新入部員の如月千早さん (27)

「失礼します。合唱部の練習場所はこちらでしょうか」

そう言って千早さんが音楽室にやって来たのは、私が高校三年生になった日でした。
ちょうど、
今年は何人入るかな、そろそろ来てくれるかな、
と部員同士でわいわいと話していた時でした。

とても綺麗な子だな、と思ったのをよく覚えています。
顔もですけど、真っ黒で長い髪の毛や、それから声も。

私たちは椅子から立ち上がって、千早さんの近くへ駆け寄りました。
この学校の合唱部はあまり大きな部活ではありません。
名門校でもなければ、コンクールで特に優れた成績を残した事もありません。
新入部員が必ず入ってくれるという保証はありませんでした。
ですから、千早さんが来てくれたことはとても嬉しかったんです。

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「入部届けは既に、顧問の先生に提出してきました。今日から早速、練習に参加させていただければと」

見学に来てくれたの、と聞いた二年生に千早さんはそう答えました。
見学ではなく、もう入部してくれた。
それを知って、私たちは素直に喜びました。

じゃあ、まずは自己紹介からだね。まずはあなたからどうぞ!
そう言ったのは私でした。
千早さんは、興奮気味の私の様子に戸惑ったのかも知れません。
少しだけ間を置いてから、

「如月千早です。よろしくお願いします」

丁寧に名前を名乗って、頭を下げました。
それから私たちは、千早さんをテーブルまで連れて行って、椅子に座ってもらいました。
全員が着席してから時計回りに、自己紹介を始めました。
それが終わると、みんなで千早さんに色々と質問しました。

出身中学はどこか、合唱の経験はあるのか、得意なパートはどこか。

千早さんは真面目に答えてくれました。
そしてその答えを聞くうちに、なんだかすごい子が入ってきてくれたぞ、という空気になっていきました。
私はもっとこの子に質問をしたいと思い、色々と聞きました。
けれど、いくつか質問したところで、千早さんの様子が少し変わってきました。

「あの、それが何か、合唱と関係が……?」

怪訝そうな顔をして、そう聞いたのです。

「それより、まだ練習は始めないのでしょうか。
時間が限られているのなら、そろそろ始めたほうが良いのでは?」

私たちは少し戸惑い、お互いに顔を見合わせました。
それから、そうだね、と答えて練習を始めることにしました。
みんなの笑顔がぎこちなかったのは、仕方ないと思います。
それでもそのときはまだみんなも、すごく真面目な子だね、と笑いながら耳打ちするくらいでした。

着替えを済ませた私たちは、予定していた練習を始めました。
筋トレや柔軟を、千早さんに教えながら。
もちろん教えるとは言っても、ここの部活でやっているメニューを教えただけです。
それぞれのやり方自体は、千早さんは全部知っていました。
でもそのくらいは、千早さんへの質問を通して大体わかっていたので、私たちも特に驚きはしませんでした。
驚いたのは、そのあとの発声練習です。

本当に、本当に、綺麗だったんです。
ただの発声なのに、千早さんの声に聞き惚れるくらいに。

「あの……?」

眉をひそめた千早さんに声をかけられて、私は初めて、自分が発声を止めていたことに気がつきました。
慌てて取り繕って、私は続きを始めました。
ただ、そうやって練習を続けるうちに、私だけでなく、
他のみんなも千早さんの歌声のすごさに気が付いたようでした。

絶対、この中で千早ちゃんが一番上手だよね。
三年生の子が笑いながら言ったその言葉に、みんなも笑って頷きました。
もちろん私もです。
私たちの中の誰より、千早さんの歌の実力が一番上。
嫌味でもなんでもなく、本当にそう思いました。
他のみんなもそうだったと思います。

なんか、恥ずかしいね。私たちの歌、まだまだだったでしょ?
二年生の子が千早さんに向けて、笑いながらそう言いました。

彼女が言ったのは、今日の午前中に部活動紹介で披露した合唱のことです。
合唱部に興味を持ってもらえるように、できるだけ明るい歌を。
合唱の楽しさを知ってもらえるようにと、そんな風に選曲して、練習した歌です。

繰り返しになりますが、私たちはコンクールで特に良い成績をおさめるような実力ではありません。
技術が拙いことは分かっていますが、
それでも、千早さんは私たちの歌を聞いて合唱部に入ってくれた。
そう思っていました。

