彼の幸せとそのかたち (31)


 大きな夢を抱いて、小さな現実だけが残る


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 彼が生まれ故郷を旅立ったのは暗い小雨の夕方だった。
 十三歳とまだ若く、いや幼いといっていいほどで。
 不安もきっとあったろう。
 彼は当時をこう語る。

「ありゃあ春っつってもまだ寒くてよ、冷たい風が芯まで響く。
だからなるたけ不敵に笑って大股で、ずんずんずんずん歩いていった。
幸いそんなに怖くはなかった。遮るものは何にもなかった。
後ろを振り向いて夜の闇しか見えなくなって、そのとき一度、大きく咆えた。
内容なんざ覚えちゃいねえ。バカヤローかクソッタレだった気はするが。
ぶんばらべりじょんっつーのも案外あり得る。馬鹿、意味なんかありゃしねえ。
それからありがとうってのは絶対ない。あの小さな町に感謝はない。
ただ……それでもなんでか泣いてたな」


 彼はそれから都市につく。
 広々とした道にあふれる人、人、人。
 満ちる活気と熱気と声。
 長い旅路に疲れていたが、彼の目だけは輝いた。

「今でこそなんてことない風景も、そんときゃ別世界に見えていた。
ここが俺の新天地、俺はこっから成り上がる、とかそんなこと。
笑えるだろう小汚ねえチビのガキが分不相応な夢抱くんだ。
だが馬鹿は自分の馬鹿に気づかねえ。だから一生馬鹿ってこった」


 彼のそこでの生活は、まずまずの滑り出しだったらしい。
 労働者用の部屋を借り、朝から街へと繰り出す日々。
 靴磨きから始めてそこそこできて、掃除の仕事工事の人足酒場の手伝いたまにまた靴磨き。
 きついと思うこともあったと言う。それでも投げ出すことはしなかった。

「馬鹿は深く考えない。利点といえば確かに利点だ。
これだけやればいつか絶対返ってくる。誰が保証してんだそんなこと。
けど意外に誰もが信じていて、あるいは誰もが馬鹿かもな」


 彼が二十になった頃、転機がやってくる。
 いや本当の転機はもう少し先。
 だからこれは最初の小さな転機。
 彼は彼女に恋をした。


 酒場の看板娘の彼女のことは、もちろん彼も知っていた。
 手伝いの身ゆえあまり話すことはなかったものの美人は男の目を奪う。
 よどむ酒場の空気の中でその人だけは輝いていた。

「今でも思い出せるよ彼女のことは。すんげえきれいだったしな
もちろんカッコは粗末なものさ。だが包みで中身はごまかせねえよ。
誰もが彼女を狙ってた。包みをそっとはぎとって、くまなくモノにしたがった」


 とはいえ彼女はしっかり者だった。
 遊ぶことなく、誘いに乗らず。
 強引な輩は酒場のマスターたる父親が、優しく丁寧にひねりつぶした。

「俺も一度声をかけた。つっても大したもんじゃない。
冗談めかして、ちょっとヤらせてくれません? 彼女の返事は『いくら出す?』
これはまさか、と慎重に頭で手持ちを数えるうちに彼女は笑って手をひらひらさせた。
『即答できるようになったらまたおいで』」


 そんな会話もうれしかった、と彼は言う。
 そのうちすぐに成り上がるから、そしたら約束守ってくださいよ。
 彼女が笑顔でうなずくのを見てますます仕事に取り組んだ。

「な、馬鹿だろ」


 彼が自嘲するのはもっと馬鹿をやったからだ。

「広場の片隅、いつも通り靴磨きをやってる時だった。その客が俺に言うんだよ。
稼ぎのいい仕事があるんだが、ちょいと手を貸してはもらえんか?
簡単な地図一つ残してそいつは立ち去った。
無理強いしてこなかったから、何となく信じる気になった」

