速水奏「The Dark Side of the Moon」 (41)

*地の文です。
*前作「ブルードレス」のサイドストーリーになりますので、そちらを読まないと何のこっちゃです。
速水奏「ブルードレス」 - SSまとめ速報
(https://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1463967671/)
*(NTRじゃ)ないです

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1467343748

風の冷たいある日の夜、私はこの街の真ん中で月を眺めていた。

昨晩から降り続いた雨はすっかり上がり、湿気を含んだ冷たい空気が私の周りを通り過ぎていく。

私は深く深く息を吸い、静かにゆっくり吐き出した。都会の匂いと湿り気が肺の奥までぴったりと染み付いた。

視線を下げれば人人人。この国の中心に住む人たちが落ち着きないほどに行きあっている。

道行く人々の顔は皆様々で、笑顔と無表情が交互にやって来てはすれ違い、離れ、そして見えなくなっていった。

そんな人々の人生の一瞬を眺めつつ、私はひとつため息をつく。

先ほど恋人と別れた。



半年ほどの短い付き合いだったがそれでも最近ではまだ長いほうで、一晩だけの男たちも幾人かいた気がする。

恋多き女などという人がいるがなんて事はない、ただの尻軽だ。

そんな自嘲もこの町では雑踏のに掻き消され、目に見える表面だけが伝播する。

百聞は一見にしかず、人は聞いた話よりも見たものを信じる事を、私は誰より知っているのだ。


神秘的、蟲惑的、クール、ミステリアス


私がテレビや雑誌、何かの媒体に姿を現すた度に様々な形容詞が付けられたが、私の内面を形容してくれた人はまだ誰もいなかった。



かつて好きだったあの人を除いては。

さらに視線を落とす。今度はゆらゆら揺れる水溜りに月が映った。

一緒に映りこむ町の明かりは鮮やかで、月の神秘は削がれている。



不意に、月と女性は昔から密接に結びついていると、同じ事務所の文香が話していたのを思い出した。

太陽の眩しい光とは違う淡い光が女性を思わせるのか、はたまた女性の月経周期が月の満ち欠けの周期に近いからなのか、洋の東西を問わず月の神様には女神が多いらしい。

古代の人々がどんなことを想ってそんな作り話の女神像を作り出したかは知らないが、少なくとも私は月にシンパシーのようなものを感じている。

自身のデビュー曲が「Hotel Moonside」だった事もあるが、満月から新月までくるくるとその姿を変えながら人々を魅了するその姿は、まるで夜空のアイドルだ。



そして頑なに、その裏側を見せない所も非常にアイドル的だ。


月は常に美しい姿を私たちに見せ続け、その裏側は殺風景で痛々しい荒野が広がっている。

人々は決して届かないその女神を崇め、語り、そして空想に耽る。

もしかしたら月は最古のアイドルなのかも知れない。

なんて、馬鹿な話




自分の荒唐無稽な発想に笑いが漏れそうになる。

こんな時、こんな話を聞いてくれる友達は数少なくみんな忙しい。

馬鹿な女の馬鹿話はまたの機会にとっておくとしよう。

みんな自ら輝くのに忙しい、太陽みたいな人たちだから。

私はゆっくり立ち上がり、優しい光に背を向けて自宅へと帰ることにした。






自室に戻り電気を点けると、出しっぱなしになっているワインの栓を開けた。

お気に入りのグラスはしまったまま、直接口を付けて流し込む。

ヤケになっているのではない、どうせ安物なんだから酔えれば一緒なだけだ。

それでもみんなは私に、上品にグラスを傾ける姿を求めるのだろう。

かつて月の裏側を知らなかった私のように。

ふと、今日来た郵便物を見ていなかったことを思い出す。

今朝郵便受けから取り出したくせに、そのまま放置して家を出てしまったからだ。

私はソファに座り、ワインを置いた。目の前には乱雑に投げ出された郵便物の山が待っている。

ひとつひとつ手にとって宛名を見る。

大抵が他愛もないチラシやダイレクトメールの類だった。

私のファンの人たちは私にどんな手紙がくるのかも妄想するのだろうか?