でも、そんな私たちの思いは、どこかへ消えてなくなってしまいました。

一人の子が、
せっかくだし私たちの合唱の感想を聞かせて欲しい、と言った時です。
千早さんは考えるように黙ってから、静かに、こう答えました。

「……そう、ですね。もう少し、基礎を徹底した方が良いかと」

ドキッと心臓が跳ねたのが自分で分かりました。
まさか新入部員にダメ出しをされるだなんて、全然想像もしていなかったからです。
でもそれだけでは終わりませんでした。
千早さんは、私たちの合唱に足りない点を一つ一つ説明し始めたんです。
どのパートの何がどう駄目だったから、もっとこういう練習をして何を鍛えた方がいい……。
細かなところは覚えていませんが、そういうふうなことを、丁寧に。

私は本当に驚きました。
でも同時に、本当にすごいとも思いました。
すごい一年生が入ってきた。
この子の真面目さと実力があれば、
もしかしたら次のコンクールではもっと上の賞を取れるかも知れない。
今まで上を目指したことなんてなかったけど、もしかしたら……と。
でも、そんなふうに純粋にすごいと感じたのは、私だけのようでした。

ちょっと、真面目すぎじゃない……?

千早さんが一人で先に帰ったあとの部室で、二年生の子がそう呟きました。
そして、誰も否定しませんでした。
それだけではありません。

ちょっと暗い感じがする。
いきなりダメ出しなんて失礼すぎる。
空気が読めていない。

みんな口々に、千早さんに感じた不満な点を言い出したのです。
悪口、というほどのものではなかったかも知れません。
みんな苦笑いを浮かべていましたし、一応、

真面目なのはいいことだと思うけどね、

というようなことも言っていたので、
彼女たちもきっと、陰口を叩いているというような自覚はなかったんだと思います。
でも私はその空気に居た堪れなくなりました。
その日、私は用事があると嘘をついて一人早く帰りました。

翌日の部活。
みんなが千早さんを無視するだとか、虐めるだとか、
私が心配していたようなことにはなっていませんでした。
ただやっぱり、空気が少しピリッとするような時が何度かありました。

昨日みんなが言っていた通り、千早さんは私たちに比べて「真面目すぎ」ました。
何度も繰り返しますが、私たちはコンクールで優秀な成績を収めたことはありません。
そしてそのことを特に悔しいと思うようなこともありませんでした。
ただ楽しく合唱が出来れば、私たちは良かったんです。

でも千早さんは違いました。
「やるのなら、より上を目指すべき」「そのためには何が必要か考えなければ」
そんな風なことを、少し怒ったような顔で言うのです。
一度や二度のことではありませんでした。
その度にみんなは、うん、そうだね、と苦笑いを浮かべていました。

そんな日が何日か続きました。
千早さんはずっと変わらず、上を目指すための努力を続けていました。
そしてそれと同じだけの努力を私たちもするべきだと、言い続けていました。

「合唱は、一人の実力が飛び抜けていても評価されません。全員に同程度の実力が求められるんです」

けれど、みんなにそのつもりはあまりないようでした。
いえ、みんなだけじゃありません。
私も同じでした。
千早さんの求めるレベルは、努力も、実力も、熱意も、
それまでの私たちのものとはあまりにかけ離れていたのです。

そんな日がさらに何日か続きました。
いつからだったでしょうか。
千早さんは、あまり私たちに話しかけてくることはなくなりました。

ある日、私は顧問の先生から、合唱曲の一覧が載ったプリントを貰いました。
コンクールで歌う曲を選ぶように、と。

先生の指示どおり、その日の部活を曲選びにあてることにしました。
一覧を眺めると、色々な合唱曲が載っていましたが、私はすぐに、いくつかの候補に絞りました。
あまり難易度の高くない、定番の曲です。
みんなも、私と同じような選び方をして、私と同じような曲を候補に挙げていました。

でも、やっぱり千早さんだけは違いました。
彼女が選んだものは、特に難易度の高い曲だったのです。
するとみんなもやっぱり苦笑いを浮かべて、これは流石に無理だよ、と口を揃えて言いました。
でも千早さんは、

「上を目指すには、こういった曲にも挑戦すべきです」

とても真剣に、そう言い切りました。
それでもみんなは苦笑いをやめませんでした。

これは難しすぎるよ。
私たちには無理だよ。
他の曲にしよう?

