渋谷凛「愛は夢の中に」 (611)


――王子様はお姫様と幸せに暮らしましたとさ。

多くの童話はこのように締め括られる。

例えば、シンデレラ。最底辺から頂点へと至った奇跡の物語。
ただの灰かぶりが、母や姉のいじめに耐え、魔法使いの手を借り、最後には王子様と結ばれる。

シンデレラは思う。

私は幸せですと、魔法使いさんに伝えられたら。
魔法使いさんも、幸せでいてくれたら。



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・シンデレラガールズSSです
・いろいろ越境
・346? なにそれおいしいの?
・地の文
・たぶん長いよ

まったりお付き合いください




・・・・・・・・・・・・


その年の冬は寒かった。

ヒートアイランドだの温暖化だのと騒ぎ立てた夏場が幻かと思えるほど、例年になく凍える年の暮れ。

街頭ビジョンひしめくスクランブル交差点の人いきれは、冷たい風に耐えるよう身体を丸めながら、みな、手許の携帯端末で配信を見ていた。

今日は大晦日、あと1時間もしないうちに年が変わる。

交差点を行き交う数千人の手許では、日本放送機構―NHK―の紅白歌合戦が映し出され、紅組が歌声を届けている。

いま舞台に立っているのは、すらりとしたやや長身の女性だ。

婉美な群青のドレスと、黒く美しい長髪をまとい、ステージの眩いライトを、艶かしく反射させている。

緩急鋭いダンスと、その激しい動きをものともしないほど芯が強くはっきりと耳に届いてくる歌唱。

楽曲の盛り上がりとシンクロしてカメラが顔をズームアップすると、瑞々しく光る碧い瞳が、燃えるような視線を寄越す。

その眼差しは、レンズの存在など微塵も感じさせることなく、視聴者の網膜を直接射抜いた。

この年最も好調なレコードセールスを記録したオーラが、そこに漂っている。


渋谷凛。

芸能事務所、CGプロダクションに所属する歌姫――正確に表わすなら、アイドル。

時には歌で。時には踊りで。時には話術で。時には容姿で。時には身体の造形で。

全身で、生まれ持った肉体そのもので、エンターテインメントを表現する存在。

紅白にはここ3年間連続で出場し、今年はついにトリひとつ前を任された、22歳の花盛り。

現在の日本の芸能シーンでその名を知らない国民はいない、まごうことなき“トップアイドル”である。


その彼女のステージは、曲がフィナーレを迎え、ライトが光量を落としたところ。

カメラが切り替わり、NHKホール客席の熱狂振りを全国へと届けている。

無数の青いサイリウムが、凛の出番の終わりを名残惜しむように激しく揺れる。

このあと大トリが始まれば、じきに除夜の鐘中継へと移り、そして年明けだ。

打ち上げ会場で挨拶をこなして、少しだけ眠ったら、すぐに正月の特番行脚が始まることだろう。

トップアイドルは、息つく暇もない。


・・・・・・

凛が両腕を拡げて客席の歓声に応えるさまを、ホールの舞台袖から見守る姿があった。

CGプロで彼女を担当するプロデューサー、P。

その者は、暗がりの中で目頭を押さえていた。

紅白のトリはいわば『名誉職』に近い。つまり最後から2番目に位置するのが、実質的な主役と云える。

ようやく、担当アイドルが、その地位を獲得するまでに至った。その感慨によって、不意にもこれまでの軌跡が走馬灯のように脳裏を掠めたのだ。

彼女のデビューは、およそ6年前。
下積みまで含めれば、アイドルへの一歩を踏み出して7年弱になる。

最初は碌な営業すらままならなかったところから、2年目で芽が出て、3年目には頭角を現し、以後CGプロの屋台骨を支え続けている彼女。

事務所の設立と共に活動を開始した古株・渋谷凛は、CDリリースを足掛かりとして徐々に徐々に人気を獲得していった。

しかし当時を知る者は意外にも少数に留まる。
それも仕方のないことなのかも知れない。

CGプロ設立当初は、彼女の同期である十時愛梨や神崎蘭子といった面々の方が、その特色ある武器から、知名度を獲得するのが圧倒的に早かったからだ。

凛は、スタートダッシュの神様には選ばれなかった。

「……どうしたの?」

Pの懐古は、ステージから引き揚げてきたその担当アイドル自身の声によって終了を告げた。彼女は怪訝な表情で覗き込んでいる。

「あー、この日のために連日書類と格闘してたからな。目がとても疲れたんだよ。視力が一気に落ちたかもしれん」

Pの弁解に凛は少しだけ心配そうな顔をしたが、そこは長年連れ添った間柄である、すぐに強がりを見破った。

それでも口に出さないのは彼女なりの思いやり。

「そっか。蒸しタオルでも用意しないとね」と相好を崩して踵を返す。

汗に湿り気を帯びた髪と、刺繍のあしらわれた妖艶な裾が、ふわりと舞った。


・・・・・・

地下1階の大部屋へと入ると、むせ返るような濃密な女の匂いが充満していた。

歌合戦の出場者は総計すればかなりの数になる。
楽屋の少ないNHKホールでは、紅白のときは大部屋に間仕切りをして、大御所以外の楽屋としている。

演歌歌手からポップス、ダンサー、アイドルまで幅広い女性芸能人のそろい踏みはとても印象的な光景だ。

個室の楽屋を使えるアイドルは過去殆ど存在しない。
別格たる松田聖子や日高舞くらいなもので、如何にトップアイドルと云えど、凛には女性用の大部屋が割り当てられるのだ。

その大部屋の自らのブースへと歩み、タオルを取ろうとすると、凛に声を掛ける姿があった。

「闇に飲まれよ!(おつかれさまです!)」

特徴的な挨拶は話者の名札代わりと云ってもよい。

大部屋の奥側から労う一言を掛けたのは、凛より1年早く覇者となった蘭子だった。

凛が顔を上げると、既に出番は終わっているのに豪奢な黒いドレスを纏ったスタイルで立っている。

「あ、蘭子。おつかれさま。まだ着替えてない……わけじゃないよね」

「フフフ……魔王の宴は収束し真なるアニマは眠りに就いた。今は飛翔―はばたき―易き仮初の器で欺くが如し」

蘭子は左手を顔に当てながら眼を閉じて笑った。

ステージ衣装かと思いきや、これが私服なのだ。

ゴシックスタイルは、彼女の代名詞だった。

アイドルに最も重要なのは、わかりやすい外見上の特色。

愛梨なら豊満な肉体が、蘭子ならゴシックを土台とした独特の世界観が、衆目を得る大きな力だった。

世間へ浸透する為には、知名度が欠かせない。

蘭子が出世街道を登るのはあっという間だった。

対して、普通の女の子に過ぎなかった凛は、ただひたすらにストイックな鍛錬と、地道なメディア露出によって開拓していくしかなかったわけだ。

一見無愛想な、感情があまり表に出ることなく読みづらいところも、取っ付きにくさがあったに違いない。

それらが、スロースターターになってしまった要因だろう。

中身がいくら良かったところで、それに気付いてもらうための取っ掛かりがないならば、中身が存在しないことと同義なのだから。

だから、例え今現在トップアイドルを謳歌しているとしても、キャリアがものをいう大部屋内の序列は愛梨や蘭子の方が上。

凛自身、そのことに不満はない。仮にあったとしたら顰蹙を買うどころでは済まないだろう。

200人に迫るアイドルたちが彼女の後塵を拝しているのだし、魑魅魍魎の跋扈する魔窟、芸能界に於いてここまで来ることができたのは奇蹟と云ってもよいのだ。

多数の個性豊かなアイドルが所属しているCGプロの中で、特徴乏しい凛が常に人気の上位を維持するのは体力的にも精神的にも並大抵のことではない。

そのはずなのに、彼女は弱音も吐かず、Pの、そして世間の期待に応え続ける。

華奢な女の子の、一体どこにそんなパワーが蓄えられているのだろう。

“私って幸運だったよね、良い人たちに育ててもらえてさ。初めて会った時は、私のためにここまでしてくれるなんて思ってなかった”

――かつて凛が、担当プロデューサーであるPに対して述べた言葉である。

「ム? 世界の光を集めし石に紅蓮の色彩……如何したか?」

蘭子が凛の目元を見上げて問うた。凛の瞳が、充血していた。

彼女もP同様、この7年の記憶が目の奥をよぎり、感慨が胸に湧き出たのだが――トップアイドルは、嘘と演技が巧かった。

「あー、最近あまり寝られてなかったからね。お正月が明けるまでの辛抱、かな」

小首を傾げた蘭子に、凛は苦笑を交えた表情で、心配しないでと答える。

どう誤摩化そうか思案を巡らせる中、タイミングよく蘭子の担当プロデューサーが迎えに来た。

帰途に就く蘭子と手を振って別れ、独り言つ。

「……蒸しタオル、二つ必要かなぁ」


===

「おつかれさまでーす」

支度を終えた凛が、打ち上げ会場となっているNHKの食堂へと入る。

後ろからは、Pも一緒だ。

中では、年が明けたというのに、人々がひっきりなしに行き交い、挨拶に次ぐ挨拶。まるでゆっくりする暇―いとま―もない。

出番が後半だった凛が打ち上げへ顔を出す頃には、序盤に出ていた歌手は既に撤収が済んでいるような入れ替わりの激しさだった。

関係者まで含めれば総勢1000人を超えるのだ。このバタバタぶりは紅白打ち上げの恒例と云える。

そんな中でも主役級というものは挨拶すべき人も多く、この日、白組の終盤を彩った男性アーティストたちは多くの人々と握手を重ねていた。

「あっ、渋谷凛さん、おつかれさまでした!」

大きな声でそう云ってこちらに歩み寄るは、凛の直前に白組で出場したトップアイドルバンド『SATURN』の面々。

961プロに次ぐ業界の巨人、ジョニーズに所属する男性アイドルで、いま最も勢いのあるグループだ。それはベテランアイドルユニット『TOCIO』をして唸らせる実力を持つ。

サイケデリックを標榜し、大宇宙にフィーチャーしたぶっ飛んだパフォーマンスや曲調からはイメージできないほど、挨拶は爽やかで正反対の常識人ぶりだった。

生み出されたモノと、それを生み出す者の性格は、必ずしも一致するものではないのだなとPは妙に感心する。

凛は面食らった様子で、

「あっ、おつかれさまでした。あの、すごかったです。……埴輪のかぶり物でのパフォーマンスとか、リアルろくろ回しとか……」

やや腰が引けながらおずおずと手を差し出すと、リーダー格のギタリスト、TITANが優しく、それでいて力強く握手を返す。

「やりすぎてNHKの人に怒られるかと思っていましたが、僕らのあとに渋谷凛さんの圧倒的な歌声が上書きしてくれたので助かりました」

「エレクトログルーヴさんやDJ KAZMAさんから『やりやがったな!』ってLINE来てたけどね」

横からメンバー最年少のキーボーディストMIMASが茶々を出すが、

「オマージュだよオマージュ」

無邪気に笑う彼らにつられ、凛もはにかんで、お互いの健闘を讃え合う。

凛が全員と握手を済ませたのち、Pが挨拶をすると、

「おおっ、お噂はかねがね。数多人気アイドルの仕掛け人とお会いできて光栄です」

TITANがPの手を両手で握りしめて礼をした。

「こちらこそ、SATURNのみなさんのお話はよく伺っています。ただ、こう言っては失礼かも知れませんが――みなさんとても好青年ばかりで少々驚きました」

「ははは、パフォーマンスがパフォーマンスですからね、普段はこうしていないと後ろ指を差されますので」

TITANが眉の尻を下げる。

「SATURNさんのステージを間近で拝見して、そのレベルの高さに改めて感銘しましたよ。我が社の上田もファンを公言しております」

「うわぁ、上田しゃんにそう云って頂けるなんて光栄だなぁ!」

Pの言葉にMIMASは顔を綻ばせた。上田鈴帆は、幅広い人材が集うCGプロの中でもひときわ異彩を放つ着ぐるみアイドルである。

「演奏も極めて高度で精緻ですし、是非今後は音楽性の方面でもお付き合いできれば。ガールズバンドの構想も社内で挙がっておりますので」

メンバーの少し後ろに立つ、田嶋と名乗る彼らのマネージャに、懐から名刺を差し出して交換する。

打ち上げ会場は、すなわち営業会場でもあった。

周りを見渡せば、至る所で名刺のやりとりが交わされている。


「失礼、CGプロの渋谷凛さんとお見受けします」

大人たちの『儀式』を見ていた凛が背後から声をかけられた。

Pと共に振り返ると、大層華やかな女の子たちを率いた、見るからに敏腕な男。

凛へ真っ直ぐな視線を向け、会釈をする。

「初めまして。姜坤赫―カン・シンヒョク―です。日本のトップアイドルにお目見得できて嬉しく思います」

後ろに並んだ面々も同じく一礼をする。

彼女たちは海を越えて日本進出を果たした825―パリオ―エンターテインメントのアイドルグループ。

その極めてハイレベルな歌唱やダンスは、上陸するや否や日本の芸能シーンを瞬く間に射抜き、当年で紅白をつかみ取った、まさに黒船と云えた。

「お初にお目に掛かります、渋谷凛です。皆さんのことは弊社のイム・ユジンやリュ・ヘナたちからよく伺っております」

国際色豊かなCGプロは海外出身のアイドルも多数所属している。彼女らとの歓談で、出身国の芸能事情が話題に上る機会は少なくない。

「韓国トップアイドルRED QUEENを手掛けた姜プロデューサー肝煎りのプロジェクト――R.G.Pと直接お会いできて身が引き締まります」

凛は背筋を正して深くお辞儀をした。凛の両肩には日本アイドルシーンの全責が載っていると云ってよい。その自覚により半ば脊髄反射的に出た返礼の所作だった。

「いえ、我々は日本ではまだまだ新参の挑戦者に過ぎません」

姜の隣に立つ825エンタの社長、沈民哲―シム・ミンチョル―が、抱きかかえた猫を撫でながら柔和に微笑んだ。

その年齢を重ねつつも少年のようなあどけない笑みは、決して流暢とは言い難い朝鮮訛りの日本語と相まって、より愛嬌を感じさせる。

沈の謙遜に姜も頷いた。

「その通りです。ここにいる一同、“蒼の歌姫”さんを目標にして進んでいければと思っているのです」

――凛の二つ名。彼女にとって勲章とも云えるこの呼ばれ方が、国外の実力者にも届いているのは嬉しい発見だった。

「では、またいづれ」

お互いに会釈し、再び相見えることを誓って、その場を後にする。


「――やっぱり空気が違ったな」

渡り廊下を歩いていると、行き交う人の流れが途切れたタイミングで、Pが切り出した。

凛も視線を前に向けたまま、厳しい目つきで首肯する。

「……そうだね。日本を“獲りに”来てるってオーラを隠し切れてなかったよ」

「これは厳しい鎬―しのぎ―の削り合いになるな。825のプロデューサーは明らかに腕が立つ」

駐車場へ先導するPが肩を竦めて「頭痛の種が増えた」と独り言ち、社用車のドアを開けた。

凛がするりと後部座席へ乗り、シートベルトを締める前に運転席へ身を乗り出す。

「辣腕なだけじゃなくて、すごくイケメンだったよね」

「ああ、やばいよな、男の俺からしても惚れそうだった」

Pの云うことは尤もだった。本人がアイドルとしてやっていけるのではないかと思えるほどに美男子だったのである。

名刺を差し出す時によっぽど「CGプロのアイドルになりませんか」と云おうか云うまいか迷ったほどだ。実に節操がない。

「私、あんなカッコいい人に誘われたら断れなさそう。825への移籍を考えちゃうかもね」

Pの、エンジンをかける手がぴくりと止る。

姜をスカウトしようかと逡巡していた自らを棚に上げて、勘弁してくれ、と振り向くと、凛は意地の悪い笑みを浮かべていた。

「ふふっ冗談だよ。私と一緒に走ってくれるのは、プロデューサーだけ。そうでしょ?」

「わかってる。こんだけ長く一緒にやってきてんだ、お前の心だって少しくらいは読めるさ」

わざとらしい咳払いを添えると、凛は珍しく声を上げて笑った。

ひとしきり肩を揺すったのち、大きく息を吐く。

「……今年で出会ってから8年目に入るんだもんね。また1年、よろしくね」

「そうだな。こっちこそ、今年もよろしくな」

Pは静かに頷いた。二人の視線が、少しの間、交ざり合う。

「じゃあ、出すぞ。会社で少しだけ休もう。さあ、シートベルトつけて」

「ん」

凛が背もたれに体重を預け、Pは改めてエンジンを回す。

後ろで留め具がカチッと鳴るのを待ってから、静かに、車は深夜の街へ滑り出した。

明治神宮への参拝客でこの時間からごった返す原宿駅前。

その人海を尻目に、表参道、南青山と抜けてゆく中、凛は特に何を話すでもなく窓の外を見やった。

2年半後の五輪を名目にスクラップ&ビルドが繰り返される街は、数日のスパンでも目まぐるしく表情を変えてゆく。

それは、無能な都知事によって開発が停滞してしまった1年の空白期間を少しでも取り戻すかの如き意思を持っているように感じられる。

足場で覆われた工事現場。数週間前はあそこに何があっただろうか?

欠片も覚えていないのは、多忙ゆえか、あるいは他人に無関心すぎるのか。

それでもなお記憶の引き出しを漁ろうとしたところで、トンネルへ入ってしまった。

白色燈で規則正しく照らされるパワーウィンドウに、印象的な碧い瞳と整った顔、そして烏羽色の美しく長い髪が映った。

「ふぅ」と微かに息をつき、眼を閉じる。

凛の記憶にあるのは、この7年弱、Pと二人三脚でがむしゃらに駆け抜けてきたことだけ。

さきほど姜坤赫と邂逅したことで、そしてPと軽口を投げ合ったことで、青春時代の自らの思い出が少しだけリフレインした。

これほど長く一緒にいれば、いまハンドルを握っている男に対して、思慕の念を覚えたことだって、なくはない。

感受性豊かな思春期に、常に最も近くで見守ってくれる異性がいたのだ。意識しない方がおかしいと云うもの。

しかし――アイドルとプロデューサー、その二者の間に在る壁は果てしなく高い。

刹那的な慕情の欲求に抗えなくなりそうになった時、いつだって決まって先回りして軟着陸へ誘導された。

ついに17歳のとき、バレンタインに乗じて出番後の楽屋で想いを漏らしてしまった時は、こっぴどく叱られもした。

「お前が大事だからこそ俺はこうやって怒ってるんだ」

「私が大事なら、どうしてそうやって怒るの? ただ好きになっちゃったってだけだし、多少は喜んでくれたっていいのに」

「プロデューサー相手にそれを云うってどんだけ不味いことか判ってるのか。お前はアイドルなんだぞ?! 全国民の彼女でいなきゃならないんだ」

「そんなの判ってるよ! 別に付き合ってとか云ってるわけじゃないでしょ。想いを胸に秘めてるくらい別にいいじゃない!」

「駄目だ。一番近い男だからって俺に恋愛感情を抱くな。どんなに隠そうとしても普段の行動に無意識に出る。とにかく、その感情だけは絶対許さん。絶対にだ!」

――当時は分からず屋と反発もしたけれど、今なら自分のためだったのだとよく理解できる。

あの頃は青かった。

そのうち、アイドルであることに矜持を抱いてゆくのと比例して、自らの淡い気持ちもいつしか乗り越えた。

今の二人を表わすのに最適な言葉はたったの二文字で済む。

――戦友。

お互いが、お互いをリスペクトすること。これが、長く安定した関係を築く秘訣なのだと思う。

Pは、裏方で汗水を垂らす。凛は、表舞台で彼の世界観を余すところなく体現する。

後ろを心配する必要など全くない、背中を預け合えるコンビとして、芸能界を走ってきたのだ――

ここ数年の軌跡に思いを馳せながら、いつしか彼女は、ステージをこなした疲れと、信号待ちで停まる車の心地よい振動によって、静かな寝息を立てていた。

その口元は、心なしか綻んでいるように見えた。


今日はここで区切ります。定期的に細々と更新していこうと思います。

そういえば註釈忘れてました。
劇中は2018年の設定です。
なので、あかりんごちゃんやりあむちゃんはいない状態です。

そしてアイドルマスター.KRはアマプラで大絶賛配信中。ぜひ観てみてください。

渋谷凛
https://i.imgur.com/GTqQ7Pw.jpg

神崎蘭子
https://i.imgur.com/lEVGhYk.jpg

姜P
https://i.imgur.com/AzaF16M.jpg

R.G.P
https://i.imgur.com/S02h8zz.jpg

沈社長
https://i.imgur.com/onFLUVr.jpg

モバマス韓国組
https://i.imgur.com/Szo0OWR.jpg

姜Pは萌えキャラだよね

韓国勢は扱いを間違えると荒れる元だけど大丈夫かな?