 何より彼は彼女が欲しかった。


 結果からいって、彼は十分すぎるほどの額を得た。
 そしてその分失った。


 簡単に言えば運び屋だ。
 出所の怪しい物品を同じく怪しい輩の手から手に。
 汚い生業をする者のいわば保険というところ。

「一杯食わされた、というにはちょっと実入りが良すぎたな。
つまり一応奴らの仲間入り。
奴らほど黒ではないってことでずいぶん便利に使われた。
んでやっぱりその分俺も得をした」


 罪悪感がなかったかと言うと、それは微妙なところらしい。

「まあ割をくった奴もいたんだろう。
だが言ったはずだが俺は馬鹿だ。当時の俺はさらに馬鹿。
気にかかってはいたものの、見えない場所にいる奴の身になれるほどの頭はなかった。
成り上がりしか目になくて、美味いもん食って酒飲んでいい女抱いてぐっすり眠って……そんなことしてたら忘れてた。
ただ俺は……ただの馬鹿よりもう少し底抜け馬鹿に近かった」


 彼はそう言うけれど、仕方のないことではあったろう。
 どうしようもないことは世にいくつもある。

「彼女に会いに行くのは怖かった。
この金をどうやって手に入れたのかは隠したかった。
罪悪感はないくせに、変なところで臆病だった。
まあ心配する意味はなかったんだが」

 酒場は潰れてなくなっていた。
 遠ざかっていた間にいつの間にか。


 彼は小さく荒れたらしい。
 いや沈んだと言うべきか。
 部屋にこもって酒だけ飲んで時々唸り声を上げた。
 周囲は少し怖がった。

「彼女らがどうなったのかはわからなかった。
その筋の奴らの情婦になったとかならなかったとか、そんな噂は聞こえたが。
まあ今となってはどうでもいい。
……ああ、いや、当時は少し泣いたかもな」


 それから。


 彼は彼女をあいつと呼ぶ。

「あいつはそれまで見てきた女の中でダントツに色気のねえ奴だった」

 地下の酒場で働いていたその人はそのせいなのかどうなのかいつも顔色が悪かったそうだ。

「倒れそうな顔して酒を持ってきやがんだ。絶対誰もが思ってたさ、この死体女とかそのあたり。
器量も悪くて陰鬱で、チビで痩せで仕事も遅いおまけに愛想もない。
店主の我慢の限界を試してるのかって、つまりはそんな奴なんだが」


 それでも縁はあったようだ。

「未練がましく彼女のことを思い出して飲んでたあるとき少し飲みすぎちまったらしい。
泥の中を這うような夢を見て、目が覚めるとどこか小さな部屋だった。
ぼんやりとした明かりが、部屋をわずかに照らしてた。
見回すとどうやらベッドに寝ているようで、明かりの方に顔を向けるとあいつがいた。
逆光になっていてよく見えなかったが椅子に座って何やら考え事をしているようだった」


 正直不気味だったという。

「なんだか幽霊みたいでな」


「そこは酒場の奥だったらしい。
そういうことに使われていたとかいないとか。
後から知ってげんなりしたね。そういうことをしろってか、と。
なんもしないで出てきたが、妙な感じは残っちまった。
借りを作っちまったような、あるいは弱みつかまれちまったような」


 実際その分彼は損したらしい。
 いや彼自身はそう言うが、少なくとも僕はそう思わない。

「時折あいつはミスをする。店主に裏でどやされる。
殴られることもしょっちゅうらしい。
周りの奴らがにやにや笑う。おいお前、アレの男なら助けてやれよ。
勘弁してくれ本当によ。どこから話が漏れちまったんだか。
あまりに頭にきたもんだから、俺は店主に怒鳴ってやった。
酒がたんねえこもってねえでさっさと出せ!」


