夜叉神天衣「……行かないで」 (16)

"なんでだろう。わかんない。

たくさん嫌だーっって思ったよ。
痛いのやだし、苦しいの嫌だったよ。誰かが手を差し伸べてくれる夢、何度も見たなぁ、んでも、なんでだろ。なんでだろうねぇ。

逃げようと、したこと、なかったなぁ"

ミミズクと夜の王 - 真昼姫(ミミズク)

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「ふん。来なさい。踊ってあげる」
「…………」

久しぶりのレッスンに心が躍る。
将棋に個人戦はなく、基本的に孤独な棋士は日夜独り研究に勤しむ。そしてその成果を対局で披露する。有体に言って、浮ついていた。私だけが。

「っ……もう、ないわ」
「………」

あっという間に負かされた。
先生は初手から最後の一手まで終始無言だった。怒っているのかしら。弟子があまりにも弱くて。

「あ、あの……もう、一局」
「………」
「っ………」

恐る恐る再戦を望むと先生はやはり無言で機械的に駒を並べ直す。まるで仕事のように。次の対局を楽しむ素振りは感じられない。どうしてなの。

「踊っ……」
「ほら、踊ってみろ」

形勢が良くなったと思い上がった私は沈黙した。ただの勘違いだった。錯覚と呼ぶのも烏滸がましいほど自らの認識を恥じ入る。でも声が聞けた。

「……踊れません」
「だろうな」
「お願い……もう一局だけ」
「……はあ」

溜息に含まれる諦念。見捨てられたくない。

「カァアアアアアアアアッ!!!!」

終盤の入口。竜王が吠える。顎から焔。

「くっ! まだっ……まだ何か……!」

泣きたいくらい彼我の実力差は歴然で。
いっぱい涙が溢したくなくて、俯く自由すら奪われた私の使命はは目の前の竜王に一矢報いることだけで。そんな弟子を師匠は無感情に見据える。

「………」
「っ……」

ちらと様子を伺うと目が合い、そこにあったのは虚のような双眸だった。ガチガチ歯を鳴らしながら盤面に視線を戻すも気になってもう一度だけ。

「………」

再び静かになった師匠は弟子の私を観察していた。盤面など一切見ていない。見ているのはきっと私の所持品。自分の弟子からまだ何か引き出せるのかを見極めている。底を浚われている感覚。

「こ、これで……!」
「もしもし、銀子ちゃん。そろそろ帰るから」

考え抜いて指した起死回生の一手を一瞥すると師匠は彼女に電話して帰り支度を始めた。まだ対局中なのに。逆転した筈なのに。何故。どうして。

「ま、待っ」
「待ったは無しだ」

追い縋る私を振り返らずに八一は告げた。
その意味がわからなくて。納得出来なくて。なんとか引き留めようと気がついたら八一の腰回りに私はしがみついていた。

(せっかく勝てそうだったのに。劣勢になったからって自分の女を言い訳に席を立つなんて、クズッ! クズクズクズクズクズッ!!)

そんな罵倒を口に出さずに飲み込んで私は泣いた。離したくない。離れたくない。見捨てないで欲しい。その感情が涙となって零れ落ちる。

「……行かないで」
「天衣」

非力な私の抱擁は容易く振り払われるかに思えたが、八一は足を止めて振り返り、こう諭した。

「もっともっと強くなれ……また来るよ」
「あっ……」

それだけ言い残して九頭竜八一は去った。
まだ対局中なのに。最後だけ優しくされた。
頭に乗せられた手のひらの温もりが熱い。

(それなら最初から優しくしなさいよ)

そんな文句を呟きながら再び盤の前に座ると景色は一変していて。ついさっき自分が好手だと思っていた一手が大悪手であることを理解した。

「だったらせめて、叱りなさいよ……」

この悔しさと怒りをあえて背負う師匠の背中。
やり場のない憤りは、全て自分自身の責任で。
優しくされたらきっと弱いまま強くなれない。
だから鋼の仮面外さずそれでもやはり優しい。
優しくせざるを得ないほど、私はまだ弱くて。
不甲斐なさと弱さに震えながら駒を仕舞った。

「お嬢様」

日が暮れても私は盤の前から動くことが出来ず、真っ暗で見えない盤上の駒を脳内で動かしていた。見かねた晶が襖を開けて声をかけてきた。

「お嬢様に伝えしたいことがあります」
「あとにして」
「いえ、出来れば今お伝えしたいです」

そこまで言われたら訊くしかない。促す。

「いいわ。訊かせて」
「僭越ながら別室で本日のお稽古を拝見させて頂いたのですが、衝撃の事実が判明しました」
「なによ。言ってみなさい」
「天衣お嬢様に必要以上に厳しく指導された九頭竜先生を不審に思い帰りの道中で訊ねたところ」
「八一がなんだって言うのよ」

やけに勿体ぶる晶に怪訝な視線を向けると深刻そうな顔で真相を告げた。

「あの男はどうも対局中に漏らしたらしく」
「フハッ!」
「天衣お嬢様の最後の一手に痺れて脱糞したなどと抜かしまして、たしかに車内が臭かったです」
「フハハハハハハハハハハハハッ!!!!」

知ってた。抱きついた時に臭いに気づいた。
ずっと堪えていた嗤いが決壊して哄笑する。
敗着ではあるが、脱糞させるには足る一手。

「ずっと黙っていた理由がまさか糞を我慢していたからなんて。まったく、困ったお師匠様ですね」
「ふぅ……師匠が師匠なら弟子も弟子よ」
「と申されますと?」
「私だって、敗着と知って漏らしたもの」
「フハッ!」

八一が帰ったあと、それが敗着だと知って失禁した私の無様を師匠は見たくなかったのだろう。

「ふんっ……次こそは、見せつけてやるわ」
「フハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
「嗤ってないで洗濯の仕方を教えなさいよ」
「はい! お嬢様の下着は高いですからね!」

ふん。1番良い下着は穿いてないんだから。
だから八一。私は待ってる。ずっとずっと。
次のレッスンでまた2人で漏らし合う日を。


【りゅうおうと二番弟子のおもらし!】


FIN

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