Steins;Gate「二律背反のライデマイスター」 (573)

初めに



本編鈴羽ルートから始まる話です
メインはシュタゲですが、他の作品の設定や世界観が少しだけ紛れ込んでいますのでそういうのが苦手な方はご注意ください
その作品について知らなくても問題はありませんが、話の内容に関わる部分なので伏せておきます
また、シュタゲの世界観を壊さないためにも、その作品の固有名詞等はできるだけ控えていく予定です

長くなる上に更新は不定期になりそうですがよければお付き合いください

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1443338021

 捻じ曲げられた糸は、歪められる原因となった応力が消えた時その弾性に従い元の形へと戻る。ならば同様に世界を決定付ける糸たちも、俺というイレギュラーが消えた時、いつか元の姿へと収束するのだろうか。
 答えは見つからない。結局のところ、宇宙の中に住む我々に宇宙の広さが計り知れないように、神の視点を持てぬ我々に世界線の構造もまた解明しきれないのだろう。我々は結局、ただの人なのだから。
 けれどもこれだけは言える。

 この身が──例えば消えても──意思は残留し未来のあなたにいつかは辿り着くだろう。

 塗り替えられた記憶を宿し──
 震えて歪む定めを乗り越え──
 絡みあう糸たちの軌跡を辿り──
 孤独を抱き、避けられない痛みと共に燃える。

 神に抗いし騎士たちは進むだろう──ふりむかずただ前へ。
 時を見つめる者のまなざしさえすり抜けて。



Steins;Gate「二律背反のライデマイスター」
 

Chapter1



 俺たちはこれから、35年かけて世界をねじ曲げる。そのために、旅立つ。敢然と顔を上げ、運命に立ち向かっていく。行ったら戻ってこれない一方通行の旅。でもそれは、閉ざされた2日間よりもずっと刺激的で──
 そして何より、可能性に満ち溢れている──
 そう信じたい。それが、生きるということだから。
 俺たちは手を繋いだまま、屋上から下の階へと続く扉へ向かう。途中、鈴羽が不安げに呟いた。

「きっと、大丈夫だよね……岡部倫太郎……」

「ああ……」

 もしかしたら未来は変わらず、鈴羽は記憶を失うかもしれない。それどころか、俺たち2人とも記憶を失うかもしれない。でも2人なら──
 俺が止めていた時間の針を再び動かしてくれた鈴羽とならきっと──

 2010年 8月13日



 俺たちを新たな未来へと導く機械は、変わらずラジオ会館の8階の壁を割って鎮座していた。
 日はすっかり傾き、ひしゃげた大穴から燃えるような赤い光が差し込んできている。薄暗い室内が、その光の赤さをより際立たせた。
 歩を進めるに連れて一層強くなる真っ赤な陽差し。俺は飛び込んでくる西日に目を細めながらぼそりと呟く。

「行き先不明の片道切符……か」

「ねえ岡部倫太郎……」

 俺のすぐ後ろを付いてきていた鈴羽が、不安そうな口調で言う。

「どうした?」

 俺は振り返って鈴羽の顔を見た。鈴羽は伏し目がちに表情を曇らしている。

「もしも……もしもあたしの記憶が欠落していたら、殴ってでも取り戻させて欲しい。使命のことはもちろんだけど……父さんに会えたことやラボメンになって皆と過ごした日々を、あたし……忘れたくないよ……」

「……わかっている」

 殴ってでもというのは気が引ける──というより、おそらくは返り討ちにされるだろう──が出来るだけの努力はするつもりだ。俺としても、鈴羽の中から俺たちの存在が消えてしまうのは許したくない。
 鈴羽は拳を握り小さく震えている。
 不安なのだろう。それもそうだ。鈴羽にとっては高い確率で記憶を失うことが分かっていながらの時間跳躍なのだから。俺が一緒に行くことで世界線変動に大幅なイレギュラーが発生してくれればいいのだが。 
 などと考えていると、鈴羽が俺の胸に頭を預けてきた。鈴羽の温もりが胸に伝わってくる。

「な、おい……鈴羽?」

「それに、君のことだけは絶対に……絶対に忘れたくないから……」

 ”君のことだけは”──その言葉が俺の心臓が跳ね上げた。

「…………」

 鈴羽の想いが俺の心臓を震わせた。俺の心と微細な振動が共鳴するように鈴羽の身体が揺らめく。彼女が懸命に感情を抑えようとしているのが分かった。
 不意に俺の口から息が漏れた。
 阿万音鈴羽という1人の女の想いが、俺の心に入り込んでくることで俺の心臓は激しく脈打つ。だがどこか冷静に見ている俺がそこにいた。
 俺はどう応えてやればいい? どんな言葉をかけてやればいい?
 幾千ものループで心が壊れかけた俺にその答えは見つけられなかった。何度も言葉が喉から出かけては、消えていく。心が上手く反応しない。昨日、丸1日を費やして泥のように眠り快復に努めたが、まだ心と身体のリンクが万全ではない。
 どうしていいか分からずに戸惑っていると、突然鈴羽が顔を上げてニヤッと笑った。さらに、すかさず俺の元からパッと離れる。

「なーんてね、うっそー!」

 後ろ手を組みながらいたずらっぽく笑う鈴羽。

「あっはは、騙された? いいねー、今の反応。挙動不審って言うのかな? 岡部倫太郎ってば恋愛経験値少ない?」

「……お前な」

 俺がため息混じりに言うと、鈴羽は頭をかきながら呟いた。

「ごめんごめん。こうでもしないとビビっちゃいそうで、さ」

 鈴羽はすぐに口を結び、表情を引き締める。
 そこには自分の弱さをさらけ出しながらも、前を見据え使命を果さんとする意志を持った戦士の顔があった。

「さあ、行こう。岡部倫太郎……」

「そうだな……。今頃、手紙を読んだまゆり達が大騒ぎのはずだ」

「……うん」

 ラボに残してきた手紙を読んだら、あいつらは引き止めに来るかもしれない。
 だが俺は──

──なんとしても行かねばならない。

 過去へと。1975年へと。

──なんとしても防がねばならない。

 未来でSERNがディストピアを形成することを。
 まゆりがこの世界から否定されることを。
 鈴羽が使命を果たせず、絶望の果てに命を絶つのを。
 鈴羽の指紋認証によってタイムマシンのハッチが開いた。乗ってしまえばもう戻れない。
 でももう決めたんだ。わずかでも可能性が残っている道に。1975年への片道切符に、未来を託すことに。

「……ホントに、いいんだね」

「……無論だ」

 俺は足を踏み出す。未知なる世界へと──
 とその時、背後から叫びにも似た声に全身を貫かれた。

──待ちなさい!

 俺を貫いたその音は、静まり返った部屋に響き渡り、やがて大穴へと抜けていった。

「…………っ」

 振り向くとそこには息を激しく乱した紅莉栖。彼女は壁に手をつきこちらをきつく睨んでいた。睨むというよりは背中を丸めてあごを上げた体勢になっているため、見上げた目がそう感じさせていただけだったが、紅莉栖から発せられる空気はその場に居るものをたじろがせるには十分だった。

「牧瀬……紅莉栖……っ」

「はぁっ……はふっ……はっ……はぁっ……あんたたち……」

 過呼吸気味になりながらもなんとか息を沈めつつ続ける紅莉栖。

「……解法……解法はあるの?」

「かい……ほう?」

 もう一度大きく息を吸って肺に空気を溜め込んだ紅莉栖は言う。

「……飛ぶんでしょ? 1975年に。だったら何かしら考えがあるんでしょ?」

「……え、えーっと…………」

「…………」

 鈴羽は言い訳を探しながら言い淀んで紅莉栖から目をそらす。俺はなんと答えていいか分からず黙りこくった。

「はぁ……呆れた」

 再び大きく息を吐きだした紅莉栖が落胆の表情を浮かべた。
 それも束の間、すぐに表情を引き締めて──

「タイムリープを繰り返して脳みそパーになってんのか知らないけど、もうちょっと冷静になりなさい」

「なっ……?」

 どうして……そのことを……?
 俺が閉ざされた2日間を延々と繰り返したことを紅莉栖は知らないはずだ。

「えっ……?」

 同様の疑問を持ったのか、鈴羽からも疑問の声が漏れる。

「昨日のあんたの様子を見てればすぐに分かるわよ。暗い表情して、まるで生気が感じられなくて。オマケに委員長キャラとかなんとか! さすがの鳳凰院さんもあそこまで嫌味ったらしくはないわよね!」

 気のせいか、オマケの部分にやけに力が篭っているような。

「……根に持ってたのか?」

「持ってない! そこに食いつくなっ──じゃなくて!」

 おほん、と大きな咳払いをし、腕を組み仕切りなおす紅莉栖。

「あんたたち、1975年に跳んだとしてどうするつもり?」

「な、なんとかIBN5100を手にして……」

 鈴羽が自信なさげに言った。
 俺もそれに釣られるように告げる。

「もしくは35年かけてそれ以外の方法を……」

 俺たちは口ごもりながらも、2人で話した解法を述べる。だがそれは解法と呼ぶにはあまりにも心もとなかった。

「てんで話にならない」

 事実、紅莉栖はそれをあっさりと一蹴した。

「でもっ──」

 考えの浅さをバッサリと切り捨てられた鈴羽が感情を露わにし反論しようとする。
 ──が、それを遮って紅莉栖が続ける。

「そんな行き当たりばったりであんたたちを過去に飛ばせるわけにはいかない」

 ”過去に飛ばせるわけにはいかない”、紅莉栖の口から発せられたその言葉に、俺は頭がカーっと熱くなるのを感じる。気づけば声をあげて叫んでいた。

「だからと言って! このまま指を加えてまゆりが死ぬのを見ていろというのか!」

 だってそうじゃないか。
 このまま何もしなければまゆりは死に、鈴羽は記憶を失い絶望の果てに命を絶つ。
 そんな未来を受け入れろと言うのか、この女は。

「そうは言ってない。まともな策もないまま過去に飛んで、また失敗したらどうするのって言ってるの」

「結局同じじゃないか! もしや俺にまたタイムリープしろっていうのか!? せっかく閉ざされた環から抜け出せたのに!」

 いつの間にかむき出しの感情が体を突き破って辺りに飛びだしていた。
 湧き立つ血、力の入った拳、震える足。

「こいつが……鈴羽が……救いだしてくれたというのにっ……」

 最後には言葉にならないような呻きが口からこぼれた。

「岡部倫太郎……」

「…………」

 紅莉栖は目を見開き、驚きの表情を隠せないでいた。だがそれもすぐに伏し目がちに視線を落とし、後ろを向いて消え入るような声でつぶやいた。

「……ごめん」

 謝罪の言葉。
 負けん気が強く、少しのことでは反論をやめない紅莉栖にしてはやけに素直というか……正直肩透かしを食らったような気分だった。
 俺の隣で鈴羽が困ったような表情をしている。ラボメンである紅莉栖を慮ってのことか、もしくは俺が声を荒らげたことに対する困惑か。今の鈴羽は、”昔のような”敵愾心を紅莉栖に抱いていないはずだから、本気で困っているようだ。
 いや、はたしてどうだったか。
 幾度と無く繰り返した2日間以前のことは、もはやぼんやりと霧がかかっているような状態でよく思い出せない。俺にとってあの2日間が、全てだったのだから。
 視線を紅莉栖の方へと戻すと、わずかながら肩が震えてるような気がした。
 泣いているのだろうか?
 そんな紅莉栖の背中を見てバツが悪くなり、俺は「俺の方こそ……すまない」と謝罪した。
 紅莉栖なりに俺達の事を心配した結果なのだろう。それを表現する言葉が足りないだけなのだろう。

「紅莉栖、お前は自分の考えがあって引き止めているんだろう。分かってくれとまでは言わない。だが俺はこのまま何もしないでまゆりを見殺しにすることはできない。かと言って、鈴羽の思い出を消すこともできない。これは俺の──俺たちの出した選択なんだ」

 そう言ってもう一度鈴羽の方に顔を向ける。心配そうに眉間に皺を寄せていた鈴羽は俺の言葉によって表情を引き締めた。

「牧瀬紅莉栖、君はきっと、予想以上の世界線のズレを懸念してるんだろうけど……こればっかりは譲れないよ。……あたしだってみんなの願いを投げ出してここでのうのうと生き続けるわけにはいかない。例え失敗する可能性が高くても、あたしたちは行く。それが2人の出した結論なんだ」

「…………」

 俺は出来うる限り言葉を選びながら紅莉栖の背中へと言葉をかける。鈴羽も自分なりの精一杯の答えを彼女に告げる。だが彼女は黙ったまま微動だにしない。

「世界線の大きなズレ……俺たちにも予想はできない。しかしいかなる結果が待とうとも、少なくとも何もしないよりはずっとマシだ。……何もできず、都合のいい世界に逃げこむことだけは……もうしたくない」

 俺は何度もループした2日間を、頭の中で思い浮かべた。
 いつの間にか世界から色が失われていく感覚。自分の中でいくつもの声が聴こえる感覚。自分が自分じゃなくなる感覚。
 トラックに轢かれそうになるダルを見殺しにしてしまおうかと考えたのは何度目のループだったか。
 鈴羽に欲情し、内なる自分の声に唆されて親友の娘を傷つけそうになったのは何度目のループだったか。
 世界にとっては昨日のことなのに、随分前の事のように思える。
 そんな歪んだ楽園を思い出していると──

「そうよ……」

 ふいに背中を向けた紅莉栖がぼそりと言った。呟いて勢い良く振り向き、そのまま一気に続けた。

「私だってそうよ! 何もしないままあんたたちを行かせて! それこそ失敗しましたって報告を受けるのなんて、まっぴらごめんだから!」

 珍しく感情をむき出しにしている。いつも冷静な彼女にしては珍しい。

「悔しいのよ……まゆりを見殺しにして、あんたの……岡部のいない世界で私はSERNでタイムマシン研究に携わって……。ディストピアの構築に貢献したまま、結局何も出来ないまま──」

 少しだけ間が空いて、胸が締め付けられるような弱々しい声に変わった。

「何より……あんたたちの力になれずに2人を行かせてしまうこと、それが悔しいの……」

 最後は絞りだすような声だった。涙を浮かべてはいないが、今にも崩れ去ってしまいそうな危うさを感じさせた。

「紅莉栖……」

 俺が声をかけると紅莉栖は再び俯いてしまった。顔を下に向けたまま、俺に間を埋めさせまいと立て続けにまくし立てる。

「ハッ! 何が天才よ、何がタイムマシンの母よ、聞いて呆れるわ。大切な人のために頑張ってる仲間の力になれないどころか、敵対する組織に肩入れするなんて」

 嘲笑うような自虐的な態度。

「ほんっと……呆れる……」

 垂れた前髪が塞いで、紅莉栖の目元は見えない。しかし、その口から発せられた言葉は震えており、泣いているのが分かってしまった。
 そうだ……こいつも戦っていたのだ。思えば俺が延々とタイムリープを繰り返すことができたのも紅莉栖のおかげだ。残される側の気持ちを考えることすらも、忘れてしまっていた。そんなことすらも、忘れてしまっていた。一言、相談すべきだったかもしれない。
 だがもう、決めたんだ。俺はもう、逃げない──と。

「だったらさ……君も行く?」

 えっ?

 紅莉栖の前髪がわずかに揺れた。揺らしたのは鈴羽の意外な言葉。

「おい、鈴羽……お前、一体何を……」

 戸惑う俺を相手にせず鈴羽は言い続ける。

「このタイムマシンは本来1人用。しかも、乗ったら戻ってこれない。オマケに故障中。……それでもいいなら……それでも一緒に戦ってくれるっていうんなら……」

「一緒に行こうよ、君も、さ」

「おいおいちょっと待て、鈴羽、何を言っている、そんなの認められるわけ──」

 だがそんな俺の言葉を遮って紅莉栖は答えた。

「いいの? ついて行くわよ?」

「いやいやだから待て、紅莉栖、お前まで何を言い出す!」

「記憶を失ってもいいならね」

 ニヤリと口元に笑みを浮かべて言い捨てる鈴羽。内容に反して口ぶりはずいぶんと軽い。

「望むところよ」

 まっすぐと前を見据えて言う紅莉栖。その目には力強い光が宿っていた。
 いや、望むなよ!

「おい、2人とも……」

 俺が口を挟むと2人の視線がじろりとこちらを貫いた。

 「「何?」」

 同時に発せられた言葉は寸分違わず見事に重なりあった。
 うお、ハモった。
 その声色と視線はその場に居るものをたじろがせるには十分な迫力を持っていた。

「お、俺の意見を聞かずに勝手に決めるとは一体どういう……」

「「もう決定事項だから」」

 またハモった。しかもまったく同じリアクションとは。
 くっ、タイムリープマシン開発評議会の時には2人してラボの空気を凍らせるようなバトルを繰り広げてくれたというのに! なぜこの時だけ息ぴったりなのだ! しかもなんだこの構図は。まるで俺が蚊帳の外ではないか。

「そもそも! お前はタイムマシンついて否定的だったはずだ」

「タイムマシンやタイムトラベル理論自体を否定したつもりはない。ただ現実的な可能性がほぼ0なのにできるとか適当言う連中が嫌いだっただけよ」

 片目を閉じて得意気に語る紅莉栖。

「それに実際として、ここに存在しているわけだしね」

 紅莉栖はそう言って交互に俺と鈴羽に視線を送った。

「未来人とタイムマシン。おまけだけどタイムリーパーも」

 おまけにされた──というのは置いておいて。
 それもそうだ。口でどれだけ否定しようが、現実にタイムマシンは開発されている。それが分かった上で反論しようとするほど、紅莉栖はバカではない。

「だが、過去に変えることについても……難色を示していた……」

「……それは、過去を変える人間が、自分にとってだけ都合のいい未来にしようとするケースの話。今回はまゆりの命が掛かってる上、未来の世界が自由な議論もできないディストピアになるなんて聞かされたら、それを受け入れろ、なんて到底無理。どうにかして変えてやりたい、って思うもの」

「君も、必死に未来を変えようとしていたのかもね……。手段はともかくとして、SERNに頭脳を貸すという、言わば諸刃の剣を振りかざすという選択で、さ」

「結果として、私はSERNにタイムマシンの母として祭り上げられて、ディストピア構築に一役買ったみたいだけどね」

 その言葉を聞いて鈴羽は険しい目を紅莉栖に向けた。

「…………」

「どうせ良いように利用されるのなら、ここで1975年に行方をくらませて、SERNの計画をぶち壊しにしてやるんだから」

「随分と身を挺した方法だな……」

 しかしそうなれば、SERNがタイムマシンを完成させることができなくなり、ディストピア構築という未来は変わるかもしれない。それはつまり、鈴羽の使命という点においては果たしたようなものだ。
 尤も、紅莉栖の助力を必要としなくても完成させる恐れがないわけではないのだが……。

「ま、SERNの最高峰の研究設備や頭脳との共同研究は捨てがたいけど」

「この実験大好きっ子め……」

「あはは……」

 しかし、紅莉栖が付いてきてくれるのであればありがたい。IBN5100を入手できなかった場合、何か別の方法を探してまゆりを助ける手段を画策せねばならないからだ。その時、紅莉栖の頭脳は大いに助かるはずだ。

「で、どうする?」

 紅莉栖が切り出した。

「どうする、とは?」

「あと数時間もしないうちに、ラボが襲撃を受ける。それはすなわち、まゆりの……」

 死の時間が迫っている──そう言いかけて紅莉栖は口を噤んだ。

「色々と考えたいことはあるけど、早く出発しないと……」

「本当についてくるつもりなのだな」

「当たり前でしょ」

 さらに、今まさにまゆりやダルがこちらに向かっているかもしれない。今まゆりたちの顔を見てしまえば決心が揺らぐかもしれない。

「一度、タイムリープしてよく考え──」

「「それは絶対ダメ!」」

 ぐっ……。
 またすごい勢いでハモられた。

「じょ、冗談だ、タイムリープの怖さはもう痛いほど味わった。1回、たった1回でその魔力に魅入られるには十分だった」

「そうね、何度失敗してもまたタイムリープすれば時間は巻き戻る」

「そうして無限の時間を歩み続けた結果、君はあんな状態になったんだもんね」

「あ、ああ……。もう、逃げるようなことはしない」

 そう言って俺たちは、タイムマシンへと近づく。

「そうだ」

 思い出したように鈴羽が言った。

「どうした?」

「2010年から来た証拠になるような物……、例えば紙幣や身分証と言った類のものは、置いて行った方がいいかもね」

「それもそうだな……ヘタしたら通貨偽造や公文書偽造で即タイーホだ……」

「携帯電話も持って行ったらまずい……わよね」

「そうかもね……。それに、持っていったところで電話としての機能は使えないし、すぐに電池が切れちゃうと思うよ」

「思い出の品として持って行くなら、あり……か」

 そう言って紅莉栖は携帯の画面に視線を移す。少しだけ寂しそうな顔をした後、微かに微笑みを浮かべ携帯を操作しだした。

「どうした、両親に愛している、とでも伝えるのか?」

「まあ、そんなところ。携帯も置いて行くわ。少しでも2010年から来た証拠を残しておきたくないし、パラドックスになる可能性もなきにしもあらず、だしね」

 紅莉栖はそう言うと、携帯電話からSDカードを抜き出して自分のポケットに入れた。
 大切なメールデータでも入ってるのだろうか。意外にセンシティブなところもあるものだ。
 と言っても、そのデータを見ることができるのは結局のところ2000年以降の話だがな。

「あたしも、置いていく。この時代の大切な思い出の入った物だけど、万が一SERNの追手にでも見られたら言い訳のしようもないから」

 鈴羽は少しだけ淋しげに笑うとこちらを見て言った。

「それに、1人でいくわけじゃないしね」

 一方、俺はというと……。

「くっ、このケータイを手放せというのかっ……」

 正直、置いて行きたくはなかった。思い入れがあるだけではなく、まゆりを救う生命線でもあったからだ。
 俺は自分の手に握られた携帯電話を握りしめる。
 角ばったフォルムの為、手のひらに軽い痛みが走った。俺はこの携帯電話を使い、様々な行動を行ってきたことを思い出していた。
 初めてDメールを送った日。実験と称して送った数々のDメール。
 まゆりの死という現実を覆い隠してくれたタイムリープマシンと俺の記憶をつなぐ役目をしてくれたこの携帯電話をひたすら握りしめる。
 そして”儀式”を始めた。
 スっと耳に携帯電話をかざし、白衣を翻す。

「俺だ……。ああ、最後に一言、伝えておこうと思ってな。……ふっ、お前には随分と世話になった、礼を言う。だがそれも今日までだ、今回ばかりは連れて行くことは出来ない。……何、心配するな。いずれまた会える、運が良ければ、な」

「……エル・プサイ・コングルゥ」

 そう言って耳からケータイを離す。思いは、断ち切った。

「またやってる」

「なんか久々に見た気がするわね、岡部の厨二病」

 これをやった後は不思議と心が楽になっている。
 その後俺たちはタイムマシンから少し離れた場所に荷物を置いて、タイムマシンへと乗り込んだ。
 本来1人用のタイムマシンに3人──全員細身であるとはいえ──も乗っているとかなり窮屈に感じた。
 鈴羽が操縦者用のシートに腰をかけ、俺と紅莉栖がそれぞれ、そのシートの斜め前方にある左右のスペースに腰を下ろした。無機質な材質の壁に背中を当てると少しひんやりして気持ちが良かった。

「ヘタしたら人工衛星と一緒に消えた犯罪者扱いされるかもね、私たち」

「シャレにならん……が、もはや俺たちはこの時代にいないことになるだろうから、問題はない……か」

「あっはは、指名手配のテロリスト、岡部倫太郎にふさわしいじゃん」

 鈴羽が笑いながらタイムマシンのパネルを操作すると、ハッチが静かに降りてきた。
 いよいよ出発の時だ。

──その時。
 
 ラジ館のイベントホールであるこの室内──その扉のところに、かすかに人の気配を感じる──が、それも束の間。直後にハッチは閉じられ、それを確認することはできなくなる。

「…………っ」

 一瞬心臓が跳ね上がった。なんだかとても胸騒ぎがして息が荒くなる。嫌な予感が止まらない。

「そんじゃー、さくっと1975年に行きますかー」

「時間旅行にしては軽いわね……」

 どうも2人には見えていなかった様子である。
 まゆりたちか? いや、それともSERNの追手? 紅莉栖を1975年へと飛ばせないためのSERNの追手なのか!? どうする? 相談するか? いやまて、それで出発が遅れたら……
 どうするか迷っていると──

──ビービービービー

 甲高い警告音がタイムマシン内に鳴り響き、わずかに宙に浮くような感覚が走った。

──タイムマシンが、動く!

「少しGが発生するから、気をつけて!」

 ぐぐぐぐうっ──

「ああぁあぁっ……」

「うおおぉっ!」

 強烈な重み。巨大な何かで押しつぶされているような──
 いや──
 まるで巨大掃除機か何かに背後から吸い込まれているような感覚。背中がタイムマシンの機体に押し付けられ、後ろでミシミシと気持ちの悪い音がする。
 重力だ。
 タイムマシンの外部から発生する重力が影響しているのだ、と悟った。
 これが少し……だと?
 かろうじて目を開けると鈴羽の顔が映った。彼女も俺と同じように、顔を歪めていた。声をかける余裕はない。今はただ、ひたすら自分に襲いかかる重力に耐えるほかなかった。
 そして俺たちは、時空の壁を越えた──

とりあえずここまで

──ドクン

 心臓が大きく脈打つと同時に、黒く覆われていた視界に徐々に色と形が作り上げられていく。

「う……くっ……」

 ここは?
 目の前に飛び込んできたのは無機質なシルバーメタリックの壁と天井。たまに虹色の燐光がちらちらと散光するのが目についた。獣が唸るように低くこもった音が鳴り続いている。
 ここはどこだ? 俺は一体何をしていた?
 どうも記憶が混濁している。吐き気もある。胃液が胃の中で暴れまわっているような感覚だ。そのまま天を仰いでいると近くで声がした。

「目、覚ましたんだね」

 声の主を探ろうと顎を下げると、背中に痛みが走り思わず顔を歪める。
 正面を見ると鈴羽が背中を丸くしながらシートに座っていた。俺と同様、表情は固く、気分はあまり良くなさそうだ。
 思い出した。そう、ここはタイムマシンの中だ。

「岡部もやっとお目覚めか」

 横から皮肉めいた紅莉栖の声がする。紅莉栖の顔色も、お世辞にもいいとはいえない。
 俺たちはみな、タイムマシン起動時に強力なGに襲われたはずだ。

「……俺は──俺たちは気を失っていたのか? どれくらいだ?」

「あたしが覚醒したのがほんの30分くらい前、その20分後くらいに牧瀬紅莉栖が意識を取り戻した」

「で、今がそのまた10分後ってとこかしら」

「タイムトラベルからどれほどの時間が経った?」

「あたしもどれほど気を失っていたのかは分からない、だからそれは分からない」

 タイムトラベル開始からどれくらい時間が経っているか、は分からないか。しかし、鈴羽はまだいいとして、俺よりも紅莉栖のほうが早く目覚めるとは。男女の差によって関係があるのかは分からないが少し情けなく感じた。

「しかし、あのGが少しとは、少々表現が控えめ──」

 言いかけてやめる。これも修理が完全ではなかったせいかもしれないからだ。恐らく2人もそんなことは分かっているだろう。今、あえてそれを口にして再確認するのは得策ではない。
 重苦しい雰囲気がタイムマシン内に漂うのと裏腹に、蛍火のような光が幻想的に舞っては散っていく。このような状況で無ければ、見とれて感傷的になるような美しい光景。しかしそれが高度な科学の産物であることを認識させ、嫌でもタイムトラベルすることに対しての不安を増幅する。

「ねえ、阿万音さん」

 紅莉栖が真剣な表情で鈴羽に尋ねる。だがそれに対する鈴羽の反応は素っ気ない。

「……何?」

「あなたは未来での私、見たことあるんだっけ?」

「……なんでそんなこと聞くの?」

 紅莉栖の顔は見ずに答える鈴羽。その表情は明らかに以前の彼女のものとは一線を画していた。
 例えるなら、そう。

──何かに怯えているような。

「いいから教えて」

「……見たことあるよ。有名だったし……それに……」

「それに……?」

「暗殺対象──だったから」

「…………っ」

 鈴羽から発せられたワードに、紅莉栖が息を呑んだ。驚きを隠せないといった様子だ。
 暗殺……。忘れていた。
 紅莉栖は未来においてSERNに従事するタイムマシン開発者。そして鈴羽はSERNに対抗するレジスタンスのメンバー。その鈴羽が紅莉栖の命を狙っていてもなんら不思議ではない。現に昔──いや、ついこの間までは鈴羽の紅莉栖に対する感情は敵対心に満ち溢れていた──いや、憎悪そのものだった。
 と言っても今はすでに、実際に接することで紅莉栖の人となりを知ることができたし、紅莉栖がSERNに従事した理由も知ったから、鈴羽の物腰も大分落ち着いたものになったが。

「で? 実際、阿万音さんから見て私はどんな風だった?」

 ふむ?
 未来の自分について尋ねる紅莉栖。少なくとも好奇心に満ち溢れている、という様子ではないが。

「どんな風って言われても……」

「いつ私を見たの?」

「……2034年、かな」

「その時の私、どういう風に見えた? 例えば年齢以上に年を取っているようにとか……」

 なんだその質問は。まるでスイーツそのものではないか。

「そんなことを聞くとは意外だな。やはり未来での容姿が気になるというのか? 己がどれほど老けこんでいるのか心配で心配でたまらない──」

「そんなんじゃない」

 茶化す俺の話を遮ってぶっきらぼうに呟いた。

「現時点の君がそのまま20年ほど年を取って、格好は白衣で、髪型も特に大きな代わりはなく……としか、言いようがないかな……」

「ふむん……」

「恥ずかしがらなくてもいいぞ。女にとって、若々しさは重要なステイタスだからな」

「だからそんなんじゃないってば。もし、私の1975年への跳躍も収束の結果だったら……って、そう思っただけ」

 神妙な面持ちでつぶやく紅莉栖の様子が気になって、茶々を入れたのを一瞬後悔した。
 収束の結果?

「どういうことだ?」

「考えても見て。今この場で私がタイムマシンに乗って1975年に跳躍したとする。その事実は、この世界線にとってイレギュラーなはず」

「そうだな。本来お前は過去に行くことなくSERNのタイムマシン開発に貢献するのだからな」

「そう、世界にとってこの時代から私がいなくなることは、非常に都合が悪いのよ」

「さらっとすごいこと言ってるな……」

「……自信家だねえ」

「別に自慢したいわけじゃない」

「だったら何が言いたい」

「あんただってそうでしょ、岡部」

 俺も? さっきから意図が見えてこない。

「何がだ」

「あんたはこの先、レジスタンスを結成することが確定しているはず。でも1975年に飛ぶことでそれが大きな矛盾になる」

「それはそうだが……その場合、世界線が変わるのでは……」

 さっきからまどろっこしい、何が言いたいのだこいつは。

「そっか……」

 何かを悟ったようで、鈴羽も顎に指をつけて頷く。

「あたしは未来での岡部倫太郎を実際に見たことはない。だから、仮に1975年に跳んだ岡部倫太郎がそのまま、年を取ってレジスタンスを結成すればパラドックスが無くなる」

 それは……そうだが……。

「でも牧瀬紅莉栖は違う。2034年で牧瀬紅莉栖は数多くの人たちから崇敬されてるし、実際あたしも2034年の牧瀬紅莉栖を観測している。その姿は1975年から2034年までを生きてきた年老いた女性なんかじゃなかった」

「そうか……つまり、跳躍後の紅莉栖がアトラクターフィールドの収束によりSERNのタイムマシン開発に従事している──ということは少なくとも無いわけか」

「岡部、あんたが1975年に跳躍したとしてまゆりの救出に失敗したらどうする?」

「…………」

 失敗……。今まで希望ばかりを見ていたが、その可能性は大いにあるのだ。

「考えたくない話だが、恐らくSERNに抵抗を続け、同じようにタイムマシン開発に心血を注ぐだろう」

「当然、そうなる。でも──私は違う」

「SERNに拉致されて開発させられるならともかく、私自ら科学者の風上にも置けない人たちのところで研究しようとは思わない。つまり、仮に1975年に跳んだ私がまゆりの救出に失敗したとしても、SERNでタイムマシン開発には携わる理由がない。恐らく岡部と同じレジスタンスに所属して独自に研究を進めるはずよ」

「100パーセントとは言い切れないけどね」

「もちろん世界最高峰の頭脳に囲まれて行う研究に魅力を感じないわけではない……科学的根拠はないけど……信じて。こう言うしか無い」

「だから何が言いたいのだ」

「……岡部と阿万音さんだけが跳躍するのであれば、世界線が変わらない可能性もある」

 俺と鈴羽が跳躍しても世界線が変わらないのであれば、結局鈴羽は2000年に死に、俺はまゆりを救えないままSERNに抵抗するしかないだろう。

「けれど……」

「SERNのタイムマシン開発の鍵である君も跳躍すれば、高い確率で未来は、変わる」

 鈴羽がそう補足した。

「恐らくアトラクターフィールド1%の壁を超えるほどの大分岐……」

 タイムマシン跳躍による大分岐……。
 ごくり。
 思わず喉が鳴った。今更ながら未知の世界への恐怖心に体が震える。
 だがその震えも今は──不謹慎ではあるが──いい刺激だった。

「私に取って代わるような科学者が、SERNに助力しなければ、の話だけど」

「やけに自信満々な発言が多いな、まさに自分は世界の鍵だ、とも言わんばかりの物言い」

「…………」

 紅莉栖はため息を付いた。

「そうであって欲しいって、思ってるだけよ。だってそうじゃなければこうして私が跳躍したことも意味を成さなくなる。正直に言うと……怖いのよ。私の──私達のタイムトラベルが無意味になってしまうことが……」

 そう言って紅莉栖が膝を抱えて顔をうずめてしまった。その様子から紅莉栖は本気で怯えているように感じた。
 その小さくなった紅莉栖の姿を見ながらワンテンポ遅れて──

「あっははは」

 さっきまで青い顔をしていた鈴羽がケラケラと笑った。

「なっ、何が可笑しいのよ」

 紅莉栖が顔を上げて照れ混じりに口をとがらせる。

「あはは、ごめんごめん、なーんだ。牧瀬紅莉栖も人間なんだなぁ、って思ってね」

「私をなんだと思ってるのよ……」

「あたしもさ、正直怖かったんだ。このままタイムトラベルしても、岡部倫太郎が言ったようにあたしは記憶を失って、しかも世界線も変わらないかもって考えが頭をよぎってた。でも、きっと大丈夫だよね……、なんて言ったって、君たち2人がついてるんだから」

 言って鈴羽は俺たち2人の顔を交互に見つめてこう補足した。

「タイムマシンの母である牧瀬紅莉栖と、SERNに抵抗を続けるレジスタンスのリーダー岡部倫太郎、2人がいるんだから……」

 そうか、鈴羽も怖かったのだ。いや、怖くないはずなかったんだ。これから記憶を失うかもしれない。そのせいで使命を果たせないかもしれない。2000年に命を失うかもしれない。
 そんな未来が待っているかもしれない、そう考えたら普通の人間じゃおかしくもなる。
 ましてやこのタイムマシンは完全な状態ではない。
 先ほどの強力なGの発生にしても、恐怖を上乗せするのには十分だった。それほどの力があったのだ。
 俺はこの阿万音鈴羽という女を完全無欠の戦士だと勘違いしていた。いくら過酷な経験をしていようが、こいつもまだ18歳の少女なのだ。俺は先ほどまで、未知の経験に対する恐怖がもたらす刺激を心地いいと感じていた自分を恥じた。

「それにあたしにだって、岡部倫太郎の右腕である橋田至──父さんの血が流れているわけだしね!」

「え……? はっ!? ちょ、おま……kwsk!!」

 紅莉栖が身を乗り出して聞いてきた。
 そうか。こいつには未だ話していなかったのだ。
 まゆりの名推理によって導かれた、親子の絆のことを。
 俺がそのことについて説明をすると、最初は半信半疑だった紅莉栖も次々と出てくる証拠にやがて認めざるをえなかった。

「あのHENTAIの血が半分流れているとか恐怖以外の何物でもないわけだが……」

「あっはは、言ってくれるなこのー」

「うふふ、ジョークよ」

 普段強気な姿勢を崩さない2人がお互い弱い自分を見せ合い、そして笑ってる。そんな風に考えると少しだけ微笑ましくも感じてしまった。女子というのはきっかけ次第で憎みあったり、かくも絆を深めたりできるのだなあ、としみじみしていると──

「ちょっとー! なに全部悟ったような顔で笑ってんのー?」

「あ、いや、これはだな……」

「私達を見て、本音を語り合う女子2人、スイーツ(笑)とか思ってんでしょ!」

「思ってない。ぜんっぜん思ってないぞ?」

「いーや、あの顔は絶対思ってた! んで、ほくそ笑んでてたね!」

 早速息のあったコンビプレイで追い詰められた。いがみ合っていた過去が嘘のようである。

「蹴っていいわよ」

 なんの許可だなんの!

「正直に吐けこのこの~!」

 ゲシゲシと足蹴にしてくる鈴羽。
 イテ、イテテ。というかマジで痛い。

「わ! おい待て! 痛い! 痛いです!」

 素早い蹴りを手で防ぐも、そのガードをかいくぐり、やがてその蹴りは俺の脇腹へと直撃した。思わず悶絶し、うずくまる。
 その様子を見て鈴羽は──

「あれ、そんなに痛かった? ごっめーん」

 手を合わせながら舌を出して謝った。
 ぐぬぬ、この小娘!

「手加減というものを知らんのか貴様は!」

 俺が目を覚ましてからすでに数時間──俺の体感によるものだが──ほど経過していた。
 鈴羽の話によるとこのタイムマシンのフルパワー駆動で10年間の跳躍を約1時間で行えるという。完全な状態でないことを考慮して今は半分の力を使って跳躍しているらしい。
 つまり、単純計算で7時間ほどで1975年に着くという。
 最初に俺たちが気を失っていた空白の時間もあるため、正確な時間は導き出せないが、恐らくもうそろそろ1975年に到着してもおかしくはないだろう。その時は最初のようなGが襲いかかるかもしれないとの話だった。
 そう考えると思わず身を固くしてしまうのか、それに抗おうと2人は相変わらずしゃべり続けている。よくもまあ、そんな何時間も話していられるものだ。最初はラボメンやダル、まゆりとの思い出話に始まり、2036年での生活、理論などを各々語り合っていた。俺も時々会話には乗っかったが、どうもこの数時間で友情を深め合ったのか、若干蚊帳の外のような感じがしなくもなく、少々さみしい物があった。

「しかしまぁ、あの橋田から阿万音さんみたいな娘が生まれるとはね……、よっぽど阿万音さんの母親が美人だったのかしら」

「それについては否定しない。でも父さんだってこれから痩せてかっこ良くなるんだよ」

「まず痩せる、ってのが信じられない件」

「母さんを射止めるために頑張って痩せた、とか?」

「いやいや、あのピザコーラ大好きのファットマンが恋愛のために頑張るとか……。SERNに追われるストレスで痩せた、ってのが可能性としては高いわね」

「きっびしいなぁ~」

「ジョークよ」

 冗談にしてはブラック過ぎるぞ。

「あいつにされたセクハラ行為は35年経っても忘れられそうもないわ……」

「あはは……タイムマシンの中でも参ったよ」

 あいも変わらず他愛のない話で盛り上がる。
 そう言えばと話を切り出す形で紅莉栖が俺に声をかけてきた。

「ねえ岡部。橋田には伝えたの? 阿万音さんが娘だってこと」

「いいや、あいつには言ってない。タイムマシンの修理が完全ではないこともな」

「そっか」

「告げたのは別れだけだ。変に教えてしまったら、奴も自責の念に駆られるだろうからな」

「結局、父と娘としての対話はしなかったのね」

「それで十分だよ。元々、タイムマシンオフ会でも一目見て1975年に飛ぶつもりだったし……。ううん、むしろ父と娘としてじゃなくて、同じラボメンとして同じ時間を過ごせたこと、今ではすごく良かったって思ってる」

「そうか……」

「ねえそういえば……1975年に跳んで、まずはどうするつもりなの?  結局のところタイムトラベルを成功させても、何点か問題が発生するはず。IBN5100を入手するにしても、それを保存して2010年まで過ごすにしても」

「…………」

 わずかながら気まずい雰囲気が間を作った。
 紅莉栖はまだ知らない。鈴羽が2000年に死ぬことを。
 だが紅莉栖の疑問は尤もだ。俺も同様に、タイムトラベルした後の計画について全く知らなかった。

「資金の問題。戸籍の問題。いろいろあるわよね」

「資金に関しては、タイムマシンに使われている素材……レアメタルの類だね。それらを売って資金源にしようかと思ってる」

「ふぅん、なるほど。当時の値段にして600万円ほどするけどそこは?」

「詳しい物価は分からないけれど、恐らくは複数台買ってもお釣りが来るほどの価値はあるよ」

 なんと……。金持ってたんだな、ダル……。

「へ、へぇ~、すごいわね……」

「2010年で調査済みなんだよね」

「戸籍については? まさか無いまま35年過ごすわけじゃないわよね。バレたらそれこそSERNだけじゃなく、警察からも追われるわよ」

「予定としては上野のとある犯罪組織に交渉しようかと思ってる」

「犯罪……組織……ねえ」

 犯罪組織、と聞いて紅莉栖は顔を渋らせた。俺もそうだったに違いない。
 1975年において俺たちの戸籍が無いのは当然の話ではあるが、犯罪組織の手を借りるのは良心の呵責がある。

「調べによると他人の戸籍を売買してたり、偽造したりしてるらしいから、タイムマシンを解体して得たお金で戸籍を買おうかと」

「そううまく行くかしら」

 紅莉栖が不安げに言う。
 対して鈴羽が自慢気に返す。

「交渉は任しといて! あたしは1人前の戦士だから! 交渉の知識だってあるよ」

「私達が記憶を失わなければ、だけどね」

「あっちゃー、それがあったかぁ」

 冷静な突っ込みを入れる紅莉栖の言葉に、鈴羽が頭を抱えてうなだれた。
 実に思慮不足である。

「記憶喪失によって身元が明らかにならない場合、厳重な審査のもと、家庭裁判所に戸籍作成を認められるケースもあるらしいけれど……」

「身元不明の記憶喪失者が同時に3人も出てくれば、重大なニュースになるかもしれんな」

 3人一緒に記憶を失うとは限らないが可能性はゼロではない。
 その俺の言葉に鈴羽がこう付け加えた。

「おまけにその近くには1975年という時代には不相応なハイテク機械。テレビにも出ちゃうかもね、あたしたち」

 2010年では人工衛星が激突したとなったが、1975年だとどういう扱いになるやら。

「そうなのよね……はぁ、今更ながら自分の考えの浅はかさが嫌になるわ……」

「やはり一度タイムリープすべきだったか……」

「だからそれはダメっつってんでしょ!」

「……はい」

「はぁ、全く。頭が痛くなるわ」

 紅莉栖は眉間を指で抑えてぐりぐりっとやった。
 怒られてしまった。おのれ、冗談のわからん奴め。

「ねえねえ、牧瀬紅莉栖は脳科学者なんでしょ? だったらさ、記憶の取り戻し方とかも分かるんじゃない?」

 ふうむ……確かにこいつは天才少女だが、そんなに容易なものではあるまい。
 俺は声には出さず、心の中でそう呟いた。鈴羽の問に対する紅莉栖の答えは案の定、と言ったものだった。

「簡単に言わないで。私は医者じゃないんだから」

 そういうと思った。

「そもそも記憶を失う原因にもいくつか種類がある。仮に1975年に跳んだ直後に記憶が失われていた、と仮定するとなると、器質性と心因性、どちらの可能性も考えられる」

「はいはーい、それってどういうこと?」

 聞きなれない言葉を発する紅莉栖に鈴羽が手を上げて質問した。

「跳躍の衝撃で外傷を負って物理的に脳に機能的障害が起きたか、もしくは強いストレスによる解離性健忘、どちらも可能性としてはあるってことよ」

「あたし、ストレス耐性はあると思うけどなぁ……外傷に対しても強いと思うよ、鍛えてるし」

「そういう問題じゃないと思うんだが……低酸素環境下による重度の酸素欠乏症が原因なんてのも考えられるわけだし……」

 右腕を屈曲させ力こぶをアピールする鈴羽に、またも冷静な反論をいれる紅莉栖。

「頭を打って、ここはどこ、私は誰、という状況になるのは容易に想像できるが、ストレスによる記憶障害とは……いまいち想像できんな」

「人の心はそれだけ複雑ってことよ。強いストレスを与えるきっかけになった物事のみを忘れるケースだってあるんだから。そして心因性の健忘の場合、失われるのはエピソード記憶で、一般生活に必要な知識を忘れることはほぼない」

「つまり、食事をしたり、文字を書いたりということは問題なく行えるということか」

「そう。でも器質性の場合は最悪、言語野、運動野にも影響が出て、失語症になったり、腕や足を動かすといった基本的な運動すら忘れてしまいかねない」

「うげー、想像したくもないよ……」

「24年後に記憶を取り戻した、という点についてはどう思う?」

「器質性においても心因性においても、ふとしたきっかけで自分に記憶を取り戻すというのはよくあることよ。ただ、それが24年後っていうのは相当重症かもね……」

「あるいは、アトラクターフィールドの収束によるもの……か」

 記憶を失うことにより、IBN5100を入手するという目的を果たせないこともまた、収束なのか?
 そうなるとこの跳躍もなにかしらの影響をうけるのではないか?
 思考を巡らせていると悪い未来がよぎり、不安に支配されそうになる。
 少し息まで荒くなってきたようだ。思いの外過度のストレスに晒されている状態なのかもしれない。

「有り得る話だけど、そんな運命みたいな考え方はしたくない」

 そんな不安を察したのか、紅莉栖がはっきりと言い放った。
 光に満ちた視線。力強い言葉。それが何より俺の心をいくらか楽にした。

「ま、その運命をねじ曲げるために、君たちについてきてもらったんだしね。期待してるよ2人共!」

 紅莉栖の言葉に鈴羽が乗っかった。

「ああ、脳科学のプロフェッショナルが居るのは心強い」

「だから私は医者じゃないと言っとろうが」

 やれやれといった様子ながらも、かすかに笑みを浮かべて紅莉栖が小さく言った。
 その時だった。突如タイムマシン内部に甲高い警告音が鳴り響いた。

「な、なんだ?」

 俺が辺りを見回していると──

「大変!」

 鈴羽が険しい顔をして叫んだ。すぐに紅莉栖が状況を尋ねる。

「どうしたの?」

「……機内の酸素濃度が低下している」

 低い声で告げる鈴羽。
 ゴクリと喉が鳴った。ぶわっと体中から汗が吹き出すような感覚に陥り、直後、寒気がした。

「……なぜだ? 3人も乗ったからか?」

「それはないと思う……このタイムマシンは1人用だけど、機内の酸素濃度はコンピュータによって21%前後に保たれるシステムが搭載されてるんだ。でも──」

 鈴羽はゆっくりと、戸惑いの目をこちらに向け──

「今……18%を切った……」

「もしや先ほどから息苦しいのはそのせい……」

 つい十数分前から、多少の頭痛と息苦しさを体感していた。
 タイムマシンに乗ったことによる影響だとはうすうす感じていたが、まさか酸素濃度が低くなっていたとは……!

「も、もしかして完全には修復できてないせい……?」

 紅莉栖がおそるおそる言った。
 そんな馬鹿な話ってあるか。このままでは俺たちは窒息死してしまう!

「あ、後どれくらいで着く!」

「わ、分からない……ともかくマシンの出力を少しでも上げて──」

 鈴羽がパネルを操作するが、すぐに顔色が変わる。顔を歪ませながら誰に言うでもなく呟いた。

「出力が上がらない……」

 3人の間に重苦しい空気が漂った。それを断ち切ったのは紅莉栖。

「ともかく、落ち着きましょう。無駄に興奮して呼吸を荒らげるのは良くない」

 彼女は冷静さを失っていなかった。その言葉に少しだけ落ち着きを取り戻した俺も、同調する。

「そ、そうだな……」

 だが鈴羽はそれには答えず、項垂れて顔を曇らせた。

「……あのさ、機内には──」

 少しだけ間が空いて、鈴羽が話を切り出した。紅莉栖と俺は何も言わず顔を上げ、鈴羽の顔を見る。
 が、鈴羽はほんのわずか躊躇った後結局途中でやめてしまった。

「やっぱ、なんでもない……」

 鈴羽は泣きそうな顔をしている。こんな状況になって絶望しているのだろうか。それとも俺たち2人を巻き込んだ形になり、自責の念に駆られているのだろうか。
 大丈夫、なんとかなる。そう言って鈴羽を元気づけてやりたかったが言葉には出来ない。
 無駄に酸素を消費すべきでないという考えが頭をよぎり、口を閉ざさざるをえない。何より、これから死ぬかもしれないという恐怖が体を渦巻き、震えさせ、言葉を生み出すことを妨害していた。
 横を見ると紅莉栖が体を縮めて小さく三角座りをしていた。つい数十分前とくらべて顔色がよくない。こんな状況だ、無理もない。


──ああ……息が苦しい。

 機内の警告音が鳴り響いてどれくらい経っただろうか。数分とも、数十分とも取れる。あるいは数時間とも。恐怖の中で、俺の体感時間は完全に麻痺していた。俺も紅莉栖と同じように体を小さく丸め、顔を伏せていた。正しいかどうかは分からないが、その方が酸素の消費量も少ないと思ったのだ。しかし、いずれ限界は来る。それは思いの外早かったのかもしれない。

──いきがくるしい。

──だめだ、いしきがぼやけてきた。

──このままではしんでしまう。

 とその時、先ほどの警告音とは別の音──意識が朦朧としていたため違う音に聞こえただけかもしれないが──が俺の耳へと飛び込んできた。
 もしかしたら1975年へと着いたことを知らせるための音なのかもしれない、そう思って顔をあげる。
 初めに目に飛び込んできたのは、ぐったりしている紅莉栖の顔に何かを付けている鈴羽の後ろ姿。紅莉栖はされるがままで、すでに意識を失っているようだった。

 …………。
 なにを……。
 なにをしているんだ……?

 脳に酸素が回っていないのか全く考えが思い浮かばない。

 どうでもいいから。
 はやくここからだしてくれ。
 ついたんだろ?

 この苦しみから逃れたい一心ですがるような視線を送っていると、鈴羽がこちらを振り向いた。顔を見ると、透明なプラスチックのマスクと思われる物が口の周りを覆っていた。その中央の部分には透明なチューブが付いており、そのチューブの先を辿って行くとタイムマシンの壁に行き着いた。

──なんだそれ。

 透明なマスクの奥で、鈴羽の口元が微かに動いた気がした。何かを伝えたかったのだろうが、俺の耳には届かなかった。はたして俺の脳が正常ではなかったせいか。それともマスクが音を遮断してしまったのかは定かではない。でも口の動きで分かった。


 ご
 め
 ん

──なぜ、あやまる?

 とその時、体が激しく揺れた。俺の体が言うことを聞かず、倒れこんだのだと思ったが違った。鈴羽も同様に体勢を崩していた。彼女が激しくシートに押さえつけられて悶えているのを俺は黙って見ていた。まるで音のない白黒映画のようだった。しかし、そんな状況下で鈴羽が顔を歪ませながら体を起こして、こちらへ寄ってきた。鈴羽の手がゆっくりと伸びてくる。俺の口元に何かが括りつけられる感触がわずかにした。気を抜けば一瞬で閉じそうなまぶたを必死に開ける。
 今度は、透明なマスクをつけてない鈴羽の顔がすぐ近くにあった。

 何物にも覆われていないむき出しの唇が再び動いた。緩やかになったその動きを無意識に追う。

 ご
 め
 ん
 ね

 俺はもう、目を開け続けることができなかった。意識は徐々に遠のいていき、完全に失われた。
 遠く──はるか遠くで、かすれた警告音が周りをぐるぐると駆けまわる音がしていた。

今日はここまで

 激しい雨粒が体を叩いていた。

──べ!

 遠くで誰かの叫ぶ声が聞こえている気がする。

──かべ!

 しかし目がなまりのように重たくて開けることができない。

──おかべ!

「うぅ……!」

 かろうじて絞りだすように唸り声を上げると、俺を呼ぶ声は一層大きさを増した。というより、俺の脳が再び音を認識出来るようになったという方が正しいかもしれない。
 肩を激しく揺すられる。

──しっかりして! 岡部!

「はっ!」

 俺は体を勢い良く起こすと、辺りを見回した。そんな俺の様子を見て、隣にいた少女──紅莉栖がまた声をかけてきた。

「あ……岡部! よ、よかった!」

 紅莉栖はざあざあと振り続ける雨に体を濡らしながら酷く慌てている。激しく叩きつける雨などお構いなしだ。その表情は不安に押しつぶされそうになっている。ふと1つ疑問が浮かんできた。

──俺は何をしている?

 いや──

──俺は何をしていた?

 その時、眼の奥でズキリと鋭い痛みが走った。

「うぐっ……」

 頭が割れるように痛い。
 ここは一体……?
 再び周りをみやると見覚えがある夜景。辺りは闇に支配されているためはっきりと街の様子を伺うことはできない。その上、俺の視界を遮るような大雨が降り注いでいたが俺は確信した。
 ここはラジオ会館屋上。
 悠長にその屋上からの風景にとらわれていると紅莉栖の叫ぶような声が耳に入った。

「岡部大丈夫!?」

 何をそんなに慌てている。

「うっ……助手よ……あまり叫ぶな、頭が痛い……」

「あ……うん…………」

 安堵の表情を浮かべる紅莉栖。この俺を誰だと思っている。俺は狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真。倒れても不死鳥のように蘇るのだ。
 ふと紅莉栖の方を見ると、傍らに1人の女が倒れているのが目に入った。

──あ、あれは──

「ねえ岡部、手を貸して!」

 紅莉栖が助けを求める。その紅莉栖の様子から事態が深刻であることを察した。俺は立ち上がり鈴羽の元へと駆け寄る。

──顔面蒼白。

 この天気のせいか、鈴羽の顔色はより一層悪く感じられた。かろうじて呼吸も脈もあるようだったが俺たちの呼びかけにピクリとも反応しない。
 このまま放っておくと危ないのは確かだった。

「くっ……」

 紅莉栖の様子から見ても状況はよくなさそうだが、最悪の事態をあえて考えないようにした。
 早く救急車を──
 そう思い、白衣のポケットから携帯電話を取り出そうとする。──が、いつもそこに入れてあるはずの携帯の感触はない。
 なぜだ?
 他の場所に入れたかと思って別の場所も探ってみる。
 最初に手を突っ込んだのとは逆のポケット──
 ズボンのポケット──
 すべて探してみた。しかし見当たらない。

「くっ! 紅莉栖! 携帯で早く救急車を!」

 俺は叫んでいた。しかし紅莉栖は動こうとはしない。
 逆に俺に向かって叫び返した。

「何言ってるの!? 携帯は2010年に置いてきたでしょ!」

 その時、心臓が一気に跳ね上がった。叩きつける雨粒の感触と音が、遠くに感じられた。まるで一瞬、自分が世界から切り離されたような感覚。
 何を言っているんだ?

──2010年に、置いてきた?

 言っている意味がわからなかった。だって、”今が2010年”だろ?

「ともかく、あんたは阿万音さんを担いで! 早くここから出るわよ!」

「え?」

 紅莉栖の声が俺を現実に引き戻した。
 戸惑いつつも、言われるがまま紅莉栖と協力して鈴羽を背負い、階段への扉へゆっくりと歩き出した。鈴羽の体と、降りつける豪雨が衣服に染み入り、ずしりと体に重くのしかかった。それでも前に進むしかない、そう思った。
 ふと──
 このラジ館屋上で、少し離れた場所に巨大な機械が鎮座していることに気がついた。
 人工衛星のような樽型の球体が屋上の床にめり込み、仰々しいひび割れを描いている。
 その機械には見覚えがあった。つい2週間ほど前にラジ館にめり込むような形で激突した人工衛星だった。
 しかし、今は壁にまではめり込んでいないようだ。代わりに分厚そうな外殻はあちこちへこみ、ところどころパックリと割れて中の基盤や管を覗かせている。破れた銀色の板からは幾本ものちぎれたケーブルが突出しており、火花を散らしていた。損傷はかなり激しいようだ。

「おい紅莉栖、あれは一体──」

 奇妙な光景に俺は立ち止まり、紅莉栖に問いかけていた。だが紅莉栖はそんなことお構いなしに催促した。

「早く! 手遅れになる前に!」

 そうだ。今は一刻も早く鈴羽を病院に連れて行くべきだった。自分の判断力の甘さを痛感しつつも再び歩き出し、階段を一気に駆け下りた。

「ぜい……ぜい……」

 屋上から一階への階段を下り終えると、どっと脚が重くなった。疲労物質が脚をはちきれんばかりに膨らませ、心臓も張り裂けそうである。それもそのはずだろう。自分1人でもハードなのに、今は人1人背負っている。
 だが弱音は吐いていられない。あたりを見回すと万世橋が目に映った。
 そういえば、近くに万世橋警察署があったはず──
 その場で90度方向転換し、警察に行こうとしたところを紅莉栖に止められた。腕を掴まれている。

「何をする!」

「もうすぐ救急車が来るわ」

 何? 救急車だと?
 俺より一足先に外に出ていた紅莉栖は、近くにある公衆電話を使って救急車を呼びつけていたようである。携帯電話を携帯しないという愚策を犯したが、中々にファインプレーだ。
 よし、じゃあこのままここで待機ということだな。
 そう言って鈴羽を近くのベンチに寝かせた。ここならば屋根もあるから雨もしのげる。俺は大きく息をついて心を落ち着かせようとしたが、再び紅莉栖に腕を掴まれた。一瞬心臓を掴まれたような感覚に陥った。

「お、おいどうした……?」

「行くわよ」

 は?
 紅莉栖にそう告げられて俺は混乱した。
 行く? 行くってどこへ……。

「阿万音さんが搬送される時に、私達は居合わせることはできない。それはあんたもわかっているでしょ?」

 何を言っているんだこいつは。このまま鈴羽を放置しろ、と、そう言っているのか?
 そう疑問をぶつけると紅莉栖はすかさず反論してきた。

「このままだと私達3人共警察から聴取を受けることになる。そうなれば計画はすべて水の泡よ」

「何を言っているんだ! だからと言って仲間を見捨てろというのか!」

 それともなんだ。こんな命がかかった状況で過去の因縁の憂さ晴らしをしようとでもいうのか?
 怒りに身を任せてまくし立てると、遠くでサイレンの音が聞こえた。どうやら救急隊がこちらに向かっているらしい。
 だがこのまま鈴羽を置いて行くことなどできるか。
 頑として動こうとしない俺に対し、紅莉栖は俺の両腕を押しつぶすように握って──

「岡部! もう私達にできることはないの! 後は阿万音さんの体力と医者の腕にかかっている!」

 迫真──そう表現するのがあっているだろう。彼女は中で激しく揺れる感情を必死に押さえ込みながらもこの判断を下したようだ。
 そう説得され、俺は仕方なく紅莉栖の言うことに従うことにした。情けない話、紅莉栖の勢いに圧倒されてしまったところもある。俺は静かに横たえられた鈴羽を一目見つめると、紅莉栖とともにラジオ会館内へと引き返した。
 数十秒も立たぬ間に、救急車のサイレンが近づいてきて止まった。赤い灯火が闇夜に際立って輝いている。救急隊員が矢の飛び出してきて、辺りを見回し始めた。そしてベンチに仰向けに倒れている鈴羽の姿を確認するとすぐに駆け寄っていった。
 彼らは鈴羽の意識がないことを把握すると大急ぎで担架に乗せた。救急隊員の1人が再び辺りを見回す。やがて誰も居ないことが分かると、車に乗り込みけたたましいサイレンを街にこだまさせた。
 遠目で一部始終を見ていた俺は小声でなぜこんなことをするのか紅莉栖に尋ねた。

「だから、さっきも言ったでしょ。今の私達に戸籍はない。そんな状態で警察の事情聴取でも受けたら……わかるでしょ?」

 紅莉栖の言葉に、俺は耳を疑った。
 は? 戸籍が……ない? さっきから何を言っているんだこいつは。頭がおかしくなったのではあるまいな?

「いやいや、戸籍がないって、冗談だろ?」

「あんたこそ何の冗談? この時代に私達の戸籍があるわけないでしょ」

 この、時代──だと?
 鎮まりかけてた心臓が大きく跳ね上がった。脈は激しくうねり、喉がゴクリと鳴った。

「阿万音さん、大丈夫だといいけれど……」

 鈴羽を心配する紅莉栖をよそに俺は困惑していた。
 2010年とは状況が変わった人工衛星。
 見慣れているはずの風景のわずかな変化。
 紅莉栖の発言。
 この違和感──
 故に俺は聞かずにはいられない。

「おい紅莉栖……今は……」

「え?」

「西暦……何年だ……」

「…………? もしかして、まだ寝ぼけてる?」

 俺が聞くと、紅莉栖は怪訝な顔をした。少しでも早くその答えが知りたい俺は紅莉栖を急かす。

「いいから、教えてくれ……」

「今は西暦1975年。阿万音さんの話が妄想じゃなければね」

 バサバサと。どこからともなく新聞の一部が風によって飛ばされてきて俺の足に絡まった。俺はその新聞紙を手に取り、何気なく日付に目をやった。



──1975年(昭和50年)──



 雨の勢いが一層、強くなった気がした。

 あれから紅莉栖は人工衛星の解体を始めていた。あの後、屋上へ行って急いで解体を行うと言ったのだ。紅莉栖は俺が再び頭を抱えるのを見ると、解体は1人で行うと言い、今まさに作業に徹していた。
 俺はラジ館屋上の手すりから街を見下ろしていた。降りしきる雨はすでに小振りと化しており、優しい雨が俺の手を叩いている。
 先ほど新聞の1975年という記載を見てからというもの、頭痛が再発していた。
 1975年? どういうことだ?
 俺は確か、タイムリープマシン開発に成功した名目で開発評議会を行っていたはず……。
 メンバーは俺、まゆり、ダル、紅莉栖、そして鈴羽。
 まさかタイムリープマシンの影響で1975年へと飛ばされた? まゆりとダルは一体どこへいった? あいつらも1975年へと飛ばされたというのか?
 いやいや、そんなまさか。そんなわけない。そもそもタイムリープマシンは自分の記憶を過去の自分へとコピーするものだ。1975年に俺たちは存在しているはずがないし、本当に1975年ならば携帯電話だってないはずだ。故にそれはありえない。
 ならば一体……。
 俺は人工衛星に付きっきりの紅莉栖を見つめた。
 紅莉栖は俺の視線に気づいたかと思うと近くによってきて──

「ちょっと岡部、あんた体の調子よくないんでしょ? だったら雨に当たると良くないわよ? 風邪でも引いたらどうする──ってまぁ、もう遅いか」

「…………」

 俺には1つ予感めいた考えがあった。ここがもし本当に1975年ならば、俺たちは物理的タイムトラベルをしたことになる。それも、少なくとも3人以上の人間が同時に、だ。
 とするとなると──

「それとも解体手伝う気になった?」

「何の……だ」

「タイムマシンに決まってるじゃない」

 やはり……。
 目の前に鎮座している巨大な機械は決して人工衛星などではない。あれは正真正銘のタイムマシンなのだ。こいつがそんな冗談をいうとも思えない。不思議と違和感はなかった。
 まるで最初から知っていたかのように。

「夜が明ける前に、少しでも解体してまとまったお金を手に入れないと」

 紅莉栖の声が遠く感じる。まるで自分が自分ではなくなったような。

「換金したら、次は阿万音さんが言ってたとおり、戸籍を手にしないとね……」

 胸が押しつぶされるような不安を抱きながら、意を決して聞いてみる。

「なあ、まゆりとダルは……どこへ行ったんだ?」

 開発評議会に参加したメンバーがタイムトラベルしたのであれば、その2人もここにいなければおかしい。
 俺の質問に紅莉栖は一瞬戸惑ったようだった。

「岡部……あんた何言ってるの?」

 おそるおそる、と言った表情で聞いてくる。その顔つきをみて俺は嫌な予感がした。
 まさか──

「タイムトラベルしたのは、私達3人でしょ……?」

 ごくりと喉が大きく鳴った。寒気が止まらないのは雨に濡れているせいだけではない。

「なんかおかしいと思ってたけど、まさかあんた……覚えてないの?」

 訝しげな表情をしながら紅莉栖は問いかけてくる。少なくともふざけている様子は見受けられない。
 そんな紅莉栖の様子に、俺は尋ねられずにはいられなかった。

「お、お前こそ一体何を知っている……俺はなぜこんなとこにいる、まゆりはどこだ!」

 俺は取り乱していた。何かを大切な物を失ってしまったような喪失感に苛まれる俺は頭を抱え込んでしゃがみこんだ。
 そう──俺は記憶を失っていたんだ。
 原因は分からない。心が防衛手段として弱い自分を覆い隠したのかもしれない。

 夜が明けてからというもの、俺たちはせわしなく秋葉の街を動き回った。未だ混乱を隠せない俺は、考えを巡らせるのに必死だった。紅莉栖に関しても疲労がたまっていたのか、終始無言状態。
 日が昇ってから俺たちがしたことは、解体によって手にした廃材を売りさばくことだった。
 どうやら事前に、こういった希少金属が高く売れるということを鈴羽から聞いていたようだ。おかげで大した苦労もなく、ある程度まとまった金を手に入れることができた。
 金は2010年においてきたということだったから、ありがたい話だった。当然この時代で使うことはできないが。
 次に俺たちが成したことは非合法で活動する犯罪組織の連中と接触を図ることだった。

「今の私達には戸籍がない。本来存在してない人間だから仕方ないわね。でもそれじゃこの先、トラブルに巻き込まれた際思わぬ事態になりかねない。だから気は進まないけど、偽造してでも手に入れておく必要があるわ」

 足早に歩を進める紅莉栖は淡々と述べた。未だ現実を受け入れきれずにいた俺にとって、この行動力はありがたかった。

「阿万音さんの様子も気になるけど、今はそれが先決。私がしっかりしないと……」

 消え入りそうな声でつぶやく紅莉栖に、俺はただついていくことしかできなかった。

 難なく犯罪組織と接触できたことは幸運だった。その反面、交渉は難航した。
 それも当然の話だ。犯罪を糧にして生きていく人間からすれば俺たちは幼すぎた。
 キドと名乗る眼鏡をかけた神経質そうな男が対応をしたのだが、最初は話すらまともに聞き入れてくれずにあしらわれた。
 ところが紅莉栖が交渉の材料に、と金を見せつけると途端に奴は一瞬表情変える。それでも奴は難色を示した。金は手に入れたかったはずだが俺たちと取引するのは奴のプライドが許さなかったのかもしれない。
 奴はふっかけてきた。ありえない額を突きつければ、諦めるだろう、と思ったのだろう。
 戸籍売買の相場などわからんが、3人分の戸籍を手に入れないといけない俺たちには手も足もでない額。
 やはり、向こうに俺達と取引する気はなかったようだ。「ガキどもの逃避行に手を貸すつもりはない」と冷たく言い放った。
 だが紅莉栖は毅然として立ち向かっていった。今ここで私達とコネクションを持つことは奴らに莫大な利をもたらすことになる、と。
 私達は逃げるためにここに来たのではない。戦うためにここに居るのだ、と。
 その華奢な背中を震わせながら──
 その確かな決意を胸に──
 その強い眼差しに込めて──

 膠着状態がしばらく続き、ついには戸籍の売買人も折れたようだった。最初に提示させられた金額よりもはるかに良心的な価格で交渉してくれたのだった。おかげで俺たちは戸籍を手に入れることができた。
 このような場所で取引される戸籍を持っていた人間になりすますのはやはり気が引けたものだったが、紅莉栖がやっとの思いで手にしたと思うと、受け入れざるを得なかった。
 交渉の結果、とある日本の成人男性の戸籍を買った。一方紅莉栖は散々迷ったあげく、外国人女性の戸籍を選んだ。
 理由は、紅莉栖の年代に合致する女の戸籍の数の少なさ。
 それもそのはず、紅莉栖はまだ18歳。本来であれば高校生である。その年代の女がほいほいと戸籍を売りさばくほど日本もまだ荒みきってはいないということだろう。
 まあ、外国人の名前を使っていても、日系人だと説明すれば変な疑惑は持たれないだろう。それに紅莉栖ならば堀の深めな顔つきに明るめの茶髪、瞳の色だって日本人のそれとは違い少しだけ碧く見える。つまりハーフと名乗って不自然かと言われればそうでもない。
 ちなみに他人の戸籍を買うのではなく、新しく作るとなるとそれ相応の値段がかかるということで、現時点では諦めざるを得なかった。1人分ならどうにかなったかもしれないが、鈴羽の分も手にしないといけないため贅沢はいってられない。
 鈴羽の分に関しては保留、ということになった。すでに病院で目を覚まして名前を名乗っているかもしれない。そうなると少々ややこしいことになる。加えて、今この場にいない人間の分の戸籍も用意して欲しい、と伝えると偽造人は明らかに顔を渋らせた。
 「裏の売買であっても、これが取引であることには変わりない。いや、こういう取引だからこそ信用第一。欲しければ顔を見せた上で判断する」そう告げられた。
 結局、2人分の戸籍を買い、偽造身分証を手にしてその日の取引は終えた。これで俺たちは晴れて1975年に存在する人間となった。
 だが俺の気持ちは晴れないままだった。気になることが多すぎて未だに頭が混乱していたのだ。
 抜け落ちた記憶。
 まゆりとダルを置いてきてまでしたタイムトラベル。
 この先の生活。
 なにより、鈴羽の安否が気になっていた。

 そんな俺をよそに紅莉栖は前に進み続ける。再びラジ館へと赴き、枯渇した資金を得るために再び廃材を解体するのだと言った。
 ラジ館へと向かっていると、黄色いテープで封鎖されているラジ館の入り口と周りを囲むようにして配置されるパトカーが目に飛び込んできた。

「こ、コレは一体……」

 目の前の現実を受け入れられない俺とは逆に、紅莉栖はすぐに状況を尋ねるため、警備にあたっていた警官にすぐに話を聞きに行った。
 話をすること数分。やがて話を終えた紅莉栖が浮かない顔をしてこちらに戻ってくる。

「まずいことになったわ」

「何があったと言うんだ……もしや──」

──タイムマシンの存在がバレた?

