みんな天使になってどっか飛んで行った (87)


 目が覚めたら、世界の終わりを願う。

 それが僕の日課だった。



 地震が全てを崩してしまいますように。

 隕石が地球をぶっ壊してくれますように。

 ミサイルがこの国を焼き尽くしますように。

 殺人的な伝染病が世界中に流行りますように。

 大怪獣が何もかもを薙ぎ払ってくれますように。


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 こんなことを考え始めたのはいつだったかな。
 手を変え品を変え、僕はいろんな終わり方を願ってきた。
 最近ではもうすっかりネタが尽きてしまって、
 とっくにあらゆる世界の終わりを願ったように思ってたんだ。


 だけど衝撃の急展開はいつだって、
 想像力の外側からやってくる。

 僕はちっとも予想していなかったんだよ。
 まさかこんな風に、本当に世界が終わってしまうなんて。


 ***


 真っ暗なスーパーの中で、僕は舌打ちをした。

 懐中電灯に照らされた陳列棚はがらんどうだ。
 ちょっと前まではそれなりの数があったはずの食料。
 レトルトもシリアルもカップ麺も、
 全部、すっかり失くなっていた。

 ちくしょう。
 油断していた。

 最近ではもう人っ子一人見かけないんもんだから、
 僕以外の人間はとっくに
 飛んで行ったんだと思い込んでしまっていた。

 僕は棚を蹴る。
 思っていたより大きな音がして、
 その音に僕はびくりとなる。
 驚いてしまった自分に腹が経ち、
 もう一度、さっきよりも強く棚を蹴る。

 けたたましい音が、静かな店内に響き渡る。


 一通り売り場を回る。
 取り残された野菜や果物は黒くなり、
 甘いような酸っぱいような得も言われぬ臭いを放っていて、、
 僕は吐きそうになる。

 一度も入ったことのない、店の裏側に忍び込んでみる。
 幸いドアにカギはかかっていない。

 バックヤードには段ボールがいくつも転がっている。
 机に置いてあったカッターナイフを手に取って、
 手あたり次第箱を開ける。

 文房具、洗剤、電気用品。
 今となっては無用の長物ばかりが見つかる。
 かろうじて食料と呼べそうなものは
 チューブに詰まった調味料ばかり。

 おろししょうがを手に取って、それから放り投げる。
 さすがにこれをそのまま啜るのはごめんだ。


 外へ出る。
 出口の横に立てかけておいた、
 自分のクロスバイクにまたがる。

 人気のない冬の街は、信じられないくらい冷え切っている。
 吐く息は白く、手袋ごしでも手がかじかんで、
 僕は思わず身震いする。

 ペダルを思い切り踏みつけて加速する。
 車一台通らない道路の上にちらほらと、
 大きな白い羽根が土にまみれて落ちていて、
 僕はわざとそいつらを轢くように走る。


 みんなもう、どっかに飛んで行ってしまった。

 白い羽を生やして。
 まるで天使みたいになって。


 ***


 この天使化現象ってやつがいったいなんなのか。
 残念ながら僕はひとつも分かっちゃいない。

「欧州の男性、突然天使になる」

 そんなバカげた題名の記事がネットニュースの片隅に載って、
 なんだこりゃ、新興宗教の宣伝でもやってんのかと鼻で笑っていたら、
 実際に天使化する人の動画がSNSにアップされ、
 ワイドショーでも放映され、
 そしたら日本でもぽつぽつ天使化する人が現れて、
 日々増える天使化数をテレビでぼんやり眺めているうちに
 天使化現象は人々の間にあれよあれよと広がって、
 街を歩けば翼を生やしている真っ最中の人の姿を拝めるようにさえなった。

 真面目な高校生だったもんだから、
 そんな最中でも僕はしばらく学校に通っていた。

 クラスメイトが両手で数えられるくらいになって、
 教師もほとんど現れなくなった頃になって、
 僕はようやく外に出るのを止めた。


 店員のいない本屋から手あたり次第に漫画をかっぱらって、
 自室に引きこもって、僕は漫画をひたすら読んだ。
 親が飯だと呼ぶとき以外、ほとんど部屋の外にも出なくなった。

 そんな生活は長くは続かず、ある日突然電気もつかなくなって、
 しかたなく部屋から出てリビングへ向かうと、
 背中から白い羽を生やした両親と目が合った。

 二人の頭上には蛍光灯みたいな白い輪っかが、
 まるで手品みたいにぼんやり浮かんでいた。

 父親も母親も、まるでその辺に転がっている石ころでも
 眺めるかのような視線で僕を見てから、
 ベランダに出て、空へと飛び立って、
 やがて遠く離れて、小さくなって見えなくなった。


