水谷雫は勉強が大好きなガリ勉女で将来の夢は年収一千万円という現実的な考えの持ち主だ。
小学校の時にクラスで飼っていたウサギが死んでしまった際にも家に帰って勉強をすることを優先し、薄情とも言えるその振る舞いからブリザードと呼ばれて以来、友達はゼロ。皆無だ。
そんな氷のガリ勉女の水谷雫であったが高校に進学した折、隣の席の怪物くんこと吉田春との事故みたいな出会いをキッカケにして彼に巻き込まれる形で友達ゼロの境遇から抜け出した。
「ミッティ、一緒に映画を観ませんか?」
「夏目さんの家で?」
「違いますよ! 映画館に行きましょう!」
「映画館で観る映画はコスパが悪いから嫌い」
「コ、コスパって……」
コスパとはコスト・パフォーマンスの略であり、日本語に変換すると費用対効果となる。
つまり、還元率が悪いと雫は指摘した。
リアリストの雫は友人である夏目あさ子の誘いを現実的な側面から駄目だしをする。
ちなみにミッティとは雫のあだ名である。
「どうせすぐにレンタル100円で観れるし、もしかしたらそれよりも早く地上波で無料放送するかも知れないから、わざわざ映画館に観に行く必要性が感じられない。よって、却下」
「ミッティのようなコスパ重視の若者が今の日本の映画界をダメにしてるんですよ!」
「だったら料金を下げるべき」
1回の観賞で高校生1500円とか信じられない。
水谷雫の家庭環境は少々複雑で、簡単に説明するとせっせと赤字をこさえるダメな父親の代わりに優秀な母親が単身で出稼ぎをしてそれを賄っていて、余裕がある暮らしとはとても言えない。
もっとも一部の映画館では料金を値下げして高校生1000円で観れるところもあるらしいが、その事実は雫はおろか夏目さんも知らなかった。
(映画を観て学力が上がるとも思えないし)
なので一度観たらはいおしまいの映画よりもそのチケット代で将来のために参考書を買ったほうがよっぽど有意義であると雫は結論づけた。
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「ミッティの鬼! 悪魔! 雪女!」
「そんなに怒ってどうしたの、夏目さん」
騒ぎを聞きつけたササヤンくんこと佐々原宗平が近寄って来て、泣き喚く夏目さんに尋ねた。
「ミッティが酷いんですよぉ!」
「まあまあ、落ち着いて。あれ? もしかしてそれ、今やってる映画のパンフレット?」
「はい! 今話題の天気の子です! ミッティを誘って一緒に観ようと思ったのですが、辛辣にフラれてしまいまして途方に暮れてたんです……」
(そんな哀愁を漂わせるようなことだろうか)
ドライな水谷雫をよそに、ササヤンくんにパンフレットを見せながら悲劇のヒロインみたいにシクシク涙を流す夏目さんの話を横で聞いていた隣の席に座る怪物くんが、興味を抱いた。
「便器の子?」
「ハル……あんたどんな耳をしてるの」
「違います! 天気の子です!」
一体どんな耳をしていればそのような下品な聞き間違いが出来るのかと雫は困惑し頭を抱え、夏目さんは即座に全力で否定し、訂正をした。
「便器の子ってなんだか面白そうだね」
「ササヤンくんまでふざけないでください!」
「よし、夏目。俺とその便器の子って映画を観に行こうぜ! なんかすげー面白そうだ!」
「だったら俺も今週末部活休みだから行くよ」
「ほんとですか!? でも一緒に映画を観に行くからって私のことを好きにならないでください。迷惑ですので。あと、便器の子ではなく、天気の子です!」
いつもの好きにならないでくださいという前置きと繰り返しの訂正をする夏目さんは一緒に映画を観に行く相手が出来たことでようやく泣きやんで、笑顔が戻り、機嫌を回復させた。
「なあ、雫」
「なに?」
その日の帰り道。
いつものように雫の後ろをついてきた吉田春と2人で下校をしていると、不意に尋ねられた。
「ほんとに映画観にいかないのか?」
「いかない」
