GOSICK ~From Manchuria with Love【SS】 (146)

小説「GOSICK」の二次創作です。
作中の時系列で行くと原作2期、ニューヨーク編のものとなります。


・地の文多め
・都合上無理のある設定の改変
・超絶亀更新

以上の点にご注意ください。


また、この物語はフィクションです。
実在の人物・団体とは一切関係ありません。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1442086585

January 5,1935



雪に覆われた荒野。
ただ、一目の銀世界と呼ぶには空が青過ぎる。
この土地特有の、水気の無いカラっとした晴天であった。
その乾いた極寒の大地を、流線形に整えられた巨大な黒鉄の塊が客車の列を従えて駆けて行く。
晴天の空に負けんばかりの明るい青色に塗装された黒鉄の上から吹き出す煙や巻き上げられる粉雪を見るに、列車はかなりの速度を出しているのが分かる。

その列車の最後尾、二重窓で閉じられた一等展望車の後ろに設けられた展望席に二人はいた。

「本もいいけどさ、折角こんないい席を頂いたんだから…」

やや呆れた様子で、黒髪の青年が隣の席で黙々と厚い本を読む少女に声を掛ける。
先程までは「退屈だ」だの何だのぶつくさ青年に愚痴っていた少女であったが、今はすっかり押し黙ってしまって、本とにらめっこをしている。

「驚きましたよ…」

すると、先程「お嬢さんとお付きの方に」と一番見晴らしのいい席を譲ってくれた恰幅の良い初老の紳士が申し訳なさそうに青年に話しかけて来た。
この展望席は一等展望車の通常席の一番後ろにあり、特急車両でありながら両側から向かい合わせに座席が配置されるという一般の通勤列車の様な珍しい構造をしていた。
今は丁度青年と紳士が向かい合って会話を交わす形になっている。
座席配置が展望車の名前の通り車窓から流れる景色を楽しめる為に設計されたのか、はたまたこの豪華列車の最高クラスの席に乗り合わせた上流階級の人間達の交流に配慮されたのか、今日初めてこの列車に乗った青年が知るべくも無かったが、少なくとも今の所は両方の目的を青年は達していた。

「まさか新婚さんだったとは…失礼しました」

どうやら隣で拗ねている彼女は青年が紳士に自分の従者扱いされたことが気に食わなかったようだった。
フリルがふんだんに使用された豪奢な服に、絹の手袋という装いの銀髪の少女と、旅行用の地味なスーツを着た東洋人の青年とでは確かにそう思われても仕方ないのだろうか。

徐に、少女は懐からパイプを取り出した。
すかさず青年はそれを受け取り、慣れた手つきで刻み煙草をカップに詰めて行く。
その様子は、さながら一介の貴族の子女とその従者である。

「いやあ、どうもぼくは執事と勘違いされる程度には彼女の尻に敷かれているのかもしれませんね…」

一連の、夫婦の共同作業と言うには苦しいであろう動きをしげしげと眺めていた紳士に、青年は苦笑交じりに呟く。

「パイプも嗜まれるのですか…また驚きましたよ」

「ぼく達二人とも、二十代ですからね」

「ふふ、私も結婚して四半世紀は経つが未だに妻には頭が上がらんのです」

暫く、紳士とその周りも交えた雑談が続いた。
展望部分には灰皿も備え付けられていたので、周りの皆は一様に手に葉巻やパイプを燻らせている。
紙巻きタバコが見受けられないのは流石高級車と言った所であろうか。

「ああ、そうだった」

ひと段落して、紳士はひょいと立ち上がり、脇に置いてあった鰐皮の鞄から一つの包みを取り出す。

「先程の無礼のお詫びに、これを」

鞄の中の包みは、どうやら刻み煙草入れの様だった。
密閉された銀色の煙草入れには、くすんだ茶色の煙草の葉のラベルが貼ってあった。

「こっちの国では煙草の専売が無くなってますからね。うちが今卸している最高級の逸品ですよ」

「宜しければ、彼女に」

青年は受け取るのを躊躇う。

「阿片の類じゃあないですよ、何なら私の名刺も差し上げましょうか?」

「いえ、悪いですよ…」

「いやどうか」

ありがちな、形式的押し問答をしていると、煙草入れと一緒に差し出された名刺がひらひらと紳士の足元に落ちて行った。

「失礼、落ちましたよ」

紳士の隣に座っていた男が、身を乗り出して座席の間に挟まってしまった名刺を拾う。

「ありがとう」

紳士は男に礼を言って名刺を受け取り、落としてしまった名刺を懐にしまい込んだ。

「ほら、ヴィクトリカもお礼を」

「有り難く頂戴する……ふむ、なかなかいい香りではないか」

それからすぐに少女は煙草の袋と新しい名刺を紳士から受け取り、品定めをする。
まだ怒っているのか、口調はややぶっきらぼうである。

「ヴィクトリカ!」

「…」

「はは、やはり怒らせてしまったか…」

紳士は少ししょんぼりとしている様だ。

「申し訳ありません……」

「気にすることは無いよ」

「それで何だが…」

「はあ」

「どうだね?これから食事でも」

腕時計を見ると、時針と分針が円窓の頂点で重なっていた。
朝は軽めのものしか食べていなかったので、腹も空いている。
とりあえずここは紳士の言葉に甘えることにした。

一等展望車のすぐ前の車両に食堂車がある。
丁度昼時であったので、多くの客が席に座って名物の洋食に舌鼓を打っていた。
葉巻やパイプの煙に燻されていた一等展望車から打って変わって、洋食特有のデミグラス・ソースの香りが仄かに食堂車の中に漂っている。

「ここのハヤシライスが美味いんだ」

紳士は得意気にそう言った。

「よく利用されるんですか?」

この特急列車の事を見知った様子の紳士に青年は尋ねる。

「ふむ、月に一度は仕事の都合でね」

「隠れた名物というやつだよ」

紳士の背中が止まり、隅の予約の札が置いてある席に座る様に促される。
青年は足を引きずり気味であったので、紳士はそれを気遣ってかすかさず手を差し伸べた。

「四人掛けの席を私一人で使うのは悪くてね…」

「いえ、ご招待ありがとうございます」

机の呼び鈴を鳴らすと、給仕服を着込んだ黒髪のウエイトレスがやって来て、置かれていた予約札を回収して行く。
紳士は自らの切符を提示し、席代とチップを支払った。
給仕は日本語で感謝の言葉を口にしつつも、チップの受け取りは断っていた。

「さあ、どうぞ」

「ありがとうございます」

促されるままに席についた青年と少女。
少女の方はやや座るのを躊躇っていたが、紳士の親切に恐縮したのだろうか。

「注文はどうするかね?」

「ハヤシライスをお願いします」

青年は迷わず紳士一押しのハヤシライスを所望した。

「ヴィクトリカ女史は…」

「同じく」

「承りました」

紳士はにっこりと笑い、側に控える白人のウエイトレスにチップと共に注文を伝える。

「あ、あとは…」

隣の子連れの客をちらりと見やり、少し顔を赤らめながら少女は厨房に下がるウエイトレスを呼び止めた。

「プリン・アラモードを食後にお願いします」

横から青年は少女の望むものを給仕に伝える。
目の前で男女のツウ・カアの仲を見せられた紳士は、まるで子供を見守る保護者の如く柔和な笑みを浮かべながら、葉巻を胸ポケットから取り出した。

鮮やかな二つの色をした飲み物たちが銀の盆に載せられて一等展望車に運ばれて行く。
一つは血と見間違えんばかりの赤、そしてもう一つは鮮やかなグリーンである。
物珍しげに青年はウエイトレスが運んで行くグラスを眺めていた。

「して、いける口かね?」

青年の様子を察した紳士は悪戯っぽく青年に訊ねる。

「多少は…」

紳士の話では、なんでもあのカラフルな飲み物たちはこの列車でしか飲めない名物のカクテルのようであった。

「よろしい、後で注文しよう」

紳士はそう宣言すると、再び葉巻をくわえた。

「お待たせしました」

暫く待つと、白い皿に盛り付けられたハヤシライスが三人分、運ばれて来る。

「来たか、来たか」

その落ち着いた外見に似合わず、その場で小躍りせんばかりに紳士はハヤシライスの到着を喜んだ。

青年は脇に置いてあった銀スプーンを二つを取り上げ、一つを少女に渡す。
しかし、彼女はそれを受け取ろうとはしなかった。

「どうしたんだい、ヴィクトリカ。折角の食事じゃないか…」

青年がそう嘆息しつつ、自分のスプーンをハヤシライスの中にくぐらせると…


「誰か!!!!誰か!!!!!」

「お客様が…!!!」


銀の盆を抱えたウエイトレスが血相を変えて食堂車に駆け込んで来る。
給仕はそのまま通路の中程に倒れこんで、動かなくなった。
気絶してしまったのだろうか…?

