【ぼざろSS】ふやけたページ (15)

後藤ひとりは夢を見た。

 いつだかに訪れた、どこかのカフェの夢。
 カウンターの席に、リョウ先輩と並んで座っている私。
 リョウ先輩は、私が歌詞をしたためたノートを読んでいる。
 その横顔はとても綺麗で、なんだか少しだけ嬉しそうで、満足そうでもあって。
 「やっぱりぼっちはすごい」って思ってくれているのが、目の輝きだけで伝わってくるようで。
 こてんと私の方に倒れて体重を預けてくる先輩の重みを右肩あたりに感じながら、私は優雅にカップをかたむけるのだ。

 ――そんな光景が浮かんだとき、はっと目が覚めた。

「……」

 窓からは陽の光が差し込み、外では小鳥が鳴いている。
 そう、すべては夢だった。
 だが、夢じゃないことがひとつある。
 ひとりは布団の上でもぞもぞと身体をひねり、そばに置いてあったノートを手に取った。
 一番新しいページを開き、満足気に高くかかげる。

(やっぱり……夢じゃない……)

 きらきらと宝石のように輝いて見える、一曲の歌詞。
 何日も何日も書いては消してを繰り返し、やっとの思いで書き上げた歌詞。
 感情を高めて高めて、ありったけの思いを詰め込むようにして作り上げた、渾身の歌詞。

 ひとりは昨晩、ついに傑作を書き上げた。

 大切そうにノートを胸に抱え、目を閉じてゆっくりと深呼吸する。
 こんなに素晴らしいものが私に作れたんだと誇らしくなり、自分の中に少しだけ自信が芽生え、まるで世界の全てが晴れやかに輝いて見えるようだった。
 
(喜んで……くれるかな)

 まだかすかに目蓋の裏に残っている、夢の中の光景を思い起こす。
 ふと時計の時刻を見ると、もう9時を回りそうだった。

「い、いけないっ」

 ひとりはわたわたと布団から置き、外出の準備を始めた。
 先ほどまで布団の中で見ていたあたたかな夢を、現実にするために。

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(ま、またこんなお店……)

 下北沢の主要な通りからはやや離れた地区にある、とあるカフェの前。
 隠れ家的と言えば聞こえはいいが、入り口から妙に威圧感があって、STARRYとはまた違った入りにくさを感じさせる半地下の店内へと繋がるドアに手をかけ、ひとりは静かに勇気を振り絞っていた。
 指定されたのは確かにこの店。
 口コミサイトで何度も外観を確認したし、ここで間違いはないはず。
 及び腰になりながらガチャリとドアを押して中に入り、数少ない自慢である視力の良さを活かして、店内を素早く見渡す。
 レンガの内装に囲まれた一番奥の角の席。やや気だるげにスマホに目を落とす横顔を見つけ、ひとりはそそくさと近づいた。

「りょ、リョウ先輩っ」
「……ぼっち。おはよ」
(よかった、このお店で合ってた……)
「荷物、そこ置けるようになってるから」
「あ、はい」

 新曲の歌詞を確認してもらいたいとロインでリョウにメッセージを送ると、店のURLと日時だけが返ってくる。
 その日時にその店に行けば、リョウが先に待っていて、歌詞を見てくれる。
 まだ片手で数えられる程度しか交わしていないが、そんなやりとりがここ最近、ひとりとリョウの間で定着しつつあった。
 リョウが指定してくる店はどれも、ひとりが単独で入るには敷居が高いと感じるようなお洒落な場所ばかり。
 「一人好き」であるリョウと自分との違いを痛感してしまうが、それでもリョウの姿を見つけると安心できる。ひとりは今日も歌詞を書いたノートを抱え、「リョウに会う」というファーストミッションが達成できたことをささやかに喜びながら、リョウの向かいの席に座った。

 小さなメニュースタンドを無言でリョウに手渡され、ひとまず注文を決める。「これにしようかな……」と小さく指を刺すと、リョウは無言で手を挙げて店員を呼び、ひとりが選んだメニューを注文した。

「す、すみません……いつもありがとうございます」
「……歌詞、みせて」
「は、はいっ」

 ひとりはいそいそとノートを取り出し、新曲の歌詞を書いたページを開いてからリョウにおずおずと差し出す。
 リョウは「拝読いたす」と言って受け取り、上から順にゆっくりと眺めていった。

「……」
「……」

 落ち着いた店内BGM、厨房から響いてくる食器の音、数名ほどいる他の客同士の話し声。
 ひとりはそれを聴きながら、背中を丸めてひたすらうつむいていた。リョウは人差し指でノートの文字をつっとなぞりながら、静かに一文字一文字読み込んでいる。

 新曲の歌詞作成という大役を任されるのは嬉しいが、ひとりはこの時間が少々苦手だった。
 自分が考えた文章を読んでもらうというのは、自分をさらけだす行為だ。それも、自分が普段対外的には見せていない、「真の自分」とでもいうべき側面。
 今回の新曲を通して訴えたいこと、表現したいことを思い浮かべ、何日もかけて言葉を選び、悩みに悩んで作り上げた、魂のこもった歌詞。聴く人に届く時には郁代の歌声に乗るため格好もつくが、作曲前のこのリョウに見せる段階では取り繕いようがない。ただの純粋なポエムだ。
 まだ頼んだ飲み物も来ていないため、手のやり場も目のやり場もない。ひとりはぎゅっと目をつむってぷるぷると時間が過ぎるのを待つしかなかった。
 
「……」

 しばらくすると、ノートに手をかけ、リョウがぺらぺらとページを戻した。「そそそ、そっちは下書きというか、失敗作ですよっ」と慌てて弁解すると、「変遷が見たいから」と短く言われ、またもや何もできない時間が訪れる。
 こんなやりとりを通して、結束バンドのオリジナル曲はすでに数曲この世に生まれたが、ひとりはまだこの行為に慣れない。
 リョウはひとりの書く歌詞を気に入ってくれているようだが、曲が出来上がるまではいつも厳しめの目で真剣にチェックしてくれている。
 それはとてもありがたいことだった。しかし他人とのコミュニケーションが絶望的に苦手なひとりにとって、この至近距離で心の内を見つめられるような気恥ずかしさは、きっといつまで経っても慣れる日など来ないのだろう。

