【モバマス】「橘ありすの十四日間戦争」【橘ありす×市原仁奈】 (26)

 モバマス、橘ありすのSSです
 少しのあいだ、お付き合いいただければ幸いです

【モバマス】「幸子、俺はお前のプロデューサーじゃなくなる」
【モバマス】「まゆ、お前は夢を見せる装置であればいい」
【モバマス】「橘ありすの電脳世界大戦」
【モバマス】「こんなにも幸せな傷あと」
【モバマス】「きみがいたから」
 と、同じ世界観の話です

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 アイドルになって初めて迎える冬にも、去年と変わらずに雪が降りました。

 マフラーと手袋をしていたって寒さが辛い、冷たい風が吹きすさぶある日の夕方です。

 バスを降りると、夕闇にそびえる巨大な病院が、私を待ち受けていました。

 頭の中のもやもやを振り払おうと、細かな雪が降るなか、傘も差さずに駆け出します。

 玄関をくぐると、院内はしんと静まり返っていて、なんだか寂しげです。

 普通の診療時間は、もう過ぎているみたいでした。

 受付に行って、名前を書いて、面会用のバッジを受け取ります。

 手が震えたのは、寒さのせいで、不安だからではありません。

 エレベーターに乗り、足音を殺して廊下を歩きます。

 やがて、見覚えのある名前のネームプレートを見つけました。

「……失礼します」

 扉を開けてすぐ、ベッドの上で身を起こした桃華の姿が見えました。

 安心のあまり、不覚にも私はその場にへたり込みそうになります。

 実際そうならなかったのは、彼女の隣、丸椅子に座るプロデューサーがいたからでしょう。

 なんでもないみたいな顔をして、ベッドの前まで行きました。

 私にだって、見栄を張りたいって気持ちぐらい、あるんです。

「少し、痩せましたか。桃華」

「ご冗談を。今日、入院したばかりですわよ」

 私を見返す桃華が、穏やかに微笑みます。

「制服、よくお似合いですわ。ありすはもう、中学生でしたわね。早いですわ」

「何を、いまさら。お姉さんぶってるつもりですか」

 気恥ずかしさから、ぷいと顔を背けます。

「事実、そうでしょう」

「少しばかり誕生日が早いだけで、威張られても困ります」

 その時ふと、枕元の脇にあるテーブルに置かれた、見舞いの品々が目に入ります。

 数冊の本、リップクリーム、ウェットティッシュ、お茶のペットボトル。

 プロデューサーの抜け目なさが、なんだか少し腹立たしいです。

 私は気持ちを落ち着けようと、ふーっと息を吐き出しました。

 この、つかみどころのない、かすかな怒りは、きっと、ままならない自分自身への苛立ちなんでしょう。

「手ぶらですみません。こういう時、お見舞いの品を持ってくるのが礼儀だとは、分かっているんですが。なにぶん、突然のことでしたから。驚いてしまって」

 桃華が入院したというメールが、プロデューサーから届いたのは、下駄箱で外履きに履き替えていた時です。

 ただ、疲れが溜まっていただけで、何も心配することはない。

 落ち着け。

 見舞いに来るなら電車とバスをこう乗り継げばいい。

 私が動揺しないよう、言葉と時間を選んでくれたことが分かる文章でした。

 そうまでしてもらっても、しばらく呆然と立ち尽くしてしまった自分が、情けない。

「お気になさらず。と、いいますか、こんな大事な時期に入院なんて、わたくし、自分を恥じますわ。プロデューサーにも、ありすにも、迷惑をかけてしまって……」

「馬鹿なこと、言うもんじゃないです。今はゆっくり休んで、体を治してください」

「ですけど……」

 歯切れの悪い返事を聞いて、はたと私は気づきました。

 私たちは、二週間後のクリスマスに催されるライブイベントに、二人組のユニットとしての参加が決まっています。

 その日に向けて、私自身、練習を重ねてきました。

 桃華は言うまでもなく……というか、根を詰めすぎていましたから、こうなる前から、ずっと心配していたんです。

「顔が怖いですわよ。そんなので……ファンの前に立てますの」

 桃華が不安そうに表情を歪めたのに、私は足の震えを止めるのに精一杯でした。

 私の、ばか。

「その先は俺から話そう」

 桃華の視線が、震える私の足へと向く前に、プロデューサーが割り込んできました。

「ありすが来る前に、担当医師を交えて桃華と話した。残念だが、クリスマスイベントに桃華は不参加だ」

 プロデューサーの重い声が、私からも、桃華からも、反論の言葉を奪うみたいでした。

 かつて、桃華は、アイドルとは何か、という彼女なりの答えを教えてくれました。

 冬の日に、ひとりきりで歌い続けた桃華こそが、私をアイドルにしてくれたんです。

 おっかなびっくり、その背中を追い続けて、何とか走り抜けた日々だったんです。

 桃華のいない、ライブイベントなんて……私には。

「……それで、どうなるんですか」

 喉元まで出かかっていた言葉を、押し戻します。

 それを口にしたら、二度と桃華の隣には、立てないと思ったからです。

「代役を立てる」

「……誰なんです」

 プロデューサーが言うより早く、桃華のお腹にかかっていた布団が、不自然に動きました。

 布団が勝手にめくり上がり、イヌの着ぐるみを着た、小さな女の子が、姿を見せました。

 今の今まで寝ていたんでしょう、赤く腫らした目を眠たげにこすりながら、桃華の細い体をぎゅっと抱き締めました。

「桃華おねーさん、どこも痛くねーですか? 仁奈は心配でたまらねーでございます……。どこにも行きやがらないで欲しいですよ……」

 心がざわりと波立ちます。

「紹介する。市原仁奈だ」

 仁奈さんはひどく不安そうな目をしていました。

 私と目が合った瞬間、彼女は桃華の背中に回した手に力を込めます。

「桃華おねーさん……」

 苦笑した桃華が、仁奈さんの頭をなでましたが、その表情はこわばったままです。

「察しの通り、仁奈が、桃華の代役だ。ありす、頼むぞ」

 プロデューサーの声に、私はかろうじて頷きました。

 はっきり言います。

 私は……子どもが苦手です。

 自分も子どもなのに?

