佐久間まゆ「いつもあの子がそばにいる」 (30)

「あ、あの子……まゆさんのこと、好き、って……」

 佐久間まゆが白坂小梅にそう告白されたのは、事務所に帰る途中の車内でのことだ。
 恥ずかしがり屋のプロデューサーが助手席に乗せてくれなかったので、まゆは小梅と一緒に後部座席に座っていた。
 運転する後姿も卒倒しそうなほど素敵なプロデューサーにうっとりしていたら、小梅にちょいちょいと袖を引かれて囁くように告白されたのである。

「……えっと」

 どう返したものか、まゆは困ってしまう。
 何かを期待するようにこちらを見ている白坂小梅は、同じ事務所のアイドル仲間だ。長い前髪で顔の右半分が隠れている可愛らしい女の子で、小柄で痩せっぽちな体と色白な肌から、少々虚弱にも見える。
 しかしそんな外見に反して趣味はホラー映画鑑賞であり、特に血やら臓物やら脳みそやらが盛大に飛び出るスプラッタな類のものを大層好んでいたりする。
 事務所に入ったのが同時期だったためそれなりに仲は良いつもりだが、怖い話の類があまり好きではないまゆとしては、少々触れたくない部分があるのも事実だ。
 小梅に関するある噂については、特に。

「……小梅ちゃん? あの子、って言うと……その、どの子かしら?」
「あの子……だよ?」

 小梅の視線が、まゆからほんの少しだけずれる。
 いるのだろうか。
 後ろに。

「……あの子が、そういうこと言うの、珍しい……」
「そ、そうなの……」

 嬉しそうに微笑む小梅とは逆に、まゆの方は背筋が震えてきた。
 他の皆もいる車内だからまだ良かったものの、もしも小梅と二人きりのときにこんなことを言われたら間違いなく悲鳴を上げていたと思う。

「うん……良かった」

 小梅は満足そうに頷くと、また前を向く。
 それ以上は特に何も言ってこない。まゆの方でも自分から突っ込んだことを訊く気にはなれず、不安を残しつつもまたプロデューサー鑑賞に戻ったのだった。
 ちょっと怖い気分を味わったのはそのときだけで、その後しばらく、特に変わったことは起こらなかったのだが。

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 ◆

「最近、心霊現象が続いて夜眠れないんです……」
「心霊現象……」
「ですか……」

 テーブルの向かい側に座った高橋礼子が、怪訝そうな表情で一度だけ繰り返した。その隣に座る道明寺歌鈴もまた、反応に困っているような顔でまゆを見返してくる。
 仕事や学校帰りの人々で賑わう喫茶店の中なので、三人とも念のため軽く変装している。そのせいもあってまゆは多少厚着だったが、話そうとしている内容のせいか何となく寒さを感じていた。

「心霊現象と言うと、夜中に変な物音がするとかそういうのかしら?」
「それよりももっと怖いことが、毎晩……」
「ま、毎晩ですか……」

 歌鈴がごくりと唾を飲む。まゆ同様アイドルであり現役の巫女さんでもある娘だが、だからと言って幽霊の類が平気というわけではないらしい。
 一方、礼子の方は年長者らしい落ち着きを崩さず、コーヒーに口をつけつつ冷静な口調で訊いてくる。

「とりあえず、何があったか具体的に話してもらえる?」
「はい……」

 事の起こりは、小梅の奇妙な告白を受けてから一週間ほど経過した日のこと。
 その日レッスンを終えたまゆは、特に何事もなくアパートの部屋へと帰りついた。プロデューサーを追い掛けてアイドルになるために上京して以降、ずっと一人で住んでいる部屋だ。
 事務所に入った当初は女子寮を勧められたのだが、断った。一人住まいの方が、いろいろと都合が良かったからである。

「ただいま帰りましたぁ」

 いつも通りにそう呟きながら玄関のドアを開けると、リビングに続く廊下の壁と天井一面に隙間なく貼られたプロデューサーの写真と自作ポスターの数々が出迎えてくれた。
 残念ながら目線がこちらを向いている写真は極少数だが、まゆとしてはそれでも十分満足である。写真越しにプロデューサーの存在を感じて陶然とした気分に浸りながら、ゆっくりとリビングに向かう。
 いちいち説明するまでもないことだが、リビングの壁と天井もプロデューサーの写真とポスターで一杯だ。常に想い人の存在を意識しながら生活出来る最高の部屋なのだ。
 ちなみに、部屋も廊下も壁の上に壁紙が備え付けられていて、必要なときは短時間で何の変哲もないアパートの一室に偽装できる仕組みである。
 プロデューサーを独占したいが故に部屋に他人を招き入れるつもりは毛頭ないが、宅配便の配達員などに見られて妙な噂が立ってしまったら困る。
 全身全霊でプロデューサーを愛しつつも迷惑がかかることは絶対に避ける、というのがアイドルとしてのまゆの基本姿勢なのだった。

「うふ……やっぱりプロデューサーさんは素敵ですねぇ……」

 プロデューサーだらけの部屋の真ん中に座って、しばしの間うっとりと夢の世界に遊ぶ。
 まゆは元々運動が不得意で、アイドルの厳しいレッスンについていくのはなかなか大変だったが、こうしているだけで一日の疲れなどきれいさっぱり消えてしまう。
 いわゆる愛の力というやつだ。
 そうしてすっかり疲れが取れてから、まゆはおもむろに服を脱ぎ始める。プロデューサーに満たされた部屋の中で一枚一枚と衣服を取り去りっていくにつれて、体が少しずつ火照ってくる。そうして生まれたままの姿になると、熱っぽい吐息を漏らしながら浴室へと向かう。
 いわゆる予行練習というやつだ。
 シャワーを浴びて身を清め、フリルをあしらったお気に入りのパジャマに着替えると、まゆはリビングに戻ってくる。
 棚にいくつか置いてある、合法的に手に入れたプロデューサーの使用済みマグカップを一つ取り出し紅茶を淹れて、ベッドに腰を下ろした。自作のプロデューサーぬいぐるみと人形に囲まれながら、スマートフォンにヘッドフォンを挿入して耳に着ける。
 慣れた手つきで操作を行うと、しばらくして音声が流れだした。

『お疲れさま、まゆ』
「うふ……♪」

 思わず笑みが零れてしまう。

 それはこっそり録音したプロデューサーの音声の中から、特にお気に入りのものをお気に入りの順番で編集した特製の音声ファイルだった。これを聞きながらだと学校の勉強も趣味の裁縫や料理も驚くほど捗るのだ。
 愛の力以外の何物でもない。