 両親は二人とも口数が少なく、
 思い出せる限り、温かな家族団らんってものを味わった記憶は僕にはなくて、
 夫婦仲は険悪なのだとすら思っていた。

 だけど、二人同時に天使になって飛んでったところを見ると、
 意外にも両親の間には何かが残されていたらしい。
 愛だか絆だか、なんかまあそういう何かが。

 天使になった人たちはどこかへと姿を消す。
 大勢の人が天使になった今でも、
 天使が空を飛ぶ姿はほとんど見つからない。

 どこか遠くの場所でひとかたまりになっているのか、
 それとも空の向こう側に消えてしまっているのか。
 僕には分からない。

 ともかく、両親と会うことはもうないのだろう。
 小さくなっていく両親の背中を見ながら、僕はそう思った。


 それから漫画を百冊単位で読みきるくらいの時間が過ぎたが、
 僕はまだこうして取り残されている。
 天使にならず、地に足のついたまま。

 なぜだか。


 ***


 ペダルを回しながら、
 ちくしょう、と僕は何度も小さく呟いた。

 目につく限りのコンビニにもスーパーにも、
 缶詰一つ残っちゃいない。

 別にいつ死んだって構やしないけど、
 餓死なんて苦しそうな死に方はごめんだ。
 朝から夕方まで半日食っていないだけで
 もう既に腹が締め付けられるように苦しい。

 自宅のカップ麺はもうすべて食べ尽くしてしまっていた。
 残されているのは栄養補助食品が何箱かだけ。
 いくらカロリーとお友達だって、あれっぽちじゃ数日もたない。


 舌打ちを繰り返しながら、
 やみくもに道を駆け抜けていたその時だった。

 不意に、音が聞こえた。


 ゆっくりとブレーキをかけ、僕は自転車を止めた。
 いったい何が聞こえたのかと首をかしげ、
 音の正体を探ろうと息をひそめた。

 微かな歌声と、ギターの音色。

 人の気配を感じたのは久しぶりだったから、
 僕はなんとなく、吸い寄せられるように、
 音の聴こえる方向へと自転車をこぎ進め始めた。

 人に会いたいなんて思っていなかったはずなのに、
 いったいなんでなんだろうな。

 この街に誰もいなくなってすっかり静かになって、
 僕はせいせいしたと思っていたんだけどな。

 それともやっぱり、誰とも会わずにしばらく過ごすうちに、
 心のどっかではちょっとは寂しく思い始めていたのかな。


 いくつかの交差点を通り過ぎて、
 僕はほどなくその場所に辿り着いた。


 そこには一人の女性がいた。


 彼女は、交差点の角に座り込んで、
 歪んだガードレールにもたれて、ギターを弾いて歌っていた。

 歳は多分、僕よりは少し上。
 小柄な体格のせいか、抱えたギターはやけに大きく見えた。

 歪なガードレールのそばには交通事故を知らせる看板があって、
 傍らに立っていた瓶にはすっかり枯れ果てた花が差さっていた。
 その花にでも捧げるように、彼女は歌っていた。
 僕が耳にしたことのない、英語か何かの歌だった。


 彼女が歌うその姿は、一見するだけじゃあ
 なんとも絵になりそうな綺麗な光景だった。

 一見はね。

 実際のところそこにいた僕は、
 思わず吹き出して笑ってしまった。

 なんでかって?

 彼女のギターも歌も、
 ちょっと冗談みたいに下手くそだったからさ。


 ギターの音色は途切れ途切れ、怪しい音がすぐ混入して、
 歌の音程はすぐどっかに飛んで行ってしまいそうで、
 まるでなんだか、死にかけた野良犬のうめき声みたいな演奏だった。

 僕はクロスバイクを停めた。
 女性は僕のことは意に介さず、
 その音楽と呼べるのか怪しい歌を歌い続けた。
 僕はそれを、ぼんやり突っ立って聴いていた。

 ややしてから、彼女は唐突に演奏を止めた。
 いや、本当は唐突なんかじゃなくて、
 ちゃんと最後まで歌いきっていたのかもしれない。
 僕には曲の展開がさっぱり掴めていなかったってだけでさ。

「ムズいなあ」

 そんなことを呟いて、彼女はピックを投げ捨てた。
 ポイ捨てだ。環境破壊だ。
 それから顔を上げて、いま初めて僕の存在に気付いたような、そんな顔をした。


「何か用かい?」と、彼女は僕に尋ねた。
「路上ライブに感動でもしてくれたのかな」

 そんなわけないだろ、と僕は思った。
 思うだけじゃなく言おうとして、
 久しぶりの声は喉から外に出ていかず、
 僕は顔を背けて大きく咳払いした。

「どうしたの?」と彼女は言った。
「ファンじゃなければ、強盗か何かかな」

「……強盗」
 その言葉を僕は小さく繰り返した。
 繰り返してから、それもいいと考えた。

 僕は明日食うものにも困っていて、
 目の前にはか弱い女性だ。

 持たざる者が得るためにはどうすればいいか?
 一番シンプルな答えはもちろん、奪うことだ。


「そうだ、強盗だ」

「あ、本当に強盗だったんだ」

 彼女は目を丸くして僕を見た。

 そういえば刃物を持っていたな、と思い出して、
 僕はショルダーバックからカッターを取り出し、
 刃を出して彼女に突きつけた。

「歯向かうなら、えー、刺し殺すぞ」

 脅迫に慣れていないこと丸出しのぎこちなさだった。

 それを見た彼女は愉快そうに口に手を当てて、クスクス笑い出した。


「なんというか、まあ下策だね」
 笑いながら彼女は言った。
「このご時世に、刺すだの殺すだのなんてさ」

 僕は黙ったまま、険しい顔をなんとか保っていた。
 正直なところ、この次にどんな行動をとるのが正解なのか、
 僕にはさっぱりわかっていなかった。

 彼女はそんな僕の顔を真っすぐ見つめて、ふうとため息をついてから、
 傍らに置いてあったギターケースに、
 ギターと楽譜らしき紙を収納し始めた。

「高いよ? せっかくのゲリラライブを中断させた代償は」

 立ち上がってケースを背負い、彼女は歩き始めた。

「おい」慌てて僕は声をかけた。
「勝手に動くなよ」

「いいからついておいで。
 食料でいいんでしょ、分けたげるから」


 彼女はゆっくりと歩いた。
 僕は自転車を押してその後に続いた。
 二人分の足音と自転車の車輪が回る音が、
 夕暮れの無人の街に、やけに大きく響いた。

 沈黙に耐えかねて、僕は話しかけた。

「なあ」

「なにかね」と、彼女は前を向いたまま答えた。

「さっきの曲って、何?」

「“American Pie”って曲。
 誰の歌だったかな、忘れたけど」

 彼女はもう一度、サビらしき部分を歌った。


 英語は苦手だったけれど、
 冒頭の歌詞だけははっきり聞き取れた。

“バイバイ、ミス・アメリカンパイ”

 調子っぱずれなギターがない方が、
 その歌声は幾分か聞けたものになった。

「どういう意味の曲」

「知らない、私も特別に好きなわけじゃないから」

「……なんだそれ」

 彼女は振り返り、僕の手元を見て、
 にやりと笑いながら言った。

「カッターは? 脅さなくていいの?」

 うるさいな、と僕は吐き捨てた。


 ***


 十数分ほど歩き、暗くなる前に到着したのは似たような家が建ちならぶ住宅街で、
 目的地はその中にある、こじんまりとした三階建ての一軒家だった。
 一階部分はそのほとんどをガレージが占めていた。

 車のない、がらんどうのガレージを抜けて玄関に向かう。
 自転車はその辺に適当に立てかけておいて、と彼女は言い、
 僕はその指示に従った。

 家の中に入り、細い階段を上がって2階の扉を開けた。

 扉の先はリビングで、窓際には太陽光発電のパネルが並べられており、
 傍らにはバカでかいバッテリーみたいなのがたくさん鎮座していた。
 その無骨な光景に僕は面食らって、すげえ、と呟いた。

