牡丹――貴音 (89)

臨沂に住む飛は生来より剛直で無頼を厭わぬ性質だったから
若い彼が取り巻きを連れ、方々に迷惑を掛けることに父親は苦慮していた。

飛の家は代々より裕福な家柄で蓄えも豊かにあったので、父親は飛にそれなりの路銀を持たせ
目的を学問と称して、ごろつきどもと縁を切らせる為に、金陵へ旅立たせた。

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単身、金陵に到着した飛は、さっそく自分の寝座を定めるために、
予め連絡を入れていた同地の顔利きに約束の金子を渡し、町の離れの屋敷を借りて住むことにした。
飛が訪れた屋敷は古びれていたが、作りはしっかりしていて、少し手入れすれば快適に過ごしやすそうだった。

さて初日に飛が新居の整いに熱中していると、いつしか夕差しが部屋に差し掛かってきたので、一休みするために庭へ出た。

庭内を闊歩しぐるりと見回すと、塀の下で一株の牡丹が窮屈そうに頭をもたげていたのが目に入った。
飛は牡丹を憐れに思い、茎に日が当たるように塀の瓦礫をどかし、井戸水を汲んで根に水をやった。

そして飛は牡丹の芽をそっと撫でて挨拶した。
「今日からここに住む飛だ。よろしく頼む」

その日からの環境は臨沂の生活と一転し物静かなものとなったが、不思議と飛は退屈しなかった。
一日中書物を読み、牡丹の世話をし、老荘の心境とはかくあるものかとさえ感じ入るようになり
まるで俗世を断った金陵での暮らしに、自分でも驚くほど飛は馴染み始めていた。

そんな飛の毎日に張り合いをもたらしていたのが、庭の牡丹だった。
根を傾けて世話をしていく内に、季節が来て美しく咲き誇る牡丹を、飛は愛おしく思い始め
これまで遠ざけていた勉学に本腰を入れ、牡丹の為の詩を案じるようになっていた。

一年も経つと、飛の隠れた俊英の才は、日々の習慣によって大いに出てきて
時折、飛の様子を見に来る金陵の顔利きをも驚かせる成長ぶりだった。

これに喜んだのは飛の父親で、目付け役として頼んだ顔利きからの報告に満足し
「もうよい。臨沂県に役職を用意する故、家世を継ぐ為にそろそろ戻って来い」
なる内容をしたためた手紙を飛に送ったが、牡丹と相離れることに暗惨たる感情を覚えた飛は
「我、未だ弱輩ゆえに、これを有難く固辞し後一年ほどの猶予を頂ければ」
と返答し、父親もこれに承諾したので、より一層、勉学と牡丹の世話に熱を入れあげた。

ところで手紙の件を境に、飛は奇妙な夢をたびたび見るようになった。
初まりの夢で飛は囲碁を打っていた。相手の顔付きは朧で定かではなかったが、碁石を掴み手を伸ばす白い肌
煌びやかな衣装の下に身体の曲線を艶やかに描く、その対戦相手は飛が想像するに美しい女に相違なかった。

「貴方様は」
と、女が盤上の囲いに石を打ちながら言った。
「故郷に待つ肉親がおりながら、未だ帰らずにいるのはどういうわけでしょう。
わたくしの見るところ、今の貴方様なら出世を望めば容易に与えられるほどの仕事振りが出来ましょうに」

「父が私の帰りを待っている事は承知している。だが屋敷の牡丹のことを思うと、どうしても別ち難いのだ」
と、飛は正直に心境を吐露した。
「出来れば、ここを生涯の住居としたいのが私の本意だ」

「まあ何故ですの。花など世話し尽しても、いつかは生命果てて枯れ散る定めでしょうに」
「それは人間も同じだ」
飛は笑って言った。
「だが人間には記憶がある。もし庭の牡丹が先に命尽き果てても、牡丹との美しい記憶を大事に抱え
以後を暮らしていく為に、私はここで牡丹と共に日々を過ごしたいのだ。ここに住めば、忘れる事も無いだろうから」

やや間があって、女が飛に一礼して言った。
「貴方様は、まったく不思議な殿方ですわ。これから時折、様子を伺いに来ても?」
それは喜色を無理に抑えたような声音だった。
飛が笑って承諾するのを確認すると、女は鼻歌交じりに飛の夢から去っていった。

そして飛が目覚めるとはたして夢の内容は頭に明瞭に残っていた。
夢物語の女を思い、庭へ出ると、飛に挨拶するように牡丹の花弁が風にそよいで出迎えていた。

それから約定の通り、女は飛の夢に現れるようになった。

時には白熱した囲碁の対戦相手となり、時には相互の博識を競い合う良き論争相手となり
女との再会を重ねていくうちに、飛は顔も名も知れぬこの夢中の訪問者に対し尊敬の念を抱くようになっていた。

いつしか飛は床に就くたびに、女の登場を切に待ち望むようになり
女が夢に来ない日は、残念がって食事も満足に喉を通らぬほどの有様となっていた。

ストックが切れたので今日はここまでです。
今後ともお付き合いよろしくお願いします。

ある日、突然、女が狼狽した様子で飛の夢枕に立った。
「ああ、大変です。このままでは貴方様に再びまみえる事が出来なくなってしまいます」
驚いて尋ねると、女が庭を指差したので、直ぐに飛は跳ね上がるように目覚めた。