『元気か、まゆ』
「うふふ……♪」
『よくやった、まゆ』
「うふふふふ……♪」
『頑張ったな、まゆ』
「うふふふふふふ……!」

 陶酔の渦の中で笑みをだだ漏らす。さすがに自分で編集しただけあって、流れが完璧だ。聞くほどに自然と気持ちが盛り上がり、天上へと向かって駆け昇っていくような心地になる。
 そうして体を火照らせ息を弾ませ、そろそろと腕が伸びかけたところで、不意に。

『……愛してるぞ、まゆ……』
「……えっ?」

 甘い陶酔の中に漂っていた意識が一瞬で現実に引き戻され、まゆはベッドの上で跳ね起きる。
 聞き間違いかと思いながら少しだけ音声ファイルを巻き戻し、もう一度さっきの部分を再生した。

『……愛してるぞ、まゆ……』

 それは紛れもなく、恋しいプロデューサーの声で紡がれる、愛の囁き。
 しかし、

「……どういう、こと?」

 まゆは表情を硬くして、何度も何度もその音声を再生する。

『……愛してるぞ、まゆ……』
『……愛してるぞ、まゆ……』
『……愛してるぞ、まゆ……』

 繰り返される愛の囁きを受けて、胸の奥から一つの湧き上がってくる。
 それは、愛ではなく、恐怖。

「……私、こんな声録ってない……!」

 背筋に震えが走った。

「……という、とっても怖い出来事が……あら、お二人ともそんなにコーヒーが苦かったんですか?」
「いえね……」
「コーヒーのせいじゃなくて……」

 何かげんなりしたような顔の二人にまゆが首を傾げると、歌鈴が躊躇いがちに手を挙げた。

「あの、一応確認しておきたいんですけど、今のは幽霊が怖いっていう話だったんですよね? まゆさんが怖いっていう話じゃなくて」
「ええと、言っている意味がよく……?」
「まあ、それはともかくとして」

 小さく咳払いした礼子が、念を押すように訊いてくる。

「念のため聞いておきたいのだけれど、それは自分で録っていたのをうっかり忘れてたっていうのじゃないのよね?」
「嫌ですよぉ、礼子さんったら」

 まゆはくすくす笑って、

「本当にプロデューサーさんが愛してるなんて言って下さったのなら、まゆがここにこうしているわけがないじゃないですかぁ……」
「どこでどうしてるって言うんでしょう……?」
「知らないけどね」

 礼子は小さくため息を吐いた後、頬杖を突いた。

「それで、それが始まりってことは、もちろんその後も続いたのよね?」
「……はい、そうです」

 ほんの少しだけ盛り上がっていた気持ちが、また沈みこむ。
 礼子の言う通り、怪奇現象はその日だけに留まらず、その後も少しずつ形を変えて絶えることなく続いた。
 ある夜は、プロデューサー動画がいつの間にか増えていたり。
 ある夜は、プロデューサーぬいぐるみがいつの間にか増えていたり。
 ある夜は、プロデューサーの私物がいつの間にか増えていたり。

「あと、何故かプロデューサーさん写真の顔が川島さんにすげ替っていたりしました」
「どうしてでしょう……?」
「わからないわ……」

 礼子が首を振り、「そう言えば最近ボールペンやらスティックのりやら、なくなったって言ってたわねえ」とぼやくように呟く。

「ともかく、それですっかり怖くなっちゃったわけね」
「はい……だから、是非とも歌鈴ちゃんに対処をお願いしたくて」
「え……た、対処ってなんですか?」

 歌鈴がぎょっとしたように言う。
 まゆは必死の心境で身を乗り出し、

「インターネットに書いてあったのを見たの。歌鈴ちゃん、その筋では有名な霊能力者さんなのよね。確か、寺生まれのDさんって」
「いやそれ多分別の人だと思いますよ。大体私、神社生まれですし……」
「それでもいいの、なんとかお願いできない? 幽霊が近づけないように結界を張るとか、嫌がるようなお札を貼るとか、全身にお経を書いて幽霊から私が見えないようにするとか」
「最後のはかえって危ないような……いえ、そりゃ一応儀式的なことは出来ますけど、やめたほうが……私のお祓いってなんかバイクになったりスロットになったりで大概ロクなことにならないので」
「……えっと、ごめんなさい、よく意味が……?」
「私にも意味は分からないんですけどね……」

 二人で首を傾げたとき、まゆはふと、礼子が会話に加わらず何かをじっと考えているのに気づいた。
 礼子は少し間を置いてから不意に顔を向けてきて、

「つまり、こういうことよね?」

 と、試すような微笑を浮かべる。

「次に幽霊が悪さしたら、『破ァ!』とか何とかやって、消し飛ばすなり成仏させるなりしてほしい、と」
「え……」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」

 まゆが驚くのと同時に、歌鈴が慌てて手を振る。

「む、無理ですよわたし、そんなことできません!」
「あら、きっと大丈夫よ神社の娘なんだし。こう、『サイキックゴーストバスター!』みたいな感じで一発除霊、ね?」
「それ他の人のネタな上に成功の見込みゼロじゃないですか!」
「あら、結構辛辣ね歌鈴ちゃん」

 何故か感心したような様子の礼子とあわあわしている歌鈴のそばで、まゆは一人焦る。
 決して、そういう風にしてほしいわけではないのだ。

「あ、あの!」

 ちょっと強い口調で割って入り、

「いえ、別にそこまでしてほしいわけではなくて……ただ、遠ざけてくれるだけで……」
「あら、どうして? せっかく専門家がいらっしゃるんだから、もっと根本的に解決してもらいましょうよ。悪霊なんて消し飛ばしてもらえばいいじゃない。ね、歌鈴ちゃん?」
「だからそんなこと出来ませんってば!」
「どう?」

 歌鈴の抗議を無視しつつ、礼子はじっとまゆを見つめて問いかける。
 穏やかながらも全てを見透かすかのようなその視線に、まゆはとうとう観念した。

「……礼子さんは、もう全て察してらっしゃるんですね」
「ということは……?」
「はい。礼子さんの想像通りだと思います」
「そう。やっぱりね」
「あのー」

 一人話についてきていなかった歌鈴が、遠慮がちに手を挙げる。

「一体、どういうことなんですか?」
「さっきまでの会話を思い出してみなさいな。まるで幽霊に危害が及ばないように庇っているみたいだったでしょ?」
「あ……い、言われてみれば……!」
「それで、どうして庇うのかって考えると……まあ、普通に考えて見ず知らずの悪霊を庇う理由はないわよね。ということは?」
「……もしかして」

