真美「ベランダ一歩、お隣さん」 (462)





あの日も、夏が始まったばかりの暑い日だった気がする。





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「真美ー、この段ボールこっちでいいのー?」

「うんむー、頼むー」


隣の部屋から、壁越しに亜美の声が聞こえた。



夏の頭、じりじりと日差しが強い日のお昼下がり。

亜美と一緒に、引越しの準備をしていた。


「やばっ、これちょっと懐かしすぎる!」

「え、何見っけたの?」

「これこれ」

「……って何見つけ出してるのさ!? 捨てて! 捨てて亜美!」

「えー」


荷造りをしながら懐かしの品を掘り出しては、手を止めて二人ではしゃぎ回る。

お陰で、作業は遅々として進まなかった。


「もう、そういうことするなら手伝わなくていいよ」

「真美さんや、そう易々と拗ねるでないぞよ?」

「ふん、私はオトナの階段を着々と登ってるの」

「酒も飲めない歳で何を言うか」

「よっし、今度りっちゃんにこないだのタバスコジュースの真相をお伝えしてしんぜよう」

「あ゙っ!? 真美、それは卑怯っしょ! あの件は合意の上で闇に葬ったはずだよ!?」

「亜美クン……外交カードとは常にフトコロに忍ばせておくものなのだよ……」

「うあー! まじごめんっ!」


けらけらと笑いながら、いつものように漫才じみた掛け合いを繰り返す。

酒も飲めない歳、かぁ。

あと一年もしない内に合法になるのかと思うと、時の流れって早いなぁ。


「……なぁんて、私もおばあちゃんじみてきちったよ……」

「真美さんや、ご飯はまだかいの?」

「亜美おばあちゃん、もう食べたでしょ」

「ううん、本当にまだ食べてないよ」

「……あれっ、そういや食べてないっけ?」

「真美……まさか若年性……」

「ちがうーーーっ!」


きーっ!と叫ぶ私を尻目に、亜美は「お昼持ってくるー」と、台所へ駆けて行った。

そういや、朝に菓子パンを食べたきりだった。

これじゃあ本当にボケ老人みたいだ。


一人だけ作業をするのもなんだか癪だから、ぼーっと窓の外を眺める。

マンションの窓からは、前面に広々と青空が見える。


あー、夏の空っていいなー。

あの白い雲とか、すっごいもふもふしてそう。


「……でも、あ゙づい゙」


動きを止めると、途端に暑さがむわっと襲いかかってくる。

無理。これは耐えきれぬ。


「涼しい場所はいねがー……」


空を見ていた視線を少し下げると、ベランダが目に入った。

人が三、四人立てるくらいの、微妙な広さのベランダ。


「……涼も」

窓をがらりと開けて、ベランダへ出た。


澄んだ風が吹いた。

夏の気だるさを吹き飛ばす。


「あー、いーぃ風ぇー……」


溶けたようにベランダの手摺りに身体を預け、だらーんと伸びる。

もー引っ越しの準備疲れたよー。

これならやよいっちにも手伝ってもらうんだった……。


「……お?」


そんな風にだれてた時、視界に手摺りの端が見えた。

その向こうにはもう一つ、別の手摺りがある。


「おー、そういやここ、こうなってたんだった」


私たちのベランダの端の向こうには、お隣の部屋の手摺り。

その距離は、ほんの子どもの一歩ほど。


「久しぶりに、やっちゃいますかね?」


右足を手摺りにかける。

室外機のダクトに手をかけ、一呼吸で一気に登る。


「あらよっと!」


猫の子か何かのように、ひょいっと手摺りへ飛び乗る。

アイドルレッスンで鍛え抜かれた私のバランス力に、敵はないのだ!

……ダクト掴んでる時点でダメな気もするけど。


「うわー、やっぱり高いね、ここ」


眼下を見降ろせば、ちっちゃい人々がちらほら。

あれ? これ、スカートの中見える?


「……まぁ、大丈夫っしょ!」


それより、こっから落ちたらマミバーグケチャップソース添えになっちゃうから、気をつけないとね。

いま思うと、昔はこんなことをよくもまあ躊躇なくやってたなあ……。



マンションの壁を伝うパイプを掴む。


そして、隣の手摺りへ一歩、足を伸ばした。


あの日と、同じように。


――――――――

―――――

――




「っととぉ! めっちゃギリセーフ! 危なかったぁ……」


一歩で渡れるかびみょーな距離だったけど、まぁ真美の足にかかればこんなもんっしょ!

スリル満点で面白かった!


「で、渡ったはいいんだけど……」


隣のベランダに降りて、部屋の中をこっそりと覗く。


「ここ、誰の部屋?」


うーん、人がいる気配がしない。

誰もいないっぽい?


「そういえば真美、お隣さん会ったことないかも」


すれ違ったことくらいはあるのかな?

でも、エレベーターとかで会う中の誰なのかはわかんないや。


と、その時急に。


「ん?」

「うあああああああんっ!?」


ととととと、突然横から声がしたぁ!

びっくりしてすぐ横を見ると、男の人が怪しむような目で真美を見ていた。


「……隣のベランダから幼女が侵入してきた」

「な、何をぉっ!?」


で、出会い頭によーじょとは失礼な!


「真美、これでも小五なんだかんね!」

「十分幼女じゃないのか……いや、幼女って歳じゃないか……」

「全く、シツレーだよキミィ!」

「……いや、いきなり人んちに不法侵入決め込んでるお前の方が失礼だからな?」

「……あり?」


どうやら、この部屋の人っぽい?


「兄ちゃん、この部屋の人?」

「兄ちゃんて……まぁ、そうだな」

「ニート?」

「誰がニートだ誰が。大学生だよ」

「ほほう……エリートですな?」

「だと思うか?」

「思わない」

「本当に失礼な奴だなお前」


真美は気付いた。

この手摺りの影の部分、割と涼しい。

だからこの人もここに座ってんだね。


「隣座っていい?」

「いいけど……ほんと誰だお前……」


真美は真美ですが?


暇だったから、兄ちゃんとだらだらとお喋りしてた。


兄ちゃんは大学四年生で、今は就活中だということとか。

就活があんまりうまくいっていないということとか。

というか、やりたいことが特にないということとか。

あんまり就活に身が入らず、だらだらと日々を過ごしてることとか。


「結局、実態はニートと大差ないじゃん」

「やめてくれ、耳が痛い」

「働けニート!」

「働かせてくれよ!」

「真美が子どもじゃなくて社長さんだったら良かったのにね」

「社長さんはまずベランダから侵入はしない」


だらだらと喋ってるだけだけど、なんか楽しかった。


「あ、そろそろ戻らなきゃ」


手摺りによじ登ろうと手をかける。


「いやいやいやいや待てお前落ちたらどうする! 帰りは普通に玄関から戻れ!」

「だいじょーぶだって! 真美、うんどーしんけーには自信あるから」

「『大学生の部屋から少女が落下! 部屋へ連れ込んだ挙句、悪魔のような凶行!』とかワイドショーに躍るだろう!」

「『少女誘拐、二十代の男を逮捕! 部屋から逃げ出したところを近隣住民の通報により救われる!』とかニュース報道されてもいいの?」

「お前嫌な子どもだな……ちゃんと俺が表の様子見るから、合図したらとっとと戻りなさい」

「へいへい」


まぁ確かに、来るときベランダ危なかったしねー。

兄ちゃんがそう言うなら、仕方ないから言うことを聞いてあげよう。


「そんじゃまた明日来るねー」

「また来るんですか!?」


兄ちゃんが玄関から顔を覗かせて固まった。

んっふっふ~、こんな面白い秘密基地、使わない手はないじゃん!


「もっちろん! なんか面白いもの用意しといてねー!」

「えぇ……この後飲み会だから明日は一人でゆっくりしたいんだが……」

「そんじゃ、ばいばーい!」

「来るなよ、絶対来るなよ!?」


ほほう、兄ちゃん、出来るヤツと見た。

真美知ってるよ、それ振りってやつでしょ?


次の日。

昨日みたいに、ベランダの手摺りを伝って兄ちゃんの部屋に行く。


「ふっ、この真美様も手慣れたものよ……」


今日は、ベランダに兄ちゃんはいない。

ゆっくりしたい、とか言ってたから、部屋にいるはず……。


「あ、いたいた。なんかパソコン弄ってる」


窓越しに兄ちゃんを確認。窓の鍵は開いてるっぽい。

ならば……やることは一つ。


「こっそり……音をたてないよーに……」


今の真美は忍者。忍者なのだ。ニンニン!


音をたてないように、静かに窓を開けて侵入する。


「ククク……兄ちゃん、気付いていないようだな……」


そろぉりそろぉり。

静かに忍び寄って……。


「わぁっ!」

「どわぁっ!?」


兄ちゃんの肩が、漫画みたいに跳ね上がった。

胸を押さえながら、慌てて真美の方へ振り返った。


「ななななんだいきなり!」

「いやっはーー! ドッキリだいせいこー!」


真美隊員、ミッションコンプリート!


「お前、またベランダ渡ってきたのか! 危ないっつっただろうが!」

「だって正面から行っても驚かせらんないじゃん」

「驚かせることに義務感を持てとは誰も言ってないからな?!」

「もう一人の真美に言われたのさ」

「何がもう一人の真美だ……って」


兄ちゃんが思い出したような顔をした。


「お前の名前、真美っていうんだな」

「え!? 昨日から何回も言ってんじゃん!」

「いやぁ、あまりにも自然に言われてたから、意識してなかった」


そういや、確かにちゃんとじこしょーかいってしてなかったかも。


「双海真美! ぴちぴちないすばでーの超美女だよ!」

「ガキが何を言う」

「なんだとー!」


ダメな兄ちゃんだ。

れでぃーの扱いがなってない!


「まぁいいや……っと、もう十五時か」

「真美は学校に行ってるっていうのに、兄ちゃんは今日も引きこもってるんだね」

「今日は講義がないんだよ。レポート書いてんだ」


兄ちゃんのパソコンを覗くと、なんかちっちゃい文字がいっぱい書いてある。

ええと、けーざいじょーほーのなんたらかんたら?

後ろの漢字は読めないや。


「……つまんない」

「本当にな、最高につまらん。でも俺、コレやんないと卒業できないわけよ」

「ねーねー、そんなつまんないの放っといて、面白いことやろーぜー」

「お前なあ……」


真美はそういうの求めてないの。

兄ちゃんのシャツをひっつかんで、ぐいぐい揺さぶる。


「しゃーない、補給タイムだ」

「ほきゅーたいむ?」


兄ちゃんは立ち上がって、キッチンの方へ行った。

冷蔵庫を開けて、何やらごそごそやってる。


「お前、黒と白、どっちが好き?」

「え? んーと、白かなー」

「なるほど」


ばたんと冷蔵庫を閉めて、兄ちゃんが戻ってきた。

なんか手に持って……って!!


「ケーキだあああああああああ!!!!!」

「近所迷惑だ黙れ!」

「はい」


ぴっ!とその間一秒足らず。

真美はそっこーで正座して兄ちゃんをお迎えした。


「ほれ、ショートケーキ」

「うわああぁ……白いやつだぁ……!」


真っ白な生クリームで綺麗に包まれて、その上にちょこんと赤いイチゴが……。

うわぁ……美味しそう……!


「た、食べていいの!?」

「いいから黙って食え」

「うん!」


兄ちゃんからショートケーキとフォークを受け取る。

ちょんっとつつくと、生クリームにフォークの穴が開いた。


「ふぉぉぉおおお……!」

「いいから食え」


いっただきまーす!


ぱくっ。

さらり。

しっとり。


「おぉ……生クリームが舌で溶けて、続いてスポンジの柔らかな食感が……!」

「黙って食え」

「はい」


ぱくぱく。

おいしー!

真美ってば、こんなに幸せでいいのかな!


「このケーキどうしたの?」

「貰いもんだよ」


ふむふむー、どこの誰だか知らないけどありがとう!

お陰で真美は幸せだよ!


「さて、じゃあ俺は黒いのを食おう」

「チョコケーキ?」

「ああ」


兄ちゃんもケーキを口に運ぶ。

もぐもぐ。

ちょっと口元が緩んでる。


「……ああ、糖分最高」


何度も何度も噛みながら、兄ちゃん、なんか幸せそう。

……チョコケーキも美味しそーだなー。


「……兄ちゃん、それ美味しい?」

「ん? めっちゃ美味い」


「……」


じーっ。


「……食いたいのか?」

「とうっ!」


ざくっ。


「あぁっ!? 俺のチョコケーキ!」

「んぐ……びたーあまーい!」

「おのれ重ね重ねこのガキめ……!」


やっぱりチョコもめっちゃおいしー!

あまあまなショートケーキよりもちょっとオトナの味で、びたあまですなー。


「兄ちゃん、ごちそーさま!」

「へいへい……言えばちゃんとあげるってのに……」


ちょっと不満そうに、兄ちゃんはお皿を片づけに行った。

いいなー兄ちゃん。ケーキくれる知り合いがいるんだ。

……あれ? でも、普通一人暮らしの人に二個もあげるかな?

箱に書いてあった賞味期限、今日だったよね。


「なんでケーキ二個あったの?」

「ん? そりゃお前が来るから――」


そこまで言って、兄ちゃんは眉間にしわを寄せて黙った。

ぷいっと真美から視線を逸らして、また皿を洗いだす。


「……たまたま貰った」

「えー」


そっかぁ。

兄ちゃん、わざわざ買っておいてくれたんだね。


「ねね、兄ちゃん」


くいくいと、シャツの裾を引っ張る。


「なんだよ」


ちょっとむすっとしてる兄ちゃん。

んっふっふ~、なんかちょっと可愛いかも。


「ありがと!」

「………………ん」


皿を洗いながら、やっぱり真美の方は見てくれない。

でも、真美の見間違いでなければ。

けっこー、満更でもないような顔をしてたかも。

初めましての方は初めまして。
お久しぶりの方はお久しぶりです。

三年ほど前、私生活がひどかった時期に落としてしまい、その際は本当に申し訳ありませんでした。
今回は原稿が書き上がっておりますので、最後まで投稿いたします。

ただ、時間の関係で一日に投下し切ることはできないので、一日あたり多くて数十レス分くらいになるかと思います。
日刊感覚でお読みいただけると幸いです。
よろしくお願いしまかぶとがに。


次の日。

昨日はケーキを食べた後、レポート書いてる兄ちゃんの横でだらだらして帰った。

そして本日は、また新たな手を考えたのだ。


「こっそりこっそり……」


慎重にベランダへしんにゅー。

そして同じように、鍵がかかっていない窓を開ける。

今日も兄ちゃんは、部屋に引きこもってレポートか何かを書いてるみたい。


「くっくっく……」


そろーりそろーりと背後に忍び寄ると……。


「ふっ、そう毎回、俺を驚かせられると思うなよ」


兄ちゃんがこっちを向いた。


「んっふっふ~」

「やっほ~」

「……」


ぽかんと口を開けたまま、兄ちゃんが固まった。


「あれ? 兄ちゃんどったの?」

「顔色悪いけど、だいじょーぶ?」

「ま……」


ま?


「真美が二人に増えたぁ!?」


驚いた兄ちゃんは、思いっきり後ろへ仰け反った。

置いてあった本の山を崩しながら、真美達を交互に見てる。


「えっ、あれっ、えっ、単細胞分裂?!」

「遠まわしにすんごい失礼なこと言われてるよ、真美」

「兄ちゃんにはデモクラシーってものがたりないよね、亜美」

「で、デリカシーのことか? って、亜美って……」


ここで兄ちゃん、ようやくタネに気付いたっぽいね。


「そう、何を隠そう……」

「真美達は、双子なのだー!」


そう、兄ちゃんに高らかに宣言する。

少しの間黙り込んだ後、兄ちゃんは驚いた表情のまま、ぱちぱちと拍手をした。


「というわけで、次からケーキは三つ用意してね」

「えぇ……幼女が更に増えるのか」

「亜美は幼女じゃないってのー!」


ちなみに、実は三つ子だって言ったら、また驚かれた。

嘘ですって言ったらゲンコツされた。


「おっと、十五時か」

「兄ちゃん! 今日もケーキある?」

「えっ、ケーキ!?」

「たかりに来たのかお前ら……はいはい、ケーキじゃないけどあるよ」


兄ちゃんが溜息をつきながら冷蔵庫を漁る。

いやっほーう!

やっぱり兄ちゃんはできるやつだぜ!


「あ」


その時、兄ちゃんの動きがぴたりと止まった。


「? 兄ちゃん、どったの?」

「……あー、あるにはある、ん、だが……」


兄ちゃんが、なんか言いづらそうな顔でこっちを見る。


十秒後。

テーブルの上に置かれたのは、なんと二つのゴージャスセレブプリン!


「兄ちゃんありがとー!」


亜美は目をきらきらと輝かせながら、スプーンを片手に握りしめている。

でも兄ちゃん……二個ってこれ、片方はきっと自分の分のつもりだったんだよね。


「はぁぁぁぁ……。たんと召し上がれ、ガキ共……」

「いよっしゃぁーー! いっただっきまーーす!!」


待てをされていた犬が、よし!と言われたかのように、一気にプリンに躍りかかる亜美。


「ゥンまああ~いっ! こっこれは~!」


口に運んだ瞬間、ほっぺたを押さえながら高らかに叫んだ。

おおお、おいしそう!

でも……これ、兄ちゃんも食べたいよね、甘いの好きそうだし……これ買うの大変だし……。

目に見えてしぼんだフーセンみたいな顔でしょぼくれてるし……。


「うー……」

「ほら、真美も食べな」

「え、でもこれ……」


真美が喋ろうとすると、兄ちゃんはそっと人差し指を、真美の口に当てた。


「いいから。子どもは黙って美味しそうに食べてりゃいいの」

「……兄ちゃん」

「ほら、折角冷蔵庫で冷やしてたんだから。温くなるぞ」

「うん……」


兄ちゃんがそう言うなら。

ふたを外して、スプーンでプリンをすくう。

お、おおおお!

や、柔らかい! 口に運ぶ前からテンションマックスっしょ!

そして、口に運ぶと……。


「ゥンまああ~いっ!」


口の中を駆ける稲妻!

舌を襲う甘みの衝撃!


「双子はリアクションも一緒なのか」

「これっ、これめちゃおいしいよ!」

「そりゃあ良かった」


兄ちゃんはそう言うと、隣で食べ終わってた亜美のスプーンとかを片づけ始めた。

空になったプリンの容器をキッチンへ持っていく後ろ姿は、なんだか寂しそうだった。


「……」


真美はプリンとスプーンを持って、兄ちゃんのとこへ行った。


兄ちゃんは真美が近づいてきたのに気付くと、ちょっと不思議そうな顔をした。


「あれ? 実はプリン苦手だったか?」

「ううん、大好きだけど」


ぱくっ。

やっぱりおいしー!


「くそう、旨そうに食うじゃないか」

「苦手とかじゃなくて、えっと」


えっと、その……。

真美達ばっかり食べちゃ、なんかふこーへーだよね。


「兄ちゃん、プリン食べたいんでしょ?」

「ばっ……そそそそそんなことはない!」

「そんな見栄はんなくてもいいのにー」


だからね、兄ちゃん。


「はいっ、あーん」

「……えっ?」


こんなに美味しいプリンだもん。

みんなで食べなきゃだめっしょ!


「兄ちゃんも食べよ?」

「えっ、いや、その」

「はい、あーん」

「それ、真美がもう口つけたやつ」

「あーん」

「……あーん」


ぱくり。

もぐもぐ。

ごくん。


「……ゴージャスセレブプリンめっちゃくちゃ旨い」

「うんっ!」


これでみんな、びょーどーだかんね!

でも、なんで兄ちゃん、ちょっと気まずそうな顔してるんだろ?


「小学生ってそろそろ、こういうの気にしだす歳じゃないのか?」

「え? 気にするって?」


ぱくり。

んー! やっぱりプリン美味しいよー!


「いや、その……なんでもない」

「??」


ほんとに兄ちゃん、どうしたんだろ?

真美、なんか変なことしたかな。

真美がしたことと言えば、兄ちゃんにプリンあげたくらい――


「……あれ?」

「あ。その顔、今更気付いたっぽいな」

「えっとえっと、真美は今、兄ちゃんにプリンあげて」

「うん」

「このスプーンで」

「うん」

「真美が食べたこのスプーンで」

「そうだな」


……。

えっ、それってつまり……。


「……うあぁぁぁあっ!?!?」

「何も考えてなかったのか……」


うあうあ~!!? 真美、なにはずいことしてんの!?

や、やばいよ、今顔真っ赤だよ!


「あ、亜美! 帰ろ!」

「真美、どったのー?」

「な、なんでもないよ! なんでもないから!」

「……兄ちゃんに変なことでもされた?」

「ち、ちがっ……えっと、変なことしたのはむしろ真美で、その……!」

「えっ、真美なにしたの!?」


自分でもわかるくらい顔が熱くなってるよ!

真美のバカ! あんぽんたん! 美少女!


「おーい、真美。大丈夫か?」

「大丈夫じゃないっしょ!! ま、また明日っ!」

「えー、もう帰るのー?」

「お、おう、また明日」


まだ残っていたそうな亜美の手を無理やり引っ張って、兄ちゃんの部屋から飛び出した。

うああああん!!


――そんなことがあってから、真美は事あるごとに兄ちゃんの部屋に遊びに行くようになった。

時々亜美も一緒に来たけど、基本的には真美一人だけ。

兄ちゃんの部屋に行って、おやつもらって、だらだらと漫画読んだり一人でゲームしたり。

兄ちゃんは大体レポート書いたり就活のなんか紙を書いてたり。

時々一緒に遊んだりもして。


「ねえ、今日のおやつは?」

「緊縮財政でカットです」


「昨日の試験、どーだったのー?」

「……聞くな、聞かないでくれ。頼むから」


「1Pは真美ね! コントローラー取ったぁ!」

「はいはい」


暑い夏の日から始まった、真美と兄ちゃんのおかしな毎日。

本当に兄ちゃんができたみたいで、とっても楽しい!


そんな毎日がちょっと変わったのは、外が寒くなり始めた秋の終わり。

いつものように兄ちゃんの部屋に行くと、なんか兄ちゃんが踊ってた。


「……兄ちゃん、何してんの? 頭おかしくなったの?」

「これは喜びの舞いだ!」


真美の言葉にツッコミも入れず、兄ちゃんは嬉しそうに一枚の紙を見せてきた。


「えーっと……ないてい……つうちしょ?」

「その通り! 就職先が決まったんだよ!」

「えっ……ええええええ!?」


兄ちゃん、てっきり就職できないかと思ってた……。

話を聞くと、どーやら夏の終わりに、街中で変なおじさんに声をかけられたっぽい。


「ねぇ、そこ大丈夫なの? 怪しくない?」

「一応調べたら、大きくはないけどちゃんとしたとこだったよ」

「それって何するとこなの?」


真美の質問に対する兄ちゃんの答えは、けっこー予想外なものだった。


「アイドル事務所のプロデューサーやるんだよ」

「……あいどる?」


アイドルって……あれかな?

あの歌って踊って、バラエティでわーきゃー言ってる、あれ?


「アイドルって、あのアイドル?」

「そう、あのアイドルだ」

「えっ、日高舞とか?」

「お前そういう世代じゃないだろ……事務所違うし」


日高舞ってそんな前の人だったっけ。

でも、そっかぁ。

真美が知ってるアイドルってそれくらいだからなー。


「俺がプロデューサーやる事務所のアイドルっていうと……秋月律子とか」

「んー、聞いたことない」

「まぁ、世間一般にすごく有名ってわけじゃないからなー」


そんなことを言いながら、少し得意げな兄ちゃん。

おぉ、なんかギョーカイジンっぽい!

その内、テレビにいっぱい出てる人と仲良さそうに話したりするのかな?


「でも兄ちゃん、いきなりプロデューサーとかできんの?」

「できる!」

「やけに自信満々じゃん」

「できる、と社長が言っていた!」


そう言って胸を張る兄ちゃん。

……ねぇ、プロデューサーってホントにそんなに楽なの?

騙されてない?


そんな話をされてからしばらくすると、兄ちゃんは事務所でバイトをするようになった。

プロデューサー業のべんきょーも兼ねて、アイドルこーほせい?のレッスンとかを見てるんだって。

といっても、教えるのは専門の人で、兄ちゃんは雑用的なことをやってるだけらしいけど。


「顔見せも兼ねてるんだよ」

「どんな人たちがいるの?」

「中学生から高校生くらいか。一人だけ短大生がいたかな?」

「いーーーっぱいいるの?」

「十人くらいだよ」


んー、けっこーいるような気もするけど、事務所全体でそれは少ないのかな?


「女の子ばっかりのとこ行って、避けられたり嫌がられたりしない?」

「んー、男が苦手だって子とか、飄々としててあまり喋らない子とかはいるけど、基本的には歓迎してくれてるよ」

「そっかぁ」


じゃあ、いじめられたりはしてないんだね。

思ってたよりは良さそうな場所っぽくて、ちょっと安心したかも。


「お前、なんでホッとしたような顔してるんだ?」

「え? えーっと……なんでもないよ」


真美がそっぽを向くと、兄ちゃんはおかしそうに小さく笑った。


「な、なんで笑うのさ!」

「俺のこと心配してくれてるのか?」

「ち、違うよ! そんなんじゃないから!」

「あはは。ありがとな、真美」


そう言うと、兄ちゃんの右手が真美の頭をくしゃくしゃと撫でた。

うあー。

そんな風にされると何も言えないじゃーん……。


「まぁなんか困ったことがあったら言うから、そんな心配すんなよ」

「……約束だよ? 無理しちゃダメだかんね」

「はいはい」


兄ちゃんは真美を見て、もっかい笑った。


会ってから半年近く経ったけど、兄ちゃんのこと、いっぱい分かってきた。


時々意地が悪いこと。

子どもっぽいとこがあること。

見栄っ張りなこと。

すぐに無理をすること。

辛いのをあまり見せようとしないこと。

それに、とっても優しくていい人なこと。


だからね。

真美、兄ちゃんのことが時々心配になるよ。

兄ちゃんに良くないことがあったら、

部屋で遊べないし、

おやつ食べれないし、

いたずらできないし、

さっきみたいに、頭ぽんぽんってやってもらえないし。


だからね。


「ねえ、兄ちゃん」

「ん?」

「ヤバい橋だけは渡らないでね」

「お前どこでそんな言葉を覚えてきた」


……。

んっふっふっふ~!

ちょっと黙ってから、二人で一緒に笑った。

これからも、こんな感じで笑っててね。

ゼッタイゼッタイ、約束だかんね!


時間はどんどん過ぎていく。

あっという間に、秋が終わって冬が来る。


真美、いつの間にか兄ちゃんと一緒に居るのが当たり前になってきちゃったね。

暇なときは、大体兄ちゃんの部屋。

でも、バイトが始ってからは遊べる時間も減ってきた。

年が明けるころには、兄ちゃんはほとんどバイトばっかりだった。


「ねぇ兄ちゃん、そんなんで卒業できんの?」

「出来る! はずだ!」

「この前、卒論が終わる気がしないとか言ってなかったっけ」

「そこは抜かりない。教授には貢いである」

「うわぁ……」


こんな調子で、兄ちゃんはバイトバイトバイトバイト……。

もうバイトってかしゅーしょくしてるよね?


「昨日もやよいがな」

「ふーん」


やよいって、真美よりちょっと年上の人だっけ。

兄ちゃんは特に話すことがないと、真美に事務所の話をしてくれる。

楽しそうに話す兄ちゃんを見てるのはいいんだけど……。


「……仲間はずれみたいでふくざつー」

「ん? なんか言ったか?」

「んーん、なんでもないよ」


兄ちゃん、どんどん遠くに行っちゃう気がする。

せっかくこれからは兄ちゃんと一緒に、いっぱい楽しいこと出来ると思ってたのに……。


帰ってから部屋でぐでーっとしてたら、亜美がちょこちょこ寄ってきた。


「ねーねー真美、なにふてくされてんの?」

「……別にー」

「兄ちゃんと喧嘩でもしたの?」

「ううん」

「なになに、なんか悩んでるの?」

「えっと……」


兄ちゃん、最近あんま構ってくれない。

というか、構ってはくれてるけど、なんか前よりも遠い、気がする。

なんかむかむかするし、なんか……だし。


「んっふっふ~、真美ってば、兄ちゃん取られて寂しいんだ?」

「うっ……ち、ちがーわいっ!」

「あまり双子を甘く見ないことですぜ?」


亜美がなんでもお見通し!って顔でにやにやしてる。

ぐぬー、双子なんて大っきらいだ!


「そーなんでしょ?」

「……ごめーとー」


白旗降参。


「だってさー、いっつもいっつも事務所の女の子のことばーっかり! 兄ちゃんのむっつりスケベー!」

「真美さんや、許してやんな……兄ちゃんだって男の子なのさ……」

「う、うぐぐ」


そりゃね?

別にいいよ、女の子といちゃいちゃしててもさー。

でも、もーちょっと真美に構ってくれてもいいんじゃないのー!?


「兄ちゃんのばーーーか!」

「言ったれ言ったれ!」

「ばぁぁぁぁぁぁあか!!!」


ドンッ!


「ゔっごめんなさい!」

「……聞こえてたみたいだね、兄ちゃん」


心の狭い地獄耳……。


「ねぇ、亜美」

「ん?」

「どーしたら兄ちゃん、構ってくれるかなー」

「えー? どーしたらって言っても……」


急にそんなことを聞かれて、亜美は答えに困ったみたい。

そりゃそうだよね。

真美だっていきなり聞かれても何にも言えないもん。


「だって、会える時間も少ないんでしょ? 最近、帰り遅いことも多いみたいだし」

「うん。バイトが休みの日とか、帰りが早い日にちょっと遊べるくらい」

「もーそっからして不利だよねー」

「ホントだよもー。真美もバイトに連れてってくれればいいのになー」

「さすがにそれは無理っしょー。一応お仕事だし」


あーあ、いいなー。

話聞いてると、寂しいけど、確かに事務所楽しそうだもん。


「真美も兄ちゃんと一緒に行けたらなー……ぜーったい毎日楽しいのに」


と、口にした時。

真美も亜美も二人とも、同時にぴくっと動いて目が合った。


「……一緒に」

「行けたら?」


…………。

……そっか!


「そっかそうだよ! 簡単じゃん!」

「気付いたか……気付いてしまったか、真美よ!」

「んっふっふ~! もうこーなったら、この手しかないっしょ!」


そうと決まれば……!


「亜美! 真美は……やりとげるよ!」

「ふっ、真美……一人で抜け駆けしようったって、そうはさせないぜ!」

「亜美?! まさか、お前……!」

「ふしょー、この双海亜美、真美殿にお供するしょぞんでござる!」

「よくぞ言ってくれた!」

「だってこんな面白そーなこと、真美だけやるなんてずるいじゃん」


最後の最後で、ふつーに亜美の本音が出てきた。

うん。立場が逆だったとしたら、真美もそう言う。

だってこれ、兄ちゃんのこと抜きにしても、絶対面白いじゃん!