そんな事を考えながら手にした一枚の葉書、その送り主の名前に見覚えがあった。


かつて私のプロデューサーだった人、私が初めて愛した人の名前がそこにはあった。


恋人と別れた日に初恋の人から手紙が届くなんて恋愛映画みたいだ。親友の伊吹が聞いたら興奮するのだろうけど、私の興奮は喜ばしい物ではなかった。



なんで?どうして今さら?


彼には恋人がいて、私は彼に拒絶された。そんな過去の出来事が頭を過ぎる。

しかも今時メールではなく、葉書だなんて…

居心地の悪い鼓動を感じつつ、ゆっくりと、恐る恐る葉書を裏返す。

そこには彼とその恋人、千川ちひろさんとの結婚式の招待状だった。

私はもう一度深く息を吸って、自宅の窓越しに月を探す。

けれども都会の空に浮かぶ月は、もうどこにも見えなかった。

********************************







それから1週間が経ち、返事を出せないままに例の葉書を仕舞い込んだ私がいる。

結局今日も浮かない気分のままにレッスンスタジオの廊下を歩いていた。

自分で振った女に結婚式の招待状を送る男の気持ちとはどんなものだろう。

理解出来ないどころか、理解しようとすればするほど苛立ちが沸いてくる。

彼の性格上、自分の幸せな姿を見せ付けたいというような嫌味ったらしい理由では無いだろうが、その無神経さに余計に腹が立つ。



全く…そういうところは変わらないのね。



心の中で懐かしい温かみが沸いてくるが、厳しい冷風がそれをさらっていく。

とにかく、こんなのさっさと断ろう。そしてその日はどこか楽しいところに遊びに行ってやろう。

この一週間そんな事を思っては躊躇って、結局返事を出せずにいた。

もやもやした不快感を抱えつつ、更衣室のドアを開いた。

するとそこには、久しぶりに見る顔がいた。



「あら…奏さん……おはようございます…」


同じ事務所の同僚、鷺沢文香だ。

「あら、文香じゃない。久しぶりね」


私は小さな笑顔を浮かべつつ、彼女の隣のロッカーを空けた。


「お元気そうですね…最近はお仕事でもご一緒する機会が無くて…少し寂しいです」


彼女は儚げな声でそう呟くと、脱ぎかけのジャージを脱ぎさってロッカーから着替えを取り出した。これからレッスンの私とは反対に、彼女はレッスン終わりらしい。

私は着てきた上着をロッカーにかけながら、そんな彼女と視線を交わす。


「そうね、お互い個人での活動がメインだし、私と文香じゃ方向性が違うもの」


彼女は知的でクールな清純派、最近週刊誌に「346のゴシップクイーン」というあだ名を付けられた私とは正反対だ。


「そうですね…私も奏さんのように華やかになれたらいいのですが…」

「貴方はそのままで十分魅力的よ、私のようになったらいけないの」


そう、私のようになっては欲しくない。

レッスン着に袖を通しながら私は文香の方へと視線を移す。

ジャージから私服へと移り変わる衣服の隙間から白く柔らかな肌が見える。私自身色白の方ではあるが、私の肌を陶器とするなら彼女の肌は上質のシルクのような滑らかさを持っていた。