「ホームセンターとかでかき集めたんだよ。
 サバイバル上の課題の多くは、電気があれば解決する。
 こっちに居残りしてる間もできれば快適に過ごしたいじゃない?」


 ギターを適当に床に転がして、彼女は僕の方を見た。

「お腹減ってるんだよね。なんか作ろうか?」

「うん」

「じゃあ適当にくつろいでて。ソファとかで。
 電気もったいないからテレビは付けないでよ」

「……どうせなにも放映されてないだろ」 

 キッチンに向かった彼女を居心地悪く待つ間、
 僕はリビングをあちこち見回していた。
 もともとなのか、天使化現象の結果なのかは分からないが、
 無骨な生活インフラ以外にものは少なく、やけに生活感が薄く見えた。

「他に、だれか住んでるのか?」と僕は大声で聞いた。

「父さんも母さんも割と早めに天使になったよ」と大声が返ってきた。
「弟もいたけど、もういなくなった。
 今は私一人だよ、君にとって都合の良いことにね」


 調理にそう時間はかからず、僕が待ちくたびれる前に彼女は料理を完成させた。
 ダイニングテーブルに配膳されたのはシンプルな山盛りの牛丼で、
 呼ばれて席に着くや否や、僕は一も二もなくがっついた。

 彼女は向いに座った。
「肉なんて久しぶり、って顔をしてるね」と、
 少なく盛られた自分のごはんを行儀よく食べながら、彼女は言った。

 飯を掻き込みながら僕は頷いた。

「たまねぎは常温で保存がきくし、肉は細切れをバッテリーつないだ冷凍庫に突っ込んでる。
 急ぎだったから米はレトルトだけど、電気があればまあいくらでも炊けるしね。
 他にもいろいろ、しばらく食っていける程度には保管している」

 君は今まで何を食べてたの、と彼女は尋ねた。

 カップ麺ばっか、と僕は答えた。

 栄養偏るよ、と彼女は笑いながら言った。
 今となっては栄養バランスなんてどうでもいいかもしれないけどね、とも。


 フードファイターもかくやというスピードで飯を平らげて
 膨れた腹をさする僕に向かい、
 さて、と彼女は言った。

「私は君の願いを叶え、ご飯を施した。
 したがって、次は君が対価を払う番だね、強盗君」

 そういえば僕は強盗を名乗っていたな。
 改めて呼ばれるまですっかり忘れていたけど。

「そんなこと言われても。
 俺、強盗だし。払う義理なんてないだろ」

「なにを言うんだ今更。
 素直についてきておとなしく飯まで食った分際で、
 まだ強盗の立場を貫くつもりかい」

「……対価ったって、お金はたいして持ってないぞ」

「要らないよお金なんて、そんな無用の長物」
 にやにやと彼女は笑った。
「君には身体で対価を払ってもらおう」


「身体で、というと」
 僕はごくりと唾を飲んだ。

「エロい意味ですか」

「エロい意味じゃないよ」

「エロい意味じゃないんスか」

「エロい意味にしとくかい?
 覚悟しなよ」

「エロい意味じゃなくていいです」

「へっ、このチキン童貞野郎め」

「決めつけるなよ」
 まあ実際童貞だけどさ。


「さて、わかりやすい取引を提示しよう」

 彼女はどこからか一枚の紙を取り出して、僕に手渡した。

「私は君に食事を提供する。
 君は私の活動を補佐する。
 以上の単純なギブ&テイクです」

 僕は紙を覗き込んだ。

 その上部には丸っこい文字で大きく「やりたいことリスト」と書いてあり、
 下には箇条書きでいろんな項目が並べ立てられていた。

 例えばこんな風に。

・フォアグラを飽きるまで食べる
・めっちゃいいワインを飲んでみる
・Stand By Meごっこ
・ゲリラライブ
・オーロラを見に行く
・カビパラとペンギンを飼う
・動物たちの解放
・図書館でめちゃくちゃ叫ぶ
・明け方の海で花火をする
・ブランド店でファッションショー
・ボドゲカフェのボドゲ全部やる

 こんな感じの項目が、延々続く。

 一部の項目には取り消し線が引かれており、
 例えばゲリラライブなんかが消されているところをみると、
 その線は実施済みであることを意味しているのかもしれなかった。


「なんつーか」と僕は言った。「俗っぽい」

 俗で何が悪い、と彼女は憤った。

「人を駆動するのはいつだって欲望だ。
 技術も、文化も、経済も。
 全部欲望によって発展してきたんだぞ」

「技術も文化も経済も、全部なくなったけどな」

「それでも多くのモノがこの世界には残されている。
 私には地上でやりたいことがまだまだ沢山あるんだよ。
 だから、私は天使にはならないんだろうな」

「どういう理屈だよ」

「単純な理屈だよ。
 ねえ、人が何で空を飛べないのか、君は知ってるかい?」

 はあ、と僕は眉を顰めた。
「……翼がないから、じゃないスか」

 僕の回答に対して、「それは違うね」と、
 チチチと指を振りながら偉そうな顔で彼女は言い、
 僕は少しイラっとする。

「人が空を飛べないのは、自分が飛べないと知っているからだ。
 翻せば、自分が飛べると確信してしまえば、
 人は空を飛べるようになるのさ」


「意味がわからない」と僕は正直に言った。
「それが天使化現象の正体だって?
 空を飛べると確信して、空を飛ぼうとすることが?」

「さあ、わかんないけどね。そうなんじゃないかな。
 きっと人類みんなして、もう次の段階に進んでいい時が来た、
 もう地べたに張り付いている必要なんてない、
 そんな風に気付いちゃったんだよ。

 だから、みんな天使になってどっか飛んで行った。
 飛ぼうとしないひねくれ者とか、
 飛び方がわからない愚か者とかを除いて、ね」

 僕は顔をしかめる。
 その理屈に従えば、この人はひねくれゆえに地上に残ってて、
 僕は愚かさゆえに地上に置き去りにされているってことか?