 だから、なのだと思います。

 昔の自分を思い出すから。

 自分がまだ子どもなんだって、思い知らされるから。

 ……ばかみたい。

 今朝、ニュースキャスターの女性が、例年にない大寒波の到来を告げていました。

「……だれですか。今年が暖冬だなんて言ったのは……へくちっ!」

 横殴りで降る雪が、斜めに傘を構えた私を嘲笑うみたいに、冷たく頬を叩きます。

 遠く聞こえる救急車のサイレンは、終末の世界に響く音色みたい。

 冬の過酷さが、クリスマスを間近に控えた時期の駅前からさえ、人を遠ざけています。

 きらびやかな電飾が、人のいない街角で美しくまたたいて、物悲しさをかえって強調するようです。

 事務所に辿り着いた私は、コートを脱いで、分厚い雪化粧を振り落とします。

 あたたかな事務所のロビーでは、狼の着ぐるみ姿の仁奈さんが、乃々さんの膝の上で漫画本を読んでいました。

 これからレッスンだってこと、分かってるんでしょうか。

 まあ、言いませんけど。

「おはようございます。乃々さんは、お久しぶりですね」

 漫画本に夢中の仁奈さんはうつむいたまま、乃々さんだけが顔を上げました。

「おととい撮影が終わって、昨日帰ってきましたけど……。これ、お土産です」

 どうもと頭を下げて、おせんべの小袋を受け取ります。

「これ、小梅さんの故郷の名物ですよね。ネットで話題になってましたよ」

 今年の夏に公開された、白坂小梅さんが主演で、乃々さんが助演を務めた怪談映画は、ホラー映画としては異例の大ヒットを飛ばしたそうです。

 といっても、ホラー要素を薄めた冒険ものといった趣の物語でしたが。

 ノスタルジックな雰囲気に惹かれた大人から、夏休み真っ只中だった子どもまで、多くの人の心をつかんだようです。

 かくいう私も、桃華と一緒に試写会へ招待されて、感動でほろりときたクチです。

「今度は冬の学校が舞台だそうですね。公開が待ち遠しいです」

 乃々さんが照れくさそうに目を逸らします。

「今回も、小梅ちゃん、熱演でした。特に……あ、ネタバレになるから言えませんけど……」

 そこでようやく、仁奈さんが私を見上げて、ぎこちなく微笑みました。

 目を合わせるのが気まずくて、私の視線は仁奈さんが手にした漫画本へと吸い込まれます。

「……『ドラえもん』ですか」

 私が仁奈さんと同じ年の頃は、枕元にドラえもんの単行本を積み上げて、ベッドで順番に読みふけったものです。

 今でもアニメを見ているのですが、子どもっぽいと言われてしまうのが嫌で、クラスの人たちが話をしていても、知らんぷりをしてきました。

「乃々おねーさんが、貸してくれやがりました。すげーおもしれーです。タヌキの気持ちになりてーですよ」

「ドラえもんは、ネズミに耳をかじられた可哀想なネコ型のロボットですけど……」

「そうなんでやがりますか? 今度、桃華おねーさんに教えて……」

 不意に途絶えた言葉の切れ端が、重苦しい沈黙を呼び込みました。

「桃華さんのこと、聞きましたけど……心配です」

 気落ちした乃々さんに感化されたみたいに、仁奈さんは漫画を閉じて、うなだれてしまいました。

 何度もまばたきをして、涙をこらえているように見えます。

 病院ではずいぶん親密そうに見えましたし、本当は、無愛想な私なんかじゃなく、桃華のそばにいたいと思っているでしょう。

「これから、お見舞い行きますけど……その……」

 慰めの言葉を探そうとして、乃々さんはたちまち、思考の迷宮に迷い込んだようです。

「……そうでごぜーます!」

 仁奈さんが、さも素晴らしいことを考えたというように、目を輝かせました。

 その純粋な笑顔とは裏腹に、私の心はどこまでも冷え切っていきます。

 仁奈さんが、何を言い出そうとしているか、分かってしまったからです。

「一緒に、桃華おねーさんのお見舞いに行くですよ! きっと喜びやがります!」

 ……ほら。

「これから、レッスンですから」

 胸の不快なざわめきが、想像していた以上に冷たい声を、私の口から吐かせました。

「……申し訳ありませんが。桃華によろしくお伝え下さい」

 乃々さんは寂しそうに頷くと、小さく手を振り、事務所を去っていきます。

 笑顔を消し、しゅんと肩を落とした仁奈さんの姿が、私の心に新たなさざなみを起こして、どうしようもなく嫌な気分になりました。

 こんな言い方しかできない自分が、一番に、嫌でした。

「では、行きましょうか」

 桃華の入院を告げられた時から、足元がなんだか、おぼつきません。

 地面はこんなに硬いのに、ふとした弾みでぐにゃりと歪んでしまいそう。

 どうしてこんなに……心が落ち着かないんでしょうか。

 だれか、教えてください。

 レッスン場に入った私と仁奈さんは、まず、今後の予定について伝えられました。

 学校がまだ冬休み前だということを考えれば、かなり過密なスケジュールです。

 にも関わらず、その話を、どこか他人事のように受け止めている自分がいました。

 私は、たくさんの言い訳を、知らずのうちに積み上げていたのだと思います。

 桃華が突然いなくなるなんて。

 こんな幼い子が代わりを務めるなんて。

 これだけしか時間が残されてないなんて。

 常識的に考えて無理でしょう、と。

 そんな開き直りめいた言い訳を抱えたまま、鏡張りの前に立った時、鏡の中では、ぽつんとひとり、呆然とした表情の橘ありすが、私を見つめていたんです。

 それが、二週間後のクリスマスに、ステージ上でファンのまなざしを受け止める私自身の姿なのだと気づいて、あまりの恐ろしさに足がすくみました。

 私はいったい、誰に、どんな言い訳をするつもりだったのでしょう。

 必死に考えた論理の城壁が、実は、自分を慰めるだけのはりぼてに過ぎないと気づいた時、私はいきなり寒空の下に放り出されたような孤独を感じました。

 孤独。

 その言葉は、雪降る街の片隅で歌い続ける、桃華の姿を思い出させました。

 ここにいない桃華の、道しるべのような輝きを。

 すがるように隣を見た時、そこにあるのが、自信に満ちた桃華の横顔でなく、不安に揺れる仁奈さんの瞳だという当然の事実が、出口の見えない暗闇に私を突き落とすようでした。