 ようやく歌鈴も察したらしく、困ったようにまゆを見て、

「小梅さん、ですか……?」
「はい……」

 まゆは頷き、隠していた事情を全て打ち明けることにした。
 二人に隠していたのは、あの車中での小梅との会話だけではない。実を言えば、心霊現象が始まってからも小梅からの接触はあったのだ。
 心霊現象の始まり、録った覚えのないプロデューサーの音声を聞いてしまった夜の翌日のこと。
 あれは一体何なのだろうと休憩時間中に悩んでいたら、不意に小梅が話しかけてきた。

「ま、まゆさん……昨日何か、い、良いこと、ありませんでしたか……?」

 まるで何かに強く期待しているかのように、左目をキラキラと輝かせて。
 この質問によってまゆの中で全てが繋がり、前日のことも小梅と彼女の言う「あの子」が関係しているのだということが察せられた。
 しかし、何分得体の知れない恐怖を味わってしまった直後のことだ。あれが良いことだとはどうしても思えなかったし、肯定してしまったらどうなってしまうのだろうという未知の恐怖もあった。

「ええと……どうだったかしら。特に、取り立てて良いことは……なかったと思うけれど……」

 目をそらして歯切れ悪くそう答えると、小梅は一瞬きょとんとしたあと、傍目に見てもがっかりした様子で目を伏せた。

「そ、そうですか……」
「ええ……」
「……ご、ごめんなさい、ちょっと、勘違いしたみたい……」

 小梅は申し訳なさそうにそう言うと、ぺこりと頭を下げて去っていった。
 しょんぼりと肩を落とした背中がいつも以上に小さく見えて、まゆの胸にもズキリとした痛みが走った。

「……かわいそうだとは思ったんですけど……」
「まあ、何が起きてるのかもよく分からない状況だと、不用意なことは言えないわよね……呪われないとも限らないし」

 礼子は慰めるように言った後、「それで」と訊いてくる。

「心霊現象はその後も続いたのよね。小梅ちゃんからはその後何かなかったの?」
「やっぱり何か期待しているみたいに私を見ていることはありましたけど、直接は……ただ、昨日思い切った様子で『一緒にDVD見ませんか』って声をかけてくれたんですけど」
「当然ホラーだし、やっぱり一緒に見る気にはなれなかった?」
「……そうです」

 そのとき一瞬だけ、小梅が今にも泣き出しそうに顔を歪めたのだ。直後の、何とか取り繕おうとしたらしい寂しそうな微笑もあって、まゆはとうとう耐えきれなくなった。

「小梅ちゃんが私に何を期待しているのか、はっきりとは分かりませんけど……私、幽霊とか、どうしても怖くて……でも、これ以上期待させ続けてしまうのも……」
「かと言って、はっきり拒絶して傷つけるのも嫌。だから、『どうしてかは分からないけど、あの子はまゆちゃんに近づけなくなりました』みたいな形で穏便に済ませようと考えたってわけね」
「……そうです」
「あの、まゆさん」

 歌鈴が確認するように言う。

「さっきまで小梅さんのことを伏せて話ていたのは、もしかして小梅さんを悪者にしたくなかったからですか?」
「……ええ。不用意に騒ぎ立てて、変な噂が立ってしまったら、って……」

 事務所に入った当初、生来の口下手が祟って周囲と上手く話せずにいた小梅のことを知っているから、まゆはそれだけは絶対に避けたかった。
 もちろん、事務所の仲間は皆気立ての良い子ばかりだが、自分と同じかそれ以上に怖い話の類が苦手な子もいる。
 それを考えると、やはり不用意なことは出来なかった

「……ごめんなさい、礼子さん、歌鈴ちゃん」

 まゆは頭を下げた。

「お二人のこと、信用していなかったわけじゃないんですけど……」
「そ、そんな、謝らなくても大丈夫ですよ!」

 歌鈴が慌ててなだめてくれる。

「私、怒ったりしてないですから。まゆさんがしたこと、正しいと思います。ですよね、礼子さん」
「そうね。もちろん私も気にしてないわ。ただ、ね」

 礼子は少しだけ口調を厳しくして、

「もう分かったとは思うけど、まゆちゃんがしたいと思っているようにするのは不可能よ。歌鈴ちゃんは寺生まれじゃないから」
「いや礼子さん、寺生まれかどうかはそこまで重要じゃ」
「だから、やっぱり貴方自身が現実的に対処しなければいけない。分かるわよね?」
「……そう、ですよね」

 まゆは肩を落とす。
 本当は、二人に相談する前から心のどこかで分かっていたのかもしれない。
 小梅を傷つけず穏便に済ませるなどという都合のいい方法は存在しない、ということぐらいは。

「やっぱり、私自身がちゃんと……やめてほしいって、小梅ちゃんに伝えなければいけないんですよね」
「それなんですけど、あの」

 歌鈴が気遣うように、遠慮がちに提案する。

「多分、小梅さんはまゆさんに危害を加えるつもりはないんじゃないか、と思うんですが……」
「ええ、それは私も分かっているつもりだけれど……」

 しかし、まゆはどうしても、心にこびりついた恐怖を消すことが出来ない。
 何をどう心に言い聞かせても、苦手なものは苦手だし、怖いものは怖いのだ。
 幽霊に好かれているなどと考えただけで、止めようもなく悪い想像ばかりが膨らむ。顔から血の気が引き、体に震えが走ってしまう。
 そして、それ以上に。

「……私、怖いんです」

 体の震えを押さえるように、まゆは己の肩を抱きしめる。

「幽霊のこと、詳しくは知りません。けれど、あの子というのが小梅ちゃんにとって大切な存在だということぐらいは分かります。そんな子が好きだと言った人間が、その子のことを怖がっている、嫌がっていると知ったら……小梅ちゃん、きっと傷つきます」

 それほど深い付き合いはしていなくとも、事務所に入った当初からずっと一緒に頑張ってきた仲間なのだ。
 小梅が、幽霊は怖くなくても、他人と接することを怖がっているのは知っている。
 そんな不器用で気弱な女の子が、プロデューサーの期待に応えようと、口下手なりに一生懸命他人に話しかけ、少しでも周囲と上手くやろうと頑張ってきた姿をずっと見てきたのだ。
 最近ではその努力の甲斐あって皆に受け入れられ、人前で話すことへの苦手意識も少しずつなくなってきているように見える。
 様々な事に対して積極的になってきているし、今回のことだって、あの子のためにと彼女なりに必死に頑張っているのはよく分かるのだ。
 それなのに、拒絶されてしまったら……はっきりそう言われなくても、そういう気配が伝わってしまったら。
 小梅は深く傷つき、また昔のように殻に籠ってしまうのではないか。
 彼女自身やプロデューサーの頑張りで順調に進んでいたものが、台無しになってしまうのではないか。