 まったくもって笑えない話だ。


「人がやがて人ならざるものに進化するなんて、
 SFじゃあ定石の展開でしょ?
 それが思った以上に唐突で急速だったってだけだよ」

「……よく知らないけど」
 SFどころか、小説自体僕はあまり読まないから。

「読みなよ。クラークとかおもしろいよ。
 貸そうか?」

「小説には別に興味ないから」

「何になら興味あるの?」

「…………さあね」


 そういうわけで、と言いながら彼女は僕の手元の紙を取り返す。

「私には残されたミッションが山ほどあるから、手伝いなさい。
 なんか日々が充実してなさそうな鬱屈したツラをしているし、
 君はどうせ暇なんでしょう」

「ほっといてくれよ」

「じゃあなにかやりたいことがあるのかい?」

「……別にないけど」

「じゃ、明日の早朝、またこの家に来なさい。
 それか、別に泊っていってもいいよ?」

 女の人と同じ家に泊まるという思ってもみない展開に、
 僕は少しドキリとしてしまうが、
 仏頂面を保って、平静を装って答える。

「……いや、良い。自分の家で寝る」

「あらそう」
 彼女はにやりとする。

「じゃ、そろそろお帰りなさいな。
 もうすっかり暗くなったしね。
 不慮の事故にあうかもしれないし」

「人がほとんどいないのに、どうやって事故にあうんだよ」

「それでも気を付けなさい。
 事故はいつかどこかで必ず起きるものだよ?」


 帰ろうとする僕を、彼女は玄関まで見送った。

「そういえば、なんて呼べばいい?」と彼女が言った。
「君のこと。強盗君じゃあないんでしょう」

「なんでもいいよ」と僕は言う。
「名前なんて必要ないでしょ、
 どうせ人なんてほとんどいないんだから」

「なんでもいいってのも困るなあ」
 彼女は手を顎に乗せ、考え込むポーズをとる。
「じゃあ、"少年"とかでいっか」

「別にそれでいい」

「じゃあ私のことも好きなように呼びなさい。
 先輩とでも、先生とでも、お姉ちゃんとでも、何でも好きなように」

「……お姉ちゃんだけは、なんか、御免だな」

「遠慮しなくていいのに」

「遠慮とかじゃねえよ」
 気色悪いと思う。
 知り合って間もないのにお姉ちゃんとか呼びだす関係。


 外に出て、壁に立てかけていたクロスバイクを反転させる。

「なあ少年」と、彼女が僕に話しかける。
「思うにね、私たちは幽霊なんだよ」

「幽霊?」僕は聞き返した。

「そう。未練がましく現世にしがみついているわけ。
 成仏できない幽霊みたいにね」

 少年、君の未練はいったい何なのかなあ、と彼女は僕に尋ねる。

 別に何も、と言い残して僕は自転車を漕ぎだす。


 言葉の通りだ。僕には何もない。
 やりたいことも、やり残したことも、なにも。

 街灯も付かない真っ暗な夜道の中を、
 僕は走る。


 ***


 次の日。

 早朝に訪れた僕を、彼女は玄関の前で出迎えた。

「それを飲んだら出かけよう」
 彼女はカバンから水筒を取り出し、中身を蓋に注いで差し出した。

 湯気の立つコーンスープ。
 僕はありがたくそれを口に含む。
 久しぶりに飲むコーンスープはいやに甘ったるい味がした。

「それで、今日は何をしに行くんだ?」

「自由の使者となる」

「はあ?」

「隷属された者たちを解放するのさ」

「あんたはリンカーンですか」

「私はリンカーンではないけれど、後世は私を偉大な解放者として
 リンカーンより先に挙げることになるだろう」

「僕たちに続く後世なんてもうないけどね」

「そういうわけで、目的地はここから自転車でしばらく。
 動物園です。出発!」

「どういうわけ?」


 威勢よく発進した彼女の自転車はオンボロのママチャリで、
 それはまるで老人の散歩みたいなスピードで、
 僕は何度もうっかり置いて行ってしまいそうになった。

 速すぎるよ、と後ろから声が聞こえる度に、
 あんたが遅いんだよ、返しながらブレーキを握る。

「自転車は疲れるなあ」
 隣に追いついてきた彼女が、
 息を切らして僕に言う。

「じゃあ車でも出せば良いじゃないスか」

「私、無免許なんだよ」

「いまさらそれを気にするのかよ」

「確かに法律なんて関係ないけどね。
 でも初めてで上手に運転できる自信はないし、
 もし事故っても診てくれるお医者さんがいない。
 致命的だよ?」

「速度出さなきゃ大丈夫だろ」

「やなものはやなの!」
 年甲斐もなく彼女は口をとがらせる。
 いや、何歳なのか、実際には知らないけれど。


「ねえ、君は好きなの? 自転車」

「いや……」僕は口ごもる。
「別に、そこまで」

「そんなに良さそうなやつに乗ってるのに」

「大したものじゃない。
 ロードじゃなくてお手頃のクロスだし。
 高校入学祝いに親から貰って、
 まあ気に入ってはいたけど」

 僕は頭を掻く。

「別に、所詮は自転車だし。
 行けるところまでしか行けない」

「行けるところまで行けるのは、結構すごいことだけどね」と彼女は言う。


「どこか行きたいところはないの?」

「特に」

「そればかりだなあ少年は」

 彼女は不満げな顔でこちらを向く。
 ふらふらと危なっかしいから前を見て運転してほしい。

「別にない、特にないとナイナイ尽くし。めちゃイケか?」

「古くない?」

「夢でも妄想でも、行けそうにないとこだっていいからさ。
 気になってた場所が一つくらいはないの?」

 そういわれてもなあ、と僕は頭を掻きむしる。


 かなり長い沈黙を経て、そういえば、と僕は思い出す。

「隣の家の玄関に看板が立ててあってさ、
 大きな矢印と、Los Angelsって文字」

「ロサンゼルス」と彼女は僕の言葉を繰り返す。

「親が、これはアメリカの街だって教えてくれて。
 小さいころは、矢印に沿ってずっと進んでいけば、
 いつかはロサンゼルスに辿り着くんだって本気で信じてたな」

「とても良いエピソードじゃん」彼女は満面の笑みを浮かべる。

「行ってみればいいじゃないか。
 いつかはロサンゼルスに辿り着くかもしれないよ?
 なんてったって、地球は丸いんだからさ」

 行けるわけないだろ、と僕は言う。


 そういう雑談を経て、数十分。
 長いサイクリングの果てに僕らは動物園にたどり着く。

 エントランスを潜り抜ける。
 当然のように人は誰もおらず、中は真夜中みたいに静まりかえっている。
 だだっ広い道を進んだ先にはやたらとでかい看板が、
 土埃にまみれて立っている。

