千早「キスしないと出られない部屋……?」 (38)

目が覚めたらまず見慣れない天井が目に映った。
現状を理解しないまま、上体を起こして周りに目をやる。
色々な見慣れないものが目に映った。
でもそのほとんどは私の意識を素通りした。

春香「すぅ……すぅ……」

真っ白な一つのベッドに、私と春香は隣り合って寝ていた。
春香は未だ気持ちよさそうに寝息を立てている。
でも今は間違いなく、寝ている場合なんかじゃない。

千早「春香、起きて、春香……!」

春香「ん……ん? あれ?」

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肩を叩いて声をかけるとすぐに目を覚ましてくれた。
それから一秒か二秒、私を見つめて、

春香「おはよう、千早ちゃん……?」

疑問符のついたような挨拶。
まだ少し寝ぼけているみたいだけれど、春香も一応、
自分が今置かれている状況をおかしく思ってはいるみたいだ。

春香「えっと、私……ここ、どこだっけ?」

千早「私も分からないわ……。あなたと同じで、目が覚めたらここに居たの」

春香「え? それって……」

眉をひそめて周囲を見回す春香。
それから何秒か経って、ようやく彼女の寝ぼけ眼は開いたようだった。

春香「え、ええっ!? ど、どういうこと!? ここ、どこ!?」

千早「は、春香、落ち着いて。まずは状況を……」

そんな風に春香に声をかけた時、ふと思い出した。
そう言えばさっき周りを見回した時、気になる何かがあったような気がする。
確か向こうの方に……

千早「!」

あった。
壁に埋め込まれた液晶。
表示された文字。
春香も私の目線を追って気付いたようだった。

春香「え……な、何、あれ?」

千早「……『キスしないと出られない部屋』……」

そう表示されていた。
正確には「キス」の横に括弧書きで(唇同士)と付け加えてあった。

どういうことだろう。
理解が追いつかない。

意見を求めるため視線を春香に戻す。
すると、何か慌てたように目線を逸らされた。

千早「春香……?」

春香「あ、えっと……な、なんだろうね、これ! ドッキリか何かかな!」

春香は慌ただしく目線を動かしながらベッドから降りる。
私もそれに倣って降り、立って改めて液晶を見直した。

千早「ドッキリ……そうね。そう考えるのが一番自然、かしら。
   でも、一体どういう趣旨の……? よく分からないわ」

春香「そ、そうだよね!
   いくら友達でも、キスはちょっと恥ずかしいっていうか……!」

千早「えっ?」

意表をつかれたような感覚に、私は思わず春香に向き直る。
相変わらず落ち着かない様子の春香の横顔に目を向けて、
その時になってようやく、あまりに遅すぎるけれど、気がついた。
つまり、キスをするのだとすれば、それは私と春香なのだということに。

どうやら状況に混乱していたのは私の方だったみたいだ。
春香に言われるまで、液晶に表示された文字を
どこか自分とは関係ない遠くのもののように感じていた。

でも今ようやく、実感が追いついた。
そうだ、私なんだ。
私と春香なんだ。
私と春香が……。

春香「ち……千早ちゃん? 大丈夫?」

心配そうな声に意識が引き戻される。
見れば声色のとおり心配そうな顔で春香がこちらを見つめていた。

千早「え、ええ、大丈夫よ。少し、考え事をしていただけ」

春香「大丈夫ならいいんだけど……。
   考え事って、やっぱりこの部屋のこと? 何か分かった?」

千早「いえ……ごめんなさい、何も……」

春香「そっか、そうだよね……。うーん……やっぱりテレビの企画とかかなぁ」

そのまま二人とも黙り込んで、沈黙が続く……。
と思ったけれど、春香がすぐに顔を上げて、言った。

春香「よくわからないけど、取り敢えず調べてみようよ!
   あそこのドアとか、家具とかも色々!」

それから私たちは部屋を調べ始めた。
部屋に唯一あったドアは、当たり前だけれど、開かなかった。

それから部屋に置いてある家具。
ただそっちの方は、調べれば調べるほど、驚きの連続だった。

千早「すごい……。これも、これも、すごく貴重なCDだわ。
   この棚、本当に珍しい曲ばかり……」

春香「わっ……! こっちもすごいよ千早ちゃん!
   お菓子作りのための材料も道具も、全部揃ってる!」

まるで私たちのために揃えられたようなたくさんの品。
それ以外にも、映画のDVDや本、水や食べ物も十分に備えてあって、
この部屋だけで何日も暮らせる程度の設備が整えられていた。