「私は……それが、何よりも怖いんです」

 まゆの告白を、二人は黙って聞いていた。
 歌鈴は何をどう言っていいのか分からないようで、縋るような目で礼子を見る。
 礼子はほとんど無表情のまま、ただ黙って話を聞いていた。
 だが、やがて淡々とした口調で切り出した。

「確かに、まゆちゃんが怖がっていたら、小梅ちゃんにはきっと分かってしまうでしょうね。あれで結構鋭い子だから」
「礼子さん……!」
「だったら、方法は一つでしょう」

 礼子は優しく微笑み、

「まゆちゃんの中にある恐怖を、なくしてしまえばいいのよ」
「え……?」

 思いもよらない助言に、まゆは困惑する。

「でも、私は……」
「どうしても幽霊が怖い。だったわね?」
「……はい」
「そう……ところで、歌鈴ちゃん」
「はひっ!? な、なんでつか!?」

 いきなり話を向けられるとは思っていなかったらしく、歌鈴が噛み噛みで返事をする。
 礼子はおかしそうに笑って、

「そんなに驚かなくてもいいでしょ。歌鈴ちゃんは、幽霊とか怖い方?」
「え……は、はい、あんまり得意ではないですけど……?」
「だったら……そうね、そこにある電柱を見て」

 と、礼子は喫茶店の外にある電柱を指差し、

「実は今、あそこに事故で死んだ血まみれの男の幽霊が立ってて、歌鈴ちゃんを見つめてニタァッと笑ってるんだけど」
「ひょあっ!?」
「あと、道路の向こうにあるビルの三階。あそこで首吊って死んだ男の幽霊がぶらんぶらん揺れながら恨めしそうにこっちを見てるんだけど」
「ひいぃっ!?」
「あとはね、向こうにあるマンホールの」
「ちょちょちょ、ま、まってくだしゃあ!」

 歌鈴はほとんど半泣きで礼子を止める。

「い、いきなり何怖いことばっかり言ってるんですか!? っていうか、今の本当なんですかっ!?」
「さあ、どうかしら? まあとりあえず、そういう幽霊がいたら歌鈴ちゃんは物凄く怖がるってことはよく分かったわ」
「当たり前じゃないですかそんなの……」
「それじゃ、最後」

 と、礼子はしなやかな指をピンと立て、

「ずっと昔から、内気で気弱な女の子のそばにいて、見守ったり励ましたりしながら一緒に頑張ってきた幽霊……これは、怖い?」
「へ……?」

 歌鈴が目を丸くして、それから困惑したように首を傾げる。

「いや……それは、怖くはないですね。むしろ、見られるなら見てみたいような気も」
「そう。私も同感ね」

 礼子は微笑むと、まゆに視線を戻す。
 そのときにはもう、礼子が言わんとしていることが、まゆには大体理解できていた。

「……実際怖い目に遭っていて、元々怖い話の類が苦手なら、幽霊っていう記号やネガティブなイメージに引っ張られて思考が止まっちゃうのも分かるわ。仕方のないことよ」

 でもね、と礼子は言う。

「もしもそうなったら……恐怖や不安で思考が止まりそうになったら、一度深呼吸して、思い出してあげて。まゆちゃんがそこまで悩んで気遣って、どうしても守ってあげたかった白坂小梅ちゃんが、どんな女の子なのかを。そして、その子のお友達のことを」

 礼子はそう言い、励ますように微笑む。

「そしたらきっと大丈夫。きれいさっぱり消せるわ。あなたの中にある恐怖も不安も……ね?」
「……はい。きっと、出来ると思います」

 まゆは静かに答え、頭を下げた。

「ありがとうございます、礼子さん。礼子さんにお話聞いて頂いて、良かったです」
「私は面白半分で同席させてもらっただけよ。もう忘れてるかもしれないけど」
「そうでしたね」

 まゆは小さく微笑む。
 元々、歌鈴にだけ相談しようと思っていたら、たまたま通りがかった礼子が半ば無理矢理私にも聞かせて、と言ってきたのだった。
 礼子は年長者だけあって口が堅いし大丈夫だろう、と思ったから承諾したのだが、今はむしろ同席してくれて良かったと思える。

「歌鈴ちゃんも、ありがとうございました」
「あ、い、いえ、私なんて……全然お役に立てなくて、申し訳ないです」

 歌鈴は慌てて手を振ったあと、励ますように両手を握り、

「あの、頑張って下さいね。きっと大丈夫です、気持ち、伝わると思います」
「ええ、ありがとう。すみません、私……」
「一人で考えを整理したいのよね。私たちのことは気にしなくていいわ、もう少しここでお喋りしていくから」
「本当に、ありがとうございました。では、失礼します」

 まゆはもう一度頭を下げると、自分の分のコーヒー代を置いて席を立った。
 店を出ると辺りはもう夕暮れ時で、少しずつ夜の闇が近づいてきているのが感じられる。
 昨日まで、それは恐怖の時間へと近づいていくのと同義だった。今もまだ、恐怖は完全に消えたわけではない。
 しかし、心は驚くほどに軽い。

「……きっと、大丈夫」

 まゆは小さく頷き、迷いのない足取りで家路を歩き出した。

「……大丈夫ですよね、きっと」
「心配要らないわよ。元々、危険なことなんて一つもないんだから」

 まゆが去っていった方を気遣わしげに見る歌鈴の隣で、礼子は素っ気なく答えてコーヒーを啜る。

「そもそも心配し過ぎなのよね、まゆちゃんも。小梅ちゃんにしてみたらあんな風に気味悪がられるなんて慣れっこでしょうし、万一知られたとしても、今更殻に籠るほどは傷つかないでしょう。もちろん、怖がらずに受け入れられるならそれに越したことはないけれど」
「そうですねえ……」
「そもそも怖がってること自体は知られてると思うけどね。その、あの子っていうのは、毎晩間近でまゆちゃんを見てるんでしょうし」
「あ……言われてみれば、そうですね」

