藤原肇「千夜さん、一緒に釣りに行きませんか?」 (80)

~事務所~

藤原肇「今日もレッスン、お疲れ様でした」

白雪千夜「こちらこそ、肇さん」

肇「明日は千夜さん、久々にオフですね。私もですけど」

千夜「えぇ。まったく、アイツも人使いの荒い……」

肇「ふふっ」


肇「千夜さんは、お休みの日は何をされているんですか?」


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千夜「そうですね……
   黒埼家の屋敷に住んでいた時は、掃除をしていました」

肇「お屋敷の……掃除、ですか」


千夜「好き、というわけではありません。むしろ苦手です」

千夜「まとまった時間が取れないと、細かい所まで行き届いた掃除ができなくて……
   だから、そういう作業に充てていました」

肇「あぁ~……掃除って、確かにそういうところ、ありますよね」

千夜「はい」


千夜「ですが、アイドルになり、屋敷を出て寮に住むようになってからは、
   そんな事も無くなりました」

千夜「寮の部屋は、屋敷ほど大きくないですし、
   何より、私のための部屋に時間を割く必要もありませんから」

肇「……そうですか」

千夜「えぇ。だから、そうですね……
   休日だからといって、最近はあまり、コレといったことはしていません」

肇「それじゃあ、千夜さん」

肇「一緒に釣りに行きませんか?」

千夜「? ……釣り、ですか」

肇「はい、私と」

肇「ちょうど、行こうと思っていた場所があるんです。
  道具は私が用意しますので、もし千夜さんさえ良かったら、明日どうかなぁって」


千夜「肇さんは、釣りが好きなのですね」

肇「はい! 好きです!」カッ!

千夜「!?」ビクッ

肇「実は……その話題をいつ切り出そうか、機を伺っていました」

肇「芳乃さんとは、何度かお付き合いいただいた事はあって……
  ぜひ千夜さんにも、釣りの楽しさを分かってもらえると良いなぁと」

千夜「……なるほど」

千夜「お断りする理由は、無いかと思います」

肇「! そうですか」パァッ

千夜「ですが、念のためお嬢さまのご了解を取りたいので、少々お待ちを」つ スマホ

黒埼ちとせ「いいなぁ、楽しそう♪」にゅっ

肇「うわっ!? ち、ちとせさん……」ビクッ


千夜「お嬢さま、今のお話を聞いておられたのですか」

ちとせ「うん。肇ちゃん、ぜひ千夜ちゃんを連れて行ってあげて?」

肇「いいんですか?」

ちとせ「千夜ちゃんだって、もう私に聞かなくてもいいのに」

千夜「そうは仰いましても……」


P「んー? 何の話をしてるんだ?」ヌッ

ちとせ「あ、魔法使いさんだー♪」フリフリ

千夜「肇さんが、私を釣りに連れて行ってくださると」

P「へぇー、釣りか。
  それは楽しそうだな、どこに行くんだ、肇?」

肇「秋川の、上流の方まで行ってみようと思います」


P「秋川の上流って……ひょっとして檜原村とかか?」

肇「はい」

ちとせ「どこ、それ?」

P「都内とはいえ、西多摩の奥の方だ。
  結構な距離があるぞ。片道2時間近くかかるんじゃないか?」

肇「電車とバスを乗り継いで、2時間ちょっとです。
  なるべく早起きして、暗くなる前に帰れればいいかなぁって」

P「ストイックな行程だな……」

ちとせ「千夜ちゃん、早起き苦手だもんね。大丈夫?」

千夜「問題ありませんよ」


P「お、そうだ、肇。
  俺とちとせは、明日の午前中、八王子で仕事があるんだ」

肇「え?」

P「こっちの仕事が終わった後、車で迎えに行くよ。
  少し遅くなるかも知れないけど、皆で一緒に飯でも食いながら帰ろう」

P「あの辺のバスなんて、そう都合の良い時間に何本も通ってないだろうから、帰るとき大変だろ?」

千夜「珍しく気が利きますね、お前」

P「もっと言え」

肇「ありがとうございます、Pさん。
  それじゃあ、お言葉に甘えて」

P「あぁ、着きそうになったら連絡するよ。ていうか、電波届くよな?」

肇「たぶん、大丈夫です」

ちとせ「お土産は、二人が釣ってきたお魚で決まりだね♪」

千夜「当てにしないでください、お嬢さま」

肇「一匹も釣れないことも、多いですからね」

ちとせ「え、そうなの!?」

P「危ないことだけはするなよー」

~翌日、駅~

ガタンゴトン… プシューッ…!



