中野有香の後輩の話。 (19)


俺が敬愛する道場長曰く、空手の型とは体に染み込ませるもの、なんだとか。

型は練習した時間が物を言う。

どれだけ身体能力が高くとも、考えてから拳を出すのと、体に染みついたものとでは、やはりキレが違う。

俺は型のそんなところが好きで、道場での稽古も、家での自主練習も型ばかり繰り返していた。

一方、俺は組み手が滅法苦手だった。

個人で完結しないそれは、対戦相手との腹の探り合いに始まり、繰り出された突きや蹴りへの咄嗟の対応など、たった数分間のうちにたくさんのことを考えなければいけない。

もちろん、体を動かしながら。

これは俺の性には合っていないな、と子供ながらに早々に見切りをつけたことを今でも覚えている。

しかし、道場での稽古に参加する以上は一人だけ組手をサボるわけにもいかず、いつも組手の時間は憂鬱だった。

右拳を出すか、左拳を出すか、上段か中段か下段か。

はたまた蹴りか。

蹴りの場合は、上段? 中段? 下段?

そんな具合で、脳が焼き切れんばかりにぐるぐると頭を回しているうちに相手の突きや蹴りが飛来して、その度に道場長の「一本!」という大きな声を聞かされるのだった。


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小学二年生の時、道場に一人の女の子が入門した。

女の子の名前は、中野有香。

歳は俺のひとつ上。

まぁ、そこそこ大きな道場だから、女の子が入ってくることは別に珍しいことでもなんでもないが、彼女はちょっと特別だった。

なぜかと言うと、中野さんは型は教えられたそばからすぐ覚えてしまうし、組手も男子顔負けだったのだ。

……俺がその女の子に、幾度となく負かされたことは言うまでもない。


それでも、俺は型だけは優秀だったから、型の稽古の間はヒーローだった。

みんなの前で手本として、型を披露する。

拳を突き出して、大きな声で気合を入れ、残心。

「押忍!!」

ぱちぱちぱちぱち、と拍手に包まれるこの瞬間が俺は大好きだった。

道場でも、大会でも、俺が型を披露している間は、全ての視線を独り占めできる。

たくさんの人が、俺の日々積み重ねたものを見て、感嘆の声を上げる。

これが、これこそが俺が型が好きな理由だ。


いつも型の稽古に入る前は、全体の手本として俺がみんなの前で披露するのが常だった。

道場長が俺の名前を呼ぶ。

「押忍!!」と返事をして、「始め」の合図を待つ。

けれども、道場長の口から出たのは「始め」の三文字ではなく、「中野」の三文字だった。

状況がよくわからず、呆然としていると、中野さんが少し控えめに「押忍っ!」と言いながら出てきて、俺の横で構えた。

あれ。

今日は俺だけじゃないのかな。

そんなことを考えていたところやっと「始め」の合図がかかる。

動きに合わせて、道着が空を切る。

ばっ、ばっ、ばっ、とぴったり重なった二つの道着の音が響く。

そして、残心。

拍手と「おおー」という声に包まれる。

でも、きっとこれは俺に向けたものではない。

こうして俺はお山の大将であることさえ、できなくなってしまったのだった。


それから、みんなの手本は俺と中野さんの二人で行うようになった。

だから、ってことはないと思うけど、俺は少しだけ中野さんと話すようになった。

最初は才能の違いを妬んだし、悔しかったから、冷たい態度を取った。

「中野さんは組手も型も、一番ですごいね」

そんなことを少しイヤミっぽく言ったことがある。

そうしたら、中野さんは「まだまだですよ。それに、型はまだ一番じゃないです」と言ってあははと笑うのだった。

このときになって、ようやく、中野さんは俺を追い抜く気でいるのだ、ということに気が付いた。

ならば、コイツの倍練習してやろう、と思い「いつもどれくらい練習してるの?」と聞いてみる。

すると、中野さんはまたしてもあははと笑って「学校にいるときと寝てるとき以外は、全部です!」と言った。

怖いと思った。


努力を積み上げて、猛スピードで俺の隣にまでやってきた彼女は、このままではそう遠くないうちに俺を追い抜くだろう。

ああ、うん。

このままでは。

だから、俺は練習の量を彼女と同じレベルまで増やすことに決めた。

このときの俺は上手くなりたいという綺麗なものではなく、ただただ中野さんに負けたくないという感情のみで動いていた。