 歌鈴は今更気づいたように言って、苦笑を漏らした。

「と言うか、考えてみたら当たり前ですね。あんまり常識外れな話だから、私も思考停止しちゃってたかも」
「まあ、仕方ないとは思うわ」
「それはそれとして……なんていうか、意外でした」
「何が?」
「いえ、まゆさんのことなんですけど」

 歌鈴はちょっと首を傾げ、

「あんなに優しい人だったんだなって……ああいえ、プロデューサーさんが絡まなければ親切な人だって言うのは知ってたつもりですけど、その絡んだときのあれやこれやがなんとも言えずあれでしたから、ちょっと怖い人だなっていうイメージが……」
「……情の深い子なのよ。良くも悪くもね」

 礼子は目を細め、コーヒーカップを軽く揺らす。
 幽霊に脅かされているのは自分だというのに、むしろ加害者とも言える小梅の方を心配していたまゆの姿が思い浮かんだ。

「その情が友達への気配りという形で発揮されるなら、美点で済ませられるかもしれないけれど。これが異性に向かうとね……本人なりに節度は守っているようだし、根がおっとりした子だからまだそれほど実害はないと思うけど」
「うーん……あれで大丈夫だと言える礼子さんはやっぱり凄いなあ……これが年の功というものなんですね」
「……歌鈴ちゃん。悪いことは言わないから、瑞樹や早苗や菜々ちゃん辺りと話すときは、もう少し言葉に気を付けた方がいいわよ?」

 しみじみ頷いている歌鈴に、礼子はため息混じりに忠告する。

「まあ、ともかくこれで心配いらないでしょう。あとは吉報を待つばかりね。歌鈴ちゃんも除霊とかさせられなくて良かったわね」
「本当ですよ……って、あれ?」

 ふと、歌鈴が何かに気づいたように眉根を寄せた。

「どうしたの?」
「いえ……あの、礼子さん? もしかして、最初から悪霊とかの仕業じゃないって分かった上で私に除霊しろとか言って煽ってませんでした?」
「ええもちろん。歌鈴ちゃんにそういうことは出来ないっていうのも分かってたわよ」
「えぇー! ひ、酷いですよぅ」
「ふふ、ごめんね?」
「もう……」

 歌鈴はちょっと拗ねたように唇を尖らせが、すぐに笑顔になって、

「でも、礼子さんはやっぱり凄いですね。幽霊なんて常識外れの話でも、ちゃんと冷静に話を聞いてあげて、的確なアドバイスまで」
「ん……ああ、まあね」

 礼子は冷めたコーヒーを啜りながら、ぽつりと

「悪霊とかそういうのに襲われた経験だったら、私も何度かあったし」
「……はい?」

 一瞬の間を置いて、

「え、そ、それって……」

 歌鈴が頬をひきつらせる。

「あ、悪霊って……え、ど、どちら様の……?」
「フッたオトコよ」

 礼子がさらっと答えると、歌鈴は絶句してしまう。

「悪霊っていうか、生き霊とでも言ったらいいのかしらね。毎晩枕元に立たれて睨まれたり恨み事垂れ流されたり……もう、うるさいったらなかったわ」
「えぇー……そ、そんな感想でいいんですか、それ」
「私もねえ、あの頃はいろいろと下手くそだったのよね……今はもうちょっと綺麗に片付けられると思うのだけど」
「片付けるって……」

 礼子はしみじみと頷き、

「まあ、これも年の功というやつよ。歌鈴ちゃんにもその内身に着くスキルだと思うけど」
「えー……いやぁ、私には一生無理そうですねえ……」

 苦笑いを浮かべる歌鈴に、礼子は小さく微笑んだ。


 ◆

 ちょうどオフが重なる日を見計らって、まゆは小梅を自分の部屋へと誘った。
 お昼時に呼び鈴が鳴ったので玄関の扉を開けると、いつも通り両手をパーカーの袖で隠した小梅が、ちょこんと立っていた。

「こ、こんにちは、まゆさん」
「ええ、こんにちは小梅ちゃん。来てくれて嬉しいわ」
「う、うん、私も、誘ってくれて……」

 玄関に招き入れられながら言いかけた小梅が、言葉の途中で硬直する。
 リビングへと続く廊下と天井は、プロデューサーの写真とポスターが貼り付けられたまま、隠されていなかった。

「さあ、上がって」
「あ……お、お邪魔します……」

 小梅はまゆに声をかけられると、ちょっと慌てた様子で靴を脱ぎ、室内に上がる。
 廊下を歩いているときもリビングへ通されてからも、どこかワクワクしているようにちらちらと周囲を見ているのが分かった。

「小梅ちゃんはトマトジュースで良かったのよね?」
「う、うん……あ、紅い飲み物、好き……」
「うふ。私もよ」

 真っ赤なトマトジュースを注いだコップを二つテーブルに置き、二人でにっこりと笑い合う。
 ストローに口をつけて紅い液体を啜る小梅は、なんだかとても上機嫌に見えた。

「小梅ちゃん、なんだか楽しそうね」
「ん……う、うん」

 小梅はプロデューサー関連の物品で埋め尽くされた部屋をぐるりと見まわして、頬を紅潮させる。

「そ、想像通りの、素敵な部屋……ホラー映画で、こういう部屋、見たことある……」
「まあ、楽しそうな映画ねぇ」
「う、うん。恋する女の子の映画……」
「切ない恋愛物語かしら?」
「せ、切ないっていうか……切ってた」

 そんな風に楽しく和やかにお喋りをして、トマトジュースがなくなった頃。
 まゆはようやく、本題を切り出した。

「最近、私の部屋に遊びに来ているのは、小梅ちゃんのお友達よね?」
「……う、うん」

 小梅は頷き、少し恐れるように目を伏せる。

「ご、ごめんなさい……」
「どうして謝るの?」
「あの……か、勝手に入ったから……あと、怖がらせちゃって……」
「そう……じゃあやっぱり、この部屋で……ええと、いろいろしていたのも、そのお友達なのね?」
「う、うん……」

 小梅は申し訳なさそうに俯き、身を縮めながら言う。

「あ、あの子……まゆさんのこと、好き、って……」
「ええ、そう言ってくれたって教えてくれたわね」
「う、うん……それで、まゆさんを喜ばせたい、って」
「そう……それで、プロデューサーさんに関係する物を増やせば、私が喜ぶって考えたのね?」