飛が庭へ出ると、辺り一面強風に吹き荒れ、大粒の雨が横殴りのように飛の全身を浴びせた。
その中で庭の牡丹が、側枝を幾本か無残に叩き折られて
主枝までもが強風に耐えながら悲鳴を上げるように揺れ動いている光景があった。

それを目にした途端、飛は我を忘れ牡丹へ駆け寄り、主枝を強風から庇うように背中で覆い
自分の両手で支えると、暴風雨が過ぎ去るまでそのまま身じろぎもしなかった。

朝日の出と共に一時の嵐が止み、周囲に平穏が戻ったので、飛が牡丹を確認すると
大部分は痛んでいたが数箇所の芽と主枝の部分は無事だったので、安堵して部屋へと戻った。
そして疲労困憊の飛は、倒れるように横臥して意識を失った。

闇の中で女がすすり泣く声が聞こえた。

「ああ、貴方様。私の所為でこうなろうとは。
私は貴方様に見られていればこそ、花として生き甲斐があったのです
貴方様の居ない世界に何の意味がありましょう」

飛は声のする方へ言った。

「私だ。飛だ。ここは夢の中だろう。
心配は要らない。いつもの通り私はここにいる」

「いいえ。ここは夢ではなく、生死の狭間、黄泉の入り口です。
貴方様の命は今にも消え尽きようとしています。重い肺炎に掛かってしまわれたのです。
もう一刻もすれば案内人が来て、貴方様をそのまま黄泉の向こうへと連れ去ってしまうでしょう」

そこで飛が自分の体を見ると、身体が透き通るように存在しなかったので、たちまちに状況を了解した。
女に頷きかけて飛は言った。
「いや、これも私の運命なのだろう。それは致し方ないことだ。それよりも聞くが、君は無事だったか?」
「わたくしは貴方様の御蔭で無事、命を繋ぎ止められることが出来ました。しかし、貴方様は」
「君は牡丹だったね? あの庭の」

「そうです。私は貴方様にお世話して頂いた牡丹の花妖です」

女が震える声で飛に詫びた。

「私が出過ぎた真似をしてしまったのです。貴方様と昼夜で会う時間は私にとって最上の楽しみでした。
あの台風の日、本来なら死ぬのは私の方だったのです。死ぬのは怖くはありませんが、貴方様と二度と会えなくなると思うと
心がとても痛ましく、魂が絶望で覆われる程でした。そこで私は、一縷の望みを掛けて貴方様に助けを求めてしまったのです」

飛は言った。

「それならば私の取った行動に後悔は無い。私にとっても君が死ぬことは想像を絶するほど辛く悲しいことだ。
あの金陵での日々において、私は君によって大きく助けられたからだ。君は私にとっても欠かせない存在だったのだ。
もうじき私は黄泉へ行くと思うが、冥土の途上で勇気付ける為に、君の名を聞いてもよいだろうか」

女がわっと泣き叫んだ。
「私は、私は―――貴音と申します」
「貴音―――。良い名前だ。最後に貴音、君の顔も見せてくれないだろうか」
「ああ! 貴方様――」
貴音が顔を覆い隠していた袖をほどくと、飛の想像以上の、天宮の天女に勝るとも劣らぬ
絶世の美女が涙に濡れていた。飛は大いに満足して言った。

「感謝する、貴音。最後に君の美しい顔を見れて良かった。これで私に思い残すことはもう無い」

とほぼ同時に黄泉の門が音を立てて開き、中から黒ずくめの老人が出てきた。
「次なる者よ。こちらへ」
飛が老人の言に従い、門へ向かおうとすると貴音が行く手を遮り、老人に言った。

「死んだのは貴音、私です。この方、飛さまは運命の手違いでここへ来てしまったのです。
そして、その原因は私にあります。御確認下さい。本日、死ぬ者は貴音とある筈でございます」

老人は手に持つ紙を眺めると頷いた。
「ふむ、なるほど。確かに、たった今死んだその飛なる男は、本来なら今日死ぬべき名ではない。
その魂がここにある理由の申し開きは向こうで聞くとして、生命の循環を元通りにせねばならないから
ひとまず飛の魂を復帰させ、貴音、お前だけを連れてゆく」
驚愕して飛は叫んだ。
「待ってくれ! 死んだのは貴音じゃない。
飛だ! あなたが連れて行くのはこの私だけだ!」

しかし老人が貴音を連れて飛より先に門内に入ってしまうと
門は目の前で固く閉ざされ、飛の魂は急速に現世へと飛ばされていった。

第二弾はここまでです。

飛は意識が戻ると、横臥していた肉体から疲労感が抜け、平生と変わりなく健康だったので
「はて私は眠っていただけか」と呟いたが、牡丹の花妖―貴音の事をすぐさまに思い出し
同時に心胆寒からしめる予覚に襲われたので、急いで庭へ出た。

飛が庭内へ足を進めると昨夜の嵐の影響が濃く地面が水溜りだらけであったが
はたして牡丹を見ると、葉に緑の光沢なく、数箇所残っていた筈の芽がすべて黒く朽ち、茎全体が枯れて生気を失っていた。
一縷の望みを掛けて、飛が周りの地面を手で掘り起し、根元の状態を見ると
地中に根を張っている様子がまるでなく、手で茎を軽く掴めば容易に抜けるであろうと想像させる程に腐り切っていた。