 今までこんなに、桃華を頼って生きてきただなんて。

 知らなかった。

 失ってから、気づくものなんですね。

 音楽が止まった瞬間、足がもつれて、転倒しました。

「橘さん!」

 トレーナーさんが慌てて駆け寄ってきて、私を助け起こします。

「すみません、ふらっときまして」

 レッスン場の壁に背中を預けて、肩で息をしました。

 明日とんでもない筋肉痛に襲われるのが分かるぐらい、全身が疲れきっています。

「少し、飛ばしすぎだ。やけになってるように見える」

 返答をしないまま、トレーナーさん越しに仁奈さんを見ると、あの子はなんだか、怪物でも見るような目で私のことをじっと見つめていました。

 私の空回りが、そんなにおかしいんでしょうか。

「今日はこれで終わりだが、明日からは力の入れ方を考えることだ。感情とは、撒き散らすのではなく込めるものだ。力任せに踊ることが良い結果を生むとは思えない」

 かちんときたのは、それが図星だったからでしょう。

「きみまで倒れたら、櫻井さんは悲しむだろう」

 ずるい言い方。

 ですが、私はまんまと口をつぐみます。

 深呼吸をひとつ、しました。 

「マジックを貸してもらえますか」

「……は?」

「できれば、油性のものを」

 訝しげな顔をしながらも、トレーナーさんは言う通りにしてくれました。

 手渡されたマジックの蓋を、口にくわえて引き抜いて。

 左の手の平に、横線を一本、刻みつけました。

「……何のつもりだ?」

「私が好きな漫画に、無人島へ家出した子が、家に帰る手段を失ってしまう話がありました」

 トレーナーさんはいよいよ理解不能だというように眉をひそめました。

「その子は結局、十年間、無人島での生活を余儀なくされました。その間、彼はおそらく、石かなにかで、木の幹に傷をつけて、今日が何日目なのかを数えていたはずです。今日を耐えれば、明日こそは助けが来るのだと信じて」