千夜「……」キョロキョロ


肇「千夜さん」フリフリ


千夜「肇さん、おはようございます」タタタ…

肇「はい、おはようございます」


千夜「……なかなか、大荷物ですね」

肇「少し張り切っちゃって」

千夜「手伝います」

肇「あぁいえ、私が勝手に持ってきただけですし……あ」

ゴソゴソ…

肇「……じゃあ、これを」スッ

千夜「これは……上着、ですか?」

肇「目的地に着いたら、これを羽織ると良いかと思います。
  ポイントまでは、草木の中を歩く事になって、虫も出てきちゃいますし」


千夜「……ありがとうございます。すみません」

肇「ふふ、いえいえ。じゃあ行きましょう」

~バス~

ブロロロロ…

千夜「山間まで上っていくのですね」

肇「バスを降りたら、15分くらい歩きます」



バス運転手「ダァ、シエリイェッス」

プシューッ…! ガッション

ブロロロロ…


肇「……ん~! あー、良い天気」ノビー

千夜「えぇ、本当に」

肇「でも、目的の場所はこの山の奥なので、あんまり陽は入ってこないんですけどね」

千夜「そうですか」

~渓流~

ザアァァァァ…


肇「ふぅ……ここです」

千夜「結構、流れが急ですね」

肇「はい。あそこを見てください」スッ

千夜「……?」


肇「水流が石にぶつかって、流れが速くなっている箇所を「瀬」と言います」

肇「その、瀬の終わりの部分……「瀬尻」という、水流が弱まっている部分が、
  お魚が集まりやすい場所なんです」

千夜「なるほど……水の流れが遅い場所を、魚は好むのですね」

肇「たぶん流れが速いと、お魚も疲れちゃうんじゃないかなぁって」

肇「それじゃあ、準備しますね。
  千夜さんは、そちらで休んでいてください」

千夜「何かお手伝いすることがあれば」

肇「いえいえ、お構いなく」

千夜「……分かりました」


ガショガショ…

肇「……」ガショガショ


千夜「……」



肇「……あっ!」

千夜「? どうかされましたか?」

肇「千夜さん、すみません……忘れ物をしてしまいました」

千夜「忘れ物?」

肇「はい。えぇと……」スッ

肇「この、竿の先……針のそばに付ける重りを、忘れてしまったんです」


千夜「……?
   現に今、竿に付いているその黒い物は、違うのですか?」

肇「いえ、違ってはいません。これも重りです、ただ……」

肇「この重り……通称ガン玉と呼ぶのですが、
  本当は、重さの違うものを何種類か持ってきた方が良いんです」

肇「水流を見ながら適宜付け替えて、川底付近をスムーズに流せるものを選ぶ事が大事なのですが……
  今回持ってきたガン玉は、この1種類のみ」

肇「ごめんなさい……
  せっかくお誘いしておきながら、あまり上手くいかないかも……」

千夜「そういう事であれば、問題はありません」

肇「え?」

千夜「いえ、問題が無いというより、
   問題とする事ができない、と言った方が正しいかと思います」

肇「……?」


千夜「素人の私は、道具のせいにできるほど技能が習熟していません」

千夜「だから、どんな竿を手にした所で、結果にさほど変わりは無いでしょう。
   大同小異というものです」


肇「……うーん」

千夜「……あっ! いえ、失礼な言い方でした。
   肇さんの竿がどうでもいいとか、そういう話では決して……!」

肇「ふふっ。いえ、ありがとうございます、千夜さん」クスッ

肇「大丈夫です、分かっています」

千夜「……恐縮です」

肇「それじゃあ、遊漁券と……千夜さんはこの竿を。はい」スッ

千夜「どうも……ふむ」

肇「どうかしましたか?」

千夜「いえ……リール、というのが付いていないのだなと」

肇「あぁ。確かに、そうですよね」


肇「こういう渓流釣りの時は、リールが付いてない簡易な竿を使う事が多いんです。
  海釣りと違って、そこまで遠くに仕掛けを飛ばさなくても良いですし」

千夜「なるほど」

肇「だから、初心者の方にも準備が簡単で、お手軽に楽しめるんですよ。
  この竿も、釣り具屋さんで3~4千円で買えちゃったりします」

肇「それと、餌はこれを」カパッ

千夜「? これは……イクラ、ですか?」

肇「はい」

千夜「てっきり、虫とか使うものとばかり思っていたので、意外です」

肇「ミミズや虫餌は、千夜さんも苦手かなぁと思いましたので、止めました」

千夜「私の事は、お気になさらずとも……でも、ありがとうございます」

肇「いえ、一般的に使われているものなんです。
  例えば釣り堀とかでも、練り餌だけでなく、イクラを使う所も多かったりします」

千夜「そうなんですか」


肇「じゃあ、さっそく始めてみましょうか」

ひゅんっ

      ポチャンッ


肇「…………」

千夜「…………」


ザアァァァァ…



肇「…………」


千夜「…………」

肇「…………」


ひょいっ


肇「あぁ、やっぱり……食べられちゃった」

千夜「魚はいる、ということですね」

肇「はい」



ひょいっ


千夜「……私もです」

肇「同じですね」ニコッ

千夜「はい」クスッ

千夜「ちなみに、この辺りはどんな魚が捕れるのでしょうか?」

肇「えーと、たぶんヤマメとか、アマゴですね。
  もう少し上流の方まで行けば、イワナもいるかも知れませんが」

千夜「例えば、アユなどは?」

肇「あぁ~、アユはいないかなぁ……
  本当に天然のアユはそうそういなくて、特定の場所でポイントを作られたりします」

千夜「そうでしたか。失礼しました」

肇「いえいえ」

ひゅんっ

      ポチャンッ



肇「…………」

千夜「…………」


ザアァァァァ…



千夜「…………」


ひょいっ


千夜「むぅ……」


肇「ふふ、私もです」

千夜「魚もなかなか、やるものですね」

千夜「コツなどは、あるのでしょうか?」

肇「コツですか……私が言っても、説得力無いかもですけど」

千夜「お願いします」


肇「お魚は、自然に流れていくものを捕食しています」

肇「だから、私達の餌も、川の流れに沿って自然に流れていけば、
  お魚に対しても自然に見せることができるかと」

千夜「ふむ……しかし、食べられながらも食いつかれない事については、どうすれば」

肇「あ、あぁ~~、そうですよね、アハハ……」


千夜「何度も繰り返すしかない、という事でしょうか?」

肇「根気と我慢……釣りの基本です」

千夜「望むところです」



ひゅんっ

      ポチャンッ


ザアァァァァ…

ひょいっ

千夜「…………」

つ 釣り針


千夜「…………」ジィーーッ…

千夜「……」グイッ


千夜「……うーむ」



肇「イクラを二個、付けてみたりするのはどうでしょう?」

千夜「……試してみます」

ザアァァァァ…


ひゅんっ

      ポチャンッ


千夜「…………」

肇「…………」



ザアァァァァ…



千夜「…………」

千夜「…………」



千夜「……何だか」

肇「はい」



千夜「……ボーッとしてしまいますね」


肇「そうですね」クスッ

千夜「ただ……」


千夜「このような時間も……存外、悪い気はしません」

千夜「思えば普段、こうして自然の中に身を置く時間を持つことも、私にはありませんでした」

肇「こういう川の音って、ヒーリングスポット? というのでしょうか。
  精神が落ち着く効果があるんだそうです」

肇「それに、木々も生い茂っていて、都会より空気も美味しいですし」


千夜「……肇さんは、陶芸をされていると」

肇「はい。備前焼を」


千夜「浅慮ながら、陶芸というのは、特に精神力が求められる分野かとお見受けします」

千夜「肇さんが釣りを嗜むのも、気分転換、というか……
   メンタルをコントロールするための手段、だったりするのでしょうか」


肇「うーん……結果的には、そうなっているのかも知れません」

千夜「……?」


肇「ただ、釣りは釣りで、何というか……時間を楽しむものですね」

千夜「時間を……楽しむ?」

肇「はい。
  幼い頃から慣れ親しんだ趣味だから、抵抗が無いのかも知れませんが……」


肇「普段の私は、何かと忙しくして、時間に追われる日々を過ごしています。
  アイドルになってからは、なおさらそう」

肇「だからその分、こうしてボーッとする事に時間を費やすのは、
  何となく贅沢なことをしている気がして、楽しいです」


千夜「……そのような考えは、ありませんでした」

肇「千夜さんは、アイドルになる前も忙しそうですね」

千夜「従者というのは、基本的に暇であることは許されません」

千夜「だから……」

千夜「アイドルという珍妙な世界に身を置くようになって、
   こういう時間が取れるというのも、不思議なものを感じます」

肇「……はい」

千夜「社交辞令で言っているのではありません」

肇「ふふっ。ありがとうございます」

肇「……あっ」

クイッ ググッ…!


肇「……ッ!」グググ…

千夜「おおっ」


肇「ち、千夜さん……その、タモを……!」

千夜「タモ?」イイトモ?