「事件だ……殺しかな?」

少女は低い声でそう告げるやいなや、すかさず青年は足の障害を感じさせない俊敏さで立ち上がり、ウエイトレスが飛び出て来た一等展望車へ向かう。

「ハヤシライスが冷めるまでには終わるかな?」

ちょこちょこと自分の後ろを付き従う少女に青年は声をかけるが、彼女は応じない。

「ごめん…迂闊だったね…」

青年が自分の言動の軽率さを詫びようとするが、少女は手でそれを制す。
そして、重々しくこう宣言した。



「冷めるどころか……」










「このままだと、君の方が冷たくなっていただろうな」






狼が、牙を剥く。



Decenbar 19,1934

Manhattan"GRAY WOLF" Private Eye Office


ニューヨークはもうすぐクリスマスを迎えようとしている。
華やぐ大林檎の中心部にある狼の巣は、クリスマスに際して益々盛り上がりを見せているマンハッタンの街の喧騒から隔絶されているかの如く静かに佇んでいた。

その巣の主である少女"ヴィクトリカ・久城"は何時ものように無愛想な顔で事務所の扉を開ける。
少女と言ってももうすぐ20も半ばを迎える淑女であり、名前の頭には『Mrs』がつくのだが、相変わらず外見はビスク・ドールの如く華奢で幼い容姿をしていた。

少女は外套を脱ぎ、事務所の郵便受けに入った幾つもの新聞の束を一斉にデスクの上に広げると、パイプを吸いつつ、凄まじいスピードでその全てを読み上げて行く。
あっという間に全ての記事を読み終えると、邪魔だとばかりに新聞を床に放り出してしまった。

「おいおい、また散らかして…」

階段を登る革靴の音がして、事務所に一人の黒髪の青年が入って来る。
青年の名は久城一弥。この私立探偵社の主であるヴィクトリカの助手であり、彼女の夫でもある。
探偵社の助手と兼ねつつ、まさしく飛ぶ鳥を落とさんとばかりに成長を続ける合衆国の中でも、とりわけ際立った活躍を見せている某自動車会社の傘下の新聞社に勤めている。
最初こそ日々の生活費のあてに入社したが、その語学力が買われて、今は新聞社から親会社の調査部に出向しているようだ。
記者時代よりかは幾らか自由度が増し、出先から帰る途中に事務所や自宅に立ち寄ることも増えた様である。

「せめてぼくの机の上に置いておいてくれっていつも言ってるじゃ無いか…」

「私にとっては新聞なぞ、読み終えれば唯の紙クズだ」

彼女は全く悪びれずに皺がれた声でそう言うとふう、と煙を吐き出す。

「そりゃあ、君は読んだ物は全部覚えちゃうからそうなんだろうね………」

久城は打ち捨てられた新聞紙を拾い上げて集める。

「でもぼくの仕事にも協力しておくれよ、ああ、バックナンバーをきちんと保管しないと…」

新聞紙の皺が丁寧に伸ばされ、日付けや新聞社毎にラベル付けされた書棚に慎重にしまい込まれて行く。

「君の仕事、それは私の助手ではないのか?」

「確かにそうだけど…」

「新聞記者の仕事なぞ唯の副業に過ぎないでは無いか」

いつもの嫌味ではあるが、学校にいた頃とは違って言葉からは大分棘が取れている。
彼女は「助手」などという言葉はまずもって使わなかったし、ひとまず自分を信頼してくれているのだな、と好意的に久城は少女の言葉を受け取ることにした。

「全く…君もこの新大陸に渦巻く労働者の亡霊にすっかり取り憑かれてしまったのだなあ……見損なったよ」

「何とか探偵社の営業も軌道に乗ったからいいけど、それまでヴィクトリカは誰のお陰で生活出来ていたと思ってるんだい…大体君の本代とお菓子代だけでぼくの給料が無くなることだってあったんだぞ」

「その度に姉さんや上司に頭を下げてなんとか生活費を捻出してたんだからね?」

「ふむ、君は人間だ。資本という機械細工の中であくまでも無機物である歯車や部品として働くことを要求されることに疑問、いや、憤りを感じないかね?」

少女は悪戯っぽく笑い、何処からか赤いハンカチーフを取り出すとひらひらとそれを振り回した。

「昼飯時にやっと出勤するような君に労働者の悲哀が分かってたまるもんかい」

呆れた様に久城はそう呟くと、持ってきた昼食のサンドイッチを食べながら自分の机に座って書類仕事を始めた。

最近のニューヨークは労働争議のオンパレードである。
今までは身を寄せ合って権力の下で怯える様に暮らしていた貧者や労働者達が、好景気の中の自由な風潮に後押しされて続々と立ち上がっているのだ。
折しも先の戦争に敗北した北の大帝国では大規模な革命が起き、労働者達の名の下に国が再構築されているところであったので、余計に階級打破の機運が高まっているのだろう。
しかし、先鋭化した一部の者たちは暴徒化して破壊や略奪を繰り返す様になっていた。
それは久城の勤務する会社も例外ではなく、調査部では労働者の組合などの動向を詳しく探って逐一経営陣に報告しているのであった。

例えば、ストで工場が一日止まるだけでも莫大な不利益が会社を襲うのだ。
それが何日も続けばいずれ破綻の時が訪れ、労働者達は路頭に迷う事になってしまう。
わざわざ社外担当の調査部まで投入しているのは単に会社の利益だけを追求しているだけではないということなのだろうか。

全知全能の狼ヴィクトリカは、一時的にとはいえ大企業の調査部の一員として会社の目となり鼻となり忙しく動き回る自分の伴侶をからかったのだった。
そして休憩の為に事務所に立ち寄ったにも関わらず、いそいそと過去の新聞やら組合のビラやらを広げて書類と格闘している久城を、少女はつまらなそうに眺めていた。

ジリリリ、と廊下の電話のベルが鳴った。

久城は立ち上がり、足を引きずってけたたましく鳴るベルの元に近づいて行く。

「はいこちら、グレイ・ウルフ探偵社」

挨拶もそこそこに、電話の主はくだけた言葉で話し始めた。

「やあ、久城くんかい?こちらにかけたらまずかったかな」

「いえいえ、全然大丈夫ですよ」

電話の向こうにいたのは、どうやら久城の上司の様だった。

ヴィクトリカは顔を歪め、あからさまに不快感を表す。
この上司、探偵事務所の一室で久城と共にウイスキーを痛飲し、したたかに酔ってソファで一晩寝てしまう失敗をしていた。
「私の事務所を低俗な酒の臭いで…」と上司共々厳しく叱責されたのを久城は今でも覚えている。

「すまなかったねえ、先日は…」

「仕方ないですよ」

久城はこの調査部で酒と煙草を覚えていた。
とは言ってもあくまで嗜む程度であったので、自分から積極的にやることは少なかったのだが。

ニューヨークでも禁酒法が施行されて久しかったが、最近ではそれが公然と無視されるようになっていた。
公序良俗の乱れを取り締まる為に法を制定した筈が、逆にマフィアやギャング達によって法外な価格で酒が売られ、それが闇社会における最大の収入となってしまっていたことににようやく政治家達も気が付いたのだ。