「そう、そのまさか。ラジ館屋上で正体不明の大型機械が煙を上げているって」

「な、なぜバレたんだ!」

「しっ。声が大きい」

 思わず声を荒らげる俺を諌めて紅莉栖はそっと耳打ちしてくる。

「昨日、阿万音さんを救急搬送するために呼んだでしょ、救急車」

「あ、ああ……」

「それで、どうも周囲の調査ってことでラジ館の屋上も調べられたらしいわ、で──」

「屋上へ行くと破損した馬鹿でかい機械があった、と……」

「そういうこと。タイムマシンだとはバレてないようだけど、正直詰めが甘かったわ……。2010年のように他国の人工衛星が落下したという報道がされて、調査や撤去の目処は立たないかもしれない。けれどそれもいつまで続くかわからないわね……」

「どうするんだ?」

「どうもこうもない。ともかく、タイムマシンに関しては静観するほかないわ。ヘタに動いて注目をあびるようなことだけはしたくないもの」

「しかし鈴羽とタイムマシンとの関係はそうも言ってられない。疑われる可能性は濃厚……」

「そ、早くなんとかしないと……」

 その後俺たちは相談を重ね、紅莉栖は残った資金で拠点の確保。俺は鈴羽の様子を見に行くことに決まった。

「くれぐれも注意して。私達と阿万音さんに関わりがあるってことだけでも今後、重大なトラブルを引き起こしかねない。くどいようだけど、阿万音さんは今、公には存在してない人間なんだからね」

 そう言い残して紅莉栖は去っていった。

 俺は鈴羽を探すため、搬送されたであろう秋葉周辺の病院を訪れていた。病院の玄関をくぐったところで1人考える。
 一体どうやって探りを入れようか……。
 紅莉栖からは鈴羽との関わりがあることを悟られないように探せ、と釘を刺されていたし、もちろん”昨日ラジ館前で倒れていた女の知り合いだ”などといっておおっぴらに関係性をアピールすることがまずいということは分かっていた。故にどのような方法で接触するか、考えあぐねていた。
 必死に考えた結果、俺が取った行動は、ひとまず頭痛がするということで検査してもらうことだった。その後、迷ったふりをして病棟をうろついてみる。我ながら機転の利いたいい方法だ、そう思った。
 しかしそれは徒労に終わることになる。
 どこを探しても鈴羽の姿を見つけることはできなかったし、これといった手がかりを得ることもできなかった。
 捜索が骨折り損に終わり、ロビーの椅子にもたれて座っていると、テレビから発せられるニュースのレポーターの言葉が耳に入った。

『ご覧ください。これが本日未明、ラジオ会館屋上に墜落したとされる人工衛星です』

 続けてヘリから映されたと見られるラジオ会館の俯瞰映像に切り替わった。
 そこには屋上に横たわり黒い煙を上げる人工衛星──いや、タイムマシンが小さく映っていた。

『この事故による負傷者は現時点では不明とのことです』

 レポーターの言葉に違和感を覚える。
 紅莉栖は言っていた。鈴羽の搬送後、周辺の調査が行われた──と。
 その際にタイムマシンを発見したのであれば、少なくとも鈴羽はこの事故による負傷者と考えられてもおかしくはない。だが、負傷者はいないものとして報道されている。

「…………」

 妙な胸騒ぎがしつつも、俺はテレビから目を離さずニュースを見続けていた。
 
『なお、アメリカ、ソ連をはじめとして各国は保有を否定しており、人工衛星の国籍等は不明の模様で、撤去の目処は立っておりません』

 あれが撤去され、解体されればタイムマシンだということがバレるだろうか。
 いや、現時点の科学力では判明するとは思えない。所々故障しているし、満足に起動もしないだろうしな。
 しかしいずれは辿り着く可能性がある。そうなる前に対処しておきたいところだが、迂闊に動くこともできない。
 そもそもタイムマシンとバレたところで、俺たちに疑いがかかる可能性は低いのではないか?
 鈴羽を除けばの話ではあるが。
 戸籍が存在しない。そんなことが分かれば、あからさまに怪しい。早く探しだしてやらねば……。
 だが結局、手がかりを得られないまま捜索を終えることになった。

「ふむん……。すでに事故の重要参考人として考えられてる可能性もなくはないわね」

「だがそうなると、接触も難しくなるな……」

「あの状態から察するに病院で治療を受け続けている可能性は高いんだろうけど……」

 あの後すでに不動産屋と話を付け終わっていたらしく、俺たちはボロアパートの一室で話し合っていた。
 資金確保、戸籍入手、住処発見。わずか1日の間に、流れるような仕事ぶりである。
 さすがは俺の助手。

「となると、やはりあの病院に通い続けて探りを入れ続けるほかないか……」

「いや、隠蔽されているのであれば正攻法で情報が入ってくるのは期待しないほうが良さそうね」

「医者を買収して病院内患者の情報を買うか?」

「そんなことしたら私達が阿万音さんと関わりを持っていると疑われる。というかそんなお金ないでしょ」

「ならばどうするのだ!」

「うーん……」

 何かいい考えがないか頭を働かせる。
 がこれと言っていい案が思いつかない。

「仕方ないわ、私が潜入してみる」

「お前が?」

「あんたに任せておけないしね」

「ぐぬぬ、こいつ言わせておけば……!」

 ふと窓の外を見てみると、すでに暗い空が広がっている。思えば今日は慌ただしい1日だった。何も食べてないことに気づき、腹が鳴った。

「あ、お腹空いてると思って買っておいた」

 紅莉栖はそう言って、横にちょこんと置かれている紙袋から2つの箱を出し、その1つを俺に差し出してきた。

「なんだこれは」

「近所のお弁当屋さんで買ったの。安かったしね」

「ふぅむ」

 開けてみると真っ白なご飯を覆うようにして張り付く海苔が目に入った。その上にちくわの磯辺焼きが乗っており、さらに白身フライの香ばしそうなきつね色が食欲をそそった。

「安価な弁当にしては中々のクオリティではないか」

「文句があるなら食べなくてもいいわよ」

「いや、いる。いります」

 弁当を回収されそうになったので、俺は急いで弁当の中身を貪った。
 テレビもテーブルもない室内で咀嚼音だけが響いている。

「…………」

 一足先に食べ終えた俺は、ふと抱いていた疑問を口に出した。
 今朝からずっと胸に秘めていた思いだ。

「なあ助手よ、1つ聞いてもいいか」

「……助手じゃないけど、質問があるならどうぞ」

 もぐもぐと口を動かすのを一旦やめて飲み込むと紅莉栖はぶっきらぼうに言った。

「…………」

 混乱していたのもあったし、慌ただしい紅莉栖の雰囲気に尋ねることもできずにいた疑問だ。

「俺は……俺たちは……なぜタイムトラベルをしたんだ?」

 おそるおそる、聞いてみる。
 紅莉栖が手にしていた弁当の容器を畳の上に置いた。

「やっぱり、何も覚えてないのね」

「ああ……」

「オーケー。じゃあ質問に質問で返すようで悪いけど、こっちも1つだけ聞かせて」

 紅莉栖はまっすぐこっちを向いて、つらつらと1つ1つの言葉をはっきり口にしながら言う。

「あんた……どこまで……覚えてる?」

「どこまで……って、俺が覚えているのは2010年8月13日の夜……そう8時頃までだ。その時タイムリープマシンの完成祝いに開発評議会を行っていた……そこで俺の記憶は途切れている」

「8月13日の……8時? 開発評議会……?」

 紅莉栖は俺の言葉を聞いて考えこむと──

「記憶が混在しているのかしら……」

「どういうことだ?」

「私の記憶では8月13日の夜に開発評議会なんていうものは行われていないもの。それに私達がタイムマシンに乗ったのは8月13日の夕方、6時頃よ──」

「なっ!?」

 6時、だと? 6時といえば俺はこいつと買い出しに……。
 そう、確かに俺はその後買い出しを終え──
 開発評議会の名の下にラボメンを招集──
 そして突然──
 とその時、頭に鋭い痛みが走り、思わず目を伏せる。

「うぐっ!?」

「ちょっと岡部、大丈夫!?」

 側頭部がじくじくと痛む。その痛みに耐えるように身体を固くすると冷や汗が吹き出し、息が荒くなる。記憶を引き出すことに対して、身体は明らかに拒否反応を示していた。

「い、いや、案ずるな……もう収まった……続けてくれ……」

 荒々しく呼吸する俺を紅莉栖は心配そうに俺を見つめる。わずかに眉をひそめ考え込んだようだったが、やがて口を開いて言った。

「……信じられないかもしれないけど、聞いてちょうだい」

「あ、ああ……」

「私の記憶によれば、8月11日の昼ごろ、あんたは私にこう告げたわ」

 紅莉栖はまっすぐと俺の目を見て大きく息を吸った。

「”俺は未来からタイムリープしてきた”ってね」

「なっ!?」

 使ったというのか!? タイムリープマシンを!? 俺が!?

「やっぱりその記憶もないのか」

 紅莉栖はため息をつくと再び話を続けた。

「当然私も初めは信じられなかった。けれど、あんたの突然の変わり様と、私の……その、未来の情報について言及されたら信じざるを得なくなった」

「未来の情報……? な、何と言ったんだ? 俺は」

「そ、そこに興味を持つな!」

 紅莉栖は顔を真赤にし、わたわたと手を振った。

「とにかく! 私はあんたがタイムリープマシンを使ったことに関して疑わなかった、アンダスタン!?」

「お、おう……」

 紅莉栖の勢いに押されてついたじろぐ。

「そしてあんたはこうも言った」

 ドクン──
 心臓が一回大きく跳ねて──
 紅莉栖の声が遠く感じる。嫌な予感がする。

「どう足掻こうと──」

 やめてくれ。

「まゆりが──」

 それ以上言うな。

「世界に──」

 頼むから。
 こみ上げてくる吐き気に嗚咽が漏れた。

「うっ……」

 俺は口を抑えて台所へと走り、胃の中のものを全て流しに吐き出した。そんな俺を見て紅莉栖が声をあげた。

「おっ、岡部っ!?」

「はぁっ……はぁっ……」

 口内に残る酸っぱさと苦さ。焼けつくような胃の中。
 ぶちまけられた内容物を見てまた胸が焼けるように熱くなった。
 まるで毒物を体から吐き出すかのような強烈な反応。

「うぁぁ……っはぁっ……ぐっ……」

 堪えようとすればするほどに俺の記憶の残滓は暴れまわった。
 気づけば、そんな俺の背中を紅莉栖は優しく擦ってくれていた。

「ごめん……軽々しく、伝えるべきじゃなかった」

 低い声で紅莉栖が言う。

「違う、俺が望んだんだ。知りたいと」

 さっきの紅莉栖の言葉を脳内で反芻する。

『どう足掻こうと、まゆりが世界に──』

「うぐっ……」

 再び胃の中が荒れ狂った。あれだけ吐き出したというのに、まだ暴れたりないというのか。
 俺は涙を流し。涎を垂らし。嘔吐、嗚咽。
 上手く息を肺に取り込むことができなくて苦しい。

「今はもう、やめましょ。とにかくあんたや私、阿万音さん。私達は未来を変えるためにタイムトラベルしたの」

 紅莉栖の優しい声が俺の体を包み込んでくれた。

「IBN5100を使って世界線を変える。今はそれだけ理解してればいいわ」

「IBN……5100……」

 かつてのDメール実験で手中から消えてなくなったレトロPCが世界線を変える鍵らしい。
 そういえばジョン・タイターも言っていた……。2036年ではSERNがディストピアを作り上げ支配している、と。
 そうか……1975年に跳んだのはIBN5100を手に入れるため……。そしてIBN5100を使ってその未来を回避しようとしている。
 だがなぜ俺たち3人も飛ぶ必要があった?
 その疑問を解消すべく尋ねるが、紅莉栖は答えない。

「岡部、今日はもう休みなさい」

「だが……」

「忘れていたほうがいい記憶ってのもある。それに私だって全てを知ってるわけじゃない。あんたから聞いた話と、それを組み合わせた想像の範疇でしかないの。そんな中途半端なことを今のあんたに話す訳にはいかない」

 真剣な眼差しで俺を諌めると、やがて辛辣な表情を浮かべて続けた。

「それに、あんたがそんな調子だと、私だって辛くなる」

「…………」

 悲しげにうつむく紅莉栖を見ていると、とてもじゃないが聞く気になれなかった。

「今はとにかく、体を休めて。記憶を取り戻すのはゆっくりでいいじゃない。阿万音さんだってきっと今不安でいっぱいなはず。あんたがそんなんだと、きっと彼女も悲しむわよ」

「ああ……」

 紅莉栖はそう言って、借りているもう1つの部屋へと退散していった。

 何もないこのがらんどうな部屋で俺は寝っ転がり、思いを巡らせる。
 8月13日の夜以降のことを思い出そうとするが、俺の脳は頑なに拒否したままだ。まるで記憶の引き出しの取っ手を全てひっぺがしてしまったかのようだ。だが13日以前の記憶はある。

 激突した人工衛星──タイムマシン
 @ちゃんねるに降臨した未来人──ジョン・タイター
 ジョン・タイターが語った未来──SERNによるディストピア
 過去へと送られたメール──Dメール

 Dメールを利用した数々の実験、それによって変えられた世界線。IBN5100が無くなったのも、その実験のせい……。そしてIBN5100を入手するために俺と紅莉栖と鈴羽が1975年へとタイムトラベル……。
 なぜなんだ……。まゆりを置いて、なぜ俺が……。
 とその時、かつて俺の携帯へと送られてきた送信者不明のメール──それに添付されていた映像が脳裏に浮かび上がった。
 真っ白な皿に乗せられた血のような赤色をしたゼリー。
 首だけが切り取られた血まみれの人形。

──お前を見ているぞ──
──お前は知りすぎた──

 ぞわり、と冷たい感触がした。まるで凍りつくように冷えた手で背中をなぞられたような。
 そしてまた俺は、吐いた。ぼとぼとと流れていくのは胃液などではなく、俺の記憶なのかもしれない。思い出すことを拒否した脳が、俺の記憶を垂れ流しているのかもしれなかった。

 俺は結局、思い出すことを諦めた。
 俺は逃げることを選んだ。
 人1人の意志には限界がある。
 俺の心はすでに壊れていたのかもしれない。

 そしてまた──
 俺は仮面を被る──

──弱い自分を隠すため。



Chapter1 END

今日はここまで
次の更新は少し時間が空いて日曜になりそうです
まだまだ続きますがどうぞお付き合いください

Chapter2



 薄汚れた窓の向こうに、見慣れない風景があった。これでもかという風に敷き詰められた建物の高さには統一性が無く──乱雑──という印象を受ける。その中でも飛び抜けて高く大きい建造物は、白い壁に煤を塗られたような汚れが目立ち、正直汚かった。
 視点を上げて、空に目を向ける。思わず顔をしかめた。
 太陽が眩しかったからか──
 それとも、期待していたような青い空じゃなかったからか──
 空気は淀んでおり、空は濁った青色をしていた。思い描いていたあの痛くなるほどの青空はどこに行ってしまったのだろうか。ここにはないのだろうか。あのそびえ立つビル達が成す壁の向こうにならあるんだろうか──
 そこでふと疑問が頭に浮かんできた。「ここ」とは一体どこなのだろうか、と──
 周りを見回す。白い壁に、白い布団が敷かれたベッドに、少し薄汚れた白いカーテン。瞬間的に病院だ、と感じる。
 顎に指を当てて考えていると、ドアが音を立てて開き、カーテンがふわりとたなびいた。ドアを開けた人物は「あっ」と小さく呻き、大きく目を見開いて言った。

「あ、ああ、良かった……目を覚まされたんですね! すぐ先生を呼んできます!」

 彼女が慌ててドアを閉めるとパタパタ、とスリッパを鳴らしながら小走りでかけて行く音がドア越しに響いた。
 看護師なのに廊下を走っちゃダメだよ、そう思った。

 改めてここがどこなのか、考えなおす。
 今扉を開けた人の格好からして、ここが病院なのは間違いない。ならなぜ自分は病院にいる? ベッドに寝てたってことは体の具合が悪いんだろうが、これと言って痛みはない、違和感があるわけでもない。
 しばらく自分の手足を眺めたり、上体を捻ったりしていると、白衣を来た男と、先ほどの看護師が少し慌てた様子で部屋に入ってきた。

「やあ、おはよう。気分はどうですか?」

「悪くはない……かな」

 すると白衣を着た男──医者と思われる──が右手でピースを作った。

「これが何本に見えますか?」

「2本」

「よし、じゃあ、自分の名前を言ってみてください」

 続けて尋ねられたので答えようとする。

「阿万音……鈴羽……」

 意図せずして、他の音でかき消されてしまうような低く小さな声になった。思い出せないわけじゃないんだ。ただあたしは混乱していた。自分の名前が”阿万音”だったのか、はっきりと自信を持って答えることができなかった。もっと他にも名前があるような気がしていたから。


「アマネ、スズハさん、ですね」

 医者は阿万音鈴羽という名前であたしを認識したようだったが、あたしは正直戸惑っていた。記憶では正しいと感じているのに、名乗ったことに対して妙に気懸かりを感じていた。

「誕生日は、いつですか?」

 立て続けに質問されたが、もはやあたしに答える気はなかった。少しでも早く、あたしを取り巻いてる違和感の正体を掴みたい──
 そう思って必死に考えを巡らせていた。

「アマネさん?」

 医者の声が遠く感じる。何か思い出そうとしてみるがダメだった。どうしても思い出すことができなかった。目をつむり、無理にでも記憶の糸をたぐり寄せようとする。しかし、そうすると側頭部にズキリと痛みが走った。

──思い出せない。

 自分がどうして病院にいるのかはおろか。過去に何をしてきたか──
 いや、そもそも自分がどういう存在であるのかすら、思い出せなくなっていた。
 あたしは記憶を失っていた。自分の名前以外、思い出せなくなっていたんだ。




 意識が揺らめいていた。辺りは真っ暗だ。
 あたしは見慣れない狭い道を走っている。前方から暗い道を照らす一筋の光が差し、その向こうに大きな人影が見えた。あたしはその背中を向かって地面を蹴り続ける。
 
「父さ──」

 手が触れるやいなや、その影は跡形もなく消えた。
 行方を探ろうと辺りを見回す。
 すると次は細身の髪長な女性が1人佇んでいて──

「母さん──」

 彼女の方へと再び地面を蹴りだす。
 が、しかし、またもやあたしが近づくと影は消えてなくなった。
 今度は、白衣に身を包んだ髪の長い女性がこちらを向いて立っている。女の顔は逆光のためはっきりと見ることができなかったが、あたしには誰なのか分かった。

「牧瀬紅莉栖──」

 まただ。あたしが近づくとまたその影は消えてしまう。
 どうしようもなく悲しくなって、誰か助けてくれる人はいないのか探し続ける。
 また見つけた。また、白衣をその身に包んだ男性──
 走って近づくことでまた消えてしまうと思ったあたしはおそるおそるその背中に近づく。
 影がふとこちらを振り向いた。

「あ……岡部倫太郎……あたし……あたし……」

 その影はわずかに口元をほころばせると──
 あたしの前からゆっくりと雲散していった。

「ああ……あああ……」

 どうしようもなく悲しくなって涙が出てくる。泣いてる暇なんてないはずなのに。あたしは結局、何もできずに消えていくんだろうか。何も成さずに死んでいくんだろうか。何も残すことができないんだろうか──

「ス──」

 え?

「スズ──」

 どこからともなく響き渡る声の主を求めて再度あたりを見回す。すると近いとも遠いとも言えないような距離に、また1つの影。今度は収まりの悪い髪の毛と、それを覆う帽子が目に入った。
 また、消してしまうのかと思ってしまったけれど、あたしにはもうその人しかすがるものがなくて。あたしはふらふらとその影に寄っていった。その影は他の4つとは違い、あたしを優しく抱きしめてくれた。

「大丈夫──」

「うぅ……」

 優しげな声と包まれるような温もりに大粒のナミダが溢れる。

「スズ──大丈夫──」

 あたしはもう、心が折れてしまいそうで。そんなあたしの頭を優しく撫でる手の感触だけがあった。

 
 そこで目が覚めた。汗が体中を濡らしていて、冷たくにじむ入院着の感触が気持ち悪い。体中が寒くて震えが止まらない。あたしは今まで見ていた夢の内容を思い返すが、どうしてもはっきりとは思い出すことができない。
 なんかこう、居心地の悪さと居心地の良さが入り混じったような夢というのは記憶があるのに、あたしの頭は思い出すことを拒絶してるかのように頑として封印したままだ。
 もどかしい。
 頭の中を羽虫が素早く飛び回っていて、捕まえようとすればするほど見失うような感覚。
 気がつけばあたしの頬には涙の筋が刻まれていた。あたしは叫び出したい気持ちを抑えつつ、顔を覆って小さく嗚咽を漏らした。




 連日、叩きつけるような雨がざああと降り注いでいる。まとわりつくような湿気と暑さ、雨の頻度。それはあたしに梅雨の季節を実感させた。
 あたしが目を覚ましてからすでに1週間が経過している。
 医者による検査は未だ続いてた。文字を書かされたり、単語の意味を聞かれたりする簡単なものから、仰々しい機械で頭の働きをチェックするような機械で行うようなものまで。けどそれらが直接あたしの記憶の回帰の助けになるか、と言ったら全くならなかった。
 むしろ脳に異常が見られない、という結果が分かってしまっただけだった。
 あたしには何かやるべきことがあるようなイメージがあって、焦燥感に苛まされていた。けれど、思い出そうとすればするほど頭の中はぐちゃぐちゃになるし、気持ちが落ち込んでしまう。心臓の鼓動はあたしに歩き出せ、と急かすけど、完全に道を失ってしまった状態。時には悔しさで周りにある物すべてを壊したくなる衝動に駆られそうになった。
 あたしはもはや真っ白だった。
 そんな時あたしは、決まって空腹を満たすことで気を紛らわせていた。気落ちするあたしを励ましてくれた1人の看護師さんが「気持ちが沈んじゃった時は美味しいご飯を食べるといいんだよ」って教えてくれたんだ。そんな簡単な話じゃない、ってそんときは思ったんだけど、食べてみると中々どうして元気が湧いてくる。最初は味気ない病院食だったけど、ようやく色んな種類のおかずやらなんやら取り入れてもらえるようになった。看護師さん曰く、あたしが美味しそうに食べるもんだから、栄養士さんも張り切っちゃうんだそうだ。身体的な異常が特に見られないっていうのもあったんだろうけど。
 前言撤回、食べることで気を紛らわせていたって言ったけどそれは間違いだった。もはや食べることはあたしの生きがいになろうとしていた。
 こんなこと高らかに宣言したら頭のおかしい人って思われるかもしれないけど、実際問題今のあたしにはそれしかないんだよね。ってのを看護師さんに話したら、笑われちゃった。でも、その後すぐに、退院したら美味しい料理をごちそうしてくれるとも言ってくれたんだ。記憶を失うという、人生の意味をも見失うような状況下で、あたしが気を狂わせずにいられたのも、この優しい看護師さんの存在と、美味しいご飯があったからかもしれない。ご飯と人を同列に扱うのもどうかしてるとは思うけど。




 目の前に横たわったシャケの切り身を器用に箸で身をかき分け、つまみ、口に入れる。すると、すぐに適度に効いた塩味が口の中に広がった。意図せず、耳の下が持ち上がるような感覚。その快感に身を捩らせながら、続けて白いご飯を一気にかきこみ、幸せな味を頬張りながら胃の中を満たしてく。

「んー! やっぱり白いご飯はサイッコーだねー!」

「いつ見てもスズちゃんの食べ方は豪快ねー」

 バインダーを胸に病室に入ってくる看護師さん。口の中に食物が残っていたけれど、あたしはこう言う。

「ふぁっふぇほいふぃんだもん」

「はいはい、飲み込んでから話してね」

 笑いながら諭された。
 だって美味しいんだもん。
 言われるままあたしは咀嚼に集中する。

──もぐもぐ

 すると看護師さんのあたしを見る視線に気がついた。その目はすごく穏やかで、まるで自分の赤ん坊でも見るような温かみを感じる目だった。あたしはそんな視線を送られて思わず照れくさくなってしまう。ごくり、と大きく喉を鳴らして飲み込むと、目を逸らして小さく一言。

「そ、そんなまじまじと食べてるところを見られると少し照れるんだけどなぁ……」

「え? あぁ……ごめんごめん……ついうちの子の小さいころを思い出しちゃって」

 そう言ってえへへと言いながら舌を出して笑う看護師さん。年齢的には30くらいに見えるから、もう出産していてもおかしくはないんだろうけど、その言い方だと子供はもう随分大きくなってるようにも取れる。
一体いくつなんだろう。


「いくつなの?」

「え? ええと、33くらいよ」

「ちがうちがーう、子供のほう!」

「あ、ああ……うちの子のほうね? うちの子はえーっと……」

 結構長い間が空く。

「10歳くらいかしら」

 くらいって。
 当の本人はニコニコとしているけど、母親に正確な年齢を把握されてない子供って……。
 もしかしてこの人、天然? いや、もしかしなくてもそうだ。この1週間付き合って分かった。看護師にしておくには少し危なっかしいなぁ、と思うことが多々あったりする。会話の中でおやって思わせられることもよくある。勘違いが多かったりね。
 でも周りのみんな、医者や他の看護師、患者からは意外に信頼されてたりするんだ。天然かと思えば時々鋭い指摘をしたりするから、油断できない。あたしが記憶を取り戻せないことに苛つきを感じてた時も、優しくフォロー入れてくれたっけ。そういうところが評価されてるのかな?

「そうそう」

 唐突に話題が転換される。

「ん? どしたの?」

「スズちゃんね、状態もいいようだし……」

「え!? 退院できんの!?」

「残念、退院じゃないの。病棟を移ることになるの」

 なんだ、退院じゃないのか。病院の中も悪くはないけど、やっぱ退屈なんだよなー。

「病棟を移る?」

「ほら、こっちの病棟は重篤患者さんが多いし、中々自由に外には出られないでしょ? 今度行く病棟なら制限も緩いから開放的な気分になるし、治療にはそのほうがいいと思うの」

「ふーん……でも体は全然問題ないんだけどなぁ……」

 そういって拳を握って素早く前後させる。
 うん、このストレートをアゴに当てればどんな大男も一撃。
 なんてことを考えてると──

「今ね、刑事さんが一生懸命あなたの身元を調べてくれてるんだけど、上手く行ってないみたいなの。だから少しでもあなたの友人やご家族との記憶が蘇って、身元が分かるように、ね?」

 目を覚ましてすぐの頃は目付きの鋭いおっちゃん達がこぞってあたしのこと訪ねてきたっけ。いずれあたしの記憶が失われていて、それが中々戻らないことがわかると訪問の頻度は大分下がったけど。
 しっかし、別の病棟かぁ。
 そうしたら今に比べて開放感溢れる生活になるのかもしれないけど、この人と中々会えなくなっちゃうんだろうか。それは気が進まなかった。けれど病院の判断である以上従わない訳にはいかない。ここで駄々をこねるほどあたしは聞き分けが悪くはなかった。
 
「そっかぁ……別の病棟かぁ」

 決して乗り気でない言葉を俯きながら呟くするあたしに対し、気遣うような言葉が投げかけられる。

「ここを離れるのは……いや?」

 顔を上げると彼女は複雑な表情をしているのが目に入った。そんな顔を見ていたら少し胸がチクリとするのを感じ、冗談めかした口調で今の心境を口にする。

「複雑な胸中ってやつ? なんといっても話し相手がいなくなっちゃうからね」

 あたしがそう告げると目を細めて微笑んでくれた。

「うふふ、心中お察しします」

 そう言ってお互い笑いあった。まるで優しい風が病室内をふわりと包んでいるように穏やかな日常だ。

「それと、今度行く病室は相部屋みたい」

「相部屋? もう人がいるってこと?」

「えーっと名前は……うーん、外国の人かな? ……えらいな……?」

 偉いな? 何を言っているんだろうこの人は。

「ふーん?」

 外国人かぁ……。外人が日本の病院に入院……。
 別段珍しいことじゃないとは思ったけど、如何せん記憶がないため判断ができず少し困惑する。そんなあたしの心情を察してか優しい声で──

「わたしもたまには顔を出すから、安心して? ね?」

「大丈夫、作戦上何の問題もないよ!」

「そうね、スズちゃんなら大丈夫大丈夫」

「任しといてよ!」

 そう言って肘関節を折り曲げて、力こぶをアピールする。

「うふふ、相変わらずね。じゃあこのまま容態が変わらないようなら明日の午前中にはお引越しだね。それまで大人しくしていてね」

 体力アピールしすぎた結果、諌められた。
 ホント、心配性なんだから。ま、看護師って立場上仕方ないのかもしれないけれど。
 そんなことを考えながらあたしは、病室を出ようとした彼女に声をかける。

「絶対遊びに来てよ! 椎名さん!」




 翌日、期待と不安を胸に抱きながら、あたしは今までいた病棟を後にした。新たな病棟の案内をしてくれたのは別の看護師。てっきり椎名さんがしてくれると思っていただけに少し残念な気持ちがあったが、やはり新しい風景というのは心を踊らせてくれる。どうにか記憶を取り戻すきっかけになってくれればいい、そう思いながら新しい病室へと足を踏み入れた。
 同じ病院内の施設ということで部屋の構造自体はそう変わりない。広さは16畳といったところ。窓は開けられていて、以前のような暗雲に満ちた空ではなく、少しだけ霞んだ青空が窓枠の中に広がっている。
 次に目に入ったのは、恐らくすでにこの部屋で過ごしているであろう相方のベッドを囲っているカーテン。真っ白な布が室内の左側大部分を占めている。そのため、人間2人という居住スペースにしては広さのあるこの部屋でも、多少手狭に感じさせる。
 看護師がカーテンの向こうに声をかけたが、睡眠中なのか返事は帰ってこない。
 少しの沈黙の後、看護師は苦笑いして「日本語は話せる方だからすぐ仲良くなりますよ」と耳打ちして部屋を出て行った。
 けれど、不気味に静止したカーテンとは裏腹に、あたしの心は揺れていた。
 無音の中、あたしはベッドに腰掛けてカーテンに目をやった。
 ただの真っ白な布切れなのに、このまま見ていたら吸い込まれそうだ。あたしはこの巨大な薄布の先を覗いてやりたい、そう思った。けれど知ってしまうのが怖い気持ちもあった。この向こう側に触れてしまったらあたしがあたしでなくなるような感覚。そんな予感めいたイメージがあたしの中にはあった。
 気づけばあたしは、吸い寄せられるようにしてカーテンの前に立ちはだかっていた。

 見なきゃいけない。
 見ちゃいけない。
 会わなきゃいけない。
 会っちゃいけない。
 対抗する2つの感情が激しい火花を散らしてあたしの心を焦げ付かせる。
 そっと手を上げて、眼前の白い波を指で摘んでみる。
 一陣の風が吹き、この先の真実を覆って隠している壁をふわりと揺らした。ごくり、と喉が大きな音を立てた後、すぐに静寂が訪れる。あたしは深く息を吸って、大きく息を吐いた。
 再び、無音。
 意を決し──
 あたしは──
 運命の扉を開けた──

「あっ……!」

 思わず口から驚嘆の言葉が漏れる。その扉の向こうにはベッドに腰を下ろし口元にまっすぐ人差し指を当てた女。
 ”声を出すな”ということだろう。いや、そんなことはどうでもよかった。
 その女を目にした瞬間、あたしの脳裏にいくつかの情景が浮かんだ。
 まるでテレビのチャンネルが切り替わるかのように──

「あっ……くっ……」

 身体を四散させ、臓物を地面に撒き散らして死んでいる女。
 喉元に刃物を突き立てられてその周りを血の海にしながら死んでいる男。
 死んだ魚のような目をして壊れたオモチャみたいにケラケラと笑い合う2人の女。
 何の疑問も持たずに銃殺処分される順番を待ち続ける男。
 そして──
 白衣に身を包み、憂いの表情を浮かべる髪の長い不惑の女性──

「牧瀬っ……紅莉栖っ……!!」

 あたしの脳内に流れた映像──
 恐らくは過去の記憶の一部がフラッシュバックされたのだろう。その記憶が一体どんな記憶だったのかはっきりと断言することはできない。けれども、ただ言えることが1つある。この身体を構成する骨肉が──奔流する血潮が告げている。
 今の映像はあたしが猛々しく暴れる猛火のごとく憎み、変えたいと思った過去だ、と。

「阿万音さん、無事で良かった。心配した──」

 阿万音──
 その名を口にするということはあたしのことを知っている。そしてこいつはあたしに接触するためにこうしてここにいる。
 そう思うのとは別に、頭で考えるより先に体が動いていた。あたしは姿勢を低くし、脚部に力を込める。

──いつでも戦える体勢に入った。

「君は何者? 目的は何? なんであたしに接触してきた!?」

「ちょ、阿万音さん……それはなんの冗談──」

「答えて!」

 目の前の女が狼狽えて言葉を発するが、あたしはそれを遮って叫んだ。
 自分でも熱くなりすぎてると感じるが、さっき浮かんだイメージが消えない。恐怖なのか、怒りなのか分からないけれど、体が震えている。
 そんなあたしを見て彼女は何かに気づいたような表情を浮かべた。

「阿万音さん、もしかしてあなた……記憶を……」

 続きの言葉は要らなかった。
 そうとも、失ってる。
 だから目の前のこの女が持ってるあたしの記憶を、脅迫してでも引き出そうと思った。
 いや、違うな。怖いんだ。きっと。
 この女──牧瀬紅莉栖が想起させたあたしの記憶は凄惨な物ばかりだったから。
 事実、床を踏みしめた両足から伝ってくる揺れが、あたしの心までもをぐらつかせていた。きっとあたしは、自分よりも何倍も大きなヒトに恐怖しながらも、必死に唸りを上げる子犬のようだったんだと思う。
 そしてそんな臆病者と対峙した彼女は自分に敵意がないことを表明しようとしていた。

「オーケイ。あなたの質問に答える前に一言」

 両の手のひらをこちらに見せながら、自身のベッドに腰を下ろしたまま彼女は続けた。

「大丈夫。安心して」

 精悍な顔つきとは逆に、温かみのある口調。たった2つの言葉だったが、それだけで不思議と優しさに包まれるような感覚に陥っていた。

「まだ、信用出来ない……。質問に……」

 答えろ、とは言い切れなかった。まだ足が震えている。

「あたしはあなたの味方。友人を助けたい。あなたに近づいたのは……」

 牧瀬紅莉栖は少しだけ考えるような素振りを見せると、やがて再び口を開いた。

「ある意味で、あなたのことも手助けしたい、って思ったからかな……」

 あたしの手助け?

「あなたの質問に答えてあげたんだから、私からも1つ」

 当然の権利、と言った顔でこちらに問いかけてくる。

「……どこまで覚えている?」

 おおよそ、予測していた通りだった。あたしを知っていて、あたしが記憶を失っていることが分かれば、そこを聞くのは当然だと思った。

「覚えているのは、自分の名前……。そして君の名前だけ……」

「ふむん……あまり事態は好ましくないわね」

 あたしが答えると、彼女は口元に指を押し当て視線を床に移し呟いた。
 まだ安心はできない。記憶が無いことをいいことにあたしにあることないこと吹き込んで利用しようっていう可能性も否定出来ないから。

「っていうかいい加減警戒するのやめてほしいわけだが……」

「言ったでしょ。まだ信用できないって」

「そうよね……そうなるわよね……となるとどうしたものか……」

 言って、頭を抱えてうなだれてしまった。あたしに信用されていないのがショックだった、とまではいかないけれど、どこかしら落ち込んでるような……。
 思わず同情しかけて、構えを解いてしまう。
 そんな自分にはっとして、再び警戒する。
 だめだだめだ、油断は死につながる。そう教えられたはず!

「…………」

 こんなことを教えられるなんて、あたしは戦いに身を置く職業──例えば軍人とかだったんだろうか。でもこの1週間、あたしはあたし自身という人間について何度も考えたからなんとなく分かる。あたしは何かのために必死にもがき続けるただの人だったんじゃないかって。迷いや後悔もあるけれど、ただひたすら前を向いて、ただひとつの目標に向かって──
 けれど、今のあたしはポキリと刃が折れてしまったカッターナイフだ。鍛え上げられた軍人のように研ぎ澄まされたナイフなんかじゃ決してなかった。刻んできた命の証は失われて、自分が何をしてきたのか全く分からない、ただの人だった。
 そう思うと、張り詰めていた心がふと緩むのを感じた。

「あの、さ……」

 自分でも弱々しい声だな、って思った。
 声は届いていないらしく、彼女は依然として頭を抱えてぶつぶつと独り言を発している。あたしの信用を得られないことに対し本気で悩む彼女を目にし、あたしは少し罪悪感を覚えていた。
 冷静になって考えてみたら、彼女を見て記憶が思い起こされたのは確かだが、あの凄惨な状況を目の前に居るあたしと同じくらいの年の少女が作れるとは到底思えなかった。それに、映しだされた記憶の映像では40代くらいの女性だった。眼前の彼女はどう見ても10代後半か、20代前半といったところ。そうなれば今のあたしにある記憶と目の前の光景とでは矛盾が生じる。
 あれだけ警戒しておいて都合が良い話だな、とは思ったが、あたしは彼女に歩み寄ろうとしていた。
 再び、声をかけようと決心し、大きく息を吸う。

「あのさ──」

 とその瞬間、扉が勢い良く開き──

「フゥーハハハ、差し入れを持ってきてやったぞ助手よっ! 感謝するのだな──」

 およそ病院にはそぐわない大声があたしの耳に飛び込んできた。振り返ってその声の主を認識した瞬間、再びあたしの頭のなかに映像が映し出される。
 手狭な室内にテーブルがあり、そこに乗せられたごちそうを前に笑い合う数人の男女。
 ニカっと笑う筋骨隆々の男と、その隣に彼とは不釣合いな可愛らしい童女。
 あたしの両の手を握って、満面の笑みで優しい眼差しを送ってくれる少女。
 窮屈で無機質な機内で工具を手に、機械を弄くりながら笑う大柄な青年。
 そして──
 白衣に身を包み、大げさな立ち振舞いで尊大に笑う男性──
 あたしの脳内に流れた映像──
 恐らくは再び、過去の記憶の一部がフラッシュバックされたのだろう。先ほどのように、今の記憶が一体どんな記憶だったのかはっきりと断言することはできない。けれども、同様にただ言えることが1つある。この身体を構成する細胞が──鼓動する心臓が告げている。
 今の映像はあたしがの一条の波すらない優しい水面のごとく慈しみ、大切にしたいと思った過去だ、と。
 気がつけばあたしは、その白衣の男──岡部倫太郎の胸に頭を寄せていた。

「ぬあっ!?」

「ちょっ! おまっ!?」

 素っ頓狂な声が重なりあって、長く続く廊下に消えていった。
 少しだけ間が空いて、あたしの脳裏に1つの名前が思い浮かんだ。

──岡部倫太郎。

「貴様、よく見ればバイト戦士ではないか……すでに接触していたのか……」

「良かった……岡部倫太郎……また、君に会えて……」

 なぜかは分からない。しかし、頭に浮かんだその名を音にするとポロポロと涙がこぼれ彼の白衣にしみを作った。

「お、俺の名は岡部ではない!」

「えっ……?」

 もしかして記憶違いなんだろうか。さっきから胸が熱くなっていっぱいなのに。

「俺は鳳凰院凶真だ!」

「そこかよ……。っていうか鳳凰院でもないでしょうが!」

「うるさいクリスティーナ!」

「そ・の・名・で・呼・ぶ・な! あんた状況分かってんの!? はぁー……もう。ちょっと大人しくなったと思ったら本当に不死鳥のように蘇りやがって……」

 すん、すん、と鼻をならすあたしをよそに2人はお互いの名前の呼び方で揉めた。そんな2人の様子がとてもおかしくて──そしてとてもなつかしくて──
 あたしは思わず声を出して笑った。

「あっははは……」

「バイト戦士……?」

「阿万音さん……?」

 目尻に浮かんだ涙を拭いながら笑みを見せると2人は怪訝な顔をしてあたしを呼んだ。

「なんでかは説明できないけれど、なんだかとっても胸が熱くなっていっぱいで……おかしいね、2人のことあんまり思い出せないはずなのに……」

「バイト戦士、貴様もしや……記憶がないのか……?」

「あはは、そうみたい……でも少しだけ覚えてる、エピソードとか具体的なものじゃないけどね……。不思議だね、君たち2人を見てると安心する」

「良かった、ひとまず私に対しての警戒も解いてくれたみたいね」

「まだ、完全に信用したわけじゃないけれど、君が悪いやつじゃないってのは、なんとなく察したよ」

「そ、良かった。岡部……じゃなかった、宮野についても名前だけは覚えてるようだし、不幸中の幸いね」

 牧瀬紅莉栖は岡部倫太郎のことを宮野と呼ぶ。なんでだろう。彼の名前は紛れも無く岡部倫太郎のはずなのに。やっぱりあたしの記憶違いなんだろうか。状況が状況なだけにはっきりと断言はできない。
 だからあたしは、その違和感の正体を探るためにその名前を聞き返すように尋ねた。

「宮野? でもこの人の名前は……」

「……とりあえず、ドアを閉めましょう。聞かれたくない話だし」

「うむ……」

 岡部倫太郎がそっとドアを閉めると牧瀬紅莉栖が一呼吸置いてあたしの目を見ながら言う。

「今岡部は宮野って名前を使ってる」

「不本意だがな、仮の名だ」

「大きな声では言えないけれど、私も同様に偽名を使っているわ──いや、正しくは他人の戸籍を使わせてもらってる。岡部──じゃなくても宮野もね」

 改めて、2人が今使っている名前を教えられた。けれどやっぱりぱっとしない。それもそのはずだ、他人の戸籍を使っているってことは、他人の名前なんだから。

「今後はその名前で呼ぶこと。理由は改めて話すわ」

「でも呼び方変えるのあたしは気が進まないなあ。だって、あたしに残ってる数少ない記憶なんだもん」

 あたしにとって2人はやっぱり、岡部倫太郎と牧瀬紅莉栖だった。たとえどんな記憶であろうと、今の記憶は大事にしたい。

「お願い、分かってちょうだい。追手が来てるとまでは行かないけど、用心するに越したことはないの」

「うーん、まぁ、考えとく」

 ひとまず保留にしておく。2人に会って頭のなかがぐちゃぐちゃだ。考えがまとまる前に色んな考えが浮かんでいくる。どんな関係だったのか、とか。あたしの過去をどれくらい知っているのか、とか。
 聞きたくてうずうずしてるあたしをよそに、牧瀬紅莉栖がとんでもない命令をしてきた。

「阿万音さん、あなたも名前を変えてもらうわ」

「ええー? なんでー!? やだよー!」

「駄々をこねるなバイト戦士ぃ、機関を欺くために必要なことなのだっ!」

「あんたは黙ってて」

「なっ、貴様助手の分際で!」

 岡部倫太郎の反抗を意に介さず牧瀬紅莉栖は続ける。

「大丈夫、あなたの場合、他人の戸籍を買うんじゃなくて、新しく作ってもらえる可能性があるから。ただまあ……阿万音鈴羽はもう使わないで、オーケイ?」

「えー……それは困るよー……」

 あたしは口をとがらせて精一杯抵抗の意を表する。牧瀬紅莉栖は眉間にしわを寄せて代替案を出した。

「あーもう……だったら橋田鈴羽、これでどう?」

 橋田鈴羽。違和感はあまりない。

「まぁ、それなら……」

 あたしはしぶしぶOKした。

「じゃあ、これからのことを話すわね」

「うん……」

 あたしはベッドに座った。少し離れたところで岡部倫太郎が腕を組んでこちらを見下ろしている。
 隣のベッドに座る牧瀬紅莉栖がこちらを見て語りかけた。

「明日の回診が終わったタイミングで阿万音さんにはこの病院を抜けだしてもらう」

「え? なんで?」

「すでにタイムマシンの残骸は報道機関によって大々的に報じられてるわ。いずれあの場所の痕跡も調べられて、あなたに辿り着く。そしたら阿万音さんとの関係性も疑われるはず。そうなる前に行方を眩ませておいた方がいい……いや、すでになってるかもしれないわね。幸い、タイムマシンだと解析されてはいないようだけど」

 タイムマシン…………? 何を言ってるのかよくわからない。
 そんなものあるはずが……そんな考えを浮かべるとズキリと頭が痛んだ。

「機関が追手を寄越していた場合、尻尾を掴まれることになるだろうな。まあ、その時は非情にお前を切り捨てるつもりだがな、クックククク」

 ギロリ、と牧瀬紅莉栖が岡部倫太郎をにらみをきかせた。
 彼は一瞬怯えた表情を見せたかと思うとたまらない、といった様子で自らの右手首をつかんだ。

「ぐぅぅうぁああぁっ! ふ、封印がぁっ! 静まれ……俺の右手ぇっ! 俺は2人を傷つけたくは……ないんだ……!」

「はいはい、そんな役立たずの右腕は手術で切断してやろうか? 幸いここなら設備は整ってるわよ」

「…………」

 牧瀬紅莉栖がそう言うと途端に黙りこむ岡部倫太郎。
 そんな彼を見て1つため息をつき、牧瀬紅莉栖があたしを見て言った。

「大丈夫、あなたを切り捨てるなんてしないから。でも万が一そうなってしまえば私達がタイムトラベルした意味も失われてしまう」

 タイムトラベルした……意味……? どうやらこの口ぶりだと、あたしたちはどこか別の時代からタイムトラベルしたように思える。でもやっぱり思い出せない。

「うぅ……頭が痛い……痛いよ……」

「だ、大丈夫か? バイト戦士!」

「恐らく無理に思い出そうとして脳に過度なストレスが掛かっているのよ……。大丈夫、いずれ戻る可能性は十分あるから、無理しなくていい」

「う、うん……」

「ともかく、明日病院を出て岡部……じゃなかった、宮野に付いて行って。私も数日後に落ち合うから」

「どこへ行くの……?」

「俺たちが直々に探し当てた根城があるのだ、そこに来てもらう」

「心配しないで、こいつとちゃんと部屋は分かれてるから」

「うん……」

「そこっ、変なコト言うなっ!」

 その後、岡部倫太郎は翌日の作戦に向けて帰宅した。
「作戦も何も、外に出た阿万音さんを連れて行くだけだろ」と言って牧瀬紅莉栖は呆れていたけれども、あたしは内心ドキドキしていた。病院の皆──特にお世話をしてくれた椎名さんには申し訳なく思ったけど、記憶を失って以来、退屈な日々を過ごしていたあたしにとっては刺激的な計画だったんだ。
 事実その夜は中々寝付けなくて、何度もすぐ近くにいる牧瀬紅莉栖に話しかけようと思ったくらいだ。でも彼女は、現時点で関わりを持っていると思われるのはあまり良くない、と言って必要最低限のこと以外は喋りかけないように、とあたしに釘を差した。
 
 そして朝が来て、見慣れない看護師を後ろにつけた、いつもの医者が回診に来た。回診と言っても記憶の進展は見られない──ように装った──のですぐに終了し、医者たちは部屋を後にした。
 あたしは再び白いカーテンごしの牧瀬紅莉栖を一瞥すると、外出の許可をもらいにナースステーションへと向かう。
 許可は簡単に下りた。あたしが外の空気を吸いたい、と言うと快諾して外出届を書くようにと言われた。もっと映画みたいに差し脚抜き足忍び足、ってのを想像していたあたしにとっては拍子抜けだった。入院時の態度も大人しい方だったし、体調も全然問題なかったから当然なのかな。記憶を失った患者に対してはちょっとザルすぎるなぁ、とも思ったけど。記憶を無くしてるから、遠くに行く心配はない、とでも思ったんだろうか。
 玄関を出てすぐ、白衣に身を包んだ岡部倫太郎の姿を捕捉する。あたしは努めて平静を装い彼に近づいた。彼もあたしに気づいたようで、こちらを見ずに小さな声で言った。

「バイト戦士よ。首尾はどうだ」

 守備?

「攻撃のほうが得意だけど、全然問題ないよ!」

「その守備ではないわっ、っとそれはともかく、コレを着ろ。すぐにここを離れるぞ」

 ビニール袋から1枚の上着が取り出され、手渡される。広げてみると袖が長いフード付きのパーカだった。さつまいもの皮のような鈍い紫色をしていて、腕と脇腹の辺りに黒く太いラインが走っている。触った感触はペラペラで、どう見ても安物。しかもお世辞にもセンスが感じられないひと品だった。
 けどまぁ、こんだけ地味だったら、目立たないか。
 そう思って袖を通してフードを深く被る。正直ぶかぶかだ。多分男性物だろう。着てみて首の付根辺りにチクリとした感触が走った。
 触ってみると、商品タグだった。
 こんくらい外しといてよ……。
 内心呆れつつもあたしのために買ってきてくれたんだなあ、って思うと少しうれしくなった。生地を痛めないよう片手で抑えつつもう一方の手で強引にタグピンごとタグを引き抜くと、足早に歩を進めた。少し前を歩く彼の元へ追い付くために。

「む……なんだその顔は」

「えへへ、なんでもない」

とりあえずここまで
ちょっと休憩
再開は申し訳ないが未定




 電車をいくつか乗り継いで目的の地へと向かう。少し前を歩く彼にどこへ向かっているのか尋ねると、「西だ」としか答えてくれなかった。詳しく話してしまうと機関ってののスパイに聞かれる恐れがあるんだって。
 辺りをきょろきょろしながら警戒して歩く彼とは逆に、あたしは少しだけ心が踊っていた。
 ふと、思いがけず頭の中に言葉が思い浮かんだ。

──なんかさ、駆け落ちするみたいだね。

 そんな思いもよらない言葉が、余計にあたしの胸を叩くように弾く。顔が熱くなるのが分かった。それがバレるのが怖くて少しうつむき加減に平然を装う。
 どうしちゃったんだろう。まるで自分が自分じゃないみたいだ。
 と思いつつも冷静に考えると今のあたしは記憶を失ってるんだからそれも当然か、って納得した。
 そうやって1人でもやもやしたりすっきりしたりを繰り返していると、やがて狭い路地で立ち止まった彼から告げられる。
 彼はかろうじて車が2台通れるくらいの幅の道路に立ったまま顔を上げて言った。

「この場所こそ、我々が潜入している拠点だ」

 自信満々の言葉に対してその建物はオンボロな2階建ての集合住宅だった。
 道路に面しているせいか、白い壁には至る部分にドス黒いシミのようなものがかすれたように広がっていたし、階段の手すりなんかは塗装が剥げかけて、そこからサビが顔を覗かせていた。いかにも、昭和の激安ボロアパート、って言葉が当てはまった。

「無論、仮の……だがな」

 顔に出ていたのだろうか。彼はそう付け加えた。
 まあでも、無いよりマシだよね。そう自分に言い聞かせて彼の後ろをついていった。

「部屋は2つ用意してある。お前はクリスティーナと同室を使うがいい。鍵はヤツから預かってある」

 オンボロアパートとは言え二部屋も使ってるなんて豪華だなって思ったけど、あの牧瀬紅莉栖と岡部倫太郎が同室で暮らしてるのもいまいち想像できない。

「では俺は自分の部屋に行くぞ。困ったことがあればいつでも訪ねるがいい、合言葉は──」

「ねえ、岡部倫太郎。君はあたしの知らないあたしを知っているんでしょ?」

 部屋に入ろうとする彼の言葉を遮って病院から抜け出す以前から聞きたかったことを口にする。
 少しだけ間が空いて答えが返ってくる。

「まあ、そうなのだろうな」

 煮え切らない言葉。もしかしてよく知らないんだろうか。

「ねえ君の部屋に入っていい? 色々教えてよ」

「俺に答えられることならば答えてやろう」

 あたしの顔は見ずにぼそりと言って部屋の奥へと消えていった。先ほどまでの態度の違いに戸惑いつつも後をついていく。
 室内に入るとすぐに、畳が敷き詰められた和室と正面に据えられた小さな窓が飛び込んできた。構造上ベランダみたいなのはないみたいだ。
 冷蔵庫から2本の細長い缶が取り出され、そのうちの1本が差し出される。
 あたしに缶を手渡すと彼は窓の下の壁にどかっともたれかかり、プルタブをこじ開けた。プシュッとさわやかな炭酸の音と香りが部屋に広がり、喉の渇きが喚起される。目の前をだらしなく座る彼は缶を一気に煽ると、大きな息をついた。

「この時代にもドクペがあって助かった。しかしドクペはやはりペットボトルに限る」

 文句を言いながらも再び缶に口を付け喉を鳴らす岡部倫太郎。その姿に感化されてあたしも勢い良く缶の中身を口に含んだ。すぐに爽やかなフレーバーが鼻の奥を刺激し、チリチリとした感触が喉を洗った。

「かー! 美味しいねー」

「うむ、中々話が分かるなバイト戦士よ」

 想像以上に喉の渇きに飢えていたんだろう。あたしも再び缶をぐっと煽ると中身はすぐに底をついた。

「いい飲みっぷりだ。貴様とも同じドクターペッパリアンとして語り明かせるだろう」

「喉乾いてるからね、今はなんでも美味しいや!」

「そ、そうか……」

 残念そうな顔をする岡部倫太郎。

「早速だけどさ、本題に入らせてもらう」

「…………」

「あたしや君は、タイムトラベラーなの?」

「貴様の質問に答える前に一言告げねばなるまい」

「え?」

「バイト戦士よ、お前のようにほぼ全ての記憶を失っているわけではないが……。お前同様、この俺も記憶を失っている。助手が言うにはほんの一部らしいがな」

「そ、そうなの!?」

「ああ、実感としては乏しいがそれだけは確実に言える。俺には2010年8月13日までの記憶は存在するのだ……。タイムリープマシンが完成し、開発評議会を行っている、その時点までの記憶がな。その事実を前提にすれば、お前の質問にはこう答えることが出来る。お前や俺は2010年の秋葉に存在した。にも関わらず現在の西暦は──」

 ごくり、と喉が鳴った。呼吸が荒くなる。意識の外から岡部倫太郎の声が届いているが、薄い壁を隔てているように上手く聞き取ることができない。

「──1975年」

 まさか──

「つまり俺とお前──いや、紅莉栖もか」

 そんな──

「俺たちは2010年から跳んできたタイムトラベラーだ」

 本当に──?

 乱れた呼吸のせいで上手く肺に呼吸を取り込むことができない。そんなあたしの様子に気づいたのか、岡部倫太郎が心配の言葉をかけながら近くによってくる。

「だい……じょうぶ、少し頭痛がしただけ、だから……」

「少し横になるがいい。俺だってヤツから聞いた時は卒倒しそうになった」

「うん……そうする」


 家具も家電もほとんどない、ガランとした部屋で布団に包まれ、天井を見つめる。
 あの後、岡部倫太郎は自分の知っている限りのあたしの情報を話してくれた。
 2010年の秋葉で、あたしは彼の設立した未来ガジェット研究所っていう組織に身を寄せていたこと。
 所属研究員──ラボメンは8人いて、あたしはその最後のナンバーをもらっていたこと。
 ラボの階下にはブラウン管工房っていう時代遅れのブラウン管テレビ専門店があって、あたしはそこでバイトしていたこと。
 ミスターブラウンっていう厳ついオヤジと、それに似つかわしくない可愛らしい少女と仲良くしてたこと。
 秋葉には、父さんを捜索しにやってきたこと。
 結局捜索は失敗して、秋葉を去ろうとしていたところを強引な手段を用いてあたしを捕獲してラボに連行したことなどなど。
 あたしは彼の話を黙って聞いて、遠い過去──いや、未来か──に思いを馳せていた。ぼんやりとした記憶の中に、それぞれの人物の輪郭が浮かぶ。けれども、靄がかかったようにあたしの視界を塞ぎ、実体の証明を許さない。取り戻したいのに、手が届かない。
 彼は自分自身についても話してくれた。
 タイムトラベルした記憶はないこと。
 タイムリープマシンっていう、記憶を過去の自分に飛ばす機械を作ってそれを祝うパーティをしたこと。
 そしたらいつの間にか1975年へ来ていたこと。
 何を言っているのかわからないとは思うけど催眠術だとか、超スピードだとか、そんなチャチなもんじゃ断じて無いってこと。
 記憶を取り戻せずに不安なのは一緒なのに、あたしの心情を察したのか、元気づけようと一生懸命大げさな振る舞いで語る彼。そんな姿があたしの胸をとても暖かくした。
 同時に、また顔が赤くなるのを感じて、思わず布団で頬を覆ってしまう。

「む、なんだ。眠くなったのか?」

「ちょ、ちょっとね!」

「く、貴様っ……! この狂気のマッドサイエンティストの論説を聞いて眠気を催すとは──というか、赤くないか? 顔……」

「こっ、これはっ──その……ちょっと、また頭が痛くなって……さ」

「む……そうか……風邪だろうか……それとも、記憶障害による頭痛が原因か……」

「ね、このままここで寝ていい?」

「え?」

「だめ……かな?」

「い、いや、ダメではないが……そうだな。調子も良くないようだし、紅莉栖が戻るのもいつになるかわからんしな……ゆっくりと休むがいい」

「サンキュ……」

「い、言っとくが何も手出しはせんからな!」

「? あっははは……大丈夫、心配してないよ」

 自分ではわからなかったけど、思いの外緊張していて疲れていたのだろうか。
 途端に頭がぼんやりしてきて意外にもすぐ眠りについた。




 一点の曇りもない空の真ん中で、あたしは湖に揺蕩う小舟のように浮かんでいた。見ていて惚れ惚れするような景色なはずなのにあたしはすぐに嫌な予感を胸中に抱いた。
 そしてあたりを見回すと案の定、大きい背中をこちらに向けた父さんと長い髪をなびかせて佇む母さん。
 また、あの夢だ。
 もう何度見たことだろう。目が覚めるとどんな夢だったか覚えていないのに、夢のなかでは何度も見たことを覚えている。失われている記憶に関係があるのだろうか。
 野良猫に忍び寄る時のようにそっと近づく。2人が消えてしまわないように。
 けれどもそれは叶わなかった。あたしが近づくと、いつものように2人は煙のようにふわりと身体を雲散させ、やがて空と同化してしまう。
 あたしは胸の中に鋭い痛みを感じて目を背ける。やがて目を開くと今度は白衣を来た2人。
 岡部倫太郎と牧瀬紅莉栖。
 その2人も一緒だ。
 雲一つない青空にゆったりと佇んでいて、確かにそこにいるはずなのに、あたしが近づくと一瞬で消え去ってしまう。
 あたしはもうどうにかなりそうだった。
 そんな時決まって彼女はやってくる。彼女の温かい手に撫でられて。温かい腕に抱きしめられて。
 そして涙を流しながら、そこで記憶は途切れる。


 気づけば岡部倫太郎が慌てた様子であたしの肩を揺らしていた。

「鈴羽! 大丈夫か!」

「あ、あれ……? 岡部倫太郎? どしたの、そんな血相変えて……」

「ど、どうしたもこうしたもないだろ! お前が眠ってる最中うなされ出したから──」

 ふと目尻に大粒の涙がたまっているのに気づき、それを人差し指で拭った。
 窓の外を見やると散在した雲が赤く染められ、おびただしい数の烏が群れをなして鳴き続けていた。

「夢をね」

「は?」

「夢を見ていたんだ」

「なに? 夢?」

「ねえ岡部倫太郎」

 どんな夢だったか、またもや思い出すことはできなかった。
 できなかったけど、なんとなく分かる。こんな夢を何度も見るなんてきっと──

「あたしって、薄弱な人間だったのかな……」

 そんな想いを口にすると拭ったはずの目尻から大粒の涙がこぼれ、布団に染みていった。




 3日後、検査を終え病院から牧瀬紅莉栖がこの部屋へと帰還した。
 といっても検査自体は仮病によるものだから問題なく終わったのだけど、同室の患者がいなくなったことによる事情聴取がしつこくて中々戻れなかった、と本人は言っていた。
 牧瀬紅莉栖からもあたしに関する記憶やラボとやらに関する記憶を聞いておこうと思って尋ねたけれど、これといって気になる発見はなかった。
 岡部倫太郎とは違い彼女からは、あたしは2036年から跳躍してきて、2010で年ジョン・タイターと名乗り、とある使命を果たそうとしていたらしいという話を聞けたのだけど、そのあたりを思い出そうとするとどうしても頭が割れそうに痛くなってとてもじゃないけど、彼女の話を聞き続けることはできなかった。彼女はそんなあたしに対して怒るでも飽きれるでもなく、今は無理して思い出さなくてもいいと言ってくれた。いずれ全部思い出すかもしれない、とも言ってくれた。
 改めて彼女の存在をありがたいと感じる。初めて──今のあたしの認識で──会った時の警戒を謝罪すると、その件に対しても許してくれた。本当に懐の広い女性だなあと思った。
 でも今後生活するに当たって1つ条件を出されてしまった。
 それはお金を稼ぐこと。
 今のあたし達ははっきり言って資金難らしい。あたしの戸籍を新しく作った時にほとんど使い切ってしまったみたいだ。
 タイムトラベルの直後、牧瀬紅莉栖はタイムマシンから脱出してあたしを病院に送り届けた。その後、タイムマシンを構成する希少価値の高い部品を解体して資金源にしようと目論んでいたんだけど、予想以上に損壊が激しかった上、人目に付く可能性もあったから、最低限の部品を換金した後はタイムマシンに近づけなかったらしい。その最小限の部品でもかなりの値段がついたらしくて、戸籍を購入した後も1年くらいは普通に暮らしていけるだけのお金は入手できたみたいだった。
 けれど、彼女にはある目的があってお金がもっと要るといっていた。それも多額のお金で、できるだけ早急に。
 牧瀬紅莉栖や岡部倫太郎も金策はするっていってたけど、事態は急を要するらしく、資金稼ぎは人数がいたほうがいい、という話だった。自分に何が出来るか分からない以上断ることもできないし、あたしも何もせずにはいられなかったからいいんだけどね。
 結局あたしは新しく手に入れた”橋田鈴羽”の戸籍を元にバイトを始めることにした。
 最初は岡部倫太郎が言っていた機関の追跡ってのが来るんじゃないかと心配していたけれど、杞憂だったみたい。
 ひとつきふたつきと時間はすぐに流れて。
 あたしはこの時代を謳歌していた。

「はいはーい、唐揚げ弁当安いよ~。美味しいよ~。そこのおっちゃんおひとつどーお?」

 あたしは拠点の付近に立地していた小ぢんまりとした弁当屋でバイトをしていた。夕食時の夕暮れを往く人たちに自慢の弁当を勧める。「じゃあ1つもらおうか」というお客さん相手に笑顔で弁当を手渡した。

「あいよ、一個170円ね。はい、サンキュー! またお待ちしてまーす」

 軽快に金銭を受け取りお礼を言う。
 このバイトを初めてはや3ヶ月目。初めは料理なんて性に合ってないかな、とは思ったものの、自分にできることが分からないし、2人はなんだか忙しそうにしていたしで、結局近場ということもあり余り物の惣菜ももらえるこのお店で仕事をしてみることにした。
 お店の人たちもいい人だし、何より自分の料理の腕が上がっていくのが嬉しい、そう感じてあたしはやりがいってのも得ていた。もちろん、バイト代はそんなに大したものじゃなかったけど。

「じゃ、今日は上がりまーす、おつかれっしたー」

 そう言って大量の惣菜を手に帰路につく。
 帰宅すると牧瀬紅莉栖が電話を片手にペンを握っていた。分厚い本や、書類の数々に囲まれた彼女はあたしの姿に気がつくと、電話の相手に「ではよろしくお願いします」とだけ伝え電話を切った。

「うーっす牧瀬紅莉栖」

「ああ、おかえりなさい」

「また株? 多忙だね~」

「まあね……でも元手が少ないから思ったような成果が出ない」

 このところ牧瀬紅莉栖は株取引中心の生活をしていた。株式の動向を把握するために何度も証券会社に足を運んでいたし、担当者からの連絡がいつ入るかわかったもんじゃないから、それ以外ではほとんどと言っていいほど外出しなかった。

「パソコンもネットもないのって中々不便よね……はぁ……」


 牧瀬紅莉栖が大きくため息をついた。中々フラストレーションがたまっているように思える。

「くっ、専門分野じゃないとはいえ、大きなアドバンテージを持っていながらこの状況……株、奥が深いわね……」

 ぶつぶつと独り言。最近多い。

「大丈夫大丈夫、まだあわてるような時間じゃない……」

 彼女はしきりに何かを自分に言い聞かせている。極度の過労状態による幻覚症状でも起こしているんだろうか。

「お疲れだね~。そんな時にははい! これ」

 言ってバイト先でもらったお弁当を高らかに掲げる。

「ありがと、そこ置いといて。後で食べるから」

 むー。つれないなあ。

「今日はなんと栗だよ~、栗ご飯だよ~。1日中部屋に引きこもっててお腹空いたでしょ。美味しいよきっと!」

 そう言って牧瀬紅莉栖の食指を動かそうとしてみる。もう秋だからきっと旬で美味しいはずだ。

「自宅警備なんかしとらんわ!」

「えっ?」

「えっ?」

 予想に反した返答で思わず困惑する。1日中家にいるのは実のところ追手から自宅を守るための警備っていう役割も兼ねてるのかな? いやでも、自分で自宅警備なんてしてないって言ってるし、よく理解できない。
 一方牧瀬紅莉栖はというと、彼女自身も自分の発言に驚きを隠せない様子。再び大きくため息を付いた牧瀬紅莉栖は独り言を言う。

「ああぁ……自分でも悲しくなる。禁断症状かしら」

 再び1人呟く。ぶつぶつと。
 うーん、何を言ってるのかよくわかんないや。
 彼女はいつも毅然とした態度で凛々しい顔つきをしている割にこういうところがある。隙を見せまいと気を張っているつもりなんだろうけど、結構容易く油断する。
 かと思うと、年齢の割に包容力のある温かみも有したりしていた。
 あれはいつの話だっただろうか。この部屋に一緒に暮らしだして数日経ってからの出来事だ。
 あたしは3ヶ月ほど前のことをついこの間の事のように思い出していた。


 狭苦しい浴室で肌を打つシャワーを止めた。あたしは曇った鏡を手でこすり、中に映しだされたもう1人の自分に釘付けになる。肩にかかるくらいの髪の毛は緩やかな波を打ってたくさんの水粒を絡ませながら水を滴らせている。自分の顔をまじまじと見つめてみる。年齢は18歳だという。
 ふと、鏡から視線を移して自らの裸体に向ける。
 肌から滑り落ちるいくつもの雫は浴槽を打ち鳴らしている。そっと腹部に浮かんだ水滴を指でなぞり、滑らせる。行き着いた先は──

──傷跡。

 遠目からでは決して目立ちはしないものの、無数の古傷があたしの体に跋扈していた。胸部、上腹部、大腿部。
 幸い衣服や下着で隠れるような箇所が多かったが、その傷跡は確実にあたしの心にも刻まれていた。
 いつ付いたのかもわからない傷跡に触れ、思いを馳せる。
 18歳の女の肌ははたしてこんなに薄汚れているものなんだろうか。判断はつかない。牧瀬紅莉栖にそのことを聞く勇気もない。聞いてしまえばきっと彼女は悩むかもしれない。過去のあたしの生き様について伝えるべきなのか、と。
 鼻の奥がツンとして、思わず泣きじゃくりたい気持ちが浮かんでくる。顔を歪ませて手のひらを口元に開けてそっとしのび泣く。
 思いっきり泣き叫びたいけど、そうしてしまったらきっと彼女は心配するだろう。

 どれくらいそうしていただろう。気づけば半透明の薄いドアを隔ててかすかに人の気配がした。

「鈴羽……? どうしたの?」

 牧瀬紅莉栖だった。あたしが長いことシャワーを浴びてるもんだから不思議に思って声をかけに来たのかもしれない。

「なっ、なんでも……ないよ……」

 無用な心配をかけまいと咄嗟に否定するものの、声が震えてしまっていた。そんな機微を感じ取ったのか、彼女は──

「なんでもない訳ないじゃない。……泣いてるの?」

「泣いてなんて、ない。ないから……」

 できることなら彼女に弱みは見せたくなかった。そうしてしまったら自分が脆弱な人間だということを認めてしまうような気がしたから。強くなければいけないのに、弱い自分を受け入れてしまうような気がしたから。

「鈴羽、開けるわよ?」

 そんなあたしの気持ちに反して、扉がゆっくりと開かれる。今彼女と対峙してしまえば崩れてしまった泣き顔と、この醜い傷跡を見られてしまう。それはなんとしても避けたかった。

「だめ──」

 あたしは反抗の意を示すため、震える声を精一杯張り上げながら叫んだ。けれどすでに遅かった。
 扉は完全に開き、牧瀬紅莉栖の瞳があたしをとらえた瞬間、彼女の目は大きく開かれた。

「鈴羽……あんた……」

 視線があたしの顔を、身体を、傷跡をなぞるように滑っていく。
 隠そうと覆った腕や手の隙間から弱さがにじみ出ていた。あたしは声を出すことができなかった。ただ震えていることしかできなかった。今はどんな言葉を聞きたくなかった。どんな慰めを言われようと、この傷が消えることはないから。
 だけど、そんなあたしに対して牧瀬紅莉栖はただ──

「ほら、早く拭きなさい。風邪、引くわよ」

 そう言ってバスタオルを渡してくる。数秒の間が空いてそのタオルを受け取るとあたしはたまらず尋ねていた。

「なにも……言わないの……?」

 そんな問に対して彼女は特に同情するでもなく、悪びれる様子でもなく。

「なにか言ってほしいの?」

「…………」

「慰めの言葉でも求めてるなら言っとくけど、期待はずれよ」

 タオルを渡すとすぐに後ろを向いて淡々と言い放つ。あたしはその背中に向かって少しだけもやっとした気持ちを抱いた。だから口をとがらせて否定する。

「べ、別に……求めてなんか……」 

「同情なんて以ての外。そんなことしたって、なんにも変わらないもの」

「…………」

 冷たくそう決めつける彼女に対して、あたしは少しだけ不信感を抱いてた。
 だけどそんな気持ちを少しでも抱いた自分をすぐに省みることになる。

「でもね」

 後ろを向いた彼女は振り向いて横顔を見せると、短く。だけど柔らかい口調で言う。

「少なくとも、あたしの記憶に残っているあなたはそんな傷跡、気にもとめず前を向いてるように思えた」

「え……?」

「ほんの2週間くらいの付き合いだったけど、それは感じ取れた。別に親しくていたわけじゃないから言い切ることはできないけど……というか、むしろ憎むような目で見られてたわけだが……ってあーもう、そうじゃなくて……」

 そう言い淀んでまた後ろを向いてしまった。

「と、ともかく! その傷がなんであれ、どんな経緯でついたのであれ、あなたはそんなこと一切気にしてなかった! そ、それに傷跡だって自己を形成する上で重要な要素になりえるからこそ……!」

 ふと耳が真っ赤になっているのが目に映った。
 ああ、そうか。
 これは彼女なりにあたしのことを元気づけようとしてくれるんだ。
 きっと不器用、なんだろう。でも今はそのぎこちない言葉がありがたい。それは単なる慰めや同情の言葉なんかより、何倍も勇気づけてくれた。

「……ほら、さっさと上がって。私もシャワー浴びたいんだから」

 そう言って足早に洗面所から出て行ってしまった。

「ふふ、サンキュ……」

 あたしは彼女に言うでもなく、そっと呟いた。

 
 回想の世界から帰還し、畳の上で書類に囲まれながら頭を抱える牧瀬紅莉栖の姿を見て、あたしは心のなかで再びお礼を言った。

──サンキュ。

 その後、岡部倫太郎も帰宅し、あたしたち3人はもらってきた弁当で夕食を共にした。
 彼も金策に走っているようだが、牧瀬紅莉栖同様──いや、恐らくそれよりも──苦労しているみたいだった。どうやら最初のうちは、1975年から2010年までに流行するコンテンツ事業を先んじて行わせてもらおうって計画だったみたい。でも牧瀬紅莉栖から「あんたの発明によって歴史が大きく変わったらどうすんの」と責め立てられ岡部倫太郎も渋々諦めたようだ。いわゆるタイムパラドックスの問題を抜きにして考えることはできないらしい。
 証券取引にしてもそうだという話をしていた。以前宝くじを当てようとして失敗したという情報を元に考えると、あまりに大きな金額が動くとなると失敗する可能性がある、2人はそう結論づけていた。そういう意味では実際の株取引と似たようなリスクがあるみたいで、牧瀬紅莉栖も思うように資金を増やせないでいるみたい。かと言って他にお金を稼ぐ手段があるわけじゃないから彼らとしても相当頭を痛めているようだ。
 それでも、岡部倫太郎は牧瀬紅莉栖よりかは楽観的な印象を持っていた。
 目標は2万ドル。今のレートだと、600万円ってとこらしい。目的はIBN5100っていうパソコンを手に入れることらしい。何のために使用するのか聞いてみたけど、途中、またあたしの頭痛が発生して話は中断してしまった。世界を変えるためっていうのは分かったけど……。
 そんなパソコン1つで世界を変えられるのかなあっていう当然の疑問は岡部倫太郎も同様に持っているみたいだった。
 とにかく、この話はまた後々っていう形で終了してしまった。
 今はひとまず購入資金である600万を貯めること。そしてそのIBN5100を2010年まで大切に保管し続けること。
 それがタイムトラベルしてまでこの時代にきた理由らしい。



 布団の中で600万という数字を思い浮かべる。
 今のあたしの時給が400円だから……。
 えーっと…………。

「…………」

 単純計算で1万5000時間働かなきゃいけないのかな。ということは……。1日中、年中無休で働いて約2年。
 うげー、死んじゃう死んじゃう。
 でもまぁ、2人もそれぞれ頑張ってるし、そんなに難しくはないのかな? そんな急がなくても大丈夫だよね……。
 そう頭のなかで呟き、心を落ち着かせた。
 あたしは今のこの穏やかな生活が好きだ。岡部倫太郎がいて、牧瀬紅莉栖がいて。おいしい食事と、あたたかい布団があって。
 2人はよく口喧嘩するけれど、それも見ていて安心できる。
 あたしは今までにない高揚感と充足感に満ち溢れていた。それが本当に今まで味わったことのないようなものだったのか、記憶を失っているせいだったのかは判断できなかったけど。
 色々無くしてしまったみたいだけれど、この時代にタイムトラベルしてきて良かったんじゃないかと、思う。
 ふと、病院でお世話になった看護師さんの顔が頭のなかに現れた。
 何も言わずに病院を脱走するような真似して、彼女は今頃怒っているだろうか。それとも心配してくれてるだろうか。
 そんな考えに囚われていたらなんだか申し訳ない気持ちに襲われた。
 あたしは隣で寝息を立てる牧瀬紅莉栖の背中を一瞥すると、病院に見に行くことを決心して眠りについた。

今日はここまで
次回の更新予定は時間が空いて8日か9日になりそうです




 謝罪するとか、会って何かを伝えるとか、そんなことは決まっていなかった。ただ一目見て、椎名さんが元気にしているかどうか、確かめたい気持ちがあっただけだ。
 近辺はもしかしたらあたしを捜索している人が居るかもしれないという理由でマスクを買った。それに病院という施設上、マスクなら病人として紛れ込めるかな、とも思ったからだ。

 岡部倫太郎との逃走用ルートとは逆の道を往く。
 途中まではしっかり覚えていたんだけど、どうも記憶が曖昧だった。病院の名前はわかるから、最悪人に聞きながらでもたどり着けるとは思うけど。
 思い起こされるのは高鳴る心臓の鼓動だとか、頬に篭もる熱だとか、電車の座席の感触なんか。一体あたしはどうしてしまったんだろう。おかげで病院に辿り着くまで結構な時間を要した。
 秋の日はつるべ落としとはよく言ったもので、すでに日も傾き始めてもいる。

「さて、と」

 病院の玄関手前で予め用意しておいたマスクの取り出そうとポケットをまさぐる。これで変装はばっちりだ。意気込んで一歩を踏み出そうとした時にふと思った。
 今更ながら、目的の人物を捕捉できる可能性について考えていなかったことに気づく。よくよく考えれてみればその人は閉鎖病棟にいるんだから、正直言って見つけるのは難しいかも。勤務に入っているかどうかすら分からない。

「うーん、どうしたものかなぁ……」

 目を閉じて打開策の閃きに集中する。
 さすがに患者を装うだけで院内を長時間うろうろはできないよなー。岡部倫太郎の白衣でも借りてくればよかったかな。そうすれば変装して──
 ってなことを考え込んでいたら突如、誰かがあたしにぶつかってきて衝撃が走った。

「あいてっ!」

「きゃあ!」

 あたたたた、鼻が痛い……。
 思わず鼻をおさえて目をぎゅっとつむる。その誰かはあたしより少しだけ小さかったから、その誰かの頭がピンポイントにあたしの鼻に当たってしまったのだ。

「ご、ごめんなさい……」

「い、いや、こちらこそこんなとこで止まっててごめんなさ──」

 声から察するに、ぶつかった誰かは女性だった。向こうが謝ってきたのでこちらも謝罪をしようと目を開けると──

「す──」

「げっ──」

「──スズちゃん!」

 その相手はあたしが目を覚ましてからお世話になった椎名さんその人だった。

「あっちゃあ……」

 一目見て帰るつもりがまさかの鉢合わせ。どうやら勤務明けらしく、ナース服ではなく私服だった。
 いやぁ、タイミングが悪いもんだねえ……。
 どうしたもんかと愛想笑いを浮かべていたら怒涛の質問攻めにあった。

 どこに行ってたの!?
 体は平気!?
 記憶が戻ったの!?
 今どこに住んでるの!?
 ちゃんとご飯食べてるの!?