ここで飛は初めて牡丹が死んだことを悟り、牡丹の前で三日三晩、泣き続けて慟哭した。
三日して涙も泣き枯れたので、漸く日常に復帰したかと思うと食事が少量しか喉を通らず
睡臥の最中にも「貴音、出てきてくれ」と叫び、その度に目を覚まし貴音のことを思ってさめざめと泣くので
睡眠も満足に出来ず、飛は次第に体調を崩し痩せ衰えていった。

この飛のあまりの変貌ぶりに驚いたのは目付役の顔利きだった。彼は飛の父親に早馬を送り変事を知らせた。
父親はこの知らせを受け取ると、すぐさまに臨沂の家から小間使いを複数人連れ立ち、金陵へと足を飛ばした。
金陵の屋敷に到着すると、飛が庭で座して泣いていたので、直ちに理由を問うと

「私の最愛の花が死んだのです。貴音という名の牡丹の花でした。
それが悲しくて私は泣いていたのです。父上、どうか私を放っておいてください」

と、幽鬼の如き様相の息子から答えが返ってきた。

父親は息子のこの並々ならぬ様子から即座に臨沂へ連れ戻す判断をし、飛の説得にあたったが
何度呼び掛けても固く拒否するので、ついに小間使いたちに命令し、暴れるのを無理矢理に抑えつけて馬車へと連行した。

臨沂に向かう途上で飛は何度も金陵の方を見やり、「貴音、貴音」と叫んでいたが、臨沂に近付くにつれ
平静さを徐々に取り戻し、数日して臨沂の家に到着した際には自らの不明を詫びたので、父親以下小間使いたちはやっと安堵した。

第三回ここまでです。

一月もすると飛の体調は完全に快復し、日中には快活さが戻っていたが、夜毎の度に陰鬱な面持ちとなるので
父親はこれを心配し、機会を見つけては飛に縁談を持ちかけたが、
「父上、気に掛けて下さりありがたいことですが、私には心に秘めた女がいるのです。
それを忘れないうちには、どんな縁談も到底まとまるとは思えません」
と、丁重に言って断るので、その相手は誰かと問うと、押し黙ってただ首を振るばかりだった。

それから一年余経過し、臨沂でも牡丹の開花の季節がやってきたので、花売りの商人と名乗る老人が飛家に参上した。
取り次いだ小間使いが聞けば、若旦那に極上の牡丹を献上したい、というので飛に用件を伝えると
「それは商人の大口上だ。私は既に極上の牡丹を知っているので、いまさら凡百の牡丹を買い求める気はない」
と、小間使いに言伝えて帰ってもらおうとしたが、老人がいつまでも玄関口で粘るので、やむなく飛自ら応対することになった。
飛が玄関に赴くと、相手は見知った人物だったので、商人と二人だけで話させてくれと周囲に言い、老人を自分の部屋へ連れ込んだ。

扉を後ろ手で閉め、部屋に二人きりになると、飛は憤慨した面持ちで老人に詰め寄った。
「私はあなたを知っている。忘れる筈もない。あなたは貴音を冥界へ連れ去ったあの黄泉の案内人だろう。
ここに来たのはどういう理由か。死んだ牡丹の事を忘れられぬ私を嘲笑いに来たのか。
それとも適当な牡丹をつくろって用意する事が罪滅ぼしになるとでも考えて来たのか」

そこまで言うと老人が静かな笑みをたたえてこちらを見ているので、飛の方まで毒気が抜け
「いや、大変失礼いたしました。此度の来訪どういう所用でございましょうか」
と、向き直って礼を正し丁重に伺うと、老人は言った。

「飛よ。お前の牡丹を想う至情に、天界の太上老君が感動されて貴音を現世へ生まれ変わらせることにした。
現在、貴音の魂は南斗と北斗の両君の案内を受けて元通りの場所へと向かっているが
その魂を肉体に復帰させるのにお前の助力が必要なので、こうして報せに参ったのだよ」

老人の言に驚愕した飛は即座に跪き、重ねてその手法を尋ねると
「この護符を持ってゆくといい。一枚はお前が身に付け、もう一枚は貴音の背に貼り
そうして六日間、貴音の名を呼び、共にして眠ることだ。七日もすれば貴音は完全に蘇るだろう」
と、老人は言って二枚の護符をその場で書き上げ、飛に手渡すと音も立てずに消え去った。

後に残された飛はしばらく茫然自失としていたが、正気に戻ると二枚の護符が確かに手元にあるので
暫くの間家を空ける旨の手紙を急いで書き置くと、ただちに馬を求め、金陵へと向かった。
飛が金陵に着き、同地の顔利きのもとを訪れると、屋敷は飛が退去した後そのままにしているというので
一月ほど誰も屋敷を訪れないように、と強く念を押し、疾風の如き早さで馬を走らせた。

息を切らせて屋敷に到着すると、とうに夜間となっていたが、運良く満月が出ていたので
月明かりを頼りに、飛はかつての牡丹の場所を探し当て、その場を手で掘り出した。

十分ほど地面を掘り進めると、やがて地中から目の閉じた貴音の美しい顔が出てきたので、飛は驚喜し
さらに三十分ほど周辺を掘り進めると、遂に一糸まとわぬ貴音の均整とれた肉体が、月下のもとに明らかとなった。
飛が地中から貴音を抱き上げてみると、その肌は氷のように冷たかったが
記憶する老人の言葉に従い、懐中から取り出した護符を貴音の背に貼り、もう一枚を自分の腹に貼ると
そのまま貴音をおぶって、屋敷の中の寝床へと慎重に持ち運んだ。