「まずはパパとママに言わなきゃね」

「あれこれお稽古やらせよーとしてたし、それと同じよーなもんだからだいじょーぶっしょ?」

「多分だいじょーぶだとは思うけどねー」


そのまま亜美と二人で、コソコソゴニョゴニョ。

まずはパパとママの砦を陥落させるべく、作戦を練り始めた。



それからまたしばらく経って。

春。


兄ちゃんは教授のお目こぼしをもらいつつ、ぎりぎり卒業できたっぽい。

かなり危なかったらしく、卒業できなかったら退学するつもりだったんだって。

オシゴトに気合い入りすぎだよね。


新しい年度になって、真美達は六年生になった。

正式にプロデューサーとして入社した兄ちゃんとは、滅多に会わなくなった。

夜遅くまで働いてるし、休みの日もお仕事行ったりしてるから、もうホントに時間が合わない。


「亜美、準備できたー?」

「うん、バッチリだぜい!」


だから真美は、亜美と二人で一計を案じたのだ……!

……一計を案じたって言葉の使い方、あってるよね?


「そろそろかな?」

「そろそろだね」


亜美が返事をしてくれた瞬間ドアが開いて、口元にほくろがあるお姉さんが、真美達を呼びに来た。


「それでは次の方、どうぞー」

「よっしゃ! 行ったるで!」

「双海魂、見せたろかい!」

「ふふ、頑張ってね」


「……」

「ん? キミィ、どうしたのかね? 口を開けたまま固まったりして」


ドアの向こうで真美達を迎えてくれたのは、なんか黒っぽい怪しいおっちゃんと、もう一人。

ぽかんと口を開けたまま真美達を見る、事務所のプロデューサーだった。


「お、おまっ……おま、おままっ」

「き、キミィ!? どうしたのかね!」

「リレキショ見てないの? 兄ちゃん動揺しすぎっしょ」

「そんなんだからカノジョできないんだよ……先が思いやられますなあ」

「お前らぁ!!!」


ぶふっ!っと、入ってきたドアの向こうから噴きだす声が聞こえた。


そう。

真美達は兄ちゃんが勤めてる事務所の、候補生オーディションに来たのだ!


「で、親御さんは」

「ちょー嬉しそーだったよ?」

「亜美達からまともにこういうの言い出すのなんて初めてだもんね」

「はっはっは、元気な子たちじゃないか」


すっごく苦い顔してる兄ちゃんの横で、おっちゃんは楽しそーに笑ってる。


「ティンと来た! 双海亜美君、双海真美君、合格だ!」

「いよっしゃー!」

「あんがと、おっちゃん!」

「いやいやいやいや社長本気ですか!?」


あ、この黒っぽいおっちゃん、社長さんだったんだね。


「このセリフが出たらもう決まりですよ、プロデューサーさん。はい、双海さん」

「おやつだー!」


ソファーに座らされた真美達の前に、さっきのお姉さんがマドレーヌを持ってきてくれた。

なんかそれなりにダンスとかもれんしゅーしてきたんだけど、披露する間もなく決まっちゃった。


「姉ちゃん、おかしありがとー!」

「ねねね、姉ちゃん!? そんなやだわ、姉ちゃんだなんて!」


小鳥さんっていうらしいお姉さんは、なんかニヤニヤしながら兄ちゃんの背中をバンバン叩き始めた。


「い、いたっ!? 小鳥さん痛いっ! あと反応がすごくおばさんくさ」


ドスン。

さっきまでの音と違って、めり込むよーな音が聞こえた。


「あ、ごめんなさい、つい、力が、入っちゃって、ね?」

「……うっす」


小鳥さん、目が笑ってない。ちょー怖い。

でも今のはどう考えても兄ちゃんが悪い。


「はっはっは! 仲良きことは美しきことかな!」


社長さんちょー楽しそう。

ここが……兄ちゃんの職場かぁ。


そんな感じで、あっという間に真美達、アイドル候補生になっちった。

次の日は事務所のみんなにご挨拶。

ぺたーんからぼいーんまでいろんな人がいる!


「今、私のこと見て失礼なこと考えてなかったかしら?」

「んーん、気のせいっしょ?」

「うふふ、早速仲がいいのね?」


眉間にしわを寄せたぺ……千早お姉ちゃんが、真美のことをじろりと睨んできた。

その隣で、どたぷーんなあずさお姉ちゃんはにこにこしてる。


「それじゃあ、新しく仲間に加わってくれた亜美ちゃんと真美ちゃんに、春香お姉さんからとっておきの……!」

「あっ……も、申し訳ございません……春香が持ってきた、クッキーは……その……」

「えーーーっ!? お姫ちん、一人で食べちったのー?!」

「す、すみません、亜美! ただ今すぐに……」

「わあああああっ!? た、貴音さん! いいですから! 出さなくていいですからぁ! また作りますよう!!」


はるるん……春香さんが用意してくれたクッキーを、お姫ちん……貴音さんがぜーんぶ食べちゃった!

なんか一日中、どっかで騒動が起こってる感じ。

まこちんとかピヨちゃんいわく、いつもこんな感じなんだって。

あ、ピヨちゃんって小鳥さん。

まこちんは真おに……お姉ちゃん!


「……なんか心配して損したかも」

「は? 心配?」


真美がぼそっと呟いたら、いおりんこと伊織さんが不思議そうな顔をした。


「うん。兄ちゃん、女ばっかりのかんきょーで、陰湿なイジメを受けたりしてないかなーって思ってて……」

「はぁ? よりにもよって、この事務所で陰湿ないじめぇ??」


そう言ってからしばらく考え込んだら、いおりんは何かを閃いたみたい。

その顔、真美と亜美もよくしてるよね。

ニヤニヤしながら真美に耳打ちした。


「アイツのことなら、この伊織ちゃんがたっぷりといじめてあげてるわよ……?」

「ふーん、じゃあいじめてみてよ」

「えっ!? ええと……ば、馬鹿プロデューサー、オレンジジュース持ってきなさい!」

「は? 伊織ちゃん、もう飲んだでしょ」

「きーーーっ! 誰がおばあちゃんよ!」


兄ちゃんの呆れた返事のせいで、いおりんの野望はもろくも崩れ去ったのであった……。

めでたしめでたし。


ずっとみんな、ワイワイガヤガヤ。

ひびきんのハムスター追いかけたり、ゆきぴょんが掘った穴を埋めたり、りっちゃんが怒鳴りながら走ってたり。

他にもいっぱい、いろんなこと。

確かにこんなに色々あったんじゃ、兄ちゃんも事務所で引っ張りだこだよね。

家にもなかなか帰れないし、お話しの内容も事務所のことになってくるよね。


「……でも、やっぱり納得いかないー」

「なんで? 事務所で兄ちゃんと遊べるよーになったじゃん」

「うん、そーだけどさー……」


あちらを立てればこちらが立たず、ってやつ?

兄ちゃんが遠くに行っちゃう……っていうのはなくなったけど……。

代わりに、兄ちゃんが他の人と楽しそーにしてるとこを見るのがめっちゃ増えた。

そしてそれを見てると、なんだか、ちぇーって気分になる。


「この前までは独り占めできたのにー……」

「きょーゆーざいさんというやつですな」


亜美は、真美ほどつまらない気分じゃないみたい。


でも、事務所に入ったからには、真美達もアイドル候補生なわけで。

レッスンもしっかりとやらなきゃダメなんだよね。


「うえー……つかりたー」

「亜美もー……」


学校からレッスンに直行して、暗くなるまでずーっと練習。

体力には自信あるけど、毎日これは疲れるっしょ……。


「お、二人ともお疲れさん」

「兄ちゃん!」


二人でぐでーっとしてたら、兄ちゃんが飲み物持ってきてくれた!

あ、お菓子もある!


「体力回復には糖分だ。ま、しょっちゅうはあげられないけどな」

「ありがとー!」


冷たいレモネードと、一口ドーナッツ。

んー! あまあま!


「しっかし、二人がアイドルに興味があったなんて意外だったな」

「え? 特になかったよ?」


しれっと答える亜美。

うん、真美も特に興味はなかった。


「は!? なんで来たんだお前ら!?」

「えーっと、兄ちゃんが楽しそうだったから?」

「アイドルって何するのかよくわかんないけど、やってみたら楽しいかなって思って」


なんて口では言ったけど、ほんとはそれも違う。

真美は楽しそうとかはどうでもよくて、とりあえず兄ちゃんが遠くに行っちゃうのが嫌だから、始めたんだよ。

亜美は普通に楽しいっぽいけど。


事務所からの帰り道。


「二人とも頑張ってるねぇ」

「そうかな?」

「んっふっふ~、はるるんもうかうかしてると、あっという間に追い抜いちゃうぜい!」

「むっ! それは聞き捨てならないなぁ。お姉さんとして、負けるわけにはいかないよ!」


亜美とはるるんと三人で駅に向かってるとき、そんな会話があった。

はるるんは真美達より、一年早く事務所に入ったんだって。

アイドルとしてのお仕事は、週に一回あるかないか。

それもテレビとかじゃなくて、ちっちゃいイベントでの脇役とか前座みたいなのばっかり。


「でも、今年はきっと大ヒットして、トップアイドルになるの!」


そう言って拳を高く突き上げるはるるんは、とっても楽しそうだった。


はるるんちょー楽しそう。

いいなー、真美も楽しくしたいのに……。

兄ちゃんったら今日もさ!


「兄ちゃん兄ちゃん! 今日さ、夕飯食べに行こうよ!」

「あー……悪い。今日はテレビ局の人と呑みに行くんだ」

「えー! 兄ちゃん、最近付き合いが悪いぜー!」

「すまんな……これも仕事なんだ、勘弁してくれ」

「うぐぐ……仕方ないなぁ……」


……って、思い返すと兄ちゃん別に悪くないんだけどさ。

はーぁ……事務所に入れば、もっと兄ちゃんと前みたいに遊べると思ったのになぁ……。


真美、実は亜美ほどレッスンに力が入ってないんだ。

だって、真美は兄ちゃんと遊べればそれでよかったんだもん。

ほどほどにレッスンして、事務所行って、兄ちゃん含めたみんなでワイワイして。

あ、事務所は楽しいよ?

兄ちゃんだけじゃなくて、やよいっちと遊んだり、ミキミキとお昼寝したりとか。

すっごい楽しいよ。


でも。


「やっぱり、真美は兄ちゃんと遊びたいんだよ……」


事務所に行った夜は、寝る前に目を瞑ると、ふとそんなことを考えちゃう。

でも、兄ちゃんは兄ちゃんで忙しい。それは仕方ないことだよね。

それに、みんなはとってもまじめにアイドルを目指してる。

亜美も、だんだんレッスンにも力が入ってきて、なんか生き生きしてるのに。


「真美、最近調子悪いのか?」

「え?」


事務所でだらだらしてたら、兄ちゃんに急に言われた。

調子?

全然悪くないけど。


「なんで?」

「なんか時々、雰囲気が暗いからさ」


やばっ、気持ちが表に出ちゃってたのかな。

兄ちゃん、何でもないように聞いてるふりして、めっちゃ真美のこと心配してる。

自分の後ろに回した手が、すっごいそわそわしてるもん。

丸見えだよ。


「んーん! レッスンいっぱいやって、時々疲れてるだけだよ!」

「そうなのか? あんまり無茶はするなよ」


これ以上、兄ちゃんに心配かけるわけにはいかないもんね。

兄ちゃん、真美は大丈夫だよ。


「兄ちゃん、仕事は楽しい?」

「ああ、プロデューサー業は思ってたよりずっと楽しいぞ!」


疲れるし面倒も多いけどな、と兄ちゃんは笑った。

世話好きだもんね、兄ちゃん。

この事務所、世話焼きたくなるような人がいっぱいいるし。


「みんな、大きな夢を追いかけてる。その手伝いは本当にやりがいがあるよ。金も思ってたより悪くないし」

「最後の一言でぶち壊しだよ」

「チッチッチ……真美はまだお子様だな。お金っていうのはマジで大事だぞ」

「大人って汚いね、兄ちゃん」


いつか真美もそうなるんだよ、って優しい眼差しで言われた。

大人ってホントに世知辛い世界なんだね。

真美、ずっと子どものままでいたいかも……。


「俺の目標は、事務所の全員を売れっ子アイドルにすることだ!」


へー、でっかい夢だねー。

はるるんたち、頑張んないと。


「他人事みたいな顔してるが、勿論、お前もだぞ?」

「へ?」


とか思ってたら、急に矛先が真美の方に向いた。


「真美も?」

「当たり前だろうが。お前だってこの事務所のアイドル候補生なんだ」


そう言って、兄ちゃんは胸を張った。


「そしてそれが叶ったとき、お前は思うのだ。俺との出会いは運命だったのだと!」


あーっはっはっは!と、黒幕の手前であっさり死にそうな悪役みたいな声で笑いだした。

兄ちゃん、完全にフラグ立ってるぜ……。


……でも、そう言われたら、頑張んないわけにはいかないよね。


「兄ちゃん」

「ん?」

「真美、頑張るよ」

「……」


兄ちゃんは無言で真美の頭をぽんぽん撫でた。

あ……これ、すっごい久しぶりかも。

やっぱり兄ちゃんの手って、とっても優しい。


「無茶はすんなよ、真美」

「だいじょーぶい!!」


人のこと煽ったくせに、しんぱいしょーなんだから。


「元気とやる気だけが、真美の取り柄だかんね!」


だから、頑張るよ。

しょーじき、まだアイドルのことってよくわかんない。

でも、兄ちゃんがそこを目指すなら。

兄ちゃんと一緒にそこを目指せるなら。

兄ちゃんと一緒にこれからも笑えるなら。

真美、頑張るよ。


「――」


真美がそう決心した時、兄ちゃんがぼそりとなんか言った気がした。

よく聞こえなくて聞き直したけど、なんて言ったのか、兄ちゃんは教えてくれなかった。

釣りスレかと思ったら本当に復活してるとは

>>74
3年も経って釣りに使われたら、それはそれで光栄……とか言ってはいけないんですが、
覚えていてもらえたのは嬉しいです。
既に書き終えていますので、今回は最後まで投稿できるのでよろしくお願いします。


その日から、真美は頑張った。

まだアイドルのアの字もよく分からないけれど。

いっしょーけんめいレッスンして、オーディションも行った。


兄ちゃんがもくひょー目指して頑張ってるんだもん。

少しくらい遊べなくても、疲れても、嫌なことがあっても。

真美も、頑張んなくちゃいけないから。


「兄ちゃん、真美、アイドルっぽくなってきてるかな」

「最初の頃に比べれば格段にそれっぽいぞ」

「えへへー、じゃあ褒めて褒めて!」

「褒めるって何すりゃいいんだよ」

「えーとね……ぽんぽんってしてくれたら、いいよ」

「こうか?」


ぼすぼす。


「兄ちゃん雑過ぎっしょー! そーじゃないってばぁ!」


「はいはい冗談だよ、わがままめ」


ぽんぽん。

今度はいつもみたいに撫でてくれた。


「……んふー」

「やっぱり子どもは安いな」

「大人は高いの?」

「そうともさ。恐ろしいやつは何万もするブランド物を要求したりする」

「ピヨちゃんも?」

「あの人は……三百七十円のたこわさかな」

「やっすいねー」


そんなのなら真美、安くていいや。

だって、ぽんぽんってしてもらうと気持ちいいし、兄ちゃんの暖かさも伝わってくる。

これがあれば、真美、まだ頑張れるよ。


なのに。

真美、いっしょーけんめい頑張ってるのに。


「……ねぇ、兄ちゃん」

「ん?」

「真美、どうしてオーディション通らないのかな……」

「……んー」


事務所に入ってから大体半年。

秋が真ん中を過ぎても、一個もオーディションに受からなかった。

ほんっとーに小さなエキストラとかさえ、ぜんぜんうまくいかない。

合格者のほーが多いやつだってあったのに。


「審査員との相性ってやつもあるしな。運もあるさ」

「そうじゃないよ」


なんとなく、わかってた。


「だって、亜美はけっこーいい感じじゃん。同じよーなキャラなのに」

「それは……」

「ううん、同じじゃないよね」


だって、亜美のほーが上手いもん。


「ダンスも、歌も、お喋りも……」


ぜんぶ、亜美のほーが上手いもんね。

真美なんかよりも、ずーっとずーっと。


「……まぁまぁ真美よ、落ち込んでないでテレビでも見ようじゃあないか」


変な声で励ますように、兄ちゃんがテレビをつけた。


「……おっと」

「わー、やっぱ凄いねー……」


ちょっとしたバラエティ番組の端っこに、ちっちゃく、ただの脇役ではあるけれど。

にこにこ笑ってる亜美がいた。


その傍には、そっぽ向いてプンプンしてるいおりんと、ぽやーっとしてるあずさお姉ちゃん。


「りゅーぐーこまち組んでから、ぐいぐい行ってるねー」

「……そうだな」

「その前から、亜美はイケイケだったけどね」


全然上手くいかない真美とは正反対。

めちゃくちゃトントン拍子の大成功ルートってわけじゃないけど。

亜美は、真美に比べたらすっごくアイドルらしかった。


「……ねぇ、どうしよ、兄ちゃん……」

「真美……」

「真美、置いてかれちゃうよ……」


こんなダメなままじゃ。

亜美にも、兄ちゃんにも置いてかれちゃう。

兄ちゃんの足を引っ張っちゃう。

兄ちゃんの目標が、遠くに行っちゃう。


「ほら、真美。こっち来い」

「……うん」


兄ちゃんがソファーに座って、隣をぽんと叩いた。

まっくらくらな真美が隣にすとんと座ると、兄ちゃんは真美を膝の上に寝かせた。


「疲れただろ」

「うん」

「甘いもん食べたいか?」

「ううん」

「そうか。なら、このまま少し昼寝するか?」

「……うん」


兄ちゃんの膝は、ちょっと硬かったけど、とっても暖かい。

兄ちゃんの体温がほっぺたに伝わってきて、なんだか泣きそうになる。

でも、泣いちゃダメだかんね、真美。

そしたら兄ちゃん、もっと心配しちゃうから。


「……兄ちゃん」

「なんだ」

「真美さ……」


どうすればアイドルになれるのかな。

そう、聞こうとしたんだけど、ダメだ、目が重いや。

疲れたから、このまま昼寝しちゃおっと。

んっふっふ、兄ちゃんを一人占めー。


「……眠くなっちゃった」

「ああ、そうか。おやすみ、真美」

「うん、おやすみ……」


……なんでかな。

こーいうことするために、わざわざ事務所に入ったはずなのに。


なんか、思ってたのと、違うね。


それからも真美、まずは亜美に追い付こうって、必死に頑張ったよ。

でも、追い付くどころか、亜美はどんどん先に行っちゃう。


亜美だけじゃない。

はるるんも、やよいっちも、いおりんも、ひびきんも。

みんなみーんな、早さは違うけど、ちょっとずつ前に進んでる。

真美だけ上手くいかない。


なんで?

真美、頑張ってるよ?

これまでこんなに頑張ってきたこと、一度もなかったのに。

初めて本気でやってるのに、上手くいかないよ。


「おい、真美。今日のレッスンはこれくらいにしておかないと」

「……ううん、まだ足りないよ」

「やりすぎだ。完全にオーバーワークだぞ」

「オーバーワークになるまでやっても、ぜんぜん追い付けないじゃん」


だったら、もっとやるしかないっしょ。

基本の反復練習も、応用の発展練習も……。

ぜんぶぜんぶ、真美の中身をぜーんぶ吐き出すくらいまで……。


「っ」

「真美!?」


あっ……頭がくらっときて……。


あれ、これ。


あんま、よくないやつ、かな。


目の前が真っ白に――




――。



……あれ、なんで真美、ソファーで横になってるんだろ。

えっと……あぁ、そーだった。

真美、レッスンしてたら倒れちゃったんだ。


「真美、どうしてプロデューサーの言うこと聞かなかったの」


首を横に倒すと、向かい側のソファーに、手帳片手のりっちゃんが座ってた。


「……あれ、兄ちゃんは?」

「悪かったわね、お守りが私で」


りっちゃんは少し、ムスッとしたような表情をして立ちあがった。


「どう? 気分悪くない? 変に痛むところとかある?」

「えっと……だいじょーぶ」


寝ちゃってたのかな。

早くレッスンに戻らなきゃ……。


「……ぅぁ」

「もー、頭押さえて辛そうじゃない。無理するんじゃないの」


頭が重いというか、気持ち悪いというか……。

全身もなんだか気だるい。


「プロデューサーに心配かけちゃダメでしょ」

「……ごめんなさい」

「焦る気持ちは分かるけどね。空回りしたまま続けても、身体を壊すだけよ」


りっちゃんは真剣な表情と真美を気遣ってくれる表情とで、半分ずつくらいだった。

背もたれに身体を預けてだらーんとする。

うあー、もう動けないよ……。


「今日はもう帰って休みなさい。歩ける?」

「ん、なんとか」


りっちゃんに軽く引っ張ってもらって立ち上がる。

うん、頭も覚めてきたから、帰るくらいなら。


「うー、さぶ……」


いつの間にか冬が来て、すっかり寒くなっちゃった。

昨日なんて雪が降ったもんね。

タクシーでマンションの前までりっちゃんに送ってもらっちゃった。


「どーせなら兄ちゃんが送ってくれれば良かったのになぁ」

「私で悪かったわね。プロデューサーは忙しいの」

「分かってるよ。あんがとね、りっちゃん」

「あ、ちなみにあなたが目を覚ます十分くらい前までは、ずっとプロデューサーが看病してたのよ」

「えーーーっ!? っつつ……」

「いきなり大きな声出すからよ、もう。しっかり休みなさいね」

「うん。じゃあまたね、りっちゃん」


しっかり休むように、ともう一回念を押して、りっちゃんはタクシーで戻って行った。

あーあ、りっちゃんにまでめーわくかけちゃった。


がちゃり。

昼間は誰もいない部屋の、玄関の鍵を開ける。

亜美も、今日は番組のしゅーろくだ―って言ってたし。

家には、真美一人。


「ただいまー……」


誰もいないから返事はないんだけど。

習慣みたいに言っちゃうんだよね。


「うー、ダメだー、もう何もできない……」


のろのろと自分の部屋まで行くと、荷物を放り出して、ベッドにばたんきゅー。


真美じゃ、ダメなのかな。

真美じゃ、兄ちゃんと一緒にいられないのかな。

みんなみたいにアイドルらしくないと。

亜美みたいにいっぱい活躍しないと、これからは兄ちゃんと一緒にいられないのかな。


「兄ちゃん……」


兄ちゃん。

真美、寂しいよ。

でも、兄ちゃんが構ってくれないからじゃないよ

真美が、兄ちゃんと一緒にいられるような子じゃないことが、とってもとっても寂しくて。


「悔しいなぁ……悔しいよ……」


ベッド、ふかふかしてて柔らかい。

真美の辛い気持ちをぜーんぶ吸いこんでくれるみたい。

ほんとは今頃、レッスンしてなきゃいけないのに。

真美、悪い子だなぁ。


「あー……兄ちゃんの膝みたい……」


柔らかくて、心地よくて。

でも、兄ちゃんの膝の方が硬かったけど、もっともっと気持ち良かった。


「お疲れ様、真美」

「んふー……」


横になった真美の頬を、兄ちゃんのちょっとごつごつした手が撫でる。

それだけで、真美の疲れとか嫌な気持ちとかは、ぽーんって飛んでっちゃうんだよ。


もっと兄ちゃんに甘えたいな。


「兄ちゃん、もっとー」

「仕方ないな、真美は」


そう言って、兄ちゃんが首回りを優しくもみほぐしてくれて。


「あはははっ、ちょ、くすぐったいってばぁ!」

「そういや前、くすぐりみたいで苦手だって言ってたな」


今度は肩を軽く、リズムを刻みながらぽんぽん叩いてくれて。

小さい子を落ち着かせるような、優しく寝かしつけるような……。

子どもっぽいって思われるかもだけど、兄ちゃんにこうされるの、好きだよ。


兄ちゃんがしてくれる一つ一つが、真美を幸せにしてくれる。


「兄ちゃん、おやつー」

「何が食べたい?」

「白いやつー」


真美が上半身を起こすと、兄ちゃんがフォークを片手に待ってて。


「真美。はい、あーん」

「あーんっ」


ぱくっ。

兄ちゃんが差し出してくれたショートケーキを一口。

んー!

やっぱり、甘味は正義っしょ。


「そんなにケーキが好きか?」

「うん、好きだけど……」

「だけど?」


兄ちゃんが食べさせてくれるから、こんなに美味しいの。

ぱくぱく。


「はい、今度は兄ちゃんがあーん」

「同じフォークでいいのか?」

「いいから! あーん!」

「はいはい。あーん」


兄ちゃんも一口ぱくり。

付き合ってあげますよ、って顔してるけど、真美知ってんだかんね。

兄ちゃんも甘味が好きで好きでたまんないって。


「……悪くない」


ほぉら、口元がちょっと緩んでる。


食べ終わったら、兄ちゃんの膝の上にお座り。

兄ちゃんの腕をシートベルトみたいに掴むと、優しく抱え込んでくれて。


「兄ちゃんってあったかいね」

「冷たかったらそりゃあ死んでるからな」

「真美、あったかいかな?」

「ああ。ホッカイロみたいだ」

「……使い捨て?」

「まさか」


目を閉じると、背中越しに兄ちゃんの鼓動が伝わってくる。



あったかい。

優しさの温度。

心の温度。


それは、兄ちゃんの?

それとも、真美の?


一つ確かなのは、兄ちゃんと一緒にいると幸せになれるってこと。


そうだよ、兄ちゃん。


「……幼女が侵入してきた」

「なにをー!」


兄ちゃんと出会って。


「ほれ、お食べなさい」

「今日はカステラだー!」


おやつ食べて。


「ねね、ドライブいこーよドライブ!」

「えぇ……卒論の要項出さんといけないんだけど……」


いっぱい遊んで。


「はっぴばーすでー!」

「お前、いつの間に人の誕生日調べやがった!?」


たくさん騒いで。


「んっふっふ~、真美が事務所に来てびっくりした?」

「お前らなあ……ドッキリのために人生を変えるなよ……」


兄ちゃんといる時。

兄ちゃんと何かする時。


兄ちゃんはね、真美を幸せにしてくれるんだ。

兄ちゃんと初めて会ってから、一緒に何かするたんびに、少しずつ幸せが大きくなってったんだよ。


ただのお隣さんなのに。


ねえ兄ちゃん、どうしてかな。



むくり。


「……ん……ふあぁぁ……」


って真美、いつの間にか寝ちゃってたみたい。

窓の外は真っ暗。

もうけっこー夜遅くじゃん……。

あーあ、さっきのは全部夢かぁ。ざーんねん。


「あ……毛布?」


隣のベッドを見ると、亜美が小さな寝息をたててた。

帰ってきて、寝てる真美に気付いたのかな。


「……あんがとね」


はいじゃってた毛布を掛け直してあげると、亜美は小さな寝言をごにょごにょ言って寝がえりを打った。


「お疲れさま、亜美」


亜美は亜美で、とっても疲れてるんだよね。


すっかり寝ちゃったせいか、ぜーんぜん眠くなかった。

ちょっと大人ぶって、夜風にでも当たってみよっかな。

セーターを着て、ベランダに出てみる。


「わ、けっこーさむいなー」


はーって息を吐くと、白い霧ができた。

霧は、さっきの夢みたいにすぐに消えちゃった。


「……どーして兄ちゃんと一緒だと、幸せになれるのかな」


今もこうして兄ちゃんのことを考えると、とっても幸せであったかい気分になる。

同時に、いま隣に兄ちゃんがいないことが、とっても寂しくて切ない気分になる。


「兄ちゃーん……真美に変なまほーかけたー……?」


ベランダの手摺りに顎を載せながら、ちょっと文句を言ってみた。

もちろん答えは返ってこないけど。


「……むー」


なんか気に入らない。

これは、そうだ。ぜんぶ兄ちゃんが悪い。

文句を言ってやらないと。


「とうっ」


室外機のダクトを掴んで、ひとっ飛びでベランダに飛び乗る。

レッスンの成果かな、前よりも軽々と登れた。


「ちえいっ」


そして壁のパイプを掴んで、隣のベランダへひとっ飛び。

手摺りから飛び降りて、兄ちゃんの部屋の前に来てみた。


電気消えてるし、誰もいないっぽいけどね。

なんかもやもやするから、とりあえず兄ちゃんに文句言っとこう。


「兄ちゃんのばーか」

「隣の部屋から来た幼女になんか罵倒されてるな」

「うぁぁぁぁああっ!?」


い、いきなり足元から声がしたぁ!!


「しんにゅーしゃ!? ふほーしんにゅーしゃ!? 兄ちゃああああん!!」

「いやいやいやいやふほーしんにゅーしゃはお前だからね?」

「……あれ?」


……よく見たら、いつぞやのよーに、兄ちゃんがベランダに座り込んでた。

もおおおおお!!

びっくりするってばぁ!


「いきなり夜中に侵入されてビビってるのはこっちだからな」

「ごもっともです」


真美は何も言い返せなかった。

顔から火が出そーなくらい恥ずかしかったけど、戻るのもなんだから、兄ちゃんの隣に座った。


「体調、もう大丈夫か?」

「う、うん。ここまで来れるくらいには」

「反省、してるか?」


真美の顔を覗きこむ兄ちゃんの表情は、少し心配そうで、少し怒ってるようにも見えた。


「……ごめんなさい」

「ん、分かればよろしい」


もう無茶はするなよ、と真美の頭を撫でた。

うん、無茶しないよ。兄ちゃんに心配かけたくないもん。


「兄ちゃん、ここで何してんの?」

「ん? 空を見てたんだよ」

「空?」

「ほら、今日は星が綺麗だろう」


兄ちゃんに言われて見上げると、空はきれーに晴れて、星がぽつぽつと光ってた。


「都会だからそんなに多くはないけどな。それでも、冬の晴れ空ならそこそこ見える」

「ほんとだ、けっこー見えるね」

「そんな空を、明日はオフだし、意味もなく眺めてたわけだよ」

「ふーん」


よくテレビで見るよーな満天の星空、というわけじゃないけど、ところどころで星が光ってる。

都会っ子にとっては、これでも珍しいなーって思ったり。

でもそれ以上に、兄ちゃんと見上げる星空はとっても輝いて見えた。


「悩んでいるんだろう」

「えっ」


空を見上げたまま、兄ちゃんが呟いた。

いきなり図星を指されて、真美はとっさに上手い返事ができなかった。


「なんで、そんなこと……」

「真美のことは、見てりゃ分かる」


兄ちゃんはくすくす笑ってから、真美の頭に手を載せた。


「アイドル、辛いか」

「辛くなんかないよ!」


アイドルは、辛くないよ。

そーじゃなくてね、真美は。

続く言葉が出てこなくて、視線だけが逃げるように泳ぐ。


「この馬鹿真美め」

「わっ?!」


兄ちゃんが急に、真美のことを抱きしめた。

うあうあっ!? い、いきなしなにすんのー!?