出会った頃、青白かったか細い腕は生きた血肉で桃色に染まり、重ねた年月と努力の後が垣間見える。

「文香、腕太くなった?」

「!?…そ…そうでしょうか……やはり最近レッスンを怠っていた影響が…」


わなわなと震える姿は怯える子ウサギのようだ。

彼女は本当に表情豊かになった。以前の文香ならこんなうろたえ方をしなかったはずだ。


「そういう意味じゃなくて筋肉がついたって事、レッスンできなくても運動は続けてたんでしょ?見れば分かるわ」


私は少しだけ目を細めて彼女の顔を見る。安堵に緩む彼女の顔が少女の可憐さを滲ませる。


「そ…そうですか……」


彼女がふぅとため息をついて胸に手を当てる。

腕とともにボリュームを増したであろう胸の膨らみがそれを受け止めた。

羽毛のような優しい声で彼女がつぶやく。



「奏さんは…相変わらず……いえ、更に綺麗になりましたね…私も見習わなければ…」

「うふふ、ありがと」



私は素直に礼を言うと、彼女はにこやかな表情で返事をした。

その時ふと、例の葉書の事を思い出した。

元担当プロデューサーからの招待状。彼女は確か今でも彼のプロデュースを受けていたはずだから結婚の話は知っているだろう。


「そういえば、文香のところにも来た?結婚式の招待状」


私が尋ねると、彼女は着替える手を止めずに返答する。


「ええ、届きました…お二人とも素敵な方ですから…とてもおめでたい事です…」

「結婚式には行くの?」


彼女は優しい笑みを湛えて頷く。


「ええ…スケジュールを空けられるか分かりませんが…極力参加したいと思っています…」


即答だった。まあそうだろう、彼女の律儀な性格を考えれば当然の事だ。


「奏さんも…来られますか?」


私はジャージのファスナーを上げつつ天井へと目を逸らす。


「どうかしら、最近忙しいし」


曖昧な返答。

忙しいのは事実だが、今の内から調整しておけば行けない訳ではない。

それでも胸のモヤモヤが、私の首を縦に振らせてくれない。

「そうですか…来れるといいですね…」

「そうね」


今の言い方は刺々しかっただろうか。

そう思って文香を見るが彼女の顔色は明るかった。

出会った頃はもっと影のある印象だったが、今その頃の面影はない。

何が彼女を変えたのか…少し興味がある。


「ねぇ文香、この後用事とかあるの?」

「はい?いえ…特には…」


彼女は小首を傾げながら、小さく返答する。

昔と変わらぬ小動物的な仕草がいじらしい。


「そう…もしよければなんだけど、私のレッスンが終わってからになっちゃうけど、ディナーでもご一緒にどう?」

「それは…是非…」


文香がふっと笑みを浮かべる。こんなに笑う子だったろうか。

ますます興味が沸いてくる。

「そう、二時間くらい待たせることになっちゃうけどいいかしら?」

「ええ、構いません。待つのは…得意ですから」


そういって彼女は重たそうな鞄をロッカーから取り出し肩にかける。


「それでは…終わったら連絡をください。近くの喫茶店で待ってますので…」

「ええ、ごめんなさいね」


彼女は軽い会釈をして更衣室を出て行った。残された私の周りに彼女の残り香が漂っている。



香水…



やはり女は移ろうものだと改めて思いつつ、遅刻ギリギリに更衣室を出た私はスタジオへと駆け出した。

*********************************






およそ2時間後、合流した私たちはどこへ行こうか話し合った結果、どちらかの家が一番無難という事で比較的近い私の家に来ていた。


「ここが…奏さんのご自宅ですか…」

「遠慮しないでソファにかけてて、今飲み物取ってくるから」

「はい…では…」


私がキッチンへ向かうと同時に、文香はソファにちょこんと座っていた。

彼女は借りてきた猫のように大人しい…元からね。


「文香は何がいい?アルコールなら一通り揃えてるんだけど」

「え…ぁ…お任せします……できれば度数の低いものを…」


「はぁい」と返事をし、一番甘いデザートワインの栓を開ける。

蕩けるようで爽やかな香りが漂い、グラスに注げば一気に花開く。

普段は甘すぎてとても飲めないのだが、せっかくだし一緒に頂くとしよう。

「どうぞ」


コトリ、という音をたててグラスがテーブルに置かれる。



「ありがとうございます」


文香の細い指がグラスの足を掴む。