・・・・・・・・・・・・


六本木と麻布十番を結ぶ裏道には、桜並木がある。

麻布十番に所在するCGプロのアイドル達にとって、一つ隣の駅で降りて徒歩で向かえば通れる、身近な散歩道だ。

またすぐ近隣にテレビ旭が在るため、収録後にわざわざ歩いてここを経由し社屋へ戻る者もいると聞く。

3月の下旬に差し掛かったこの日、六本木ヒルズの裏手から伸びるその“さくら坂”は、白桃色のトンネルになっていた。

通る人々はきっと、桜の開花が例年よりかなり早い、とワイドショーで度々話題になったことを実感していることだろう。

「この分じゃ、入学式には間に合わなそうだね……」

誰に宛てたものでもない呟きが、凛の血色の良い唇から洩れた。

帽子に大きな眼鏡、地味な服装でカモフラージュしたトップアイドルが、並木の路地を一人で歩いている。

仕事に追われようとも、季節の花を楽しみたいと思う気持ちは常に抱いているつもりだ。花屋の娘、血は争えない。

その想いとは裏腹に、ここしばらくそんな時間など確保できない日々が続いていたが――

分単位のスケジュールが組まれている彼女にも、この日だけは朝の一瞬にチャンスがあった。

多忙な身に、一駅分歩くだけで済むこの道はありがたい存在だった。
豊かな感情を与えられる側に立つのは久しく味わっていなかったと、自らを翻ってみて気付く。

並木を抜ければ、社屋が面している道路にそのまま出る。

背後にある高校のグラウンドから聞こえてくる朝練のかけ声をBGMにしていれば、事務所はもうすぐだ。


「おはようございます」

建物3階、制作部のガラス扉をセキュリティカードで解錠して凛が入る。

CGプロはその規模ゆえ、社内は制作部、興行部、総務部などに分かれている。アイドルの面倒を看るのは制作部だ。

更には200人弱と云う所属アイドルの多さから、制作部は第一課―クール―から第二課―キュート―そして第三課―パッション―までに枝分かれしていた。

凛は第一課のアイドル第一号。

早朝にも拘わらず第一課のフロア内には人の気配がすでに多く、Pも出社を済ませているようだった。

「おうおはよう。――花見は楽しめたか?」

隅にあるコピー機と向き合っているPが顔だけこちらに向けると、凛の帽子や肩に舞い落ちた花弁を見て、今朝の出勤ルートを特定した。

彼の視線から自らにくっついている桜の残滓に気付いても、凛はそれを払おうとはしない。

「おかげさまで。綺麗だったよ」

笑いながらウォーターサーバーの冷水を一口呷って、近くのソファへ身体を預けようとパーティションを越える。

するとそこには先客がいた。

「あれ? ジュニ、ヘナ、ユジン。おはよう、早いね。それから遠藤さんも」

韓国でスカウトされ来日した3人。3年余りが経って、今や立派な日本のアイドルになっている彼女らが、凛の姿を認めて会釈した。

今でこそ海外出身のアイドルはCGプロにとって珍しくない。
しかし同じ方面の出でクールからキュート、パッションにまたがるのはこの韓国勢3人だけだ。

その隣、一人分の間を空けて、遠藤と呼ばれた壮年の男が坐っている。興行部のプロデューサーをしている人間だ。

このパターンは新企画だね、と思っていると、印刷を終えたPが紙束を持ってやってきた。

「ミーティングスペースも一応取ってあったんだけど、もう遠藤さんもここにいるしちょうどいいよな。このままやっちゃおう」

遠藤たちの対面のソファに腰を下ろして、なんの前置きもなしに話を進めだす。

凛は慣れたもので、「どれどれ、ちょうだい」と資料の催促をするだけだったが、ジュニたち3人はいきなり話を切り出されて多少まごついている。

そのさまを見て、凛は昔の自らの面影を重ねた。今でこそツーカーなれど、初期の頃はこうやってPによく振り回されたものだ。

受け取った書類の表紙には『メディア芸術祭親善交流について』とある。

題名だけならこれまで何度も見てきた企画書と大差ない。

重要なのは、一回り小さな文字で書かれた2行目だった。

『於:韓国坡州―パジュ―市』

数瞬考えてから、凛が顔を挙げて問う。

「これはつまり海外公演ってことだよね?」

「ご明察。坡州市はソウル近郊の街でな」

芸術や文化関係の施設が多く、今回はその中のヘイリ芸術村で文化交流があると云う。

「そうなんだ、日本じゃあまり見られないタイプの街だね。面白そう」

凛がわくわくした様子で頷くと、ソウル出身のユジンがあっけらかんに笑う。

「私としては坡州って板門店―パンムンジョム―とアウトレットモールの印象だけどね♪」

その言葉から軍事の街と文化の街という韓国特有の複雑な二面性が垣間見えた。

兎も角、その文化交流の中の一幕に、アイドルステージが設けられるということらしい。

「まあ、主旨はわかったよ。それで、いつ?」

凛がこぢんまりしたガラステーブルに置かれている卓上カレンダーを見遣りながら問うた。

「来月の半ば。4月15日だ」

「はぁっ?」

書類へ目を落としたまま答えるPに、凛は素っ頓狂な声を上げた。

無理もない。あまりにも唐突すぎるスケジュールだったからだ。

通常、海外での公演となれば半年以上、場合によっては1年ほど前から準備が始まるものだ。

なのに、今回の話はわずか3週間しかない。

もちろん、アイドルのスケジュールはPたちが調整するとは云え――

実際に現地でパフォーマンスをする本人にとっては、準備が不十分なまま放り出されたらたまったものではない。

しかもその1週間前、4月7日と8日には、なんと台北―タイペイ―でCGプロ初の海外公演が開催されるのだ。

2週間連続で週末は海外生活ということになる。

「だからだよ。どちらも隣国だし、どうせ海外へ飛ぶなら或る程度まとめてやってしまった方がやりやすい」

Pは悪びれる風でもなく笑った。

「坡州公演の規模はそこまで大きくない。台北でのステージの内容から一部を抜粋してアレンジを加えれば充分いけるだろ?」

それに、と付け加えて、書類をテーブルに置いてから対面の男を視た。

「俺も、そして遠藤さんも、この話を振られたのは昨日だ」

急に槍玉に挙がった当人は、その場のアイドル全員を見回して苦笑しながら肩を竦めた。

「なんでも、社長が先日呑みに行った席で韓国のイベントマネジメントを手掛けている方と意気投合したそうです。825エンタの沈社長ともお知り合いとのことで」

半ば思いつきの指示だったが、うまく調整すれば具合よくプランをまとめあげられる目算がついたと云う。

凛はやれやれと一息吐いた。

「んもう、わかったよ。これも私の役目ってことだね」

CGプロの切り込み隊長はいつだって凛だった。
何かしら初経験のことをする際には、必ず彼女に白羽の矢が立つのだ。

今回の凛のミッション――現地文化に造詣のあるユジンたち3人をサポートに据えて、韓国アイドルシーンへの斥候隊を組むこと。

「ジュニ、ヘナ、ユジン。やるからには全力だよ。私も頑張るから、よろしくね」

凛から力強い視線を浴びた3人は、緊張の面持ちで喉を鳴らして頷いた。

慌ただしい年度末・年度始めが、更に怱忙を極めそうだ。


・・・・・・

4月14日。この日の韓国は霧雨に濡れていた。

気流も不安定だったのか、厚い雲を突き破って着陸態勢へ臨む羽田発ソウル行きJAL91便の機内は、3次元全方向への振れ方がいつもよりだいぶ大きかった。

カクテルシェイカーの中の氷はこんな気分なのかもしれない。

午前11時前に金浦―キンポ―国際空港へ降り立った凛たちは、ベージュ寄りのアイボリーを基調とした配色の到着ロビーで大きく伸びをしている。

わずか2時間半足らずのフライトとはいえ、じっと席に坐っていては身体が固まってしまうというもの。

解し終えて一息吐きながら天を仰ぐと、照明の明るさに目が細まる。

1階であるせいかフロアは天井高が抑えられ、密に配置された蛍光灯が機械的な感触を与えている。

思ったよりも人がまばらであることも、その印象に拍車をかけた。

ソウル市内に位置する金浦国際空港は、名称に反して韓国国内線が大半を占める。今や国際線の主力は隣県の仁川―インチョン―国際空港が担っている。

その構図は羽田と成田、或いは伊丹と関空の関係にほぼ等しい。金浦に乗り入れる国際便は羽田、関西、北京、上海、台北の五都市だけ。

ゆえに金浦の国際線ターミナルはこぢんまりしていて、混雑度も高くないのだ。

多忙な身にとって、入国審査なり荷物受取なり、あまり待たされないのはありがたい。

「いやーソウルって近いもんだな」

声に振り向くと、ターンテーブルから遠征者全員の荷物を回収したPが、カートを押してやってきた。

「そうだね。先週の台湾よりだいぶ早かった気がするよ」

凛の実感は尤もなことだった。羽田からソウルは、国内線である沖縄便よりも距離が短い。

もっと云えば、東京から新大阪までの新幹線に乗っている時間とほぼ同じ。

あまりの気軽さに、ここが国外であることを忘れてしまいそうになるが、それでも読み慣れない文字の連なる案内板や広告が、韓国へ到着したのだと教えてくれている。

「台湾はさ、文字が意外と普通に読めるし意思疎通も何となくできたからよかったけど……韓国語はホント読めないね」

同じ漢字文化圏として台湾の繁体字はさほど理解に難くない。日本の旧字体の知識を持っていれば尚良し。

しかしハングルはそうはいかない。専門教育を受けていなければ、ただの記号の集合体だと脳は認識してしまう。

万が一にでも迷子になったら、自力で解決するのはかなり難しそうだ。

歩きながらやや不安そうにきょろきょろと方々を見回す凛に、ユジンが笑いかける。

「アハハ、離れないようにいつも一緒にいよ!」

「3人が頼もしいよ、本当に」

凛は安堵の息と共に偽らざる本音を述べた。

セキュリティエリアを抜けたところで現地コーディネーターとの合流はつつがなく進み、ターミナル前に迎えに来ていた黒いワゴン車へ乗り込む。

濡れた地面の水音を響かせて走り出すと、日本とは違う右側通行の道路は、とても違和感が大きかった。

===

漢江―ハンガン―に沿って30分も北上すれば、周囲はだいぶ郊外の様相を呈してくる。

自由路―チャユロ―と呼ばれる国道77号は片側4車線から5車線に亘る快走路で、心地よいほどに世界が後ろへと流れてゆく。

日本よりも国土が狭いはずの韓国でこれだけ潤沢な道路用地を確保できることに感心してしまう。

いや、確保せざるを得ないほどに車社会なのだと云うべきかもしれない。

同じ方面へ抜きつ抜かれつランデブーする車群を眺めていると、いつしか案内標識に『坡州』の文字が載るようになってきた。

隣に併記されている『平壌―ピョンヤン―』や『開城―ケソン―』という名が、ひどく遠いようで近いような、複雑な印象を与える。

この自由路は、名目上は北朝鮮へと繋がっている道路なのだ。

「もうそろそろ坡州に入るな。だいぶスムーズに来られたからどこかで時間調整をしようか」

景色をぼんやり眺めていた凛は、助手席に座るPの言葉で現実に戻された。

本日のゲネプロは夕方から。或る程度前もって現地入りしておくとしても、今はまだ早すぎた。

今頃は設営スタッフなどが慌ただしく行き交っているはずだから、早着して邪魔になるのは好ましくない。

車は自由路に別れを告げ、近代的かつ個性的な建築が並ぶ街へと滑り込んだ。

ここは坡州市の南西端、出版都市―ブックシティ―と云われる新市街。

出版社、印刷会社、流通企業などを集積し、出版事業の効率化を目指すために作られたエリアだ。

出来たばかりの計画都市なだけあって、街並は綺麗に整っている。
建物一つ一つがモダンなデザインをしているため、ともすればコピー&ペーストに近い雰囲気になりがちな新街区ならではの画一さは微塵も感じられない。

決してコンクリートジャングルというわけではなく、溢れる緑と調和した近代建築は、散歩をするだけでもその美しさに好奇心が満たされそうだ。

芸能業界同様、出版もまた流行の最先端に近い。

そんな業界が集積する街と云うものは、すなわちハイセンスなものに敏感。

至る所に本を読みながらくつろげるカフェがあり、低く垂れ込める雲を吹き飛ばすほどの明るさや熱量を持っているように思えた。

「へぇ、きれいなところだね。面白そう」

凛は読書に特段の造詣があるわけではないが、この場所のポテンシャルは理解できる。

神保町とはまた違うベクトルの専門都市に、ワクワクとした気持ちが湧いてきた。

「ね、プロデューサー、ユジンたちも、お散歩してみない?」

「いいね賛成♪ この隣にアウトレットモールもあるよ!」

ユジンが元気に頷いて、遠くを指差しながら破顔した。

さすがにモールへ寄っていたら時間調整どころかゲネプロへの遅刻が確定的だね、とつられて笑いながら練り歩く。

バス停のあるメインの通りから眺める街は淡い色やガラス張りの建物が多く、とてもソリッド。

濃色のものだって重い印象は受けないし、壁面が無装飾でも決して無機質一辺倒ではない。

一本路地に入ればそれらの密度は更に増し、それでいて緑の緩衝が適度にあるので、まるで街そのものが美術館か箱庭のように思えてくる。

なるほど、『人間性を回復するための都市』とのテーマは確かなようだ。

やっぱり散歩は小道に入ってこそだね、とおしゃべりをしながら歩いていると、こぢんまりとしたコンクリート打ちっぱなしの建物から出てくる人影があった。

「あら、イケメン!」

ヘナが小声に抑えつつ口元を綻ばす。

視線を追うと、細身にぴっちりした黒いスーツを纏い、横へ柔らかく流した茶髪の目立つ男が颯爽としている。

「えっ?」

思わず凛が大きな驚嘆の息を漏らした。まさかこんな場所でこんな大物と邂逅するとは露にも思っていなかったのだ。

誰あろう姜だった。

建物に反射してよく響く凛の声に気付いた姜もまた、一行の姿を認めて目を大きくする。

やや遅れてビルのガラス扉がもう一度開くと、R.G.Pメンバーのうち3人――
リーダー格のキム・ソリ、センターを務めるイ・スジ、ムードメーカーのユキカが黄色い声と共に出現した。

「えー! なんでこんなところに渋谷凛さんが!?」

日本在住経験のあるソリが、飛び上がりながら流暢な日本語で問うた。

「まさか姜プロデューサーがスカウトしてきたわけじゃ……ないか」

とユキカも笑う。

「実は明日、ヘイリ芸術村での親善交流に参加することとなりまして――」

偶然立ち寄ったのだと凛が説明すると、

「ああ、日本からいらっしゃるシークレットゲストとは貴女たちのことだったのですね」

合点のいったように姜が頷いた。

唯一日本語を理解できないスジは、ソリやユキカの通訳を経て、ワンテンポ遅れてともに頷く。

口ぶりから、凛はR.G.Pも出演―で―ることを察した。

なのに、こんなところで油を売っているとはどういうことなのだろうか。自らの散歩を棚に上げた疑問を持つ。

「ここは825の事務所兼スタジオなのですよ」

姜が背後を指差して相好を崩した。よく見れば、入口の上に控えめな「825」のロゴが掲げられている。

事務所が郊外に設けられているとは意外だったが、よくよく考えれば、出版と云う行為は芸能とも縁が深い。

ソウル市外とはいえここは首都圏内だし、坡州ブックシティに置くのも選択肢として充分にアリだ。

環境の良い街でレッスンできればモチベーションにもつながる。

「羨ましいかも」と凛がつぶやくと、姜は「我が社はいつでも貴女をお待ちしています」と名刺を取り出して云う。

Pの目の前での堂々たるスカウトに皆が笑った。PもPで、

「CGプロも、いつでもお迎えのご用意ができています。R.G.Pだけでなく姜プロデューサー、あなたも我が社でアイドルになりませんか?
理由―わけ―あってプロデューサーからアイドルへ――大ヒット間違いなしですよ」

と誘うのだから、笑い声が更に大きくなる。

ひとしきりの会話の後、明日の健闘をお互い祈り合った。


今日はここまで。

ちなみにパジュのブックシティは実際にアイマス.KRの事務所風景のロケが行なわれた場所です。
いつか聖地巡礼してみたいものです。


思いがけない出会いは芸術村に入ってからも重なった。

特設会場の横につけた車から降りて見回していると、聞き慣れた音がステージから届いてきたのだ。

サイケデリックとロック、そしてアイドルソングの融合――これはSATURNのお家芸のはず。

皆で音の出処に向けて歩くと、やや光量を抑えたステージの上でまさにSATURNの音響テストが進行しているところだった。

「あっ!」

中央でギターの配線をチェックしていたTITANが、その視界にPたちを捉えて驚き、その後破顔した。

凛が頭上で大きく手を振って近づく。

「おつかれさまです。SATURNのみなさんも親善交流に参加されるんですね」

「はい、渋谷さんも?」

「ええ、うちの韓国組といっしょに」

斜め後ろについてきた3人を指差すと、ジュニたちはトップアイドルを目の前にして萎縮してしまったかのように頭を下げた。

「この親善交流、知らなかったけど日本側はだいぶ豪勢に取り揃えたんだね」

更にその後ろにいるPへ、事前情報なしで放り込まれたことを言外にちくりと刺しつつ問うと、

「ホントに豪勢だなこりゃ。まあ出演メンバーの全体像は向こうさんしかわからないから」

Pにとっても、SATURNがここにいるのは今初めて知ったらしい。

国が違えば、入ってくるアイドルの情報はトップクラスのものだけになってしまいがち。

だから、韓国側の運営が参加の打診を寄越してくる際、必然的に有名どころに比率が傾いてしまうのは仕方がなかったのかもしれない。

「渋谷さんも参加となると俄然華やかさが増しますね。なにより日本語が通じる仲間がいるのが嬉しいですよ」

TITANが水を得た魚のように大きく笑った。

海外での心細さはよくわかる。言葉が通じず文字にも馴染みのない国ならなおさらだ。

凛が、今回の遠征が海外公演のハシゴであることに触れて、台湾と比してこの地での心細さを共感として伝えた。

「ああよかった、俺だけじゃなかったんですね」

やや安堵の息をつきながら、そうだ、と手を叩いて、

「渋谷さん、もしLINEやってたら交換してくれませんか。明日もほぼ同じ行程でしょうし、このアウェイの中では連絡取れた方が心強いですので」

と提案した。凛にとっては意外な誘いで、スマートフォンを取り出そうとしつつ、Pに目線で訊く。

凛はきちんと自らの裁量範囲をわきまえているのだ。それを超える部分を報連相するのは身に染み付いた所作だった。

「そうだな、うん、OK。凛のことだからきちんと管理もできるだろう」

さして考える時間を取らない――それでいて無思考の即答でもない受け応えは、基本的に担当アイドルを信用しているというのが伝わってくる早さだった。

指で輪っかを作ったPに凛は「ありがと」と頷き、スマホの操作を続ける。

「SATURNさんはこういうの事務所から禁止されていないんですか? ジョニーズさんは特に厳しそうな印象ですし。
CGプロ―うち―はまぁ……この通り、プロデューサーがいいと云えば大丈夫なんですけど」

連絡先を交換しながら尤もな質問を投げると、TITANは「CGプロさんなら大丈夫ですよ」と云った。

「CGプロさんは規模も大きくしっかりしていますし、功績も多いですから」

交換を終えてポケットに仕舞いつつ相好を崩す。

5年ほど前までは、得体の知れない大所帯……と云う専らの評価だった事務所が、いまや他人に認められるプロダクションに成長していることを実感して、凛もPも感慨深く思った。

「おい、栗栖―くりす―」

ステージの後ろからベース担当のENCELADUS―エンケラドス―が顔を出した。

手には、ジュピターベースが握られている。凛のベースと同じハンドクラフトメーカーATLANSIAの名器だ。

サターン―土星―のベーシストがジュピター―木星―を弾く……というのは彼らの遊び心だろうか。

「調整終わったぞ。今回は屋外だから硬めのセッティングにした」

体躯はがっしりしていながらも色白の寡黙な男で、凛たちに気づいてゆっくりと会釈を寄越してくる。

デビューシングルのジャケット撮影に使用した縁でベースを触り始め、歴がもう5年以上になる凛は、このベーシストに一目置いていた。

決して派手に目立たないながらもしっかりと堅固に音の土台―ベース―を組み上げるという、ベースの本質を表現していたからだ。

もちろん、自らの愛用するものと同じ工房の楽器を使っているという点も大いにある。

「ENCELADUSさん、しっかりご挨拶できないまま今まできてしまってすみません」

小走りで近寄って、リスペクトを込めて深めのお辞儀をしながら云った。

「以前から存じてはいたんですが、お声がけするのは恐れ入るというか。私、勝手に親近感を持っていて」

「ああ……それはまあ、自分もなんで。お互い様……ですかね」

感情の読めない言葉で凛に答える。決して不機嫌というわけではないのだろうが、本当に訥弁な男だった。

そんなENCELADUSに慣れているTITANが横から顔を出して、

「アイドルでありつつベースも達者な渋谷さんに不躾ながら仲間意識を持っています」

と翻訳した。もちろん俺も尊敬してますよ、と付け加えてから、

「コイツ奥手な朴念仁なんで。渋谷さんを前にして固まってるんですよ」

くつくつと肩を揺らす。変わり者ばかりのベーシスト界にあって、凛のような華やかな存在は稀有なのだ、と。

「煩―うるせ―えぞ、栗栖」

苦虫を噛み潰したような顔で抗議するさまを見て、凛は小首を傾げた。

「さっきも仰ってましたけど、栗栖、っていうのは……?」

「あ、自分のことです。俺、知多―ちた―栗栖って云うんで」

あまり素性を表に出さないSATURNが、あまりにもあっけらかんと告白した。

「えっ? あっ、もしかしてTITANって……」

「はい、苗字の知多をもじったんですよ。自分だけじゃなくてMIMASは三益―みます―だし、ENCELADUSは遠家―えんけ―です」

会話が聞こえたのか、三益伊里亜―いりあ―が鍵盤の感触を確かめながら、ウィキペディアやSNSには書かないでね、と口を大きく開けて笑った。

謎に包まれたトップアイドルの、国民の誰も知らない機密を知ってしまった凛はたじろいだ。
一歩、取り返しのつかない線を踏み越えてしまったのではないかとの感覚を受けた。

「ええと……それ、私が聞いちゃっていいことなんですか……?」

アイドル仲間として信用してくれているのであろうということは素直に嬉しく思うのだが。

「はは、まあ渋谷さんなら大丈夫でしょうって」

どこから来たのか不明な根拠のない自信を持って栗栖が道破する。

「なんか、大変なことになっちゃったかもね……」

凛は笑顔でいつつも、こめかみに冷汗が一筋流れるのを禁じ得なかった。


・・・・・・

遠家純―じゅん―が床に臥したと云う報せが入ったのはその日午後9時を回った頃だった。

シャワーで1日の汗と汚れを流して、ソファで一息ついたちょうどのタイミングだったのは幸か不幸か。

交換したばかりのLINEに着信があったことで迅速に情報共有がなされたのは良いとしても、最初くらいはもっと明るい話題が好ましかったと口惜しさが募る。

栗栖が云うには、夕食を済ませた直後から全身に不調をきたし、現在は高熱が続いているそうだ。

食べ物に原因があるのかも知れないし、あるいはまた別の何かがあるのかも知れない。

はっきりとした理由が不明なので、よもや凛たちにも万が一のことがないかと連絡を寄越してくれたそうだ。

凛は栗栖の心遣いに感謝しながら、プライベートな居室にも拘わらず、困惑に揺れる声を少しひそめる。

「もし遠家さんがこのまま回復しなければ、SATURNのステージは――」

「……取り止めるしかありませんね」

FMラジオのようなノイズの向こう、考えに耽るわずかな溜息の後、栗栖は決断したようにゆっくりと云った。

まだ今のところは慣れない外国の救急に駆け込むほどではないそうだが、帰国までに無理をしてこじらせては不幸な結果を招きかねない。

もはやキャンセルは不可避と云えた。

耳に当てた受話器から重苦しい空気が伝わってくる。

親善のためわざわざ遠征してきたのに、土壇場での無念は察するに余りある。

努力が水泡に帰してしまうことのやるせなさは、凛もこれまでの芸能生活で厭と云うほど何度も経験してきた。

彼女とて“同志”の晴れ舞台を見られないのはとても惜しいことだった。

考えるよりも先に口が動く。

「私が代わりに弾きましょうか」

「……えっ?」

「もちろん同じレベルのステージパフォーマンスをするのはさすがに無理でしょうけど、後ろで演奏するだけならば或いは」

思いがけない凛の申し出に、電話口の向こうは、深く息を呑んでしばらく考え込んでいた。

きっと様々な想いが頭の中で交錯していただろう。永い間のあと、ぴんと張った声が返ってきた。

「お願い、できますか」

「――もちろん」

今から深夜まで数時間ほど音合わせをすべく、一言二言交わしてから終話ボタンを押す。

凛たちに用意されたホテル新羅―シルラ―からSATURNの泊まるヒルトンまでは、ものの15分しか要さない距離にある。

さあ急いで出かける準備をしなければ。そう腰を上げたとき、ドアをノックする音がした。

「凛、いるか? 俺だ」

ドア穴から確認するまでもなかった。Pだ。しかも扉を開けてみれば、凛のベースをもう肩に掛けている。

「行くんだろ?」

どこへ、と云う言葉は不要だった。

凛は少しだけ目を大きく丸くして笑う。

「よくわかったね。しかも私のベース―コンコード―までもう持ってるし」

「わからいでか。ハイヤーも手配してある」

曰く、田嶋からPにも報せが入ったらしい。その時点で担当アイドルの次の行動はお見通しだったわけだ。

先回りしてくれた頼もしさもあり、行動を見透かされた若干の悔しさもあり、それらを綯い交ぜにして凛は廊下を急いだ。

ロビーを出ると、エントランスにはライトアップされたアーチ型の噴水が出迎える。

その前に停まっている黒塗りのセダンが、今夜の彼女の馬車だった。

白い革張りのシートに座ってからタブレット端末を少しいじっていたPが凛にそれを寄越す。

「ほら。演るのはこれだな」

画面にはSATURNがゲネプロで演奏していた曲の譜面がすでに表示されていた。

ヒルトンまでの移動時間なら、細かい部分はさておき全体のコード進行は頭に入れておくことができる。

極端な話、それさえ掴んでおけばあとは流れやアドリブで何とかなるものだ。

さっそく凛が食い入るように読んでいる横では、PはPで、彼女のベースの調絃をしている。

この楽器は元々Pが所持していたものだった。凛がデビューシングルでベース弾きの真似事をしたのがきっかけとなり譲った名器。

だから調整するのはお茶の子さいさいだ。耳で聞いただけで大体のことは終わらせられる。

片やタブレットに没入し、片やいきなりベースを取り出す――

利用者の事情に首を突っ込まないのがハイヤーの基本ながら、「一体この不思議な二人は何者なのだろう」と訝しむ運転手が、それでもなおプロとしての腕前で最短経路を流してゆく。

ミレニアムソウルヒルトンの焦茶色でシックな車寄せに、アウディが唸りながら滑り込むのを、出迎えた栗栖はとても頼もしく感じながら目線で追った。


・・・・・・

芸術村のステージに歓声が響きわたる。

ヘナたちが、韓国語で群衆に安心感を与えつつ新鮮な日本のアイドル像を届ける難しい役どころをこなした後に、満を持して乗り込んだ凛のステージは上々だった。

クールアイドルと韓国芸能シーンの相性はすこぶる良い。

かっこよさ、手の届かない非日常感を求める客層が大半を占めるこの地では、最も力を発揮できるのが第一課の筆頭たる彼女なのだ。

何曲かを披露し、時にはパフォーマンスで、時には歌唱で、日本アイドルの底力を見せつける。

凛々しさと、日本特有の―KAWAII―エッセンスが込められた衣装は物珍しさからも視線を釘付けにした。

オーディエンスの反応を舞台袖から窺うPは、825とは逆の、CGプロ韓国進出もアリだなと手応えを感じている。

CGプロは幅広い人材が集まるところで、中でも格好良さ―クール―を標榜する第一課は、その年最も輝いたアイドル――
即ちシンデレラガールの輩出経験において歴代の過半数を占める成績を持つ。

進出の勝算は充分にありそうだ。

凛の代名詞である黒いゴシックドレスに目を遣りながら、斥候部隊は誰にしようかと考えを巡らすと、立候補するかのように、胸の膨らみを支える彼女のコルセットが、艶かしく鈍い光を反射した。

その絹を思わせる光彩が徐々に潜んでゆく。ステージが終わりを迎え、ライトが落とされてゆくのだ。

照らすものが完全になくなると、黒を基調とした凛の身体は完全に闇へ溶け込んだ。次のステージを準備をするのに好都合だ。

凛同様、黒いスーツに身を包んだPが、コンコードを持ってステージ上の凛へ駆け寄る。

「ナイスなステージだった。観客の興奮がわかったか?」

ベースを差し出して、凛の肩を叩いて労いながら、耳元で健闘を称えた。

「もちろん。国が違っても最高だね、この感じ」

凛はコンコードのストラップを肩に掛けてウインクした。

最も早く準備を終えた伊里亜が、観客の興奮を冷まさないよう、シンセサイザーのアルペジオを流す。

彼自身の操作するフィルタによって有機的に変化してゆくサウンドを聴きながら、客席は次の展開をワクワクして待っている。

Pが親指を掲げて袖に急いで戻るのと、ステージの準備が完了するのは同時だった。

ライトが復活すると、次はSATURNの出番だ。
観客が黄色い声を上げ、特に男性アイドルのマニアとみられる女性は今にも失神しそうな恍惚とした表情で天に身体を仰け反らす。

ふと、先ほどまで踊っていた凛がそのままの姿でベースを抱えていることに気付く人が出始めた。

ENCELADUSを差し置いて何事だ、というざわめき。
特に日本からわざわざ遠征してきたであろう女性の観客から負の感情が見え始めたとき、栗栖が英語とたどたどしい韓国語を交えて説明した。

凛がマイクを受け取って、一礼。

「さっきまでここの主役だった私は、今から黒子の裏方。足を引っ張らないように頑張ります」

昨夜ユジンに手伝ってもらってようやく憶えた韓国語の挨拶もそこそこに、1曲目の開始をリードするベースラインのスラップを繰り出した。

音階楽器と打楽器の両側面を持つベースにおいて、コンコードの魅力は、なによりもその出音の安定した芯の強さだ。

リズムを担当するドラマーに与える安心感はそこはかとなく大きく、ひいてはギタリスト、キーボーディスト、ステージ全体のまとまりに直結する。

栗栖と伊里亜は、凛の予想以上の出来映えに口角を上げた。

「こりゃあ渋谷さん、昨夜の音合わせの後もほとんど寝ないで練習したな、きっと」

「だろうね。負けてられないよ」

不適に笑ったSATURNは、韓国群衆を虜にすると云う本来の目的の為に全ての力を割くことができた。

凛の隣には純のジュピターが飾られている。

コンコードとジュピターは同じ出自ゆえ音の雰囲気も似ているし、彼への尊敬を包含した凛の演奏に感じるものもあったのだろう。
観客席でENCELADUSの団扇を掲げた彼のファンが滂沱の泪を流してステージに応援の歓声を投げる。

舞台上の凛もその姿を認め、一時的なサポートとは云え自らの責任の大きさを改めて感じた。

失望などさせまいと、両手の指に強い意思を乗せて、コンコードが叫ぶ。

栗栖のギターが、凛のベースの上で踊る。
ただの空気の振動であるはずの音――目に見えないもののはずなのに、その場の全員が、その光景を視た。

のちの評価によれば、純のエッセンスに凛のそれが独自配合されたこの日のパフォーマンスは、SATURN史上でも指折りの味わいがあったと云う。

日本の男女トップアイドル同士がタッグを組んだ演目は、異国の地を熱し、強く焦がした。


「すごい熱気! このビジターに負けてられないね!」

90度の直角で接するように設けられた隣のステージが一気に投射された。

まばゆさに目を細めると、その光の洪水の奥からは、R.G.Pのお出ましだ。

決して広くは設けられていない野外ステージの舞台にメンバー10人も勢揃いしようものなら、その圧は相当なもの。

トリコロールなスーツ様の衣装で統一された見栄えは、凛たちが日頃触れるものとは違う、韓国アイドル文化ならではの強烈な非日常感を演出している。

この雰囲気は、CGプロで云えば高峯のあを有機的にすれば近いだろうか。
のあ一人だけなら兎も角、第一課全体でここまでのフィクショナルさは中々出せるものではない。





ACACIA
https://www.youtube.com/watch?v=W9CzxgcgFmw




クリーンギターの甘いサウンドが流れる。すぐさま歓声が挙がった。

この入りはかつて姜が手掛けたRED QUEENの代表曲ACACIAだ。

蝶のように柔らかな旋律も束の間、ものの15秒ほどで甘美なイントロはビートの効いた電子音の奔流に変化した。

展開に連動して、黄色い歓声は怒濤の狂喜の雄叫びへと変わる。

ACARACA ACARACIA ACACIA……
ACARACA ACARACIA 君の所為よ(ニタシャ)――

そのトランシーなシンセサイザーサウンドに聴覚は酔いしれ、彼女らを彩る目立つ三色は、動作の細部までつぶさに焼き付けむと視覚へ流れ込む。

網膜に訴えかけるダンスパフォーマンスは実に圧巻で、ただ騒々しく激しい動きで誤摩化すのではなく、剛健さと柔らかな艶やかさを見事に両立させている。

それでいて、踊りの緩急の差が激しいにも拘わらず、10人もいるというのに一糸乱れぬ正確さを以て各々が自らの役割を完璧にこなしていた。

円形や線形、また矩形とシームレスに陣形をつなぎ、四肢の最先端に至るまで鋭く緻密に制御された振り付けは、まさにシンクロナイズドスイミングを彷彿とさせた。

「うわ、これはまた強烈だね」

控室に下がった凛とPは、トラスの陰から会場の様子を窺う。

「いやーまったくだな。ホームフィールドアドバンテージがあると云ってもそれ以上の出来栄えと盛り上がりだ。日本市場じゃ絶対セーブしてるだろあれ」

Pは嘆息を漏らした。第一課の所属アイドルから10人を選抜してもここまでのパフォーマンスは難しい。

無論、ダンスに秀でたアイドルは先述した高峯のあ以外にも、結城晴や神谷奈緒、そして水木聖來など何人もいる。

しかし個々人の技量はなんら負けてはいないとしても、それを機械の如く精密に同期させるとなると話は別だ。

統率が取れず、ただ大人数でバタバタしている印象を与えてしまうきらいがある。

日本よりもダンスが重視される韓国市場の事情は当然あると云えど、この力量差は、今後CGプロを成長させるため要改善項目の一つに挙げて間違いはないだろう。

「ホント頭が下がりますよね、あれは」

“敵情視察”している凛たちに、自らの機材の片付けを終えた栗栖が話し掛けた。

他国産アイドルグループ、EXOやBTS―防弾少年団―が海を越え上陸してから数年経ついま、男性アイドルシーンも外圧に曝されていた。

どちらもダンスに定評あるグループ。

SATURNとて日本のトップアイドルグループとして迎え撃つ立場だ。少なからずPたちと想いを共有していると云ってよい。

「ぼくらはダンスだけを前面に押し出しているわけではないので正面衝突はしていないですけど。EXOさんとか振りコピするのも骨が折れるくらいですよ」

ステージでは、そのEXO代表曲のひとつ『Growl』を、偶さかにR.G.Pが披露しているところだった。





Growl
https://www.youtube.com/watch?v=wRRiGPRN6yk




曲自体のテンポは90とゆったりしたラップ主体のヒップホップ調ながら、ダンスは倍取りで実質テンポ180として構成されている。

それでいて、まるで機械仕掛けなのか、あるいはVFXを使用しているのかと錯覚するほどのメリハリを持たせた、人力スローモーションや人力早送りとでも形容すべき演出。

生身の人間では実現できないような、慣性の法則を無視したパフォーマンスが繰り広げられている。

「――ね?」

肩を竦める栗栖。

「これまで以上の戦国時代になるね」

頷く凛が鋭い目線を会場へ向けて、自らへ言い聞かせるように呟いた。

この親善交流での好評価な手応えを手土産としつつ、その結果に甘んじることのない精進を目指す必要があった。

凛の中に、完璧主義精神が首をもたげる。それはデビューしたての時期に常日頃抱いていた、劣等感に近い情動。

頂点を極めてから数年が経って、久方振りに復活した負けず嫌いだった。


今日はここまで

高峯のあ
https://i.imgur.com/giuR46D.jpg

結城晴
https://i.imgur.com/VGhTh9o.jpg

神谷奈緒
https://i.imgur.com/9eATEdk.jpg

水木聖來
https://i.imgur.com/I01O0Ch.jpg




・・・・・・・・・・・・


平地と思われがちな東京は、実は意外と起伏が多い街だ。

日露戦争の英雄であり、また明治天皇の忠君であった陸軍大将乃木希典を祀る神社の前も、緩やかな傾斜になっている。

その名をとって乃木坂と呼ばれる一帯は、正式には港区赤坂。

歴史の匂いを纏う勾配に沿って建てられたビルに、Pの運転する車が吸い込まれていった。

ここは国内最大手のレコード会社のひとつ、ツニーミュージック擁する建物だ。

ただしそれは表向きの話であって、実態はジョニーズの本社が入っている。

この年の2月にジョニーズがツニーから取得したばかりの、正式な報道発表がまだリリースされていないと云う幻の本社ビル。

公知を目前に控えた大型連休終盤のこの日、田嶋からの極秘のアポイントメントが滑り込みで設定された。

田嶋が急いだ理由は凡そPにも察せられた。
つまり――ジョニーズとCGプロの接触を悟られずに密談をするもってこいの場所、その賞味期限が迫っているのだ。

「本当に急な話で申し訳ありません」

2階で出迎えた田嶋が開口一番に頭を下げる。実はPが電話を受けたのはわずか20分前のことだった。

「いえいえ、弊社もすぐそこですし、お気になさらず」

クイックレスポンスという言葉すら似合わないほどの早さで到着できたのは、ひとえに近所だからという理由である。

ここ乃木坂はCGプロの社屋から2キロと離れていないのだ。

Pの言葉に「助かります」と恐縮しきりに云い、会議室の卓で正対した彼の目元には社内調整に疲れた色が出ていた。

ジョニーズの規模ともなれば施設の確保にも方々への確認を取らなければならないはずだし、この急ぎ方ではきっと埋まっているところに無理矢理ねじ込んでもらったのだろう。

「――先日の韓国では大変お世話になりました」

秘書課の見目麗しい女性が運んできたコーヒーに一旦口をつけてから、田嶋が改めて頭を下げた。

Pはドアの向こうへ消えていった彼女をスカウトしたい気持ちに駆られながらも、なんとかそれを抑えて会談に専念しようと努める。

「いえ、こちらこそ。急なこととはいえ、弊社の人間がSATURNさんのステージにお邪魔することになりお手数をおかけいたしました」

お互いに頭を垂れる。会議冒頭の様式美とも云えようが、このときは共に相手への感謝と敬意の念を持つきちんとした礼だった。

「だいぶ一か八かの賭けではありましたが、蓋を開けてみれば概ね好意的に受け容れられていて僥倖でした」

「はい、弊社の渋谷もその部分を結構案じていまして」

アイドルは異性沙汰には神経質なアンテナを張らなければならない。

臨時とはいえ男と女を組ませることに批判が出ることも予見されたが、幸いにも今回の事例は「トップアイドル同士のバンドタッグ」という受け取られ方で、むしろ新境地を切り拓くかの如き評価を受けていた。