「ににに、にーちゃん!?」


驚く真美を、兄ちゃんは割れ物に触るように、抱きしめたまま優しく撫でた。


「ごめんな、真美」

「……え?」


ほっぺたが、兄ちゃんの胸のあたりに当たる。

いつか背中越しに聞いたゆっくりとしたリズムが伝わってくる。


「俺に合わせようと、無理してるんだろう」

「そんなこと……」


ない。

とは言えない。

兄ちゃんと一緒にいたくて必死なのは、ほんとだから。

そのことに兄ちゃんが気付いてくれてたのが、どこかで嬉しかったから。


「……」


返事の代わりに、兄ちゃんの胸の中に顔をうずめた。

視界の外で小さなため息が聞こえて、少し大きな手のひらが、真美の背中をぽんぽんと叩いた。


「無理はしなくていい」


兄ちゃんは続けて言った。


「アイドル、休もうか」


がばっと、真美は顔を上げた。



なんで兄ちゃん、そんなこと言うの?


「……やだ」


アイドルを休めって。

それは、真美じゃ力不足だから?


「やだ、やだ!!」


真美じゃ、兄ちゃんと一緒にいる資格がないから?

やだ、やだよ兄ちゃん!


「真美、頑張るから! もっともっと、兄ちゃんが認めてくれるくらい頑張るから!!」


お願い、お願いだよ兄ちゃん!

きっと結果を出すから!


だから兄ちゃん!


「真美のこと、見捨てないでよ……!」


涙がとまんない。

鼻もぐすぐすいう。

やだ、やだ、ってちっちゃい子が駄々をこねるみたいに、真美は泣いた。

真美はまだ、そこそこちっちゃい子だけどさ。


そんな真美を兄ちゃんは、もう一回優しく抱きしめてくれた。


「何言ってるんだ。見捨てるわけないだろう」

「ほんっ……とぉっ……?」

「そんな嘘ついてどうする」


真美は兄ちゃんの肩に顎を乗せて、ちっちゃく嗚咽をもらす。


「真美は焦りすぎだ。子どものくせに」


優しい声で、兄ちゃんが諭すように呟く。

兄ちゃんの声を聞いてたら、真美も少しずつ落ち着いてきた。


「何もそんな長期間休養しろってんじゃない。一か月でも、一週間でも、一日でも。ちょっと休んで、本当にやりたい形を探してごらん」


真美の身体を少し離してから、目を見て兄ちゃんが微笑んだ。


「一人で休むのが嫌なら、事務所でだらだらしててもいい。俺も合間に話を聞いてやるさ。逃げやしない」

「……ほんと? 真美が全然前に進めないからって、置いてったりしない?」

「お前、俺がそんな薄情者だと思うのか?」


ずびっ、と鼻をすすってから、真美は首を横に振った。


「……思わない」

「だろ? 結果なんてすぐに出す必要はないさ。お前、まだ小学生なんだからな」

「でも、亜美は」

「チャンスは人それぞれ。亜美の場合、運が良かっただけかもしれないし、焦らなかったのもプラスに働いたかもな」


真美はずっと焦りっぱなしだった。

思い返してみると、そのせーで全力を出し切れてなかったことが多かったかもしれない。

真美、急ぎ過ぎてたのかな。


「真美、ずっと不安だったんだ」


兄ちゃんに涙を拭いてもらいながら、観念した真美ははくじょーした。


「みんながどんどん前に進んで、亜美も上手くいってて、真美だけが置いてかれて」


そんな真美の話を、兄ちゃんは黙って聞いてくれた。

背中にまわされたままの手が、とってもあったかい。


「このままじゃ、兄ちゃんにも見放されちゃうんじゃないかって」

「なかなか上手くいかないから、プロデューサーが頑張るんじゃないか」


そりゃ、そーだけどさあ。

でもね、こっちにとっては不安で不安で仕方ないんだよ。


「真美の取り柄は、元気とやる気だけだから。それを活かして前に進むには、めいっぱい頑張るしかないっしょ」

「んー……」


兄ちゃんがちょっと唸って黙り込んだ。

あれ……真美、なんかいけないこと言っちゃった……?


ちょっと迷ったような顔をする兄ちゃん。


「あー……真美の取り柄は、元気とやる気だけじゃないよ」

「他に何があるっていうのさー」

「えーとだな」


しばしの沈黙。

……ほーら、思い付かないじゃん。

ふぉろーしよーとしてくれるのは嬉しいけど、真美が一番分かってるもん。


「ないでしょ? 兄ちゃん、無理しなくて――」


「可愛いからな、真美は」

「い……へっ?」


ん?

んん??

兄ちゃん、今、なんて言った?


「兄ちゃん、なんて言ったの?」

「可愛いって言った」


…………。



えええええええええええええええええ!?!?!?



「えっ!? あ、あえっ……に……兄ちゃん!?」

「お世辞じゃないよ。こんな妹がいたらなーって何度も思ったしな」

「あ……そう……」


って、やっぱりそういうことじゃーん!

もー、キタイさせないでよね、兄ちゃんのばか!


「ってかさー……アイドルってみんな可愛いじゃん、真美なんかより……」

「そんなことはないさ」


拗ねて頬を膨らませたら、兄ちゃんの人差し指につんつんされた。

ぷひゅーと空気が抜ける。


「理屈じゃなくてさ、真美って見ててすごく可愛いんだ。見た目だけじゃなくて、仕草とか、声とか、笑顔とか」

「あ、あぅ……」


に、兄ちゃん……。

そんな風に言われると、恥ずいってばぁ……!


「技術的なものも勿論大切だけど、そういう天性の雰囲気っていうのかな。アイドルにとってはとても重要だ」


って、結局アイドル論になるんだね。

兄ちゃんは、真美の気持ちを持ち上げて落とすのが上手いですなー。

でも、悪い気はしないよ。

兄ちゃんが可愛いって言ってくれたんだもん!


「ねぇ兄ちゃん、真美ってアイドルに向いてると思う?」

「ああ、まるでアイドルになるために生まれてきたかのようだな」

「んふー」


口元が緩む。

悪い気がしないどころじゃないや。

真美、ちょーにっこにこしてる。

そのまま兄ちゃんの膝の上にごろんと横になった。


「真美、ちょっとアイドル休もうかな」

「そうするか」


横になった真美の頭を、兄ちゃんが優しく撫でてくれる。

寒い冬空の下のはずなのに、春先みたいにあったかい。

うあー……癒されるぅ……。


「少しの間ね、どんなアイドルを目指すのか考えたいの」

「そりゃいいことだ。ずっと突っ走りすぎてたからな」

「うん。ちょびっとだけ」


兄ちゃんは、真美のことをちゃんと見てくれてる。

ゆっくり、自分のペースで進んでいいんだ。


それにね、真美、ちょっと考えたいことがあるんだ。


「ね、兄ちゃん」

「ん?」

「……んっふっふ~、なんでもないよん」

「変なやつだな」


兄ちゃん。

真美ね、ずっと兄ちゃんのこと追っかけてた。

兄ちゃんといると楽しいし、兄ちゃんがいないと寂しいから。

でもそれってね、ただそれだけじゃなかったんだよ。


「てやっ」

「いっ!? なんだよ、いきなり人の脇腹突いて」

「ふふふふ」


何かあるたびに不安だった。

兄ちゃんが知らないとこで、みんなで仲良くしてるんじゃないかって不安だった。

真美を置いて、どっかに行っちゃわないかって不安だった。

誰か他の人に、兄ちゃんを取られちゃうんじゃないかって不安だった。

それって。


「にいちゃーん」

「今日の真美はやけに甘えん坊だな」

「真美、まだ小学生だからいいんだよー」


兄ちゃん。

真美のこの気持ちは、きっと。




あのベランダの夜からね、真美、ちょー考えたんだよ。

実は、答えなんて最初から分かってたけど。


でも、真美にとっては初めてのことだったから。

ほんとにそーなのかな?って。



そんなことを聞いてみたら、ピヨちゃんが教えてくれた。


「ふふふ。真美ちゃん、きっとあなたが思っている通りよ」

「やっぱりそーなのかな?」

「女の子は誰もが通る道よ。ううん、きっと男の子も」

「兄ちゃんも通ったのかな」

「多分ね。それはとっても特別で、幸せなことなの」


真美が話してる間、ピヨちゃんはとっても微笑ましそうだった。


みんな、同じようなことを言ってた。


はるるんは、あわあわと驚きながら、心地よいものだって教えてくれた。

千早お姉ちゃんは、しばらく黙り込んだ後に、切ないものだって教えてくれた。

ミキミキは、すっごくテンション高めに、情熱と戦争だーって教えてくれた。


表情は人それぞれだったけど、でもみんな、何かを思い出しながら幸せそうだった。

人によっては、前のことなのかな。

人によっては、今のことなのかな。

でもそれが例えいつのことであったとしても。

この気持ちって、幸せなものなんだね。



ずっと言葉でしか知らなかった。

人の話とか、物語の中でしか知らなかった。

遠いどこかの出来事だと思ってた。

でも、それは今、真美の中にある。


「兄ちゃん」

「どうした?」

「んっふっふ~」

「おいおいなんだお前、にこにこして」


兄ちゃん。


真美ね、きっと初めてね。






恋、してるんだよ。





真美は今、いっぱいの幸せを持ってる。

少し想いを巡らせるだけで、あったかい気持ちに包まれる。

このあったかさが、たくさんの人に伝わりますように。


「真美、そんなアイドルになりたいな」

「いい目標じゃないか。とってもアイドルらしいし、真美らしい」


まだ全部は言えないけれど、真美なりに考えたことを兄ちゃんに伝えた。

たくさんの人に、このあったかさを届けたいんだよ。


そう言うと、兄ちゃんは嬉しそうに笑った。


「アイドル双海真美、リ・バースだな!」

「え、げろげろげー?」

「……頼むからカメラの前ではそういう発言は慎んでくれよ……」


そう言ってから、一緒に笑い合った。

久しぶりだね、兄ちゃん。

兄ちゃんが働き始める前みたいで、懐かしいな。


「兄ちゃん。真美、頑張るよ」


そのためにさ。


「真美の手、引いてね?」

「ああ。プロデューサーに任せとけ!」


繋がれた手のひらを、兄ちゃんの体温が伝う。

これがあれば、何も恐れずに進めるよ。


アイドルに復帰してからは、もう無理はしなくなった。


焦らなくていい。


亜美より遅れちゃうのは少し悔しい気もするけど、それはそれ。

亜美は亜美で、真美は真美。

真美なりのやり方で、すぐに亜美に追い付くから!


「だって、兄ちゃんが手伝ってくれるもんね」

「他のみんなだって俺が手伝ってるんだからな」

「うあうあ! 結局びょーどーじゃん!」

「当たり前だろうが」

「あ、隙あり」

「あっ! おま、十割コンボは禁止って言っただろ!」


空き時間にがちゃがちゃとコントローラーを弄りながら、兄ちゃんとアイドル論を語り合った。


「そういえばドラマのオーディションの話が来てたんだった。やるか?」

「えっ!?」

「隙あり」

「ぬわーーー!? 兄ちゃんのひきょーもの!」

「大人は汚いのさ」


大人げない、兄ちゃんちょー大人げない!

しょーがくせい相手に何やってんのさ!


「で、オーディション受けるか?」

「え? 嘘じゃないの?」

「オーディション自体は本当だよ」

「受けるよ! もち受けるに決まってんじゃん!」


話を聞いたら、連続ドラマのチョイ役で、ヒロインの恋敵の一人だって。

恋して負ける役かぁ……ちょっと縁起悪いけど、勿論やるよ!

でも小学生で恋敵役って、それいいの?


兄ちゃんには二つ返事で参加を伝えた。

オーディションは意外とすぐで、特別な対策とかはしなかった。


「急な話で悪かったな。勝算のほどは?」

「んっふっふ~、真美、負け戦はしない主義なのだ!」


と見栄を張ったはいいものの、やっぱりオーディションはきんちょーするよ。

でも、心を落ち着けて、出来る限りのことをするっきゃないよね!

気を引き締め直して、自分に、よし!って言い聞かせた。

ちょーどその時、真美の名前が呼ばれた。


「真美は、真美らしくやればいいんだよね」


独り言を呟いて、会場のドアを開けた。


恋が実らなかった気持ちを、自由に表現してほしい。

それが、審査員の人から言われた、オーディションのお題。

自由ってことは、セリフとか設定とかはかんけーないんだよね?

えーっと、恋が実らなかったら……。


もし、真美の恋が実らなかったら。


「っ……」


……あれ?

なんだろ、まだ演技始めてないのに……。


「……やだ……」


真美の恋が、実らなかったら。

もし兄ちゃんに、振られたら。

誰かに、取られてしまったら。


「やだ……やだ、やだやだやだぁ……!」


ごめん、真美。

申し訳なさそうな顔でそう言う兄ちゃんの顔を思い浮かべたら。

頭の中が、ぐちゃぐちゃになってきて。


「なんで……真美じゃ、ダメなの……?」


兄ちゃん、どうしてそんなこと言うの?

真美、兄ちゃんと一緒だったじゃん。


これからも一緒でしょ?

嘘だよね、兄ちゃん。


「ひっぐ……ぁ……うぁ……!」


でも、分かってる。

嘘じゃないんだ。

兄ちゃんは、もう真美とは一緒に居てくれない。

もう兄ちゃんは、真美から離れてっちゃう。

兄ちゃんと笑うことは、もう。


「ぅあ……うあぁぁぁぁぁああああん!!」


ぼろぼろと雫が零れ落ちる。

両足はまるで真美のものじゃないみたいに、がくんと折れ曲がった。


「行かないで、行かないでよ! 真美、いっしょーけんめー頑張るから!」


勢いよく膝が床に落ちて、めっちゃ痛いはずなんだけど。

それよりももっともっと、心が痛かった。


「真美のこと、見ててよぉ……」


オーディションが終わるまで、痛みは消えなかった。


そんなオーディションが終わると、血相を変えた兄ちゃんが真美のところへ来た。


「ま、真美! 大丈夫か!? そんなに辛かったのか!?」

「え?」


ちょーマジな兄ちゃんが、がんめんそーはくって感じで真美の肩を掴む。


「兄ちゃん兄ちゃん」

「な、なんだ? 審査員の人に酷いこと言われたのか? 上手くいかなかったのか? 大丈夫だからな、真美――」

「いや兄ちゃん。あれ、演技だからね?」

「……え?」


ぽかんと口を開けたまま思考を停止した兄ちゃん。


「迫真の演技だったっしょ? 審査員のおっちゃん達、誉めてくれたよ!」

「え? あ、おう……」


空回りしてたことに気付いて、ちょっと恥ずかしそうな兄ちゃん。

んっふっふ、ういやつよの~。


「マジか……完全に騙された……」

「騙すとはしっけーな。真美は、きちんとオーディションに応えて演技をしたのだよ!」

「む……それはそうだな。大変失礼いたしました、お嬢様」

「うむ、分かればよろしい」


演技は難しくなかったよ。

辛い気持ち、悲しい気持ち、恋する真美には理解できるから。

休みの間に沢山考えたし、無茶してレッスンしてたお陰で、技術はそこそこ身に付いてたし。


でも、実はちょっとズルしちゃったんだ。

……ちょびっと。

ちょびっとだけね?

……兄ちゃんのことそーぞーしたら、ちょびっとだけ本気で泣いちゃった。

これは、真美だけのヒミツだかんね。


だからちょっとだけ、回復しないとダメなのだ。


「ねぇ兄ちゃん、頑張ったからご褒美ちょーだい!」

「ケーキは昨日食べたでしょ」

「ううん。頭撫でてー」

「またか。それだけでいいのか?」

「いいの。兄ちゃんは頭撫でマイスターだから、めっちゃ気持ちいいんだよー」

「そうかそうか、そう期待されちゃあ断れん」


お疲れ様、という表情で、兄ちゃんが真美の頭に手を載せた。

わしわし。


「ちょっと痛い」

「マッサージだと思え」


ぽふぽふ。

兄ちゃんの手は、真美の手よりもずっとおっきい。

その手が真美に触れる度に、真美の幸せポイントはちょっと増えるのだ。


「真美!」

「ど、どしたの兄ちゃん?」


オーディションから四日。

事務所でやよいっちと二人ババ抜きをしてたら、兄ちゃんが飛び込んできた。


「いきなしそんな声出されたらびっくりするってばぁ」

「……ったぞ」

「え?」

「オーディション! 受かったぞ!!」

「……」


え、オーディション?


「……受かったの?」

「ああ!」


……。


「やたあああああああああああああ!!!!」


受かった!

初めて、初めてオーディションに受かった!

真美、やったよ!


「やった……やったぁ!」

「ああ、やったな、真美……!」

「うん……うん……!」


泣き崩れそうな真美を、兄ちゃんが優しく抱きとめてくれた。

やったんだ……やっと真美、本当のスタートを切れたんだ……!


「と、ここでお祝いとしたいところなんだが……」

「な、何かあるの?」

「ああ……話には続きがあってな……」


兄ちゃんが思わせぶりなことを言い出した。

え、なんだろ……何か条件とかあるのかな……。

でもどんなことだって、勝ち取った役のためなら……!


「準ヒロインだ」

「どんな厳しい要求が出ても……ん?」


じゅんひろいん?


「先方から連絡があってな。オーディションを受けた役じゃなくて、準ヒロインをやってほしいと」

「誰が?」

「真美が」

「真美が?」

「そうだ」


ちょっと待って兄ちゃん。

どゆこと?

真美が、真美が準ヒロイン?


「おい、真美、どうした?」

「……」

「あっ、こいつ驚きのあまり思考停止してやがる!」


あはは、美味しかったなぁ、兄ちゃんと食べたケーキ。

また二人で食べたいな、あーんって……。


「しっかりしろ真美!」

「うっ、うあうあ~!? な、何!?」

「何じゃないよ。お前、準ヒロイン勝ち取ったんだぞ!」

「……」

「あっ、また思考停止しやがった」


えへへ、あーん……。


夜は、兄ちゃんと二人で祝勝会。

もっと大勢から祝ってもらった方がいいんじゃないかって言われたけど、二人がいいって言った。

でも、と言いかけた兄ちゃんを、事務所総出で止めにかかってくれた。

優しいなぁ、みんな。


「はー……やっぱり白いやつは美味し……」

「何でベランダで食べるんだ。中で食べればいいのに」

「ここ、真美の特等席」

「うちのベランダですけど」

「あ、黒いのもーらいっ」

「あぁっ! 俺のブラウニーが!」


もぐもぐ、ごっくん。

やっぱり兄ちゃんと食べるケーキが一番美味しいね。


「はい、兄ちゃん」

「うん?」

「あーん」

「いや、いいよ」

「真美、兄ちゃんのケーキ食べちゃったもん。あげなきゃいけないんだよ?」

「えっとだな」

「あーん!」

「……はいはい、あーん」


観念したように、兄ちゃんはショートケーキをもぐもぐ食べる。

なんだかんだで美味しそうに食べてくれると、真美も嬉しくなってくるよ。

買ったの、兄ちゃんだけど。


「準ヒロイン、できるかな」

「できるさ」


しょーじき、ちょっと自信がなかった。

オーディションは勝つ気満々だったけど、まさか準ヒロインなんて。


「真美ならできると審査した人が思ったからこそ、この話が来たんだ」

「でも、真美はまだまだだよ。あのおっちゃんたちだって、真美の実力知らないし……」

「そう、真美の実力を知らない」


兄ちゃんは残ったブラウニーをばくんと一飲み。

チョコがついた人刺し指を、少し舐めた。

なんかえっちぃ。


「あの日見た演技だけで、真美にはできると思った。でも、真美の本気はそんなもんじゃない」


真美のことを見て、にっこり笑う。

俺は知ってる、と言わんばかりの顔で。


「だから、お前の本気を見せてやれ。主役も食っちまう勢いで」

「うん」


兄ちゃんが言うと何でも、本当にそうなるように思える。

初めて会った頃は疑い半分なことばっかだった。

いつの間にか真美、兄ちゃんのこと、こんなに信用してたんだね。

そんなに信用できる兄ちゃんだから、好きになったんだけど。


「これがヒロイン!」

「おぉっ、豪快にケーキにぶっ刺したな!」

「そしてこれをっ……こうだああああ!」

「豪快な一口!」


がぶっ!

このちょーしで、真美の力を見せつけてあげるもんね!


「おい、口の周りにクリームが」

「はれ?」


っとと、豪快にやりすぎてクリームがべちゃべちゃついちゃった。

取らなきゃ……えっと、ティッシュか何かを……。


「ああもう、ここだここ」

「ぅえっ?」


ぴっ、すっ。

兄ちゃんの人差し指が、真美の口元のクリームをぬぐった。


「ん、甘い」

「……」


あれ、その人差し指って……。

さっき、兄ちゃんが自分で舐めた……。


「……!」

「どうした、顔真っ赤だぞ?」


ぼんっ!って音がした。

え、兄ちゃんが舐めた指で、真美の口元を、その指また舐めて……。


「……うあうあ~!? に、兄ちゃんのえっちーー!!」

「な、何ぃ!?」

「ばかばかばか!!」


に、兄ちゃん何してんの!

部屋の中からクッションを持ってきて、兄ちゃんの頭をぼすぼす叩く。

ばか! ばかーーー!!


「えっなんだ!? と、とりあえずすまん!」

「ばかーーーー!!!!」


……結局、真美がやることになったのは、ヒロインの妹役。

ほぼ全話で、レギュラーキャストとしてお話に絡んでくる。

メインのお話は主人公とヒロインの恋愛だけど。


真美の役は、一生懸命二人のために奔走して、時に笑って、時に泣いて。

それで、最後に二人が結ばれた後は、一緒に頑張った相手の弟に恋をする。


真美のデビュー作品は、そんな大きな役になっちゃった。


「しかもメインヒロインは、今流行りのファッションモデルじゃん……」

「主人公はイケメン俳優……こりゃ宣伝も結構打つんだろうな……」

「うあうあ~! ぷれっしゃーになること言わないでよー!」

「はっはっはっは」


……なんて焦ったりもしたけど、始まっちゃえばなんてことはなかった。

毎回毎回、収録のたびに必死で、ビビってる余裕なんてなかったよ。

ダメ出しもされたし、大変なことも多かった。

でも、空回りしてたあの頃に比べれば、どってことないよ!


放送初日は、ずっとそわそわしてた。


「おーい、真美」

「……」

「テレビに意識集中し過ぎだろ……聞こえてない……」

「いいじゃないですか。真美ちゃんにとっては、かけがえのない大切な一瞬ですから」

「……そうですね」


どこかから、兄ちゃんとピヨちゃんが話す声が聞こえた。

でも、今の真美にはそれどころじゃない。

……あ、真美のシーン!


「真美ちゃんの初登場ね!」

「……わぁ……!」

「どうだ、真美?」

「わぁ……!!」

「はぁ、幸せそうな顔して……良かったな」


画面越しに見る自分の姿は、とってもとっても、生き生きとしてた。


エンディング曲は、ヒロインと真美が二人で歌うタイアップ曲。

ゆーめーな曲のカバーだし、正確には真美の曲じゃない。

でも真美は、少しずつ前に進んでる。

兄ちゃんの隣を歩いていくための一歩。


焦らなくていい、自分のペースで。

いつか、兄ちゃんが真美のスケジュール管理であっぷあっぷになっちゃうくらい!

その日が来るまで、真美、ぜーったい負けないかんね!


宣伝やキャストの人気もあって、真美が出演したドラマは話題を呼んだ。

そして、そこでレギュラーキャストとして頑張ってた真美も、注目を浴びた。

……最初の頃の『双海亜美の姉』っていう呼ばれ方は、ちょっとむかっと来たけど。

でも亜美と一緒にバラエティ出た時、そう言った芸人さんに亜美がヘッドロックくらわしてたの見て、ちょっとすっきりした。


「亜美」

「ん、どったの?」

「あんがとね」

「え? ヘッドロック?」

「ううん。毛布掛けてくれたこと」

「……なんだっけそれ?」

「んっふっふ~、覚えてないならいいよん」

「えーーっ!? ちょー気になるじゃん!」


教えてと騒ぐ亜美に枕を投げつけて、布団にもぐりこんだ。

亜美のばーか。

大好き。


何かきっかけがあると、人生って大きく変わるみたい。

ドラマがヒットしてから、いろんなお仕事が来るようになった。

ラジオとか、ジュニアモデルとか、バラエティとか、インタビューとか。


そんな中、真美もとうとう自分の歌を出すことになった。

メジャーでは初めてのCD発売。


「えっ、真美のCD?」

「ああ。本当はCDが先だったんだが、最初のキャストの仕事がトントン拍子で進んで、タイミング逃しててさ」

「真美、自分の歌がもらえるの!?」

「そうだとも。デモ聴いてみるか?」

「うんっ!」


『Do-Dai』。

それが、真美のデビュー曲。

んー、この歌詞、なんかデジャヴなんだよね……。

いつものキミでも良かったって、ナデナデしてくれたよ……。

……。

ってこれそのまんま真美と兄ちゃんじゃん!


「……ねぇ兄ちゃん」

「ん?」

「この歌詞、兄ちゃんが考えたの?」

「全部じゃないけどな」

「ねぇ、そうなの?」

「プロデューサーと社長と律子と、三人で考えていたのを見たけれど」


すっと通りすがりの千早お姉ちゃんが一言。


「ふふ、私はその歌、嫌いじゃないわ」


「……こ、これ、全国で発売するんだよね?」

「そうだぞ」

「……ライブとかやって、歌うんだよね?」

「活動が増えるのは嫌か?」


そうじゃなくてさぁ……。

なんて言うんだろ、こう……。

自分のヒミツをみんなに向かって叫んでるみたいで……。


「……っ!」

「ど、どうした。歌が気に入らなかったか?」

「ち、ちがわいっ!」


うあー! うあー!

どーしよ、めっちゃ恥ずい!


収録中も、見に来てる兄ちゃんの方が気になって仕方なかった。

何度もリテイク出して、そのたびに歌い直して……。

しかもやり直しごとに、兄ちゃんとの恥ずかしい思い出を歌わされるんだよ!?

もう思い出しただけで顔真っ赤っかの大爆発だよー!

そんでさ、収録終わったら兄ちゃん、何て言ったと思う?


「うんうん。恋する少女の恥じらいが良く表現できてた」


とか大真面目に関心してんだよ!?

信じらんない!

誰のせーで恥じらってたと思ってんのさーーー!!


……色々と思うところもあったけど、真美のデビュー曲は、発売してすぐに話題を呼んだ。

ドラマの後だったし、真美のお仕事も増えてたし。

さすがにいきなりランキング一位!なんてことはなかったけど。

それでも定期的にラジオで流れたり、テレビで流れたり……。


「……あ、真美の曲だ……」


学校からの帰り道、近所の商店街でDo-Daiが流れてた。

近くを歩く同級生がスピーカーを見上げて、三人で真美のことを話してる。

後ろを歩く真美には気付いてない。

これって真美ちゃんの歌だよね、とか、そんな他愛ない会話。


「……すごく、嫌だ」


何故か、とっても嫌な気持ちになった。


なんでだろう。

真美、おかしいな。

ふつー、自分の歌がいっぱい流れて、みんなが話題にしてくれるって、いいことのはずなのに。

なのに真美は今、真美の歌を聴きながら話してる同級生に、すごくイライラしてる。

……ううん、違う。


「真美の歌をみんなが聴いてることが、すごくやだ……!」


真美は耳を塞いで一目散に家へ帰った。

おかしいよ、おかしいよ!

真美、おかしくなっちゃったの?

どうして、どうしてさ!


それからしばらく、気分は晴れなかった。

それどころか、毎日のようにどこかで真美の曲を聴くたびに、どんどん嫌な気持ちが積もってく。


「アンタ、最近変よ?」

「うん……真美も、そう思う」


心配したいおりんが声をかけてくれた。


「そんな落ち込んで……自分でも理由が分かってないわけ?」

「分かってるといえば分かってるけど、分かんないといえば分かんない……」

「歯切れ悪いわね」


だって、真美自身にもよく分かんないんだもん。

原因は自分の歌だって分かってるけど、どうしてそれを聴いて嫌な気分になるんだろう。

そこが全然分かんないんだよ。


真美の話を聞いたいおりんにも、よく分かんないみたい。


「律子はどう思う?」

「真美のこと?」


いおりんが、事務仕事をしてたりっちゃんを呼ぶ。

いわく、よく分んなかったらりっちゃんに聞くのが一番だって。

作業をわざわざ中断してくれたりっちゃんに話すと、少し険しい表情になってから、ため息をついた。


「はぁ、そういうことね……。あの人、何考えてるのかしら……!」

「りっちゃん、分かったの?」

「多分ね」


りっちゃんは何か分かったみたいだけど、真美といおりんはまだ理解できない。

真美の前まで来てしゃがみこんだりっちゃんが、優しい声で言った。


「あなたは何も悪くないわ。私があなたでも、きっと同じ気持ちになるもの」

「そーなの?」

「それに、ごめんなさい。私にも責任の一端があるわ」


そう言って何故か、りっちゃんが真美に謝った。


「……これは一回、社長とプロデューサーと、三人で話す必要がありそうね」


申し訳なさそうな表情で、りっちゃんがまたため息をつく。

それと同時に、給湯室の方からピヨちゃんが入ってきた。


「こっこーあここああったかここあ♪ ……って、三人ともどうしたの?」


雰囲気暗めの真美たちを見て、ピヨちゃんが不思議そうな声を出す。


「えっと……」


真美は、今まで話してたことをピヨちゃんにも話した。

ピヨちゃんだけ仲間はずれっていうのも、なんかやだよね。


あったかいココアを右手に持ったまま、ピヨちゃんは真美の話を聞いてた。

最初はいつものちょっと緩い感じだったピヨちゃんの表情が、少しずつ硬くなってくみたいに見えて。

真美が少し涙目で話し終える頃には、険しい表情をしてた。


「なんで真美、嫌な気分になるんだろ。折角、みんなが歌を聴いてくれてるのに」

「それは……」


この場で言っていいものなのか、迷うようにりっちゃんが黙り込んだ。


事務所が静まり返ったちょうどその時、玄関の方から声が聞こえた。


「戻りました」


兄ちゃんの声だ。


「兄ちゃん……」


いつもならすぐに飛んでいくのに。

今日はなぜか、あんまり会いたくなくて、足が動かなかった。

そんな真美を見て、ピヨちゃんが小さく唇を噛んだ。


「お、なんだ。みんな居るじゃないか。おかえり―くらい言ってくれてもいいだろうに」


兄ちゃんが事務所に入ってきた。

なのに、なんで……なんで真美、こんなに……。


何も分からないまま、真美は泣きそうだった。


「えっ」


そう思った時、目の前のピヨちゃんが兄ちゃんの方を振り向いた。

真美はびっくりした。

いおりんも、りっちゃんも。


だって、ピヨちゃん、マジ切れ寸前って顔してたんだもん。


がちゃんっ!