 まるで子を心配する親。

「も、もう子供扱いしないでよ、大丈夫だから!」

 これでもかというほど接近しつつ矢継ぎ早にまくし立てる彼女をなだめながら、あたしはこの状況をどう切り抜けようか考えていた。けれど、逃げようにも両手をがっしりと掴まれていて動けない。それを強引に振りほどいて逃走するほどの度胸は今のあたしは持ち合わせていなかった。
 これはもう逃げられない。そう観念してあたしは目の前の彼女に話そうと心に決めた。牧瀬紅莉栖や岡部倫太郎のことを裏切るような形になってしまうけど、許して欲しい。頭のなかでそう念じた。

「スズちゃん、本当に平気なの? 危ないことしてない?」

「え?」

 あたしを見つめる瞳には本当に憂慮の色が宿っている。椎名さんにとってあたしはたかだか数週間お世話をした患者なのに一体何がここまでさせるのだろう。
 ほんと、母さんみたいだ。
 あたしは今の状況をかいつまんで話した。あくまで岡部倫太郎、牧瀬紅莉栖のことは隠して、だ。
 都心を離れたゆったりとした郊外で暮らしていること。
 安アパートの2階を間借りしていること。
 弁当屋でバイトして生計を立てていること。
 そこで賄いと廃棄をもらってなんとか食べていけてること。
 病院を脱走した理由について、椎名さんは聞いてこなかった。ただただあたしの話を黙って聞いていた。あたしにしてみればこの数ヶ月結構楽しくやれてるもんだから、話していて楽しかったんだ。そんなあたしの様子を見て椎名さんもニコニコしながら聞いてくれた。もっとも、2人のことを秘密にしながら話すのは結構大変だったけど。

「良かった。スズちゃんが楽しくやれてるみたいで」

「あっはは、ま、なんとかねー」

「そうだ」

 手を合せる椎名さん。屈託のない笑顔が眩しい。

「ほら、前に退院したらお料理ごちそうしてあげるって言ってたでしょ? 良かったらこれからどう?」

「えっ、いいの!?」

「もちろん~」

「じゃ、じゃあ──」

 とは言ったものの、バイト以外で遅くなる時は必ず連絡するよう牧瀬紅莉栖に言いつけられているんだった。なんとか隙を見て電話できればいいんだけど、不審がられそうな気もする。
 そんな調子であたしまごついていると──

「せっかくだから、スズちゃんのお住まいとかアルバイト先、見てみたいな~」

 という提案。

「え? あ、あたしの? うーん……」

 いい人とはいえ、いきなり人を連れてきたら、牧瀬紅莉栖や岡部倫太郎がなんて言うだろうか。

「だめ、かな? 急すぎるよね」

 しゅんとする椎名さん。その小さくなった姿に罪悪感を抱く。これが作戦だとしたらとんでもない悪女かもしれない。けど彼女の場合素で残念がっているんだろう。それだけに余計申し訳ない気持ちが浮かんできて、ついあたしは言いよどむ。

「だめじゃないけど……」

 うーん……。1人暮らしって思い込んでるだろうし、ここで断るのも変だなあ。椎名さんだったら、2人に会わせても平気な気がするし。なんといっても人畜無害オーラが半端ない。むしろ美味しいご飯を食べてもらって牧瀬紅莉栖の眉間の皺でも伸ばしてもらおう、なんちゃってね。

「じゃ、お言葉に甘えてお願いしようかな」

「はい、決まりね~」

 アパートまでの道のりでも色々話をした。明日になれば忘れてしまうような世間話だったがそれも心地いい。結局、記憶のことや脱走について聞かれることはなかった。
 あたしは2人のことを話すかどうか迷っていた。が、アパートに招待する以上顔を合わせないわけにも行かないと思い、打ち明けた。3人がタイムトラベラーだということはさすがに伏せて、バイト先で出会った友達ということにした。すると椎名さんはあたしに友達ができたということを知って喜んでいた。
 部屋の前まで到着して扉を前にする。空を見上げると日は完全に暮れていて、外壁に備えられた蛍光灯が不規則に明滅しながらあたしたちを照らしていた。少しだけ椎名さんに待ってもらうよう頼む。すると彼女は快く承諾してくれた。カチャリ、と静かに扉を開けると電話の近くに腰を下ろす牧瀬紅莉栖が目に入った。

「……ういーっす、ただいまー」

「鈴羽! 遅かったじゃない、心配したのよ!」

 そういって駆け寄ってくる。すると死角から岡部倫太郎も顔を出し、ずかずかと近づいてきて声を張り上げた。

「ブァァイト戦士よ! 遅かったではないくぁ、どこに行っていた!」

 どうやら遅くまで外出していたあたしを心配して相談していたようだ。

「機関の連中の手にかかったのかと──」

 と彼が言いかけたところで、2人の目が大きく見開かれた。

──え?

 あたしの心臓が一瞬どくんと脈打ったかと思うと──

「…………り……?」

 と2人して小さな声で囁いた──というより、音が自然に漏れた感じだった。2人の視線はあたしではなく、あたしの後ろに注がれている。
 まさか、と思い振り返ると──
 そこには椎名さんの姿があった。

 2人の大声に反応して気になってしまったのか、扉の先に姿を見せて、戸惑ったように口ごもる椎名さん。
 あっちゃー、説明する前に鉢合わせちゃったかあ。こうなることは容易に予想できたのかもしれないけど、迂闊だった。

「ああっと、こちら、隣に住んでる岡部倫太郎と牧瀬紅莉栖、帰りが遅いあたしを心配して見に来たみたい!」

 あたしは早口で説明した。いつもならここで”それは仮の名だ”とかいうのに今回は静かなものだった。おかしいな、と思いつつも今度は2人の方を向いて──

「この人は病院であたしのお世話をしてくれた看護師の椎名さん」

 2人はあたしの言葉にはっとして息を飲み込んだ。耳を疑っている様子だ。病院の関係者を連れてきてしまったから困惑しているんだろうか。

「椎名……?」

 そこで岡部倫太郎が口を開く。まだ2人の目には信じられないという気持ちが浮かんでいたように思える。
 どうしよう怒ってるのかな。
 ここまで恐らく数秒間しかなかったはずだけど、なぜか空気が凍ったような感じで、数秒よりも随分長く感じられた。
 いや──
 正確には凍ったというより、時が止まったような感じ。

「突然お邪魔してすみません」

 椎名さんの穏やかな声で時間が再び流れだした。そして丁寧にお辞儀をして自己紹介した。彼女の名前を聞くと岡部倫太郎と牧瀬紅莉栖は2人して同時に顔を見合わせた。そして考えこむ。

「あのう、わたし……お邪魔でしたか?」

 椎名さんが申し訳なさそうに尋ねる。すると牧瀬紅莉栖が慌てて弁明した。

「い、いえいえいえ! 突然知り合いを連れてきたものだから少し驚いちゃって……。な、なにしろこの娘は家とアルバイト先を往復するだけのぼっち……じゃなくて、仕事人間ですから、あはははは」

 むむっ。
 牧瀬紅莉栖の物言いになぜか無性に腹が立った。

「うふふ、それなら良かったです」

「あ、あのう。椎名さん、失礼ですが年齢はおいくつで……」

 岡部倫太郎が恐る恐るという風に言った。

「おい、それはさすがに失礼だろ!」

 牧瀬紅莉栖が彼の耳元で小さく怒鳴る。

「あはは、構わないですよ。30半ばとだけ言っておきますね」

 本人はそう言っているけれど20台後半でも全然おかしくない。若々しい、というより外見だけみれば少し幼い印象を受けるかもしれない。けれども、にじみ出る包容力だとか、醸し出す雰囲気は歳相応──いや、実際の年齢よりも落ち着いたものを感じさせた。
 椎名さんの答えを聞いて岡部倫太郎は何か納得したようだった。続けて牧瀬紅莉栖に何か耳打ちをする。何を喋ったのか聞き取ることができなかったが、それを聞いて牧瀬紅莉栖も汲みとったようだ。
 むー。あたしに隠れて内緒話?
 少しだけ胸がもやもやした。

「それはそうと、夕食の材料を買ってきてあるんです。多めに買ってきてあるから皆さんの分もありますよ。どうぞ食べてくださいね」

「あ、台所はこっちね」

 そう言ってキッチンまで案内した。

「よーし。じゃあ腕によりをかけて作っちゃうね~」

 椎名さんはそう言ってウィンクをした。あたしは期待の意味も込めてサムズアップで返事する。

 
 トントン、と小気味のいい音が後ろで聞こえてくる中、あたしたち3人はちゃぶ台を囲みながらひそひそと会話していた。

「おいバイト戦士、彼女とはどうやって知り合った」

「だから言ったじゃん。病院でお世話になった人だって」

「すごい偶然もあるものね……。でもこれが原因で妙なパラドックスを発生しなればいいけれど……」

「2人ともさっきから何? もしかして知り合い?」

「まあ、な」

「私は直接的には、ないかな……」

「ふーん」

「けれどまぁ瓜二つとまではいかないけど、すっごく似てたわね」

「恐ろしいほどにな。20年ほど歳が違っていても一瞬見間違えたぞ」

 あたしに分からない話題。置いてけぼりだ。
 ぐぬぬぅ~。

「だが齢30にして醸しだすそのオーラは、すでに桑年を迎えてるかのような落ち着きぶり。まゆりには絶対に成せない所業だな」

「随分なものいいだなおい」

「ともかくバイト戦士よ!」

「ん?」

「彼女には真名で紹介すること。拠点に人を連れて来る時はこの鳳凰院凶真に許可をとること! 常に機関の監視を意識するのだぞ、分かったな! 以上だ」

「まあ機関うんぬんはともかく、彼女に紹介するときはちゃんと偽名を使って──」

「はいおまたせ~。牧瀬さんも岡部くんも遠慮なく食べてね~」

「…………」

 一同沈黙。先ほどのように時間が止まった。けれどそんな空気を何事もなかったかのように溶かしていく椎名さん。

「あれ、美味しそうじゃなかったかな? それともまだお腹空いてない?」

「いえ、そうではなくて……」

「おいこらバイト戦士! いつの間に俺の仮の名を──」

 牧瀬紅莉栖が弁解して岡部倫太郎があたしの耳の近くで囁いた。それを無視してあたしは手を合わせて箸を握ってご飯をかきこむ。

「いっただきまーっす」

「あらいい食べっぷり」

「くぉら! この鳳凰院凶真をスルーとはいい度胸──」

「わ、私の名前、本当は──」

 と牧瀬紅莉栖が言いかけて止める。あたしは吸物椀に口をつけて上目遣いでその様子を伺っていた。さっき焦って2人のことを本名で紹介してしまったからまずいことになっちゃっただろうか。あたしは大丈夫だと思うんだけど。むしろ今更別の名前でしたって紹介するのも不自然だよね。

「名前はっ……」

 再び訂正しようとするが口ごもって続かない。一瞬不思議に思ったが考えてみれば納得の行くことだった。彼女が検査入院で病院に潜入した際に、今の戸籍による名前は使用しているのだ。それを教えてしまえばさすがに不審がられると思ったのだろう。まあ、あたしにしてみれば、関係性がバレてしまったとしても何の問題も無いと思うんだけどね。
 すると、見かねた岡部倫太郎が牧瀬紅莉栖を指さし叫んだ。

「貴様は我が助手、クリスティィィィ~ナであろうが」

「うっさいばか! 違うわ!」

 口では否定しつつも、助け舟を出されたようでほっとする牧瀬紅莉栖。

「うふふ。さ、冷めないうちに食べてください」

 笑いながら椎名さんが言った。その日の晩餐はあたしにとってすごく温かいものだった。
 普段の持ち帰る弁当が美味しくないわけじゃないけれど、やはり心の篭った温かい料理ってのは身にしみる。椎名さんご自慢の手料理は絶品だった。あたしたちは十分にそれらを堪能した後、4人で他愛もない話をしていた。

「コツがいるんだよね~。こうやってカエルを優しく握るような感じ? そんでもってぶにゅって親指と人差し指から丸めて押し出すようにして……」

「か、鳥の唐揚げのあげ方よね……? なんだか普段鈴羽が持って帰ってきてるのがカエルの揚げ物に思えてくるんだけど……」

「例えだって、例え~。ってゆーか、カエルだって、結構美味しいよ」

「普通に食用にありますからね~」

「だからといって食べる気にはならないわけだが……」

「というか貴様はカエルを食したことがあるのか?」

 岡部倫太郎から怪訝な表情で質問された。自分がカエルを食べてる場面は想像できないけど、なんとなく知っているような気がしたから、素直に答えた。

「あると思うよ、脂分少なめって感じ? 鶏胸肉とか、ささみみたいな感じかな」

「それなら全然食べられそうね~」

「ぬぐぐ、中々メァッドな食歴ではないか……」

「今度店長に提案してみようかな!」

「やめて、採用されたら二度と持って帰らないで!」

 椎名さんはニコニコ笑っていて、岡部倫太郎は訝しげな表情。牧瀬紅莉栖は断固拒否って感じだった。

「あっはは、冗談だって」

 楽しい時間が過ぎていった。ふと時計を見ると、針は10時を指していた。

「椎名さん、もう10時ですけどお時間は大丈夫ですか?」

「あ、えっと……。そうね~。あ、でもまだ後片付けもあるし……」

「いえいえ、それはこちらでやっときますから。今日はごちそうさまです」

「そう……? それじゃあそろそろお暇しますね。今日は突然お邪魔してすみません」

 かしこまった姿勢で「いえいえ、全然構いません。良ければまた寄ってください。何のおもてなしも出来ないとは思いますが……」と牧瀬紅莉栖。それに岡部倫太郎が突っかかる。

「むしろ今日はもてなされただけだったからな、フハハ」

「ええい、あんたはいちいちうっさい!」

「ふふふ、じゃあまたね、みんな」

 笑って手を振る椎名さん。その顔は本当に楽しそうで、見ているこちらもまた楽しくなってくるような表情だった。
 とここで牧瀬紅莉栖が神妙な面持ちでしゃべりだした。

「あの、少しだけお時間いただけませんか? 2人でお話したいことがあるので」

 椎名さんは少しだけきょとんとすると、笑顔で頷き外に出ていった。それに釣られるように外の闇へと消える牧瀬紅莉栖。続いてガチャリ、とドアがしまった。
 一体なんの用だろう?
 岡部倫太郎は何も言わずにただじっと扉を見つめていた。やがてこちらに視線を戻すと何かに気づいたように──

「はっ! まずい……このままでは……」

 不安げな表情を浮かべてぶるぶると震えだした。
 どうしたんだろう。やっぱり部外者をここに連れてきたことがまずかったんだろうか。

「バイト戦士よ! これから旧約聖書にまつわる大洪水がこの部屋を襲うだろう」

「だ、大洪水ぃ?」

「故に! この俺はノアを使いその身を隠す。貴様も洪水に飲まれて死にたくなかったら、どこかに身を潜めておくのだな!」

 と早口でまくし立てて扉を開けて出て行った。あたしは呆然とした。いきなり逃げろなんて言われても、洪水なんて来るわけがない。そんな風に高をくくってたら、5分ほど時間が空いて牧瀬紅莉栖が部屋に戻ってくる。

「一体何の話をしてたの?」

「色々お願いしてた」

「お願い?」

「あなたが病院を抜けだしてこうして生活していること、秘密にしておいて、とか、その他もろもろ」

「あー、そっか……」

「物分かりのいい人で助かった」

「いい人だよね」

「そうね。まあちょっと細かいこと気にしなさすぎな気もするけど……。さ、片付け片付け……って、あいつは!?」

 岡部倫太郎のことを言ってるんだろう。牧瀬紅莉栖はテーブルに置かれた無数の食器を見て小さく叫んだ。

「なんか大洪水が来るからって言って部屋戻っていったけど」

「後片付けぶっち!? あんの中二病……!」

 怒りでわなわなと震えていた。なんだかそれすらも面白おかしくて思わず声を出して笑ってしまった。結局2人肩を並べて食器の後片付けをやったんだけど、幸せな時間が確かにそこに存在した。




 その後も椎名さんはちょくちょくうちに寄っては料理を作ってくれた。皆で料理をつつきながら談笑するその時間は何ものにも代えがたい時間だ。
 牧瀬紅莉栖の作ったアップルパイに仮死状態にされそうになった時にはさすがにムカっと来たけど。あたしと岡部倫太郎がそのことを責め立てると牧瀬紅莉栖はムキになって突っかかってきたり。
 お返しに、あたしが持って帰ってきた唐揚げを牧瀬紅莉栖が口に含んだ際に「カエルの味はどう?」って聞いてみたらあいつ、青ざめてたっけ。
 そんな状況でも椎名さんが絶えずニコニコ笑ってるのは印象的だった。言い過ぎかもしれないけれど、まるですべてを慈しむかのような──
 楽しい日々だった。

──けれどいつまでも同じような時間は続かなかったんだ。

 転機が訪れたのは証券取引による資金作りに悪戦苦闘する牧瀬紅莉栖に対して、椎名さんが資金提供を申し出た日だろうか。最初は牧瀬紅莉栖も断ってたんだけど、生活の水準が中々上がらないし、思うように利益を作り出せない彼女も焦ってたんだろう。ついには折れて、良心的な金利──ほぼ無利子と言ってもいいほど──での資金提供を受けることにしたらしい。
 その申し出はあたしたちの生活を大きく変えた。
 やっぱり元手があったほうが断然有利らしく、彼女はみるみるうちに利益を生み出していった。元々専門は経済ではないと言っていたが、2010年までの大まかな経済の流れを知っているのと知っていないのではまるで違うようだ。時には読み──というかあたしたちにとっては歴史か──が外れて失敗することはあったけども、潤沢な資産のおかげで致命的なダメージは負わずにいたみたい。
 気づけば1年後には、すでにIBN5100が何台も購入できるほどのお金を手にしていた。

──そこまでは良かった。


 そこまでは順調だった。食べるものも豪勢になっていったし、家具家電も充実していき、徐々に生活の水準も上がっていった。
 けれど、IBN5100を購入して数日経った頃だった。その頃にはすでに椎名さんから借り入れていたお金も精算しきっていたし、IBN5100を1台購入したからといって無一文になるような資金繰りは行ってなかったはずなんだけど──
 突然、牧瀬紅莉栖が塞ぎこんで自分の殻にこもるようになった。何か思いつめたような、そんな表情をして。これにはみんな、戸惑いを隠せなかった。
 そんな変化が訪れて、とある日の晩御飯時。ご飯がよそわれた茶碗を片手にうつむき加減でぼうっとする牧瀬紅莉栖。
 重苦しい雰囲気にあたしはたまらず声をかける。

「ねえ……ご飯、食べないの? 美味しいよ?」

「…………」

 無言。彼女にはまるであたしの声が耳に届いていないようだった。見かねた岡部倫太郎がぶっきらぼうに口を尖らせた。

「おいクリスティーナ、一体どうしたというのだ。このところまるで身が入っていないではないか」

 彼はわざとなのか、煽るような口調で言っている。それでも牧瀬紅莉栖は反応する素振りも見せない。

「助手がそんな調子では我が未来ガジェット研究所はどうなる。資金繰りもまだ油断はできんのだろう?」

 いつ未来ガジェット研究所なんて名前になったんだろう。
 ってな疑問は置いといて、やっぱりそれでも反応はない。そんな様子に業を煮やしたのか彼はとうとう──

「おい聞いているのかザ・ゾンビ! ちょーっとセレブになったからといっていい気に──」

「……っさい」

 それを遮るように、絞りだすような声で牧瀬紅莉栖がぼそっと呟いた。頭を垂れており表情をうかがい知ることはできない。

「ん? 聞こえんな。言いたいことがあるならはっきり言えば良かろう」

「……うっさい!」

 彼女の鋭い叫び声が部屋中にこだました。思わずその声の大きさに体がすくんだ。

「んななな……」

 岡部倫太郎も何がなんだか分からないといった様子で彼女の顔を見つめている。

「いい気になってるのはどっちだ! 何もしてないくせに──何も知らないくせに、わかったような口聞かないで!」

 激昂。まさにその一言に尽きた。今までもその負けん気の強さから、彼と衝突することはあった。けれどこんなに感情を高ぶらせた彼女を見るのははじめてだった。

「何も……覚えてないくせに……」

 正直、あたしはどうしていいか分からず、ただただ2人の顔を交互に見ることしかできない。そんなあたしの様子と、絶句した岡部倫太郎に気づいて、一言、彼女が謝った。

「ごめん、言い過ぎた……」

「ね、ねえ牧瀬紅莉栖、いったい何があったの……」

 おそるおそる聞いてみる。まるで腫れ物に触るみたいな言い方しちゃったな、と自分でも思った。我ながら情けなくなるほど。

「…………」

 牧瀬紅莉栖は少しだけ逡巡したかと思うと、こういった。

「あったんじゃなくて、これから起こるの……。ずっと、先だけどね」

「これから……?」

 あたしには、彼女が何を言っているか分からなかった。隣にいる岡部倫太郎も同様に疑問符を浮かべていた。

「ごめん、少し外の空気吸ってくる……」

「あ……」

 そう言って彼女は足早に玄関へと向かった。手を伸ばしたあたしの手は彼女に触れること無く、項垂れ落ちていく。あたしはそのまま彼女の背中を見送るしかできなかった。今にも消え入りそうな、彼女の背中を──
 とにかく、このまま放っておくわけにはいかなかった。追いかけようと立ち上がったあたしを岡部倫太郎は手のひらを見せて制止した。

「俺が行ってくる」

「え? でも……」

 普段些細なことで言い合っている彼が行っても火に油を注ぐだけじゃないかな、とは思った。けれどどう声をかけていいか皆目検討もつかないあたしは結局任せることにした。

「助手の監督不行き届きは俺の責任だ。俺がなんとかしてこよう」

 そう言って彼は口元を綻ばせながら出て行った。
 その夜、彼らは戻らなかった。あたしはゆっくりと冷めていく食事を眺めながら考えていた。
 自分の過去のこと──
 これから訪れる未来のこと──
 けれど、思い出そうとすればするほど得体のしれない不安に胸が押しつぶされそうになった。思い出すべきではない、と体が訴えているようだった。
 押しつぶすように両膝を抱えて座っていると、ふと1枚の紙が目に入った。牧瀬紅莉栖の所有する本に挟まり隅がはみ出した1枚のメモ。
 あたしは両手両膝を畳につけながらそのメモの近くまで寄った。メモには数字が書かれていた。


 ×.615074


 一番左はばってん。そして点その後に6桁の数字が並んでいた。
 なんの数字だろう。証券取引に使う金額か何かだろうか。こんなメモのことまで気になるなんて今のあたしはどうかしている。再びテーブルの前に座して思い悩む。
 結局あたしにはどうすることもできない。何もできずにいる自分がただただ悔しかった。今あたしにできることは信じて待つことだけだった。記憶が蘇らない自分が腹立たしかった。


 いつの間にか眠ってしまっていたようで、気づいた時にはカーテンから漏れる一筋の光が眩しく輝いていた。テーブルに伏せるようにして寝ていたせいか、体がところどころ痛む。あたしは体中の血液循環を促進するためぐっと背筋を伸ばし大きく息をつく。同時にあたしにかかっていたタオルケットがスルっと畳の上に落ちた。誰がかけてくれたんだろう、と心の中で疑問を浮かべた。
 ふと、台所の方から音がするのに気づく。気になって覗いてみるとエプロン姿の牧瀬紅莉栖がそこにいた。

「あ……」

 戻ってきてたんだ、よかった。
 思わず漏れた声に気づいたのか牧瀬紅莉栖がこちらを振り向く。

「ああ、起こしちゃった? もうすぐできるから、朝ごはん」

 そう言うと、すぐに調理に戻った。まるで何事もなかったかのような口ぶりだ。
 むー。結構心配したんだぞ。
 そんな想いをよそに淡々と朝食を作るからあたしはまた胸にもやっとしたものを抱えてしまった。
 顔半分だけ覗かせて彼女をじっと見つめるあたしが気になったのか、調理の手を止めて牧瀬紅莉栖が言葉を発した。

「私……日本を出ることにしたの」

 へ?
 えええええっ!?

「えええええっ!?」

「ちょっと、朝っぱらから大声出さないでよ。近所迷惑でしょ?」

 半分笑みを見せながら諭す。昨日までの彼女の態度が嘘のように晴れ晴れしていた。
 いやいや、ちょっとまってよ!

「そっ、そんな話聞いてないよっ!」

 突然の報告にわけがわからなくなる。
 なんで? なんでなの? あたしがなにかしてしまったのだろうか。
 そんな心情を察したのか牧瀬紅莉栖がゆっくりと言った。

「大丈夫、ここが嫌になったとかじゃなから」

「じゃあ、どうして……」

「IBN5100を手に入れるという目標を達成することで、私はこの人生に意味を見いだせなくなってしまってたのかもしれない」

 燃え尽き症候群だろうか。意外だった。彼女のような芯のある人がそんな状態になるなんて。

「……燃え尽きたの? ……真っ白に?」

 あたしはおそるおそる聞いてみた。

「ふふ、そんな感じ」

「でも、ならなんで海外に……」

「目標を達成したからといって私が今すぐに消えるわけじゃない。そう思ったらなんだか少し希望が見えてきてね」

 消える……? なんのことだかさっぱり分からない。

「それだったら、今の私にできること……ううん、やってみたいことをやるべきかなって、そう思ったの」

「それが、日本出るってことなの……?」

「そ。まぁ、日本を出ること自体は手段の1つだけどね」

「だ、だったら行かないでよ!」

 あたしの言葉に驚いたのか目を皿のように丸くしている。でもすぐに優しげな笑みを浮かべて「まさかあの鈴羽がそんな風に言うなんてね」と呟いた。

「と、友達と会えなくなるのは、誰だって悲しいじゃん……」

 そう、あたしは嫌だった。牧瀬紅莉栖はあたしの友達だ。少し気が強すぎるところがあるけど、まっすぐで、いつも自信があって、凛としている。ある種の憧れのようなものもあったのかもしれない。

「ごめんなさい、でももう決めてしまったの。私は私の可能性にかけてみる」

「ここじゃだめなの? みんながいるこの場所じゃできないの?」

「できないことはないけれど、それだときっと私は決断できなくなる」

 決断……?

「思い出を消してしまうこと、躊躇ってしまうかもしれない。それは嫌だから」

 思い出が消える? さっきから何を言ってるのか全くわからない。

「何言ってんのかわかんないよ!」

「今はまだ、分からなくていい。きっと分かる時が来るから」

 そう言って1人悲しそうな笑みを浮かべて──

「ううん、分からない方が、幸せかもしれない……」

 そう付け加えた。
 あたしには到底理解できない何かを抱えているのだけは分かった。けれどどうすることもできない。何を思い悩んでいるのか、想像もつかないあたしに、彼女の気持ちを理解するのは到底ムリだった。
 ただ拳を震わせるあたしをふわりと暖かさが包んだ。華奢だけど、とても大きくてほっとするような腕に抱かれて。

「ごめんなさい。でも、鈴羽には自分の幸せを手にする権利がある」

「…………」

「鈴羽、約束よ。あんたは、幸せになりなさい」

 なぜかその一言で、あたしの涙腺は崩れて散った。止めどなく流れる涙が彼女の白いシャツを濡らした。
 牧瀬紅莉栖の作った朝食は塩っぱくてまずかった。
 やっぱりあたしは弱い人間だった。どうしようもなく、弱かった。




 あれから1週間が経って。
 牧瀬紅莉栖は旅立っていった。海外へ移住するための手続きはほとんど必要なかった。彼女はすでに外国籍を持っていたから。
 飛行機に搭乗する前、彼女はあたしの頭を撫でた。あたしの方が年は上だと聞いていたけれど、不思議と不快感はなく、まるで母親のような包容力を感じた。そして一言ささやくように告げられた。
 あいつのこと、よろしく頼むわね、と。
 横で岡部倫太郎が淋しげに見つめていた。

 部屋に戻ったあたしは広くなったこの室内を見渡した。物は増えたけど特に代わり映えのない和室。この狭い一間に2人の人間が生活していたんだ。
 いつも畳に座って新聞や資料に目を通す彼女を思い浮かべた。忙しそうにしている彼女もとても魅力的に映ったものだ。
 そんな時は決まって牧瀬紅莉栖に話しかけてたっけ。そんな彼女はあたしに目は合わさず対応してた。
 あたしは何度も言った。人としゃべるときは目を見て話すべきだよーって。
 すると彼女は「物事に没頭するとダメね、人間らしい生活ができてない」そう言って2人で笑いあったのだった。
 今はその彼女もいない。思い浮かべていた風景から、牧瀬紅莉栖の姿だけがすうっと消えていった。心のなかで言葉に尽くせないような気持ちが湧いてくる。
 心にぽっかりと穴が空いてしまったような。
 その夜は寝苦しかった。いつも隣にいて話をした彼女はもういない。彼女は自分自身のための人生を歩き出した。

「あたしも、自分の道を見つけなきゃな」

 でもどうすれば見つけられるだろうか。
 布団の中でごろごろする。ちっとも眠れない。
 気がつけばあたしは隣で眠り岡部倫太郎の部屋を訪ねてた。

「どうしたバイト戦士よ、お前も眠れんのか?」

 ”も”──?
 彼も眠れてなかったようではっきりした口調で言った。
 外国へ行く本当の理由。それをあたしはまだ知らなかった。岡部倫太郎ならばそれを知っているだろうか、そう思って聞いてみた。しかし彼も聞いていないようで、答えてはくれなかった。

「まぁ、やつは日本に留まる器ではないからな」

「そうなの?」

「2010年では、すでにアメリカの大学を飛び級で卒業していて、有名な科学雑誌にも論文が載るほどの才女だった」

「へぇ~、それってすごいの?」

「ああ……。それはもう、な。」

 そう言って物思いに耽る彼。淋しげな横顔だ。彼も喪失感を胸に抱いているんだろう。
 あたしと岡部倫太郎はきっと一緒だ。自分の生きてきた時代を捨てて。記憶を失って。そして今、共に歩んできた友人と別れ、孤独な道を前にしている。それでも──
 あたしたちは1人じゃ無い。
 そっと彼の胸に頭を寄せた。

「なっ……!?」

 驚いて身を固くする岡部倫太郎。あたしはそんな彼に向かってこう告げる。

「君はあたしの前からいなくならないよね?」

「…………」

 自分でもこっ恥ずかしいセリフだなって思った。けれど、素直な気持ちを言葉にしてみたんだ。
 自分がどうしたいかを考えた時、思い浮かぶのは彼の近くにいることだった。
 彼と一緒にいたい。
 もしかしたら、あたしがタイムトラベルしたのも、きっと彼に付いていくためだったのかもしれないね。そう思うと顔が熱くなるのを感じた。

「何を言っている、当たり前ではないか。来るラグナロックのために遥か過去であるこの時代にまでたどり着いたのだ。貴様と俺は一蓮托生! 嫌だと言っても付き合ってもらう!」

 大げさな身振りで岡部倫太郎は言った。
 タイムマシンに乗った時の状況を覚えているのは牧瀬紅莉栖だけだ。でも彼女は最後までそれをあたしたちに教えてくれることはなかった。あたしも岡部倫太郎も思い出そうとすれば頭を抱えるほどの頭痛に悩まされたし、きっと必要なことじゃないって思ったんだろうね。
 大事なのは、”これから”のこと。
 一度しか無い人生を歩むのに必ずしも過去は必要ではない。
 だから自信を持って未来に向かって歩き出そう。自分の気持に素直に。
 そう、心に抱いて。

『幸せになりなさい』

 ふと、誰かの声が聞こえたような気がした。
 うん……。
 あたしはきっと、幸せになるよ、牧瀬紅莉栖──



Chapter2 END

今日はここまで

Chapter3



 1986年 6月14日



 月日が経つのは早いもので、俺たちがタイムトラベルしてから11年の年月が過ぎ去ろうとしていた。
 この俺──岡部倫太郎の近況はというと、1977年に懐かしの母校であった東京電機大学の学籍を手に入れ、そのまま大学院と続き研究者の道を進んだ。結果、今は助教授という立場で学生どもの指導してやっている。
 この年齢で今のポストにつくというのは異例のスピードだ。そこは声を大にして言っておかなくてはなるまい。社会がこの俺の灰色の脳を認めたということであろう。フハハハ。
 研究者の道を志したのはなんてことのない理由である。この頭脳を埋もれさせておくには惜しいと思ったからだ。決してすることが特に無かったわけではない。
 世の中はというと、バブル景気に差し掛かろうとしていた。高騰する土地や物価、それに伴って景気が信じられない程上昇する。空前の好景気に人々は浮かれ、騒ぎ、街は熱を帯びた。
 実にくだらん。
 先見の明を遺憾なく発揮し、すでにいくつかの土地を所有していた俺は、そんな世間を少し冷めた目で見つつも、特に金にも困ることのない生活を送っていた。ある意味、他に熱中する目的があったからかもしれない。
 その目的とは──

「さて、今日の円卓会議の議題だぁが──」

「おっしゃらなくとも分かっています。タイムマシンについて、なのでしょう?」

 膝の高さほどの円形のミニテーブルを間に挟み、2人用のソファに腰掛ける1人の青年が俺の言葉を遮った。
 間を溜めて、高々と宣言するつもりが先に言われてしまった。おまけに言動がいちいち演技かかっていている。複雑な胸中だ。
 ぬぐぐ……この俺の格好がつかんではないか!
 
「いいからさっさと始めましょう、宮野助教授」

 さらにその学生の隣に腰をかけている別の学生が俺を急かした。

「貴様ら揃いも揃って……」

 これでは俺の威厳が0である。
 小ぢんまりとした我が研究室。様々な書物が溢れかえるその中で、ぎりり、と歯ぎしりする俺に向かって笑いかける2人の男子学生。

──そう、俺は今、こいつらと共同でタイムトラベル研究を行っていた。

「それで? 俺が提唱するタイムマシンの基礎理論についてはしっかりと予習してきたのであろうな?」

 言って、大げさな物言いをする青年に視線を送った。そしてもう一言付け加える。

「”ドクター”よ」

 俺は彼を”ドクター”と呼んだ。それには訳があった。

「ドクターではなぁい! 私のことはプロフェッサーと呼んでください。いつもそう申しているでしょう!」

「おいおい、プロフェッサーだったら宮野助教授より立場が上になるだろ章一」

 いきり立つ相棒に対して淡々と突っ込みを入れるもう1人の青年。すらりとした体型で顔も悪くはなく、女学生から人気があるようだ。

「ええい、だから私を本名で呼ぶな幸高ッ!」

 幸高──秋葉幸高。
 そう、彼は後にフェイリスの父親となる男である。
 そしてもう1人は──

「いいか、私のことは中鉢と呼びたまえ。プロフェッサー中鉢と」

──ドクター中鉢。

 最初の世界線でタイムマシン開発成功の会見を開いたあの男である。もっとも、その理論はジョン・タイターのパクリだったのだが。

──本名は牧瀬章一。

 タイムマシン研究に熱を入れる科学者。いずれ学会から干されるであろう物理学者。そして牧瀬という苗字。直感的に紅莉栖の父親なのではないか、という疑念が俺の中にあった。
 もちろん確信は持てなかったが。
 このことを紅莉栖に伝えるか迷ったあげく、報告するのはやめておいた。今も海外で忙しくしているようだし、仮に奴の父親が牧瀬章一だったとしても、会うような真似はしないだろう。その出会いが特に意味を持たないこと、親子の関係を知られることの危険性をあいつは理解しているはずだ。タイムパラドックスの危険性を。

「ええい、名前の話はどうでもいい! 理論は頭に入っているのか! そう聞いておるのだ!」

 俺を無視してやいのやいの騒ぎ立てる2人に対して一喝する。そんな俺の言葉に姿勢を正す2人。

「いやぁ、それが……僕はまだ、いまいち理解ができなくて……」

「む、無論です助教授。私を誰だと思っているのです」

 頭をかいて照れる秋葉幸高。ばつが悪そうに口を尖らせる牧瀬章一。

「タイムマシンを完成させるには理論を完全に理解しなくてはならない、そのことは俺がよくわかっているからな」

 共同研究のきっかけは俺がタイムトラベル研究の粋を集めたノートをこいつらが盗み見たことだった。本格的なタイムトラベル研究など目にしたことはなかったのであろう。この俺の完璧な理論を知った2人は眼の色を変えて俺に質問してきた。その様子には熱意が感じられ、不思議と俺は2010年で電話レンジ(仮)の実験を繰り返す日々を思い出していた。
 2人の質問に俺が答えてやると、2人は俺を慕うようになり、俺の研究室へと入り浸るようになった。それもそのはずだろう。俺は2010年の科学の知識があるのだから。
 決してジョン・タイターのパクリなどではないことは声を大にして言っておかねばなるまい。
 しかしなんの因果か、フェイリスの父親と紅莉栖の父親(仮)とこうして共同研究を行うとは。世界は狭いものだ。

「いいか、まだ実験に移るような段階には来ていない。だが、貴様ら2人にはタイムマシンの理論について完璧に把握してもらおう。何がきっかけとなるかわからんからな」

 とその時、研究室のドアを叩く音がして扉が開いた。

「うーっす岡部倫太郎」

 鈴羽が研究室に入ってくる。紙袋を片手に気の抜けた挨拶。
 ううむ、しまらない。

「…………」

「おお橋田さん! 今日も差し入れ感謝します!」

「いいっていいってー」

 そう言って片手をあげてニカッと笑いかけた。 

「前々から気になっていたんですが、その岡部倫太郎というのは、一体なんなんです……?」

 幸高が手を上げて尋ねてきた。だが紅莉栖に釘を刺されているので本当のことは話せない。

「俺の仮の名だ。機関の連中をやり過ごすためには必要なのでな」

 IQ170の怜悧なる頭脳を駆使して上手くごまかす。決して嘘ではない。

「おお、さすがです宮野助教授!」

 俺のその姿勢に関心したのか、章一が身を乗り出して俺に賛辞の言葉を送ってきた。少し恥ずかしい。

「おっ、今日は肉野菜炒めですね?」

 弁当の蓋を開けた幸高が感嘆の声をあげて鈴羽を見る。
 幸高は「いやぁ、いつもいつもすみません」と付け加えると、満面の笑みを浮かべながら感謝の気持ちを言葉にした。

 しんなりと垂れるキャベツに秘伝のたれがよく絡んでいる。口に含むとすぐに甘酸っぱい旨味が舌全体に拡散し、脳に伝って頬を痺れさせる。

「んん……相変わらず美味だな」

 箸を鈴羽に向けながら口をもごもごさせて俺は言った。幸高も概ね同意のようで、うんうんと頷いた。

「あっはは、照れるねー」

「適度に歯ごたえのある人参ともやしもいい味してますね」

 咀嚼を終え、ごくりと喉を鳴らした幸高が言う。

「ちょっとちょっと、あくまで主体は肉だよー? きみたち肉も食べなよー」

 その言葉に誘われるように章一が肉を口の中に放り、その後白ご飯をがつがつとかっ込んだ。

「もっと落ち着いて食べろよ章一」

 仰々しく顎を動かす彼に幸高はさらっと言った。だが章一はその姿勢を崩さないままぶっきらぼうに答える。

「科学者たるもの、食事は早急に終わらせなくてはダメなのだよ」

 ほう。意見が合うな。

「ふぅむ、やはり見どころがあるなドクター中鉢よ」

「あなたもそう思われますか」

「フハハ、食事は急いで食うに限る」

 機関の連中が乗り込んできて食事中、などとあっては格好が付かんからな。スローフードなどクソ食らえである。

「まったく……」

 章一がため息をつく横で鈴羽がやれやれといった様子で苦笑いを浮かべていた。


 鈴羽が持ち込んだ弁当を食べ終え、一息ついているとぴろろろろ、と安っぽい電子音が研究室に鳴り響いた。

「む? 何の音だ?」

「あっ、あたしあたし」

 そう言いながら鈴羽はポケットから名刺ほどの大きさの平べったい機械を取り出した。

「ポケベルですか……。今すごく流行っているみたいですね」

 幸高が感心したような声をあげて、興味津々といった様子で見つめている。
 ポケットベル──家庭用の電話や公衆電話からかけることにより、対象のポケベルに文字列を表示させることができる機械。それにより持ち主は文字列に表示された数列でメッセージを受け取ったり、連絡の要求を知ることができる。サービスは以前から始まっていたが、このところ一段と知名度が増し、話題となっている。もう数年立てば爆発的に流行し、女子高生を中心に急激に普及するはずだ。
 
「ふん! 一方的に連絡してきて、連絡をよこせ、などという趣旨の機械など気に入らんがな」

 章一は腕を組んで憤慨している。

「まぁまぁ待てよ章一。科学者たるもの科学の発展は喜ぶべきだろう?」

「だがなあ! こちらの都合も考えず──」

「残念だが中鉢よ、今後世界はそういう環境にシフトしていくだろう。ものの数年もすれば携帯電話なるものが普及し、誰しもが電話に縛られる時代になるだろう、フゥーハハハ」

「くっ、まるで見てきたようにいいますな……!」

「携帯……電話ですが、小型化と実用化にはまだほど遠いみたいですが……。料金もまだまだ一般電話に比べると誰もが持つなんて考えられませんね……」

「科学の進歩というものはそういうものだ。不可能だと思われたことを克服したからこそ今の技術があり、俺たちが存在する。便利なものはより便利なものに取って代わられる。衰退と発展は繰り返すのだよ」

「なるほど……勉強になります」

「っと、小難しい話しているとこ悪いけどあたしはもう行くね」

「誰からだったのだ?」

「椎名さん、近くまで来てるみたいだからお茶でもどーお、だって。君はどうする?」

「ふうむ、俺たちは円卓会議があるからな、今回は遠慮しておこう」

 相変わらず彼女とは付き合いがある。さすがはまゆりの祖母だけあって面倒見が良い。俺たちは彼女に人生の先輩として色々お世話になっていた。

「岡部倫太郎もポケベル買ったら?」

「それも彼女の意見だろう」

「まあね」

 どうも彼女は俺と鈴羽をくっつけようとしているような気がするが──

「じゃ、もう行くね」

 そう言って鈴羽は俺たちを一瞥した後ドアの奥へと消えていった。ばたん、と扉が閉まる音がして、再び研究室に静寂が訪れた。そんな静寂を破る声が2つ。

「宮野助教授、橋田さんとの結婚はまだなんです?」

「いい加減早くくっついたらどうです。見ていてこちらが歯がゆい」

「ええい! 貴様らもやめんかっ!」

 お節介な人間はここにもいた。しかも2人。

「まぁしかし、橋田さんは朗らかで器量もいい──」

「加えて料理上手で健康的ときた」

 2人が俺をじっと見つめた。すぐに2人は顔を見合わせ、宮野助教授にはもったいない女性だ、と声を揃えて言った。
 おのれ、どっちなのだ! 貴様らは!
 俺は顎に散らばった無精髭をなでてため息を大きく付いた。


 その後、会議を終えた俺は鈴羽と合流していた。鈴羽と隣同士で歩く俺は、教え子の言葉を思い出していた。
 無論、意識をしていない訳ではない。気付かれないように、そっと視線を横にずらしてその横顔を眺める。収まりの悪いくせっ毛と2本のおさげを揺らしながら歩いている。鈴羽は椎名さんとの会話を嬉しそうに話していた。

「どしたの?」

 俺の視線に気づいたのか、鈴羽が顔をあげてきょとんとした顔で聞いてくる。

「え? い、いやなんでもない。あまりに貴様が楽しそうに話すので、洗脳の疑いを持っていたのだー」

「あっはは、椎名さんはそんなことしないってば」

「い、いや、それこそ彼女の罠っ! ポケベルという古代の魔具をバイト戦士にもたせることによりこの俺の支配を打ち破るという作戦──」

 照れ隠しに仰々しい態度で対抗する。少しだけ周りの空気が温まった気がした。

「もー。いい加減そのバイト戦士ってのやめてよー、バイトじゃないだからー」

 そう、鈴羽は弁当屋に勤め続けているものの、すでに正社員としての地位を得ており、収入も安定していた。

「む、それならば企業に従順なソルジャーといったところか……」

「だからもう、戦わないってばー」

 ふと頬に雨粒が当たる感触がした。上を見ると灰色の雲が幾つもの層を作っており、光を遮っている。夕暮れ時にはまだ数時間猶予があるものの、すでに辺りは薄暗くなっている。空のずっと遠くでごうごうとかすかに雷の鼓動が響いた。

「一雨来そうだな」

「うん……」

 それも束の間、すぐに雨足は勢いを増し、俺たちを濡らしていく。

「わっ、わわっ」

 隣で鈴羽が慌てて上着を取り出して羽織り、フードをかぶった。その色と形には見覚えがあった。

「まだ、持っていたんだな。それ」

「ん? ああ……」

 遠い目をする鈴羽。

「君から始めてもらったプレゼントだからね、えへへ」

 鈴羽そう言ってフードの下で眩しいほどの笑顔を輝かせていた。
 そう。記憶を失って入院していたこいつを、俺が逃がすために贈った紫色のパーカー。11年経った今もなお現役で活躍しているようだ。よく見るといくつも修繕している跡が残っている。それもそのはずだろう。そこらにあるディスカウントショップで買った安物の衣類だ。むしろ11年もここまでよく持っているものだと感心した。大切に使っているようだ。

「ほつれたり、破けたりしたけど、ちゃんと直して使ってるんだよー」

「金はある。もっといいものを買ってやろう」

「これでいい。ううん、これがいい」

「けち臭いぞバイト戦士よ」

「物は言いようだよ、岡部倫太郎。物持ちが良いって言ってよ」

「……考えておこう」

 そんなやりとりを終え、俺たちは雨に濡れながら帰路を歩いた。


 家に着き、玄関の扉を開けた。暗がりの中を手探りで照明のスイッチを探す。
 やがてかちりという感触がした後、玄関がぱぁっと明るくなった。続けて鈴羽がため息を着きながら入ってくる。

「やー、参った参った。突然降ってくるとはねー。天気予報見とけばよかった、失敗したよ」

「そんなに勢いも強くなかったし、通り雨だろう。梅雨入りは……明後日16日前後という話だ」

「そっかー。もう梅雨なんだねー。11年前を思い出すなぁ……」

 その言葉につられてタイムトラベルした夜のことを思い出す。1975年ではすでに梅雨入りしていたようで、あの夜は酷い雨だったのを覚えている。鈴羽は昏睡状態だったから、思い出しているのは別の日だろうが。

「シャワー先に浴びてこい。風邪引くぞ」

「うん、そうする」

 そう言って洗面所に消える鈴羽、すぐに顔を出し──

「あ、君も一緒に入る?」

 なっ──!?

「なっ、何を言っている、こ、この変態戦士めっ──」

「あっはは、冗談だってば」

 けらけらと笑って再び洗面所の扉が閉められた。

「お、おのれ、唐突すぎるぞ……」

 まだ心臓が跳ねている。あの女……。
 すでに俺たちは、最初のアパートを引き払っていた。
 契約していたのは紅莉栖だったし、何より金は有り余っていたからさほど抵抗もなく、ワンランク──いや2つほどランクをあげて部屋を借りた。
 広いリビングに分離したキッチンとダイニング。そして洋室と和室がそれぞれ1つずつ。
 その個室をそれぞれ俺と鈴羽の部屋に充てた。もちろん、若い男女が一緒の部屋に住むことに抵抗が無かったわけではない。しかし、鈴羽は一緒に2010年からタイムトラベルした同志である。ある意味、恋人以上の存在だったのかもしれない。鈴羽の方も、俺と部屋をシェアすることにさほど抵抗はなかったようだ。部屋をそれぞれ借りるより、広くて個室の数がある物件を1件借りたほうがお手軽だという結論にいたり、結局この状況に落ち着いた。
 俺が心臓を落ちつかせていると、鈴羽が濡れた衣服を脱いでいる布の音が俺の耳に入った。すぐにバスルームの扉が開閉され、シャワーの滴る音が聞こえてくる。その音が再び俺の心臓の鼓動を早くする。
 俺は頭をブンブンと振って邪な想像を振り払った。大分慣れてきたとはいえ、やはり意識はしてしまう。

「い、いつまで女に現を抜かしている鳳凰院凶真っ! れ、冷静になれっ!」

 そう自分に言い聞かせて強引に心を落ち着かせた。
 その後俺は濡れた衣服から着替え、暗いリビングのソファに座りぼうっとしていた。
 カーテンを開ければかろうじて灰色の空が部屋を照らし、物の陰影をくっきりとさせていた。
 突如電話のベルが鳴り響く。
 大学からだろうか?
 立ち上がり、受話器を取り耳に当てる。

「もしもし、宮野ですが──」

「ハロー」

 聞こえてきたのは懐かしい声の響き。

「鳳凰院凶真だ」

「…………」

 電話の相手は受話器の先で沈黙した。はぁーと小さくため息が漏れるのがわかった。

「何を黙っている助手よ」

 電話の相手は我が助手、牧瀬紅莉栖だった。今はイギリスの大学で研究員をしているという話だ。何の研究かは詳しく聞いていないが、恐らく脳科学の類だろう。向こうに行ってからしばらくは2,3ヶ月に一度電話が来たものだが、10年経った今では、半年に1回あるかないかの頻度になってきている。時間は確実に流れていた。

「だから私は──って、いつまでやればいいのよコレ」

「コレとかいうなっ!」

「クリスティーナとか言わないだけまだマシだけど、いい加減普通に呼んでほしいわけだが」

「ふん、貴様はすでにクリスティーナの名は捨てた身であろう。ならば助手と呼ぶ他あるまい?」

「なんでだ!」

「今や俺は助教授の立場。懇願すれば本当に我が助手にしてやらんこともないぞ?」

「あーはいはい」

「貴様の頭脳は高く評価しているからな。戻ってこい、日本に」

「戻ってくれば助手にしてくれるっていうのかしら? あんたの権限で?」

「うむ、すでに確立した地位を捨て、泣いて戻ってくるというのであれば、な」

「だが断る」

「…………」

「…………」

「相変わらずの@ちゃんねらーぶりだな」

「い、いやっ、今のは別に、その……用語ってわけじゃないでしょ!?」

「寂しいのは分かるが後10年ほど耐えろ、そうすれば便所の落書きも復活するだろう、それとも何か? お前の研究というのはWorld Wide Wedの構築というわけではあるまいな」

「んなわけあるか、んなわけあるか! 大事なことなので2回言いました!」

「もっとも、WWWの根底にある考えはすでにSERNの科学者が考案済だろうがな」

「話を聞け……」

「その科学者を差し置いて貴様が発表してしまえば、普段口うるさく言っている通り、先駆者の名誉を横取りしたことになりパラドックスが起こる可能性があるがな、フゥーハハハ!!」

「だから話を聞けといっとろーが!」

 ボリュームが上がった。3段階ほど。
 耳をつんざくキンキン声に思わずたじろぎ受話器を耳から離す。

「で?」

 一転して、受話器の口から落ち着いた声が聞こえてきた。

「で? とはなんだ」

「近況報告、どうなの? 最近。何か変わったことはある?」

「別に、普段通りだ。貴様の言うとおり目立つような発明もしていないし、タイムトラベルのことも誰にも言っていない」

 俺は淡々と事実を告げる。このところ平穏そのものだ。少々退屈さを覚えるほどに。

「それに、鈴羽とのこともな」俺はそう付け加えた。

「そ、ならいい」

「…………」

 そう、俺は奴が海外行きを決めた夜、約束をさせられていた。
 記憶を取り戻さなくていい。その代わり、私の言いつけをいくつか守ってもらう、と。

──まず──

 IBN5100を2010年まで保管し続けること。
 世間で目立つような行動は差し控えること。
 これから歴史に刻まれる偉大で注目をあびるような発明は横取りしたりしないこと。
 私達3人がタイムトラベラーということは絶対に他人に話さないこと。

 まあ、これらは納得できる。
 IBN5100を用いてSERNの野望を打ち砕くためには、ヘタに注目を浴びてタイムトラベラーだとバレたらまずいからな。それこそ機関の奴らは血眼になって俺たちを妨害してくるに違いない。そうなれば一介の大学助教授と弁当屋など相手になるはずもない。

──だが──

 鈴羽には絶対手を出さないこと。

 聞いた時は一瞬耳を疑ってしまった。
 あの夜の思い出がありありと思い浮かぶ。食事中に感情を露わにしアパートを飛び出した紅莉栖を追いかけた夜のことを。

 


 街灯がちかちかと不規則に点滅している。恐らく蛍光灯の寿命が近づいているのであろう。
 視線を移すと、その街灯の背にもたれかかるようにしてうつむく紅莉栖の姿があった。

「おい助手よ、随分探したぞ。一体何があったというのだ」

「…………」

 返事は帰ってこない。俺はため息をついて返事を待った。
 数十秒の間が空いた後、紅莉栖はぼそっと呟く。

「別に、なんでもないって言ってるでしょ」

「だったらなぜあんな態度を取る。鈴羽も戸惑っている」

 俺の問いにやはり答えようとはしない。それどころか余計に俯いてしまい、最後には膝を抱えて顔を埋めてしまった。

「おい……」

「大丈夫だから。私は大丈夫だから……きっとそのうち受け入れる」

「大丈夫なわけ無いだろう……」

「こうなる可能性があることは覚悟してた。それが早いか遅いかだけの違いよ」

「だから、いったい何が起こるというのだ!」

「…………あんたは知らなくていい」

「だが──!」

「知ったら──!」

 紅莉栖が1人で抱え込んでいるものの正体を知りたくて聞き返すが、逆に鬼気迫る勢いで遮られる。

「知ったらきっとあんたはまた、苦しむ……!」

「俺が……?」

「思い出を消してしまうことに罪の意識を感じて、やっぱり行動できないかもしれない」

「ど、どういうことだ……」

「それ以上は、知らなくていい。私がやるから……」

 そう言って紅莉栖は立ち上がり背中を見せる。その背中は今にも崩れてしまいそうに震えていた。

「私ね、イギリスに行こうと思っている」

「イギリス……だと? なぜだ?」

 一瞬動揺が頭を駆け巡ったが、それを悟られぬよう努めて冷静に装い尋ねた。

「試したいの。自分の可能性を。自分勝手って思うかもしれないけど……私は自分に賭けたい」

「し、しかし、お前がいなくなれば鈴羽が悲しむ……」

「大丈夫よ、彼女にはあんたがいるもの」

「いやいや──」

「岡部、あの子をお願いね。彼女、記憶を失ってからすごく不安定になってる。傍目には元気を装ってはいるけど、夜な夜なうなされてるのよ……」

「…………」

 一度その現場には出くわしたことがある。よほど嫌な夢を見ているのだろう、と思った。

「あんたが支えてやって。そして2人で幸せになりなさい。可能な限り」

「…………お前はどうする」

「へ?」

「お前は自分の幸せを考えないのか? イギリスに行くことが幸せなのか? 俺たちから離れることが幸せなのか?」

 なぜかムキになる自分がいた。行かせたくない、そう思った。

「ふふ、向こうに行ったってさほど変わりはしないわよ……。私は私で自分の幸せを掴むわ。科学者としてのね」

「…………」

「それに、岡部が近くにいないとせいせいする!」

「…………」

 なぜかその言葉に無性に胸が痛んだ。顔に出ていたのだろう。そんな俺に対して紅莉栖はフォローを入れた。

「……ジョークよ」

 その顔は少し泣いていたようにも思えた。
 その後俺たちは約束を交わした。

「IBN5100は2010年まであんたたちが大切に保管して。絶対売るなよ? 後、世間で目立つような行動は差し控えること。それと、歴史に刻まれる偉大で注目をあびるような発明は絶対に横取りしたりしないこと。最後に私達3人がタイムトラベラー絶対に他人に話さないこと」

 紅莉栖はどや顔でまくし立てた。もう涙は浮かべていない。

「あ、後、もう1つ……」

「ま、まだ何かあるのか……?」

 すると紅莉栖は少しだけ顔を赤らめながら躊躇いがちに口を開いた。視線はあちこちをさまよい定まっていない。明らかに動揺を隠し切れないといった様子だ。

「こ、これだけは言っておく。鈴羽に手は出さないこと」

「は?」

 いきなり素っ頓狂なことを言うから思わず聞き返した。

「だ、だから鈴羽と……ごにょごにょ」

 照れくさそうに指を絡ませながら口ごもっている。
 何を言っているのだこの変態少女は。

「貴様真面目な話をしているかと思えば一体何を……!」

「ま、まじめな話だバカ! ふざけてこんな話、誰がするかっ!」

「そっ、そもそも俺は鈴羽をそんな目でみたことはな、ないっ!」

「だ、だとしても今後そうなる可能性はあるでしょ!? 岡部はHENTAIだから鈴羽の体にムラっとして──」

 傍から見れば完全な痴話げんかだったかもしれない。
 というかどっちがHENTAIだ、どっちが!

「と、ともかくあの子とは絶対”そういう関係”にならないで」

「当たり前だろう、俺は狂気のマッドサイエンティスト。女よりも世界の混沌にしか興味はぬあぁい!」

「や、約束だからな!」

 頬を赤らめて言う。威厳などまるで0である。




「どうしたの?」

 電話越しの紅莉栖の声に俺は我に返った。
 10年前のあの夜、顔を真赤にしてHENTAI発言をする紅莉栖を思い出し、俺は吹き出した。

「ちょ、何笑ってる!」

「いや、少々貴様の過去を思い出してな。懐かしく思っていたところだ助手よ」

「はぁ……なんだか無性に腹が立つんだが」

「ふ、この程度のことで腹を立てていると皺が増えるぞ。どうせ今もこめかみに手を当てて眉間にしわを作っているんだろう?」

「う、うっさい! ……ったく、変なとこだけ勘がいいんだから。まぁいいわ、ともかくそういうことなら引き続きお願いね。あの子のこともしっかり見ておいてちょうだい」

「……ああ。鈴羽のことなら心配するな、お前が思っているほどやわな女ではない。俺やお前がいなくとも強く生きていけるはずだ」

「……。じゃ、また連絡する」

 そういってプツっと切れる。
 やりとりは多少変われど、いつもどおりの会話だ。

「フッ、あいつめ」

 そう呟き、俺はわずかな笑みを浮かべた。

「電話……? ……誰?」

 突如、背後から声をかけられて肩を釣り上げてしまう。
 振り返るとそこには鈴羽が立っていた。
 真っ暗な部屋でいきなり声をかけるな。

「お、おお、鈴羽か……もうシャワーはいいのか?」

「うん。もう温まったから」

 とそこで違和感に気づいた。
 こいつ──バスタオルを巻いてるだけだ!

「お、おおおお、おい! お前! ふっ、服を着ろ!」

 わずか1枚の薄い布に覆われた体を想像してしまいどぎまぎしてしまう。

「何慌ててんのさ……」

「いっ、いいから……貴様は恥じらいというものがだな……」

「ねえ、電話、誰だったの?」

「へ? で、電話、今はそんなこと……」

「教えてよ。電話の相手……紅莉栖だったんでしょ?」

 言い当てられる。というかなんか怖いんですが。

 声のトーンがさっきから低い。家路についた時の鈴羽とはテンションが180度一転している。どうやら助手との会話を聞いていたようだ。
 も、もしかしてこいつ、助手と代わらなかったからすねているのか?

「お、おい鈴羽、助手と会話できなかったからって拗ねるでない。お前も定期的に電話しあっているんではなかったのか……」

「そうじゃ、ないよ……」

「というか、いい加減服を着ろー!」

 間にあわなくなってもしらんぞーーーっ!!!

「間に合わなかったら、どうするの?」

「へっ?」

 鈴羽は生まれたままの姿を1枚の布で覆いながら自分の両腕を抱いた。そして視線を落として伏し目がちに言う。

「ねえ……」

「な、なななっ!?」

 こ、これはもしや──?
 鈴羽の一挙手一投足が俺の心臓を跳ね上げる。
 くっ──機関の奴らはついにこの戦士までも籠絡し洗脳を──

はらり

 鈴羽は自らの手で撒いていたタオルを床に落とした。露わになる裸体。膨らんだ2つの乳房。引き締まった太もも。10年前と変わらぬスレンダーな体型。当然ながら上も下も何も身につけていない状態である。
 部屋の中が薄暗くてはっきりとは見えないことが唯一の救いと呼べるくらいか。

「お、おい鈴羽ぁっ!?」

「…………」

 鈴羽が俯いたおかげで、普段はおさげにまとめられてる長くてくせのある髪の毛が双丘を覆い隠した。それにほっとしたのも束の間。鈴羽がこちらに歩み寄ってくる。
 ばっ、ばか! それ以上近づいたらっ──
 どぎまぎして視線をずらす。

「ねえ、あたしを見て──」

 そんな心情を見透かされてしまう。俺は仕方なく視線を鈴羽に戻す。ただし、できるだけ顔に集中する。さっきより距離が近いからか、鈴羽の肌の色。体の輪郭。肉感がより鮮明に映し出された。

「岡部倫太郎──目をそらさないで」

「あ、ああ……」

 視線と視線がぶつかった。暗闇の奥できらりと静かな光を佇ませる鈴羽。その表情は固く、眉尻は下がり気味だ。
 ”あたしを見て”か──
 なぜかなつかしいような感覚に陥る。今までそんな風に言われたことなんてないはずなのに。デジャブ、というやつなのだろうか。それとも失われた記憶が関係しているのだろうか。
 薄暗かったこの部屋に一筋の光が差し込んできた。気づけばどんよりとした暗雲は霧散し、その隙間からオレンジの光が割って輝いていた。
 黄昏時。
 その明るい日差しが鈴羽の身体を優しく照らした。
 俺は息を呑んだ。
 鈴羽の身体にはいくつもの古い傷跡が刻まれていたのだ。
 胸部から腹部にかけて走る歪な切痕。
 太ももに浮かび上がる銃創。
 1つ1つは小さくとも、痛々しいほどに刻みつけられた負の印。
 俺はその数々の痕に釘付けになっていた。

「酷いもんだよね……。どんだけ時間が流れても消えないんだ」

「鈴羽……お前……一体、どんな……」

 どんな過去を過ごしてきたんだ。そう聞こうとして自分の愚かさを反省した。

「あたしに記憶はないのに、傷跡だけが残されている。こんなのでも、あたしという人間を知るヒントなんだよね……。きっとあたしはまともな人生を送ってなかったんだ。誰かに追われ、憎まれ、傷つけられ、蔑まされ──」

 一瞬の逡巡の後、吐き捨てるように言った。

「そして逃げるようにしてこの時代にやってきたのかもしれないね」

「そんな……」

「知りたい……。でも、知るのが怖いよ……岡部倫太郎……」

 涙を浮かべて想いを打ち明ける鈴羽。先ほど紅莉栖との電話で、鈴羽のことをやわな女ではない、と表現したことを後悔した。

「知ってしまったらきっと、あたしはもうあたしで居られなくなる……。1人の女として、君とそばにいたいって願い続けるあたしじゃいられなくなる……」

「え──?」

 一瞬、鈴羽が何を言ったのか理解できなかった。鈴羽の言葉を反芻する。
 女として、そばにいたい、と。
 直接的ではないけれど。
 想いを伝える言葉だった。それがわからないほど俺は鈍感ではない。

「俺は──」

 俺は何も身につけていない鈴羽を抱き寄せた。

「おかっ──」

「俺は…………」

 この想いにどう応えてやればいい? 俺にだって鈴羽への想いはずっとあった。
 この10年間、共に過ごしてきた。傍から見れば夫婦といえる程に。だが俺たちは記憶を失った時間の漂流者。そんな俺たちが幸せな家庭を築いてもいいのか。俺は問い続けてきた。
 紅莉栖の言葉を思い出す。きっと、奴の言うことは正しいのだろう。


──だが。

 鈴羽の身体は冷えきっており、かすかに震えが俺の身体に伝ってくる。

「言わんこっちゃない、服を着ないから、震えているではないか……」

「あっはは……寒いね……。震えが止まんないや」

 身体同様、その声は震えていた。

「思い出さなくてもいい……」

「え……?」

 俺が……ずっとそばにいる。

「ずっと、俺の側に居ればいい。いや──俺の側に、いてくれ……鈴羽」

 名前を口にした瞬間、俺の腕の中で震える彼女は少しだけ見を固くした。そしてゆっくりと両腕を俺の首へと回して絡ませる。

「岡部倫太郎……」

 そう呟いて、彼女は唇を重ねてきた。俺たちは互いの存在を確かめるようきつくきつく抱きしめ合った。
 それぞれの存在が溶けだし、お互いの境界線なくなってしまうかのように。

一旦休憩

 1987年 6月14日



 研究室の戸を叩く音が狭い室内にこだました。ノックの仕方で、誰が訪ねてきたのかが分かる。

「入るがよい」

「やー」

 その人物とは鈴羽。ご機嫌な表情に相変わらず、片手に袋。2人の学生が彼女に向かって挨拶をする。

「やあ橋田さん、ご機嫌麗しゅう」

「どうも、今日もありがとうございます」

「今日も張り切って作ってきたからね! 美味しく食べたまえー、なんちゃって」

「うむ、ご苦労。ラボへの食料提供、感謝しよう」

 腕を組み、目を閉じて自慢気に言う。俺と鈴羽はもはや一心同体、ならば彼女の手柄は俺の手柄のようなものである。

「それとさ、ちょっと話があるんだけど」

 そういって裾を引っ張られ、研究室の外へと連れ出された。
 外からお熱いですな、とか、交際1周年だから、とかいう声が聞こえたが聞かなかったことにする。

「どうしたのだ、一体……」

「あの、えっとさ……」

 俺たちが正式に恋人として付き合いをはじめてからすでに1年が経とうとしている。特に大きく変わった部分があるわけではないが、確かな幸せを噛み締めていた。

「んーと……言いづらいんだけどさ……」

「おい、言いたいことがあるならばはっきりと言ったらどうだ」

 ため息混じりにそう告げると、うん、と照れたような返事を返す鈴羽。
 後ろで手を組み、もじもじとしている。
 なんだ? 一体。まさか──

「き、貴様もしや──」

 俺が大げさな態度で後退りすると鈴羽は驚いた。

「え、ええっ!? わ、わかったの!?」

「IBN5100を売っぱらった……とかではあるまいな……?」

 すでに1975年発売のPC、IBN5100にはプレミアがついており、相当な価格で取引されるようになっていた。

「遊ぶ金欲しさに2010年の戦いにおいて必要となるアレを売ってしまった、そ、そういうのだなっ!?」

「ち、違うって!」

 そうか。良かった。

「ではなんなのだ、改まって」

「だから、その……」

 相変わらず切り出しづらそうにしている。
 まあ、想像はつく。今日は付き合い始めてちょうど1年だからな。

「案ずるな鈴羽よ、計画はすでに進行中だ」

「ええっ!? そうなの!?」

 またもや驚きの声をあげる鈴羽。1周年記念にどこか食事にでも出かけようか、と今しがた計画を立てたところだ。そんな俺の思惑にはまり、驚嘆している。
 うーん。やはりこいつは純粋すぎるところがあるな。まゆりと違って怒らせると迫力が半端ないが。

「うむ、今日はめでたい日だからな。少し贅沢して祝いの場でも儲けようか」

「あ……」

 俺の言葉に鈴羽の顔がぱっと輝いた。

「すっ、すっごいね君って! あたしの言いたいこと当てちゃうなんて!」

 この俺を誰だと思っている。俺はIQ170を誇る怜悧なる脳細胞を持つ狂気のマッド──

「どっちかな~、男の子かなあ。女の子かなあ!」

 へ?

「へ?」

 思わず声が出た。今こいつなんと言った?

「男の子だったら活発な感じになるのかな~? 男の子は女親に似るっていうもんね!」

 何やらとんでもない思い違いをしているような。俺は聞き返さずにはいられない。

「待て待て、なんの話だ?」

「女の子だったら、君似だよね! 頭がいい子になるのかな? 細身で長身かあ、悪くないね!」

「鈴羽さん? さっきからなんの話をしてらっしゃるんで?」

「え?」

「え?」

 声が廊下で重なりあう。ぱちぱちと瞬きを繰り返す鈴羽と俺。
 さも当然といった口ぶりで鈴羽が切り出す。

「決まってんじゃん、生まれてくる子の性別だよ!」

「生まれてくる? 何が? 知り合いが誰か身篭ったのか?」

「違うって! あたしの話!」

「ああ、鈴羽の話か──」

 って。

「えええええええええ!?」

 気づけば俺は、大学の研究室棟が揺れるほどの大声で叫んでいた。




「ははは、こりゃめでたいですな!」

「いやあ、びっくりしましたよ、まさか橋田さんが妊娠していたなんて! いや、もう宮野さんになるのかな?」

 学生2人は鈴羽と歓談している。
 先ほど俺が叫んだせいで、研究室から飛び出てきて事情を聞いた次第だ。
 こ、この俺が父親っ……だと!?
 正直実感が湧かない。狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真が人の親になるなど、到底信じられん……!