それは普段からベースギターを操る凛が演奏者として出たからこそだろう。
単純に他の普通のアイドルを安易に組ませただけだったらこうはゆくまい。

「渋谷さんがいてくださらなかったら成功裡に終わらせることは不可能でした」

そこで――ともう一口コーヒーを傾けて田嶋が続けた。

「今回の評価を鑑みて、各セクションの第一人者を集め、事務所を横断したアイドルバンドプロジェクトを展開できないかと思っているのです」

紅白後にPも少しだけ漏らしていた構想。
どのように実現しようかずっと思い悩んでいたことが、まさかジョニーズ側から発せられるとは驚きを禁じ得なかった。

ジョニーズは元来、独立独歩志向が極めて強い事務所で、他社と組むことはこれまで一切なかったのだ。

先日の敵情視察と緊急的コラボレーションを経験したことで現状に危機感を大きく持ったのであろうが、それでもオールジャパン体制の構築に協力的な一面を見せたのは意外だった。

「正直なところ、外来組と同じことをやっても仕方ありません。消耗戦になるだけでなく、地力は向こうの方がありますから、すぐに追いつき追い越すのは至難です」

国内最大手クラスの事務所だからこそ、ジョニーズは国内の現状に冷酷ながら正確な判断を下していた。

このドライさがジョニーズをこれまで巨人たらしめていると云えよう。

Pは大きく首肯を添えた。

「はい。例えば御社のSATURNさんをはじめ先日招待された面々のように、一部には互角以上に戦えるポテンシャルがあると思います。
でも絶対数はそこまで多くないし、その中のほとんどはベテラン勢で占められているでしょう。業界全体として俯瞰すれば我が国の芸能は後れを取っていると認識せねばなりません。
もちろん育成は重要ですが、残念ながらそんな悠長なことを云っていられる状態でもない」

前線でインバウンド攻勢を受け流しつつ、その後ろでは、正面から激突し押し戻せる実力を積むべく育成を長期目線で進める必要があった。

二人、静かに大きく頷き合う。

「アイドルとアーティストを融合させた魅せ方で勝負する……このプロジェクトには多くの方のお力添えが必要です。そこで、ベースは御社の渋谷さんにお声掛けしたい」

CGプロの切り込み隊長をずっと担ってきた凛。彼女を国内芸能シーンを維持するための戦いでも最前線に据える提案。
もはや彼女はそのような星の下に生まれたのだと云うほかないなと、Pは心の中で思った。

「ギターには765プロのジュリアさんや弊社から知多、キーボードに同じく桜守歌織さんと961プロの伊集院北斗さん、弊社三益を考えていまして、ほか、315プロの神楽麗さんなどは如何かと考えております」

ジュリアは765の中でも――いや、国内女性アイドルの中でも指折りのギター奏者で、ライブでは単独での弾き語りも披露するほどの腕前だ。

また桜守歌織も音楽教室の先生からの転身というだいぶユニークな出自で、伊集院北斗と神楽麗に至っては音楽一家のサラブレッドなピアニストおよびバイオリニスト。

黒船への対抗手段として申し分ない錚々たる顔ぶれと、また業界最大手の961をも巻き込む構想に触れ、Pは興奮に満ち溢れた。

正面から斬り合うのではなく、日本側の得意分野を活かした魅せ方を模索し、新しいアイドル時代の幕開けを予感させる企画に、どうして胸をときめかさずにおけようか。

「それは実に素晴らしい布陣だと思います。聞いているだけでもうわくわくしてきます」

リップサービスではないのを裏付けるように、頬の血気をよくしてPは云った。

「ただ……そんな壮大なプロジェクトに、数年の経験があるとはいえベーシストとしてはまだまだ半人前の渋谷をご指定頂くとは、よろしいのでしょうか」

アイドル兼ベーシストとして最も適任なのは純だ。凛はベースを弾けるとは云え、それが本業とまでは到達していない。

田嶋は目を瞑って、小刻みに2回、首を振った。

「そのご懸念は問題ありません。このオファーは、知多だけでなく、遠家の推薦もあるのです」

そう述べる口角の上がり方には、凛が最適だと強く確信していることが顕れていたが、すぐ真顔に戻り「実は」とやや声音を低くする。

「――大変お恥ずかしい話ですが、弊社TOCIOの八馬口―やまぐち―が先日不祥事を起こしまして」

Pはもちろん知っていた。未成年者への淫行という、大スキャンダル。ここしばらくの芸能関連ニュースはこの話題で持ち切りだ。

田嶋は、ここだけのお話です、と前置きをして、顔を近づける。

「弊社は本日この後、本人から提出された辞表を受理する旨、発表いたします」

TOCIOのベース担当であった八馬口が正式に抜ける。その穴をサポートする必要があり、純が動員されると云う。

一種の災害対応とも表わせる難しい事情がありつつ、また女性側トップアイドルと云う“顔”が欲しいこともあって、凛に白羽の矢が立ったわけだ。

であれば、遠慮する理由はない。

「なるほど、承知いたしました。それならうちの渋谷には思いっきり暴れてもらいましょう」

この場に凛がいたらテーブルの下で絶対に足をつねられるであろう言い方でPが笑うと、田嶋もつられて肩を揺らした。

「ときに、ドラム担当はまだお決まりではないようで? 弊社のライラなど如何でしょう。アラブ出身なだけあって、リズム関係には滅法強いですよ」

機会を逃さむとばかりに営業攻勢をかける。

ほかにも艶やかな雰囲気を醸成できるアコースティックギター担当として有浦柑奈や、サックス担当として東郷あいを推薦したり、
目立つ飛び道具を装備すべく765の白石紬に三味線への起用を依頼できないかと云った案をお互いに出し合い、どんどん構想が膨らんでゆく。

この小さな会議室から全世界をあっと言わせるアイドルの種が芽吹こうとしている――その使命感に、田嶋もPも熱く語り合った。


今日はちょっと短いですがここまでです

ジュリア
https://i.imgur.com/S9Tezzb.jpg

桜守歌織
https://i.imgur.com/WrfBttX.jpg

伊集院北斗
https://i.imgur.com/Q1gUg6q.jpg

神楽麗
https://i.imgur.com/iS3TGyB.jpg

ライラ
https://i.imgur.com/qjQs9Pq.jpg

有浦柑奈
https://i.imgur.com/6UTmN2K.jpg

東郷あい
https://i.imgur.com/JhoAg2f.jpg

白石紬
https://i.imgur.com/RavXoLm.jpg

TOCIOからもう一人消えそうという時事ネタが

>>34
姜Pには心が孕まされました

>>35
あたしゃ今でもジュニヘナユジンの逆輸入を待ちわびてますよ

>>107
予感はあった


・・・・・・

早朝より昼前までのレギュラー番組収録を終え、自室で2時間ばかり仮眠していた凛は、Pからのメール連絡で目が覚めた。

目を擦りながら件名を一瞥し、意識の靄を取り去らむとコーヒーメーカーのスイッチを入れる。

平日のコーヒーは凛の日課だった。じきにコポコポと音を立てて、香ばしく芳醇な薫りが漂う。

淹れたてをマグカップに注ぎ、一口。
インドネシア・カロシ産を深煎りにした豆は、豊かな甘さを包含する心地よい苦味が特長で、起き抜けや気分転換に最適の一杯だ。

これもかつてPから教えられた嗜好だった。

付記すれば曰く、コーヒーは淹れる直前に豆を自ら臼ミルで挽いてこそ至高だ、とのことなのだが――
残念ながら世を統べる歌姫にそのような時間は持ち合わせておらず、専ら全自動の機械任せにせざるを得ない。

それでも当初は乳と砂糖を入れなければ飲めなかったものが、今ではストレートで味わえるようになった。
昨今はむしろ「砂糖はコーヒー本来の甘さを掻き消す」と云って、使わなくなった角砂糖を事務所の給湯室に寄贈――と表現する処分――したほどだ。

一杯をやや急ぎ気味に楽しんでから、仮眠していたアイボリーの革張りソファに置かれているアイフォーンを拾い、浴室へと消えていった。


メールで指示された時刻の3分前に社屋へたどり着くと、ちょうど受付にいた事務の千川ちひろが凛を視認し、手招きをした。

「おはよう、ちひろさん。どうしたの?」

朝夕の別なく稼働する芸能業界にあっては、いついかなる時も挨拶は「おはよう」だ。

帽子や伊達眼鏡を取り外しながら近づく凛に、ちひろは可愛らしい笑顔を――しかし一部のプロデューサー陣には恐怖を想起させると云う能面の笑みを湛えて、人差し指を上に向けた。

「凛ちゃんおつかれさまです。Pさんから聞いているわ。今日は第一課じゃなくて、このまま8階の第五会議室へ向かってください」

「えっ第五? プロデューサーからは出社時間しか聞いていなかったけど、そんな珍しいところ使うんだ?」

第五会議室は社内では中規模の部屋で、どちらかといえば管理部や興行部など事務方の使用頻度が高いところだった。

プロデューサーやユニットメンバーとの打合せなら小さな部屋で事足りるし、第一課全体集会などでは大会議室を利用するので、中くらいの収容サイズの場所は意外と馴染みが薄い。

不思議に思いながらカードキーでエレベーターを呼ぶと、3基のうち左側が地下1階から上がってくるところだった。

チャイムが鳴り、すっとドアが開いて乗ろうとした瞬間に凛は驚いた。

中には961プロの社長、黒井崇男がいた。

飛び上がらなかったのは、スマートであらむとする意地からきた半ば無意識的な抑制の結果だ。内心は1メートルほど後退っている。

「あ、凛ちゃん。チャオ☆」

黒井社長の後ろには所属アイドル伊集院北斗の姿もあった。

凛より三四半年ほど先行してデビューした五つ上の27歳、その兄貴分に近い立ち位置からか、凛のことをちゃん付けで呼ぶ二枚目だ。

彼らはきっと地下にある駐車場からエレベーターに乗ったのだろう。

真っ黒い不思議な態―なり―をした、業界随一とも云われる敏腕社長が、こちらを一瞥した。

「……フン、渋谷凛か」

「失礼します」

来訪客と乗り合わせることになった凛は、下座である操作盤前に乗り込んだ。

すでにボタンは凛の行先と同様8階が押されていて、つまり彼らも同じ目的地に向かうことが理解できた。

「黒井社長が弊社にお越しとは驚きました。第五会議室に御用ですか?」

「ウィ。わざわざ十番くんだりまで呼びつけるとは面白いことをしてくれるな、貴様のところのPと云う奴は」

上方への加速を感じさせる箱の中で凛が訊くと、黒井は大仰に腕を広げ、まるで悪役のようなイケメンボイスで褒めているのか貶しているのかよくわからない台詞を宣った。

「黒井社長はこう云ってるけど、実は電話口で話を聞いたとき楽しそうにしてたんだよ。素直じゃないよね」

北斗が盛大なネタバラシをする。

「五月蝿い、黙っていろ」

狭い空間でいちゃつく二人に、凛はどうリアクションしたものか悩んで、結局平静を装ってスルーを決め込んだ。


「おはようございます……うわ」

第五会議室に入ると、エレベーターで黒井と鉢合わせしたとき以上に凛は驚いた。

長大な会議用テーブルは折り畳まれて隅へ除けられ、代わりにメモテーブルつきのミーティングチェアが円を描くように並べられているところに、他事務所の錚々たるアイドルが一堂に会している。

ジョニーズ、765プロに315プロ――ここへ凛と共にやってきた961が加われば、昨今の芸能シーンを牽引しているオールスターと云ってよい面々だ。

ホワイトボードには「オールジャパンアイドルプロジェクト」と走り書きされていて、設営に割ける時間のなさを物語っていた。

そしてここに呼ばれた意味を凛が悟るのに充分だった。

「お、凛。おはよう。黒井社長をエスコートしてくれたんだな。ありがとう」

「おはよ、プロデューサー。どうしたのこれ?」

「まあまあ、すぐに始まるから座って」

Pが碌な説明もしないまま横の椅子を指し示すので、凛は小首を傾げながら座った。

会場を見渡して、全員がいることを確認すると、Pは「本日はご足労頂きましてまことにありがとうございます」と簡便な前置きを済ませてから単刀直入に本題へと入った。

韓国遠征の視察成果や出展結果が報告され、外患に憂慮する現状の指摘がそれに続く。

特典商法とも揶揄され実態とかけ離れた売上の数字のみを追う行為が蔓延する国内の体質、
「親しみやすさ」と云うお題目を笠に着たスター性の低下、
アマチュアのお遊戯会にも劣るパフォーマンスでプロを名乗る不届き者――
などなど、国内の課題には枚挙に暇がない。

「――然るに、我が国の芸能をより高みへと昇華させむと、各分野の第一人者を集め、事務所の垣根を越えて本件オールジャパンプロジェクトを献策するものであります」

概要の説明を終えたところで、765の高木社長が「ちょっとよろしいかな」と控えめに手を挙げた。

「仰りたいことは理解できた。
しかし一例として、我が社のジュリアくんと、例えば――そこにお座りの315の神楽さんでは、特に大きな接点は見受けられないように思えるのだが……。
もちろん、お声掛け頂いたことは大変光栄なんだがね」

「それについては私からご説明いたしましょう」

田嶋が手刀を切って立ち上がった。

「外国資本勢との競争に於いて、正面から激突して跳ね返せるだけの体力は残念ながら国内芸能シーンには残されていません。がっぷり四つに組むことは避けたい。
昨今のトレンドも鑑みつつ、剣戟を受け流すことで後退を食い止める方向での対処が必要です」

「そう、この最前線プロジェクトで防御を兼ねつつ、その裏で正統的な体力育成を図る。中長期目線を要する企画なのです」

田嶋の言を引き継いで、Pが説明しながらホワイトボードにマーカーを走らせた。

「その対処に最も有効なのが、オールジャパンの、最高峰のオトナアイドルバンドプロジェクトです。
オトナアイドル――それは、子供世代からは憧れの対象として。同年代からはいつしか諦めた自らの夢を重ねる依代として。上の世代からはフレッシュなエネルギーを与えてくれる存在として。
全世代からの支持と熱狂を集めるのに最適な階層です」

Pが会議室全体を見回す。

ジョニーズの栗栖と伊里亜。

961プロの北斗。

765プロのジュリアと歌織、紬。

315プロの麗。

そしてCGプロから凛、あい、ライラ、柑奈。

「もうお判りですね、この場にいる皆さんは全て、洋の東西を問わず音楽に精通している魅力的なアイドル達――これが共通点です」

全員が、全員と見つめ合った。事務所が違えば接する機会もほとんどない。
越境することで、共通点を持つ人間がこれだけ集められたのか、と不思議な感覚がアイドルたちに押し寄せている。

「クックックッ……面白いじゃないか」

みなが息を呑んで静まる中、黒井が肩を揺らした。

「いいだろう、我々としては国内産業を協力して盛り上げることに異論はない」

「えっ」

最も懐柔に難儀すると予想していた人物が、最も早く賛成へと回ったことに、Pは失礼ながらも驚きを隠せなかった。

大きく目を見開くさまを見て、黒井はだいぶ心外そうに天を仰ぐ。

「……なんだその目は。私のことを誤解しているようだな。
私はそこの耄碌高木と違い、高品位なアイドルを届ける宿命について常日頃から思い馳せているのだぞ」

「あっ……失礼しました。黒井社長がラスボスだと想定していたもので……」

Pがしどろもどろに答えると、二人を見ていた凛は耐えられず「ふふっ」と息を漏らした。

「黒井社長の云う通り、面白そうだね。アイドルとしてもベーシストとしても成長できるし、周囲の情勢とか抜きに、やってみたいな。
他社さんはもちろん、CGメンバーだけで見てもこの組み合わせは初めてだからね」

凛の言葉に、ライラたちが頷いた。
凛と課が異なる柑奈はともかく、同じ第一課であるアイドル同士さえ、所属人数の多さのあまりに接点のない者がいるのだ。

「同意見だ。これまでサックスを前面に押し出した魅せ方はしてこなかったから、新境地を試せそうだよ」

足を組み替えて、あいは爽やかに笑った。
三十路になり艶やかさに磨きがかかっている彼女と、可搬性の高いサックスを用いたステージパフォーマンスは、煌めきに満ちることが容易に予想できる。

この場にいるのは、アイドルの中でも指折りの楽器経験者ばかり。

アイドルとしての振る舞い、楽器奏者としての経験、それらを融合させ高みへ昇らせむと各アイドルが思い思いに語りだす。

「ライラさんも楽しみでございますですねー。ジョジョ・メイヤーの教則を復習しますです」

「私も、エレクトリック・フォレスト・フェスティバルが来月に開催されるからミシガンまで最新のインプットをしに往ってきますよ!」

来日して5年が経つにも拘らず、ライラは相変わらず特徴的な怪しい日本語を話す。一種のアイデンティティなのか、あえて直そうとはしない。

またライラと同期の柑奈は、ネオヒッピーの野外フェスティバルで最新のラブ&ピースコミューンを吸収するなどと云いだした。

他にも歌織と北斗など、同じ楽器をやっている者同士では特に会話が弾んでいるようだった。

「また、一緒にできますね」

盛り上がる会議室を横目に、栗栖と伊里亜が、手を差し伸べながら凛の許へと歩み寄った。

「はい、このアイドル業界トップタッグのプロジェクトで何を作り出せるのか。今からワクワクしています」

凛は期待に胸を膨らませて、力強い目線と握手を返した。


・・・・・・

TOCIOのスキャンダルが茶の間を賑わせて間もない5月半ば。

事務所の垣根を超えた国内最高峰のアイドルグループ“プロジェクト:ツクヨミ”が電撃発表されたことで、世間の関心は一気にそちらへと移行した。

会議の招集から異例ともいえるこの早さで発表できたのは、最終的には、ジョニーズの北川社長による「YOUたちヤっちゃいなよ」と云う一言で、契約関係などが物凄いスピードで処理されていった為だ。

もちろん実際のところは、不祥事を覆い隠したいジョニーズの意向も多分にあるのだろう。

ともかく、国内アイドルシーンを盛り返させたい関係者の努力は、一旦は第一のハードルを無事越えたことになる。

ツクヨミに期待する街中のインタビューなどを流すワイドショーが、どの局にチャンネルを合わせても映し出される。

「どうして名前をツクヨミにしたの? アマテラスじゃなくて」

第一課のソファでテレビの反応を見ていた凛が、後方へ位置するPの自席に向けて背もたれ越しに問うた。

普通の感覚なら、最高峰を標榜するには総氏神である天照大御神をネーミングに据えそうなものだ。
しかし実際はそれに次ぐ三貴子―みはしらのうずのみこ―の次男坊とも云うべき月読命が採用されている。

「ツクヨミは夜を統べる神だからな。
現在の、外患に押されているアイドルシーンを夜に見立てて、牽引役になってほしいと云う点。それから、いづれは今回のプロジェクトを超える逸材が飛び越えていってくれることを祈るゲン担ぎもあるのさ」

「ああ……そう云うこと。ずっと走り続けるために、わざと2番目にしたんだね」

このプロジェクトが到達地点じゃないもんね、と凛は口角を上げた。

あくまでトップアイドルとしての目標は更に先にある。

ツクヨミが霞んで見えるほどのSランクアイドルに――アマテラスになるべく不断の努力を続けなければならない。

カタカタと軽快なキーボードの打鍵音が途切れた。「そういうことだ」とPも凛の方を振り向き、目を細めて笑う。
その目元には色濃いクマが生じている。

「あーあ、目の周りが酷いよプロデューサー。昔からそうだったけど、最近とみに悪化してる」

「もう俺は若くないからな。それでいて仕事量は減らないどころか増える一方だし」

4年ほど前にCGプロ所属アイドルの増加は一段落を迎えたが、結局プロデューサー職の人間は合計で40人しかいない点は変わらず、増える気配は微塵もない。

単純計算で一人あたり5人のアイドルの面倒を看なければならないことになる。
アイドルランクや仕事量の多寡によって担当アイドル数の差こそあれ、最低でも二人以上の掛け持ちをしており、1対1で看ている者は存在しない。

しかも環境の変化に伴ってアイドルは小さな分身―ぷちデレラ―を持つに至り、プロデューサーがやるべき育成タスクは増え続ける一方だ。

更にPについて云えば、ツクヨミの宣伝戦略やロードマップのすり合わせなど、複数事務所を亘る窓口業務が重く伸し掛かる。
ここしばらく、他プロデューサーとは比にならない激務が続いていた。

Pがやれやれ、と肩をほぐしていると、間隙を狙いすましたかのように内線が鳴る。

「あ、テクニカルレッスン終わった? じゃあ次は河川敷を7時間走らせてきてくれ」

不穏な指示を出して即座に切った。受話や終話の際の挨拶をしている時間や手間すら惜しいのだ。

事務のちひろに人手不足の改善を再三申し入れても「s5規模のプロダクションになったおかげで入社待ちは多いんですけど、あいにく社員枠が満杯なんですよ」と意味不明な制限で却下されるのが常態化していた。

オーバーキャパシティのあまり、Pの睡眠時間にしわ寄せが生じている。
こんな仕事、本当にアイドルが好きでなければこなせられないだろう。クマが酷くなるのは必然と云えた。

「特に凛は売れっ子も売れっ子だからな、担当する俺のやるべきことも比例して増える。本当は凛のプロデュースに専念したいんだがどうにも人が足らん」

「うん、私のことで業務量がすごいことになってるのはわかってるし感謝してる。それでも、あまり無理しないでよ?」

プロデュース活動に活き活きするPのことを見ているのは嬉しい反面、激務が心配なのもまた事実だった。アイドル当人は複雑な心情を持っている。

「そうだな。まあ、ジュニとかつかさとか、自発的に動いてくれる皆のおかげで何とか兼任の綱渡りができているから有難いよ」

桐生つかさは最も遅くCGプロに入ってきたアイドルだ。凛が組んでいるデュオユニット、BEKILY―ベキリ―の片割れ。つまりPは両極端にもCGプロ最古参と最新参の人間を担当していることになる。

つかさは凛と同様に、生来恵まれた容姿を持っていながら、当初はやや不躾な第一印象の殻で覆われていて色眼鏡で見られがちだった。

だが、内面を覗けば熱い意思や努力家の顔を見せる魅力的な女の子だ。その辺り、ベクトルは異なりつつも凛と似たタイプである。

所属当初の彼女は“JK社長”と云う肩書きを持っていたこともあり注目度は高く、社長業の経験から、自ら思考判断できる能力を備えていてあまり手が掛からないのはPにとって僥倖だった。

凛自身も、一つ歳下という年代の近さや、担当プロデューサーが同じゆえ会話する機会は多かった。

「うん。ただ最近つかさがちょっと詰まって打開策に悩んでるって云ってたよ」

「えっマジかよ俺の前では全然そんな様子見せてなかったのに?! 凛もそうだけど演技派女優すぎだろ俺の担当アイドルたちは」

椅子の背もたれに預けていた体重を跳ね飛ばしてPは前のめりになった。

「あの子ヘンに周りの状況をトータルで俯瞰しちゃうからね。手間かけさせたくない、ってぽろっと溢してた」

「うわーまじか、気づいてやれなかったなんてクソヘマぶっこいたな……」

アイツの自主性におんぶにだっこで甘えてた俺の責任だ、と呻きながら、右手で額を押さえて再び背もたれに倒れ込む。
椅子が過酷な扱いへ抗議するかのようにスプリングをギィと鳴らせた。

「近いうちにレッスンをチェックしてあげなよ」

「……善処はしたい」

凛の助言にPは難しそうな思案顔。

この綱渡りは、数年もしないうちに無理が来ることは自明だ。対策を考えておかなければならない。

こめかみを掻きながらパソコンに向き直り、少々黙考してから再びキーボードを叩き始める。

しばらく無言の時間が過ぎ、いくつかの優先度の高いメールを送信してから身支度を整えて云う。

「……じゃあ、すまん。凛を合同レッスンに送っていこうと思っていたんだが……やっぱり今日はこれからつかさの様子を看てくるよ」

「うん、それがいいと思う。私の方は一人で大丈夫だから。荷物それほど多くないし、行きしなに六本木でライラたちと合流してから向かうよ」

凛は頷いて立ち上がり、コンコードを肩にかける。

第一課の廊下まで二人一緒に出て、軽く手を振り別れた。

髪をさらりと払い、伊達眼鏡をかけ、硬質明瞭な靴音と共に小さくなってゆく背中を、Pは頼もしそうに眺めた。


今日はここまで

千川ちひろ
https://i.imgur.com/7SnJNhS.jpg

黒井社長
https://i.imgur.com/KCU9GKG.jpg

高木社長
https://i.imgur.com/Ypvfglb.jpg

桐生つかさ
https://i.imgur.com/5g6DR66.jpg


六本木――つまりテレビ旭で合流を済ませた凛たち4人は、渋谷にあるジョニーズ自社ビルへと到着した。

CGプロと同様に全面ガラス張りのその建物は、青白磁色をベースとするCGプロとは対照的に、赤みを帯びた茶色のシックかつモダンな雰囲気を纏っている。

全フロアにジョニーズの関連会社がまとめられており、所属アイドルのレッスンするスタジオもこの中に設けられている。

構造としてはCGプロと似た、トータルケアが可能な総合拠点なのだが、乃木坂のツニービルを購入したことで今後の動向に注目が集まっている。

そのためビル前には、芸能関係者の一挙手一投足を逃さむと、パパラッチが常に目を光らせ構えていた。

「うわ、いるいる」

歩道から正面玄関に続くわずかな階段を上がりつつ、道路を挟んだ対面に待機しているカメラ群を横目で見て凛が呟いた。

女性アイドルの筆頭が男性アイドルの総本山へとやってくる――
本来ならあり得ない光景ながら、しかしすでにプロジェクト:ツクヨミが公知されたことで、変に憚ることなく大手を振って他社事務所へと入ってゆけるのは精神的にだいぶ楽だった。

もし発表前にこのような行動をしたら、週刊誌の格好の餌食とされていたに違いない。

上層階へ運んでくれたエレベータを降りると、外光を積極的に取り込む構造のフロア内は非常に明るく、若い芽が羽化せむと励む声が、閉められた扉の向こうから聞こえてくる。

「おはようございまーす……」

レッスン音が漏れてくるところとは別の、指定された静かなスタジオへそろそろと顔を覗き込ませ、控えめな挨拶を投げる。

「あっ、来た来た! おはようございます!」

中には栗栖と伊里亜がいるだけだった。手を大きく挙げて挨拶を返してくる。ホームグラウンドたる彼ら二人は当然として、どうやら凛たちが一番乗りらしい。

本日はプロジェクトメンバーによる初の合同レッスン。
企画が走り始めたばかりで新曲はまだ手配中のため、ひとまずは既存曲の流用をして、各メンバーの同期をとるのが目的だ。

お題曲はカシオペア至高の名曲『Looking Up』。メンバーの楽器構成に近いことから選定されたらしい。

先日譜面を渡され、手の空いたタイミングに事務所の休憩室でベースを手繰っていると、第二課の安部菜々が寄ってきて「いいですねぇーカシオペア。国技館ライブが懐かしいです」と感慨深げに頷いていたのが妙に印象に残っている。

――そのライブは昭和60年に開催されたはずではなかっただろうか?

