた。
そんなこと言うなって言ったの社長さんじゃないですかって言っても、それはそれ、これはこれって返された。
それで社長さんから出されたお願いが、わたしと夕飯を食べたいってこと。
なんだそんなことって、思ったんだけど……。




少女「こ、こ、こんな、高そうな、おみせ、初めてでっ……!」




夕方……ねこのしっぽがまだ開いているような時間帯にわたしが連れてこられたのは、高級レストラン。
少なくともわたしのような一般庶民には、一生縁のないような場所である。

社長「そんなに緊張してしまったら、せっかくの美味しい料理も台無しになってしまうわよ? ……ん、おいし」




そう言いながら、社長さんは次々と料理を平らげる。
わたしは緊張してしまって、全然進んでない……。




社長「……そうだ、ねこのしっぽの件だけど。 マスターさんから何か聞いた?」

少女「いえ、しばらくシフトが入ってないので……説得に行ってくれたんですか?」

社長「ええ、行ったわ。 少女ちゃんが泣きついてきた翌日に」

少女「う……」




確かに文字通り泣きついた。
恥ずかしいけど否定できない。




少女「それで……あの、どう、でしたか……?」

社長「そうね……」




顎に指を当てて、社長さんが考える。
……思えば、社長さんもマスターさんも、よくこの仕草をする。
本当に姉妹なんだなあ……似てないけど。

社長「私からは、何とも言えないわ。 ただ、考えてみるってさ」

少女「そう、ですか……」

社長「ごめんね、あまり力になれなくて」

少女「いえ、無理なお願いを聞いてくださっただけで、感謝してもしきれません」

社長「ふふ、言ったでしょ? 可愛い妹のためでもあるって。 ま、一番は少女ちゃんのためだけど」

少女「あの……お願いしておいてアレなんですけど。 どうしてわたしに、そこまで……?」

社長「……そうねぇ」




社長さんは天井を見上げてから、じっとわたしの目を見つめた。




少女「?」

社長「……もうちょっと、溜めようかなって思ってたけど。 いいタイミングが来ちゃったから仕方ないわね」

少女「え? 何がですか?」

社長「少女ちゃんをデートに連れていくのも、少女ちゃんの為に何かしてあげたいって思うのも……少女ちゃんのことが、好きだからよ」

少女「はあ……? わたしも、社長さんのことは好きですけど……」




それを聞いて、社長さんはきょとんとして。




社長「……くすっ。 ううん、やっぱりね。 うん、わかってた」




くすりと笑って、呟いた。

少女「え? えっ? な、何がですか?」

社長「うん、脈ナシだってこと」

少女「ミャクナシ……?」




ミャクナシ……脈、無し……脈無し……?




少女「……へえっ!? あぁのっ、ええっ!? えっ、好きって……えっ、えっ!? そういうっ……!?」

社長「ふふふっ、少女ちゃんがびっくりしてるとこ、可愛くて面白いわ」

少女「そ、そんなことよりっ、好きって、好きって……!?」

社長「そのまんまの意味よ。 少女ちゃんが好き」




社長さんがテーブルに両肘をついて、指を組んで、それに顎を乗せてわたしを見る。




少女「えっ、えっ……わたし、あの……社長さんも……」

社長「ええ、そうね。 同性ね。 でも、そんなことは関係ないの」

少女「え……」

社長「男も、女も、どっちも人なの。 人が人を好きになる……おかしいことなんて何もないでしょ?」

少女「あ……」

社長「例えば……そうね。 少女ちゃん」

少女「は、はいっ」

社長「私の事務所に来た時、どうして泣いていたの?」

少女「え……? それは、ねこのしっぽが無くなってしまうのが、嫌だったから……」

社長「うーん……そうだったかしら?」

少女「え……」




あの時……わたしはただ、ねこのしっぽがなくなってほしくなくて……。

社長「少女ちゃん……ずっと、マスターさんを助けたい、マスターさんを助けたいって言ってたような気がするんだけど」

少女「あ……はい、言いました、けど……」




確かに、言った。
だって、マスターさん、寂しそうだったから。
なんとかしてあげたかったから。




少女「わたし……マスターさんを助けたくて……でも、わたしじゃ何もできないから……」

社長「うん、そう。 それで泣いていたのよね。 マスターのために」

少女「マスターさんのため……はい」

社長「どうかしら。 誰かのために泣くって、少女ちゃんの中では普通のこと?」

少女「……」




普通じゃない。
少なくとも、これまで生きてきて、誰かのために泣いたことはない。
誰かを助けてあげたいって思ったことはあるけど、泣くほどではなかった。




少女「……普通じゃないです」

社長「ふうん……じゃあ、どうして泣いていたのかしら」

少女「それは……」




マスターさんを助けたかったから。
……それだけだったら泣かないか。
なら、どうして?
どうして……どうしてわたしは……?