寝床に貴音を仰向けにして寝かせると、飛は蒲団を掲げて相互の身体を包むように覆い被さり
肉体が蘇生することを一途に信じて、貴音の名を呼びながら朝まで抱いて寝た。
三日すると貴音の小さな唇に血色が灯し始め、四日目には貴音の体温が
生身の人間と変わらぬ程となったので飛は大いに喜んだ。

そして五日目の晩にいつものように貴音の名を呼び、裸身を抱いて寝ようとすると、手に当たる乳房の反応に弾力があったので
試しに軽く揉んでみると硬直がすっかり消え失せていて、復活が近いことを予期し、飛はますます欣喜した。
ところで改めて考えてみると、飛がずっと懸想していた貴音の美貌がすぐそばにあって
その美しい裸身が、生命ある人間と変わらぬ反応を見せ始めているのだ。

飛がその事を意識した途端に、淫靡な情欲が湧いたが、貴音への尊敬心と強固な自制心によって
暴れる己の剛直をそのままに放っておくことに決め込み、その晩は四苦八苦してようやく寝付いた。

六日目の朝、飛が目覚めてみると、生じた股間のぬめりから夢精してしまった事に気付き
しかも蒲団を退かせてみれば、精の一部が貴音の臍付近にまで掛かっていたので、あわてて拭き取ろうとすると
微かな呻き声が貴音の口から漏れ出たので、そのまま見つめると貴音が徐々に半身を起こし始めた。



「――貴音!」「――飛さま!」

飛と貴音は視線が合うと同時に相互の名を呼び合い、手を取り合って二人で大いに喜び合ったが
貴音が裸の自分と臍に付着した飛の精に気付くと、乳房と女陰を手で覆い隠し、顔を赤くして飛をなじった。
「……貴方様。私が貴方様に会える事を夢見るあいだに、その、私の身体を弄んでひどい真似をするとはどういう訳でしょうか」
「いや、貴音。私は決してそれを自分から為した訳ではない。本当だよ」
飛が狼狽しながら答えると、動揺のあまり再び股間の剛直が寝衣の下からまろび出たので
「ああ、その、貴音の美しい裸を前にすると、自然と私はこうなってしまうんだ。
そりゃあ私だって思いを果たしたいが、君への尊敬心から、ずっと何もしなかったんだよ。
だが昨晩、寝ている間に勝手に身体が精を粗相してしまったらしい。本当なんだ。信じておくれ、貴音」
と、剛直を指差し、恥を忍んで打ち明けると、顔をますます紅潮させた貴音は
「わかりました。わかりましたから早く仕舞ってくださいまし」
と、早口で繰り返し言うのだった。

互いの護符を剥がした後に、飛が準備しておいた女物の着物を貴音が着衣し、飛も普段着に着替えると
やっと落ち着いた雰囲気が二人の間に生じたので、二人して歓談し合ったが、その最中にふと貴音が飛に問うた。
「そういえば、飛さま。今日はわたくしに転生の術を施してから何日目でしょうか」
飛が六日目だよと答えると、途端に貴音は凍り付いたように表情を固くさせたので、理由を聞くと
「目覚めた時に微かに嫌な予感がしましたが、残念な事にそれが的中してしまいました。
私は完全に蘇生したわけではないのです。転生の術は七日にして完成するのですが、生の気を途中で浴びてしまい
復活が一日早まってしまったので、私は不完全な形で現世に出でてしまったのです」
しかし傍目には何も変わりないじゃないか、と飛がなぐさめると、貴音は首を静かに横振り言った。

「いいえ―――今のわたくしには、子宮が欠けているのです」

四回目ここまでです。
思ったのですが読んでくれる人はいるのでしょうか…。

「子宮が欠けていようがいまいが貴音は貴音ではないか。君は生きて、そしてここに居てくれるのだろう?
ならば私の方もこれまでと変わらず、いや一層、君を愛で、ここで君と共に暮らすつもりだ」
飛が貴音の肩を抱き寄せそう言い切ると、貴音は真珠のような涙を、飛の服の上にぼろぼろと零れさせて、

「私も――、飛さまのお側で、生涯を捧げ、お仕えしていくことは、私の本望でございます。
ですが、飛さまのお母様と天上でお約束した、『飛の父にあなたと飛との子供の顔を見せてあげてください』の
お言葉をこれで果たせなくなった事を思うと、わたくしにはそれがとても悲しいのです」

「母上が」

飛が驚き貴音を見つめると、貴音は泣きじゃくりながら天界での出来事を語った。

それによれば飛の亡母は、地上に遺した息子と夫の暮らしを天界から時々見守っていて
飛と貴音の馴染も知っていたので、天界に来た貴音にも自分の娘同然に優しく接してくれ
貴音の蘇生が決まった時も我が事のように喜び
『息子を、飛をよろしくお願いします。それと私が見る限り、飛の父――夫の命はそう長くはありません。
その命は持って一年半かと思います。それまでにどうか、あの人に孫の顔を見せてあげて下さい』
と何度も頭を下げて頼み込み、別れ際には
『あなたのことは娘のように思っています。末永くお元気で』
とまで言ってくれたのに、それを裏切ることになってしまうのが、とても悲しくて顔向けできないという。