菜々の周辺では時空の歪みなど日常茶飯事なので、凛は一切気にしないことにした。



Looking Up
https://www.youtube.com/watch?v=lMTf5jDpdlc


安部菜々…さんが懐かしがっていた国技館ライブ
https://www.youtube.com/watch?v=S0Xm1PWb07o


さておき、Looking Upと云う曲はベースラインを大黒柱としつつ、それを様々な楽器が追い、包んでゆくのが特色だ。

ベースにはリズムキープだけでなく、各楽器パートとの噛み合わせや硬軟入れ混ぜた音のメリハリが要求される。

特にギターやキーボードとは息を合わせないと、途端にまとまりがなくなってしまう難しい曲。

その分、歯車が完全にフィットした時のこの曲はとてつもない色香を放つ。

問題は、その難曲を巧く奏でるのみならず、ステージパフォーマンスも交えて実現することを要求される点だ。

演奏だけなら完璧にできて当たり前、ダンスも然り。と云うレベルに到達しておかなければ、目標を満たすことはできない。

「一発目の課題がこれって結構鬼畜ですよね」

栗栖が、ベースの準備を終え試奏する凛に寄ってきて苦笑する。

「この選曲は多分うちのプロデューサーの趣味だと思います……ホントすみません」

「ああいや、それでもきっと、クリアできない課題は出さないはずですから、これは自分らが期待されていることの裏返しですよ」

凛の恐縮ぶりが予想以上だったのか、気負わせないようにと栗栖は努めて明るく相好を崩すものの、身内から裏切りの友軍砲火が襲う。

「えぇ僕のパート、譜面がワケわかんなすぎて弾けるかどうか到底怪しいんだけど……これ本当に人間ができるの?」

伊里亜がげっそりした表情でスコアをパラパラとめくる。

彼の懸念は凛も理解できた。ただでさえ複雑な構成のうえ、五線譜としての役割をおよそ放棄した部分があるのだ。

つまり、要所々々に『ここはアドリブをテキトーにイイ感じで』とだけ書かれている。

現代音楽家ジョン・ケージの楽譜よりは断然マシだろうが、他のパートの構成音からコードを判読し適切に奏でるべしと云うことなのだろう。

アドリブ部分は特にそのパートを担当する楽器とベースの協調が必要となる。このレッスンで詰めてゆくのだ。

凛は「よろしくお願いします」と、伊里亜と栗栖に手を差し出す。

「こちらこそ」

がっしりと握り合う掌から、栗栖たちの熱い意気込みが伝わってくるような錯覚を得た。


――

「ワヒド―1―・イスナン―2―・サラサ―3―・アルバァ―4―!」

プロジェクトメンバーが全員揃い、準備を手早く終える。
用意が整ったことを確認したライラが、慣れたアラビア語でカウントを取って、クラッシュシンバルとスネアドラムを組み合わせたフィルインで先陣を切った。

ギターとシンセサイザーがシンクロして昇り調子なイントロのメロディを紡ぎ、ベースとドラムがそれらの音の合間を埋めるように装飾を施す。

イントロが胸の内の熱狂を呼び起こすのに、時間はものの10秒ほどあれば充分だ。

導入のテンションが最大へと振り切ったところで、ライラがシンバルやタムでの装飾から一転、シンプルで軽快な8ビートをスタートさせた。

その彼女のリズムはプレーンであるからこそ、機械かと目を見張るほど一定したグルーヴと、整った音の粒で繰り出されるスネアやハイハットが際立つ。

凛はライラの右足が踏むバスドラムと協調して、拍頭をあえて休ませるスラップを繰り出す。八分音符でメロディアスに、まるで大河の流れのようだ。

曲の土台となる二人の演奏はメトロノームのように正確だった。

過剰な速弾きや手数の多さは必ずしも腕利きの指標ではない。ベースとドラムに要求され、出来を左右する真の巧さとはただ一つ、高い安定性を実現できるかどうかに尽きる。

『Looking Up』のイントロは、一見地味な役どころのベースとドラムが最も輝きを放つ場所だった。

じきに歌織の弾くピアノがメインメロディとなる。メロディと云っても単音ではなく、複雑なコードを連続して押さえることで結果的に出現する音の流れ。

あいのサックスや伊里亜のシンセサイザーとユニゾンすることでメインとしての存在感を高め合っている。

Aメロの歌織から引き継いで、A'メロでは北斗のピアノが同じラインをなぞった。

弾き方やタイミングを変えることで北斗ならではの味が出されており、更にあいと交代した麗とのデュエットとなって一粒のメロディパートで二度美味しい。

セッションを開始してすぐ、凛は違和感を覚えた。

決して悪い意味ではない。

むしろ、初めて合わせるはずの演奏が滞りなく進むという、良い方向での誤算だ。

てっきりもっとコンフリクトを起こして足止めされるだろうと予測していた。アイドル界の第一人者が召集されていると云うのは伊達ではなかったのだ。

間もなく絃楽器のソロパートだ。後ろからサポートする柑奈のアコギが、アンニュイでありつつ切れ味の鋭いカッティングで栗栖とジュリアを嗾けた。

二人が、凛のベースと柑奈の伴奏に乗りながらピンポンを打ち返し合う。

ボールがそれぞれの場所にあるとき、常に凛は奏者のそばへ寄り、目で、口で、絃を爪弾く指先で、リズムを刻む下半身で――全身でコミュニケーションを取った。それは楽器を介した会話と云ってよい。

栗栖はベースの周りを蝶のように舞うアドリブをこなしつつ、凛とのセッションを心から楽しんでいるようで、眩しい笑顔が途切れることはない。

更には、エレキギターの対決に紬の三味線が割って入った。絵面は鮮烈だが、実は三味線とエレキと云う組み合わせは意外なほど相性がよい。

三味線にはバチを強く当てる打楽器的奏法もあるため、スラップベースとも親和性が高い。

ジュリアたちのソロに引けを取らない和風アドリブを披露したプロジェクト最年少メンバーが笑って大きくジャンプ。爽やかな汗が舞い飛ぶ。

曲のアウトロは全パートがユニゾンで音高を下げてゆき、ライラのスネアとタムの乱打から溜めを介してシャットダウン。

一瞬で過ぎた4分30秒だった。

結局あれだけ弱音を零していた伊里亜も、いざ合奏となればとてつもない集中力とアドリブセンスを発揮していたし、凛はギターやサックスなどの運指を逐次読み取ることで無事に曲全体を制御下に置けた。

通常のオーケストラのコンサートマスターに相当するのが凛のベースの役割なのだ。

通しプレイのほぼ全てを各パートとの意思疎通に費やした甲斐あってか、特に韓国でのセッション経験がある栗栖とは良好なシンクロを保つことができたのは大きな自信へとつながった。

「渋谷さん、すごく演りやすかったですよ、予想以上です!」

栗栖が腕を振り上げたガッツポーズで喜びを表現した。『予想以上』と云う言葉に、この場の全員が首肯した。

「いやはや、まさか一発で通せるとは驚いた。みなさん、実は相当練習して備えてきたんじゃないのかい?」

あいがサックスを肩から下ろして微笑むと、近くにいるアイドル同士が見つめ合う。

目だけで「あなたも? 実はわたしも」と語り、顔を緩やかに綻ばせた。

「ライラのリズムキープがすごかったよね。私そのおかげでとても弾きやすかったよ」

凛がドラムセット内にちょこんと座って身動きのとりづらい彼女に代わってペットボトルの水を渡しながら云った。

「これまでの積み重ねでございますですねー。ごまだれ石を穿つってやつでございます」

「うん、雨垂れだね」

凛は訂正をせずにはいられない。

「それにしてもライラちゃんがここまで叩けるなんて意外でした! 普段あまりそういう姿を見ないから」

柑奈が感嘆の息を吐いた。CGプロのメンバーは一様に頷く。ライラにドラムの経験があること自体は知っているが、実際に演奏するのはレアケースだった。

「ドラムを始めたきっかけは昔のチャレンジ企画ですねー。なつかしいです」

4年前に開催された、多田李衣菜、涼宮星花、冴島清美との『目指せロックスター』アイドルチャレンジ企画。
当時ド素人だったライラが立派にドラムを務め上げたライブはファンの間で語り種だ。

「あのとき練習するのに公園で叩いてたら、ダンディなおじさんと知り合いましたです。ドラムが上手で、あれ以来たまに見てもらってたのでございますよー」

「アイチャレでのレッスン以外にも自主練してたんだね。……というかドラムが上手なおじさん?」

「はい。今もたまにアイス買ってもらってますねー。こないだも一緒に表参道へ食べにいったのでございますです」

凛の問いに頷いたライラは、スマートフォンを取り出して自撮りのツーショットを見せてきた。

白髪交じりの口髭、丸眼鏡をかけて、つば付きの帽子を装着している出で立ち。中年と老年の間のような風貌の紳士だ。

その画面を見た瞬間に、伊里亜が口に含んでいた水を噴き出した。

「ちょっと待ってそのひとレジェンドじゃん?! 神じゃん!???!」

写っていたのはレッドマジックオーケストラでドラムを担当する高梁幸宏だった。驚異的な正確さでビートを刻む、元祖人間メトロノーム。

こんな大御所に直接の教えを請える者などそうそういまい。にも拘わらずライラは「この方はアッラーの化身なのでございますですか?」と暢気に首を傾げ、その重大性を自覚していないようだった。

どうしてCGプロは謎人脈が多いんだ、と頭を抱える他プロの面々に、彼女はきょとんとしている。

「……まあこれで曲の土台は心配なさそうだね」

北斗が困ったような嬉しいような、複雑な頬笑をこらえながら云って、つられたアイドル皆がかすかに笑い声を漏らして頷く。


そのあとは楽器を置いて、録音しておいた今の演奏に合わせてダンスのステップの確認。こちらも特段のつまづきは見受けられなかった。

強いて云うなら、楽器の演奏時には手が塞がるため、必然的にパフォーマンスは両脚のステップで魅せるなど下半身が主体となることを意識する必要があることくらいだった。

或る程度人数がいるため休奏するところも多く、その際は普通のステージと同じように全身を活かして踊ればよい。

なんだ余裕じゃないか。

――とはそうは問屋が卸さないのがPのいつもの選曲だった。

演奏、ダンス、それぞれ単体なら最初から或る程度のまとまりを以て実現できたメンバーだが、全てを同時に実行しようとすると途端にギアが噛み合わなくなってしまった。

重い楽器を持ちながら動き回ることで、個々人の運動能力に左右されステップがばらついた。

ステップを正確に踏もうとすれば、意識が逸れたり重心が移動することによって演奏が不安定化してしまう。

リズムを一致させられないどころか、音程さえまともにトレースできないのだ。惨憺たる出来栄えだった。

「うっわー……」

通しの演奏後、がっくりと膝に両手をついて凛はうなだれた。

演奏を単体でどれだけうまくできようが、パフォーマンスを単体でどれだけ魅せられようが、併せたときに同等の質を実現できなければまるで意味がないのだ。

今回の合同レッスンはこれが目的か。凛のみならず、アイドル全員がプロデューサー陣の意図を理解した。

凛が周りに頭を下げる。

「課題を出した人間の――うちのプロデューサーの気質を最も理解しているべき私が、先回りして手を打たなかったのは失態でした。申し訳ありません」

「いやいや、渋谷さんのせいではないでしょう。不甲斐ないのは自分もです」

慌てて栗栖が云った。他のアイドルも口々に相槌を打つが、今やるべきは傷の舐め合いではなく、どうすれば改善できるかを考えることだ。

凛は顎に手を添えて少し考え込んだ。どこか身近にヒントはないか。演奏しながらダンスをする類のパフォーマンスは。

「あ」

ふと頭の中に、バトントワリングをする第一課の佐々木千枝の姿が浮かんだ。

「改善策に心当たりがあります。次回までに取りまとめて、皆さんへ情報共有します」

凛がやおら顔を挙げて力強く云うと、栗栖が期待の眼差しを向けてくる。

「心当たり?」

「はい、弊社のL.M.B.Gなんですが――」

凛が頷いて答えると、あいが「そうか、なるほどね」と髪をかき上げた。

CGプロには、千枝を皮切りに、マーチングを行なうユニットが存在する。

L.M.B.G――リトルマーチングバンドガールズと呼ばれる大所帯だ。

年少組ゆえ実ライブではほぼ演奏せずダンスパフォーマンスが主となるが、楽器と運動の両立と云う、凛たちが今求めている要件にはマーチングこそが合致する。

L.M.B.Gメンバーの一人、第三課の龍崎薫とあいは年の差を越えて仲が良い。あいが凛の言葉ですぐに気づいた所以だ。

凛が是正案の手配をする事とし、ひとまずこの日は演奏とダンスを別個でそれぞれ練り上げることになった。

全員が集まれる機会はそうそう設けられない。休憩を挟みつつ、夜の帳が下りてもなおステップを踏む靴の音がフロアに響いた。


今日はここまで

安部菜々
https://i.imgur.com/kglLXLv.jpg

多田李衣菜
https://i.imgur.com/TGPS3nI.jpg

涼宮星花
https://i.imgur.com/uxCEn6L.jpg

冴島清美
https://i.imgur.com/uyJUspo.jpg

佐々木千枝
https://i.imgur.com/Q3O4pZk.jpg

龍崎薫
https://i.imgur.com/vNhHkY6.jpg

つか、七年後の話だから、千枝も18歳。薫は16歳(今が旬)……だよね?

リトルじゃないような気が……

>>161
まあ一度ついたユニット名はおいそれと変えられないから…
ニュージェネも今や「ニュー」ではないですしね


・・・・・・

レッスンが解散し、CGプロ事務所に凛が帰着したのは21時を回った頃だった。

本来は4人全員が直帰のスケジュールだったが、ライラたちとは途中で別れ、マーチングに関する情報収集のために単独で麻布十番へと戻ってきたのだ。

「ふう、ただいま」

第一課の扉を開けて帰還の挨拶をするものの、どこからも反応が返ってこない。

明かりは煌々と点いているのだから、誰も彼も退社済みというわけではないはずだが。

レッスンスタジオに籠りっきりなのだろうかとPの執務エリアを覗き込むと、果たしてそこには机に突っ伏して寝ている姿があった。

「あぁ、なるほど」

合点のいった凛は、しかし直帰せずわざわざ事務所に寄った理由の対象が機能していない事実に対面し、どうしたものかと思案した。

ここへ来るまで結構大きな物音を立てていたはずなのに全く起きる様子がない。これはだいぶ深い意識不明の重体になっていそうだ。

「猛烈な勢いで爆睡してるプロデューサーを叩き起こすなんて、そんな鬼畜な所業はできないよね」

身体を冷やさないよう何か羽織るものでもかけようかと思って近寄ったものの、いざ近辺には適当な布がない。

周りを見回すうち、Pの机にはツクヨミ関係の書類やら参考資料やらが山積されているのが目に入った。

「ああ……今にも崩れそう」

少しだけでも片付けようかと更に近づくと、Pの黒い頭にぽつぽつと白髪が混じっているのが見えた。

分布は偏在的で、とりわけ右後頭部に多く生えているようだった。

白髪が出てくるには些か早過ぎる年齢のはずだが、これだけ激務を続けていればメラニン細胞の劣化が加速度的に進むのは避けられないのだろう。

いづれにせよ、かつてベンタブラックを自称していたPの頭髪に、年波が忍び寄っているのは確実だった。

改めて、凛たち最前線に臨む“兵士”だけでなく、それを支える事務方も相当な奮戦をしていることが窺える。

立つ場所が違うだけで、全員が戦友なのだ。

机から溢れそうな紙の束を、落ちない位置まで幾らか整理すると、陰から見たことのない写真が顔を出した。

初めてステージに立った日の、ゴシック調を基としたシックな黒いドレスを身に纏っている凛と、新しめのスーツを着たPが控室で並んで写っているものだ。

正確に云えば、凛にとっては何度となく見慣れた写真なのだが、それは自室に飾ってあるからという理由であって、Pが持っているところは見たことがなかった。

「あれ、プロデューサーもこれ持ってたんだ……」

写真の中のFランクアイドルは、表情こそ勝気に微笑んでいるとはいえ、デビューしたて特有のどこか自信を持ち足りない匂いが漂う。緊張で身を固くしていることも隠せていない。

被写体としては散々な状態ではあるけれど、デビューの際に撮影したものだからこそ、記念と云う意味でも戒めと云う意味でも、凛は常に目の届くところに飾っているのだ。

書類の海に沈まないよう分けておこうと何の気なしにサルベージすると、『このアイドルのために俺がいる 目指せシンデレラガール』と隅っこに書かれていた。

印画紙のややヨレた手触りから察するに、額へ入れて飾っているというわけではないらしい。

むしろこのくたびれ加減は手帳などに挟んでことあるごとに取り出しているような印象がある。

「なんだ、キザったらしいこと書いてるね。ふふっ……」

4年前に第3代シンデレラガールと云う頂点を獲ったことで、書かれている決意は実現できてしまっている。それでもこの写真をずっと持ち続けていてくれたことに凛は胸が暖かくなった。

――やっぱり今日はそっとしておこう。

凛は相好を崩して頷いた。

机に積まれた本の山へ写真を立てかけ、また傍にはちひろの席から持ってきた差し入れのスタミナドリンクを置いてから、ゆっくりと踵を返した。


「あ、いるいる」

上階のレッスンスタジオへ顔を出すと、この時間でもつかさが鏡と正対して踊っていた。

練習用のジャージを着用こそすれ、白いTシャツの裾を結んだり、ズボンもチャックをふくらはぎ辺りまで上げたりと、ファッショナブルな着こなしをしていて自社ブランドを持つ社長としての意地が垣間見える。

凛が「あの着方いいな、参考にしよう」と本筋から逸れたところで感心すると、つかさが来訪者に気づいて動きを止めた。

首にかけたタオルで汗を拭ってから歩み寄る。

「練習着でもない凛がここへ来るなんて珍しいね、こんな時間に一人か?」

「うん、今日は別の場所でレッスンしてた。プロデューサーに用事があったんだけど、寝ちゃってて」

「あーアイツ、昼間っからだいぶ疲れてそうだったからな」

凛の説明に、つかさは然もありなむ、と目を瞑って何度か首を縦に振る。

「数時間前までそこでアタシのレッスンを見てたよ。……凛がアイツに執り持ってくれたんだって? 悪かったね」

「いいっていいって。アドバイス、もらえた?」

「おかげさまで。詰まってた小石が取れたから、これで次のライブの演出がコミットできる」

「それは何より。――ところでちょっと訊きたいんだけどさ」

凛はつかさにマーチングに関することを尋ねようと思っていた。

ベキリのほか、第二課の佐久間まゆと共に『ガールズネットワーク』と云うユニットも結成している彼女は、自身のコネクションの広さに加え、まゆの情念深さをひしひしと感じる特定の深い知見も入手できる位置にいる。

第一課の諜報アイドル八神マキノと並び、CGプロ随一の情報網を持っているのだ。

「……マーチング? そりゃまた随分と異分野だなー」

つかさがきょとんとした表情でスポーツドリンクのストローに口をつけた。

「ツクヨミ関係でさ。楽器を操りながらステップも踏まないといけないから、マーチングが参考になるかなって。
本当はL.M.B.Gの資料を貰いにきたんだけど、プロデューサーと話せなかったから、先に情報通のつかさに訊こうかなと思ったんだ」

「あーそう云うこと。でもL.M.B.Gは子供用に大分リダクション―簡単に―してあるから単純なリファレンスにはならないんじゃねぇ?」

ボトルを壁面鏡の近くに置いてから、つかさは腕を組んで考え込んだ。

「……必ずしも社内にこだわる必要ないんだったら、京都アリス高校吹奏楽部って知ってる? オレンジのユニフォームが特徴のマーチングバンドなんだけど」

「え、高校の部活?」

凛の声音にやや軽んじる匂いを感じたつかさは、チチッと人差し指を横に揺らした。

「いや、高校生と侮っちゃなんねぇよ? 由緒ある米国ローズパレードから複数回のオファーを受けてるプロ顔負けの強豪校だからな。
“橙の悪魔”って呼ばれるくらいだし、心肺機能と体幹スキルはそんじょそこらのアイドル程度じゃ到底勝負にもならねー。L.M.B.Gにも協力してもらってるはずだ」

自らのタブレット端末を取り出して、動画共有サイトを開く。

何回かタップしてから「ほら、これ見てみ」と凛へ寄越すと、そこには我が目を見張る光景が広がっていた。

カリフォルニア・アナハイムのディズニーランドで催されたパレードを撮影した映像の中で、金管や木管、果ては打鍵楽器まで背負って縦横無尽に飛び回っているのだ。

しかも驚異的なことに、破格の運動量を誇りつつマーチングの本分である演奏も疎かにしていない。

大人数ゆえ先頭から最後尾までかなりの距離があるにも拘わらず、音のタイミングがぴたりと一致している。

それでいて特に重いチューバなどを担ぎながら軽やかに豪快なステップを踏む様は、およそ高校生とは思えない技量であった。

「なにこれ……」

凛は二の句が継げなかった。

プロ集団というわけでもない、同好会というわけでもない、一年ごとに強制的な新陳代謝が発生する高校生なのに、スキルフルかつ高度な統制を実現しているとは。

一体どうやればこんなことができるようになるのか。

「アタシらの面目が潰れちゃうよなー」

つかさの苦笑に、何も言葉を返せなかった。ただただゆっくり頷くのみ。

「ま、彼女たちは私立校だし志望者も多いし? 確かに選び抜かれた子たちなワケだけどさ、アタシらだって天下のCGプロでアイドル張ってんだ、できないはずねぇっしょ」

謙虚にレクチャーを請うのも、プロとしての矜持じゃねぇ? とつかさは大きく口を開けて笑った。

凛は映像を最後までしっかり目に焼き付けてからタブレットを返す。

「よく知ってたね、つかさ。……それとも、私が疎すぎるのかな」

「あーいや、実は種明かしすると、L.M.B.Gのメンバーを増やすときに千枝のプロデューサーから相談受けたことがあるんだよ。京都アリス高校は、アタシの地元福井の政財界とコネがあるから」

「なるほど。どうりでこんなに詳しいわけだね」

「お粗末様。会社のファイルサーバに橙の悪魔直伝のレクチャー映像があったはずだから、見てみるか」

つかさはそう云って、タブレットをテレビに接続した。

フレッシュな高校生が、だいぶ緊張した面持ちでビデオカメラに向かって喋るさまが映し出される。

講義の内容自体は、年少組たるL.M.B.G向けに平易な言葉が並んでいる。なのに、たどたどしい話し方のためか頭に中々入ってこない。

微笑ましいほどの初心さだが、高校生の時分で現役アイドルへの教鞭を執ると云う経験などそうそうあるまいし、不慣れで当然でもある。

凛が映像を見ながら、着ている上着を脱いだ。

「おいおい今やんのか?」

つかさが少し呆れた面持ちで腰に手を当てた。

「善は急げって云うでしょ?」

「確かに違いねーな。どれ、アタシもやってみっか」

好奇心が勝ったつかさが、ラフな姿になった凛の隣に並んで、レクチャー映像に倣って動き出す。

すぐにつかさの表情が困惑に変わった。

「……お、相当しんどいぞ、これ」

画面の中では、高校生が平然とした顔で、何ら造作もないように動いているのだが、ついていこうとすると途端に牙を剥くのだ。

「うん。瞬発力も持久力もフル動員するね」

凛が視線をテレビに向けたまま鋭くして頷いた。
相反する動作要素をそれぞれ高いレベルで要求されるマーチングの鍛錬は、一筋縄ではいかなそうだ。

人間の筋肉には、瞬発力を生み出す速筋と持久力を生み出す遅筋の二種類がある。

アイドルである以上、細身のプロポーションを維持するためには無闇矢鱈に筋肉を増やせばよいわけでもない。

過度な増強を避けつつ最大の効果を得るには、速遅筋の最適な比率を考える必要があるだろう。

「これ意外と難題かも……」

2時間ほどかけて、ツクヨミでこなすべき練習メニューをリストアップしたところで、画一的なトレーニング法を組めない難しさを凛は実感した。
筋肉の得手不得手は、人によって千差万別であるためだ。