「ここからが本番だ。
 少年、何をすべきかわかるね?」彼女は言う。

「動物をここから逃がすとか言い出すわけ?」

「その通り。
 狭い世界に囚われし者たちを解き放つのだ!」

「危なくない? 肉食獣とかいるのに?」

「そこはほら、動物たちもくみ取ってくれるさ、
 私たちの愛を」

「愛が食欲に勝つといいですね」


 くだらない話をしながら歩を進める。
 靴とアスファルトのこすれる音が静かな園内に響く。

「なんか、変だな」

「なにが」彼女の言葉に僕は尋ねる。

「静かすぎる」と彼女は答える。
「気配がない」

 違和感の理由はすぐに判明する。

 動物が、何もいない。

 どの檻にも、どの広場にも、どの水槽にも、何も。


「先を越されたってとこかな」と彼女は言う。

「つまり」僕は言う。
「飼育員か誰かが、とっくに動物たちを逃がした?」

「かもね」彼女は頷く。
「あるいは、動物たちも羽生やしてどっか飛んで行ったとか」

「僕たちは動物たちより進化が遅れてるってわけかよ」

 空っぽの猿山を、僕は眺めてみる。
 その狭い敷地の中で、それなりに幸福に暮らしていたはずの猿は、
 一匹たりとも見当たない。

 まったく、分からなくなってくるね。

 どっちが檻の内側で、どっちが檻の外側なのか。
 囚われているのはどっちだ?


「しかたない、今日は撤退しよう」
 彼女は大きく伸びをして、両手を頭の後ろで組んで、
 諦めたように言う。
「だーれもなんにもいないんじゃ、何もできない」

「リンカーンになり損ねたな」

「大丈夫。
 私は昔リンゴの木を折ったことを
 父親に正直に話した過去があるから、
 もう既にリンカーンなのさ」

「それ多分ジョージ・ワシントンのエピソード」

「したり顔で間違えた! 恥ずかしい!
 穴があったら入りたい!」

「あのミーアキャットの檻、
 穴がたくさん掘られてるよ」

「いくら私が小柄でも、ミーア穴には過分じゃないかな」


 入口まで戻る。
 自転車のハンドルに手をかける。

「さあて、ここからが本番だ」と大仰に彼女が言う。

「何が」と僕は短く返す。

「あの動物園にいた大型の動物。
 ライオン、アムールトラ、スリランカゾウ、カバ、アミメキリンなどなど」

「うん」

「今から私たちは、こいつらが闊歩しているかもしれない街並みを行くわけだ。
 果たして生き残れるかな?」

「どういうサバイバルゲームだよ」

「楽しいね」

「楽しくねえよ」

「楽しもうぜ」

「楽しんでられねえよ」


 高らかに笑いながら彼女は自転車をこぎ始める。
 全力の立ちこぎ。
 実に、楽しそうに。

「なあ、少年」

 その後ろをおっかなびっくりついていく僕に、
 彼女は振り返って、満面の笑みでこう尋ねる。

「明日は、何をしようか。
 希望はあるかい?」

「別に」

「探しておきなさい」

 彼女はそう言った。

「やりたいことを見つけるのが、
 君の宿題だ」


 ***


 で、次の日からも彼女に連れ回される日々が続くわけだ。

 一日一日を挙げていったらきりがない。
 代表的なものにしぼっていこう。


・夜の学校で肝試し

「…………」

「…………」

「あれだね、人いなくて静かなのが最早通常だから」

「全然怖くなんかないスね」

「夜のプールで泳ぐ方に切り替えるか」

「今、真冬だぞ」


・図書館の書庫に忍び込んでみる

「暗くて埃っぽくて全然見えない」

「いやすごいな少年、これ全部本だぞ。
 読み切るのにどれくらいかかるかな」

「一生はかかるんじゃないスか」

「全部読んだら、地上最後の知の巨人になれるな」

「全部覚えて理解出来ればの話だけどね」

「そうだね、良く考えたら読まずとも、
 私はすでに知の巨人たるな」

「たらねぇたらねぇ」

「じゃ、本は全部燃やそう。あと学者も埋めよう」

「唐突な焚書坑儒やめろ」


・試乗車を遠慮なく乗り比べまくる

「すげえ少年、シートの座り心地超良いぞ!
 助手席乗ってみなって!
 さすがは超高級車、レクサス!!」

「レクサスって高いんだっけ」

「たぶん」

「どのレクサスが一番いいんですか」

「知らない」

「ほんとにそれ超高級車?」

「まあレクサスなんだしいい車でしょ」

「でも結局走らせないんだよな」

「怖いもん」


・明け方の海で花火をする

「寒い! 風強え! 花火どころじゃねえ!
 冬の海を舐めるな!」

「まあ落ち着け少年、直に焚火ができるから」

「そう言ってからもう数十分経ってんだよ!」

「いやあ、火を着けるのって、意外と技術がいるもんなんだね」

「とっとと出直しましょう!?」


・交差点でゲリラライブ

「これもうやったろ、しかもまた同じ場所で」

「良い音楽は何回演っても良いものさ」

「あんたの演奏は音楽に達してないんだよな」

「うるさいな、いいから君も楽器を準備なさい。
 通りの向こうにHARD OFFあるから」

「新品じゃないのかよ、妙にみみっちいな」


 言われたとおり向かったHARD OFFの楽器コーナーで、
 ひとしきりギターやベースを触ってみて、
 こりゃ素人がいきなり演奏するのは無理だと諦めて、
 フィーリングだけでどうにかなりそうな打楽器を僕は選択した。

 ボンゴとカホンを抱えて交差点に戻ると、
 彼女はもうすでに準備を終えていて、
 以前も聴いたことのあるあの曲を弾き始めていた。

 演奏は少しだけ上手くなっていて、
 サビの部分はしっかり弾き語れるようになっていた。

 静かな街に、少し音の外れた歌声が響く。

 “This'll be the day that I die
  This'll be the day that I die”

 何度か聞いたからか、
 その歌詞は聞き取れるようになっていた。
 そして、なんとなく意味も。


 “今日が僕の死ぬ日になるだろう”


「向こうの世界にも、音楽ってあるのかな」
 思い付いた疑問をポツリと僕は呟く。

「どうだろう」
 演奏の手を止めて、彼女は答える。
「CDと一緒に置き去りにされたのかもね」

「だとしたら、向こうの世界は随分と無味乾燥だろうな」

「なんなら小説も映画も、娯楽作品は全部持っていき忘れてるもんね。
 人間が作ったものには、
 もう意味なんて見出だせなくなっちゃったのかもしれない」

「そんな退屈な世界なんて、こっちから願い下げだね」

「良いこと言うな少年、じゃあお前の歌を聴かせてやれよ。
 空の上の天使どもに、魂の叫びってやつをさあ!」

「………………いつくしみ深き 友なるイエスはー」

「おい少年、このタイミングで賛美歌は絶対違うだろ。
 こら、止めろ、カホンをロック調で遮二無二叩くんじゃない。
 何だ急にボケ始めて、好きな音楽とかもないのか君には」