(……でも)

 今回だけは、ちょっと違う。
 なんてったって自信作だし、しかも今回は、いつもよりちょっと “特別” なのだ。
 拳をきゅっと握り締め、小さく深呼吸して、ひとりは自分を落ち着かせた。

 しばらくすると、店員の足音が近づいてきて、先ほど頼んだ飲み物がコトリと運ばれた。ひとりは差し伸べられた救いの手に縋るようにそれを受け取り、口をつけるようにして小さく飲んだ。
 これは「何もできない時間」を、飲み物を飲むという「何かしている時間」に変えてくれる、今日という日の生命線。だからうかつに飲み干してはいけない。
 ほっと安堵したような気持ちでカップの中の飲み物をくるくる回していると、リョウがノートではなくこちらを見つめていることに気づいた。
 途端に小さく飛び上がって目を背け、「なっ、なんでしょう」と背筋を立てるひとり。
 リョウはもう一度ノートに目を落としながら、ぽつりと呟いた。


「……なんか、雰囲気変わった」


 その瞬間、冷たいものが胸に突き刺さったような気がした。

(え……)

 表情こそはっきりと変わったわけではないが、リョウの声色は明らかに、ひとりの歌詞に違和感を覚えているようだった。

「こんなのだったっけ、ぼっちって……」
(うそ……)

 視線をノートに向けたまま、頬杖をついてリョウがそう呟く。
 声のボリュームこそ小さかったものの、ひとりの耳にもはっきりとその言葉は届いた。
 とたんに胸がばくばくと脈打つ。
 おなかの奥がきゅっと縮こまるような嫌な緊張が、二人の間に立ち込めていた。

「ぼっちは、今回のこれで満足してる?」
「あっはい、ええと……一生懸命考えたんですけど……」
「……」
「……あ、あはは……だめ、ですかね……」

 口元がひくついてしまい、かけらほどの愛想笑いもできない。
 ひとりはまた背中を丸めてうつむき、カップの波紋に目を落とした。
 だめだった。
 だめだったんだ。
 その事実が、沈黙と共に後頭部に重くのしかかっていくようだった。

 ――今回の歌詞は、リョウのことを意識しながら書いたものだった。
 それが、いつもと違う、今回のものが “特別” な理由。
 
 ひとりがリョウに感じる雰囲気や、リョウが好きそうな言葉。そういったものを追い求めて、濃度を上げたり洗練させてみたりと試行錯誤を重ね、何日もかけてやっとのこと書き上げた一曲。
 本当は一発でリョウに合格をもらう自信があったし、歌詞を見てもらう今日という日が楽しみだった。それだけにショックは大きい。
 数分前まで感じていた自信や期待は、すべて大きな反動となって、ひとりのか細い身体を苛んでいた。

「……っ……」

 だめだ。こんなことじゃだめだ。
 この歌詞は自分のためだけに書いたものじゃない。この歌詞は結束バンドの新たな曲になるのだ。ショックを受けている場合じゃない。
 悪いところがあるなら素直に受け入れて、改善しなければいけない。そうでなければ、結束バンドは前に進めない。
 口をきゅっと結び、歯をくいしばって、ひとりはリョウの方を向き直した。

「リョウ先輩は……やっぱりこういうの嫌いでしたか……?」

 リョウと一瞬だけ目が合う。
 今だけはどんなことを言われても構わない。強くそう覚悟したひとりだったが、返ってきた言葉は意外なものだった。

「……いや、むしろ私はこういうの好きなほうだと思う」
「ほ、ほんとですか……!」
「でも、それが気に入らない」
「っ!」

 ……まるで綺麗なフェイントを決められたようだった。
 一瞬の期待があってから、ツンと突き放すように言われ、ひとりの心は決壊したかのようにみるみる萎れていった。
 好きなのに気に入らないとは、どういうことなのだろう。ひとりは途端にリョウのことがわからなくなってしまった。

「ぼっち、かっこつけてる」
「えっ……すすす、すみません……!」
「違う。かっこつけるのは別にいい」
「……?」
「聴いてくれる人に向けてかっこつけるのは、別にいい。それは表現のひとつだし、大切なこと」

「でもこの歌詞は、聴いてくれる人じゃなくて、私に対してかっこつけてる」
「!」

 諭すような言い方でリョウに核心を突かれ、心の中にひやりと風が吹いた気がした。
 ひとりはやっと、自分の「間違い」に気付いた。

「……今日こうやって私に見せるために、私が気に入るような表現とか、言葉遣いにしてるような気がする」
「そ……そうかもしれません……」
「そういうの、私は嬉しくない。私のためにそんなことしなくていい」
「……」

 そうかもしれないではなく、そうだった。
 “裏目に出る” とは、まさにこんな状態のことを言うのだろう。

「……私に対してかっこつけて、聴く人に届く “何か” が薄まるんだとしたら、そんなの意味ない。魅力を殺してるのと同じ」

 カップを包む両手が小さく震える。
 リョウの目を見ることができない。
 大事な点を見失っていたことに気づかされ、ひとりは小さく唇をかんだ。

 結束バンドに入って初めて歌詞を書き、リョウに見せた日のことが頭をよぎる。
 薄っぺらいとは思いながらも書いてみた応援ソング。リョウはそれを読み、自分が以前組んでいたというバンドの話をしてくれた。
 青くさいけどまっすぐな歌詞。それが好きだったのに、売れるために必死になって変わってしまったこと。
 それが嫌になってバンドを脱退し、バンドそのものが嫌になってしまった時期もあったこと。
 「ぼっちがいい」と思って任せているんだから、自分の好きなように書いてほしいと、そう言われたはずなのに。