ただ流石に上司も、泥酔した状態で警官が沢山うろつくマンハッタンの夜道を歩いて帰るのは憚られた様で、事務所に泊まっていく運びになったのだ。

「それで、ちょっと話があるんだよ」

上司は、ゆっくりと話を切り出した。

「仕事の事ですか?」

「おう、その通りだよ」

「それで……」

「どうしたんですか?」

「今、事務所にいるんだよな?」

「はい」

「そっち行ってもいいかな?」

「え、ええ…多分」

「ありゃりゃ、まだ探偵さんはお怒りなのかな」

「いえいえ、歓迎しますよ」

「ちょっとオフィスの方じゃ話しづらい内容なんでな…」

「それに…」

「それに…?」

「どちらかと言うと、そっちの名探偵の方に用があるんだ」

~~~~~~




「分かるか?まず大前提として君の副業に私の事務所を使わせたくないんだ」

「あれは悪かった!散々謝ったじゃ無いか…」

「とにかく、奴はこの部屋に一歩たりとも入れないでくれ」

少女はくるりと椅子を回すと、そっぽを向いてしまった。

「待ってくれ、今回ばっかりはぼくの『本業』の方も関わって来るんだよ」

久城は取り乱しつつも、後ろを向いた少女の正面に回り込み、ずいっと顔を近づけた。

「ふむ、それは…」

久城の顔に少女はパイプの煙を吹きつける。

「事件、か…」

小鳥が一羽、机にとまった。
デスクの菓子クズを啄ばみ、さえずる。


不意に扉が開き、小鳥は慌てて飛び立って行った。

「お疲れさん!」

奴だ!
少女は本能に身を任せ、今しがた自分が座っていたデスクの中に潜り込む。

「しかし相変わらず変わった場所に事務所があるねえ」

「『ミラクルガーデン』の『回転木馬』だっけか…?ここに入るのにも難儀したよ」

声の主は現在の久城の直属の上司である西洋人の男であった。
背が高くすらっとした見た目に似合ったスーツを着込み、脇には鞄と色とりどりのリボンに包まれた黄色の紙箱を抱えている。

「ああ、いらっしゃいましたか!お疲れ様です!」

久城は新聞社のオフィスの喧騒で鍛え上げられた、部屋のあちこちの植物の葉を揺らさんばかりの大音声で挨拶をする。

「うむ、それで話した通りなんだが…探偵さんは?」

大きな体躯を屈めてきょろきょろとあちこちを見回す様子は少し滑稽であったが、どうやら尋ね人はすぐに見つかったらしく、男はしゃっきりと背筋を伸ばして奥の一番大きいデスクへと大股でつかつか歩いて行った。

「こんにちは、依頼人であります」

律儀にぺこりと一礼をしてからにっこりと微笑んだものの、少女はデスクの中から出て来ようとはしなかった。

むむう、と眉間にシワを寄せながらくるりと踵を返して、再び入り口横の助手の机の前に立ちすくむ久城の元へ男は戻って来た。
そして小声で囁く。

「実を言うとだね、私は灰色の小さな名探偵に土産を持って来たんだが…」

「甘い物が好き、と言っていたっけな?」

「はい、そうですが…よく覚えてましたね」

「他人の好みは忘れないのがこういう仕事でうまくやっていくコツであるからね」

「はあ…」

「とりあえず、この箱を開けてみたまえ」


男はそう言うと、脇の黄色い箱を取り出して助手の机の上に置く。
黄色地に、赤、青、白、黒のリボンでくるりと巻かれた箱を開けると…

中には真っ赤なみたらし団子の様な、串に刺さった球体が並べて置いてあった。

「なんですか?これ」

飴と果実の甘ったるい匂いが部屋中に漂って行く。

「杏だよ」

男は簡潔に答えた。


後ろの方で、紙と小物が落ちる音がした。
振り返ってみると、少女がデスクの下からから顔だけを突き出して鼻をひくつかせているのが見える。
久城は悪戯っぽい笑みを浮かべ、男にことわってから箱の中の赤い球を取り出して掲げた。

「ヴィクトリカ!これが何だか気になるかい!?」

「甘くて素敵なものだろう!?『知恵の泉』がそう告げている!さあ、早くこっちに…」

「でも残念だな…君への依頼のための差し入れとしてお菓子を持って来てくださったのに…」

「むうぅ…卑怯だぞ!」

「仕方ないね…これはぼくたちだけで頂くとするよ………今、お茶を淹れますからちょっと待っててくださいね」

久城はてきぱきと二人分のティーカップを戸棚から取り出す。

「待て!久城!私のだ!私の分のお茶はどうした!?」

少女はじたばたと手足を動かすが、遂にそこから動くことは無かった。

「どうしたんだい?まさか…引っかかっちゃったの…?」

「くそっ、ちくしょう!久城の鬼!悪魔!」

「分かった!話を聞く!悪かった!うう…」

少女はソファにちょこんと腰掛け、召し物のフリルのあちこちにくっ付いた埃を取っていた。
部屋の中央に置かれた応接テーブルには三人分の茶器と、白磁の皿の上に載った真っ赤な杏菓子。

「頂くぞ」

ようやく埃を取り終わったのか、皿に手を伸ばし、串から外された赤い球を口に入れる。
杏は甘い芳醇な香りで脳髄を麻痺させ、舌の上の果肉は周りを固めていた飴と一緒にほろほろと溶けて行く。
そこに熱い緑茶を流し込めば、どんな強面も顔を綻ばさずにはいられなくなるだろう。
事実、少女の端正な顔は緩みに緩み切っていた。

「美味しいですね、これは…」

久城もその杏菓子の魔力に取り憑かれていた。

「む、これは東洋の…リョクチャと言ったかな?甘い物に合いそうだ」

男の方はというと、この茶葉を発酵させない緑色の苦い茶に興味を示した様だった。

「はい、何時もは紅茶をお出しするんですが、姉が茶葉をくれたので…」

「うーん、私も行きつけの茶店に取り寄せてもらおうかなあ…」

大分気に入ったらしい。

「それで…本題に入りますが…」

「おお、完全に忘れていたよ」

ゆっくりとした空気が流れていた部屋の中で、やっと話が始まった。










「『満州(マンチュリア)』という東洋の新興国のことはご存知かね?」

「名前だけなら…ヴィクトリカは?」

「相変わらず無学だな、君は…」

少女は気怠そうにいつの間にか火をつけていたパイプの煙を吸い込むと、滔々と話し始めた。

「先ず第一に、君の祖国が建国に深く関わっているというのに…」

一つ、煙を吐く。

「満州国…なんでも2回目の大戦のどさくさに紛れて、嘗て大陸に存在した清の帝国の最後のエンペラーを頂に迎えて発足した多民族国家…いや、ジャパンの植民国家ともいうべきか…」

「ともかく戦争中にも関わらず、既に国としての活動を始めていた彼の国は、戦争の終結と共に独立した…ジャパンの強い影響を残してだが」

「私もラジオで耳にする程度であったが、その発展は凄まじく、既に多くの国の移民と、大量の資本が彼の国に流れ込んでいるらしい」

「素晴らしい、全くもってその通りだ」

まるで生徒の発表を寸評する教諭の如く、男はゆっくりと頷いた。

「久城くんは仮にも出向とはいえこれから海外にも足を伸ばさんとする企業の調査部の一員なんだからね…?」

「すみません…」

「ふふ…零細タブロイド紙のペーペー記者に過度の期待は不要だ…」

少女はふふっと久城を鼻で笑う。

「むう、うちの企業の傘下の新聞の…まあ事実だがねえ 」

男は口の中で苦虫を二、三匹噛み潰した様な顔をした。

「それで…そのマンチュリアがどうかしたんですか?」

久城はまだきょとんとしている。

「商売人たるもの、儲けの出そうな場所にはいち早く唾をつけなきゃ気が済まないって上は言ってるんだよ」

「はあ」

「さて、久城くん。君の出向は来年の春までだったね?」

「はい、最後は一つ大きな仕事をやってから戻ってもらう、と部長直々に」

「大きな仕事、ねえ…ふふ」

男は妖しく笑った。
久城は思わず後ずさりする。

「今回の仕事で、久城くんは広い視野と国際的感覚を持ったメディア人として更なる成長が出来るであろうと部長もおっしゃっていたなあ」

「どういうことですか…?」

「我が企業は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続ける、新天地マンチュリアへの進出を決定した」

「とはいえ本格的進出を前にして、きちんと現地の調査をしなくちゃあならん」

「部長の言ってた大きな仕事ってのはつまり…」

「つまり…」









「君は我が社の先発市場調査隊の一員として、満州国事務所へ1935年1月付けで配属されることとなった!」

「ええええええええ!!??」

一瞬、男の口から発せられた突然の辞令を理解するまでに、ネオン灯の電源が入ってから明かりがつく位の時間を久城は要したが、しっかりと内容を把握してからはご覧の有様である。

「いや、でも突然過ぎますよ…それに今から行ったって1月には…」

ようやく平静さを取り戻した久城は、やっとの事で幾つかの言葉を絞り出す。

「大丈夫だ!首都新京まで我が社が責任を持って君達を送り届けよう!」

「…たち?」

少女は怪訝そうな顔をする。

男は続ける。

「そう、なんだってペーペーの君がこんな仕事に選ばれたかというとだね…?」

「君のワイフである探偵さん、あなたに満州で解決して欲しい事件があるんだ…」

「嫌だ」

探偵事務所への出勤すら拒むことがる筋金入りの出不精な少女は当然ながら長旅になるであろう満州行きを断った。

「困ったな~…でも、報酬はこれだけ出るみたいだぞ?」

男が鞄から取り出した依頼書は、久城を再び驚かせた。

「暫く遊んで暮らせる程度の報酬は出る。旅費、滞在費も全て会社側が出す。どうかな?」