それでも、手掛かりを掴むことはできた。この収穫は大きい。

五里霧中を進むのよりも、コンパスひとつでもあれば取れる選択肢は増える。

「つかさ、ごめんね。付き合わせちゃって」

ノートを閉じた凛は、髪を掻き上げて、隣のつかさを見た。

「いいって。気分転換になったし、自分の中にナレッジを積むのも楽しいもんだ」

つかさは水分を摂りながらニヤリと笑った。この知識欲が、情報通である遠因でもあるのだろう。

「ならよかった」と大きく一息を吐いて、凛は隅に脱ぎ捨てた上着を拾う。

ちょうどよいタイミングだから自らも切り上げるとつかさが云うので、二人で一緒に第一女子寮のある笹塚へ帰ることにした。


つかさの準備を待って、帰りしなに第一課フロアへ顔を出すと、Pが妙に元気な状態で仕事を再開していた。

眼窩は窪み頬は痩けているのに何故か爽快な笑みを浮かべ、「俺は全知全能の神になった」などと云い溌溂としながら猛烈に書類と格闘している。

「やっぱりコカインとか出所不明の薬物でも入ってるんじゃないの、あの飲み物……」

凛がぼそりと独り言を洩らした。Pが人影に気づいて振り返る。

「おお二人か、おつかれ」

「おつかれさま。起きたんだ?」

「ああ。あのスタドリ、凛がくれたんだな? ありがとう、おかげで調子が上がってきたよ」

「嘘。ゾンビみたいな顔してるよ。まあ、差し入れした自分が云うのもなんだけどさ」

左腕で力こぶを作るPに、凛は渋い表情をした。

「そうか? まあ今は休んでもいられない追い込み時だしな。でもスタドリのおかげで元気になる! 疲労がポンですわ!」

絶対に非合法薬物が入っているとみて間違いない。今度ちひろに中身は一体どうなっているのか訊かなければ、と凛は決意を新たにした。

「それパンドラの箱を開けそうじゃね? アタシはパス」

つかさが凛に耳打ちするのを、Pは不思議そうに見る。

「ん? どうかしたか?」

「ううん、なんでもない。私たちはもう上がろうと思って。スタジオフロアには誰もいないから施錠しといたよ」

「おーそりゃサンキュ。二人ともこんな遅くまで練習してたのか」

Pが時計に顔を向けて、まもなく日付が変わろうかと云う現在時刻をようやく認識した。

「寮まで送ろう。車を回してくるから、地下で待っといて」

「ううん、いいよ。電車で帰るから大丈夫。プロデューサーはとにかく早く仕事を終わらせなきゃ。何が一番重要なのか、プロデューサーならわかるでしょ」

凛が手を左右に振った。

「そう。お前の隠れた努力、アタシはちゃんとわかってるし。お前の“担当アイドル”たちなんだから、やるべきことの邪魔はしねーよ」

二人微笑んで労い、Pの申し出を固辞して鉄道で退勤すべく社屋を出た。

麻布十番から笹塚まで車で移動するとなるとだいぶ長丁場となる。

それに時間を割くくらいだったら、その分早く書類をやっつけて休んでほしいと思うのは、凛とつかさ二人共通の認識だった。

『プロデューサー、相当キツそうだね、あの様子じゃ』

『だな。今度まゆにでも訊いて、アイツの好きなコーヒーの銘柄とかアロマとかリサーチしてくるわ』

終電を間近に控えたこの時間帯の都営地下鉄は人が多い。

お喋りをして周りに存在がバレないよう、目の前にいる者同士でビジネスチャット―Slack―を使ったコミュニケーションが繰り広げられる。

かつてギャル社長と呼ばれたつかさの文字入力はとてつもなく速かった。


今日はここまで

佐久間まゆ
https://i.imgur.com/OpG5al3.jpg

八神マキノ
https://i.imgur.com/EVx7eCM.jpg


・・・・・・

満員のドームに、黄色い歓声と野太いそれが混ざり合ってこだましている。

驚異的な早さでライブツアーの告知がなされたのは、ツクヨミの発表から2ヶ月あまり。

それから更に1ヶ月かけて怒濤のアルバムリリースで機運を盛り上げた結果、レコード売り上げの上位には軒並みツクヨミが顔を出していた。

R.G.Pが唯一の例外として立ちはだかっているものの、ランキングから外患をほぼ駆逐すると云う、防波堤の役割をしっかり演じられている。

破竹の勢いと活動密度は、この間に迎えた凛の23歳の誕生日を覆い、霞ませるほど。

そして今、東名阪ツアーが、ここ大阪ドームを皮切りに開催されむとしていた。

小規模な会場からのステップアップではなく、初っ端から三大ドームツアー。業界が一丸となった肝煎りゆえに可能なことだ。

更には最大手広告代理店である伝通やゲームカルチャーの雄である磐梯南無粉、マスメディアからはフジツボテレビなどとのタッグもあり、三大ドームの全日程全席を瞬殺する売り上げを見せた。

一部には、ここまでお膳立てが整っているプロジェクトへ冷ややかな声もあったが、料亭での高級懐石やレストランでのフルコースディナーを嫌いな人間はそうそういないものだ。

たとえ大きなバックアップがあろうとて、観客の期待以上のパフォーマンスをしっかり魅せればよいだけの話であって、今日、それができれば、プロジェクトの第一段階は完了する。

アイドルたちは、スモークの焚かれたステージの下で、客以上に今か今かと出番を待ちきれない様子だ。

「壮大な計画の第一歩目、やっぱり掴みは大事だよね。みんなの度肝を抜いてあげよう。私たちならできるよ」

円状に集合したメンバーが右手を伸ばし、共同リーダーの一、凛が勝気な笑みを浮かべて云った。

いつしか凛は、錚々たるメンバーにも物怖じしない振る舞いができるようになっていた。

「あぁ。アイドルと云う言葉は今日、新たな次元へと昇華することになる」

もう片方の共同リーダー、北斗がキザな言い種をしつつ、スタッフからの開演指示を受けて喝を入れる。

「よし、いくぞ!」

「応!」

全員が、伸ばした右手を同時に上へ振り上げた。隣同士でハイタッチをして、衣装の左胸にあしらわれた印へ拳を添える。

横長の長方形を対角線で分割し、上から時計回りに黄、青、赤、黒で塗られた意匠はZ旗と呼ばれるものだ。

Z――つまり“後がない”と云うところから日露戦争の際に「皇國ノ興廃此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」の意味が付与された旗。

期待を一身に背負って今まさに“出陣”する彼女らを鼓舞するに最も相応しい。

開場後から鳴っていたBGMの音量と照明の光量が絞られてゆき、それと反比例してオーディエンスの歓声は大きくなる。

静かなイントロがBGMとクロスフェードして、ついにステージの開始だ。

ベルのようなシンセサイザーや、落ち着いたクリーンギターの澄んだ音色に噛まされたフィルターが開いてゆく。

連動してアイドルたちが奈落からステージへと迫り上がり、暗闇に慣れた眼がメンバーを捉えた瞬間、まるで怒号のような喝采が響き渡る。観客の叫び声も、曲を構成する要素となる。

じっくりとイントロで慣らしてから、一転、煌々と灯り鋭く激しい攻撃的な音が場を支配した。ブロステップと呼ばれるジャンルの曲だ。

見目麗しいアイドルから発せられるドリルの如き鋭利な音波が、ドーム内にいる全員の鼓膜そして脳味噌を侵す。

耳から摂取するハードドラッグとも形容できるそれは、耐性のない大勢の観客をキメさせ、或る者は脳汁を垂れ流し、また或る者は立ちながらにしてオルガスムスを迎えていた。

――アイドルに殺される。

ステージに釘付けの皆が、開演してからわずかな時間しか経っていないながらも本能で察知した。

ブロステップからアイドルソングで胸をときめかせ、アシッドジャズやフュージョンでクールなオトナの時間を味わい、ハードロックで再びブチ上げる。

幅広いラインナップを取り揃えたプレイリストに、アリーナもスタンドも全てが酔いしれる。

激しい動きと、それでもぶれない演奏技術。

四肢の指先まで魂の宿った艶美なダンス。

華やかな衣装に包まれて、誰もが夢見るアイドルの輝きを全身から放つ。

更には、ジャパニーズアイドルシーンの威信をかけたツクヨミなればこそ、各社から異例のバックアップを受け、曲ごとに各事務所の所属アイドルがサポートメンバーとして入れ替わり立ち替わりバックダンスを華やかに彩った。

視界の端には、関係者席に招待した京都アリスの生徒たちが映る。

結局、ツクヨミのメンバー全員で京都まで特訓合宿に赴いた。その成果が、本日のこのステージだ。

教えを請うた人々に、プロフェッショナルの意地と髄を見せつける。

「恩返しができたかな、“先生”たち」

凛が不敵に笑んで、独り言つ。

その表情をカメラが射抜き、スクリーンへと大きく映し出されることで、会場の全員が改めてトップアイドルと恋に落ちてゆく。

これはまさに洗脳だ。

最前線の彼女は、大阪ドームを埋め尽くすペンライトの向こうに、未来を視た気がした。


・・・・・・

「おつかれさまでーす!」

夜の心斎橋に、歓喜の乾杯音が響く。

喧騒の賑わう道頓堀は戎橋、そこからほど近いにも拘わらず、この地にはひっそりと佇むお洒落なレストランが数多い。

大阪公演の成功を祝して、貸し切りでの打ち上げが催されていた。

ドームライブの盛況ぶりはインターネットメディアの速報ですでに全国へ伝えられており、このあと日付が変わる頃には地上波での芸能ニュースにも流れることだろう。

防衛戦略の初手が無事に成功したことは、ツクヨミへ出資しているレーベルや国内マスメディアに安心感を与えた。

テレビ局や放送各社、ツニーミュージックや日本最古のレコード会社ジヤパン哥倫―コロム―、果ては個々のアイドルと協賛契約をしている各企業などのトップが直々にメンバーへ慰労の電話を寄越してきたのがその証左だ。

「今夜はそっちに送ってあるものと同じワインで、取締役の面々と祝杯を挙げるよ」

とは凛のスポンサー四菱財閥会長の言である。

中央のテーブルには、わざわざ赤い菱形が刻印された大仰なケースに1990年のロマネコンティが1ダース鎮座していて、合計価格は優に5000万を凌ぐはずだった。

これにはさすがの凛も当惑を禁じ得なかった。

印税だの契約金だので億と云う額も身近になっていた彼女でさえ、一夜の宴会のために4桁もの人数の福澤諭吉をポンと出す金銭感覚ではない。

日本最大のコングロマリットの威力をまざまざと見せつけられつつ、それでも飲まねば損とばかりに関係者全員が群がっている。

凛もグラスになみなみと注がれた深紅のそれを受け取って一口、二口と呷った。

高級赤ワインのイメージにありがちなフルボディの濃厚かつ重い味を想定していたのに、意外にもすっきりと喉を通ってゆき、特徴的な残り香が鼻腔をくすぐる。

美味しいけど生搾りのサワーの方がいいな……

と折角の贈り物に対して多少失礼な感想を思い浮かべていると、隣に「おつかれです」と栗栖が腰を下ろした。

「渋谷さん、ロマネコンティ進んでないね」

「うん、まあ……」

視線を赤い水面に落として言葉を濁す。

「――なんか気負いの方が先に来ちゃって」

「だよねえ、ビールとかチューハイの方がいいよね」

味わうことなくソッコーで飲み干して終わりにしてしまった、と栗栖が云うので二人肩を揺らす。

「ほんと。ま、こう云うのは年寄り組やプロデューサーたちに任せちゃおうかな」

そう云って凛はPを手招き、半分ほどのワインと極微かに口紅の跡が残ったグラスを押し付けてから、カクテルの入ったシャンパングラスを手に取った。

ミモザと呼ばれる、シャンパーニュとオレンジジュースをステアしたそのカクテルはとても飲みやすく、これはこれでペースを誤ると大変なことになりそうだ。

「ふう、おいしい。成人してそんなに経ってない私なんかにはこれくらいが丁度いいよ。普段からそんなに飲まないし」

お酒は嫌いじゃないんだけどね、と凛は苦笑した。

「あーわかる。日々の詰まったスケジュールを考えるとおいそれと飲めないから」

栗栖が腕を組んでうんうんと頷く。

その向こうからは、凛の“残飯処理”含め大量のアルコールが入り気分の大きくなったPが、熱くアイドルの将来展望について語っている声が聞こえてくる。だいぶ酔っている様子だ。

疲労の溜まっている身体にいきなりワインを浴びるほど注ぎ込んでは然もありなむ。

人前に出ることが仕事の凛たちには、あのような飲み方はできなかった。

「渋谷さんさえよければ今度予定が合ったら飲みましょ。美味しいサイドカーを出してくれる行きつけがあるんで。俺の古い友人の店なんだけど」

「……うわ、サイテー」

凛は誘いの言葉を穿った見方で受け取って、しばし考えてから答えた。

サイドカーと云うブランデーベースのカクテルは、度数が高いわりにとても飲みやすく、レディキラー――つまり女を酔い潰して持ち帰る――の異名を持つ。

無論、普遍的な美味さのカクテルゆえの風評被害でもあるのだが。

「バレたか。って違う違うそういう意味じゃないですって」

栗栖は律儀にノッてから大きく手を振って否定した。もしかしたら彼は関西出身なのか、あるいは親族に関西の人間がいるのかもしれない。

サイドカーは非常にシンプルなレシピのため、バーテンダーの腕や特色がよく顕れる。

初めてのバーへ行ったらまずサイドカーを頼めと云う格言も存在する。このカクテルが美味い店は他のメニューもレベルが高い。

「お酒、好きなんだね」

「いやー俺もまだ酒が飲めるようになってから長いわけじゃないし、まだまだ暗中模索してる感じで」

と、ウーロン茶の入ったグラスへ腕を伸ばす。

「でも俺はこの後また少し練習するから控えておかないと」

「えっ、これから?」

凛は驚きに目を大きくした。

「うん。渋谷さんだから判ってると思うけど、俺一回ミスタッチしちゃったんで。
自分とのセッションのとき、渋谷さんは譜面から外してこっちに合わせてくれましたよね」

「あ、わかっちゃった?」

「そりゃあね。面目次第もない」

栗栖は肩を少しだけ竦めて、こめかみを掻いた。

「でも渋谷さんがこっちに添ってくれてすぐ復帰できた。感謝してます。ぶっちゃけ純より演りやすいよ、渋谷さんの方が」

TOCIOのサポートで忙しい純に代わってSATURNへ加入してくれと冗談を飛ばす。

地獄耳に聞きつけたPが血相を変えて止めに入るのを見て、凛はお腹を抱えて笑った。

女所帯のCGプロだけでは味わうことができなかったであろう雰囲気の宴も酣―たけなわ―、お偉いさんたちの相手はPや酒好きのメンバーにでも任せて、練習に付き合うべく一足早く切り上げることにした。

美味しいアルコールの入った器よりも、コンコードを触っている方が彼女の性には合っていた。


今日はここまで

あの……Z旗揚げた軍艦は



すべて爆沈の経験があるんですが……

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・・・・・・・・・・・・


渋谷駅西口ターミナルは、相も変わらぬ人混みと、乗合バスやタクシー、更に周囲から浮いた警戒色の建設機械が入り交じっている。

大幅な再開発が進行する当駅周辺は、1日たりとて同じ表情を維持することはなく、常に雑然と慌ただしい。

日本語ではない声量の大きな会話。おそらく大陸からの観光客だろう。

必要性が疑問に思えるほど過剰な構内案内アナウンス。狭い空間に反響して聞きにくく、むしろ逆効果だ。

屋外広告が誰へ宛てるでもなく垂れ流す宣伝。シャカシャカと軽薄な音質で、行き交う人々に存在を認識されていない。

メルセデスの吹かすマフラー音とグリップに耐え切れず鳴くタイヤ。しかし超過密都市の中、速く走ることはきっと叶わない。

それら環境ノイズの洪水に加えて、何よりも土木現場の生み出す極めて騒々しい雑音が鼓膜をこれでもかと叩く。

京王マークシティから歩み出た瞬間に、凛はその端整な相貌を少しだけ歪めた。

ヒートアイランド現象のみならず、人海の体温と大型重機の吐き出す排気ガスなどが混ざり合って、都市の臭いを包含した熱風が淀み、タールの如く身体に纏わりついてくるのだ。

振り返れば、頭上には銀座線の黄色い車輛が高架をゆったり通り抜けている。

決して勾配を上ってきたわけではない“地下鉄”であるはずのそれが空中を回遊し、或いはどこを見ても急坂だらけの地理条件が、
ここが渋谷と云う字面通りの谷底にあることを――焼かれた空気の逃げ道がないことを意識させる。

暦の上では秋だと云っても世間はまだ「夏休み」だし、そんな言葉遊び以前に、ガスバーナーで炙られるように突き刺さる日射は真夏のそれでしかなかった。

ロータリーに面した銀行の入口から冷気が一瞬だけ漂ってきて、暑さで麻痺した肌に生を実感させる。

たぶん焦がしプリンはこんな気分なのかも知れない、と思った。

国道246号玉川通りを歩道橋で越え、山手線の長いガードをくぐると、右手に竣工間近のビルが空へ高く伸びている。

5年前に地下化された東横線渋谷駅の跡地を利用したものだと云うが、往時の姿がどんなものだったのか、早くも記憶の砂時計の下へ埋もれてしまった。

ツクヨミの快進撃に伴い、やらなければならないことが格段に増えたので、些末な記憶に脳の容積を一々割いておく余裕が、もはやないのだ。

つい先日迎えた自身の23度目の誕生日でさえ、忙しさのあまり大して祝うこともなく過ぎ去った。

ただ23歳ともなれば、未成年の頃とは違って、誕生日は目出度さよりも年齢の数字が増える恐怖感の方が勝ってくる。

目の回るほどの多忙さが、凛本人としては却って好ましい状況ではあった。

閑散とした、しかしそれでいて工事車両がひっきりなしに行き交う裏道を線路沿いにしばらく進むと、いきなり人の密度が上がる。

埼京線の新南口が置かれているここは、明治18年開業初代の渋谷駅があった場所だと云う。

自らの苗字と同じ地ゆえ、街の由緒を色々と調べたことがある。

歴史の足跡の面白さと云うものが、歳を重ねてわかるようになってきた。

最近では、NHKの、タモリが何気ない土地をブラブラと歩いて過去に思い馳せる番組を観るのが密かな愉しみだった。

さながらアンドロイド製造工場の如く出口から吐き出され続ける人波を縫って突破すれば、目的地は間もなく姿を現すはずだ。

「おっ、おはよう」

群衆の中から、明らかに自分へ宛てたとみられる声がした。

ラッシュの流れの中で、栗栖が手を軽く挙げている。

「おつかれさま。電車通勤なんだ?」

てっきり車での送迎だと思ってた、と凛が足早に寄ると、栗栖は首を振って「俺ら若手なんていつも電車だよ」と笑った。

そう、トップアイドルとて、よっぽど直行手段がない場合を除き、専ら鉄道が移動方法なのだ。

年功序列の側面もあるし、定時性が高いのも理由の一つ。

その二言三言のやりとりだけで、もうビルの玄関が視程内に入る。

見上げてから「ふう、遠かった」とため息を漏らす。

「朝から随分疲れてないか?」

栗栖は首を傾げるが、

「京王から来たからね」

「あぁ……」

凛の端的な説明にぎらつく空を見上げて、そりゃ大移動だ、と同情の声を上げる。

京王渋谷駅マークシティは、凛がいま仰いでいるジョニーズビルから、街道や線路を挟んでほぼ点対称の位置にあって、およそ15分かけての徒歩移動を要した。

笹塚からならば、こんな面倒くさいアクセスなどせず、新宿を経由して埼京線に乗ってくれば済むのだが――

痴漢が頻発する不名誉な路線は、混む時間帯には利用しないようPから懇願されている。

「新宿なら通り道だし、朝イチでジョニーズに来るときは俺がエスコートしようか?」

「それは魅力的な提案だね。……でも流石に朝二人で満員電車に揺られているとあらぬ噂を立てられそう、かな。ラッシュ時は人の目が多いから」

「あーそれもそうか……ボツだな。ま、俺に協力できることがあったら何でも云ってよ」

妙案が浮かばないことを誤魔化すように栗栖がこめかみを掻いた。

無論それは彼のせいではなく、トップアイドルと云う立場同士の哀しさゆえであることが判っている凛は「うん、ありがと」と軽く頷いて、二人一緒にビルのスタジオへと入っていった。

今日はメンバーの都合から、栗栖、麗、凛だけのレッスンだった。


「――って云うやり取りがあってさ」

早朝のセッション練習からラジオ収録、雑誌撮影などの仕事をこなして、太陽がすっかり店仕舞いした時分に、第一課のソファへ凛が身を預ける。

革が摩擦で鳴って、腿や臀部をひんやり包み込む感覚が気持ちよい。ミドルヒールのレースアップパンプスを脱いで足を揺らした。

「さすがに今の時期、京王から新南口まで歩くのは酷だと思わない? 肌もダメージ受けちゃうよ、いくら日焼け止め塗ったって」

凛の柔らかな抗議にPは腕を組んで「うーん、云わんとすることはわかるんだがなあ」と考え込んだ。

椅子を回し、パソコンから凛の方へ向き直って息を吐く。

「やっぱ凛くらい美人になるとさ、万が一にでも痴漢被害を受けやしないかと気を揉んで仕方ないんだよ」

曰く、奴等が重視するのは身体偏差値、つまり姿形のバランスなのだそうだ。

頭頂から頭髪を経て上半身そして下半身へと至る色香、顔は見えないけど振り向いたらきっと美人に違いない、そう思わせる造形美こそが神聖な触れるべき対象に選定されるのだと云う。

確かに凛は、いつどこで誰にどのような手段で見られても恥ずかしくないようにプロポーションを維持してきた――いや、思春期の頃から理想のカラダを目指して鍛え上げてきた自負があった。

その上さらに帽子や伊達眼鏡でも隠し切れない顔面偏差値の高さを一瞬でもちらりと視界に入れれば、狩猟対象としてロックオンだ。

Pが人差し指で凛を3回指して「インカミン・ミッソー」とぼやく。

たまにづけづけと「可愛い」だの「美人」だの正面切って云ってくるのは本当に人誑しだと、凛は思った。

そうでもなければプロデューサーは果たして務まらないのだろう。

「だがまあ毎日そのルートを使うわけじゃないし、例えば湘南新宿のグリーン車を使うとかなら或いは……」

視線を上下左右に動かして、グリーンだと人が少ないから凛が乗ってるって気付かれやすいか、などと自己問答している。

「うーむ、もしかしたら乃木坂の新社屋の方へレッスン場も移転する可能性があるし、そうじゃなくてもCGプロ―ウチ―を基幹スタジオにできないか今度訊いてみる」

「わかった。ありがと」

最善ではないが現状で出せる最適解をPから聞いて、凛は靴を再度履いた。これから日付が変わる頃までつかさとのレッスンだ。

ツクヨミに割く時間が多いとは云え、普段のアイドル活動も並行してきちんとある。ベキリが次回リリースする新曲の習得を進めなければならない。

立ち上がり「行ってくるね」と鞄を手に取る。

第一課スペースを出ていこうとする凛の背中にPが労う。

「おう。今日は午前もレッスンがあったのに大変だと思うが頑張ってくれ。あと――」

振り返った瞳を見て、一瞬置いた。

「……ベーシストとギタリスト、ツクヨミの中では絡む機会が一番多いだろうけど、相手はジョニーズだから。くれぐれもスキャンダルには気をつけろよ」

「わかってる。だからこそエスコートの申し出を辞退したわけだし、向こうだって充分認識してると思うよ」

眼を閉じ、口許に笑みを浮かべてから、艶やかな靴音を遺していった。


・・・・・・

乃木坂の袂―たもと―には、鉛白の如く明るい輝きを放つ鳥居が鎮座していて、それをくぐると右手に乃木神社境内への石畳が続き、左手にはこぢんまりとした公園がある。

坂や陸橋に囲まれ3次元方向へ広がる周辺地理の影響で、2階建てのような構造となっているこの乃木公園。

中心には見事な桜の大木が植わっていて、蓋の役割を果たすことで、特に下層側の広場は全方向から包まれた印象を受ける。

夜にもなれば、ここが外苑東通り沿いだとは思えない静かさ。天然のゆりかごと形容するに不足ないこの場所を、凛は気に入っていた。

ツクヨミのメインレッスン場が乃木坂へと移されたのはあれからすぐのことだ。

直行直帰もCGプロへのアクセスも楽になったし、ビル地下にあるツニーミュージックスタジオと連携がとりやすくなると云う副効果もあった。

日付を越えてもなお人でごった返す渋谷と違って、陽が沈めばここ一帯は落ち着くので、遅くまで乃木坂スタジオに用事がある日など、凛はよく乃木公園で息抜きをするようになった。

気温はまだまだ高止まりなものの、秋の陽はつるべ落としとよく云う通りに、7時前には没する。

「今度、散歩に連れてきたいな」

実家の愛犬に思い馳せ、ベンチから薄暮の空を見上げて呟いた。

ここしばらく多忙を極め、休日はおろか正月さえもなく、生花店を営む実家へは顔を出せていない。

人間の年齢に換算すればそろそろ還暦の頃合だから、アイドル稼業の慌ただしさにかまけて後悔することのないようにしたいものだ。

目を瞑れば、この誰にも邪魔されないオアシスで戯れる様子がはっきりと浮かぶ。

その辺の草花をくんくんと嗅いだり、上層側との連絡階段をぴょんぴょんと跳ねたり。

「あー……ハナコと遊びたい……」

ホームシックならぬドッグシックに陥り、長い嘆息の混じった願望を吐き出す。

「――誰それ?」

つと、自らの独言へ反応する言葉が投げ掛けられた。

凛は不意のことに無防備で、驚きのあまり瞠目し木製の椅子の上で身体が跳ねた。

挙動不審者よろしく辺りを見渡すと、公園入口から3メートルほどのところに栗栖がいて、驚かせちゃったみたいで御免、と右手を軽く挙げている。

「……はしたないところを見せちゃった」

凛は俯いて、いそいそと居住まいを正す。

顔の内側から湧き出る熱がはっきりと実感でき、自ら火傷をしてしまいそうな錯覚を持った。

「よく私がここにいるって判ったね」

「や、実は渋谷さんを追ってきたって云う訳ではなくてね。ここは俺のお気に入りなんだ。居心地がいいからたまに来る」

栗栖は音もなく寄り、「隣、いいかい?」と訊く。

凛の首肯を得てから、羽根が舞い落ちるかのようにふわりと腰掛けた。洗練された所作だった。

「まるで忍者みたい」

意地の悪い登場をしたことへの当て付けに、凛は自らの隙を棚に上げてツンと顔を背けた。

「剣道やってたからね、ドタバタ歩かないのさ」

栗栖がくつくつ肩を揺らすので、「初耳だね」と云いながら肘で小突く。

「だからって、びっくりさせてくれなくてもいいのに」

「ごめんごめん。ガキの頃から音を出さないのが身に染み付いているんだよ。親父は弓道でお袋は茶道だし、静かに動くのが普通だった」

アイドルをやっている割に――と云うと明らかな偏見になるが、意外と栗栖はいいとこの出らしい。

凛は、彼に抱いていた微かな違和感の出処が判った気がした。同年代なのに、妙に落ち着いた物腰だと感じていたのだ。

それこそ、昨年「三十路に突入してしまった」と鬱になっていたPと口調も雰囲気も似ていて、随分と話しやすい。その理由のひとつがこれなのだろう。

良くも悪くも放任な凛の両親と違って厳格そうな家なのに、よく芸能界なんて魔窟入りすることを赦してくれたものだと思う。

「――で、ハナコがどうしたって?」

栗栖の屈託なく笑う表情を見て牙を抜かれた凛はそれ以上抗議できず、口惜しさを紛らわすように話題を無理矢理戻して問うた。

「あ、そうそう、それ。花子って誰? 妹さんとか?」

栗栖は気づいたように手を打って、やや見当違いな質問を寄越した。

しかし決して莫迦にした物云いではなく、クールなトップアイドルが「遊びたい」と洩らした相手のことが純粋に気になっている様子だ。

凛は、世間から――業界内でさえ――一種の孤高さを以て見られる傾向があったし、それを売りにするのも悪くはないと思っている。

なので、自らの人となりについて訊かれる機会はそう多くない。

栗栖のピュアな好奇心は、新鮮に感じられた。

「ううん、妹じゃなくって、犬だよ。実家で飼ってるの」

さすがに花子は人名としては古風すぎるでしょ、と笑うと、栗栖も「違いない」と苦笑する。

「ミニチュアダックスフントとヨークシャーテリアのミックスでさ、花屋だからハナコってね」

「……え、マジで。その組み合わせもう絶対可愛いのが決まりきってるじゃないか」

「うん、世界で一番可愛いよ。お利口さんだしね」

栗栖が目を輝かせて食いついたので凛はやや意外に思った。どちらかと云えばレトリバーなどの大型犬の方が好きそうな印象があったからだ。

自らの腕の中で尻尾を振るさまを思い出し、目を軽く閉じて微笑む。

それにしても――と一息置いて、

「そんなにアグレッシブな反応があるとは思わなかった。犬、好きなの?」

「そうだなあ。小さいころから飼いたかったんだけど許可が出なくてね。犬のいる生活にだいぶ憧れがある」

肩を竦めて、今は多忙で命を預かれる状態ではないし、と短い息を吐く。

ちらりと、家の事情が垣間見えた。猶のことアイドルになった経緯が気に掛かるが、無論センシティブな詮索は憚られるのでやめた。

いづれにせよ、犬好きに悪い人間はいない。

「今度機会があれば散歩連れてってみる? ハナコ、誰にでもすぐ懐くからさ」

「うわー最高。マジでいいの? 田嶋さんに頼んでスケ絶対調整するわ」

場所柄あまり大きな声は出せない代わり、喜びの大きさを表わすように、胸の前で両腕に力を入れて、すっくと立ち上がる。

「こりゃ俺も何か気合入れたお礼しないと釣り合わないな……」

栗栖がこめかみを掻きながら真剣な思案顔をするので、凛は「別にそんなのいいよ」と笑った。

「もし気が済まないんだったら、お母さんに色紙の1枚くらい書いてくれれば嬉しいかな。
昔からジョニーズ好きだし、ここ最近はSATURNにお熱だからさ」

年甲斐もなく――と形容するのは不適切だ。今やジョニーズのメイン購買層はマダム世代が担っている。

「お廉―やす―い御用だ、何だったら色々なパターンで書くよ。チェキも撮ろうか?」

「いや……流石にそこまではしなくてもいいかな……」

栗栖の豪勢な提案には凛も苦笑を禁じ得ない。

腕時計を一瞥すると、束の間の息抜きもそろそろ魔法の切れる時間だった。

荷物を持って、栗栖の所作に引けを取らぬよう品良く立ち上がる。

「そろそろ行かなきゃ。私も最近実家に帰れてなかったし、この機会にちょっと時間作るよ」

淡青の伊達眼鏡と白いキャスケット帽を深く被り直してから、また連絡すると云って公園を後にした。

頭の中に入っているカレンダーをめくりつつPとも連絡を取り合って、半休の算段を練る。

ハナコに会いたい旨を伝えた瞬間に「よっしゃ任せとけ!」と勢いよく電話が切れた。

結局ちひろの助力もあって、調整が終わるまでに四半刻も要さなかった。

これで久しぶりにハナコの散歩へ行ける、そう思うと顔が綻ぶのを抑えられない。

「ふふっ、楽しみだな」

その夜、母親にチェキの件をインスタントメッセンジャーで訊いてみたところ、「撮りたい!」と怒濤の返信がきた。


今日はここまで


・・・・・・

視界の端で、青みがかった灰色のC-130J―スーパーハーキュリーズ―が腹に響くプロペラの音を四方へ撒きつつ上昇してゆく。

さながら荷物を背負った行商人みたく、ゆっくりとした足取りでやがて空へ溶け込んだ。

鈍重な輸送機とは対照的に、目の前ではハナコが歩道をちょこちょこと軽快な歩きで動き回るのだが、その国道沿いに並んでいるのは、異色の雰囲気を醸し出す商店ばかりだった。