少女「泣くほど……マスターさんを、助けたかった……」




あの時……マスターさんのことで、頭がいっぱいだった。
今だってそうだ。
……思えばあの時よりも前だって、ずっとそうだった。




少女「あ……」




気付けば、わたしの中でのマスターさんの存在は、とても大きなものになっている。
それは、他の人たち……家族とも、友だちとも、社長さんとも、比較にならないほどに。
泣くほど、マスターさんを助けたかった。
それは……マスターさんが寂しそうだったから。
でも、本当は……。




少女「わたしが、寂しかったから……」

社長「……ん」




にっこりと、社長さんが笑う。
……そっか、寂しかったんだ。
だって、お店がなくなっちゃったら、もうマスターさんに会えなくなっちゃうから。
もう、マスターさんの優しい微笑みを、見られなくなっちゃうから。
もう……マスターさんとお喋りしながら、マスターさんが淹れてくれたコーヒーを飲むことが、できなくなっちゃうから。

少女「ますたー、さん……」




……どくんどくんって、心臓がうるさいくらいに跳ねている。
そっか、そっか、それって……わたし、わたしっ……。




社長「……ね? なーんにも、おかしくないでしょ?」

少女「……っ!」




思わず、立ち上がる。
マスターさんに会いたい。
そんな気持ちが湧き出てきて。




少女「あのっ、わたしっ……!」

社長「うん、行ってあげて」

少女「っ……」




社長さんは微笑んでいる。
でも……それが無理矢理なことくらい、わたしにはわかる。




少女「……社長さんの気持ちは、とても嬉しいです。 でも、ごめんなさい。 わたし……好きな人が、いるみたいです」

社長「……うん、わかった。 答えてくれてありがとう、少女ちゃん」




ほとんど泣き笑いの表情で、社長さんが言う。
社長さんに頭を下げて、わたしはレストランを出た。




社長「……あーあ。 やーっぱ、だめだったかぁ……」

―――――――――――――――――――――――




駅まで走って、電車に飛び乗って。
電車を飛び出して、駅から走って。




少女「はあっ、はあっ、はあっ……!」




はやく、はやく。
はやく、マスターさんに会いたい。
マスターさんの、傍にいたい。




少女「はっ、はっ、はふっ……」




ねこのしっぽに辿り着く。
クローズ表示になってるけど、時刻的にまだ閉まったばかりのはず。
ドアを押して、中に入る。




マスター「あらすみません、ちょうど閉店したところで……って、少女さん?」




マスターさんは、テーブル席の整理をしているところだった。

マスター「どうかしまし――――きゃあっ!?」




マスターさんを見たら、いろんな想いが込み上げてきてしまって、何にも考えられなくなってしまって。
思わず、マスターさんに抱きついた。




マスター「しょっ、しょっ、しょ、しょっ、少女さっ……!?」




珍しく、マスターさんが焦っている。
……可愛い。




少女「マスターさん……」

マスター「ど、どうかしましたか、少女さん? 何か辛いことでも……」

少女「ううん、違うんです……」




心臓は、相変わらずどくんどくんってすごくうるさい。
走ってきたからってだけじゃない。
顔を上げて、マスターさんを見つめる。

少女「マスターさん。 わたし、マスターさんに伝えたいことがあるんです」

マスター「は、はあ……?」




顔を赤くしながら、マスターさんはぽかんとしている。
はやる気持ちを抑えて、ゆっくりと息を吸って、吐いてから。




少女「好きです、マスターさん」

マスター「は…………?」




ぴたりと、マスターさんが固まった。




少女「わたし……あの……マスターさんに会えなくなるのが嫌で、マスターさんの傍にいたくて、だから、このお店が無くなってほしくないって思ったんですっ!」

少女「もちろん、わたしのワガママだってわかってます。 でも、嫌なんです! 無くなってほしくないんです! わたしをマスターさんに会わせてくれたこのお店が、無くなってほしくないんです! このお店も、マスターさんのことも好きだから、無くなってほしくないんです!」




マスターさんから離れて、頭を下げる。




少女「マスターさんっ、お願いしますっ! どうか、お店を続けてくださいっ!!」




言いたいこと全てを言い切って、ぎゅっと目を瞑る。
……マスターさんからの反応はない。

少女「……あの……?」




恐る恐る、顔を上げてみると……。




マスター「…………」




マスターさんは、固まったままだった。
ただ、顔だけはさっきよりも真っ赤になってる。




少女「あの、マスターさん?」

マスター「…………はっ、あっ!? あっ、あのっ、えとっ……」




我を取り戻したようで、マスターさんは両手で赤くなった頬を押さえて慌てたように視線を彷徨わせる。

マスター「い、い、いけません……私、結構年上ですし……同性、ですし……」

少女「そんなの、関係ありません。 私は、マスターさんが好きなんです。 マスターさんはどうですか?」

マスター「あ……」




じりじりと、マスターさんとの距離を詰める。
マスターさんは顔を真っ赤にしたまま後ずさるも、お店の壁に退路を阻まれた。




マスター「あ、あ……」

少女「……ま、マスターさん」




壁に両手をついて、マスターさんを追い詰めて。
少しわたしよりも高い位置にあるマスターさんの顔に、背伸びしてぐっと顔を近づけて。
至近距離から、マスターさんの瞳を見つめる。