「父上が」
父の寿命の話は、飛にとって深く哀しい衝撃だった。
しかし飛はゆるゆると首を振り、なお貴音を抱き締めて、悲痛な面持ちで叫んだ。

「然し、嗚呼、貴音! 私には、君以外の女人など考えられない!
私はこれまで―――君が蘇るまで何度か持ち掛けられた縁談があったが、本当に君以外の人間には毛ほども興味がないんだ。
ましてや子を為せと言う! それはとても無理なことだ!」

「私と同じ花妖なら」
これまで飛の胸元で泣いていた貴音がふとそう言った。

「花妖?」

飛が問い返すと、貴音は顔を上げて、飛を見つめた。
貴音の美しい双眸は、もう涙に濡れていなかった。
代わりに希望と嫉妬が複雑に入り混じった瞳が激しく燃えていた。

「人間には、興味が無い。では、わたくしと同じ花妖なら?
―――飛さま……わたくしは、このような形で蘇生してくれた貴方様を、心の底よりお慕いし
そして、同時にお恨み申し上げます……こんなにも愛している、貴方様の子種を宿せないのですから」


その日の夜、二人は密着して寝たが、交合の為ではなかった。
貴音の甘い芳香に包まれ、白い手に頬を抱かれて、飛は眠りに落ちて行った。

―――――――――――――――――――――――

ふと見ると、辺り一面が牡丹園に囲まれていて、中央には奇妙な臭気が立ち込める沼地があった。
その沼地の奥側には、貴音が岩の上に座っていて、入口に立つ飛を愛しげに見つめている。

「飛さま。お待ちしておりました」

貴音が頬を仄かに紅潮させて、飛の名を呼んだ。

「貴音」

飛の声音にも、相手に対する親愛の情に満ちていた。

しかし、先程から飛の鼻腔を刺激する、この酸味臭は一体どうしたことだろうか。
それに、よくよく見れば、貴音のもとへ続く地面が堅固を失い、泥沼のようにぬかるんでいた。

この不可解的な空間に不安を感じ、飛は言った。

「貴音、ここが夢の中ならば、君と私をあの安らぎの空間へ戻してはくれないだろうか。
君と私がいつも出会い、共に碁を交わし、詩を歌ったところへ!」


岩上に足を揃えて座る貴音は、飛の言に、少し顔を曇らせたが意を決すると尚顔を赤くして言った。

「飛さま。あそこはわたくしの精神を象った夢幻の部屋なのでございます。
あの部屋をあなた様が気に入ってくれた事は、私にとってはこの上なく喜ばしいこと。
あれが二人にとって安らぎの空間だったからこそ、私はあなた様をお慕いするのです。
飛さま。白状しますと、ここは、わたくしの肉体を象った夢幻の部屋なのです」

「な何っ! こ、ここが?」

「わたくしたち、花妖の性質としては――」

貴音は、狼狽する飛に噛んで含めるように説明した。

貴音の口上によれば、花妖はおのれの気に入った男性が現れると――深く愛してしまった場合
これを自分の夢幻の肉体の部屋へと招き入れるという。そこでならば、花妖は嗜虐的で扇情的な気分になり
男性を愛し愛されることに自分の全精力を傾け、備わった美貌で彼を虜にし、骨の髄まで精を絞り尽くせるからだ。

この花妖の肉体に囚われた男性は、夢から醒めても正気を失い、狂気の果てに自殺するのが常だともいう。

「貴音」

貴音の説明を黙って聞いていた飛が、暗然たる面持ちで口を開いた。

「君はここに呼んで私を殺そうというのか。確かに、貴音の子宮を失わせた咎は私にあるが」

         ・・・・・・・・
「いいえ―――! そんな事は決してありえませぬ!」


「ここは、わたくしの肉体を、あなた様に捧げる一心で創られた部屋です。
飛さまを精神の部屋に呼ぶのが私の初めてならば、肉体の部屋に男の人を呼ぶのも、飛さまが私の初めて。

そして、作ってみて、わたくし自身がどんなに驚き、どんなに恥ずかしがったでしょう。
なぜなら、夢幻の肉体の部屋は、そこに招く男性への想いを、間接的に表現し形成されるからです」

貴音はそこまで言うと、耳元まで顔を赤く染め上げて、目線を伏せた。
飛は、その貴音の告白によって、彼女のいう肉体の部屋の正体に気が付いた。

この部屋は、貴音の女陰を象徴していた。

周囲の牡丹園の特徴を、よくよく見れば、色彩全体が柔らかい銀色だったし、
そして、飛と貴音の間にある、中央部の凹みが緩やかな斜面となっている沼は
彼が視線をあてるたびに、ぴくぴくと蠢き、時々、白濁液に塗れた洞穴が開き出していた。

「あ、そんなに見つめないで下さいまし」

「これは君の女陰なのか」

「あぁ、とても死ぬほど恥ずかしいですわ。わたくし、やっぱり、へんな形とへんな臭いをしているのでしょうか」


「いいや」

と、飛は言った。
愛する貴音の女陰。それが飛を歓迎する為に、女体の秘密を曝け出しているのだ。
すると、この夢幻の空間は、飛への貴音の尋常でない愛情の証明に他ならなかった。

「貴音。君は本当に素晴らしい。肉体も、女陰も完璧に美しい。
それに、この空間を支配する匂いまでもが、君そのものだと知れば、なんと官能的なことか!
今や、私は君の虜になって死ぬのも本望だとも思っている」