色使いも建築様式も、果ては書かれている文字まで日本のものではない。

迷彩服やバックパックのほか大きな極彩色カトラリーが売られている横には星条旗がはためく。

他方では古いハリウッド映画を思い起こさせるネオン燈が存在感を主張したアイスクリームショップ、終戦後の息遣いを今に伝える日本初のアメリカンピザハウス。

そのどれもがドルでの支払いに対応し、道端には『REDUCE SPEED AHEAD―減速せよ―』と英語だけの標識が多数見える。

――極東指折りの米軍基地が置かれているこの街は、日本にいながらにして国外の空気を味わえる不思議なエリアである。

「ハナコ、そっちじゃないよ、こっち」

散歩に夢中でも決してはしゃぎ過ぎることはなく、凛が行き先を指し示すとしっかりその方向へ復帰できるほどハナコにとっては慣れた道だ。

でも、いつもと明確に違う点がひとつ。リードを持っているのが凛ではなかった。

「うお……ちっこい割に意外とパワフルだな」

しっかり保持してないと持ってかれる、と笑いながら翻弄されるのは誰あろう栗栖だ。

乃木公園でハナコが話題に上ってから10日ほど経った。

この日の昼前から夕方までが凛の予定をやりくりして空けられるタイミングで、栗栖も無理矢理半休をねじ込んだそうだ。

凛は栗栖のスケジュールに混乱を生じさせてはいないかと心配したが、曰く、レッスンの日取りを変えるだけで済んだから仕事に影響はないとのことで胸を撫で下ろした。

「お母さんのはしゃぎっぷりったらなかったね」

ハナコを目で追いながら、凛は小一時間ほど前の母親の様子を思い出して息を吐いた。

普段、娘のアイドル活動に対しては特段の反応を寄越さないのに、栗栖が顔を出すや否や、店を臨時休業にする勢いで舞い上がっていたのだ。

女としては気持ちが判らなくもないものの、同じアイドルとしては悔しさがある。

「一応こっちだってトップアイドルで、久しぶりの帰省なんだけどな」と云う小さな抗議にも「はいはいそうね、流石私の娘よね~~」とほぼ耳を貸さない。

これには狂喜乱舞の対象たる栗栖自身も苦笑いを禁じ得なかった。

「まあ、あれだけ喜んでくれたなら冥利に尽きるってもんさ」

ハナコに並び歩きつつ、先刻と同じ苦笑を伴って栗栖は云った。

「自分の母親ながら参ったよ」

頭を軽く押さえて呻く。

あろうことかチェキを額へ入れ家宝にすると云うので、飾るなら誰の目にも触れない場所へ、と釘を刺しておいた。

だが、それはきっと杞憂だろう。

凛は、大切なものは箪笥の奥へしっかり仕舞っておく性質だ。

4年前、アイドルの頂上―シンデレラガール―を掴み取った際にPから貰ったガラスの靴は、厳重に保管してある。

棚などに設えれば映えるのだろうが、「いいんだ」と静かに笑って首を横に振るのだ。

遺伝子の引継ぎ元である母親だってそのパターンで行動するに違いない。

「へえ。俺は何でも飾り立てちゃうから逆だな」

だから自室はモノが溢れ返ってるんだけど、と栗栖は肩を揺らした。

「私みたいに仕舞い込むんじゃなくて、大切なものが常に目に入るようにしとくのもいいとは思うよ。結構悩ましいんだよね」

「そうだなあ。ずっと飾ってたお気に入りのポスターが、飾っていたからこそ日に焼けちゃったりしてて。
曝さずに保管しておけばよかったと思うこともあるし、かといって箱から出さないと手に入れた意味がないし」

ギターならビンテージとか使い込むほどに熟成されていくんだけど――そう云って笑い、「ほら、あれみたいに」と路に面したガラスウィンドウを指差す。

そこは中古の楽器屋だった。

エレキギターの意匠に『ファイブシスターズ』と書かれた看板が掛かっていて、その隣の窓からはたくさんのギターやベースが所狭しと並んでいるのが見える。

そして、栗栖の視線が店から動かない。

「……気になる?」

しばらく様子を見ていた凛が笑いながら訊いた。

凝視は無意識だったのだろう、栗栖はハッと気付いて抜け出ていた魂を手繰り寄せた。

「正直、すんげぇ気になる」

「ふふっ、根っからのギタリストだね。いいよ、時間あるし寄っていこう」

そう云って凛はハナコを抱き上げ、ガラス戸を押して「おばちゃーん、こんにちは、お久しぶりです」と入ってゆく。

中ではやや老齢な女性の店主がゆったりと腰かけていた。

「あら凛ちゃん、ご無沙汰ね。元気してますか」

「お陰様で大分忙しく駆け回ってます。ちょっと今日は時間を作れたから知り合いを連れてきたんだ。ギタリストなの」

凛が後ろからついてきた人間を指で示すので、栗栖は「ど、どうも」と頭を下げた。

「――なに、顔馴染みなの?」

声のトーンを落として質問を寄越すので、凛は当然だと云うかのように頷いた。

「そりゃね、この辺は私の庭だし。ベースを弾くようになってからもう7年お世話になってるよ」

「なるほど、それもそうか」

腑に落ちたように手を叩いてから、雑多に陳列された一面のギターを見て「うわぁ……」と少年の顔をして息を吐く。

きょろきょろと見回すうちに、凛の肩越しに気になるものがあったようで「おっ」と独り言つ声が漏れる。

おばちゃんが聞き逃さなかった。

「あなた、これ気になりますか。よくわかりましたね、一本目にこれを見定めるなんて」

柔和に笑って、「どれでも好きに弾いていいですよ」と云うので、近くにいた凛が代わりに取った。

「あ、Eシリアルだこれ」

「マジかよ!?」

ネックの製造番号を見て呟くと、即座に栗栖が叫んだ。

「そう、フェンダージャパン、86年のフジゲン製です」

音の鳴りや本体の品質が高く、またコストパフォーマンスが優れていることから、中古市場で常に人気の高いシリーズだ。

試奏すると艶やかで伸びのある気持ちの良い音がした。それでいて破格に安い。

「あちらにはマツモクのもありますよ。そのEシリアルよりは少し高価ですけど、出音もいいです。
とはいえこの年代の日本製は本当によく出来ているので、どちらを選んでも幸せになれるわね」

フジゲンもマツモクも共に松本近郊のギター製造メーカーだ。正確に云えば、マツモクは今はもうない。

栗栖が2本目にマツモク製を試し弾きしながら頷く。「やべえわ、イイ音鳴るし何より弾きやすい」と感嘆の息を吐く。

「そうでしょう。その時代のものはネックが特に素晴らしくて。中でもマツモクのは最高級と云われていたものよ。いい木が使われています」

栗栖から「鳴らしてみる?」と渡されたので、凛は専門外ながらも絃を弾いてみた。

調律方法はギターもベースも同じだから、全く音を出せないわけではない。

「うわ。なんかすごく馴染む気がする。新しい楽器を持った時の違和感が全然ない」

凛は驚いた。自らのコンコードを演奏した時とほぼ変わらないフィーリングで指を運ぶことが可能だったのだ。

「それはきっと凛ちゃんの使っているアトランシアと源流が同じだからでしょうね。
あそこはマツモクの職人が独立して作った工房ですから。あのベースは本当にいいものですよ」

歴戦の猛者でさえも絶賛する楽器を、当時の何もわからない小娘だった自分に譲ったPの行動が、改めて型破りであることを凛は感じた。

これで凛がコンコードを活用する生活になっていなかったらどうしたのだろうか。

それともそんな可能性を微塵も考えず、ベーシストとして大成すると確信していたのだろうか。

「あなたは幸せ者ね、限界まで末永く使い倒しなさいな」とおばちゃんが優しい目をして商売っ気なく笑った。


「――勢いって怖いなぁ」

30分ほどのち、凛と栗栖は近くの公園のブランコにそれぞれ座っていた。

住宅街の裏道にひっそり佇む、典型的な地元の遊び場。

すぐ隣には線路が走っているが、間に木々が茂っているので列車の通過はあまり気にならない。

栗栖の右肩には、例のマツモクのギターが背負われ、「やあ」と語り掛けてくるかのようだった。

結局、試奏結果に惚れ込んだ栗栖が、その場で購入を決断し現金一括で自らのものとしたのだ。

「いいんじゃない? 清水の舞台から飛び降りるのって大事だと思うよ」

「だよな。これ、次のレコーディングから早速使おう」

とんでもない掘り出し物をゲットできた、と栗栖は顔を綻ばせた。まるで少年のようだった。

「ギターってさ、演奏家にとっての相棒じゃん? 共に歩む存在と云うかさ。
奏者である俺が上手く弾けなければいい音は出ないし、ギター自身の調子が悪くてもそう。
人馬一体にならなければ最高の結果をファンに届けられない」

値段の多寡ではなく、造りの真贋とそれによる相性の最大化こそが、特に動き回りながら演奏するアイドルバンドには欠かせないと云う。

「コイツをさっき弾いた刻、電気が走った。ギターを始めてから初めての感覚だったよ」

俺もまだまだだな、と栗栖は天を仰いだ。

凛には理解がやや難しかった。既に現在のコンコードが身体の一部みたいになっており、そう云う経験がないからだ。

返す返すも恵まれていたと凛は思った。

デビューシングルのジャケットデザインが楽器をフィーチャーするものでなかったなら、Pからベースを貰わなかったなら、そのベースが身体に合わなかったなら、今の自分はここにいない。

「ギターを始めたきっかけって何かあるの? こないだ、剣道をやってた、って云ってたでしょ。運動部の人ってあまりバンド活動する時間がなさそうなイメージがあるけど」

凛が問うと、栗栖はしばらく何も答えず、足のつま先だけでブランコを前後させた。錆びた鉄鎖が、動き始めに毎度キィキィと鳴る。

凛は先日の犬の話題の時のやり取りを思い出して、訊き方をしくじったと思った。

「御免、云いにくいならいいんだ」

「いや、どう説明したもんかと考えてただけさ」

謝罪の言葉に栗栖はすぐ反応して、フォローの言葉を入れる。

もうしばらくその状態が続いて、やおら大きく漕ぎ始めた。ブランコ全体が軋んだ。

「きっかけだけで云えば、最初は単なる反抗に過ぎなかったんだと思う。稽古サボってね」

何でもかんでも反権力が格好良いと錯覚する餓鬼な年頃さ――天を仰ぎながら、重力に任せ揺られ続けて云った。

「でも、いざ触ってみるとこれが面白いんだよな。それまで見てきた世界とは何もかもが違ったんだ」

和武道、和芸道が身近だったからこそ、西洋楽器のもたらす衝撃が大きかった。

「親父やお袋から口煩く云われていたのが厭になって、閉塞的な将来像しか描けない武道芸道じゃなくて、ギターに未来を視たわけだ。
ギターに出会うまでは、俺はただの空っぽの人形だったのさ」

「空っぽの人形……」

凛は、まるで自分のことのようだと思った。

好きなこともやりたいこともない、空虚だった中学時代。

高校に入って何かが変わるかと期待したのに、結局いつまでも似たような延長線上に時間が流れ続ける人生。

粋がってピアスを空けたところで、圧倒的なパワーで時間は何事もなく押し流してゆく。凛はあまりにも無力だった。

栗栖が言いなりの人形、凛が無味乾燥な人形と云う僅かな差異があるにせよ、どちらも心が空っぽなのは同じだ。

そんな諦めを抱いていた折、凛はスカウトされて、アイドルと云う熱い世界を知ってしまった。

栗栖はギターのおかげで仲間ができ、アイドルバンドとして民衆に夢を与える存在になれた。

漕いでいたブランコを足でザッと止めて、栗栖が凛へ顔を向ける。その双眸は輝いていた。

「ギターが、俺に新しいフロンティアを見せてくれたんだ」

トップアイドルと云う頂点で邂逅した二人は、ともにシンデレラだった。

「……私たち、境遇は違っても、根っこは同じだね」

凛は、膝の上に座るハナコを撫でながら、自らのスカウトの経緯を掻い摘んだ。

世の中を諦め、空っぽの人形だった15歳の凛が、アイドルの世界を知って、駆け上がってここにいることを。

栗栖は、凛は選ばれしアイドルだと思っていたらしく驚きを以て迎えた。

「そんなに苦労人だったのか……てっきりトップアイドルになるべくしてなったんだとばかり」

「とんでもない。そう云うのは蘭子とかのことを指すんだよ。私は、ただの灰被りが魔法使いに助けてもらってきただけ」

凛は妙に可笑しくなって、肩を揺らした。

凛の微かな笑い声に混じって、傍の生活道路から、下校途中であろう小学校低学年のはしゃぎ声が流れてきた。

間もなく時間切れ、公園を本来の主の手に戻す時が来たようだ。

栗栖が一息吐いてから、すっと腰を上げた。

ブランコから発せられた金属の擦れる音が、このジプシーとの別れを寂しがっているように聞こえた。

「名残惜しいけど、そろそろ行こうか。また渋谷さんの苦労話を聞かせて欲しいな」

「――凛」

「え?」

「周りの目を考えなくていい刻は、凛って呼んで。苗字にさん付けで呼ばれるの、落ち着かないから」

ハナコを膝から地面に降ろして、リードを手に立ち上がり、澄ました笑みで云った。

栗栖が2度頷くのを見てから、「さ、ハナコ、行こう」と促して帰路に就く。

あと1時間もすれば、元の慌ただしいスケジュールに戻る。

この魔法が解けなければいいのに、と凛は郷愁を覚えた。


・・・・・・

夜の乃木公園でのおしゃべりは、乃木坂スタジオでの合同レッスンの開催有無に関わらずされるようになった。

CGプロから2キロ弱、テレビ旭やブーブーエスからなら1キロほどしか距離がなく、収録後など何かの用事のついでにすぐ立ち寄れるのだ。

無論、栗栖もトップアイドルとして多忙だから、双方のタイミングが合うことは中々ないのだが、だからこそ逆に、タイミングが合えば積極的に集い合った。

とは云え長居もおいそれとできないし、話すことと云ったら世間話くらいなもので、やれギターが早速馴染んできただの、美味しいお店を発掘しただの、それこそ高校生の下校時の語らいのような内容だった。

それでも凛にとってはとても新鮮な感覚だった。

思春期に差し掛かって以降、お喋りの相手は事務所の同性ばかり。

このように歳の近い異性との談笑は、夜でありながらカシオペアの『ASAYAKE』がBGMに合致するような初めての経験だった。

強いて挙げればPは比較的歳の近い異性でこそあれ、感覚的には戦友だから甘酸っぱくはない。

凛は、アイドルの渋谷凛としてではなく、初めて、ただの女として異性に接したと云えよう。

凛には、一般的な青春の記憶が存在しない。

彼女自身、アイドルをしてきたことに誇りを持っているし、一般人を羨むと云うわけではないが、喪われた青春を追体験しているのだと思った。


「そうだ、これ、凛に」

ハナコとの散歩から2週間ほどが経った夜、栗栖がギターのソフトケースのポケットから小さな茶色の紙袋を寄越した。

「こないだハナコの散歩を体験させてくれたお礼」

「え、そんないいのに。お礼されるほどじゃないよ」

「いいから。それだけの経験をさせて貰ったんだ。受け取ってくれ。じゃないと俺の気が済まなくてさ」

家の環境から犬を飼うことへの憧れを叶えられなかった栗栖にとって、ハナコとのひと時は値千金だったのだと、恐縮する凛の手を取り袋を握らせた。

「……ありがと。開けても?」

「もちろん」と栗栖は両手で促す。

乾いた紙の音を引き連れて、月長石―ムーンストーン―をあしらったアクセサリが掌へ姿を現した。

ゴールドの細いチェーンが巻かれていて、長さ的にブレスレットのようだった。

人差し指にぶら下げると、石の内部から青白色の仄かな光沢が放出されているような印象を受けた。

「うわ、綺麗。これは……ムーンストーンかな」

凛は左手首に早速据えて掲げる。大きさはぴったりだった。

「ご名答。ツクヨミと掛けてみたんだ」

「ふふっ、洒落っ気あるね、栗栖は」

表や裏からぐるりと360度眺めて、美しさに嘆息する。

普段自分では買わないようなデザインのアクセサリだったので、表現の幅が拡がったのも嬉しい効果だった。

凛はそのまま、しばらくじっと石の柔らかな光を眺め続ける。

会話なく、どれほどの時間が経っただろうか。「ねえ」と石から目を離さずに栗栖へ問い掛ける。

そしてゆっくり振り向いて、静かに息を吸った。

「――これを選んだの、ツクヨミと掛けたことだけが理由なの?」

「……それを面と向かって訊くかなあ」

栗栖の、頬を掻きながらの返答は、凛の持つ思考が肯定されたことを意味していた。

月長石の石言葉、その代弁内容は『恋の予感』或いは『純粋な恋』。

別名を恋の石と呼称されるこの宝石を贈ると云う行為の真意はそこに在る。

凛は、胸の奥が暖かいような擽―くすぐ―ったいような甘さを覚えた。

ああ、たった一人に求めて貰うことってこんなに気持ちいいんだ。

この快美な感覚は、生まれて初めて知る味だった。

いっそ誘―いざな―いに身を任せて揺蕩―たゆた―いたい衝動に駆られたが、すんでの所で押し止め、安堵の一息を吐いた。

「……だけど、栗栖も私もアイドルだからね、どうしようか」

恋愛など御法度である。云うまでもない。

それでも、この胸の高鳴りは無理矢理圧し潰して閉じ込めておくのは到底難しいのも事実だった。

「もちろん、答えは今すぐ出す必要はないと思う。俺は、今夜のところはこの意思表示ができただけで充分さ」

晴れ晴れとした栗栖の言葉に、凛は何も云わずに微笑んで、ゆっくりと頷いた。


===





Hey You
https://www.youtube.com/watch?v=2MOvuBFF4_Q




――懐かしのスキャットマン特集、続いては95年12月リリースのナンバー、『Hey You』これは特に国外に於いて人気の高い曲で、スキャットマン・ジョンが過去の彼自身に向けて歌ったものとされ……

珍しく第一課の執務フロアにFMラジオが流れている。

パソコン内ジュークボックスに気分と合うアルバムが見当たらない時の、Pの代替手段だった。

凛はスピーカーが歌う楽曲に合わせて即興でベースを沿わせた。

楽譜を見るだけでは血肉にできないアドリブ力を鍛えるのに効果的なトレーニング法だ。

自らの音楽プレーヤーに入っている曲では、脳味噌が憶えてしまっているので効果がさほど期待できない。

どんなトラックがオンエアされるかわからないFM番組は、この練習手法にうってつけだった。

「やるじゃん。巧いもんだね」

つかさがニヤリと口角を上げて凛の演奏を見つめた。隣ではジュニがダンサブルなビートに合わせて身体が小さく揺れている。

Pチームのアイドルが第一課スペースに寄り集まっていた。
とは云え全員に招集が掛けられたわけではなく、たまたまレッスン前の谷間の時間が重なったのである。

意外にもテクノやダンスミュージックはスラップベースと相性が良い。

左手と右手が各々有機的に舞い、その複合が紡ぎ出す太い音のリズムが、つかさとジュニの――そして何より凛自身の聴覚神経を興奮させていた。

――メイク・アバウト・フェイス メイク・ア・ターナラウンド メイク・ア・ユータンナウ
――パララ ピッパッパロッピッパッパッパロッ ピッパッパロッピッパッパッパロッ……

サビを越えて、特徴的なスキャットがオーバーラップする。意味のない言葉の羅列なのに、すっと耳に入ってくるのはまるで魔法のようだった。

「つかさの云う通りだな、凛は随分と上達したもんだ――」

曲の前半が一段落したタイミングで、Pが自らの机から移動して、よっこいせと凛の向かいに腰を下ろす。

「プロのベーシストからも一目置かれる存在にまでなったもんな、そのコンコードも喜んでるよ」

凛は手許の指板を見ながら弾いていた視線をPに向けて、「プロデューサー、作業に詰まってサボり?」と笑った。

「小休憩だよ小休憩。稟議書地獄は精神が疲れて仕方ない」

凛の即興リサイタルで回復をするのだとPはソファに手足を放り投げた。

今『Hey You』は最も盛り上がる長い間奏の特別スキャットシーンに差し掛かっている。

凛はノリを上げて、ハイポジションで速弾きを繰り出した。

わざとキメ顔もするものだから、つかさが手を叩いて笑う。

「おーおーこりゃブラーバっしょ」

イタリア語の発音で称賛を投げ掛けると、ふと高速で左へ右へと反復する左手首に、青白色の石をあしらった見慣れないブレスレットが巻かれていることに気付いた。

「お、いいね。それ、ムーンストーンか」

「うん、綺麗で可愛いでしょ? お守りを兼ねてね」

「普段の凛からはちょっと違ったイメージの意匠だな。新開拓、グッドだね。一流は常にフロンティアスピリッツを持たねーとな」

つかさが腕を組んで「うんうん」と頷く。そのまま腕時計を見て、ゆっくり席を立った。

「よし、そろそろアタシらは行くわ。ダンスレッスンだし、早めに準備しとかないとな。行こう、ジュニ」

「わかった。凛、またね」

今日の課題は何だったっけ? ジャイブだよ、足技多いから楽しみ。うわーマジか、あれ絶対ヒールで靴擦れ起こすんだよな……。

ドアの向こうへ二人の会話が消えてゆく。

『Hey You』も間もなく曲が終わろうとしていた。

フェードアウトしてゆくアウトロは、スマトラ産のコーヒーの余韻を思わせる、ほろ苦さと清涼な喉越しだった。
それはまるで砂漠に降る小雨のようでもあった。

――Make about face, make a turn around, make a U-Turn now.

――ピッパッパロッピッパッパッパロッ ピッパッパロッピッパッパッパロッ……
――ヒア・イティズ…… ヒア・イッティズ…… ヘイ ヘイユー……

この後の凛はボイストレーニングだ。

凛はベースをケースに仕舞って、ちらりと目に入るブレスレットを撫でた。

「じゃ、私も行ってくる」

そう声を掛けると、Pは相変わらず手足を脱力させながら「おう、行っといで」とコクリと顎を引いた。

短いリサイタル休憩では回復しきれなかったのか、僅かに寂寥たる表情で「俺も稟議書やっつけるかぁ」と独り言つ。

この日のレッスンでは、最も歳が近いトレーナーの青木慶からも、新しいブレスレットを褒められた。


Pは手帖に挟んだ写真を眺めていた。

100平方センチあまりのカンバスの中で、人が二人、微笑んでいる。

手に持つそれは丁寧に扱われており、経年の割には綺麗な状態を維持してはいるものの、全体がくたびれたり縁に皺が生じてしまうのは避けられない。

それでもなお、額に飾るのではなく、いつでも胸ポケットに入れておきたかった。

見るからに着慣れていないと判るスーツ姿の自分の横に立っているのは、長身痩躯で、碧い眼と腰上まで伸びる黒い髪、感情は読みにくいが整った面立ちを持つ、今より僅かに幼さを感じる少女。

初めて出会い、初めて担当し、初めてデビューさせ、初めてCDを出した、Pにとっても会社にとっても初めてづくしのアイドルだった。

その少女が、これまたCGプロのアイドルとして初めて、心の底に眠っていた“オンナ”を認識し始めている。

あのブレスレットは凛が自分で買ったものではないと、Pは察していた。

凛はああ見えてだいぶ趣味が保守的だから、自分から進んで買うタイプのアクセサリには見えなかった。

何より、手首へちらちらと視線を送る所作や、撫でた際の無意識下の表情が、満更でもない相手からの贈り物であることを雄弁に物語っている。

さて、どうしたものか。

無論、アイドルとして色恋沙汰は回避して欲しいものだが――

しかし人として当然持ち得るその感情を没収してよいのだろうか。

ただでさえ一生に一度しかない10代の多感な年頃をアイドル活動で埋め尽くし、人並みの青春を謳歌する機会を奪い取ったと云うのに。

彼女は、芸能界の仕事は好きだと云っていたし、その生き様に誇りを持っているとも云っていた。

それでも、だからといって世の中を充分に知らぬ年端の少女の人生を代償とし、アイドルの輝きへと引き換えた負い目は消えないのだ。

プロデューサーと云う人間に刻まれた業。死んだらきっと地獄へ墜ちるのだろうと思う。

凛の希望は叶えてやりたい。

それこそが、渋谷凛担当プロデューサーとしてのけじめのつけ方だとPは考えていた。


今日はここまで

たんおつ



パパラッチの出番はそろそろかな?