肇「あ、網です……!」ググ…

千夜「分かりました」タタッ


スイッ

千夜「こ、このような感じでよろしいでしょうか?」ソォー…

肇「ありがとうございます……!」ググッ

バシャバシャ…!


肇「ふぅ……やりましたっ」

千夜「かなり大きいですね」

肇「おかげさまで、ボウズにならずに済みました」

千夜「……ボウズ?」ツルツル?


スィーッ…

肇「……あっ!」

千夜「えっ?」

チャポン!

千夜「あっ! わ、私の竿が……!」


スィー…



千夜「…………」

肇「……流されちゃいましたね」



ザアァァァァ…



千夜「す、すみません。肇さんからもらった竿が……」

肇「いえいえ、気にしないでください。
  私が注意を削いだせいでもありますし」

千夜「いえ、そんな事は……ですが」

千夜「私には、釣りの才能が無いということが分かりました」

肇「いえ、きっと食いついていたんですよ」

千夜「えっ?」

肇「だから、竿が川に流されちゃったんです」


千夜「……いずれにせよ、喜ぶべき事とは思えません」

肇「そ、それはそうかもですが、アハハ……あっ」

ヴィー! ティロン♪

肇「千夜さん、携帯が鳴っています」


千夜「……お嬢さまとアイツが、そろそろこちらに到着するそうです。
   それと……何匹釣れた? と」

肇「あまり威張れる釣果ではありませんが……」


肇「写真、撮りませんか?」

千夜「肇さんと私で、ですか?」

肇「はい。
  二人でお魚を囲んで、Pさんとちとせさんに送りましょう」

千夜「分かりました」


千夜「お願いします」スッ

肇「はい」


…カシャッ!


千夜「……お嬢さまから、スタンプが送られてきました」

肇「ふふっ♪」クスッ

千夜「肇さん」

肇「何でしょう?」


千夜「今度は陶芸を、私に教えていただけないでしょうか」


肇「……!」


千夜「釣りよりも、陶芸の方がまだ、私には向いているのかも知れません。
   それに……」

千夜「そろそろ、お嬢さまの誕生日が近づく頃です」


肇「……もちろん、喜んで」

千夜「ありがとうございます」

肇「ちとせさんには、内緒ですね?」ニコッ

千夜「……そうですね」ニコッ

肇「じゃあ、帰りましょうか」

千夜「分かりました。では」


千夜「荷物、持ちます」スッ


肇「……ありがとうございます。お願いします」

千夜「はい」

   * * *

 自信があったわけでは無い。
 まして、安いビギナーズラックを期待していたわけでも。

 しかし――これほど釣れないものなのかと、甘く見ていた事は認めざるを得ない。


 始めて1時間ほど経ってもなお、少しもアタリが来ることなく、餌だけが奪われる釣り針をジッと見つめる。

 ひょっとしたら、餌を針の先っぽに付けているのが良くないのかも知れない。
 魚からすれば、針の根元に無い餌ならば、上澄みだけを掠め取るのは容易だろう。
 そもそも、魚に食われるまでもなく、水流に負けて餌が外れてしまっている可能性もある。

 そう思い、私はイクラを一つ取り、針の根元まで貫通させ、深く刺してみた。
 だが――。

「……うーむ」

 これでは、針の先が丸見えだ。
 いくら根元まで食いつかせようと、こんなもので魚に気づかれないとは思えない。
 先ほどから餌だけを器用に掠め取っては逃げる、狡猾な魚達を。


「イクラを二個、付けてみたりするのはどうでしょう?」

 素人が無い知恵を絞って思案していると、肇さんが私に提案をした。
 なるほど――確かに。

「試してみます」

 ご用意いただいたものには、多少の遠慮はある。
 それ故に、無駄遣いはするまいと、改めて考えるまでもなく手を付けてきたが――。

 肇さんは、そんな私の胸中を察して、そのように言葉を掛けてくれたのかも知れなかった。

 なぜ私達がこんな事をしているのか、きっかけはふとしたものだった。
 たまたま一緒のレッスンを受け、その翌日のオフがお互いに重なった事を知った肇さんが、私を誘ってくれたのだ。

 釣り好きを指摘した時の、目を見開いて「好きです」と答えた彼女の食いつきは凄かったが――。

 肇さんは、『TRUE COLORS』のステージで一緒に活動をした仲だ。
 歳は私とそう違わないが、彼女はとても落ち着きがあり、優れた観察眼を持っている。
 リーダーである美嘉さんとは違った立ち位置で、度々ユニットの皆のフォローをしてくれた。

 そんな彼女のプライベートについて、内心興味が無いといえば、ウソになる。
 結果的には、私にとって渡りに船の誘いと言えた。

 お嬢さまには、形だけの了解を得るまでもなく背中を押され、こうして当日を迎えている。

 駅に着くと、肇さんは想像した以上に大荷物だった。

 これじゃあ、ほとんど何も用意せずにやってきた私がバカみたいだ。
 申し訳ない気持ちのままに手伝いを申し出ても、肇さんは笑って手を振る。

「私が勝手に持ってきただけですし……あ」

 おもむろに肇さんは、背負っていたリュックを下げてゴソゴソと中を漁った。
 取り出したのは、一枚の薄手のジャンパーだ。

「じゃあ、これを」

 曰く、目的の場所までは、鬱蒼と生い茂る草木の中を歩くことになり、虫にも刺されるのだという。
 何も考えず、ノコノコとノースリーブでやってきた私が、やはりバカみたいだ。

「……ありがとうございます。すみません」

 この埋め合わせは、どこかでしなくてはならない。

 バスに揺られ、目的の停留所からさらに歩くこと15分。

 これは、お嬢さまをお連れする事はできないだろうな――。
 そう思っているうちに、ようやくポイントにたどり着いたようだ。

 ここでも、私の申し出は叶わなかった。
 ただ、肇さんによる釣り具の準備に、素人が安易に手を出すべきでは無いとも考え、黙って待つ事にした。

 しかし、その肇さんからとある告白があった。
 本来持ってくるべき道具を忘れてしまったとのことだ。

 正直な人だ。
 そんな専門的な事情など、素人の私に隠し通す事はいくらでも出来ただろう。

 それを素直に打ち明ける辺り、釣りと私に対する彼女の真摯な姿勢を感じ、どこか恐縮してしまう。

 フォローするつもりで放った私の言葉が、とんでもなく失礼な言動となってしまった事についても、彼女は許容してくれた。
 私としたことが、つくづく情けない。

 魚がいるであろう狙い目のポイントについて講釈を受け、肇さんの見様見真似でイクラを付けた釣り針を川に放る。

 竿を構えたまま、肇さんは岩の上にジッと立ち尽くしている。

 しばらくは、待ち――か。


 川の流れは思いのほか速く、ザァザァと立てる水の音も小さくない。

 しかし、決して不快な音ではない。
 うるさかったり、まして追い立てられるようなものではなく、不思議と落ち着く音だ。


 時間にして5分程度、だろうか。
 肇さんが竿を振り上げ、針を回収した。

 針の先に、餌がついていない。

「あぁ、やっぱり」

 気恥ずかしそうに、肇さんが私に向けてはにかむ。
 餌だけを食べられてしまったらしい。

「魚はいる、ということですね」

 そう確認すると、彼女は嬉しそうに頷いた。

「はい」

 肇さんに倣い、私も竿を上げる。
 二人で顔を見合わせ、同じように笑った。

 その後も何度か試してみるが、結果は同じだった。

 この分だと、お嬢さまへの土産は望むべくもないか。


 そう言えば、以前夕餉に焼き魚を出した時、お嬢さまのお気に召したものがあったな。
 普段は半分を食べるのがやっとのお嬢さまが、あの時だけはペロリと喜んで平らげたのを思い出す。