 それは、礼子からアドバイスをもらって以降、考えた末に辿り着いた推論だった。
 案の定、小梅はこくりと頷く。

「じゃあ、音声や動画が増えていたのは?」
「晶葉さんや泉さんがやってるの、み、見よう見まねで……」
「凄いのねえ……ぬいぐるみが増えていたのは?」
「海さんや、まゆさんの真似した、って……」
「写真の顔が川島さんに変わっていたのは……」
「画像ソフト弄ってる内に楽しくなってきて自分の技術の限界に挑戦したくなったって……」
「ええと……凝り性なのね……?」
「ちょ、調子に乗ってやり過ぎた、今は反省している、ってあの子が……」

 申し訳なさそうに言ったあと、小梅は改めて頭を下げる。

「ま、まゆさん、ごめんなさい……あの、お、怒ってますか……?」
「そうねぇ……ああ、その前に、一つ訊きたいことがあるの」

 まゆは数日前のことを思い出しながら、

「小梅ちゃん、少し前に一緒にホラー映画のDVDを見ないかって誘ってくれたわよね?」
「あ……う、うん」
「あれは、私が少しでもお友達のこと怖くなくなるように、って考えてくれたのかしら?」

 それも、小梅の性格などを考慮に入れた末に辿り着いた推論。
 小梅は一瞬驚いたように目を丸くすると、慌てた様子でこくこくと頷いた。

「う、うん……! お、面白いホラー映画見たら、お化けのこと、好きになるかなって……」
「そう……ええ、好きになれたかどうかは分からないけれど、やっぱりそうだったの……どうしたの?」
「ん……う、ううん」

 何故か嬉しそうに話を聞いていた小梅は、まゆに尋ねられてはにかむように微笑んだ。

「ま、まゆさんが、分かってくれて、う、嬉しいなって……」

 その笑顔を見て、まゆの中でようやく覚悟が定まった。
 一番知りたかったことを知るために、話を切りだす。

「ねぇ、小梅ちゃん。小梅ちゃんのお友達の……あの子、は、どうして私のことを好きになってくれたの?」
「ど、どうして……? え、えっと……」

 小梅が何か躊躇っているようだったので、まゆは安心させるように微笑みかけた。

「大丈夫よ。今ここでその子とお喋りしても、私は大丈夫」
「う、うん……じゃあ、訊いてみる」

 小梅はそこで初めて、あの子の存在を示唆するような行動を取る。
 まゆから目をそらし、自分の上方に視線を向けた。まるで誰かと話しているかのように小声でぽそぽそと何か呟き、何度か小さく頷く。
 それから、何かとても納得したような様子で、まゆに向き直った。

「あ、あの子、まゆさんが私を助けてくれたから、好きだ、って……」
「私が、小梅ちゃんを?」

 そう言われて、まゆは少し驚く。
 小梅とはそこまで親しくしていたわけではないし、日常の細々としたこと以外、何かをしてあげた記憶は特にないのだが。
 小梅はまゆの困惑を見て取ったらしく、たどたどしい口調で一生懸命説明する。

「わ、私、アイドルになった頃……事務所の人たちと、う、うまく、お話出来なくて……で、でも、まゆさんは、ちゃんとお話、聞いてくれた、から……」
「……あぁ」

 そう言われて、ようやく思い至る。
 確かに、そんなことがあったかもしれない。小梅が何か言いたそうにしていたとき、自分から声をかけて、黙って話を聞いてあげたことが。
 まゆにしてみればそこまで特別なことをした覚えはなかったが、小梅と、いつもそばにいるあの子にとっては違ったのだろうか。

「わ、私……私、も、感謝、してます」

 小梅は頬を赤くして恥ずかしそうに、つっかえつっかえ言う。

「い、い、今まで、言ったこと、なかったけど……わ、わたし、話すの、苦手で……で、でも、まゆさんが、落ちついて、話、聞いてくれたから……凄く、嬉しくて……安心、できました」

 そう言い、深々と頭を下げる。

「あ、ありがとう、ございました……! い、今まで、言えなくて、ごめんなさい……」
「そんな、謝らなくてもいいのよ。でも、そう……そうだったの……」

 まゆは少しの間そっと目を閉じて、あの頃のことを思い出した。
 何故、自分は小梅の話を聞いてやろうとしたのか。単に周囲に対する気配りの一環だったろうか。
 いや、そうではない。

「……私が小梅ちゃんの話を聞いてあげようって思ったのは、きっと、小梅ちゃんが私に似ていたからだと思うわ」
「わ、私と、まゆさんが……?」

 驚く小梅に、まゆは目を開けて「そう」と微笑みかける。

「私もね、自分の気持ちが上手く伝えられないの」

 まゆはそっと自分の胸に手を添える。
 あの人のことを考えるだけで激しく高鳴るこの胸の想い。
 今はどう考えても、ちゃんと伝わっているとは思えない。
 それはきっと、自分が不器用で伝え方が下手くそだからだ。

「だから、小梅ちゃんが何か言いたそうにしていて、でも上手く話せなくて苦しんでいるのを見て、助けてあげたいなって思ったんだわ。自分の気持ちが伝わらないのって、とても悲しくて、寂しいことだもの」

 そして、まゆは小梅を見る。
 小梅と、彼女のそばに今も付き添っているのであろう、あの子を見つめる。

「ごめんね。それが寂しいことだって、分かっていたのに。怖がるばかりで、分かろうともしないで……お友達、きっと悲しかったでしょうね……」

 まゆの言葉を聞いて、小梅はしばらくの間無言だった。
 一瞬だけ、またあの子の方を見て、目を潤ませる。

「あ、あの子、泣いてる……」
「泣いて……そう、本当にごめんなさいね」
「ち、違う、そうじゃ、なくて……!」

 小梅は小さく鼻を啜りあげる。

「う、嬉しい、って。あ、あの子、見えない人に、こんなに優しくしてもらったの、初めてって……」
「え……」
「わ、私も……っ!」

 小梅の目から、涙が零れ落ちた。

「わ、私も、嬉しい……! い、今まで、あの子のこと、分かってくれる人、いなくて……だ、だから、あの子、まゆさんのこと好きって、言ったとき……ぜ、絶対、分かってもらわなきゃって、私……!」
「小梅ちゃん」