「あはは、声大きすぎだよねもうー」

 だが満面の笑みを輝かせる鈴羽がそこにいた。その眩しい笑顔を見ているだけで俺の心は満たされていった。俺と鈴羽が共に歩いていて、その間にはまだ見ぬ小さな命。俺はそんな場面を想像してみる。
 お互いの顔を見て微笑んで、そしてその優しい視線を子どもに送る。まったく予想していなかった未来だ。
 だがそんな未来も、悪くないのかもしれない。

「顔がだらしないですぞ」

 章一が俺の顔を見て言った。心なしか、茶化すような笑いを浮かべている。

「う、うるさい!」

 戸惑いがあるのは事実だ。しかし後に気持ちの整理もつくだろう。男としての責任も取らねばなるまい。鈴羽の横顔を眺めながら、俺はふっと小さく鼻を鳴らした。


 時は流れ、やがて年を重ねていくけれど2人は変わることもなくこの先も続いていく。そう思っていた。
 春夏秋冬、あらゆる季節を幾度と無く繰り返し歩いた道。1本の傘の中を2人、進んでいく。
 俺たちのそばには今、優しい雨が舞い降りてきていた。
 わずか数十センチ頭上の傘に降っては弾け降っては弾け、そっと音を生み出していく。その音色はまるで俺たちを祝福するハーモニーのようで。
 気持ちが満たされていく。穏やかな時間が流れていた。
 ふと、誰に言うでもないような小さな声が俺の鼓膜を震わした。

「こういう日常も悪くないよね」

 それは独り言のようでもあり。同意を求めるようでもあり。
 俺はこの10年を省みていた。一見すると隠居した老夫婦のような共同生活。
 今思えば、近くにはいても、微妙な距離感が2人の間に壁を作っていたように思える。
 紅莉栖の言葉のせいだけじゃない。俺の中でかすかに、鈴羽の体温を感じることに躊躇いがあった。
 それでもいいと思った。体は結ばれなくても、共に時間を超越した一心同体の存在だ。そう自分に言い聞かせていた。いつの間にか変化を恐れる気持ちがあったのかもしれない。
 やがて俺は研究に明け暮れ、鈴羽の想いを見て見ないふりをした。彼女にとってそれがどれだけ酷であったのか。この1年の彼女の変化を見て、俺は自分がどれだけ酷い仕打ちをしていたのか悟った。
 そしてそれは、俺自身の変化ももたらしたようだ。
 今はこの横顔が何より愛おしく。この穏やかに流れる日常を守りたく。新しく生まれてくる命の感動に満ち溢れていた。俺は鈴羽の耳に入るかどうかわからないほど小さな声で呟いた。

「ああ、これもシュタインズゲートの選択だな……」




 家に帰り着くと、暗い室内で電話機のランプが赤く点滅しているのが目についた。留守番電話が入っていたようである。メッセージを再生してみると紅莉栖からだった。鈴羽と付き合いだして以来の連絡だった。言いつけを破った後ろめたさから、気が進まないが飽くまで同様は悟られぬよう伝える。

「紅莉栖からのようだな」

「あー、紅莉栖にも伝えなきゃねー」

 鈴羽は言いながらお腹を擦り、にこやかに受話器を渡すよう手を差し出した。すぐにぴぽぱ、とテンポのいいプッシュ音が聞こえてくる。
 まぁ、鈴羽からの報告ならば紅莉栖も快く祝福してくれるであろう。そう思い、俺はソファに腰掛けてテレビのリモコンを操作した。
 鈴羽の明るい声が背中越しに響く。どうやら電話がつながったようだ。軽くお互いの健勝を確かめあっている。しばらく他愛もない世間話を続けた後、鈴羽が切り出した。
 今、彼女のお腹の中には俺の子供がいる、ということを。

「どしたの? うん、ありがと! え? 代われって?」

 その報告の後、紅莉栖から電話を代わるよう言われたみたいで、鈴羽が受話器の口を抑えたまま俺を呼んだ。
 鈴羽から受話器を受け取り、相手が代わった旨を伝える。

「ハロー……」

 心なしか声が一段と低い。寝起きなのだろうか?
 時計を見ると5時を指している。イギリスとの時差は8時間ほど。今は17時だから、向こうは9時くらいか。
 目覚めるには少し遅いくらいの時間だ。

「久しぶりだな……」

 紅莉栖の心境を探るように、俺も低い声で答えた。

「ねえ、本当なの? 鈴羽とのこと」

 このタイミングで聞いてくるということは、妊娠のことを言っているということで間違いないだろう。
 俺は少しだけ躊躇いがちに返答した。できるだけ短く。

「あ、ああ……事実だ」

「…………」

 一瞬の沈黙があった。気まずい空気が流れる。どうも紅莉栖は俺たちに子供ができたことを祝福してはいないようである。俺はある可能性について考えていた。自意識過剰とも取れる可能性を。
 だがそれを今更口にすることは愚かしいにもほどがあった。ゆえに俺は紅莉栖の反応を待った。

「そう……あんた、約束破ったのね……」

「…………」

 どう答えるべきか、迷った。しばらく迷ったまま電話機を見つめていると、相手のため息が漏れる音が受話器を通じて聞こえてくる。

「分かった。はっきり言わなかった私も悪いんだから、あんただけを責めるのはお門違いよね……」

「……なに?」

 何を言っているんだ、こいつは。
 予想に反した回答が帰ってきたことでわずかに戸惑った。

「近々日本に行くから」

「なんだと? いきなりか?」

「もちろんある程度片付けなきゃいけないタスクが残ってるからそれを処理してからだけど、できるだけ早くいけるようにする」

「いやいや、わざわざ来るというのか?」

「会って話したいことがあるから」

「お、おい──」

 そう言うと、じゃあ、と言って紅莉栖は電話を切った。ツーツー、とビジートーンがひたすら俺の耳に鳴り響く。受話器を置き、動揺した心を悟られぬよう鈴羽の方を見ると鈴羽はテレビを興味津々に見つめていた。やがて俺の視線に気づくとを訝しげな表情をして「あー、電話切ってるー! 後でまた変わってっつったじゃーん!」と不満を垂れた。

「あ、ああ、すまない……」

「ってか、随分短かったね、相変わらずの口調で怒らせちゃった?」

「いや、なに、仕事が忙しいようでな。あまり時間も無いと言っていた」

「ふーん、そっかー。じゃあ悪いことしちゃったかな」

「それと……近々日本に来るらしい……いつになるかはわからんがな……」

「えー? そうなのー!? そっかー。久しぶりに会えるんだね!」

 久方ぶりに再会できると知って、鈴羽は屈託のない笑顔を浮かべた。そんな鈴羽の様子とは逆に、俺の心は揺らめいていた。電話越しの紅莉栖の棘を感じさせる声色が、妙に気がかりだった。




 数年ぶりに見る彼女の姿を前に、俺は声をかけるのを少しだけ躊躇した。
 相変わらず堂々としていて、張り詰めた表情で壁に背中を預けている。辺りのねっとりとした湿気に煩わしさを覚えながらも、眺めているとそこだけひんやりとした空間が切り取られているようである。
 大きく息を吸って自らの心を鼓舞する。
 正直、今紅莉栖と会うのは気が進まなかった。
 大切なものはずっとそばにあった。それに気づくまで10年も日々を費やしてしまった。だが、その平穏な日常が音を立てて崩れるような予感がしたのだ。
 逡巡していると、彼女は俺の姿に気づいたようで、視線をこちらに向けてきた。
 もう逃げられないな。そう覚悟を決めて俺は口を開いた。

「……久しぶりだな、助手よ」

「変わらないわね、そのボサボサの髪も、無精髭も、その呼び方も」

「ふっ、貴様こそ。その人を寄せ付けないオーラ。あの時と一緒だな」

 あの時、というのは忘れもしない、俺と紅莉栖がATFのセミナー会場で”再会”した時の話だ。
 その数時間前、ラジ館の薄暗い倉庫で何者かに刺されて倒れているのを発見していた俺は、傷もなく平然と立っている紅莉栖に猛烈な違和感を覚え、気づけば彼女の肩を強く掴んでいた。その後の紅莉栖の殺気と言ったら。ああ、思い出すのはよそう。頭痛が酷い。

「ああもう、会ってそうそう……。ま、別にいいけど。ともかく大学内、案内してよ」

「あ、ああ……」

 言われるがまま、大学構内を軽く歩きまわった。
 今日は日曜のため学生の数はいつもより少なく、大学も閑散としていた。一周りして、俺の研究室へと招く。
 紅莉栖が「小さいながらも自分の研究室を持つだなんて、出世したな」と賛辞の声を送ってくる。
 上から目線なのは気に入らないが、そう素直に言われると少しだけむず痒い。
 ミニテーブルを挟んでお互い向き合う形でソファに座る。俺は大きく息を吸い込んで言った。

「で? なぜいきなり日本に戻ってきた」

「その前に一言。あんた父親になるんだってね」

「…………」

「一応、言っとく。おめでとう」

「ああ……」

 形だけの祝福を受け取ると、紅莉栖は早速と言わんばかりに本題を突きつけてきた。

「日本に来たのは、あんたに見てもらいたいものがあって……」

 そう言うと紅莉栖はある機械を目の前に差し出してきた。
 その機械は片手で持てるほどの台座の上にいくつかのニキシー管が並べられているというレトロなものだった。
 それぞれのニキシー管にはぼんやりとオレンジ色のいくつかの数字──それと左から2番目の管にはピリオド──が光り輝いていた。

「なん……だこれは……数字……?」

 そこに表示された数値は──

 0.615074

 一番左の管だけ微妙に形状が違ったのが気になった。まるで壊れた部品を取り替えたかのような。
 だがそれ以上にこの数字の不気味さに俺は心を奪われていた。それくらい異質な物体だった。

「おい、これは一体何の機械だ……?」

「見覚え、ないか。やっぱり……」

 落胆する声がニキシー管に釘付け状態の俺に突き刺さる。大きく息を吸って意を決したかと思うと紅莉栖は──

「この数値が1%を越えた時、β世界線へとたどり着いたことになる」

 なにを──

「その世界線ではディストピアが形成されず──」

 いっているんだ──

「まゆりが死なない可能性がある世界線──」

 おまえは──

「あんたが望んだはずの世界線よ」

 息が荒い。もうすぐ夏だというのに冷や汗がにじみ出てくる。じわじわと脳にノイズが鳴り響いてきて──

「やっ、やめろっ──!!」

 気がつけば勢い良く立ち上がり、話を遮っていた。
 そんな俺の様子にたじろぐ素振りも見せず紅莉栖は俺をじっと見つめている。

「こうなった以上は、あんたに記憶を取り戻してもらう必要がある。私1人の判断じゃ、きっと世界は変えられない。いや、変えてはいけない……。あんたの記憶を頼りにして解を導く。その上であんたが選ばなくちゃいけないのよ」

 紅莉栖が何を言っているのか分からない。分からないけれど、その声を聞いているとザーとテレビの砂嵐のノイズみたいな耳障りな音が頭に鳴り響く。

「それ以上言うな! 言わないでくれ!」

「世界線の変動を感知できて、まゆりの命と、鈴羽の想いを守るという願いを両立できるのはあんたしかいないんだから」

 1枚の膜を隔てたように、紅莉栖の声が遠くに感じる。ノイズにかき消されそうな小さな音なのに、不思議と頭に入り込んでくる。そしてそれは楔を打ち込んだように脳裏から離れなかった。

「やめろと言っているだろう!」

 声を荒らげる俺に1つも身じろぎもせずじいっと見つめてくる紅莉栖に俺は寒気を覚えていた。
 なんでお前はこんなにも冷静なんだ。


「岡部、逃げないで。目をそらしちゃダメ」

「お、俺は逃げてなどおらん……」

「鈴羽と、あんたたちの子供のことを思うのなら、あんたはここで逃げちゃいけない。あんたの目を覆い隠して見えなくしている仮面を外さなきゃいけない」

「なぜだっ! お前は一体、何を知っていると言うんだ……!」

「それはあんたが記憶を取り戻せば分かることよ。私の言うとおりにして……。私と一緒に、イギリスに来なさい。精神療法に精通している私の知り合いを紹介するから」

「そんな……すぐに決められるわけ無いだろう……」

「すぐじゃなくていい。でもいずれは選ばなきゃいけない。それだけはわかって」

「…………」

 その時安っぽい電子音が響いた。ポケットをまさぐり、手のひらでその感触を確かめてからそっと取り出す。ポケベルに届いた鈴羽からのメッセージだった。
 すぐに安堵感が胸の中に温かみを抱かせたが、そのことが逆に、大きくなりつつある焦燥感の存在を嫌でも感じさせた。しこりとなって不快感を催すその何かを今すぐに取り去ってやりたかった。
 先ほどの紅莉栖の言葉を頭の中で反芻する。

──”ここで逃げちゃいけない”

 俺は紅莉栖の顔は見ずに、迷いながらもぼそりと呟く。

「分かった……。いくよ……」

今日はここまで
次回の更新予定は明後日日曜になります

たくさんのコメントありがとうございます
毎回楽しく拝見してます




 数日後、鈴羽や大学の事務に、研究のためイギリスへ発つと伝え、諸手続きを済ませて俺は新東京国際空港から日本を後にした。およそ半日のフライトを終え、俺はロンドンの地へと降り立っていた。
 ヒースロー空港を出るとすぐに強風の横風が浴びせられる。

「風が強いな……」

 みな、吹き荒れる風に身を縮めて歩いていた。頭を帽子に包むものはそれを抑えながら耐えている。

「海洋性気候だからね、通常運転よ、こんなの」

「そういうものか?」

 と、紅莉栖が手を横に広げ、黒いタクシーを止めた。すぐに助手席の窓が開き、紅莉栖は運転手に行き先を告げる。

「行くわよ」

 伝え終わったようで紅莉栖がこちらを振り向き、後ろの座席に乗るように促した。それに従うまま俺はドアに身をくぐらせ、腰をおろした。すぐに隣に紅莉栖が乗り込んでくる。俺は尻をあげ、座席をズレて彼女のスペースを作った。

「街を案内してあげたいところだけど、すぐに病院へ向かうわ。前にも言ったけど、精神療法に精通している私の知り合いが来てくれてるから。今回は恐らく催眠療法による治療が行われるはずよ」

 催眠療法……。その言葉に少しだけ不安を覚える。

「最近は会社経営とか多岐にわたる方面で仕事していてすごく忙しいらしいから感謝するのね」紅莉栖はそう付け加えた。


 タクシーを降りてしばらく紅莉栖の後ろを歩いていると、すぐに茶色を基調とした歴史を感じさせる建物が俺の目に映った。白い格子窓がいくつもつけられており、屋根の中央には青銅の時計台がそびえ立っていた。海外の小学校を思わせるような形貌である。
 中に入ろうとすると白衣を着用した大柄な白人男性が看護婦と話している様子が目に入った。

「あ、ちょうどよかった。あの彼が今回あんたを見てくれる先生よ」

「ふむ……」

 年は俺たちと同程度……かもしくは少し上、といったところか。
 もっとも、白人だから少しだけ俺たちより老けて見えるだけかもしれないが。まあ、そんなに年は違わないようだ。やがて紅莉栖はやや声を張って──

「Hi,Miggy!」

 その声に気づいたのか彼はすぐに笑顔で俺達の方へと向かってきた。
 紅莉栖がこちらを向いた。

「あ、ミギーっていうのは彼の愛称で──」

「Oh! I missed you,Elana,darling!」

 俺に対して補足していた紅莉栖を無視して大げさに両手を高く掲げて紅莉栖に抱擁とキスを求めてくる大男。そんな彼に対し紅莉栖はやれやれと言った様子で両手で彼を押しのける。

「Yeah,Yeah,Whatever!」

 と呆れた様子でその男を突き放す紅莉栖。その手慣れた様子から普段から似たようなやりとりをしているのだな、と悟った。紅莉栖は彼に何か伝えている。流暢な英語で俺には聞き取れないが、恐らく俺のことを説明しているのだろう。
 話が終わると、彼は同様に俺に対しても抱擁を要求してきた。キスや頬すりこそなかったけれど。いや、あっても困るのだが。
 互いに簡単な自己紹介を終え、文化の違いに多少戸惑いつつも、俺は紅莉栖にそっと耳打ちする。
 
「な、なにやら、英国紳士らしからぬお方だな……。俺はもっとこう、硬派に握手とかかと思ったぞ」

「ああ、イギリスに駐在してはいるけれど、生まれはイタリアらしいから。生粋のHENTAIよ。今も口説かれてたんじゃない? 彼女」

 そう言って紅莉栖は玄関の少し奥に佇む看護婦を見る。彼女はこちらを恨めしそうに見つめていた。

「な、なるほど……。イタリアンの変態紳士か……」

 そこまで言わせるのだから、よっぽどなのだろう。恐らくはダルに匹敵するほどに。考えたくもないが。

「HENTAI? No,No. A Philogyny」

 は? フィ、フィロ……?
 俺がぽかんと口を開けていると「いちいち相手しなくていいわ。自分で自分を女好きって言っただけだから」そう言って紅莉栖はさっさと中に入っていってしまった。
 
 と、というかHENTAIって……すでに外国人にも通じるのか? それとも紅莉栖が広めたのだろうか。
 まあ、それはどうでもよくて。
 颯爽と歩いて行く紅莉栖の後を追いかけるべく歩き出す。するとイタリア人の変態──失礼──女好きの彼も俺の横に並んで歩いてくる。その瞳には興味津々といった光が宿っているようだ。
 途中何度か英語で話しかけられるが、聞き取れず上手く答えることができない。やがて英語が通じないと分かり諦めたのか、少し前を歩く紅莉栖の元へと小走りで向かっていった。

 どっと疲れが出てきたのは恐らく長時間のフライトだけではあるまい。まったく厄介な人物と引き会わせてくれたものだ。
 しばらく廊下を歩いているとふいに2人が室内へと入った。それにつられて俺も部屋へとくぐる。

「ここよ」

「ほおー……」

 外観は芸術的であり学校のような姿形だが、やはり病院だけあって白を中心とした壁、家具の構成であり落ち着きを感じさせる。

「じゃ、そこの椅子に腰掛けて」

 紅莉栖が指さした先にはふんわりとした表皮が余裕を感じさせる白いリクライニングチェアー。背もたれを倒せば大柄な男でも横になれるようながっしりとした安定感がある。脚部にはオットマンも用意してあり、それに足を乗せれば簡易のベッドになりそうだ。
 俺は紅莉栖に言われるまま、椅子に腰を下ろす。ミギーと看護婦、紅莉栖に見つめられ俺は少し居心地の悪さを感じた。
 これから始まるんだよな……。俺の記憶を取り戻すための治療が……。
 色々な不安が交錯していた。そんな俺の心情を察したのか、紅莉栖が近づいてきて再び耳打ちする。

「今回、特別に私も立ち会いできるようにしてもらったから。基本的に治療の進行はミギーの指示に従って、私が日本語通訳という形であんたに指示する。無いとは思うけれど、飛行機の中で伝えたとおり、万が一あんたが変なこと口走ってもちゃんとフォローするから」

「あ、ああ……」

 変なこと──それはタイムトラベルについて。だ
 いくら記憶を失っているからといって、患者からタイムトラベルした、などというワードが出てきたら不思議に思わざるを得ないだろう。
 それがもし、万が一SERNにでも伝われば──
 俺たちの計画は台無しになる。それを懸念してのことだ。
 催眠状態に陥ったとしても意識が無くなるわけではないから話すべき内容は自分の意思で選択できる、と紅莉栖は言っていたが、それでも不安は隠し切れないでいた。
 そして治療が始まった。
 ミギーと呼ばれる精神科医が英語で紅莉栖に対して喋りかける。それを受けて紅莉栖が俺に対して指示を与える。まずはカウンセリングが行われた。
 ヘタなことは言えないため、考えこむ部分が多かったが、記憶を失っているということでさほど不思議には思われなかったようだ。
 やがて、カウンセリングが終わった後、いよいよ催眠療法に移る、と紅莉栖から伝えられる。
 いきなりか、とも思ったが、事前に紅莉栖がある程度症状について彼に話しておいたようだ。俺の場合、恐らく強いトラウマが辛い記憶を封じ込めている。そう判断したのだろう。催眠状態にかかった俺から潜在意識に沈んだ記憶の残滓を引っ張りだすつもりらしい。
 紅莉栖は真摯な眼差しでこちらを見据え、そして言った。

「きっとあんたにとってこの数時間はとてもつらい時間になると思う。でも、あんたならきっと、乗り越えてくれると信じてるから」

「任せておけ、この俺を誰だと思っている」

 いつもの口調で強がって見せたが、内心は暗澹たる思いが心の中を占めていた。
 ミギーが英語で話すまでもなく、紅莉栖が日本語で催眠誘導を行う。紅莉栖はてっきり翻訳に徹すると思っていただけに意外だった。

「おい、まさかお前の10年の研究というのは俺の記憶を呼び起こすための催眠術ではあるまいな……?」

「んなわけあるか。以前セミナーを受けたのよ」

 説明書を読んだのよ、的な感じか。いやちょっと違う気がする。

「はい、集中して。無駄口叩いてると催眠状態に移行できないわよ」

 紅莉栖に窘められ、俺は仕方なく指示に従う。
 ゆったりとした、人を落ち着かせるような口調の声が病室内に静かに響いている。
 はじめは外の雑音──車の音や人の会話、鳥の鳴き声も耳に入ってきて気になっていたが、やがてそれらは綺麗さっぱり消え、ついには紅莉栖の声だけが俺の脳内に鳴り響くようになった。
 わずかだが徐々に体が重くなってきた。まぶたがぴくぴくと痙攣していて違和感がある。紅莉栖の声に耳を傾け続けていると次第に体の重さは増していき、腕を動かすのも億劫になる。正直この状態が続くと辛い。叫びだしそうになる。
 そのことを伝えると、紅莉栖は一言、すぐ体は軽くなる。と小さく言った。
 それから数秒後、のしかかっていた重みは体から抜けていき、次第にふわりと浮き上がるような感覚に陥る。その様子が紅莉栖にも見て取れたのか、彼女は体が楽になったかどうか尋ねてきた。俺はそれに頷く。
 直後、小さく”入ったかな”という声がした。英語が流れる。まるで英語の教材のCDを再生しているようだ。
 すぐに紅莉栖の声がする。

──はい。目をつぶって頭のなかで思い浮かべてみて。今、あんたはラボ内に居る。日時は8月13日。まゆりと橋田と鈴羽と私がそばにいる。

 その場面を想像してみた。紅莉栖が言った4人がわいわいと料理をつついているシーンが脳裏に浮かび上がった。ラボ──2010年の未来ガジェット研究所──でタイムリープマシンの開発評議会を行っている様子だ。

──イメージ出来た?

「……ああ」

──その後、4人はそれぞれどうなった?

「鈴羽が突然帰った」

──彼女が帰った理由に心当たりは?

「分からない。爆破テロ予告の警報がテレビに映った途端、血相を変えてラボを飛び出していった」

──じゃあ橋田や私は、どうなった?

「そのままラボに居続けた」

──まゆりは?

「…………分からない」

──覚えていないの?

「…………ああ」

──じゃあ、鈴羽が帰った後のこと思い出して。

「鈴羽が帰った後……俺は、爆破テロの予告に胸騒ぎがして……」

 まゆりが俺の手を握ってきて。

「窓の外では消防車のサイレンが鳴り響いていて……」

 それに呼応するように俺もまゆりの手をぎゅっと握りしめて。

「あ……ああ……」

 突然、浮かび上がるあの場面。
 それは──ラウンダーの襲撃だった。静まり返るラボの室内に鳴り響いたドアが蹴り開けられる音。数人の男たちが素早く玄関に闖入し、銃を構える。

「あああ…………」

──どうしたの?

「奴らがラボを襲ってきて……!」

 無意識に声が荒くなる。息が苦しい。胸が押し潰される。急激に体感温度が下がったような感覚に陥った。

「あいつが! 桐生萌郁が!」


──落ち着いて!

 銃を構え──

「やめっ……」

 そこでは俺はなにもできない。
 いや──
 そこでも俺はなにもできなかった。
 乾いた銃声と共に飛びかかる温かい感触。
 小さく呻くまゆり。
 やがて全身の力が失われ、目から光が消えていった。
 俺の腕の中で、無残にも頭を撃ち抜かれてまゆりが死んだ。
 
 何度も──
 
 何度も何度も。
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も──


 気がつけば紅莉栖が俺の体を揺さぶり、催眠状態から抜け出すための処置をしてくれていた。
 俺は呼吸を異常に乱し、汗と唾液にまみれ、涙を垂れ流している。だがそれ以上に俺の心はかき乱されていた。
 
──思い出してしまったから。

──まゆりの死と、それを回避しようと必死に走り続けてもどうしようもできなかったあの時間の輪を。

 ミギーが何か紅莉栖に言い聞かせている。どうやら今日のところはこれで終わりらしい。別室で休むよう言われた俺は力なく頷いた。

 その後も日を跨いで治療は引き続き行われた。
 あの日の夜に再びカウンセリングをしたが、紅莉栖はまだ完全には記憶が戻りきっていないと判断したらしい。
 翌日以降、ミギーの指示による進行でゆっくりと、ゆっくりと頭をほぐすように記憶を取り戻していった。

 ラウンダーの襲撃。
 時間を巻き戻し、防ごうとしたまゆりの死。追い詰められどうしようも無くなった俺を救ってくれた紅莉栖。
 IBN5100を俺に託すためにタイムマシンへと乗り込み、記憶を失い自殺した鈴羽。
 思い出を消すことができず、かといってまゆりを見殺しにすることもできなくて逃げ込んだ2日間。
 
 閉ざされた時間の輪を繰り返すことで、次第に俺は心を失っていった。俺の心も閉ざされていった。ただ平穏に、あの2日間が無事に終わればそれでよかった。すべてが予定調和。あの2日間においては俺が神だった。SERNもラウンダーの襲撃も、訪れるまゆりの死も、鈴羽の悲痛な最期からも逃れられた。
 変わることのない分かりきった未来に支配された俺の心も、やがて闇に支配されかかっていった。
 そんな俺の手をとって救いだしてくれたのが──鈴羽だった。

 
 そして治療が行われてから1週間。俺は自分が思い出せるであろう全ての記憶を取り戻した。初めに思い出したまゆりの死の記憶に比べれば、後々の治療は幾分穏やかに進んだものだった。
 しかし、俺が思い出した記憶の中に、鈴羽に関わるある事実。それが俺を苛ました。
 鈴羽はダルの娘であり、IBN5100を俺に託すために2036年から跳躍してきたタイムトラベラー。
 どう足掻いてもIBN5100を手に入れる手立てを見いだせなかった俺たちが取った手段──
 それは本来鈴羽1人で行うはずだったタイムトラベルに、俺も同行するというものだった。その結果、今の俺がここにいる。
 俺は彼女の姿を思い浮かべた。
 痛切な顔を浮かべる鈴羽。屈託なく笑う鈴羽。頬を膨らませて口を尖らせる鈴羽。
 この10年、様々な表情を俺に見せてくれた。そのどれもが記憶の中で宝物のように輝いている。
 そう──暗がりの中で、はじめて体を重ねあわせたあの日の、顔を赤らめ目をそらした仕草も。苦痛に耐え、声を漏らさまいと必死に口をつぐんだあの顔も。新しい生命に口元をほころばせ幸福に包まれていた鈴羽も。

──全部が愛おしかった。

 だがそれも、幻であった方が良かったのかもしれない。
 なぜなら俺が1975年へとタイムトラベルしたのはIBN5100を手に入れるため。
 そのIBN5100を用いてSERNにハッキングし、”最初のDメール”をSERNサーバー内から消す事こそが、まゆりを助ける手立てであり、何より──
 鈴羽の想いを──意志を守ることになるはずだった。
 だが、そうすれば──β世界線へと分岐してしまえば──

──なかったことになるんだ。この10年間が。すべて。塵のように。


 俺や鈴羽、紅莉栖は恐らく再構築され、存在はなかったことになる。もちろん、新しく生まれてくる俺たちの子供も。
 あの時──IBN5100を購入するための資金がたまり、満を持して購入に踏み切ってすぐのこと──紅莉栖の様子がおかしくなったのは、恐らくその事実に気づいたからであろう。
 最初のDメールを消してα世界線からβ世界線に跳躍するということは、つまり紅莉栖が刺殺された世界線に戻るということだ。35年後とは言え、自分の存在を消すために生き続けるというのはどういう気持ちだったのだろう。
 そんな罪を背負わせないためにも、紅莉栖は俺たちの記憶を戻すことを拒んだのだ。たとえ変わった先の世界で、存在を消されたとしても。
 記憶は戻った。戻ってしまった。
 浮かない顔を浮かべつつもミギーに治療のことに関して礼を述べると、多少釈然としない様子だったが、俺の両肩に手をポンと置き励ましの言葉を送ってくれた。

「I'll give this word to you.──”I am the master of my fate.I am the captain of my soul”」

 英語で言われたから一瞬戸惑ったが、どうやら俺にも分かるように簡単な言葉を選んでくれたようだ。
 日本語に訳すると──己の運命の指導者は自分。己の魂の指揮官は自分だというメッセージだった。
 帰りのフライトの中で俺はその言葉を何度も反芻していた。他のことは一切考えたくはなかった。

──己の運命──

 運命に抗って繰り返した円環の環を抜けだして──さらに辿り着いた先には過酷な運命が待っていた。その運命を招いたのは紛れなく自分……か。
 励ますつもりで言ったであろう言葉は皮肉にも俺が辿ってきた過去を表しているようで、そのことが沈んだ気持ちに拍車をかける。




 俺はすでに日本に帰国していた。家にはまだ帰っていない。鈴羽にも一度も顔を見せていなかった。
 どんな顔を見せればいいというのだ。
 今は大学の研究室で1人、講義を放棄してソファに身を埋めていた。テーブルにはアルコール度数の高い酒。
 卒業して研究職として大学に身をおくようになってから、より一層酒の味を覚えた。教授連中との付き合いで飲まされることもしばしばだったから。
 それでも、今ほど溺れるほど飲んだことなどない。大学に見つかればなんと言われるかわからないが今はそんなこと関係無かった。
 ブラウンに染まった細長い円筒のボトルを直接煽り、一気に喉に流し込む。すぐに焼けるような熱が食道を流れていき、胃を焦がした。その不快感と快感が交じり合うような感覚を味わった後、俺は大きくため息をついた。

「ふぅぅぅ……」

 世界線を変えなれければまゆりが死に、ディストピアが形成される。
 世界線を変えればタイムトラベルした3人は消える。生まれてくる子供もだ。
 帰国以来ずっと頭を悩ませてきたこの問題。どれだけ考えても、打開策を思いつくことができず、俺は酒に逃げた。辛い現実に向き合うよりも、このほうがずっと楽だ。
 
「クッククク……」

 俺は嘲笑うように喉を鳴らした。タイムリープで延々と2日間を繰り返したように、今俺がやっていることは逃げだ。それは誰の目から見ての明らかだった。
 どうやら俺は逃げる癖がついてるみたいだな。そう分析し自嘲する。
 ふいに研究室のドアが開いた。俺は顔をあげずにぼうっと考える。
 ノックはされていただろうか。だがそんなことはどうでもよかった。
 俺には入ってきた客人の対応をする気などさらさら無かったから。
 今更誰が入ってこようが関係無かった。今はただ、この気分に浸っていたい。空に浮かんでるようなこの感覚に。

「…………」

 来訪者は少しためらうような息遣いをして、やがて意を決したように口を開いた。

「久しぶり、だね」

 鈴羽だった。その鈴羽の迷うような声が俺の心を揺らした。罪悪感が全身に広がり胸を痛める。別の意味で、顔を上げることができなかった。

「飲んでるの? 家にも帰らずに何してんのかと思ったら……」

「これが飲まずにいられるかよ……」

 ひび割れたような声で投げやりな言葉を吐き捨てる。まさかこんなセリフを言う日が来るとは。そう心の声を浮かべてまた俺は自嘲した。

「ねえ、何があったの? イギリスで何があったの?」

 俺は答えない。答える気力がない。そもそも、紅莉栖から記憶に関することは口止めされていた。今話してしまえば彼女は絶望してしまうかもしれないから。

「紅莉栖に、会ったよ……」

 どうやら紅莉栖も少し遅れて日本にやってきたらしい。
 記憶を取り戻した俺は憔悴しきっていたから、すぐに日本に戻れという紅莉栖の配慮だったが彼女も既に戻ってきていたようだ。
 後にまた今後のことで話そう、という約束をしていたが、もう来ていたとはな。ご苦労なことだ。

「何かあったの? 紅莉栖と……」

「別に、なにも……」

 とっさに否定する。

「嘘。何もないわけないじゃん……。彼女も君のこと、心配してた……」

 まあ、そうだろうな。

「話してよ……それともあたしには話せないことなの?」

 言えるはずがないだろう。
 この先、世界線を変えれば俺たちは──少なくともお前と紅莉栖は確実に再構成され、世界から存在を否定される。
 未来で生まれるお前は別の存在と言っていいだろう。いや、生まれるかどうかも、分からない。挙句の果てに今お前のお腹に宿っている生命も、消える──
 そんなこと、言えるはずがないだろう……!
 鈴羽の問には答えず、俺は俯いたまま押し黙る。そんな俺の姿勢にとうとう愛想を尽かしたのか、鈴羽は何度か大きく息を吸うような息遣いをしてみせたが、やがて何も言わずに研究室から飛び出していった。
 やり場のない気持ちが俺の拳をわなわなと震わせる。俺はその拳を振り上げて目の前のテーブルに叩きつけた。ガシャン、とテーブルの上に乗るボトルや細々とした小物が音を立てて跳ねた。
 しばらく時間経って、またドアが叩かれる音がした。
 やはり諦めきれずに鈴羽が研究室に戻ってきたのだろうか。だとしても俺はもう、今は何も話す気にはなれなかった。返事を待つドアの向こうを無視し、再び酒を喉に流し込む。
 今はただ、この胸を下る熱い液体が俺の臓腑を焼く感触に身を委ねておきたかった。

「……はろー」

 ドアが開けられると同時に、おそるおそる、と言った様子で挨拶を口にする紅莉栖が姿を見せた。
 鈴羽ではなかったのか。だが、誰が来ても相手をしたくはなかった。今はただ1人になりたかった。

「気持ちの整理は……ついた?」

 整理だと? そんなことしてどうするというんだ。何が変わるというんだ。
 気持ちを切り替えたところで俺の大事な人達が消える未来は変わらない。それとも後の余生を有意義に過ごせ、とでも言いに来たつもりか?

「……研究室から飛び出していく鈴羽を見たけど……話したの? 彼女に……」

 頑なに押し黙る俺に続けて紅莉栖が気を使うような口調で話す。

「……言えるわけ、ないだろ……。まだ生まれてもない子供の余命を言うようなこと……」

 俺が本来の目的通りIBN5100を使って世界線を変えれば、2010年には消える。タイムリミットは22年か。
 そんなの、あんまりだろう。

「確かに、あんたと鈴羽が作り上げる未来は、本来の目的を達成するのであれば絶対に選んではいけない未来だった。でもね、いくら使命のために生きてるからといって、人間が享受すべき幸せを放棄してまで使命に縛られるべきなのかな」

「何が言いたい……」

「人としての幸せを手に入れたいがために、こうなったこと責めなくていいと思うってことよ」

「だがその幸せもいずれ壊れるではないか……」

「物であれ想いであれなんであれ、永遠に壊れないものなんて無いんじゃないかしら?」

「ふっ……お前にしてはやけに直覚的な意見だな。昔であれば物理法則や科学的常識は絶対などといいそうだがな」

「屁理屈は相変わらずね。それこそ物理法則や科学だって、人類の発展によって破壊と創造が繰り返されてきたじゃない。正しいと思われていた事実が覆される。不可能だと思われた技術が実現可能になる。破壊、というよりは変化かしらね」

 何が屁理屈だ。それこそ屁理屈ではないのか?

「歴史だって、変えられる。すでに科学的に証明されてるじゃない。あんたにはそれが解ってるでしょ?」

 1つため息を入れ、俺を指さす紅莉栖。

「人だって、変わるわ。私もこの10年、色々考えることはあったから……」

「話が見えてこんな。こんな話をするためにわざわざ日本に来たのか? ご苦労なことだな」

 こんな事態になったにもかかわらず平然としている目の前の女にいらつきを隠せず、おもいっきり皮肉を口にする。だが紅莉栖は動じない。俺の文句には反応せず切り出してきた。

「ねえ岡部。未来を……未来を変えてみたいとは思わない?」

 未来を変える、だと? 今更何を言っているんだ。その未来を変えるために──
 鈴羽の想いを引き継ぐために──
 ここまでっ……きたのにっ……!!

「選択肢は3つ」

 3本の指を立てて、紅莉栖は慎重に、ゆっくりと続けた。

「3つ……だと?」

 顔を上げた俺を紅莉栖は手のひらで制した。これから説明する、ということらしい。

「1つは、従来の目的通り、IBN5100を使って2010年7月23日にエシュロンに捕らえられた最初のDメールを消す。その場合、タイムトラベルした私達はきっと再構成される。β世界線に戻れば、私は7月28日に何者かに刺されて死ぬ。鈴羽は再構成されて、数年後に生まれてくる。生まれるかどうかも確定してないけれど。あんたについては、世界がどういう判断を下すかわからないわね。矛盾がないように再構成されて、今のあんたの意識は身体とともに存在しなくなるかもしれない。2010年において存在してるもう1人のあんたに上書きされるかもしれない」

 どの道、多くを失うのは確定している。紅莉栖の死も世界線の収束によって不可避だろう。タイムリープマシンは存在せず、Dメールを使えば再びα世界線に戻ってしまう可能性が高い。
 どうしようもない絶望の世界線だ。

「もちろん、タイムトラベルしたあんたも鈴羽もいなくなるってことは──あとはわかるな?」

 俺たちの子供も、なかったことにされる。紅莉栖同様跡形もなく消えるだろう。

「そして、2つ目の選択肢。これは正直賭けになるんだけども……」

 どういう未来を思い描いているのか知らないが、絶望的だ。まゆりを救いディストピアを回避し、俺たちも再構成されない未来へ辿り着くなんて。賭けにしてもそんなことが可能なのか? 0ではないとはいえ、あまりにも希望的観測すぎる。

「大分岐の可能性に賭けてみる」

 大分岐……だと?

「鈴羽の話を覚えてる? まれに別のアトラクターフィールドをまたぐほどの大分岐ができる年がある、そう言ってたこと」

 そういえば、そんなことを言っていたような……。

「近年だと、ソ連崩壊が起きた1991年と2000年問題があったはずの2000年て言ってたかしら」

 今は1987年、91年までは4年。2000年までは13年。考える時間はあるようには思える。

「だがどうすれば大分岐など起こせる? タイムマシンはおろか、タイムリープマシンも電話レンジも存在しないんだぞ」

「ソ連崩壊を阻止するってなれば、ちょっと非現実的かもしれないわね。でも……」

 紅莉栖はそう言って、口をごもった。その先を言うのを躊躇っているようだ。
 代わりに俺がその言葉を補う。

「2000年問題を意図的に起こすというのか? だがそれも現実的とは言いがたいぞ」

「でも、4年後の1991年より、13年後の2000年のほうが、はるかに可能性はある」

「だが、現実に2000年問題が起きれば、多くの人が害を被ることになる。そうまでして未来を変えるというのか!」

 俺の追及に紅莉栖は答えない。

「変わったな……お前」

 俺は責め立てるように吐き捨てた。紅莉栖は相変わらず動じない。それどころか反撃とばかりに言葉を返してくる。

「そうかもね。でも本当に変わったのはあんたの方じゃない?」

「なに? 俺が……?」

「以前のあんたなら、世界を混沌に陥れてやるーとか、我が目的の前には愚民の命など路傍の石同然だーとか、言ってたんじゃない? 狂気のマッドサイエンティストさん?」

「……昔の話だ。もうそんなこと独善的なこと言ってられるか……。俺は神でもなんでもない。ただの人だ……」

 紅莉栖が大きくため息をつく。「らしくないな」とつぶやき、やがて腕を組んで淡々と話し始めた。

「そもそも、あくまで可能性の話。こういう選択肢もある、っていう話をしてる。私だって、罪のない人たちの生活を脅かすようなことはしたくないしαでもβでもない世界線だからといって、まゆりの命や未来の平和が保証されてる訳でもない。だから──」

 紅莉栖が息を呑む。俺もつられて息を呑んだ。

「だからずっと考えていたの。第3の選択肢について、ね」

 第3……。そう言えば紅莉栖は3つ選択肢があると言っていた。
 1つ目はIBN5100を使って最初のDメールを消し、β世界線に戻ること。
 2つ目は大分岐によってα、β以外のアトラクターフィールドへの分岐の可能性に賭けること。

 では3つ目は一体何だ?

「3つ目は──」

 ごくりと喉が鳴った。まだ何か打つ手があるというのか。

「3つ目は……正直な話、まだ机上の理論の域を出ない」

 紅莉栖はさらりと言う。期待を持たせるようなことを言っておいて、結局その可能性に頼るには心もとないということだ。

「当然だろ……。そんなに簡単に解決手段が見つかれば苦労はしない」

 突き放すように冷たく言い放つ俺に紅莉栖は呆れるでもなく、怒りを露わにするでもなく──

「10年間、私が研究してきたテーマ、なんだか分かる?」

 突然話を切り替えてくる。

「さあな。大方、脳科学の分野か、あるいは少ない可能性にかけるためのタイムトラベル実験だろ」

「あながち間違いじゃないかな。脳科学の分野にも及ぶし、タイムトラベルについては思考実験として常々考えていたし」

「回りくどい、さっさと言ったらどうだ」

「そうね。私が今いる研究チームでは……いわゆる魂の所存。それにともなって、死の定義、これらについて研究している」

 魂? 死だと?

「なんだそれは……もはや宗教学や哲学の分野ではないか……」

「あくまで科学的見地から分析した、よ」

「それが一体なんの関係がある……」

「ねえ。世界が決定づけている死の定義って、なんなのかな」

「なに? ……人の死の定義など宗教、文化、法律や医療によって様々だろう」

「そう、人によって──学問によっても死の定義はそれぞれ異なってくる。脳死、心臓の死、精神の死、存在の死など──そして世界が与える死……。もし仮に、その死が脳や肉体の破壊を伴わないならば……。そこに抜け道があると、思わない?」

「だったらどうだというんだ。人々の頭のなかからまゆりの存在していた証をすべて消し去ったり、まゆりの精神を完全に壊しでもすればまゆりの命だけは助かるとでも言うのか?」

 紅莉栖は何も答えない。俺の言葉を待っているようだ。ならば言ってやる。

「そんなの机上の空論どころか、ただの妄想だ。世界は……そんなに生易しいものじゃない。俺は何度もまゆりの死を見てきた、抗うことなどできやしない……、もたらされるのは完全なる死。椎名まゆりの存在が否定されるのは決定事項なんだよ……」

 そう。それが世界の意思であり、運命なんだ。ただの人である俺たちがそれに抗うことなどできやしない。

「仮にお前の言うように、植物状態になったり、まゆりの自我が壊れた状態になって、生きられたとしても、それじゃ意味が無い……。俺はあいつの笑顔を守りたかったんだ……」

 でもそれも叶わない。

「手段は……2つなんだよ……まゆりを見捨てるか……。今のこの世界を見捨てるか……2つに1つだ……そして俺にはもう、選べない……」

 俺は俯いて紅莉栖に告げる。

「まゆりを救えず、鈴羽の想いにも応えられないディストピアが待っているんだよ……」

 俺は複雑な思いでそう呟いた。どれだけ足掻いてもまゆりを救えずに絶望した日々を頭に浮かべると、暗澹たる気持ちが思い起こされるのが禁じ得なかった。
 しかし、この10年間紅莉栖が他の選択肢に考えを巡らせていたことにある意味、感動を覚えていた。
 もし記憶が正常だったとしても、俺はIBN5100を用いたハッキングによる方法以外の選択肢を吟味しただろうか。
 自分や紅莉栖、鈴羽が再構築されるとしても、その方法以外の手段を見つけようと世界に抗っただろうか。
 答えは出ない。
 結局のところこの数日考えても、他の方法は考えつかなかった。そして今、俺は再び逃げるという選択肢を取った。問題を先送りしているだけ。無意味な日々。
 それに比べてこいつは腐らず、すぐに頭を切り替えて解を見つけようとした。その姿勢に素直に賛辞を送ってやりたかった。
 が、それでも──

──未来は変わらない。

「断片なのよ。鈴羽が観測したものは」

 え?

「確かに私やあんたの未来は観測された。でもそれが私の人生のすべてじゃない。鈴羽は私が死ぬまで絶え間なく観察し続けた訳じゃない。そうだろ?」

 得意げな表情と口調でさらりと言ってのける目の前の彼女は──

「私たちがいるこの”今”と、彼女が観測した未来の地点。その間にあるものは、空白」

 2010年で俺を救い出してくれた頼もしい顔つきのままだった。

「そこに付け入る隙がある」

 結果は、変わらない。
 過程は、変えられる。

「それに、いずれSERNでタイムマシンの母となる私は、2010年にはもういなくなるわけだから、SERNにとっては未来ぶち壊しも同然よね!」

 紅莉栖はふんぞりかえり、無性に乱暴な口調でそう言ってのける。

「お前な……」

「ともかく、もう一度よく考えてみて」

「何を今更、考えるというのだ……。答えはもう……」 

「ただひたすら何もせず訪れる悲劇に怯えながら毎日を過ごすのか」

「…………」

「絶望の中、暗闇の中でも一筋の光を求めて、抗い続けるのか」

 一筋の……光……。

「考えて考えて、考えぬいて、真っ白になるまで燃え尽きた上で出した結論なら、もう私は何も言わない。私はあんたの協力がなくても、最後まで諦めないから」

「紅莉栖……」

「じゃ、そういうことなんで失礼するわ」

 そう言い捨て紅莉栖はドアをガチャリと閉めた。乱暴にでもなく、慎重にでもなく、当たり前かのように、ごく自然に。
 コツコツコツと、彼女のヒールの音が遠くなりやがて聞こえなくなった。
 無音の研究室。
 その静謐な空間とは裏腹に、俺の心の中はぐちゃぐちゃに暴れまわっていた。


 息苦しい研究室を出て、大学構内のベンチにて一息つく。
 あのままあそこにいては、いつまた誰かが訪ねてくるのではないか、と不安になり外に出ざるを得なかった。
 今はただ、1人になりたかった。
 考えれば考えるほど出口が無い迷宮に迷い込んだような、そんな感覚に陥る。
 それが嫌で嫌で。
 もはや俺は考えるのをやめていた。
 それを誰かに追及されるのも嫌だった。
 だから逃げた。
 学生の姿はちらほら見かけるが誰もこんな俺には話しかけようともしないし、そもそも話すような仲の学生は限られている。
 俯く顔をあげ、空を見上げながら深く息を吐くと、そこには厚い曇り空が広がっていた。
 一雨……きそうだな。
 そう心の中でぼんやり思っていると本当に細かい雫が鼻の頭を叩いた。
 続けざまにぽつぽつと大粒の雨が降り注ぐ。
 上を見上げ小走りで走り始める学生たちとは逆に、俺はここから動くつもりはなかった。
 すぐに辺りからは人気がなくなる。たまに鞄で頭を雨から守るようにして走る学生が目の前を通るくらいだ。
 まばらだった雨もほんぶりになり、瞬く間に俺の白衣は水を含んでいった。
 体中を貫く水の感じが心地いい。
 ばちばちと周囲を叩きつける雨音に混じってポケベルのブザーがなっている。
 鈴羽だろうか?
 この雨だから、俺が自宅に帰れなくなるんじゃないかって、心配でもしてるだろうか。
 2週間も帰ってないのにな。
 口からくくっと笑いが漏れた。
 俺は一体、何をしているんだろうな。形は違えど、結局逃げているだけだ。これでは2日間を繰り返したあの時と一緒だ。ただただ問題を先送りにしているだけ。
 雨が降り出して、どれほど時間が経っただろう。
 やがて雨の勢いもなくなり、次第に雨も止んできた。叩きつける大粒の雨がなくなったせいで皮膚は空気に敏感になり、少し寒気を感じる。
 このままだと風邪を引いてしまうがどうでもいい。
 いっそ風邪になって苦しんだほうが、悩まなくていいかもしれない。
 その時、わずかに光が差し込み、俺のまぶたをひくつかせた。
 天をあおぐと厚い雲が割れ、そこから幾数もの光の線が降り注いでいた。
 レンブラント光線。エンジェルラダーとも言われる、雲の切れ間から差す光が形成する梯子のような光線。
 俺は手のひらでその光を掴むように手を掲げる。スターダストシェイクハンドと名づけた幼なじみの癖を真似してみた。

ちょっと一旦休憩
お米がなくてご飯が炊けないことに気づいた
失敗した


『お星様に届かないかなー』

 浮かんだのは脳天気な、幼なじみの言葉。笑顔。それらを守りたくて、今この場所にいるのに──
 その気持ちも今、ぐらぐらと揺れている。
 捨てきれない想いがいくつも重なって、秤がぎしぎしと悲鳴をあげている。耐えられなくなって、もう背負いきれない。
 腕をそっと下ろし、再び顔を下に向ける。
 結局俺は何もできない──

「こんなところで、なにしてるのかな?」

「……え?」

 やわらかな声と同時に地面に覆いかぶさる影。

「傘もささないで。びしょびしょだよー?」

 すっと傘が差し出され、俺の頭上を覆う。

「ふっ……もう、雨は止みましたよ」

 椎名さん。
 そう心のなかでつけたした。

「あれー? ホントだ。えへへ、気付かなかったねえ」

 笑いながら傘を折りたたむと、濡れっぱなしのベンチにちょこんと腰を下ろす。

「濡れますよ……」

「岡部くんこそ」

「俺はいいんです。今は濡れたい気分なので」

「悩みでも、あるの? さっきスズちゃんとお話したんだけど……」

 鈴羽と話したのか。
 ということはさっきのポケベルはこの人からだろうか。

「悩みが無い人間なんていないんではないですか?」

「……スズちゃんと紅莉栖ちゃん2人のこと……かな?」

 俺の意思に反して、ぴくり、と俺の指が微動した。
 俺は問には答えなかったが、彼女は自分の中で出したであろう疑問に口にする。

「どっちを選ぶか、で迷ってるのかな?」

 あながち間違いではないが、少し勘違いをしているようだ。
 鋭いような、鋭くないような。
 こういう観察眼は、後の子孫にも引き継がれているのだろうか。まゆりも、変なところで勘がいい所があったからな。

「なんでもいいから、話してごらん?」

 今は懐かしい幼なじみの温もりを含んだ抱擁感で、それでいて慈愛に満ちた口調だった。
 思わずすべてを打ち明けたい衝動に駆られた。 
 俺はたまらず顔を歪めた。零れ落ちそうになる涙を必死にこらえて声をしぼりだした。

「守りたいものが多すぎて、何をどうしたらいいのか、もう……わからないんです」

 すべてを話す訳にはいかない。
 俺たちがタイムトラベラーだということを話すわけにもいかない。
 数年後に生まれるこの人の孫娘が無残に世界に殺されるなんてことは口が裂けてもいうことができない。
 そんな俺にできる、精一杯の言葉だった。
 守りたいもの。俺が望む世界。
 それは──

 まゆりが元気で笑っていて──
 紅莉栖と憎まれ口を叩き合ったり──
 鈴羽と俺たちの子どもが健やかに育つような──
 未来の平和が保証された世界──

 だがもう、すべてを望むことなんてできない。
 何かを得たいと思うのであれば、何かを捨てなければいけない。

「そっかぁ」

 消えるような声で呻く俺に同情するでもなく、叱咤するわけでもなく、ただ頭にポン、と手をおいて。

「みんなみんな、岡部くんに愛されているんだねえ」

「え……?」

「こんなになるまで悩んでもらえるなんて、みんな幸せ者だよー」

 にこにこと笑って、やわらかい口調でのんきに言う。

「…………」

 思ってもいなかったことを言われ一瞬戸惑う。
 何が幸せなものか。命を失うのに。
 存在を否定されるのに。
 想いを達成できない未来が、決定づけられているのに!

「そんな中で1人、幸せじゃない人がいます!」

 腕を組み、ふんぞり返った様子でむすっとして言う。

「岡部くん、君だよ」

 横を見ると頬を膨らませて眉を釣り上げる椎名さんの顔。
 一瞬、言っている意味がわからなかった。

「なに……を」

「岡部くん、君はもっと幸せになるべきだと思うんだよね~」

 今度は真っ向から俺を見据えて優しい笑顔を見せて言った。
 その顔は冗談を言っているような様子には見えない。

「俺が幸せ……そんなの、許されない……」

「許される許されないじゃないの」

 びしっと強い口調。思わずたじろぐ。

「君がみんなの幸せを願っているように、君の幸せを願う人だっているんだから。そんな人達のためにも、君は自分の幸せを、実現させなくちゃ~」

「…………」

 俺が沈黙していると、やがて椎名さんは真っ直ぐ空を見上げて言った。

「何をしたらいいのか、わからない。それなら何もしなくていいんだよ」

「それでは……何も変わらない……」

「時間の流れで変わるものだって、きっとあるよ。誰かのために何かをする気持ちもとっても大事だけど。それとおんなじくらい、自分のために何かをするってのも、大事なんだよ~。だから──」

 優しく、子どもを諭すような口調。でもそれは意外にも心地よくて、穏やかに話す彼女の横顔を眺めていた。やがてこちらを振り向いて言った。

「たまには、自分のために一生懸命になっても、いいと思うな……」

 それはまるで聖母のようで。すべてを慈しむかのような声色だった。

「そしたら、いずれきっと……自分がどうしたいのか、見えてくるんじゃないかな」

 にこにこと。上辺だけの言葉で俺を励まそうとしているわけじゃなく、本当にそうだと信じきったような顔つきで。
 でもそれは見ている者にもそう思わせるような表情だった。
 
「君は途中で諦める人じゃない。たとえ失敗したって、絶対に最後まで諦めたりしない。だから大丈夫だよ」

 大丈夫。なんの根拠もない言葉。けれども不思議と信じられて──
 俺は椎名さんに一言お礼を言い。
 気づけば自宅へと走っていた。 


 約2週間ぶりに自宅の玄関をくぐる。ドアを閉めると薄暗さと静寂に包まれた。
 まるで数年人が住んでない家屋のように感じた。
 鈴羽は、外出しているのだろうか?
 俺はリビングに顔を出し、辺りを見回してみる。
 無音──と思いきやソファ越しにかすかな寝息が発せられているのに気づいた。回りこんで見てみると、鈴羽が体を丸めて眠っていた。俺は寝室から薄めの掛け布団を持ってきて、そっと鈴羽にかける。

「鈴羽……」

 目の前で静かな寝息を立てる鈴羽の頭をそっと撫でる。

「うう……ん……」

 それに反応してわずかに声を上げる鈴羽。
 その数秒後、おもむろに目が開き、虚ろな眼が俺の顔をとらえた。

「あ、あれ……帰ってたん……だ。おかえり……」

 まだ眠そうな目をごしごしとこすりながら上体をゆっくりと起こそうとする鈴羽。

「ああ……。それにしても、こんなところで寝ていると風邪をひくぞ? 今は大事な時期なのだからな」

 ソファから完全に起き上がると、掛けられていた布団が鈴羽の体から滑り落ちる。

「あ、ごめんごめん、掛けてくれたんだ……。ありがと」

 気のせいか。

「ちょっと、体調思わしくなくて休んでたらつい、ね。あはは……」

 あまり顔色が良くない。

「まだきついのか? 体……」

「あーううん、もう大分平気。多分もう少ししたらこんなこともなくなると思うよ、心配いらないよ」

 つわり……だろうか?
 こんな時、どうすればいいのかさっぱり分からず、ただただ黙ることしかできない。

「にしても、2週間も家を空けて放置なんて、罪は重いぞこのー」

「お、おい……」

 肘でぐりぐりとつついてくる。

「罰として今日の晩御飯、君が用意してよねっ」

「そ、それは構わんが……」

 あえて、何をしていたかは聞かず。

「うっし、じゃあ美味しいもの、頼んだよ!」

 明るい笑顔を俺に向けてくれる彼女が愛おしくて。
 俺は溢れる想いを抑えきれず鈴羽を抱きしめる。

「うわっ、ちょっ……」

「…………」

「もう……甘えたいの?」

 この声を聞いているだけで。

「よしよし、いい子だねー」

 この温もりに撫でられているだけで。

「……なんか言ってよ、恥ずかしいじゃん」

 俺の心は満たされる。今はただ、この温かさが雲のように取り巻く空間でじっと幸せを噛み締めていたかった。




 この半年間、俺はできる限り鈴羽のそばにいた。そうしたいと思ったから。未来のことは考えずにただひたすら愛しい人のそばに居続けた。
 そして今、俺は茶色の長椅子の真ん中に腰掛けながら、膝の上に肘を乗せ、組んだ手を顔に当てていた。
 時計の針の音がやけに大きく感じられ、廊下一面に響き渡っている。
 この体勢のまま何時間が経過しただろうか。すでに尻と椅子のカバーの間はじっとりと湿り、組んだ指と指の間からも汗がまとわりついていた。
 が、不思議と不快感はない。あるのは期待と焦りが入り混じったような感情だった。その状態での数時間は、俺にとって何日もの時間に感じられた。
 時間は絶対的ではない。そのことは相対性理論からも証明されている。

ポトリ

 顎から汗が滴り落ちた。手のひらで自分の顔を拭うとベタリとした感触とともに、続けて汗がぽたぽたと落ちた。
 ふと──
 もう汗は拭ったはずなのに、床に落ちる雫が続いていて。
 自分が涙を流していることに気づいた。

ポタポタ

 なぜだろう。とても胸が熱くて止まらない。
 にじみ出る嗚咽を堪えていると、少し離れた分娩室から、一定のリズムで発せられる音色が響き渡ってくる。その音色は徐々に力強いものになっていき、俺の心臓を震わせる。

「…………っ」

 俺はたまらず立ち上がり、かけ出した。
 するとたちまち看護師から静止された。
 「落ち着いて」だの「もう少しお待ちください」だの、俺の耳に入ってくるのはそんなお決まりのセリフばかり。
 こういう時、すぐに立ち会わせてくれるものではなかったのか?
 その時俺はどんな顔をしていたのだろうか。
 そんなことはどうでもよかった。今はただ、その先にある光景を目にしたかったのだ。
 約20分後、通された部屋に足を踏み入れるとそこには──

「あ……。ほらほら、見て」

 純白のベッドに横になっている母と、その腕に抱かれる赤ん坊がいた。
 血の気が無くなった頬に汗に濡れた髪を張り付かせながら、優しげに微笑む鈴羽。
 目を細めながら慈愛に満ちた眼差しを我が子に向けている。
 なにか声をかけようとするものの、喉からは空気が漏れるばかりで一向に言葉が出てこなかった。
 そんな俺を見かねてか、苦笑いを浮かべつつも鈴羽が言う。

「ほら、抱っこしてみる?」

「お、おう……」

 鈴羽の手から離れ、看護師にそっと差し出された赤ん坊を、言われるがままおそるおそる腕の中に収める。
 こんなに小さな存在なのに、ずっしりとした重みが腕にかかった。

「ちゃんと頭も支えなきゃだめだよ?」

「お、重いな……意外に……」

「あはは……ビビり過ぎ」

 力なく笑いつつ戸惑いを隠せない俺にくすくすと笑う。
 くっ、腕が震える……。
 すると俺の不安を感じ取ったかのように赤ん坊が顔を歪ませ──

オギャアオギャア

 火が付いたように泣き始めた。

「あ、お、おい! な、泣くな! ほら、いい子だから」

 懸命に揺らしてあやしてみるも効果なし。狭い室内で俺の慌てふためく声と、赤ん坊の泣き声が交錯していた。そんな騒がしい空間に、優しい声で「あらら、もう……ほら、貸して」と鈴羽が言う。

「あ、ああ……」

 どうしようもなくなり、俺は鈴羽へと託す。
 腕を這わせるように慎重にゆっくりと我が子を鈴羽の腕の中に返した。

「ほーら、よしよし。母さんだよー」

 そう言って優しく声をかけてやると、不思議なもので火に水をかけたように赤ん坊が泣き止んだ。
 やはり母親の存在というものは大きいのだろう。


──母と子。

 ついさっきまで、1つの存在だった者たち。それが一旦、切り離され、別の存在として再び触れ合っている。
 まるでその腕の中が母親のお腹の中かと思うくらいに、穏やかな顔つきで目をつむっている我が子。
 綺麗だった。
 そこだけが別の空間として切り離されてるかのように明るく。
 そこだけが別の世界として成り立っているかのように美しく。

──輝いていた。

 この輝きを失わせてはいけない。
 この世界をなかったことにしてはいけない。
 そして俺は決意を──胸に。

「ちょ、ちょっと、なに泣いてるのさ」

「いやなに、少し物思いに耽っていたのだ。問題ない、作戦は継続中だ」

「またそれー? 最近全然見ないかと思ったら」

「ああ、ヤツには伝えてくれ。待たせたな、と」

 戦うために──前を向く。
 守りたいものを、守るため──



Chapter3 END

今日はここまで
次回は時間が空いて15日か16日更新の予定です

Chapter4



 真っ暗闇の中、自宅の扉をそっと開け、音を立てないように慎重に閉める。
 寝ているだろうと思っていたが、しんと静まり返った奥の部屋からはかすかに明かりが漏れていた。
 注意深く足を擦るように歩を進めると、フローリングの床からわずかにぎぃぎぃと軋みを上げた。
 すると部屋で起きていた彼女が振り向き眠そうな目を向けて言った。

「あ、おかえりー」

「ただいま、まだ……起きてたのか」

「うん、ちょっと夜泣きがね」

「今は……よく寝ているようだな。鈴羽ももう休め、疲れているのではないか?」

 今はすやすやと眠っている我が子を眺めながら声を抑えて言う。
 目線を鈴羽に戻すと彼女はかすかに笑みを浮かべて言った。

「でも、もうちょっとしたらまた起きだしちゃうかもしれないし、見とかなきゃ」

 できるだけ、疲れを見せまいと精一杯笑っている、そんな気がした。

「すまないな、大変な時期に中々そばに居てやれなくて……」

 この子が生まれてからやがて1年──
 俺は大学で、いまだ例の研究に没頭していた。そう、タイムトラベル研究だ。
 けれど目的は違う。興味本位で研究していたあの頃とは全く違っていた。

「まったくだよー。大事な我が子と妻を置き去りにして毎日研究研究。この子が大きくなったらうんと羽伸ばさせてもらわないとね!」

 頬をふくらませながらもおどけたような口調で責める。冗談交じりなのだが本気の部分も多少ありそうだ。

「ああ、その時はこの俺が最高のもてなしをしてやろう」

「期待してるよ」

 とその時──
 あううう、と口を歪ませながら、次の瞬間にはその声が甲高い泣き声へと変えていた。

「う、うおお……起こしてしまったか……?」

 おそるおそる尋ねる。まずいことをしてしまった。

「ううん、いつもこんな感じだから。はーい、母さんだよー、よしよーし」

 火が付いたように泣き続ける我が子を抱きかかえながらなだめる鈴羽。
 その様子はかなり手馴れていた。1年という長い時間が母として成長させたのだろう。

「おしっこかなー? おっぱいかなー?」

 その姿を眺めながら俺の心の中では申し訳ない気持ちが張り裂けそうに膨れ上がっていた。
 赤ん坊のことは鈴羽に任せっきりでほとんどなんの手助けもしてやれない。講義やゼミにもほとんど力を入れられず学生からはもはや呆れとも言える声が届いているようだ。タイムトラベル研究に関しても全くと言っていいほど成果は得られていない。
 全てが中途半端だ。
 何か俺にできることはないのか?
 紅莉栖の言うように、大人しく鈴羽のそばにいて支えになってやるのが一番ではないのか?
 くそ、だめだな。また考えが堂々巡りになっている。

「どしたの? 疲れてる?」

「え?」

 いつの間にか深く考え込んでしまっていたようで、鈴羽が顔を覗き込むようにしてこちらを見上げていた。

「あ、ああ……。まあ、少し寝不足なだけだ」

「へへ、じゃあお互い様だね」

 そういって屈託のない笑顔を向ける。あくまで疲れは見せない。その表情を見て俺はまた、深く考えこむ。
 俺に一体、何ができるというのだ?




 翌日、大学の研究室にて。

「───教授!」

「──助教授!」

「宮野助教授!」

 はっ!

「お、おお?」

 気づけば名前を呼ばれていた。最近はこうしてぼんやりすることが多い。

「まったく、しっかりして頂きたいものですな」

 偉ぶった口調で俺を戒めるのは牧瀬章一。後ドクター中鉢である。

「で──なんの話だった……か」

 ううむ、全く覚えていない。というか知覚すらしていない。

「僕らもそろそろ卒業です。このひねくれ者にどこか良い企業を紹介してくだされば、と思って──」と幸高が話すが、それを遮って章一がまくし立てる。

「ええい! 私はどこの組織にも属さん! 個人でタイムマシン研究を行っていくと言ったであろう!」

「そんなこと言ったって1人じゃ限界があるだろ。資金の問題だってある。一般企業に入って知識や技術を蓄えるのも手だ」

「ふん、社会の歯車になることなど選ぶものか。それにタイムトラベルを研究している企業などありはせんだろう!」

「そりゃあ、そうだけど……」

「そうら言ったことか!」

「だがこのままだと無職のままだぞ?」

「う、うるさい!」

 世は1989年になって早一月が過ぎた。後2ヶ月もすると卒業の彼らである。章一のように進路が決まっていない方が珍しいだろう。
 今や日本はバブル景気に差し掛かっている。
 景気はうなぎのぼり、日本中がその熱に浮かれ、昼夜問わず騒ぎ立てた時代だ。
 後1年もしないうちに日経平均株価は最高値をマークするだろう。そしてそれがずっと続くと人々は夢見ている。
 もっとも、90年代前半でその夢も泡と消えるのだが。
 そんな上向きの景気もあってか、企業は人材を確保しようと必死だった。1人の学生に何社も内定が出るのは当たり前で、企業説明会にいけば一万円支給だの、研修と称して国内はもちろん、海外旅行にも連れて行った時代だ。
 無論、この時期まで就職先が決まっていない学生でも、企業の受け入れ体制は万全だ。それを見越してぎりぎりまで決めずにいる学生すら居る。
 だから彼のようにあえて卒業後の就職先を決めようとしない学生はほんの一握りなのである。
 それもそのはずだ。
 彼のやりたい仕事とは、タイムマシン研究なのだから。そんなことを公にやっている企業などあるはずがない。

「それより、そういうお前はどうなのだ、幸高!」

 そういって指を幸高の方に向け、攻め立てる章一。

「僕かい? 僕はもう決めているよ」

「な、なにっ!?」

 意外、というほどでもないが、これまで志を同じくしてタイムトラベル研究を行ってきた彼はあっさりと進路先を決めていたようである。どういう道を選んだのかが気になって尋ねてみた。

「幸高はどうするのだ?」

「会社を起こそうと思っています」

 さらりと言ってのける。口ぶりに反して内容は随分と挑戦的である。

「ほう……」

「な、起業だと? 学生の分際で!」

「お前だって学生じゃないか」

「で、何をするつもりなのだ?」

 起業、と一言で言っても事業内容なしには語れない。

「まだはっきりとは決まっていないんですが、いずれは東京の都市開発に携われるような大きな会社にしたいですね」

「ずいぶんとまた、漠然としている上に、敷居が高いな……」

「ええ、それだけにやりがいもきっとあると思います。軌道に乗るまでは秋葉で細々と電子部品や企業向けOA機器などを扱って販売しようかと……」

 まあきっと抜かりのない彼のことだから、ちゃんと達成するだろうが。
 現に2010年においては秋葉の都市開発に深く関係していたはずだ。
 だがそんな幸高に対して、章一は憤慨といった様子だ。

「く、貴様1人だけ抜け駆けなど許さんぞ幸高! 貴様と私は一蓮托生なのだからな!」

「抜け駆けなんてするつもりはないさ」

「タイムマシン研究はどうする! 会社運営などに現を抜かしておっては研究がおろそかになるではないか!」

 友人に先を行かれたことがよっぽど気に食わなかったのか、顔を真赤にして怒鳴り立てる章一。いくら説得しようと、幸高は考えを覆さないだろう。それは歴史からも明らか。

「僕にもともと研究者としての才能は備わってなかったみたいだよ。正直、2人の話についていくのがやっとだ。自ら理論を創造なんて向いていないんだろうね」

 深くため息をつきながら弱音を吐く幸高、彼にしては珍しい口ぶりだ。

「貴様……諦めるというのか!」

 章一が立ち上がって大声で責め立てると、それにたじろぐ様子も見せずに幸高は言った。

「だから、研究は章一に任せる。僕は資金面でサポートをするつもりさ」

「な!? 幸高、お前……」

 途端に章一の顔色が変わる。今までの怒りが雲散していくようだ。

「不満かい?」

「ふ、不満などはありはしない……。資金提供についてはありがたく受けよう……がしかし、金で夢を買おうなどという魂胆は賞賛するには値しない……な」

「また始まったよ。素直になればいいのに。これもビジネスさ」

「うるさい! 金で夢を買うなど、ロマンのかけらもないといっているのだ!」

「失敬な、ビジネスも夢とロマンに溢れているんだぞ?」

 夢──か。
 俺にはこの2人が輝いて見えた。
 ただ未来に向かって夢を見て、それを実現させようとひたすら前を見て歩いている。
 俺はどうだろうか。
 前は向いているかもしれない。
 しかしそこから一歩踏み出すことをまだ恐れているんじゃないか?
 どの道が正しい未来へと続いているか、分からず、ただ足踏みをしている状態なんじゃないか?

「宮野助教授? どうされたんです?」

 章一が俺の変化に気づいたようで訊いてきた。俺は素直な気持ちを伝えた。

「いやなに、少々2人がうらやましくなって、な……」

 すると2人は顔を見合わせて、やがて幸高が言った。

「何を言っているんです。僕ら2人とも、あなたが羨ましくて自分の道を選んだんですよ」

「え?」

「自分のやりたいことだけを見つめていて、それに夢中になっている。そんなあなたの姿に惹かれたんです。って少しクサいですかね、はは」

「俺の……やりたいこと……」

 それはタイムマシン研究のことだ。
 もちろん、大学に研究者として雇われている上、多少はやらねばいけないことに専念しなくてはいけない時もあった。
 けれども、タイムマシンという2人にとって夢あふれる研究に周りの目を気にとめずに打ち込む俺の姿が──やりたいことをやっている姿がきっと彼らにとっては輝いて見えたのだろう。
 今の2人のように──
 俺はふっと鼻を鳴らして笑った。
 どうやら俺は大学の研究以上に、2人に色々と残してやれたようだ。

「宮野助教授?」

 俺は色々な人に助けられている。
 紅莉栖は絶望の中で希望を見出すためにもがくという手段を見せてくれた。
 椎名さんは俺に、自分のために一生懸命になれ、と言ってくれた。
 鈴羽は俺に安らかな時間と、守りたいものを与えてくれた。
 そして今、一回りも年下の2人の学生にも教えられた。
 やりたいことを、すればいい。抱いてきた夢を追えばいい──と。

「くくっ……」

「ちょっとクサすぎましたかね……」

「いやなに、久々にハマった気分になってな。ここまで気分爽快なのは久々だ」

 俺は心のなかで言った。
 ああ、そうだとも。この俺は狂気のマッドサイエンティスト!
 まゆり、お前はどこにもいかせない。この俺の人質なのだからな。
 我が助手を勝手に世界に殺されるようではマッドサイエンティストの名が泣く。
 鳳凰院凶真の貴重な遺伝子を継ぐ存在は、世界に残していかねばならん。
 そして──
 未来は300人委員会などという一部の特権階級の支配されるなど、もってのほか!
 この俺が──この俺こそが変革をもたらすのだ。
 独善的と言われようとも構わん!
 必ずやタイムマシンを完成させ、自らの望む世界を作り上げてみせよう!