「そのようにして、ライブまでの日数を刻むというわけか。だが、今回の場合、きみを救うのはあくまできみ自身だろう。まぁ、あまり思い詰めるのもどうかとは思うがね……」

「別に、ただのおまじないですよ」

 私は左手をきつく閉じ、微笑んでみせました。

「ひとは本来、孤独なものです。ただ、そのことを寂しいと思うかどうかというだけで。孤独の中で自身を輝かせるすべを、桃華は私に教えてくれました」

 レッスン場を出ると、ロビーにいたプロデューサーが、私たちに手を挙げました。

「迎えに来てくれやがりましたか!」

 仁奈さんが嬉しそうに駆け出し、彼の腰に抱きつきます。

「お疲れ様。遅くまで頑張ったな」

 彼女を抱き上げ、頭をなでるプロデューサーが、立ち尽くす私に目を向けます。

「ありすもお疲れ。家まで送るよ」

「お気持ちはありがたいですが、今はひとりになりたい気分です」

「ならせめて、駅までだ。いいだろう?」

 その譲歩を呑んで、私は車の助手席に乗り込みました。

 窓ガラス越しに、ぼんやりと、雪降る冬の街並みを眺めます。

 強がったつもりは、ないです。

 寂しくなんて、ありません。

 ただ、不安なんです。

 あの話のオチですが、無人島に取り残されたのび太は、十年後、ひょんなことからドラえもんに救助されます。

 そして、タイムマシンで家出をする夜に戻り、タイムふろしきで子どもの姿に戻るんです。

 のび太は家出をしなかったことになり、めでたしめでたし、というわけです。

 ですが、少し考えてみてください。

 タイムマシンでのび太が戻ってきた十年前の夜、その世界には、今まさに無人島へ向かうのび太も同時に存在していたんです。

 つまり、無人島でのび太が助けを求めている十年間、のび太の家では、何事もなかったかのように家族の営みが続いていたことになります。

 無人島でひとり過ごしたのび太の、十年にも及ぶ、声と、祈りは、誰にも届くはずがなかったということです。

 ひとりなのは構いません。

 努力もします。

 不安なのも、耐えましょう。

 ですが、その先が報われない結末だった時、私はアイドルでいられるでしょうか。

 報われるかどうかも分からないまま、ひとり歌い続けた桃華のように、心を折らずにいられるでしょうか。

 私は手袋を外した手を、口元に寄せ、あたたかな息を吹き込むふりをして、手の平に書かれた線を見ました。

 漫画の中で明確な描写こそありませんでしたが、のび太はぜったい、こんな風に日にちを数えていたと思います。

 物事が良い方向に向かっていると思わなければ、心はすぐにだめになってしまうから。

 明日まで頑張ればドラえもんが来てくれる、と思いながら日々を過ごしたことでしょう。

「着いたぞ、ありす。本当にここでいいのか?」

 見ると、私たちを乗せた車は駅前のロータリーに到着していました。

「はい、ありがとうございました。プロデューサーも、仁奈さんも、おやすみなさい」

 外に出ると、コートを貫いて、冷たい風が体の心まで凍りつかせるようです。

「……頑張らないと」

 昨日の私に誇れるような、私へと。

 その繰り返しが、二週間後の私を救うと信じて。

 手の平の線が、一つ目の『正』の字を描いた日の翌日でした。

 きっかけは、いくつかあったと思います。

 本番の日から逆算して組まれたスケジュールですが、進捗は思わしくありませんでした。

 ダンスの息も合わず、トレーナーさんの眉間のしわは深くなるばかり。

 仁奈さんが相変わらず、着ぐるみ姿でレッスンに参加し続けていたこともあるでしょう。

「もう少し、真面目にやってもらえませんか」

 休憩時間、ロビーでドラえもんを読んでいた仁奈さんに、私はそう告げたのです。

 吐き出してしまったそばから、大人気ない言葉だったと後悔しました。

 仁奈さんはおおきく目を見開いて、その手から単行本が滑り落ちました。

 自分が着るクマの着ぐるみの肩を抱いて、暗い顔でうつむいてしまいます。

 言い返してくれればいいのに、と身勝手な思いが胸を突き上げます。

 遅れて、罪悪感の棘が、ちくちくと心に刺されます。

「先に、戻ってます」

 ソファーから立ち上がり、仁奈さんに背を向けた時、鼻をすすり上げる音を聞きました。

「……パパに、会いてーです」

 ホームシック、というやつでしょうか。

「桃華おねーさんに、会いたいですよ……」

 私にはそれが、ここにいたくない、という叫びに聞こえてなりませんでした。

 あの、嫌な感じのざわめきが、心を乱していきます。

 仁奈さんの言葉を聞き流すよう努めて、歩き出そうとした時でした。

「……桃華おねーさんと、一緒が、良かったですよ……」

 考えるより先に振り向いた私は、気がつけば、仁奈さんをじっと見つめていました。

 その間ずっと、自分の存在を否定されたような感覚が、真冬の街よりも冷たく、私の心を凍てつかせていきます。

「……ひ……っ」

 こちらを見返す仁奈さんが、怯えたように身を引きます。

 ……ねぇ、桃華。

 今の私は、どんな顔をしていますか。

 教えてください。

「何をしている!」

 現れたトレーナーさんが、呆然と立つ私と、すすり泣く仁奈さんを見比べました。

 彼女は仁奈さんのそばに屈み込み、優しく声をかけています。

 夢から覚めたような心地で、二人に近づこうとした私は、手で制されてしまいます。

「今日のレッスンは終わりだ。帰りたまえ。少し、頭を冷やすといい」

 今度は、比喩でなく本当に、寒空の下に放り出されてしまいました。

 小粒の雪が降り続くなか、駅への道を歩く私は、途方に暮れていました。

 左の手の平の血管が、そこに書いた正の字ごとうずくみたいに、脈打ちます。

 アイドルになってから、もうすぐ一年になりますが、私は子どものままです。

 桃華の代わりなんて、そもそも、無理だったのかもしれません。

 無様な姿を見せて、ファンの方々を失望させてしまうぐらいなら、いっそ……。

 駅前に出ると、色鮮やかなイルミネーションが目を焼くようです。

 自己を主張するみたいに、七色に輝く電飾のそばを歩きながら、私はまた桃華のことを思い出しています。

 駅前広場の片隅で、あんなにも輝きながら、誰からも目を背けられていた桃華を。

 どうして誰も、その輝きに気づいてあげられないのかと、涙を流した夜もありました。

 私は足を止め、吐く息の行き先を追うように、灰色の空を見上げます。

「……そう、でした」

 あの日からずっと、私は、桃華に報いたかったのだと思います。

 桃華と肩を並べるはずだったクリスマスイベントを成功させることこそ、彼女の輝きに魅せられた私にできる、ただひとつの恩返しに他ならないでしょう。

 私はコンビニに寄ってマジックを買い、ついでにダンボールを少しだけ分けてもらいました。

 駅前広場に行くと、たくさんの人たちが行き交っていました。

 あの時、桃華は何を考えていたのでしょう。

 辛くはなかったのでしょうか。