むむむ…と久城は頬杖を付いて考え込む。

「ヴィクトリカ、頼むよ…」

「ああっ、満州ならこのお菓子も食べ放題だぞ?」

何を思ったのか男も援護射撃を入れた。
しかしこれが効いた。

「食べ放題…?」

「満州には甘いものも沢山あるんだ」

「詳しく話を聞こう」

少女のあまりの変わり身の早さに久城も面食らったが、ともかく男の言う『事件』の話に集中することにした。

「殺しだよ」

男はぼそっと呟いた。

「ほう」

少女は興味深そうに相槌を打つ。

「何でも、満州入りした企業関係者が次々と殺られていてねえ…」

「詳細はこの冊子を見てくれ」

多種多様な言語で「極秘」と印が押された冊子によれば、現在迄に既に四人もの人間がが殺害されているらしい。

殺害方法はそれぞれナイフによる刺殺、何者かによる扼殺、薬で眠らささせれ全裸で野外に放置されて凍死、手足を縛られて炭鉱のズリ置き場に生き埋め、とバラバラであった。
満州入りしたばかりのビジネスマンという点を除けば四人に共通点は無い。
しかし逆に考えれば、一連の事件はビジネスマンを狙った連続殺人であることは間違い無いと噂され、残忍な手法で繰り広げられた惨劇に現地からは撤退を決断する中小企業も幾つか出てきているらしい。

「で、だ。久城くんは日本人だろう?」

「はあ…今はアメリカ国籍を取得したアメリカ人ですが」

「ああ、いや、すまんね…」

「目立つ、ということだろう?」

少女が不意に口を挟んだ。

「そうだ。あんまり私の様な西洋人があちらこちらを探り回っていると無駄に目立ってしまうからな」

情報収集役を必要とするヴィクトリカの推理スタイルから鑑みても、まさにこの夫婦は今回の事件にはうってつけであるということだろうか。

「ところでこの箱を見てくれ」

久城と少女が一通り冊子に目を通し終わると、男は先程まで杏菓子が入っていた空の箱を取り出した。

よく見ると、黄色地の包装に赤で「奉祝建国記念日」と様々な言語で書かれている。

「正確に言うと、私はあくまでも仲介者に過ぎないんだ」

「こいつは満州国の建国記念日に際して配られた限定品なんだが、これを私にくれた男が今回の……依頼人だ」

男は重々しく告げた。


男は鞄から、先程の冊子よりかは薄い白いファイルを取り出した。
これもまた「極秘」の印鑑が複数の言語で擦印されている。

「満州国治安部警務司刑事科…」

「また何でこんな書類が…」

久城は呆れた様に依頼人である刑事の個人情報が記された紙をめくった。

「企業秘密だ、企業秘密」

男は悪戯っぽく笑った。

「少なくともぼくたちは知って然るべきだとは思いますが…」

久城は全てを明かそうとしない上司に対し、やや憤慨した。

「すまん、箝口令って奴だ…後は全部現地でってことになっている」

一転、申し訳なさそうに男は呟く。

「ただ今見てもらっている捜査資料は向こうの警察でも使われているものをそのまま用意したし、現地でも君たちに最大限の便宜を図って貰えるよう手配した」

大まかな説明が終わり、男はぬるくなった茶を飲んで一息ついた。

「やはり、欠片が足りない」

少女はそう言って煙を吐く。

「正直、この場で犯人を突き止めてしまおうかと思ったが、如何せん情報が足りないのだ」

すっくと少女は立ち上がり、真冬にも関わらず南国の極彩色の鳥が集まっているデスクまで歩いていく。

「人種、年齢、所属…連続殺人にしては何のつながりもない。それなのに……」

「まず、君に聞きたいのだがね?」

やや高圧的に少女はソファに座る男を見下ろした。

「何故、今回の一連の事件が連続殺人であると分かった?」

「いや、それはビジネスマンの中での噂が広がって…」

「成程、警察が連続殺人であるとの結論を出した訳ではないのだな?」

男は冊子を見たならば分かるだろ、とばかりに無言で頷いた。

「だとすれば、だ。久城」

呼び方こそぶっきらぼうであったが、言葉の端には自らの伴侶に対する全幅の信頼が含まれていた。

「どうやらまた沢山働いてもらうことになりそうだ」

そう言うと、少女はくすくすと笑った。

「行こうか、混沌(カオス)の欠片を集めに」

「ということは…ついて来てくれるのか?」

久城は立ち上がった。

「私は非常に悔しいんだ」

「は?」

「ここで座したまま事件を解決してやりたかった」

「残念ながらそれは不可能だ…だが、知恵の泉に解けない謎は無いということを私は証明しなくてはならない」




「では、宜しいですね…?」




満州(マンチュリア)へ……………

December 31,1934


「新年を海の上で迎えることになるとはねえ…」

久城は甲板の上で全てを凍らせてしまうような海風に吹かれつつも、闇夜の海に向かってやや疲れた様子で呟いた。

大サロンでは乗客達による年越しの大宴会が盛大に開かれていた。
まるで戦争なんか無かったかの様に、様々な人種の人々が日本の歌のレコードが鳴らされる中で大いに酒を飲み、歓談している。

久城とヴィクトリカが今乗っているのは、太平洋航路のサンフランシスコ-横浜間を僅か12日で結ぶ高速豪華客船である。

ニューヨークを発ち、飛行機でサンフランシスコまで向かった久城とヴィクトリカは、そこから船に乗る様に指示されていた。

船はハワイには寄港せずに北太平洋をひたすら進み、いよいよ横浜にまであと二日、というところまで来ている。

「どうした、久城」

いつに間にか隣にはヴィクトリカが立っていた。

「いや、ちょっとね…」

「君らしくも無い、いいかい?君みたいな単細胞の悩みなぞ…」

「心配して来てくれたのかい?」

「むむう…」

図星の様である。

「酔っ払いが絡んで来てな……?…うう…ほっぺたを、こう」

身振り手振りで少女は酒宴の客にちょっかいを出された、と久城に訴えた。

「おまけに幽霊がこの船には出るんだぞってずっとその話ばかりだ。飽き飽きした」

少女は一通り愚痴り終わって落ち着いたのか、段々といつもの様子に戻って行った。




「おや、困りましたねえ」

不意に声が聞こえた。

どうやら声の主は見回りの船員らしかった。
制服をきっちりと着込み、動作には隙が無い。

「ボイラー室の幽霊の噂ですか?嫌になりますね…」

船員は苦々しく訊ねて来る。

「ああ、そうだ。全く馬鹿馬鹿しい…」

少女も根も葉もない噂に振り回される船員に同情する様に日本語で返事をし、溜息をついた。

「幾ら元が軍用船だったとしても、これだけの船がチケットの取り合いにもならずに定員ギリギリで出港となると船乗りとしては少し悲しいですね」

「確か航空機運搬船だったかな?」

「ええ、大陸の方に飛行機を運ぶ任務に就いていたんですがね…」

「貨物船狩りの潜水艦の魚雷がボイラー室に直撃…」

「徴用されていた機関員が化けて出るってんだから全く馬鹿馬鹿しい話ですよ、大体海の男は海で死ぬのが本望でしょうに…ったく、根性無しの幽霊がいたもんだ」

さっきまで上品な立ち振る舞いをしていた船員は興奮したのか、段々と饒舌になっていった。

「まあ、何事も無くここまで来たんですから、ね?」

久城がそう言うと、船員は慌てて我に返って無礼を詫び、「良い旅を」と決まり文句を言ってその場を去って行った。

「あれは、随分と粗野な船員であったなあ」

「そうかい?多分入って間も無いのかもしれないね」

「いや、単に配置転換になっただけだろう」

少女は首を横に振る。

「あれはベテランの船乗り……恐らくは軍属であったろう………まあいい、船室に戻ろうか。寒い」

冷え切った体を震わせながら少女はさっさと船内に向かって行ってしまった。

「待ってよ、どうして分かったんだい?」

「言語化するのが面倒だ」

お決まりのセリフを怠そうに言いながら少女は口から煙を吐いた。

「さて、どこまで推理したかな?」

2人は暖房の効いた船室に戻るのもそこそこに、上司から貰った冊子を開いた。

「散々確認したけど被害者の人種は日本人、中国人、ドイツ人、アメリカ人とバラバラ、ビジネスマンであること以外共通点も無し。満州における犯罪の動機としては最も多い民族間対立ではないとはっきりしている以上……お手上げだね」

久城はベッドに寝転びながら欠伸をする。

「急がなくてもいいんじゃ無いかな?どうせ向こうに着いたらもっと色々な事が分かるだろうし」

「…」

冊子が捲られる。

「何か…どうしても引っかかるのだよ。欠片が嵌らないんだ」

何十、何百と目を通している内によれよれとなった冊子が慎重に捲られる。

「急がなければ取り返しのつかないことになる、謎が謎ではなくなると知恵の泉が私に告げているんだ…」

諸事情の為、投下が出来ませんでした
もう暫くお待ちください

不意に船室の照明が消えた。

「もう寝るつもりなのか?とりあえず机の明かりは消さないでくれ」

冊子を見つめたまま少女は振り向かない。

「いや…」

「停電…?」

久城は真っ暗になった船室の壁伝いにへばりつくようにしてなんとか照明のスイッチを見つけた。
何度か弄ったが部屋は一向に明るくならない。

「しょうがないな…でもこんなことって…」

豪華客船の思わぬ不手際に久城は戸惑いつつも懐からオイルライターを取り出し、小さな火を照明代わりに何とか備え付けの非常用のランタンを取り出した。

再び船室が明るくなった。
しかし、一秒程眩しい光が部屋を照らすと、ボンッという軽い爆発音と共にすぐに暗くなってしまった。