「フハハハ!」

「宮野助教授!?」

「何か悪いものでも食べたんでしょうか……」

「くくっ、33にもなって何をやっているんだろうな、俺は!」

「自分の世界に入ってるな」

「ああ……」

 学生2人は俺を訝しげな目で見つめて何か言っている。だがそんなことは関係ない。
 体に力がみなぎってくる。歯車がカチッと噛み合った気分だ。

「秋葉幸高ぁっ!」

「は、はい!」

「貴様の起業、この俺がサポートしてやる!」

「え? 本当ですか?」

「無論だ! 時の支配者であるこの俺の助言を聞き入れれば貴様の会社は、これから没落していく日本企業の中で繁栄をしていくだろう! まずは俺が所有する土地のいくつかを管理を任せよう」

「そして牧瀬章一ぃっ!」

「むむっ!」

「貴様には、この俺に付き合ってもらう、嫌だと言ってもな!」

「そ、それではタイムマシン──」

「そうだ!」

 俺が食い気味に叫ぶと章一の顔がぱぁと明るくなる。

「近い将来、人間の経済活動は遮断され、科学技術も一部の特権階級のものたちに独占される日が来る!」

「やっ、やはり連中は企んでいるわけですね!」

「その通り!」

「やれやれ、また始まったよ……」

 そんな俺達を見て幸高が半ば呆れ混じりの様子で肩をすくめた。でも不思議と不快なものが混じった様子はなく、むしろ晴々しい思いを顔に浮かべていた。

「表面上は平和そのものだが、人々の生活レベルは極限まで落とされ、世界人間牧場計画が遂行されるのだっ!」

「耳にしたことのない陰謀ですな……。しかし許しがたい計画だ!」

「そう、未来を統べるのは我々だからだ!」

「仰るとおりです! この我らこそがっ──」

「フゥーハハハハ!!」

「…………っ」

 俺の高らかな笑い声に遮られて章一が口をぱくぱくさせている。

「やっぱり、何かタガが外れちゃったみたいだよ章一」

「うぬぬ、こんな助教授は久々だ……実に鬱陶しい……だが──」

「この方が、らしいな」

 この後、高笑いを続ける俺に大学の職員が苦情を言いに来たのは内緒の話である。




 その夜、家に帰ると我が子を抱きかかえた鈴羽が玄関まで迎えてくれた。ぱたぱたとスリッパを鳴らして弾むような歩調で近づいてくる。

「おっかえりー」

「ただいま帰宅した。鈴羽よ。首尾はどうだ」

「守備? 攻撃なんてされてないよ?」

「その守備ではないわ! 様子はどうだ、と聞いているのだ!」

 と、抱えられた我が子をちらり。よく眠っているようだ。目をつむって穏やかな様子で寝入っている。

「ああ、今日はよく寝てるよー、すっごくお利口」

「ふ、なにせこの俺の血を引いているからな。すでにマッドサイエンティストのとしての素質に目覚めている」

「あっはは、眠ってるけどね」

 鈴羽のそのにこやかに笑う様子はいつもより明るい印象を受けた。俺はさりげなく尋ねてみる。

「何か嬉しいことでもあったのか? 顔ににじみ出ているぞ?」

「えへへ、ちょっとねーっていうか君こそ、なんかご機嫌じゃない? なんかあった?」

 狂気のオーラが溢れ出ていたのだろうか。逆に質問されてしまった。

「うむ……。って質問に質問で返すなっ。爆殺されても知らんぞ」

「ええー? それはやだなー」

 眉間に皺を寄せる鈴羽。基本的に鈴羽はこういった冗談が通じない天然だ。もっとも怒らせると俺以上の狂気のオーラをまとうので迂闊にいじることができない。
 だが長い付き合いの末、どこまでならいけるかといった許容範囲を把握することができていた。

「大方、この俺の帰宅が早くて嬉しいのだろう、うんうん。その素直に感情を表せるところは賛辞の言葉を送ってもいい──」

「そうじゃなくてー」

ガクッ

 おのれ、この俺の華麗なジョークをスルーしおって。

「なんとー、紅莉栖が近々日本に拠点を移すんだってー」

「なにっ? 助手が?」

「前から思ってたけど、その助手ってなんなの? 所属研究所は別だから、助手でもなんでもないじゃん」

「奴は生まれる前からこの俺の助手なのだっ」

「ふーん」

「で、本当なのか? 日本に帰ってくるというのは……」

「嘘言ってどーすんのさー」

「そ、そうか……。研究の成果が、出た……のか?」

「なんの研究してんの? あたしが聞いても難しくてよくわかんないんだよねー」

「え? あ、ああ……いや、俺も詳しくは知らない……。脳科学者だからな、奴は。大方人の頭を開いて直に脳をいじくり回しているんだろう」

「うげー……っていうかこの子の前で変なこと言わないでよー」

「寝ているだろうがっ! っていうか、まだ言葉わからんだろっ! そもそもお前が聞いたんではないか!」

「あーはいはい、パパはこわいでちゅねー」

 寝ている赤ん坊にそうささやくと、鈴羽は部屋の奥へと行ってしまった。

「お、おのれ……この俺に牙を剥くとは……」

 だがこの感じは悪くない。久々に心が踊っている。
 さて、クリスティーナはどんな研究結果を持ってくるのだろうか。
 それはある意味楽しみであり、恐くもあり、いい刺激だった。


 数日後、クリスティーナが大きな荷物を持って俺達の自宅を訪ねてきた。
 移住先はまだ決めておらず、しばらくは御茶ノ水のホテル住まいになるそうだ。

「ふー、やっぱり日本は人が多いわねー。どこ行っても人、人、人の波」

「日本へおかえりー、紅莉栖」

 お盆に3つの湯のみを乗せてやってきた鈴羽は、言いながらその1つを紅莉栖の目の前に置いた。
 差し出された湯のみを両手で持つと、紅莉栖は音を立ててお茶をすすった。

「サンクス、はー。熱いお茶が喉に染みるわー」

「ふん。いきなりババ臭いことを」

「なっ、べ、別にいいじゃない!」

「鈴羽、俺はドクペをもらおう」

「そんな甘いモノばっか飲んでると糖尿病になるよー? はい、君もお茶で我慢我慢」

 そっと差し出されるお茶の入った湯のみ。茶柱が立っている。
 じゃなくて。

「なっ!? この俺に知的飲料を我慢しろと? 糖尿病? 望むところだ!」

「いやいや、望むなよ……」

「だめだめ。君ももう30代なんだから、少しは健康に気を使いなよ」

「健康を気遣うマッドサイエンティストがどこにいる──」

「ねえねえそれより、顔見せてよ。マッドサイエンティストの子孫」

 と俺の話を遮って紅莉栖が切り出してくる。テーブルに肘をつきながら得意げな顔をしている。

「ふっ、ついにこの俺をマッドサイエンティストと認めたか」

「皮肉で言ったんだが……」

 呆れ顔に変化させた紅莉栖の言葉を無視して俺は大げさに手をかざしながら言う。

「でぇはっ、ついてくるがいい!」

「もう、そんな大声出すとまた起きちゃうよー?」

 鈴羽に諌められながらも俺は、寝室へと助手を連れて行く。
 木製のベビーベッドに寝かされている我が子を取り囲むように覗きこむ3人。
 その姿を見るなり紅莉栖は感嘆の声を上げながらまじまじと見つめた。

「へ~! かわいいじゃない。ふふ、よく眠ってる」

「今はね。でも夜中になると夜泣きが酷くてねー。お陰で寝不足だよ」

「まあ、赤ん坊だから、仕方ないわよね」と、微笑みながら紅莉栖が言う。

「そそ、いきなり火が付いたように泣き出しちゃうからねー、困ったもんだよー」

「お母さんにかまってほしいのね」

「あはは、そうなのかな?」

「さすが我がマッドサイエンティストの血を引く者だ。生まれたてにして人を混乱に陥れるとは、将来に期待せざるを得ないな」

「だとするとあんたもお母さん──つまるところ鈴羽に甘えたいってっていうことになるわけだが」

 ジト目でほくそ笑みながら言う紅莉栖。

「なっ!」

 そんな紅莉栖の言葉に鈴羽が反応する。

「そうそう、たまーに甘えん坊になるんだよねー」

「お、おい! 何を言っている! 口を慎め!」

「ちょっとー、大声出すと起きちゃうってばー」

「うっ……」

 つい声を荒らげてしまう。冬だというのに顔のあたりが妙にほかほかと熱い。
 だがそんな恥ずかしさもこいつの妙な一言で冷静になる。

「うわー、壮大なのろけを聞いてしまったー。リア充爆発しろ」

 あいも変わらず@ちゃん用語を使い続けていた。恐らくは魂レベルにまで刻まれているのだろう。

「後10年もしたらあの掲示板も開設される。それまでそのような発言は控えるのだな。我が子の発育にもよくない」

「う、うっさい!」

 と紅莉栖が顔を真赤にして大声をあげたその時。
 その声に反応して起きてしまったようで、赤ん坊の泣き声が部屋中に鳴り響いた。

「わ、これは強烈ね……」

「く、それみたことか……」

「あんたが焚き付けたようなもんじゃない」

「俺は貴様の@ちゃん語を差し控えるようにだな!」

「あーはいはい、もうやめやめ。はーい、母さんはここにいるよー」

 そう言って鈴羽は赤ん坊を抱き上げ、ゆりかごのように揺らしていく。
 すると不思議なもので、悲鳴のように続いていた泣き声が徐々に止んでいった。
 相変わらず魔法のようだ。

「へー、すごい。もう立派に母親やってるのね」

「まあねー」

 そう言って鈴羽と言葉を交わす紅莉栖の眼差しは優しげであり、どこか淋しげでもあった。
 再び赤ん坊が眠りについた後、鈴羽は夕食の買い物があるから、と言って1人出かけていった。
 俺も一緒に着いて行くと提案したが、客人と赤ん坊を残すわけにはいかない、と言うわけで留守を任される。
 部屋には眠った赤ん坊、そして俺と紅莉栖が残された。
 俺たちは静かになった赤ん坊を一瞥すると互いにみやり、頷いて部屋を移した。
 互いにテーブルへ隔ててソファに腰を下ろし、紅莉栖が話を切り出すのを待つ。
 しかし、待てど暮らせど沈黙を続けたままの紅莉栖。俺はとうとうしびれを切らして尋ねた。

「で、進捗状況はどうなっている。日本に拠点を移すということは、ある程度研究の成果が出たのであろう?」

「…………」

 俺の問には答えず、紅莉栖は口をつぐんだままだ。

「おい、何か言ったらどうなのだ」

「端的にいうと……」

 追撃する俺に対し、少し食い気味に言うが、続きの言葉が出てこないようだ。
 俺は急かさず、じっと待った。

「正直な話、研究は限界を迎えてきている」

 限界……。その言葉が意味することは、紅莉栖のしてきたことが無駄に終わるということ。
 つまり、まゆりを助けるための手段は確立されていないことを意味する。

「人々の意識の所在。魂の存在。2010年でもその存在が証明できないように、やっぱりなんの手がかりも掴めないまま。数年間費やせば、少しくらい解に近づけるかもって思ったんだけど……」

 紅莉栖は深くため息をつく。心底残念といった様子で続ける。

「ある仮説を立てて、それを元に実験と検証をしても、結局空振りに終わるだけだったわ。もう、お手上げ状態」

「そうか……ご苦労だった。」

 落胆の色を見せぬよう、できるだけ落ち着きを見せて言ってみせる。

「怒らないの?」

 以前の俺ならばここで激昂し、紅莉栖を責めていたかもしれない。
 もしくは絶望に似た感情が支配し、目の前が真っ暗になっていたかもしれない。

「ふっ、怒りに身を任せて何になるというのだ」

 俺は肩をすくめて、わざと尊大な態度で言い捨てた。

「あんたも、変わったわね……。いや、あの頃に戻った、って言ったほうがいいか」

 世界線を変えるためにタイムマシン研究に尽力してきたとはいえ、紅莉栖の研究に期待をしていなかったわけではなかったから、今回の話を聞いて多少の気落ちはしている。
 がしかし──

「ふん、この俺鳳凰院凶真は諦めたりはしない。たとえ失敗しても不死鳥のように蘇るのだ」

 久々にこいつ相手に鳳凰院凶真を出してみた。
 もう違和感はない。

「それに、お前とて諦めたわけではあるまい? 日本に来たということは大方、この俺の力を借りに来たというところか。この俺のために身を粉にして働くというのであれば本当に助手にしてやらんでもないぞ?」

 こいつの頭脳があればタイムトラベル研究は今よりもずっと進むに違いない。俺は共同で研究するよう誘ってみた。

「残念だけど、日本に来たのはあんたに協力してタイムマシンを作り上げるためじゃないわ」

「なに?」

 思わず聞き返していた。
 ならばどうするというのだ?
 紅莉栖の研究が頓挫した今、タイムトラベル研究以外でに他に選択肢があるはずもない。
 だとすると俺に泣いて頼みこむのが嫌なのか? く、わがままでプライドの高いヤツめ。

「いやいや強がらなくても──」

「今の研究チームの研究員から、とある誘いがあったの」

「とある、誘い?」

「その研究員はEMBIにも所属してるんだけど、そのEMBIの部門の1つが日本の企業にある研究を委託するっていう話があったみたいなの。そこで研究員として力を貸してくれないか、って」

「EMBI?」

 聞き慣れない単語が出てきて思わず聞き返す。口ぶりから察するにどこかの研究機関だろうか。

「EMBI──European Molecular Biology Instituteの略称で、日本語にすると欧州分子生物学研究所と訳されるドイツのハイデルベルクにある分子生物学の研究施設よ」

「ほう……? しかし、なぜ日本の企業に研究を委託など……」

「知っての通り、今の日本はバブル期まっただ中にある。それを見越して日本の企業に多額の資金を注入してもらって研究を推し進めようっていう腹積もりらしいわ。研究には、優秀な研究員と潤沢な資金、この2つが不可欠だから」

「確かに今の日本企業は、見込みの薄い研究にすら多額の投資するのに躊躇がないからな」

「むしろ税金対策としても優秀な手段なのよ、投資は」

 ううむ。金と権力が渦巻いてそうな話だ。

「そういう理由で日本の企業に白羽の矢が立ったみたいだけど、研究自体は、EMBIの研究員がごっそり引きぬかれて引き継ぐらしいわ」

「つまり、拠点だけ移して潤沢な資金を得ようという魂胆か。黒い、実に黒いな、陰謀の臭がする」

「それだけじゃない。研究の内容というのが──」

 紅莉栖は大きく息を吸い、わずかに逡巡する。やがて口を開いたかと思ったら──

「──不老不死の実現なのよ」

「なっ……」

 紅莉栖の口からはおよそ信じられないような言葉が出てきた。

「不老不死……だと……?」

「と言っても、フィクションにあるような完全な不老不死じゃない。色々アプローチの仕方はあるみたいね」

「というと?」

「倫理的に問題は山積みだけれど、クローン技術」

「クローン……か」

「それと、仮死状態移行に基づく擬似的不老状態。擬似的タイムトラベルとも言えるわね」

「仮死状態……いわゆるコールドスリープ的なやつか」

「そう」

 中々に荒唐無稽な話だ。
 しかし、不老不死よりもまだ実現可能性はありそうな気がする。
 実際にタイムマシンという、実現不可能と言われていた発明もした俺たちからすれば、幾分かマシな話かもしれない。
 事実、ドリーという羊が哺乳類での世界初の体細胞クローン体としてこの世に生まれるのもあと数年後に迫っている。

「受けるのか? その話……」

「今のところ、受けようと思っている……」

「そうか……。ならばまゆりを救うための手段については、今後俺1人で考えねばなるまい」

「え?」

「元々お前1人に押し付けるのもお門違いな話だったしな、今後はお前の好きなように研究するがいい」

 懐の広いところを見せる。やりたいように生きるのもまた、人生。
 それを咎めるようなことはしない。そう教えてくれた人がいるから。

「ストーップ!!」

「お、おお?」

 なぜかすごい形相で諌められる。

「私がいつそんな話をした?」

「いつって……今回の誘いを受けるのであれば、今行っているお前が研究は中止になるのでは……」

 それはつまり、まゆりを助けることを諦めたことになる。
 タイムトラベル研究に手を貸さずに今回の話に乗るというのであれば、それはもはや紅莉栖はまゆり救出の選択について与しないことになる。

「私は諦めたつもりはない!」

「いや、しかし……」

「まゆりを救う可能性につながるから、この話をもってきたのよ!」

「助ける……可能性につながる……?」

「考えてみて。例えば、クローン技術に関して言うなら……」

「まさか……」

「倫理的に、そして人間的感情に委ねるなら、あまり言いたくはないけど……」

 俺は紅莉栖の言いたいことを察する。
 要はまゆりの生体細胞用いてクローン体を作り、擬似的にまゆりを生かすということ。
 だがそれは──あまりにも無慈悲ではないか……。
 結局オリジナルのまゆりは死ぬ。それは揺るぎない。

「だめだ! そんなことはできない!」

「仮死状態に関して言えば……」

 仮死状態なら……。
 8月13日、襲いかかる運命の時間までにまゆりを仮死状態に移行させておき、しかるべき時が来た際、仮死状態を解く。
 そうすれば、まゆりはそれ以降も生き続けることができる。理屈で言うなら可能性はある。

「だが……そんな博打のようなこと……」

「でも、可能性が0というわけじゃない。だったら、その可能性に賭けてみるのも1つの手をよ」

「しかし……世界に死が約束されている以上、仮死状態から復帰せず、事実上の死を迎える可能性のほうが高い」

「それは私も考えた。でもね岡部……」

 紅莉栖はこちらをまっすぐ見据えて言う。

「たとえ0に近い可能性だとしても、0でない限りは切り捨てるべきではない。0でないのなら、その可能性に賭けて、足掻いて足掻いて、そして解を導き出すのよ」

 真摯な顔つきで俺を見つめるその表情は、いくら時間を積み重ねてもやはりあの頃のままで。
 根は真面目すぎるほど真面目で。実験大好きっ子で。
 そして、諦めの悪い、根っからの科学者だった。

「……分かっているさ。俺とて、諦めるわけにはいかんからな」

「それに、何がきっかけになって解が導かれるかわからないしね。ともかく、私も最後まで足掻いてみせるから」

「ああ……」

 そう互いに約束し、話は終わった。




 1989年冬、タイムトラベルを敢行して実に14年もの歳月が流れていた。
 紅莉栖が不老不死の研究に掛かりっきりなってから約半年。
 たまに訪れる紅莉栖の話によると、どうやら研究はいくつかのセクションに分けられているらしい。最終的な全体の目標としては不老不死の実現であるが、そこから細かく分けて、アプローチの方法──つまりはクローン技術。コールドスリープ技術など──が枝分かれしていく。分かれた先で遺伝学、生物学、生物細胞学などそれぞれの分野の科学者が共同に研究を行うというわけだ。
 定期的に各セクションの研究の進捗具合も報告し合うこともあり、研究の情報共有はされているようだが、研究員がセクションを跨いで別のセクションに口出しすることは基本的にはないらしい。
 紅莉栖は脳科学の専門研究員としてとあるセクションに配属された。
 そのセクションとは、記憶及び意識のデジタルデータ化と、それに伴った専用ハードへの移植技術の研究である。
 簡単にいえば、人間の人格をまるごと専用のハード──例えば機械──にまるごと移植してしまおうという意図だ。老いることのない機械の体と脳を持っていればそれこそ不老であり、また、コピーが容易にできようになるのであれば、不死。文字通り不老不死である。
 まさにSFの世界だ。現時点での実現可能性は低いだろう。
 しかし、紅莉栖は元々2010年において、記憶のデータ化に成功している。
 意識もそれに追随するように、過去へと送られた。
 それはタイムリープマシンを使用したことのある俺からしてみれば明らか。
 その問題はすでにクリアされたも同然だ。
 後はハード面。入れ物の問題である。
 当然人間の脳は複雑で、記憶と意識がコピーされたからといって、正しく機能するとは限らない。それを入れる器も複雑になるだろう。
 やれやれ、研究は難航しそうだな……。
 しかし、EMBIは不老不死を本当に実現させたとして、どうするつもりだ?
 倫理的な問題は山ほどある。
 特にヒトのクローン技術においては、世界各国で倫理的な問題故に、後に規制する法案が整備され始める。この研究に手を付けた人間──誰だか知らないが──もそれが分からない訳ではないだろう。
 人の人格のデータ化にしてもそうだ。人格を機械に移すということは、機械に魂を与えることと同義。欧米では宗教観からか、そういった研究には否定的なところがあると聞いたことがある。
 逆に日本では昔から物にも魂が宿るとされてきた。故に日本で研究すれば問題をクリアできると?
 あまりにも短絡的な気もする。
 ともかく、EMBIの研究に関しては紅莉栖に任せるしかない。
 俺は世界線を変えるためのタイムトラベル研究を行うまでだ。




 がちゃりという扉が閉まる音が静かな部屋の奥に消えていく。

「ふぅー……」

 自宅へ戻ると我が子を抱きかかえた鈴羽が出迎えてくれる。日に日に大きくなる我が子を見て思わず頬を緩める。

「おかえり、遅かったねー」

「ああ、ただいま。まあ、研究漬けだからな。しかし研究室にこもりっぱなしという紅莉栖よりはマシだ」

「紅莉栖は今日も泊まりなのかな? 大変だねえ」

 着ていた上着をハンガーにかけ、身軽な服へと着替えると俺はソファへと身を預けた。
 テレビのリモコンを操作し、電源を付ける。
 ブラウン管の中でレポーターが興奮した様子でしゃべっている。その次に映されたのは、壁。
 その壁が今人に埋め尽くされ、ドリルやツルハシで壊されている。

──ベルリンの壁。

 西ベルリンと東ベルリンを分かつ、東西冷戦の象徴でもある巨大な壁が28年の役目を終え、取り壊されようとしていた。
 この歴史的大事件を転換に、民主化の波が東ヨーロッパに波及する。
 東西冷戦の終結、そして共産主義の元祖であるソビエト連邦の解体……。

──1991年のソ連解体。

 鈴羽は言っていた。1991年は大分岐の年である──と。
 大分岐──仮定の話をするとして、1991年と2000年の大分岐で別の世界線がアクティブになったらどのような世界線になるのだろう。
 ソ連が解体されることがない世界線──
 2000年問題が実際に起こる世界線──
 想像もつかない。
 テレビに映るのは歓喜に満ち溢れる東ベルリンの市民。自由を勝ち取ったという喜びに溢れ、夢に見た壁の向こうへと足を運ぶ。
 自由な世界へと──
 2036年はSERNが作り上げたディストピア──管理社会だという。
 生活レベルは18世紀の共産主義のようなものだと、鈴羽──ジョン・タイター──は言っていた。
 鈴羽も壁の向こう側を夢見て、日々戦っていたんだろうか。
 俺はその鈴羽の夢を、想いを守ることが出来るだろうか。
 答えは分からない。だが今は、ただひたすら、やるしかないだろう。
 それが壁の向こうへと通じることを、ただ祈りつつ。


 そして季節は流れていく。

 相変わらず紅莉栖の研究は一進一退といったところ。理論としてはもはや完成されているらしい。
 しかし、現代の技術力と2010年の技術力では大きな差があり、どうにもいかないようだ。
 正確に言えばハードの差らしい。
 そんな調子だからか、紅莉栖は別のセクションの研究にもちょくちょく関わっているようだ。
 定期的な情報共有の際、紅莉栖の助言により停滞していた研究が大きく進むということもあるという話である。
 リーダーの男は大いに喜んでいるようだが、他の研究員はどうも面白く無いらしい。
 まあ、それもそうだろう。自分が進めている研究に勝手に口出しされ、それをぽっとでの研究員が荒らしていくようなものだからな。
 そのせいもあり、紅莉栖は研究所内で少し孤立しているという話だ。
 


 今、俺は東京電機大学内の研究室にいた。一言で言えば俺の研究室である。卒業した章一と幸高がいた頃は賑やかなものであったが、最近は俺1人か、もしくはたまに章一が尋ねてくる程度でとても侘びしいものだった。
 ソファーに腰掛けて出した冷蔵庫から取り出したドクペを一口。そして前を見る。
 視界の先には紅莉栖がいた。
 先日、紅莉栖の方から話があると言われて研究室に招き入れたのであった。
 当の紅莉栖は、というと──どうも上の空と言った様子。研究所内で孤立しているのがよっぽど堪えているのだろうか。
 どうも気が強い割にデリケートなところがあるからな。
 狭い研究室内に2人、重苦しい雰囲気が漂う。
 そんな空気をばっさり切って捨てるために俺は仰々しい態度で言う。
 
「ふはは、どおーうした助手よ、そんな退屈そうな顔して! 今度はどこでランチをすまそうか、と考えあぐねていたのか!? 便所飯はお前のプライドが許さんだろうからな!」

「はぁ……」

 露骨にため息をつかれる。
 おのれ、せっかく元気づけようとしてやったのに。

「岡部、あんた自分の研究が無駄なものだと言われたら、どう思う?」

「無駄……だと? いきなり何を言っている、そんなの……」

 例えるなら、俺がしているタイムトラベル研究は全く無駄、ということになる。それは許されないことだ。

「怒る……だろうな」

「今日、研究リーダーに連れられて別の研究施設に視察に行ってきたわ」

「別の……?」

「そう、管轄は一応、私が所属している企業と同じということになってはいる。けれど全く異質といっても良かった」

「何が言いたい……」

「じゃあ、はっきり言う。私……いや、私達の研究はただの隠れ蓑」

「隠れ蓑だと……? というと、EMBIの連中は不老不死など本気で実現させようとは思っていないということか?」

「…………」

 俺の質問に紅莉栖は答えない。だがやがて口を開いてにべも無く言った。

「私のどころか、今の研究所で進められてる皆の研究はある1つの目的を達するための、口実にすぎない」

「なん……だと……?」

「そのある1つの目的とは──」

 紅莉栖の口から発せられる言葉が段々と重々しいものに変わっていく。
 まるで一言一言に怨念を込めるかのように。

「クローンや記憶のコピーと言った擬似的なものではなく、ヒトが老いず死ぬこともない。文字通りの、不老不死」

 なっ……。
 文字通りの……不老不死だと!?

「EMBIはそんな神に背くような技術を開発しようとしている」

「……そんなこと、可能なのか?」

「可能か不可能かじゃないわ。未知のものを認める勇気を持つのが科学者であり、それを実現させるのが科学よ」

「しかし、なぜ紅莉栖にそんな……」

「分からない。私の頭脳が認められたのかもしれないし、単に人手が足りなくなったのかもしれない」

 さらっと自慢。だがそんなことはどうでもいいという風に紅莉栖は吐き捨てる。

「すでに動物実験にまで進展してるわ。もっとも結果は酷いものだけれど」

「それって……まさか……」

「そう、倫理もクソもあったもんじゃない。動物愛護団体がとち狂ってテロでも起こしかねないような、酷い実験を繰り返している。正直、狂ってるわ」

「そんなに酷いのか……」

「前々から思っていたけど、やはりEMBIは普通の研究機関にしては行き過ぎている。倫理的にどうとかだけじゃなく、研究者をバカにするような仕打ち……。そしてそこまでしてひた隠しにする研究の内容……」

「つまり、裏に巨大な闇が渦巻いている可能性が……ある、と」

「陰謀論は好きじゃないけど、そう実感せざるを得ない」

「以前のお前ならば中二病乙、で片付けていただろうな」

「昔の話はいいわよ」

「で、どうするのだ? 正義感に駆られ、告発でもしようというのか?」

「…………」

 突然押し黙る。その様子は今、紅莉栖の胸の中で葛藤が生じ、まさにちょうど決着がついたようだった。
 長い沈黙の後、やがて紅莉栖は言った。

「私は……研究に参加しようと思っている」

「なに……? 気は確かか?」

「安心して。知的好奇心を満たすためでもなく、富や名声を得るためじゃないから」

「ではなぜ……」

「意外に察しが悪いな? まぁ、詳しい研究内容を聞いてる私とあんたじゃ、認識が違って当然か」

 戸惑う俺をよそに紅莉栖がこちらを真っ直ぐ見て言った。

「オーケイ、じゃあ説明する」

 冷静な紅莉栖と違い俺の心臓は激しく脈打っている。

「今までの私は、まゆりを救うために研究してきた。第一段階は魂の所存と、死の定義について。これは世界がどういうものを死と定義しているか、それを突き止めようとしていた。けれどそれは結局わからずじまい。だから最終的にはやはり、あんたが観測してきたまゆりの死、これを世界が与える死と仮定せざるを得ない」

「…………」

「第2段階は実際に、どう救うのか。世界が与える死は絶対。ならば抜け道をどう探すのか。そのために今の研究所に所属して、手段を確立しようとしていた。クローン技術、コールドスリープ、記憶と人格の移植──」

 今まさに紅莉栖が行っている研究のことだ。EMBIから日本の企業に委託された擬似的な不老不死の研究。その中でも紅莉栖は記憶と人格の機械への移植という部門を担当していた。

「第3段階、これからの話ね。つまり、その文字通りの不老不死の開発に携わり、2010年までに完成させる」

 紅莉栖は相変わらず淡々と続ける。俺は彼女が言わんとしていることが分かってしまっていた。

「そ、それはつまり……」

「そう、まゆりに不老不死にすることで、世界の死を回避する」

 とんでもないことを、さらりと言ってのけた。

「そんなことできるわけないだろう! たとえできたとしても世界が与える死は絶対だ!」

「なんでそう言い切れる?」

「それは……俺は実際に見てきたからだ。まゆりは死んだ、実際に」

 そう、何度もだ。

「最初は銃に撃たれた。その次は車に轢かれた。電車に轢かれてばらばらになった! 病院に連れて行って検査してもらっても心臓麻痺で死んだ! SERNに連れて行かれてLHCが作ったブラックホールに突っ込まれてゼリーマンにもなった!!」

「落ち着いて」

「はぁっ……! はぁっ……!!」

 思わず息を荒らげる。心臓が跳ね上がるように脈動していた。
 あの当時のことを思い出すとやはり身が引き裂かれるように辛い。
 まゆりが死ぬのを何もできずにただ見ていることしかできなかったから。

「私達はなんのためにここまできた?」

「まゆりを……助けるため……」

「そう。このままただ手をこまねいているだけじゃ、何も変わらない。何かを変えるためにここにいるなら、あがいてみないと……」

「確かに……そうだが」

「もちろん、外傷や疾病による物理的細胞の破壊に対して不死身というのは生物学的にありえない話だわ。けれど、可能性としては0じゃない」

 0じゃないなら……少なくとも諦めるべきではない。こいつはそう言いたいのだろう。

「もちろん手を貸してなんて言わない。あんたはあんたの道を見つけてすでに歩き出しているから。あんたは世界線理論を完成させてちょうだい」

 そう言って紅莉栖は研究室から出て行った。




 紅莉栖がEMBIの怪しい研究に与してから、数週間が経った。
 公にされておらず、他の研究を隠れ蓑に使うような研究でありながら、紅莉栖は怖気づくこと無く携わっていった。傍から見ればこの俺よりもマッドサイエンティストにふさわしいだけの行動力がヤツにはあった。
 
 一方俺はというと、自宅でソファにだらりと身体を預けて大きく息をついていた。

「はぁ……」

「どしたの、ため息なんてついて。研究、うまくいってないの? それとも会社?」

 鈴羽が心配した面持ちでこちらを見ながら言った。
 今、俺は大学の教授をしながら、秋葉幸高が経営する会社のブレーンとしても知恵を絞っていた。
 それが幸高との約束だったから。

「いやなに、前から進めていたプロジェクトの1つがうまくいっていなくてな。そちらを切り捨てて別のミッションを発令しようかと思い悩んでいるところだ。会社としては無論上手くやっている。給料も破格の待遇だろ?」

「そりゃ、助かってはいるけど。たまの休みの日にゆっくりしてるかと思ったら、ため息連発なんて、見てられないよー。ねー?」

 そういって抱きかかえた我が子の片手をそっと持ち上げながら微笑む。
 そんな2人の脳天気な空気に思わず笑みが溢れる。

「ふっ、まったく、いい気なものだな」

 それが照れくさくて少し尊大な態度を取りつつやれやれと肩をすくめてみた。

「そうそう、君はそうやって笑ってればいいんだって。大声で笑うのはなしね? この子が泣いちゃうから」

「くっ、おのれ。この狂気のマッドサイエンティストのアンデンティティを否定するとは……!」

「前々から思ってたけどそれなに? わけわかんないってー」

「ならばもう一度説明しよう。この俺、狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真は世界の支配構造を塗り替えるための極秘作戦中である! ゆえに、他人に悟られぬよう1人ほくそ笑むのだ! 今日も愚かな支配者たちは間抜けにもこの俺を自由にさせすぎている、とな! 奴らの喉元を切り裂くミッションが今か今かと始動しようとしているのも関わらずだ! フゥー──」

「はいはい、わかったわかった」

「なにっ! きさまっ──」

「そこまでわかってるならさ、やってみれば?」

「なに……?」

「迷ってんでしょ? なんだかわかんないけどさ」

「迷い……だと?」

「さっき言ってたじゃん。今のプロジェクトやめて、新しいのがどーたらって」

「あ、ああ……そうだな。そうだった」

 そう。俺は迷っていた。
 このままずっとタイムトラベル研究に没頭していてもいいのかと、問い続けていた。
 無論、自分にできることといえばタイムトラベル研究によって世界線を変えることだろう。
 今いるα世界線から跳躍し、αでもβでもない世界線へと辿り着くには世界の構造、及び世界線理論を完成させなくてはいけない。
 だがあまりにもリスクが大きいこと。そして理論の完成が難しいことはよく分かっていた。
 なぜなら世界の構造、アトラクターフィールド理論が提唱されるのはこのα世界線においてずっと未来の話だからだ。
 その事実を差し置いてこの俺が完成させることができるのだろうか。
 さらに言うのであればいかに理論を完成させたからといってαでもβでもないアトラクターフィールドレベルの大分岐を起こすほどの世界線変動を行えるかという問題がついてまわるのである。
 俺は前を向いて歩き続けてはいても、やはり心の何処かに迷いを抱えていたのだ。
 だからこそ、自分が今まで重ねてきた研究をばっさりと切り捨てて、新しい領域へと足を踏み入れていく紅莉栖が羨ましくもあった。
 俺も……今の研究──タイムマシンに関する研究──を一旦捨てて。
 紅莉栖のいるところまで──

「ええい、それでは俺がやつを追いかけるみたいではないか!! そんなの俺のプライドが許すわけ──」

 いやまてよ?

「そう、俺はこの世界の支配構造を塗り替える! ならば! 秘密裏に行われている神への挑戦とも言えるその研究を俺が打ち砕く──いや、ごっそり横取りしてやろうではないかフゥーハハハ!!」

 とその時おぎゃあおぎゃあと我が子の泣き声。
 どうやら俺の笑い声に呼応したようだ。うむ、実にマッドである。
 とかなんとか思っていたら。

「ちょっと、静かにして!」

「おわっ──ぐええ、うぇいうぇいうぇい!!」

 鈴羽に羽交い締めにされ頸動脈を閉められる。
 うぐぐ、マジで落ちる。というか死ぬ!




 数日後俺はEMBIがひた隠しにする研究室におとずれていた。
 場所は詳しくは言えないが東京のどこか、とでも言っておこう。とどのつまり秘密ということだ。
 俺を研究者として招き入れることについて、紅莉栖がすでに話を付けてくれていた。
 異例の早さで大学教授まで上り詰めたという実績と、この東京において高騰している土地をいくつか所有する資産家だという話をしたら特別研究員として招き入れてくれたのであった。
 もっとも生物細胞学や生体分子工学は専門外ではあるが、紅莉栖はうまく話をしてくれていたようである。

「本当に大丈夫? あんたも危険な綱渡りをするわけだけども」

「危険はもとより承知のうえだ。なんのためにここまで来たと思っている? お前もこの前言っていただろう」

「そうね……」

 地上十数階建てのビルに備えられたその地下室は異様な空気に包まれていた。
 ひんやりとした室内はおおよそ学校の教室分といった広さであり、その中で数名の研究員が各自資料やデスク、コンピュータといった物とにらめっこしている。
 研究室自体からは音という音はせず、むしろ静謐な空間だった。
 その静けさが、研究室の扉の向こうからの異音を際立たせていた。
 その先からはきぃーきぃーや、きゅーいきゅーいといった身の毛もよだつような音がいくつも重なりあい、静かな轟音を形成していた。

「この音は……実験動物か?」

 俺は小声で隣の紅莉栖に話しかける。
 そっけなく返事する紅莉栖。

「そう。何匹ものラットが日々肉を刻まれ、骨を削られ、血を抜かれているわ。用済みになった肉塊は無残に処理される。それに対する怒りといったところかしらね」

 紅莉栖は自身の両腕を抱き、機嫌が悪そうに言った。
 気のせいかその細い両腕がふるふると振動している気がした。
 怒り? それとも恐怖か。
 紅莉栖が室内の研究員たちに声をかけると、彼らは静かにこちらを向いた。
 その顔にはあまり生気は感じられない。青白く、やつれた印象を受ける。
 課題に追われて徹夜続きの学生──というよりは悪夢にうなされ眠れない日々を過ごす精神病患者と言った様子だ。
 待遇がよくないのか? それとも研究に没頭するあまり、健康を害しているのだろうか。
 紅莉栖が簡単に俺のことを紹介すると、俺の言葉を待つこともなく、各自それぞれのタスクへと戻っていった。
 これではさすがの紅莉栖も共同研究などできはしないのではないか?
 そう思ったが、どうやらすでにある程度重要なポジションを任されているようだ。

「あんたも専攻ではないとはいえしっかりついてきなさいよ? 理解できなかったら文献を漁るなり努力を怠らないこと!」

「あ、ああ……」

「はい、じゃあこれ! 今日までにデータまとめておいて。大丈夫、単純作業だからあんたでもできるわ」

「くっ、助手の分際でこの俺に指図を──」

「分かったらさっさと作業に移る! いいかしら助手さん?」

「ぬがっ!」

 散々迷って行動したは良いが、助手としていいように使われる始末。
 この時から俺は──いや、俺たちは新たな研究に見を投じていくことになる。
 それはまさに、この身を研究に捧げたマッドサイエンティストのごとく。




 人の体は無数の細胞によって構成されている。俺という存在も同様に無数の細胞から成る。そしてその細胞は日々生まれ変わっている。
 生まれ変わっては死に、生まれ変わっては死に──命と呼ばないまでも、命の源が入れ替わっている。
 人体を構成する細胞は、4,5年で生まれ変わるという話を聞いたことがあるだろうか。
 つまり、今俺を構成しているこの腕も足も、細胞レベルでみれば別のものだ。
 さらにいえば、分子レベルで考えた時、5年前の俺は今の俺とは別の存在であるとも言えるだろう。
 当然だ。人間は日々老いる。
 年月を積み重ねることにより確実に年を取り、体は衰え、臓器機能は低下していく。
 それが老化というものだ。
 老化の原因としては──諸説あるが──もっとも有力なものは、細胞分裂によるものだ。
 分裂する細胞にはそれぞれ、分裂できる限界の回数がある。これをヘイフリック限界と言う。
 ヘイフリック限界を迎えた細胞は細胞老化と呼ばれる状態になり、これ以上細胞分裂はしなくなる。つまりその細胞は寿命を迎えたということだ。
 この寿命がきた細胞はプログラム細胞死を迎え、他の細胞に取り込まれ、死ぬ。
 ではこのヘイフリック限界を決めている要素とは何か。
 それは染色体の末端部に付属するテロメアという小粒だ。
 細胞が分裂する時、このテロメアが短縮される。
 やがてテロメアが一定の長さより短くなると不可逆的に増殖をやめ、それ以上は分裂しなくなるのだ。それが細胞の寿命である。
 ならばこのテロメアが短くなるのを人為的に防ぎ、伸長することができれば老化を防ぐことができるかもしれない。
 事実、テロメラーゼと呼ばれる酵素によりテロメアが伸張されて、活性化及び細胞分裂の寿命の延命が認められている。
 だがこのテロメラーゼは生殖細胞、幹細胞、及びガン細胞においては強い活性が認められるものの、ヒトを構成する体細胞に対する効果は薄い。
 現段階の科学力では完全に老化を防ぐことは無理なのだ。
 しかし──このテロメラーゼ活性により、体細胞の寿命も延命させられるようになればどうか。
 老化の防止、不老。ひいては不死につながるのではないか。
 もっとも物理的破壊による不死を実現するという話になればそれこそSFや漫画の世界になるだろうが。




 1991年12月。
 時代はバブル崩壊を迎え、ゆっくりと長い冬の時代が訪れようとしていた。
 身を刻むような寒さの風が人々を縮こませている。だがそれにさらされる人々の表情は明るい。
 すでに株や土地の値段高騰のピークは過ぎ景気後退期に入っていたが、それでもバブル時代のバラ色を忘れられず、再びそれが訪れると信じきっている顔だ。
 
 秘密の研究が始まって2年。研究に明け暮れる日々を送りながらも、進捗具合を一言で言えば、難航していた。
 2010年でも実現できていない技術を20年も前に完成させようとしているのだから当然だ。冷静になるまでもなく、考えれば分かる話だった。
 けれども何もせずにはいられない。
 いかに行動しようとも、少なくとも無為よりはマシである。
 だがこうもうまくいかないと苛立つ気持ちも湧いてくる。
 俺は吹き付ける風に急かされるように家路を急いだ。
 
 玄関に経つといつものように鈴羽が出迎えてくれる。3歳になる我が子も同様だ。すでに言葉を発するまでに成長した。そっと抱きかかえてやると歓喜の声が部屋に広がった。
 リビングのソファーに腰を埋め、テレビをつけると大々的なニュースが映る。
 つい目線が釘付けになった。

──ソ連崩壊。

 ゴルバチョフ大統領が辞任を発表し、全世界の共産主義政党をリードしたソ連共産党はついに廃止される。これを機に世界の構造は再び大きく変化していくだろう。
 俺がタイムトラベルしてから16年──歴史は史実通りに事を運んでいた。
 自分の手をまじまじと見つめてみる。
 浮き出た血管。ゴツゴツと隆起した骨。浅く刻まれたこれから増えていくであろう皺。
 世界も俺も、確実に年を積み重ねていた。

「どうしたのさー。手なんか見つめちゃって」

「いやなに、遥か未来に思いを馳せていたのだ」

「何言っちゃってんのー? ほらほら、今日はクリスマスなんだから、もっとパーッと行こうよパーッと」

「そうだったな、今日は12月25日だった」

「ごほっ、ごほ……」

 鈴羽が咳をする。先ほどから頻度は少ないが何度か咳が出ていた。どうも調子が悪いようだ。

「風邪か? 熱はあるのか?」

「ううん、大丈夫。ちょっと咳が出るくらいだから──で、クリスマスプレゼントは?」

 しまった。忘れていた。

「す、すまん。明日用意しておく」

「えー? もう、また研究のことばーっか!」

 口をとがらせて拗ねる鈴羽。でも不思議と機嫌は悪くないようだ。

「あたしは用意したんだけどなー」

 目を細めてまとわりつくような視線を送りながらも笑みは絶やさず言う鈴羽。やはりどこかしらご機嫌な様子である。

「で、ではそれに見合ったものをプレゼントしよう」

「それは無理だと思うよ」

「な、なに? そんなに大層なものなのか!?」

 く、迂闊だった。

「じゃあさ、プレゼントはいいからさ」

 そう言って鈴羽は自分のお腹を擦って我が子の方を見る。
 どこか遠い目をしながら照れたような笑いを浮かべている。
 
「ん……? いいのか?」

「うん。代わりに、この子の弟か妹の名前、考えといてよ」

「うむ、そのくらい容易い──」

 は? 弟? 妹?

「な、なんだと!?」

「3ヶ月位……かな?」

 少し照れながらはにかむ鈴羽。
 だがすぐに表情が変わる。

「ごほごほ……」

 また、咳をしている。風邪でも引いたのだろうか。少し不安に思いつつも俺は立ち上がって鈴羽を支える。

「大丈夫か? 今日は俺が夕食作るから、あまり無理をするな。大事な時期なのだからな」

「もう、心配し過ぎだよー。ってかその優しさをいつも見せてくれればいいのにね」

 ぶーっと膨れる鈴羽。
 まさか再び俺たちに子どもができることになろうとは。
 狂気のマッドサイエンティストも日常に浸かりきってしまったものだ。

「ふっ、何を言う。これは優しさなどではない。狂気のマッドサイエンティストであるこの俺の子孫繁栄、一族繁栄のために貴様には生け贄になってもらわねばならんのだからな!」

「はいはい、わかったわかった」

「フハハ!」

 しかし、世界の支配構造を打ち砕くための極秘任務中だというのに。
 だが、目の前の歓喜に満ちた表情を見ていると不思議と胸が熱くなり、いっぱいになる。
 その胸の高鳴りが、この輝きを失わせてはいけないとより心に強く願う原動力となるのだ。
 俺は確かに幸せを噛み締めていた。

──そんな幸せが音を立てて崩れるとも知らずに──




 ただの風邪にしてはいつまで経っても良くならない鈴羽の体調に不安を覚えた俺は、鈴羽を連れて病院へと赴いた。産婦人科ではなく、総合病院だ。
 鈴羽は平気だと言っていたが、無理矢理連れて行った。
 そこで重大な事実が発覚する。考えてもいなかったことだ。
 鈴羽を診断していた医者は俺も呼び出して話を聞くよう促したのだ。
 険しい医者の表情がより一層不安を駆り立て、俺の心臓は激しく脈打った。医者の声色は重篤患者に対するそれを想像させるようなものだった。
 診断結果は──

──原因不明の進行性多臓器不全。
 
 極めて珍しい病状のようで、医者も表情を固くしている。
 話によると、体内組織の一部が半固形状化していく症状のようだ。
 半固形状化──ゲル化。
 脳裏にかつての記憶が蘇り顔を歪めた。
 ゼリーマン──
 SERNの不完全なタイムトラベル研究の被験者が、ブラックホールの超重力によって体組織を破壊されできたのがゼリーマンである。
 不安と恐怖が胸を貫く。タイムマシンの影響なのだろうか。
 だとすると、俺や紅莉栖の体にも症状が出てきてもおかしくないとも思ったが医者はさらに驚くべき事実を俺たちに伝えた。
 鈴羽のお腹の中に宿った新しい命。その子の命は諦めた方がいい──と。
 医者としても、母子ともに助けたい気持ちはあるようだ。
 けれど症状的に例のない病気のため、治療法は不明確のままである。
 そんな状態で数カ月後に訪れる出産という大きな試練は母体に恐ろしく負担をかける。それが予想された故に医者は勧めたのだ。

──中絶することを。

 もちろん、治療法が確立すれば出産前に治る可能性もあるかもしれないが、現段階ではやはり可能性としては薄いようだ。
 それならば、時間が経ち母体にかかる負担が大きくなる前に楽になった方がいい、というのが医者に判断だったようだ。

 
 今、自宅のリビングでは重苦しい雰囲気に包まれていた。
 俺と鈴羽は2人とも言葉を発しようとせず、押し黙ったままうつむき加減でテーブルに置かれたお茶を眺めている。
 沈黙を破ったのは、鈴羽。

「あはは、心配すること無いよ……。体力には自信あるし、きっと良くなるよ」

 バツが悪そうに頭をかいて眉尻の下がった笑顔でぼそっと呟いた。

「いつから……自覚していた?」

 俺は目を見て探るように問う。鈴羽はお茶を両の手にとり、ずずと音を立てて一口飲んだ後言った。

「おかしいな、と思い始めたのは半年くらいまえ……かな。少し体がだるいな、って……それからしばらくして少し呼吸が苦しくなったり、手が震えたり、ね」

 最後の言葉が発せられると同時に俺の目線は鈴羽の手に釘付けになった。大事に抱えるようにして手の中に収まっている湯のみが微かに震えているのがわかった。
 その震えが伝染するように俺の肩を震わせた。
 くそ、鈴羽が1人で苦しんでいたというのに、この俺は研究にかまけてそれに気づいてやることができなかった。俺は唇を噛み締めて言った。

「お前はどうしたい……」

「どうしたいって……」

 疑問をはっきり声にすることは憚れた。
 現実と向き合いたくない気持ちの表れなのかもしれない。

「…………」

「そりゃあ、産めることなら産みたいけど……」

 その先は言わなくても分かった。

「お前はそれでいいのか。本当にそれでいいのか?」

 もう一度確かめるように尋ねる。愚問なのはわかりきっていることだ。

「……いいわけないじゃん」

 冷たく重たい口調で、ぼそっと言い捨てる。

「…………」

「でも、こんな体でどうしろっていうのさ。産むだけ産んであたしが死んだら、この子はどうなるの? 君にも苦労かけちゃうよ……」

「…………」

 何も言葉が見つからない。声をかけてやることができない。

「もう色んな考えが巡って頭パンクしそうだよ……それこそ脳みそゼリーになってんのってくらいぐちゃぐちゃだよ!」

 そう言って鈴羽は項垂れるようにして両腕をテーブルに押し付けた。ぽつぽつとテーブルの上に雫が1つ2つ、落ちては弾け、落ちては弾け、重苦しい室内を濡らしていく。
 俺はいたたまれなくなり、鈴羽の横に行って床に膝をつき、鈴羽の小さな肩を抱いた。
 そっと頭を手で包み、胸へと引き寄せる。鈴羽の震える体に呼応して俺の胸もかすかに揺れ動いた。

「心配するな」

 胸の中で小さく震える鈴羽を感じていたら自然に言葉が出てきた。

「…………」

 嗚咽。声には出さないが、しゃくりあげるような声にならない声。必死にこらえながら肩を、いや、体を震わせている。
 それは体の慟哭とも言えるような、小さくも激しい揺れだった。

「俺が必ずお前を守る。お前がどんな選択をしようともだ。鈴羽だけじゃない。みんなみんな守ってやる」

「…………」

「そう、決めたんだ。だから安心して俺に任せるがいい」

 それはなんの根拠もない言葉。だが不思議と口にすることができた。
 少しでも安心させたくて。少しでも鈴羽を楽にしてあげたくて。
 鈴羽がぎゅっと俺の肩を掴むと、俺のシャツがクシャっと歪んだ。
 そして鈴羽はつぶやいた。

 結局鈴羽は──いや、俺たちはお腹の子を守ることに決めた。
 それが例え無謀だと分かっていても。
 その志が保たれることもなく、途中半ばで母親もろとも命が失われてしまうかもしれない。
 命の誕生と引き換えに母体が危険にさらされるかもしれない。
 だが、わずかな可能性と。新しい命の未来のために、俺たちは戦うことを決めた。
 その夜鈴羽は、恐らく一生分の涙を流したかもしれない。




 ふわり、と白く大きなカーテンが波打つ。穏やかな風が病室内を駆けまわり、春の訪れを知らせてくれていた。
 窓の外では鮮やかな青を覆った白い雲がゆったりと流れている。
 俺の傍らではベッドに身を任せ静かに眠りこける鈴羽がいた。
 
──1992年春。

 お腹の子は順調だった。いや、順調すぎるくらいだった。
 病魔は新しく宿った命には影響を及ぼしていない。だが、病床に伏せる鈴羽の体を確実に蝕んでいった。
 表情や言葉にこそ出さないものの、診断結果には顕著に出てしまう。臓器機能は確実に低下し、内分泌系にも影響が出ている。
 ところが出産の際に強まるホルモンの成分などにはほとんど影響はなく、このままいけば無事に出産は可能だという。
 あくまで出産のみに関しては──の話ではあるが。
 走り回っていた風が鈴羽の頬を撫で、髪を揺らした。それと同時にまぶたがゆっくりと開かれ、覆われていた瞳がこちらを捉える。

「あ……おはよう。今日も、来てたんだね」

 寝ぼけ眼で目をこすりながら体を起こそうとする鈴羽。その動作は緩やかで弱々しい。震える両腕を伸展させやっとの思いという様子で上体を起こした。

「君も来てたんだ、久し振りだね──紅莉栖」と鈴羽が付け加えた。

「寝てるとこ悪かったわね。起こしちゃったかしら」

 俺の隣に座っていた紅莉栖が静かに言った。

「ううん、大丈夫。ずっと眠ってたから、多分誰もいなくても起きてたと思うよ。それにしてもだらしないとこ見られちゃったなぁ、あはは……」

 屈託のない笑顔を向ける鈴羽。今日は調子がいいのだろうか。

「聞いた話によると最近はあんまり体調が芳しくないって思ってたけど、今日の状態を見る限りじゃ、そんなに心配しなくても大丈夫みたいね」

「わかるー? まだまだわっかいからねー! 病気なんかに負けてらんないよ!」

 そういって力こぶを作ってみせた。しかし、袖に覆われた二の腕は明らかに細くなっており、手首に至っては強く握れば折れそうなくらい、弱っていた。

「せっかく生まれるんだもんね……。健康に……丈夫に産んであげなきゃ……。こんなところで負けてらんないよ!」

「そうだな……」

「あ、そうだ。ちょっと紅莉栖と話したいことがあるんだ。だから2人にしてもらえるかな?」と鈴羽。

「む? それは構わんが……珍しいな」

「ちょうど良かった。私も鈴羽に話があるの」

 いい機会だ、といった様子で紅莉栖も切り出した。

「むむ、俺だけ仲間はずれというやつか……」

「ごめんね、久々だから。女同士の話ってやつ」

「そうそう。さ、男は退散すること。オーケイ?」

 そう言われると素直に引き下がるしか無い。少し内容が気になったが仕方なく時間を潰すことにした。




 小一時間ほど売店やロビーをふらふらとうろついていると、俺に対して声が掛かった。振り向くとそこには紅莉栖がいた。俺は努めて自然に振る舞う。

「話とやらは……終わったのか?」

「ええ。他愛もない話をしたり、あんたの愚痴を言い合ったり、楽しかったわ」

「む……」

 それを俺に言うとは。

「女同士の世間話が1時間程度とは……少々あっさりしているな」

「眠っちゃったから、鈴羽。久々に話し続けて疲れちゃったみたい」

「お前と話しているのは疲れるからな」

「はぁ、もう。何かあるとすぐこう」

「調子が良いように見えたが……やっぱり悪いのか?」

「……鈴羽なら大丈夫よ。あんたが信じてあげなくて、誰が信じるのよ」

「ああ……そうだな……」

 こいつにしては論理性に欠ける発言。

「ともかく、今は研究の方はいいから、鈴羽の側にいてあげなさい。散々放ったらかしにしたんだから」

「……言われなくともそうするさ」

「そ、じゃあ頼んだわよ」

「ああ、そっちは任せる」

「オーキードーキー」

 会話の中身は気になったが、今は捨て置こう。そう心の中でつぶやき俺は再び鈴羽の病室に足を踏み入れた。
 先ほど起きていた時間がなかったことになったかのごとく、同じようにベッドの中で眠りこける鈴羽。
 すぅすぅと穏やかな寝息と裏腹に血色はよくない。

「鈴羽……」

 目の前の愛しい人を想い、俺はそっと額を撫でた。




 3ヶ月後──
 夏の始まりとともに臨月を終え、出産予定日になった。
 医師や看護師たちが慌ただしく準備を進めている反面、鈴羽は落ち着いていた。
 俺はそんな鈴羽の手をそっと握った。汗にまみれ震えているが、力強く握り返す。まるで最後の力を振り絞るように。

「はぁっ……ふぅっ……」

 息が荒い。それでも眼差しに宿る光は力強く輝いていた。

「鈴羽……」

 俺は名前を呼ぶことしかできない。

「大丈夫、心配しないで。ちゃんと帰ってくるから……。元気な赤ちゃんと、一緒にさ。だから、待っててよ」

 鈴羽が笑って別れを告げると、次の瞬間手の力が抜けた。

「ああ……!」

 手が離れ、ストレッチャーに乗せられた鈴羽が徐々に遠くなる。やがて手術室へと消え、ゆっくりと扉がしまった。
 俺は4年前を思い出していた。だがあの時とは状況が違う。あの時も口がからからになるほどの緊張感と焦燥感に苛まれたが、今回はそれ以上に重々しかった。
 大丈夫なはずだ。医者も何とか出産の体力は残っていると言っていた。大丈夫だ! どうにかなる!
 そう呟きながら、永遠ともとれるような長い時間を過ごした。
 ふと気づけば隣に紅莉栖が座っていた。友の頑張りを見届けるためだろう。俺たちは2人で祈りながら鈴羽の帰還を待った。




 鈴羽は約束を違えること無く、元気な赤ん坊とともに帰ってきた。
 しかし、出産による負担は体に大きな傷跡を残したのであろう。
 日に日にバイタルは弱まっていき、ついには医者も匙を投げた。立つこともできなくなるほどの容体に医者は首を振った。もはや何もできることはない……と。

──余命宣告。

 覚悟はしていたことだ。この決断を下したときに、予想はしていたことだった。
 けれども実際に日々弱っていく鈴羽を見ているとやりきれない気持ちがこみ上げてくる。
 どうして彼女が苦しまなければいけないのか。なぜもっと猶予をくれないのか。せっかく出会えた新しい奇跡との時間がこんなにも短いなんて。

──そして第2子の出産後、しばらくして鈴羽は永い永い、とてつもなく永い眠りにつくこととなった。

 その光景を隣で俺と一緒に目の辺りしていた紅莉栖はやがて事が済むと俺の肩に手を当てて言った。

「これ、あんたに渡すように言われてた。こうなってしまったときに……ね」

 暗い室内で項垂れる俺に、紅莉栖が一枚の封筒を差し出した。俺は力なくそれを受け取ると中身を取り出して手紙を広げた。
 そこに綴られていたのは震える文字で書かれた二言。だがそのたった二言は俺の心に大きな衝撃をもたらした。

 あたしの人生は無意味なものじゃなかった
 ありがと──

 熱い想いが体中を駆け巡り、全身の水分が目に集中したかのように、俺は泣き続けた。
 その夜、俺もまた、一生分の涙を流し尽くしたかもしれない。


 数日が経って。
 未だに別れの悲しみから立ち上がることのできない俺を責めるわけでもなく、慰めるわけでもなく、紅莉栖はただただ身の回りの世話や諸々の手続きをしてくれていた。
 俺の手の中にはまだ、彼女の残した手紙がある。ずっと握りしめていたその手紙は何年も経ったかのようにしわくちゃで、いくつもの染みができていて。
 もう彼女はここにいないんだ、そう実感させられる。
 俺は過去の記憶に思いを馳せていた。
 2010年──故障したタイムマシンの修理が終わり、まゆりの名推理によって導かれたダルと鈴羽の親子の絆。
 そしてその後手にした絶望が綴られた手紙の最後の文。

 ”こんな人生は無意味だった”

 震える手で書かれたとおぼしき不安定な文字。
 そして目の前の手紙には似ているようでまるで違う文。

 ”あたしの人生は無意味なものじゃなかった”

 同様に震える手で書かれたのであろう。懸命に手を動かし、一文字一文字綴っていく鈴羽を想像し、胸が痛くなる。
 だが鈴羽はちゃんとこの世に生まれた証を刻んだ。それも、2つもの。
 鈴羽の残した証を守っていかなければならないんだ。だからいつまでも落ち込んでいるわけにはいかない。
 果たさなければいけない約束だってある。
 未来を変えるという、約束が。
 だったらこんなところで立ち止まってはいけない。
 俺は立ち上がり、上着を羽織った。
 その時隣の部屋で赤ん坊の世話をしていた紅莉栖がいつの間にかこちらの部屋に来たいた。

「ちょっと、何してるの?」

「研究所に行く」

「は? なんで突然……」

「俺にはやるべきことが残っている」

「そうだけど……だとしても、もうちょっとくらい休んだって……」

「気持ちの整理を付けた訳じゃない。だが、やらねばならない。いや、そうしたいんだ……。鈴羽が残したものを守るためにも」

「やれやれ、もうちょっと時間がかかるかと思ったけど、案外立ち直りが早かったわね」

「だから協力してくれ。紅莉栖」

「初めてまともに名前を呼んだな……。って頼まれなくてもそうするつもりだけどね」

「…………感謝する」

「別に、あんたのためじゃない。頼まれたのよ。鈴羽に……」

「もしものことがあったら、子どもたちをお願い、って鈴羽の頼みじゃ断れないでしょ? あんたのことはついでよ、ついで」

「ついでだろうがなんだろうが構わん。俺は世界に抗い続けるまでだ。もうどこにも逃げない」

「立ち直ったみたいね……」

 そういって紅莉栖は淋しげな表情を浮かべた後、顔を引き締めた。
 そうだ。俺はこんなところで立ち止まっているわけにはいかない。猶予は刻一刻と迫っている。

──まゆりを助け。

──紅莉栖も死なせず。

──鈴羽との約束を果たすため。

 戦い続けるんだ。そのために1975年へと跳んだのだから。
 敵はあまりに巨大である。
 科学の権威が集まる研究機関。国家の枠組みを越えた謎の組織。そして、何物も抗うことのできぬ世界が下す運命。
 その全てに抗い、乗り越えるため、戦い続ける。
 本当の戦いはこれからだ。
 俺は決意を新たにし。
 再び歩き続ける。
 仲間のため。
 自分のため。
 いずれ再会する、愛しき人のために──


Chapter4 END

今日はここまで
次回の更新は未定です
少し時間が空くかもしれません

Chapter5



 1994年。鈴羽との別れから2年が経とうとしていた。
 周りの者にとっては、俺がその悲しみから逃れるように研究に没頭しているよう見えていたであろう。だが鈴羽のことを考えない日はなかった。
 鈴羽との約束を果たすため。
 鈴羽の残した証を守るため。
 そのために戦い続けるとこの胸に誓ったから。
 2人の子どもたちは順調に育ってきている。
 上の子は行動力があり、鈴羽に似ているようだ。いたずら好きの明るい性格。
 逆に下の子は年場も行かぬ割に落ち着きがあり、知性を感じさせる。俺に似たのだろうか。
 赤ん坊特有の夜泣きもほとんどせず、まったく手のかからない子だった。そのためか、赤ん坊の世話に慣れていない紅莉栖もだいぶ楽だったようだ。
 今2人の子どもの面倒は紅莉栖も見てくれている。鈴羽との約束だそうだ。俺だけに任せておけないということらしい。
 まぁ、鈴羽の心配も分かる話だが……。
 2人の子が後に論破が趣味の実験大好きっ子になってしまわないかどうか、将来を悲観せざるを得ない。
 そして今、俺と紅莉栖は婚姻関係にあった。
 別に鈴羽がいなくなって残された2人がくっついた、などというメロドラマのような話ではない。単に子どものためだ。
 幼い2人には父親だけでは不十分だろう。母親の愛が必要だ。不器用な女だが、それでも俺だけが愛情をそそぐよりも幾分かいいだろう。
 結局俺と紅莉栖は仮初の夫婦として2人を育てていくことにしていた。

 
 研究の方はというと、やはり深刻な状況と言わざるを得なかった。
 1994年、すでにバブル崩壊の煽りを受け、潤沢な研究資金を得ることは難しくなっていた。支援の数は減り、研究の規模は縮小されていく。
 我々はこの流れが一時的なものではなく、今後、失われた10年と呼ばれる不景気が継続していくことを知っていたから焦りがあった。
 焦燥感に煽られるように研究にのめり込み、やがて周りを顧みなくなるほどに没頭した。
 そのせいで俺はかろうじて大学に残っていた籍を失い、学会からも除籍されていた。
 今行っている研究を公にするわけにもいかないから、大学にも寄り付かず適当にまとめた仮初の研究報告書で実態をぼかすだけの毎日。
 それに加えて、大学の講義や研究発表もままならず、もはや研究者としてやるべきこともやれていない状況だったから連中の処遇も仕方ない。
 そんな中、所有する土地を売却して自ら研究資金を捻出する俺の姿は、他者から見ればまさに研究にとりつかれていたマッドサイエンティストと見られていたことだろう。

 だがおかげで得るものもあった。
 逆風にも負けず、生活の大半を研究に当てていた成果が──




 外界を覆う真っ白な壁に阻まれていて、厳重な警備が施された研究施設の裏手。
 高い壁が太陽の光を遮っていて日当たりは最悪だ。そんな白い壁と壁の間わずかな隙間。じめじめと湿気ており、滅多なことでは人が寄り付かないその場所に、根を張ったようにしゃがみ込む1人の女の背中があった。
 俺はその背中に向かって声を投げかけた。

「こんなところにいたのか。助手よ」

「…………」

 それに対する答えは返ってこない。
 まるでそこだけ時間が止まってしまったかのような錯覚に陥る。
 俺はゆっくりと紅莉栖の横から回り込む。じっと目をつぶって手を合わせる紅莉栖の姿と、彼女の前に積み上げられたいくつかの小石の上に、手のひらほどの瓦ような物が乗せられているのが目に入った。
 例えるなら亀の甲羅のような──
 その変わった構築物に目を奪われていると、やがて紅莉栖がゆっくりと立ち上がって言った。

「墓を建てて、祈っていたの」

「墓……? 動物たちのか……」

「そ。もっとも、遺体を中に埋葬してあげることはできないけど……」

 そういって紅莉栖はわずかに笑みを浮かべた。寂寥感が入り混じったような、かすかな笑顔。
 それにつられて思わず物悲しさを覚える。

「変わった形の墓だな。見たこともない」

 よく見ると亀の甲羅のように緩やかに曲がるその屋根が覆っている部分には空洞ができている。

「カーミナクーバカといって、沖縄に古くからある墓様式よ。あんたが知らないのも無理は無いわ」

「沖縄……? 知らなかったな、助手に沖縄と縁があるとは」

「以前、私の先輩から教わったのよ。亀の甲羅のような形から亀甲墓とも呼ばれてる。母親の胎内を模して作られたもので、人間が母の身体から生まれてやがて母の身体に帰っていく、っていう母体回帰の思想ね」

 そう言って紅莉栖は遠い目をした。何かを思い出すような表情で遠い空を見つめている。

「ねえ。私たちが進んでいる未来はちゃんとあの夏への扉に続いているのかな」

「いきなり何を言う。ポエムか?」

「そんなんじゃないわよ。ただ、こうやって数多の命を奪い続けていることに少しだけ迷いが生じてしまったのかもね」

「…………」

「大丈夫。迷っていてもきっとやり遂げるから」

「それはそうと、研究主任が俺たちを呼んでいたぞ。恐らくは例の実験結果についての考察とデータの要求だろう」

「分かった」

 実は先日、研究の完成を暗に示唆する反応が一匹の実験動物に見られたところだった。
 いや、完成というよりは、道筋を逸れた思わぬ反応ではあったが。
 事切れていたはずのラットにわずかな生体反応が見られたというのだ。
 度重なる実験にその命を削られ、やがて絶命したはずのラットが生きていた──いや、蘇ったというべきか。
 この事実はラボの一同を驚愕させ、そして実験の着地点を明るく照らしてくれた。
 セレンディピティという言葉を知っているか。
 それはある物を探している時に、全く別の物を探し当てるという能力だ。
 どうやら俺たちにはそれが備わっているらしい。電話レンジ(仮)の時同様、世紀の大発見とも言える境地に達したのだ。
 だが、まだまだ人体に効果を及ぼすのには時間がかかるだろう。
 発生条件や個体条件も未知のままだ。今まで以上に詳細なデータを取るために、数多の命が使われ、そして捨てられていくだろう。
 ラボの仲間たちは夢のようだと浮かれているが、過程を含めとても恐ろしいものだ。
 タイムマシン同様人間が足を踏み入れてはいけない領域。
 だが、願いを込めて完成させなければいけない。
 この禁忌の力を。

「ひょっとすると、とんでもないものを作ってるのかもしれないわね……私達」

 紅莉栖は自らの腕を抱きしめながらおそるおそる言った。

「もとより覚悟のうえだろう」

「分かってる、けれどまさかこんなことになるなんてね。今更ながら実感として湧いてきた。手を出している領域が自然の法則を逸脱した神をも冒涜する禁断の研究だっていうことに」

「それくらいの狂気でなければたどり着けないさ。俺たちが成そうとしているのはまさに、その神をも欺くための所業なのだから」

 俺は淡々と言う。恐怖や罪悪感が無いといえば嘘になる。

「はぁ、言ってることはただの厨二病なのに、当事者として聞いてると本当のことだから困る……」

 そういって紅莉栖はため息を付きながら肩をすくめた。

「北欧神話になぞらえるならば、お前はさながら死と老衰を司る女神ヘルといったところか。ラットたちにしてみればまさにヘル──地獄への呼び鈴を鳴らしてくる存在でもあろうがなフー──」

 そこで紅莉栖の突き刺さるような視線が体中を貫いた。
 こんなやりとりももはや慣れきってしまったものだった。

「なんだ、元気づけてやろうとしているのに」

「その横柄な態度が励ましと思ってるなら常識を疑うわ──って元からそうか」

 再び溜め息を漏らす紅莉栖。

「そう。常識などくそくらえだ。こんな非常識が蔓延している日常で常識などもはやなんの意味ももたない」

「はいはい、ワロスワロス」

「それに、俺たちは進むしかないんだ。それはお前も分かっているだろう?」

「…………そうね、もう後戻りはできないものね。でも万が一完成させてしまったら、恐らく人間社会のバランスは崩壊するわ。それこそ、SERNがタイムマシンを開発したとき同様に」

「そうだろうな、多くの人が望むような技術だ。様々な利権や思惑が交錯し、争いが起こるかもしれない」

「ラボの仲間は浮かれてるわ、夢のようだって。でも、さっき私が言ったように、とても恐ろしい力だと思うの」

「分かっているさ」

「本来、人間は時の流れには逆らえないもの。それを無理やり捻じ曲げようとすれば、人は罰を受ける」

 紅莉栖は伏し目がちに言った。

──時の流れに逆らえば罰を受ける。

 そう。
 かつての俺が、罰を受けたように。

「いずれにせよ、EMBIは信用するには不審な点が多すぎる。研究は続けるが、あくまで俺たちは俺たちの目的のため全力を尽くすまでだ。タイムマシンのように、一部の支配者層だけが独占するようなことにはさせない。ことが済んだら、こんな研究は破棄しよう。データだってそうだ」

「そうね。……わかった」

 こんな危険な研究が完成し広まったら、間違いなく世界のバランスは崩れるだろう。
 そんな事態に陥らないためにも、俺たちはこの力を覆い隠すことに決めた。
 あくまでまゆりを救うためだから。
 その願いが叶えばこんな力、いつでも捨ててやる。




──だが俺たちは自分がどれだけ甘いか気づいていなかった



 EMBI──欧州分子生物学研究所。
 European Molecular Biology Instituteと訳され、それぞれの頭文字を取ってEMBIと略される組織。
 本部はドイツのハイデルベルクにあり、イギリスを始め各地に研究施設を有する。
 そんな巨大な組織に対して認識が甘かったのだろう。もともと一介の大学教授や研究員が太刀打ち出来る相手ではなかったのだ。
 まず初めに違和感を覚えたのは自宅の物の配置だった。
 俺1人が住んでいる家ではないため、物などあちこちに動くはずだが、それにしてもどこかおかしい。
 最初は上の子のいたずらとでも思っていたのだが、どうも腑に落ちない。
 書斎の本の並びが微妙に違ったり、椅子の高さが異なっていたりと妙な気配を感じることが増えてきた。
 紅莉栖が入ったのかと思って尋ねたこともあったが、逆に紅莉栖からは私物を触ったか、とか部屋に勝手に入ったな、とか責められもした。当然俺はそんなことしていない。
 子どものいたずらにしたとしても、証拠というか、足あとが少なすぎる。
 まるで空き巣が入り込んで物を物色しているような、そんな奇妙な感覚に襲われた。
 それ以上に気になるのが、決定的証拠を残さないまでも、わずかな違和感程度の痕跡を残していくこと。
 まるで俺たちの情報を掴もうとしているのことを、あえて知らしめようとしているような。
 そう、例えるなら──

──あの時のメールのような。

 俺は2010年で送られてきた2通の脅迫メールのことを思い出していた。冷たい手で背中をなぞられるような、ぞくりとした感覚が襲い掛かる。

 『お前を見ているぞ』
 『お前は知りすぎた』

 もしや、SERNはすでに俺達の事を捕捉しているのではないか。いつか闇に紛れて俺たちに襲いかかってくるのではないか。
 そんな不安な思いを払拭しきれず、ただただ神経をすり減らして過ごす日々が続いた。




 都内某所──
 道を行き交う人々の流れから立ち止まって見上げると、薄汚れた看板に喫茶店の文字が爛れたように浮かび上がっている。
 ところどころ煤けたような汚れが目立っており、文字に至っては消えかかっているその状態が、手入れがされてないことを物語っていた。
 まさに昭和に取り残された喫茶店という表現が似合うボロさだった。
 俺は店内に入るとまず、目線だけ動かして辺りを見回した。からんころんとベルが鳴り続けている。店は当然のように閑散としていた。
 客は1人だけ。その客の姿を確認するとそいつの座る席へと腰を掛けて言った。

「これは随分とまた、テンプレな店を選んだな」

「悪い? 今流行のオシャレなカフェとかだと、人がたくさんいて話すに話せないでしょ?」

 紅莉栖はそういって口を尖らせながらコーヒーを啜った。
 遅れて店主と思しき老婆が緩慢な動作で出てきて、注文を聞いてくる。「同じ物を」と一言告げた。
 少しして、湯気を建てた真っ黒なコーヒーが運ばれてきて、店主は無愛想な顔をして再び奥へと引っ込んだ。

「よくあの態度で店が潰れないな」

「これから潰れるんじゃない? 今は貯めた貯金を食いつぶしてる時期なんでしょ」

「それも、そうか……」

 コーヒー一杯300円オーバー。かつての狂乱の時代ならともかく、懐が寒い今では普通のコーヒー一杯にそんな値段は出せまい。
 無論2010年の物価からすれば多少安い方ではあるが。
 それに加えてこの店内の小汚さと店員の愛想の無さである。寂れるのも納得がいった。
 それ故にこうして内密な話が出来るのだから時代というものに感謝せねばなるまい。

「そろそろ、なんらかの対応策を取らなきゃね……」

「…………」

 自宅への何者かの忍び込みは相変わらず続いていた。
 物を取られるだとか、壊されるといった直接的被害は今のところない。
 俺たちとしてもあまり大事にはしたくなかったし、侵入した証拠も見つけられないので警察には頼れなかった。
 監視カメラや盗聴器も試してみたが効果はなし。それでも周到に仕掛けられた俺たちだけに分かる侵入の痕跡は確実に俺たちを追い込んでいる。
 もはや限界だった。
 子供のこともあるしこのまま不安を抱えて暮らしてなどいけない。
 もとより平穏に暮らせるなどとは露ほども思っていなかったが、ここまで不安を駆り立てられ、得体のしれない恐怖に怯えさせられるとは予想していなかった。
 やはり認識が甘かったのだろう。

「目的は、やはりあの実験結果についてなのだろうか」

「可能性としてはありえるけど、断言してしまうのは危険よ」

 研究の転機を迎えることとなった先の実験結果──死亡したはずのラットが蘇った件についてだ。
 俺たちは意図的にデータを改ざんしていた。
 EMBI委託のあの研究施設で完成させてしまえば、やがて世間に公表されるか、あるいは一部の権力者に行き渡るであろう禁忌の力。
 そんなことさせないためにも俺たちはEMBIを出し抜き、自らの力で完成させようとしていたのだ。
 改ざんはうまく行ったと思っていた。
 事実、あれから実験は失敗の一途を辿っていた。いくら繰り返そうがあの状況を再現することはできなくなっていた。
 ラボの仲間たちは失敗の結果が出るたびに失望の念を禁じ得ないといった様子だったが、それでも完成に向けて浮かれているようでもあった。
 いつかはこの研究が実を結び、我々が世界を驚愕させるのだと、信じきったように。

「2人に危害が及ぶような状況にはしたくない。犯人の目的がはっきりとはしない以上大きく動くのは危険だ」

「それはもちろん分かってる。でももうそんなこと言ってられる状況じゃないわ」

「…………」

 そう、昨日のことだ。今までにない危険な状況が見られた。
 帰宅して赤ん坊を寝かせようとしたら、ベビーベッドの布団に血痕がついていたのだ。
 中央に1滴、飛沫した血痕のように真っ赤に丸を描いていた。
 まるで心臓をわしづかみにされたようなおぞましい感覚が襲ったのを覚えている。
 すぐさま一緒に連れて帰ってきた赤ん坊の体を調べるが特に外傷らしきものはなかった。
 上の子のいたずらも疑ってみたが子どもの仕業にしては度が過ぎる。やはり可能性としては薄かった。

 このままでは俺たち以外にも被害が広がる。
 そう判断した俺たちはこうして人目につかない場所で作戦を練っていたのだった。

「いずれにしても中途半端な策で犯人が諦めたりするとは思えない。ここまで徹底してきてるんだから、何かこう、大きな組織的陰謀の可能性を疑ってみるべきね……」

「ふっ、陰謀論とは。助手にしては珍しいな。陰謀論などくそくらえだと言っていたのにな」

「そんな冗談言ってる場合じゃないでしょ? まじめに考えなさいよ、まじめに」

 組織……機関……SERN……300人委員会。行き着くのは300人委員会の影。
 2036年においてSERNを影から操りディストピアを形成──世界を完全な管理社会としている。
 どうしても最終的には300人委員会の大きな存在を捨てきれない。

「一家4人で夜逃げでもするか……?」

「そう上手くいくかしらね……。これだけのことをやってくるなら、地獄の底まで追ってきそうだけど……」

「それはそうだが……」

 考えが浮かばない。正直、事が大きすぎて打開策が思い浮かばない。
 俺たち2人ならば身軽でどこへでも逃亡できそうだが、子どもも居るとなるとそうもいかない。
 逃げ果せるかどうかは別として、子ども2人にも負担がかかる生活を強いることとなる。
 拠点は何度も変わるかもしれない。その度に多大なストレスを抱えることとなるだろう。それでは何の意味もない。
 年端もいかぬ2人にそんな十字架を背負わせる訳にはいかない。

 寂れた喫茶店で、何時間ほどお互い向き合っていただろうか。
 傍から見れば家庭に深刻な問題を抱えた夫婦に見えたことだろう。
 悩み果てた末に俺たちは、すべてを捨てて2人の子どもの側から離れることを選んだ。
 ただ行方をくらますのではなく、死を偽装して。
 そうすれば研究とは無縁な2人に危害が及ぶことはないだろう。2人にとってそれが最善の策かどうかは分からない。が少なくとも、他の選択肢は見つからない。
 研究中の事故死を装い、どこか別の場所に身を隠すことにしたのだ。
 2人の身は誰か信用のおける人間──例えば秋葉幸高のような──に委ねたいが無理は言えない。
 ヘタに話してしまえば彼を巻き込むことになるし、加えて彼には既に一歳になる娘がいる。
 そう、秋葉留未穂──フェイリスである。
 彼らをこの運命に巻き込んでしまって危険に晒すわけにはいかない。
 恐らく何も話さずとも、俺と親交の深かった彼にも監視の目はいくかもしれない。
 しかし何も知らないと分かればきっと必要以上に関わることはないはずだ。迷惑がかかるかもしれないが許して欲しい。
 2人の子どもの処遇については、もはや流れに任せるしかあるまい。
 児童福祉施設か、あるいは特別養子縁組か。
 願わくば2人が離れること無く、穏やかに、幸せに暮らせることを強く懇望する。


 そして作戦決行の日──

 夜も更け、ひんやりと冷涼感漂う地下の研究所。
 天井からぶら下がったむき出しの照明器具が別れを惜しんでいるかのようにちかちかと明滅していた。
 動物たちも今は鳴りを潜めているようで、物音といえば空調機器から発せられる静かな唸り声だけ。

「これでこの研究所ともおさらばか。まさか数年入り浸ったこの場所を自らの手で──」

「はい、無駄口は謹んで。どこで誰が聞いているかわからないでしょ」

 感傷に浸る俺の言葉を遮って紅莉栖は言う。その尊大な態度とは裏腹に震えた自分の肩を抱いていた。怖いのだろう。
 それもそのはず。今から行うことは完全な犯罪行為。
 無論、戸籍を偽り神に欺くような研究を行うのも犯罪行為ではあるが、これから始まるのは完全なる破壊行為。目に見える破壊行動。
 それゆえ良心の呵責は半端ない。
 俺たち夫婦は現在、この研究室内で徹夜で研究中ということなっている。そんな中でこの研究所は破壊される。徹底的にだ。
 そして俺たちが行方不明になれば──
 警察をはじめ世間は死んだものとして見てくれるだろう。
 今回のようなケースで遺体が見つからないままであれば認定死亡される──つまり死んだとみなされるはずだ。
 資産に関しては1年が過ぎれば失踪宣告の要件が満たされるだろう。その後は秋葉幸高がその辺りの手続はしっかりやってくれるはずだ。何も心配する必要はない。


「さて、始めるとするか」

「ええ……」

 そういって俺たちは手はず通りに行動し始めた。
 筋書きはこうだ。
 俺たち2人が研究に没頭する中、研究所は原因不明の爆発によってその役目を終える。今まで築いてきたデータもろともだ。
 俺たちの遺体は発見されないが、この室内に痕跡はしっかり残すようしてある。つまり研究中に死んだように見せかける。
 さすがにこの規模の事故となれば警察の介入により研究は滞るだろう。メンバーにも聞き込みや取り調べが入るはずだ。
 俺たちは一時探される身になるかもしれないが、大々的に探されることはないだろう。
 研究所が300人委員会とつながっているならば、もみ消すことも考えられる。
 そして、原因不明の事故によって研究員2人死亡。そう報じられ、きっと風化していくに違いない。
 希望的観測だが、可能性は高い。
 後は流れに任せるままだ。
 研究を続け、まゆりを助ける手立てを確立し、時を待つ。
 そして完全無欠の解を目指して戦いぬくのだ。