 まゆは小梅のそばに身を寄せると、その小さな体を抱き寄せて、何度も何度も労わりを込めて頭を撫でてやった。
 自分の気持ちが、少しでも小梅とあの子に伝わるように。

「……そうだ。さっきの質問の返事、まだしてなかったわね」

 しゃくり上げる小梅を撫で続けながら、まゆは出来る限り優しい声で語りかける。

「私、少しも怒ってなんかいないわ。ううん、怒るどころか、とっても嬉しい。こんなに優しい子たちに、こんなに一生懸命想ってもらって……嬉しくないはずないもの」

 小梅がさらに激しく泣き出したので、まゆは小梅が泣き止むまで、ずっと抱きしめて頭を撫で続けた。

 しばらく泣き続けた小梅が「も、もう大丈夫……」と気恥ずかしそうに言ったので、まゆは黙って体を離した。
 小梅はまだ少し赤い顔で、照れたように微笑む。

「な、泣いちゃって、ごめんなさい」
「いいのよ。もう一度言うけれど、本当にありがとう。二人の気持ち、とっても嬉しいわ」
「う、うん。あ、ありがとう、私、たちの気持ち、分かってくれて。私、とっても幸せ……」

 小梅が本当に嬉しそうに笑うので、まゆの方も嬉しくなってしまう。
 可愛いなあ、と思うのと同時に、少しばかり悔しくもなった。

「えっと……あの子は、今もそこにいるのよね?」
「う、うん……いるよ」
「残念ね……どうして私には見えないのかしら」

 心底思いながらそう言うと、小梅はちょっと驚いたように目を丸くして、

「ま、まゆさん……あの子のこと、こ、怖くない?」
「ええ、今はもうちっとも。もちろん、悪いことする幽霊は怖いけれど、あの子みたいな優しい幽霊だったら、少しも怖くないわ」
「よ、良かった……」
「それに、幽霊そのものも、今までより好きになれそう。よく考えてみたら、死んでしまったあとも心が残るって、とっても素敵なことよね」

 まゆはうっとりと微笑む。

「まゆ、もし死んでしまったとしても、ずっとプロデューサーさんのそばにいるわ……うふ」
「う、うん……ま、まゆさんと、プロデューサーさんだったら、きっと素敵なゾンビになれると思う……」
「まあ……素敵ね。たとえ肉体が腐り落ちても二人の愛は永遠なんだわ」
「そ、そういうホラー映画、見たことある……」
「本当? じゃあ今度、三人で一緒に見ましょうか」
「う、うん、楽しみ」

 二人で笑い合ったあと、まゆは小さくため息を吐く。

「でも、残念ね……」
「ど、どうしたの……?」
「小梅ちゃんとあの子とはこうして通じ合えたのに、プロデューサーさんには私のこの熱い気持ちが少しも伝わらないみたいなの」
「ふしぎだね……」
「ええ、とっても不思議」

 壁に貼り付けてあるプロデューサーポスターの一枚を見つめて、まゆは熱っぽい吐息を漏らす。
 同じようにプロデューサーのポスターを見ていた小梅が、ふと、またあの子の方を見て何度か頷いた。

「ま、まゆさん……あの子、今回のことで、お、お詫びしたいって、言ってる……」
「お詫び……?」

 お詫びならばむしろ自分の方がしたいぐらいだ、というのがまゆの正直な気持ちだったが、そう言ってくれているのに断るのは良くないな、とも思う。

「そう。それじゃあ……ええと、どうしたらいいかしら」
「こ、今度は、川島さんの写真の顔を、プロデューサーに変えようか、って言ってる」
「……ちょっと興味があるけど、遠慮しておこうかしら」

 苦笑したあと、不意に名案を思いついて、まゆは「そうだわ」と手を合わせた。

「それじゃあ、あの子に是非手伝ってもらいたいことがあるのだけれど」
「な、なに……?」
「うふ……あのねぇ……」

 プロデューサーの写真たちを見つめながら、まゆは甘ったるく微笑んだ。

 ◆

「プロデューサーさん♪」

 人通りの多い休日の昼下がり、突然街中で後ろから声をかけられ、ぎくりとする。
 おそるおそる振り返ると、そこに見慣れない女の子が立っていた。
 プロデューサーは一瞬怪訝に思ったが、よくよく見るとそれは入念にほどこされた変装であり、その少女は間違いなく佐久間まゆその人であった。
 嫌な予感、的中。ため息を吐きたくなるのを、何とか我慢する。

「やあ、まゆか。休日にこんなところで会うとは偶然だな」
「運命ですねぇ……」
「……偶然だな」

 いつも通りとろけそうな甘い微笑と共に言うまゆの言葉を、ひきつった微笑みで受け流す。
 正直な気持ちを言えば「じゃあ用事があるんでこれで」と言って別れたいところだったが、そうする前にまゆがすすっと身を寄せてきた。

「お、おい、まゆ」
「大丈夫ですよぉ。変装は完璧ですから。ねぇ?」
「まあ、それは認めるが……」
「これならご一緒しても大丈夫ですよねぇ」
「いや、それは……」

 どう答えたものか、プロデューサーは答えに窮してしまう。
 何故かは知らないがプロデューサーを深すぎるぐらいに好いてくれているこの佐久間まゆという少女は、彼自身が担当しているアイドルでもある。
 仕事のときはともかく、休日にまで一緒にいるところを見られでもしたら物凄くまずいのだ。

「大丈夫ですよぉ。まゆ、そんなにベタベタくっついたりしませんから。本当はずっとそうしていたいですけどぉ」
「いや、そういう問題じゃなくってな」
「プロデューサーさん」

 まゆが、ちょっと真剣な口調で言う。

「まゆ、今とっても嬉しいんですよ? こうして出会えたのは本当に偶然ですから、運命を感じちゃうんです」
「偶然……なあ、本当に偶然なのか?」
「まぁ」

 と、まゆはわざとらしいぐらい大袈裟に驚いてみせる。

「偶然じゃなかったらなんだって仰るんですか?」
「なんだ、って、そりゃ……」

 盗聴とか、発信機とか。
 そんな物騒な単語が瞬時に思い浮かんだが、理性がそれを否定した。
 何故かと言うと、プロデューサーはまゆが実際にそういうことをやりかねないと危惧しているので、当然対策を行っているのだ。
 具体的には、早苗にいろいろ手口を聞いたり晶葉に対策用品を作ってもらったりして、毎日何度もチェックしている。
 だからそういう物を仕掛けられていればすぐ分かるし、もちろん今日もそういう兆候は一切見られなかったからこそ、安心して街へ出てきたのだ。
 そうなると、残る可能性は一つだが。