硝子が天井から白い煙と共にはらはらと降り注ぐ。

「ショートだろうな…予備電源の切り替えに失敗でもしたのかな?」

彼女は呑気にも欠伸をした。
ランタンを取り出したままの姿勢で固まりながら、久城は油の染み込んだ芯に火を付ける。
石油の刺激臭と同時に、電灯とはまた違った趣の柔らかな光が辺りを照らした。

「…」

少女はランタンを手元に寄せ、再び手元の冊子に目を落とした。

「何とか助けを呼ばないと」

「うむ、さっさとしたまえ」

尊大な態度で彼女は久城に命じた。
久城は船員を呼ぼうと、慌てて壁掛けの電話機に手を伸ばして受話器を取った。

「この調子だと、電話の方も壊れているかもしれんぞ」

少女が窘めたが、すぐに電話は船員の詰め所に繋がった。

「もしもし、えっと…」

「ああ!電話の方の回路は生きていたか…!」

船員らしき男は電話に出ると、安堵の溜息を漏らしていた。

「申し訳ありませんお客様!現在船内のあちこちで原因不明の停電が起きておりまして…!」

電話越しから停電の対応に追われる船員達の喧騒が聞こえてくる。

「電話は通じるみたいですが…」

停電という状況にありながらも電話交換が出来ているのはどういうことだろうか。
問うたはいいが、後ろの声に掻き消されそうになっている船員の声は注意深く耳をたてないと聞き逃してしまうだろう。

「直ぐにそちらにも船員を遣りますので備え付けのランタンを使用して明かりを確保してください。大変申し訳ありませんでした」

「あの…!切られた…」

非常時であるので仕方ないのかも知れないが、詳しい話は後だとばかりにあっさりと電話を切られてしまった。

「それで、何がどうなって君は船員と電話交換が出来てしまったのかね?」

黒光りするまで磨き上げられた堅牢な木の椅子の背凭れから彼女は面倒臭そうに訊いた。

「いや、分からない…教えてくれそうになかった」

「はあ…君が愚図で無ければ私ももう少し探偵としての力量が…」

「ごめん」

少年は申し訳なさそうに傍のベッドに腰を掛ける。
いつもの嫌味の筈が素直に謝られてしまったので、少女は気まずさを隠そうととりあえず自分のパイプにマッチで火を付けた。

ランタンの灯の下で暫く沈黙が続いた。
天井には煙草の煙が漂っていて、橙色光の色を淡くしていた。

不気味な程にゆっくりとした時間が流れていた二人の船室だったが、不意に扉が強くノックされた。
それと同時に一等船室の上品な雰囲気にはまるで似合わない下品な罵声が通路の方から響いて来た。

「邪魔するな!この幽霊船の手先が!」

「奥様、どうかお気を確かに…ああ、お止めください!」

「あなたたちも出て来なさい!今すぐ船から逃げるのよ!」

ひっきりなしに扉をノックしつつ女はヒステリックな金切り声をあげた。
最早殴っていると形容しても違和感が無い位に激しく扉に叩きつけられる拳の音が、錯乱した女の精神状態を如実に表していた。

「今度は何だ…」

面倒な輩がやって来たとでも言いたげにうんざりと少女は立ち上がった。

「ちょっと待って、ぼくが行くよ」

先程の失敗を取り返してやるばかりに久城は勇んで扉へ向かって行った。

厚く丈夫に作られた扉は気休め程度ではあったが防音の役割を果たしていたらしく、開けた途端に不快な金切り声が容赦無く久城の鼓膜を襲っていた。

「あたしゃ幽霊を見たんだよ!間違いないさ!このグズが!離せ!」

薄いブルーの豪奢なドレスを纏った痩せぎすの中年女性が船員に羽交い締めにされている。
スカート部分の裾は破け、顔の化粧はドロドロに剥げ落ちていて酷い有様である。
廊下は間に合わせのランタンの明かりがぽつぽつとあるのみで、淡い光に映し出された醜い女は皮肉にも幽霊を連想させた。

久城は思わず扉を開いたまま少女の待つ船室へと後ずさりしてしまったが、兎も角話を聞かねばなるまいと辛くも入り口で踏みとどまった。
女は相変わらず狂った様に叫び続けている。
「見た」と言うからには何かを見たのかも知れないし、今は見る影も無い上品な召し物からしてもある程度の礼節を弁えていたであろう目の前の女をここまでおかしくさせた原因が気になる。
久城は通路の歩きやすさに配慮したであろうやや薄めに敷かれたカーペットへと再び足を踏み出した。

しかし…

「うわぁ!」

球状の灰色の塊が猛スピードで視界の端から迫り、一瞬で距離を詰めて久城にぶつかった。
そのまま久城は塊と共に派手に吹っ飛び、床に潰れる様に着地した。

「すまない!君も早く逃げたまえ!」

灰色の塊は詫びもそこそこにさっさと立ち上がって奥の広間へと走り去って行ってしまった。
手足が付いていてヒトの言葉を話していたので、自分にぶつかって来たモノが人間であることは確認出来た。

だが、起き上がった久城が目にしたのは通路を覆い尽くして自分の方へと猛然と突進して来る灰色の壁であった。

「落ち着いてください!避難の必要はありません!」

壁の正体は灰色の救命胴衣を着て、船から逃げようと蠢く乗客達だった。
数人の船員が横並びになって混乱を収めようとしているが数は多く、焼け石に水といった状況である。
一方女の方はというとその場にヘナヘナ座り込んで箍が外れた様にケタケタと笑っている。
通路は乗客達の怒号や悲鳴も合わさってまさしく地獄絵図であった。

「一体どうして……」

久城は呆然としてその場に座り込んでしまっていた。

「火の玉を見たんだとよ、兄ちゃん」

聞き覚えのある声がした。

振り返ると、先程甲板で話をした男が壁に寄りかかって紙巻きタバコに火をつけていた。
整っていた服も乱れていて、人混みを抜けて来たばかりだということが分かった。
乱れた服を整えようともせず、安物のタバコ特有の刺激臭を辺りに漂わせる男は、豪華客船の船員らしからぬ太々しい態度であったがこの状況では誰も咎める者はいないであろう。

「火の玉…ですか?」

「ああそうだ。だから嫌なんだよ」

久城の問いに男は口から煙を吐きながら答えた。

「だから…」

少し間を置いて、男は重い口を開いた。

「船みたいな狭い場所だとすぐにこの手の話は広まっちまう」

「この船自体いわくつきだから仕方ないのかもしれねえが、10日も海の上にいりゃあ船乗りはともかくただの乗客はちょっとつつけばこうなることくらい想像は出来るさ」

「火の玉ってのもそこで笑ってるババアの見間違いだろうさ」

そういうと男はまだ笑い続けている女の方へ顎をしゃくった。

「だけどなあ、人間怖いもんで見間違いでも十人が騒げばあっという間にこうなっちまうんだ」

「乗客全員に鉄拳食らわしても止まんないだろうなこれは」

粗野で下手くそな冗談を飛ばすと彼は吸い切った煙草を懐にしまって踵を返し、久城に背を向けて足早にその場を立ち去ろうとした。


が…

「どこ行くんだい!アンタ!」

物凄い剣幕でさっきまで笑っていた女が立ち上がり、猛然と男の背中へと突進して行った。

「ボートを出しなさい!船員でしょ!?」

低い姿勢から男に後ろからしがみつく女の動きはラグビーフットボールのタックルを想起させる。

「あ…このっ…!」

男は不意を突かれたのか狼狽し、そのままもんどり打った様に女共々通路の床に叩きつけられた。


ずしりと重たく、硬い音がした。

倒れた男のズボンのベルトの辺りが一瞬、黒く光ったのを久城は見逃さなかった。

「失礼します…!」

この騒ぎは他の船員も気付いたらしく、二人がかりの鮮やかな連携でで女を男から引っぺがして無理矢理立たせた。

「奥様はこちらの方でお話を…」

「黙れ!離せ!話を聞け!」

こっちの話も少しは聞いてくれよ…と二人の船員はぼやきながら、騒ぐ女を奥の方へとずるずると引きずっていった。

「悪かった」

男は二人の船員に短く礼を言うと、床にぶつけた足を痛そうに庇いながら此方に向かって来た。

「まあ、そういう訳だ。こんな時に言うのもなんだが…旅行を楽しんでくれ」

「なんて乱痴騒ぎだ全く」

「扉ぐらい閉めておけ久城」

いつの間にか、少女ヴィクトリカが外の扉の前で佇んでいた。

「例の船員は…行ったか」

どうやら少女は男と何か話したいことがあったらしい。
すぐに呼び戻そうとした久城を少女は無言で制した。

「しかしやっぱりそうか…危なかったな…」

少し俯き気味になりながら少女は独りごちた。

「危ない?」

久城は首を傾げた。

「鈍いな君は。あの船員が転んだ時に見なかったのか?」

そういうと少女はまだ救命胴衣を着た乗客で溢れかえっている通路を見やった。

「私たちはたちの悪い幽霊船に乗り合わせてしまった様だ」

「ああ、それなら大丈夫だよヴィクトリカ」

やや現状を悲観している様にも取れる少女の言葉にすかさず久城は二人が学生時代に乗り合わせた呪われた船を思い出しながらこう言った。



「ぼくたち、幽霊船なんか慣れっこじゃないか」

「慣れっこなら、もう少し周りの事象に目敏くなってくれなくては困るのだがねえ」

少女はそう言いつつも、悪戯っぽい微笑を浮かべた。

「さて、ひとまずあの悪戯好きの幽霊、いや、亡霊からオモチャを取り上げねばならんな」

「オモチャ?」

「疑問形の多い奴だな君は。あの男が持っていた拳銃だよ」

語気を強くして彼女は訴える。

「つまり彼とのファーストコンタクトからぼく達は狙われてたってことか」

「その通りだ」

少女は乗客の怒号が疎らに響く通路を数歩歩く毎に行ったり来たりしながら、いつもは面倒臭がって頼まれなければまずしない「言語化」の作業を進める。