「す……すみませんでした……」
「……ごめん、私もちょっと言い過ぎた」
「いえ……でも、すみません……」

 ひとりは申し訳なさでいっぱいで、顔を上げることができない。
 リョウが何よりもメンバーの個性を大事にしていることを、わかっていたはずだったのに。リョウのそんな部分を信じているからこそ、いつも最初に見てもらっているのに。ひとりは根本的な部分を忘れてしまっていた。
 リョウは決して怒っているわけではない。それは確かだった。むしろ目の前で露骨に落ち込んでいるひとりを見て、言い過ぎてしまったと反省してくれている。それだけにひとりは自分が許せなくなる。
 リョウに褒めてもらおうとして、リョウが一番望まないことをしてしまった。
 わざわざ休日に時間を作ってもらっているのに、自分は一体何をしているのだろう。ひとりは無性に泣きたくなった。

「たぶん……方向性は、悪くないと思うから」
「……」
「ぼっちが心から納得のいくように、もう一度直して、また今度見せて。飾り気のないぼっちの歌詞」
「……はい」

 ……終わってしまった。
 今日という日のメインイベントが、もう終わってしまった。
 リョウにすっと差し返されたノートを受け取るも、それをバッグに戻す気力もなく、ひとりは固まってしまう。
 悲しいのか、恥ずかしいのか、情けないのか、自分でも自分の気持ちがわからない。ただうつむいて前髪で顔を隠すことしかできない。

「……」
「……」

 気まずい空気が、二人の間に漂い続ける。
 ひとりはまだ動くことができない。ノートの表紙に視線を落として、ただ黙りこくってしまっている。
 こんなことをしている場合ではない。黙っていても何も解決しない。何より、目の前にいるリョウがきっと困っている。
 自分が今やるべきことは、金縛りにあったようにじっとしていることではない。今すぐにでも家に帰って、リョウに言われたとおりに歌詞を作り直すことだ。いや、家に帰る必要すらない。この場でペンを取り出して書けばいい。自分の書いてきた歌詞が原因でこんな空気になってしまっているんだから、それを直す以外に解決する術はない。
 リョウに付き合ってもらう必要すらない。歌詞は次のバイトかスタ練のときにでも見せればいい。リョウの貴重な休日を、こんな気まずい沈黙で奪っている場合ではない。
 そう心ではわかっているのに、手にも足にも力が入らなくて動かない。どく、どくと自分の鼓動を感じるたびに、焦燥感が募っていく。

 そのとき、厨房の方でぱりんとグラスが割れる音がした。
 続いて、「失礼しましたー」という女性店員の声が聞こえてくる。
 ひとりはそのおかげで、反射的に顔をあげることができた。
 そして気づく。リョウがさっきからずっと、自分の方を見つめ続けていたことに。

「えっ、あっ……りょ、リョウ先輩……?」
「……」
「あっあの……」

 リョウはこちらを見ているが、ひとりは目を合わせることができない。
 心配そうな目で見られてしまっているのがいたたまれなくて、身を乗り出すようにして必死に声を出した。

「すっ、すみません、私……今すぐに書き直しますっ!」
「え……今?」
「は、はい……えと、だからその……たぶん時間がかかってしまうと思うので……」
「……」
「リョウ先輩はもう……帰っていただいて、だいじょぶ……です……」

 なんとかその言葉をしぼりだすことはできたが、最後の方はほとんど声がかすれてしまっていた。
 言っていて、どんどん悲しく、むなしくなってきてしまった。
 自分から呼び出しておいて、こんなことを言ってしまうのは本当に申し訳ないけれど。
 こんな私なんかのために、時間を使ってくれなくて大丈夫です。
 先輩の期待を裏切るような私なんかに気を遣って、一緒にいてくれなくても大丈夫です。

 ひとりは震える手でバッグの中からペンケースを取り出し、おそるおそるペンを手にとる。
 ノートを開き、「失敗作」のページから目を背けるようにして、おぼつかない手で次の新しいページを開き、ペン先を向ける。
 そのとき、ぱたっと、ノートに一滴の雫がこぼれた。

(え……?)

 ノートに落ちたのが自分の涙であることに気付くまで、数秒ほど要した。
 いつの間にか、ひとりは泣いていた。
 落ちた雫が紙を濡らし、裏に書かれていた文字のインクを浮かび上がらせている。あわてて手でその雫を払うと、水滴の跡が伸びて、余計に紙が濡れてしまった。

 「……ぼっち」
 「……」

 リョウが、ペンを持つひとりの手に自分の手を重ねる。
 ひとりが顔を上げると、リョウはなんとも言えない目でこちらを見ていた。
 そんな状態で良いものが書けるわけがない。今日はもう終わりにしようと、そんなことを言いたげに感じて、ひとりはまた涙が溢れそうになった。
 本当に、何をしているんだろう。
 自分がリョウにいいところを見せようとして、格好つけて、こんなことになっているのに。

「……すみません……先輩」
「……いいよ」

 リョウの手は、温かかった。
 その声色も、優しかった。
 それがまた、ひとりの目にじわじわと雫を溜めていく。
 もっと、突き放してくれていいのに。
 こんな無駄な時間には付き合っていられないと、帰ってくれていいのに。
 ぽた、ぽたりと、ノートに雫が追加されていく。

「……出よう」
「え……」
「とりあえず、この店出よ。それ飲んじゃって」

 リョウはおもむろにすくっと席を立ち、壁にかけていたコートを手に取った。
 ひとりは言われるがままにカップの飲み物を手に取り、口をつける。
 いつの間にかぬるくなってしまっていた飲み物は、涙で失った水分を取り戻すかのように、すんなりとひとりの身体に染みわたっていった。
 ほのかな甘い香りが、荒んだ心を少しだけ落ち着かせる。ふと振り返ると、リョウはレジの方に行き、先に会計を済ませているようだった。その後ろ姿を見ながら、ひとりはくっくっと飲み物を一気に飲んでしまう。

「飲めた?」
「あっ、はい」
「行こ」
「あっ、私のぶんのお会計がまだ……」
「今払った」
「……えっ」

 リョウはひとりの手をとって、ゆっくりと店を出た。
 奢ってくれるなんて珍しい。リョウと一緒に店にいくときは自分が奢ることが多いから、いつも少し多めに持ち歩いているのに。
 ありがとうございました、という店員の声を背に店を出る。とても雰囲気のいい店だとは思ったが、悲惨な思い出ができてしまったし、もう二度と来ることはないかもしれない。