 室内の至る所に仕掛けられた小型の爆弾や発炎機械を一瞥し、一息つく。

「後は抜け出すだけ……だな」

 そう言って変装用のウィッグやマスクを身につける。姿を確認されてしまえば元も子もないから。

「…………」

「怖いのか?」

「……まあね。怖くないと言ったら嘘になる。こんなことして、本当にいいのかって」

「信じよう。この先が俺たちの望む未来につながっていると信じて」

「…………」

「鈴羽が望んだ未来に、つながっていると、信じてな」

「鈴羽……」

 紅莉栖は目を閉じて何かを思案している。
 2人の絆はすでに強く硬いものになっていた。2010年で敵対していた頃では考えられないほどに。
 時の漂流者として結ばれた絆はそれほど強固なのだろう。
 紅莉栖はその親友の想いを背負って──

「わかってる。鈴羽のためにも私は──」

 俺たちは時空を歪めた咎人。
 そして今再び、罪人として2人歩いて行く。

「ああ──俺たちは共犯者となる」

 そして俺たちは数十分後には跡形も無いであろう研究所を背にして歩き出した。
 踏み入れるのは身を切り刻む茨が蔓延った獣道。
 その先は光明か、はたまた深淵か。



Chapter5 End

Intermission



 この5年間は研究に明け暮れてはいつつも、比較的ゆっくりと時間が流れていた気がする。
 時は1999年12月。
 世間がミレニアムだの、2000年問題だの騒ぎ立てているのに比べてこの私──牧瀬紅莉栖の生活は至ってのどかなものだった。
 私が1975年へとタイムトラベルして24年。もう私40代である。
 イギリスや東京で、何かに駆り立てられるように研究に明け暮れた激動の日々に比べれば、この青森の地ではるか昔に想いを馳せながら研究をするのは穏やかすぎたくらいだ。
 1994年、私と岡部が研究中の事故死を装いEMBIの目を欺いて逃亡した後、私達は再び上野の犯罪組織のニンベン師──キドさん──を訪ねていた。
 懐かしい顔が訪ねてきたのを歓迎こそしなかったものの、彼らは私達を邪険に扱おうとはしなかった。それ相応のお金を提示したっていうのもあるけれど。
 私達は再び人生を偽り、ゼロからスタートした。そしてこの青森──パパの故郷である土地──で新しい生活を始めたのだ。
 青森を選択するに至ったきっかけは、私と一緒に逃亡した岡部だった。
 どこへ身をくらますかの相談をしていて、突然青森へ行くと言い出した時は思わず言葉を失ったのを覚えている。
 それは随分前に交わした約束だった。
 タイムリープマシン作成にかかる前夜、父親との軋轢に悩み果てていた私に対して岡部がしてくれた約束。

──俺がついて行って、父親との中を取り持ってやる。

 24年越しの約束な上、その時パパは青森にいなかったんだけれど、岡部がその約束を覚えていてくれたのが嬉しくて。
 私は結局2つ返事で青森行きを決めていた。
 そういう経緯を経てこの地に来てから5年。
 研究に明け暮れながらも時がゆっくり流れるような田舎の雰囲気を味わいながら過ごしていた。


 身を裂くような寒空の中、星たちがまたたいている。
 都会とは違いこの場所は夜ともなれば人が作り出す光はなくなり、その分星の輝きをひときわ際立たせていた。
 あの星たちの輝きは何万年、何億年前の物だ。
 私たちが目にしているあの光を放っていた星たちは、すでに生涯を終えているのかもしれない。
 そう思うと思わず胸が締め付けられる。姿を失ってなお消えない強烈な光。
 私は遠い昔に別れた親友たちの顔を思い浮かべた。

──まゆり。

──鈴羽。

 今はまだ会えないけれど、遠い未来で彼女たちも輝き、きっと私たちと共に再び時を歩んでいくんだろう。

「もう、5年になるのね」

「どうした。都会のけたたましい喧騒が恋しくなってきたか?」

 湖のほとりにぽつんと置かれた木製のベンチに岡部と2人腰掛けて、肩を並べながら他愛もない話をする。

「まあ、それもなくはないけど。そっちはどう? 問題ない?」

「無論だ。この俺を誰だと思っている」

 青森へと逃げこんでから2年が経った1996年のある日。
 岡部は残してきた2人の子どもが気になるのか「ほとぼりは冷めた」といって東京へと戻っていった。
 もちろん捜索の手を考えたら勧められる行為ではなかったけれど、こんな奴でも人の親だ。
 正直私も2人のことが気になってはいたから、結局岡部が東京へと引き返すのを許可した。
 それからは私がこの地青森で。
 岡部は東京で、お互い情報共有をしつつ研究に没頭していた。

「あーはいはい。久しぶりに会ったかと思うとすぐにそれなんだから。っていうかいつ卒業するのよそれ」

「だから卒業とか言うな。俺は常に狂気のマッドサイエンティストで在り続けるのだ」

 要は常に虚勢を張っているというわけだ。いつまで経っても分かりやすい。

「そう言えば、お前には話していなかったな……」

 突如、岡部は難しい顔をして話題を変えた。

「どうしたの? 何かあったの?」

 神妙な面持ちで口調変える彼に不安を覚えた私は慎重に尋ねた。

「ああ……驚くべきことにとんでもない事態が待ち受けていたのだ」

 岡部は目を固く閉じ、わずかに間が空いた。その間が重大な事実を伝えるべき雰囲気を醸し出していた。

「驚くべきことに……?」

 その間に耐えられず私は岡部の言葉をなぞるように再び尋ねた。

「ことに……」

 ごくり。

「先月、ミスターブラウンに娘が生まれたのだ」

 はい?
 Mr.Brown?
 ミスターブラウン?
 私はこめかみに指を当てて記憶の引き出しを探るように連想していた。
 ああ。彼のことか。

「ミスターブラウンって……ブラウン管工房の店長さんだっけ? もしかして接触したの?」

 名前は確か天王寺裕吾。2010年未来ガジェット研究所の階下でブラウン管工房を営む大柄な男性だ。
 そんな彼に娘ができたと岡部はいう。きっと綯ちゃんのことだ。

「ああ、奴は2年ほど前から俺が世話をしてやっている。俺が大檜山ビルの1階を貸してやって、ブラウン管工房も営んでいるのだ」

 天王寺裕吾。綯ちゃん。大檜山ビル。ブラウン管工房。
 懐かしい名前や言葉を聞いたことで昔の思い出がありありと脳裏に蘇る。
 狭苦しくて独特な空気に満ちたラボ。けれどいつだって私を暖かく迎えてくれた。
 そこにはまゆりがいて、鈴羽もいて、ついでに橋田も居て。
 そして岡部がいた。
 思い起こされるのは仰々しい態度で白衣を翻しながら世界の構造について妄想を垂れ流すこいつにげんこつを食らわす筋肉質の店長さん。
 そこで気づいた。

「って、それがなんでとんでもない事態なのよ」

 依然として眉間にしわを寄せながらうつむく岡部に問いかける。

「よく考えろ……。あのタコ坊主と小動物、似ても似つかないあの2人のことだ。俺はきっと誘拐かなんかでさらって来た偽りの親子関係だと思っていたのだ。それがまさか……本当に親子だと実証されるとはぁぁ……」

 岡部は頭を抱えている。

「あの純真無垢な赤ん坊が将来筋骨隆々の霊長類最強になる日が来るかと思うと夜も眠れん……」

「んなアホな……」

 相変わらず岡部は岡部で。
 そしてあの2週間の夏のまま、狂気のマッドサイエンティストだった。
 そう思ったら思わず笑いがこみ上げてきてしまって、声に出してしまう。

「どうした。何がおかしい」

「いや、なんでもない。ちょっと安心しただけ。私たちのやってることは無駄じゃない、そう思っただけよ」

「なぜそうなる」

「だって私たちが世界線を変えてしまうことで、とんでもない変化が起こっていたかもしれない。それはつまり、あの2010年に繋がらなくなるかもしれない。でもそうやって店長さんがブラウン管工房を営業して、綯ちゃんが生まれたってことは少なくともあの時代のラボに繋がる要因が作られたってことよね」

「ふうむ。まあ、それもそうだが……」

「そう考えたらようやく、このまま世界は変わらずあの夏への扉までつながっていくんだって、思えて……。根拠としては不完全だけどね」

「そうか……そうだな」

 岡部も遠い目をする。きっと10年後の未来──いや、過去に思いを馳せているのだろう。
 とても短く──でも濃密だった2週間。
 あの2週間で私たちの運命は大きく変わってしまった。
 まさかこんな風に大きな使命を背負って生きていくなんてね。思いもしなかったわ。

「……ちなみに、今のミスターブラウンにはふさふさの髪の毛があったぞ。貴様にも見せてやりたいくらいだった」

「へぇ……」

 私が知っている店長さんは頭のハゲたおじさんだったけど、11年前の今ともなると随分若々しい容姿なんだろう。
 想像するのは難しい。色んな髪型の彼の姿が思い浮かんでは消え、思い浮かんでは消え。

「というか店長さんに変な話してないでしょうね?」

「むむ、変な話とはなんだ」

「たとえば……数年後に岡部倫太郎という青年が現れるから彼にはよくしてやってくれ、だとか」

「……そこまで考えなしではないわ」

「そっか。よかった。それなら大丈夫ね」

 そう、変におかしなことを言えば世界線を変えてしまう恐れがある。
 岡部の場合店長さんが苦手だったし、そういうことを言うかもしれないとは思ったけど、さすがのこいつも分別をわきまえていたようだ。

「いずれ貸しに出すであろう2階で、あまり法外な家賃交渉をするようだとその頭に天罰が当たるぞ、とは言ったがな、フゥーハハハ!!」

 ……だめだった。
 私は思わず項垂れる。
 でも不思議と不安はなくて。
 きっと私たちがやっていることは無駄じゃない。
 私たちがやろうとしていることは無意味じゃない。
 そう、信じることができた──

──だから私は告げる。

「ねえ岡部」

「む、なんだ」

「先日、ひとまず研究が一段落ついたわ」

「……ああ、聞いている。だからこうして青森まで足を運んだのだ」

「…………」
 
 研究は完成を間近に迎えていた。
 すでにラットをはじめとした哺乳類での動物実験はクリアしている。効果も認められた。
 研究所での死を偽装して逃亡生活を初めて5年、ついにだ。
 だけどまだ完成じゃない。
 完成とみなすには人体実験──つまり人間での効果を試す必要があった。
 ヒトに対しても目的の効果が出るかどうか。
 理論的には大丈夫なはずだ。
 けれど、内容が内容なだけに不安を覚えざるを得ない。
 ヘタをしたら上手く作用せずに死ぬかもしれない。いや、その方が可能性は十分にありえるはずだ。
 だけど、私たちが積み重ねた仮説によれば──
 きっと成功するはず──
 私と岡部の間には今、気まずい沈黙が漂っていた。
 その沈黙を破ったのは岡部。

「実験だが……」

 重苦しい口調で囁くように切り出してきた。
 私は岡部の方は見ずにそのまま暗い闇に染まる地面を見つめていた。

「俺が被験体になる」

 彼ならそう言い出すと思っていた。

「でも、私のほうが確実だわ。このままいけば恐らくSERNのタイムマシン開発に協力することになる。それならここで死ぬことはきっとない」

「それをいうなら俺だってそうだ。SERNに楯突くテロリストとして2025年までは生存するはず」

「…………」

「…………」

 お互いゆずらず、平行線。
 まあ、ある意味こうなることは分かっていたけれど。
 時に抗う禁忌の研究。今まさに生け贄が捧げられることによって終止符が打たれようとしていた。

「なら2人とも実験体になるだけよ。データは多いほうが想定外の反応にも対処できるようになる」

「…………」

「もし万が一、まゆりを救えない可能性があったとしても改良に改良を重ねていけば、きっと……」

「フ……フフ」

 突如、岡部が体を揺らして鼻を鳴らした。

「え?」

「真の狂人とは自身の保身など考えない。時として自らの命を道具として差し出すことすら厭わない」

 岡部は立ち上がってにやりと笑った。

「貴様もまたマッドサイエンティストの素質を備えていたようだな」

 月明かりに照らされて仰々しく振る舞う岡部の輪郭はとても大きくて──

「俺は確信している。研究はすでに確立していると!」

 根拠なんてひとかけらもないはずなのに──

「だから安心して身を委ねるが良い」

 不思議と信じることができて──

「なぜならそれが、シュタインズゲートの選択だからだ──」

 私は安心感に満ち溢れていた──

 だから大丈夫。
 岡部も私も実験で死ぬようなことはない。
 100%とは言い切れないけれど、きっと大丈夫だ。
 全然論理的じゃないけれど、直感のようなものが伝えている。
 
 1999年12月25日、私たち2人は神の目を欺くための実験を開始し──
 そして時の流れに逆らうこととなった。



Intermission END

今日はここまで
次のチャプターでいよいよ2010年まで戻ります
が、次回の更新も少し時間が空きます申し訳ない

少し推敲が進んだので投稿します
おまたせして申し訳ない

Chapter6



 生暖かい風が俺の頬を撫でる。黄昏時の燃えるような陽差しが肌を赤く照らし、染めていた。
 ラジオ会館の屋上から眺めるその光景は、俺──岡部倫太郎──が35年前に見た記憶と一切変わらない。
 一度は奥底に眠った記憶と共に積み重ねた年月に思いを馳せる。
 ついに来てしまった。いや、やっとここまで来た。
 2010年8月13日。まゆりの死が決定づけられた日──
 その運命に抗うため。鈴羽の思い出を守るため。
 こうして時を過ごしてきた。
 視線をちらりと横にずらせば、銀色の人工衛星のような巨大な機械がラジ館の壁をぶちぬいて鎮座しているのを確認することができた。

──予定通り。

 俺たちの思惑通り、タイムトラベラージョンタイターは2010年7月28日に跳躍してきた。
 紅莉栖の話によれば、俺たちが1975年へと跳んだ後、ダイバージェンスメーターは壊れていたらしい。
 一番左のニキシー管が損傷していて、一の位が確認できなかったというのだ。
 紅莉栖は代用のニキシー管を用意し、悪戦苦闘しながら修理したと言っていた。
 度重なる試行錯誤の後、なんとか値を確認することができのだったが、その数値は0であり、1%の壁は越えていなかった。
 それはこの世界線がα世界線のままだということを示していた。


──α世界線。

 アトラクターフィールドレベルでの収束を起こすのであれば──
 ここはSERNがディストピアを構築する世界線。
 さらに言えば、そのディストピアを打ち砕くために、ジョンタイター──鈴羽がタイムトラベルしてくる世界線。
 そして期待を裏切らず、跳躍してきた鈴羽はラボメンとして2010年を過ごし、そして昨日──8月12日に本来の”俺”たちと共に有明へと自転車を走らせた。
 そこで交わされた約束を俺は覚えている。
 延々と繰り返される2日間の環から俺を救い出してくれた鈴羽は、ある話を持ちかけた。
 共に1975年へと行ってくれ、と。
 そうなることは分かっていた。
 紅莉栖と散々議論した果てに行き着くのはやはりその答えだった。
 世界が今を形作るための収束を起こすのであれば──
 因果の環を成立させようとするのであれば──
 鈴羽はこの2010年に跳躍してきて、やがて俺たちが経験したあの2週間の後、いかなる理由かは分からないが、俺たち3人は必ず1975年へとタイムトラベルする。
 これが俺たちの憶測だった。
 ”俺”たちが過去へ跳ぶことが無ければ、今の俺たちは矛盾した存在となり、消えるだろう。
 かと言ってその矛盾を解消するために俺たちの存在が消えればそれもまた、因果は成立しなくなる。
 なぜなら、ねじれた世界線が形を戻した先は、鈴羽が不完全な状態のタイムマシンに乗って記憶を失い、やがて自らの命を絶つ世界線のはずだから。
 そうなれば”俺”は鈴羽の思い出とまゆりの命を天秤にかけることができずにタイムリープで2日間を延々と繰り返すだろう。
 そのループの行き着く先は、この俺が積み重ねた35年に収束するはず。俺の存在が無くなってしまうのであればそれもまた、矛盾だ。
 だから何かしらの理由で、俺たち3人は1975年へと跳躍する。俺と紅莉栖はそう結論づけた。


──あるいは──

 いや、これはもはや今は考えなくともいいことだ。
 きっと後に世界線理論の研究でこの答えが見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。
 だがそれでいい。
 現に鈴羽がこの時代にタイムトラベルしてきて、”俺”たちが1975年へと跳躍する。その事実さえ確定されれば俺たちは存在できる。
 今成すべきことは、この俺が確かに1975年で存在して、そして積み重ねて来た年月を元にまゆりを救うことだけ。今はそれだけ考えればいい。
 俺は待望する未来と変わらない結末の2つを思い浮かべ、身を震わせる。
 大丈夫だ。やれるだけのことはやってきた。俺たちは世界に抗うだけの知識と経験を積んできた。
 そう自分を鼓舞して振り向く。
 俺は特別な夕日を背に歩き始めた。あまり長居はできない。
 そろそろ”俺”と鈴羽がタイムマシンに乗り込むべくここに訪れるはずだ。


 屋上の階下である8階で、俺はその時が訪れるのを入口付近の物陰に身を潜めて待っていた。
 俺の主観では、35年前に俺と鈴羽は1975年に跳ぶべく、ラジオ会館屋上で落ち合った。
 そして出発の直前、この部屋で俺たちを呼び止めたのは紅莉栖だった。
 結局、その場の勢いで紅莉栖も共に1975年へと旅立つこととなった。
 軽率な判断だと思ったが、俺だって鈴羽に誘われた時、2つ返事で承諾してしまったため反論はできない。
 結果、その判断は良かったのだろう。紅莉栖が居なければここまで辿り着くこともできなかっただろうから。
 そして3人の時間旅行の果ては──
 俺が経験した35年もの歳月──そして俺が今、ここにいる。
 俺は自らの胸を掴んで目を閉じた。
 もうすぐだ。もうすぐ結果が出る。
 俺が──俺たちが導き出した解法に対する、世界の判断が。
 大丈夫なはずだ。
 再三自らに言い聞かせていると、やがて静寂な空間にこだまするかのように2人の人間の足音が交錯するしながら反響してきた。
 現れたのは18歳の”俺”──そして、鈴羽。
 なぜだか心臓が激しく脈打った。抑えきれない想いが溢れてくる。
 思わず涙が出そうになるのを必死に堪えた。
 旅立つ前のやりとりに耳を傾けながら、俺は懐かしいようなむず痒いような感覚に陥った。相当な過去とはいえ自分たちの会話を直に聞かされると体がこそばゆくなる。
 そしてタイムマシンに乗り込もうかという時になって紅莉栖も現れた。
 彼女はあの時と同じように息を荒らげながら、2人の下した判断を責め立てる。
 その鬼気迫る態度も今の俺からすれば納得の行くものだったが、俺は当時そんな態度にふつふつと感情を沸き立たせたものだった。
 やがて”俺”がケータイを耳にあて儀式をすますと、3人は携帯電話や身分証、財布と言った2010年にいた物的証拠となる荷物を各々床に置き始めた。
 それが終わり、3人はお互いの顔をみやり無言で頷くと、静かにタイムマシンに乗り込んでいった。
 俺は、最後にタイムマシンに乗り込んだ”俺”の背中を見つめながら、早鐘を打つ心臓を抑えこんでいた。
 ふと自分に語りかける。

──ここからお前たちの長い戦いが始まるんだ。


 繰り返し35年間の道のりに思いを募らせるときゅっと胸が締め付けられるような感覚に陥る。この胸の痛みは本物だ。俺は確かにここに存在している。
 そして気がつけば”俺”がはっと表情を変えたように見えた。暗がりのためはっきり確認することはできなかったが、目線はこっちを向いていたような気がする。
 ひょっとして見られた?
 そう思ったのも束の間、すぐにマシンのハッチが降りてきて、”俺”の姿は見えなくなくなる。
 まずいか? 今のがタイムパラドックスにならなければいいか──と思ったところで閃く。
 よくよく思えばこの俺も、今まさに自分が身を潜めている辺りに妙な気配を感じたはずだ。
 ふっと小さく息をつく。
 なるほど、合点がいった。あの時の気配はもしや──
 俺は自分の中で答えを導き出す。
 結局こうなることは決定済みだったのだろう。
 そう、1人思案に耽っていると、タイムマシンが音を立てて動き出した。
 部屋がわずかに揺れ始め、空気が震えだす。甲高い警報音と共にラジオ会館8階は赤い灯火に染められた。
 すると警報音に混じってすぐ横の入口の方から、パン──と空気の入ったビニル袋が破裂したようなと妙な音が耳をつんざいたと思った刹那、金属と金属がぶつかり合うような鋭い音が辺りに反響した。

「…………っ!?」

 なんだ!?
 鼓膜が破れるような強烈な音に肩をすくませながらタイムマシンを注視すると外壁がへこんでいた。人間の拳くらいのわずかな範囲ではあるが。
 そのへこみは破裂音のような響きと共にどんどん増えていく。
 3個──4個──5個──6個──!
 俺は思わず音の発生する方を振り向いた。

──なっ!?


 俺は目を疑った。
 突然、息が止まると同時に鈍器で殴られたような衝撃が俺の脳を襲う。目の前の光景が信じられなかった。
 まるで思考に1枚の薄い膜を隔てているかのように現実感が薄れていく。脳がその事実を認識したくないと拒んでいるかのように、眼前が白く覆われていく。
 なんの間違いだ?
 そこにいたのは、桃色のかわいらしい服に身を包み、両側の髪をシュシュで結んだ少女だった。

──天王寺綯。

 なぜ彼女がここにいるのか──
 いやそれよりも。
 なぜこの年端もいかぬ少女が拳銃を両手に構え、タイムマシンに向かって発砲していたのか。
 声にならない音が喉から漏れる。
 その息遣いに気づいたのか、少女がこちらをゆっくりと振り向き、口元を歪ませた。
 そしてひどく緩慢に口を動かした──ように見えた。それはやがて遅れて俺の耳を震わせる。



──そこにいたのか、岡部倫太郎──


 「はっ!?」

 まるでぎゅっと心臓を手づかみされたような胸の締め付けが俺を襲った。
 忘れていた呼吸を思い出したように息を吸い込む。けれど息が上がっていてすぐに吐き出してしまう。
 ぜいぜいと、酸素を取り込もうとするのにうまく行かず苦しみが増してくる。
 心臓はものすごい勢いで脈づいていた。どくんどくんという鼓動が自分の耳に響いているかのような感覚。
 声が出せない。理解が追いつかなかった。
 なぜ彼女が──
 なぜ天王寺綯がここにいるのか。
 なぜタイムマシンに向かって発砲していたのか。
 なぜ俺のことを岡部倫太郎などと呼んだのか。
 疑問が目まぐるしく脳を駆け巡っては、俺の頭の壁をがんがんと打ち付ける。
 そんな頭痛に喘ぐ俺に対して、目の前の少女は輪にかけて追い打ちを掛けてきた。
 ゆっくりと銃口がこちらを向き、俺の額をとらえる。俺の視線はその銃口の奥の暗い闇に釘付けになった。
 どこまでも深い闇の淵。覗き続けていると吸い込まれてしまいそうな──
 まさか──撃たれる──?
 この少女に!?
 なぜ俺が?
 俺はこんなところで死ぬのか?
 疑問が疑問を呼び、理解が追いつかない。もはや立っている気力もない。
 この気味の悪い光景が夢か何かだと思いたかった。
 だが予想に反して銃弾が発射されることはなく、腕はゆっくりと降ろされる。

「今は殺せないからな。お前は15年後に殺してやるよ、岡部倫太郎」

 淡々と、抑揚の少ない口調で告げられる恐ろしい宣言。
 15年後? 何を言っているんだ?
 俺が言葉に窮していると、子どもとは思えない憎悪に満ちた視線が俺を貫いた。


「私は、許さない」

 目の前の少女はほんの10歳くらいの子どもなのに。
 それなのに──
 まるで子どもを相手にしているような気がしなかった。

「父さんを死に追いやったお前を絶対に許さないから。私がこの手で殺してやるまで許さないから」

 なに──!?
 父さん──天王寺の事か!?
 俺が!? 俺が死に追いやった!? どういうことだ!?
 もう訳が分からなくて、思考が追いつかない。天王寺綯を前にしながら、天王寺綯ではないような、そんな感覚。

「お前は15年後に殺す。それまで、怯えて待ってなさい。あは……あはははは」

──あはははははははははははははは。
 
 不気味な笑いとともにその小さな体を翻し、彼女は階段の闇へと消えていった。
 俺はとてつもない衝撃に、その場に膝をついて絶句していた。
 15年後に……殺す? 父親を死に追いやった? どういうことだ? あいつはいったい何を言っているんだ?
 いや、あいつはいったい──
 
──誰なんだ。


 俺の中で様々な疑問が疑問にぶち当たり玉突きのように波及していく。
 広がった波紋は、解こうとすればするほど絡む蜘蛛の糸のごとくまとわりついて俺の頭から離れなくなる。
 だがすぐに今の状況が思った以上にまずい事態になっていることを悟った。
 ラジ館の外からざわざわと人々のどよめきが鳴り響いていたのに気づいたからだ。
 外壁に衝突するようにして埋まっていたタイムマシンが消えた上に、銃声が何発も聞こえてきたとなれば大騒ぎになるのも当然だ。
 ともすればこの場所にいる俺は厄介なことに巻き込まれる恐れがある。
 考えるのは後だ。
 事態は急を要すると判断し、俺は咄嗟に立ち上がった。
 俺はすぐに跳躍した”俺たち”が置いた荷物を回収すると、足早にラジオ会館の階段を下った。
 脱出は想像よりも容易かった。街を行き交う人々の視線はラジ館の上の方に釘付けだったからである。
 俺はその視線を集めないようにこっそり入り口から脱出し、人々の雑踏に紛れ込んだ。


 時間を確認すると7時手前。運命の時間までは後1時間ほど余裕がある。
 俺は迷っていた。
 このまま計画を実行していいのかと。
 予定通りならば、今はダルとまゆり、そして──俺とともに跳躍した──紅莉栖はラボにいて。
 運命の時間──8月13日の午後8時を廻る前に計画が実行されるはず。
 まゆりを運命の輪から逃がすための計画が。
 俺は紅莉栖に連絡を取っていた。
 ともかく俺1人の判断ではどうしようもない。
 だが、携帯からは呼び出し音がひたすら鳴り続けている。どれだけ待ってもだ。
 それは紅莉栖が電話に出られないことを意味していた。
 くっ、こんな時に! 
 俺は思わず顔をしかめた。余裕がない。焦りが止まらない。
 ラボへと行くべきだろうか。
 だがその前に気になることがあった。
 綯は言っていた。俺が天王寺裕吾を死に追いやった──と。
 なぜだ? いったいなぜなんだ?
 理由が見当たらない。
 俺はその疑問を解消すべく、御徒町の天王寺裕吾の自宅へと向かった。
 山手線と大江戸線を乗り継ぎ、新御徒町駅を降りて徒歩5分。少しだけ都会の喧騒から離れたところに彼の自宅はある。昔ながらの一軒家といった佇まい。
 おそるおそる呼び鈴を鳴らす──が反応はない。その静寂が家の主の不在を知らせていた。
 試しにドアノブを捻ってみるとカチャリと音がしてドアが開いた。不用心にも鍵はかかっていなかった。
 一言断りを入れるが、案の定無反応だったため、勝手に上がらせてもらう。
 薄暗い廊下を一歩一歩、踏みしめながら歩く。あまりに静か。
 まったく無音のこの家の中で床が軋みを立てて鳴く音だけが響いている。
 手当たり次第に部屋という部屋を覗いてみるが、人の姿は確認できない。
 そして小さな客間に当たったところで俺は声にならない悲鳴をあげた。


「…………っ!!」

 俺の眼の前に飛び込んできたのは凄惨な光景。筋肉質の大男が机に突っ伏すように倒れている。
 頭部からは血液と脳漿が流れ出ていた。
 見るも絶えない状況に思わず吐き気がこみ上げてくる。
 だが戸惑っている場合ではない。事態は逼迫している。急がねばならない。
 俺は拒否反応を示す体にムチを打って自らを奮い立たせた。
 静かに歩み寄り、しゃがみ込んで遺体を確認する。
 顔を見たが、その男は間違いなくミスターブラウン──天王寺裕吾だった。
 俺は思わず目をぎゅっと瞑った。
 なぜだ。……なぜこの男が死なねばならない。
 再度、疑問が体全身を侵食していく。
 俺が世界線を変えてしまったから?
 それは考えたくなかった。
 ともかく、俺は再び遺体の確認を始める。死因は火を見るより明らかではあるが……。
 四肢の硬直もないことから、まだ亡くなって2,3時間といったところだろうか。
 右側頭部には銃創と火傷の跡があった。左側頭部からは、弾が貫通しているようで、そこから円錐状に血液が飛び散っており、壁にまで飛沫している。
 つまり拳銃自殺を試みたものだと思われる。
 しかし妙なことに握られているはずの拳銃は失われていた。
 だれが持ちだしたのだろうか?
 そう思った瞬間、天王寺綯が拳銃を握る場面が脳内にフラッシュバックした。
 もしやあの銃……。

 銃がなくなっている疑問は解決した。だがしかし、なぜ天王寺裕吾は自殺を?
 そしてなぜあの少女の中で、俺がこの人を死に追いやったことになっているのか。
 さらなる鍵が隠されていないかどうか、辺りを見回して探ってみる。
 するとある箇所に違和感を覚えた。
 彼が突っ伏している机は、大量の飛沫血痕と頭部から流れでた血液で汚れている。その血痕に奇妙な部分がいくつかあったのだ。
 途中で血液が途切れ、定規で引いたような線を描いているいくつかの血痕。
 それはまるで、2つの長方形の何かが置いてあったような。
 つまりそれは天王寺が命を絶つ前、ここに何かが置いてあったことを示唆しているのではないか。
 ちょうど長形3号の封筒程度の大きさから推察するに、きっと天王寺の遺書だろうか? 
 となると、その2つは天王寺綯が持ちだしたと思ってもいいはずだ。
 が、2つ……となると……いったい……。
 1つは娘宛のものだろう。もう1つはなんだ?
 もしや俺宛か?
 そうすると、その遺書の中に”天王寺裕吾を死に追いやったのは俺”と天王寺綯が思い込むような内容を指し示す何かが書かれているはずだ。
 それを知っておかねばならない。そんな気がした。
 曲がりなりにも、世界線を変えてしまった原因は俺にあるのだから。

今日はここまで
次回は木曜か金曜あたりに、できれば


 俺は御徒町の天王寺の自宅から飛び出て、ラボへの道を走っていた。
 すでに時刻は7時30分を回ったところだ。急がねばならない。
 人々の雑踏をかいくぐりながら中央通を駆け足で南下する。
 合計で2kmに満たないその道程だったが、ラボにつく頃には俺の心臓は異常に脈打ち、今にも張り裂けそうだった。

 大檜山ビル2階。
 重々しい鋼鉄の扉が俺の前に立ちはだかった。乱れる呼吸を抑えながら、おそるおそるノブに手をかける。
 この扉の先は一体どうなっているのか。計画通りならば紅莉栖とまゆりとダルがいるはずだった。
 だが紅莉栖が電話に出なかったのが気になる。
 俺は不安に押しつぶされそうになりながらドアノブを回す。
 回し終えたところで一度息を大きく吸う。俺は固唾を呑んで一瞬息を制止した。
 そして息を押し出すと同時にその勢いのままドアを一気に押し開け室内へと飛び入る。
 視界に飛び込んでくる懐かしの風景。だがいるはずのまゆりたちの姿は見えなかった。
 薄暗い空虚な室内で俺の荒い息遣いだけがこだましている。

「誰か……誰かいないのか!?」

 しーんと静まり返った間が俺の問いに対する返事だった。
 なぜだ。なぜなんだ。
 3人はここにいる手はずになっている。それなのにもぬけの殻ということは、もしかしてすでに襲撃があった? 
 しかし、ラウンダーの襲撃は8時頃のはず。


「くそっ!」

 ここにきて計画が次々と予想外の展開へと変化する。
 この時のために長い年月をかけて来たというのに。

「まゆりっ……!」

 助けたいと願った幼なじみの名前が口からにじみ出た。
 バタフライ効果により襲撃が早まってしまったのだろうか。
 だがこういう事態に陥った時のために、”例の薬”は紅莉栖にも持たせている。
 だからこの場にまゆりがいなくてもきっと計画自体には支障は出ない。
 もっとも、紅莉栖とまゆりが一緒にいればの話ではあるが。
 奥の開発室へと視線を移す。暗闇の先でそれはひっそりと佇んでいた。

──タイムリープマシン。

 ラウンダーの襲撃があったのならこのマシンも回収されていておかしくないはずだったが、依然としてこの場所におかれていた。
 紅莉栖たちを捕らえたはいいが、もう1人の開発者である俺がいなかったため、探し回っているのだろうか?
 それとも紅莉栖たちはまだ捕まっておらず、彼女らを追っていてマシンの回収どころではないのだろうか?
 それならばまゆりの命はきっと紅莉栖が救ってくれるはずだ。

 だがそれと同様に気になる事があった。
 天王寺裕吾と綯のことだ。
 綯の言葉が真実ならば俺は15年後に死ぬ。
 恐らくこのままレジスタンスを設立して、SERNに抵抗する人生を歩み、そして志半ばで倒れるのだろう。
 だがそれはいい。たとえこの身が滅んだとしても俺の意志はきっと誰かに引き継がれる。
 鈴羽の志がその形を保ち、俺に宿ったように。
 しかし──天王寺親子を取り巻く環境が大きく変わってしまったこの世界──
 きっと彼らの因果を歪ませてしまったのは俺なのだろう。

 ならばその歪ませてしまった環を少しでも正したかった。 
 
 俺は35年ぶりにその機械を間近で見て目を細めた。電話レンジ(仮)──タイムリープマシン。

 この機械があったせいで、色んな人が傷ついた。だが同時にまゆりを救う手立てを与えてくれたのも、この機械だ。
 俺は心の中で礼を言い、設定を完了させた。
 行き先は1時間ほど前。俺がラジ館屋上でタイムマシンに乗り込もうとする”俺”たちを待っていた時間だ。
 そこでもう一度綯と対峙し、問いただす。
 一体何があったのか。一体なのが起こるのか。俺はそう決意しヘッドギアを頭に被せた。
 再び過去へと跳ぶことに抵抗がないわけではない。
 俺は幾度と無くタイムリープした日々に思いを馳せる。
 まゆりを助けることもできず、鈴羽の思い出を消すこともできずに繰り返したあの2日間。
 その2日間の中で俺は少しずつ因果律から外れていった。
 だがその延々と繰り返される環の中から、手を掴みとって引っ張りだしてくれたのは鈴羽だった。
 その彼女の想いに応えるためにももう二度と逃げないと誓った。
 そう、今からするタイムリープは決して逃げではない。歪な楽園へと逃げこむためのタイムリープなどではなく。

 確かめに行くのだ。真実を──
 そのために俺は、もう一度時を超える──!

 そう心の中に刻んで。
 俺の意志は再び時を越えた。



 2010年8月13日 19:50 → 2010年8月13日 18:30




「あうぐっ……!!」

 強烈な痛みと痒みが俺の脳内で暴れまわっている。脳に痛覚はないはずなのに無数の針でぷつぷつと突かれているような感覚が襲う。
 俺は側頭部を拳で抑えながら痛みが収まるのをひたすら待った。
 忘れかけていた感覚だ。まさかもう一度この感じを味わう事になろうとは。
 やがて世界のぐらつきは止み、俺の感覚を司る五感が正常に機能しだした。

 目を開けると黄昏時の燃えるような陽差しが肌を照らし赤く染めていた。
 さっきまで真っ暗な室内にいたはずなのに、目が眩まない。
 まるで最初からその光の中にいたように。
 そう、一時間後から跳んできた俺の記憶と意識は今まさにこの肉体に宿ったのだ。
 ここはラジオ会館屋上。
 携帯で時刻を確認すると8月13日の午後6時30過ぎだった。
 タイムリープは成功した。
 考えたいことは色々あったが俺はすぐに8階へと降り、物陰に隠れて綯が姿を現すのを待った。
 やがて俺が見たのと同じ光景が巻き戻したビデオのように繰り返され始めた。
 まず最初に”俺”と鈴羽がやってきて、タイムマシンに乗り込もうとする。
 それをすんでのところで紅莉栖が止めに入り、3人は話し合う。最後には3人共1975年へと飛び立つ決断をし──
 3人がタイムマシンへと近づき、中へと入っていった。
 ”俺”が最後に乗り込むと、こちらを振り向き表情を変えるがすぐにハッチが閉められ、その顔は確認できなくなった。

──時はきた。

 俺はその場で立ち上がり、扉の方を見た。
 予想が正しければ、すでにそこにいるはず──
 想像に違わず、綯が拳銃を握ってそこに立ち尽くしていた。


「待て!」

「っ……! そこにいたのか、岡部倫太郎」

 俺が大声を出して名前を呼んだので多少たじろいだ様子を見せたが、やはり綯は俺のことを岡部倫太郎と呼んだ。
 俺が既に経験した”先ほど”と同じように。
 まるで子どもとは思えない口調と、表情で。
 すぐに銃口が俺の方へと向けられる。
 タイムマシンが動くことを知らせる回転灯が辺りを赤く照らす中で俺と綯は対峙していた。
 震えている場合ではない。なんとしても聞き出さねばならない。

「お前は……お前は一体……誰なんだ……?」

 俺の問いに目の前の少女は──

「あは、あはは。私は天王寺綯だよ。紛れも無くな」

 笑みを浮かべ、さらりと言った。さも当然かのように。
 だがその口調はやはり俺の記憶にある綯とは似ても似つかない。
 この少女に感じている違和感は普通じゃない。何かがおかしい。

「ただし、私は15年先の記憶まで、”思い出している”」

「15年先の記憶……だと!?」

 ”思い出している”ってなんだ。その言い方は、まさか──

「お前、もしやタイムリープを……!」

「そうだ。私は15年後──2025年でお前を殺してからタイムリープマシンを使ってここまで戻ってきたんだ。一度に48時間しか遡れない欠陥品だったからずいぶん苦労したけど」

 2025年……! 俺を殺して!?
 目の前の少女の発する言葉に俺は絶句した。


「お前を殺した時のこと、教えてあげよっか?」

 綯は先ほどまでの憎悪に溢れた表情を狂気に満ちた笑顔に変えた。

「なんかレジスタンスの創始者とか言って、SERNに歯向かってたみたいだけど、私が拉致して監禁して、考えつく限りの拷問をくわえてやったよ。ついでにお前が集めていた仲間も同様だ。その中でもお前が一番傑作だったなぁ……」

 なっ……!

「お前は痛みに泣き、喚き、クソとションベンをまき散らしながら命乞いをした」

 恐ろしい言葉を楽しげに言ってのける綯。
 いったい何が彼女をここまで変えてしまったのか。

「実に醜かったよ、岡部倫太郎」

「なぜだ……なぜそこまで俺を憎む!」

「お前は父さんを死に追いやった。その復讐だ」

「たったそれだけのために、15年もの歳月を遡ってきたのかよ!」

「たったそれだけだと? 私にとってはそれがすべてだ」

 それがすべて……。こいつはもう復讐の鬼と化している。
 こいつは15年後に再び俺を殺すと宣言している。だったら、俺に復讐心を抱いたまま15年間を再びすごすことになる。
 そしてその復讐心は俺を殺すまでは果たされない。それはあまりにも虚しい生き方ではないか。
 だが──
 なぜだろう。妙な違和感──
 15年もの歳月を遡ってきたにも関わらず、俺に対して何かするわけでもなく──
 こうして恐怖心を煽るだけ。
 そもそもだ。
 こいつはすでに俺を殺した記憶を持っている。だとすればこいつの復讐は果たされているはずだ。
 ならばいくら俺が憎かろうが、それ以上は何もできないはず。
 それなのにあえてこの時代まで何千回ものタイムリープを繰り返してここにいる。あまりに不自然だ。
 それほど俺が憎いのか? やり場のない怒りをぶつけるためにこの時代まで戻ってきたと?


「お前は15年後に殺す。それまでただ怯え、後悔し続けろ、岡部倫太郎。15年後に私が迎えに行くまで」

 そう言い捨てると、少女は俺の目の前から姿を消し、駆け足で階段を下り始めた。

「あ、待て!」

 俺は考えるより先に追いかけていた。このまま放っては置けない。
 静かなラジ館内にコツコツコツと足早に階段を駆ける音が交差する。いくら先に降り始めたとはいえ相手は子ども。
 数段飛ばしで下っていた俺は数階降りたところで追いつき、小さな肩をつかんで強引に引き寄せた。
 すぐに綯がこちらを振り向き厳しい視線をこちらに送ってくる。

「待てと言っている!!」

「…………っ」

 15年後の記憶を持っているとはいえ、やはり体力では俺の方に分がある。
 何十段もの階段を全力疾走で降りたせいか、綯はぜいぜいと息を荒らげながら俺を睨みつけてきた。
 まるで矢のような視線。それほどまでに俺が憎いのか……だが──

「本当にそれだけか!? 本当に俺が憎いというだけで、15年もの歳月を遡ってきたのか!?」

 俺は叫ぶ。子供相手に大人げないかもしれないが、状況が状況なだけに気持ちを抑えられない。
 傍から見れば少女の肩を強引につかんで息を荒らげる変態にしか見えないかもしれない。
 タイムマシンが消えればここは大騒ぎになるだろうからことを急ぐ必要がある。幸い今は誰もおらず見られる心配もない。


「俺を殺してタイムリープして! 再び15年を積み重ねて俺を殺したら、また繰り返すのか!? タイムリープを!」

 俺は勢いに任せてまくし立てる。
 それでも目の前の少女は動じず、俺をまっすぐと見据えたまま睨みをきかせている。
 日本人の瞳よりも少しだけ碧く見える2つのそれが俺の姿を捕らえて逃さない。
 だがその瞳の色は暗く淀んでいる。小学生の少女とは思えない深いダークブルー。
 繰り返される時の環に絡め取られ、少しずつ心が壊れていっているんだろうか。

「俺もタイムリープを繰り返したから分かる! いくら繰り返したからと言って心が満たされることは永遠にない! それどころかいずれ自分を蝕むように侵食していくんだ! あれはそういうものなんだよ!」

「そんなの知ったことじゃない。お前は父さんを殺した。だから許さない。絶対にだ。あらゆる場所。あらゆる時のお前を殺してやる。そのためだけに生きてやる」

 いや、そうじゃない。きっとそうじゃない。
 こいつは多分──

「お前は──」

 父親の死をなんとか防ぐために戻ってきたんじゃないのか?
 俺を殺してもやはり満たされることはなくて。
 一筋の希望を携えて時を超えてきたんじゃないのか?
 そしてタイムリープがもたらす歪みに耐えられなくなってしまったんじゃないのか?

「父親を助けるために跳んできたんじゃないのか!?」


「……っ!」

 突如、今まで揺るぎない眼差しをしていた瞳が激しく揺れ動いた。
 今まで俺が何を叫ぼうとも動揺の色すら見せなかった綯の表情が歪んでいる。

「俺を自らの手で始末したところでお前の気持ちは晴れなかった。そうじゃないのか!」

 綯は肩を掴む俺の手から逃れようとじたばたと暴れまわる。
 が、所詮は大人と子供。体力の差は歴然である。どう足掻こうが逃れられない。

「私は……私はっ……!」

「だからこうしてここまで跳んできた! だってそうだろ。俺は2025年まで生きてることが確定している!」

「15年後にお前を殺すっ……! お前を怯えさせるために……!!」

「こんな俺に対してできるのは所詮そうやって恐怖心を煽って不安に陥れようとするだけだ!」

「…………っ」

 この時代において特別に成し遂げたいことがあるわけでもなく、ただ俺を脅すだけにタイムリープをしてきたというのなら。
 そんな人生はあまりにも悲しすぎるじゃないか。
 だから俺は願う。
 どうかこの目の前の小さな復讐者にもまだ──人として自然に芽生えるはずの感情が残っていてくれ、と。


「だが俺はお前の脅しになど屈しない! 俺には勝たねばならない戦いがある! 引き継ぐべき意志がある!」

 故に──

「お前のやっていることは無意味だ!」

 確かな口調で、はっきりと告げてやった。こんな復讐は無意味であると。
 その発言を皮切りに綯を支えてきたものがガラガラと音を立てて崩れるように倒れていくのが目に見えて分かった。
 少女はついにその場で膝をついて顔を覆って泣き出し始めた。

「だとしてもどうすればいいんだよ……。私は……っ私はっ……どうにも……できない……! できなかった……!!」

 ラジ館の暗い階段に響き渡る少女の泣き声。
 大人である俺が完全に泣かした構図だ。いや、間違いはないのだが。
 こういう風にただ泣いている姿だけ見ればただの少女にしか見えない。
 いや、本当はただの少女なのだろう。
 だが15年後の記憶と収束する父親の死という絶望が人格に偏りをもたらし、やがて復讐に狂わせたのかもしれない。
 目の前で泣きじゃくる少女を見ていると、つい居た堪れなくなり罪の意識が強くなる。

「俺に任せてみないか?」

 気づけば自然と口にしていた。


「…………」

 それに対する返答はなかった。が返事はなくとも食いついたのは明らかだった。

「俺だったら──世界線が変動しても記憶を持ち続けることができるこの俺だったら──お前の父親、天王寺裕吾を救えるかもしれない」

 それは希望的観測だ。
 それに俺の目的はあくまでまゆりを救うこと。本来であればこうして寄り道をしている場合ではない。
 だが、この俺の想いがこの親子の運命を変えてしまったのであれば──
 少なくとも何もせずにはいられなかった。

「…………」

 俺がそう声をかけると綯は懐から何かを取り出してこちらに差し出してきた。
 それは血にまみれて汚れた1枚の封筒だった。

「これは……」

「……父さんの……残した遺書だ。お前宛のな……」


 現場から持ちだされていたヤツか!
 やはり綯が持っていたか。
 だが宛名は俺ではなく、なぜか秋葉幸高だった。
 俺が不思議に感じているとそれを察したのか、綯がその謎を補うように声を掛けてきた。

「それは本来、お前宛に父さんが幸高おじ──秋葉幸高に託したものだ」

「なに? 幸高に……?」

「父さんはお前と秋葉幸高につながりがあることを知っていた。お前の居場所を知らなかった父さんは彼に託したんだ。もともと、秋葉原商店街の顔なじみの関係で、2人は知り合いだったしな」

 確かに、幸高とは俺が東京電機大学で教えてる頃からの知り合いで、一旦は関係を絶っていたものの、やがて俺が東京に戻った1997年以降も付き合いがあった。
 管理を任せていた大檜山ビルのこともあったし、何より残してきた2人の子どもたちのことが気になっていたから。
 幸高の話によれば、2人は一時施設へと預けられた後、幸高の知り合いが里親として2人一緒に引き取ってくれたという。
 もちろん、会いに行ったり、話をしたりすることは叶わなかったが。
 94年以降はバブルもすでに弾けていて彼の会社の経営も苦しいものになっていたし、その頃には幼い留未穂もいたから、何も告げずに皆の前から姿を消した俺が幸高に何か言えた口ではなかった。
 いや、むしろ施設に定期的に様子を見に行っていてくれたことや、里親となってくれる知り合いをあたっていてくれたことに感謝してもしきれないくらいだった。
 特に2000年以降、研究を完成させる上で実験体とならざるを得なかった俺は、様々な困難に見舞われる可能性があったため、誰か信頼の置ける人物の籠が必要だった。
 俺はその役目を幸高に頼み、そして今まで手助けをしてもらっていたのだった。
 そのように、礼をしてもしきれないくらい秋葉幸高には世話になっていた。


「そしてこの時間軸では、秋葉幸高の手に渡る前にこの私が回収したものだ。父さんが命を絶った後、御徒町の自宅に彼が訪れる予定だったから」

「なぜ……、そんな真似を?」

 そんなことをする意図が見えてこない。
 まさか秋葉幸高がこの件に1枚噛んでいるのか?
 いや、そんなはずは……。

「あまり彼を巻き込みたくはなかったからな。まぁ、どちらにせよ彼がお前に加担するのは未来で確定済──ってそれはどうでもいい。早く中身を読め、そして知れ。お前が──お前たちがどれほど軽率な行動をしていたのかを──」

 俺はそんな綯の言葉に誘われる様にに手紙の中を探った。
 端々に血がついて固まっているため封筒から中身を取り出すのに苦労した。
 中には秋葉幸高に対して、綯の世話を頼むという天王寺の思いと、この遺書を俺へと託すよう願いを込めた手紙が入っていた。
 そしてもう一回り小さい1枚の封筒。中には折りたたまれたA4サイズの手紙。
 そちらには書き出しに謝罪の言葉と俺が1994年、死を偽装した後に使っていた偽名──つまり1997年に天王寺裕吾に出会った時、名乗った名前が記されていた。
 以下に書かれていたのは、彼の悔恨と懺悔の想い。
 そして紛れも無く、俺が巻き込んでしまったことの証だった。




───────────────────────────────────



 本当に悪いと思っている。
 あんたには世話になっておきながら最後まで迷惑かけっぱなしだった。

 どうしてこんなことになっちまったんだろうなぁ?
 
 1997年に俺が秋葉原に赴いた際の任務は2つあった。
 1つはIBN5100の捜索。
 もう1つは、あんたの監視だった。
 
 驚かせちまったか?
 なんで自分が俺に監視されるんだって思っただろう。
 俺に理由はわからない。あんたが何をしたかまでは聞かされてないから。

 でもあんたにはきっと心当たりがあるはずだ。
 監視対象はSERN──300人委員会に害を及ぼす可能性がある人物。
 だからその対象者にあんたが選ばれた。
 そしてその監視者にこの俺が選ばれた。
 SERNの治安部隊という位置づけであるラウンダーという組織の構成員として。

 ところで隠していたみたいだが、あんた娘が2人いるんだってな。
 俺にも娘がいるからその愛おしさがよく分かる。
 そんな娘と離れ離れになってでもやりとげようっていうあんたの目的、気になって仕方がなかった。
 その疑問がいつしか俺の中で葛藤を生み始めた。
 命令通り、このままあんたを監視し続けてもいいのかって。
 恩を讐で返すような結末になっちまうかもしれないのにって。
 結局、俺は家族を守るために任務に徹した。流されちまった。
 
 あんたは気づいちゃいなかったかもしれねえが、あんたの娘2人にも委員会の監視がついていたようだ。
 委員会の周到さをナメすぎちまったかもな。
 その監視の情報は父親であるあんたを監視している俺にも伝わってきた。
 どこそこで暮らしていて、何を学んでいて、何を食べてるのかまで気持ち悪いくらいに詳細にな。
 そして委員会は傘下のとある組織の研究員に2人を加えて、あんたがやっていた研究を引き継がせていたらしい。
 けれどどうも、姉の方には研究の役に立たねえという理由から、結局俺たちがやってるような末端の汚れ役にされちまってたみたいだ。
 そんな組織のやり方が気に食わなかったんだろうな。姉は妹を連れて組織をぬけ出す算段を立ててたみたいだ。
 けれど委員会はそんなに甘くはない。
 何か理由をでっち上げて、姉を処分する腹積もりだったらしい。
 俺はどうにかそれを止めてやりたかった。
 あんたには世話になったから。家族を失ってほしくなかったから。

 ある時俺が、なんだって縁もゆかりもねえのにこんなによくしてくれるんですかって、聞いたことあるよな。
 そしたらあんた笑ってこう答えた。

 巡り巡って人は誰かに親身にしてもらうことになってる、だから貴方もいずれ誰かに親身にしてあげることだ、ってよ。
 
 そんな言い方もできる人なんだって感心したけどよ。
 その後、特に家賃に関してはって、付け加えたのがおかしくてよ。
 
 あんたと一緒に居た数年間。あんたの強引な空気に振り回されつつもそれがそんなにイヤじゃなくて。
 気づけばあんたのこと、父親かなんかのように思ってたのかもしれない。
 
 2000年を境に煙のように姿を消しちまったのは驚いたけどよ。
 あんたがなにかの目的のために娘2人と離れてまで生きてきたことは知っていたんだ。
 そんな風に何かを犠牲にしてまで歩んできたあんたが、俺のために色々してくれたこと本当に感謝してた。
 だから恩を讐で返すような真似はしたくない。したくなかった。
 けれど俺は止められなかった。
 あんたの娘は委員会に処分された。
 
 なあ、あんた今、近くにいるんだろ?
 せめて妹だけは守ってやってくれよ。
 俺にその力はない。俺にはこうやって、あんたに知らせることくらいしかできない。
 もし反抗すれば、委員会に仇をなす裏切り者として処分されちまうだろう。
 それはできない。綯を危険に晒すことだけは……できない。
 かといって、今までのようにあんたに迷惑をかけ続けることも、できねえんだ。
 俺にはもう、この道しか選べない。

 本当にどうしてこんなことになっちまったんだろうなぁ。



─────────────────────────────




 握った手に力が篭り、俺の手に包まれる便箋が音を立ててしわくちゃになっていく。
 色々な事が一度に頭に入ってきてぐちゃぐちゃだった。整理しきれない。
 1994年、死を偽装して上手くEMBIの連中を出し抜いたと思っていた。

──けれどそれはバレていた。
 
 天王寺裕吾が俺を監視していた。

──ラウンダーとして。
 
 俺の娘が監視されていた。

──そして殺された。

 ああああああ──
 絶望にも似た思いがこみ上げてきて、思わず叫びだしそうになっていた。
 鈴羽が生きてきた証である娘が殺された?
 俺が──俺と紅莉栖が守り通そうとした存在が奪われた?
 委員会の手にかかって?
 なんてことだ。俺たちは結局逃げきれてなどいなかった。
 それどころか守るために遠ざけたはずの娘たちにすら危険を及ぼしていた。
 そして殺された。彼の遺書にかかれていることが本当ならば。
 いや嘘など書く必要があるだろうか。
 文章を見る限り、俺の娘を守れなかった後悔と責任から彼は死を選んだようだった。
 ならば嘘を書く必要は──ない。紛れも無く真実だということ。
 その真実が俺の胸に深い闇を生じさせ、ぽっかりと穴を開けた。
 喪失感と絶望感。
 真っ暗な闇を漂うように俺も周りも不気味に揺らめいている。夢なら早く醒めて欲しかった。
 やがて訪れたのは悲しみ、怒り、悔み。
 俺はラジ館の壁を拳で打ち付けていた。
 くそ! ここまできて、なんでこうなるんだよ!
 俺はその場でへたり込んで下を向いた。ラジ館の無機質で冷たく暗い床に一滴の涙がはじけた。
 悔し涙で視界が滲んで見えなくなる。


「…………理解できたみたいだな、父さんが死んだ理由が」

「…………」

 俺は答えなかった。答えることができなかった。
 しかし綯の中ではその沈黙を肯定として受け取ったようだった。
 事実、俺は理解していた。紛れも無く俺のせいであった、と。
 俺と関わってしまったがために、彼は自ら命を絶つこととなった。

「そう、お前と関わってしまったがために父さんは死んだ」

 まるで心の中を読むかのように綯は俺を追及する。

「お前が中途半端に優しくなんてしたから父さんは死んだんだ!」

 先ほどとは打って変わって──
 綯は目尻に涙を浮かべながら俺の胸ぐらを掴んで、怒りに身を任せながらまくし立てる。
 俺は何も言い返せないでいた。
 結局、俺がやってきたことは無駄だったのだろうか。
 1975年に跳んで、記憶を失って。
 それから10年、鈴羽と共に穏やかな時間を過ごし、彼女がこの世に生きた証を刻むことができた。
 後に紅莉栖から知らされたのは、そんな幸せを壊す絶望だった。
 このまま時を過ごせば俺の幼なじみであるまゆりの命が失われる、と。
 すべてを捨てて1975年に跳んだのはそんな運命を変えたかったからなのに。
 その運命を変えようとすれば、1975年に跳んだ紅莉栖も俺も鈴羽も消える。
 そして鈴羽が生きた証である娘の存在も消える。
 そうならないために十数年間を費やし、そしてこれからまた数十年、戦い抜くはずだった。
 けれどムダだった。俺の生きてきた意義は霧消と化した。


 俺が前を向いて進み続けると決意するに至ったあの娘の命はすでに失われた。
 俺が長年かけて組み立てた計画は結局意味がなかった。
 2025年に俺は死ぬ。
 それはまだいいとして。
 こいつの言うことが本当なら俺が集めた仲間たちは、俺が死ぬのと同時に壊滅状態。
 何人かはダルとともに生き残り、タイムマシンを作り上げて共にSERNに立ち向かい、鈴羽がタイムトラベルをするために尽力してくれるだろうが……。
 それではきっと、未来は変えられない。
 鈴羽の意志は守れない。

「お前のせいだ」

 そうだ……。
 全部俺のせいだ。

「お前のせいなんだよ岡部倫太郎!!」

「…………」

「お前が何の算段もなしに1975年へとタイムトラベルなんてしなければこんなことにはならなかったんだよ!!」

 綯の容赦無い詰責が再び俺の心をえぐった。
 紛れも無く、本当のことだった。
 俺の心は急速に悔恨の念に支配されていく。
 俺がダルに最初のDメールを送らなければ。
 俺がSERNにハッキングしようなんて言わなければ。
 俺がDメール実験と称して世界線を不用意に変えなければ。
 俺が鈴羽の誘いを受けて、1975年へと共に旅立たなければ。
 俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が。

──俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺が俺俺俺俺俺俺俺俺。


 自責の思いは次々に生まれては俺の心をえぐりながら侵食していく。
 ずぶずぶと胸の中に沈み込んで楔を打ち込んで心を腐食させていく。
 頭がどうにかなりそうだった。
 逆に今ここで気が狂ってしまえば楽になれるとも思ってしまえるほどに。

「…………」

 そこでふと、違和感が俺の体の中を駆け巡った。
 待てよ?
 今こいつはなんといった。
 俺が1975年にタイムトラベルしなければ?
 いや、もちろんそれもあるが、そうではない。
 その前……。俺だ。俺の名前を呼んだ。
 岡部倫太郎、と。確かに!
 確かに俺は岡部倫太郎だ。紛れも無く。そして1975年へと旅だった。それは間違いない。
 けれどなんだこの違和感は。

「ま、まて。まてまてまて、綯よ! なぜこの俺が1975年へとタイムトラベルしたことを知っている!」

 そうだ。こいつにとっての岡部倫太郎は、今しがたタイムマシンに乗り込み、タイムトラベルした岡部倫太郎のはずだ。
 そして仮にあの機械がタイムマシンだと分かっていても1975年へと跳んだことが分かるはずがない。
 とするとなるといったいどういうわけだ。


「そんなこともわからないのか」

 わけが分からずうろたえる俺に反して綯は冷静だった。
 その冷静さが、感じている違和感を増長させ、余計に不気味なものと変えていく。
 俺は何か、とんでもないことを見落としているような。
 そうだ。天王寺の遺書に記された宛名は岡部倫太郎宛じゃなかった。
 宮野の名前でもなく、その後作った偽名だ。1994年に身をくらましてから使っていた戸籍の名だ。
 そして例え俺と幸高のつながりを知っていたとしても、岡部倫太郎と、後の2つは絶対につながらないはずだ。
 だから綯が岡部倫太郎と認識しながらこの俺に天王寺の手紙を渡すことは不自然なんだ。
 なのになぜ──
 いや、待て。もしかすると鈴羽が事あるごとに出した俺の本名が筒抜けだったということか?
 だとすると、もしや──
 いや、そんな、まさか──

「お前はバレていたんだよ。ずっとな」

 な……に?

「どういう……ことだ? EMBIを裏切って死を偽装して逃げてきたことか……?」

「ちがう。そうじゃない。そういうことじゃない」


「1975年へのタイムトラベル。それ自体、バレていたんだよ」

「なん……だと……?」

「まだ、わからないのか。お前は監視されてきた。1987年からずっとな」

「なに……1987年……?」

 思い出せ、1987年に何があったか。思い出すんだ、よく考えろ!
 1987年、それは──
 俺が記憶を取り戻した年だ。
 鈴羽の妊娠をきっかけに世界線を変えることができなくなった紅莉栖が俺に求めたのは記憶を取り戻すことだった。
 もはや世界線を変える決断をできなくなった紅莉栖は、判断を俺に委ねた。
 リーディングシュタイナーをもたない彼女ではもはやどうにもできなかったから。
 そして2人でロンドンへと赴き、とある人物の助けを経て俺は記憶を取り戻した──

「そう、お前の監視をし続けた人物は──」

 記憶を取り戻すための治療法は精神療法──

「1987年にお前の精神療法を施した──」

 その人物とは──

「ミゲール・サンタンブロッジオ──」

 ミギーの愛称で呼ばれていた男──

「300人委員会を構成する1人だよ──」


 突然、頭を殴られたような衝撃が俺を襲った。理解が追いつかない。
 なんてことだ、信じられない。
 あの朗らかで気立ての良いイタリア人が300人委員会の連中だと?
 あの時から俺は監視対象だった、と?
 しかしなぜだ。俺はバレるようなことは何もしていないはずだし、紅莉栖もうまくフォローしてくれたはずだ。

「奴は世界中に隠し子がいるみたいでな。それは日本も例外じゃないんだよ」

「なに……?」

「奴は日本語も堪能だ」

「バカな……」

 だが彼は紅莉栖に通訳を依頼していたはずだ……。それがなぜ……?

「わからないのか?」

「え……?」

「1975年に跳躍したお前たちはその場でタイムマシンを破棄──姿をくらませたはずだ。だけど、タイムマシンは自然に消える訳じゃない。委員会は調査し、調べあげ、そして解き明かした。それがタイムマシンであるものだったと」

「まさか……1975年でそんな……」

 いや、SERNはすでに1973年において時空間転移の研究を極秘に行っていた。
 ならばあの機体をタイムマシンと結びつけるのはおかしな話ではない。


「タイムマシンはあれど、タイムトラベラーはいない。ならば委員会はどうする? ずっと探されていたんだよ、お前たちはな」

 あのタイムマシンは国籍不明の人工衛星のまま、調査が進まずにやがて破棄されたはずだった。
 けれどそれはきっと情報統制された報道だったのだろう。
 俺たちはまんまとその罠に乗せられたんだ。

「候補は他にも数名いたようだが、その中に牧瀬紅莉栖がいた。無論彼女はそれなりに上手くやっていたようだが、少し目立ちすぎたようだ。委員会を甘く見ていたな。ミゲールは巧妙に牧瀬紅莉栖に取り入り、そして手に入れた。確たる証拠を」

「…………」

「精神療法の最中にお前が口走った記憶の残滓には、当然タイムマシンの情報もあるだろう。牧瀬紅莉栖がそれを上手くフォローしたとしても当のミゲールには筒抜けだ」

 だとすると紅莉栖がEMBIの研究に携わったのも、偶然の産物などではなく。
 紅莉栖や俺を監視下に置くための策だった──?
 結果は予想以上の成果が出て、その成果を封印するため俺たち2人は逃亡を企てたが、それでも奴らは俺たちを捕捉し続けたということだ。
 周到に、狡猾に。
 委員会に牙をむく時の反逆者として。
 つまり、俺たちの目論見は結局甘かったということだろう。


「お前たちのような個人が死に物狂いで頑張ったところで委員会という大きな壁は打ち崩せないんだよ」

 綯の言うとおり、国家の枠組みを超越した機関に対して、あまりに希望的観測な判断で挑みすぎた。
 時を越えたとはいっても俺はただの研究者。スパイ映画に出てくるような超人なんかじゃない。
 きっと己の力を過信しすぎていたのだろう。
 時を見定める者として、なんでもできると思っていた。
 そんな傲慢な観測者に対して罰が下ったのだ。

「そしてお前は絶望に打ちひしがれながら命乞いをして──死んでいくんだよ」

 EMBIでの不老不死の研究のさなか、紅莉栖は言った。
 本来、人間は時の流れには逆らえない。それを無理やり捻じ曲げようとすれば、人は罰を受ける。
 まさに今の俺がそうだった。

今日はここまで
中々多忙で時間がとれず更新できなくて申し訳ない


「…………」

 言葉が出なかった。俺の喉からにじみ出るのはひび割れたような呼吸音だけ。
 再び、涙がこぼれた。
 滴り落ちた涙は俺の頬を伝って、固く冷たい床に叩きつけられてばらばらに砕け散った。
 やはり俺たちは1975年へと跳ぶべきではなかったのだろうか。
 35年もの歳月を積み重ねて突きつけられた現実。
 世界はどこまで行っても非情なものだった。
 俺は鈴羽を失い。娘も失い。さらに未来も失った。
 そんな俺はこれからどう生きていけばいい?
 絶望の未来が待つ15年後に向けてどんな想いを持てばいい?

「……っ」

 先ほどから嗚咽と震えが共鳴するように大きくなり、次第に見えてるもの全てを歪ませるようにかき回していく。
 絶望などという言葉では表現しきれないほどの深い闇が、俺の世界を破って侵攻しようとしてきた。
 その深淵に、俺の体は刻まれていく。心が切り離されていく。
 信じてきたものが散り散りになり、もはやかき集めることも不可能なくらい、崩壊しようとしていた。
 このまま闇に飲まれて何も感じなくなれば、まだ苦しまなくていいかもしれない。
 襲いかかる底なしの暗黒に身を委ねかけていたこの俺を引き戻したのは綯の一言だった。

「さあ約束だ。父さんを助けろ」

「な……に……?」

 からからに乾ききった喉を奮い立たせ、懸命に動かした。
 雑音が混じったようなだみ声に自分でも驚く。


「任せてみろと言ったよな? このまま父さんを見殺しにしたまま生きていくというのなら、お前を殺す。15年後にな」

 見るに耐えないひどい顔をしていたであろう俺にかける、綯の情け容赦ない辛辣な言葉。

「それが嫌なら父さんを助けてみろ、救え。このまま何もせずに無為に過ごすなんて許さない。お前はすでに時の環を崩した大罪人だ。罪の意識を抱け。贖え」

 だがある意味で、この酷薄な罵倒が現実感と気概を与えてくれる。
 天王寺を助けるという新たな目標を目の前に、俺の心と体はつぎはぎながらも足並みを揃えてまとまったような気がした。

「無茶を……言ってくれる……」

 相変わらずしゃがれ声しか出すことができないが、先ほどより幾分か鮮明に聞こえたような気がした。
 俺としてもこのまま黙って見過ごすことなんてできない。
 ならどうすればいい?
 どうすれば天王寺を助けられる。どうやって死んだ人間を救う。
 それには世界線を変える他ない。つまりはタイムリープかDメールを送るしか方法は無い。
 タイムリープは論外だろう。タイムリープのみでは世界線を大きく変えることはできない。
 人のちょっとした行動や過程を変えることはできても、結果までは変えることはできない。
 天王寺の死因を変えることはできても、死を回避することはできないだろう。まゆりの時と同じように。
 ならばまゆりを救うための”薬”を使うか?
 いやしかし、まゆりならともかく、天王寺が俺の言うことを素直に聞いてくれるとは限らないし、彼の悔恨が消えるわけではない。
 そもそも、天王寺を助けたとしても俺の娘が死んだことには変わりは無いんだ。
 ならDメールだ。
 だがどう送る? いつにどんなメッセージを送れば俺が望んだ結果になる?
 俺が初めてメールを使い出したのは1995年にMindorz95のパソコンを導入した日だったか。
 ケータイへのメールと違ってパソコンのEメールで、Dメールの受信はできるだろうか。
 仮に送れるものとして、だ。
 1995年──確かに、天王寺との出会いの2年前ではある。
 その日の俺に彼と必要以上に近づかなくなるようなメール……つまり彼がラウンダーであるという旨のメールを送ればどうか?
 そうすれば当時の俺は警戒し、彼と親しくなることはなく、天王寺が自殺することもなくなるのではないか?
 だがそれだけでは不十分だ。
 なぜなら、それだけでは俺についた監視の目は取り除けない。
 それはつまり、俺の娘まで監視下に置かれるのは変わらず、やがて……命を落とす可能性が高いだろう。
 そんなのだめだ。それはさせてはいけない。そんなことあってはならない。
 鈴羽の生きた証である彼女をわずか22年という短い命で終わらせたくはない。
 もっと生きていて欲しい。
 親としては当然の感情ではあるが、鈴羽がいない今、その感情はより一層大きくふくれあがっていた。
 絶対に、死なせたくない──

 
 ならばどうする。どうすれば助けられる。
 どうすれば過去を変えられるというのだ。
 俺は自分の中で自問自答を繰り返す。
 ミゲールにタイムトラベラーとしての証拠を掴まれたことによる付いた監視の目。それを取り除かねば、恐らくは俺の望む結果にはならない。
 だが1995年へのDメールではその過去を改変することはできない。
 薄暗い階段の踊場で膝をつき解法に考えを巡らせるが答えは出てこない。
 やがて外が随分と騒がしくなってきた。
 消えたタイムマシンが話題となり、野次馬を呼び寄せているのだろう。パトカーのサイレンも鳴り響いている。

「タイムマシンが消えたことによって警察が動き出したか……」

 綯は壁の向こう側を見透かすように目を細めて音がする方を見ながらつぶやくと、やがて俺の方を見て言った。

「捕まるのはごめんだ。私は先に行くぞ岡部倫太郎。いいか、必ず父さんを救え。さもなくば──」

「わかっている……」

 俺がそう答えると綯は階段の闇へと消えていった。
 徐々に近づいてくるサイレンの音が、俺に時間が残されていないことを告げていた。
 早くこの場を離れなければ、という思いが一層強まり、俺は立ち上がって階段を駆け下り始めた。


 急いでラジ館を抜け出し、人の群れをかい潜るようにしてラボへと逃げてきた。
 薄暗いラボ内に充満するのは、時が止まったのではないかと錯覚するほどの静寂。
 時計を確認すると7時30分の表示が、ちょうど7時31分へと変わったところだった。時間は確実に通りすぎようとしている。
 俺はその静けさの中、再び考え始めた。
 どうすれば天王寺裕吾を救い、俺の娘の助けることができるか……。
 それも過去を大きく変えずに、だ。
 下手に世界線を変えてしまえば今までの計画は水の泡になる可能性があった。
 だから慎重に考えてDメールを送らねばならない。
 俺は再度自らに問う。
 そんなこと本当にできるのか? 俺はみんなを助けられるのか?
 誰かを助けるためには、誰かの命を切り捨てなければいけないんじゃないのか?
 普通はそうだ。普通なら誰もがみんな、取捨選択して生きていく。
 なにもかもを手に入れる人生なんて、ない。
 だが俺はそうしなければいけない。
 だって、そうするために戦ってきたんだから。
 鈴羽の思い出を消さずに、まゆりを助ける。俺はその想いを抱きながらここまで戦ってきた。
 今更それを諦める訳にはいかない。
 俺は俺が思うがまま、すべてを手に入れてやる。そう強く決心したんだ。
 傲慢といいたくば言え。不可能だと笑いたくば笑え。俺は俺の道を貫いてやる。
 だからこんなところで立ち止まっているわけにはいかない。
 志半ばで息絶える訳にはいかない!

──必ず、みんな救ってやる!!


 ふとまゆりのことを思い浮かべた。
 ここまで来るのに35年かかった。やっとここまできた。
 後もう少しで、悲しい運命からまゆりを解き放ってやれると思っていた。
 だがあと少しのところで俺の行く手を阻む魔の手が忍び寄っていた。それは世界の罠ともいうべき存在。
 すべてを手に入れるなどとのたまう傲慢な人間に与えられた罰。
 だから俺から奪っていくのだ。そう感じた。
 せっかくまゆりを助けられるところまで……来たのにな。
 俺は目を閉じて、35年の人生を反芻した。
 思えば色々なことがあった。
 鈴羽と紅莉栖と俺の、奇妙ながらも賑やかだった共同生活。
 資金繰りに苦しみつつもIBN5100を目指し躍起になったこと。
 幸せはすぐそばにあったのに、あまりに近すぎて見えなかった10年間。
 そして手に入れた温もりと、宝物。
 失われた記憶が蘇るとともに追随するように訪れた絶望。
 闇と落ちていく俺に手を差し伸べてくれた恩人達。
 そして今この時に至るための計画と、神をも冒涜する研究に身を投じた日々。
 35年間の歩みが走馬灯のように思い出されていた。

──そこに、ヒントがあった。


「…………っ」

 思わず息を呑む。脳髄に電流が走ったかのような衝撃が襲い、体全身を痺れさせた。
 まさか……そんな。
 まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように口を大きく開けては閉じる。
 傍から見れば餌をほしがる金魚のように見えたかもしれない。それくらいの衝撃だった。
 地に足がつかないようなふわふわとした感覚に陥る。
 行けるかもしれない。いや、行ける。届く。

──1987年に。

 たとえ偶然の産物だとしても。
 俺はそれが必然のように感じられた。

──ポケベルだ。 

 そう、俺は1986年にポケベルを手にしていた。
 鈴羽が持っていたこともあり、俺も強引に持たされていたのだ。
 例えポケベルだろうとDメールを受信することは可能であり、それに伴う世界線の変動も確認している。
 ルカ子の母親に送ったDメールが何よりの証拠である。
 そしてそのDメールは見事に機能し、ルカ子は男から女になった。
 ならば今回もポケベルは使えるのではないか。
 あいにく、俺が持っていたポケベルは文字表示ができない。がしかし、2タッチ入力といって、2つの数字を組み合わせて文字を表現することはできる。
 だから2タッチ入力で目的の文に相当する数字を送れば、文字として解読できる。
 すぐにネットで情報を得て文章を考えた。
 ポケベルへのメッセージ送信の方法についても調べる。
 まず宛先は俺のポケベルの番号だ。
 そして関東地方なら*2*2と打ち込む必要がある。
 その後に入力した数字が相手のポケベルに表示されるという仕組みだ。
 つまり*2*2の分も必要になるため、ひらがなで16文字。さらには濁点も一文字として換算せねばならない。
 俺は考えた文章を数字に変換し、ポケベルへと打ち込む。
 焦りと不安が俺の指を震わし文字がうまく入力できない。
 落ち着け、焦るな。
 やがて入力が終わると俺は間違いがないか何度も確認する。


     *2 *2 
     72 24 04 69 93 61
     34 93 03 55 44 31
     22 19 69 38

 文字入力に対する数字の割り当てはこうだ。
 変換するとこうなる。

     みけ゛─るは
     せるんのてさ
     きD─M

 最後のD─Mの意味するとこはきっと俺と紅莉栖ならば理解できるはず。

     D─M──D─Mail──Dメール


 これがDメールであると、理解してくれるだろう。
 この文章を見ればミゲールサンタンブロッジオに接触する危険性に気づき、行動も変わるはず。
 厳密に言えば奴はSERNの手先と言う訳ではなく、300人委員会の1人ではあるが、文字数制限と、単なるいたずらで済ませられてしまう可能性を考えればこの文章の方がベターだろう。
 あとは信じるしか無かった。
 このDメールがきっかけで再び世界線は大きく変わるかもしれない。
 まったく変わらないかもしれない。
 そのことに対する不安がないわけではなかった。
 しかし──
 いかに行動しようとも、少なくともそれは無為よりはましである。
 タイムリープで逃げ込んだあの2日間のようにこのまま何もせずに生きていくなんて、できない!