 そう――確か、鮎だ。

 しかし、肇さんに聞いてみたところ、どうやらここにはいないらしい。
 ままならないものだな。

 もっとも、他の魚すら釣れない私に、鮎を釣ろうなどという色気を出せるはずもない。
 だが、主に対して格好がつかないのは、従者として情けない限りだ。

 一応の格好はつけたい。
 そう思い、祈るような気持ちで次の仕掛けを川に投げる。



 一人焦燥に駆られつつ、隣に立つ肇さんを、ふと見やる。

 依然として彼女は、黙して竿を握りしめ、せわしなく流れる川面を見つめている。
 彼女もチャンスを逃すまいと、竿に全神経を集中させている――。

 いや――そうではない?

 私とは違い、肇さんの表情はとても穏やかで、柔らかな笑みを湛えている。
 まるで、そうして佇むことさえも楽しんでいるかのようだ。

 無為に流れる時間は、私に考える暇を与えたらしい。
 肇さんが今日、私を釣りに誘った理由を。

 もちろん、ただの気まぐれ、その場の思いつきだった可能性もある。
 しかし、繰り返しになるが、彼女は先のユニット活動においても人一倍の気ぃ遣いだったのだ。

 冷静に振り返って、何も意味が無い行いだったとは考えにくい。


 では、今回の釣りが本来託されていた目的とは何なのか?

 魚を捕まえる以外の目的が――?


「…………」

 気づくと、私の竿はだらんと垂れていた。
 腕の力を抜いてしまい、水の勢いに任せるままに穂先が川下へと向けられていたのだ。
 先ほど肇さんに教わった「瀬尻」とは、はるか遠い位置だ。

 慌てて竿を引き戻す。
 餌も付け直すべきか? この分だと、どうせもう取られているだろう。

 だが、なぜか付け直す気にはなれなかった。

 飽きたのではない。
 何だろう。何というか――。


「何だか……ボーッとしてしまいますね」

 気づくと、私の口からそんな言葉がついて出た。

 失礼だっただろうか。
 ハッとして肇さんの方を向くと、彼女は変わらずに柔らかな笑みで応えてくれた。

「そうですね」

 言い訳がましくならないように、言葉を続ける。

「ただ……このような時間も、存外悪い気はしません。
 思えば普段、こうして自然の中に身を置く時間を持つことも、私にはありませんでした」


「こういう川の音って、ヒーリングスポット? ……というのでしょうか」

 肇さんは顔を上げ、辺りを見回した。

「精神が落ち着く効果があるんだそうです。
 それに、木々も生い茂っていて、都会より空気も美味しいですし」

 ――なるほど。ヒーリングスポット、か。
 どうやら、魚を釣る以外の目的はあったようだ。

 都会の喧噪から離れ、川の上流まで行けば、自然豊かな環境になるのも道理と言えるだろう。


 精神が落ち着く――。
 そこまで聞いた時、私はとある事を思い出した。
 肇さんのもう一つの趣味を。

「肇さんは、陶芸をされていると」
「はい」

 備前焼を、と彼女は言い添えた。
 釣りの時と同様、食いつき良く答えた辺り、自分の趣味について話す時の肇さんは、実に生き生きとしている。

「浅慮ながら、陶芸というのは、特に精神力が求められる分野かとお見受けします。
 肇さんが釣りを嗜むのも、気分転換、というか……」

 いや、気分転換というのは失礼だろうか。
 彼女にとって、もっと意義のあるものであるのかも知れない。

「……メンタルをコントロールするための手段、だったりするのでしょうか」


 おずおずと私から聞かれた肇さんは、「うーん」と首を傾げる。

「結果的には、そうなっているのかも知れません」

 ――?
 その言い方だと、違うのか?

 ただ、と言い置いて、彼女は言葉を続ける。

「釣りは釣りで、何というか……時間を楽しむものですね」


「時間を……楽しむ?」

 今度は私が首を傾げる番だった。
 一方で肇さんは、「はい」と短く、しかと答えた。


「幼い頃から慣れ親しんだ趣味だから、抵抗が無いのかも知れませんが」

 そう前置きをしながらも、肇さんの目は晴れ晴れとして迷いが無い。
 時折、祖父方譲りの頑固者だと彼女は自嘲じみて語るが、柔らかいだけではない芯の強さを感じさせる眼差しだ。

「普段の私は、何かと忙しくして、時間に追われる日々を過ごしています。
 アイドルになってからは、なおさらそう……だから、その分」

 彼女は私を誘うように、再び頭上を見上げた。
 倣って顔を上げると、鬱蒼と生い茂る林の木漏れ日の先に、バス停から降りた時の真っ青な空がキラキラと広がっている。


「こうしてボーッとする事に時間を費やす事は、何となく贅沢なことをしている気がして、楽しいです」

 ――無為な時間を過ごすことが、目的。

「そのような考えは、ありませんでした」

 黒埼に仕える従者として、常にやるべき事を探し、合理的に時間を使う事だけを考えてきた。
 そんな私にとって、彼女の答えは予想だにしないものだった。
 カルチャーショックと言っても良い。

 私の心情を察したかのように、肇さんは小さく頷き、優しく微笑みかける。

「千夜さんは、アイドルになる前も忙しそうですね」
「従者というのは、基本的に暇であることは許されません」

 そう。
 私にとって時間とは、無駄にしてはならないものだった。

 だが、肇さんに言わせれば、無為な時間は無駄ではない。
 それは、贅沢と呼べるものなのだと――。

 贅沢、か。

 アイドルを始めたばかりの頃、お嬢さまがしきりに仰っていた言葉を思い出す。
 黒埼の従者だけではなく、私にはもっと色々な経験をしてほしいのだと。

「だから……アイドルという珍妙な世界に身を置くようになって、こういう時間が取れるというのも、不思議なものを感じます」

 いや――あるいは、お嬢さまの狙いはこの事にあったのかも知れない。
 黒埼の家とは違う新たな生活で、それまでの私に縁が無かったものに数多く出会うことを。

「はい」

 肇さんは、また短く相槌を打った。
 彼女の真意は分からないが、気を悪くされたのなら、誤解を解かなくては。

「社交辞令で言っているのではありません」

 慌てて補足すると、彼女は笑いながら首を振る。

「……あっ」


 その時、突如肇さんの竿がわずかにしなった。
 そしてそれは次第に大きくなっていく。

 途端、それまで柔らかだった肇さんの顔に、分かりやすく緊張が走った。
 私は自身の握っている竿には目もくれず、彼女が奮闘する様子をジッと見守る。

「ち、千夜さん……その、タモを……!」

 ――タモ?