 外に出て、半地下の場所から地上へと出ると、空模様はどんよりと曇っていた。
 おまけに風が強くて寒い。リョウのコートがぱたぱたとはためいている。
 これからどうしよう。言われるがままに店を出たひとりだったが、この先のプランはまったく考えていなかった。
 やはり今日のところは解散し、大人しく家に帰って一旦落ち着いてから歌詞を書き直すべきだろう。
 先ほどまでは身体が動いてくれなかったが、今ならすんなりと駅の方に戻れる気がする。
 これ以上リョウの時間を奪うのは申し訳ない。そう思って、ひとりは繋がれたままの手をゆっくりほどいた。

「あの……ありがとうございました」
「……」
「それと……本当にごめんなさい。帰ったらすぐに、か、書き直します……」
「……ぼっち」

 リョウは最後に何か言いたげにしていたが、これ以上余計な気を遣わせたくなくて、ひとりは逃げるようにその場をふらふらと立ち去った。
 ここ最近の寝不足が一気に押し寄せてきたかのような疲労感に包まれ、足がもつれそうになる。足取りはおぼつかなかったが、今は一刻も早くこの町を出たくて、ひとりは無心で駅を目指した。

 中途半端な時間の、いつもより人が少ない駅のホームで電車を待っているとき、スマホが小さく震えた。
 リョウからのロインが届いたようで、「今日はごめん」という短文が通知画面に浮かんでいた。
 謝らなきゃいけないのはこっちなのに。なんて返せばいいかわからない。画面に目を落としたまま固まっていると、またスマホが通知を受け取った。

[また明日]

 やっと止まってくれたと思っていた涙が、また目尻にこみあげてきて、つうと頬を伝った。
 ホームに吹き込む風が涙の跡にあたって、より冷たさを感じさせる。
 ひとりは静かに涙を落としながら、心の中でリョウに謝り続けた。



「……っと……ねぇ……」
「……」
「ちょっと! リョウってば!」
「……え?」
「はぁ、だめだこりゃ」
「今日のところは解散ですかね~……」

 虹夏に肩を揺さぶられるまで、声をかけられていることに気付かなかった。
 いつもどおりの時間、いつもどおりの場所で始まった、結束バンドのスタジオ練習。まだ始まったばかりだったが、今日は早くもお開きになってしまいそうだ。
 原因は、リョウの演奏に身が入っていないこと……というか、上の空すぎてコミュニケーションすらまともにとれないこと。
 そして、ひとりが来ていないこと。

「ねえ、ぼっちちゃんと何かあったの?」
「……別に」
「ほんとに何もなかった人はそんな意味ありげに『別に』なんて言わないから!」
「ま、まあ伊地知先輩落ち着いて……!」
「リョウに聞いてもだめだ~……喜多ちゃんは何か聞いたりしてない?」
「私も何があったか全然知らなくて……ひとりちゃんが学校休んでたのに気づいたのも登校してしばらくしてからでしたし、メッセージ送っても既読すらつかなくて……」
「私も同じだよ~……試しに電話もかけてみたんだけど、電源切ってるみたいでさ」
「ちょっと心配ですね……」

 「また明日」というメッセージを送って別れてからというものの、リョウもひとりのことが妙に頭から離れなかった。
 歌詞のチェック作業自体は今までも何回かこなしてきたはずなのに、昨日のひとりは明らかに今までと様子が違った。
 違うのは様子だけではない。何よりも書いてきた歌詞の雰囲気が突然変わったのだ。
 虹夏や郁代だったらここまでの違和感を覚えていないかもしれない。数々の失敗作も含めて、今まで何度もひとりの考えてきた歌詞を読んできたリョウだからこそ感じてしまうものなのかもしれない。

 ひとりが今回作ってきた歌詞は、自分でもびっくりするくらい、心に刺さるものだった。
 時に激しくて、時に優しくて、痛いほどに透き通っていて、どうしようもなく綺麗で。
 言葉選びも表現も、声に出して嚙み締めたくなるくらい印象的で。
 こんな歌詞が本当に、目の前のひとりの頭の中から出てきたのかと疑ってしまうくらい。こんな歌詞を思いつけるなんて羨ましいと、ついついそう思ってしまうくらい。
 だがそんな感動と同時に、「ひとりらしさ」が消えてしまっているのではないかと、もう一人の自分が心の奥で警鐘を鳴らしていた。
 カップの飲み物をくるくると回しながら、どこか満足そうに微笑む目の前のひとりを見て、嫌な予感がしてしまった。
 ひとりは、「私のため」にこの歌詞を書いてしまったのではないかと。
 「自分らしさ」よりも「私のため」を優先し、目の下にクマを作りながら、片道2時間もかけてここまで来たのではないかと。
 もしそうだとしたら、「それは違う」と言わなければいけない気がした。
 毎度毎度、私に歌詞を見せるためだけに来てくれる以上、言ってあげることが自分の責務なのではないかと、そう思った。
 ……けれど。

(ぼっち……どうして……)

 あんなに落ち込ませる気はなかった。まさか泣くとは思わなかった。
 リョウはひとりの「強さ」を知っている。失敗にへこむことはあっても、いつか必ず立ち直ることを知っている。結束バンドのメンバーにさえ見えないところで時間をかけて努力して、最後には必ずいいものを作ってきてくれることを知っている。
 だから、自分が思うことを素直に話しても、「ぼっちなら大丈夫だろう」と思った。
 しかし、ノートにぱたたと涙の粒が落ちたのを見たとき、それは間違っていたのかもしれないと気づかされた。
 それからは自分も動揺してしまって、上手くフォローしてあげることもできなかった。
 ひとりをこのまま家に帰してはいけないのではないかと懸念したが、気分転換できるような場所も思いつかず、そのままするりと手を放してしまった。
 歌詞にダメ出ししたくせに、気の利いた言葉のひとつも思い浮かばなくて、「また明日」としか送れなかった自分に嫌気が差した。
 