「GRAPEVINEとかよく聴くけど」

「じゃあそっちを歌いなよ!」



 GRAPEVINE - 放浪フリーク (Official Live Video)


   https://youtu.be/9fhp4_9jjbk



小休止入ります


 ***


 一ヶ月くらいは経っただろうか。
 日付なんて記録していなかったけど、
 おそらくだいたいそんなもん。
 その頃になると、僕は彼女の家にちょくちょく泊まるようになっていた。

 邪な勘ぐりはしないでくれよ。
 どうせ朝には集合するんだから、
 いちいち自宅に帰るのも面倒ってだけだ。

 いつも彼女は自分の部屋で、
 僕はリビングのソファで寝ていた。

 寝込みを襲いに部屋に忍び込む?
 ああ、そんな発想もあるにはあったさ。
 だけど、僕のチキンっぷりを舐めないでほしい。
 そんなことをして関係が破綻したら、
 いったい明日からどうするってんだ?

 正直に認めよう。
 僕は彼女に依存し始めていた。
 もう一人でいると心細く感じるくらいには。

 一向に生き物の気配がしないこの世界の中で、
 手を引いてくれる、彼女の存在だけが、
 僕にとって確かなものになってたんだ。



 分かっていたさ。

 こんな生活はそう遠くないうちに
 終わるんだろうなってことくらい。


 ***


 さて、とある帰り道だ。

 その日はコーヒー専門店に忍び込んで
 バカみたいにたくさんの種類のコーヒーを飲み倒した後で、
 僕は胃もたれと動悸に苦しめられていた。

「少年」と唐突に、隣を歩く彼女は僕に呼び掛けた。
「そろそろやりたいことは見つかったかい」

「別に」

「もう『別に』回数は優に三桁超えだぞ、
 ここがプレステ4の世界ならトロフィー獲得してるとこだ」

「現実世界で良かった」

「じゃあ後でトロフィー作ってあげるね」

「要らねえ」

「で、本当になにもないのかい?
 衝撃与えたらなんか出てこないかな」

「歩きながらリズミカルに蹴るの
 止めてもらっていいですか」


 べしんべしんとケツに伝わる彼女の蹴りを感じながら、
 何故だろう、僕はとある言葉をポロッと漏らしていた。

「学校」

「うん?」
 蹴りが止まった。
「いまなんか言ったよね」

 僕は押し黙った。
 いや、言いたくなくなったってわけじゃない。
 口を滑らせたあと、果たして何を言いたかったのか、
 自分でよく分からなくなったんだ。

 学校?
 別に学校で何かあったってわけじゃない。
 僕はイジメやトラブルには無縁の生活を送っていた。
 楽しいことも特にはなかったけどね。

「黙秘するな、もうこの世界に黙秘権なんて残されてないんだぞ」

「人権に尊重しろよ」

「もはや社会そのものがないのに人権なぞあるものか」

「横暴だ」


「教えてよ」
 改めて、彼女は言った。
「君のやりたいことってなに?」

 僕は唸った。
 僕は何をしたいんだ?
 考え込む。

 学校。

 学校を。

「……学校を」

「学校を?」

 その後にしっくりくる言葉を探して、
 さんざっぱら悩んだ挙げ句に、僕は言った。

 僕は、学校を。

「学校を燃やしてやりたい」

 彼女はきょとんとした顔をして、
 それから、口を大きくゆがませてにぃと笑った。

「それは素晴らしいアイデアだね」


 何故だか自分でもよくわからないけど、
 なるほど僕は、学校を燃やしてみたかったらしい。

 なので僕たちは、
 学校を燃やすことにした。


 それはもう派手に。

 天まで炎が届くくらいに。


 ***


 と、いうわけで僕らは念入りに準備をした。
 ちょっと前の未遂に終わった花火の反省を活かしたってわけだ。
 人は成長する。
 素晴らしいね。

 通っていた高校と最寄りのホームセンターとの間を
 何度も何度も台車で往復して、
 僕らはありったけの着火剤を学校に運んだ。

 ジェル状のものを廊下や階段に引いて火の通り道を作り、
 固形のものは教室や部屋の中にバラまいた。

 それだけでは物足りない気がして、
 学校に残っていた燃えそうなものはなんでもかんでもぶちまけた。

 誰かのテストの答案も。
 誰かの野球のユニフォームも。
 誰かの描いた絵も。

 全部。

 最後に油と着火剤を塗りつけた木綿のロープを
 校舎の中に伸ばしておいて、簡易的な導火線の完成だ。


 朝から取り掛かったこの準備が一段落ついたのは、
 もう陽も落ちかけた時刻になってからだった。

「絶好の放火日和だ」と、
 物騒極まりないセリフを彼女が言った。

 この日は昼から雲一つない快晴だった。
 夕暮れの空は蒼から茜の綺麗なグラデーションに染まっていて、
 それを背負って建つ薄暗い校舎はやけに荘厳に見えた。

「じゃ、燃やすか」

 散歩に行くみたいな、気軽な調子で彼女は言う。

「君が火をつけるんだろう?」

 僕は頷く。
 右手の大型ライターをカチカチ鳴らす。


 校舎の前に座り込んで、
 転がしてあるロープを手に取る。
 ライターを近くに寄せる。

 着火。
 自分でも意外なほど、
 躊躇いも、逡巡もなく、気軽に。

 ロープを放り投げ、急いで離れて、僕らは校庭まで避難する。
 赤い火がロープを伝って、校舎内に忍び込むのを確認する。

「どうだった?」と彼女は聞いた。
「達成感があったとか、すっとしたとか」

「まだ何も」と僕は言う。
「炎が上がりだしたら、何か変わるかもね」

 そして、僕らは待った。


 黒い煙が少しずつ、少しずつ窓から漏れ始めた。
 やがてその量が増していくと、窓ガラス越しにちらほらと
 赤く踊る炎が見えるようになった。

 それは事前に想定していた、
 校舎全体が激しく燃え上がるような破滅的な大火災ではなくって、
 組み木の中で穏やかに燃える、統制された炎に見えた。

「思っていたほど爽快ではないね」
 彼女は言って、僕は頷いた。

「どうする? 一応目的は達成したけど」

「もう少し眺めてる」と僕は答えた。
 校庭のど真ん中に寝っ転がって、穏やかに赤く染まりながら
 煙をたどたどしく吐き出す校舎の姿を見ていた。

 これに、僕はいったい何を期待していたんだろう?