既に終わった話を蒸し返されるのは嫌いだ。
故にそれ以上言葉を重ねる気はないという意思表示を兼ねて雫はにべもなくばっさりと切り捨てたのだが、吉田春は諦めが悪かった。
「一緒に行こうぜ」
「やだ」
「理由を言え」
「お金が勿体ないから」
「ケチ」
「うちは貧乏なの」
貧乏とはいえ、母親の稼ぎもあってそこまで困窮しているわけではない。優先順位の問題だ。
映画代と参考書代。どちらにお金を使うのかと問われれば、水谷雫は迷いなく参考書を買う。
それは言うなれば明確な価値観の違いであり、いかに常識外れな隣の怪物くんであってもこの一線だけは容易に越えられないだろうと雫は思っていたのだが、彼はあっさりと乗り越えた。
「よし、わかった。それなら仕方ないな」
「うん。わかってくれたなら、良かった」
「俺がお前のチケット代を払ってやる」
「は?」
(失念していた。ハルはこういう人だった)
改めて彼は頭がおかしい人物であることを再認識して、雫は頭痛を堪えながらも再度断った。
「私はいかない」
「チケットは俺が買ってやるから来い」
「チケットを買ってもらう筋合いはない」
そんな当たり前のことを雫が冷静に主張すると、何故か春は照れ臭そうに鼻を掻きながら。
「だってその方がなんかデートっぽいだろ?」
「はあ?」
(いつからデートになったんだ)
まるで想定外の発想をする吉田春の考えが理解出来ず、それでも彼がこちらに好意を抱いていることは口頭で何度も耳にしているので、雫はしばらく迷ってから、今回はその好意に甘えてみるのも良いかと思ってその提案を飲んだ。
「……奢ってくれるなら断る理由はないけど」
「なら決まりだな! 週末、楽しみにしてる!」
(ハルは将来、悪い女に騙されそうだな)
いかにも嬉しそうに破顔した吉田春の無邪気な笑顔がなんだか眩しくて直視することが出来ず、自分のことを棚にあげて単純すぎる吉田春の行く末を心配しながら雫はそっぽを向き、諦めずに誘ってくれた彼にほんの少しだけ感謝した。
そしてあっという間に週末となった。
「ハルくん3Dメガネ持参ですか!?」
「へへっ! 当たり前だろ!」
「でも何も着けてくることないのに」
「夏だからな」
「たしかに夏らしくて格好良いとは思いますが天気の子は3Dの上映をしていないので、3Dメガネは必要ありませんよ」
(あとで弟の隆也のお土産に貰えないかしら)
待ち合わせ場所に最後に現れた吉田春は如何にも怪しげなサングラス姿であり、それが3Dで上映される映画に使われるものだと雫は会話の中から読み取り、それを自分の弟のお土産に出来ないものかと考えていると。
「実は雫の分も持ってきたんだ。ほれ」
「あ、ありがと……」
「あと、これは映画のチケットな」
(……うれしい)
お揃いの3Dメガネを貰いそしてついでのように手渡されたチケットを雫は有難く受け取った。
吉田春のこういうところが、雫は好きだ。
普段は余計なことしかしない癖に、ここぞという場面で絶妙な気遣いをしてくれる。
もっとも、本日観賞する天気の子は3Dでの上映はやらないようなのでやはり無意味なのだが。
「でも残念だ。3Dで便器の子観たかったなぁ」
「天気の子です!」
「吉田、4DXって可能性も……」
「それだ!」
「匂いとかすごそうだよね」
「心が躍るな!」
「ミッティ、この2人をどうにかしてください」
「無理」
(なんで男の子って便器に惹かれるのかしら)
秀才である水谷雫の頭脳をもってしてもその深淵のような男子の謎は解き明かせず、呆れた夏目さんと共にさっさと館内に入り席についた。
左からササヤンくん、夏目さん、水谷雫、吉田春の順にそれぞれ席に着いた。
「雫、ポップコーン食うか?」
「いただく」
上映まではまだ少し時間があり、映画館でも学校と同じく雫の隣の席に陣取った吉田春が買ってきたバケツみたいなサイズのキャラメルポップコーンを2人でむしゃむしゃバクバク食べていると不意に。
(ん?)