 その後は家に戻ってひとりが書いてきた歌詞を思い出しながら試しに作曲してみたが、ひとりの泣き顔が目に焼き付いてしまって離れなくて、ピンとくるものはワンフレーズもできず。
 結局昨日は何をやってもうまくいかなくて、自己嫌悪しながらふて寝して、気づいたら朝になっていた。

 もしかしたら、今後の関係性にヒビが入るくらいのことだったんじゃないかという不安と、「ぼっちは強いから、きっと大丈夫」という身勝手な信頼感の狭間で揺れ動きながら、学校での時間を過ごし。
 そうして放課後スタジオに来た時、郁代からひとりが学校に来なかったことを聞かされ、リョウは激しく動揺した。

「あーもーわかった。何があったかは言わなくていいから、これだけは教えて。リョウは昨日ぼっちちゃんと会ったの?」
「……会った」
「やっぱりか……じゃあリョウ絡みなんだね、ぼっちちゃんが休んだの」
「新曲づくりで何かあったんですかね……まさか、喧嘩でもしちゃったんですか?」
「うーん、でもぼっちちゃんが誰かと喧嘩になるような姿って想像できないんだよな~。リョウが相手だとしても」
「ですね~、喧嘩に到達する前にしゅわしゅわ溶けちゃいそうですし」

 昨日のあれは、喧嘩ではないと思う。
 けれどリョウは、自分がひとりを傷つけてしまったのだという悔いに囚われていた。
 もっと考えて発言すべきだった。もっとちゃんとフォローしてあげるべきだった。
 何よりも、まずはひとりが一生懸命考えてきた歌詞を、もっと褒めてあげるべきだった。
 ひとりに言いたいことがたくさんあるのに、今ここにひとりはいなくて、メッセージを送ってもきっと読んでもらえなくて。
 不安や後悔がぐるぐると頭の中を駆け巡り、フレットを抑える手の握力すら失われていく。
 そんなとき、虹夏が腕組みを解いて背伸びしながら呟いた。

「んー、こうなったら行ってみる? ぼっちちゃん家」 
「え、今からですか?」
「だって心配じゃん……リョウもそうだけど私も落ち着かなくてさ」

 まだスタジオに入ってほとんど経っていないため、確かに時間はある。
 金沢八景にあるというひとりの家まで、片道約2時間。
 虹夏も居ても立っても居られないらしく、早々に荷物をまとめはじめていた。

「様子見に行って、大したことないならないで安心できるでしょ?」
「そうですね……結束バンドの一大事かもしれないですもんね! 今からならギリギリ行って帰ってこれると思いますし、私も親に連絡して……」
「ま、待って」

 気づけば、リョウは虹夏と郁代の肩を掴んでいた。

「……私が行く」
「リョウ……」
「私が行かなきゃ、ダメだと思う……虹夏たちは、待ってて」
「でも先輩とひとりちゃんの間に何かあったのなら、ここは私たちが行った方が……」
「大丈夫、私だけでいい」

 珍しく強く主張するリョウを見て、虹夏も何かを察したようだった。
 こういうときは決まって面倒くさがり、理由をつけて着いてこようとしないリョウが、真剣な目で「一人で行く」と訴えている。
 虹夏は荷物をしまう手をとめ、リョウの方に向き直り、その手を握った。

「……じゃあ、行ってきて」
「!」
「何があったか知らないけどさ……ばしっと解決してきなよ。後悔してるんでしょ?」

 まるで親のような優しい目。その一方で、虹夏が手を握る力は思いのほかしっかりと力がこもっていた。
 「お願いね」と言われているような気がして、リョウはハッとなった。

「ほら、行ってこい!」
「う」

 虹夏にぺしっと背中を叩かれ、その勢いのままに荷物を拾いつつリョウはスタジオを飛び出した。
 そのうしろ姿を、郁代が不安気に見つめる。

「だ、大丈夫でしょうか……」
「まあ今回のは二人の問題みたいだしねー……私たちが余計なことするより、当人同士で話し合わせた方がいいでしょ」

 虹夏も郁代も、どちらかというと音信不通のひとりより、リョウの動揺ぶりの方に驚かされていた。
 特に虹夏は、長い付き合いのリョウがこんな状態になっているのをほとんど見たことがなくて、何があったのかはわからないが、とにかくただならぬことが起きているのだろうということだけは察していた。
 けれど同時に、二人は絶対大丈夫だという確信もどこかにあった。

「リョウとぼっちちゃん、ああ見えて感覚近いというか、息合ってるし。きっと仲良くなって戻ってくるよ!」
「……そうですね。先輩も心ここにあらずでしたけど、最後はなんだか頼もしく見えましたし。今は二人を信じましょう!」

 郁代がそう言ったところで、スマホが鳴った。
 見ると、リョウからのメッセージが。

[ぼっちの家どこにあるか教えて]

「……だ、大丈夫なんですよね……? 信じていいんですよね!?」
「う、うん……」

 片道2時間というのは少し盛っているのではないかと思っていたが、あながち間違いでもなかったようだ。
 初めて乗る電車、初めて降りる駅。郁代から送られてきた座標情報をもとに地図アプリとにらめっこしながら、リョウは初めて降り立つ金沢八景の地をウロウロとさまよっていた。
 中途半端に電車を乗り継がなければいけなくて、帰宅ラッシュに重なったせいでその間まともに座席に座ることもできず、目的の駅に到着するまでにかなりの体力を奪われてしまったリョウ。
 しかも駅からまたそこそこの距離を歩くようで、こんな距離を毎日往復して学校まで通っているなんて、とてもではないが信じられなかった。自分なら将来のアテなど決めないうちに中退を選んでしまいそうだ。
 だが、昨日もひとりはこれと同じ時間をかけて、歌詞を見せるほんの数十分のためだけに、自分が気まぐれに指定した下北沢のカフェまで来てくれたのだ。そう考えると、こんなことで根をあげている場合ではないと思えてくる。