私は彼女の斜め側のソファに座って、自分のグラスを彼女に寄せた。


「それじゃ、久しぶりの再会を祝して、かしら?」

「ええ、そうですね…」


「「乾杯」」


カチン、と小さく音が弾けて、二人同時にそれを口に含む。

葡萄の果肉をそのまま液体にしたような瑞々しい香りとやや過剰な甘みが口の中に広がる。

あまり甘すぎるお酒が好きじゃない私には少々キツいのだが、アルコール自体あまり得意でなさそうな文香にはちょうどいいのかも知れない。

目の端に映る彼女の口元からは「ほう」と甘い吐息が漏れて、しなやかな表情が僅かに緩んだ。


「気に入ってもらえたかしら?」


私がそう尋ねると、彼女は艶のある声色で答える。


「ええ、とても…やはり奏さんは大人ですね……こんなに美味しいものを知ってるなんて」


そういう彼女の表情からは無垢と色気が混ざりあう、不思議な色に染まっていた。

「そう?でも今の文香ってば、かなり色っぽい顔してたわよ?」


私は意地悪な顔で、彼女をちくりと刺してみる。

すると彼女の顔は桃から朱に変わり、華奢な白い手でそれを隠してしまう。


「え…いや……そのような…ことは……」


その初心な反応に味を占めた私の嗜虐心は、更に追い詰めろと言わんばかりに私の口を滑らせる。


「そんな顔されたら男の人は堪らないでしょうね。うふふ、文香って意外と魔性?」


くすくすと私が笑うと、文香は耳まで真っ赤にしながらそれを否定する。


「いえ、その、別にわざとでは…」


何だかこんなやりとりを昔にも交わした気がする。彼女ではない、別の誰かと。

心の中に暖かいものが溢れ、自然と笑みが零れる。


「ふふふ、文香ってばいい大人なのに、まるで子供みたい」


馬鹿にしている訳ではない。心から、その純真を羨ましいと思っているだけだ。

いやあるいは妬ましいのかも知れない。

変わらずに、ありのまま成長していった友人の綺麗な姿に、少しだけ。

「奏さんは…相変わらずですね…」


真っ赤な顔で縮こまる文香がか細い声で恨み節をつぶやく。


「ええ、文香も」


だから私は冷たくハッキリ言い切ってあげた。

彼女の視線が上がり私と交わる。



くすっ


二人ともほぼ同時、示し合わせたように笑顔になった。


胸をくすぐる懐かしさが、二人の間を行き来している。






*******************************

「あの…ひとつ、相談があるのですけれど…」


グラスを傾けながらお互いの近況を報告し終えたそんな頃、文香が重々しく口を動かした。

相談とはなんだろう。

ここまで砕けた雰囲気の中でこの口調。何か深刻な悩みだろうか。

私は手にしたグラスをいったん置いて、彼女方へと向き直る。


「ええ、何?」


ちょっと身構え過ぎだろうか



「いえ…その…大した事ではないのですが……その…プロデューサーさんの結婚式に何を着ていこうかと…思いまして…」


何だ、そんな事。

思っていた以上に平易な話題に逆に驚いてしまった。

まるで自分の結婚式に着ていく服を聞くような口ぶりではないか。



「貴女の結婚式じゃないんだから難しく考えなくていいんじゃない?」

「それもそうなのですが…」


彼女は元々歯切れのいいタイプではないが、一段と煮え切らない様子だ。

私は不思議な違和感を胸に、話を続ける。

「まぁ業界の人間も多く来るだろうし、おかしな格好ができないって事は分かるわ。それとも…セクシーなドレスでプロデューサーさんを誘惑するつもり?」


私がまた意地悪な顔をして言うと、彼女の目が大きく開かれた。


「そんな!…こと…」


珍しく大きな声を出した文香に驚いたのは私だけではないようで、当の本人の顔にも困惑が浮かんでいる。


「…何か、困る事があるの?」


私は恐る恐ると聞いてみる。

彼女がパーティードレスにここまでナーバスになる理由が何かあるのだろうか。

聞いてみない事には分からない。

しかし、彼女の口は真一文字のまま小さく震えるだけだった。



「文香…?」


沈黙に耐え切れず先に話しかけてみる。すると彼女は意を決したように口を開いた。



「………初恋の方の…結婚式にどんな顔をしていけばわからなくて…その……どんな服がいいのかも…分からなくて…」


彼女の声はどんどん尻すぼみになっていき、後半はよく聞き取れなかった。

しかし、それでなくとも私の頭は初めの方でほとんど停止していた。

文香の…初恋の人…?