「ああ、そう言えば変な黒いモノを懐に入れてたね…」

「気付いていたのなら話は早い」

「トリック自体は稚拙なものだ。何らかの方法でわざと停電を起こし、騒ぎをついて隠し持っていた拳銃で部屋にいる私たちをズドンだ」

少女は小さな手で拳銃の形を作って見せながら、鋭く突き出た人差し指を久城の胸に向けた。

「単純だけど無駄に大掛かりだね」

「大掛かりなのが重要なのさ。出来れば今みたいに乗客全員がパニックを起こすくらいの派手なやつがな」

「あの狂った女には寧ろ感謝しなくてはいけないな」

散々扉の前で騒ぎ立てた女は皮肉にも久城たちの殺害のチャンスの目を潰していたのだった。


「大体はここまでだ」

少女は一息に話をし終えると息をついた。

「すごいな…でも一体いつから気が付いてたんだい?」

少女から指摘されたのにも関わらず、久城は懲りずに語尾を上げた。

「そんなもの、最初からに決まってるだろう」

さも当然と言った様子で少女は整った眉を上げた。

「問題はいつ気付いたか、などではなくなぜこの様な行動にあの船員は出たのか、なぜ我々を狙っていたのかということだ」

流石の久城もこの程度の話にはついていく。

「つまり…動機だ」

少女は首肯した。

「そうだ。どんな事件も動機無くしては起こらないということは君も知っている筈だ」

「とはいえ、命を狙われていることには間違いないんだよね」

改めて命の危険が迫っていることを認識して、久城はやや萎縮していた。

「うむ、一刻も早くこの状況を終わらさせる為にもさっさと動機を突き止めなければなるまいな」

久城とヴィクトリカが話をしている間に騒動も大分落ち着いたのか、通路の乗客達は一様に救命胴衣で膨らんだ間抜けな体躯を揺らして自らの船室に戻っていた様だった。

「さて、彼はまず元軍属、それも海軍の…だ」

船室に戻り扉を閉めると、少女は「言語化」を再開した。

「待ってくれ、まず元軍属って…」

「動作を見てればすぐにわかる。君も一介の情報屋なのだからその位の技能を多少は有してるものだとばかり思っていたが…」

「はいはい、悪かったですよ…どうせぼくは下っ端ですよ」

「うむ、そしてこの船も元は軍属だ」

どうやら少女は久城のぼやきには無視を決め込んだ様だった。

「だからその手の噂話にあの船員は詳しかったんだよね」

「詳しい、というよりか…当事者だろうな」

「え?」

「そもそもこの船の幽霊の噂自体が今回の航海ででっち上げられたものだったらどうなる?」

少女は不敵に笑った。

「待って、それって…」

「うむ、あれを取ってくれ」

部屋の隅のトランクに掛かった白無地のサコッシュを取るように言われた久城は、雑誌と新聞でパンパンに膨らんだそれを慎重に運び出した。

「どんな三流雑誌や新聞でも一応は全て目を通す様に心掛けてはいるのだが…捨てないでおいてよかったな」

サコッシュの口を開いた途端に色とりどりのインクで染められた紙の束が一斉に飛び出す。

「これじゃないな…これでもない…」

ガサゴソと何かを探しているが、一向にお目当ての物は見つからないらしい。

「手伝おうか?」

見かねた久城が手を差し伸べるものの、足手まといだとけんもほろろに断られてしまった。

「探し物は人生でも一二を争う時間の浪費だ…全く…」

仕方が無いので、久城は少女が用済みだとばかりに床に放り出した雑誌や新聞をこっそりと一つに纏めて片付けることにした。

「あったぞ、確かこれだ」

そう宣言し、一つの週刊誌を高らかに掲げた少女はその場で雑誌の巻頭特集を開いて久城に見せた。

『緊急特集!!乗組員が語る最新鋭豪華客船の""ゴースト""』と下品な英語のフォントででかでかと書かれたそれは、明らかに如何わしい雰囲気を漂わせていた。

「それは出向前に購入したサンフランシスコの三流出版社の三流週刊誌だ。他の記事も信憑性の高いものでは無いな」

そこまで三流を連呼しなくても、と思ったがメタメタの内容に反して出版数は多く、地元での人気は高いらしい。

「しかし、問題はもう二つの方だ」

少女はそういうと、手にしていた新聞と文芸雑誌を脇の卓に持って行って開いた。

「まずは新聞のコラム欄を見て欲しいんだが…」

船の出港する一日前の日付が書かれたサンフランシスコの大手地方新聞が開かれる。その新聞のコラム面の一番目立つ場所に『開戦10年~戦争特集』という文字があった。

少女が指した場所を読んでみると、「戦争で使われた船が客船として蘇る」「平和の象徴」といった当たり障りの無い文章が貨客船出港という広告と共に並んでいた。
そもそも軍事転用を前提に作られた船なのだから本末転倒ではないか、と久城は思ったが黙っておいた。

「最後はこの客船で販売されていた文芸誌だ…これが一番気になった」

先程の地方新聞社と同系列らしい出版社刊行の分厚い文芸誌であったが、こちらも戦争特集と銘打って『◯◯丸北太平洋航路サンフランシスコ~横浜間就航に寄せて』という題名の随筆が匿名で載せられていた。

文面をざっと流し読みすると、海軍軍人として航空機運搬に従事した経験ーーーー開戦時の心境、戦友の死ーーーーなどが語られ、同じ船で今度は客船の乗組員として航海に参加出来るのを嬉しく思うといった内容で結ばれていた。
他にも平和への願いといういかにもありがちな随筆と幾つかの従軍記、そして中編の戦争小説が目次に並んでいた。

「さて、これら三つの新聞や雑誌を見て君はどう思った?」

少女の問いに、久城は片付けた雑誌や新聞をサコッシュに詰め直しながら答えた。

「……この三つの出版物だけ通して見ると船で戦死した人間の幽霊の噂が流れてもおかしくないと思ったけど、こんなにくまなく全ての種類の刊行物をチェックして記憶出来る存在なんて君くらいしかいないんじゃないかな」

「ふむ、私は人間ではなく全知全能の狼だからこそ出来た芸当だと?」

自分のトラウマを逆手に取った自虐とも取れる発言に久城は気まずくなった。
それを察したのか少女は、冗談は苦手だ、とばかりに早口に話を継いだ。

「三流雑誌は下流層向け、新聞は中流層向け、文芸誌は上流層向けと上手く分散されてるから普通は気づかないし見向きもされないだろうな」

「だがしかし、だ。これらの出版物を読んだ下流層、中流層、上流層が一同にこの船の中で会したとしたら…?」

「うーん、各階層向けに一等、二等、三等とそれぞれ居住区画や色々が分かれているし、まず同時に会うってことは……あっ!」

「そう、大サロンの新年パーティだ。これで今回の事件がこの航海を狙って行われたモノだということが分かる」

「最後の随筆は彼の『実体験』が元になっているのだろう。三流雑誌の方の『乗組員』も恐らくは同一人物だ」

「待ってくれよ、一船員に過ぎない彼がそんな大掛かりなこと出来るのかい?」

「最初の一つはタレコミという形を取れば簡単だろうな。豪華客船の幽霊スキャンダルなぞ、あの手の雑誌の大好物だ」

「問題は最後の二つだが…新聞社と出版社は同系列の会社ということを忘れてはいけないな」

「あいつは元はこの船の乗組ではなく、自分が船に乗る代わりに出港一日前の客船の大口広告のオマケとして話を売り込むことを提案したのだろう。でなくてはこんなに豪華客船にあんな粗野な船員は不釣り合いだ」

「じゃあ、今回の幽霊騒動も全部あの船員が仕組んだものだったってことか…」

久城は信じられないといった風に首を振った。

「嘘みたいな話だが、客船という閉鎖空間の特殊性は私達も散々経験して知っている筈だ」

少女は目を閉じて、今までに経験した辛い船旅の記憶を噛み締める様に呟く。

薄暗い船室に差し込む僅かな弦月の光を丸窓が切り取り、床に楕円の青白い輪を作っていた。

「右舷の船室に月の光…か。何とも絶妙な時機に決行したものだな」

そう少女は独り言ちて卓から立ち上がると丸窓に向かってゆっくりと歩いていき、足を止めた。

「なあ久城よ…閉鎖空間に閉じ込められた集団が最も恐慌を起こしやすいタイミングというものを知っているか?」

いきなりの質問に久城は面食らったが、こちらから質問してばかりなのも癪なので真剣に考え、自分なりの答えを出した。

「閉じ込められた直後かな…」

「違うな」

「答えは四分の三、だ」

「仮に集団が閉じ込められている間の時間を1とすると、丁度二分の一に到達した辺りから精神的な逼迫が始まり、四分の三を過ぎた時点でピークを迎えるんだ。幾ら娯楽が多い豪華客船だからと言ってもこれは変わらない」

「そして、奴はこのことを知っている。船に乗る集団の深層心理を無意識に理解しているんだ」

亡命という形で着の身着のまま船に揺られた暗い体験から語られる話の内容とは対照的に、少女の銀髪は明るく瞬いていた。

「それ、あの船員も同じような事を言っていたな…」

久城は船員との会話を思い出していた。

「……冥土の土産にタネ明かしということか。舐めたマネをしてくれたものだ」

「ぼく達はもう気付いているけどね…」

少し心の余裕が出来たのか、久城は目に見えて狼狽えることはなくなっていた。

「気付いた所でどうしたというんだ、あの男は今この瞬間にも虎視眈々と私達を狙っているんだぞ?」

「うん…やっぱりそうなるよねえ…」

久城の中で膨らみかけた希望という名の風船は一瞬でしぼんでいった。

「先ずは動機だ、動機」

そう繰り返しながら少女は部屋を横断してベッドに腰を掛けた。

「パイプに火をつけてくれ」