「ハル、それ私の手だから」
「あ、悪い」
「絶対わざとでしょ」
「指先甘くて美味そうだなって思ったもんで」
「よもや舐めるつもりだとは思わなかった」
いきなり手を握られて何のつもりか尋ねると、吉田春が悪びれもせずにそんなことを言うもんだから雫は夏目さんと席を代わって貰おうかと思ったのだが。
「うひゃあ! ジュースこぼしちゃいました!」
「何やってんの夏目さん。ほら、ハンカチ」
「うひ~座席までずぶ濡れです~!」
「席代わろうか?」
「いいんですか? ではお言葉に甘えて!」
夏目さんの席は残念ながらびしょ濡れとなり。
気を利かせたササヤンくんが譲ったあとで席を交換してくれなどとは流石の雫も言い出しづらく、仕方なく吉田春の隣で我慢をすることに。
とはいえ、雫だって女の子である。
(なんか……ドキドキする)
先程の吉田春の発言を受けて多少なりとも動揺をきたし、嫌悪感ではなくその胸の高鳴りを鎮めるために席を替えたかったことなど、隣の席の怪物くんはまるで思いもしないだろう。
「雫、まだ怒ってんのか?」
「……別に」
「悪かったよ」
「ううん。気にしなくていいよ」
近頃、雫が躾けたおかげか、吉田春にも多少なりとも常識というものが身についてきたらしく、自分の失言に気づいた彼に謝罪をされて、水谷雫の動揺もやや収まってきた、その矢先。
『コケッ!』
「!?」
「ああっ……こら、落ち着け」
(いやいや、いくらなんでもまさかね……)
聞き覚えがある鶏の鳴き声が聞こえて、恐る恐る隣の吉田春に視線を向けると、彼の腹部が異様に盛り上がっているのを視認して、雫はまさかとは思いつつも忠告した。
「ハル、館内に動物の持ち込みは禁止」
「な、なんのことやら……」
『コッコッコッ……コケッ!』
「な、名古屋、頼むから静かにしてくれ」
(やっぱりこの男は頭がおかしい)
雫は春が鶏の名古屋を館内に連れ込んだことを確信して、上映が始まる前に対処した。
「ハル、名古屋を外に繋いできて」
「でも、誰かに誘拐されるかも……」
「ちゃんとお願いすれば映画館のスタッフが見張ってくれるから大丈夫。ほら早く行って。早くしないと、映画が始まっちゃうよ」
「どうしてもダメか?」
「ダメ。絶対に周りのお客さんの迷惑になる」
「雫にとっても、迷惑か?」
(どうだろう。私は迷惑だと思うだろうか?)