「…こんな話できる方が他にはいないので…良い機会だと思いまして……その…」



神様、私は貴方に何か失礼をしましたか?

どうして私は今、自分の初恋の人が初恋の人だという年上の相談を聞いているのでしょう。

運命とはかくも滑稽でいやらしいものかと、深いため息が漏れてしまう。



「あの…奏…さん…?」


文香が怪訝な顔でこちらを見ている。

何か答えねば、いらぬ心配や誤解を生んでしまう。

それでも何を言ったものかと、考えあぐねていた。



「申し訳ありません…突然、こんな事…」



答えなきゃ、何か、返事を



「いえ…いいの、いいのよ。確かにそれは参るわね」



私は平静を装いながら、悟られぬようにゆっくり喋りだした。



「確かに複雑な心境だけど…だからこそ深く考える必要は無いと思うの、別に昔好きだったからとか関係ないと思うわ」

「そう…そうですよね…」


文香はほんのり顔を赤くしたまま、小さく頷いた。

「初恋の人って言うけど、今も好きなの?」

「いえ、そのような事は…決して」

「でしょう?だったら何も問題ないじゃない」

「えぇ…」


いつもはさして気にならない歯切れの悪さが、この時だけどういう訳かいやに腹立たしい。

彼女に悪気はないし、私が勝手に不機嫌になるのもおかしな話だが、奥歯にものが詰まったような不快感が胸で渦巻く。



「そんなに悩んでるのにどうして参加するの?」



彼女は確かに「行く」と言っていた。ここまで悩んでおいてなお、「行くか否か」の相談はされていない。

何が彼女をそうまでさせるのだろうか。

左右に泳ぐ彼女の目が、ゆっくりと、少しずつ定まりだす。


「乗り越える…ためです…」


私は彼女の言葉を黙って聞いていた。

「好きだったと言っても…遠くから見ているだけで…何かを行動に移した事は……殆どありませんでした。私にとってあの人は太陽のように眩しくて、ただただ…遠くから彼の姿を眺めて…たまに会話するだけで満足していました……今思い返しても…子供のような恋愛だったと…恥ずかしくなってしまいます。」


彼女はまるで物語の語り部のような静かな話し方で訥々と話していく。


「それでも………彼の事が好きで…好きで…好きで………少しだけ前を向いて…少しだけ彼と近づきたかったんです…」


僅かに覗いていた青い瞳が、暗闇に引き込まれるように黒髪に隠れる。


「ですが…前を向いた先にいたあの人は……すでに別の方のモノだったのでした…」


私の脳裏にあの日の光景がフラッシュバックする。

あの日あの時、雨が降りしきる駅前で、彼と彼女が交わしたキスと届かぬ声を。


ぞくり


濡れてもいない私の肌が、何故だか急に冷えていく。



「私は生まれて初めて…人を呪いました……彼と彼女と……そして誰より…弱くて情けない自分の事を…」



そう語る彼女の肩には力が篭り、わずかに震えて見える。



「何度も襲う暗い気持ちと…醜い感情に流されて…自棄になったこともありました…」



私もだ。


私も自分を棄て、暗く、醜いそれに身を任せた。

今でも夢に見る悪夢の記憶。

絶望、諦観、そして後悔。

黒く暗い、激しい渦を湛えた泥沼。

あの耐え難い地獄をこの子も経験したと言うのだろうか。

「でも…」


彼女は続ける



「でも…私は……負けられませんでした」



細く、繊細で、それでいてハッキリとした声で彼女は語った。



「もし私がその気持ちに流されたら…誰が喜ぶのか…誰が悲しむのか……そう考えたら…前を向くしかありませんでした。それが私があ…愛した人へのせめてもの手向けではないか…と」