~~~~~~~~

「さて、私の仮説を実証する為に聞き込みをしなくてはならないな…知恵の泉は無限の可能性を秘めているとしても…だ」

暫く無言でパイプをふかしていた少女は、ベッドから立ち上がって宣言した。

「他の船員にあの男のことを聞くんだね?」

「うむ、恐らくはあまりいい感情は持たれて無いだろうな」

「あとは…」

「『火の玉』が気になるな…」

「ああ、あの女が見たって騒いでた…単なる見間違いじゃないのかな」

「念の為、という奴だ。あれでも身嗜みは整える程度には常識を持ち合わせている様子だったからな」

何しろ元は国家レベルの戦略オカルト兵器として利用された事があるくらいに、彼女の推理はこれまでに外れた試しが無いのだから今更聞き込みとは無駄な気もする。心情的にはここから一歩も動きたく無い久城だったが…。

「それ以前にあの男がもう一度襲撃に来てもおかしくない状況だ。逃げ場の無いここに留まっているよりかは聞き込みという形で常に動き回っていた方が安全だろう」

考えていることはお見通し、とばかりにちゃっかりと逃げ道を塞がれてしまった。

「うん…」

「なんだ、勇猛果敢な元少年志願兵がこれしきの事で萎縮して…」

「それは勘弁してくれ…少なくとも志願兵をやる程ぼくは心根が据わっちゃいないし、あの父親を思い出す」

相変わらずの下手な冗談であった。
戦争は久城に深刻な心外傷と軽度の足の障害をもたらしていたのである。

「半分徴兵だよ、あれは…」

政府の減免や徳政を目当てに親によって戦場に送られた貧しい少年達の顔を思い出しながら久城は呻いた。

「君も三男坊だからな…」

「『家の示しがつかない』って理由だけで銃を持って戦わせられるんだからたまったもんじゃないよ。まだ家族を楽にさせたいみたいな動機の方が健全だ」

冗談にもならない冗談を飛ばす彼女も、久城よりよっぽど辛い経験をしているのである。彼女なりの気遣いなのだろうか、はたまた逃避なのか、結婚して同棲するようになってからは互いの戦争の経験を無理矢理茶化す事が多くなっていた。

「やっぱり、他の船員に助けを求めた方がいいんじゃないかな」

「無駄だ。重ね重ね言うが、幾ら第三者を介在させたところで逃げ場なぞ何処にも存在しないんだ」

「そうか…」

駆け込んだ所で、停電騒ぎで忙しい乗組員達は証拠や第三者の証言が無ければ相手にしないだろう。
ある程度の状況が把握出来ているという条件があるからこそ、わざわざ聞き込みという相手に気付かれる恐れのある危険な手法を採らなくてはいけないのが歯痒かった。

「分かった、まずはどうする?」

仕方なく、久城は少女と共に計画を練ることにした。

「この際、私立探偵であることを自称しようと思うのだが…」

驚くべき言葉が飛び出して来た。
目を真ん丸に見開いて、慌てて久城は言葉を継ぐ。

「は…?いや、それは駄目じゃないかな…」

「話は最後まで聞くものだ。とりあえずあの男の割り込み乗船の事実さえ明らかになればだから、秘密裏にこの船に乗り込んだ船員を監視する様に依頼されているとでも法螺を吹けばいい、ということだ」

「聞き込み自体は主目的では無いからな。馬鹿正直に狙われてますなんてわざわざ吹聴して回る必要はない」

なかなか思い切った手法ではあるが、これ以外の方法が久城の頭では思い付く筈も無かった。
よくよく思い直してみれば、そもそも自分達が私立探偵であるという事実は間違い無いので、あまり後ろめたさも無かった。