「あ……」

 郁代から教えてもらった座標の家が、目の前に迫ってきた。
 見た目にはごく普通の家。表札にはきちんと「後藤」と書かれている。
 深く呼吸して上がっていた息をととのえ、インターホンを押そうとしたが、少し躊躇してしまった。
 ほとんど勢いでここまで来てしまったが、ひとりに何を話せばいいか、まったくまとまってない。
 というか知らない人の家のインターホンを押すという経験に乏しすぎて、勝手に手が震えてくる。事前に連絡とかせずにいきなり訪問していいのだろうか。けれどひとりに電話をしても電源は切れているらしいし、連絡をとることはできない。まずはインターホン越しに挨拶し、ここまできた事情を説明しなければいけない。片道2時間もかけて来て、最後の最後に待ち構えていた関門を前に、リョウの帰りたさゲージは急激に上昇していった。
 しかし、ひとりのことを思えば……虹夏と郁代のことを思えば、こんなところで帰るわけにはいかない。
 及び腰になりながらおそるおそる手を伸ばして、リョウはインターホンを押した。

[はーい]
「あっ、あの……山田と言います」
[えっ?]
「えーと、ぼっち……じゃなくて、ひとり……さんの、その、友達……と言いますか」
[あっ、あーあー! ひとりちゃんのバンドの! ちょっと待っててくださいね、すぐ行きますからっ]

 ぷつりとインターホンが切れる。
 リョウは自己紹介すらまともにできない自分の情けなさに打ちのめされていたが、とりあえず逃げずにインターホンを押せただけで上出来だと強引に自分を納得させた。
 応じてくれたのはひとりの母親のようで、家の中からぱたぱたと音がしたのち、がちゃっと玄関を開けて迎えてくれた。

「まぁまぁいらっしゃい! こんなところまで来てくださってありがとうございます~。さ、どうぞ上がって♪」
「お、お邪魔します……」

 玄関に上がらせてもらうと、奥の方からひとりの父親、妹、そして犬までもが爪音をカチカチさせながらやってきた。
 途端にリョウが苦手とするアットホームな雰囲気に包まれてしまう。

「わっ、本当におねえちゃんのバンドの人だー! えーっと確かー……」
「ベース弾いてた子だよね。遠いところをわざわざありがとう」
「あー、べーすってあの “じみ” なやつだ!」
「ぐっ」
「こらこらふたり、ベースはバンドに欠かせない重要な楽器なんだぞ?」
「ワン!」

 このちびっこには確か前にも同じようなことを言われ、ヘッドホンを装着して洗脳工作を図ろうとしたことがあったような気がする。どうやら効果は出ていなかったようだ。

「あの~、ところで今日は……ひとりちゃんと遊ぶお約束でも?」
「あ、いえ……約束はしてなくて」
「あらあら、そうだったの」
「ぼっ……ひとりが、今日学校を休んだって聞いて、それで……」
「まぁまぁ、心配して来てくださったのね。でも実は風邪とかじゃなくてね、ちょっと今日はどうしても行けないって言ってて~……」
「大丈夫です。事情はわかってます」

 リョウはそう言って、後藤家の面々の間をかき分け、ひとりの部屋へと向かって歩き出した。
 すぐに「あ、そっちはリビングだよ」と後藤父に訂正され、階段を上るよう案内される。

「ひとり、ここ最近作詞の作業に集中してるみたいでね、ご飯もロクに食べてくれなくて……」
「……」
「やっと出来上がったって昨日家を飛び出していったはずなんだけど、またすぐに戻ってきて、閉じこもっちゃって……でもお友達が来てくれたなら、元気出ると思うんだ」
「は、はい」

 和室の前に案内され、後藤父たちは空気を察してくれたのか、すぐに下へ降りて行った。
 ――とうとうここまで来ることができた。
 
(この奥に、ぼっちがいる……)

 リョウは一息つき、意を決してふすまをぽすぽすとノックした。




 そんなわけない。
 そんなはずない。
 こんな平日のこんな夜遅くに、こんな遠くの家まで、片道2時間もかけて来るわけない。
 しかも虹夏でも郁代でもなく、リョウがこの家に来るなんて。
 そんなこと、絶対にあるわけない。
 だが、部屋の真ん中で布団をかぶって震えていたひとりの背後で、ふすまがぽすぽすとノックされた。

「……ぼっち?」

 どきんと胸が縮み上がる。
 それはまぎれもなくリョウの声だった。
 階下からわいわい聞こえてきた家族の喧騒の中にリョウと思しき人の声が混じっていたことに驚愕し、最後まで自分の耳を疑っていたが、この声は本物だ。
 今、ふすまの前にはリョウがいる。
 本当に、本当に来たのか。
 頭まですっぽり覆っていた毛布をばさっと脱ぎ捨て、ゆっくりと後ろを振り向く。
 すーっと開いた戸の奥、暗い部屋から見える明るい廊下の中に立っていたのは、やや頬を上気させた、制服姿のリョウだった。

「りょ、リョウ先輩……っ」
「ぼっち……!」
「きゃっ」

 リョウはふすまを閉めるのも忘れてひとりの背中に抱き着き、ひとりはその勢いに押されてこてんと布団に倒れた。
 あわてて体を起こそうとするひとりだったが、リョウがさらにしがみつくように腕を回してくるせいで起きられず、結果として布団の上でもちゃもちゃと抱き合うような形になってしまい、ひとりはとにかく恥ずかしくて、観念して大人しくするしかなかった。
 もうどこにも逃げ場なんてないのに、まだどこかに逃げてしまうと思っているのか、リョウはひとりを抱きしめる腕をなかなかほどかなかった。その呼吸は少し荒い。きっとここまで、この家だけを目指して一生懸命歩いてきたのだろう。リョウがそんなことをするなんていまだに少し信じられなかったが、心の器にじわじわと温かいものが流れ込んでくるようなありがたさを、ひとりは感じていた。

 やがて体力が回復してきたのか、リョウがやっとこさ身体を起こし、ひとりも同じようにして布団に座り直す。薄暗い部屋の中ではあったが、ひとりは久しぶりにリョウの顔を間近でちゃんと見たような気がした。
 そのとき、リョウの手が、布団のそばに落ちていた何かにかさりと当たった。