彼女の目線は下げたまま、その輝きだけが上がっていく。



「私は弱い女です…でも、だからこそ…私の弱さで誰かを傷つける事はできないと…そう思いました……だから私はあの人の傍で、あの人と共に、あの人が…愛されてよかったと思えるようにと…今日まで来たんです」



文香はグラスに半分残ったワインを全て飲み干し、最後にこういった。



「だから、心から祝おうと思うんです。私に輝きをくれたあの人を。それが…私の告白であり仕返しです」



彼女は言い切った。強く強くハッキリと。



「ぅ…申し訳ありません……お酒の勢いで何か途轍もない事を口走った気がします……忘れてください…こんな……………奏さん?」



文香が怪訝な顔で私を見る。

徐々にその顔は焦りとも不安とも取れないような色に変わり、心配そうにこう語りかける。



「泣いて…いるのですか…?」

泣いている?誰が?私が?

自分の頬に手を当てると何かが指の隙間に流れ込む。

それは手の甲を伝い、手首の辺りで床へと落ちた。

それは紛れも無い、涙だった。



ああ、まただ。こんな風に泣くのは何年振りだろう。

そう思った瞬間、色んなものが崩れ去る。

意地も虚勢も虚飾も何もかも、まるで崩れた壁のように音を立ててダメになる。



文香の手のひらが私の頬に触れる。

その手のひらから伝わるものは、悔しいくらいに優しい温度。


私もこうなりたかった。

私も誰かに、こんな風に手を差し伸べたり出来たはずなのに。



それからしばらく彼女の前で泣き続けた。

訳もわからず、ただただ泣き崩れた。

*************************************






「少し…落ち着きましたか…?」


無様に泣き散らした私は、文香の肩に寄りかかり涙の余韻を引きずっていた。

目も鼻もぐずぐずで、映画の涙はあんなに綺麗なのに、現実はなんて嫌なんだと心の中で毒づいている。



「それにしても…奏さんも……あの人が好きだったのですね…」

「ぐすっ……こういう時はね…そうハッキリと言わないでよ…」


小さな強がりで喋ってみたが、酷い鼻声に迫力は無い。


「罪作りな人ですね」

「…ホントよ」


文香の細い肩に顔を寄せながら、吐き棄てるように返答する。

こんなに泣いたのは久しぶりだ。


「奏さんは…今も好きなのですか?」


文香の質問は意地悪だ。いいえ、今までの分が帰ってきただけ。


「まさか…もう5年も前の話よ?…今日泣いたのは…悔しかっただけ」


本当にそれだけだ。本当に


「…そうですか」


納得したのかどうかは知らないが、とりあえず追求はやめたようだった。

「はぁ…恥ずかしいところみせちゃったわね」

「いいえ、そんな事はありません…『涙にもそれなりの快感がある』という言葉もあります…今日の奏さんはストレスを発散しただけです」


彼女なりのフォローなのだろう、この気持ちに整理はつかないが気休めにはなる。






沈黙。






お互い何を話していいか分からず、静かな時間だけが過ぎていく。


「今夜は…」


その沈黙が10分ほど続いたとき、文香がポツリと口にした。


「今夜は月が綺麗ですね」


彼女が見つめる先、窓の向こうにはまん丸とした青白い月が、仄かにこちらを照らしていた。


「なぁにそれ?愛の告白?」


月を見つめる文香の横顔に私は毒づく。


「えぇ、そうかも知れません」


彼女は微動だにせずそう答える。

その青く澄んだ目にはあの月は何色に見えるだろう。


「でも本当に…綺麗ね」


私は文香と視線を並べ、ただぼんやりと月を眺めていた。

そして私は、最後の呪いの言葉を述べた。


「文香、私貴方が妬ましいの」

「…それは…どうしてですか?」


彼女の声は平坦だ。


「私と同じなのに、私と違うから」


彼女はピクリとも動かない。