マスター「……」

少女「……」




しばらく、お互いに何も言えず……でも、目を逸らすことなく。
ただ、見つめ合う。

マスター「……私、も……」




わたしから目を逸らすことなく、マスターさんが口を開いた。




マスター「好きです、少女さん……」

少女「マスターさん……」




……初めてのキスは、ちょっぴり、苦かった。

―――――――――――――――――――――――




少女「いらっしゃいませー! 純喫茶ねこのしっぽへようこそー!」




それから。
マスターさんはお店を続けることを決意して、お店の移転が決まった。
場所は、社長さんとデートに行ったデパート。
そこにあるハンバーガー屋さんの対面のスペースが空いていたので、そこにねこのしっぽは収まった。

それからはもう、本当に大変で。
試しにお店に入ってみたってお客さんがたくさんいて、そのお客さんたちのほとんどがマスターさんの淹れるコーヒーのリピーターになった。
そりゃ当たり前だよね、美味しいんだもん。

だからもう、毎日が大忙し。
アルバイトがわたしだけじゃ回らないから、アルバイトの子も増えた。
マスターさんと二人きりになる時間は減ったけど……。

少女「うひー……今日も忙しかったぁ……」




バックルームにある椅子に腰掛け、テーブルに突っ伏する。




マスター「お疲れ様です、少女さん。 コーヒー飲みます?」




そのままぐだぐだしていると、コーヒーの入ったカップを両手に、マスターさんがバックルームに入ってきた。




少女「もちろん飲みますっ!!」

マスター「ふふっ……どうぞ」




がばりと顔を上げて、答えた。
二人きりの時間は減ったけど。
バイト終わりのこの時間は、相変わらず二人きり。
今では、こうしてマスターさんと一緒にコーヒーを飲むようになった。

少女「ん……はふう、美味しいです……」




コーヒーをひとくち飲んで、隣に座るマスターさんに感想を伝える。




マスター「それはよかったです」




マスターさんはわたしに微笑み返してから、カップに口を付けた。




マスター「ん……やはり、少女さんと一緒に飲むコーヒーは違います」

少女「マスターさん……」




頬を染めながら、マスターさんがそんなことを言ってくる。
その言葉に、どきどきしながら。




少女「わたしも、マスターさんと一緒に飲むコーヒーが一番好きです」

マスター「っ……」




わたしがそう返すと、マスターさんの顔が真っ赤に染まる。
本当に、マスターさんは可愛い。

少女「えへへ……お返しです」

マスター「……少女さんは意地悪です」




そう言って、マスターさんはカップを置いてそっぽを向いてしまう。




少女「えー、マスターさんから仕掛けてきたんじゃないですかー」

マスター「知りませんっ」




わたしもカップを置いて、マスターさんに抱きつく。




マスター「わ、わっ……少女さんっ?」

少女「ん……マスターさん……」




ぎゅっとマスターさんを抱きしめると、マスターさんもわたしを抱きしめ返してくる。

マスター「……少女さん」

少女「はい?」

マスター「私……少女さんには、感謝してもしきれません」

少女「そんな、感謝するなら社長さんにですよ?」




この場所を提供してくれたのも、わたしたちを繋げてくれたのも、社長さんだった。
本当に、あの人には頭が上がらない。




マスター「場所を貸してくれたのは姉さんですが……お店を続けようと思わせてくれたのは、少女さんですから」

少女「えへへ……まあ、ただのワガママでしたけど……」

マスター「そんなことはありません、私も続けたいと思っていましたから。 仮に続けたとしても、本当にやっていけるかどうかが不安でしたし」




わたしを抱きしめるマスターさんの腕に、力がこもる。

マスター「でも……少女さんは、その不安を和らげてくれました。 このひととなら……きっと大丈夫だって、思わせてくれました。 それで、ここに来て、お客さんがとても増えて、また夢が叶って。 だから、本当に……」




マスターさんはわたしを抱きしめていた腕を離して、わたしの顔を両手で挟み込んで。
わたしの額にマスターさんの額をくっつけて、わたしの目を覗き込んできた。




マスター「本当に……ありがとう」




そして、にっこりと笑った。
今度は、寂しそうなんかじゃない。
本当に、心の底から、嬉しそうに。
そのまま、マスターさんはわたしにキスをして。

マスター「大好きです、少女さん」




またにっこりと笑って、そんなことを言ってくるから。




少女「大好きです、マスターさん」




わたしもそう言い返して、マスターさんにキスを返すのだった。

おわりです、ありがとうございました。

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