ただ、それはつまり……条件を満たさない限り
数日間は閉じ込められるという可能性を示しているのと同じことだ。

仮に何日間も拘束されたとして、アイドルの活動に支障は出ないのだろうか。
いや、これがテレビの企画なのだとすれば、もう既に仕事は始まっている……?
やはりどこかにカメラがあって、私たちの様子を記録しているのかも知れない。
だとすれば悪趣味な気もする。
プロデューサーは本当にこのことを了承して……

春香「ね、千早ちゃん」

千早「! 春香……何? どうしたの?」

春香「どう、しよっか? いろんなものはあったけど、
   やっぱり部屋からは出られないみたいだし……」

千早「……そう、ね」

春香「食べ物はあるから、このまま何日か、暮らそうと思えば暮らせると思うけど……。
   でも……早く出た方が、きっといいよね?」

うつむき気味に、チラと液晶に目を向ける春香。
それから顔を上げて、困ったように笑って、

春香「してみよっか、キス……。
   ちょっと恥ずかしいけど、すれば出られるって書いてあるんだし!
   それに女の子同士なんだから別に気にすることもないし!」

やっぱり、そう言ってきた。
春香ならきっと明るくそう言うと思ってた。
少し抵抗はあるようだけれど、それでも明るく、私に好意を向けてくれる。
こんな状況でも、やっぱり春香は春香だ。

でも。
でも私は……。

春香「千早ちゃん……?」

その声を聞いて私は初めて、自分が春香から目を逸らしていたことに気付いた。
反射的に向け直した視線の先には、少し前の笑顔とはまた違う表情を浮かべた春香が居た。

春香「そ……そっか、そうだよね。ごめんね、変なこと言っちゃって。
   なんか私、焦っちゃってたみたいで……あはは」

ぎこちない笑顔。
その笑顔から私は、自分がどんな表情をしていたのか察した。

  『春香とキスをしたくない』

そんな私の想いが……本音が。
そのまま表情に出てしまっていたんだ。

春香「何日かこのまま待ってればさすがに出してもらえるよね?
   食べ物も飲み物もあるんだし、本とか映画とかもあるし。
   無理にキスなんてしないで、普通に楽しく過ごしちゃおっか!」

そう言って明るく笑う春香。
でもきっと……いや、間違いなく、私はさっき、春香を傷つけた。

あなたとキスしたくないわけじゃない……。
一言でもそう言えれば良かったのだけれど。
言えなかった。
長い間他人と深く関わることなく、興味も持とうとしなかった私の口は、
キスという単語が喉より上に出てくることすら押しとどめて、

千早「……ごめんなさい」

ほとんど吐息のような、掠れた謝罪の言葉を辛うじて発しただけだった。

私がキスを拒んでから少しの間、当たり前だけど少し気まずい時間が続いた。
でもそれは、二人で音楽を聴いたり、お菓子を作ったりするうちに、いつの間にか解消された。
その頃になると私も多少は気持ちに余裕が生まれたのか、
作ったお菓子を食べながらふと、日課の発声をしていないことを思い出した。

千早「ごめんなさい、春香。
   うるさいかも知れないけれど、今ここで発声をしてもいいかしら……?」

春香「うん、いいよ! あ、じゃあせっかくだし私も一緒にやってもいいかな?」

千早「ええ、もちろん。それじゃあ、一緒に」

そうして、私たちは二人で発声を始めた。
状況を考えればおかしなことかも知れないけれど、
それでも毎日の日課をこなすことは、私の心を落ち着かせてくれた。

ただ、発声だけでは終わらなかった。
せっかくだから歌唱の練習もしよう。
そう言えばここの振り付けが難しいんだっけ。
そんな風に話をするうちに、いつの間にか私たちは本格的にレッスンを始めていた。

春香「――はあ、はあ……どうかな千早ちゃん、今のダンス!」

千早「ふう……。ええ、良くなっていたと思うわ。
   でも、あと一歩というところかしら」

春香「そっか……じゃあ、もう一回!」

額を汗に濡らして、春香は始めのポジションに戻ろうと駆ける。
楽しそうな春香の様子を見て、
また私自身もレッスンに熱中していたこともあって、
この時にはもうすっかり、キスのことなんか頭から離れていた。
そう、この時までは。