上映中、鶏はまず間違いなく、鳴くだろう。
コケコッコーッ! と、鶏の鳴き声が響き渡る。
それはマナーとしては最悪で、間違っている。
だが、それが理由として正しいのだろうか。
自分は、そんな瑣末なことを気にするのか。
答えは否であり、上映中に隣で鶏に鳴かれたからと言って、普段の冷めきった雫は動じない。
だけど、今日に限っては、そうとも言えない。
「せっかくのデートを邪魔されたくない」
そう言って今度は自分から吉田春の手を握ると、彼は一瞬惚けたのちに、慌てて席を立ち。
「すぐに名古屋を置いてくる!」
「急いでね。待ってるから」
(上映までに間に合うといいけれど)
待っているとは言ったものの、やはり心配で。
雫は夏目さんに少し席を外すと伝えて彼のあとを追い、上映中鶏を預かれと無茶を言う吉田春にどう対応していいのかわからず困り果てた映画館のスタッフに頭を下げて、なんとか事なきを得た。
「ふぅ……間に合ってよかった」
「雫のおかげだな」
「私が今日ここに居るのはハルのおかげ」
なんとかギリギリ間に合い、席に戻ってお互いに感謝の意を示すと、館内の照明が消えて暗くなり、上映開始のブザーの音が鳴り響いた。
映画が始まる。
(そこそこ……面白いのかしら)
じっくりと1時間ほど観賞しても、雫はこの映画が面白いのかどうかの判断がつかずにいた。
よく言えば無難に物語は推移していき、そこに時折山場のようなものを感じ取ることは出来るが、あくまでも劇的を演出しているだけに思えて、やはり自分は冷めているのだと自覚した。
特筆すべき点を挙げるとするならば、同じ弟を持つ姉としてヒロインの弟の可愛さにぐっと来た程度だ。
(やっぱり私はドライアイスなんだ)
夏目さんとササヤンくんは楽しんでいる。
時に目を潤ませて、時に身を乗り出し、食い入るようにスクリーンに没頭しているようだ。
そんな彼らに比べて、雫が自らの感受性のなさに自己嫌悪していると、隣の席からなにやら。
「ぐぅ……ぐぅ……」
なんて怪物くんの可愛らしい寝息が聞こえて。
(つまらないのは、私だけじゃなかったんだ)
それを知ってほっと安堵した雫はすっかり寝てしまった吉田春の手を握って眠気を覚ました。
(せっかく奢って貰ったんだから全部観よう)
そこからの後半1時間は前半よりも遥かに楽しめた気がして、それは間違いなく隣の席でスヤスヤ眠る怪物くんのおかげであると雫は思った。
「ハル……起きて」
「んあ? もう朝か?」
「まだ昼間。映画終わったよ」
「便器は? 出てきたか?」
「便器は出てこなかった」
「なんだよ、畜生」
(本当に便器が出ると思っていたとは)
映画が終わり、雫は吉田春を起こした。
どうやら彼はずっと便器の登場を待ち望んでいたようで、そしてついに待ち切れず寝てしまったらしい。なんとも吉田春らしいなと思った。
「ハルくん寝ちゃってたんですか?」
「隣の水谷さんに失礼だろ」
「ミッティに嫌われちゃいますよ~!」
春が寝ていたことに気づいた夏目さんとササヤンくんに咎められると、彼は素直に謝罪した。
「悪い、雫。いびきうるさくなかったか?」
「全然平気。むしろ感謝してる。ありがとう」
そう雫が返すと、夏目さんとササヤンくんが意外そうに目を丸くして、首を傾げていた。
「そうだ! 名古屋は無事か!?」
「ハル、その前に」
「なんだよ、雫! 俺は名古屋が心配で……」
「先にトイレに行ったら?」
「トイレ? なんで?」
「便器、見たかったんでしょ?」
めずらしく雫が冗談めかしてそう言うと、彼はまた子供みたいに無邪気に笑ってこう返した。
「おう! ポップコーンひねり出してくる!」
「フハッ!」
「ちょっ……ミッティ!?」
「水谷さんが下ネタで笑うなんて珍しいね」
雫は笑った。
心の底から嗤った。
素直に感情を表に出し。
盛大に高らかに哄笑した。
「フハハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
(もう誰にもドライアイスなんて呼ばせない)
名作と呼ばれる映画のラストは賛否の分かれる作品が数多く存在しており、だからこそそれぞれの楽しみ方が見つかるのではないかと思う。
常識やマナーに囚われることなく、素直になることが何よりも重要なのだと雫は結論付けた。
【便器の子】
FIN
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