 戸惑いはなかったのでしょうか。

 報われない結末を考えなかったのでしょうか。

 私はダンボールに、マジックで大きく『橘ありす』と書くと、植え込みに立てかけ、鞄を重しとしました。

 即席の看板の隣に立つと、物珍しさから、何人かが無遠慮な視線を送ってきます。

 ……もっと、桃華のことが、知りたい。

 私をアイドルにしてくれたあの輝きに、近づける気がするから。

 マイクもなしに歌う私の前を、数えきれないほどの人が通り過ぎていきました。

 今だから分かります。

 自宅、職場、恋人の家、レストラン……確かな行き先を持つ人々の足を、歌声ひとつで止めるのは、容易なことではありません。

 私を無視して歩き去っていく数々の足が、お前なんてこの世界に要らない人間なんだって、無言のうちに告げてくるみたい。

 心を冷え込ませるのは、厳しい冬の寒さより、私に対する圧倒的な無関心でした。

 私がこんなに声を張り上げているのに。

 足を止めて振り返ってくれる人はいません。

 私の声は、誰かに届いているんでしょうか。

 そもそも、本当に声なんて出ているんでしょうか。

 いつの間にか、私は声を失ってしまっているんじゃないかって。

 馬鹿げた妄想を抱いてしまうほどです。

 私は、正の字が描かれた左手を差し出し、歌います。

 どうか。

 どうか、届いて。

 ……ですけど、そんな都合の良いことがあるわけないです。

 巨大な人の流れを前に、私の存在なんてちっぽけな砂粒みたいなもので。

 今の私にできることなんて、たかが知れているんです。

 一曲を歌い終えて、大きく息を吐き出します。

 立ち昇る白いそれが、空気に溶けるのを見ながら、桃華も感じていたであろう孤独を、存分に味わっていました。

 トレーナーさんにも言いましたが、孤独と寂しさは、別物だと思います。

 寂しさは痛いですが、孤独は、痛くない。

 孤独というのは、自分がひとりなのだという、単なる現状認識です。

 人がひとりなのは、あたりまえです。

 何を気に病むことがあるでしょうか。

 私は深呼吸をして、次の曲を歌おうとして。

 雑踏の中に、プロデューサーと、彼と手を繋ぐ仁奈さんの姿を見つけます。

 楽しげに談笑しながら駅の構内へと向かう二人を。

 切実に思いました。

 こっちを見ないで。

 どうか気づかないで。

 彼らの視線が、私をひどくみじめな存在にする気がしたから。

 ですけど、神様は意地悪なものですね。

 プロデューサーが、何気なくこちらを向いて、視線が合いました。

 そして……彼はふいと視線を逸らしたんです。

 その瞬間、私はきっと、相当にまぬけな顔をしていたと思います。

 少し遅れて、心臓を踏み潰すみたいな痛みが、やってきました。

 その場に立っていられなくなるほどの、痛みです。

 私は唇を噛み、左手を強く握り締めて、耐えました。

 それからの時間は、なんだか記憶があいまいです。

 ぼんやりとした頭を置き去りに、体だけが義務感で動いていたみたい。

 気がつけば、私はまた一曲を歌い終えていて。

 ぱちぱち、という小さな拍車が、私を我に返します。

 プロデューサーが、ただひとり、最前列で私を見つめていました。

 安心のあまり、腰が抜けそうになりました。

 瞳の奥がじわりと熱を持ちました。

 ……桃華も、こんな気持ちだったんでしょうか。

 私の声は、ちゃんと届いていたんだって。

 あの人だけは、私がここにいることを認めてくれたんだって。

 あの日の私を見ながら、桃華も、そう思っていたんでしょうか。

「……立派だったよ。桃華のこと、思い出した」

 プロデューサーの車の助手席で、私はあたたかなココアを飲んでいます。

 サイドミラーにぼんやりとうつる私の目は赤く、鼻をこすると、ぐしゅっと音がしました。

「他の女の子の話なんて、しないでください」

 肩をすくめたプロデューサーが、身を乗り出し、私の目を覗き込んできます。

「……そうだな、悪かった。綺麗だったよ、ありす。歌、うまくなったな」

 プロデューサーにされたみたいに、ぷいと顔を背けます。

「仁奈さんと一緒じゃ、なかったんですか」

「ご両親が駅まで迎えに来てくれて、そこまで送ったんだ。もう機嫌を直したから、安心していい」

 こういう言い回しをするのは、私の口から話を聞きたいからでしょう。

 責めも、怒りも、しないんですね。

 毎度ながら……ずるい人です。

「仁奈さんには、私から謝ります。馬鹿なことをしました」

 途端にプロデューサーが笑みを浮かべたものですから、すべてが彼の手の内って感じで、なんだか腹が立ちます。

「ですが、私はあの子が苦手です。おかしな格好でレッスンに来ますし……向こうも、私のことが気に食わないみたいです」

「ありすのバリアは分厚いからな。自分から外してやらないと、誰も近寄れない」

「バリア? なに、幼稚なこと言ってるんです。学校の子たちと同レベルじゃないですか」

 プロデューサーが微笑みを濃くして、私の頭をなでようとしたので、セクハラですと払い飛ばしてやりました。

「別に全面的に受け入れてやれとは言わないさ。だが、仁奈のことを知る努力をしてやれよ。素直な子だから、向けた感情を倍ぐらいにして返してくれる」

「優しくするべきだと?」

「ありすは他人に対して厳しすぎる。自分に対してもな」

「別にそんな自覚はありませんが」

「騙されたと思ってやってみろ。そのうち意味が分かる。断言するが、ありすの抱える問題はそれだけですべて解決するよ」

「だといいですね」

 ぶすっと膨れて、私はココアを飲み干しました。

 コンビニの袋からマジックを取り出して、左手に六本目の線を付け加えます。

 その線と、プロデューサーの横顔とを見比べて、私はひそかに微笑みました。

「先日は、本当にすみませんでした」

 事務所のロビーで、私は深々と頭を下げました。

「……仁奈はもう気にしてねーですよ。頭を上げやがります」

 言われてそうすると、表情に硬さこそ見えましたが、微笑んでくれていました。

「いえ、これではまだ、私の気が済みません。何か飲みますか。私のおごりです」

 自動販売機の前まで連れて行き、お金を入れました。

 伸ばした手がボタンに届かなそうだったので、持ち上げてあげようかと悩み、結局は代わりに押してあげました。

 ソファーに隣り合わせに座り、揃って缶のお汁粉を飲みながら、私たちの間に会話はありません。

 なんだか、白々しい空気が流れているように感じるのは、私が自分の意思でなく、プロデューサーに言われてこうしているという負い目があるからでしょうか。

 桃華も、乃々さんも、よくあんな自然体で、この子と話せるものです。

 優しくしてあげろとプロデューサーは言いますが、具体的にどうすればいいのやら。

 その上、手の平を見ると、クリスマスイベントのことで頭がいっぱいになる始末です。

 それでも、私なりに、仁奈さんが喜んでくれる方法について頭をひねりました。