春香「えへへっ。よーし、今度こそ完璧に……って、わ、わっ!?」

千早「! 春香……!」

突然何もないところでバランスを崩した春香。
私は咄嗟に手を伸ばして、辛うじて春香の体を支えることに成功した。

春香「あ、危なかった……。千早ちゃん、ありがとう」

千早「もう、春香ったら。こんな時にまでこけそうに……」

と、言いかけた私の唇が止まる。
春香の顔が、すぐ目の前にあった。
体を支えるために思い切り抱き寄せたせいだった。

こういうことは初めてじゃない。
こけそうになった春香の体を支える。
似たようなことは何度かあった。
でも、思い出してしまった。
今の私が置かれている状況を。

春香「……ごめんね、ありがとう!
   えへへ、気をつけなきゃね! さ、次こそ完璧に踊るぞー!」

笑顔を浮かべて私から離れ、ダンスの準備をする春香。
でもその笑顔の直前、少しだけ寂しそうな顔をしたことに私は気付いた。
きっと私はまた、春香を傷つける表情をしていたに違いない。
キスを拒んだことを思い出させるような表情を。

私は、春香を傷つけたまま。

それから二人でのレッスンは続いた。
少なくとの表面上は、気まずさもなく上手くやれていたと思う。
ただ私の心の内は晴れなかった。

……このままじゃいけない。
せめて、私の気持ちだけでも。
誤解のないようにきちんと話しておかないと……。




春香「それじゃおやすみ、千早ちゃん」

そう言って春香は手元のリモコンを操作し、明かりを消す。
この部屋は地下にでもあるのだろうか。
消灯してしまえば本当に真っ暗になり、
目の前にかざした自分の手さえも見えなくなる。

その暗闇は、思考に沈み込むのにちょうど良かった。
それにどんな表情を浮かべていても、春香に見られることはない。
だからもう一度落ち着いて、整理しよう。
春香との……キスについて。
そして伝えよう。
春香が寝てしまう前に。

千早「……春香」

明かりを消してから何分かが経った頃、仰向けのまま、呟くように。
まだ起きていることを祈るように。
私は名前を呼んだ。

春香「どうしたの?」

すぐ隣から返事が返ってくる。
私は暗闇を見つめて何度か呼吸し、

千早「一つだけ……言っておきたくて。
   私は、決して春香のことが嫌いというわけじゃないの……」

春香「えへへ……大丈夫、わかってるよ。
   だって私たち、すごく仲良しだって評判じゃない!
   雑誌とかでも仲良しコンビだーなんて言われちゃって」

千早「……キスの、ことなんだけど」

春香の息遣いがほんの一瞬、途切れた気がした。
でも構わず続ける。

千早「ごめんなさい……。私、ひどい態度を取っていたと思うわ。
   春香の好意から目を背けるようなことをして、本当に……」

春香「い、いいよいいよ、気にしないで!
   いくら女の子同士だからって、簡単にキスなんてできないの、当たり前だよ!」

千早「……」

春香「そりゃ、できる子も居るだろうけど。
   私だって嫌がってる子に無理やりなんて……」

千早「違うの!」

反射的に出た言葉。
昼間は出なかった言葉。
これが私とって良かったのか、悪かったのか、分からない。
でももう止めようとは思わなかった。

千早「春香とのキスが、嫌だなんて、そういうわけじゃないの、ただ……。
   ……できない、って、思ったの……するわけにはいかない、って……」

春香「え……?」

千早「キス、というのは……とても大切な、愛情表現で、だから……。
   本当に好きな人が、好きな人同士で、するものだって、そう思うから……。
   は……春香は私にとって、とても……とても大切な人。
   私にはないものを、たくさん持ってて……羨ましくて、尊敬できる……」

春香「……千早ちゃん」

千早「でも、だから……」

だから……だから私は、春香に、キスはできない。
私なんかが、春香とキスするなんて、できるはずがない。
大切な人同士でする、大切なことだから……。
春香のキスは、私なんかより、もっと、もっと、大切な人と……。

春香「……おんなじ、だね」

千早「え……?」

暗くて何も見えないのに、私は思わず春香に顔を向けた。

春香「私も、同じだよ。千早ちゃんは私にとって尊敬できる人。
   羨ましくて、憧れで……大切で、大好きな人。だから……」

声が近いような気がする。
春香も、こっちを見てくれてるのだろうか。

春香「……ね、千早ちゃん」

声が少し、震えている。

春香「もし、私が……千早ちゃんに、キスして欲しい、って言ったら……してくれる?」

千早「……春、香……」

ベッドが揺れた。
私のお腹の辺りに何か触れる。
春香の手。
そこから、探るように。
胸元、肩、首筋、そして頬に添えられる。
吐息を感じた。

千早「……!」

触れた。
唇に、春香の……。

春香「……えへへ」

春香の笑い声。
照れたような、恥ずかしいような、嬉しいような、声。
きっと彼女の顔も、そんな風に……

千早「っ……ぅ、っ……」

こんなにも鮮烈に。
こんなにも直接的に誰かの愛情を感じたのは、いつ以来だろう。

私は、これほどまでに求めていたのか。
唇同士が触れ合っただけで。
ただそれだけの行為で、こんなにも満たされるだなんて。

鼻の奥がつんとする。
喉の奥が締まる。
嗚咽が漏れる。

止められない。
まるで受けきれなかった春香の愛情が、涙になって、嗚咽になって溢れ出すように。

春香「っ……!」

自分の泣き声に混じって、春香が息を呑む音が聞こえた。
いけない、これではまた誤解させてしまう。
「自分がキスしたせいで泣かせてしまった」
そんな風に思わせてしまう……!
違う、違う!
私はただ嬉しくて、幸せで……!