「うぉっ!! こ、小鳥さん!?」


ピヨちゃんが、持ってたマグカップを勢いよくデスクに置く。

割れそうな音がして、中のココアが少し飛び散った。


「プロデューサーさん……何してるんですか」

「えっ!? 何してるってこっちの台詞……」




ばしんっ!



けっこー大きい音が響いた。

ピヨちゃんが、兄ちゃんのほっぺたを思いっきり引っ叩いた音。

兄ちゃんは突然のことに、頬を押さえながら目を白黒させてる。


「真美ちゃんの歌の歌詞、プロデューサーさんが考えてたんですね」

「そ、そうですが……」

「私てっきり、真美ちゃんと二人で考えたんだと思ってました」


ピヨちゃんが兄ちゃんに詰め寄る。

兄ちゃんはじりじりと、壁際へ追い詰められていった。


「女の子の大切な大切な、秘密の宝物を、何勝手にぶちまけてるんですか!」

「っ!」


ピヨちゃんの言葉に、兄ちゃんがハッとしたような表情をする。

次の瞬間、ピヨちゃんの二発目が兄ちゃんを襲おうとした。

でも、兄ちゃんに手のひらが当たる直前で、ピヨちゃんはなんとか手を止めた。

全身を震わせながら、声も震わせながら。


「真美ちゃんにとって、あなたとの思い出がどれだけ大切なモノなのか、分かってますか……!?」

「あ……俺……」


ピヨちゃんはうつむいて息を切らせながら、涙声になってる。

兄ちゃんは、なにも答えられなかった。

それを見ている真美からも、止まりかけてた涙が出てきた。


「大切な思い出を気付かない内に曝け出さされて! どれだけ辛い思いしたと思ってるんですかぁっ!!」

「っ……」


ピヨちゃんの叫び声が事務所に響きわたる。

兄ちゃんは項垂れたまま、何も言わなかった。


「……小鳥さん、それくらいに。私も一緒に作詞を詰めてた段階で、そこまで気が回っていませんでした。私も悪いんです」


りっちゃんがそっと、ピヨちゃんを諌める。

それを見てる内に、真美の中で堪えてたものが、耐えきれずに漏れ出した。


「……ひぐ、えっぐ、ぁぅ……」


いっしょーけんめー堪えた。

いおりんが泣きそうな顔で、真美のことを抱きしめてくれた。


「ぅぇぇ……」


泣き声を張り上げたいのを我慢して、押し殺した。

ぼろぼろ涙をこぼすいおりんの胸の中で、小さく泣いた。



……。


アイドルになるって、何も楽しいことばっかじゃない。

人から注目されると、思ってもなかったところから傷つくこともある。

大変なのは、レッスンや本番だけじゃないんだ。


「はー……」


家に帰ってベランダから外を眺めながら、そんなこと考えてた。

あのあとは、いおりんにギュッてしてもらったまんま少し泣いて、落ち着いた。

直後に来た社長さんが、兄ちゃんとピヨちゃんとりっちゃんの三人を社長室に連れてった。

真美はレッスンをお休みして、家に帰ってきちゃった。


「……兄ちゃん、真美、めーっちゃ傷ついてたんだかんね」


ピヨちゃんが言ってくれるまで、はっきりとは気付かなかったけどさ。


やっぱ男の人ってでりかしーない!

女心、なーんも分かってないし!

兄ちゃんには、ピヨちゃんのバチンでしっかり反省していただかないと!


「……でも、会いづらい……」


どんな顔して会ったらいいのかな……。

いつもの真美らしく、元気いっぱいな感じかな。

うーん、上手くいく気がしない……。


「真美」

「うおえうあぁぁぁあっ?!」


って、い、いきなり声がしたぁ!

だ、誰?! てきしゅー!?


「こっちだこっち、隣のベランダ」


びっくりする真美の声にびっくりした兄ちゃんがいた。


「び、びっくりした……いきなりベランダ越しに声掛けられたらビックリするよ!」

「ベランダ渡り常習犯の言葉じゃないな……」


隣のベランダからこっちを覗きこみながら、兄ちゃんが苦笑する。

もー!

乙女のぷらいべーとを覗くなんて、ほんとにでりかしーがない!


「いっぱい傷付けちゃってごめんな、真美」

「ん……いいよ」

「無理しなくていいんだぞ」

「ピヨちゃんがバチンってやってくれたから、ちょっとすっきりした」


兄ちゃんは思い出すように、まだちょっと赤い左頬を押さえた。


「まさか、いつもにこにこしてる小鳥さんがあんなに怒るなんてな……」

「社長室では何話してたの?」

「社長直々に、激怒されたよ」


思ってたより、ふつーに話せた。

良かった、真美の杞憂だったんだね。

ちょっと元気が戻ってきた!


「んっふっふ。真美の心を弄んだ罰だよん」

「……本当に悪かった」

「そ、そんなしんこくそーにしないでよー!」


せっかく明るくなってきたのに!

また、暗い気分になってきちゃうじゃん……。


「俺は、思い上がってたんだな」


ちょっと遠くに見える繁華街の明かりを見ながら、兄ちゃんが呟いた。


「真美がトントン拍子に進んでいくのを見て、自分の成果だと勘違いして」

「勘違いなんかじゃないよ」


そうだよ。

真美、兄ちゃんが居てくれたからここまで来たんだよ?


「いや、真美自身が出した結果だよ」


だらんと上半身を手摺りに寝かせる兄ちゃん。

危ないってば……。


「そんな当たり前のことも忘れて、勝手に突っ走った結果がこのザマだ」


俺だってペーペーの新米なのにな、と自嘲気味に笑う声が聞こえた。


兄ちゃんは、とっても辛そうだった。


「兄ちゃん、そっち行っていい?」

「……」

「返事がないってことは、おっけーでいいよね」


手摺りに飛び乗って、ひょいっと隣のベランダへ行く。

真美には、もう手慣れたもんよ!

使ってるの、足だけど。


「んっしょっと」


兄ちゃんの横に座る。

なのに、兄ちゃんはずっと遠くの街を見てる。


「ん!」


くいくいと、兄ちゃんのズボンの裾を引っ張る。

兄ちゃんは、その時初めてハッと気づいたように真美を見て、隣に座った。


夜の風が、ベランダに座り込む真美たちに吹きつける。


「うー、さぶいさぶい……兄ちゃん、真美より薄着だけどだいじょーぶ?」

「ああ」

「んもー、暗いってばぁ!」


ていっ!と兄ちゃんのおでこを小突く。

いきなり真美の攻撃を受けて、なされるがままに仰け反る兄ちゃん。

数秒間をおいて、仰け反った身体を戻したけど、やっぱり兄ちゃんは暗いままだった。


「ごめん、真美」

「だからー、もういいってば。それよりもさ――」

「違うんだ」


真美の声を、兄ちゃんが遮る。


「違うんだ……」


兄ちゃんは、何故だか泣きそうだった。


謝って項垂れる兄ちゃんを見て、真美はなんとなく分かった。


「俺は、知ってたんだ」


その言葉を聞いても、真美は全然驚かなかった。

そっか、そりゃそーだよね。

あれで気付かなかったら、とーへんぼくとかいうレベルじゃないって。


「そんなに深く考えてなかった。誰にでもよくある、憧れみたいなものだろうって」

「むう、そんなてーどだったら真美、あんなに必死にレッスンしないよ」

「そうだな、そうだよな」


また風が吹いた。

さぶい、ちょっと厚着してるのにまだ寒い。

そう思ってたら、兄ちゃんが上着を脱いで、真美に羽織らせてくれた。


「その気持ちを歌詞にしたら、きっといい歌になると思った。真美なら上手く歌えると思った」


上着、すっごくぽかぽかして、暖かい。


「真美の想いを知ってて、踏みにじったんだ、俺は」


兄ちゃんはゆっくりとゆっくりと、自分を締め付けていく。


「疑いすらしなかった。自分はいい仕事をしてるって」


兄ちゃん、震えてるじゃん。

寒いんだよね。

明日も仕事なんだから、無理しちゃダメだよ。


「小鳥さん、怒ってたな。あの人、アイドルじゃない素のお前たちを、誰よりもよく見てるから」


そだよ、ピヨちゃんは自分のことよりも何よりも、真美たちのことを一番に考えてくれてるもん。

でも真美、知ってんだかんね。

兄ちゃんがお軽い声で事務所に入ってきた時、りっちゃんの拳が一番力入ってたの。

よかったね、キレたのがりっちゃんじゃなくて。


「……社長室で放心してたら、律子にも一発もらったよ」


あっ、結局貰ってんじゃん。


「兄ちゃん、震えてる」

「あ……本当だ。情けないな……」

「上着脱いじゃったもんね」


兄ちゃんの後ろに回り込む。

そして、いつか兄ちゃんがしてくれたみたいに、真美の手をシートベルトみたいにして、後ろから抱きしめた。


「二人羽織りー。これで寒くない?」

「寒くは……ない」


そう言いながら、兄ちゃんはまだ少し震えてる。

だから、真美はシートベルトを少し強くした。

兄ちゃんの震えは、少しずつ治まってった。


「本気だったんだな、真美は」

「うん、そーだよ」


真美はいっつもいっつも、兄ちゃんのことばっか考えてた。


美味しいもの食べた時、兄ちゃんもこれ好きかな、とか。

かっこいーアクセ見つけた時、兄ちゃんに似合うかな、とか。

授業中暇な時、兄ちゃんは今頃なにしてるのかな、とか。

レッスンしてる時、兄ちゃんならどこを直せって言うかな、とか。


おっきなことも、ちっちゃなことも。

何を考えてる時でも、最初に兄ちゃんのことが出てくるんだ。


「ずっとずっと、考えてたよ」


見返りなんてなくてもいい。

女の子って、その人のことを想うだけでも、とっても幸せな気持ちになれるんだよ。


「そんな大切なものを弄んだのに」


兄ちゃんの声が、また少し震えた。


「なんで、お前……そんな風に笑えるんだよ……」


ぽたり、ぽたり。

当たる何かはとってもつめたい。

でも腕を伝っていくそれは、真美には心地良かった。


「真美だって今、何とも思ってないから笑ってるわけじゃないよ」


当たり前じゃん。

辛かったよ。

あの歌詞を作った時、兄ちゃんは真美を見てくれてなかった。


でも、今は違う。

兄ちゃんは、真美のことを見てくれてる。

真美の想いに向き合って、こんなに苦しんでる。

真美の想いを考えて、こんなに悩んでる。


「今は兄ちゃん、何よりも誰よりも、真美の想いを、真剣に考えてくれてる」


すっごく、すっごく嬉しい。


「真美、悪い子だから。真美のせいで辛い気分にさせてごめんなさい、って言えないんだ」


だから、おあいこだね。

もう、悪いのは兄ちゃんだけじゃないよ。

真美は兄ちゃんに怒るつもりもないし、怒る資格もないんだよ。


「それに最初からね、真美が兄ちゃんのこと、怒れるわけないじゃん」


兄ちゃんを抱きしめたまま上を見ると、繁華街の明かりは見えない。

夜空は真っ暗、星一つない。

それがとっても、寂しかったからかな。


兄ちゃんを抱きしめる腕に、少し力が入る。

少し腫れた兄ちゃんの左頬に、後ろから覗きこむように顔を出した真美の右頬が触れる。


頬が触れ合ってる所に、なんか水みたいなのが伝ってきた。

兄ちゃんからかな。

それとも、これは真美から?


ぴったりくっついてるから、分からないね。




目を閉じると。



「兄ちゃんが、好きだから」



流れるように自然と、声が出てきた。



「子どもの憧れとかじゃない」



兄ちゃんの肩に、力が入る。



「好き」



兄ちゃんが真美の手を、強く握った。



「好き、だから」



笑ってるはずなのに、涙が溢れてきちゃった。



兄ちゃんの手に、もっと力が入る。

ちょっと痛いよ、兄ちゃん……。


「ま、み……」


いっしょーけんめー、兄ちゃんは声を押し殺した。

うん、いいよ、無理に喋ろうとしなくても。

今喋っちゃったら、大変なことになっちゃうもんね。


「ん」


だから返事の代わりに、腕にもっと力を込めた。

兄ちゃんが目を強く瞑って唇を噛み締めながら、震えてる間、ずっと。


慌てなくていいよ。

真美はずっと待ってるから。



――どれくらい経ったかな。

兄ちゃんがやっと落ち着いて、鼻をすすりながら真美の方を見た。


「みっともないとこ見せちゃったな」

「真美だってこれまで散々見られたもん。たまには兄ちゃんが見せてくれてもいいじゃん」

「そういうものか……?」


色々な話は置いといて、真美はちょっと勝ち誇ってた。

いっつも兄ちゃんが真美をフォローする側だったもん。

でも今は、真美の方が若干ゆーりかも?


「なあ、真美。さっきの」

「兄ちゃん、今はなんも言わないで」


兄ちゃんの唇に人差し指を当てて、続く言葉を遮った。

しーっ。


「返事はいらないよ、兄ちゃん」

「でも、お前……」

「だってさ、仮に真美にとって嬉しい答えだったとしてもさ」


……よーはそれって、ろりこんでしょ?


「それはそれで不味いよね」

「ぐっ……ま、まぁそれは、そうだが」

「だから、いま返事を聞きたいわけじゃないんだよ」


兄ちゃんが社会的に抹殺されちゃうんじゃほんまつてんとーだし……。


それに、真美は今、その言葉が欲しいわけじゃないんだよね。

真美が考えてるのは、もっと先のこと。


「兄ちゃん、真美のこと好き?」

「……んんっ!?」


あっ、言葉がシンプルすぎた。

兄ちゃん、完全に思考回路が固まってる。


「ああうん、変な意味じゃないよ? 担当アイドルとしてでも、お隣さんとしてでも、何でもいいんだけど」

「な、なんだ……そりゃ好きに決まってるさ。とっても大切だよ、真美のことは」


んふー。

そーゆー意味じゃないってわかってても……。

……やば、好きって言われるの、めっちゃ嬉しい。


「じゃあこれからも、兄ちゃんの傍に居ていい?」

「ああ、それは勿論……でも、俺は……」

「真美はいいの、今はそれで」


兄ちゃんを抱きしめてた手を放す。

ちょっと名残惜しい。



月明かりを背に、兄ちゃんの前で両手を広げる。


「もし兄ちゃんに好きな人ができたら、全力でおーえんしてあげる」


事務所、女の子いっぱいいるしね。


「もし兄ちゃんが告られて悩んだら、後押ししてあげる」


事務所、兄ちゃんを好きな子いそうだしね。


「でも、もしこのまま何年か経った時」


今のまま、楽しい時間が回り続けて。


「兄ちゃんが真美のことを、小さな子どもじゃなくて、一人の“女の子”として認めてくれる時が来たら」


今のまま、隣に真美がいたら。


「真美に、返事を聞かせてよ」


それが真美の、たった一つのお願い。


すっごく自然に、笑みがこぼれた。

えっへん。

言いたいこと全部、兄ちゃんに言ってやったぜ。

なんだかいぎょーを成し遂げた気分!

ぜんぶぜんぶ、これからなんだけど。


「……わぁっ!?」


って思ってたら、急に兄ちゃんに抱きしめられた!

え、なになに!?

ど、どしちゃったの、もしかして兄ちゃんロリコンだったの!?


「……ってるさ」

「はえ?」


なんて言ったの?

よく聞こえなかったよ。



「ずっと、待ってるさ」


今度の声は、はっきり聞こえた。


「俺も、その日が来るのを」


兄ちゃんの囁くような声が。


「……待っててくれるの?」

「今、真美が笑った時、見えたんだ」

「何が?」

「その日が」


兄ちゃんの声を聞いてると、落ち着く。

兄ちゃんが好きだから、落ち着くのかな。

それとも、落ち着くから、好きになったのかな。


兄ちゃんにとってまだ真美は、恋愛とか、そーゆー相手じゃない。

それは真美が一番分かってる。

でも兄ちゃんは、待とうとしてくれてる。

ちっちゃい真美の気持ちを知って、それに本当に応えられる時まで。


「何年くらいは確実に待ってくれる?」

「そういう身も蓋もない聞き方をするか?」

「……四、五年くらい?」

「割と現実的な数字を弾き出してきたな……」


兄ちゃん。

今日は、まず第一歩を踏み出せたかな。

これまでは妹みたいなものだって思われてたけど。


「真美、頑張るね」

「慌てなくていいさ。俺はどこにも逃げないよ」


今日からは、少し前に進めるよね。


ベランダに吹く風が、少し穏やかになった。


「ああ、そうだ」

「どったの?」

「小鳥さんと律子が、明日夕飯奢ってくれるって」

「え! 兄ちゃんずるい!」

「騒ぐな騒ぐな。お前も連れてくから」

「やたー!」


さっきまでの風は、真美の心を攫っていってしまいそうで、怖かった。


「何食べたい?」

「キャビア」

「容赦ないなお前」

「もしくは松坂牛」

「容赦ないな……」


でも、いま吹いてる風は、冬なのにとっても心地良い。


兄ちゃんと二人で座って、夜風に当たりながら空を見る。

お互いに無言になって、とっても静か。

なんか、今はあんまり喋りたくないんだ。

兄ちゃんと二人きりの静かな時間を、ゆっくり過ごしたい。


「……あ、流れ星」


でも、そっこーで沈黙を破ったのは真美だった。


「星もあんまり見えないのに、珍しいな」

「兄ちゃん、お願い事言えた?」

「あー、考える余裕もなかったよ」


そう答える兄ちゃんの視線がめっちゃ泳いでた。

嘘ついてる顔だ。


「何考えてたの?」

「……秘密」

「いじわる」


ぼすり、と兄ちゃんの膝に寝っ転がる。

すかさず、兄ちゃんが真美の髪の毛をくしゃくしゃーって乱す。


「うあー、やめれー」

「今流行りの頭皮マッサージを受けてみろ」

「うおー……効くぅー……」


……あんまり妹モドキを脱却できてない気がする。

まぁ、まだ仕方ないかな。


「ゆっくり、慌てずに、だよね」


真美がそう言ったら、くしゃくしゃするのを止めて、優しく撫でてくれた。

んふー……そんなふーにされたら……真美、寝ちゃうよ……。


この幸せは、いつまで続くかな。

ちょっとの間だけ?

それとも、これからずっと、ずっと?

真美にはまだ分かんない。

でも、一つだけ確かなのは、今この瞬間がとっても幸せだってこと。


「兄ちゃん……」

「ん?」

「……んっふっふー、なんでもない」


夢心地の中で、いつかきっとと願う、その日を想い描きながら。

目を瞑ったまま、兄ちゃんのぬくもりを感じてた。

おつ
この辺までは読んだ覚えたがある

>>191
当時は投下も遅く、すみませんでした
改めて目にしてもらえて幸いです、ありがとうございます


兄ちゃんに想いを伝えた後も、過ごす日々はあまり変わらなかった。

ちょっと変わったことと言えば、街中で真美の歌を聴くと、ちょっと誇らしくなったこと。

それと、仕事中、兄ちゃんと目が合う回数が増えたことくらい。


「兄ちゃん、ぼーっとしてどったの?」

「ん? ああ、なんでもない」


そんで、何事もなかったかのように仕事に戻る。

そんな感じ。


「あれ? 真美、足押さえてどうしたの?」

「やよいっちー、ちょっと足が痛いー」

「捻ったの?」

「そうじゃないんだけど……」


真美がちょっと困ってたりすると、


「その靴、そろそろ小さいんじゃないか?」

「あ、そうかも」


前よりも細かいところに気付いてくれるようになった。

真美のこと、しっかり見てくれてる。

それが伝わってきて、真美もがんばろーって気になるんだ。


また春が来ると、真美は中学生になった。

げーのーかつどーに協力的な、私立の中学校。

亜美と二人で入ると、クラスではちょっとした話題になった。


「うえー……質問攻め疲れたー」

「バテバテだね」

「だってさーひびきん、みんなよーしゃないんだもん。あれならマスコミのほーが楽だよー」


中学生ってすとれーとに言うよね。

まったく、みんなお子ちゃまだなぁ。


「大丈夫だぞ、しばらくすれば落ち着くから」

「そーいや、ひびきんもげーのーかつどーのために転校してきたんだよね」

「最初はもみくちゃにされたよ……」


でも今は、仲良い友達とふつーにのんびりしてるって。

いいなー、真美も早くそーなりたい。


確かに二、三ヶ月もすると落ち着いてきたけど、新しい悩みもできた。


「うーん……どうしよ」

「すっぱりキッパリ、言っちゃえばいいって思うな」

「そうだよね……」


真美の前には、二つの封筒。

それぞれに、同じがっこーの男の子の名前が書いてある。

まぁ、そういうことだよね。


「ミキミキはずぱーーーって言ってる?」

「すっごい数が来るから正直メンドーだけど……一応勇気出して伝えてくれてるし、返事してあげないと可哀想なの」


そっかぁ、そうだよねぇ。

もしあの夜、兄ちゃんにてきとーな返事をされてたら、真美だって嫌だったもん。


ごめんなさいって伝えると、二人ともすっごく落ち込んでた。

でも最後に、返事をくれてありがとうって言ってくれた。

ごめんね、二人とも。

でも真美、断るのはアイドルだからとかじゃなくて、好きな人がいるから。


「告白されたんだって?」

「うんむ。真美は可愛いですからなー」


兄ちゃんに本日のイベントをご報告。


「モテモテだな、真美」

「そうだよん。これで入学以来、七人目?」

「……マジか」


あれ? 八人だっけ?

真美の返事を聞いて、兄ちゃんは複雑そうな表情をした。


「ねぇ、兄ちゃん」

「なんだ?」

「もしかしてさ、今の話聞いて、兄ちゃん――」

「って、そろそろ出ないと収録間に合わないぞ!」

「うあうあ!? もーこんな時間なのー!?」


兄ちゃんは慌ててスマホ片手に車のキーを取りに行った。

やばば! 真美も何も準備してないよー!

さっさと荷物用意しなきゃ!


「……でも今、兄ちゃんさ。少しだけど」


真美の思い違いとか、自惚れとかでなければ。

……んっふっふー。


中学生になってからは、前よりもげーのーかつどーに費やす時間が増えた。

学校に行ってる時間の方が少ないくらい。

毎日毎日、分刻み……ってほどじゃないけど、なかなかのハイペース。

でも、亜美はもっと忙しいんだよねー。

さすがは竜宮小町ですな。


「亜美ほど売れてないお陰で、こうやってのんびりする時間もちょっと多いんだけどね」

「ほう、それはアレか。遠回しに仕事増やすなと仰せか」

「いえいえ兄ちゃん様、滅相もないであります」


兄ちゃんが書類ざんぎょーしてる後ろで、いおりんが買い溜めてたオレンジジュースをゴクリ。

うむうむ、やはりいおりんのオレンジジュースはいい味してますなぁ。


「勝手に飲んでどやされても知らんぞ」

「だいじょーぶだいじょーぶ、いおりん自分で飲んだ量覚えてないから」


「ほう、自信満々だな」

「いおりんが怖くてアイドルやってられるかってーの。おいちい」

「そうか、なら俺のフォローもいらないな」

「ふえ?」


兄ちゃんが何言ってるのかさっぱり分からんぜ。

うん、分からない分からない。


「ふぅん……真美、いい度胸してるじゃない」


だから、後ろから怒りが伝わってくる足音なんて聞こえてないぜ。


「いえいえ伊織お嬢様、真美は毒が入ってないか身を呈して確かめてたわけで」

「ちょっと顔貸しなさい」

「行ってらっしゃい」

「に、兄ちゃんの裏切りものーーー!!」


給湯室に連れてかれて、頭ぐりぐりされました。


いてて……酷い目にあったよ……。


「伊織は?」

「荷物取りに来ただけみたい。もう帰ったよん」

「そうか」


短く返事をして、兄ちゃんはまた仕事に戻る。

今事務所にいるのは、真美と兄ちゃんだけ。

かちこちかちこち、時計の音が静かな事務所に響く。


「もう夜だぞ。帰りな」

「明日休みだし、もちっとだらだらしてくー」

「親御さんが心配するぞ」

「ちゅーがくせーになったし、兄ちゃんと一緒ならいいってお言葉貰ったよ」


ミキミキのせくちーグラビアを見ながら教えると、小さなため息が聞こえた。


「遊べるわけでもないのに、なんで事務所に残ってるんだ」

「真美は、兄ちゃんと同じ空間にいるだけで幸せなの」

「うぐ」


雑誌を読みながらのんびり答えると、なんかダメージ受けたよーな声が聞こえた。

兄ちゃん、割と弱い。

しばらくウンウン唸ってから、いきなりガタンと立ち上がった。

ちょっとびっくりした。


「……今日はダメだ、作業が進まん。飯食って帰ろう」

「おー!」


よっしゃー! 兄ちゃんの奢りだー!


「北京ダック!」

「それは小鳥さんに頼め」


窓の鍵に戸締りよーし!

では行こうではないか、兄ちゃんクン!


ファミレスに着くと、先客がいた。


「あれ? プロデューサー、こんばんは」

「真美ちゃん、お疲れ様」

「ちっ……まこちんにゆきぴょんか……」

「えっ、なんでボクたち舌打ちされてるの?」


店員さんに一言伝えて、まこちんたちの席へ行く。

じょーだんだよまこちん、じょーだんじょーだん。

……七割くらいは。


「やーりぃ! プロデューサーの奢りですね!」

「雪歩、好きなもの頼んでいいぞ」

「ありがとうございますぅ」

「ボクは?!」

「まこちんは奢る側っしょ?」

「誰が彼氏だよ!」


兄ちゃんと二人が良かった……って気持ちもなくはないけど。

やっぱりご飯は皆で食べたほーが楽しいよね!


「そういえば雪歩、この間のCM良かったよ。らしさが出てた」

「はいっ、ありがとうございます!」

「その調子なら、ファンもすぐに増えるな。しっかり自分の可愛さを表現できてるよ」

「えへへ……そんな、照れちゃいますぅ……」


……。

げしっ。


「あだっ!?」

「ぷ、プロデューサー?」

「つま先……いや、なんでもない……なんでもない……」


顔を引き攣らせて涙目の兄ちゃんが、こっそりこっちを見る。

ふーん、真美知らないもんね。


「でも最近、真美もすっごく可愛くなったと思いません?」

「うぇっ!?」


っとここで、思わぬとこから真美へ矛先が向いた。

ま、まこちん、いきなりキラーパスはキツいっしょ!?


「え、いや、あはは……」

「真美、最近恋でもしてる? なんちゃって! はははっ!」

「あ、あはは……」


ま、まこちん。

気付いてないんだ、気付いてないんだね!?

隣見てよ、ゆきぴょん超オロオロしてるよ!

ってああっ!

兄ちゃん、何の話?って顔しながら太もも必死につねってる!

ま、真美には分かる! アレ爆笑我慢してる顔だ!!


「どう思います、プロデューサー?」

「……んんっ!?」


と、ここで兄ちゃんにパスが回った。

高みの見物から一転、兄ちゃんの反応が止まった。

心なしか、顔色がサーッと青くなってるように見える。

んっふっふー、ざまみろ、真美のこと笑ってるからだよん!


「……!」


ゆきぴょんが固唾を飲んで兄ちゃんの反応を窺ってる。

映画のクライマックスを見守る勢いで……。


「あ、あー……」


兄ちゃんの口から悩む声が漏れる。

さて兄ちゃん、まこちんのパスをどう受ける!


「……ああ、可愛いというか……女の子として、魅力的になってきてる、と思う」


ぼんっ。

あれ、何の音だろ。

キッチンでなんか爆発したのかな?

なんかちょー熱くなってきた。

まさか火事とかじゃないよね?


「ねぇ真美、なんでそんなに赤くなってるの?」

「……えっ」


……うん、まこちんに聞かれるまでもなく分かってた。

さっきの音も、この熱さも、あれだよね。

真美のほっぺただよね。


「え、あ、ううん、えっと……」


な、何も場を取り繕う言葉が出てこない。

うあ……めっちゃ恥ずかしい……。


ゆきぴょんが打って変ってめっちゃ顔輝かせてる。

これがあれだね、こないだ国語でやった水を得た魚ってやつだね!


「うんうん! 真美ちゃん、すっごく魅力的になってきてるよ!」


ゆ、ゆきぴょんは味方だと思ってたのにー!


「真ちゃん、メニュー貸して!」

「メニュー? はい」


え、何してんのゆきぴょん?

なんで勢いよくメニューめくり始めて……。


「これっ! これ頼もう? カップルドリンク! そこの二人で!!」

「いやいやいやいや」


謎のメーターが振り切れそうなゆきぴょんに、兄ちゃんが冷静にツッコミを入れる。


「あ、このカップルドリンクお願いします」


まこちーーーん!!!


目の前にはでんっと、おっきなハートのグラス。

……頼んじゃったものは仕方ないから、飲むしかないよね。


「さっさと飲むか……」

「そだね……」

「ひゅーひゅー!」

「飲んじゃってくださぁい!」


囃したてる二人とは対照的に、真美たちの気分は真っ暗だった。

ゆきぴょんもまこちんも、仕返しするかんね……!


「お、覚えてろー!」

「真美……事後処置は後で考えるとして、現実と向き合おう……」

「お、おおう……そだね、兄ちゃん……」

「うっらやましいなぁ、お二人さん!」


特にまこちんは絶対泣かす。


ストローをちょっと咥える。

目線を少し上に上げると、兄ちゃんと目が合った。


「に、兄ちゃんこっち見ないでよ……」

「仕方ないだろう、ストローは向かい合わせで固定なんだから」


何この恥ずかしい時間。

ほっぺた真っ赤っかで真美火山が大噴火。

こんなことになるなら、さっさと帰ればよかった……。


真美、今は兄ちゃんと一つのコップから飲んでるんだ。

……また顔が熱くなってきた……。


「そして悔しいことに、このドリンクめっちゃ美味しいよ」

「果実味溢れる濃厚な味わいだな」


いつもみたいな軽口だけど、兄ちゃんはちょっと変な感じだった。

なんかちょっと挙動不審。


「ごちそうさまでした!」

「真美ちゃん、また明日ねー」

「おう……二人とも、気をつけて帰れよ……」

「ゆきぴょん……また事務所でね……」


ご飯を食べて、よーやく二人から解放された。

……あの後、あーんまでやらされるし、生きた心地がしなかったよ。

そりゃ真美も兄ちゃんにあーんとかやってたけどさ、やりたいけどさ!

他人が見てる前で言われてやるのってなんか違うじゃん!