 話をする時は、ちゃんと目を見て、なるだけ強くない言葉を使うようにしました。

 学校での話とか、好きなものの話とか、話題を用意して頑張って声をかけました。

 成果は……どうでしょうね。

 私自身、慣れないことに必死ですので、恥ずかしい話ですが、仁奈さんの反応をじっくり観察している余裕なんてないわけです。

 ただ、心を開いてくれていないのは確かだと思います。

 話しかけると、返答はしてくれますが、それは表面的なものなのです。

 ただ、相づちを打っているだけというか……深いところまでは踏み込ませてくれません。

 これがプロデューサーの言う『バリア』なのだと、気づかされる思いでした。

 どうしてこんなことをしているのか、という質問に対して、今の私は、義務感以上の答えを持ち合わせていないのだと思います。

 そのことを、仁奈さんも敏感に感じ取っているのでしょう。

 天気予報は毎日、厳冬だと騒ぎ立て、気温の欄には冗談みたいな数字が並んでいました。

 手の平に描かれた正の字は、いよいよ今日で二つ目が完成してしまいます。

 この日、レッスンで汗を流し終えた私たちの前に、プロデューサーが現れました。

「ありす、悪いが仁奈を家まで送ってやってくれないか」

 プロデューサーはこの後も仕事の予定があるということでしたので、了承しました。

 本当はまだ少し、居残りで確認したい動きがあったのですが、仕方ありません。

 完全防寒の態勢を整えて、事務所の外に出ました。

 ためらいがちに手を差し出すと、仁奈さんはおずおずと握ってくれました。

 少し、お姉さんになった気分です。

 この程度のことさえ、前ではありえなかったわけですから、これは一応、進展と呼んでいいのでしょう。

 ですが、雪に足跡を付けながら駅へと向かう間、私たちはずっと無言でした。

 電車に揺られ、仁奈さんの家の最寄り駅に着いてもそれは変わりません。

 ただ、これでいいのかもしれない、とも思うようになりました。

 いがみ合い、喧嘩が絶えないような関係ともなれば、さすがにレッスンにも悪影響を及ぼすでしょうし、最悪、ライブを台無しにしてしまうかもしれません。

 ですが、今のように、波風が立たない程度の関係さえつくれたのであれば、これ以上を望む必要はないように思います。

 駅前のロータリーでバスに乗り、似たような印象の一軒家が建ち並ぶ住宅街で、私たちは降車しました。

 少し歩いた先、立派な庭付きの、ぴかぴかでお洒落な家のチャイムを、仁奈さんは鳴らします。

 玄関が開いて、エプロン姿の、上品そうな顔をした女性が出てきます。

「ママ!」

 小さな手の熱が私から離れて、仁奈さんは母親に飛びついていました。

 穏やかに微笑みながら、優しく頭をなでる彼女のことを見ていると、その視線がこちらに向きました。

「仁奈を送ってくださったんですね。ありがとうございます。たいしたもてなしもできませんが、あたたかい紅茶でもいかがでしょうか」

「いえ、なにもたいしたことは……その、おきづかいなく」

 本当に、これでいいんでしょうか。

 そんな思いが、頭をもたげました。

 仁奈さんのことを知る努力をしろ、とプロデューサーは言いました。

 彼女が深いところまで踏み込ませてくれないのは、深くまで踏み込む努力を、私が怠ってきたからではないでしょうか。

 沈んだ深さと同じ分だけ、深く傷ついてしまうことを恐れて、他人に近づくことも、近づかれることも、私は拒絶してきたような気がします。

 逃げてばかりの自分を変えたいと、思うから。

 プロデューサーを信じたいと、思うから。

 怯える弱い自分を握り潰すみたいに、左手をぎゅっと握って。

「……いえ。では、お言葉に甘えて、お邪魔させていただきます」

 リビングに通された私は、ソファーに座るよう、促されました。

 仁奈さんは自室に引っ込んでしまったみたいで、ここにはいません。

 私は背筋をぴんと立て、落ち着きなく部屋を見渡してしまいます。

 広くて、綺麗で、掃除が行き届いた部屋、というのが第一印象でした。

 失礼な話ですが、例えばその、仁奈さんが家で嫌な思いをしているとか、居場所がないとか、そういう類の勘ぐりは捨ててしまっていいでしょう。

 こういう言い方はむずがゆいですが……愛されて育った子なんだな、と思います。

「お待たせしました」

 高そうな食器が、高そうなお盆に載って運ばれてきました。

 緊張で押し黙る私に代わって、お母様が紅茶を淹れてくれます。

 カップを持つ手が小刻みに震えそうになり、あまりに恥ずかしいので元の位置に戻してしまいます。

「仁奈のお友達? ふふ、すごく可愛いわ」

「すみません、自己紹介が遅れまして。橘ありすといいます。来週のクリスマス、仁奈さんと一緒に、ライブイベントに出演させていただくことになっていまして……」

「知ってるわ。ぜんぶね。プロデューサーさんに、チケットをいただいてるもの」

 目の前にいるこの人も、私たちの姿を見に来るのだという事実が、緊張に形を変えて私の体を締めつけるようです。

「見ての通りの子だから……あなたにもご迷惑をかけてしまっているでしょう?」

「いえ……そんなことは。むしろ逆です。私の方が、いつも不甲斐なくて」

 何もかも見透かすような目をして、お母様が微笑みます。

「仁奈はね、昔からお父さん子なの。だからね、父親が長期出張に行ってしまうと聞いた時、ひどく泣いたわ。今も納得してなくて、心に空いたおっきい穴なの。私じゃ埋めてあげられないみたい」

 その話を聞いた瞬間、広々としたこの部屋が、なんだか仁奈さんの孤独の象徴のように思えてしまいました。

「アイドルを通じて出会った、たくさんの素敵な人たちに、仁奈は支えられてるわ。孤独が消えてなくなることはないでしょうけれど、それを意識する瞬間は確実に減ってるはずよ」

「そう、だったんですか……」

 訪れた後悔が、私をうつむかせます。

「あの子は毎日、着ぐるみを着てくるでしょう? ごめんなさいね。ずいぶんと戸惑ったんじゃないかしら」

「いえ……その、はい。すみません」

「『ネコの気持ちになるですよ!』」

 いきなりお母様が叫んだものだから、ひっくり返りそうになります。

「そんなようなこと、言ってるでしょう?」

「ええ……まあ。それより、驚かせないでください」

 ごめんなさいね、と照れ顔で謝られます。

「あれはね、あの子なりの、寂しさを紛らわせる方法なの。……知ってるかしら? ネコは、自分の子どもへの愛情が、ひといちばい強いそうよ」

 お母様が立ち上がり、ちらりと時計を見上げました。

 彼女が悪戯っぽく笑いながら、手招きをしてきたので、後に続きます。

「仁奈はいつも、大好きな動物になりきるの。そうしてね、その子のきもちになるの。『ごっこ』なんだけどね、それだけで寂しさが消えちゃうみたい。でも、アイドルだってそうでしょう? ひとりの女の子が、本気で『アイドル』という名のごっこをして、それが、本人や、その子を見る多くの人たちを救うことになるの」