しかしそんな私たちと対照的に千早さんは眉をひそめました。

「どうしてやりもせずに諦めるんですか?
活動時間を伸ばして、部活動以外の時間にも各々で練習すれば、今からでも間に合う可能性はあります。
実力が足りないのなら、それを補う努力をするべきです。
そのような不真面目な態度で出場するのは、審査員の方たちにも、歌に対しても失礼です」

みんなの苦笑いが消えました。
その代わりに、重苦しい沈黙が流れました。
それから何秒かの間を空けて、三年生の子が早口気味に、もう多数決で決めよう、と言いました。
みんな口々に、そうだね、そうしよう、と言いました。
千早さんは当然、異論を唱えようとしました。
でもそんな彼女の言葉を、多数決を提案した子が遮って言いました。

私たちも歌は好きだけど、歌以外にも好きなことがある。
楽しく合唱をするために部活をしてる。
私たちはあなたとは違う、と。

その時の千早さんの顔は、覚えていません。
多分、見るのが怖くて目を背けていたんだと思います。

結局、千早さんが挙げた曲は選ばれませんでした。
今思えば、これが境目だったのだと思います。

この日からみんな千早さんと距離を置くようになりました。
千早さんもまた同じでした。
彼女はもう、私たちの練習に口を出すことはありませんでした。
一応練習には参加していました。
ただ、誰とも会話をすることはありませんでした。

「私は、コンクールには出場しません」

みんな、大して驚きもしませんでした。
これが私が覚えている、私が部活を引退するまでの千早さんとの最後の会話です。

本当は、話しかけたかったんです。
でも私はそれができませんでした。
私だけでも千早さんの求める努力をすれば良かった。
何度もそう思いました。

コンクールは、いつも通りの結果でした。
その頃にはもう、千早さんはあまり部活に顔を出さなくなっていました。
そのコンクールを最後に、私は引退しました。
聞けば三年生の引退後から、千早さんはぱったりと部活動に来なくなったそうです。

それから数ヶ月、私は千早さんと顔を合わせることなく学校生活を送り続けました。
本当は直接会って話をしたい、そう思っていましたが、
じゃあ何を話すのかと聞かれればそれも分かっていませんでした。
だから、会うことは諦めていました。

ただ、千早さんの姿を見ること自体は、無くなったということはありませんでした。
寧ろ増えたかも知れません。
雑誌で、テレビで、インターネットで、CDショップで。
色々なところで千早さんの顔を目にするようになりました。

店頭に大きく飾られたポスター。
テレビで特集を組まれて、インタビューを受ける千早さん。
そこには、私の知らない千早さんが居ました。
笑顔の千早さんです。
とても素敵な笑顔で話す彼女がそこに居ました。

それを見たとき私は、嬉しいような気持ちと、悲しいような気持ちが同時に湧いてくるのを感じました。
千早さんが幸せそうで良かったという気持ち。
それから、私の居た合唱部は彼女の居場所ではなかったんだという気持ち。

合唱部で、彼女のあの笑顔を見たかった。
もっと言えば、私たちの合唱で、千早さんを笑顔にさせたかった。
千早さんに言わせれば努力もせず、不真面目な私が何を贅沢なことを、と自分でも思います。
けれど、聞いている人が楽しい気持ちになれるような、
そんな歌が好きで、私も楽しく合唱をしようと、そう思っていたんです。

そんな悲しくて、少しだけ悔しい気持ちになりながら、
それでも私は千早さんの笑顔をもっと見たいと思いました。
あの綺麗な歌声も、もっと聴きたいと、そう思いました。

立ち寄ったCDショップで、千早さんのCDを一枚買いました。
それもまた、私の知らない千早さんの歌でした。
楽しそうに、優しく歌う千早さんの歌は、きっと聴く人みんなを幸せな気持ちにするのだと思います。
でも私はやっぱり少しだけ、悲しくなるのでした。

CDには、千早さんのソロライブのチケットの抽選券が入っていました。
せっかくなので申し込んでみると、
あとから聞けばとても幸運なことだったらしいのですが、当選することができました。
開催日は、卒業間近の時期でした。
その頃には受験も終わっているので、心置きなく参加することができます。
私はあの笑顔とあの歌声を、直接見て直接聴くことに、
楽しみな気持ちと少し怖い気持ちを同時に覚えながら、その日を待ちました。

そして、ライブ当日を迎えました。
ライブ会場に居る人たちはとてもドキドキしているようでしたが、私は違う意味で緊張していました。
その緊張が収まらないまま、とうとうライブが始まりました。