 そしてやはり飲みすぎた。

「気づいたらまたあの部屋だ。
俺は大きくため息ついた。
ふと見ると、枕元にあいつがいやがる。
じっとこちらを見下ろして、聞き取りづらい声で言うんだよ」

 ありがとう。

「小さくため息ついた」


 ちょうどその頃市政の状況が変わったらしい。
 あまりの犯罪の横行に厳しい対応が求められ、議員の総入れ替えがあったとか。

「詳しいことは俺には分からん。だが空気の変化くらいなら全く分からんほどじゃなかった。
妙なことに巻き込まれる前に適当に逃げ出す算段立てた。
その時気になっちまったんだよな、その酒場が」


 彼がのぞいてみると、彼女は一人でそこにいた。

「誰もいなくなった暗がりであいつは椅子に座ってた。
妙な音が聞こえると思ったら鼻歌だったらしい。
呆れて、お前どうすんだって聞いてみたら黙って首を振りやがる。
仕方ないから連れてくことにした。
その時は別に深い意味はなく、夫婦のように見せかけられたら何かと都合がいいだろうと。
そこを出ていくつもりだったから」

 そしてそのとき気づいたそうだ。彼女が泣いていることに。
 二人は都市の外へと抜け出した。


 それからのことは彼は詳しく語らない。
 だが最終的にこの町で、彼は酒場を開いている。

「まあいろいろあったんだけどな。別に話すほどのこたねえよ。さっきよりもっと面白くねえクソ話だ。
時間のある時にでも話してやってもいいが、お前は明日にゃいないんだろう?」

 僕は小さくうなずいた。


 ふと気づいて指をさす。彼の後ろの写真立て。
 男女の二人が寄り添うようにして映っている。

「それは奥さんとの?」
「よせやい、あいつはそんなんじゃねえよ」

 苦笑いしてそれを伏せる。
 ただその手つきは、気のせいかもしれないが優しかった。


「まあ子供ができればお前さんほどだったかもしれないな」
「やはり身体が?」
「ちょっとあいつはひ弱すぎた。体力が足りなかったんだな」

 もう誰も残っていない酒場の暗がりに、かすかに何かが聞こえた気がした。
 鼻歌のような含み笑いのような。
 ふと思い立って僕は訊ねる。

「あなたは幸せでしたか?」

 だしぬけの質問に、彼は面食らったようだった。

「幸せってお前……」

 当り前だろの形に口を開いて、そこで彼はぼんやりと虚空に視線をやった。

「どうだろうな」


「成り上がりを目指して中途半端で、好きな女は手に入らない。
小さな町の酒場の主に収まって、捕まえたのは幽霊女一人きり。
これが俺の分際とも、わりいことした報いとも、どうにもいうこたできるん……だが」

 彼は迷う間を置いてから続ける。

「俺はこれで満足していない。でも間違いなく満たされてはいる。
いや違うか……間違いなく悔しいんだよなんであそこで失敗しちまったんだ間違えたんだってずっと考えてる。
でも一方、これでよかったとも思うんだよ。俺はあいつと一緒にやってこれて良かったあいつの笑顔が見れて良かった。
そうだ。差し引き計算なんかでわかるものか。別々なんだよ別々でいいんだよ。
俺は悔しくてそして同時に満足だ」

 彼の口元にうっすら浮かぶ笑みを見て僕は立ち上がった。
 ごちそうさまでした。もう行きます。


 夜の外気に触れて吐く息は、白くかすんでかき消えた。
 旅先の思わぬところで得た物語に僕は少しばかりの満足を得て、代わりに少しの悔いを残した。
 僕の母は昔ある都市の酒場の看板娘だったらしい。
 潰れてそこを離れたのだが心残りがあったそうだ。
 ある青年のことなのだけれど……まあ今更言っても仕方のない話。

 もう少し夜気に当たってから寝よう。
 そう決めて僕は踏み出した。


 大きな夢を抱いて、小さな現実だけが残る
 その小さな現実をそれでいいと思う人もいる

おわり

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