 僕の人生のつまらなさを、
 この炎が焼き尽くしてくれるとでも思っていたのだろうか。


 ***


 いつの間にか寝入っていた。

 目をこすって体を起こす。

 どれくらい経ったのだろうか、陽はすっかり落ちていた。
 校舎を覆う炎は激しさを増して、何かが爆ぜる音が間断なく響き、
 黒い煙は蒸気機関車のように噴き出されていた。

「よくもまあ、眠れるもんだね」

 隣に座っていた彼女は言った。

「ごらん」彼女の指が空を差す。
「野次馬が来てる」

 空を見上げる。
 そこには天使たちの姿が見えた。


 立ち上る黒煙と、炎に照らされて赤く染まる空。
 その中を天使たちが舞う。

 久しぶりに見る、僕と彼女以外の生き物の姿だった。
 いや、彼らを生き物って呼んでいいのかわからないけどさ。

 十人以上はいるだろうか。
 遠目で見てもそれとわかるような、美男美女ばかりで。
 いやに神秘的な雰囲気をまとって。

 誰も彼が文字通り天使みたいな笑顔を浮かべて、
 優雅に空を飛びながら、校舎の炎を眺めてた。


 綺麗な光景だと思うかい?

 僕には街灯に集る羽虫に見えたね。


 で、気付いたら僕は立ち上がって、
 ブチ切れてた。


「ふざけんな!」

 あまりにも大きな怒鳴り声に自分で驚いてしまったくらいだ。
 一瞬だけ我に返って、それでも僕の怒りは収まらなかった。

「何を見に来てんだよ!
 お前らはこっから逃げたんだろ、離れたんだろうが!
 いまさら、何を戻ってきてるんだよ!」

 全力で僕は叫んだ。


「お前らはずっと楽しそうだっただろうが!
 別に天使になんかならなくても!
 地面にいたまんまでも!
 僕とは関係のないところで、
 ずっと楽しそうに笑ってたろうが!

 向こうでよろしくやってろよ!
 こっちを見にくんな!
 僕を見てんじゃねえよ!」

 大きく息を吸う。
 涙がにじむ。

 今まで一番の怒鳴り声をあげる。

「この炎は、この炎だけは僕のもんだ!」


 膝に手をついて、僕は荒く呼吸をする。
 袖で目をぬぐう。
 拭いても拭いても、なぜだか涙がにじみ出てくる。

「そっか」

 いつの間にか傍らに立っていた彼女が、
 優しく言う。

「君は怒りたかったんだね」

「そんなことねえよ」と反射的に言う。

 それから、少し間を空けて、
「そうかもしれない」と僕は言う。


「致命的な何かがあったわけじゃない」

 僕は、ぽつぽつと語りだす。

「別にイジメられてたわけでもないし、
 家庭がぶっ壊れてたわけでもない。
 具体的な原因は一つもないのに、
 それでもなぜか、高校に入ってからくらいかな。
 妙に全部がうまくいかなくなった」

 彼女は頷く。

「しらけちゃったんだよ僕は。
 学校も部活も友達もマンガもアニメも全部、
 急にあらゆるものがつまらなくなった。
 何も楽しくなかったし、何もやりたくなくなった。
 で、全部ちゃんとやらなくなった。
 するとまた、更につまらなくなるんだよ。

 ぼんやりとした膜に包まれてるみたいだった。
 どうやったら外に出て行けるのかわからなかった。

 僕の人生は、緩慢な絶望だったんだ」

 彼女は頷く。


「周りの奴らはそんなことに関係なくずっと楽しそうでさ。
 気づいたら僕は誰にもついていけなくなって。
 何に怒ればいいのかもわからなかった。
 何を悲しめばいいのかもわからなかった。
 ただ一つだけ分かってたことは、
 僕の怒りも悲しみも、他の誰のせいではなかったし、
 僕の絶望はすべて僕の怠慢の自己責任だ、ってことだった」

 彼女は頷く。

「決定的な何かが起これば、少しは変わると思ってた。
 例えば世界が終わってくれれば、
 僕を覆う絶望が少しは晴れてくれると思ったんだ。

 で、本当に世界は終わった。
 だけどやっぱり、何も変わらなくて。

 みんな僕を放ってどこかに行って。
 相変わらず僕は全部つまらないままで。
 何をやりたくて何をすればいいのかわからないまま、
 ここにずっと取り残されてた」

 彼女は頷く。


「なあ、幽霊なんだろ僕らは。
 いったいなんだったって、
 こんなところに僕は置いてけぼりなんだ。
 僕はもうこんな人生ごめんなんだよ。
 こんな僕に、何の未練が残されてるっていうんだよ」

 彼女は優しく言う。

 優しく。
 だけど突き放して。

「知らないよ、そんなこと」


 僕は黙る。
 彼女は言葉を続ける。

「君のことなんて私は知らないし、知ったこっちゃないよ。
 でも、これだけは言ってあげよう。

 ねえ、何をやってもいいんだ。

 何になってもいいんだよ。

 君には全てに挑戦する権利があり、全てに失敗する権利がある。
 君には全てを楽しむ権利があり、全てに怒る権利がある。
 もちろん全てのほうも君に対して怒る権利があるから、
 怒られることもあるかもしれない。
 でもそれは些細なことだ。ちっぽけな割合だよ。
 君の行く道を阻むものじゃない」