マイクを通した千早さんの歌声が聞こえたとき、心臓が飛び跳ねる感覚を覚えました。
それはやっぱり、合唱部にいた頃の千早さんとはまったく違う千早さんの歌声でした。

けれど、もしかしたらCDを何度か聴くうちに慣れていたのかも知れません。
私はその時初めて、根本の部分はあの頃と変わっていないことに気がつきました。
とても綺麗で、透き通るような、でも強い芯を感じさせる歌声。
歌のことを本当に大切に思っている、そこは何も変わっていないんだと、そう思いました。

そこに気付けたおかげで、それからの時間は心配していたよりずっと穏やかな気持ちで過ごすことができました。
千早さんの笑顔も歌声も。
私たちには無理だったけれど、今の千早さんが幸せであればそれでいいのだと、
そんなふうに思えるようになりました。

そうしていよいよ、最後の曲になりました。
名残惜しいな、次のライブも行きたいな、とそう思いながら、私はMCを聞いていました。

「実は最後に歌う歌は、私の歌ではありません。ただ、私にとってすごく大切で……。
でも思い出すと、少しだけ苦々しく感じてしまうような……そんな歌なんです」

千早さんの穏やかな声。
会場をしんみりとした空気が包み込みます。
ただ私は、話を聞くうちに、心臓の鼓動がどんどん早くなるのを感じました。

「今から、一年弱ほど前……とある合唱で、私はこの歌を聞きました。
ですが、歌ってくれた人たちに感想を求められた私は、酷評してしまったんです。
技術が足りていないから、もっと努力するべきだ、って。
けれど今になって思えば……私は、確かに惹かれていたんです。
そうでなければ、私は彼女たちの元へ足を運ぼうなどとは思わなかったはずです。
ただその時は視野が狭く、見えていなかっただけで……。
無意識的なところで、私は間違いなく、その合唱に惹かれていました」

「……とても楽しそうに、歌っていました。
自分たちの楽しい気持ちを、聴いている人に伝えたい。みんなにも楽しい気持ちになってもらいたい……。
そんな想いが込められていた彼女たちの歌は、本当に……素晴らしいものだったんです。
でも、それに気付いていなかった私は、彼女たちの歌を酷評し……。
そればかりか、歌に対する姿勢すら、否定してしまいました。
私は、学ぶべきだったんです。歌は技術や巧拙だけだけではないのだと……。
本当はそこで学ぶべきだったのに、酷く、遠回りをしてしまいました。
ですから、この歌は私にとって、大切なものであり、苦々しいものでもあるんです」

「けれど……ただそれだけで終わらせるわけにはいきません。
もうすぐ、あの日から一年を迎えるこの時に……。
私はこの歌を、感謝と、謝罪と……覚悟を込めて歌います。
今までは勇気が出ずに避け続けてきましたが、直接、想いを伝えに行く覚悟を。
今日、この歌に込めます。それでは、聴いてください――」

千早さんは歌い始めました。
とても優しく、綺麗で、楽しそうな声で。
表情もきっと、笑顔で歌っていたのだと思います。
あくまで想像につきませんが。
私は、歌っている千早さんの顔を見ていません。

私はずっと、タオルで顔を覆っていました。
両目から溢れる涙を止めることができませんでした。

無駄じゃなかったんだ。
新入生に楽しさが伝わるように。
そうやって曲選びに悩んだことも、練習したことも、無駄じゃなかったんだ。
私たちの合唱は、千早さんの心にずっと残り続けていたんだ。

嬉しくて、嬉しくて、涙が止まりませんでした。
千早さんの歌を聴きながら、私はずっと泣き続けました。
声だけは、必死に抑えて。
自分の泣き声で千早さんの歌が聞こえなくなるなんてことは、あってはなりませんから。

結局最後まで、私は顔を伏せたままでした。
けれど分厚いタオルに覆われた瞼の裏には、千早さんの笑顔が映り続けていました。
歌声と同じ、優しく、綺麗で、楽しそうな笑顔が、ありありと浮かんできました。
ただそこには一つだけ、私の願望も一緒に映し出されていました。
瞼の裏で歌う千早さんが居た場所は、ライブのステージではありませんでした。

次の月曜日、私は音楽室に行きました。
既に合唱部のみんなが揃っていました。
私と同じく引退した三年生も含めて。

あの子、本当に来るの?
三年生の子が一人、私にそう聞きました。
うん、きっと。
私は答えました。

あのライブが終わったあと、私はすぐに合唱部のメンバー全員に連絡をしました。
ライブで千早さんが言っていたことを、覚えている限り、みんなに伝えました。
みんなは驚いたようでしたが、嘘でないことはすぐに理解してくれました。
だからこうして全員、集まってくれたんです。