「恥ずかしかった……」

「俺もドッと疲れが出てきた……」


家への帰り道を歩きながら、兄ちゃんと二人でさっきのエンカウントイベントを思い出す。


「……せっかく二人でゆっくりできると思ったのに」


真美からぼそっと不平が漏れる。


すると、兄ちゃんがいつもと違う道を指さした。


「今日はこっちの道から帰るか」

「え? 遠回りじゃん」

「ゆっくり帰れるだろう」


そう言って、真美の返事を待たずに方向を変えて歩き始めた。


「兄ちゃん待ってよー!」


追いついて、こっそり兄ちゃんの手を握る。

ちょっと驚いたように真美の方を見たけど、仕方ないなって感じの顔で、握り返してくれた。


「あ……」

「ん? 違ったか?」

「ううん、これでいいの!」


歩いてる時、ふと兄ちゃんが真美の頭を凝視してきた。

え、なになに、ゴミでもついてんのかな?


「お前、背伸びたな」


って、そんなことかいっ!


「真美だって成長期だもん。そりゃーぐいぐい伸びるってもんよ」

「ちょっと前まで、あんなにちっちゃかったのになぁ」


確かに、中学入ったころから急に伸び始めたかも。

これは、オトナへの道が着実に進んでいる証拠ですな!


「ふふん、真美だってオトナの階段登ってるんだぜー」

「そうなんだな……」


真美が満面の笑みで見上げると、兄ちゃんは照れるみたいに慌てて目線をそらした。

なんかこういう兄ちゃん、珍しいかも。

でも、手はしっかり握ってくれてる。


「兄ちゃん、照れてるの?」

「否」

「目を見て言ってよ」

「拒否」


兄ちゃんは家に着くまで終始ぎこちなかったけど、なんか可愛かった。

カップルドリンクのせいかな?

ゆきぴょんへの仕返しは、少し手心を加えてあげよう。

ただしまこちん、てめーはダメだ。


そうなんだよ。

最近、兄ちゃんがぎこちない。

こないだも休みの日にベランダから侵入したら……。


「よっと、おじゃましまーす」

「んっ!? ま、真美か。どうした?」

「遊びに来たの! ねね、新しいゲーム買ったからやろうぜい!」

「暇してたし、あんまハードなのでなけりゃいいぞ」

「うむうむ、そんじゃちょっと隣にしつれー」

「お、おう」

「……どうして距離とるの?」

「いや、密着してたら暑苦しいだろう」


てな具合で。

いまさら何言ってんのさ、これまでそんなの全然気にしてなかったじゃん。


「慌てたりする兄ちゃん見てるのは楽しいけど、ちょっと距離も感じるんだよね」

「そうかしら? これまで通り、仲良し二人に見えるわ」


あずさお姉ちゃんは、お茶を飲みながらのほほんと言った。

そりゃ仲悪くなったわけじゃないけどさ。

なんか、前みたいに馴れ馴れしくできないんだよー。


「他にも、あーんとか絶対にやらせてくれなくなったし、薄着してると怒られるし」

「……お父さんかしら?」

「なんかつまんなーい!」

「うふふ、でもそれって、大人として見られ始めてる証拠じゃないかしら?」


お? おぉ!

そーいう見方もできるんだ!


「なるほど……真美がせくちーなのがいけなかったんだね……」

「せ、せくちーかは分からないけれど」


そこで真美は、一計を案じた。

秋、まだ夏の暑さが残る時期。


「やっほ、兄ちゃん!」

「やっと来たか……って、わざわざ浴衣着てきたのか!」

「そなんだよー、ひびきんに着付け手伝ってもらってたんだけど、手間取っちゃって」


兄ちゃんを近所の神社のお祭りに誘った。

ここんとこ忙しかったけど、ピヨちゃんに無理言ってスケジュール合わせてもらえたぜい!

亜美は恨めしそうにしてたけど。

しっかたないじゃーん、亜美は真美より売れっ子だもんねぇ。

んっふっふ~。


「気合入りまくってるな……」

「似合ってるかな?」

「まぁ、そりゃ」


む、そっけない返事。

ぜーったいにメロメロにしてみせるんだかんね!


すっごい数の人。

あらかじめ待ち合わせてないと絶対合流できないっしょ。


「すごい人ごみだねー」

「もしはぐれたら入口の所に集合な」

「あーい」


焼きそばたこ焼きわたあめかき氷……。

あんず飴ソースせんべいチョコバナナ射的金魚すくい……。


「今日は息抜きだ。好きなだけ奢ってやろう」

「ホント!?」

「……やっぱり節度を持ってな」

「一気にカッコ悪いぜ兄ちゃん」


「こんだけ人いると、真美のファンも一人くらいいるのかな」

「一人なんてもんじゃないと思うぞ。何十人と居るかもな」

「まったまたぁ、大げさだよチミィ」

「CDの売上とか見てると、割と現実的な数字だと思うが」


……。

えっ、真美のCDってそんなに売れてんの?


「髪型変えてみたけど、ばれないかな……」

「真美といえばサイドテール、って感じで浸透してるし、そうそう気付かれないよ」


今日の真美はお団子ポニー。

いつもとイメージ変えて変装代わりに……。

というのは建前で、実際のところは、


『男なんてうなじ見せれば一発なの』


というミキミキの台詞を信じての髪型なんだけど。


「兄ちゃん、この髪型似合ってる?」

「うん、いつもの髪型も可愛いけど、浴衣によく合ってる」

「……」

「なんだ、急に目をそらして」

「な、なんでもない!」


いや、自分から話振っといてなんだけどね?

面と向かって言われると恥ずいんだってば!

そしてさりげなく、うなじを……。


「しかし浴衣って涼しそうだな。首回りとか」

「う、うん。めちゃ涼しいよ」

「いいなぁ。俺も浴衣にすりゃよかったかな」


ってミキミキ全然だめじゃーん!

メロメロどころかがんちゅーにないじゃん!

嘘つきー!


でも兄ちゃんの浴衣かぁ……。

ちょっと見たかったかも。


「お、面白いもんがあるぞ」

「えっ、なになに!?」


兄ちゃんが指さす方向には、お面屋さん?


「兄ちゃん、さすがに真美」

「あのラインナップを見てみろ」

「そういう歳じゃ……ってうえぇっ!?」


ま、真美たちのお面が並んでるー!

えっ、あれ事務所的に許可とかどうなの?


「許可した覚えはないんだがな……」


あっ、やっぱ無許可なんだ。


「でも、ついつい買っちゃったね」

「いや、こんな面白いもんあったら買わざるを得ないだろう」

「しかも全員分。ねっきょー的なファンだと思われてるよ」

「俺としては、横にいた高校生が訝しげにお前のこと見てたのが気になってたけどな」

「……妬いてんの?」

「アホ」


真美のお面を斜め掛けして、隣の屋台で買ったたこ焼きをぱくぱく。

偽物とはいえ、自分の顔を被るのは何とも複雑な気分ですな。


「たこ焼き一個くれないか」

「いいよん。はい、あーん」

「自分で食べます。ひょいっとな」

「うあうあー! ごーとーだー!」


やっぱりあーんはやらせてくんない。

兄ちゃんのけちんぼ、かいしょーなし!


それにしても、今日はなんでこんなに人が多いんだろ。

何かイベントでも重なってるのかな?


「もうすぐ、少し離れた川で花火大会をやるんだと。ここから割と見えるらしいぞ」

「へー、だから人がいっぱいいるのかな」

「だろうなぁ。この祭りは毎年来てるけど、こんなの初めてだ」


ふうん、兄ちゃん、去年までも来てたんだ。

真美は去年、どうしたっけ。

亜美と一緒に輪投げ荒らししてたっけ?


「ごちそーさまでしたっと。ゴミ捨ててくんねー」

「はいよ」


次は何食べよっかなー。

それとも、射的でもやろっかなー。


なんてのんびりと構えてたんだけど……。


「あああああ人波に流されるううううう!」


も、戻れない! 来た方向に戻れないよ!

ぬわあああおっちゃんとおばちゃんのサンドイッチに潰されるー!

『流れに逆らわず、一方向にお進みください』って!

そしたら兄ちゃんとはぐれちゃうよー!


「そして、完全にはぐれてしもうた……」


人が少なくなってきたとこで、ようやく流れから抜け出せた。

ぐにゃぐにゃ歩き回ったせいで、自分がどこにいるかも分かんなくなっちったよ……。


待ち合わせは入口のとこって言ったっけ。

とりあえず行かなきゃ。


「えーっと、多分あっちだよね。兄ちゃんにメールを打って、と」


……ちゃんと兄ちゃんと会えるかな。

待ち合わせ場所を決めはしたけど……こんなに沢山人いるし……。

なんか無性に不安になる。

とっても、心細い。


「それにしても、カップルが多いですなあ」


右を見ても左を見ても、いちゃいちゃいちゃいちゃ。

真美と兄ちゃんも、さっきまではそう見えてたのかな。

それともいいとこ、兄妹かな。


「何年後か分からないけど、ぜーったいにそーゆー関係で来てやる」


そんな宣言を胸に、自分を奮い立たせる。


入口の鳥居近く。

兄ちゃんはちょっと心配そうに、境内の方を見てた。


「お、いたいた。真美!」


兄ちゃんが真美の名前を呼ぶ。

居た、ちゃんと居てくれた――!


「……ってうわっ!? いきなり抱き着くな!」

「兄ちゃんっ……!」


ちゃんと合流できるって信じてたけど。

兄ちゃんの声を聞いたら、我慢してた不安感が一気に込み上げてきた。


「怖かったー!」

「はいはい、よしよし。もう怖くないから、とりあえず離れなさい」


ぐすん。兄ちゃん、もちっと優しくしてくれてもいいのに。

でも、頭撫でてくれたから許してあげる。

……んで、落ち着いたら真美、一個思い出したことがあるんだけど。


「兄ちゃん、思いっきり真美の名前呼んだよね」

「あ」


こっそり周囲を窺うと、何人かの人がこっち見てる。

これ、けっこーめんどいパターンじゃない?


「よし、逃げよう」

「ナイス判断、真美もそう思ってた」


幸い、周りの人も真美だって確信はしてないみたい。

真美と兄ちゃんは逃げるように、こそこそと人ごみの中へ入ってった。

追いかけてくる気配もないし、ギリセーフかな?


「ほら、はぐれないように手を放すなよ」

「う、うん!」


兄ちゃんが差し出してくれた左手を握る。

放さないよ、放すわけないじゃん。

神社に二人っきりだって放さないもん!


「撒いたみたいだし、とりあえず人ごみを抜けよう」

「おっけー!」


兄ちゃんに手を引かれて、誰もいない、ちっちゃな社の裏手に回る。

ふー、やっと一息つけるぜ……。

兄ちゃんもホッとしたように、近くの岩に腰掛けた。


「ん? もう人ごみは抜けたし、手放してもいいぞ」

「……やだ」

「やだってなぁ」

「だめ?」

「だめ、ってわけでもないが」


兄ちゃんが座ってる岩はけっこーおっきい。

隣に真美が座るスペースあるかな?


「んー、ギリギリだね」

「そっちにも座りやすそうな岩あるだろう」

「隣がいい」

「はいはい」


仕方ないなという風に、兄ちゃんはちょっとだけずれてくれた。

これなら真美も座れるね。


「よいしょっと」

「狭くないか?」

「狭い方がある意味いいかも」


兄ちゃんと近い。

兄ちゃんと密着してる。

なんかドキドキする……。


その時、視界の端が明るく光った。

直後、どーんと大きな音。


「花火始まったみたい」

「なるほど、確かにこの神社は見るために丁度いいな」

「ここだと木が邪魔で、ほとんど見えないね」


境内の方だとバッチリ見えそう。

だからこんなにお祭りも混んでんだね。

兄ちゃんの横でぼーっと考えてると、次から次へと花火が上がる。

どーん、どーん。


「折角だし、花火見に行くか?」

「んー、いいや。また人ごみに入ってくの、疲れるっしょ」

「一理あるな」

「それに真美ね、花火って音聴いてるだけってのも好きなんだ」


どーん、どーん。

心地良い音と振動が、真美の身体を揺らす。


なんだろ。

さっきよりも、胸が超ドキドキする。

花火の響きのせいかな?

遠くの方からわいわいがやがや、たくさんの声が聞こえる。

そこから離れて、真美と兄ちゃんは二人きり。


「真美、どうした?」

「……」


なんだか、やっちゃいけないことをしているような、イケナイ背徳感。

それと一緒に、のぼせたように頭がぼーっとなる。


「疲れたのか? ならこのままもう少し休も――」

「兄ちゃん」


名前を呼ぶと、兄ちゃんがこっちを向く。

いつもの兄ちゃんの表情。


それを見たら、なんか我慢できなくなった。



「――っ!」


どーん、どーん。

花火の音と人々の喧騒が響く。

その中で、兄ちゃんが何か言った。

でも、真美には聞こえないよ。


「んっ……」


暖かい。

柔らかい。


「ん……」


自分でも、ちょっとびっくりしてる。

でも、今身体を動かしてる真美は、とっても冷静で。


「……っぷはぁ」


のぼせあがった頭は、何も考えらんない。

一つだけ理解できたのは、兄ちゃんが多分これまで見た中で、一番驚いた顔をしてること。


「真美、お前……」

「……んっふっふー、油断大敵だよ、兄ちゃん」


自分で言うのもなんだけど、真美、なんでこんなに冷静なんだろ。

けっこーなことしたよね、今。


「易々とすることじゃないぞ」

「易々とじゃないよ」


理屈じゃないんだよね。

身体が、勝手に動いてた。


「易々となんかじゃ、ないよ」


もう一回、言った。


「兄ちゃんだから、だよ」

「そう、か」


真美の返事を聞いて、兄ちゃんは黙り込んだ。

やりすぎちゃったのかな。

真美がしたこと、いけないことだったのかな。


「わっ!?」


そんな風に思い始めた時、兄ちゃんが真美の頭をぽんぽんと撫でた。

そのまま軽く引き寄せられて、兄ちゃんに寄りかかる形になる。

な、何するの? 何かされちゃうの?!


「真美」

「えっ、あ、な、何?!」

「確かにいいな、音だけって言うのも」


いつも優しい声だけど、それよりもっと少し優しめに、兄ちゃんが言った。

その途端、強張った真美の身体から、ふっと力が抜ける。

……もー、びっくりさせないでよ。

真美が言えたことじゃないけど。


「うん」


こてんと、兄ちゃんに身体を預ける。

そして花火が終わるまで、二人でゆっくり、遠くの響きに耳を傾けてた。




ちょっと背伸びしすぎたかな。


でも、兄ちゃんとの距離は縮まったかな。



帰り道は、手をつないで帰った。

ほとんど何も喋らなかったけど、それでよかった。

こないだはぎくしゃくというか、照れながらだったけど。

今日は当たり前のように、穏やかな雰囲気。


喋れないんじゃないや。

喋りたくないんだ。


二人っきりの、この穏やかな時間が、いつまでも続きますように。

おつおつ
優しい世界だ

>>237
ありがとうございます。
最後まで見守っていただけると幸いです。


「それでそれで、昨日はどーだったんだ!?」

「ミキがアドバイスしたんだから、勿論モノにしたよね?」


そんな真美のささやかな願いは、翌日そっこー潰された。

事務所に入るなり、ひびきんとミキミキに拉致監禁。

給湯室で両手をわきわきさせながら迫られた。


「ミキミキ、兄ちゃんにうなじ攻撃はかすりもしなかったよ」

「……うそ!?」

「浴衣は似合ってるって言ってくれた!」

「着崩れなかった?」

「うん。ひびきんが綺麗にやってくれたから、ばっちぐーだったぜい」

「ふふん!」

「ミキは……ダメなオンナなの……」


ダメだこれ。

しばらくはみんなにわいわい騒がれそうだね。


夜、寝ようとしたら亜美に声をかけられた。


「兄ちゃんとはうまくいってんの?」

「うまくも何も、スタ→トスタ→にも立ってないよ……」

「お祭り行ったんじゃないの?」

「……行ったけど」


布団の中で、兄ちゃんとの出来事を思い出す。

改めて思い返すと、なんかすんごくむず痒いよ!

タオルケットを被ってじたばたじたばた。


「んっふっふ~、どこまでいったの? ちゅーした?」

「ちゅーした」

「やるねぇ真美さん、ちゅーしたんだ……ってまじで?」

「うん」

「……やるねぇ」


一言返事をするのにも顔が真っ赤っか。

亜美は感慨深げに、ウンウンと頷いてる。


「そんで?」

「えっ?」

「そんで、その次は?」

「その次って……のんびり花火の音聞いて、帰ったけど」

「えー……そこはパッと舞って、ガッとやってチュッと吸ったんなら、はぁぁぁぁあんでしょ!」

「やんないよ!」


もう、亜美ってば人事だと思って!


「でも、うかうかしてると兄ちゃん取られちゃうよ?」

「それは……そうなったら、仕方ないよ」

「えぇ? 仕方ないって……真美、そんなんでいいの?」

「もし兄ちゃんが本当にそれを望むなら、真美は止めらんないよ」


勿論、イヤに決まってんじゃん。

でも、兄ちゃんの気持ちは兄ちゃんのもの。

真美が学校で告白を断ったみたいに、兄ちゃんのことを決めるのは、兄ちゃん自身だから。


別に、兄ちゃんは真美を選んでくれるって約束したわけじゃないし。

キスだって、真美が一方的にしただけ。

これ以上のことを、真美は兄ちゃんに求められないよ。


待っててって言ったから。

待ってくれるって言われたから。


真美にできるのは、なるべく兄ちゃんに好きな人ができないといいなぁ、ってちょっぴり思うくらい。

神様が、真美のお願いを聞いてくれることを祈るだけ。

どうか、真美が待ち望んでいるその日が来ますように――。


真美はその日を待ち続けながら、ずっと兄ちゃんの傍にいた。

その間、色んなことがあった。


事務所のみんなは、それぞれみんな、テレビでよく見るようになった。

テレビに出ない時も、何かしらのイベントで飛び回る日々。

兄ちゃんと、本格的にプロデューサー業へシフトし始めたりっちゃんが頑張ったおかげだよ。

今では真美もレギュラー番組が三本あるし、CDも新譜出すと、もうちょっとで十位台に届きそうなくらい。


でも忙しくなるとやっぱり、兄ちゃんとの会話は減る。

それでも真美は、できる限り兄ちゃんの傍にいた。

兄ちゃんの方も、なるべく真美と一緒にいる時間を作ってくれてた、と思う。


デスクで固まったまま兄ちゃんがウンウン唸ってたのは、そんな日々にも慣れてきて、真美が中学三年生になった頃だった。


「兄ちゃん、何生まれそうな声出してんの?」

「生まれないから困ってるんだよ」

「赤ちゃん? それとも卵?」

「何が卵か。一応俺も、胎生である哺乳類の端くれだからな」

「その前に男として出産を否定してよ」


デスクの上で、何やら書いては消し、書いては消しを繰り返してる。

どれどれ、何か知んないけど真美さんが採点してしんぜようではないかね。


「って引き出しにしまって鍵かけちゃダメー!」

「仕事の邪魔するんじゃないの。で、何か用があったんじゃないのか?」

「あ、そだった」


危ない危ない、すっかり忘れてた。

そうだ、真美にはじゅーだいな使命があったのだ!


真美は二枚の紙きれをポケットから出す。


「兄ちゃん兄ちゃん、これなーんだ!」


ぴらぴら。


「それ……遊園地のチケットか?」

「だいせーかい!」


んっふっふ~、なんとビックリ、商店街のくじ引きで当たったのだ!

今度の日曜日、兄ちゃんとオフが被ってるのは調査済みだぜい!


「遊園地ねぇ。ここ数年くらい行った記憶がないな」

「ねね、今度の日曜に一緒に行こうよ!」

「えーっと、今度の日曜は……あ」


手帳をめくっていた兄ちゃんの手が止まった。

少し、申し訳なさそうな表情をしてる。


兄ちゃんの返事は、真美をさいだいきゅーにがっかりさせるものだった。


「悪い、用事が入ってるな……」

「えええええええええ!?」


う、うそ!?

一昨日、久しぶりの休みだーみたいなこと言ってたのに……!


「ライブに向けて忙しくなるから、今度の日曜逃したらしばらく休み被りないじゃん……」

「すまん、許してくれ……」


えええ……うそー……。

完全に遊ぶ気満々で、アトラクションどう回るかとかスポットとか全部調べてたのに……。


「でも、用事あるんじゃ仕方ないよね……」


兄ちゃんは何度も謝ってくれたけど、真美の気分は完全に萎え萎えだった。

ここ数日、これを目指して毎日過ごしてたのにー……。


でも兄ちゃんにも、色々と都合があるよね。

急に仕事入っちゃったのかもしれないし、友達と会ったりするのかもしれないし。

兄ちゃんの身体は真美だけのものじゃないしね。


「……って、なんかえっちい言い方かも」

「へ? 何が?」

「わあああああっ!? やよいっち!?」


きょとんとした顔をしたやよいっちに背後を取られてた。

え、聞こえてないよね?

だいじょぶだよね?


「ななななんでもないっしょ!」

「ふーん。へー、そーなの?」

「うんっ!」


汗がだらだら。

怪しいなーと呟きながらやよいっちに顔を覗きこまれるたびに、ドキッ!っとする。


「でも真美、なんか暗いかも。どうしたの?」


とりあえずさっきの発言は聞こえてなかったみたいで良かったぁ……。

でも、やっぱりテンション下がってるのは隠せないね。


「兄ちゃん、日曜予定あるって……」

「あ、昨日言ってた遊園地のお話?」

「うん」


完全に浮かれて、やよいっちとか千早お姉ちゃんに自慢しちゃったもんね……。


「他の日は合わないの?」

「ぜーんぜん。しばらくはずっとお仕事とレッスンだよー」

「そっかー。ソロライブやるんだもんね」


そう。

実は中学最後の夏には、真美のソロライブが決まってるのだ。

東京ドーム貸し切り!ってわけにはいかないけど、そこそこおっきめのライブハウスでやるんだよん。

でも初ソロライブなのに、社長さんも思い切りいいよねー。


「そうなると、このチケットも持て余しちゃうなぁ」

「行かないの?」

「なんか一気に行く気がなくなってきた……」

「そーなんだ……」


あ、そういえば昨日話した時、やよいっち少し行きたそうにしてたっけ。


「じゃあやよいっち、これあげるよ」

「はわわっ!? さ、さすがにそれは……」

「なんか利用期間決まってるみたいだし、勿体ないじゃん」

「うぅ……でも……」

「千早お姉ちゃんでも誘ったら?」


ちなみに行きたそうにしてたやよいっちを、千早お姉ちゃんがチラチラ見てたことは知ってんだかんね。


「でも、ただでもらうなんて……」

「そんじゃ、今度遊びに行ったときに美味しいご飯食べさせてよー、やよいっちスペシャル!」

「そ、そんなのでいいの?」

「やよいっちはもう少し自信持った方がいいと思うよ」


やよいっちのご飯、めっちゃ美味しいんだよ。

もやしパーティー以外の普段のお食事も、ぜつみょーな味付けでお姫ちんをも唸らせるのだ。

……お姫ちんの場合、何出しても唸りながら食べるけど。


「まぁまぁとりあえず、はいっチケット!」


少し強引にやよいっちに押し付ける。

なんかこのまま持ってると、チケット見る度にテンション下がりそうだし……。


「あわわっ! えっとえっと、ありがとね、真美」

「いいってことよ!」


近い内にライブの準備も始まるし、いつまでも暗いままじゃね。

明るく明るく、ポジティブにポジティブに……。


そう思ったから、日曜は街に遊びに行ったんだ。

ほんとははるるんが、どこかに遊びに行こうって誘ってくれたんだけど。

何だかそんな気になれなくて、一人で出てきた。


「おっちゃん、ソフトクリームちょーだいっ!」


ニコッと笑って注文すると、ちょっと多めにサービスしてくれた。

うむうむ、キミはきっと出世するぞ。


最近はアイドルばっかり頑張ってたから、たまには自分へのごほーびってやつ?

んー、やっぱりソフトはミックスですな!


「はー……お昼下がりに食べるソフトクリームは格別ですぜ……」


なんか映画のワンシーンみたいだよね。

階段座って舐めてたら、真美もせくちーに見えるかな?

イケメンにナンパされちゃったりして!

兄ちゃん以外アウトオブがんちゅーだけどね、ごめんね!


「……あれ?」


階段に座ろうとしたその時、視界の端に見慣れた人がいた。


「あ、兄ちゃん!」


左手の時計をちらちら気にしながら、兄ちゃんが早歩きで通り過ぎてった。

真美のほーには気付いてない。


「兄ちゃんの外行き私服、かっこいいなー……じゃなくて!」


遠目にぽけーっと見てたけど、ハッと気付いてすぐにソフトクリームを食べきった。

これから誰かと待ち合わせなのかな?

よーし、それなら真美もごあいさつしないとね!


「友達と話してる時に、いきなり不意打ちで抱きついたらびっくりするかな?」


んっふっふ~、兄ちゃんの慌てる顔が目に浮かぶぜ!


思い付いた名案を早速実行しようと思って、兄ちゃんを追いかけた。

距離はちょっと離れてたけど、走ればあっという間。


「急ぎつつ、気付かれないように……」


兄ちゃんが少し先の角を曲がった。

一瞬見失いかけて焦ったけど、その先は確か曲がり角はないはず。

だいじょぶ、十分間に合う距離!


「逃さないぜ、兄ちゃん!」


ターゲットを追う探偵みたいにかっこよく角に隠れながら、兄ちゃんが曲がって行った方を見た。



「っ!」


慌てて角に隠れ直した。


見つかったから、じゃない。


心臓がバクバクいってる。

驚いたからとか、恥ずかしいからとかじゃない。


緊張と、恐怖。


「うそ……」


ねぇ、兄ちゃん。

嘘、だよね?


「にい、ちゃん」


こっそり、もう一度、角の先を覗きこむ。

さっきと同じ場所に、兄ちゃんはそのまま居た。


すっかり忘れてた。

兄ちゃん、今日約束あるって言ってたんだよね。

だから真美、こうして一人で日曜日を過ごしてたんだよね。

やよいっちに、遊園地のチケットもあげて。


「ねぇ、兄ちゃん……」


忘れてたんじゃないや。

忘れようとして、わざと忘れてたんだ。


だから、ほんとは、もしかしたらとは、一瞬思ったんだけど。

兄ちゃんに言われた時、可能性は一番最初に思いついたんだけど。


せめてせめて、知らないふりをして、兄ちゃんには聞こえない、小さな声で聞く。




とっても、仲良さそうだけど、さ。


「その女の人、誰……?」


兄ちゃんは、真美の知らない女の人と、楽しそうにお喋りしてた。



え、だれ?

兄ちゃん、真美はその人知らないよ?


あ、そっか、お仕事関係の人だよね。

あはは、びっくりしちゃったよ!

もう兄ちゃんってば、私服でお仕事なんて誤解を招くようなこと……。


「……あ」


女の人が、兄ちゃんに抱きついた。

腕を組むみたいに、ぎゅっと。


「――ッ!」


真美は、兄ちゃんから目を逸らして走った。

兄ちゃんの方に背を向けて、家へと一目散に。


誰もいない家へ逃げ帰って、部屋に飛び込んだ。

ベッドへ倒れこみ、うつぶせたまま、さっきの光景を思い出す。


「……すごく、綺麗な人だった……」


兄ちゃんと同い年くらいかな。

真美みたいな子どもなんかじゃなくて、ちゃんとした大人だった。


「……そっか。兄ちゃんにも、春が来たんだね」


良かったぁ。

兄ちゃんの将来、少し、心配してたんだよ。


「だから、これは……」


喜ぶべきこと、だよね?


そのはず、なのにさ。


「なんで真美、こんなに嫌な気持ちになってるの……?」


真美、自分で言ったじゃん。

兄ちゃんに好きな人ができたら、応援してあげるって。

兄ちゃんが迷ったら、後押ししてあげるって。


「だからさ、真美、お祝いしてあげなきゃいけないのに」


ねぇ、なんで?

なんで、あの人と一緒にいてほしくない、なんて思ってるの?


「最低だよ……真美、悪い子だよ……」


応援してあげなきゃ、って気持ち。

応援したくない、って気持ち。


二つが頭の中でごちゃごちゃするよ。


「やっぱり、真美じゃダメだったのかな……」


せめて、あと五年早く生まれてたらなぁ。

でもそれだと、兄ちゃんの部屋に行ったりしなかったかも。

結局どう足掻いても、真美の恋は叶わなかったのかな。


「千早お姉ちゃんが言ってた『切ない』って、こういうことなのかな」


兄ちゃんを好きになったことは後悔してない。

兄ちゃんを好きになれて、本当に良かった。


でも、この気持ちがずっとずっと続くのは……辛いよ。


月曜日、事務所に行く足取りは重かった。


「……兄ちゃんとどんな顔して会ったらいいんだろ」


しょーじき、今はまともに話せる気がしない。

でもライブもあるし、レッスンをサボるわけにはいかないよね。


そんなことを考えながら事務所のドアを開けようとした時、中からはるるんと兄ちゃんの話し声が聞こえた。


「プロデューサーさん、昨日一緒にいた方って……」

「えっ、見てたのか?」

「す、すみません! お買い物してたら、お二人でカフェに入っていくのを見かけて……」

「あいつは……大学時代の同期だよ」

「そう、なんですか……」


あの綺麗な人、大学行ってた頃の知り合いなんだ。

じゃあ、真美よりも出会いは早いじゃん。

……なーんだ。真美のほーが、後出しだったんだ。


それっきり、中から会話は聞こえてこなかった。

なんか、すぐに入るのも気まずいよね……。

一度表に出て、誰かが来るのを待とうかな。


少し待ってたらあずさお姉ちゃんが来たから、一緒に事務所に入った。


「おはようございます」

「おはよ」

「二人ともおはよう」


返事があったのは兄ちゃんだけ。

ソファーで湯呑を抱えながら俯いてたはるるんは、少し遅れて真美たちに気付いた。


「あ……おはようございます」


いっしょーけんめー笑ってるけど、元気がない。

そっか……はるるんも、だったんだね。


スケジュールの確認をしてから、兄ちゃんから逃げるように事務所を出る。

そしてレッスン場へ行って、真美はレッスンレッスン、そしてレッスン。


「うーん」


しばらく練習してから通しで一曲流した後、様子を見てたトレーナーさんが唸った。


「あれ……真美、何か失敗してた?」

「内容自体は及第点よ。でも、真美ちゃんらしさが弱いと言うか、全力を出し切れていないと言うか」

「あー」


たはは……引き摺っちゃってたみたい。

気持ちが漏れ出しちゃうようでは、真美もまだまだですなぁ。


「急な追加で大変だろうけど新曲もあるし、頑張ってね」

「うん、初めてのソロライブだもんね」


これまでやってきた歌は、それなりにできてる。

あとは、ライブで初お披露目の新曲だ。

……このままじゃダメなのは分かってるんだけど、兄ちゃんのことが頭から離れないよ。


「よりによってまた、恋の歌なんだもん……」


今回は作詞も作曲も知らない人だけど。

でもモヤモヤした沈んだ気持ちのままじゃ、どんな歌だって魅力は引き出せない。

トレーナーさんも心配してるし、なんとかしないとダメだよね、真美。


前向きになるための、手っ取り早い方法。


「そんなのあったら苦労しないけど……」

「お願いだよぉりっちゃん! そのずのーだけが頼りなの!」

「そうねぇ……私の場合、人のために何かをするようにしてるわ」


人のために?