その飛の言葉に偽りはなかった。彼自身の物は、目下の女陰とその持ち主を求めて、今までになく剛直になっていた。
最も自分にそう思わせることすら貴音の狙いで、それが本来の花妖の魔性――本性かもしれぬ
と、飛はちらりと思う。しかし、それはどうでもいいことだった。飛は一刻も早く貴音を抱きたがっていた。

岩上の貴音は、至上の幸福に包まれたように、歓喜に身震いした。

「ああ、飛さま。ここでは、あなた様の感情や身体の反応が、わたくしには手に取るように分かります。
――でも、貴音には、それだけで十分満たされた思いです。
いよいよ以って、どうしてでもあなた様に報いなければなりません」


「……さきほどから君はそう言ってはいるが」

飛はそう言いながら、ぬかるみへと一歩、足を進めたが、沼地へ踏み入れると
窟の中にずぶりと足首がめり込んでしまい、どう目算を立てても貴音のいる岩上へ辿り着けそうになかった。

足首を引っ込めた飛は、うらめしげな目で、貴音を見上げた。

「このままでは、私は君に近付けやしないじゃないか」

「ええ。――そういう条件で作ったのです」

「……貴音?」


「わたくしは縁の深い花妖の仲間を、この空間に呼び集めました。
彼女たちは、この窟の中で、飛さまを待っています。
彼女たちなら、私の代わり、いいえ、それ以上の最適な相手になるやもしれません」


「――何だって?」


「飛さま。お気付きでしょうか。夢幻の精神の空間だったら、わたくしの顔が現れなかったのに
もう一方の、この夢幻の肉体の空間でなら、わたくしの顔がはっきりと見えることに」

「……見えるとも。しかし貴音」

「……そして貴方様が見る、その、わたくしは不具者」

「何を馬鹿な!――あれは私の咎だ。責めるべきは私の未熟さだ。
それに昼に言ったではないか。君に子宮がなかろうが、私は一層尽くしたいと。
なのに、どうして、私と他の花妖を引き合わせなければならないんだ」

「……あなた様の子を成すため。考を成すためです」

「貴音!」

「飛さま、聞いてくださいまし。これは、わたくしが出来うる限りの譲歩です。
もしも、夢幻の精神の空間で、あなた様に他の花妖を紹介し、あなた様がその花妖を気に入ってしまったとしたら?
その事を思うだけで、わたくしは胸が張り裂けそうなのです! 他の花妖の方たちも、実際に素晴らしい人ばかりですから!」

「………」

「ですが、夢幻の肉体の空間でなら、わたくしは自分が不具者であることを理由に
飛さまの御子を成すためと、自分を慰め、他の花妖たちの中の誰かを、もし、あなた様が気に入ったとしても
………貴音は、これを喜んで受け入れる事が出来ます」

……



「飛さま」

岩上に立つ貴音の視線は、飛が消えた窟の入口へと当てられていた。

異物を受け入れた沼の窟は、本体の貴音が見つめる前で
侵入の余韻を残すように、しばらく蠢き、やがて元通りに閉じた割れ目を形成する。

その一連の動きを確認してから、貴音はつぶやいた。

「子は最大の宝。考は最大の道徳。わたくしはそのどちらも与えられない」

そして、貴音は頭上を見上げた。中天に輝く満月の光が貴音の顔を照射する。

「今日は、端午の節句。牡丹の絶頂期が終わるのも、丁度この頃合い。そして現世でも満月の日」

謳い上げるような貴音の声音に合わせて、まぼろしの満月が急速に膨張していき
いまや空全体を覆い隠して、地上の貴音の顔近くまで接近した。

月の表面と額の接触によって、貴音の美貌の骨皮が一瞬にして爛れる。
と、同時に視覚を失った眼球の水晶体がどろりと溶け出す。

そのまま、頭部から順に蝋のように溶解していき、最終的に、貴音は一個の白い肉塊となった。


……

保守してくれてどうもありがとうございます。ペース上げて今月中には完結させます。

……


「あれが飛」

円座になって目を閉じている十二人の美少女の中の一人が、ぽつりといった。
彼女たちは、閉じた目蓋の中に、一人の青年がとぼとぼと歩く姿を見ていたのだ。

「なんとも頼りなさそうね……貴音はあいつのどこに惚れたのかしら」

勝気そうな娘が目を閉じたまま、なおも続けていう。
黄薔薇の花妖――伊織だった。

『花神』『花王』『王者の風格』と渾名される牡丹と、唯一、対等の立場にある薔薇の花妖たる伊織は
招集を受けた十二人の花妖の中で、本来なら彼女ひとりだけ貴音の名を呼び捨てに出来るはずだった。


「きっと貴音に何か言われたさー……貴音と別れるのが辛いんだ」

金木犀の花妖――響がいった。

肉感的な身体に比例して情も厚い彼女が、貴音を呼び捨てにするのを、誰も聞き咎めないところ
貴音は、自分と縁が深く、かつ、それぞれ互いを見知っている花妖だけを呼び集めたものらしい。