つか、何故J型ハークを?よく見るの?(こちらは岐阜基地と小牧基地が近いです)

>>268
首都圏で、米軍基地があって、C-130Jがいるところ→ つまり横田近辺がこのシーンの舞台ってわけです。


・・・・・・

例年になく多い台風は、災害の中心地に選ばれると云う不運に見舞われさえしなければ、空をモップ掛けして去ってゆく掃除機なのだろう。

台風一過の東京は雲一つない快晴で、嵐の運んできた南風で気温は高いものの、湿度は低く過ごしやすい。

東日本に襲来した24号は各地の気象記録を塗り替えて、俊足で駆け抜けていった。

東京への到達は深夜で生活時間帯からは外れたが、昨夜は早いうちから公共交通の計画運休が実施され、泊りがけのロケが中止に追い込まれてしまった。

ゆえに丸一日たっぷりと棚から牡丹餅の休日である。

それでいて天気が良いのだから、ご機嫌麗しきこと甚だしいのは当然。

電車のドアが開けば、金属に遮られていた視界の拡がりと共に世界が輝いて見えるのだ。



「――え? 日帰りでツーリング?」

『そう、今日明日の収録がバラシになっちゃってさ、もし凛の時間があるならどうかなと思って。この分なら今夜中に天気回復しそうだし』

栗栖の声は、電波状態がやや悪いのか、少しくぐもって聞こえた。会話の向こう側から、風に揺らされた電線の鳴く音がしばしば聞こえてくる。

曰く、栗栖の方は東海方面での地方ロケがあったそうで、移動日程などを考慮すると根幹のリスケとなったらしい。

テレビをちらり見遣ると今まさに台風は愛知と岐阜にかけて我が物顔で闊歩している最中のようで、名古屋発の中継では大規模停電の情報などが洪水の如く流れてくる。

リスケは賢明の――と云うよりは当然の判断だ。

幸いか、夜が明けるまでには東北太平洋側へ抜け去る予測で、中継から天気予報へと画面が切り替わると、明日の天気は晴れマークがずらりと並んでいる。

「ちょうど私も泊りのロケがなくなったんだ。明日は久しぶりに何も予定の入らない日だよ」

凛の返答に『俺とほとんど同じ状況だな』と栗栖の声音が弾んだ。

「でも私、バイクなんて乗ったことないよ、もちろん免許だって。さっぱりわからないことだらけなんだけど……」

『そこは心配ないさ、タンデムだから凛は自転車と同じ感覚で大丈夫。丈夫な生地のロングパンツと、ヒールじゃなくてスニーカー系の靴を履いておいてくれればそれだけでいい』

何より、と軽く咳払いをする。

『ライダーの格好をしていれば二人で出歩いてもよもやアイドルと思われないし、走ってる最中なんて凝視されることもない。お忍びには最適なのさ』

「あぁ、なるほど。そうだね、ヘルメットも被るしね」

凛は自らがバイクに乗っているところを空想して頷いた。

二人で遊園地だとか温泉地などでは万一気付かれたときに到底言い訳できないだろう? と栗栖が茶化して云うので、凛は「たしかに」と相槌の苦笑をした。

どうやら、二人そろってのオフにできそうだ。

「うん、うん……わかった、じゃあ10時に――」



昨夜の会話を反芻すると、何故だか顔が綻んでしまう。

誤魔化しがてら、やや高くなった空を見上げて、集合場所に指定した駅舎前へ出る。

しんと停まっていた都営バスが、セルモーターの始動するソプラノに続いて重いエンジン音を歌いだした。

横目に歩く凛の背中にわずかな衝撃があり、何事かと振り向こうとすれば「失礼」と会釈を寄越しつつ閉まりかけた折り戸へサラリーマンが駆け込み、箱の中に消えていった。

エンジンの中で大きなビー玉でも転げ回っているのかと思えるほどゴロゴロ唸らせて走り去るそれを見遣り、ぶつかった相手がまさかアイドルだなんて想像だにしていないんだろうな、と柱に軽く寄り掛かる。

芸能人をやっていると認識が薄くなるきらいがあるが、世間の人は、自分が思っているほど他人など気に掛けていないのだ。

たとえそれが有名人であろうとも、変装をしていればただの有象無象と同じ。

その事実に、若干悔しい負けん気の思いもありつつ、どこか少しほっと安堵する気持ちもあって、凛は少しずれた白いハンチング帽の位置を手慰みにいじった。

ふと、駅前ロータリーに赤く鮮やかな二輪車が滑り込んでくるのが見えた。

サーキットで見かけるような、先端から中心部にかけて外殻で覆った造りの、シャープなシルエット。

凛の方を向いて片手を挙げるので、間違いなく待ち合わせの相手だ。

小走りで近寄ると、サイドスタンドを出して停め、ゆっくりと降りてくる。

体重から解放された車体が揺れ、VFRと書かれた銀色のエンブレムが太陽を反射して綺麗に光った。

栗栖がフルフェイスヘルメットの目元のシールドを上へ開ける。

「おはよう。ごめん、待ったか?」

「ううん、私も今ちょうど来たところだから」

使い古された定型句のやり取り。爆発すればいい。

凛は栗栖の足先から頭までまじまじと眺めた。

ライディングブーツやグローブ、ジャケット、そして何よりヘルメットという全身装備のせいで、栗栖だとは一見して判別できない。

「なんか、バイク乗る人ってみんな似た特殊な恰好だよね」

「車と違って生身を外に曝すわけだからね。
丈夫な長袖長ズボンは基本だし、身を守る装備をきちんと着ける真面目なライダーはどうしても見た目が似通ってくるもんさ」

「私……昨夜云われたパンツと靴以外は全然その辺を考えない服で来てるんだけど」

「それは問題ない。凛用の装備は俺が持ってきた。糠に漬けても抜かりないのが知多栗栖ってことよ」

ベキリの相棒の名口癖だよな――と云いながらバッグをごそごそ漁り、「はいこれ」とジャケットやグローブ、ヘルメットなどを寄越してくる。

肘当てに膝当て、髪の毛を纏めるヘアゴムまで用意がある。

伊達眼鏡や帽子を外し、代わりに頭部をすっぽり覆うヘルメットをかぶれば、中にはインカムがあって無線でスムーズに会話できる状態になっていた。

「準備良すぎなんだけど……これ、絶対に色々な女をバイクの後ろに乗せ慣れてるでしょ」

「云い掛かりだ! 凛を乗せたいなと思って準備したに決まってるだろう」

栗栖の必死の弁解に凛はジト目で応える。どう説明したものかあたふたするのをしばらく見て、「ふふっ、冗談だよ」と肩を揺らした。

説明の真偽のほどは果たして本人のみぞ知るところだが、仮にたとえ方便であったとしても、自らのために準備したと伝えられれば嬉しくなるのが女心と云うものだ。

ああ、この人は自分の時間を私のために使ってくれたんだ、と。

バイクのバックミラーを覗き込むと、そこにはすっかりライダー装備となった凛が映り込む。

栗栖と並べば、中身はまるで誰だかわからない、ただのペアツアラーだった。

「ホントこれ、お忍びには持ってこいだね。私が渋谷凛だなんて誰も思わないよ」

腕を組んで満足そうに頷く。

「ところで、今日はどこへ行くの? なんかとても速そうなバイクだけど」

赤い車体を撫でながら凛が問うた。

「今日は山も海も堪能できるところへ行こうかと思ってる。
コイツは見た目レーシーだけど実は二人で乗りやすいツアラーなんだ。サーキットだけじゃなくて色々なところへ行ける」

白バイにもよく使われてるから街中で見かける機会も多いと思う、と栗栖は付け加えた。

「ふぅん、山も海もなんて贅沢な欲張りコースだね。詳しい内容は聞かないでおくよ、楽しみにしてる」

任せとけ、と云って栗栖がVFRに跨った。

続いて凛が片側のタンデムステップに足を掛け、栗栖にレクチャーを受けつつするりと後席へ滑り乗る。

後ろに座る心得のいろはを教わってから、「よし、じゃあ行こうか」と云う栗栖に頷く。

頭の重心が高くなっているせいで、凛のヘルメットが勢い余って栗栖の背中を殴りつけた。

エンジンイグニッションの咆哮と二人の大きな笑いが混じり合い、それらを取り残すようなスムーズさでロータリーをするする抜け出てゆく。

そこには新しい世界が拡がっていた。

眼、耳、鼻、肌――凛の感覚器すべてにダイレクトな信号が送られてくる。

路の真ん中を一人で自在に飛んでいるような視点は、まるで自分が世界の支配者になったかの如き自由さを覚え――

身体を擦るほどの圧力を持つ風には、普段意識しない空気の威力と、排気ガスと云う人類の匂いを実感する。

車速に応じて変化するエンジンの音と振動は、じきに風切り音へとオーバーラップしてゆく。

太古より馬に乗って移動してきた我々人類の遺伝子に刻まれた歓喜の脳内麻薬が、ドバドバと凛の全身を沸騰させている。

しばらく交通量の多い街道を走ると、VFRは「第三京浜」と書かれたインターチェンジへの進入路へ機体を振った。

一気に幅員の拡大した道路と、それまでの比ではない速さで瞬く間に後方へ過ぎ去ってゆく景色は、これまでの人生で全く未知の経験だった。

緑色の標識に書かれた地名が、順々に馴染みのないものへと変化してゆく。

これまで自動車から何度となく見ているはずのそれらが、箱の中から外に出ただけでこれほどまでに別物へと変わるのか。

「栗栖……すごいね、これ」

凛はため息を吐きながら、惚れ惚れとした声音で呟いた。

「バイクは単なる移動手段なだけじゃなくて、乗ることそのものが楽しみだし、目的なんだよな」

インカムのややノイジーな無線越しの会話も車では味わえない。

凛を包むすべての環境が楽しみを演出していた。

やがてインターチェンジを降りると山中を抜ける坂の多い道となる。

田舎の懐かしい空気を感じる風景を軽快に流す頃には、凛はすっかり後席での体重移動を身に着けていた。

「やっぱアイドルやってるとバランス感覚が磨かれてるんだな」

栗栖が妙に感心して云う。

二人とも身体が資本ゆえ、万一のことを考えると無茶な走り方はできないが、それでも軽快なスロットルワークは操る者も同乗する者も楽しさを最大限に示す。

じきに目先の道路が上りから下り勾配へ切り替わるクレストに差し掛かった。

進むに従い、路面のアスファルトの向こうから、波面が顔を出す。

「あ、海!」

凛が風切り音に負けない強さで叫んだ。

つい先ほどまでトンネルとか斜面とか、緑に包まれた山の中を走っている光景だったのに、目の前に遙かなる大洋が見えるのだ。

「山も海も、って云ってたのはこれだったんだね」

「ご名答。ここからは海沿いを流すよ」

後席の反応に栗栖は満足気だ。スロットルを吹かして、改めてエンジンが艶めかしく啼く。

「Hey Siri, LMFAOのパーティロックアンセムをかけて」

凛は微かな潮の香りを鼻腔に感じながら、寄せては返す波を横目に見ながら、スマートフォンの音声コントロールを起動させた。

操縦する栗栖の代わりに、高揚するツーリングに相応しいBGMを見繕う臨時DJだ。

「おいおいおい俺をスピード違反させる気だな?」

パーティロックアンセムはEDMの代表的ナンバーと云える、鋭いビートの効いた縦ノリで楽しく昂れるトラックだ。

凛の選曲に栗栖が突っ込むので、「捕まっちゃダメだからね」と笑って云った。

ドリルの如く刺激的な電子音の激流が二人を包み込む。





Party Rock Anthem
https://www.youtube.com/watch?v=KQ6zr6kCPj8





――今夜パーティやっちゃうぜ Party rock is in the house tonight
――みんなでトベるぜ Everybody just have a good time
――お前らをキメさせてやるからよ And we gon' make you lose your mind
――みんなでイケるぜ Everybody just have a good time
――待ってるからよ、さあいくぜ! We just wanna see ya... Shake that!

リズムに沿ってバイクが左右にスラロームする。

「ちょっと、振りすぎでしょ、落ちたらどうするの」

そう抗議しつつ、凛の声もはしゃいでいた。

「そうだな、じゃあノるのは横じゃなくて縦にしよう」と首を縦にシェイクする。

一定周期でバイクのフロントフォークが伸び縮みして、凛も追従すると変化量が増大した。

もし機械が話せるなら、凛の代わりにサスペンションから不服申立の声が挙がるだろう。

もちろん性能の良さには折り紙つきだから、乗っている本人たちにしてみれば揺れまくっていることはあまりわからないはずだ。

VFRは、急峻な地形が海に没していく僅かな隙間を縫って敷設された道を進む。

三浦半島は海底が隆起して出来上がった陸地ゆえ、平坦な場所はあまりない。

海岸を走っていても、少し内陸へ入れば山中の様相を呈する。目まぐるしく景色が変わるツーリングルートだ。

しばらく続いた浜辺の景色はいつの間にか鳴りを潜め、斜面が険しさを増すのと比例して市街の空気からのどかな田舎へと変わりつつある。

そうこうしているうちに、エレクトロファンクとハウスを融合させた、重厚なリズムを纏った曲に切り替わった。





Lay Me Down
https://www.youtube.com/watch?v=ISiGtxsN5d0




「お次のナンバーは早世してしまったご存知アヴィーチーのレイ・ミー・ダウン。
これは彼が躍進するきっかけとなったウェイク・ミー・アップと対になるフレーズでありながら、両曲ともに苦悩を描き歌ったものとして――」

凛がラジオで鍛えたMCテクでDJを気取る。

どこか懐かしくも新しく、どこか硬質でありながら柔らかさも兼ね備え、どこか物悲しくもテンションを上げずにはいられない、EDMの真骨頂が海沿いの景色と実にマッチする。

――暗闇に寝そべって Lay me down in darkness 君の見ているものを教えてくれよ Tell me what you see
――愛は心の拠り所なんだ Love is where the heart is
――あなたしか要らないって囁いてくれ Show me I'm the one, tell me I'm the one that you need

耳を撫でる曲を聴きながら大きな橋を渡れば、渡り鳥が羽休めをする場所はもうすぐだ。


===

目の前を、打ち寄せる波が白く解けて飛散し、鼻先を撫でる。

三浦半島の最先端、海が地層を浸食して出来上がった巨大な横穴の前に二人はいた。

近傍の駐車場から15分ほど歩く道のりは、潮風の影響で高く伸びられない植生の木々をくぐったり、或いは急に視界が開けて大海原が辺り一面を占めたりと、退屈しないハイキングだった。