 何のことだろう。私の聞き間違いか?
 それとも、かつて平日の昼間に生放送されていたバラエティ番組の――。

「あ、網です……!」

 オロオロしている私に、肇さんが少し強めの口調で言い添えた。
 どうやら、見た目以上に一刻の猶予を争うらしい。

「分かりました」

 持っている自分の竿を置き、慌ててそばに置いてあった道具類を漁る。

 無為な時間を過ごすのが目的と言いながら、やはり本命は魚にあるのではないか?
 そんな野暮な事をチラリと考えつつ、私は網を構え、肇さんの竿の先へと慎重に伸ばす。

「ふぅ……やりましたっ」

 どうにか逃がすことなく捕まえた魚は、素人目に見ても立派な大きさのものだった。
 先ほど肇さんに教わったヤマメとアマゴのどちらなのかは、分からない。

 健闘を称えると、肇さんは座りながら私に顔を向け、ニコリと笑った。

「おかげさまで、ボウズにならずに済みました」

 ――ボウズ?

 何のことだろう。また私の聞き間違いか?
 それとも、まさか一匹も取れなかった場合の罰ゲーム――。

「……あっ!」
「えっ?」


 ふと驚く肇さんの視線の先へと振り返ると――。


「あっ! わ、私の竿が……!」


 ――気づいた時には遅かった。

 私の置き方が悪かったのだろう。
 肇さんから借りた私の竿は、川に引き寄せられてボチャンと沈み、そのまま川下の方へと無慈悲に流れていってしまった。

「…………」

 完全に私のせいだ。
 何ということだ。埋め合わせをするどころか、迷惑の上塗りをするなど――。

 先ほど大物を釣った感動も忘れ、私達は無情な川の流れを前に、しばし呆然と二人でその先を眺めていた。
 当然のことだが、もう竿がこの手に戻ってくることはない。


 頭を下げても、案の定肇さんは「気にしないで」と笑って手を振るだけだった。

「私が注意を削いだせいでもありますし」
「いえ、そんな事は……」

 一方で、肇さんが一匹釣ってくれたおかげで、一つの区切りができたようだ。

「ですが……私には、釣りの才能が無いということが分かりました」

 やはり、従者としての生活が長かった私には、無為な時間を過ごす事に慣れるのは難しいらしい。

 だが、この胸にポッカリと空いた間抜けな空虚さは、存外悪くない。
 先ほど有意義な話ができたこともあり、手前勝手な充足感が胸一杯に広がるのを感じる。


「いえ」

 自嘲して肩を落とす私に、肇さんが優しく声を掛ける。

「きっと食いついていたんですよ」

「えっ?」
「だから、竿が川に流されちゃったんです」

 ――やはり、この人は気ぃ遣いだな。
 この日ずっと、私は一方的に良い思いをさせてもらってばかりいる。

「……いずれにせよ、喜ぶべきものとは思えません」

 その思いやりを正面から受け止められず、つい照れ隠しで揶揄してしまう。
 お嬢さまから移されてしまった、私の悪い癖だ。

 そんな私に対し、肇さんが困ったように笑っていると、私の携帯が鳴った。


 お嬢さまとアイツが、八王子での仕事を終え、こちらに向かっているらしい。
 そろそろ到着するとのことだ。

「それと……何匹釣れた? と」

 肇さんの方を伺うと、彼女は気恥ずかしそうに首をすくめた。

「あまり威張れる釣果ではありませんが……」

 そう言って、彼女は自分の携帯を取り出す。

「写真、撮りませんか?」

「肇さんと私で、ですか?」
「はい」

 肇さんは、魚が入ったクーラーボックスの方へ私を手招きした。

「二人でお魚を囲んで、Pさんとちとせさんに送りましょう」

 なるほど。
 それはお嬢さまも、きっと喜んでくれる。

「分かりました」

 首肯した私は、肇さんの傍に寄り添い、たどたどしく構えられた彼女のスマホのレンズを見つめた。

「お願いします」
「はい」


 自撮りに慣れていないのは、私と同じらしい。
 撮影された写真は、私ばかり中央に写され、当の肇さんと魚は画面の端っこに小さく見えるだけだ。

 その写真を肇さんが、私達のグループに投稿する。
 ほどなく、お嬢さまから反応があった。

 リンゴに手足が生えたような不細工なキャラクターが、親指を立てるアニメーションスタンプだ。
 最近、あかりさんが担当プロデューサーに頼み込み、事務所の力も借りて広めているものだった。

 二人で顔を見合わせ、どこかおかしな気分になって笑う。

 私は気づいた。
 なかなか釣りも、悪くないものだ。
 それは、ヒーリングスポットが精神衛生上良いとか、自然に触れて贅沢な時を過ごすとか、そういった理由からではない。