>>122 ミス

誤:とりあえずあの男の割り込み乗船の事実さえ明らかになればだから

正:とりあえずあの男の割り込み乗船の事実さえ明らかになれば良いのだから

「秘密調査とでも言って適当に金でも握らせておけば大丈夫だろう。心配はいらんさ」

出不精の安楽椅子探偵には似合わないくらいに相当な修羅場を掻い潜って来た少女である。
ここまではっきり言うのならば心配は無いだろう。

「さて、行くぞ。適当に口裏を合わせる位なら出来るだろう?」

勿論だとも。これ以上足を引っ張るマネはもうしない。

~~~~~~~~~

一等区画の通路には点々と壁に沿って石油ランタンが掛けられていた。
頼りない光ではあったが歩くのにはさして難儀しなかったし、長々と続くランタンの列を見ていると乗組員の血の滲むような苦労が目に浮かぶようだった。
長々と続く通路の先は暗く滲んでいて、先の見えない殺人者との戦いの行く先を暗示しているように久城の目には映った。

薄暗い通路を抜けると、波に揺られる船には似合わない位の絢爛豪華なシャンデリアと真新しい繊細な内装に彩られた広い一等ロビーに出る。
しかし光が無いと、折角のシャンデリアも硝子の冷たさばかりが際立つばかりであった。
床にはこれまた急拵えのランタンが無造作に置かれ、所々にショートしたシャンデリアのものであろう硝子の欠片が散らばっていた。

ロビーは不気味な程に静まり返っている。
普段とはまるで違った顔を見せる船内に、久城は戸惑っていた。

「船の全図は大体頭に入っているから心配するな」

超人的に察しの良い少女はそう声を掛けると、迷い無くつかつかと歩いて行った。

再び細長い通路に入った。
こちらは疎らにしか光が無く、一等の通路より遥かに暗かった。

「こっちは業務区画の筈だが…一等に光を回したのだな、大した心掛けだ」

「はい、ご用命は…?」

扉を開いた男は、一目見ただけでも疲れ切っていると分かる位の汗だくの額を突き出した。
制服も完全に崩れていて、見た目以上に歳を重ねた風である。

「休憩中に申し訳無い、あなたに一つ聞きたいことがあるのだ」

「はあ」

船員は何とも間の抜けた声を出す。
少女は見るからに一等の客といった風の衣装を身に纏っているので、用命ならば一等の詰め所に行けと言わんばかりの表情である。
どうやらここは船員達の休憩所に使われている部屋の様だった。

まごついている船員に少女はフリルだらけの服の隠しポケットから幾ばくかの紙幣を取り出し、素早く船員の手に握らせた。

「他言無用で。出来れば、人払いの出来る場所が良い」

先程までの弛んだ顔はどこへやら、紙幣をきびきびと懐にしまい口を真一文字に結んで背筋を伸ばした船員は、すかさず二人の訪問者を別の空き部屋に案内した。

「それで、聞きたいこととは…?」

船員は部屋に入るとすかさず気を利かせてランタンを灯し、椅子を勧めた後に小声で尋ねて来た。

「ぼくたち、実はとある極秘依頼を受けた探偵でして…ある一人の船員の男を追っているのです」

まずは久城が口火を切った。
船員は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに思い当たりがあるとばかりに嬉々として口を開いた。

「依頼者を聞くのは無粋でしょうね…。やっぱり因果応報って言葉は正しかったんですな」

「ああ、やっぱりご存知ですか」

「日野と言う男ですよ…」

とりあえず、殺人者の名前が分かったのは大きいだろう。

とても豪華客船の船員には似合わない下卑た顔をした男は話を続けた。

「まあ、名前に関しては偽名かもしれませんが…。あいつ、この船動かしてる会社に元軍人の船乗りって事で入社したらしいんですが、博打にハマって会社の金に手をつけて謹慎してたんですよ」

「何でも、普通なら即クビが飛ぶところを、軍人のコネとやらを使って上を動かして謹慎になったんだっていう噂ですよ」

思わぬ事実が明らかになったが、少女は知っているとばかりに一切表情を動かさずに頷いていた。

「ところがあいつも謹慎中なのに懲りずに博打をやって借金をこさえましてね。今度はヤバい所から金を借りた…恐らくあなたがたの依頼者からだと思うんですが」

「余計な詮索をするな。続けろ」

少女は男を睨み付けた。
バナナ・マシンガンを構えたマフィアとも対等に渡り合って来た迫力に、男は完全に呑まれていた。

「は、はい、すいません…ええと…とにかく、サンフランシスコでヤバい類の借金取りに追われてたあいつは、今回の出港に乗りこんで日本に逃げるのにまんまと成功したって訳ですよ。最も、貴方たちがいるので失敗とも言えるかもしれませんが」

「問題は謹慎中の奴がどうやってこの船に転がり込む事が出来たかって話なんですがね…。探偵さん方、出港前に新聞を読みませんでしたか?」

「ああ、あのコラムだろう?」

「そうです、奴は例のコネを使って自分の従軍経験を認(したた)めた随筆を客船の記事と一緒に新聞社に売り込んだんですよ。ああいう系統の美談はアメリカでは何よりの広告になりますからね…」

「貨客船畑から船員を引っこ抜いたこの船に従軍経験のある人間は誰もいなかったので、仕方なく奴が急遽この船に乗り組む事になったんです」

「仕事はザルだし煙草は何処でもお構いなく吸うし…何しろこの船の乗員はベテランを揃えてますから当然ボロも出ます」

「成る程、で、君はあんな場末の休憩所で一人何をしていたのかな?」

少女の思わぬ質問に男はまたも口籠った。

「ああ、いや、その…見た目には気を遣っているつもりなんですが、私もトシでしてね…。こうやって体を休ませてやらんと耐えられんのですよ」

「自分の限界ってのも分かっているつもりですし、今回の乗組で引退航海の筈だったんですがねえ…泣きっ面に蜂ですよ」

「つまりサボタージュということか、結構」

ばつが悪そうに少女は呟いた。

「しかし、探偵さん達に一つ忠告をしておきたいのですが…。あいつ、どうやら追っ手が乗船している事に気付いているみたいですよ?」

「追っ手?」

久城は反射的に聞き返してしまったが、椅子の下では少女が久城の足を容赦無く踏みつけていた。

>>135 ミス

誤:つまりサボタージュということか、結構。

正:つまり一人サボタージュということか、結構。

「あいつは貴方達の存在に気付いてるってことですよ。しかしまさか私がその追っ手と直々に話をすることになるとは思いませんでしたがね…」

「相部屋の奴の話によると毎晩、『銀髪が…銀髪が…殺さないでくれ…』って魘されているらしいですよ」

「随分と気付かれない様に腐心したのだがなあ…」

少女は咄嗟に芝居を打っていた。

「だが、バレていたのならば仕方が無い」

少女はニヤリと口角を上げるが、とても笑ってる様には見えなかった。
それどころか、演技だと知っていても思わず後退りしてしまうくらいの凄味を出していた。


「あ、それで…他に聞きたいことは…」

「無い。ご苦労だった」

「うん、早いとこ取り立てないとね。どうせある程度の金品は持ち歩いてる筈だ」

いつの間にか凄腕の取り立て屋になってしまっていた久城達は、意気揚々と空部屋を後にしていった。

「はは…なんだよ…全く…ついてねえな、おれ…」

一人の真面目な初老船員の人生最初のささやかなサボタージュはこうして終わりを告げたのであった。

二人は再び暗い通路を歩いていた。

「本当は怠けている船員を適当に捕まえてやるつもりだったんだがな」

「しかしこれは…」

いつもの余裕綽々とした様子からは想像がつかないくらいに、少女は動揺していた。

「私としたことが…どうやら推理に若干のズレがあったようだ」

「つまり、間違ってたってこと?」

「断じて私の推理に間違いは無い。ただ…」

「ただ?」

「過程と結果を『欠片』の不足で取り違えていただけだ」

墨を滲ませた闇が久城と少女を取り囲んでいる。
相変わらず少女は何の迷いも無く一寸先の闇へと向かい歩みを進めて行く。
久城の足取りは重い。
通路には二人の硬い足音だけが響いていた。

「今度はどこへ行くんだい?」

沈黙と暗闇の恐怖に耐えかねて久城は口を開いた。
拳銃を持って彷徨いている男がいつ死角から飛び出して来てもおかしくない状況は、戦場で体験した恒常的な死と比較してもおよそ似つかないものであった。

「あの女のところだ」

女、というと騒ぎの元凶になったあの婦人のことであろうか。
あの時はまともな対話が出来そうにも無い様子であったので、今更話を聞くのか、と久城は訝しんだ。

「なあヴィクトリカ、結果と過程が違ってたってどういうことなんだい?」

「今は言語化出来ない。詳しくは女と話をしてから、だ」

二人はいつの間にか一等区画に差し掛かっていた。


暗闇に目が慣れていたのか、周りよりやや明るいそこに入った途端に一瞬だけ視界がぼやけた。
眩しい光の先にちらちらと影が踊っている。
やっと目が見えるようになると、一等区画の通路の突き当たりの扉が大きく開かれているのを確認できた。
扉の奥からは二人の船員らしき人影が薄く伸びている。
久城は咄嗟に身構えた。

「おや、此方からわざわざ訪ねるまでもなかったか」

船員を掻き分け、扉の奥からは出て来たのはあの女であった。

「火の玉…火の玉…」

少女に促されるまま恐る恐る女の近くまで歩いて行った久城は、何かに取り憑かれた様に虚ろに目を見開いて口をぱくぱくさせていた女を見て背筋を凍らせた。
女はとても自分たちと対話出来る状態には見えなかった。

「ご婦人、ちょっといいかな?」

尋常ではない迫力を出す女に、少女は恐れもせずに近づいて行った。

二人の船員は突然現れた奇妙な男女の二人組に当惑した様子であったが、とりあえずは客の問題だとばかりに女を解放して扉の奥へと戻って行った。

「私は信じるぞ?幽霊とやらの話」


全く、突拍子もない話である。

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