「哀れなひと…自分が慰めてあげたいぞ」

「な、な……待ちなさいよ、響! この私を差し置いて、そんなの許さないんだから!」

「伊織は、さっき頼りないとか言ってたじゃないか。だから自分が頂く」

「あ、あれは…だ、だから私がお情けで養ってあげようと言うつもりだったのよ!」


すっかり二人とも、眼中の男を自分のものだと主張して譲らない。

いや、その場にいた十二人の花妖全員が、入口に全貌を現した青年を心眼に捉えた瞬間に
自分と彼が、運命の赤い糸で繋がっているような、強烈な錯覚に陥ったのだった。

「伊織も響も、みっともない真似はお止めなさい」

桔梗の花妖――律子が騒ぐ二人を制止した。

気品に満ちた、たたずまいを見せる彼女も、また目を閉じて頬を微かに紅くしていた。
やがて意を決するように頷くと、律子はいった。

「皆、もういいでしょう。話があります」


目を閉じていた全員が、律子の言葉で、名残惜しそうに瞼を開いた。
すると、その場の何人かが、驚愕の表情に変わる。


「消えている!」

と、叫んだのは円座の中央頂点にいる伊織だった。

「居なくなったのは、真、美希、亜美真美、あずさ、雪歩………ね。
まったく抜け目がないというか、魅入られたというか……先を越されたのは間違いがないようね」

律子が、空白の座を見回し、唇を噛むようにいった。

「ともかく、確認しないといけないことがあるわ。響、春香、千早――あなたたちも座りなさい」


「うっ…自分も行こうと思ったのに…」

「う、うん。律子さん。話ってなあに?」

「……くっ」

抜け駆けされた事を悟った瞬時に、腰を浮かしかけた三人の花妖が、すごすごと座る。

律子は、やっと皆の視線が自分に集まったのを確認すると、微笑みながらいった。

「ええ、単刀直入に言うわ。あなたたち、彼に惚れたんでしょう?」


「…………」

花妖たちが、一斉に美貌を紅に染めあげた。
彼女たちの反応を窺う律子も、顔を赤くしている。

「あなたはどう?」

花妖たちの中でもっとも若く、恋の字も知らないような童女に、律子は水を向けた。

桜の花妖――やよいだった。

この年端もいかない美少女の反応が最も薄いと見て取り、ふと安心して訊いた律子だったが
顔を上げたやよいと目が合って、彼女は慄然した。

「あ……」

やよいの大きな瞳は潤み、赤く染まった唇がおんなの濡れ方をし
着物の胸元が大きくはだけて、膨らみかけの乳房が、艶めかしく上下していた。

ぞっとするような妖艶さを放ちつつも、やよいは、正直にいう。

「うぅ……わかんないです。律子さん。ただ、あの人を見てから、急に身体が、熱っぽく…」

「なんてこと!」

伊織が立ち上がり、やよいの元に駆け寄って、はだけた着物を直す。

「やよい、あなたもなの? 私もそう――まさか、他のみんなも彼を?」


「いいえ。伊織」

花泪夫藍の花妖――千早がいった。
千早の瞳が鋭い光をたたえて、伊織、響と順に睨む。

「あなたたちは、さっき彼に対して、養うとか慰めるとか言ってたけど、まったく話にならない」

そして彼女は、宣戦布告の口上をいった。

「彼を見た瞬間に確信したの――。彼に心の底から尽くせるのは私しかいない。
私なら彼のすべてを受け止め、彼が望むことなら、何だってしてあげられる。
この覚悟が、私とあなたたちの違いよ」

「そ、それは私だって、もちろんあるわよ!」

「じ自分も、なんだってしてあげられるぞ!」


「………千早も、か。ということは」

苦虫を噛み潰した顔付きの律子が、春香をじろりと見る。

胡蝶蘭の花妖――春香は、律子と目が合うと、黙って頷いた。

口には出さないが、両手をぎゅっと握り締めているところを見ると
春香も他の花妖たちと心を同じくして、しかも、決して引かないつもりのようだ。


「やれやれ。あなたたち、ちょっと冷静になりなさいよ」

律子が周囲に手を振りかざして、騒ぎを押し留めようとする。

「もう確認は済んだから――。こらっ。着物を引っ張り合わない!」



「で、確認してどうしようっていうのよ。律子」

息を荒くした伊織が、はだけた自分の裾を直しながらいう。

「美希たちは、とっくの昔に先にいっちゃったんだぞ」

響が胸元の襟を、きつめに締め直し、豊かな乳房の形を整える。

「こうしちゃいられないわ」

千早があられもない恰好のままで立ち上がる。
彼女だけが着物を整えず、白い肌の大部分が露わになっていた。


「………あなたたち、気付かないの?」

と、律子が妙に低い声でいった。

「さっき、貴音が――」


「ええ、いなくなりました」

やよいと春香が同時にいった。

「おそらく、飛さんが、いちばん好きな貴音さんが」

――と、やよい。

「この世界から」

――と、春香。


二人を振り返って、律子は何かを言い掛けたが、やめにした。

律子の表情には、諦念や達観に似た様相に満ちていたが
やがて、自信を取り戻したように薄く笑うと、彼女はいった。

「そう。もう誰にも止められないのね」

今日はここまでです。
今月までに終わらせられるように頑張ってみますが
いやこれ無理じゃないかな(諦念)



飛は哀惜の念に満ちていた。彼は自分の無力さを嘆いていた。
あの素晴らしい完璧な肉体と知性の持ち主――貴音との甘い生活はもう望むべくもないのだ。
彼女は知性を飛の亡母との約束――世を支配する『孝』の道徳観を達成することに捧げ
彼女は肉体を飛の子を成すため――世に子作り製造機の『花妖』を現出するために捧げた。

貴音はいう。「わたくしは子宮になりたい」彼女はいう。「最期にわたくしは子宮の中であなた様を感じていたい」
飛はいう。「何をばかな」飛は激昂する。「考え直してくれ貴音」