扉が開いたのは、その時でした。

「……お久しぶりです」

緊張したように入ってきたのは、紛れもなく千早さんでした。
そして私達三年生が居るのを見て驚いたようでした。

「あの……もしかして、今日は何か、ご予定が……?」

引退した三年生が居るからには、何か特別な予定があるのかもしれない。
今日自分がここに来たのはタイミングが悪かったか。
千早さんはそんな風に考えたように見えました。
だから私は、単刀直入に言いました。
ライブ、観に行ったよ、と。

「え……?」

千早さんは目を丸くしました。
行ったのは私だけだけどね、と付け加えると、彼女は見開いた目を私の周りのみんなに向けました。
そしてみんなの表情を見て、事情は把握しているのだと理解したようでした。
千早さんは、覚悟を決めたように唇をきゅっと引き結びました。

「まず一言、謝らせてください……。皆さんには、色々と、嫌な思いをさせてしまったと思います。
本当に、ごめんなさい。それから、謝るのがこんなに遅くなってしまったことも……」

そう言って千早さんは深々と頭を下げました。
みんなはやっぱり、驚いていたようでした。
けれど、信じられないという顔ではありません。
寧ろ、自分たちにも謝るべきことはあるのに、とそんなふうに思っているように私には見えました。

ううん、いいの。私達も、無視とかして、ごめんね。
初めにそう言ったのは私でした。
それに続いてみんなも、同じように謝りました。

「ありがとう、ございます……」

そういった千早さんの表情は、とても安心したように見えました。
そしてそれ以上はもう、どちらも謝ることはありませんでした。
本当に悪いのはどっちだとか、そんなことを決めるつもりもありません。
ただ、お互いに謝れればそれで良かったんです。

それから千早さんは、先日のライブで言ったことを、みんなに直接伝えました。
つまり、部活動紹介で披露した合唱について。
今度はみんなの方が、安心したような、嬉しそうな、そんな顔を浮かべました。
何人かは照れたように笑って、ありがとう、と言いました。
その頃になってようやく千早さんも笑顔になりました。

そうしてひとまず伝えるべきことは伝えたかな、と私が思った時、
千早さんが、おずおずと口を開きました。

「あの、実は一つだけ、お願いがあるんです。聞いていただけますか……?」

その言葉に私たちは顔を見合わせました。
でも断る理由はありません。
うん、いいよ、どうしたの?
そう問い直すと、千早さんは一瞬だけ目を泳がせたあと、真っ直ぐに私たちを見つめ直して、

「あの時の歌を……一緒に、歌わせてください。
大切な歌で、みなさんに、感謝の気持ちを伝えたいんです」

その場が一瞬だけ静まりました。
そして一転、わっと湧き上がりました。

いいね! 歌おう! 楽譜持ってこなきゃ!

そんな風にして、みんなすぐに合唱の準備を始めました。
バタバタと動くみんなを見て千早さんはまた目を丸くしたあと、嬉しそうに笑いました。

整列した私は、千早さんを隣に呼びました。
千早さんは笑顔で、お礼を言って、私の隣に立ちました。
二年生の子がCDプレイヤーの再生ボタンを押して、パタパタと列に戻ります。
そして、伴奏が流れ始めました。

すぐ隣から聞こえる千早さんの歌は、やっぱり、とても綺麗で、上手でした。
優しくて、楽しそうで。
きっとみんなも私と同じ感想を抱いていたのだと思います。

その時の合唱は、多分私たちの学校生活の中で一番……
いえ、人生の中で、一番ヘタクソな合唱だったと思います。

途中からみんな何度も声が裏返り、音程が外れていました。
喉や唇が震えて声が出なくなる時もありました。
まともに目を開けることもできませんでした。
ちゃんと歌えているのは、千早さんだけでした。

歌い終わったあと、私はすぐに千早さんに目を向けました。
その時になって初めて、千早さんの目にも涙が浮かんでいることに気が付きました。

「……すばらしい歌を、本当に……ありがとうございます」

うるんだ瞳でにっこりを笑った千早さんの手を握って、私はただただ泣き続けました。

私の、高校生活最後の合唱は、今までで一番ヘタクソな合唱でした。
でも間違いなく……今までも、これから先の人生の中でも。
この上なく素晴らしい、最高の合唱でした。

これで終わりです。
付き合ってくれた人ありがとう、お疲れ様でした。

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