こうなってくると、組手で負けっぱなしな自分にも腹が立ってくるので、嫌いな組手も練習することにした。

俺達、小学生と中学生の練習の後は、高校生や大人達の練習の時間になる。

これしかない、と思った。

だから、道場長に居残りで大人の練習に混ぜて欲しいと頼んだところ、道場長が理由を聞いてきたので「組手も、強くなりたい」と言うと道場長はすんなり承諾してくれた。

大人たちの突きや蹴りは、やっぱりパワフルで一つ一つの音が違う。

あれが当たったら死んじゃうだろうなぁ、ってくらいのものを相手に繰り出していく様は、正直見ていて怖い。

でも、ここで練習したら、あいつに勝てるようになるんじゃないかと思うと、自分の中で何かがめらめらと燃える。

立ち止まってはいられない。


俺が練習させられることになったのは、相手の突きや蹴りを捌いて、直後の隙にこちらの攻撃を放り込む、所謂カウンターと呼ばれるものだった。

しかし、普段見ている突きや蹴りの何倍も速い大人たちのそれを捌け、というのも無理な話で、最初のうちは何もできないままに負ける毎日だった。

大丈夫。

負けることには慣れてる。

ひとつひとつ強くなろう。

そう思って、攻撃をするという意識をやめることにした。

まずは相手の攻撃を捌けるようにする。


練習を続けるうちに、少しずつ攻撃を捌けるようになってきた。

一回、二回、繰り出される突きや蹴りを払い落とす、打ち落とす。

道場長の「一本」という声を聞くまでの時間が少し長くなった。

これならば、と意気揚々と攻撃に臨む。

けれど、問題がひとつあって、それは、攻撃した直後が一番の隙であることは俺も例外ではないということだ。

今度はその隙目掛けて突きや蹴りを放り込まれる日々が始まった。


寸止めと言えども、当たるときは当たる。

というか、ぶっちゃけ普通に当たる。

だから、学校の水泳の時間なんかは、体にできた青あざを心配されることが多かった。

治しては、道場であざを作って帰ってくる。

もうそれが日常になってしまっていた。

そんな生活を二年、三年と続けていると、青あざができる頻度はだんだんと落ちていった。

少しずつ、勝てるようになってきたのだ。

年少部では中学生相手でも、そこそこ勝てるようになった。

小学生の中では、最底辺から二番にまでのし上がって見せた。

あと一歩を詰めれば、晴れて俺が一番となる。

てっぺんで、相変わらずあははと笑うあいつを今年のうちに倒さなければならない。

なぜ今年のうちかというと、中学生からは組手の相手は男女別になるからだ。

あいつは、中野さんは、現在六年生。

このままでは勝ち逃げを許すことになる。

それだけは避けなくては。


けれど、現実は無情だった。

勝ち逃げなぞ許すものか。

その一心で練習に励んできたが、とうとう敵うことはなかった。

あの正拳を、あの高回し蹴りを、あの段蹴りを二度ともらうことがない、と思えばせいせいするが、どうにも心が落ち着かない。

あの「押忍っ! よろしくお願いします!」と無駄に元気な声を直接受けることがないと思うと、なんとも言えない気持ちで胸が満たされる。

もう、二度と、俺は中野有香に、勝てない。

その事実だけが、重く残った。

空手をもうやめてしまいたい、とさえ思った。

でも、やめられなかった。

めざましなんてセットしなくとも、朝は5時に目が覚めるし、筋トレをしないと、寝付けない。

俺は空手のない生活の仕方が分からなくなっていた。


中学に上がっても、結局はやることは変わらなかった。

朝から走り込みをして、朝練をして、学校へ行く。

学校が終わると、そのまま道場へ出て、年少部から大人の部までぶっ通しで練習。

帰って飯を食べたら、型の練習や筋トレ。

あとは風呂に入って寝るだけ。

勉強は、まぁ、得意ではなかったけれど、幸いなことにどっかの誰かのおかげで、空手だけは得意だったから、推薦という形で進路はぽんぽんと決まった。

しかし、流石に、高校にもなると、少し勉強が大変になった。

中学までは悲惨な結果の答案用紙が返ってきても、なんとも思わなかったが、今はそうはいかない。

進級がかかっているし、追試になんてなってみろ、練習時間が取れなくなる。

俺は要領が悪いから、テストの度にクラスの秀才にぺこぺこ頭を下げて教えてもらっていた。

一方で空手の方は、というと高校一年のときにインハイベストエイト。

今年は……準優勝だった。