「結局、後ろ向きな時って、自分のことはいくら考えても、どんどん沈んでくだけだから」

「うんうん」

「誰かのために動いてれば、悩みも少しずつ晴れてくかもしれないわね」


やっぱりっちゃんってすごいなぁ。

自分が大変な時こそ人のため、かぁ。


「真美、頑張ってみる」

「ライブ前だし、あんまり深刻にならないようにね?」


兄ちゃんのことは、事務所のみんなは知らない。

はるるんだけは気付いてるっぽいけど。

だから、気付かれて心配かけないように、明るくしてないとね!


「でも、人のためかぁ……」


何しよっかな?


「……って、絶好の人助けがあるじゃん!」


色々と複雑だけど……ええい、ままよ!

悩まないで動く!

そうすればきっと、大丈夫だよ!


大丈夫、だよ。


「ねね、兄ちゃん。このお店知ってる?」

「いや、知らないな。美味しそうなフレンチですこと」

「最近、若い女の人の間で人気なんだって!」

「なんだ、連れてって欲しいのか?」

「違うよ! 兄ちゃんもいいオトナなんだから、お店のレパートリー増やさないと、ってだけ!」


次の日から、真美は兄ちゃんを支えることにした。

あの人と兄ちゃんが上手くいくように、陰からこっそりと助けるんだ。

兄ちゃんってば仕事に関係ない流行はゼンゼンおっかけないんだもん。


「デザートが絶品っぽいよ?」

「マジかよ、もう行くしかない」


真美のお助けで兄ちゃんが幸せになれたら、とっても嬉しいから。


「んー、へー、ほうほう」


女性誌読んで流行りのお店を調べたり。


「なるほど、ああいう行動が好感度上がるんだね」


街中でカップルを観察したり。


「みんな、こういうのが欲しいんだー」


アクセ屋さんでプレゼント品の傾向をまとめたり。


女の人とお付き合いする上で、兄ちゃんのためになりそうなことをてってー調査!

それからそれを、それとなーく兄ちゃんに教えてあげるんだ。

教えてあげた情報を、兄ちゃんが上手く使えるかは分からないけど……。

それくらいは自分で頑張ってもらうとしよう。


確かに、りっちゃんの言うとおりかも。

何か人のために目的を用意してがむしゃらにやってると、悩んでる暇がないね。


「真美ちゃん、最近調子戻ってきたわね」

「そう? ならこの調子でジャンジャンバリバリ、ライブに向けて頑張っちゃいますね!」

「菊地さんのモノマネ、上手いわねぇ」

「んっふっふ~。真美、ライブで一人765プロコーナーもやるんだよ」


トレーナーさんも、ホッとしたような反応を見せてくれた。

新曲の方はまだちょっとぎこちないけど、まぁ多分なんとかなるっしょ。


「お前、最近情報通になってきたなあ」

「トップアイドルを目指すなら、様々な流行を知ってなければならないのだ!」

「ほーう、意識が高いのはいいことだ」

「ちなみに、最近の二十代女性の間ではこんなアクセが流行ってるんだってー」

「何だこりゃ、変なの」

「真美はけっこー好きだけどねー」


育成計画も少しずつ進んでるし、この調子ならきっと、兄ちゃんも上手くいくはず。

上手くいく、はず。


「喉かわいたー」


じゅるじゅると、コンビニで買ったジュースをすする。

レッスンの帰り道に、なんとなく駅の前でぼーっとしてみた。

最近はライブに調べ物に、忙しかったかんね。


「んっふっふー、買っちゃった!」


そしてそして、片手に持ちたるはコンビニの袋!

その中には……。


「ふおぉ……白いやつ……!」


赤いイチゴが乗った、白いショートケーキ。

最近はコンビニも、色々あるんですなぁ。


フォークを袋から出して……。


「いっただっきまーす!」


ぐさっ!

哀れショートケーキ伯爵、討ち取られたり!

イチゴ男爵は後回しにしてやろう。

せーぜーいちごのいの言葉でも考えるがいい!

……なんか違う?


「あむっ!」


フォークを一直線にお口の中へ!

ぱくっ。



……。


あれ。


「おかしいな……?」


もう一口。

ぱくっ。


「……」


もぐもぐ。


「……全然、美味しくない」


味はケーキ。

勿論、前に食べたのよりは安いやつだけど。

でも、もっともっと美味しいはず。


何口食べても、美味しくない。


「疲れ過ぎて舌がどーにかなっちゃったのかな……」


プラスチックの蓋をして、ケーキは袋にしまった。

ご飯のあとに食べれば美味しいのかも。

亜美にずるっ子って言われるかもだけど。


「あのケーキ屋さんのなら、今食べても美味しいかな」


駅の前にあるケーキ屋さん。

いつだったか、兄ちゃんが買ってきてくれたお店。

店員のお姉さんがニコニコしながら、箱にチョコレートケーキを詰めてた。


でも、美味しい美味しくない以前に、食べたいって思わない。

チョコレートケーキ、ショートケーキ、フルーツタルト。

いろんなケーキのポスターが出てるけど、食欲がわかない。


「あの人、誕生日かな」


眺めてると、大学生くらいの男の人が、大きな箱を受け取ってた。

ワクワクしてるみたいに笑ってて、ケーキ屋のお姉さんもさっきよりいっぱい笑ってる。

きっと誰かを喜ばせてあげようと思って、今頃とっても幸せで。


「あ……」


だめだ、これ。



目頭が熱いよ。


「ダメだよ……真美、ダメだってば……」


唇をめいっぱい噛んだ。

でも、涙が溢れてきちゃう。


「美味しかったなぁ……」


あの夏の日。


「兄ちゃんと食べたケーキ、美味しかったよ……」


ぽろぽろ。

止まんないんだよ。

嫌なのに。

嫌なのに。

幸せな思い出を思い出しちゃって。

止まらなくて。

涙が、出てきちゃうんだ。


真美、決めたじゃんか。

もう迷っちゃダメなんだ。

進むしかないんだよ。

それが、兄ちゃんのためなんだよ。


そう何度言い聞かせても。

真美の中の真美が、納得してくれない。


『なんで真美が、こんな思いしなきゃなんないのさ!』


分かってるんだよ、真美も。

でも、この思いのやり場がなくて。


「あのときのケーキ……美味しかったなぁっ……!」


男の人が足早に駅へ向かっていく後ろで、出てくる言葉が止められなかった。

持って帰ったケーキは、結局食べなかった。


そして、暑い夏のある日。


「とーとーこの日が来ましたなぁ……」


ソロライブの日が、やってきた。


「仕上げはバッチリか?」

「あたぼうよ! ここで仕上がってなかったら、真美はおまんまの食い上げだぜ!」

「その言葉は間違……ってないのか。ないのか!?」

「ねぇ兄ちゃん、真美の日本語ってそんなに信用ない?」


会場に向かう車の中で、他愛もない会話。


「日本語はさておき……昨日のリハは新曲がちょっとぎこちなかったが、まぁ大丈夫だろう」

「あ……うん」


ちょっと動揺しちった。

でも兄ちゃんは運転に集中してて、こっちは見えてない。


「お、おぉ……でか……」


到着したライブハウスは、リハで来た時よりもずっと大きく見えた。


「えっ、真美ここでやんの?」

「お前は何を言っているんだ」


口元をつままれて、むにむにされる。

むぬー、やめれー!


「ライブ当日だってのに、朝から気が抜けてるんじゃないか?」

「そ、そんなことないって」

「そうか? 冗談は抜きに、もし体調悪くなったりしたらすぐに言うんだぞ」

「分かってるってば」


平静を装ってるつもりだったんだけど……。

心がどこかモヤモヤしてる。

やっぱり兄ちゃんには、完全には隠しきれないね。


「俺はちょっとスタッフさんのところに行ってくる。衣装のチェックとかしててくれ」

「りょーかい!」


真美の返事を聞くと、兄ちゃんはバタバタとステージの方へ走っていった。

もうすっかり、やり手プロデューサーって感じですなぁ……。


「えーっとバイタルサンフラワーでしょ、グッドラックターコイズでしょ、ダークゾディアックでしょ……」


一つ一つ衣装のチェック。

うん、アクセも含めて漏れはなし、っと。


「本当にそうでしょうか?」

「のわぁぁぁぁぁああっ!?」


ぬっひゃぁ!

だ、誰!? いきなり後ろから声かけてぇ!


「ふふふ。驚きすぎですよ、真美」

「お、お姫ちんじゃん……もうっ、びっくりさせないでよ!」

「そしてデザートトラベラーは、たった今、わたくしがお持ちしました」

「げっ、めっちゃ漏れあんじゃん……」


そういえば仕事入ってない子が何人か、手伝いに来てくれるんだった。

お姫ちんに手伝ってもらいながら、改めて衣装やアクセをチェックチェーック。


「えーっと、チェックMYノートがこれで……この名前、誰が付けてるんだろ」

「名前、ですか?」

「いろんな衣装あるけどさ、覚えにくい上に一部はちょっと痛いよね」

「真美。そのようなことを言ってはなりません。グッドラッタコじぇっ」


ねぇお姫ちん。

思いっきり噛み噛みで言われても説得力ないんだけど。


そんな感じで和やかに進んでたけれども。

確認がひと段落ついた時、不意に言われた。


「ここしばらく、心ここにあらず、といった様子が時折見受けられます」


先ほどの見落としの時も、と付け加えながら、お姫ちんは心配そうな顔をした。

気付いてたのは兄ちゃんだけじゃないみたい。

たはは……ダメダメだね、真美ってば。


「奢りや怠慢でないことは分かります。何か懸念でも……?」

「ううん、何でもない。ただ疲れてぼーっとしちゃってただけだよ」


雑多なアクセ類をまとめて、確認作業は終了。

この話題は、早いとこ切り上げたかった。


「さて、これで搬入物の確認は大丈夫でしょう。何かお手伝いすることは?」

「ありがとね、お姫ちん。あとは歌詞のチェックしようと思ってたくらいだから、だいじょぶだよー」

「……そうですか。ならばわたくしは斜向かいの控室におります」


何かあればお声かけを、と言い残して、お姫ちんは楽屋を後にした。

多分、真美の気分に気付いて、察してくれたんだと思う。

ごめんね、お姫ちん。


「それじゃ、歌詞チェックしよっと」


本番で飛んだら怖いもんね。

特に新曲は――。


「……待ち焦がれる恋の歌、かぁ」


今回は兄ちゃんが決めたわけじゃなくて、社長の知り合いから貰った曲らしい。

トレーナーさん伝手に聞いたんだけど。


「アナタは、待っていてくれますか――」


歌詞カードを見ながら口ずさむ。


「光に届く、その時を――」


真美にとっては初めての、優しいバラード。

これまではずっと、元気な曲とかばっかだったもんね。


「この最後のサビの歌詞、時々ふっと忘れかけちゃうんだよね」


歌詞を読むたびに、ぐさりと刺さる。

だから、頭が忘れたいのかも。


とんとん。

楽屋のドアが、小さくノックされる。


「真美、入っていいか?」

「あ、いいよー」


兄ちゃんだ。

そろそろ、ステージの方も整ってきたのかな。


「機材のセッティングが終わったから音出しやるぞ。来てくれ」

「あいよー」


トコトコと兄ちゃんについてく。

そんな真美を見て、兄ちゃんはまた心配そうな顔をした。


「やっぱり元気がないな」

「ううん、そんなことないもん」

「いつもなら張り切って前を歩くだろう」


そーかな。

そーだったかも。

今の真美は、アヒルの子みたいに兄ちゃんの後ろをついてくだけだもんね。


「……へっへん! そんなこと言われちゃ、真美も張り切るしかないっしょ!」

「おいっ! 待てっ!」


だだだっ、と。

兄ちゃんの横を、すり抜けるように走り抜けた。


「機材持ってる人もいるんだから危ないぞ!」

「あ、そっか、気をつけるね!」


兄ちゃんの顔を見ないように。

空元気を、精一杯の盾にして。


ステージに駆けこもうとしたとき、誰かとぶつかりそうになった。


「わわっ!?」

「おっとはるるん! めんごめんご」

「び、びっくりしたぁ……真美、危ないよ?」

「ちょっと慌て過ぎちった!」


積み上げられた段ボールの影から出てきたのははるるんだった。

隣には千早お姉ちゃんとやよいっち。

結構いっぱい来てんだねー。

……うちの事務所、お仕事大丈夫なのかな。


「初めてのソロライブだからって羽目をはずしてはダメよ」

「千早お姉ちゃんはお堅いですなぁ。やよいっちには甘いのに」

「そ、それとこれとは話が違うでしょう!」

「そうだよ! 千早さん、真美にも結構甘いんだよ?」


え? そうなの?

あんまり普段、そういう感じはしないけど。


「そうだね……今のが私だったら正座させられてるね……」

「いい歳して中学生と並ぼうとするんじゃないわよ」


不貞腐れたはるるんと、呆れた表情の千早お姉ちゃん。

あはは、そんな姿を見てたら、少し気分が明るくなってきたよ。


「真美、また無理してない?」


はるるんが、真美の顔を覗き込みながら呟いた。

千早お姉ちゃんもやよいっちも、ちょっと心配そうに見てる。


「してないよ」

「本当に……?」

「してないから、だいじょぶ」


うん、大丈夫。

そう、自分に言い聞かせるように。


一瞬の沈黙の後、スタッフさんが真美を呼ぶ声がした。

準備、出来たみたい。


「それじゃ行ってくんね!」

「あっ……」


はるるんが、何か言いかけた。

でも、真美は知らんぷり。


何歩か駆けたところで、はるるんの声が聞こえた。


「もっと私たちを頼ってくれても、いいんだよ」


ちょっと寂しそうに笑うはるるんの声。

その声に引かれつつ、スタッフさんのとこへ向かった。


音出しは特にトラブルもなくおしまい。

リハーサルは昨日、入念にやったからね。


少し予定が押し気味だったけど、いよいよ本番。

幕の間からこっそり覗くと、いつの間にかお客さんが客席を埋めて、ちょっと先走ったサイリウムが光ってる。


「おっし真美、準備はいいな?」

「もうマリカースタート前からアクセル全開状態だぜ!」

「いいですか真美、あのげえむは押しっぱなしだと滑ってしまってスタートできないのです」

「知ってるよ……お姫ちんがテンパってた時に教えてあげたの真美じゃん……」

「衣装のチャックは大丈夫? メイクは崩れてない? 最初の歌、どっちの足から出るか覚えてる?」

「千早お姉ちゃん、そんなオロオロしなくても大丈夫だから」

「心配なんですよね、千早さん」

「千早ちゃん、まるでお受験前のお母さんみたいだよ……」


みんなが思い思いの言葉で、真美のことを後押ししてくれる。


そして、オープニングBGMが鳴り響く中。


「それじゃあ、暴れてこい!」

「おうさっ!」


ぐいっと。

兄ちゃんの手が、真美の背中を押した。


いつもならいっぱい勇気を貰えるのに。

今日はまるで、無理矢理追い出されたみたいで。

兄ちゃんとの距離がひらいてくみたいで。

兄ちゃんはもう、真美とは違う世界に居る人みたいで。


「へーい! 会場の兄ちゃん姉ちゃん! 最初からフルスロットルでいくよーーっ!!」


本当は真美こそ、後押ししてあげなきゃいけないのに。

嫌なこと考えてる自分が、大嫌い。


「スタ→トスタ→!」


兄ちゃんに応援するって嘘をつく自分が嫌い。

みんなに大丈夫だよって嘘をつく自分が嫌い。

ファンのみんなに笑顔の嘘をつく自分が嫌い。


「あなたのハートに、バキューン!」


ライブが一曲、また一曲と進んでく。

無理矢理作った笑顔が、だんだん苦しくなっていく。


「見っつっけたんっ!」


今後ろから膝かっくんされたら、全部ぼろぼろと崩れちゃいそう。



客席のみんなが盛り上がる。

真美はステージの上で一人ぼっち。


時々舞台袖を見ると、十数歩のところに兄ちゃんがいる。

いつもならそれを思うだけで元気がいっぱい湧いてくるのに。


今はこの十数歩が、とっても遠い。


演出の合間を縫っての衣装替え。


「着替える時間はほとんどないよ!」


はるるんが慣れた手つきで着替えを手伝ってくれた。

着替え用の演出時間は、あと二十秒。


「はるるん」

「なに?」

「真美、嘘ついてた」


あと十秒。


「真美、大丈夫なんかじゃ、ないんだ」


あと五秒。


「真美、嘘ついてたんだよ」


「知ってたよ」


え?


「真美はもっと、素直になっていいんだよ」


はるるんは、笑いながらそう言った。

……素直になって、いい?


「ほら、演出終わっちゃう」

「あっ、行かなきゃ!」


やばっ、出遅れちゃう!

急いで行かなきゃ!


「お待たせーっ! 後半もバクハツしてくよー!」


素直に、かぁ。

このステージに立ってるのは、素直な気持ちかな。


「さあ! ここから星へー!」


それは間違いないよ。

このライブが決まった時、最初はすっごいワクワクしたし、早くステージに立ちたいって思った。

なんでだろ?


「この世界ってば私だけ!」


真美、そんなにみんなの前で歌ってダンスしたかったのかな。



そもそも、真美、なんでステージに立ってるんだっけ。


楽しいから?


そういや真美、いつからそんな風に思えるようになったんだろう。

最初はどうしたらいいか分からなくて、あんなにもがいてたのに。


最初は?


あれ?


真美、なんでアイドル始めたんだっけ。


そうだ。

あの日、思ったんだ。


『真美も兄ちゃんと一緒に行けたらなー……ぜーったい毎日楽しいのに』


兄ちゃんと同じ道へ進んで、兄ちゃんと並んで歩きたいって思ったんだ。


そして、今日のライブは、その答えの一つだから。

ここまで二人で来れたことの、一つの証明だから。


だから真美、このステージが待ち遠しくて、たまらなかったんだ。


セットリストの最後は、懐かしのデビュー曲。

この曲を初めて歌ってから、もう結構経つんだね。


「デートしてくれま・す・か?」


揺れるサイリウムが、とっても綺麗。

色とりどりの光が揺れる度に、色んなことを思い出すよ。



ケーキをもらった。

就職のお祝いをした。

事務所のオーディションを受けた。

練習のしすぎで倒れちゃった。

一緒にベランダで星を見た。



そして……恋をした。



ドラマで準ヒロイン貰ったよね。

ピヨちゃんとりっちゃんにビンタ貰ってたよね。

そんで真美、兄ちゃんに告白してさ。

お祭りに連れ出して、キスまでしちゃって。


あー、ほんとに、あっという間だったなぁ……。


「っ……」

そんな夢みたいな日々も、もう少しで終わりなのかなぁ……。


「恋バナ、お・わ・り!」


終わらせないと、ダメなのかなぁっ……!


「兄ちゃん姉ちゃんたちー! 今日は来てくれてありがとーーー!!」

たくさんの声を浴びながら、ステージを後にする。


セトリの最後が終わって、あとはアンコール。

一曲目が千早お姉ちゃんとやよいっちのゲストステージ。

そして二曲目に用意されてるのは、今度発売する真美の新曲。

二人が歌ってるうちに着替えないと……。


「よし、真美。衣装はこっちだ!」

「うんっ!」


舞台袖で待っていた兄ちゃんに急かされて、楽屋前を急ぐ。

ねえ、兄ちゃん。

真美、こんな風に一緒にいるだけで、ちょー幸せなんだよ?


と、そのとき。

兄ちゃんの携帯の着信音がなった。


「ん、誰だ……?」


急ぎながら、兄ちゃんが携帯を見た。

そして、ぼそりと呟いた。


女の人の、名前。


「っ!」


直感で、思った。

それたぶん、あの人の名前、だよね。


がしゃあん!

って。

真美の中で、何かが崩れる音がした。


「あとでかけ直せばいいか……真美?」


どうして?

真美、いっしょーけんめー諦めようとしてるんだよ?

でも、このステージがきっと、最後だからって……。


「おい真美、どうして立ち止まってるんだ? 急がないと……」


今だけは真美の兄ちゃんでいてほしいって。

そう思ってたのに。


「……真美?」


なんで……。

なんで、さ……。





ここは、真美と兄ちゃんだけの場所なのに……!





「なんで……ここにまで来るのさ……!」


足が勝手に、逆方向へ走り出した。


「?! おい、真美っ、どこに行くんだ!?」


後ろから、兄ちゃんの声がした。


やだ。

やだ、やだやだやだ!!


真美、もうダメだよ。

これ以上、歌えない。

踊れない。

いつもの表情をしてらんない。



「真美!」


兄ちゃんが真美を呼べば呼ぶほど。

もう、真美は苦しいだけなんだよ。

こんな場所、居たくない。


大好きな兄ちゃんが、誰かに持ってかれちゃうのを見てるだけなんて!



「はぁっはぁっはぁっ……」


兄ちゃんを振りきって、裏の方まで逃げて来ちゃった。

今頃、千早お姉ちゃんとやよいっちは大変かな。

スタッフさんたちも、慌ててるかもしれない。

ライブもぜんぶ、ぶち壊しかもしれない。


あはは。


真美、さいてーじゃん……。


自分の思い通りにいかないからってさ。

ぜんぶ放って逃げて、逃げて……。


「……うぁ……ぅっく……」


なにやってんのさ、真美……。

ぜんぶぜんぶ、自分で決めたことじゃんか。


このステージに立つことだって。

兄ちゃんを応援することだって。


ずっと、兄ちゃんの隣にいるって。

この想いが報われないとしても……ずっと、ずっと……。


それはぜんぶ、自分で……!



「みぃつけた」


ぽんっと、肩を叩かれた。

振り向くと、かわいいリボンが揺れてた。


「真美、メイクが涙でぐしょぐしょだよ?」

「ばる゙る゙ん゙……」

「ふふっ。私、そんな怪獣みたいな名前じゃないよ」


そんなふーに声かけられたら。

そんな、ぜんぶ知った上で微笑むような、優しい声で話しかけられたら。

積み上げてたものが、一気にがらがら崩れちゃう。


「……ッうあぁぁぁああぁぁぁぁああああんっ!!」

「うん。真美、頑張ったんだよね」


はるるんの顔見たら、もう堪えらんなくて。

胸の中に飛び込んだ。

もう、辛かった想いが、我慢してたことが、ぜんぶ溢れてきて……!


「ごめんなさっ……ごめ、ごめんなさい、ごめ……あううぅぅぅぅ……!」

「もー、なんで真美が謝るの」

「だって、ちはやおねーちゃんにも、やよいっちにも、いっぱいいろんな人にメーワクかけて……!」

「それなら大丈夫だよ。ほら、聞こえるでしょ?」


そう言って、はるるんが涙を拭ってくれた。

耳を澄ませてみると、会場からファンの兄ちゃん姉ちゃんたちの歓声が聞こえた。


「ちゃんとステージは続いてるよ」

「うん」

「ね? 二人だって、伊達に人気アイドルやってるわけじゃないんだよ」

「……うん」


はるるんに優しくされると、悲しい気持ちが少しずつ楽になってく。

やっぱり、はるるんってすごいや。


「落ち着いたら、プロデューサーさんのところに行こう?」

「っ……なんで、さ……」


兄ちゃんのことが出てきたとたん、また胸がきゅっと締め付けられる。

はるるん、真美が辛いの、分かってるでしょ?

なんでここにきて、そんな意地悪を言うの?


「真美、プロデューサーさんから何も聞いてないんだよね」

「……そう、だけど」


でも聞くまでもなく、いちもくりょーぜんじゃん。

あの女の人に、ベタ惚れなんでしょ?


「真美が今度出す新曲、あるよね」

「うん……でも、しょーじきあんま歌いたくない」


待ち焦がれる、恋の歌。

今の真美にとって、いちばん辛い歌。

だって、待って待って待った結果、真美はダメだったんだもん。


「こんな時に歌ったら……酷い歌になっちゃうよ」


歌って、心を込めて歌うんだもん。

今あの歌詞を歌おうとしたら、きっと、悲しさと妬みにまみれちゃう。

歌も、ファンの兄ちゃん姉ちゃんも……可哀想だよ……。



「わぷっ!」


なんて考えてたら、急に目の前が真っ暗になった。

代わりに、顔にふにょふにょと柔らかい感触。


「あのね」


はるるんが、真美を抱きしめながら呟いた。


「ほんとはね――」


こそっと、そのまま真美に耳打ちした。

……え……?

なにそれ……。

真美、聞いてないんだけど……。


「でも、社長の知り合いの人がって……」

「プロデューサーさん、いっつも裏目裏目だね」


そう言ってはるるんは、くすっと笑った。

それって……。


「ほら、早くプロデューサーさんのところに行ってあげないと」

「え、でも千早お姉ちゃんたちが」

「大丈夫大丈夫、貴音さんもいるから。お姉さんたちに任せなさい!」


はるるんがフフンと力こぶを作る。

つんつんってつつくと、くすぐったそうな表情とともにへにゃっとした。


「……ありがと、はるるん」

「うん、どういたしまして」


急がなきゃ。

はるるんに背を向けて、真美は楽屋の方へ駆けだした。


「私は、ダメだったけど」


後ろから、小さなつぶやきが聞こえた。

真美は振り返らずに、兄ちゃんのとこを目指した。


「真美は、大丈夫だから」


潤んだ声が、真美の背中をぐいって押した。

復帰したのか 投下乙

くっそ切ないな
もらい泣きするぞ
おつおつ

>>316
恥ずかしながら戻ってまいりました
完結までさほどかかりませんので、よろしければご覧いただけると幸いです

>>317
そこまで感情移入して読んでいただけて嬉しいです
最後まで見届けてあげてください


背中を押されて戻った、楽屋の近く。


「真美! どこに行ったんだ?!」


血相変えて、衣装箱の裏を探してる兄ちゃんが居た。

……真美、もうそんなとこ隠れるほどコドモじゃないんだけど。


「兄ちゃん」


だから真美は、できる限り大人っぽく聞こえるように、静かに兄ちゃんを呼んだ。

真美の声を聞くや否や、呼ばれたペットみたいに振り返る兄ちゃん。

あはは、焦りすぎだってば。


ばぁか。


「真美! なんで急に……!」


ちょっと怒りつつも、心配で仕方ないって感じの兄ちゃん。

ごめんね。

でも、ホントにガマンできなかったの。


「ごめんなさい」


そのことは、謝るから。


「謝るから、一個だけ教えて」


はるるんに後押ししてもらわなきゃ、怖くて聞けなかった言葉。


「さっきの携帯の着信、あの女の人、だよね」

「……!」


真美の質問を聞いて、兄ちゃんは息が詰まったような顔をした。

なんだろ、驚きと憤りと後悔をまぜこぜにしたような感じ。

ほんの一瞬のことだったけど、ぐるぐると季節が巡るみたいに兄ちゃんの表情が変わった。


「お前……知ってたのか」


帰ってきた答えは、さっきまで真美が、何よりも恐れていた言葉だった。


その言葉は、ただの知り合いの一人とかじゃない、って証拠。

うん、知ってたんだ。


「ごめんなさい。前に街で兄ちゃん見つけて、追っかけてたら……」

「……そう、だったのか」


やっちまった、と兄ちゃんが手のひらで顔を覆った。


「そうだよな、そりゃそうか、それで最近……」


そのまま、兄ちゃんの指の隙間から呟きが漏れる。

真美にかける言葉を探すように、あれこれ言い掛けるんだけど、結局続かない。


「ね、兄ちゃん」


だから真美は、兄ちゃんが喋りやすいように、怯えた心を押し殺して言った。

なるべくなるべく、優しく優しく。


アイドル始めて、辛かったとき。

あの夜ベランダで、兄ちゃんが話しかけてくれたときみたいに。


真美は、怖くないよ。

真美は、ちゃんと聞くよ。

って、兄ちゃんに聞こえるように。


「その人、兄ちゃんの、彼女さんなのかな」


どんな答えが返ってきても、真美自身が、ちゃんと聞いてあげられるように。


「一昨日、告白されたんだ」


真美の表情を見て、声を聞いて、兄ちゃんも少し落ち着いたみたい。

ステージの方を気にしてたから、大丈夫だよ、って言ったら、話し始めてくれた。


「最近、何かと理由をつけて誘われてたんだ。大学時代の同期でね」

「うん、知ってる」

「マジかよお前スパイか何かか」

「真美の目は、いついかなる時でも兄ちゃんクンを見張っているのだよ」


そう胸を張って言うと、兄ちゃんも思わず小さく吹き出した。

事務所での会話を盗み聞きしただけだけど。


「風呂もか」

「別に見張ってもいいけどさ、ふつー逆じゃない?」

「お前は事務所から前科者を出したいのか」


ああ、すっごく久しぶりかも、この感じ。


「で、告白にはなんて答えたの?」

「断った」


携帯を取り出して、兄ちゃんはぽちぽち操作し始めた。


「さっきのも、ただのお礼だったよ。返事をくれてありがとう、って」

「せっかくきれーな人だったのに」

「そうだな、大学でも人気だったよ」


携帯を閉じて、兄ちゃんが視線を真美に移した。

悲しそうな辛そうな、どんよりした雨の日みたいな視線。


「バレてたらすぐに問いつめられると思ってた。そしたらちゃんと答えりゃいい、急に話しても不安がらせるだけだ、って」

「真美だって、少しずつだけどオトナになってるんだよ?」

「ああ、俺の考えが甘かった。前科もあるのに、どうしようもないな」

「そだよ、もう前科者じゃん」

「本当にな」


衝動的に、兄ちゃんの服の裾を掴んだ。

その手を、兄ちゃんが優しく握ってくれる。

あったかい。

あったかいなぁ。


「ごめん、ちょっと嘘」


ホントは、オトナだから気を遣ってたんじゃない。


「怖かっただけなんだ。あの人誰って聞いて、好きな人って言われたらって」


直接聞かない理由を作って、逃げてただけなんだよ。

兄ちゃんのためって理由を。


「じゃあ、なんで急に聞こうと思ったんだ?」

「はるるんに聞いたから」


何が、とは言わない。

でも兄ちゃんは、その一言でぜんぶ分かったみたいだった。



「アナタは、待っていてくれますか――」


小さく、兄ちゃんにだけ聞こえる声で、口ずさむ。


「光に届く、その時を――」


優しいバラードの、ワンコーラス。

さっきまでは怖くて歌えなかった歌詞。

真美の歌を聴いて、兄ちゃんは眉をしかめた。


「やめなさい」

「んっふっふー、他も全部歌えるよ」

「マジでやめなさい」


待つことも許してくれないのに、なんでこんな歌詞を歌わせるの、って思ってたけど。


「春香め……本人には言うなと念を押しておいたのに……」

「でもはるるんが教えてくれたから、真美は兄ちゃんに聞けたんだよ」


はるるんが教えてくれなかったら、この歌は嫌いなままだった。

きっと真美は、この歌詞みたいに待ち続けるだけの損ばかり。

兄ちゃんはあの女の人に取られちゃうんだって、辛いままだった。


でもほんとは。


「この歌詞、男の子の歌だったんだね」

「……」


ずっとずっと待ってたのは、真美だけじゃなかったんだね。


嬉しいんだ。

胸が幸せで、はちきれそうなくらい。

はるるんに言われるまで気付けなかったのだけが、悔しいけど。


「あの日、真美に言ったこと」


いつか、星のない空を二人で見上げたベランダ。

面と向かって、初めて告白した夜。

そこで兄ちゃんは言ってくれた。


「覚えてて、守ってて、くれたんだね……」

「当たり前だろう、このおませさん」


口元が震えて、視界が霞んだ。


分かってた。

はるるんに言われて気付いて、ここに来るまでには、そうだったんだって理解してた。


「でも、実は違うんじゃないかな。ギリギリで気持ちが変わったんじゃないかな、って」


たった今の今まで、少しだけ。

少しだけ、不安だったんだ。


「答えは最初から決まってたよ」

「兄ちゃんの?」

「ああ」


短く答えて、兄ちゃんは真美の頭をぽんぽんと撫でた。

うー。それ、ずるい。


「ちびっこに手を出す変態ではないが」

「それは流石に引くよ」


そりゃそうだ、と言って兄ちゃんが笑う。

真美、その顔好きだよ。

兄ちゃんがほんとにたまにだけ、真美にだけ見せてくれる表情。


「でも、この子が大きくなったら……一人の女性になったら、俺はきっと好きになるんだろうなって」

「へ?」

「うん、変な話だけどさ、あのとき、確信したんだ」

「……うぇっ!?」


き、急に真顔で、とんでもないことを言わないでよ!