「あ、ひょっとしてぇ……」

 と、まゆがどこかねっとりした目でプロデューサーを見る。

「まゆがプロデューサーさんのこと尾行した……なんてお考えですか?」
「……いや、それはないな」

 半ば渋々と、プロデューサーはそう認める。

「アパート出てからもずっと気をつけてたが、尾行されてる気配は一切なかった」
「うふ。プロデューサーさんの尾行を見破る技術は、探偵さん並ですものねぇ」
「ああ、誰かさんのおかげですっかり世界レベルになっちまったよ」

 プロデューサーは皮肉な気分で笑う。
 まさかアイドルのプロデュース活動を通じて密偵並の技術と知識が身に着くとは夢にも思わなかったし、何でこうなったのか今でもよく分からない。
 ともかくそんな無駄な技術のおかげで、尾行がなかったのもはっきりしている。

(でも、だったらどうやって……まさか軍事衛星経由でってさすがにまゆでもそれは無理か……じゃあ本当に偶然? いやしかし、それはあまりにも……)

 プロデューサーが一人悩んでいると、不意にまゆが、

「あの、プロデューサーさん」

 と、傷ついた声で言った。

「まゆと一緒にいるの、そんなにお嫌なんですか……?」
「えっ、な、なに言ってるんだ、嫌なんてそんなことは」
「本当ですか、嬉しいっ!」

 しまった、と思ったときにはもう遅い。まゆが喜色満面で腕に飛びついてきていた。

「お、おい!」
「あ、ごめんなさぁい」

 明らかに申し訳ないと思っていない口調でまゆが言い、すっとプロデューサーから離れる。
 こんな風に、ある程度配慮してくれるからまだマシではあるのだが。

(……まあ、あんまり嫌がってテンション落とすのもプロデューサーとしてはどうかと思うし……)

 心の中で言い訳し、プロデューサーはとうとう観念することにした。
 勝利を確信している故かにこにこと上機嫌そうに微笑んでいるまゆをじろりと見て、

「言うまでもないと思うが、ばれないように厳重に注意してくれな」
「もちろんですよぉ。まゆがプロデューサーさんのお仕事に迷惑かけたことなんてありますかぁ?」
「俺自身にももうちょっと配慮してほしいんだがなあ……」

 聞こえるようにぼやいても、まゆはちっとも堪えた様子がない。むしろ素っ気ないプロデューサーさん素敵! とでも言いたげに、とろけそうなほど目を細めている。

「……あんまりロマンチックなところには連れてってやれないぞ」
「うふ。プロデューサーさんとご一緒でしたら、まゆはどこでもロマンティックナウですよぉ」
「はいはい……」

 ため息混じりに歩き出すと、まゆも幸福そうな足取りでついてきた。


 ◆

「え……じゃ、じゃあ、小梅さんのお友達は今プロデューサーさんのそばに……?」
「う、うん。まゆさんと、プロデューサーさんのキューピットになるって、は、張り切ってた」

 休日ということで混み合っている喫茶店の中、小梅は何やら毒々しい色のジュースを美味しそうに啜りながら言った。

「プ、プロデューサーさんも、まゆさんも、優しくていい人だから……ふ、二人が仲良くなってくれたら、私も、幸せ……」
「そ、そうですか……」

 歌鈴は何とも言えない気持ちでそう答えつつ、隣に座る礼子に小声で問いかける。

「あの、礼子さん。なんだか物凄い方向に事態が進んでしまったような気がするんですが」
「そうねえ……あ、ちなみに小梅ちゃん」

 礼子が興味深そうに問う。

「小梅ちゃんのお友達は、まゆちゃんにどうやってプロデューサーくんの居場所を伝えてるの?」
「け、携帯のメールで」
「え、幽霊なのにメールが使えるんですか?」

 歌鈴が驚くと、小梅はこくんと頷いた。

「え、映画の真似したら、なんかできたって言ってた」
「なんかできたってそんな」
「霊界驚異のメカニズム……」
「凄いわねえ。まさに着信アリって感じだわ」
「あの、礼子さん」

 歌鈴はまた声をひそめる。

「いいんでしょうか、これ」
「……まあ、命に危険が及ぶことはないでしょう」
「プロデューサーさんの職業的な生命がちょっと危なくなったような気がするんですが」
「大丈夫よ、プロデューサーくんだって大人なんだし、上手いこと片付けるスキルは身に着いてると思うわ」
「そうかなぁ……礼子さん、なんか面白がってません?」
「否定はしないけどね」

 礼子はちょっと肩を竦め、

「逆に考えたらいいじゃない。小梅ちゃんのお友達のおかげで、いつでもまゆちゃんの動向が分かるってことでもあるんだし」
「うーん……いいのかなぁ」

 悩む歌鈴は、ちらりとテーブル越しに小梅を見る。
 こんなのメニューにあったかな、と疑問を覚えるほど毒々しい色のジュースを飲んでいる小梅は、この上なく嬉しそうだ。
 きっとさっきの言葉も本心からのものだろうし、これが心底良いことだと思っているからこそ、特に隠そうともせず二人に教えてくれたのだろう。
 それを考えると積極的に非難する気にもなれず、歌鈴は困ってしまう。頼みの礼子も大して心配していないようなので、尚更だ。
 ちょっとの間悩んだ末に、結局、

(……まぁ、これも大人のスキルってことで……)

 自分にそう言い聞かせて、とりあえずコーヒーの味を楽しむことにした。


 ◆

 騒がしい街中をしばらく並んで歩いていたら、不意にまゆがくすりと笑みを漏らした。

「どうした」
「うふ。プロデューサーさん、何だかんだ言ってもこういうときちゃんと歩調を合わせてくださるんですよねぇ」
「当たり前だろそんなの」
「愛情感じちゃいます」
「愛情がないとは言えないって分かっててこの子は……」

 この話を続けるとげんなりするばかりだと知っているので、プロデューサーはさっさと話題を変える。

「そう言えば、最近小梅と仲良いらしいな」
「ええ、この前とっても素敵な映画を一緒に見ましたよ、三人で」
「三人……? まあ、なんだな。まゆみたいな子が小梅と一緒にいてくれると、俺も安心だよ」

 本心からそう言って、プロデューサーは微笑む。

「小梅もだいぶ前向きになってきたけど、まだまだ人と話すのは苦手そうだからな。やり過ぎると本人のためにならないけど、本当に困ってそうな時は手助けしてやってくれな」
「うふ。もちろんですよ」

 頷き、何故か少しだけ上を見る。

「だって、小梅ちゃんたちは大切なお友達ですから♪」

 そう言って、佐久間まゆはにっこり笑うのだった。

 <了>

以上です。
読んで下さってありがとうございました!
またよろしくお願いします。

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