「貴女が表で、私は裏側。貴女が輝きの世界に生きる頃、私は暗い星の向こう」


もう一度涙がこみ上げる。明るい世界歩けなかった悲しみが、腹の底からこみ上げてきたのだ。

同じ星の上なのに、違う世界に生きてきた彼女への暗い気持ちが、ゆっくり首をもたげてくる。



「そう…ですか…」


そう言って彼女は私の肩に手を伸ばす。首の後ろで両腕が出会った瞬間、彼女は強くゆっくりと私を抱きしめた。


「それでも貴女はここにいます……こうして手を伸ばせば…貴方の裏側に触れる事が出来ます…」


彼女の体温を身近に感じる。

まるで2人が1人になるような、心地の良い温度。


「月に暗い部分なんてありません…どんな星も…誰かに照らされなければ全て真っ暗なんです…」


彼女が私の耳元で諭すように呟く。

私は意味を知るより先に、彼女の体を抱き返していた。

********************************











「バーカ」









そう言って私は、赤ら顔で間抜け面の新郎を残し、バルコニーから会場へ戻った。

言ってやった。とうとう言ってやったぞざまぁみろ。

そんな声が私の心の中で木霊していた。

今ままで感じた事のないような、まるで10年ぶりに声を発したような爽快感を胸に新しい飲み物をもらいに会場内を横切ろうとした時、誰かに呼ばれた気がした。


「奏ちゃん」


声の方へと振り返る。するとそこには本日のメインヒロインがにこやかな笑顔を浮かべて手を振っていた。

彼女は明るいグリーンのパーティードレスに身を包み、彼女を囲む多くの人の間を抜けてこちらへやってくる。


「ちひろさん」


私の初恋の初めての恋敵、千川ちひろさんだ。



「今日は来てくれてありがとうございます。彼ともしかしたら来てくれないんじゃないかって心配してたんですよ?」


そういって笑う彼女の笑顔は愛らしく、とても三十路には見えなかった。

相変わらず妖怪じみた人だ。

「あら、ちひろさんってば酷いわね。お世話になった二人の晴れ舞台だもの、きちんとお祝いしなきゃと思って」



「ありがとうございます」と彼女は頭を下げ、もう一度渡しと目線を交わす。

一瞬、二人の間に沈黙が流れるが、口を開いたのは彼女が先立った。



「彼と…話せました?」


彼女は慈愛の笑みを浮かべつつ私に問いかけた。

少し含みを持たせたような彼女の言い回し、きっと5年前の、彼と私の出来事を知っているのだろう。

だとしても、私が怯む理由は一切無かった。


「えぇ、ついさっき。二人っきりで」


私は平然と答える。何一つ恥じることはない。そう確信していた。



「あら、結婚式当日に別な女性と逢引なんて…これは問題ですね」



そう言う彼女はくすくす笑う。

釣られて私も「ふふふっ」と笑みが零れた。

この人も相変わらず…いやらしい人だ。



「改めまして、おめでとうございます。ちひろさん。ドレス姿…お綺麗でした」

「はい、ありがとうございます♪」

「ちひろさんのドレス姿を見ていたら、私も結婚したくなっちゃった」

「あげませんよ?」

「いりません」


わずかな沈黙の後、再び笑顔を交し合う。

けれど私は、ちひろさんに一言投げかけてみる。


「でも………買う…と言ったらどうします?」


私は笑顔を浮かべたまま、私より背の低い彼女の顔を覗き込む。

たぶん今の私は、かなり嫌味な顔をしているだろう。

けれども彼女はそんな私の万倍も悪い笑顔でこう返す。


「いくらで買います…?」


先ほどまで純白のドレスを着ていた花嫁とは思えない、銭ゲバの顔をしていた。

この人も本当に変わらない。


「そうね…」


私は顎に手を当てて考え込んだ振りをする。

そして私はゆっくりと、三本指を立ててこう返す。



「…3千円」

「あげませーん♪」

「ざーんねん」