頭がフリーズしちゃったじゃん!


そ、そしたら兄ちゃん……今はどう考えてるのかな……。


「あのさ……真美、オトナになれた?」

「まだだな」


即答された。


「えーーっ!? だっていま言ったじゃん! あんな歌詞も書いてくれたじゃん! アレ兄ちゃんからのあんさーっしょ!? オッケーっしょ!?」

「バカ言え、義務教育を受けてる身でオトナと抜かすか」

「ぐ、ぐぬぬ……」


これは確かに言い返せない。

真美、まだ中学生だもんね……。

どんなに背伸びしても、仮に今すぐおひめちんやあずさお姉ちゃんみたいなないすばでーになっても、中学生は中学生。

オトナとは言えないね。


「それでな、真美。一つ頼みがあるんだが」

「頼み?」


なんだろ。

兄ちゃん、いつになく真面目な顔してる。


「ああ。来年の五月二十二日の夜、時間作れるか」

「え……」


五月二十二日。

それって、真美の……。


「その日、時間が取れたらでいい。俺にくれないか」

「……うん」


空けないわけ、ないじゃん。


「真美、それまで頑張れるか?」

「うん」

「それまで待てるか?」

「うん」

「それまで、待っていてくれるか?」


兄ちゃんが、真美の目を見ていった。

真美も、兄ちゃんの目をまっすぐ見た。


「うんっ!」


そんで、はっきり聞こえるように、絶対に兄ちゃんが聞き逃さないように。

思いっきり声を張り上げて、うなずいた。



きっと、今の声は聞こえたと思う。


「ほんじゃ今日最後のステージ、行ってくんね!」


なんでって、真美を見る兄ちゃんの目が、とってもあったかかったから。

気合を入れた真美の背中を、ぽんと押してくれた手が、とってもあったかかったから。


「ああ、行ってこい」


兄ちゃんが笑顔でそう言ってくれるだけで。

真美、こんなにこんなに、心が湧きたつんだよ。


「真美のステージから、一秒たりとも目を離しちゃダメだかんね!」


知ってるでしょ、兄ちゃん。

真美、こんなにこんなに、兄ちゃんのことが大好きなんだよ。


舞台袖へ行くと、はるるんがお姫ちんの衣装チェックをしてた。


「双海真美、ただ今帰還いたしましたっ!」

「おや、もう大丈夫なのですか」

「めんごめんご、もうだいじょうぶいっ!」


ピースピース!

らぶあんどぴーすだぜっ!


「ならば、私の出番は必要ありませんね」

「ありがとね、お姫ちん!」

「真美、とってもいい顔してるね」

「んっふっふー、今の真美は百人力だよん!」


着かけてた衣装を脱ぎながら、お姫ちんは安心したように小さく息を吐いた。

みんなに心配、かけちゃったな。


「ちょうど千早ちゃんのお笑い道場夏場所が終わったところだから、このまま入れ替わっちゃおうか」

「待ってなにそれ超見たいんだけど」

「やよい、小道具持って二人で戻ってきて……あ、よかった! ジェスチャー通じたみたいだね」

「カメのエサとか何に使ったの!? どんなステージやってたの?!」

「まこと、素晴らしいステージでした……」

「お姫ちん涙で潤んでるし! うあうあー! 真美がいない間に何が起こってたのさーー!?」


な、なんかすっごくレアなタイミングを逃した気がする……!

戻ってくる千早お姉ちゃん達も、なんかやり切ったような清々しい表情だし……。


「ほら、真美の出番だよ!」

「えっ!? あ、うん、い、行ってくんね!」


お姫ちん、はるるんの隣でそんな涙拭きながらハンカチ振らないでよ!

気になるじゃん! 気になってステージに集中できないじゃーん!


ステージの方からは、ファンの兄ちゃん姉ちゃんの歓声が聞こえる。

その声を背に、千早お姉ちゃんとやよいっちが帰ってきた。


「もう大丈夫なの?」

「うん、あんがとね、やよいっち。二人とも、ごめんなさい」

「謝りたいなら後で聞くわ。あんまり口にすると、ステージに影響が出るから」

「ん、そだね!」


腕をぐるんぐるん回す。

ぐるーんぐるーん。

よっしゃー、やる気全開!!


「あ、千早お姉ちゃん」

「何かしら?」

「……お笑い道場夏場所、あとで見せてね」

「ふふふ、ステージをしっかり締めることができたら、ね?」


おっけー……。

この双海真美、やったろーじゃん!!



それじゃ、ステージに――。


――。


――あれ。

外から、声が聞こえる。


何か、よく聞き馴染みのある言葉だ。

いつもいつも、毎日のように聞き馴染みのある……。

なんだっけ、これ。


それが、少しずつ冷えてた真美の身体を、暖めてくれる。



あ、そっか。

これ、あれだよ。


真美の名前だ。


みんなが、真美の名前を呼んでるんだ。


そっか、そうだよね。

みんな、真美の歌を聴きに、ここへ集まってきてくれたんだもん。

他の誰でもない、真美の歌を聴きに来てくれてるんだ。



そうだね。


「……よしっ、いま行くよん」


真美が兄ちゃんと一緒に目指してきたものってさ。

結局、みんなを笑顔にすることで。

みんなに明るい何かを届けることで。


兄ちゃんと一緒に歩いてくことでもあって。

765プロのみんなと一緒に頑張っていくことでもあって。

ファンのみんなに全力で気持ちを伝えていくことでもあって。


うん、そうなんだ。

このステージを、全力でやり切ることがさ。


「めんごめんごみんなーーー! たっだいまーーー!!」


真美がずっとずっと、目指してきたことなんだ!


「わぷっ! まぶしー!」


照明ってこんなに眩しかったっけ?


目が慣れて、もう一回見回すと、ファンのみんなが笑ってた。

あ、何人か心配そうな顔してる人がいる。

ちょっとバレちゃってたのかな……真美の不安。

もーダメダメじゃん、真美ってば。


「いやー、実は朝から頭のちょーしがまいっちんぐでしてなー。でも、もう大丈夫!」


笑顔でブイってやったら、心配そうにしてた人たちも安心したような表情になった。

良かったぁ。

いまの真美、ちゃんと笑えてるんだ。


「こーんなハイテンションで出てきてアレだけど……最後の新曲、ちょっとちっとりなんだよねー」


ぺろっと舌を出すと、みんなが笑ってくれた。



「真美の気持ち、いっぱいいっぱい詰め込むからね」


視界の正面。

PA機材の中に紛れ込むように、兄ちゃんがいた。

目が合うと、にっこり笑ってくれた。


「みんな、聴いてね」


マイクを、力いっぱい握りしめる。


ファンのみんなに、心のこもった声が届くように。

正面の兄ちゃんに、真美のメッセージが届くように。


「歌います」


真美の、素直な心を。

想いを、歌います。


最後のトリは、暖かいバラード。

兄ちゃんがずっと温めてくれた、密かな想い。


「――」


さっきまで口にするのも怖かったのになー。

無意識に身体を動かすみたいに、するする歌える。


「――」


頭、真っ白。

でも、ココロが沸き立って。

声がどこまでも響いていって。


すっご。

すごいこれ、初めての体験だ!



「――」


頭では歌詞と全然違うこと考えてるのに。

今もこんなワケわかんないことアレコレ考えてるのに。

なんだろ、こう、考えてることと口にしてることが一致してるような。


「――」


口にする言葉は違うけれど、いま、真美が考えてることを歌ってるんだ。

自分がいま、どんな言葉を口にしてるかも頭に入ってこないけど。

いやまぁ、多分ちゃんと歌詞歌ってるよね、多分。


「――」


……多分、歌ってるっしょ?



それはきっと大丈夫。

だってほら。


「――」


眩しい眩しい照明の向こうから。

兄ちゃんが、こっち見てもっと眩しく笑ってるもん。


「――」


多分歌詞違ったら顔面ユーハクで変な踊り踊ってるだろうし。

あ、ユーハクじゃないや、ソーハク?

ユーハクじゃ死んじゃってるね。

うらめしや~!


ファンの兄ちゃん姉ちゃんたちが、真美の心に合わせてサイリウムをゆらりゆらり。

ごめんねみんな。

真美ってばちょっと自分勝手に歌っちゃってるよね。


「――」


でもきっと、その自分勝手も、なんとなくみんなに伝わってる。

それでもみんなみんな、優しく励ますような、あったかい目で見てくれてる。


「――」


だからステージ上の真美も、ヒャクパー素直な心で歌えるんだ。

真美の最高に素直な心……。

そう、オーバー・トップ・クリア・マミンド!

……マミンドってアキンドみたいでおっちゃんくさい、やっぱなし。



「――」


いっぱいいっぱいの想いが、歌に重なってく。

兄ちゃんと出会ってから、今日までの日々。

さっきまでとは違って、幸せに感じる想い出。


「――」


夢みたいな日々は、終わらない?

夢みたいな日々は、これから始まる?


「――」


違うよ、そうじゃない。


「――」


ほわほわと泡みたいだった夢から、目を覚ますんだ。


「――」


夢じゃなくて、朝を迎えて、真美は。



「――」


目が合う。

兄ちゃんと。


「――」


もうすぐラストのサビの、本当の最後。

兄ちゃんが答えをこめてくれた、あの歌詞。


「――」


真美の口がフレーズを歌う。

とっても自然に。

当たり前のように。


ごくごく自然に、本来の言葉とは、違う言葉で。




「ワタシは、待っていますから」



「光が照らす、その場所で」




兄ちゃんが、目を見開いた。


照明の光かな。


ちょっぴり目元が、光って見えた。




余韻を残して、静かに歌が終わる。


歌い終えたとき、みんなが笑ってくれた。

ワーワー叫ぶんじゃなくて、余韻を繋ぐみたいに、ただにっこり笑って拍手してくれた。

ぱちぱち、ぱちぱちって音が会場に響く。


歌い終えた途端、ボーっとしちゃった。

ぼやーっとした頭のままで見渡すと、舞台袖でみんなが笑ってた。


どれくらいだろ。

しばらく、ボーっと会場を見回してた。

そんで呆けたまま、正面を見た。

兄ちゃんが、拍手しながら口をぱくぱく動かしてた。

なんて言ってるんだろ?

耳に付けたモニターイヤホンから、声が聞こえた。


『まだステージ終わってないぞ、ドアホ』


「誰がドアホかっ!!」


キィーーーン!


「い゙っ!?」


さ、叫んだ拍子にマイクの共鳴がぁーーー!!

和やかムードだった会場は一転サツバツ!

みんな一斉に「い゙っ!?」って顔して耳を塞ぐ!


「うあーーー! PA切ってーーー!!」


音響さんが耳を塞ぎながら慌ててボリュームを落とす。

さ、最後の最後に、何やってんだぁぁぁぁ……。


でも、おかげでしめっぽい感じはどこかへバイバイ。

どこかから湧いたクスクス笑いが、少しずつおっきくなった。

もーこりゃ笑うしかないっしょ、センパイ。


「ご、ごめんねー兄ちゃん姉ちゃん、スタッフさんにボヤッとするなドアホーって言われちゃってさー、えへへ」


次の瞬間、会場が笑いに包まれた。

見れば、兄ちゃんもはるるん達もばくしょーしてんじゃん!

兄ちゃんは自分のせーだってジカク持ってよ!

というか千早お姉ちゃん笑い過ぎでしょ!

何お姫ちんの肩バンバン叩いてるの!

お姫ちん肩叩きみたいで気持ち良さそうだし!


「えぇ~っと、まぁそのだねぇ、真美のライブだしこんなしょーもないオチでもパーペキ問題なしだよねっ!」


この流れで、真美らしくビシッと締めないとだかんね!


「そんなわけで兄ちゃん姉ちゃん達! 今日はありがとーーーーっ!」


叫ぶと、改めて会場いっぱいの盛大な拍手。

最後にとびっきりの笑顔を見せてくれて、真美は本当に満足だよ、みんな。


ステージが終わって。

舞台袖へ引っ込むと、みんながいた。

モチロン、PA席から戻ってきた兄ちゃんも。


「真美……」

「兄ちゃん……」


見つめ合う。


「兄ちゃん……!」


駆け出す。


「兄ちゃぁぁぁあん!!」


そして……!


「何してくれとんねん!!!」

「おぐふぅっ!?」


駆け寄って兄ちゃんの腹部に渾身の右ストレート!

まこちん直伝の一撃を喰らえい!!


「誰がドアホじゃーーーっ!」

「だ、だってお前がステージ上で呆けてるかぐぅっ!?」


二発目!


「お陰で恥かいたよ!」

「だ、誰か助けてくれ!」

「助けが必要ですか?」

「手伝うわ」

「お姫ちん! 千早お姉ちゃん!」

「待ってくれ、何で俺二人に羽交い絞めにされて」

「ラストブリットぉ!!」

「やめぐえっ!」


三発目ェ!!


一分後。


「いいか、真美。人のお腹は殴っちゃいけません。学校で習わなかったか?」

「習わなかった」

「だろうな、俺もこんなこと言ったのは初めてだ。もうやるなよ」

「善処します」


お姫ちんと千早お姉ちゃんがはるるんとやよいっちに連行されると、真美はたちまち兄ちゃんに捕まった。

首根っこ掴まれて子猫摘まみ上げるみたいな……。

可愛くにゃーって鳴いてみたけど、残念ながら許してもらえませんでした。


「お前ね、感極まるのは仕方ないけど、ステージ上で長々と呆けるんじゃないよ。新人でもないんだから」

「だってー……」


このステージは、さ。

それだけ色々なモノが詰まってて。

それだけ色々なモノに気付いて。



「真美にとっては、それだけ、とっても特別なステージだったから」


兄ちゃんの掴む力が、少し弱まった。


「真美がアイドルをやってきた理由が、やっと分かったんだよ」


兄ちゃんの手が、真美から離れた。


「真美が追いかけてたものが、やっと見えたんだよ」


兄ちゃんの手が、宙ぶらりん。

その手にそっと、真美の手を添える。


「夢や憧れの一歩先の景色が、さ」


ぎゅーっと兄ちゃんの手を握る。

握り返してくれる。

あったかい。

手も、心も。



真美の大切なソロライブは、静かに幕を下ろした。


帰る間、真美も兄ちゃんも何も話さなかった。

ただ二人で並んで、何も言わずに家へ帰った。

ちゃんと、決めたから。


来年の五月二十二日。


もう真美たち、分かってるもん。

真美たちが出会ったこと。

今日まで頑張ってきたこと。

あの日二人でした約束。


それは全部、その日に繋がってる。

お互いに、お互いが待ってることを分かってる。


兄ちゃんと二人で作り上げてきた、大事な大事なタカラモノ。

二人でずっと待ち続けてきた、大切な大切なタカラモノ。



もう慌てなくてもいいから。

怖がらなくてもいいから。


ただただいつもみたいに怒って、泣いて、笑って。

みんなで手を繋いでさ、毎日を過ごせばいいんだ。


兄ちゃん。

真美、しっかり春を待ってるかんね。

安心していいよん。

んっふっふー。


そんな夏も、セミがぼとぼと落ちたら終わりを告げて。

それでもいつも通り、変わんない毎日が、一日一日過ぎてく。


秋は、みんな全力で食欲の秋。

ひびきんとはるるんの差し入れを、いつかみたいにお姫ちんが食べつくしたり。

やよいっちと珍しくノリノリないおりんの主導で、みんなで焼き芋したり。

ピヨちゃんとあずさお姉ちゃんが、こっそり事務所で呑み会してるのが見つかったり。


冬は、犬は喜び庭駆けまわり、猫はこたつで丸くなる。

まこちんと亜美の雪合戦の流れ弾が、りっちゃんの顔面に直撃したり。

いつもと逆でミキミキの膝枕でぐっすりな千早お姉ちゃんを、みんなでじーっと観察したり。

ゆきぴょんとの雪かき勝負で、社長さんがぎっくり腰になったり。


そんなみんなと一緒に、真美と兄ちゃんも笑ってた。

モチロン、そんなてんやわんやをぼーっと眺めてたわけじゃないよ?

言ってないだけで、どちらかとゆーとトラブルの原因は大体亜美と真美……あ、やっぱなんでもない。

りっちゃんに一発貰っちゃうし。


学校にアイドルに、忙しい日々。

少しずつ移り変わってく季節。


あっ、そういやはるるんが年末のアイドルフェスタで大賞取ったよ!

事務所に入った頃、「今年こそトップアイドルになる」とか言ってたっけ。

ちょっとチコクだけど、ゆーげんじっこーは素晴らしいですなあ。


そんなわけで、年末は事務所ではるるんのお祝い。

さすがに同じ時間には全員揃えないけど、色んな人が入れ代わり立ち代わり!


「ぷへー、見てるだけで疲れるぜい。ピヨちゃん、それお酒?」

「ぶどうジュース。ふふ、こんなところでお酒なんて呑まないわよ」

「秋にりっちゃんにチョー怒られたもんね」

「うっ」


事務所内のあっちこっちでわいわいがやがや。

ほんと、色んな人いるなー。

りっちゃんの親戚に、研修生の人たちに、よく番組で一緒になる人も……。

チャオって何語だっけ?


「はるるんってば人気者ですなー」


なぁんて眺めてたら、少しそわそわしながらはるるんがこっちに来た。


「どしたのさーはるるん。もにょもにょしちゃって」

「いやあ、あはは……その……」


なんか少し、恥ずかしそうというか、言いにくそうというか、そんな顔してる。


「ねえ、真美。ちょっとお願いがあるんだけど……」

「なになにー?」


お願いってなんだろ?


「えっと……」


ごにょごにょごにょ。

ふんふん、ナルホドナルホド。


「……はるるんってば律儀ですなあ」

「だ、だって、真美が嫌な気分になるかもしれないし……」

「はるるんに対して嫌な気分になんてなるわけないじゃん! むしろ、真美のせいで……」

「言いっ子はなし、だよ」


しっ、と指を口に添えられた。

笑ってそう言えるはるるんは、真美なんかよりずっとずっと強い。

はるるんに何をお願いされたかって?

女の子のヒミツは、暴かないもんですぜ。


そーこーしてるうちに、はるるんが兄ちゃんに声をかけて、二人でこっそり給湯室へ行った。

気付いてるのは、りっちゃんに千早お姉ちゃん、あずさお姉ちゃんにいおりんくらいかな?

お姫ちんは表情読めなさすぎる……。


「春香とプロデューサー、どこ行ったんだ?」

「ひびきん……つっこむのは野暮ってもんだぜ……」

「えっ、自分デリカシー欠けてたか!?」


あわあわするひびきん。

うん、ひびきんはそんなひびきんのままでいてね。


数分して戻ってきたはるるんは、とってもにこにこしてた。


「はー、すっきりした」

「兄ちゃんに言ったの?」

「うん」


はるるんがコップを片手に、真美の隣にちょこんと座る。


「私もそのうち、いい人見つかるといいなぁ」

「はるるんは、だいじょーぶだよ」

「あはは。それ、私が言ったことの真似っ子だ」

「バレちった? んっふっふー」

「勝者の余裕だねぇ」


はるるんは真美の顔を見て、もっかいおっきく笑った。

真美も一緒に、おっきく笑った。


はるるんから遅れること数十秒。

兄ちゃんが給湯室から戻ってきた。

全く、兄ちゃんもスミに置けな……い……?


「あれ、プロデューサー殿。ほっぺたに絆創膏なんて貼ってどうしたんですか?」

「ち、チキンのアルミホイルで切っちゃってね」


……。

……ん?

んんん!?


「あ……あ……! まさかはるるん!」

「……てへっ、最後だし、ちょっとくらい、ね?」


や、やってくれましたなああああああはるるんめえええええ!!!


そんな慌ただしいお祝いパーティーの帰り道。


「ぐぬぬぬ……はるるんめぇ……!」

「今回はカンゼンハイボクですなあ。約束してもらったからって油断し過ぎっしょ」

「ぐぬぬぬ……」


今日は久しぶりに、亜美と二人で帰るとこ!

兄ちゃんはオトナの時間とか言いながら飲みに行っちゃったからねー。


「はるるんがあそこまでやるとは……ウカツだった」

「でも真美、あんま怒ってないよね」


不思議そうに、亜美が聞いてきた。

ん? うん? うーん……。


「まぁはるるんだし?」

「あー、ちょっと分かる。なんか怒る気にならないよね」

「あとひびきんとか、やよいっちとか」


あそこらへんはもう、なんか許されちゃう感じですからなー。


「まぁ、それは半分冗談で」

「半分は本当にそんな感じなんだね」

「あのソロライブやってからさ、気持ちがボーっとしちゃってるんだ」


兄ちゃんと約束をしてから。

ぷつっと何かの糸が切れたみたいになっちゃって。

毎日が楽しいし、暖かいし、幸せなんだけど。


「燃え尽き症候群?みたいな感じ」


毎日が夢見心地で。

なんだか、現実じゃないみたいで。

あの約束で、欲しいものを貰い切っちゃったような気もして。


「このまま、幸せを独り占めしちゃっていいのかなーって、続くのかなーって、ふっと思う時があるんだ」


そう言って隣を見ると、亜美は少ししてから、にっこり笑った。


「いいじゃん」


そー言って、亜美が抱き着いてきた。

あ……亜美に正面から抱き着かれるのって、けっこー久しぶりかも。


「真美、ずっとずっと頑張ってきたじゃん」

「うん」

「我慢してきたじゃん」

「うん」

「それがやっと、報われたんじゃん」

「……うん」


亜美から、いつもと違うシャンプーの匂いがする。

いい匂いだなー。

なんて言ったら、ゆきぴょんとかピヨちゃんがなんか反応しそうだね。



……とか思ってた、次の瞬間!


ぺちーん!


「のあーっ!? ななななにすんのさー!」


いっきなし亜美にぺちーんされた!

ま、真美が何したって言うのさ!?


「こんのばか真美! むしろばみ!」

「な、なんだとう!? そのリロンだと亜美もばみじゃん!」


こんにゃろめー!

って、亜美の顔見てみたらさ。


「そんなオトナっぽいのさ、真美の柄じゃないじゃん」

「っ……」


ジョーダンぽく笑いながら、ちょっと寂しそうだった。


「真美ってば、ずーっとオトナっぽすぎだよ」

「そ、そりゃあ真美たちだっておっきくなってきたし」

「なんかいつも人に気を遣ってるしさ、知らないとこで一人で悩んでるしさ」

「う……」


ぐさり。

ばれてたんだ。

やっぱ双子の間じゃ、隠し事は無理かぁ……。


「なんか別の人になっちゃったみたいで、亜美が知ってる真美はどっかに行っちゃいそうで」

「……」

「……亜美さ、ちょっと怖かったんだよ?」


ぴとん。

亜美が脱力してもたれかかってきた。


「……ごめんね、亜美。真美は真美だよ」

「ばーか。ばか真美。ばみ」


亜美は安心したように、ちっちゃく笑った。


「もっと素直になろ?」

「素直に?」

「だって亜美たち、まだコドモじゃん」

「それもそっかぁ。兄ちゃんもぎむきょーいくまではコモドって言ってたし」

「オオトカゲ?」


真美たちも、もうすぐ高校生。

そしたらイヤでもオトナの入り口に立つんだ。

だったら、今の内に素直にコドモでいたほうがいいのかな。


「コドモの今しかできないこと、あると思うよ」


亜美が珍しく、真面目な声で言った。

それを聞く真美が思い浮かべたのは、ベランダに座ってる兄ちゃんだった。


「真美たちも、イヤでもオトナになってっちゃうもんね」

「わがままもあまり言えなくなるし」

「うん、遊んでばかりもいられなくなるし」

「時間は待ってくれないよ」


柄にもなく何言ってんのさ、亜美。

亜美のがよっぽどお姉ちゃんみたいだよ。


「亜美は先に帰るね」

「え? どして?」

「真美、したいことあるでしょ?」

「……うーん。うん。ある」

「いいじゃん、わがまま言っちゃおうよ」

「そだね」


短く笑って答えると、亜美は今度こそ、安心したように笑った。

そんで走り出して、真美を見てブンブン手を振りながら、


「でもフジュンイセーコーユーは」

「しないよばみ!」


叫ぶともっかい笑って、亜美の姿は見えなくなった。


携帯の番号を押す。

電話帳に登録もされてるけどさ、番号覚えて押すの、なんか好きなんだ。

大切な人に、話しかけるみたいで。


ワンコール。

ツーコール。

スリーコール。

…………。

出ない。


「くっそぅ、出るまでかけ続けてやる!」


そのあと、三、四回かけると。


『あ!? 真美か! どうかしたのか?!』

「えっ、兄ちゃんやけに焦ってるけどどうしたの?」

『小鳥さんが酔っぱらって……いやそれ水じゃないですから!!』


ぷっ。

慌ててる兄ちゃんの姿が目に浮かんで、吹き出しちゃった。


「ねえ、兄ちゃん、わがまま聞いて欲しいんだけど」

『なんだ!? 手短に頼む!!』

「今から一緒に帰りたい」


電話の奥ではわーわーきゃーきゃー。

でも、兄ちゃんの声は止まった。


「一緒に、帰りたいの」


しばらく、沈黙が続いた。

もう一回言おうとしたら、兄ちゃんから返事があった。


『分かった。今、どこにいる?』

「たるき亭出てまっすぐ行ったとこの大きなパーキング前」

『十分くらいで行くから、待っててくれ』


待ってるね、って言って、電話を切った。

こーゆーわがままって、もしかしたら初めてかな。

駄々っ子みたいな、メーワクかけちゃうかもしれないわがまま。


しばらく待ってたら、兄ちゃんが来た。


「よっ」

「ごめんね、わがまま言って」

「いいよいいよ、むしろヤバそうな飲み会からうまい具合に逃げられて感謝してる」


言って兄ちゃんは優しく笑い、真美の頭を撫でる。

そう何度も撫でられてると、さすがの真美だって飽きちまうぜ。

……なんてことはなくて。

むふー。


なんてことない世間話をしながら電車に乗って。

駅から出て、しばらく歩いてたら兄ちゃんに聞かれた。


「でも、今日は急にどうしたんだ?」

「わがまま、言いたくなったの」

「いつもわがまま言ってるじゃないか」

「そうじゃなくてね」


兄ちゃんの手をぎゅっと握る。

握り返してくれる兄ちゃんの手に、戸惑いはなかった。


「真美の兄ちゃんに、わがままが言いたくなったの」

「おませさんめ」


誰が言わせてんのさ。


でも、真美の兄ちゃんだってことが。

否定されなかったのが、本当に本当に。

うれしかった。


「真美、もうすぐこーこーせいなんだよ」

「そうだなぁ。初めて会ったときから、ずいぶん大きくなったな」

「そしたらさ、これまでみたいにはわがまま、言えないから」

「ん……」

「兄ちゃんを困らせるかもだけど、駄々っ子みたいなわがまま言いたかったんだ」


亜美は、自分の知ってる真美じゃないみたいで、って言ってたけど。

でも真美たち、少しずつ、そうなっていくんだよ。


真美は、いつまでも真美のままではいられない。

そう思っていたのを、兄ちゃんは察してくれたみたいだった。


「お前なりに考えてるんだなあ」

「なにおー、失敬な」


兄ちゃんと幸せになれるとしても、今のままじゃないんだ。

これまでの楽しかった日々は、徐々に変わってく。

兄ちゃんにひっついて遊んでじゃれついて。

そんなコドモっぽい甘えな日々も、少しずつオトナの日々になってくんだ。


「兄ちゃんとの幸せ、いつまで続くのかなって悩んでて」


でも、それは亜美が肯定してくれて。


「でも、それだけじゃなくてさ」


ほんとはね。


「これまでの真美と兄ちゃんの日々が無くなっちゃうみたいで、寂しかったんだ」


「ねえ兄ちゃん知ってる? 今度で真美さ、事務所入ったときのはるるんと同い年になるんだよ」

「ほんと、大きくなったよな」


思い出すように、二人ともしばらく黙り込んだ。


「真美、お姉ちゃんになっちゃうね」

「そうだな、年下の後輩もそろそろ入ってくるし、最年少ではなくなるな」

「そしたらもう、今までみたいには甘えられないね」


真美、そう言って笑ったつもりだったんだけど。

兄ちゃんは少し、寂しそうな顔してた。

真美がそんな顔に、なっちゃってたのかな。



「人は、変わるよ」


兄ちゃんが真美の手を強く握る。


「誰だって変わっていく。子どものままじゃないし、大人だって変わってしまうことはある」


真美も強く握り返した。


「でもな」


ふと、兄ちゃんが歩く足を止めた。

どったの?と思って見上げると。

兄ちゃんもこっちを見て、笑ってた。


「どんなに形が変わっても、想いの本質は変わらないよ」


少なくとも、俺はね。

そう付け加えて、兄ちゃんは反対の手でぽりぽりとほっぺたを掻いた。


「兄ちゃんキザすぎ」

「我ながら柄にもないこと言ったなあと思ってる」

「でもそんなとこもひっくるめてさ」


最後、部屋のドアの前で別れるときに。


「大好きだよ、兄ちゃん」


そう言うと、兄ちゃんは顔を真っ赤にして。

おやすみ、と一言言い残して部屋に飛び込んでった。


んっふっふー、一本取ってやったよ、兄ちゃん。

でも、嘘ではないからね。


おやすみなさい。

大好きだよ。

お読みくださってる方、ありがとうございます。
今日の投下分後半から前回落ちたときの続きとなります。
このペースならあと数日で最後まで投稿できそうですので、もうしばらくお付き合いください。

おつおつ
お待ちしてます

>>388
ありがとうございます。
今しばらくおつきあいください。


冬が過ぎれば春が来て。

春が来たら、真美たちも高校生。

やっぱり入学してしばらくはもみくちゃな日々。


男子はみーんな、目を血走らせちゃってさあ。

中学のときはまだ可愛いモンだったんだね。

ミキミキの苦労がやっと分かったよ……。


みんなはいつも通りぜっこーちょー。

ほんとに時々、暇すぎて閑古鳥が鳴いてるときもあるけど。


「うちの事務所も旬が過ぎたかなー」


なんて誰かがぼやくと。

ドっと仕事が入ってきててんてこ舞いになんだよね。

やっぱ神様は見てるみたい。

しかも、ちょっといじわるさん。


兄ちゃんとの約束の日は、そんな新生活も始まって、すぐのことだった。

五月二十二日。


じゃなくて……。


「ねえ兄ちゃん、真美にあんだけ言っといてさ、二十二日に仕事ってどゆこと?」


じとーっと運転席の兄ちゃんを見る。


「すまん……お前の誕生日祝い生中継特番がな……」

「まー、真美がそれだけみんなから愛されてるショーコだし、イヤな気分ではないですケド?」


そういうと、兄ちゃんが二重の意味で顔をしかめた。

仕事を阻止できなかったことと……。

……そして。


「みんなから愛されてそんなに嬉しいかい」


口をへの字に曲げた兄ちゃん。

んっふっふー、これで隠してるつもりなんだから笑えちゃうよね。

そんなとこも可愛いんだけど。


「そんなわけで、一日早いけど前夜祭の誕生日ディナーで許してくれ」

「ちかたないなぁ……真美だけだかんね? こんなに心広いの」


日中の収録を終えて、兄ちゃんが予約してたお店に向かってるとこなのだ!