 うつむいたままの僕の頭を、
 彼女は柔らかく撫でる。


「この世界で何をやりたいのか、確かめること。
 それが君の未練なんじゃないのかな」

 僕は泣く。
 静かに。
 だけどとどまることなく、ずっと。

 その間、彼女は僕の頭を撫でていてくれた。


 ようやく涙が収まったころ、
 彼女の手を払って僕は身体を起こす。

「大丈夫?」と尋ねる彼女に、
「大丈夫」と僕は返す。

 それから僕は言う。

「あんたもさ」

 これは少し意地が悪いかもしれない。

「勝手に弟を僕に重ねて、面倒を見るのをやめなよ。
 僕はあんたの弟じゃないし、代わりにはなれないんだからさ」

 でもあんだけ泣き顔を見られたんだ。
 ちょっとした、意趣返しってことで。


「……バレてた?」
 バツが悪そうに、頭をかきながら彼女は言う。

「なんとなく」と僕は言う。

「天使化じゃないんだろ。
 たぶん、交通事故で亡くなったんだ。
 あんたはやけに車を嫌ってたし」

「ご名答」と彼女は両手を挙げる。

「弟は君に少し似ていた。
 顔とか背格好じゃないくて。
 年齢と、あと雰囲気がね。

 幼いころはお姉ちゃんっ子で可愛かったもんだけど、
 大きくなってからはずっとむっつりしててさ。
 この世に楽しいことなんて一つもありませんみたいな、
 不愛想で不細工なツラをしてた。
 ちょうど君みたいな、ね」

 言い返したいが、我慢して黙っておく。


「弟が何考えてるのか、
 気付いたら私には全然わからなくなっててね。
 天使化が始まるちょっと前だったかな。
 ある日の深夜、あいつは無免許のくせに家の車に勝手に乗り込んで。
 真っ暗な道を暴走して、交差点の電柱とガードレールに突っ込んだ。

 で、死んだ。

 何をやりたかったんだろうね、あいつは。
 誰も巻き込まなかったことだけが幸いだったよ」

「それが、あんたが歌ってた場所か」

「意外と君は勘が良いね」

「意外と、は余計だよ」


「So, Bye-Bye, Miss American Pie.
 あの歌は、弟が妙に気に入っててね。
 ちっちゃい頃から頑張って、歌詞覚えて歌ってた」

 彼女は話を続ける。

「私は弟に伝えたかったんだ。
 この世の中には楽しいことがたくさんあるって。
 私は知りたかったんだ。
 弟が何を考えていて、
 それでどうすれば昔みたいに笑ってくれるのか。

 今となって叶えようがない、それが私の未練だったんだ」


「伝えればいいじゃん」と僕は言う。
「一発ひっぱたいて、そっから話を聞いてやればいい」

 彼女は怪訝そうに僕の顔を見る。

「向こう側に、きっといるだろ。
 天使がいる場所は天国だって
 相場が決まってるんだから。
 絶対、会えるよ」

「そうだね」
 彼女は静かに笑う。
「そうかもしれないね」


 しばらく、二人して黙って突っ立ったまま、
 燃え続ける校舎とその周りを飛び交う天使たちを眺めていた。

 帰るかと呟いて、僕は踵を返す。

「もういいのかい」彼女は言う。

「別にいいよ」歩きながら僕は手を振る。
「もう一度見たくなったら、もっかい燃やすことにする」

「その意気だ」と彼女は笑う。

 彼女も振り返り、僕の隣に並ぶ。

「じゃあ、やろうか」彼女は言う。

「何を」

「決まってるだろ」

 彼女は笑う。
 たぶん、今まで一番悪い顔で。

「何かをやり終えたら、
 打上げをするもんさ」


 正直な話、それからのことはよく覚えていない。
 だけど彼女の家のリビングで一晩中、
 いろんなお酒を二人でしこたま飲み漁ったってことは確からしい。


 で、翌朝。

 わけわかんないくらいの頭痛と気持ち悪さに襲われつつ、
 やっとの思いで僕が身体を起こすと、

 やっぱり、もう彼女はいなくなってて。

 机の上には、空き缶と空き瓶の山に囲まれて、
 大きな綺麗な白い羽根が一つ、
 朝日を受けてキラキラ輝いていた。


 僕はそれを摘まみ上げて、
 バイバイ、と呟いた。


 で、思いっきり吐いた。

 最後に恰好つかなくて恥ずかしいけどね。


 ***


 二日酔いが明けたらすぐ、
 僕は旅の用意を始めた。

 支度はあっという間に済んだ。

 着替え。水。缶詰。
 適当にカバンに詰め込んで自転車の後ろに括り付けた。

 背中にはリュックサック。
 その肩ベルトには、
 あの白い羽根を縫い付けておいた。 

 外は暖かくなり始めていた。
 季節は少しずつ春に近づいていた。


 天使になることへの理由が一つできた僕は、
 きっといつか、天使になるのだろう。
 他の人たちと、そして彼女と同じように。

 だけどその前にもう少し、
 この世界を楽しんでやろうと、僕は決めた。

 そしてこの旅の話を手土産に持って、
 彼女に会いに行こう、ってね。


 両手で頬をぺしぺし叩いて、気合を入れる。
 よっしゃ。

 それじゃあひとまず、ロサンゼルスまで。
 行ってみようか。



 僕はペダルを踏む。

 自転車は前に進む。



 「バイバイ、ミス・アメリカンパイ」



おしまい


よかった。

不思議な終焉を迎えた世界観に心惹かれた。素晴らしい発想力。文章も平易で読みやすい。少年が怒りを見せるシーンも良き。構成もうまくまとまってる。

序盤の文章が常時、現在進行形で書かれている点。登場人物の二人、特にお姉ちゃんから年不相応な(恐らく作者の趣味と思われる)がにじみ出てる点。飽きたのか、テンポを考えたのかはわからないが箇条書きと台詞のみで構成された部分の三点が個人的には受け入れられなかった。

他の作品も読んでみたいが、酉ないんか?

1です。過分なご感想をありがとうございます。
平坦な流れからの少年の爆発を骨子として構成しましたので、そこをご評価いただけたのは幸いです。

 ・いまここで起きることの描写は大体現在形で書いているつもり。。。でしたが統一できていませんね。力量不足です。
  現在形で言い切ると文章が締まるという個人的好みです。
 ・おねえちゃん:なんなんでしょうね、気付いたらあの演技がかったキャラになっていました。
  多分少年を相手に、楽しい遊びに連れていってくれる頼りになる愉快な先輩(姉)を過剰に演じていたんだと思います。
 ・ダイジェストシーン:力量不足です。中だるみせずにあの二人が徐々に親しくなっていく日々を描く力がありませんでした。
            なので点テンポよくgh簡潔に。

酉はないですが、過去SSは
「野良兵器を拾った少女のお話」
「ムーディ勝山に受け流された者たちが暮らしている街」
少女「17の誕生日に死ぬ計画を立てたの」
「全身が鉄でできている男の話」
 くらいだったかな。いくつかはカクヨムにも載せています。

失礼、sage忘れてました

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