 になのへや、というプレートの掛かったドアを、お母様がそっと開きます。

 ベッドの上で、仁奈さんが着替えを抱えて、寝息を立てていました。

 お風呂に入ろうとして、疲れて寝てしまったんでしょう。

 お母様はベッドのそばで腰を落とし、仁奈さんの頬に優しく触れます。

「私は仁奈に救われているわ。あの子は私の宝物。ごっこ遊びが大好きなこの子が、いつか、アイドルとして、自分以外の大勢の人をも笑顔にする日を、待ってるわ」

 あれから、レッスンの合間を縫って、片親の元で暮らす子どもについての本を、図書館で少しずつ読むようになりました。

 義務感でなく、仁奈さんことを、もっと理解したいと思えたんです。

「今日の着ぐるみ、素敵ですね」

「ありすおねーさんもそう思うでごぜーますか?」

「はい。ウサギは、私も大好きなんです」

 休憩時間、仁奈さんが、嬉しそうに飛び跳ね、着ぐるみを見せつけてきます。

「昨日、ネットで見たんですけど、ペンギンのぬいぐるみなんてどうでしょう。全体的に膨らんでる感じの、可愛いデザインで、仁奈さんに似合いそうでした」

「ふふ、ペンギンはもう持ってやがります! 知ってますか? ペンギンは翼があるのに飛べねーですよ。でも本当は恥ずかしくて飛ぶ姿を見せねーだけだと思います!」

 本番までの時間が迫る中、こうして仁奈さんと言葉を交わすことに、意味があると、今の私なら思えます。

 ですが、無邪気に笑う仁奈さんを見ていると、彼女がひとりのアイドルである以前に、孤独を抱えた九歳の女の子だということを思い出すんです。

「ペンギンの気持ちになりてー気分です。明日着てくるです……ぁ」

 ふらついた仁奈さんの体を、慌てて抱き止めます。

「足が変になりやがりました……不覚でごぜーます」

「ずっと、レッスン浸けですから。疲れてるんじゃないですか?」

「そんなことはねーですよ。ウサギのきもちになればほら、元気まんてんです!」

「桃華、お久しぶりです。体の調子はどうですか」

 病室の桃華は、以前見た時より少し痩せて、ですが、儚げな美しさだけはむしろ冴え渡るようです。

「お陰さまですこぶる良いですわ。来週にも退院できますの。クリスマスイベントも行きますわよ。舞台の上でなくて、客席の側ですけどね」

 その時の、寂しさと悔しさが入り混じったような表情を、私は見逃しません。

「……光栄です」

「なんですの、そのかしこまった言い方は。おかしなものでも食べたんじゃなくて?」

「私は大丈夫です。ちゃんと、最高のステージにしますから。桃華の顔に泥を塗ることはしませんよ」

「……ありす、本当におかしいですわよ。気負いすぎではなくて?」

「かもしれません」

 桃華が、はぁっと重い溜め息を吐きました。

「あっさり肯定してしまうあたり、重症ですわ」

 私は、左手に描いた二つの正の字を、指でさすります。

「……それ、なんですの?」

「お迎えが来る日、でしょうか」

 その日までに、私は、私を救うに値するだけの努力を重ねなくてはなりません。

「縁起でもない。さっきから、ありすの言っていることは滅茶苦茶ですわ」

 いよいよお手上げだという感じで、桃華は天を仰いでしまいます。

 それでも無言を貫く私を見て、追求を諦めたようでした。

「あの子とは上手くやれてますの?」

「仁奈さんには、大変な迷惑をかけてしまいました」

「……なにかありましたの?」

「今回のライブイベントは、私と桃華が出るはずだったという事実を、あらためて見つめ直しただけです」

 信じがたい言葉を聞いたというように、桃華が目を険しくします。

「仁奈がいるべきではないと言いますの?」

 首を横に振りました。

「これ以上の責任を、仁奈さんに負わせるべきではないと、思っています」

「ありす、あなた、ひとりで全て背負う気ですの?」

「……イベントは必ず、成功させます。桃華は安心していてください」

 一方的にそう告げて、立ち去ろうとした時、ベッドの膨らみが、もぞ、と動きました。

 目を見開いた私の前で、布団が払いのけられて、あの日の再現であるように、仁奈さんが顔を出しました。

 ひどく悲しそうな目をして、私を見上げてきました。

 もしかすると私は、残酷なことをしているのかもしれません。

 仁奈さんを責任から遠ざけることは、彼女を孤独に追いやることかもしれない。

 ですが……決めたことです。

「桃華も、人が悪いです」

 非難するように言うと、桃華は肩をすくめて、仁奈さんの頭をなでます。

「熟睡してると思ってましたわ」

 沈黙と、仁奈さんの視線に耐えきれず、私は逃げるように病室を後にしました。

 力の入れ方を考えろ、とトレーナーさんに叱責されたことを思い出します。

 その言葉の意味を、ようやく、理屈でなく、感覚として、理解できたと思います。

 今、私の頭の中には、責任感であったり、緊張感であったり、桃華や仁奈さん、プロデューサーさんへの思いだったりが、煮えたぎったシチューみたいにどろどろになって溶け合っています。

