鷺沢文香「とりっくorとりーとor……?」 (18)


毎年、十月の暮れは賑やかだ。

元々は秋の収穫を祝してのお祭りであったハロウィンだが、現在の日本ではそんな事情などは知ったことかと言わんばかりに若者は奇抜な装いで街へと繰り出し、友人や恋人などの気の知れた仲間と練り歩くイベントと化している。

文字通りのお祭り騒ぎ。

しかし、せっかく騒いでいいと言われているのに騒がないのでは、もったいない。

そう思うのはアイドルだって例外ではない。

とある芸能事務所の窓には、コウモリやらクモやらオバケやら、いかにもなステッカーがぺたぺたと貼られていて、正面玄関にはカボチャの置物が並べられている。

それを、眺める男が一人。

シックに着こなしたスーツには不釣り合いな、菓子がこれでもかという程詰められた大きな紙袋を両手に提げている。

「さぁ、一丁バカになるとしようか」

男は自分に言い聞かせるようにそう呟くと、敷地の中へと消えていった。


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* * *



俺の所属する芸能事務所では、毎年所属しているアイドル達への慰労の意も込めて、ハロウィンパーティを行う。

うちの事務所には、まだ小学生の子なんかも所属しているから、それはそれは盛り上がる。

ここに就職するまでは、祭りなんかには無縁だったわけで、最初は面喰ったが今ではもう慣れっこだ。

そしてこの大量の菓子は、自分の身をイタズラから守るためには必要不可欠なのだ。

意を決して事務所のドアを開く。

すると、やいのやいのと騒いでいた女の子達の視線が一斉に俺を向く。

「文香ちゃんのプロデューサーさん来たよー!!」

誰が言ったのかを確認する間もなく、人の波がわぁっと押し寄せて、俺は四方を女の子達に囲まれてしまった。

ファンからしてみれば、夢のような光景なのだろうが、ある意味恐怖である。

一手間違えれば即死。

イタズラのラッシュを受ける羽目になる。

慎重に慎重に。


「せーのっ」

「トリック、オア、トリート!」

どこで練習したんだ、と聞きたいくらいの声の揃いっぷりである。

「分かってるよ。ちゃんとあるから、順番にね」

押し寄せる人波を制して、順番に並んでもらう。

一人目は、市原仁奈ちゃんだった。

仁奈ちゃんは常日頃、動物のキグルミを着ているから、普段から仮装しているようなものだけれど、それを言っては野暮だろう。

「とりっくおあとりーとでごぜーます!」

「はい、仁奈ちゃんにはこれ。どうぶつビスケット」

「わー! ありがてーです!」

受け取るや否やたたたたーっと、どこかへ駆けて行ってしまった。

喜んでもらえたのなら、それでいいけれど。


二番目は、橘ありすちゃん。

いつかのお仕事で着ていた大魔道師の衣装が気に入ってるのか、それに身を包んでいる。

「トリックオアトリート、です」

「はい。橘さんにはアポロね。イチゴ好きだったでしょ? 文香とも仲良くしてくれているみたいでありがとうね」

「ありがとうございます。こちらこそ文香さんにはお世話になってます。…えへへ」

アポロの小箱を大事そうに抱えながら、ありすちゃんは行ってしまった。

きっと、同世代の子達のところか、文香にでも見せにに行くのだろう。


* * *



絶え間ない「トリックオアトリート」を潜り抜け、ようやく解放されると、大量のお菓子が入っていたはずの紙袋はすっかり軽くなってい

た。

結構気合を入れて買い込んだんだけどな、と少し自分の見通しが甘かったことを反省しつつ、やっとの思いで自分のデスクへと辿り着く。

一息つけそうだ。

そう思って道すがら買った缶コーヒーをポケットから取り出した。

ホットであったはずのそれは、もう温くなってしまっていたけど、今はのどを潤すことができればそれでいい。

タブを引くと、かしゅっという小気味のいい音と共にコーヒーの香りが立ち上り、鼻孔をくすぐる。

ふぅ、まだ一日は始まったばかり。

女の子達は建物内の今日に限って解放されている会議室やら応接室やらで思い思いの遊びをしているようで、俺のデスクのあるこの部屋は先程までの騒がしさは鳴りを潜め、同僚たちがかたかたとキーボードを叩く音や、業務連絡の声などが飛び交っている。