 俺は自分の携帯をにぎりしめ、祈った。
 もしかしたら俺が積み重ねてきた年月が無駄になってしまうかもしれない。
 もしかしたら過去は変わらず、絶望を突きつけられるかもしれない。
 だが不思議と怖くはなかった。
 だって俺には大切な仲間がいるから。決して1人じゃ無いから。
 鈴羽も紅莉栖も、そのことに気づかせてくれた。
 彼女らが居てくれれば俺はきっと、再び立ち上がる。
 不死鳥のように何度でも──
 なぜなら俺は狂気のマッドサイエンティスト、鳳凰院凶真だからだ。
 俺は決して──
 諦めない──!!

 そう心に強く念じ、指に力を込め──
 メールは過去へと送られた。




 世界が暴れまわっていた。
 突然強烈な夕日に照らされてあらゆるものがその姿形を崩していきながらゆらりゆらりと揺れまわっている。
 今は懐かしい、世界線変動の証明。リーディングシュタイナーが観測する世界の歪み。
 
 世界線は変わった。
 強烈な目眩によって抑えたまぶたをぐりぐりとほぐしながら、おそるおそる現実を直視する。
 不安も恐れも、今になって怒涛の勢いで襲い掛かってくる。
 俺の心臓は激しく波打ち、全身を震わせるように血液を送り込んでいる。息が苦しい。汗が止まらない。
 ラボの開発室で電話レンジを目の前にしていたはずの俺は今、ラボ──大檜山ビル2階──の扉の前にいた。
 1枚の鉄の扉を挟んだこの先がいったい、地獄なのか、はたまた俺が望んだ楽園なのか。
 動機が収まらない。
 このまま観測しなければ未来は確定しないのではないか。
 そんな甘えた思いが俺の胸によぎる。がすぐにそんな考えは捨てる。
 まず携帯を取り出し、すぐにとある人物の元へと電話をかけるために記憶に残る彼の番号を打ち込む。
 宛先はミスターブラウンこと天王寺裕吾。
 今ここで電話に出れないというのであれば、変動したこの世界線でも命を落としている可能性がある。
 そうなれば俺がDメールを送った意味がなくなってしまう。
 俺は震える手でケータイを握りしめ、意を決して電話をかけた。


 コール音が俺の耳に響く。
 1,2,3,4……。
 出ない……。
 5,6,7,8……。
 俺の賭けは無駄だったのか?
 9,10,11,12……。
 すべてを台無しにするリスクまで負って、無駄で終わってしまったのだろうか。
 13……のコールが鳴る寸前、電話がつながった──

『はい、天王寺ですが──』

「…………っ」

──言葉が出なかった。

 救うことができた。
 きっと歪めてしまった綯の因果も正すことができたに違いない。
 だがここで安心するのは早い。もう1つ確かめねばならないことがある。
 だから俺は彼を問い詰めた。
 娘の名前を出し、どこへ連れて行った、と勢いに任せてまくし立てた。
 すると彼の反応は──


『は、はぁ!? 誰のことだよおい──ってかあんた、誰だ。まず名乗れや、それが礼儀って──』

 そこで俺は電話を切る。
 この口ぶりからすると、恐らく何も知らないのだろう。
 彼の預かり知らぬところで娘が命を落としているという可能性は拭い切れないが、天王寺の反応を聞く限りでは過去は変わっているようだった。
 ミゲールに俺たちがタイムトラベラーだと確たる証拠を掴まれなければ──
 いや、それ以上に、奴が俺たちの敵だと、1987年の時点で感づいていれば──
 きっと監視の目に怯えて逃げまわるような人生も変わっているかもしれない。
 それはつまり、俺たちが子供2人を残して姿を消すようなことはしなかった──そう信じるには十分な反応だった。
 もちろん娘の安否を確認するまで確証を得られたわけではなかったが、天王寺の無事が俺の心を幾ばくか罪の意識から解放してくれた。

「さて、問題は……」

 この扉の先──ラボの中である。
 時刻を確認するとすで7時50分を回っている。8時を過ぎれば恐らくラウンダーが襲撃してくる。時間はあまり残されていない。
 3人がこの中に居ることを祈って──
 俺はあの夏への扉を開いた。


「…………」

 飛び込んでくる照明の光。一瞬目がくらむ。
 おぼろげに浮かぶのは、扉を開けた人物を探るようにこちらを見つめる3人。ラボの中央で談笑していたようである。
 紅莉栖、ダル、そして──まゆり。
 紅莉栖とまゆりは隣同士、ソファに座っていた。
 ダルはテーブルを挟んだ向かいで地べたに座している。
 俺は眩しさや、込みあがってくる色々な想いに目を細めながら心のなかで言った。

──ただいま。

「あー、オカリンだぁー。どこ行ってたのー? 遅いよー。もー」

「ちょ、タイムマシンの修理乙の宴会するっつったのオカリンなのに遅れてくるとか……。そのせいで僕たちはピザを目の前にお預け食らったわけだが。許さない、絶対にだ」

 まゆりとダルは俺を責め立てるように口をとがらせている。
 あまりの懐かしさに思わず目頭が熱くなる。


「岡部、遅いわよ」

 紅莉栖は俺の目をじっと見ながらこちらに寄ってきた。そしてまゆりとダルには聞こえぬようそっと耳打ちしてくる。

「ちょっと、何やってたのよ。私たちや鈴羽の荷物を回収するだけでしょ? なんかトラブった訳じゃないわよね」

 この言葉を聞いて──いや──”紅莉栖の姿”を見て安心する。恐らく計画通りに事は進んでいるのだろう。

「いやなに、問題はない。多少の困難はあったがな。だが事を起こす前に確認したいことがある」

「なによ……」

「俺たちはシルバーブレットを開発した。そして今鈴羽の想いを引き継ぐためにここにいる、それでいいな?」

「いきなり何を……」

 紅莉栖は俺の言葉に怪訝な顔をする。
 むむむ……この反応は……?
 もしや世界線の変動で計画自体なくなったことに?
 いやだがしかし、そうでなければ今この状況は生まれていない!
 俺には確信めいた思いがあった。


「あっ……」

 そこで紅莉栖は何かに気づいたようにはっとして小さく声を漏らす。

「そっか。1987年のポケベルへのDメール……が送られたのが今なの……?」

 さすがに察しがいい。しっかり記憶に残っていたようだ。

「そうだ。つい今しがた俺はDメールを送ってこの世界線に辿り着いた。計画の内容を聞きたい。俺の予想通りならば──」

「分かった、端的に話す」

 俺はぼそぼそと話す紅莉栖の内容に聞き入っていた。

「ちょっとちょっとオカリンと牧瀬氏内緒話ー? リア充爆発しろー、こらー!!」

「うるさいぞ、少し黙っていてくれ」

 ずかずかと紅莉栖の耳打ちを聞こうと近づいてくるダルを押さえつけて言い放つ。

「ちょ、オカリン昨日から僕に冷たくね? サイクリングの時もさー……」

「ダル、今は落ち着け。ピザでも食ってろ」

 むすっとして不平を言うダルを腕で押しのけながら言う。
 今は時間がない。一刻も早く現状を把握しなければならない。

「共食いしろってことでおk? じゃなくて固有結界イクナイ。何がクニだよおらー」

 とダルが怒りながらいうのとは別に、まゆりがぼそりと言葉をこぼした。

「オカリンとクリスちゃん、今日はなんか別人みたいだねー」

「…………っ」


 俺と紅莉栖は一瞬言葉を失った。
 やはりまゆりには分かるのだろう。おそらくは直感のようなもので。

「なんだかねー。とっても若いのに、とっても年を取ったー、みたいな感じがするよー?」

「ちょ、まゆ氏イミフー──って、もしかして2人は知らず知らずのうちに大人の階段を……はぁはぁ……はぁはぁ……」

 通常運転でHENTAI街道をまっしぐらなダルは一度捨て置こう。
 俺はこれから訪れる悲劇に備えて仮面をかぶった。

「何を言うまゆり! 俺は別人などではない。紛れも無く狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真であーる!」

 そう、俺がまゆりを助ける為に作り上げたペルソナを今一度身につけ──

「人質を我がものとすべく、幾度と無く時空を超え──ついにこの瞬間まで辿り着いたのだぁっ!」

 長い年月を経て、この場所へと降り立った──

「まゆり、我が言葉。覚えているな?」

「言葉ー?」


 まゆりを連れて行かせないための文句はこうだった──

「貴様は我が人体実験の生け贄だ」

 まゆりは俺の人体実験の生け贄──

「もちろんだよー」

 ガキの頃口を衝いて出たセリフをもう一度言うと、まゆりは笑顔を輝かせながら頷いた。

「ならば、この薬を飲むのだ」

「なぁにー? これー。お薬ー?」

「いいから、飲むのだ」

「ちょ、いきなり怪しげな薬飲ますとか……ぺろっ、これは媚薬……!? それなんてエロゲ? ってか牧瀬氏止めたほうがいいんじゃね……?」

「…………」

 ダルは紅莉栖に、それとなく制止を促した。
 紅莉栖はこっちを見たまま押し黙ったままだ。
 紅莉栖には止める気がないと見てやがてダルは溜め息をついて諦めた。
 それもそうだろう。紅莉栖が否定するはずがない。なにせ、この薬を作ってきたのは俺たち2人なのだから。
 まゆりのため──
 まゆりを救うため──
 まゆりを──



──殺すために。


「まゆり! お前には今、恐ろしい病魔が潜んでいる! ゆえにその薬を服用するのだ! だが覚えておけ? それは人質を救うためなどではない。この先、俺が世界の支配構造を打ち砕く為の実験なのだフゥーハハハ!!」

 まゆりは訝しげに薬を見つめている。やはり俺からとはいえ、見るからに怪しい薬を飲むことには抵抗があるようだ。
 そんなまゆりに対して俺は怒るでも急かすでもなく。

「大丈夫だ。俺が──いや、俺たちが保証する」

 紅莉栖を見ながら、努めて優しい声色で言った。まゆりが紅莉栖を一瞥すると紅莉栖は無言で頷いた。

「信じろ──俺たちを──」

 今度はまゆりの目を見て言った。 
 紅莉栖に向けられていた視線が再び俺へと戻る。まゆりは何かを探るように視線をぶつけてくる。
 俺たちの様子を見て納得したのか、まゆりはやがて──

「それじゃあ、仕方ないねえ~。なんのお薬かは分からないけど……オカリンと紅莉栖ちゃんが言うなら……まゆしぃは、飲むよ……」

「ちょ、まゆ氏マジで? だいじょぶなん?」

「大丈夫だよ~、ダル君。2人が言うなら……きっと……」

 そう言って、薬を口にし、飲み込んだ。
 飲んだ。飲み込んだ。
 本当に飲ませてよかったのかと、ほんの一瞬、思う。
 だって──だってこれから起こるのは──

──椎名まゆりの死だから。

 
 世界が決定づけたまゆりの死が訪れるはずだから。
 まゆりが薬を飲み込んで十数秒。わずかだけど、とても長い時間が経ったように感じた。
 筆舌に尽くしがたい緊張感が室内を駆け巡る。
 そして変化は突然に訪れた。

「うぅ……」

 まゆりが苦しそうに呻き始める。時計を見やると8時。
 始まった──
 許してくれとは言わない。なんとか──耐えてくれ。

「ま、まゆ氏……? どしたん? その演技はちょっとシャレになってない件……」

「演技ではない」

「あ……うっ……うぅっうぅ!」

「いやいや、だからー。ぼ、僕を騙そうったってそうはいかないんだからね!」

「演技などではない……!」

 喉元を掻き毟りながら涎を垂れ流し、ついには膝をついて唸り始めた。
 あまりの急な変化に、体が凍りついてしまったかのように硬直する。
 悲痛な呻き声が俺の心を抉る。苦しみにゆがむ顔が俺の体を引き裂く。
 思わず目を背けたくなる光景。
 だが俺は目を背けなかった。
 紅莉栖も同様だった。自分の腕を強く抱き、身体を震わせながらまゆりを見つめている。


「お、オカリン! 何飲ませたんだよ! まゆ氏に何を飲ませたんだよ!!」

 ダルが鬼気迫る勢いでこちらを問いただしてくる。
 それを紅莉栖がそっと制して首を振る。

「牧瀬氏……? なんで止めるん? なんでなにも説明してくれないん?」

「ダル、今はただ、黙ってみていてくれ……。直に、わかる。そしたら全て、話そう」

 もっとも、その猶予もあるかどうかは、わからないが。
 すべてを語るのはきっと遅くなるかもしれない。

「オカリン! お前自分がしたこと分かってんのか!? なあ!」

 ダルのその言葉に俺は反応しない。体が動かなかった。
 動いてしまえば俺の心と体はばらばらに四散してしまいそうなほど、緊張感と罪悪感によってがちがちに固められていた。
 拳が裂けそうになるほどほど強く握り、唇が破れそうになるほど歯を食いしばりながら耐える。
 ダルはそんな俺の様子にたじろいだのか、やがてその怒気を無くし、静かになった。


「ぁ……うぅっ……」

 依然として苦しみに耐えながら悶えるまゆり。
 膝で立っていることもできなくなり、最後には床に横たわりうずくまる様にして体を丸めている。
 とてもじゃないが見ていられない。見ていられないが──
 見届けなくてはいけない。椎名まゆりがちゃんと、この世に生きていたという証を。
 それが俺たちに出来る最後の責任だから。

「あつい……からだが……あつい……よ、おかり……」

 俺の名前を呼んだかと思うと──

「ぁっ……」

 小さく言葉をもらし──
 体を大きく跳ね上げ──
 やがて──


「まゆ氏……?」

 ダルは目を皿のようにしてまゆりを見つめている。
 俺はがくがくと打ち震える両脚に鞭を打ってしゃがみ、そっとまゆりの手を握る。
 とても、とても熱かった。まるで最後の命の灯火を燃やしてるかのように。

「ごめんな、まゆり……苦しかったろう? 痛かったろう? だがもう少しだ。もう少しで楽になる……」

──まゆりは動かなくなった。

 すまない──まゆり。
 こうするしかなかったのだ。
 重くのしかかる罪悪感に押しつぶされそうになりながらも俺は最後までまゆりの姿を見続けた。
 その場に居た者は誰1人として言葉を発することはなかった。いや、できなかった。
 俺も紅莉栖も、ダルも。

──そしてまゆりも。


 どれほど時間が経ったのだろう。
 ラウンダーによる襲撃は未だに起きていないことから、決して長時間は経過していないはずだ。
 けれども重度の緊張とうだるような熱さのせいで衣服は汗に湿り、そして時が止まったかのように苦しんだままのまゆりの姿が心の臓を氷のように凍らせ、体は冷えていった。
 やがて室内に煙のようなモヤが発生した。煙の発生源は──まゆりの体。
 その体は──
 徐々に──
 放出した煙と比例するように──
 その体積を失っていき──
 終いには──

──小柄な子どもの体へと、変化を遂げた。

 さっきまでの静寂とは種類の異なる別の静寂が乗り移ったかのように、静まり返っていた。
 相変わらず、誰も言葉を発することはなかった。


「…………」

「うぅ……」

 小学生低学年ほどの体のその主はまぶたを閉じたまま、小さく唸った。
 その声が──反応が、彼女の命を証明してくれる。

「な、な……」

 隣でダルが信じられないものを見たような表情をしていた。

「まゆ氏が……ろ、ロリに……?」

 紅莉栖はただただ黙ってその小柄な少女の姿を見つめていたが──やがて、その子を抱きしめて言葉を発した。

「ごめん……ごめんねまゆり……。こんな思いをさせてしまって。とても辛かったでしょう……?」

 罪の意識にまみれた言葉をかけながら、労るように、慈しむようにぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。
 そんな紅莉栖の言葉に対して、少女は一言、ただ一言だけ言葉に出した。

「クリスちゃん……? まゆしぃは、だいじょうぶ、だよ……?」

 その言葉を聞いた瞬間、紅莉栖は泣きだしてしまった。
 俺も、崩れるようにその場にうずくまった。
 きっと助けられたんだ。
 椎名まゆりという存在はきっと消えてしまったけれど。
 まゆりの命、ひいては魂は世界に奪われること無く、助けることができた──救うことができた。

  
 そう、これが俺たちの研究。
 長年を費やして完成させた薬。とても恐ろしい研究成果。神をも冒涜する禁忌の力。
 最初はまったくの偶然だった。奇跡の産物だった。
 動物実験のさなか、偶然、死亡したと思われていた個体が幼児化し、生体反応を示した。
 その被験体を詳しく調べてみると、テロメアは伸長し、細胞は若返っていた。
 薬の作用によって、故意に爆発的なアポトーシス──細胞の自死を引き起こした後、テロメラーゼ活性により細胞の増殖能力を高める。
 その後アポトーシスの作用によりDNAプログラムが逆行し、神経組織を除いたすべての細胞──骨格、筋肉、内蔵、毛髪、すべてが遡るのだ。

──まるで記憶を除いた体のすべてが、過去へと遡ったかのように。

 だが俺たちは思った。これはまゆりを殺すと同時に──救うこともできるんだ、と。
 再構成されたまゆりは椎名まゆりであって、椎名まゆりではない。
 細胞レベル、分子レベルで見れば全く別の存在とも言えるだろう。
 そして人間の命の設計図ともいわれるDNAは、日々自己変革を遂げている。
 その理由は様々だ。環境の変化、傷害、傷病。
 長い年月をかけることにより少しずつ変化をするDNAはやがて、人体の構造をも変えていく。
 再び、まゆりが先ほどまでの年齢にたどり着く頃には、社会はもちろん、彼女を構成していく様々な要因は劇的に変化しているだろう。


──まゆりの存在を消すことで、まゆりを救う。
 
 俺たちはその薬に1つの願いを込めてこう名付けた。
 まゆりを殺すはずだった一発の銃弾になぞらえて──
 けれどもそれは、課せられた無慈悲な運命をも打ち砕く厄除けの弾丸──



       シルバーブレット
     ” 銀 の 弾 丸 ”──と。


 弾丸を打ち込まれた椎名まゆりは今ここで死んだ。
 桐生萌郁たちラウンダーが邪魔者であるこのまゆりを殺すことも、恐らくないはずだ。
 いや、そんなこと絶対にあるはずがない。俺はそう確信する。
 運命がまゆりを殺すのであれば、この薬こそがまゆりを殺すはずだから。

「まゆり、すまない。こんな結果になってしまって……」

 俺はぶかぶかになった衣服に包まれるまゆりを抱き上げた。
 持ち上げられるほどに軽くなったその体。それでも俺の腕にはズシリと重くのしかかる。
 今のまゆりは年齢にして6,7歳。体重は20kg前後はあるだろう。
 俺はふと昔を思い出していた。
 俺たち2人は幼なじみとしてよく遊んでいた。
 目を話すといつもふらふらとどこかへ行ってしまいそうな少女。
 どこか頼りない感じのするまゆり。
 小学生の頃、ふざけあってキスした覚えだってある。
 まゆりの祖母が亡くなってからはより親密に、より密接に関わるようになった。
 人質とマッドサイエンティストという関係。人体実験の生け贄。
 ガキの頃覚えたそのセリフが、半世紀近く経った今実現するような形になってしまった。


「まゆしぃは、オカリンの役に立てたのかなぁ?」

 まゆりはどこか遠くを見るようにたどたどしい口調で、言った。

「当たり前……だろ?」

 俺がそう答えると、まゆりは力なくも、満面の笑みを浮かべた。

「そっかぁ……えへへぇ……」

 俺はその笑顔を見ながら抱きかかえたまゆりを開発室へと運んでいく。
 開発室の隅っこに置かれた巨大な球状の機械に目をやると、まゆりを床にそっとおろし、その球状の機械を持ち上げる。
 未来ガジェット7号、攻殻機動迷彩ボール。
 6型ブラウン管を組み合わせ巨大な球体を作り小型のMosカメラを用いて擬似的に光学迷彩を再現することが出来る。
 中は空洞になっていて、小柄であれば大人でも入り込めるほどの容積がある。
 まさかこんな風に使う日が来るとはな。
 その巨大な球体をまゆりの上にそっと被せた。大事な大事な宝物をしまいこむ様に。


「しばらく、ここで大人しくしていてくれ。いずれ俺の手の者がお前を迎えに来るだろう……」

 迷彩ボールに覆い隠されたまゆりに向かってそう言うと、球体の中から不安げな声が届いた。

「オカリンは……オカリンはどこかに行っちゃうの?」

「ああ……少し遠くにな」

「もう、会えなくなっちゃうの? これでお別れなんていやだよ……置いて行かないでよ……」

「大丈夫だ、いずれまた、迎えに行く。絶対にだ」

「本当……?」

「ああ、約束だ」

「絶対に、絶対だよ?」

「当たり前だろう。お前は俺の人質なのだからな」

 そう言って微笑み、俺は攻殻機動迷彩ボールから手を離した。
 俺は息をつき、立ち上がると俺を心配そうに見つめていた2人に目配せした。


「さあ、2人とも準備しろ。そろそろ奴らの襲撃だ。抵抗は無駄だろう。ここは大人しく従っておく。虚をつくのだ。反撃の機会はいずれくる。それまで息を潜めているのだ」

「ちょ、何言ってるかわからない件。牧瀬氏も何か言ってやってくれお……」

「橋田、残念だけれど岡部の言ってることは本当よ」

「牧瀬氏まで厨二病すっかぁ~? これはもうだめかもわからんね。つーか説明ぷりーず!!」

「ふ……」

 俺は自嘲気味に笑うと、ラボのドアを見つめた。
 長い、とても長い戦いになるだろう。
 俺達の戦いはまだまだ続く。


 そんな風に感慨に耽っていると、やがて勢い良くラボのドアが蹴破られ──
 外国人観光客の装いをしたラウンダーたちが矢のように入ってきて銃を向けてきた。
 この状況において俺と紅莉栖はさも当然というごとく手を上げて無抵抗を演じる。
 ダルは慌てふためいていたが。
 続いてヒールの音を響かせながら階段を登る音。
 悪夢の音。
 だが、待ちわびた瞬間でもある。

「タイムマシンは……SERNが回収する……」

 桐生萌郁だった。

──待っていたぞ。さあ連れて行け。俺たちを……。

 俺たちは後ろの開発室にまゆりが隠れていることを悟られぬよう、大人しく従う。
 だがそれは飽くまで演技である。

 オペレーションヴァルハラ
 オペレーションワルキューレ
 オペレーションエインヘリヤル
 オペレーションギャラルホルン

 4つの作戦を包括する最終ミッション。その偉大なる作戦が今、始動する。
 ラグナロックを勝ち抜くための戦いが今、始まる──

「オペレーションラグナロック、始動である」

 俺は敵に悟られぬよう、2人にそっと告げた。
 恐怖に打ちひしがれたあの場面はすでに過去のものとなった。
 俺は振り向かず進み続ける。
 1つの想いを、胸に抱きながら──



Chapter6 END

今日はここまで

今更ですが脱字の修正

>>234

「Oh! I missed you,Elana,darling!」の
ElanaはElainaの誤表記でした、iが抜けてましたさーせん

次回の更新は日曜あたりを予定してます

Last Chapter Side A



 夕焼け空に染められた虚ろな町を廃墟の屋上から見下ろす。
 オレンジ色の西日が、役割を取り上げられた建物たちに影を作り、統一感のないデコボコのシルエットを影絵のように映し出していた。
 なぜか淋しげに感じるのは、黄昏時特有のアンニュイな気分によるものだけじゃないだろう。
 ラジオ会館の屋上から見下ろす秋葉原の今は、人の気配がなく荒廃している。
 昔の賑やかさを知る者にとっては、心にぽっかりと穴を空いてしまったような悲しげな情緒を植え付けるのには十分な姿をしていた。

──2036年。
 
 世界は歪な平和に支配されていた。
 2年前──2034年にタイムマシンを開発したSERNは急速に世界の形を塗り変えていった。
 恐らくはタイムマシンで過去を操ることによって、長い時間をかけて変えていったものなんだろうけど。
 争いというものは、ミクロなものからマクロなものまで消滅した。
 完全なる平和──
 だけど経済活動は遮断され、科学技術の発展はあっても、一般の人々に提供される機会はない。タイムマシンと同じように。
 徹底した管理社会。
 人々に自由はなく、プライバシーも人権も死語と化している。
 食べる物も行動も制限され、人々の意思はないと言っても過言ではない。家畜同然の扱い。
 人々は郊外に追いやられ、農場で作物を育てさせられている。
 至る所に設置された大型のスクリーンには支配者層の連中が垂れ流すテレビ放送が延々と繰り返されている。
 偏向報道、思想警察によって捕縛された人間の処刑、偏った思想を植え付けるための教育放送、人々の不満を解消するために用意されたお情け程度の娯楽番組。
 そのスクリーンには監視カメラの役割も課せられていて、民衆の働きぶりから言動に至るまで細部を見張っている。
 もし仮に、この管理体制に対して不満を口にしようもんならすぐに思想警察がすっ飛んできて有無をいわさず処刑されるだろう。
 出生率は故意に操作され、新たに生まれた奴隷階級の子らには徹底した思想教育が行われる。
 その終局には、思想犯罪すら起こりえない最悪の未来だ。そうした思想を表現する言葉すら、失ってしまうのだから、反逆のしようがない。
 偽りの平和。歪んだ楽園。繋がれた首輪。
 そんな世界を変えるため、SERN及び背後でそれを操る300人委員会に反旗を翻すレジスタンス、ワルキューレにあたし──阿万音鈴羽は所属していた。


 タイムマシンが開発される以前から、SERNや300人委員会の陰謀にいち早く気付き、警鐘を鳴らしていた人たちの集まりだ。
 心強かった。
 人々の意思がねじ曲げられて、ただ死んだように生きていく人ばかりの世の中で、自由を勝ち取るために抗おうとする者が自分以外にも存在することが心強かった。
 けれどそれももうわずか数名になってしまっていた。
 あたしたちワルキューレは作戦行動中に、事実上のSERN治安部隊であるラウンダーの襲撃に曝されることになった。
 きっとタイムマシンを使うことで時間に干渉し、事前にあたしたちの横っ腹を思いっきり打ち付けるつもりだったに違いにない。
 そうとしか言えないタイミングで奴らは襲いかかってきたんだ。
 結果、ワルキューレは壊滅と言っていい状態だった。生き残りは数名。その数名も絶望に打ちのめされ戦意は喪失したも同然だった。 
 このままじゃ父さんのワルキューレが無くなってしまう。そんな危機に瀕した数日前、母さんから一通のムービーメールを受け取ったんだ。
 そのムービーメールの送り主はバレル・タイター──父さんだった。
 いつ撮影したのかは定かじゃない。けれど最後に見た時よりも少しやつれていて、年をとったように感じた。
 でも確かに父さんだった。
 その動画の中で父さんは言っていた。タイムマシンを作ることに成功した、と。
 それを使えばSERNと同じように時間に干渉することが出来る。過去を変えることが出来る。
 過去を変えれば──
 今も変わる──
 今を変えれば──
 世界も変えられる──
 この欺瞞に満ちた世界を変えることが出来る。
 死んだように生きている何十億もの人の意思を取り戻して、自由な世界にすることができるんだ。
 3年前に殺された父さんも──
 まさに数日前ラウンダーの手にかかって殺されてしまったという母さんも、きっと救うことが出来る。

 タイムトラベルした後、今のあたしは過去を──世界線を変えてしまえば、消えてなくなってしまうかもしれない。
 けれどもそれでいい。
 父さんの遺志を継いで、世界に自由をもたらし、母さんを救うことができれば、それで良い──
 人の姿が消えてしまった夕暮れの秋葉原を眺めつつあたしはそんなことを考えながら待っていた。
 タイムマシンの到着を。
 タイムマシンは父さんが根城にしていたというとある地下研究所に保管されていた。
 未完成ではあるものの、過去には跳躍できる。
 けれども、空間を移動することはできないから、今はその地下研究所から大型輸送用ヘリで輸送中だ。
 もちろん、計算する座標を少しいじれば、過去で他の場所へと出現することはできるという話なんだけど、あいにく可変重力ロックシステムの動作が不安定で、この場所──ラジ館屋上から直接跳躍を行ったほうが確実という話だった。
 だからあたしはそのタイムマシンを待っていた。
 もうじき仲間が操縦するヘリが到着してここに届けてくれるはずだ。
 そしたらいよいよこの2036年とはお別れになる。


──作戦名オペレーションブリュンヒルデ。

 タイムマシンで過去へと跳躍し、2010年のとある組織へとIBN5100を届ける。
 ワルキューレの前身である、未来ガジェット研究所へ。それがあたしのミッションだった。
 今一度自分がやり遂げねばならない使命を確認すると、再び目の前に広がる景色を見渡す。
 寂しげで空虚で、忌々しい眺めだと思っていたけど、もう見ることのない景色だと思うと、複雑な思いだ。
 感慨深い、というやつなんだろうか。意外にセンチメンタルな部分があることに自分でも驚いていた。
 父さんやワルキューレの皆の遺志を継いで世界を変えるためには、きっとそんな気持ちは邪魔で、もっとこう、研ぎ澄まされた刃のような鋭さが必要になってくるんじゃないかな、とは思っているんだけど。
 このままあたしは1975年へと飛び立って良いんだろうか。まだできることがあるんじゃないか。
 
「はぁ~……」

 そんな迷いが胸の中にもやを作ったのち、溜め息となって秋葉の空に入り交じる。

「どうすればいいのかな……」

 この期に及んで迷ってる? いや、びびってる?
 二度目の溜め息が漏れた時、空気を切り裂くプロペラの音とともに、タイムマシンを運んでくるヘリの姿を目視することができた。
 ヘリの胴体部分の真下からワイヤーが伸び、樽型の巨大な機械を積載している。
 きた、ワルキューレのヘリだ。


「時間は待ってはくれないんだ……。あたしはミッションを完遂することだけ考えればいい……」

 そう、心に強く秘めて。
 徐々に近づいてくるヘリに集中して、作戦行動に移るために心を研ぎ澄ませていく。
 迷い、雑念、恐怖。
 そういった感情をそぎ落としていくように。目をつぶりイメージする。作戦にのみ集中する自らの姿を。
 自分を自分じゃないように見せかけるのは、簡単なんだ。
 偽りの自分を作ってやればいい。ただ任務に徹する自分だけを作り上げればいい。
 息が漏れた。今度は溜め息とは違う。肚の中心から深く強く息を吐きだす。そして目を開けた。

──うん、大丈夫。あたしはきっとやれる。

 と、そこで違和感に気づいた。

「え……?」

 1台のはずのヘリが2台──いや、あれは──

「襲撃!?」


 タイムマシンを輸送するヘリに対し、後ろの武装用ヘリが発砲している。
 ラウンダーのヘリ!? こんな時に!
 いや、こんな時だからなのだろう。きっとSERNがタイムマシンを使って襲撃してきたんだ。
 世界中のあらゆる抵抗組織がそういう手段でいとも容易く潰されてきた。
 それはもはや争いとは言わなかった。一方的な虐殺だ。結局時間を操ることは世界を操るに等しい。
 こちらのヘリは重い荷物を抱えている分、圧倒的に機動力が劣る。このままではただの的だ。
 腰のホルスターに収められた物を抜き出し、ぎゅうっと握りしめる。
 携帯している武器は拳銃とサバイバルナイフが一挺ずつ。
 けどこんな武器ではサポートにすらならない。
 このままヘリが撃墜されるのを指をくわえて見ていることしかできないのだろうか。
 歯を食いしばりながら2台のタイムマシンを睨み付ける。
 けれどどこかおかしい。
 ラウンダーのヘリは執拗に後ろを取ってはいるが、機関銃の発砲は途切れ途切れだ。慎重な姿勢とも見えるが敵の背を目の前にあまりに消極的すぎる。
 まさか猫が鼠をいたぶるように、狩りの時間と称してこの状況を楽しんでいるとでも?
 でもあたしが今までに戦闘を交わしてきたラウンダーたちはそんな一面は持ち合わせていなかった。
 ただ任務のみに集中し、作戦の遂行を第一とした行動をするだけだった。まるで洗脳されてるかのような徹底ぶり。
 2034年にSERNがタイムマシンを開発したという衝撃的ニュースが世界中に広まり、やがて完全な管理社会ができてからは、特にそうだ。
 だとすればこの行動は不可解だ。
 機関砲を容赦なくぶっ放すか。ロケット砲や空対空ミサイルでも撃てば容易に撃墜できるはず。ラウンダーともあろう組織の武装用ヘリがそんな装備もないなんて考えられない。
 少なくともオペレーションブリュンヒルデを妨害したいのなら事前に準備しているはず。撃墜できないなんてことはない。
 だとすれば、何か別の理由がある?
 しばらくその空中戦──と呼ぶには一方的な暴力──を眺めながら拳に力を込める。
 くそ、このまま父さんの残してくれたタイムマシンが破壊されるのを黙って見てろっての!?

「…………っ!!」


「…………っ!!」

 そこである1つの答えに思い至った。
 もしかして彼らは撃墜しないんじゃなくて、本当にできないのではないか。
 なぜならば、ワルキューレのヘリが運んでいるのはたとえ未完成とはいえ、過去に跳躍できるタイムマシンだ。
 それすらも取り上げて、SERNの研究ないしは管理社会の構築に役立てようという算段なのでは。
 そういう理由があるのなら総攻撃に出ないのも合点がいく。
 ヘリが堕ちればタイムマシンももちろん無事では済まさない。
 奴らの目的はあくまでオペレーションブリュンヒルデを妨害することにあるが、あわよくばタイムマシンも回収するよう命令されているのでは。
 そんなこと、絶対に許せない!
 SERNのディストピアを打ち砕くために作られたタイムマシンが──
 父さんが人生を費やしてあたしたちに遺してくれたタイムマシンが──
 そんなことのために使われるのには絶対に許せなかった。
 だとしても、今取りうる手段が見つかるわけではなかった。
 ただただ狩られる者と狩る者を見守ることしかできない。
 ワルキューレのヘリは振り切ることは諦め、なんとか致命傷を避けようと蛇行を繰り返すが機動力に難がある状態では上手くかわせない。
 だがその回避行動が功を奏している。
 向こうの目的がタイムマシンなら、ヘリの撃墜はなんとしても避けたい。
 結果、手を出して引っ込めるような慎重な射撃が続いている。
 燃料タンクにでも当たれば装甲を貫き爆発を起こしかねない。それは奴らも避けたいだろう。そのおかげで、ここラジオ会館まではたどり着けそうだ。
 だがそこからが問題だ。
 襲撃を受けながら着陸など到底できない。
 仮に敵が着陸を許したとしても、それでチェックメイトだ。向こうがタイムマシンの無事を確保した瞬間集中砲火を浴びせてくるに違いない。
 着陸してから殺されるか、このままじわじわと追い詰められてやがて不時着した後に殺されるか、2つに1つだ。
 ぎりりと歯と歯がこすれる音が脳内に響き渡る。あたしは何もできないのだろうか。
 せっかく父さんが。母さんが。みんながミッションの遂行役という使命を与えてくれたのに。
 空を切り裂く轟音と、途切れ途切れに発射される銃弾の音が交錯する中、2台のヘリはこちらに近づいてくる。

──このままじゃ巻き込まれる!


 どうにかする前に流れ弾にでも当たって死んでしまってしまっては元も子もない。
 あたしは一旦、屋上から下る階段へと引っ込んで様子を伺った。
 相変わらずふらふらと揺れながら曲がりくねって進むヘリと、致命傷を与えないよう慎重に射撃を行うヘリとの戦いは続いている。
 猛烈な風切り音と強風が階下に避難しているあたしにも襲いかかってきた。
 癖を帯びた前髪がより一層うねって視界をちらちらと塞ぐ。
 2台のヘリは止まることなく、あたしの上空を通り過ぎていった。
 空の攻防はラジ館を通り過ぎても終わることはなかった。再び旋回し、こちらへ舞い戻ってくる。
 どうにかここに着陸してタイムマシンをあたしに送り届けようというパイロットの考えが読めるようだった。
 くそ、どうすればいい! どうすれば……!
 再び携帯している銃を握りしめながら慎重に屋上へと頭を出す。
 2台のヘリはラジ館の周りを上下左右にうねりながら飛行を続けていた。
 味方のヘリのコックピットを見ると、苦い顔をしながらも操縦をするパイロットの姿。
 なんとかしてあげたいけど、どうしたらいいのか考えが浮かばない。
 そのまま目視を続けているとふとパイロットと目があったような気がした。その目が何かを訴えているようで。
 あたしは危険だと思いながらも、屋上に顔を出したまま空の戦いを見続けていた。
 幾度と無く建物の上空を交錯し続けても、お互いがお互いを諦めることをせず、膠着状態が続いていた。
 撃墜させず無力化したい敵と、タイムマシンを無事にラジ館屋上へ着陸させたい味方。
 だが、明らかにこちら側が不利だった。
 攻撃を受けているのはもちろんのこと、タイムマシンという重荷を背負いながらの防御。
 さらには不安定な飛行でラジ館屋上をすれすれで飛んでいる。いつ壁にぶち当たって大きくバランスを崩すとも限らない危険な飛び方だ。
 そんな飛行をラジ館に円を描くように繰り返していた。
 それを何度も繰り返すパイロットの腕は本当に賞賛に値する。
 そこでふと、1つの考えに気づく。

 なぜそんな無謀な飛び方をしているのか──
 もしかして、彼はあたしに託しているのでは。
 屋上すれすれを飛行することによって、あたしに飛び移らさせ、タイムマシンを固定しているフックを外して、タイムマシンだけラジ館へと不時着させる。
 そんなことできるだろうか。飛び移るのも、着陸させるのも、どちらともシビアなタイミングが要求される。
 飛び移るのに失敗すればあたしは間違いなく重症、ヘタすれば死んでしまう。
 不時着に失敗すればタイムマシンは故障して世界を変える手立てが失われる。
 正直、負けの可能性が高い賭けだ。分が悪すぎる。
 だけど──
 こうして手を拱いているだけじゃ、何も変わらない。
 世界を動かしてきたのはいつだって確固たる意志だ。待っているだけじゃ、そこに何も生まれはしない。
 だからこそ、父さんやワルキューレの皆はタイムマシンという切り札に身を委ねることができた。
 あたしはやらなきゃいけない。ここで機を逸して、逃げまわるだけの日々なんて送りたくない。
 床を見つめながら握りしめた武器を再度ホルスターに収めるとあたしは決意を胸に囁いた。

「力を貸して──父さん──母さん」


 顔を上げると変わらず2台の飛行物体は激しくせめぎ合っていた。
 守る側と、攻める側。どちらもゆずれない想いを翼に乗せて。
 あたしは注意深く機体を観察しながら状況を確認する。
 飛行経路。操縦の癖。あたしの脚力と柵の高さ。
 全てはタイミングだ。タイミングが鍵になる。
 ヘリが旋回して、タイムマシンが慣性で大きく揺れるその時。そのわずか一瞬に大きく速度が下がる瞬間がある。
 その一瞬を見計らって飛ぶんだ。
 あたしは目を閉じて頭の中で思い浮かべた。
 脳内でイメージを形作る。
 この階段からまっすぐ駆け抜けて。
 ヘリが右側から出てきてこっちに向かって大きく旋回してくる。ヘリの時間の流れが遅くなる。あたしはまだ床を蹴っている。
 タイムマシンが大きく揺れてヘリを追い越すように飛び出してくる。
 ここであたしは柵を蹴って空高く跳躍。
 そして巨大な樽はゆっくり速度が下がっていく、静止に近いところまで──
 脳内ではヘリから伸びたワイヤーとあたしの両腕が噛みあった。あたしは両腕を絡ませ力を込めて手繰り寄せる。
 そこで目を開ける。
 イメージは成功した。
 その想像を膨らませるよう、大きく息を吸って機を見計らう──

──そしてあたしは階段を激しく蹴って跳び出した。


 腹に力を入れて体幹を引き締める。息は止めたまま、全速力で駆け抜ける。
 ヘリのメインローターが激しく回転していた。
 あたしの行く手を阻む風の壁がすごい。
 全力疾走による空気抵抗のせいか。はたまたヘリのブレードから発せられる風速20m以上の風圧のせいか。
 前傾姿勢を保ちながら分厚い風壁をくぐり抜けていく。

 ここであたしが失敗したらどうなってしまうだろうか。
 ヘリの操縦者や数名の生き残りの仲間たちが計画を引き継いでくれたりするんだろうか。
 それとも別の作戦が始動してSERNの陰謀を打ち砕いてくれるだろうか。
 もしくは、やはり世界は何も変わらず人々は家畜のように支配されたままなんだろうか。
 そんな未来には、絶対にさせない!

 そんなことを脳内で思い浮かべつつ、全力で駆け抜けて。
 いよいよ柵が迫ってきた。
 視界はクリア。思考もクリアだ。
 あたしは迷いなく地面を蹴って跳躍する──

──はぁぁぁぁぁぁ──!!

 溜めた息を強く吐き出しながら──
 右足が柵に乗り、スパッツに覆われた大腿四頭筋が大きく膨れ上がり──
 さらに左足を大きく前に出して、右足で柵を潰しかねないほど強く蹴って──
 重力の支配を逃れて、あたしは宙を舞った。
 何もない夕暮れの空が近くなる。場からあらゆる音が消えてなくなった。
 体が宙に浮いている。

──あたしは確かに空を飛んでいた。


 体があらゆるものの重みから開放されてわずか数秒にも満たない短い時間。
 でもなぜかあたしにはこの一瞬が1分にも2分にも感じられるほど時間が引き伸ばされていた。
 極度の集中状態や、突発的に起こる死の間際には個々が感じる体感時間が引き伸ばされるという。
 脳が精神に大きな衝撃を与えるような──例えば交通事故といった──出来事の情報をより多く集めようとするためと言われている。
 危険な体験をした時の記憶を活用するため、多くの情報が処理されることになる。
 つまり命の危険が及ぶような経験をするときには、いつもの数倍の情報が記憶され処理されるため、時間の経過がゆっくりになったように感じる、というわけだ。
 次に似たようなことに巻き込まれた時にも、対応できるように。
 まぁ、こんな体験、次はないんだろうけど。

 
 ヘリがあたしのすぐ斜め上をゆるりと通り過ぎ、代わりに銀色の巨大な樽型の機械が振り子のように斜めに傾きながら眼前に近づいてきた。
 相変わらず音はしない、無音の世界。
 高さは十分。タイムマシンに叩きつけられることは無い。大丈夫、やれる。
 手を伸ばせ。掴みとれ。握りしめろ。
 ヘリとタイムマシンを繋いでいる太いワイヤーに手を伸ばすんだ。腕さえ絡ませられればなんとか食らいつける。
 あたしは十分な思考時間を得て、手を伸ばした──いや、伸ばそうとした。
 けれど手は伸びてくれない。
 まるで砂の中にいるように抵抗を感じる。
 徐々にしか伸びない腕とは逆にワイヤーの距離はどんどん遠ざかっていく。10cm、20cm──離れていく。

──待って。

 ヘリの風圧による抵抗!? いや、体感時間が引き伸ばされていることの弊害!?
 無音の抵抗によって体がうまく言うことを聞いてくれない。
 このままじゃ手は空を切り、そのままあたしの体は地面に叩きつけられてしまう。
 数十メートルの高さから無防備な状態で落ちたら重症は免れない。死の可能性だって高い。
 30cm、50cm──掴み取ろうとする手からワイヤーが遠ざかっていく。

──くっ。


 なんとかワイヤーにすがろうと手を伸ばそうとするが上手く伸びてくれない。
 非常に緩慢な動作だ。
 体感時間が引き伸ばされて思考はどれだけでもできるのに、体は思うように動いてくれない。
 意識と肉体の間に、感覚の遅延が出ている。
 体をねじって、遠ざかっていくワイヤーに手を伸ばす。でも届かない。
 やがて、手がまっすぐ伸展したところで──
 完全にワイヤーはあたしから離れていってしまっていた。

──そんな。

 こんなところで?
 こんな風に死んでしまうの?
 戦いの舞台にすら立てないの?
 
 緩やかにプロペラをはためかせているヘリは無残にも徐々に離れていき──
 望みを託したワイヤーも──遠ざかっていく。
 
──ごめん、みんなごめん。


 後悔の波が押し寄せてきて。
 あたしの世界はやがて暗く淀んでくる。
 刹那──
 暗くなり始めたあたしの視界にあるものが飛び込んでくる。
 無我夢中。そんな言葉が思い浮かぶ中で──
 瞬間──
 伸びたあたしの手はそれを掴みとっていた。
 それはもう1本のワイヤー。
 ヘリの真下に設置してあるカーゴフックに固定されたワイヤーはまっすぐ伸びていき、途中で分岐していた。
 ちょうどアルファベットのYを上下逆さまにしたように。
 その片方をあたしは手に収めていたんだ。
 文字通りの命綱を握りしめた瞬間と同時に、全身の感覚が戻ってくる。
 縦横無尽に駆け巡る風の粘付き。
 轟音ともいうべくすさまじい音の洪水。
 パイロットと一瞬目があったけど、失速せずに駅のホームを通り過ぎる電車のように一気に遠ざかった。
 次の瞬間、強烈な衝撃とともに腕が引っ張られる。
 思わず握る手を離しそうになる。
 けれど絶対に離すもんか。
 あたしの肩関節はギシギシと悲鳴をあげながらあたしとタイムマシンとを繋いでいる。
 突き放そうとする風に負けないようじわりじわりともう片方の腕を引き寄せて、両腕で握る。
 少しずつ慎重にワイヤーを下っていって──
 あたしはようやくタイムマシンへと接触した。


「ふぅーっ!」

 地に足──といってもヘリに吊られたタイムマシンの上だけれども──を付けてやっと一息つくことができた。
 思えばずっと呼吸を止めていた気もする。よくもったもんだ、と自分でも思う。
 けれどこれでなんとか第一段階が終了しただけだ。
 ここからタイムマシンをラジ館屋上に降着させないといけない。
 後ろを振り向くとSERNの武装用ヘリコプターがすぐ背後に迫ってきていた。
 コックピットは黒い強化ガラスに覆われていてその先を遮っている。
 発砲はしてこない。したくてもできないだろう。
 なぜならあたしのすぐ傍にタイムマシンがあるから。
 タイムマシンをできるだけ無傷の状態でSERNの科学者に提供したいであろう彼らがこのあたしめがけて発砲などできようはずもないだろう。
 装備したハンドガンで十分に狙いをすまして射撃してやろうかとも思ったけどそんなことしても意味が無い。
 あたしの拳銃なんかじゃ武装用ヘリの分厚い装甲には歯がたたない。
 すぐに頭を切り替えてワイヤーの固定箇所を目を細めながら確認する。
 今はゆっくりと飛行しながらラジ館の周りを旋回しながら飛行している。それでも風はとんでもなく強い。
 飛行ルートはあたしが階段に身を潜めている時と一緒。向こうが強硬手段に出ない分、操縦者にも少し余裕が生まれているのかもしれない。
 じりじりと慎重にワイヤーを伝ってタイムマシンの側面に張り付いていく。
 2つに分岐した線はタイムマシン側面の上部にがっちりとフックで固定されていた。もう片方も同じように固定されている。
 少なくとも飛行中に手動で切り離すのは不可能だろう。

 さてどうしたもんかね。
 ワイヤーをよじ登ってヘリの下から伸びるワイヤーを外すのも人の力では無理だろう。
 もとより正攻法は考えていない。
 腕に力を込めて体を起こし、今度は分岐の機転となっているワイヤーの太さを確認する。
 直径およそ50mm程度。素材はナイロンだろうか。結構頑丈そうだ。
 けどやってやれないことはない。
 あたしは分岐したワイヤーの片一方を左手で握りしめながら、空いた右手でホルスターを探る。手にした拳銃を取り出した。
 トカレフTT-33。
 SIGやベレッタなどの9mm銃に比べれば人に対する殺傷力は低めだけど、極めて高い貫通力を持っている。
 過去に日本の暴力団組員が所有していた中国製で、メンテナンスもロクにされていなかった粗悪品ではあるが、それでも威力は高い。
 取り出した銃を片手で構える。
 通常で拳銃は両手で撃ったほうが命中精度も連射性も上がる。
 けれども今回はそこまで深く考えなくていい。この至近距離で外すようなら拳銃なんて持たされていない。
 後は相変わらず、タイミングだ。
 ヘリは変わらず決まったルートを飛行、旋回している。
 タイムマシンがラジ館屋上の上すれすれを飛行している最中にワイヤーを切らないといけない。
 それ以外の──例えばラジ館から大きく外れた空中で切れようもんなら……。
 そこから先は考えるのも憚られる。
 ラジ館を上昇中するタイミングでも遅い。
 床と機体の距離が離れれば落下の衝撃でタイムマシンに深刻なダメージが発生しかねない。
 それどころか大きくバランスを崩し、転がって屋上から転落してしまうかもしれない。
 何にしても極めてシビアなタイミングが要求される。先ほどと同じ──いや、それ以上かもしれない。
 再び大きく息を吸って集中する。
 心臓は早鐘を打っていてあたしを急き立てている。
 惑わすようなこの音をかき消すように大きく息を吐ききる。
 そうすることで体は自然とリラックスしていくんだ。もう一度肺に空気を取り込んで──
 今度はその空気を貯めこむように息を止めた。
 真下を見て飛行軌道を確認し精神を研ぎ澄ませる。
 再びあたしの脳内は加速する。
 頭のなかでヘリがゆっくりとラジ館屋上に進入し、遅れて吊られたタイムマシンがゆったりとラジ館に入っていく。そう、その瞬間だ──
 再度軌道を確認すると、まさに今頭のなかで思い描いた通りの軌道に入ろうとしていた。風が強い。
 止めた息はそのままに──
 反動で照準がブレないように体幹と腕をに力を込めて──
 至近距離のワイヤーに向かって銃を構え──

「…………」

 入った! 今──


 ここ、というタイミングに差し掛かった瞬間あたしの人差し指が素早く引き金を押し込んだ。
 引き金は軽かった。
 ワイヤーが切れたかどうか確認する前に次弾を発砲。そんな猶予はない。
 反動で銃口がブレるのも考慮に入れ、一回引き金を引く度に力を込めて修正しなおす。
 空気の入れたビニール袋を破裂させたような音が空に舞う。
 間髪入れず乾いた銃声が8回響いた後あたしは銃を放り投げた。
 前方確認──ワイヤーは──
 太いワイヤーの中央部分は銃弾によって貫かれ、飛び出した幾本もの繊維が縦横無尽に走っている。

──切れてない。

 どうしようか迷うこともなくあたしはすぐ様サバイバルナイフを逆手に持って、激しくワイヤーに突き立てた。
 一突き、二突き!!
 三度目の突きの前にワイヤーは音もなくねじ切れ──
 一瞬重力が無くなったような浮遊感が漂った後、がくんと、体が落下していくのを感じた。

「あっ──」

 声にならない音を漏らしながらもあたしはもう片方の手でちぎれたワイヤーを必死で握りしめていた。
 すぐに金属と金属のぶつかり合う激しい落下音とすさまじい衝撃に襲われる。
 あたしは文字通りタイムマシンに落下した。
 その衝撃でワイヤーを手放してしまい、なすすべも無くラジ館屋上に転げ落ちた。


「がぁっ……」

 そのまま硬い床に叩きつけられ転がる。受け身は取ったもののやはりダメージは大きい。
 息が止まりそうになる。頭がくらくらする。脳が新鮮な酸素を求めている。
 かろうじて両腕で体を支えながら上体を起こす。早く行動を移さねば敵の攻撃を受けてしまう!
 ぐわんぐわんとうつろう視界で空を見やると、火を吹きながら明後日の方向を浮遊していく味方のヘリ。
 タイムマシンという盾を失ったせいで無防備になって、敵の攻撃に晒されたんだろう。それでも致命傷は避け、向上した機動力でなんとか逃げ切っているようである。撃墜されず、無事でいてくれればいいんだけど。
 その時大きな影があたしを覆った。
 嫌な予感がして後ろを振り向くと──
 SERNのヘリだ……!
 ヘリを見た瞬間、ブレードが空気を切り裂く音があたしの耳をつんざく。
 空に浮かぶ巨大な鉄の塊が発する暴風と威圧感が尻餅をつくあたしの身を震わせた。

「あ……う……」

 蛇に睨まれた蛙ってのはこういうことを言うんだろうか。
 体はいうことを聞いてくれない。ただただ小刻みに振動させて恐怖に囚われている一方だった。
 かろうじて視線をタイムマシンに向ける。あたしからゆうに数メートルは離れてしまっていた。
 あたしがタイムマシンの後ろに隠れるために飛び出しても間に合わない距離。
 あたしは一瞬で蜂の巣にされてしまうだろう。
 そのことが頭で分かっていたからこそ、あたしの足は頑としていうことを聞いてくれなかった。
 だからせめて。
 あたしは最期の最期まで奴らに抵抗したという証を見せるため。
 じっと睨みをきかせた。
 あたしはここで殺されてしまうだろうけど、勇敢に戦って負けた。
 武装用ヘリの側部に装着された2つの機関砲があたしを捉える。もういつでも発砲できるだろう。
 でも──
 この体が引き裂かれて消え去ったとしてもこの思念は残存し、いつか誰かに宿るだろう。
 そう心に強く思い──
 目は背けず、対峙する敵をしっかりと目に焼き付ける。
 そして──
 砲口から発せられる銃弾が激しいマズルフラッシュ発生させ目を眩ませる──
 夥しい数の銃弾は押し寄せる波のように屋上の床を削りながらあたしに近づいて──
 やがて──
 激しい爆音とともに──
 あたしの身を切り裂いた──
 


──かのように思えた。



 徐々に──けれど確実に近づいていた銃弾の波があたしの体を貫くことはなく。
 気づけば奴らのヘリは爆炎に包まれて赤く染まっていた。


「なっ……!?」

 目をそらさず見続けていたからわかる。今、下方から何か直撃したような──
 もしかして地対空ミサイル!?
 ヘリは激しい炎に包まれながらバランスを崩し、少しずつ屋上からフェードアウトしていく。
 ものの4,5秒もしない間に、地面に叩きつけられたようで爆発音が響き空を赤く染め上げた。
 よろめく体に鞭を打ちながら屋上の柵から下を覗き込む。
 ヘリは無残にも爆散し、炎があたりに散らばっている。
 搭乗者の生死は絶望的状況だろう。
 逆にあたしはその絶望的状況から脱した。
 でも一体誰が……。
 ヘリに乗ってたワルキューレの誰か?
 いや、でもこの僅かな時間で不時着して地対空ミサイルなんて準備できるとは思えない。
 だったらいったい誰が……。いやまてまて、今はそんなことを考えてる場合じゃないよ。
 そんなことを考えながらあたしはふらふらとタイムマシンへと歩み寄っていた。
 誰かが手助けしてくれたのは確かだろうけど、このまま悠長にしているわけにはいかない。
 敵の敵は味方……とは言ったものだけど、必ずしもそうとは限らない。
 体が重い。視界が激しく揺れ動いている。
 落下と転倒の衝撃で軽度の脳震盪を起こしているんだろうか。
 体を動かせないのは恐怖故にかと思っていたけど、どうもそれだけじゃなかったみたいだ。
 重たくふらつく体を引きずりながら、やがてタイムマシンまで後数歩まで近づいた時──

「待て!」

 あたしを静止する大声が空にこだました。
 驚いて、声のする方を振り向くと階段から男が姿を見せていた。
 その人物はツカツカと確かな足取りで近づいてくる。


「やれやれ、無茶をしてくれる。あんな自殺行為まがいの行動にでなくとも、我々の仲間が虎視眈々と機会を伺っていたというのに……」

 よろめく体を必死に奮い立たせながらその男を見据える。
 白衣を着た細身の男。東洋人。年齢は20代前半……といったところだろうか。
 けれどもその眼には20台特有の若々しさや幼さといったものはなく。
 まるで苦渋に満ちた人生を味わい尽くしたかのような鋭くて、重々しい眼光を放っている。

「何者……?」

 息苦しさが止まず、絞りだすように声を押し出す。
 この男は仲間が居ると言った。ならば下からヘリを撃墜したのはこいつの仲間か?
 敵か……味方か……。それはこの男の今後の発言内容を吟味して判断する。

「知る必要はないな」

 あたしの問いかけに、男は冷たく言い放った。
 掴みどころを見せない。

「それじゃあこっちが困るんだけど。君の呼び方とかさ」

「呼び方などただの記号だ。なんの意味も持たない」

「じゃあお前って呼んでも、いいのかな?」

 何かしら情報を手にしたいんだけど、中々手の内を見せてこない。
 ただ1つ分かるのは、この男が只者ではないということだ。
 年齢不相応のオーラ。この管理社会で銃火器を手にするほどの才覚。
 なにより、あたしのこの心臓の早鐘がこの男の強大さを体中に警告しているみたいだ。

「そうだな。お前呼ばわりされるのも癪だし……」

 あたしがこいつの風貌から見て取れる要素を材料にして、推し量るように睨みを効かせていると、やがて男はぶつぶつとつぶやきはじめた。


「そうだな…………ペトロニウス──とでも呼んでもらおうか。無論、偽名だがね」

 ペトロニウス?
 恐らく日本人──少なくともアジア人なんだろうけど、意外な名前を出されて面を喰らう。
 ペトロニウスと言われて思い浮かぶのは古代ローマ。皇帝ネロの側近だった人物だ。
 それが何か関係しているんだろうか。それともただふざけて思いついた名前を出したのか。

「オーキードーキー。ペトロニウス」

 あたしは精一杯皮肉を込めて一字一句はっきりと口に出して目の前の男の呼び名を発音した。

「なんであたしを呼び止めたの? これでも忙しいんだ。これからこのレアメタルの塊を解体してとある筋に売却しなきゃなんだけど」

「下らないカマかけはやめてさっさと本題に移ろうじゃないか」

 バレてる?
 そりゃ地対空ミサイルを持ちだしてまでやったわけだから、それなりに情報は得た上での行動なはず。
 だったらやっぱこのタイムマシンが目的?

「率直に言わせてもらうと──このままお前を1975年へと跳ばせる訳にはいかない」

「なっ──」

 思わず声が出た。
 やっぱりこれがタイムマシンだと分かっていての口ぶりだ。いや、それよりも──

「なぜ……あたしが1975年なんかに……?」

 動揺を隠し切れないまま探り探り情報を引き出そうと尋ねる。
 こいつはオペレーションブリュンヒルデの概要も知っているんだろうか。
 その上で妨害してくるということは……もしかして。


「世界を変えてもらっては困るんだよ」

 やはりSERN──いや、300人委員会の側の者!?
 だとしたらなぜ味方を裏切るような真似を……。 

「考えてもみろ。極端な管理社会とは言え、争いは以前と比べて激減した。理由もなしに一般市民の命が奪われることはなくなったんだ。平和な世界だと思わないのか? 本当に世界を変えてしまうのか? それは果たして本当に正しい行動と言えるのか?」

「お前は……何者だ!」

「さっき伝えたじゃないか。ペトロニウスだと」

「そうじゃない! お前はSERNの者か! いや、300人委員会に与する者か!」

「やれやれ、考えて呼び方を教えたのにお前呼ばわりか」

「答えろ!」

 怒声を上げて男を睨む。体が万全の状態なら一瞬でこの男との間合を詰めて首の骨でも折ってやったところだ。

「…………」

 あたしががなり声で急かしても男は沈黙を守ったままだ。
 やはりこいつはSERNの手の者なのか。

「まったく、こうなったら手が付けられないのは一緒だな」

「なに……?」

 一体何を言っている?
 さっきからとらえどころのない発言があたしの心臓を急き立てる。


「仕方ない、答えよう」

 男は腕を組んで観念したように語り始めた。

「我々が委員会と関係しているのは確かだ」

 やっぱり!

「お前が……! お前たちがみんなを……! 父さんと、母さんを──!」

「だが、彼らと我々は一緒でいて本質は大きく違う。言わば光と影のようなものだ」

 あたしの言葉を遮って目の前のペトロニウスは淡々と続ける。そんな態度に腹が立って、余計に声を荒らげてしまう。

「何が違う!」

「彼らと我々はまったく間逆だよ。そう──見るものによっては本当に、間逆なんだ」

 一緒でいて逆……? 何を言ってるのか全くわからない。けれどもふざけているようには見えない。

「300人委員会も一枚岩ではないのでな」

「つまりはディストピアを構築した奴らとお前は違う、そう言いたいのか?」

「そうだろうな。我々が最終的に成そうとしている目的を考えれば、そうなのだろう」

「目的……?」

「さあ、質問には答えた。今度はこちらの質問に答えてもらおう。問いは先ほどと一緒だ」

 男は目を細めてこちらを睨んでくる。


「管理社会の何をそんなに憎む。なぜ、世界を変えようなどと目論む」

 その視線は、さっきのような話の脱線は許さない、と牽制するようにあたしを貫いてくるようだった。
 この男から問いただしたいことはもっとあったが、やむを得ずあたしは答えた。

「そんな……決まってるじゃん。人には自由な意思があって、自由な行動が許されるべきだよ」

「その自由な意思の結果が、お前たちレジスタンスの抵抗なのか?」

「そうだ! 世界に自由を取り戻すという、立派な志だ!」

「だったらなぜ民衆はそれに加担しない? 自らの自由が欲しければ自分の足で立ち上がればいい」

「力で人々を縛り付けておいて何を言っているんだ!」

「我々は縛り付けた覚えなどないな。彼らは感覚的に──そして深層的に支配されるのを求めているのだ」

「求めている……?」

「そうだな。2034年、SERNがタイムマシン開発に成功する以前の世の中のことを思い出してみるがいい」

「以前の……?」

「そう。この管理社会が構築される以前のことだ。今よりも遥か多くの問題が蔓延っていた中で、果たしてどれほどの人間が自らの意思で行動していた? 世界を変えようと──改善していこうと、リスクを背負い、そして自分の見定めた道を自分の足だけで歩いてく。そんな人間がどれだけいた?」

「それは……」

「世界が変わった後だってそうさ。権利だけは声高に主張して自らの手は汚さない。世界を変えてくれる救世主の登場を待っているばかり。自分こそが世界を変えてやろうなどという考えは微塵も持ち合わせていない。それが民衆というものだ。ただ管理する者の用意した道を漠然と歩いて行く。その道から逸れてしまった爪弾き者のことはまるで最初からなかったかのように目を逸らしながら」

「…………」

「そんな民衆に、果たして自分の意思などと──自由な意思などというものが、あったのだろうか」

 男は拳を握りしめ、苦悩に満ちた顔つきで声を絞り出している。


「最初からそんなもの……存在しなかったのだ。その結果がこの社会だ。人はみな、管理されたいと望んでいるのだ」

 何も言えなくなる。確かに、こいつの言ったとおり、周りの人たちは何もしてくれはしなかった。
 ただ怯え、見て見ぬふりをするばかり。やがて見て見ぬふりすらもしなくなった。
 あたしたちの姿は目に映ることすらなくなったんだ。

「そんな世界をなぜ変える。争いは消え、社会は平和を構築する手段を得たというのに?」

「それは……皆の……父さんの遺志で……あって……。……あたしはそれを遂行するだけ……」

 問われ、苦し紛れに答える。以前のあたしなら自信満々に言い切ったであろうその言葉を。
 今は自分の中で積み上げてきたものがふらふらと揺れているように心の中がざわついてしまっている。

「父親の遺志? フッ」

 あたしの答えを男は鼻で笑った。顔をそらし、顔を歪ませている。

「何が……おかしい」

「結局意思がないのはお前も一緒なのではないか?」

「……!!」

 ずどんと。胸の中央を銃弾で貫かれたような衝撃が襲った。
 あたしは絶句してしまった。もはや立っているのがやっとだった。

「父親が成そうとしてきたことを妄信的に信じ、それを成す。用意されたレールの上を何1つ疑わず、歩いて行く。管理された民衆とどこが違う」


 目の前の冷酷な男の言うとおりだった。
 あたしは確かにSERNに抵抗するレジスタンス、ワルキューレに所属していたんだけど、それは父親であるバレルタイターが設立メンバーだったからという理由だ。
 あたしは生まれながらにしてワルキューレの一員になる運命だったんだ。
 そのことに対してもちろん納得はしていたけれど、そこにあたしの自由意志はない。
 世界を変えることに対してだって、悩んで葛藤して、眠れない夜はいくつもあった。
 でも父さんの遺志だったから。それがあたしのやるべき使命だって思ったから……。

 改めて考えれば考える程、あたしに意思はないように思えてきてしまう。
 結局あたしも運命にただ流されただけの取るに足らない人間だった。

「お前も管理されてるようなものではないか?」

「そんな……あたしは……あたしはそんな……」

 足ががくがくと震える。あたしを根底から支えてきたものが今、土台から崩れ落ちようとしている。
 今膝を折って地面にへたり込もうものなら二度と立ち上がれないような気がした。

「まるで操り人形だな」

 突然、あたしの周りで糸が意思を持ったようにうねり、絡みつき、行動を許さまいと腕や脚に纏わり付いてくる。
 幻覚だと分かっていても振り払うことができない。
 まるで切れたあやつり糸たちがあたしを雁字搦めにしてしまったように動けなくなる。

「そんな……あたしは人形なんかじゃ……」


 かろうじて反論するも、絡まった糸たちに押さえつけられて体が思うように動かない。
 巻き付いた糸たちはやがて全身を覆い、縛り付けていく。
 幻なのに痛みすら感じる。息も苦しくなって、涙がにじみ出る。
 後もう少しのところでオペレーションブリュンヒルデを開始することができたのに、その一歩が果てしなく遠くなっていくように思えた。
 あたしの中でタイムマシンが遠く離れていく。
 手を伸ばしても届かないくらいはるか遠方に。
 それと同じように、浮かび上がった父さんと母さんの顔も薄っすらと消えてしまっていく。
 けど、ある一言であたしはその絡まった糸を解く意思を取り戻すことができた。

「全く酷い父親だ……。娘を巻き込んで、自分の死後も使命に縛り付けるとはな……。自分の娘を人と思ってもいないのかもしれんな……」

 酷い父親──
 傍から見れば、そうなのかもしれない。
 娘を置き去りにして、レジスタンスなんていう危険な組織に身をおくような運命を課して。
 けれど、父さんはそんな人じゃない。
 結果として、あたしは重大で危険なミッションに身をおくことになってしまったけれど、決してそれを父さんが望んだ訳じゃない。
 だって、父さんがあたしや母さんの目の前から姿を消したのは、あたしたちに危険が及ばないようにするためだったから。
 その時のことを、今も鮮明に思い出すことができる。
 大きな手で頭を優しく撫でてくれたあの日。
 悲しげに笑いながらさよならを告げた父さんは、娘を危険に晒すこと望んでいるようには思えなかった。
 決して、あたしを操り人形にして自分の望む世界に作り変えようとする酷い父親なんかじゃなかった。
 あたしのためを思って、あたしがこれから生きていくためにすべてを託したんだ。
 ポケットの中の、小さなバッジを握りしめる。
 それは父さんとあたしの絆。
 きっとまた会おう、という約束の証。
 そのバッジを手の中に収めながら、あたしは叫んだ。

「あたしは父さんの操り人形なんかじゃない! 正真正銘の意思を持った人間だ!」


 目の前の男の言葉に身をよじりながら悶えていたあたしが突然叫んだことで、ペトロニウスは泡を食っている。
 だけど、すぐにすました顔になって口にする。

「ほう。お前にはちゃんと意思がある、と? ならば聞かせてもらおう。お前の意思とやらを。希望とやらを」

「…………え?」

 相変わらず質問の意図が見えなくて、掴みどころのない発言だ。そんなこと聞いてなんになるんだろう。
 気づけばあたしは涙をこぼしていた。熱い液体が頬を伝って、滴り落ちていく。

「お前の考える、お前の意思を持ってしてやりたいことだ。父親の遺志を継ぐようなことじゃない、本当に成したいことだ」

「わからないよ……。そんなの、考えたことない……。あたしはただ、あたしの意思で父さんの遣り残したことを達成するだけだよ」

「本当にか? 考えないようにしてきただけじゃないのか? 自分の胸の奥底に封じ込めてきただけじゃないのか?」

「…………」

 なぜだろう。
 この男にはすべてを見透かされているような感覚に陥る。


「お前が本当に望む未来を、聞かせてくれ」

「あたしの、望む未来……」あたしはその言葉をなぞった。
 
 もう一度頭の中で反芻する。
 あたしの望む未来は……。
 父さんにもう一度会いたい。
 会ってもう一度あの大きな手に触れたい。

「…………それだけか? 父親に会うことが本当にお前の望むことか?」

 いつの間にか声に出てたんだろう。
 男は追撃とばかりに質問してくる。
 でも、その声色はさっきまでと違ってあたしを貫くような鋭さは持ってなかった。
 その不思議な温かみがあたしの心に栓をしていた何かを外して、封じ込めていたはずの想いがにじみ出てくる。

「…………もっと、自由に、生きたいよ……。友達と自由に……。他愛もない話をして笑い合って……時にはケンカして……」

 友達なんて2036年のあんな社会じゃ到底望めないものだった。
 仲間と呼べる存在はいたけれど、それはワルキューレの同志であって、戦友だ。
 生きるか死ぬかの今日を、神経を張り詰めさせながら背中を守り合う存在だ。

「いつ襲撃されるか分からないような状況になんかじゃなくて、平和な世界で胸を高鳴らせてみたいよ……」


 平和な世界に生まれて。
 平和に生きる阿万音鈴羽。
 何度想像したことだろう。
 何度夢に見たことだろう。
 でもそれは望んじゃいけないことだから。
 使命を果たす上でじゃまになってしまうから。
 ずっと封じ込めてきた。

「父さんと母さんみたいに、出会って……」

 本音が止めどなく流れてくる。
 ぽろぽろと涙をこぼしながら自分の想いを告げる今のあたしは、傍から見ればただの小娘だったんだろう。
 戦士の仮面が剥がれて、溢れてくる。
 自分を強くするためにあえて見ないようにしてきた想いが。希望が。夢が。

「本当はあたしだって、恋をして、好きな人のそばにいたいよ……」


 涙で滲んで先が見えない。
 そのせいで目の前の男がどんな表情をしているのかは全く分からない。
 ただ何か考え込み、言葉を選んでいるようだった。

「…………それがお前の望む世界なら──」

 やがて一言一言選ぶように絞り出した言葉を紡ぎながら。

「跳んだ先で果たしてくるといい。お前の使命を。自らに課した使命を」

「……え?」

 男はもう、あたしを引き止めるようなことは言わなかった。

「もっとも、こんな半人前の戦士が、たった1人で世界を変えられるとは思えんがな」

「むむっ……」

 肩をすくめて、皮肉たっぷりな言い草。なき散らしたい気持ちが少し収まって逆に腹が立ってくる。

「我々としては、世界を変えられては困るから、失敗してもらって構わんがな。ハハハ」

「むむむっ……」

 本当は過去に行く理由だって、エゴなんだ。
 世界を変える理由だって、エゴなんだ。
 あたしが身を挺して世界線を変えることが、平和な世界のあたしにつながっているって信じてるから。
 そこではきっとあたしの周りの皆はSERNの襲撃に脅かされることなんてなくて。
 楽しく笑い合ったり、時にはケンカしたり仲直りしたりしてるんだろう。
 そんな世界を見るのが、あたしの望みだ。
 だから──

──あたしは、あたしのために、あたしを犠牲にする。

 迷いも後悔も、あったっていいじゃないか。
 そんなことで沈んだり浮かれたりするのが、本来の人間の姿なんだから。


 迷いも希望もすべて背負い込んで。
 あたしは指紋認証システムを起動してタイムマシンのハッチを開けた。
 相変わらず目の前の男は微動だにせず、あたしを止める素振りを見せずにそこに突っ立ったままだ。

「本当に、行くよ?」

 涙を抑え鼻を鳴らしながら頬を膨らませて言うと、男は屈託のない笑顔を向けて来た。

「ああ、行ってくるといい。父親に会って、友達を作るんだろう?」

「むむ……」

 なんだか小馬鹿にされてる気分。
 というかこの人ホントなんだろう。止めたいのか行かせたいのか分からない。
 でもさっさと乗ってしまわないと。
 心変わりでもされたら大変だから、急いでタイムマシン内に足を踏み入れる。
 乗った後、機内からもう一度男の姿を確認して。
 涙で滲んだ目と、遠目からじゃよくは分からなかったけど、なんだか無性に懐かしいような、それでいてデジャブのような感覚。
 でもやがてその姿はゆっくりと沈んでくるハッチに遮られて完全に見えなくなった。
 一気に閉塞感が増していく。
 無機質な室内で、内部に灯るボタン類の明かりが微かに光っている。


「まったく、なんだったんだ」

 座席に座りシートベルトで身体を固定しながら、対峙していた男のことを思い出す。
 委員会の関係者だとか言ってたけど、本当に何しにここまできたんだろう。
 彼の言っていたとおり、SERNにも今のディストピア懐疑派がいて、抵抗する人間もいるっていうことなんだろうか。
 だとしたら心強いけど、あんまり楽天的に考えすぎるのも良くない。
 あたしは託された使命を、あたしの意思でやり遂げる。
 だから──