 たくさんの感情が生んだその熱は、全身の隅々まで行き渡り、確かな原動力となって、私の手足を動かしています。

 一晩中踊り続けていたって大丈夫だと思えるほどの熱を持て余しながらも、私の頭は、今日までのどんな日よりも冷静で、冷えきっていました。

 音楽が止まり、踊りを止めた私の額から、一筋の汗がつうと頬まで伝いました。

「……すごいな」

 トレーナーさんが神妙な顔をして、腕組みをしていました。

「なにか心境の変化でも?」

「自分が何をするべきか、ようやく分かった気がします」

「というと?」

「ライブイベントの、成功を」

「大前提じゃないのか、それは。しっかりしてくれよ」

 私は微笑みをその答えとし、隣にいる仁奈さんのそばに屈み込みます。

「仁奈さんは、何も不安に思うことはないです。私に任せてください」

「……ありすおねーさん……」

 あの時と同じ、寂しげな目をした仁奈さんの頭をなでて、私は立ち上がります。

 今回のイベントは、本来、私と桃華が立つべきものでした。

 桃華が倒れた以上、残された私が、ひとりで全ての責任を負うべきだと、思います。

 私はひとりですが、寂しくはありません。

 孤独と寂しさは、違うものですから。

 ファンのために。

 プロデューサーのために。

 仁奈さんのために。

 桃華のために。

 そして、私自身のために。

 ライブイベントを成功させたい。

 そう願った時、私は初めて、ままならない思いに振り回され続けた自分自身を、完全に制することができたんです。

 ライブイベント当日、私たちは、駅に程近いライブハウスの控え室にいました。

 化粧をしてもらい、お揃いの衣装を着て、順番を待っています。

 左手に描いた、二つの正の字と、四本の線を、私はじっと見つめています。

 その一本、一本が、現在の私を形作っていると思うと、感慨深いというか……少しは緊張がほぐれます。

 ただ、そうしていると、私の意識は、目前まで来た本番でなく、過ぎ去った十四日間の方に沈み込んでいきます。

 ノックの音で我に返ります。

 扉の前には、出番を告げに来たスタッフさん……そして、桃華と、プロデューサーまでもがいました。

「最後の激励に参りましたわ」

 いち早く駆け寄っていった仁奈さんが、二人に、順に抱きついていきます。

「仁奈さん、あなたなら絶対にできますわ。存分に楽しんできてくださいまし」

 桃華に背中を叩かれ、仁奈さんが控え室の外に出て行きます。

「……ありす。あなたには、迷惑をかけてしまいましたわね」

「桃華が一番、辛かったはずです。私なんて、なんでもありません」

 苦笑した桃華が「すごく綺麗ですわ」と微笑んでくれました。

「左手を出してくれます?」

 言われた通りにすると、桃華はバッグの中から、ハンカチと除光液を取り出します。

「何のつもりですか」

「『タイムふろしき』ですわ」

「……ついにおかしくなりましたか」

「やかましいですわ」

 むすっとした桃華が、除光液を垂らしたハンカチで、私の手の平を拭います。

「タイムふろしきに包まれたのび太は、十年前の自分の姿に戻りましたわ」

 私は頷きます。

「ですけど、十年間、無人島でひとり耐え続けた記憶までは、消えませんでしたわ。あの家出から、のび太はたくさんのことを学びました。家出がなかったことにされても、そのすべてが無意味になったわけではなくてよ。……ほら、綺麗になりましたわ」

 見れば、私の手の平からはもう、十四日間の戦いの痕跡が消え去っています。

 ですが、形がなくなってしまっても、それらはすべて、私の中に確かな記憶として残されていました。

「……ありがとうございます、桃華」

 ドラえもんが迎えに来てくれた時、のび太も、こんな気持ちだったのかもしれません。

 渦巻く歓声と、光の奔流の中に、私たちは飛び出していきました。

 そして流れ出すメロディを、いったい、レッスンで何度繰り返し聞いたことでしょう。

 定位置に着いた私は、歌い出すまでのわずかな時間に、ステージを眺め見ます。

 数えきれないほどの視線に射抜かれていることを自覚しました。

 息を吸い、マイクに口を近づけて、歌い出した瞬間、歓声が爆発しました。

 薄い膜のように全身を包んでいた緊張感が、残らず引き裂かれるみたい。

 この声が、届く。

 あなたの耳に、触れていく。

 それだけのことが、どれだけ、幸せなことか。

 周囲に流れる一秒、一秒に、この十四日間で手にしたすべてを乗せるみたいに、私は歌い、踊ります。

 私の名を呼ぶ声が、あちこちで、聞こえます。

 私がここにいることを、私がアイドルでい続けることを、肯定してくれる、大切な人たちが、そこにはいるんです。

 アイドルと呼ばれるものに、私はなれているでしょうか。

 この歌は、この踊りは、この笑顔は、誰かを救えているでしょうか。

 少なくとも、私は救われています。

 あの日、桃華に出会い、あの輝きに触れることがなければ、私はひねくれた子どものままで。

 こんな気持ちを知ることもなく、日々を過ごしていたでしょう。

 最前線まで歩み出し、手を差し伸べます。

 隣には仁奈さんがいて、同じように手を差し伸べていました。

 幸福な時間が、流れました。

 時間とは不思議なもので、時としてぐにゃぐにゃと歪んで一秒を永遠にし、時として儚く縮んで数分を一瞬にしてしまいます。

 気ままな、時の流れというものに翻弄されながら、私は全身の熱を、あるいは歌に乗せ、あるいは踊りに乗せていきます。

 そうして迎えた最後の曲は、誰もが知るクリスマスソングです。

 私たちはいちど舞台袖へと引っ込み、新たな衣装を羽織ります。

 再び舞台へ戻ろうとした瞬間、体が、がくんと右に傾きました。

 耐えきれず、床に右膝を突いた私の、ふくらはぎが、痙攣を始めていました。

 悪寒が、一瞬にして、全身の熱を奪い去ります。

「……嘘です。こんな……」

 慌てて触れた足は、私を拒絶するみたいに、言うことを聞きません。

 異変に気づいたプロデューサーと、トレーナーさんが、駆け寄ってきます。

 手でそれを制して、大丈夫ですと首を振ります。

「お願い……動いて。あともう少し、なんです」

 ですが、現実は私の祈りを嘲笑うよう。

「私は……私が……このステージを、成功させないと……」

 両手で右足をつかみ、必死に震えを止めようとします。

「なんの意味も、ないんです……!」

 絞り出すように叫んだ、私の。

 目の前の床に、人の影が、伸びて。

「そうじゃねーですよ」

 気づけば、仁奈さんに見下ろされていました。

 彼女は優しく言い聞かせるように、ゆっくりと首を振り。

 静かに目を閉じます。

「ありすおねーさんの気持ちになるですよ」

 ささやくように、そう言って。

 自らの胸に手を当てます。

「すげーあったかい気持ちです……」

 仁奈さんが、子どもっぽい笑みを浮かべます。

「ありすおねーさんは、最近ずっと、遅くまでひとり練習をしてやがりました……。仁奈が辛くねーように、仁奈の分まで頑張ろうとしやがったんですね」

 呆然とする私を、仁奈さんが抱き締めて。

「仁奈はもう、ひとりじゃねーのです。だから、ありすおねーさんもひとりじゃねーですよ」

 人は本来、ひとりきりの存在で。

 それが当然だと、そう割り切ってきた私を。

 救い出そうとするみたいに。

「仁奈のことを、頼りやがってくだせー」

 ……そう、言うんです。

 仁奈さんの笑顔が、じわりと、滲みます。

「……前がよく、見えません」

「何も問題ねーですよ」

 そっと差し伸べられた手に、引き起こされて。

「歩けやがりますか?」

「一曲ぐらいなら、耐えてみせます」

「では、仁奈が手を引きます。このまま一緒に、出発です!」

 握られた手が、こんなにも頼もしいなんて。

 そんな風に思える日が、来るなんて。

 思いもしませんでした。

 舞台袖を出ると、歓声が私たちを出迎えます。

 流れた涙が、視界をきらきらと輝かせています。

 私はもう、寂しくも、ひとりでも、ありません。

 ひときわ大きくなった歓声に応えるみたいに、前奏が流れ始めます。

 互いの心の温度を確かめるみたいに、私たちは、一瞬だけ見つめ合って。

 手を繋いだまま。

 二人一緒に。

 クリスマスソングを、聖夜に響かせました。

以上となります。
ありがとうございました。

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