お店の名前はかたくなに教えてくれなかったけど……。


「この服、キュークツだよー」

「ドレスコードがあるとは書いてなかったが、念のため、な」

「なら普通の服でも良かったじゃーん」

「真美も、もう大人として見られ始める年だからな」


ドキッとした。

真美が大人に見られるから、じゃなくて。

そのときの兄ちゃんの口振りが――。


――まるで、大人の女性に囁くみたいな、甘い色に感じたから。


駐車場に車を止めて、お店の前に行ってみると……。


「あ,ここって……」

「おっ! 覚えてたか」


そりゃそうだよ!

だって、ここ教えたのって……。


「いつだったか、お前が教えてくれたお店だよ。デザートが絶品なんだろ?」

「あ、うぅぅぅぅ……」


しゅぼん!

あのときのこと思い出したら一気に恥ずかしくなってきた!

真美が勘違いして兄ちゃんにあれこれサポートしてたときに教えた店じゃん!

いや、兄ちゃんも悪いんだけどさ!


「真美に教えてもらったときから、今日の日には、ここに来ようと決めてたんだ」

「え……?」

「あとから勘違いの話を聞いて、お互いの空回り加減に笑っちゃったよ」


いや、俺が悪かったのかな。

たぶんそう言い掛けた兄ちゃんの口を、真美の手で塞いだ。


「お互い様っしょ、兄ちゃん」

「……ああ、そうだな」


そんなやりとりをしてる内に身体も足取りも軽くなって。

二人で、お店に入っていった。


「やっば! これちょーうまいよ兄ちゃん! ほらほら早く食べて早く!」

「ああ……真美にはやっぱりまだ早かったか……」


ぱくぱくむしゃむしゃ!

シェフを呼びたまえ!

とっても美味しいよ!


「テーブルマナーってほどの店でもないが……もう少し落ち着いて食え」

「だって美味しいんだもん」


きょろきょろしながら周りの目を気にする兄ちゃん。

でもだいじょーぶだよ。

ウェイターさんも、こっち見ながらにこにこしてるもん。


前に何かの番組でシェフの人が言ってたんだ。

美味しく食べてもらえるのが一番嬉しい、って。

だからこれが真美なりの、一番の美味しいのひょーげんなのだよ!


「そしてこれが……これが噂の絶品デザートか……!」

「ふぉぉぉぉぉぉぉお……!!」


そしてコースの最後には、雑誌でも絶賛の絶品デザート!

ケーキにアイスにチョコにクレームブリュレにティラミスに……。

国籍無視していろんなデザート勢ぞろい!

山盛りてんこ盛りで真美たちの前においでなすった!


「ねぇねぇ兄ちゃん」

「……なんだ」

「これを前にしても、マナーとか何とか言うつもり?」


……沈黙。


「無理だああああああああ!」


兄ちゃんが、周りを気にして微妙に小さく上げた雄叫びとともに食べ始めた!

真美も負けてらんないぜ!

まずはこのプリンを……。


あむっ。


「ふぁっ…………」

「おっ、おぉぉっ……なんだ、このわき上がる幸福感は……!」


二人して一口目で昇天。

ごめんなさい、パパ、ママ……。

真美は悪い子です……甘味には勝てなかったよ……。


甘味も食べ終えて、食後のドリンク。


「あー、食った食った……」

「途中から兄ちゃんもマナーもなんもなかったじゃん」

「だって旨いんだから仕方ないだろ」

「ウェイターさん、時々くすくす笑ってたよ」

「野郎、ブン殴ってやる」

「ケーサツ沙汰はさすがの真美もカンベンだかんね」


そんな他愛もない話もして。

もう家に帰るのかなーなんて、少し寂しさもあって。


そんなとき、兄ちゃんが少し真面目な目で微笑んでるのが見えた。

何かを手元に持ってる。


「真美」


そう優しく名前を呼んで、兄ちゃんはそれを差し出した。


「一日早いけど、お誕生日、おめでとう」


言葉とともに差し出されたのは、ラッピングされた黄色い箱。

さすがの真美も、こーゆーときの雰囲気が分からないほどアレじゃないよ。


「わぁ……」

「たぶん、気に入ってもらえると思うんだけど」

「開けていい?」

「ああ、どうぞ」


綺麗に包まれてると、勢いよく開けるのが勿体ない気がしてくる。

真美は丁寧にラッピングをはずして、箱を開けた。


中に入っていたのは、綺麗なイヤリング。

これも、前に真美が教えてあげた奴に似てるけど……。


「あのとき、『真美は結構好き』とか言ってただろ? あれよりももう少し、大人っぽいけど」


オトナ向けのフレンチのお店。

オトナっぽいイヤリング。


「真美……もう、コドモじゃないんだね」

「というよりは、オトナと思ってもらえる、かな」


そう言って兄ちゃんがまた、大人っぽい表情で優しく微笑んだ。


手に取ったイヤリングを、さっそく耳に付ける。


「どう? 似合ってるかな」

「勿論。真美のために作ったみたいだよ」


珍しくもない誉め言葉だけど。

なんてことない、ありふれた言葉だけど。

つい、緩んだ笑みがこぼれちゃう。


真美には、兄ちゃんに言ってもらえるコトバは。

ぜんぶぜんぶ、とっても嬉しいんだよ。


「なあ、真美――」


とそこで、兄ちゃんは途中まで何かを言い掛けた。

でも、そこで口は止まった。


「なに?」

「いや……やっぱり、なんでもない」

「えーーー!? なにそれずっこいずっこい!」


兄ちゃん、何を言おうとしたんだろう?

そのあと、何度躍起になって聞こうとしても。

結局最後まで教えてくれなかった。




とってもおいしい料理。


とってもうれしいプレゼント。


でも、ちょびっとだけ残ったモヤモヤ感。


それらを抱えながら、真美たちは家へ帰った。



「兄ちゃん、今日はあんがとね!」


部屋の玄関の前で、一緒に帰ってきたときのいつものご挨拶。


「いえいえ、どういたしまして。姫のためであれば何とでも」

「そうじゃそうじゃ、我こそは姫ぞ! くるしゅうない!」

「どっちかというと王とか妃とかそっち系に聞こえるな……いや、高飛車な姫ならアリか……?」


そんな小さな漫才をして。

時間は二十一時三十分。


「それじゃ兄ちゃん、また明日ね!」

「ああ、おやすみ、真美」


そう言って、お互いに自分の部屋へ入っていった。


シャワー浴びて、明日の準備をして。

でも真美は、それからベッドに潜ってもモヤモヤが消えなかった。


え、さっき最後、何言おうとしてたの?

明日の仕事?

こないだのいたずら?

それともまさか、別れ――


ばちぃん!


両手で自分のほっぺたをひっぱたく。

兄ちゃんがそんなこと言う訳ないじゃん!

プレゼントもくれたのに!

このばみ!


でも、今の一発で目が冴えちゃった。

たまには……。


「ベランダで涼もっかな」


亜美はもう、とっくにすぅすぅと寝息を立ててる。

起こさないように静かに、ベランダに出た。


ふわぁー、夜風が気持ちいい……。

だんだん暑い日も増えてきて、風が心地良い季節になってきた。

今日も、とってもとっても蒸し暑かった。

ついこないだまで寒かったのになあ。

こういう感性も、昔より大人になってきた気がする。


そっか。

真美、人生の三分の一くらい、あの事務所にいるんだ。

そう考えると、兄ちゃんとの日々も、もう随分長くなるんだなって。

なんか変な感傷に浸っちゃって。

これも、オトナになるってことなのかもしれないね、亜美。


そんなことをしばらくしてると。

隣の部屋の窓が、カラカラと開く音がして。

中から見覚えのある姿が見えた。


「ありゃ、お前もベランダに来てたのか」

「兄ちゃんも眠れなかったの?」

「ちょっとな」


さっきまで悩んでたせいか、いつもみたいに言葉が出てこない。

ぽけーっと兄ちゃんを見てると、珍しい提案があった。


「真美、こっちのベランダ来ないか?」

「え、でもいつも危ないって……」

「言っといて自分でもどうかと思うが、たまには悪いこともするもんだ。支えててやるから」


そう言われると、断れないよ。

真美はいつものようにひょいっと飛び乗ると、兄ちゃんのベランダへ歩いて移った。

いつもと少し違うのは、兄ちゃんが落ちないように支えてくれていること。


「あらよっと!」


ぴょんっと兄ちゃんの隣に飛び降りる。

すると兄ちゃんはベランダに座り、ちょいちょいと手招きをした。

真美も、兄ちゃんの隣に座り込む。


「兄ちゃんから誘ってくるなんて珍しいね」

「今日はそんな気分でさ」


良くも悪くもない天気。

所々に雲があって。

その隙間から、片手の指程度の星が見えた。


「もう二十三時五十分か」


腕時計を見ながら、兄ちゃんが言う。

寝付けなくて、だいぶ遅くなっちゃった。

明日、起きれるかなあ……。


「安心しろ、起こしに行ってやるから」


心読まれてた。

それに兄ちゃんは、ベランダから、と付け加えた。

じょしこーせーの部屋の窓にへばりついてる不審者の姿が浮かんだ。

やめときなよ、それはさすがに事案だよ。


「俺たち、大事な話するときって、いつもここにくるよな」


どきん。

胸が飛び跳ねた。

さっき最後に考えた、嫌な想像のせいかな。

そんなことないはずだって、頭は分かってるのに。


「もうすぐお祭りが始まる時期だな」


ズコーーーーッ!


「ねえ兄ちゃん、大事な話ってそんなこと?」

「あ、いや、こういう時って世間話から入るもんだと思って」

「……ってか兄ちゃん、なんかぎくしゃくしてない?」

「そんなこことない」


こが一個多い。


「今だから素直に言う」

「うん」

「前にお祭り行ったとき、お前浴衣着てたろ?」

「うん」

「あれ、ちょっとヤバかった」

「え、変だった……?」

「いや、そういう意味じゃなくてさ、その……」

「そういう意味じゃなくてなんなのさ」

「いや、その……分かれよ、そこは」

「え、何を!?」


ちょっとまって、脈絡なさ過ぎてわかんないんだけど!

お祭りの話されてるのもよく分かんないけどさ!


ええと、そもそもあのとき、なんで浴衣で行ったんだっけ?

確か、ひびきんに着せてもらって……。

そんで、ミキミキがうなじ見せれば男なんて――。



ぼんっ。


レストランの時に続いてもっかい、頭が爆発する音がした。


「え、あ、へ、あの、ヤバかったって、そういう……」

「……うん、まあ」


あああああああああああああああ!!!!

恥ずかしいよおおおおおおおおお!!!!


何で真美こんな時間差攻撃食らってんの!?

確かにゲームとかの時間差攻撃って威力高いけどさあ!!

ちょっと……ちょっとはずいってば、ねえ!!


「あのとき、意識したんだ」


兄ちゃんがぽつりと言った。


「――何を?」

「真美も、大人になっていくんだ、って」


いつかの日のような風が吹いて。

下ろしてた真美の長髪が、兄ちゃんの顔を撫でる。


「真美のシャンプーの香りだって、今すごいドキドキしてる」


そう言われて兄ちゃんの胸に手を当てると、本当にそうだった。


「そんなことも意識しちまうんだよ」

「真美が、オトナになってきたから?」

「そうだな」


そう言われて兄ちゃんを見たら。

その瞳が。

いつもの真美を見る目とは少し違っていて。


真美も、兄ちゃんから目を放せなかった。


「時計、しっかり合わせてきたんだ」

「え?」

「今、十五秒前」


かち、こち、と。

兄ちゃんの腕時計の秒針が鳴る。


「あと、ちょっとだな」

「うん、コドモの時間」

「それが過ぎたら――」

「それを過ぎてもね」


言葉を遮る。


「真美は、兄ちゃんのことが大好きな、真美だよ」


かちん。


零時。

真美の、本当の誕生日。


「真美」


兄ちゃんが真美を静かに抱き寄せる。


「誕生日、おめでとう」

「……うん、ありがとう」


風がびゅうと吹いて。

雲が、どこかへ飛んでいった。

その陰からは、まん丸お月様。

綺麗な綺麗な、夜空のお月様。


「真美」


真美を抱き寄せる兄ちゃんの力が、少し強くなる。


「さっき、レストランで言えなかった言葉」


顔は見えない、けど、表情は分かる。


「……ちょっと違うな。言おうとしたけど、やめた言葉」


真美も、兄ちゃんの服をつかむ手に力が入る。


五月二十二日。

その日まで、待っていてほしい。

二人で互いに交わした、約束。


そして兄ちゃんの口から。

真美が、ずっとずっと。

人生の何分の一もかけて待っていた言葉。


「真美、結婚してくれないか」


ではなく、あまりにも衝撃的な一言が飛び出した。


「ゔぁびぇっ!?」


たぶん地球上で誰も聞いたことのない叫び声をあげちゃった。


「ににに兄ちゃんたたた確かに結婚できる年齢だけどあのその」

「あ、ごめん、今の間違えた」

「ちょっと待って間違えたって何!?」

「いやあのその」

「こんなシチュエーションであんな叫び声上げたの、たぶん世界で真美が初めてだよ!?」

「わわわ悪い! 色んな言葉を考えてたんだけど緊張して、最初の方に消した候補が咄嗟に――」

「消すなーーーっ!」


ふぉがばしぃっ!

真美のサマーソルト気分のキックが兄ちゃんに炸裂!

いっくらなんでも仏の真美でもいまのは足が出るよ!


「すまん、ごめん、先走りました……」

「そうじゃなくてさあ!」


なんで真美が怒ってるのか、まだ分からないかなあ?!


「真美なんて最初から、ずぅぅぅぅぅぅっと一生一緒にいたいと思ってんだかんね!?」

「っ」

「それを間違えただの先走っただの……! 失礼ってレベルじゃないっしょ!?」


兄ちゃんの胸をポカポカポカポカ!


「ごめん、すまん!」


ポカポカポカポカ!

と、真美が叩いている内に、お互いだんだん冷静になってきて。

ポカポカが止まる頃には、二人でくすくす笑ってた。


「あーあ、俺たちこんなのばっかだな」

「そだね、たぶん、これからもだよね」

「そうだな」

「知ってる? 真美、今日で結婚できる歳になったんだよ?」

「ああ、そうだな。だからさっきの言葉も候補に入ってた」


また、兄ちゃんが静かに私を抱き寄せる。

今度はしっかりと、離さないように。



「なぁ、真美」


「うん」


「約束を、守りにきたよ」


「うん」


「なぁ、真美」


「うん」



次に言われる言葉が分かってるから。

今度こそ、ずっとずっと、待ってた言葉だから。

今度は勘違いでも、間違いでも、おちゃらけた話でもなくて。

ただただ、ずっと、ほしかった言葉。






「恋人として、隣にいてくれないか」






真美は、返事、出来なかった。


涙ぼろぼろで、声が出なくて。


代わりにね。


兄ちゃんの胸の中で、何度も何度も、大きくうなずいた。


目から溢れる大粒の涙を。

兄ちゃんがそっとぬぐってくれて。

潤んだ目で、兄ちゃんを見上げた。


「兄ちゃ――」



「――っ」


言おうとした言葉は、最後まで発することは出来なかった。

優しく、兄ちゃんが真美の顎に手を添えて。


いつか花火の裏で、真美がしたような、いきなりなのではなくて。

真美の頭を、優しく、包み込むようにしてから、ゆっくりと。

――。


「んっ……」


頭が、真っ白になって。

嬉しさと恥ずかしさと、大好きって気持ちがない交ぜになって。


「んぅ……」


この時間がこのまま、永遠に続けばいいと思って。

しばらくの間、そのまま重ねて。


「……ぷぁ……」



――デザートよりも、とってもとっても、甘い味がした。




兄ちゃん。

真美、ずっと忘れないよ。


二人で見上げたあのお月様。

まん丸の綺麗なお月様。


そよそよ吹いた風。

そんな風で揺れる兄ちゃんの襟元。


その瞬間の、兄ちゃんの、瞳の色。

兄ちゃんの、鼓動。


抱きしめてくれたときの、胸の暖かさ。


それに、そのときの、とってもとっても幸せな――。



――――――――

―――――

――




ひょいっと。

真夏の日差しで日焼けが心配な中、お隣のベランダへ飛び移る。


「しっかし、段ボール何箱分になるのやら……」


あの日、初めて飛び移ってから。

あの日、兄ちゃんに呼ばれて、支えられながら移ってから。


あの日から、時間は流れ続けてる。


「でも、このベランダともお別れだね」


名残惜しみながら手摺りを撫でる。

これ、お隣の部屋の手摺りだけど。


あれから私は、世間には秘密裏に、兄ちゃんと恋人になって。

事務所のみんなは知ってるけど。

まこちんがびっくりして他の以外は。


色んなモノが変わった。

誕生日を過ぎてからは、少しずつ自分を「私」って言うようにした。

私はやっぱり、あの日思った通り、どんどんオトナになっていった。


でも、変わらないモノも確かにある。

時々いたずらしたりとか。

ついつい自分のこと、真美って言っちゃう時があったりとか。


ステージ上で歌うときの。

煌びやかなライトの下で、みんなに向ける笑顔とか。


「真美、作業は進んでるのか?」

「うん、今は小休止」


からからと網戸が開く音がして、汗を拭きながら兄ちゃんが出てきた。

兄ちゃんの部屋にも、真美の部屋と同じように段ボールの山。

というか、真美より多い。


「俺も休憩しよっと。昼飯は?」

「亜美が今持ってきてくれてる」

「なら俺も一緒に食べようかな」


そんな話をしていると、亜美がクリームパン片手にやってきた。

そして、私たちを見るや否や……。


「ふぉっふぉっふぉ、お二人でごゆっくりー」

「茶化すなー!」


パンを私に手渡すと、ニタニタ笑いながら部屋へと戻っていった。


「このベランダにもお世話になったなあ」

「ね。思い出の中にはいっつも、どこかにこのベランダがいるんだよ」

「名残惜しいか?」

「……ちょっぴり」


実は私、しばらく前にアイドル引退したんだ。

芸能界には残ってて、バラエティに出たり、時々歌ったりはするけど。

フツーの女の子に戻りまーす!って言うの、ちょっと夢だったんだよね。


生まれ育った部屋ともお別れ。

そういえば、兄ちゃんはいつからこの部屋に住んでたんだろ?


「俺? 高校の時からだから……」


ひー、ふー、みー……と数える兄ちゃん。

そっか、お部屋歴は私の方がちょっと長いんだ。

少し勝った気分。

ふふん。


「でもアイドル、本当に辞めてよかったのか?」

「こーゆーことになったし、ケジメつけんことにはおさまりつかんですよ」

「お前、また仁義ない戦いのDVD観てたな?」

「アレ何度観ても千早お姉ちゃんが格好良すぎんだもん」


真美も結構活躍するし。


じりじりと照る日に当てられて、汗が滲む。

話の途中でよっこいしょ、とじじむさい言葉とともに兄ちゃんが部屋に入った。

そして戻ってきたとき、手に持ってたのは……。


「ぬぉあーー! シャリシャリくんだーーー!!!」

「そういうとこはまだちょっとお子さまだな」

「うるへー、甘味は正義っしょ!?」

「それには全く同意です」


二人でしゃりしゃり。

アイスをしゃりしゃり。


「本当に、部屋にもアイドルにも、心残りはないか?」

「ない……って言ったら、嘘になるよ」


でもね。


「でも、変わっていくモノもある、でしょ?」

「変わらないモノもある、けどな」


うるさかったはずの蝉の声も心地よくなってきて。

アイスも食べ終わって。

ちょっと汗がにじんでる、兄ちゃんの肩にこてん。


「眠くなったのか?」

「うん……」

「疲れてお昼寝とは……いつから変わってないというか」

「違うよ、兄ちゃんの肩が悪いんだもん……」


いつの季節も、ここは私の特等席。

暖かくて、涼しくて。

そして、とっても安心できる場所。

だからつい、うとうととして――。


「こらああああ亜美にばっか働かせていちゃいちゃすんなあああああああ!!!!」

「ひゃいっ!!!」

「すんませんっ!」


亜美の怒声で、二人そろってビクッと飛び跳ねる。


「亜美隊長、すぐに作業に戻るであります!」

「引っ越し屋さんもうすぐ来ちゃうんだかんね! 兄ちゃんもすぐ甘やかさない!」

「かしこまりました!!」


すっかり鬼軍曹がうつってきた亜美に怒られちゃった。

でもこれは確かに申し訳ない。

亜美は引っ越す訳じゃないのにね。

手伝ってもらってる立場でごめんなさい……。


そんなこんなで、ギリギリで荷造りを終えた途端、ちょうどやってきた引っ越し屋さん。

荷物を運び出してもらってる間、白い原液を薄めて飲むアレを飲みながら三人でだべってた。


「新居はどんなとこなの?」

「ここと似てるかも。でも割と築浅」

「ずっこいなー、亜美もそろそろ新しいとこ住みたいー」


亜美がぶーたれた。

底に残った濃いめの部分をじゅるじゅるとストローですすりながら。


「そろそろ一人暮らししてみてもいいんじゃないか?」

「兄ちゃんがそれ言うのズルくない!? 亜美だって二人がいいよー!」

「おや、こりゃ失礼」

「そりゃさ、一人暮らしもいいよ。でも亜美だってイイ人と一緒に同棲とかしたいー!」


今度はクッションを抱えてじたばたじたばた。


「亜美さんや、アイドルはファンのためにだねえ」

「くそぅ、これまでの数年を週刊誌にバラしてやる……」

「亜美、それはやめてくれ」

「私にはもうあんまダメージないけど」

「俺の仕事に支障が出かねないんだよ!」


確かに、小学生アイドルに唾付けて源氏物語しちゃうプロデューサーだとねえ……。

研修生の子の親とか心配しちゃうよね。


まぁここまででバレバレだと思うけどさ。


私と兄ちゃん、同棲することにしたんだ。


三年ばかりの交際期間を経て、ようやく兄ちゃんも重い腰を上げたようで。

パパとママにご挨拶したんだよ。


『結婚を前提に、同棲することをお許しいただけませんでしょうか』


って、ビクビクしながら。

もっとビシっとカッコよく決めてほしかったんだけど。


そしたらパパとママ、ぽかんとしちゃってさ。

二人揃って、え、今更?って返事で。

あんときは一緒にいた亜美も含めて家族で、大爆笑だったよ。

兄ちゃん一人だけ、顔真っ赤で恥ずかしそうにしてたなー。

可愛かったなー、あのときの兄ちゃん。


そもそも恋人になった時点でさ、勿論、パパとママにも報告したよ。

二人とも私の気持ちは気付いてたからさ、ようやくか!って泣いちゃってさ。

あのときも兄ちゃん、オロオロしてたっけ。


そんな相手に今更、同棲だの結婚だの言って断られるかもとか思ってたのかな。

そーゆーとこ、兄ちゃんってちょっと杓子定規というか。

心配性というか。


引っ越し先は、ささやかなマンション。

お金は割と余裕あったけどさ、いきなしすんごい部屋に住むのもなんか違うかなって。


二人で色んな物件見て。

結局選んだのは、今住んでる部屋に似てる、ちょーどいい大きさの部屋。

でも一個だけ、絶対譲れない条件があってね。


綺麗で、二人で座れるベランダ!


これだけは、私と兄ちゃん二人とも、最初から絶対って決めてたんだ。

これから何回引っ越しするとしても、私たちの大切な場所は、必ず最優先にしようって。


同じ想いを持ってくれてるのは、やっぱり嬉しかったな。


そんなこと思い出してる間に、トラックへの積み込みも終わって。

いよいよ新居へ旅立つときがきた。


「それじゃー亜美、グッドラック!」

「亜美、手伝ってくれてありがとう。また事務所でな」

「お礼は期待してますぜー!」

「勿論、それなりのお礼はさせてもらうさ、これまでの分もな」


トラックの荷台に乗りながら、そんなやりとりをして。

引っ越し屋さんが、荷台のドアを閉じた。


中で、兄ちゃんと二人きり。


「私たちの同棲生活、どうなると思う?」

「これまでと対して変わらんだろ。わーきゃーして、時々喧嘩して、仲直りして、またわーきゃーして……」

「言っとくけど私、同棲で終わらせる気ないかんね。一生モノのカクゴしといてよ!」

「そんなんこっちだって同じだよ。一生放してたまるか」


……。

ぼぼんっ!

自分たちで言っておいて、直後に二人とも真っ赤になって爆発する。

いい加減初々しい時期、ってわけでもないのに。

こんなとこは変わらないんだね、ってのも、ちょっと幸せだよ。


新しい部屋での新生活。

そこで私は、何と出会って、どう変わっていくんだろう。


でもその隣にはいつも兄ちゃんがいて。

ベランダ一歩ではなくて、本当に一歩隣に兄ちゃんがいて。


同棲も始めるのに、兄ちゃん、って言うのも変なのかな。

これからは、名前で呼ぼうかな。

そんなところから、変わってみようかな。


「ねね」

「どうした?」


トラックのエンジン音がして、荷台もがたがたと揺れ始める。

私たちの新生活に向けて動きだそうとしている。

だから、新しい私の、第一歩として。


「ねぇ――」


兄ちゃんを、名前で呼んでみた。

したら兄ちゃん、みるみる顔が真っ赤になっていって。


「……ふぁいっ?!」


テンパった裏声で、驚きまくりながら返事をした。


んっふっふ、今回も一本取ってやった!


口をぱくぱくさせてから、何も言えずに、真っ赤な顔でうつむく。

そんなあなたも、私のモノだからね。


揺れが大きくなり、しばらくして静かになった。


「お、走り出した」

「新生活に向かって出発だね」

「ああ、家事とかの役割分担も決めないとな」

「うん」


一つ一つ、新生活のことを考えるだけで頬が緩んでくる。


目的地に着くまで、数十分。

時々揺れて、会話は途切れて。

二人きりの車内で身を寄せ合った。


暖かい体温。

好きな香り。

抱きしめてくれる温もり。

言葉がなくても伝わり合う、互いのココロ。


それだけの空間が、何よりも幸せ。

これが二人で、一緒にいるということ。


この人が、私のお隣さん。




「なぁ、真美」


「ん?」


「今年、お祭りいこうか。俺も浴衣着て」


「うん、行こ行こ!」





私は、幸せだよ。


だから同じように。


あなたのことも、絶対に幸せにしてあげるからね。





これから、ずっとずっと。


お隣さんだからね。





ずっと一緒だよ。


私の最愛の、お隣さん。





おしまい


以上で、ベランダ一歩、お隣さん、完結となります。

当投稿で初めて読んでいただいた方、ここまでお読みいただきありがとうございました。

数年前立てた当時、お読みいただいていた方、本当にお待たせしました。
すみませんでしたと同時に、また見つけて、ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。

なんとか完結させることができ、本当に良かったです。

html化依頼を出して来ますが、もし感想とかあれば、書き込んでいって下さると本当にうれしいです。
まだ二つほどお待たせしてしまっているものもあるので、そちらもなんとかやっていきたいと思います。
改めて長い間、本当にありがとうございました。

完走乙!
とても素晴らしいものを読めて心が浄化された

まとめられてたのを読んできた。めっちゃ良かったよ。にわかの俺でも真美という女の子が可愛くて仕方なくなった。是非また書いてくれ。

おつおつ!
待っていてよかったと思える作品でした
掛け値なしに
次も待ってる

乙!
完結本当に嬉しいわ
年甲斐もなくキュンキュンした

>>453
なんとか完走できました
そう言っていただけると嬉しいです

>>454
真美チャンハ、カワイイデスヨ
にわかでもいいじゃないですか、ぜひ愛でましょう

>>455
本当にお待たせしました
次のは今回ほどゴールまで近くないのでまだしばらくかかってしまいますが、どうかよろしくお願いします

>>456
自分のことながら、完結できて本当に良かったです
というより、何年も経ってからまた目にしてくださる方が多過ぎて……
本当にありがとうございます

タイトルであれ?と思ったらあの時の人だったのか
完走おめでとう
これからゆっくり読ませて貰う

見覚えのあるスレタイだと思ったら復活だった
懐かしさと感動とむず痒さやらがごちゃ混ぜになって言葉に出来ないくらい良かった
乙そして最高の作品をありがとう

>>458
ありがとうございます、なんとか完走できました
お読みいただければ幸いです

>>459
復活していました
読めてよかった、という感想をいただけると本当に嬉しいです
ありがとうございます

昨晩読み終わったけど偶然とはいえ
再び見つける事ができて良かったと
そう思えるくらい良いSSだった




またせすぎだぞコノヤロウ!

>>461
本当にお待たせして申し訳ありませんでした
でも、再び見つけていただくことができて本当に良かったです
ありがとうございます

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