しかし、貴音は自分の思考を改めなかった。
彼女は飛に現世に招来する花妖を選択する方法を教え、目の前の入口から自分の中に入ることを促した。

「貴音」飛は絶望に青褪めながら最後に尋ねた。「もう一度きみに逢う方法はあるだろうか」
「ないこともないですわ」と貴音はいった、「あなた様が誰とも交わらずに子宮の中まで辿り着けるなら」
「そうでなくとも」と貴音はいった。「縁が深ければ、いずれ、どこかであなた様と逢うでしょう」
「さようなら」と貴音はいった。「さようなら。あなた様、早いうちか遅いうちかまた逢えるまで」


飛は考える。ならば他の花妖たちを抱かずに子宮に辿り着けば済むことだ。
しかし、と飛は戸惑う。

貴音が飛に教えた条件のなかに

『出会った花妖と必ず交わるべし』
『それは縁が深い証左なのだから』
『めしべとおしべが触れ合う瞬間に』
『委ねなさい、さすれば道は開けます』

憎々しげに吐き捨てたこれらの提言の数々と
最後の貴音の「誰とも交わらずに」なる発言は矛盾するのではないか。

いずれにせよ、と飛は思う。私は無力だ。
愛する女の一人さえ、説得することが出来ないのだから。
また飛はこうも思い、戦慄する。私は人間だ。
貴音のような美貌の花妖が現れたらその方に転ぶのではないのか。


飛が怯えながら、ふと辺りを見回すと、周りの様子が、先程までのぬめりに満ちた薄紅色の壁とは違い
踏みしめる床が存在し、また天上に絵が存在し、目の前に巨大な祭壇とそれに続く階段が存在することに気付く。

そして、彼は正装をしていた。それは、1300年後の東方でタキシードと呼ばれる代物だった。

彼は天上を覆う絵を眺めた。それは、400年前の西方でクピドと呼ばれる天使を描いたものだった。

裸体のクピドは彼を見下ろし微笑していた。
クピドの股間には未発達な女性器があった。
そして、クピドが眼下に向ける弓の矢じりの先には、かの祭壇。

飛が呆然としながら、祭壇に続く階段を上ると、はたして祭壇には上面が無く中身が空洞の構造だった。
飛は前に進み、祭壇の中を覗き込んだ。

するとそこには、純白の衣装――ウェイディングドレスを身に包んだ美少年が横たわっていた。
美少年は目を閉じ、両手を腹の上に重ね合せていた。
その美少年を見た瞬間、飛はすべてを忘れ、自分がしなければならないことを思い出した。

彼は祭壇の中に身を屈め、美少年の柔らかい唇の上にキスをした。
美少年の唇から甘い息が立ち上ったようだった。飛はそれを吸い込んだ。
裸体のクピドが二人を見下ろし微笑していた。


「君は」と飛がいった。「いったい誰だい」
「僕は」と飛は微笑んだ。「君を知っているような気がする」

美少年が飛の呼び掛けで上半身を起こした。美少年の顔は紅潮している。

「ボクの王子様」

美少年は瞳を潤ませながらいった。

「お願いもう一度口付けをして」

飛の首元に抱きついてきた。
飛は胸元に当たる柔らかな感触で相手が女だということにやっと気付く。

「僕のお姫様」と飛は微笑した。「いいとも。愛しい姫様」

「王子様、もっと」

「ああ姫様、可愛らしい姫様」

長い長いキスで二人の唇がべとべとになった時、やっとお姫様が身体を離し
祭壇の中から降りるのを飛はエスコートした。

「ねえ王子様」

お姫様はくすくす笑いながらいった。目元が赤らんでいる。

「あちらの方に行きましょう」

お姫様に手を引かれて歩いていった先に、可愛らしい花柄模様のキングサイズベッドがあった。
飛はくすくす笑いながら、お姫様をお姫様だっこで抱き上げた。お姫様は軽かった。


飛はベッドに上がり込み、お姫様の頭を枕の上にやさしく寝かせた。
そしてヴェールを脱がすと、お姫様の艶のいいショートの黒髪が露わになった。
お姫様の凛とした顔立ちと雰囲気は、胸部の膨らみがなければ、美少年としてでも通用するだろう。

飛はもう一度、お姫様の柔らかい唇にキスをした。

「姫様」

と唇を離してから彼は笑った。

「ねえ姫様。そろそろお互いに自己紹介すべきじゃないかな」

「――わたしの王子様は飛」

「驚いたな。もう名前を知っているなんて」

「王子様が運命の人ってことも知ってるの」

「それは素晴らしいことだな。こんなに可愛らしい姫様が運命の相手だなんて」

「そんなに可愛い?」

「君は世界でいちばん可愛いよ。僕のプリンセス」

「あの人よりも?」

「――あの人? いったい誰のことだい」

「いいの」

お姫様はにっこりと微笑んで飛にキスした。
そして、彼女はいった。

「――わたしの名前は真。不如帰の花妖。わたしは永遠にあなたのもの」

申し訳ありません。
こちらは『聊斎志異(下)―牡丹と耐冬』の雰囲気を目指して
書き始めたつもりですが筆力が追いつかず、それでも書き進めるうちに
自分自身もどこへ進めたいのか、わけのわからぬ展開になってしまったので
HTML化申請をして、ここで中断いたします。

一本筋通ったものを、お届けできるよう精進いたしますので、またの機会によろしくお願いします。

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