「これ……」
「あ、はい……ノートです」
「……書いてたの? ずっと」
「は、はい……」

 昨日ひとりがリョウに見せた歌詞ノート。
 今の二人にとって、ある意味すべての元凶とも言えるノート。
 ひとりは昨日リョウと別れてからずっと、この薄暗い部屋の中で歌詞を考え、ノートと向き合っていた。

「で、でも……ごめんなさい」
「……」
「あの……歌詞、まだ全然……できてない、というか……な、直ってないんです……」
「ぼっち……」
「せ、せっかく来ていただいたのに……ほんと、すみません……」

 ひとりはまた昨日のように頭を垂れ、弱々しくリョウに謝る。
 リョウはノートを布団の上に置いたまま、しゅらしゅらとページをめくった。
 だが、後の方に進むにつれてどんどんページがめくりづらくなってくる。
 ノートを手に取って、一番最後のページをぺりっと開いたとき、リョウは驚愕した。

「っ……!!」

 そこに書いてあったものは、昨日カフェで見せてもらったものと同じもの。
 書いては消してを繰り返し、ところどころが黒ずんでしまっているページ。
 何よりもそのページは、いくつもの涙を染みこませ、波打つようにふやけてしまっていた。
 昨日カフェでぱたたと落とした涙だけでは、こんなことにはならない。
 ひとりは……このページを前に、ずっと泣いていた。

「す、すみません……ほんと、一文字も……直ってないんです……」
「……」
「何度も消して、違う言葉に変えようとしたりしたんですけど……やっぱり、今のままの方がよかった気がして……変えられなくて……」
「……いい」
「えっ」
「直さなくて、いい……」

 かさかさのページを撫でつけながら、リョウはそっと呟いた。
 そのときひとりは、廊下から差し込む光を取り込んで小さく光った何かが、リョウの手元にぱたりと落ちたのを見た気がした。

「リョウ先輩……」
「っ……」

 ひとりは思わずリョウの手を取る。
 華奢で繊細な手。すべすべで、自分よりも少しだけ冷たい手。
 その手を温めるように包み、緊張する心と向き合い、ぽつぽつと言葉を紡ぐように話した。

「――こ、この歌詞は……昨日言われたとおり、先輩のことを意識しながら書いたものです……」

 リョウ先輩の雰囲気から浮かぶ言葉。
 リョウ先輩に似合うような言葉。リョウ先輩が好きそうな言葉。
 私がリョウ先輩に想っているいろんな気持ちを、一生懸命詰め込みました。

「でも、先輩に言われて……先輩のことを意識しすぎちゃって、聴く人のことを考えてなかったって気づかされて……本当にそうだと思って、反省しました」

 帰りの電車の中で痛感し、すぐにでも家に帰って直さなきゃと思いました。
 でも家に戻ってノートを広げて、いつもどおりに歌詞を考えてみても、全然いいものが思い浮かばないんです。
 スマホの電源も切って、布団をかぶって何もかもを遮断して、自分だけの世界に入ってみても、だめなんです。
 もう先輩のことは意識しちゃだめだ、って思いながら考えた言葉が……全然いいと思えないんです。

「先輩……今回の曲……」
「……」
「リョウ先輩のことを意識しながら書いた、っていうのは……そういうテーマを決めたわけでも、ふざけてやったわけでもないんです」

 ――私が、書きたいから書いたんです。
 先輩が好きそうなものとか、先輩がいいと思ってくれそうなもの。
 そういうのは全部、私にとってもいいものなんです。
 先輩が気に入ってくれそうな言葉を考えるのは、すごく楽しいんです。
 先輩に褒めてもらいたくて、先輩に気に入ってもらいたくて、先輩の笑顔を見られたらって思うと、私はどこまでも一生懸命になれたんです。

「聞いてくれるたくさんの人のことなんて……正直、どうでもよかったんです……」

 リョウ先輩にさえ見せられれば、それでいい。
 リョウ先輩にさえ刺されば、それだけでいい。
 ――これが今の私の、飾り気のない、本当の想いなんです。

「ごめんなさい……ごめんなさい、リョウ先輩……っ」
「……」

 ひとりはリョウの腕をぎゅっとつかみ、ぽろぽろと涙をこぼしながら謝り続けた。
 その小さな頭を抱き寄せ、リョウも肩を震わせる。
 
 リョウには、ずっと信じられないことがあった。
 ひとりがそこまで自分のことを想ってくれるなんて。
 自分のために歌詞を書いてくれることがあるなんて、信じられなかった。
 けれど、胸の中に飛び込んできてくれるひとりの温かさが、ぎゅっと握った手の温かさが、自分の勘違いをじわじわと壊していった。

 「ひとりらしさ」が消えているなんてとんでもない。
 今回の歌詞は、どこまでも「ひとりらしさ」を突き詰めて生み出したものだったのだ。
 たった一人の人間にさえ刺さればいいと思いながら、極限まで想いを詰め込んだ歌詞。
 確かにしっかりと心に刺さっていたのに。
 目を背けてしまっていたのは、自分の方だった。

「私……この歌詞がいいんです……」
「ぼっち……っ」
「この歌詞じゃなきゃ……嫌なんです……っ」

 “自信作のページ” に何度も染みこんだ涙は、ひとりの想いの強さを表していた。
 ――直したくない。これがいい。
 先輩のことを意識しないなんて、そんなのできるわけがない。
 自分の気持ちに嘘をついても、本気で感情をぶつけて作ったものに勝てるわけがない。
 「リョウに褒めてもらいたかったページ」と向き合いながら、ひとりはずっと苦悩していた。

 リョウはひとりの頬に手を寄せ、親指の腹で涙を拭いながら、ひとりに謝罪した。
 今までずっとひとりの作る歌詞を見てきて、ひとりのことをわかったつもりになっていたこと。
 そんな時間を通して、結束バンドとして一緒に過ごす日々を通して、少しずつひとりの中で変わっていったことがあったのに、気づいてあげられなかったこと。
 ひとりの中にいつの間にか「自分」が入り込んでいて、ひとりは一生懸命想いを伝えてくれていたのに、それを信じてあげられなかったこと。
 本当は心の奥底まで深く刺さっていたのに、ひとりの歌詞をすぐに褒めてあげられなかったこと。
 リョウは自分の想いを言葉にして話すのは苦手だった。それはひとりも同じだった。けれどひとりはいつも、自分に対してだけは無防備な心をさらけ出し、心の思うままに歌詞を書いて、見せに来てくれた。
 だから、今度はこっちが伝える番。
 たどたどしくなっても、嗚咽に負けてしまっても、ちゃんと伝えなきゃ。