時折、上の階をどたどたと走り回る音が響くのは、ご愛嬌。


コーヒーをぐいっ、と飲み干して「さぁ、やるか」と椅子に深く座り、マウスに手をかけたところで不意に声をかけられた。

「…お疲れ様でした。大盛況でしたようで……ふふ」

バレンタインのときのお仕事で着ていた小悪魔風衣装に身を包む文香がそこにはいた。

「あれ、わざわざ来てくれたのか」

「ええ、ありすちゃんからプロデューサーさんがいらっしゃったことを聞いたので」

「あー、なるほどね。喜んでた?」

「ええ、とても」

「そりゃよかった。わざわざありがとな。幸いお菓子は少しだけ余ってるから、トリックオアトリートしてく?」

「……では、お言葉に甘えて」

文香は襟を正して、少し悪戯っぽい笑みを浮かべて、すすすっと俺の側面に回り込んだ。

何をされるのだろうか。

内心どきどきしていると、文香は彼女の唇と俺の耳とが触れんばかりの距離まで顔を近付け、「………とりっくおあとりーと」と囁いた。

どうやらこの「トリックオアトリート」は相当の覚悟を以ての決行であったようで、文香は耳まで真っ赤になって手のひらで顔の熱を冷ましている。

本当に心臓に悪い。

「びっくりした……」

我に返り、なんとか絞り出せたのはそんな陳腐な感想であった。

「………あの、すみません。お気に召しませんでしたでしょうか」

「いや、めちゃくちゃどきどきしたよ。心臓吐きそうなくらい」

「…であれば、僥倖です」

「で。あれは誰の入れ知恵?」

「……奏さんに」

これは、速水さんの担当に報告だな。


「ああ、そうそう。これ、お菓子」

俺は鞄から少しだけ他の子よりも色を付けたお菓子を取り出して文香に渡した。

「……ありがとうございます。ふふ、特別扱いは感心できませんね」

「だから内緒な。他の子に見せるなよ?」

「もちろんです」

「よし、それじゃあ、遊んできていいよ。俺はいつも通り仕事あるから構ってやれなくて悪いけど」

「…いえ、私の方こそお仕事中にお邪魔しました」

丁寧にぺこりと頭を下げ、回れ右をする。

そのとき、何かに足を引っかけたのか文香が斜めに傾いた。

既のところで、なんとか抱き止める形にはなってしまったが、担当アイドルと地面の衝突事故を阻止することに成功した。

「…すみません」

「躓いたか?」

「いや、今日は少し体調が優れなくて……」

「んー。残念だけど、帰る? 送ってくよ」

「…いえ、少し休めば問題はないものと思われます……」

「文香がそう言うんなら、いいけど…。念のため少し横になりなさい。ちょっと空いてる部屋探すから」

見たところ軽い貧血のようなもんだと思うけれど、万が一と言うこともあるから、本当は今すぐにでも帰したいのだが、せっかくのお祭りの日にそれは酷だしなぁ。

少し休んでもらって、それでも体調が優れないようならば、帰宅を促すとしよう。

そのためには、まずは休める場所を探さなくては。

そう思い、一先ずは文香を事務所のソファに座らせ、内線でちひろさんをコールする。

ちひろさんは数コールの内に電話に出てくれて、用件を言うと『ちょっと待っててくださいねー。またかけ直します』と言って電話を切ってしまった。

電話を待つこと数分、ちひろさんからの連絡が来た。

なんでもちひろさんが、年長組にそれとなく事情を話し、空き部屋を一つ作ってくれたらしい。

困ったときには本当に頼りになる人だ。

『助かります。本当にありがとうございます』とお礼を言って電話を切るとソファで待っている文香の元へと再び向かった。

「休めそうな部屋、用意してもらったからそこで横になっておいで。後で様子見に行くからちゃんと休むんだよ?」

「…はい。ありがとうございます……っ…」

立ち上がった瞬間に、文香は痛みに顔を歪ませて、額を手で抑える。

「本当に大丈夫か?」

「……はい、今のはただの立ち眩みで…」

「まぁ、心配だから部屋までついてくよ」

「……すみません。ご迷惑をおかけします…」


* * *



俺と文香が用意してくれた部屋に着くと、そこにはありがたいことにブランケットや座布団などが置いてあり、少しでも休まるように、との配慮をしてくれていた。

ちひろさんには頭が下がる思いでいっぱいだ。

俺は文香を入口のところで待たせ、用意してもらった座布団などを使って簡単な横になれるスペースを作っていると、背後でかちゃりと鍵が閉まる音がした。

「………すみません」

「どうした、文香?」

「……本当にすみません…。今から私が話すことは誰にも言わないで欲しいのです」

ただごとではない。

即座にそう思わされるほどの気迫が、文香にはあった。

「うん。誰にも言わない。俺にできることなら言ってくれ」