「肇さん」
「何でしょう?」

 だから私は、もう一つの彼女の趣味を共有したいと思った。


「今度は陶芸を、私に教えていただけないでしょうか」


 彼女と一緒にいる時間が、得も言われず心地良いから。
 それは、無為を目的とする彼女の趣旨に反するかも知れないが――。

 空白を贅沢として肯定する考えもあるのだと、気づかせてくれた肇さんの事を、もっと知りたい。


 私の唐突な提案に対し、肇さんは目を丸くしている。
 それは無理もないことだった。

 何せ私自身、仕事以外で誰かに一方的なお願いをしたことなど、記憶に無いのだから。
 驚いているのは、私も同じだ。

 だが、それでも彼女に陶芸の弟子入りを申し出た理由は、大きく三つある。

「釣りよりも、陶芸の方が私には向いているのかも知れません」

 一つ目は、そう――。
 暇という空白が好きではない私にとっては、何かしら手を動かし続けるものの方が性に合っていると考えたこと。

「それに……そろそろ、お嬢さまの誕生日が近づく頃です」

 二つ目は、お嬢さま。
 この夏が過ぎ、秋が深まる前までには、その準備を進めておく必要がある。

 手前勝手ではあるが、手作りの陶器であれば、お嬢さまも喜んでくださるかも知れないと思ったのだ。


「……もちろん、喜んで」

 肇さんは私の目を見つめ、ゆっくりと頷いた。

 申し出を受け入れてくれた事に謝意を示す私に、肇さんはクスリと、どこか悪戯っぽく微笑む。

「ちとせさんには、内緒ですね?」

 それは、ともすれば皮肉だった。
 彼女と釣りを行くことについて、お嬢さまに了解を求めようとしていた私に対しての。

 だが、こちらも知らず笑みがこぼれてしまう。

「そうですね」

 先に述べた二つの理由など、残された一つに比べれば単なる建前だ。
 それは私にしか知る由のない事。

 彼女の与えてくれる気遣いに、すっかり甘えてしまう私がいる。
 それについて、いつかお返しをするチャンスを見出せたなら。


「じゃあ、帰りましょうか」

 肇さんがそう言って、身支度を整え始める。

「分かりました。では」

 ささやかではあるが、そのチャンスがさっそく巡ってきたようだ。
 私は頷き、すかさず手を差し出した。 

「荷物、持ちます」


 だが――。

「……ありがとうございます。お願いします」

 そうして素直に応じてくれる事さえも、彼女の気遣いのような気がしてならない。
 立つ瀬を私に残してくれる事が。

「はい」

 それでも良いと思えた。
 肇さんの柔らかな笑顔を前にしては。


 内緒にすべき事はいくつかあるが――お嬢さまには、良い土産話ができそうだ。

   * * *

「お土産、ですか?」

 備前焼、きびだんご、マスカット――。

 私は、故郷である岡山の土産物をいくつか思い浮かべました。

 ですが、ちとせさんの意図は、別のことにあったようです。

「基本的には、空白があって初めて生まれるものだと思うの」

「……?」

 首を傾げる私を見て、ちとせさんはクスクスと楽しげに笑います。

 この人は、度々こういう所があります。
 小悪魔的、というのでしょうか。

 思わせぶりな事を言って、人が戸惑う様子を楽しむような――。

 悪意が無い事を知っているので、悪い気はしません。

 ですが、ちとせさんの真意を見極めることについては、いつも難儀していました。

「明日はライブだね」

 そうかと思うと、ちとせさんは急に話題を変えてみせます。


 これについては、合点がいきます。

 美嘉さんがリーダーを務める事務所肝入りのプロジェクト『TRUE COLORS』の、明日はライブ本番でした。

 場所は、大阪。

「はい」

 徳島出身である颯さんや凪さん、そして、岡山出身の悠貴さんや私に、他の方々やPさんが配慮してくれたとのこと。

 確かに、大阪なら東京と比べ、私達の故郷にいるファンの人達も参加しやすいでしょう。

 私もその気になれば、実家に帰ることもできる距離です。


 首都圏以外の、他の地方出身者――アーニャさんには、少々悪い気がしたものですが、彼女は優しく頷き、

「関西の方、アーニャは行ったことがありません。
 プリヤートナ……とても楽しみですね?」

 と、屈託の無い笑顔を見せてくれました。

 愛らしい、それでいて、自然な気遣いに溢れた言葉です。


 そして、もう一人の北海道出身者――。


「場所がどこであろうと、私達が行う事について変わりはありません。
 どうぞ好きに」


 千夜さんの淡泊な言動もまた、アーニャさんとは異なる形で、心に残るものでした。

 自画自賛、と言えばそれまでですが――大阪公演の本番は、無事に大成功を納めました。

「やったね、肇ちゃん!」
「はい……!」

 鳴りやまない拍手と歓声。乱れ飛ぶペンライトの光。

 夢のように素敵なステージの上で、隣に立っていた藍子ちゃんと手を取り合い、達成感を分かち合います。



 メンバーの皆で、忙しいスケジュールの合間に非常な努力を重ねた結果だと、Pさんは言ってくれました。
 そういう側面も、無いわけではないのかも知れません。

 ただ、リーダーの美嘉さんがずっと私達を鼓舞してくれたのも、きっと大きかったのだと思います。

 皆が彼女を信頼し、これに応えるという関係性も、上手く機能していたのだと。

 経験の浅い私達を、率先して引っ張ってくれる彼女の存在は、非常にありがたく、頼りになるものでした。



「それじゃあプロデューサー。約束、忘れてないよね?」

 宿泊先のビジネスホテルから少し離れた洋食屋さん。

 ライブ終了後の打ち上げ用に、予め貸し切っていたというその席で、功労者である美嘉さんはPさんに話を切り出しました。

「まぁ、是非も無いが」

 ドリンクを持っていない方の手で、Pさんは頭を掻きます。


 約束というのは、ライブが成功したら、その翌日に私達が大阪市内を観光することを認める、というものでした。

 Pさんとしても、私達の成功を信じてくれていたでしょうから、最初から断るつもりの無い約束だったのだと思います。

「ただ、俺はすぐに東京へ帰らないといけないから、美嘉が皆を引率してくれよ、いいな?」


「えぇ~? いいじゃない。あなたも頑張ったのだから、一日くらい羽目を外しても」

 大人な姿勢を見せるPさんに対し、悪戯っぽく微笑むちとせさん。

 これに、凪さんと颯さんも加勢します。

「現地民に叩かれないための盾が、凪達には必要です。
 はーちゃんの腕では、お好み焼きすらも満足に焼けません。ギルティ」
「なーだって同じでしょ! そういうの抜きに、Pちゃんも一緒の方が楽しいもん」

「他の子達の仕事に立ち会う予定も詰まっているんだ。分かってくれ」

 困ったように笑いながら、皆を諭すPさん。

 そのように言われてしまっては、私達も返す言葉がありません。

「うーん……じゃあ、次はプロデューサーさんも私達と一緒に遊んでくださいね!
 大阪とは言わないまでも、公園でランニングとかっ」
「ダー。プロデューサー、アビシャーニェ……アーニャ達との約束、ですね?」