 廊下の明かりもいつの間にか消され、月明かりだけが射し込む薄暗い部屋で、二人は泣きながら想いを交わし合った。
 手を重ねて、心を重ねて、気持ちを擦り合わせて、ひとつになって。
 布団にぽすんと倒れ込んで、それでも相手を離したくなくて、そのままずっと一緒にいた。
 窓の向こうに広がる夜空。そこに浮かぶ小さな星を二人で見ながら、いろんなことを話した。
 
「ぼっち……私、ずっと思ってることがあった」

 ぼっちがこうやって歌詞を私に見せてくれるのは嬉しいけど、
 私が良し悪しを判断して直させたりしたら、それは「ぼっちの歌詞」じゃなくなっちゃうんじゃないかって。
 でも、ぼっちの歌詞はいつも、ぼっちのひとりよがりでは書かれてない。
 メロディなんてつける前から、「結束バンドのために」っていう思いが、ちゃんと感じられる。
 だから私も、私の好みどうこうじゃなくて、結束バンドのためになればって思いながら、チェックさせてもらってる。
 ぼっちと私が目指してるのは、一緒なんだよ。
 私が言う意見は、全部正解じゃない。だから私の意見に対してぼっちが思うことがあったら、今日みたいにどんどん言ってほしい。
 そうやって、これからも一緒に頑張っていけたらなって、思ってる。

「虹夏と郁代をびっくりさせるくらいいい曲……作っていこ」
「……」

 会話の途中から、ひとりは寝てしまったようだったが、それでもリョウは最後まで話した。
 ひとりだけでなく、自分にも言い聞かせるように。ひとりの気持ちからも、自分の気持ちからも逃げないように。
 そして、寝たフリをしていたひとりも、疲れ切って眠ってしまったリョウの手をとり、感謝の気持ちを送り続けた。
 やっぱり、リョウは優しい人だ。

――――――
――――
――

 片道2時間の通学路。
 当然、その所要時間に対応できる程度には、後藤ひとりの朝は早い。 
 そして、通学というものに対してそこまで時間をかける感覚がすでに信じられないリョウは、後藤家の生活リズムに合わせられない朝を迎えていた。
 
「りょ、リョウ先輩、学校送れちゃいますよ……!」
「ううん……」
「わー、おねえちゃんが誰かを学校行かせようとしてるの初めて見た~。いつもは自分が行きたくないって言ってるのにね!」
「ふたり!」
「あはは、怒られた~♪」

 ぼさぼさの髪を梳かし、顔を洗って泣きはらした目を戻し、ギリギリの時間に家を出発して、二人はなんとか電車に乗ることができた。
 通勤通学の人が多い時間帯ではあるが、それでも座席の空いている車両を見つけ、リョウと並んで一緒に座ったひとり。
 自分の家から誰かと一緒に学校に行ける日が来るなんて思ってなくて、しかもそれがリョウであることが嬉しくて、休み明けの学校に行くのは憂鬱なはずなのに、どこか晴れやかな気持ちだった。

「あっ、そうだ……」
「……?」

 ひとりはバッグをごそごそと探り、ノートを取り出してリョウに渡した。
 最初に見せたときのショックを吹き飛ばすくらい、昨日の夜、何回も何回もリョウに褒めてもらった歌詞ノート。

「い、インクがいっぱい滲んじゃってたので……さっき起きてすぐ、一応清書し直したんです」
「……ありがと。でも、もうほとんど覚えてる」
「え……」
「初めて読んだ時から、好きだったから」
「っ……」

 ひとりは赤くなった顔を見られないようにノートに顔を落とし、そしてそれをリョウの膝の上にすっと乗せた。

「こ、今度は……リョウ先輩の番、ですよね」
「……うん」
「先輩なら……絶対に良い曲をつけてくれるって、思ってます……」

 ところどころページがふやけて、小口がわやわやと波打ち、少しだけ分厚くなってしまっているノート。
 リョウはそれを両手で受け取り、自分のバッグにしまう前に、思い出したかのように呟いた。

「そういえば……ぼっちはいいの?」
「えっ?」
「この歌詞……虹夏と郁代にもあとで見せることになるんだけど」
「……」
「ていうか私が曲つけたら、今後何回も郁代に歌ってもらうことになるんだけど」

 初めて聴く人はともかく、ほとんどラブレターのような歌詞になっていることに、虹夏あたりは確実に気づくはず。
 その可能性を指摘され、まったくもってそんなことを考えていなかったひとりは、みるみるうちに顔を赤くさせた。

「だっ……だ、だだだだめですね! やっぱりダメですね!」
「えっ」
「すっすみません、今になってやっぱり直したくなってきました! 返してください!」
「えー……昨日あんなに直したくないって泣いてたのに」
「だ、だって~……!!」

 リョウはひとりを無視して自分のバッグにノートをしまい、ひとりにせっつかれた。
 何度も歌詞を心に刻んで、本当はもういろんなフレーズが浮かんでいたし、今すぐにでも家に帰って録音がしたいところだった。
 けれど虹夏も心配しているだろうし、今日くらいは真面目に学校に向かうことにしよう。ひとりの隣で静かに目を閉じる。

 この歌詞に合う曲が、私にはきっと作れる。私にはきっとやれる。
 ひとりの想いを感じていれば、いくらでもいいアイデアが浮かんでくる気がするんだ。
 リョウは自信ありげな笑みを浮かべ、ひとりの方に体重を預けるように、少しだけこてんと身体を寄せた。
 右肩に乗せられたリョウの頭の重みが愛しくて、ひとりの顔にも思わず笑みがこぼれた。

 眩しい朝焼けが二人の背中の窓から差し込み、東京へと向かう電車内を、きらきらと染め上げていた。
 

~fin~

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