──見ててよ、父さん。

 あたしは今一度、固く決意をして胸に刻んだ。
 迷いも後悔もするかもしれない。
 そうしたら、その時にまた思っきり悩めばいい。その時に悩んで出した結論に従えばいい。
 例え神に背くことになろうと、道徳に反していようと。

──自分の気持ちにだけは背を向けたくないから。

 そう、心の中で呟いて。
 あたしは1975年へ跳躍するための設定を終える。
 終えたところで指が止まった。

 だめだな、早速迷い出してる。
 このまま1975年に飛び立ってしまっていいのか。
 そう思うのには理由がある。
 あたしは父さんに会いたい。一目見るだけでもいい。
 そうすればほんの少しでも父さんの人となりがわかるような気がするから。
 どんな気持ちで父さんがあたしにこのミッションを託したのか、少しでも分かるような気がするから。
 それはきっと使命を遂行する長い年月において大きな励みになると思う。
 だからさ──
 ちょっとだけ、あたしのわがままを許してよ、みんな。
 あたしは心の中でワルキューレのみんなに謝りながら、設定を変更する。
 行き先は2010年7月28日。
 父さんはこの年の8月9日に行われるタイムマシンオフ会に参加したことがあるらしい。
 だからその年に跳躍すればひと目見るっていう願いだけでも叶うかもしれない。
 それに2010年はワルキューレの前身、未来ガジェット研究所の設立の年だ。設立メンバーである父さんの他に、岡部倫太郎も所属しているはず。

「2010年かぁ」

 人々は自由を謳歌していると聞いたことがあるけど、どんな時代なんだろう。
 あたしはまだ見ぬ過去──ひいては変わった後の未来へと思いを馳せた。
 そこではきっと、父さんや母さんは戦いに明け暮れることのない普通の夫婦で。
 戦友だったワルキューレのみんなはあたしの友達で。
 岡部倫太郎は英雄でも何でも無く、普通の人で。
 あたしを取り巻く環境も大きく変わっているんだ。
 でもきっと今のあたしは消えてしまっていて、戦いに明け暮れた日も。
 父さんと別れを交わした幼い日も。
 母さんが殺された数日前も消えてなくなる。
 何も知らないあたしがきっとそこにいる。
 でも、それでいい。平和な世界で自由に生きるあたし──阿万音鈴羽の礎になれるなら、それでいいんだ。

「あれ……」

 気が付くと、また涙が溢れていた。
 焦がれるほど夢に見た日常を胸に抱きながら、あたしは跳ぶ。
 このミッションが成功することを祈って、指に力を入れる。
 その瞬間身体から重みが消え、重力から解放された。
 さあ、行こう。
 希望を胸に。
 何物にも縛られることのない世界へ──



Last Chapter Side A END

Last Chapter Side B



 甲高い警告音とともに強烈な紫外線を放つ機械を眺めていた。
 それはやがて一瞬で燃え尽きる花火のように一際眩い光をはなかったかと思うと、すでにこの地球上には存在しなくなっていた。
 ラジ館屋上の床に入った亀裂と、鼻を刺激するオゾンの香りだけが現在における鈴羽の存在を未だに証明していた。

「二度目のさよならだ。鈴羽」

 大切な物を撫でるように優しい口調が出たと、自分でも思った。
 こんなに声色を出したのは随分と久しぶりのような気がする。
 思えば10年以上も前からずっと気を張ってきた。
 全ては今日──この日のためだった。
 今日ですべてが終わる。もう、仰々しい口調をする必要もなくなる。
 そこでふっと鼻から息が漏れた。
 咄嗟に出した偽名がペトロニウスとは、自分でもおかしかった。ペトロニウスというよりは、ピートの方がしっくりくるだろうか。
 それはともかくとして、結局自分もあの夏へと通じる扉を求めていることに気がついた。
 自由で豊かで、まだ何も知らなかったあの夏。


「きっとこの作戦はあの夏へと繋がっているだろう」

 誰ともなく、俺──いや、僕は呟いた。
 そうとも、もうこんな大げさで厨二病的な発言はしなくともいい。
 もうすぐ終わるんだから。

「そうだよな、オカリン……」

 友の名前を呟いて、僕は携帯電話を取り出す。
 当然旧時代の遺物だ。今や一般市民に与えられる機械ではない。
 使えるのは一部の特権階級の者達。つまりは支配者側の人間だ。
 だがそういった仕組みがある以上は抜け道が無いわけではない。
 十分に対策は可能だ。それが何十年も前から分かっていたことなら、なおさら。
 機械を操作し、たった一文、友に届くよう通信した。
 そう、たった一文だ。
 見届けた、と。

──本当は行かせたくなかった。

 さながら戦地へと息子を送る母親の気分といったところだろうか。

──本当は引き止めたかった。


 頭では無駄だと分かっていつつも、僕にできる最後の抵抗だった。
 だが世界は許してくれないし、代わりがいるわけでもなかった。
 結局、その通りにしか、ならないんだろう。
 何より「父親に会いたいなど」と、父親であるこの自分に告げられてしまえば、何も言えなくなってしまう。
 家族のためと自分に言い聞かせて別れた娘に、寂しい思いをさせてしまったんだな、と胸がえぐられるような思いになった。もちろん分かっていたことだが。
 だからつい、本音を出してしまった。
 娘の望んでいることを知りたくなった。
 今まで何もしてやることができなかった。
 未完成のタイムマシンしか遺してることができなかった。
 だったらせめて、やりたいようにやらせてあげることしか、僕にはできない。
 それが過酷な運命を背負わせてしまった娘に対する、せめてもの贖罪だった。
 だから鈴羽──
 頑張って幸せになってくれ。
 犠牲となったみんなのためにも、幸せに──
 そう願い、白衣のポケットに仕舞っておいた眼鏡をかける。
 鈴羽を目の前にしては、きっと涙が溢れてしまうかと思ったから、今までかけないでいた。
 いつもの感触が戻ってきて、ぼやけていた視界がクリアになる。
 僕はオレンジ色に燃える空を見上げた。傾いた夕日が目の前の役割を失った幾つもの廃墟を破滅的に照らしている。
 世界が今、終わろうとしている。

 斜陽。神々の黄昏。
 もっともその神々は、神を自称する愚かな支配者の連中だ。
 そしてその神を地べたに引きずり落としてただの人間にしてやろうじゃないか。
 そのためのオペレーションラグナロック始動の証として、角笛を今鳴らそう。
 そして世界は今、再び始まろうとしている。
 握りしめた細身の携帯電話の感触を強く確かめて、計画を担っている関係各所へ通達した。
 先ほど友に送ったメッセージも。
 今しがた送った通達も。
 もしかしたら電波傍受でこちら側の動きは読まれるかもしれない。でも、もう遅い。
 今から1分もしない内に角笛は全世界へと鳴り響く。
 SERNもタイムマシンでの過去改変をしている暇などない。
 ここにも追手が来るかもしれないが、それでも構わない。
 どの道僕は、3年前に死ぬ予定だったんだ。それが少し遅くなっただけのこと。
 もちろんむざむざやられるつもりは毛頭も無いけども。
 26年前にまゆ氏の運命を知って。それからオカリンと牧瀬氏、そして鈴羽の運命を知り。
 衝突もあった。
 やり場のない怒りに震えた夜もあった。
 11年前に引き継いだ意志の重みに何度も潰れそうになった。
 こんな僕にレジスタンスのリーダーなんて務まるわけがないって思ってた。
 それでも僕は我が友と、我が娘を信じて、ここまで来たんだ。
 大丈夫、僕は1人じゃない。そう信じて。
 様々な思いを胸に──
 僕は最後の通信相手へと繋がるボタンを押した。
 向こうは今か今かと僕からの連絡を待っているはずだ。
 案の定、わずか数コールの呼び出し音の後に通話が繋がる音が聞こえてきた。
 相手はこちらの心境を探るように低く、抑揚のない声で言った。

『…………俺だ』

「もしもし、僕だ。バレルタイターだよ」


『終わったのか』

「うん、全部ね」

 少しの逡巡の後、聞こえてくる言葉。

『ご苦労だった。よくぞここまで着いてきてくれた』

 それは紛れも無く本物の労いの言葉。厨二病でもなんでもなく。
 本当に頑張った。それだけは胸を張って言える。
 けどもう、僕に出来る事はもうないだろう。
 だから──
 託す。人々の想いというものに。

「後は彼らの働きに任せよう。そのためには──」

 電話の主は意図を汲んだようで、僕が言葉を紡ぐ前力強く告げてきた。
 そう、何十年も前から変わらない、その大げさで痛々しくて──
 それでいて、何かを惹きつけるようなあの口調で──
 我が友、岡部倫太郎は、支配構造を打ち砕くべく成り代わる──

『分かっている。全て任せておけ。この狂気のマッドサイエンティスト──』



──鳳凰院凶真に。



Last Chapter Side B END

今日はここまで
次回の更新で最後を予定しております
できれば早めに仕上げて投稿したいですが、木曜~日曜あたりになるかと思います

最後の投稿していきますが、その前に読み返してたら誤字脱字誤変換が多かったので修正しておきます



>>104

顔を上げると彼女は複雑な表情をしているのが目に入った。

顔を上げると彼女が複雑な表情をしているのが目に入った。


>>137

顔を歪ませて手のひらを口元に開けてそっとしのび泣く。

顔を歪ませて手のひらを口元に当ててそっとしのび泣く。


>>140

別に親しくていたわけじゃないから言い切ることはできないけど

別に親しくしていたわけじゃないから言い切ることはできないけど


>>170

大丈夫、ここが嫌になったとかじゃなから

大丈夫、ここが嫌になったとかじゃないから


>>173

気がつけばあたしは隣で眠り岡部倫太郎の部屋を訪ねてた

気がつけばあたしは隣で眠る岡部倫太郎の部屋を訪ねてた


>>185

章一がため息をつく横で鈴羽がやれやれといった様子で苦笑いを浮かべていた

幸高がため息をつく横で鈴羽がやれやれといった様子で苦笑いを浮かべていた


>>217

気が進まないが飽くまで同様は悟られぬよう伝える

気が進まないが飽くまで動揺は悟られぬよう伝える

>>244

それでも、今ほど溺れるほど飲んだことなどない

それでも、今ほど溺れるまで飲んだことなどない


>>302

卒業した章一と幸高がいた頃は賑やかなものであったが、最近は俺1人か、もしくはたまに章一が尋ねてくる程度でとても侘びしいものだった

卒業した章一と幸高がいた頃は賑やかなものであったが、最近は俺1人か、もしくはたまに章一が訪ねてくる程度でとても侘びしいものだった


>>302

ソファーに腰掛けて出した冷蔵庫から取り出したドクペを一口

ソファーに腰掛けて冷蔵庫から取り出したドクペを一口


>>349

──俺がついて行って、父親との中を取り持ってやる

──俺がついて行って、父親との仲を取り持ってやる


>>350

そう思うと思わず胸が締め付けられる。

そう考えると思わず胸が締め付けられる。


>>478

砲口から発せられる銃弾が激しいマズルフラッシュ発生させ目を眩ませる──

砲口から発せられる銃弾が激しいマズルフラッシュを発生させ目を眩ませる──



まだまだあるとは思いますが、とりあえず・・・

後もう少しだけお付き合いください

Last Chapter Side O



 耳元に当てたクリムゾンレッドの携帯電話をゆっくりと下ろし、見つめる。
 数十年ぶりにその感触を握りしめていると、感慨深い想いが沸き上がってきた。
 2036年現在においては完全に時代に取り残された過去の産物。
 一般人はおろか、支配者側の人間が持っている通信端末にこういう型の物は存在しないだろう。
 だがあえて俺がこの端末に拘ったのには訳がある。
 共に戦ってきた──言わば戦友だからである。
 外装はボロボロで古めかしく、液晶画面は傷だらけで薄汚れている。電池に至っては電源を入れればものすごい勢いで消耗していく。
 語るまでもなく、寿命は過ぎていた。
 だからこそ、幾多の困難を乗り越えてきたゆえの重みがそこに感じられる。
 俺だって、同じだった。
 追手の襲撃を懸念しない日は無かった。計画に見落としがないか確認を怠らない日はなかった。いつだって神経を張り詰めていた。
 肉体こそ若々しさを保ってはいるが、すでに俺の精神は擦り切れる寸前だ。
 懸念材料は他にもある。
 俺は自らの胸に拳を当て、目を閉じた。
 どくんどくんと、一定のリズムで刻まれる脈動は未だに俺の命を証明してくれている。

──大丈夫。まだこの心臓は動き続けている。

 我が右腕──バレルタイターことダルの協力を得て、我々が何十年も前から計画してた作戦が、今始まる。
 そこまではなんとしても、気力を持たせなければならなかった。


「…………」

 俺はすでに立ち上がっている薄型のタブレット端末を手に取り、デスクの上に固定した。
 畳ひとつ分はあろう大きさの机の上で、タブレットの他に、複数のPCモニタが並んでいる。
 学校の教室ほどの広さを有する部屋で1人溜息をついた。
 天井にはむき出しのダクトが縦横無尽に走っており絡み合っている。
 温かみの感じられない無機質な白色の壁。それらを照らす真っ白な照明の光。
 他に人の姿は無く、ただただ静謐な空間だけがそこにあった。

 2010年8月、薬を飲ませてまゆりを世界の運命から切り離した後、俺たち──俺と紅莉栖とダルはラウンダーの連中に拉致された。
 およそ1年半に渡るSERN内での拘束の後、俺たちは脱走計画──オペレーションヴァルハラを実行。
 計画自体は失敗に終わり、俺は負傷した。
 本来ならばそこで俺たちにはSERNに楯突く反逆者として始末されるだけの理由があった。
 けれども、それすら世界線の収束に阻まれることとなった。
 SERN──300人委員会の連中は、因果を歪めるようなことはできるだけ控えるべきだと判断したのだ。
 どの道俺は2025年に死亡。ダルは2033年に死亡するという情報があったからこそ、俺たちを脅威だと思ってはいても、2011年において因果を歪めてまで排除すべき存在ではないと結論づけたのだ。
 結局、紅莉栖がSERNに残って研究に携わり、俺とダルが解放されるという結果で事態は収拾した。
 果たしてそれが本当にSERNとしての自由意志だったのか、世界線収束による終局だったのかは今でも分からない。だが奴らは俺を──
 人の意志というものを侮りすぎた。


 その結果、俺がここにいる。
 ここはとある研究所内。
 今は2036年9月末。
 本来であれば、俺はとうの昔にラウンダーの手によって暗殺されている。
 しかしながら、シルバーブレットを服用することによって世界線収束の呪いを打ち破ったのだ。
 2025年において、その薬の効果はすでに、任意の年齢に狙い定めるまでに進歩させていた。
 俺はあの夏と同じ歳──18歳前後の姿まで若返り、その後はワルキューレの指揮権をダルに一任し、俺は別のミッションへと尽力することになる。
 そして2033年に存在を否定されるダルも自らの運命を断ち切った。
 今や俺は29歳、ダルは21歳程度の肉体まで若返っている。
 まゆりと同様に、世界の運命から逃げ切ったのだ。収束の魔の手から──いや、あるいは。
 この世界では、それすら収束事項だったのかもしれない。
 俺や鈴羽、紅莉栖がねじ曲げた世界線。そのねじ曲げられた事象は世界の過程に大きな変化をもたらし、そして今、世界を変革しようとしている。
 さあ、思い出に浸るのは後でいい。準備はすでに整っている。
 そう心で呟いて。
 俺はプログラムを起動した──
 デスクの上に立てられた薄型端末のモニタとは別のPCモニタに、髪がボサボサ乱れて縦横無尽に伸びきった頭の男の顔が映りだされる。
 無精髭を顔にまき散らし疲れきった顔をした男。29にしては老けているようで、それでいて瞳の奥の光はぎらりと鋭い。
 俺が指で顎を触ると画面の男も同様に顎を触った。

──相変わらず、にじみ出る狂気のオーラがマッドサイエンティストたらしめているな。鳳凰院凶真よ。

 俺はモニタ越しの自分に向かって心の中でそう言った。
 すでに全世界に向けた放送は始まっている。


 農場で作業をしている者。つかの間の休息をかみ締める者。すでに睡眠を取っている者。
 色々な人間が居るだろう。
 人々にとって唯一の情報源であるテレビスクリーンは、そこら中に設置されている。
 支配者に使役される立場の執行者をはじめ、奴隷階級の者たちの近くにも蔓延している。
 そしてその機械は人々に偏った思想を植え付けるだけではなく、民衆を監視し、恐怖を植え付け、管理する。
 放送内容は酷いものだ。2010年では平然と放送されていたようなバラエティ番組、ドラマ放送、情報を得るためのニュース番組は一切無く。
 代わりに労働の喜びを称えるような説法から、社会への奉仕を勧める吐き気を催す歌詞ばかりを集めた歌番組。
 そして民衆が貯めこむ不満の吐きどころにするスポーツ番組。
 反逆を企てた──というにはあまりにも大げさな──者の公開処刑といったところだ。
 当然ながら他に何もすることのない一般人はそれを拠り所にするしか無い。
 結果、余計に今日を生き伸びるためだけに汲々とし、未来への希望を失って、より家畜に近づくのだ。
 だから、その放送を、ジャックする。
 全世界に向けたこの俺の言葉を、今この放送で発信するのだ。
 すでに放送用の衛星はクラッキングによって押さえてある。
 邪魔が入ることもない。
 俺は1つ咳払いをした。
 これからはじまるのは狂気に満ち溢れた反乱。その革命を焚きつけるのはこの俺の言葉だ。
 ミスは許されない。
 人々の心に、呼びかけなくてはいけない。人々の魂に、刻み付けなくてはいけない。
 2日間のループで心を失いかけていた俺を呼び戻してくれた彼女の言葉のように。
 ただ生かされるために今日を生きる──そんな世界から救い出してくれた鈴羽のように。


「あ──あ──、諸君。日々の労働、ご苦労である。まず始めに1つ断っておきたいのは、この放送は諸君の少しばかりの不満のはけ口でなければ、救いを差し伸べる蜘蛛の糸でもなんでもない。だが現状にわずかでも疑問を抱いている者が君たちの中にいるのであれば──ほんのわずかでも未来を変えたいという意志が君たちの中にあるのであれば──どうか、このまま耳を傾けていて欲しい」

 俺は真摯な眼差しをモニタの世界に向けた。
 目元に深く刻まれる皺に囲まれた2つの瞳がきらりと輝いた。

「なぜならこの俺も、まだ多く燻っているであろう君たちと同じように未来を変えたいと願い、今日まで生きて来たのだから。紹介が遅れたが、俺の名は岡部倫太郎。知っている者もいるだろう。SERNという独裁者に楯突いたテロリストだ。本来であれば2025年に暗殺されて生涯を終えていた。だが俺はこうして生きている。時空を操ることで自分の命運を変えた。それも全てはSERN及び機関の陰謀を打ち砕くためだ。今、俺がどこにいるか分かるか? わからないのであれば教えてやる」

 俺は映っていた身体を翻し背後を指さした。
 その先には規則正しく並べられた数台の車。どれもシボレーのコルベットである。
 モニタに映ったのを確認すると俺は再びカメラに向かい合って、その部分を大げさに強調するように言った。

「そう──ここはSERN研究所内であり──あれはタイムマシンだ」

 告げた。はっきりと。
 これがどういうことかは、言わなくとも分かるだろう。


「あらゆる困難と陰謀を乗り越え、俺はついにSERNの中枢へと潜り込み、こうして奴らの首元に刃を押し当てることに成功した。この諸悪の根源、タイムマシンさえ無くなれば──これさえ破壊してしまえば──君たちの過去を縛るものはもう居なくなる。君たちの未来を遮るものは無くなるのだ!」

 言葉に力を込める。群集心理を煽るように声たかだかに。
 心に届くように。

「まだ、俺の声が聞こえているか。聞こえているならば安心しろ。操られる今日に悲観する必要はもうない。分かりきった明日に絶望する必要はもうどこにもない。君たちは家畜じゃなければ機械でもない。君たちは紛れも無く人間だ。理性ある世界に生きる人間だ。その理性ある世界のために──人々の幸福を導いてくれる世界のために闘おう」

 俺は白衣のポケットから小型のスイッチを取り出す。
 これを押せば背後の車に仕掛けられた爆弾が炸裂し、支配者たちの愚かな夢を粉々にするだろう。


「さあ、立ち上がるのだ! 自らを神格化した愚かな支配者のためなどではなく、自分のために──自分の足で立って歩き出し──そして、その手で自らの未来を掴み取ろうではないか!」

 俺は高らかにそう宣言し握られたスイッチを押す。
 その刹那、背後からものすごい熱量と圧力と爆音が一斉に襲ってきた。
 仕掛けておいた爆弾を一斉に爆破させた。コルベット達は無残にも爆散し、赤く染まっている。
 奴らの首元に突き立てられた刃は喉元に深々と沈み込んでいった。
 後は煽るだけ。
 両手を広げて行動を促す。

「障害は取り除いた! 外に出て周りを見渡すがいい! 君たちの同志は押しなべて自由を欲している!」

 少し間を空けて、今度は穏やかでありつつも堂々たる威厳を醸しだして述べる。

「そして自由を欲する民とは別に、愚かな支配者に従う兵士たちにも告げる。君たちは支配者たちから囲われ、守られ、そして報酬を与えられている。しかしそれは単なる幻想に過ぎない。ひとたび革命が起きれば奴らは無慈悲に君たちを切り捨てるだろう。盾にし、弾にし、食いものにする。奴らは意地汚い獣だ。自分の身1つでは何もできない、臆病者だ。そんな意気地なしの腰抜けのために命を張るな。それでも奴らのために身を削るというのであれば、それはもはや、君たちが家畜だと思い込んでいる被支配階級そのものだ。奴隷そのものだ。だから兵士よ。奴隷を作るために戦うな。自由のために闘え!」


 俺は目を閉じ、息を大きく吸い込んだ──

「最後に、これまで支配を許してきたあらゆる者たちにこの言葉を贈ろう」

 それはかつて、俺自身が受け止めた言葉──
 贈った男は、俺が憎むべき敵側の人間だったけれど、今は感謝すらしている。

「私の運命の支配者は私であり、私の魂の指揮官は私である──」

 門がいかに狭かろうと──
 いかなる罰に苦しめられようと──

「武運を祈る。エル・プサイ・コングルゥ」

 俺は何ひとつ、恐れはしない──


 最後にそうつぶやき、放送を終えた。
 この放送は皮肉にも、管理社会を作り上げた科学者たちの開発した高精度の通訳ソフトにかけられ、あらゆる言語で、あらゆる地域に流されるであろう。
 時差や放送を見逃した者にも配慮し、放送は繰り返される。そしてそれを見た民衆はきっと立ち上がる。
 なぜなら人間は革命のために生きているようなものだから。
 この管理された世の中で家畜のような生き方をするようにはできていない。誰もが皆、自由を欲している。
 俺はその自由を欲する魂にほんの少しのきっかけを与えたに過ぎない。

──そう、これこそがオペレーションラグナロックの全容だ。

 過去を変え、世界線を跨ぐことでディストピアをなかったことにするのではなく、文字通り世界を変えるための作戦。
 鈴羽が観測した2036年の今日までの結果を変えることはできない。
 しかし、それ以降の未来であれば確定はしていない。ゆえに今日、この時を待ち準備を進めてきた。
 支配者層に対する、文字通りの革命。解放戦争。そして最終聖戦──
 その先に訪れるのは混沌とした未来だ。平和とは言いがたい未来かもしれない。
 きっと治安も悪くなるだろう。憎しみは憎しみを生み、やがて深い悲しみを生むかもしれない。
 だがそれでいい。
 人々は本来自由であるべきだから。自由な意思があるべきだから。
 そのために戦うべきなのだから。


 はたしてこの世界線の未来は俺が望んだ世界へと通じているだろうか。
 俺が望んだ夏への扉を、開けられたのだろうか。
 それはまだ分からない。
 だがきっと──
 きっとあの自由だった世界へと通じていることを願う。
 18年を生きた2010年を捨てて1975年へと辿り着き、今この時、2036年──
 実に79年間。
 あの閉ざされた2日間を考えれば、きっとさらに長い年月を積み重ねたであろう我が人生を省みる。
 きっと失敗ばっかりだった。
 まゆりを救うことに何度も失敗して。
 鈴羽の絶望とまゆりの命の間で永遠にゆらぎ続ける環の中に閉じこもり。
 その環からなんとか抜けだした先にもさらなる試練が待っていた。
 だがそれすらも乗り越えて。
 今、約束を果たす時がきた。
 あの日ラジ館の屋上で交わした鈴羽との約束──

──きっと未来を変えてね。今みたいな、自由な世界に変えて──

 鈴羽に救い出されて、紅莉栖と共に足掻いてきた。
 そして今もまた、俺は色々な人たちに支えられている。
 みんなの想いをぎゅっと胸にしまいこんで。

──きっと未来を変える。あの時のような、自由な世界に変えてやる──

 自由で笑い合って、ときにはケンカもして、争いがあって悲しい時もある。そんな世界に──

 
 もしかしたら世界は変わらず、自由は取り戻せないかもしれない。
 それどころか人類のためには、世界を変えない方がいいのかもしれない。
 けれど自由を望む人々は確かにいて、彼らは立ち上がる。
 ならばその意思は紛れも無く本物だ。押さえつけられていいものじゃない。
 どちらが正義でどちらが悪なんて決め付けるつもりはない。
 人は何かのために戦い続ける。
 それが自分のためであれ、誰かのためであれ関係ない。

 ふと、これからの未来に思いを馳せてみた。
 きっと長い戦いになるだろう。
 いつ終焉を迎えるか分からないこの戦い。
 終わった後、俺は次代の英雄として歴史に名を刻むだろうか。
 それとも戦争を炊きつけた史上最悪の暴君として蔑まれるだろうか。
 だがどちらでもいい。俺は英雄にも暴君にもなりたくない。
 なぜなら俺は狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真だから。
 望むのは混沌とした未来。望むのは世界の支配構造の破壊。
 ただ、何者にも縛られない、自由な明日──

 俺はただっぴろい室内で1人つぶやく。

「これも──シュタインズゲートの選択だ」


Last Chapter Side O END

Epilogue



 広くはあるが、無機質で息の詰まりそうな薄暗い室内。
 かろうじて残った照明も、せわしなく明滅を繰り返しながら辺りを照らしては薄黒く染めている。
 爆発の影響で照明器具の調子がおかしくなったのか、あれ以来ずっとこの調子だ。
 天井に張り巡らされたダクトからは獣が低く唸ったような音が鳴り続けている。それ以外の音はまるで聞こえてこない。
 この部屋だけが世界から遠く切り離されてしまったかのような。
 時折PCモニタが暗転し、再び切り替わってぼんやりと明るい画面が床と壁を優しく照らている。
 モニタに映し出されるのは常に同じ映像だ。

──そう、俺が数日前に行った演説の放送である。

 何度も心に訴えるため、繰り返し流し続けている。
 暴動のさなか、テレビの放送網は依然としてこちらの手の中にあった。
 一度決起した人々の力は侮れない。これがその結果だ。
 俺のこのプロパガンダによって立ち上がった民衆を見てさらに他の者は立ち上がる。
 その立ち上がった戦士たちを見て別の民衆も立ち上がる。
 やがてその意志はウィルスのように広がっていく。一度焚き付けられたらもう立ち止まらないだろう。
 これこそが俺の──俺たちの立てた計画。
 オペレーションラグナロック。
 すでにギャラルホルンは鳴らされた。後はいかなる結果が待とうと、戦いぬくだけだ。
 ふとPCモニタとは別に、タブレットのモニタが切り替わり、通話ソフトが立ち上がった。

『あーもしもし、オカリン? 僕だお』

 画面にはSOUND ONLYの文字。だが顔を見なくとも誰であるか一瞬で把握した。


「緊張感のない奴め。せっかく奪還したインターネット通信網だ。こう、クールにコードネームとかをだな……」

『あーはいはい、こちらバレルタイター。これでおk?』

「まぁいいだろう……。で、首尾は?」

『守備? んーまぁ、攻撃してんのはこっちだから全然問題ないっつーか。でもやっぱNASAをはじめとした300人委員会傘下組織の治安部隊が結構抵抗してる感じ。洗脳されてたり肉体改造されてて手強いって。僕らが集ったエインヘリヤル達が踏ん張ってはいるけど敵前逃亡もちらほら出てきてるって話。まあしゃーないわな。逃げる奴はベトコンだ、逃げない奴はよく訓練されたベトコンだ』

「ホント戦争は地獄だぜフゥハハハーハァ──ってやかましい!」

『オウフ、厳しいツッコミ。まぁ軍事衛星の類も無力化してるし、核とかの大量破壊兵器も簡単には使えないだろうからしばらくこの膠着状態が続くと思われ。つーかもうIBN5100様様っつーか、まさに情報を制するものは戦争を制する、キリッ』

「それで? SERNはどうなっている?」

『SERNについてはもう制圧完了。やっぱり諸悪の根源だけにヘイト稼ぎまくりワロス。フランスやドイツをはじめとした各地の精鋭たちが送り込まれてラウンダー共をなぎ倒したって。その姿はさながらかつてのフランス外人部隊だったそうな。おーこわ。まぁ、あそこは秋葉氏も指揮取ってるし、予定調和じゃね?』


「タイムマシンについては?」

『そっちは現地に潜り込んでたエスブラウン氏たちが破壊済み。牧瀬氏が提供してくれた情報の通り、全部ね』

「ふむ。さすがこの俺が見込んだエージェントだ……。この俺の目に狂いはなかったということだな」

『まあそこは牧瀬氏に感謝っしょ。リスク背負って僕らにSERN研究所内の情報を横流ししてくれたからこそ選択肢が増えて、こうやってプランBを実行できたわけだし。プランAだったら今頃オカリン蜂の巣かもよ?』

「ああ、感謝しているさ。こうして”日本”で事態を見守ることができているのだからな」

『オカリンが演説の後しゅんころされても、士気に関わるからね。そう考えると初期案は怖すぎワロエナイ』


 そう、初期段階では俺の演説は実際にSERNに潜り込み、目の前でタイムマシンを破壊して民衆を焚きつけるという計画だった。
 しかし潜入には大きなリスクがあった。
 まず第一に、いかにコネクションがあろうと、いきなりSERN中枢に潜り込み、タイムマシンに接近するなどということをSERN及び委員会の連中が見逃すかという問題があった。
 厳重な監視もついているだろう。
 作戦が事前にバレて俺が殺されてしまえば計画は破綻だ。
 第二、第三の潜入者を予想して、警戒はより一層高まるのは間違いない。そうなればタイムマシンを破壊することは難しくなる。
 故に俺はこの日本にて、託された情報を元に”SERN研究所内と同様の見た目の部屋を作り”さらに、”タイムマシンの偽物”を部屋に配置した。
 モニタ越しにみればテレビ内の俺はSERN研究所内にいるように見えるという訳だ。
 そしてあたかも本物のタイムマシンを破壊したかのように見せかけ、民衆に脅威は消え去ったと思い込ませる。
 そうなれば計画の第一段階は達成だ。
 結果、見事に人々は決起し、今の状況が生まれている。
 さらに計画を成功させるためには第二段階の達成が肝となる。

──その第二段階とは、タイムマシンの破壊だ。

 タイムマシンが残ってしまってはこの計画は台無しになってしまう。
 奴らにしてみれば、過去に戻って計画を阻止すればいいのだから。
 そこで俺は、民衆にSERN研究所と思わせるだけではなく、緻密な情報を下に研究所を細部まで再現し、SERNの研究員やラウンダー達にも研究所内だと思わせたのだ。
 そうすることによって現地に潜り込ませておいたスパイを使ってタイムマシンの在処を確定し、接近する。
 放送が始まれば俺を止めようと奴らは必死になるだろうからな。
 必然的にタイムマシンを保管するその場所に人が集まる。
 その騒ぎに乗じてエージェントがタイムマシンを破壊するという手はずだ。
 計画はまんまと成功し、タイムマシンを全て破壊したとのことだ。
 優秀なエージェントと、この頭脳があってこその計画である。
 これで奴らは時間という4つ目の次元に干渉する手立てを失った。こちらの土俵に誘い込んだ。
 すなわち、身の削り合いで勝負せざるを得なくなったということだ。
 奴らが再びタイムマシンを作ろうと画策しようと、すでにSERN研究所が俺達の手の中にある以上、それも叶わないだろう。
 少なくとも膨大な時間はかかるはず。
 タイムマシンの破壊という現実は、ラウンダーや委員会の手下どもの士気を下げるには十分だったはずだ。
 現に執行者を気取っていた支配者の犬達は次々と降伏をし始めている。
 結局タイムマシンと、委員会の後ろ盾がなければ何もできない連中だ。当然の結果である。
 そしてそれはこちら側の士気を上げることにも繋がる。
 結果ある程度の小競り合いは続いてるとはいえ、確実に世界の支配構造を覆し始めていた。
 オペレーションラグナロックは成果を出しつつある。


──オペレーションラグナロック。

 紅莉栖の計画を元に俺が練りに練って、紅莉栖やダル、そして数多の仲間たちと共に実行した計画だ。
 その概要は──
 世界線を変えることで未来を変えるのではなく、世界の権力者たちを引きずり落とすことによる支配構造の破壊。
 一言で言えば革命だ。
 世界線を変えてしまえば、それと引き換えに多くのものが失われてしまう。
 世界線を変えなければ、俺たちが過去を捨ててまでタイムトラベルした意味が失われてしまう。
 そのジレンマに打ちひしがれた俺と紅莉栖は、世界線を変えないことを選んだ。
 だが──世界線を変えられなくとも、俺たちは自分の意思で行動することが出来る。
 そして──結果は変えられなくとも、過程は変えられる。そう信じた。
 その願いにも似た想いを胸に、長い年月を費やし、俺たちはまゆりを救う手立てを確立──そして見事に世界を欺いたのだ。
 その後に訪れる未来はSERNが構築するディストピア。
 その管理社会を打ち砕いて世界に自由をもたらすことこそがタイムトラベルの目的の1つであり──
 何より、鈴羽との約束だった。
 まゆりに仮初の死が与えられた8月13日、俺とダル、そして紅莉栖の3人はラウンダーに捕らえられることなる。
 それはすでに鈴羽から情報を得ていたため、周到に計画を企て、脱走するつもりだった。

──それがオペレーションヴァルハラ。
 
 結果は失敗に終わって、俺とダルだけが解放されるという結末だったが……。


 そして次に俺たちはレジスタンスを設立した。これも鈴羽の証言通り。
 2011年においてSERN──いや、300人委員会の陰謀に気づき、彼らに抵抗しようとしてた勢力はすでに存在した。
 そいつらとコンタクトを取り、抵抗勢力を作り上げ、ディストピア構築を防ぐ組織にする。

──それがオペレーションワルキューレ。

 だが──表向きは、だ。
 もっとも俺は、ワルキューレが最終的にSERNを打ち砕いてくれればいいと思っていた。そう願っていた。
 だが奴らは強大だ。
 その上俺がレジスタンスを設立するという情報はすでに敵側に伝わっていたから、SERNを出し抜けるとは思えないのも事実だった。
 だから俺は、2025年に死んだと見せかけて、裏で暗躍していたのだ。
 ワルキューレは言ってしまえば──言い方は悪いが──隠れ蓑のようなものだ。
 奴らから俺の動きを悟られないための目眩まし。
 2025年、世界から死を約束されているはずの俺はシルバーブレットを使って若返り──その頃にはすでに薬品の効果は、任意の年齢まで若返ることを可能としていた──2036年の革命のため──そう今、この時のための勢力を構築していたのだ。
 秘密裏に動かなければ意味がないため、非常に気を張る仕事だったが、バレてしまえばすべてが水泡と化すため、細心の注意を払った。
 
──それがオペレーションエインヘリヤル。


 刑務所に服する者やギャング、ヤクザと言った社会のはみ出し者──つまりは管理に抗ってきた者たちに接触し、協力を仰ぐ。
 ディストピアなどという極端な管理者会において、彼らは確実に抵抗するだろう。
 そんな反骨精神を持った者たちをSERNやその犬たちにむざむざ殺されるのを放ってはおけない。
 きっと彼らは戦力になる。
 自由のために共に戦ってくれるだろう。
 気性の荒いただのごろつきが多いのも事実だったが、中には目を瞠る者もいた。
 
 1人は猟奇殺人事件を何件も起こし、自ら進んで刑務所に服役し、罪を償っていた男だ。
 狂気に満ち溢れた男だろうと想像していたのだが、色々な偶然や陰謀や重なってそういう結果になったらしく、本人は至って公明正大な人物だった。
 そして彼との出会いは俺に、目の前の事象すら歪める能力者という人智を超えた世界の存在を知らしめてくれた。
 その邂逅が無ければ、きっとこの計画もどこかで綻びが生じていたに違いない。
 
 もう1人は、大量殺人──と表現するにはあまりに物足りない──を企てたテロリストの女だ。
 レジスタンスメンバーのツテを頼って接触をはかったのだが、彼女もまた、様々な陰謀の渦中、巻き込まれた被害者の1人だった。
 委員会の野望について存知しており、それに警鐘を鳴らす優秀な人物でもあった。
 
 その2人も、この聖戦に至るまでの立役者であったことだろう。
 世の爪弾き者や自由を欲する者、SERNに敵対する者たちが身を潜め、その計画の瞬間を待ち望んでいた数日前。
 この俺のプロパガンダにより民衆は立ち上がった。
 だがそれだけでは足りない。
 戦う術を知らないただの有象無象が集まっただけでは委員会の連中に蹴散らされるだけ。
 それを前線に立って指揮するための戦士が必要だった。
 オペレーションエインヘリヤルによって集められた勇者たちが戦う姿を見て民衆は勇気づけられただろう。
 そして自らも戦って自由を取り戻したいと願っただろう。
 つまり俺のあの放送は人々の魂へ訴えかけるプロパガンダでもあり、エインヘリヤルたちにラグナロックの始まりを知らせる角笛でもあったのだ。
 そして立ち上がった人達を見てさらに他の人間は決起、奮闘する。

──それがオペレーションギャラルホルン。


 オペレーションヴァルハラ──
 オペレーションワルキューレ──
 オペレーションエインヘリヤル──
 オペレーションギャラルホルン──

 この4つの計画の実行こそがオペレーションラグナロックである。
 
『なあオカリン』

 物思いに耽っていた俺の思考が、ダルの呼びかけによって一気に現実に戻される。

「どうした、改まって」

『僕さ、オカリンのこと……殴ったことあったじゃん』

「……さてな、どうだったか。もうそんな昔のことは覚えてないな」

『オカリンたちが実は、1975年にタイムトラベルしてて、鈴羽と──まだ生まれてもいなかった鈴羽との間に子どもがいるっていう話をされた時、僕もう頭に血が上っちゃってさ……』

「…………」

 ダルの言いように思わず沈黙する。言葉が出てこない。
 俺はダルの気持ちを推し量るように息を止めた。
 少し間が空いて、やがてスピーカーから聞こえてきたのは意を決した男のセリフだった。

『今、謝っておく。……すまんかった』

「……謝る必要などはないさ……。きっとそういうものだろう、父親というのは」


『正直に言うと』

 ダルは再び改まった様子で言葉を紡ぎ続ける。

『鈴羽を見送ったあの時まで──いや、今の今まで、僕、オカリンのこと許しきれてなかったんだ』

「…………」

「鈴羽のこと、飛ばせたくなかった、ホントは。引き止めてやるって、そう思ってた。だってそうだろ? 使命を背負って生きて、記憶を失って死ぬなんて。そんな人生辛すぎる。そんでもって、その使命を父親から託されたんじゃ、鈴羽も従うほかないっしょ? そんなんで縛っちゃってほんとにいいのかって……」

 それは独白のようであり──

「だからオカリンの計画に賛同しつつも、どこかで迷ってたんだ。ずっとな。父親が娘の幸せを奪っていいのかって、僕が娘の幸せを願わなくていいのかって。で、鈴羽の話、聞いて。鈴羽の気持ち、少しだけど理解して……。そんで今、自由のために立ち上がる人達を見てたらさ……」

 父親としての懺悔のようでもあり──

「ああ、これが鈴羽のしたかったことなんだなって、そう思えてきてさ……。だから、なんか、上手く言えんけど、今はオカリンに感謝してる」

 そして人が人を想う気持ちそのものだった。


「オカリン、鈴羽のこと……幸せにしてくれたんだよな……?」

「ああ、無論だ……。幼い2人の娘を残して永い眠りに付いたことはいささか不本意だろうが、彼女は最後まで笑顔でいたよ」

「そっか。さんくす……」

 ずびび、と鼻をすする音が聞こえてくる。
 きっと溢れてくる思いが抑えきれなくなったのだろう。

「僕が見送った鈴羽も、幸せになってくれてると、パパうれしいお……」

 すすり泣きながらダルは涙声でそう言った。
 父親にしてみれば、辛い選択だったことだろう。
 迷いもあったことだろう。
 だがそれを乗り越えて、今、俺にありったけの想いをぶつけてきたんだ。

「あーこんな歳になってみっともなく泣きはらすなんて……もうなんか悔しい! でも感じちゃう! ビクンビクン。あでぃおすぐらっしあー!」

 ダルは勢いに任せて通信を遮断したようだ。
 俺にかっこわるいところを見せたくないという、奴なりの義父親としてのプライドだろうか。


「ふ、あいつめ……」

「ダル君ってばジェラシーメラメラだねぇ……」

 突然、背後でゆるりとした声がした。
 俺は思わず肩を張り上げた。

「うおおうっ!? なんだ……お前か……」

 振り向いた俺は、見慣れた彼女を目の前にぼそっと呟く。
 椎名まゆり。
 幼なじみにして我が人質。人体実験の生け贄である。
 どこからともなく現れるとは。
 相変わらず、スニーキングフェードアウトを遺憾なく発揮している。

「オカリンとダル君、なんだかお互い少しギクシャクしてた感じがするけど、今の感じだと、なんだか前に戻ったみたいだね~」

「奴とは切っては切れない縁だからな。なにせこの狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真の右腕……」

「やっぱりああやって楽しそうにしてるのを見るのが、わたしは嬉しいよー。だからねー、これからいっぱいいっぱい危ないこととか、辛いこと悲しいことがあるのは、いやだな……」

「何を言うまゆり。それを乗り越えてこそ手にする価値のある自由が手に入るのだ。そこを忘れてもらっては困る」

 まゆりは少しだけ寂しそうに眉尻を下げながらうつむく。
 あの頃とさほど変わらぬ、ゆったりとした口調で喋りながら。

「そっかー、だったら仕方ないねー」


 2010年、薬の効果でまゆりは6歳前後まで若返ることとなった。
 結果椎名まゆりとしてではなく、新しい人生を歩んで今まで暮らしてきた。
 椎名まゆりはもう、この世には存在しない。
 俺が──俺と紅莉栖が選んだ道だ。
 迷いが無かったといえば、嘘になるかもしれない。
 だが、今も彼女はこうして生きている。
 だからそれでいい。
 まゆりにとって大事なものを奪ってしまったのは確かだけど、その代わりにかけがえのない時間を過ごすことができたから。

「ねーねー、オカリン?」

「なんだ?」

「わたしは、オカリンの重荷になってなかったかな……」

「…………そんな訳無いだろ」

「ずっとオカリンの人質として、守られる立場なんだーって、なんとなく思ってた時期もあったけど、やっぱりそれじゃあダメだな~っていう風にも思ってたりしたんだー」

「そうなのか……?」

「だからね? 実を言うとすごく、すごーく勉強したりしたんだー。オカリンの役に立てるようにーって。オカリンのやろうとしてること、すごく立派なことだと思う。けどね、人がたくさん傷つくでしょ? だからせめて、わたしはそれを治せないかなーって。いっぱいいいっぱい勉強したんだよー?」

「ああ、分かっている。さほど勉強が得意でないまゆりにしては健気に頑張っていた。そこは認めよう」

「もー、一言多いよー。でね? 資格とか、免許とか持ってはないけどー」

 口調は相変わらずゆっくりで。
 容姿だってあの頃とそんなに変わらないのに。
 妙にまゆりが大きく見える。頼もしく感じる。

「オカリンとダル君と、それと戦ってくれてるみんながケガしたら、わたしが診てあげるからねー?」

「ほおう? そこまで知識を蓄えていたのか? だがそれではモグリの医者ではないか。法外な治療費を請求されると勘違いして断られるのではないか?」

「治療費なんて取らないよー。わたしはみんなの──ううん、オカリンの役に立ちたいから……」


 先ほどの言葉が思い起こされて。
 俺は頭の中でまゆりのセリフをもう一度繰り返した。

──オカリンの重荷になってなかったかな──

 きっとそれはまゆりの中でくすぶっていた気持ちなのだろう。
 俺と紅莉栖の35年もの歳月を犠牲にしてまで得た現在に、俺は納得していても、まゆり自身は納得しきれないのかもしれない。

「バカを言うでない。貴様は俺の人質だ。人質は何もせず俺のそばにいるだけでいいのだ」

 思わず後ろを振り向いてそんな言葉を口にする。

「うん……」

 返ってくるのは気落ちしたような返事。
 そんな口調のまゆりに少しだけ罪悪感がこみ上げてくる。
 今、まゆりはどんな表情をしているだろうか。
 役に立ちたいという気持ちを蔑ろにされたと思って落ち込んでいるだろうか。
 それともやはり自分は守られるべき存在として大人しくしているのがいいのかと悩んでいるだろうか。


「少し外の様子でも見てみるか! この狂気のマッドサイエンティストが直々に視察に赴いてやろう!」

 気まずくなった雰囲気を払拭するため、俺は白衣を翻しながら大げさな態度で叫んだ。

「ええー? 危ないんじゃないかなぁ……」

 まゆりの意見はもっともだった。
 ここ日本では抵抗勢力の勢いが強いとはいえ、まだまだ安全とは言い切れない。
 もし委員会側の人間に接触してしまえば命を狙われるだろう。
 そんな立場の俺はのこのこと外を出歩くべきではない。

「案ずるな。ちゃんと変装していくさ」

 そう言って、無造作に放っておかれた髪を手櫛でかき上げ、ヘアワックスを使いまとめていく。
 鬱陶しく目の前をちらついていた毛束たちが天を仰いだ。
 俺が髪型をつくり上げると同時にまゆりが感嘆の声をあげる。

「わあ~。やっぱりオカリンはその髪型の方がオカリンだぁって思うな~」

「狂気度も跳ね上がっただろう」

「うん、うん~っ。でもねえ、残念だけど、白衣はちょっと脱いだ方がいいと思うな~」

「くっ、この俺のアイデンティティーを奪うというのかっ!」

「だって、とっても目立つよー?」

「仕方あるまい。白衣は脱いでいくか……」


 そんなやりとりをしつつも、なんだか数十年ぶりに若い頃の2人に戻ったようで、俺たちは意気揚々とエレベーターで、地上へと登っていった。
 外へ出るとまぶしい光が差し込んできた。
 もう10月になるというのに陽差しが強い。太陽がぎらついていた。
 ここは秋葉原UPXのすぐ北に位置する秋葉原タイムズタワー。
 フェイリスの父親である、秋葉幸高が所有していた高級マンションだ。といっても、”元”がつくのだが。
 SERNがタイムマシン開発に成功した2034年以降、住んでいた人々は居場所を追われ、地上1階からフェイリスの自宅である最上階まで、がらんどうの空間と化している。
 だが、秘密裏にその地下をこの俺が根城とし、見事に奴らの目を欺いていたのであった。

 
 さて、外の世界がどう変わってきたのか。実際にこの目で見ていくとしよう。
 俺は注意深く歩きながらも、秋葉原の街を歩いて行く。
 ついこの間までビル群が寂しく立ち並ぶだけだった荒廃した街。廃墟の森。
 けれどもわずかながら人の喧騒が聞こえてきている。
 郊外の農場に追いやられていた人々が自らの場所と自由を求め、萌えの街、秋葉へと戻ってきているようだった。
 オペレーションエインヘリヤルによって集めた人選の中には、変遷後の世界のために、指導者として指揮をとるための人材も確保していた。
 そいつらがうまくこの革命をまとめていくれているようだ。暴徒化した民衆などは出ていないようである。
 戻ってきている人々の表情は疲れを隠せないものの、どこか明るい。活気に満ち溢れている。
 先が見え切ってしまう絶望。そして同じ毎日の繰り返しの世界が終わりを告げ。
 一転、何が起こるか分からない世界へと変わったためであろうか。
 そう──
 その変化は、まさにあの閉ざされた2日間を繰り返したこの俺に等しい。
 2日間の環から抜けだして、何が起こるか定められていない未来へと旅だったあの時の俺のように。

 鈴羽──お前が望んだ自由な世界がすぐそこまで来ているぞ。
 俺は青く染まる空を見上げながら心のなかでそう呟いた。
 時間はかかるだろう。けれど待っていてくれ。必ず、お前との約束を果たして見せるから。
 自由な世界にしてみせるから。
 緩やかに流れてゆく真っ白な雲のように、世界もまた確実に移りゆくだろう。


 だがその一方で──
 この革命がもたらした変化は、決していい面だけではないのも事実だった。
 支配者に従う人間──執行者側の者達にも深い闇が蔓延っていたのを見せられることになった。
 立ち上がった人々に立場を追われ、家族と離れ離れになった者。
 家を失い居場所を無くし、浮浪者として道行く者に罵倒を繰り返す者。
 自棄になって、レジスタンスの勢力に無謀な戦いを挑み制圧される者。
 今まで奴隷階級にやりたい放題やっていた者たちが高みから転落し、そしてもがき苦しむ姿を垣間見ることとなったのだった。
 あんな奴らにも守るべき者はあっただろう。
 それがこの革命で多く失われることは分かっていた。汚名を着せられること、恨みを買うこと、覚悟はしていたつもりだ。
 だがこうして直に黒い感情がずぶずぶとにじみ出ているのを目の当たりにすると堪えるものがある。

 しかし俺は立ち止まってはいけない。
 これからどうするかは彼ら次第だ。
 たとえ膝をつき、倒れたとしても、人間は再びその脚で立ち上がることができる。
 考え方1つでどうとでもなる。必死になって行動すればきっと何かが変わる。
 けれど、心に刻んでおく。
 俺が革命を起こし、民衆に希望の光を与えた裏で。
 支配者層の中でも──特に使役される立場にあった執行者層の間に絶望の闇を見せてしまったことを。
 忘れてはいけない。光があれば闇もまたある。
 戦いはまだ終わっていないのだから。
 生きるということは本来、そういうものだから。
 エゴかもしれないけれど、俺はまだ立ち止まらず進んでいく。立ち止まってはいけない。
 我が手足となって戦ってくれた仲間たち、犠牲となった死者たちに報いるためにも──
 そう、心に誓って──
 俺は踵を返し、研究所への道を歩き出した。


 数時間ほど辺りを散策して、再び地下研究所のあるタイムズタワーへと戻ってきた。
 歩みを止めて、まゆりと共に辺りを見回す。
 日は傾きかけ、泣きはらしたような陽差しがビル群の影を作り出している。
 1日の終わりを告げる光達。斜陽。黄昏時。
 けれどもこれから世界は始まる。
 北欧神話においてラグナロクは世界に終焉をもたらす戦いだった。
 世界はスルトの放った炎に焼きつくされ、大地は海の底へと沈んでいく。
 しかし後に陸地は蘇り、失われていた太陽も新たに生まれ、世界の営みは復活を遂げる。
 この終焉は真の終わりではない。
 再び新世界の胎動が始まるのだ。

「さあ、帰ろうか……」

 俺は隣に佇む幼なじみに声をかけて再び歩き出す。
 忍び寄る魔の手が訪れたのは、その時だった──

「…………っ!!」

 名状しがたい感触が腹部をほとばしり、意図せずして足が止まった。
 痛みはない。あるのは熱。
 焼きごてを押し当てられたかのような感覚が腹の中を暴れまわっている。


「オカリン……?」

「がっ……はっ……!」

 声にならない悲鳴が口の中で響き渡った。
 遅れて激痛が腹に集中する。熱を持った刃が腹の中に埋まっているようだった。

「オカリン!!!」

 異変に気づいたまゆりが駆け寄ってきて俺に声をかける。
 悲鳴のようなその呼びかけも、薄い膜を隔てたかのごとく人事のように感じられた。
 痛みと感触だけがやけにリアルだ。
 意識が途切れそうになる。膝をつきそうになる。

「ぐっ……」

 口の中に広がる鉄の味と匂い。
 内蔵が損傷したことで血流が逆流してきたか。
 かろうじて吐き出さなかったものの、ダメージは深刻そうだ。

「なんでも……ない……」

 俺は平然を装う。それが全く意味を成さないことは理解していたが、ここで倒れるわけにはいかなかった。
 脚を前に踏み出すと、再び激痛が暴れ回り、液体が食道を伝って喉から飛び出してきた。
 口元を手で覆うと、真っ赤な鮮血がまとわりついていた。


「がっ……うっ……」

「う、動いちゃダメだよ!」

 俺の体にまゆりがしがみついて、支えてくれた。この場で横になるよう促してくる。

「だい……じょうぶだ……。研究所に……行くぞ……」

 そんなまゆりを俺は腕で制して、歩みを始めた。
 何かを察したのか、まゆりは何も言わずに肩を貸してくれた。
 こうなった以上、最後の計画を早める必要がある。できればきちんと説明してやりたかったが、この分だと満足にできそうもない。

──そう、俺もまた鈴羽と同様、病魔に侵されていた。

 体組織の一部がゲル化していく、進行性多臓器不全。
 1999年12月、シルバーブレットの効果により肉体を若返らせることに成功したものの。
 その呪いは解けること無く、俺の背後に忍び寄っていた。
 先ほどの吐血は、壁を失った消化器官に血液が流れ込み、嘔吐反射によって吐き出されたのだろうか。
 俺の精神と同じくして、肉体はすでに限界寸前だった。


 まゆりに肩を借りながら地下の研究所に降り立つ。
 歩いてきた道のりには血の滴り落ちた後。まるで俺が歩んできた過去そのものだった。
 色々な物を犠牲にして、ここまで辿り着くことができた。
 後は因果を成立させるための環を作るだけだ。

「オカリン、横になって! 今応急処置するから。ダル君にも連絡したよ? 後でちゃんとしたお医者さんに診てもらおうね……絶対よくなるから」

「なあ……まゆり……寒くないか……? ここ……」

 俺がそう呟くと、まゆりは掛けてあった白衣をさっと手に取り、俺に着せてくる。
 白衣に包まれると少しだけ暖かさを感じた。

「横向きに寝て身体を丸めて!」

 まゆりは手際良く俺を寝かせると、どこからとも無く救急キットを持ってきた。

「安心して! 絶対、助けてみせるから……!」

 俺を不安にさせぬよう力強く語りかけながら、毛布で俺の身体を包み、身体が冷えないようにと処置をしてくれた。血液で溢れかえる俺の口の中を拭ってもくれた。  
 設備の整っていないこの状況では満足に治療などできやしないだろうが、まゆりは真剣な表情で応急処置を施してくれる。
 そんな風に真面目な面持ちで俺を手当するまゆりの顔を見ていたらなんだか頼もしいような、寂しいような気持ちが浮かんできた。


──ふと思い出す。

 牧瀬章一から託された1枚のSDカードのことを。
 それは俺達が2010年から1975年へとタイムトラベルする前、紅莉栖が自分のケータイから抜き取った物だ。
 そのSDカードを俺に託す時、章一は苦虫を噛み潰したような顔をしながらこう言ったのを覚えている。

『まったく、あいつは常に私より先んじておる。忌々しいにもほどがある。タイムトラベル研究も、年齢も──そして、死すらも……だ。本当に、忌々しい……』

 最後は消え入りそうな声だった。娘の死を無念に思うかのごとく悔恨の色を混じらせていた。
 SERNという敵の檻の中で続いた長年の共同研究により、親子の間に入った亀裂は消えていったのだろう。
 そう信じたかった。
 でなければ、紅莉栖の遺言だとしても、章一は俺にこのSDカードを託すことはしなかっただろうから。
 
──そう、紅莉栖はすでにタイムマシンが完成した後、事故で亡くなっていた。

 彼女は最期まで俺やダルの説得には応じず、自分の運命を全うすることを選んだ。


『自分はすでに何人もの命を犠牲にしてきたし、今の年齢より長い人生を歩んできた。何より、私が若返って生き永らえることで、少しでも計画に支障をきたす可能性があるから』

 彼女はその長い髪をなびかせながら、凛とした態度で続けた。

『だったらそのままSERNや委員会が把握している歴史通りに事が運ばれるのがベスト。鈴羽との約束はあんたたちに委ねるわ』と──

 そう、言い遺して、この世を去っていった。
 彼女が遺したそのSDカードの中身には、ほんの3通のメールデータのみが残されていた。



     オカリンとス
     ズさんいなく
     なっちゃうよ


──オカリンとスズさんいなくなっちゃうよ──

 宛先はもちろん、紅莉栖のケータイで。
 送信した人物は──まゆり。
 送信日時は2010年8月13日の19時30分頃。
 受信日時はその12時間ほど前────つまりDメール。
 最初の世界線で俺と鈴羽の2人がタイムトラベルした後、まゆりが送ったものだろう。
 そのメールによるリーディングシュタイナーを観測した覚えはないから、はっきりとは断言できない。
 どんな経緯でそのメールが送られたのかもわからない。
 けれどきっとまゆりが、何かを変えようとして──
 自分で考えて、送ったメールが、そのメールなんだ。
 そしてそのメールを受け取った紅莉栖が、俺と鈴羽2人だけの時間跳躍に加わり、今の世界を作ることができた。
 俺がいるこの場所にたどり着くことができたのは、言わば鈴羽のおかげであって、紅莉栖のおかげでもあって。
 そしてまゆりのおかげでも、あるんだ──
 皆の想いで、今の俺がここにいる。
 皆の想いが、この世界線をつくっている。
 きっと俺1人では途切れてしまう道のりだった──


 しばらく応急処置が続いて。
 体の具合に大分余裕が出てきた。
 これなら喋っても大丈夫かもしれない。そう判断して、俺は口を開いた。

「ながらでいいから……聞いてくれ……」

 まゆりに声をかける。ひび割れたような声を押し出すように。
 痛みで意識が遠くなって声に張りが出ない。
 返事がないから聞こえていないのかと思ったけれど、まゆりは俺を一瞥すると、小さく「うん」、とだけ返事をしてすぐに処置に戻った。
 ありがたい。喋らないように制されるかと思ったが、俺の気持ちを汲んでくれたのだろう。
 おぼつかない唇でゆっくり、言葉を紡いでいく。
 今まで心に留めていた、まゆりへの気持ちを。

「ありがとう、まゆり。俺がここまで、走り抜けることができたのは、お前の存在が、あったからこそだ……」

 まゆりは一瞬信じられないといった表情を浮かべたがすぐに手当に集中を戻す。

「お前が知らないだけで、俺は今までにもずいぶんと助けられてきたんだ」

 そう──

「もはや人質だとか、人体実験の生け贄なんかじゃない」

 まゆりは──

「お前は、俺の、かけがえのない、仲間だ──」

 俺にとってなくてはならない存在だった──
 俺のその言葉に、まゆりの涙腺が決壊したようだった。

「……そっかぁ……。わたしはオカリンの役に、立ってたんだね……。良かったぁ……」

 目に涙を貯めて声を震わせる。
 そうだとも。
 お前がいなければ、本当にここまで来ることはできなかったんだ。
 だから言い渡す。
 俺からお前への、最後のミッションを。


「あの扉の奥に……とある部屋がある」

 俺は目線だけで方向を指示するとすぐに言葉を続けた。

「その部屋の中には……ダルが作ったタイムマシン──鈴羽が跳躍に使ったものとは別の物が……ある」

「え……?」

 思わず手が止まったようだった。目を大きく見開いて驚いていたが、すぐに顔を引き締める。
 さすがのまゆりもこの俺の言葉の意味を瞬時に理解した様子だった。

「そう。今からお前は、過去へと……跳躍するんだ。それが未来ガジェット研究所……ラボメンナンバー002に与えられた役割である……」

 かすれた声で音にする。
 ラボメンナンバー002──椎名まゆり。
 彼女はこれまで守られるべき存在だった。
 けれどもこれからは──違う。


「跳ぶのは……」

 手を止めたまま俺の言葉を一語一句聞き逃さまいと、じっと耳を傾けるまゆりに告げた。

「1975年……だ」

 まゆりはさらに驚いた面持ちでこちらを見つめた。茫然自失としている。

「え……? 1975年って、どう……して……?」

「そこには、俺や紅莉栖、鈴羽がいる。鈴羽に至っては、記憶を失って1人心細い思いをしているだろう……。だから、まゆり。1975年へと旅立って、俺を──紅莉栖を──そして鈴羽を──たすけてくれ……」

 絶え絶えになる力を振り絞って、一語一語伝えていく。

「手を握って、大丈夫、大丈夫って、応援してやってくれ……。たのむ……」

 そんな俺の話を、まゆりはただ黙って聞いてくれていた。

「おれはもう、だいじょうぶだから」

──おれならもう、だいじょうぶだから。


 まゆりはほんの少しだけ戸惑うような息遣いをしたが、やがて決意を下したようだった。

「分かったよ……オカリン。オカリンがわたしにくれた役目なら……わたしはそれを全うしたい……。みんなのこと、守ってくる……ね」

「ありがとう、まゆり……」

 俺はもう目を閉じていた。
 痛みを通り越して、すでに感覚が麻痺している。

「応急処置……終わったよ? もうすぐダル君たちが来るみたいだから、それまで、頑張ってね……。きっと助かるから。オカリンもきっとわたしが助けるから」

 まゆりは涙で濡れた声を精一杯張りながら、呟いた。
 熱い気持ちが伝わってくる。
 俺は再度まゆりに肩を支えられながら、残ったタイムマシンの元へと向かう。
 一歩一歩、ゆっくりではあるが、確実に別れの時間が近づいてくる。
 灰色の通路を通り過ぎると、ダルの作ったタイムマシンとは別の型の機械が部屋の中央に鎮座していた。
 無機質なシルバーメタリックの外装の樽型のマシン。基本的な設計図はFG204 2nd Edition2.31と同様だ。


「……跳んだ後、必要になるものはすべて、タイムマシンの中に用意してある」

「さよなら……。オカリン……」

「ああ、さよならだ。きっとまた、会おう……」

 マシン内部へとまゆりが吸い込まれていき、タイムマシンが起動する。
 それを包むまぶしい光が俺の視界をより一層狭める。
 かろうじて目を開けて、今この時に、彼女が存在したこと心に刻んでおく。
 ちりちりと鮮やかな、虹色の繭がマシンを包み込みだした。
 光は一層強くなって──
 やがて幾数もの粒子をはためかせながら、そのマシンは過去へと消えていった。

 げんきで。
 たのしくやれよ。

──椎名さん。




 応急処置のおかげか。それともすでに近づいている死への適応か。
 ともかく、もはや痛みは消え去っていた。
 腹部は熱を持った状態から、今や凍り付きそうな寒ささえ感じる。相変わらず冷や汗が止まらない。
 だが先ほどより楽になっているのは確かだった。
 おかげでタイムマシンのあった部屋から、もう1つの──厳重に管理されている部屋へと移動するのにはそこまで苦労しなかった。
 体はだるくて今すぐにでも横になって目を閉じてやりたいのはやまやまだが、生憎とまだ成したいことがあった。
 俺は身体を丸めながら足を引きずるように通路を歩き、ロックされた扉の前に立ち尽くす。そしていつもの手はずで扉のロックを解除した。
 扉は自動的に開き、中の部屋の闇を映し出す。
 6畳ほどの手狭な倉庫のようなその部屋に照明は付いておらず、薄暗い。
 目の前には、暗い部屋の中でぼんやりとかすかに光を放つ1台の大型の機械。
 人の胸の高さくらいあり、横の長さは2メートルをゆうに超えている。
 長方形の無機質な機械のそれはまるで──

──棺桶のようだった。


 その機械からは絶えず獣が小さく唸るような稼働音が聞こえている。
 その音に共鳴するかのように、下部からは白いもやのようなものが発生していた。
 一歩一歩、ゆっくりと近づいていく。
 機械表面の一部は透明なガラス張りになっており、そこから中の様子が伺えるようになっていたが、うっすらと霜が張っており中に何があるかは視認できない状態だった。
 機械の前に立ち、手のひらでそっとガラスをなぞる。
 かすかな体温がガラスを覆った霜を溶かしていき、その先を映し出した。
 その向こうでは1人の女性が死んだように眠っている。
 あの頃と変わらぬ姿のまま、穏やかな顔で眠りこける彼女。
 中で眠る人物の名を──そっと呟いた。

「…………鈴羽」



──そう、ここに『彼女』は今もいる──


 1992年、2人目の娘を出産し日に日に弱っていく鈴羽を見て、俺達はある決断をした。
 その決断があったからこそ、鈴羽はこうして生きている。
 それはある技術に頼ることだった。

──コールドスリープ装置。

 EMBIはあらゆるアプローチから不老不死の実現を目指していた。
 実はこのコールドスリープも実現可能段階まで来ていたのだ。
 当時の技術力は、解凍時の安全確保を確実にするのみが課題だった。
 そして俺と紅莉栖、そして鈴羽は、そのわずかな可能性に賭けた。
 その後度重なる実験により、解凍技術も確立した。
 限られたものしか知らない技術だが、今やほぼ100%に近い形で安全にコールドスリープからの解凍を実現している。
 
 それでもなお、鈴羽を眠りから覚まさせない理由。
 それは未だに病魔の治療法が見つからないからだ。
 2人の娘たちは必死になって研究してくれているものの、現在でもそれは確立されていない。
 シルバーブレットを服用し、肉体の再構成を行ったとしてもなお解けないその呪縛。
 そこに鍵があると仮定し、研究を続けてきたが、とうとう完成には至らず、ここまで来てしまった。
 あとはもう、2人に託すしか無い。
 今の俺の願いはただ1つ。
 彼女がこれから作られる世界で、自由闊達な人生を謳歌すること……。
 出来ることならば共に歩いて行きたかった。
 俺は腹部をそっと指でなぞる。吐血した時に手に付着した血液が、腹部を赤く染めた。
 さっきから腹の感覚がない。体が震えている。
 コールドスリープの冷却装置による理由だけではないだろう。
 もはや俺の体は限界に近づいていた。
 血が付いた手とは反対の手で、再びそっとガラス越しに彼女の頬を、額をなでる。
 膝ががくがくと揺れ始めて、今にも崩れ落ちそうだった。
 ふと、コールドスリープ装置のそばに置かれる小型の機械が目に入った。
 ニキシー管をいくつも台座の上に連ねたその機械──ダイバージェンスメーター。

──0.674374


 このメーターはこの俺が作り上げたものではなく、1975年へのタイムトラベルの際に持っていったものだ。
 相変わらず、1%の壁は超えていない。
 それも当然だろう。
 β世界線に移る必要はもう、ないのだから。
 ふと、まばたきをしたら、一瞬数字が変わったかのように見えた。

──0.337187

 けれどもう一度目を凝らして見つめると、数字は元通り、0.674374を映し出していた。
 極度の消耗による幻覚か、あるいは──糸のゆらぎによるものか。
 それは神にしか答えようのないことなのだろう。


 俺と紅莉栖は2000年以降、世界の構造を理解するため世界線理論について議論を重ねてきた。
 最終的に出した結論は、タイムトラベルした俺たちの存在を保つため、あらゆる収束が働き、いかなる理由があろうとも、3人は再び1975年へと旅立つというものだった。
 ”俺”たち3人が過去へ跳ぶことが無ければ、1975年へと跳んだ俺たちは矛盾した存在となり、消えるだろう。
 かと言ってその矛盾を解消するために俺たちの存在が消えればそれもまた、因果は成立しなくなる。
 なぜなら、ねじれた世界線が形を戻した先は、鈴羽が不完全な状態のタイムマシンに乗って記憶を失い、やがて自らの命を絶つ世界線のはずだから。
 そうなれば”俺”は鈴羽の思い出とまゆりの命を天秤にかけることができずにタイムリープで2日間を延々と繰り返すだろう。
 そのループの行き着く先は、この俺が積み重ねた年月に収束するはず。俺の存在が無くなってしまうのであればそれもまた、矛盾だ。
 だから何かしらの理由で、俺たち3人は1975年へと跳躍する。俺と紅莉栖はそう結論づけた。
 
 けれどそれは間違っていたのかもしれない。
 構築した世界線理論に元に考えれば、世界は1つだ。それは紛れもない事実。
 だがこの世界はきっと、2つに揺らいでいる。
 この俺がまゆりの死を経験し、使命を鈴羽に託し、絶望の手紙を受け取った世界。
 そしてその絶望から逃れるためループを繰り返し、やがて1975年へと旅立つ世界。
 その2つが切り替わるように。
 なぜなら今ここにいる俺は、まゆりの死と鈴羽の絶望の間で揺れ、悩み、迷い、そして立ち上がった存在だからだ。
 その過程がなければ、きっとここまで辿り着くことはできなかった。
 その軌跡こそが今ここにいる俺の存在を、俺たらしめているのだ。
 今のこの世界線がオフになれば、俺という存在は矛盾になる。
 再びこの世界線がオンになれば、俺という存在は形作られる。


 世界5分前仮設という思考実験を知っているだろうか。
 この世界がわずか5分前に、今の記憶や状態を形作った上で構成されたとする仮説だ。
 その仮説を否定する術を我々はもたない。
 なぜなら世界線の変動による再構成もまた、同様の性質を持っているからである。
 再構築された記憶に疑問を持ち得ないように。
 世界線という1本の糸が、結び目理論におけるライデマイスター変形のように、ねじれ、交わり、小さな環を形成する。
 その逆もまたしかり。作られた因果の環は やがて1本のただの糸へと戻る。
 言わば今の世界線はまさに二律背反の状態で揺らいでいるとも言えよう。
 2つの世界線の存在は、お互いの世界線の矛盾──対立。
 その揺らぎは一度解消され、世界は元に戻ったのかもしれない。
 そして再びリーディングシュタイナーを持つ俺という歪みが世界を捻じ曲げた結果、この俺がここに立っているのかもしれない。
 相反する2つの世界線がお互いの存在を否定しあうかのように、切り替わる。
 それは言うなれば──

──二律背反のライデマイスター変形。


 俺は確かに世界線を捻じ曲げた。

 捻じ曲げられた糸は、歪められる原因となった応力が消えた時その弾性に従い元の形へと戻る。ならば同様に世界を決定付ける糸たちも、俺というイレギュラーが消えた時、いつか元の姿へと収束するのだろうか。
 答えは見つからない。結局のところ、宇宙の中に住む我々に宇宙の広さが計り知れないように、神の視点を持てぬ我々に世界線の構造もまた解明しきれないのだろう。我々は結局、ただの人なのだから。
 けれどもこれだけは言える。

 この身が──例えば消えても──意思は残留し未来のあなたにいつかは辿り着くだろう。

 塗り替えられた記憶を宿し──
 震えて歪む定めを乗り越え──
 絡みあう糸たちの軌跡を辿り──
 孤独を抱き、避けられない痛みと共に燃える。

 神に抗いし騎士たちは進むだろう──ふりむかずただ前へ。
 時を見つめる者のまなざしさえすり抜けて。


──運命のファルファッラが今、羽をはためかせ舞い上がる。

 蝶はかすかな羽ばたきで、光の軌跡残し地平線越えてゆく。
 神に抗いし騎士たちは挑むだろう──訪れる運命に。
 時を見つめる者のまなざしさえすり抜けて。

 装置を背に、俺はしゃがみこむ。
 口の中に広がる血の味が再び蘇り、白衣のポケットから手を抜き口元を覆う。
 俺は移ろいゆく意識の中、鼻を鳴らしつぶやいた。
 その言霊が音となり、この部屋の空気を震わせたのかは定かではなかった。
 俺の魂はすでに宙を羽ばたく蝶となって揺らめき、この世界から飛び立っていたから。



──これもまた──シュタインズゲートの選択だよ──



Epilogue END

長くなりましたがこれでこのSSは終わりです
お付き合いどうもありがとうございました

今後の参考にいたしますので、よろしければご感想をお聞かせいただけると嬉しいです



過去作もさらしておきますので、ご興味があればゼロまでの暇つぶしにどうぞ



『離合集散のアンフィビアン』

γ世界線のお話
リメイク作です
以前ここにも投稿いたしました


『渾然一体のカオスゲート』

カオへのクロスでΩ世界線のお話
こちらもリメイク作です
Pixivにあるのでタイトルで検索すると出てきます

運命のファルファッラを流しながら読んだ

切ないエンディングだな
なんともいえない気持ちが込上がってくるぜ…

最高だった

乙です!

今回も名作だったと思うよ
ホントにお疲れ様

あなただったか・・・
お疲れ様でした

抵抗勢力の猟奇殺人鬼が拓巳しゃんってのはわかるがテロリストの女はだれだ?

お疲れ様でした
次回作も期待してます

乙でした
カオヘクロスとか読まなきゃ

>>567
拓巳しゃんじゃなくてカオチャだよ
もう片一方はロボノ

>>562

そうですね、はじめてのエンディングで運命のファルファッラが流れた時のような感じが出せればなと思ってこの結末にしました


>>563
>>564

読んでいただきありがとうございました

>>565
>>566

前作か前々作もお付き合いいただいたようで、感謝感謝です
今回は苦いエンディングになってしまったけどそれでも楽しんでいただければ幸いです

>>567

他の作品のネタバレになりかねないので明言は避けますが、カオスチャイルドとロボティクスノーツのキャラです
他の方がすでに回答されてますが・・・

>>568

萌郁、フェイリス、鈴羽と続いたのでルカ子メインで一本書きたいですが中々ネタが思いつきませんね、難しい

>>569

Pixivにありますが、いずれ機会があれば加筆修正などしてこちらに投稿させていただくかもしれません
その時はぜひお付き合いください

乙です!
本当超大作でした!

>>571

読んでいただきありがとうございます
皆様の思い出に残れば幸いです

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