 悠貴さん達の提案に、Pさんは苦笑しながら応えます。

「あ、えぇと……ご無理のない範囲で大丈夫ですから、ね?」
「あぁ、分かってるよ。ありがとう、藍子」

 きっと、他のアイドルの人達からも、今の私達と同じようなお願いを受けているのだと思います。
 もちろん、普段のお仕事だって忙しいでしょう。

 そんな素振りを見せず、私達一人一人に真摯に向き合ってくれるPさんは、本当に優しい人です。

「プロデューサーも、アタシ達と約束ばっかしてて大変だね★」

 全てを見透かすように、美嘉さんがPさんを茶化します。

「憐れむくらいなら、ちょっとは手加減してくれよ」
「そっちだって、望んでやってる仕事でしょ?」
「はい、ガンバリマス」


 皆でひとしきり笑い合う、賑やかで楽しいひと時。

 この時はまだ、私はその人の様子について、気づいていませんでした。

 気づきを得たのは、翌日のこと。

 皆さんとの、大阪市内の観光を終えようとしている頃でした。

「なーはまたそういう変なもの買おうとするよね」
「ワンチャン、バズるのではと」

 大阪とはあまり所縁の無さそうな、珍妙な――もとい、独特な木彫りの人形を手にする凪さんに、颯さんが呆れ気味に声を掛けます。


 私と藍子ちゃんは、みるく饅頭を。

 アーニャさんは、寮の人達とのホームパーティー用に、たこ焼きをたくさん買いました。

 悠貴さんは、大きな豚まん。

 ちとせさんは、それ以上に大きなチーズケーキ――。

「それ……食べきれるの? ちとせさん」

 心配そうに、美嘉さんが横から覗き込みます。

 無理もありません。
 昨日の打ち上げでも、彼女が口にした料理はほんの少しだけ。

 ちとせさんの小食ぶりは、私達の誰もが知るところでした。

「いざって時には、千夜ちゃんがいるからね♪」

 そう言って、ちとせさんは彼女に笑いかけます。


「……千夜さん?」

 駅ビルの土産物コーナーを前にして、はしゃぐ姿を見せない彼女は、異質に感じました。

 お店に来てしばらく経ちますが、お土産を手にしている様子はありません。


「千夜ちゃんも、何か買ったら?」

 ちとせさんから促されると、千夜さんは素気ない所作で、手近にあったクッキーの箱を一つ取りました。


「事務所の方々の、人数分はあるようです」

 選んだ決め手は、その一点だけのようでした。

 帰りの新幹線で、私は千夜さんと隣同士になりました。

 ボックス席の向かいに座る颯さんと凪さんは、遊び疲れて寝ています。


「美味しそうですね、クッキー」

 千夜さんから受け取ったその箱を眺めながら、私は会話の糸口を探します。

 ただ、凪さんの人形ほどではないにせよ――。

 やはりそれは、大阪っぽくはないというか――えぇと。


「おそらく、ごく一般的なバタークッキーでしょう。
 然したる面白みは、期待できないかと」

 言葉に迷う私に、自身のお土産に対する無遠慮な評価をピシャリと言い放つ千夜さん。

 そ、そんな身も蓋もない――。


 思わず閉口してしまった私に、千夜さんは頭を下げました。

「申し訳ありません」
「えっ?」

「私には、どのような物を買えば良いのか分からず……」

「千夜さんが謝ることなんて、ありませんよ」

 私は慌てて手を振ります。

「それに、こういうものにはきっと、良いも悪いもありません」

「良いも悪いも、無い……?」

 千夜さんは、不思議そうに首を傾げました。

 私は彼女の目を見ながら頷きます。

「お土産は、ただ渡して終わりではなく、渡した人との語らいもきっと、大事なものですから」


 私は、これを受け取ってくれるPさんの顔を思い浮かべました。

 一緒に観光できなかったのは残念ですが、今度事務所で会えた時に、たくさんの思い出を聞かせてあげられたら――。

「どこに行ってきたか。どんな事があったか。
 グルメ、景勝地、ハプニング――。
 そういった、土産話を語るきっかけとなるのなら、お土産に優劣は無いんじゃないかなぁって、思います」

「詰まるところそれは、必要なものなのでしょうか」

 千夜さんの抑揚の無い言葉に、思わず私は息を呑みます。

「ひ、必要、というと……?」


「物事には総じて、優先順位というものがあります。
 行った方が良いことなのか、行わなければならないことなのか」


 言いながら、千夜さんは視線を落としました。

 寂しげに――いや、どこか不安や戸惑いを帯びたような眼差しです。


「私は、暇という空白が好きではありません。
 楽しい思いを享受する事、それ自体はおそらく、私にとってもありがたく、喜ばしいものです。
 ですが……」

 千夜さんは、新幹線の窓の外へと、視線を預けました。

「私のような者が、漫然とそれを享受して良いものか……。
 こうしている暇に、もっと他にすべき事が本当に無かったのか。
 必要性のあるものを優先的に処理できていないのではという恐れが、胸にこびりついて離れません」

「千夜さん……」

 私は、言葉を失いました。

 同時に、先日ちとせさんが言っていたことの意味が、少し分かった気がしました。


  ――基本的には、空白があって初めて生まれるものだと思うの。


 この人には、空白が無い。

 空白を恐れている。


「私は……今日、千夜さんと一緒に遊ぶことができて、楽しかったです」

 その時の私は、そうフォローをするだけで、精一杯でした。

 ありがとうございます、という千夜さんの淡泊な返事が、どこか遠くの事のように聞こえました。

「これまでも、似たようなことがあったの」


 東京に戻ると、公演の成功に沸く、事務所スタッフの皆さん。

 そんな賑やかな雰囲気から少し離れ、私はちとせさんと、二人きりで話す機会を得ました。


「誰かと何かを分かち合う、っていう感覚を、あの子は必要としていない。
 義務や使命でしか、千夜ちゃんは他者へ与える事ができない。
 私への誕生日プレゼントだって、「何が欲しいですか」って……ふふっ」

 ちとせさんの表情は、笑ってはいたものの、とても寂しそうでした。

「私は何も要らないよ、って、千夜ちゃんにはいつも言うの。
 するとね……本当に何も、“モノ”は無い。
 その代わり、普段以上にもの凄く丁寧に、身の回りの世話をしてくれるの。
 髪の毛一つ落ちないくらい、入念に掃除をしたり、何時間もかけて夕食の支度をしてくれたり……。
 あの子なりに、その日を特別にしたいっていう気持ちはあっても……それ以外の方法が、分からないんだと思う」


 ご両親を亡くされ、ちとせさんの家に引き取られてからの千夜さんは、黒埼家の従者として生活していたとのことです。

 ちとせさんはその日々を、“呪い”と称しました。

「私があの子を縛りつけたの。
 そうでもしないと、闇に沈んでいっちゃいそうだったから……だけど」

「千夜さんには……引き取られた黒埼家に捨てられたくない、という焦燥が……?」

「うーん、そういうのはたぶん、無いかなぁ」

 夕暮れ時の事務所のラウンジで、私の隣に座るちとせさんは、ボンヤリと頭を振りました。

「ただ、千夜ちゃんはとても気ぃ遣いで、献身的な子なの。
 そう……惨たらしいとも思えちゃうくらいに」

 ちとせさんの言葉遣いは、穏やかな仕草や語り口とは裏腹に、とても苛烈で、真に迫るものを感じさせました。


「あの子は、自分が無価値であると思い込んでいる。
 黒埼家の従者として生きる使命を与えられた、その恩を返すことだけが、自分の存在理由なんだ、って。
 でも……それにしか生きがいを見出せないなんて、そんなの悲しいでしょう?
 それ以外の何物をも、欲しがらない、考えることができない……黒埼以外の誰とも繋がりを持てないなんて」