なのに、声が出ない。
ただただ嗚咽が喉奥から漏れ出すばかり。
このままじゃ、私はまた春香を……!

春香「ち、千早ちゃん、ごめんなさ……」

千早「っ……!!」

私は、春香に向けて、手を伸ばした。

頭を強引に引き寄せる。
勢いに任せて自分の顔を寄せる。
唇が、多分、頬の辺りに当たった。
違う、ここじゃない、もっと、右、ここ、違う、こっち、もっと……!

何度目かで私はやっと、春香の唇を探り当てた。
何秒も何秒も押し当てる。
息はずっと止まっていた。

千早「っはあっ……! はあっ、はあっ、はあっ……!」

唇を離し、嗚咽の息苦しさもあって、喘ぐように呼吸する。
多分春香の顔に息を吐きかけてしまっていたと思うけれど、
そんなことを気にする余裕はなかった。
ただただ必死だった。
伝えないと。
春香に想いを、気持ちを、伝えないと。
そうやって、滑稽なほどに必死な私の行為と想いは……
体ごと、春香に力強く、受け止められた。

私の体を、頭を、春香の腕が抱きしめる。
少し息苦しいほどに、強く。

私も春香を抱き返す。
そして、声を上げて泣いた。
この涙が何なのか、私にも分からない。
堪えきれない感情の全てが、行き場を失って涙になって流れ出ていた。
でも、どれだけ溢れても、春香が全部受け止めてくれる。
そんな想いが、安心感が、きっとそこにはあった。

泣きじゃくる私の頭を、春香は優しく撫でてくれた。
時折耳元で、春香が鼻をすする音が聞こえてきた。
そのことが、春香も一緒なんだって、思わせてくれた。
だから私は思い切り泣いて、泣いて……
いつの間にか、眠っていた。



目が覚めた時、隣に春香は居なかった。
私は自宅のベッドに一人で寝ていた。
天井も、何もかも、見慣れた自分の部屋だった。
携帯電話を手に取り日付を確認する。

千早「……」

自室で眠りについた日の、翌日の日付が表示されていた。
つまりあの部屋で過ごした一日は……全部、夢だった。

……だとしたら私は、なんて夢を見てしまったんだろう。
夢には自分の潜在的な願望が現れるという話を聞いたことがある。
「春香とキスしないと出られない部屋に閉じ込められる」……。
そんな夢を見たということはつまり、私は……。

いや、そんなことはない。
大体、春香とは今でも十分に仲は良いのだし。
これ以上おかしなことを考えないよう、まずは顔を洗って気持ちを切り替えよう。

……でも、もし仮に、本当にあんな状況に置かれたとすれば、
私は、どうするだろうか。
春香と……キス、できるだろうか。
春香と……。

洗面台につき、鏡に映った顔を見る。
その瞬間、ぎょっとした。
なんて顔をしているんだ。
真っ赤じゃないか。
しかもこんなおかしな表情で。

駄目だ、こんな顔で事務所に行くわけにはいかない。
それに今日は春香とのレッスンがあるんだ。
気を引き締めなければ。

冷たい水を打ち付け、頬を数度ピシャピシャと叩く。
頑張ろう。
少なくとも人前で、あんな表情を見せないように。

事務所の前に着く頃には、ある程度気持ちの切り替えはできていた。
少なくとも今のところは。
春香の顔を見たとき、おかしな反応や表情をしてしまわないかが不安だ。
深呼吸し、扉を開ける。

千早「おはようございます」

……返事はない。
まだ誰も来ていない?
プロデューサーや音無さんは外に出てるのだろうか。

そんなことを考えながら数歩歩いたところで、ソファに一人、座っているのが見えた。
それが誰か、後ろ姿ですぐわかった。
一瞬だけ心臓が跳ねた。
けれどそんな私が話しかけるより先に、その子は振り返って、

春香「おっ、おはよう、千早ちゃんっ!」

今朝鏡で見た表情で、そう言った。

これで終わりです。
付き合ってくれた人ありがとう、お疲れ様でした。

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