「………実は、ですね」

一世一代の告白をするかのような重々しさに、思わずごくり、と唾を飲んだ。

「私は……………」

「文香、は…?」

「…吸血鬼、なのです」


「は? 吸血鬼ってあの? 血を吸う?」

「……はい。ばかばかしいと、思いましたよね……」

「いや、信じる。信じるよ。とても嘘を言ってるようには思えないし」

あんな文香は見たことがなかった。

その事実が、文香の言葉が嘘ではないことを表している。

「……プロデューサーさんは、優しいのですね」

「それ、で。俺にできることとか、ってあるのか…?」

「…普段は人間と同じ食べ物でも問題なく過ごせるのです」

「あ、ああ」

「…ですが、毎年この日になると、血が騒いでしまって……」

「ハロウィンだから、か」

「……はい」

「…なんとなく察したよ。要は血を飲めば収まるんだよな」

「……試したことがないので、確信はありませんが。おそらく」

ならば仕方がないだろう。それで、大切な担当アイドルが助かるというのならば、血なんぞくれてやる。

「じゃあ、いいよ。…そういうのってやっぱり首筋からいくもんなのかな…?」

「…少しでいいので……指などでもよろしいでしょうか…?」

「あ、ああ。いいよ」

袖を捲って人差し指を向けると、文香は両の手で愛おしそうに俺の手を掴み、その場に跪いた。


「一思いにやっちゃってくれ。痛みとか気にしなくていいから」

俺はぎゅっと目を瞑る。

…………。

………………………。

………………………………………………。

待てども暮らせども、痛みどころか、指が文香に触れる感触すらないので、おそるおそる薄目を開ける。

文香は何か躊躇しているようで、しきりにこの部屋の入り口をちらちらと見ては視線を泳がせている。

ああ、そうか。

吸血鬼と言えども、その衝動を抑えてきたから人間の血を飲むことに抵抗があるんだろうか。

「文香、大丈夫か?」

「…はい」

「俺はいつでもいいから」

「………はい。……では」

遂に腹を括ったのか、文香はぱくりと俺の指を咥えた。

生暖かい感触が人差し指いっぱいに広がった。

根元から第一関節辺りまでを、ゆっくりと舌が這い、背筋がぞくぞくする。

目を瞑っているため文香がどんな表情で、俺の指を咥えているのかは分からない。

ただただ、文香の舌が指を這い回る艶めかしい感触が伝わってくるのみであった。

付け根。

指と爪の間。

指の輪郭に沿って、舌は這う。

しかし、痛みは一向にやってくる気配がない。

どうしたのだろうか。

そう思って、またしても目を開くと、林檎のような顔で涙目になって指を咥えている文香が。

あ………。

これもしかして。


文香に指を舐られながら、なんと声をかけたものかと思案していると、俺達のいる部屋の扉がばーん、という大きな音と共に開いた。

やってきたのは…………。

ちひろさんだった。

プラカードを担いでいるちひろさんだった。

プラカードには『ドッキリ成功』の6文字がでかでかと踊っている。

「……………遅いです……」

今にも泣き出しそうな声で文香がそう言った。


* * *



文香の唾液によっててらてらと光る指を、宙に遊ばせて、俺はちひろさんに事情を聞く。

事情聴取の結果、得られた証言は「プロデューサーの皆さんにもハロウィンを楽しんで欲しくて……」とのことだった。

ちひろさんの企画でドッキリをやっていたらしい。

しかし、今回はこの部屋を開けるための鍵を別の部屋のものと間違えてしまったらしく、飛び込むのが大幅に遅れたそうだ。

さっき褒めたことは全部撤回させてもらおうかと思う。

ちひろさんは「すみません。すみません」と何度も何度も謝りながら次のドッキリ現場へと向かっていった。

いや、そこは懲りて欲しい。

そうして、俺は部屋の隅で膝を抱えている担当アイドルを慰めるという仕事を丸投げされたのであった。

「…あの、文香さん? 何というか…お互い災難だったな」

「……………」

「俺は、気にしてないからさ」

「………それはそれで、嫌です」

「じゃあ、気にしてるけど。嫌じゃないからさ…」

「……そういう意味でもなくてですね…」

「……………」

「今日は何もありませんでした」

「……ああ、そうだな」

「今日は何もなかったのです」

「…ああ」

「……………」

「……実は俺も吸血鬼なんだけどさ」

「…プロデューサーさんとはもう口を利きません」

「え、ちょっと。ごめんって」

「……………もう知りません!」

「ごめんってば!」




おわり

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