 千夜さんの部屋には、物がほとんど無いそうです。

 欲しいものが無いから、自分のための買い物もしない。

 主たるちとせさん以外の何物にも興味を示さず、何も求めず、ただ主のためだけに尽くす日々。


 私には、直ちにそれを否定する考えは持ち得ません。

 千夜さん自身が、それに幸せを見出しているのなら、部外者の私が口を挟むなど。


 だけど――。

 あの日、土産物に一切の関心を示さなかった彼女の姿が、私の脳裏に強く焼きついています。

 必要性の有無でしか動機を見出せず、楽しいはずの出来事を心から楽しむことのできない感情。

 ちとせさんの言う通り、正しくそれは、彼女の発意を奪う“呪い”です。

 その日のうちに私は、Pさんに相談しました。

「難しい問題だな……」

 Pさんは腕組みをしながら椅子の背にギィッともたれ、悩ましげに息をつきます。

「それだけ根深い事情に、俺達が軽率に首を突っ込んで良いものかどうか」

「Pさんは」

 気づくと、私は身を乗り出していました。


「Pさんは、夢は楽しいものだと思いませんか?」

「肇……?」


 先日の『TRUE COLORS』の公演は、誰の目にも大成功であったと、そう思っていました。

 ですが、私達の仲間の誰かがもし――。

 もしそれを、心から楽しむ事ができていなかったとしたら。

「楽しいことを楽しめないアイドルに、ファンの人達へ夢を与えることが、果たしてできるものでしょうか」

 本来、私が悔しがる筋合いなど、無いのかも知れません。

 ともすれば、私が今行おうとしている事は、余計なお節介である以上に、一方的な価値観の押しつけでもあるのでしょう。

「いえ……たとえアイドルでなかろうと、私は……私には」

 それでもいい。

 今の私に正しさが伴っていなくとも、彼女の呪いを知った以上、無視することは出来ない。

「千夜さんの仲間として、それを解き放つ義務があると思っています」



 驚いた顔をしてしばらく私の目を見つめた後、Pさんは頭を掻きました。

「それは、俺が言うべき事だったな」

「え……?」

 Pさんは苦笑し、椅子から立ち上がると、私に対し、しかと頷きました。

「すまなかった。
 担当アイドルの問題に、プロデューサーである俺が及び腰になっていては、世話が無い」

「いいえ」

 私はかぶりを振り、Pさんを見上げます。

「私は、Pさんの協力がほしいんです。
 Pさんの力さえあれば、何か糸口が掴めないかなぁって」

「責任重大だな、うーむ……」

 Pさんは顎に手を当て、天井を見上げながら思案を始めます。

 やがて、何かを思いついたかのように、もう一度、一つ頷きました。


「肇。お前最近、釣りをしているか?」


「えっ?」

「この間、お前の実家の近くで、お祖父さんと三人で一緒に渓流釣りをしたのを、何となく思い出してな」

 急に話題が変わり、目が丸くなります。

「忙しく働かせて、暇を与えていないのも悪かったが……。
 この辺りで渓流釣りをする場合、やっぱり足が無いと難しいか?」

「足……車のこと、ですか? い、いえ」

 私は手を振りました。

「車が無くても、電車とバスを乗り継げば、目的のポイントまで行くことはできます。
 実際、最近でも釣りは、それなりにやらせてもらっていて」

 そう。
 芳乃さんにも、近場のポイントまで何度かお付き合いいただきましたし――。

「俺なんかは全然釣れなくて、釣りよりも隣にいたお祖父さんとの話の方が忙しかった記憶があってさ」

 冷静を装い、自嘲じみて苦笑しつつも、Pさんの目は輝いているように見えました。

 私達のためにとってきた大きな仕事を、喜色満面に伝える時にも似た、成功への確信を帯びた煌めき。

 それは、あのプロジェクト――『TRUE COLORS』について皆に発表した時と、同じものを感じました。


「今度、千夜を釣りに誘ってみるのはどうだろう」



――――

――――――

――――――

――――



「今日もレッスン、お疲れ様でした」

「こちらこそ、肇さん」


 千夜さんは、歌声もダンスも、生真面目とも思えるほどに正確です。

 ユニットでの公演を終えて以降、レッスンをご一緒するのは久しぶりでしたが、改めてそれを感じさせました。

 学ぶべき所も多く、私自身とても刺激になるものです。

「明日は千夜さん、久々にオフですね。私もですけど」

「えぇ。まったく、アイツも人使いの荒い……」


 でも、今日のレッスンは、それを目的としていた訳ではありません。

『ボーッと釣り糸を垂らす時間を、空虚だと言うつもりなんて無い』

『でも、空白を恐れるという千夜の価値観に、変化を与える外力には、なり得るんじゃないかな』



 私からの相談を受けたPさんは、それとなくスケジュールを調整してくれました。

 私と千夜さん、二人のオフがちょうど重なるように。


「千夜さんは、お休みの日は何をされているんですか?」

 着替えを済ませ、レッスンルームを出ながら、それとなく聞いてみます。

 千夜さんは少し考えて、答えました。

「黒埼家の屋敷に住んでいた時は、掃除をしていました」


 ――それは、以前の私なら、そこまで気にも留めなかった回答だったのかも知れません。

「好き、というわけではありません。むしろ苦手です」

 ですが、離れて暮らしていてもなお、“今”ではなく、当時住んでいた黒埼家の事を第一声に答える千夜さん。

「まとまった時間が取れないと、細かい所まで行き届いた掃除ができなくて……だから、そういう作業に充てていました」

 ちとせさんが聞けば、きっと悲しむ類いの回答であったのではと、思わずにはいられません。

「ですが、アイドルになり、屋敷を出て寮に住むようになってからは、そんな事も無くなりました。
 寮の部屋は、屋敷ほど大きくないですし」

 千夜さんは、あくまでも淡泊に言葉を続けます。

「何より、私のための部屋に時間を割く必要もありませんから」

「……そうですか」

「えぇ。
 だから、そうですね……休日だからといって、最近はあまり、コレといったことはしていません」


 誰かに何かを与えるだけの余裕は、私自身、威張れるほど持ち合わせてはいません。

 でも、与え合うことで、私達は繋がる事ができると思うから。

 彼女の心がもし、呪いで埋め尽くされているというのなら、少しでもそれが芽生える余白を与えたい。


 いいえ、気づかせたい――見出したいのです。

 千夜さんにもきっと、それはあるはず。

「それじゃあ」

 この行いが、独善で終わるのか、千夜さんが気づきを得る一助となるのか――。

 それは、投げてみなくては分かりません。

「千夜さん、一緒に釣りに行きませんか?」

 祈るような気持ちで、私は目の前の彼女に、その言葉を掛けました。


~おしまい~

一緒に釣りに行っていてほしいなと思い、書きました。
釣り等について正しくない描写があったらすみません。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

このSSまとめへのコメント

1 :  MilitaryGirl   2022年04月21日 (木) 08:37:10   ID: S:dn73Nm

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