道場長は褒めてくれたし、学校も俺だけために横断幕やら、全校生徒を集めての壮行会までやってくれた。

嬉しかったよ。

でも、なんていうかさ、決勝戦で負けたとき、いつかの敗北を思い出したんだ。

「あはは、これであたしの勝ち逃げですね」って、声が聞こえた気がした。


そんな俺も、もうすぐ三年。

春から夏にかけての都道府県選抜。

そして、夏のインハイが終われば、高校生として空手をやるのは、最後だ。

たぶん、道場には行くんだろうけどさ。


三月の末、いつもどおりスポーツバックを背負って、自転車に乗って道場へ向かう。

丁度年少部との入れ替わりの時間で、まだあまり人が来ていない様子だった。

道場の中に入ると、道場長と中野有香が何やら話をしているようで、いけないことだと知りつつも、こっそり聞き耳を立てる。

彼女は道場長に今後について相談していた。

「空手を極めたいです!」という彼女に対して、道場長は「人生はまだまだ長いのだから、決めつけずに他の道も探してみなさい」と言う。

ふざけないで欲しい。

中野有香の才能については、俺が一番よく知ってる。

それに、インハイでも成績を残してる。

空手の道こそ、彼女が歩むべき道だろうに。

「待ってください!」

気付けば俺は、飛び出していた。


「中野さんの才能は道場長も知ってるでしょう」

「もちろん」

「まだインカレだってある。それに」

「そういう話をしてるんじゃあない」

「でも」

「現実に、中野は次の道の最終選考に残った」

「次の道……?」

「アイドル、だそうだ」

アイドル……?

歌って踊る……?

ああ、何かの間違いではないのか。

「待って、待ってください。中野先輩はそれでいいんですか」

「実は、ですね。中学生の頃から少し、憧れていまして」

「……"まだ"最終選考なんですよね? 引き返せますよね? そうだ、組手、組手をしましょう。道場長も知ってますよね。俺は一回も中野先輩に勝てなかったんです」

俺がそう言うと中野有香は「もう、何年前の話をしてるんですか」と言って、あははと笑った。


「……でも、いいですよ。挑まれた勝負を受けないなんて、あたしらしくないですから!」

道場長は「お前ら二人がそれでいいなら……いいだろう」と言って、審判を買って出てくれた。

「押忍」と挨拶をし、拳を構える。

「始め」の合図がかかり、六年ぶりの試合が幕を開けた。

順突きで間合いをはかりながら、機会を窺う。

中野有香の右足が半歩、動くのが目に入った。

蹴りが来る。

直感で判断し、瞬時に距離を詰め、同時に追い突きを放つ。

道場長の「一本」という声が、三人しかいない道場に響いた。


俺の追い突きは、中野有香の鼻先で止まっていた。

拳は止まっても、一緒に連れて行った風は止まらなくて、彼女の黒髪をふわりと揺らす。

「負けました。あたしもまだまだ、ですね」

今度は、彼女は笑わなかった。

どうしてだろう。

やっと、勝てたのに。

二度と勝てないと思っていた相手に、勝てたのに。

どうして、こんなにも胸が苦しいのか。

どうして、俺の両の目からは、涙が溢れているのか。

何もかも、わからなかった。

「ど、どうしましたか? もしかして、あたしの蹴りが当たっちゃいましたか?」

何も言わない道場長と、おろおろする中野有香。

ああ、なんでだろう。

どこで間違えた。

「…………こんなつもりじゃなかった」

震える声で、そう言って、俺は人生で初めて、練習をサボった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆



あれから、なんとなく道場に行くのが気まずくなって、俺は道場を辞めた。

今までは高校の名前だけ借りて、練習は道場でしていたけれど、練習も高校の部活でするようになった。

そして、今日、俺は高校生活最後の大会に臨む。

顧問の車に乗って、会場へ向かう途中、カーラジオからはかわいらしい曲が流れている。

曲が終わると、よく知るあの声が聞こえてきた。

『ただいまお聞きいただいたのは、来週発売のあたしのデビューシングル、恋色エナジーでしたっ!』



おわり


少しもやっとした感じ

ありがとうございました。
彼はそのもやもやを一生抱えて生きていきます。

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