やっぱりダメね。



「ふふっ」

「うふふっ♪」

これで本当に、やるべき事は全部やった。

清算すべきものは全てした。

今日は本当に来て良かったと、心から思えた。



「それじゃあ…私はこれで」



そういって私は踵を返そうとする。



「あら?もうお帰りですか?」

「違うわ、喉が渇いただけ」


私は空になったグラスを見せてアピールする。

彼女はその意図を理解したようで、最後にもう一度あの笑顔を浮かべる。



「そうですか、ごゆっくりなさってくださいね」



私は「ええ」と小さく頷いて、飲み物をもらいにいく。

その足取りは軽く、気持ちは広く明るかった。

ふと、私と一緒にここへ来た、あの子の事がが心配になってきた。

昔から騒がしい所と人混みが苦手な人だから。

辺りをちらりと一望する。

いた。


案の定壁際の隅の方に佇んでいるが、その隣には見知らぬ人が立っている。

グラスを両手に持って縮こまる彼女と、その目の前で軽薄そうに笑う男。

結婚式は格好の出会い場だとよく言うが、彼女の困った笑顔は見たくなかった。

こんな時、なんて言って割って入ろうか。

やっぱりここは、定番の。



「私の連れに…何か御用?」



「え?」

「………奏さん」



まるでこの子の彼氏のようだけど、たまにはそういう遊びもいいだろう。



「あ!?奏ちゃん!?速水奏ちゃんでしょ!?うわー!始めまして!俺っ…!」



大げさに興奮するその男を横目に捕らえつつ、私は文香の手を引いた。


「文香、行きましょ。あっちで伊吹達が呼んでるわ」

「え…あ、はい…」


文香は未だ私の意図を汲んでくれていないようだが、まぁいいだろう。


「あれ!?ねぇ…俺も…」


男はしつこく話しかけてくる。

私は人差し指を唇にあて「また後で」と囁くと、間抜けな面した男をその場に置いて私と文香は歩き出した。

「あの…今日、伊吹さんは欠席されてるのでは…」



未だ自体を飲み込めない文香は呆けた顔を私に向けている。


あらあら、困ったアルテミス様だこと。


私は彼女へ笑みを向ける。


彼女は少し不思議な顔をした後で、ほんのり静かに微笑んだ。


眩いシャンデリアに照らされたその顔は、夜空に咲いた満月みたいに淡い色。


私もこうして笑えるだろうか。


いいえ、きっと笑えているはずよね。


「ねぇ文香、今度合コンでも開いてみない?私、結構作家さんの知り合いも多いのよ」

「いえ…私は…そういう場はちょっと…」


知っている。私もそういう所は苦手だから。


「残念ね、文香がどんな人を好きになるか見てみたかったのに…」


彼女は困ったように笑いながら言い返す。



「それはその…同じ人を好きになるのでは…」


あら、それもそうね。

「じゃあ…私と結婚する?」

「えっと…法律が…」


本当に可愛い人。

だから一緒にいたくなる。


「じゃあそうね…」


私は立ち止まり、天井を仰いで考える。

彼女は私の後ろで私の声を待っていた。



「結婚式は一緒にしましょうか」



文香きょとんとしながらも、ふわりと私の手を握る。

白くて細くて、優しい手。



「ええ…そうですね。是非…ご一緒に」

「お互い旦那を取り違えないようにしなきゃね」

「くすくす…それは…困りますね…」

「ええ、うふふ…」



次の恋を掴むまで、ほんの僅かなこの時に、彼女のこの手を握りたい。

きっと彼女もそうだろう。

握り返した体温が私にそっと告げていた。

******************


おしまい。


奏の誕生日を忘れてて、全工程2日弱の突貫工事で書ききってしまったから、読み返すとかなりキツイ…

とりあえずハッピバースデー!奏!

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