穴の側には「馬の背洞門」と書かれた立て札が掲げられている。台風直後の平日だからか、周囲に他の人影はない。

「不思議だね、削ると云うより……くり抜くように開いてる」

内壁をぐるりと見回して凛が云った。「まったくだ」と栗栖も頷く。

「大正の頃までは、ここを船で通れたらしいな。関東大震災で地面が持ち上がったんだってさ」

これ絶対に当時は大人気のクルーズコースだったよなあ、と今では実現できないことへの若干の羨望を込めて笑う。

「栗栖はよくこんな場所知ってたね」

地方ロケなどでそれなりに全国行脚してきた凛は、それでも尚まだまだ知らない場所がたくさんあるのだと改めて実感する。

「まあツーリングスポットとしてバイク乗りの間では結構メジャーだからね、俺も受け売りばかりだよ」

自らの手柄とせず、素直に認める姿勢に凛は好感を持った。

「私は、そう云ったメジャースポットすらよく知らない状態だからね。これからも色々と教えてくれる? 連れてってくれれば尚良しだね」

「もちろんさ。これからも二人で色んなところに行きたいと思ってる」

凛はリアクションをせず、高く砕ける遠くの波を静かに見遣った。

栗栖も同じ方向を眺め、しばしゆったりと無言の時間が過ぎる。

強弱と緩急をつける潮騒、海鳥の鳴き声、南風が梢を揺らす音。

そう云えば最近意識することが少なかったかもしれない。世界はこんなにも音に満ち溢れていたことを。

「――もし凛がOKなら、の話だけど」

無言の時間を終わらせてしまうのが少し勿体ないと思うような声音で、栗栖が遠慮がちに口を開く。

「波が長い時間をかけてこの自然を作り出したように、俺も凛の心を少しずつでも開けようとしていいかな」

「ふふっ、その許可を乞う必要はないんじゃない?」

2回肩を揺らしてから、凛は風に揺れる髪を右手で掻き上げて栗栖の方を向いた。

「栗栖はもう、私にたくさんの新しい世界を教えてくれてる。私も、もっと知りたいと思うようになってしまってる」

視線を交わらせながら、慎重に一語一語を選んで続ける。

「正直ね、私はこの感情の正体を薄々解ってはいるんだ。
でも認めちゃダメだって、一度認めたらきっと歯止めが利かなくなるって、そう思って敢えて有耶無耶にしてる」

思春期に芸能界へ飛び込んでから、P以外に初めて身近な、そして馬の合う異性が現れた。

恋愛らしい恋愛をしてこなかった彼女にとって、この心地よい暖かさは、あたかもヘロインの如き誘惑に等しいはずだ。

トップアイドルとしてのプロ意識が辛うじて制止しているだけだから、一度そのタガを外してしまったら、決壊するのは自明。

「どうしよう、栗栖。私、どうしたらいい?」

「凛……」

感情の処し方がわからず困惑した表情を浮かべる凛の頬に、栗栖は手を添えた。

顔と顔がゆっくり距離を縮める。

たっぷり10秒ほど時間をかけて、もう、いいかな……と云う脳の白旗に抗えず、凛は瞼を閉じた。

互いの息遣いがはっきりわかるほどに近づく。

凛は、背徳のあまり地球の重力がぐちゃぐちゃになったような、空きっ腹にブランデーを流し込んだような酩酊感を覚え、受け容れる準備を整えた。

その瞬間、栗栖の胸ポケットから大きな着信音が響く。

鼓膜を突き刺すそれに、たまらず二人とも目を見開いて仰け反った。

お互いを見てから、こほん、と栗栖が咳払いをして電話を取り、「はいはいはい、なんか用すか、田嶋さんじゃなかったら電波切るとこでしたよ」と律儀に苦情を申し立てた。

凛は自らの胸に手を当てて、大きく一息を吐く。

「危なかった……」

鼓動の早さのせいですぐ酸素が足りなくなるので、深い呼吸が続く。

田嶋の発話ボタンを押すのがあと2秒遅かったら、きっと口づけを交わしていた。

キスなんてしてはならないと判っているのに、内心どこかでそれを望んでいる――一体どうしたのだ、私の心は。

着信音さまさまだ、とほっと安堵して胸を撫で下ろす。

ところどころ漏れ聞こえてくる会話から、急遽仕事の呼び出しが掛かったようだ。

自分の心の状態も鑑みれば、今日のところはお開きにするのがよいだろう。

全身から力が抜けてしまった上に、冷や汗を強い潮風が拭うので堪らず「くしゅん!」とくしゃみをした。

会話している栗栖の様子を窺うと、だいぶ急いで戻る必要がありそうな印象を受ける。すぐ動けるように、凛は先行して身支度を整えた。

「……ごめん、田嶋さんからの連絡で、急にアポが入っちまったみたいだ。心惜しいけど、今日はもう帰ろうか」

「うん、様子を見てるとそんな感じがしてた。
もしなんだったら、私は三崎口の駅から電車で帰るよ。その方が栗栖も早く戻れるでしょ。私のことは気にしなくていいから」

凛の提案に栗栖は「すまない、恩に着る」と手を合わせ、また埋め合わせをする約束をして、二人は海に別れを告げた。


・・・・・・

三崎口を出た快特列車が、モーターとインバーターの唸りを伴って爆走している。路地裏の超特急と云う異名に違わぬ飛ばし方だ。

先ほど駅で化粧直しをしてからホームに停まっている車輛へ乗り込んでみたら、路線の末端地帯にも拘わらずほぼ席が埋まっている混雑度だった。

ここから都内まで比較的長く乗ることを考えて、銀座や日本橋辺りに用事がありそうな、淑やかな老婦人の隣へと静かに腰を下ろしてある。

横を窺うと、その人は走行の振動に誘われ、眠りの国へと旅立っていた。

ちらりと外を眺めても、車窓は住宅街の中をぐねぐねと抜ける一般的な都市近郊のもので、バイクからの景色とはまるで違う。

しかも快特と云う割には末端地帯は各駅に停車するので、その度に多くの乗客が乗り込んでくる。

凛はそれまでの夢心地から一気に現実世界へと引き戻されたように思えた。

寝てしまおうかとも思ったが、電車が思い切りスピードを出し急加減速をするせいでとてつもない爆音と揺れに見舞われ続けていて、到底眠れる状態ではない。

隣のご婦人は物凄い胆力をしているものだと凛は舌を巻いた。

ものの15分もすれば立ち客がだいぶ溢れ、すぐそばにはサラリーマンやママ友であろう人たちが立ってスマホをいじったりおしゃべりに興じたりしている。

気づかれないようにと帽子を目深に被り、隣人と同様に身体を小さくして目を瞑った。

視界の情報がシャットアウトされ、途端に先ほど触れられた頬の感触が甦る。

バイクで走っている間はずっと風が当たっていたはずなのに、栗栖の手は熱かった。男の人はみな体温が高いのだろうか。

手足の先の冷えと日々格闘している自分には羨ましい限りだと、心の中で嘆息する。

あの暖かさが頬から流し込まれた時、身体が動かなくなった。

離されないよう包帯でぐるぐる巻きにしていたいほど心地よくて、何も考えられなくなった。

今にしてみれば、あの温もりは悪魔的だったとさえ思える。

電話での中断がなければ、もう戻ってこられないところまで拉致されていたに違いない。

けれど……悪魔でもいい。蕩けさせてほしい。あの電話が怨めしい。

いやいや、自分はアイドルで、向こうもアイドルだ。色恋沙汰なんて赦される身ではない。もう一人の凛が脳内で諫める。

そんなことは判っているのだ。だからこそ未遂で終わってほっとしたのだ。

見くびらないで、と凛は頭の中で自分に吐き捨てた。

ただ――もし次回同じことが起きれば、アイドルの矜持だけで我慢できるかどうかは……正直に云って自信がない。

「ううん、違う……」

自信がないどころの話ではない。まず以て抗えないだろう。

甘い毒が全身に染み渡っていくのを、快感と共に享受することしか、きっと。

どうすればよいのだろう。

乃木公園で同様の自問をした際とは明らかに悩みの度合いが深くなっている。

いつしか電車は地下鉄に直通し、目を瞑らなくても周りは黒の世界と化していた。


大門駅で乗り換えて、麻布十番に戻ってきたのは15時を過ぎた頃だった。

三浦半島にいた時よりも明らかに汚れて重い空気を掻き分け、凛は喘ぐようにCGプロのエントランスを抜ける。

「あれっ? 凛。どうしたん、今日はオフじゃねえの」

やや遠くで聞き慣れた声がしたので振り返ると、つかさが凛を認めて寄ってきた。

「アタシは旭から帰ってきたところでさ」と笑うが、どうにも様子の芳しくない相棒の様子に気づく。

「……ひとまず第一課戻るか!」

ニヤリとした笑みを維持しつつ凛の肩を寄せて歩き出す。

しかし手の力は表情とはちぐはぐにとても柔らかかった。

「――で? 何か悩みか?」

エレベーターの扉が閉まるまで待ってから、操作盤の方を向いたままつかさが問うた。

笑みを剥がしたシリアスな顔が、鏡面のように磨かれたパネルへと映る。

「うん、まぁ……そこまで大層なものじゃないけどね」

「嘘が下手。もうちょっと捻れよ、見るからに重大インシデントの顔してる」

「えー……本当に?」

「マジもマジ、大マジよ」

凛はそれ以上答えられず、エレベーターを降りると廊下には二人の足音だけが響く。

ユニットの相棒には伝えた方がよいのか、ユニットの相棒だからこそ不確実な相談事はしない方が好ましいのか。

延々と答えを出せずに進んでいると、先を歩くつかさが「これからアイツとミーティングの予定だったけど」と前置きをして、第一課のドアの前で振り向いた。

「この時間、譲るよ。アイツにはドキュメントをSlackで送るようにだけ言伝を頼むわ」

「え?」

「相談、しに来たんだろ?」

Pのデスクの方向を指差してウインクを投げてくる。

「もし気分転換になるなら、アタシはこれからダンスの自主トレすっから、終わったら来ていいよ?」

「うん、ありがと。そうだね、もしかしたら後で顔を出すかも」

互いに軽く手を挙げて別れる。凛は、意を決してドアを開けた。

タイミングよく人が出払っている静けさの中で、OAフロアの上を歩く微かな足音が、凛自身の耳には奇妙なほど大きく聞こえる気がした。

「あれっ? 凛。どうした、今日は久しぶりの完全オフだったのに」

Pが凛に気づいて、つかさと同じように疑問を寄越してきた。

担当プロデューサーとアイドル同士、長く一緒にいると似てくるのかもしれない。

「うん。ちょっと相談したいことがあって」

「天下の凛がそんなこと云ってくるなんて珍しいな」

相好を崩すPにつかさから託された伝言をこなしつつ、周りを見て、改めて誰もいないことを確認する。

何気ない行動でも、人払いが必要な内容であることをPは察知した。

おそらく、CGプロ始まって以来の、極めて難しい舵取りが必要になる未来を凛は予告するのだろう、と。

凛は隣のデスクから事務椅子をごろごろと転がしてPの前に据え、「どんな風に云えばいいのか難しいんだけどさ」と腰を下ろした。

一旦眼を瞑って、息を吐く。

「ちょっと自分の手に余ることがあって」

瞼を上げると、Pの視線が強くしっかりと凛の虹彩を射抜いていた。

静かに次の言葉を待っている。変に二の句を促したり、或いは不要な相槌を打ったりしないところが、凛は好きだった。

「……知多栗栖さんのこと」

ようやく一言を絞り出して、再度逡巡する。

「本気で……好きになり始めちゃってる。自惚れでなければ――多分、向こうも」

一句ずつ、ゆっくりと、打ち明けた。

双方無言の刻が過ぎてゆくがPの視線は変わらない。

きっと怒られるのだろう。

そう思って凛は眼を少し伏せた。

「……知ってるよ」

何か云わなければ、と凛が紡ごうとしたところで、先に口を開いたのはPだった。

「え?」

「知ってるよ」

まさかの返答だった。驚きに目を見開いて視線を上げると、寂しそうな笑顔でもう一度「知ってる」と静かに云う。

色々と事情を聴取するでもないただの一言。

凛は、Pが全てを知っていたのだと、最初から最後までお見通しだったのだと悟った。

――プロデューサーは全部知っていて、その上で私を放っておいたんだ。

ただ箱庭の中で生かされているだけだった。

以前、私が目の前のこの異性に淡い思いを抱いた時分には、アイドルが大事だ、全国民の彼女でいろって激怒しながら阻止したくせに。

なるほど、つまり当事者でさえなければ、プロデューサーから見た私はその程度の存在なのか。

凛は、自らの心にピシッと小さく、しかし鋭い音で割れ目が入った音を自覚した。

無性に哀しくなって、そして腹が立ってきた。

「……やっぱり何でもない。御免、忘れて」

凛は目を閉じてやおら強く云い放ち、会話を打ち切って席を立った。

会社を出て、身を炙る憤りに任せながらスマートフォンの画面を叩くように文字を打ち込む。

――終わったら連絡して。

相手は、自らを必要としてくれる彼。

いつもと様子の違うメッセージに、栗栖は何かを感じ取ったのだろう。休憩の合間にすぐ折り返しを掛けてきた。

『もしもし、凛? どうした?』

やや心配そうに訊ねてくる声に、凛はすっと息を大きく吸う。

「栗栖。全部、私の全部をあげる。だから私を満たして」


今日はここまで


・・・・・・

眼下で白や赤の光の列が連なって、それぞれが一本の糸のようになっている。

遠くへ向かう方の車線は、テールランプの流れがまるで血液みたいだと思った。

地上21階のこの部屋は、窓側の壁一面が足元から天井までガラス張りで、カーテン以外に遮るものがなにもない。

さりとてこれほどの高さともなれば怖さは逆に感じなかった。

人間が最も恐怖する高さは10~20メートルあたりなのだそうで、地上80メートルのここなら、感想は「高いなあ」で済む。

夜の暗い時間帯なら猶のことだ。

外からの人工光で、窓際にシルエットが浮かぶ。

女性的な曲線のプロポーションがはっきりとした魅力を纏っている。

凝視しなくとも、放たれる艶めかしさは圧倒的で、シルクのように滑らかなこそばゆさを与えるのだった。

ぼうっと夜景を眺める凛の肩に、そっと手が添えられた。

左横に立つ人物を見遣ると、一緒に眼下へ視線を送っている。

「不思議だね」

凛がつと呟くと、「ん?」と云う目線で続きを問うてきた。もう一度外を眺める。

「直接は見えないけど、今こうやって私の視界に入るエリアだけでも100万を下らない数の人間がいるんだよ」

地上を照らしている明かりの許には、それぞれの人の営みが広がっているはずだ。

もっと視点の標高を上げて日本なら1億2000万、更には世界全体では75億。

「そんなおびただしい数の人類から見れば、私一人程度なんて、どれほど矮小な存在だろう」

隣の肩に頭を預け、がっしりした腰に腕を回しながら、凛は自嘲のような息を大きく吐いた。

上目遣いで顔を覗き込む。向こうも凛の顔を見下ろす。

「こんなちっぽけな私を求めてくれるのは、栗栖だけだよ」

凛はカーテンを右手で閉じて、その流れで栗栖と正対し、両腕を肩に回す。

「広い世界を見るのは終わり。今は貴方と私、二人だけの場所。田嶋さんの電話で途切れた続き、して」

「いいんだな?」

栗栖が凛の目を覗き込んで、最後の確認とばかりに尋ねた。

「うん……いいよ」

頷くと、栗栖がそっと、凛の後頭部に手を添えた。それを合図に、凛は目を閉じる。

ここは方舟。海辺の時のような環境音は何も聞こえない。

聞こえるのはそれぞれの息遣いだけ。

ゆっくりと、柔らかい唇が触れ合う。ついばむように、軽く、優しく。

数度感触を確かめたのち、強く押し付け合った。

一糸纏わぬ凛の背中を栗栖の掌が撫でる。

肩甲骨に沿って指を這わせると、くすぐったい快感がじわり滲み出て、凛は微かに身をよじった。口づけをしたまま、悩ましい息声が漏れ出る。

その緩んだ瞬間を栗栖は逃さなかった。

舌が唇を掻き分け侵入し、不意のことに凛は身体を固くする。

意思を持った別の生物のように口内を蹂躙されるうち、凛もやられっ放しで済ませるものかと、舌を動かして反撃に出た。

柔らかいような、硬いような。弾力で押し返してくるような、抱擁で吸収するような。

絡みつく舌同士の相反する感触が連続的に変化し、そのどれもが脳へダイレクトに快感物質を注ぎ込み続ける。

酸素を求める息継ぎと、艶めかしく湿った水音だけが漆黒の世界に響く。

やがて空気の薄さに耐えられなくなって唇を離す。凛の瞳は潤んでいる。

「キスって、こんなに気持ちいいんだね……」

少し放心した風の蕩けた表情で、初めての口づけの、大人の味を反芻して凛は云った。

立ったまま、どちらからともなく抱擁を重ねる。幻ではない、実体がここにあるのだと確かめるために、強く。

「凛。君が欲しい」

「うん、私も。抱いて――栗栖」

お互いの耳元で囁き合い、凛はのりの利いたシーツにゆっくりと坐らせられる。

白い布とそれに生じる皺が、赤みの強い彼女の柔肌と婀娜たるコントラストを描いた。

栗栖が全身を愛おしそうにじっくり視るので、凛は胸部を隠して顔を逸らした。

「少し、恥ずかしい」

「隠さなくていい。綺麗だ」

女の象徴を秘匿せむと組まれた腕をゆっくり解きほぐし、汗ばみながらも摩擦なく滑る肌を掌が撫でると、甘美な刺激に凛は身体を反応させた。

「私……初めてだから、優しくして……」

いよいよ散らすのだと現実味が強く膨れ上がるにつれ、羞恥心から栗栖に背を向けた。

頭部だけ少し見返らせて、か細い声と横目の視線で乞う。

15歳からアイドル一筋だった身にとり、女の一番大切なものを誰にも許すことなくこの歳まで維持してきたのは、一種の勲章だった。

しかし、それも今宵終わりを迎える。

栗栖に触られた部分が熱が帯びるのを、凛はマジックのようだと思った。

身体の中から熱くさせられ、蜜が自らの意思とは無関係に溢れ出てくるのは、神秘としか思えないのだ。

何らかの魔法を掛けられてこのようになっているのだと。

欲しい。この人が欲しい。

いつしか凛は、遺伝子に刻まれた未知の欲求を抱いていることに気づいた。

覆い被さる男を濡れた瞳で見つめると、呼びかけに応じた先端が、ゆっくり一つに溶け合ってゆく。

凛は、悦びに打ち震えた。

その嬌声は高く、通りのよい張りと弾力に満ちていた。

声自身が、凛の柔肌と同じ肉感を持っていて、繋がり合った部分と共に快楽物質をお互いの脳へ注ぎ込む。

男の情動を燃え上がらせるその呪文が栗栖を衝き動かし、巡り巡って凛自身を狂わせる。

喘ぐのを抑えむと思えど、快感を求める本能が理性を拒絶するのだ。

唇を重ね、塞いでも、艶やかな声は漏れ出ることを止められない。

頂戴、もっと。欲しい、満たして欲しいの。

昂ぶりのスパイラル。お互いが上へ上へと昇り詰める。

二人は、二人だけの雲の上で何度も躍ねた。

たとえ一度達しようとも、果つる底なき熱が再び双方を焦がし合っては、へとへとに痙攣すらできなくなるまで休みなくずっと続いた。


===

カーテンの隙間から差し込む赤い陽光で、凛は微睡から現世に引き戻された。

半目のままゆっくり瞬くことしばし、寝返りを打って手を伸ばす。身体が、泥の中で溺れているかのように重い。

呻きながら、隣に臥している体躯を撫でて、存在を確かめた。

昨夜の交いが露と消える幻ではなかったことを確かめたかった。

陽光に照らされて、栗栖の栗色の髪が綺麗に染まっている。

幼少期に地毛のこの明るい色のせいでいじめられたから自らの髪があまり好きではないと、彼自身はかつて云ったことがあったが、傍で見る身からすれば美しくて好きだと思った。

「ん……起きなきゃ……」

今の状況が間違いなく現実であり夢ではないことを理解した凛は、うつ伏せの体勢から緩やかに身を起こした。

「痛ったた……」

最中はずっと脚を開け拡げたり四つん這いになったりしていたせいか、下肢の付け根や膝の皿が鈍痛を訴える。

下腹にはまだ異物が中に入ったままのような錯覚があるし、全身の肌は汗と体液が中途半端に乾き始めてベタベタした。

髪に触れると酷く絡まっていて、念入りなメンテナンスを要しそうだった。

一晩乱れただけでこうも容易く傷むのかと、初めてづくしの経験に新鮮な感覚を抱いた。

足を軽く引き摺って窓際へ寄り、カーテンを少し引く。

太陽は地平線から顔を出したばかりで、直視しても眩しさは然程でもない。

おどろおどろしいまでに血の色で朝焼けた空は、まるで自分の心を見透かし、映しているようだと思った。

意識の靄を取り去ろうと、バスルームへ入る。

鏡の中に佇む自分は、鎖骨や鳩尾、臀部に至るまで紅紫の痣が多数点在し、これらキスマークを見て改めてこの身が女になったことを実感した。

軽く目を瞑ると、つい数時間前までよがっていた自らの声が脳内に響き、腹の奥が疼いた。しばらくこの感覚は身体から抜けそうにない。

アルコールなど比較にならないほどに人を酔わせる劇薬。体内にLSDの工場が作られたようだ。

目を開けて床を見れば、今もまた、大腿から下が糸を引く洪水に塗れている。

『もう戻れないね』

何処―いずこ―からか声が聞こえた気がした。

慌てて顔を上げると、鏡の中に自分とよく似た裸の少女がいた。

自分が映っているのではなかった。

否、これは自分だ。15歳の凛が、23歳の凛を眺めているのだ。

身長や体型はほぼ変わらない。顔立ちだけが、仄かに幼さを感じさせる。

だが――その表情からは何を伝えたいのかは読み取れない。

褒めるでも誹るでもなかった。ただただ、淡々と一言だけ発したのだ。

「……そう、かもね。時間の針は戻せない。私は、もうそっちの私には戻れない」

独り言ち、かぶりを振って熱いシャワーの栓を捻った。

頭頂から手先足先へ向かって無垢な湯が流れてゆく。

蒸気が室内を満たし、鏡の中の少女は白闇へ埋もれ、やがて見えなくなった。

栗栖のマンションから第一女子寮へと戻る電車は、奇妙なほど空いていた。


・・・・・・

身体を許したとて、凛も栗栖もお互いに売れっ子だ。オフが重なるタイミングはそう都合よく頻繁には巡ってこない。

それでも、何とか予定を合わせて逢瀬を重ねたし、それが叶わなければツクヨミのレッスンがあった帰りに乃木公園で打ち合わせと云う体の邂逅で心を慰めた。

次第に凛は、乃木公園でも「口づけをして欲しい」と唇を差し出すようになった。

その都度、栗栖は困ったように笑って、丸めた台本で凛の頭をポンと叩く。むう、と凛がむくれるまでが1セットだった。

「ったく、ここでするわけにいかんでしょ」

「まあ、それは……判ってはいるけどさ。欲しいものは欲しいんだから仕方ないじゃない」

トップアイドルたる美しい女に「欲しい」とストレートで云われて嬉しくない男はいまいが、全てに於いて立場と云う人類の概念が恨めしい。

凛は自分自身で支離滅裂かつ重い面倒なことを云っているのは認識していた。

それでも、大脳新皮質とは別領域の、遺伝子に刻まれた“雌”が理性を押し退けるのだから困ったものだ。

無論、新皮質が活性化して理性が優勢となれば、元々理知的な彼女ゆえ自己嫌悪に陥る。

ついにPへ談判し、ツクヨミとのスムーズな連携と云う名目で第一女子寮を離れ、天王洲は京浜運河を臨むタワーマンションに居を移した。

Pは「わかった」とだけ頷いて、意外にも話を切り出した半月後には全て完了してしまう早さで処理が済んだ。

総務部への稟議なども必要だったろうに、と凛は驚いたが、元々寮へずっと入っていたのは防犯上の理由が大勢を占めていたので、街中のアパートと云うわけでもなくセキュリティのしっかりしたビルなら、さほど問題にはならなかった。

選定にあたっては、隣駅で交通至便となる文科放送やフジツボテレビからの、千川ちひろを通じた黒い便宜があったとも噂されるものの、真偽のほどは定かではない。

ともあれ、地下に駐車場が設けられていると云う住処は、栗栖の車で乃木坂スタジオを発ってそのまま誰とも顔を合わせずドアトゥドアを達せられる、媾曳―あいび―くにはおあつらえ向きの構造だった。

ここで忍び逢いをしないならば一体どこでするのかと云わむばかりに、凛は来訪をせがんだ。

運河の対岸が埠頭擁する純工業地帯であるのをよいことに、カーテンを開け放ち夜景を眺めながら窓際で立ったまま融け合うこともあった。

「トップアイドル渋谷凛の狂う姿を、下から誰かが双眼鏡で見ているかもな」

そう言葉で責められる度に、凛は身を捩りつつも眼球の奥で桃色の爆発を連続させ、白魚の如し細身の身体は躍ねながら仰け反った。

窓ガラスへ押し付け平面的に歪められた胸部が冷んやりと心地良く、却って接合部の熱さを際立たせることで昂ぶり燃え上がるのだ。

栗栖が多忙で中々来られない時には、逆に凛が栗栖宅へ顔を出すことも多く、余暇があれば食事を作ったりもした。

自分の料理を人に食べてもらうことがこんなにも幸福で喜ばしいのかと発見があった。
最近は、料理を得意とする第二課の五十嵐響子とつながりが出来て親しくなりつつある。

栗栖と逢う度に、凛の身体には彼の印が積み重なってゆく。

“それ”を隠すように、彼女の衣装は露出を減らしていった。

『年齢相応の落ち着きを演出することで更なるステージアップを――』

芸能メディアなどは、凛が少しずつ変化してゆくのを新境地開拓だと称賛する。

概して保守的な芸能界だが、アイドルについては異端とも云える。変化・挑戦や新しい試みには好意的だし、リベラルなセクションなのだ。

CGプロが方便を突き通すには好都合だった。

「皮肉なものだね」

テレビ出演を控える楽屋で凛の新曲リリースとファッションを特集した雑誌を読む本人が、複雑な笑みを添えて独り言つ。

ハイネックのノースリーブながら、七分袖にデザインされたメッシュのアウターを羽織り、腕先は肘丈の手袋で覆われている。
下半身もスラックスを使うことで、スタイリッシュながら肌は見えない。

今夜の生番組では、一般視聴者へ向けてテレビカメラを通した新しい魅力を引っ提げてのトップアイドルが普段通りに映るだろう。

その服の下に男の痕がいくつも刻み付けられているとも知らずに。

それでも、欺瞞でも虚構でもいいから『国民全員のための女―トップアイドル―』を演じ切るのが今の凛に与えられた役目であり責務。

ゆっくり、ゆっくり堕ちてゆく。

不思議と、変質してゆく自分へ寂寥とした感情は抱かなかった。

きっと鏡の中にいたあの自分が、代わりに滂沱の泪で私の分まで涸らせたのだろう。

そう思いを馳せるうち、ノックが3回鳴る。

「渋谷さんお待たせしました、まもなくOAです」

「はい、向かいます」

番組のアシスタントディレクターが控室へ顔を出す瞬間までには、凛の表情は、しっかりとアイドルになっていた。


ステージではUKでの最新トレンドを貪欲に取り入れたサウンドが放たれた。

ドラムステップと呼ばれる日本では聞き慣れないジャンルで、音作りも歌唱もダンスも手を抜かない、歌姫の貫録を電波に乗せる。

音の拡がりが豊潤なシンセパッド、引き締まった重低音、どこか遠くの世界を思わせるシーケンスフレーズ。

落ち着いた出で立ちとは正反対の激しい振り付けと玲瓏なステップが魅せるコントラスト。

ツクヨミやベキリでの活動とは別の、久しぶりに見せた凛のソロは待望されていて、リリースするや否やたちまちに席巻し紅白当確とまで云われるほどだった。

往年の古参ファンの一握りが、凛の瞳に翳が差しているような印象があると呟いても、SNSと云う電子の海の奔流に押し流され、誰も顧みなかった。


今日はここまで

いよいよヤバくなりましたね

あと、どれぐらいまで堕ちます?

>>342
それは今後のお楽しみということでwwww


・・・・・・

秋の番組改編シーズンは特番等が目白押しで、春と正月の次に忙しい時期だ。

凛や栗栖とて例外ではなく、ツアーだったりフェスだったりの本業も重なって中々逢えない日が続いている。

お互いの状況は理解しているのに、凛は寂しさのあまり「仕事の付き合いを早く切り上げて逢いに来て」と連絡してしまうこともしばしばあった。

その度に返される栗栖からの謝罪の電話で、正気に戻って「ごめん」と詫びるが、下腹の空虚な旱魃―かんばつ―は恵みの白雨を渇望して請いの叫びを上げ続ける。

自らの中の女々しさを呪っても、それで止められたら苦労はしない。

この感情をパージするためなら悪魔と契約してもよいとさえ思えた。


その日は23時過ぎに凛は帰宅した。

手持無沙汰にテレビを点けると、大雪山の色づきが見事だとバラエティニュースが流れてくる。

ガラスの壁から眼下に広がる東京ベイエリアを眺めても、こちらは紅葉のコの字も見える気配はない。

「そう云えば少しは過ごしやすい気温になってはきたかな」

きっとそれも一瞬で、すぐに今度は寒い寒いと地球の気象に文句を垂れる日がくるのだろう。

こんな日和のうちにバルコニーで栗栖とゆっくり夜風に当たれればいいのに。

凛は半ば諦めを抱きながら発話ボタンを押した。

呼び出し音が響く。
3回、4回、5回……今は出られないのかと観念して切ろうと思ったところで、7回目の音が途中で終わった。

『もしもし』

抑揚と声量を抑えた調子で栗栖が出た。後ろからはゴーゴーと騒音が聞こえてくる。

問えば、岐阜でのロケを終え、最終の新幹線で帰京している途中だと云う。なるほど、デッキへ出るまでに少々時間を要したわけだ。

少しだけ会話に間が空く。相変わらずの騒音だけが耳を犯す。

『凛?』

「逢いたい」

ただその一言。凛はその4文字に全ての想いを乗せて送り込んだ。

また会話に間が空いた。今度は、栗栖が色々と思考を回している。

『……ああ。品川で俺だけ降りて向かう。タクシーじゃ運ちゃんにバレるかな。歩いて向かうから少し時間かかる。
そろそろ新横浜だから……日付が変わる頃に着けると思う』

「うん、ありがとう」

今日も逢えないかもしれない、そう不安に押し潰されそうだった凛の心は、一転、月光草の咲く丘のように静かに煌めいた。

「ねえ、好きだよ」

『俺もだ』

恒例となった締めの言葉で通話を終え、ダイニングの椅子に座る。

改めて伝えるまでもない台詞を紡いでも、栗栖は律儀に応える。

面倒な女心にきちんと付き合ってくれることが凛は嬉しかった。

急に視界の彩度が上がったような気がした。

否、正確に云えば電話をするまでの彩度が、精神に連動してセピアのように低かったのだろう。窓から見える遠くの高層ビルに赤色灯が点滅している。

新横浜に着いたかな。

新横浜を出たかな。

多摩川を渡っている頃かな。

栗栖の位置を勝手に予測しては、折に触れスマートフォンのロック画面に表示される時計を見るのだが、ちっとも針は進んでいなかった。

心が焦れる。1分1秒がこれほどまでに長く感じたことはかつてない。

遂には、居ても立ってもいられず、終電車のぞみ64号の時刻を調べて、到着する頃合を見計らってマンション前の海岸通りまで出迎えに向かった。

東京モノレールの軌道と首都高速羽田線に挟まれながらも、幅員を広く確保された歩道のガードレールに腰掛けて待つと、信号を渡ってくる栗栖を視認する。

深夜ゆえの人影の少なさですぐに分かったが、例え人通りが多かったとしても凛は栗栖を見つけられただろう。

腕に飛びつきたい衝動に駆られつつも、はしたない女になるものかと、すんでのところで押し込んだ。

二人並んで、エントランスへと入ってゆく。

居住階のエレベーターホールを抜け、ようやく到着しましたるは今夜の二人の愛の巣。

「おかえりなさい」

ドアを閉じ鍵を掛けた栗栖へ、先に靴を脱いだ凛が微笑みを向けた。「いらっしゃい」ではなく「おかえり」。

「ああ、ただいま」

「逢いたかった」

栗栖の下足を揃えるもそこそこに、待ち切れなかったとすぐ抱擁した。

胸板に顔を埋め、上を向いては唇を強く押し付け重ね合う。

砂漠のオアシスに辿り着けた凛は、それまでの渇きを癒すべく、たっぷり5分はキスを貪り合った。

ようやく落ち着いて、リビングのソファへ腰を据える。

「忙しいのに来てくれてありがとう。本当に嬉しいんだ」

「問題ない、俺も逢いたかったから」

栗栖は優しく語り掛けた。

きっと長距離の移動で疲れているはずなのだが、それを表に出さないのは男のプライドだろうか。

「これ、ロケのお土産。当日のうちに渡せてよかった」

と云って、栗栖は凛に桐箱を差し出した。蓋を開けると、刀匠の銘が刻まれた刃体が上品な輝きを放つ。

「わ、すごく綺麗……」

「関の包丁。国内どころか世界でも最高級レベルのものらしいぞ」

岐阜の関は刀で有名だ。イギリスのシェフィールド、ドイツのゾーリンゲンと共に世界三大刃物産地と呼ばれる。

凛はその美しさに息を呑んだ。宝石や貴金属とはまた別種の、機能美や造形美。包丁自身が「えへん」と胸を張っているようだ。

ロケで忙しかったろうに、わざわざ時間を割いて凛のための土産を物色した事実がとてつもなく嬉しかった。

「ありがとう……これを使って、腕によりをかけて料理をもっと作るよ」

そう決意を新たにする瞳の輝きに栗栖は深く頷く。

「岐阜って普段全然ピンとこない地味っぷりだけど、いざ行ってみると案外面白いもんだな」

台所で包丁を収納した凛が、栗栖の感想を聞いてカウンター越しに「テレビやラジオでは到底OAできない暴言だね」と指摘するので、栗栖は両手を降参の如くそっと掲げて「これは失敬」と二人笑い合う。

この安寧、この平穏。久しぶりの感覚だった。

どちらからともなく再び唇を求め、1日の汗を流さむと二人一緒に入ったバスルームで1度交接してから、シャワー上がりのビールをバルコニーの夜風に当たりながら味わう。

「今日はこれをしたくて連絡したんだ」とドイツ製の独特な形状の瓶を掲げて凛は破顔した。

すっきりとした強い苦味のビールが合う時期はもうそろそろ終わる。

じきに、室内で甘い小麦ビールやホットワインを傾けるようになるのだろう。冬が来る前に、栗栖と二人だけの夜風に当たっておきたかった。

「……急な誘いに応えてくれてありがとう」

大事な宝物を慈しむかの声音に、栗栖は柔らかに相好を崩して顎を引いた。

凛の美しい横顔を海からの風が撫で、長い髪が揺れている。

「さ、お風呂上りにずっと外の風を当てるわけにもいかないよね。戻ろうか、栗栖」

満足気にゆっくり踵を返そうとすると、不意に後ろから包まれた。

「風で冷やされる以上の熱を発生させればいいだろ?」と耳元で囁かれながら、バスローブの衿先から右掌が侵入してくる。

「あ、ちょっと……あっ……」

柔らかな丘を揉みしだかれると、凛の身体はたちまち熱を帯びた。

頭部だけ振り向いて口づけを交わす。

唇とその向こうにある舌先、双丘の先端、そして絹のように滑らかなうなじ。この3箇所が凛のスイッチだ。

全てを同時に刺激されて、それだけで凛は軽く果てた。こうなったら、あとはもう止まらない。

間もなく、交合によって湿った皮膚を打つ規則的な音と艶やかな喘ぎが謌い出す。

「ねえ、好き?」

……好きだよ。

「私のこと愛してる?」

……愛してる。

凛は、まぐわいの最中に自らの問いが肯定されると、それらがどんなに短い間隔であってもその都度仰け反り、全身を震わせ悩ましい嬌声と共に達した。

脳内麻薬に犯され、肉体も精神も快楽に飛んだ。

湿った肌に貼り付いた自らの髪を乱暴に撥ね除けて、もっと、と求める。

「私の全てをあげる。だから、あなたの全てを頂戴!」

自らの何もかもを差し出したい。全てを捧げたい。

その感情の奥に、独占欲が潜んでいることを凛は知らなかった。

久方振りの情事は、逢えなかった分を取り返すかのように、場所を変え体位を変え攻守を変え、朝まで一睡もせず何度も営み続けられた。

家の至る所に、二人の体液で形成される染みが増えてゆく。

もはや栗栖以外の人間を招き入れることは難しい。

更に、更に堕ちてゆく。もう、凛には止められない。


・・・・・・

セキュリティ対策と云うものは、効果の見極めが非常に難しい分野だと指摘されている。

対策が正常に効果を発揮している間は、何もトラブルが起きないからだ。

存在しないものに対して観測することはできない。

人間は、ゼロの概念を思考することはできても、ゼロを見ることは不可能なのだ。

観測できる状態とは即ち、正常に効果を発揮しておらず、綻びが生じ問題が顕在そして手遅れとなったことを示す。

保険と云う言葉に置き換えれば誰もが重要性を認識するのだが、それは金を払えば単純に済む話だからであって、こと行動を要する対策を常に施し続けるのは、人間には難しいのだろう。

転ばぬ先の杖。あまねく諺は先人の苦労の残滓と云うわけだ。





硝子ドール
https://www.youtube.com/watch?v=zdZAZq3msFU





ラジオのスピーカーから重々しいゴシックメタルの楽曲が流れている。

――声を聞かせて 姿を見せて わたしを逃がして
――ねえ、鍵が壊れた 鳥籠の中ひとり ずっと

伴奏の暴力的な荒さとは裏腹に、透明感ある女の子のボーカルが硝子をモチーフとして歌い、異質のコントラストを彩る人気曲だ。

そのアイドルは年次としては凛の一年後輩で、他社ではあるが資本的には親戚とも云える養成校―スターライト学園―出身の“吸血鬼”だそうだ。

『設定』と云う野暮な言葉はさておき、表向きはそのように云われている。蘭子がシンパシーを感じているらしい。

第一課、Pデスク近傍にあるソファは、会社始まって以来史上最大の暗いオーラが漂っていた。重いBGMに引っ張られたわけではない。

「もう、最悪」

凛は組んだ両手へ額を載せるように俯き、深い溜息を吐き出した。

ガラステーブルの上に、週刊誌のゲラ刷りが置かれている。

――『トップアイドル同士の熱愛発覚か! 深夜の邂逅とお泊り会』

下品なまでに太いゴシック体で書かれた題字と、その下には深夜の海岸通りの歩道を二人並んでマンションへ消えてゆくさまを記録した、隠し撮りであろう白黒写真が見開きで載っている。

その解像度は非常に高く、バードウォッチングのように超望遠でスッパ抜いたものではなさそうだった。

どうやって撮ったのかと訝しめば、南隣が新聞社の敷地だったことを思い出す。

スポーツ紙はたとえスクープであっても芸能事務所に照会後でなければ載せない紳士的な取り扱いをするものだ。

しかし、だからと云って大衆週刊誌を刊行する同業他社とのパイプがないわけでは当然あるまい。

迂闊であった。あのとき栗栖に一刻も早く逢いたいがため完全に失念していた。

初めてを捧げたことで、心に隙が出来ていたのかもしれない。

不幸中の幸いを挙げれば、腕を組まなかったことだ。

凛の嘆息に「ああそれは正解だったな。腕を組んでたら完全に言い訳できない」とPは答えた。

この惨事に比して不気味なほど冷静だ。

「プロデューサー、随分落ち着いてるじゃない。こんなこと――いや、私の所為だけどさ、こんなことが起きてるのに」

「まあ……な」

既にこのような事態を見越して、田嶋ひいてはジョニーズとも話し合いを済ませてあったのだ。

むしろ、確度の高い情報は、ツーリングデートをした日、凛がCGプロへ到着せぬうちに先方から齎―もたら―されていた。田嶋の地獄耳は凛のくしゃみを捉えていた。

詳しい内容は情報を下ろしてもらえないが、交際が露見した場合の口裏は、とっくのとうに合わせてあるようだった。

「……なんで、何も云わないの」

根回しを済ませていたことへのありがたさと、その反面、自分の知らないところで工作が済まされていたことに対する不快感を綯い交ぜにして凛は問うた。

今回のスキャンダルはCGプロ始まって以来の大損失を計上するほどのものになるはずだ。

だのに、後処理を淡々と進めるだけで譴責すらされないことが不思議で仕方なかった。

Pは返答の言葉を濁す。

ジョニーズとの交渉内容を赤裸々には答えられないと云う守秘義務の事情もありつつ、凛にあまり心配をかけたくない気持ちが強かったからだ。

なにより、凛のこれまでの犠牲に成り立つ功労を考えれば、やりたいことをやりたいようにさせたのはPひいては会社の判断だった。

その決裁の末に起きたことに対しては、会社が結果責任を負うのは当然であり、凛個人に帰すべきものではないのだ。

ただ、これを云えば凛が必要以上に自責の念に駆られるのは間違いない。

結果、Pは上手く伝えることができずに言葉を濁すしか手立てがないわけだ。

「……やっぱいいよ、忘れて」

Pが答えに詰まっているのを見かねて云った。

凛は凛とて、エスパーではない者にP側の事情を汲み取るのは難しい。

自分の利用価値が落ちているから事務的な処理で済まされているのだろうと、穿った見方をしてしまうのだ。

利用価値の衰退――つまり、凛が損失を発生させても屋台骨が揺るがないほどに、他アイドルによる強固な収益構造が築き上げられていると云うこと。

単純な費用対効果を計算しただけの、血の通わない処理で済ませて問題ないと判断されるほどにまで、自らの地位が相対的に低下しているのだと、そう感じてしまう。

渋谷凛、第3代シンデレラガール。だが、それがどうした。

凛が戴冠して以来、もう既に幾人もの新たなシンデレラガールが誕生しているのだ。

特に、6代目としてその頂へと登り詰めた高垣楓はとてつもないバックボーンを持っている。

更には、200人ほど所属しているアイドル一人々々に強固なファンがついており、積み重なれば売上は相当な規模になる。

凛への依存度は、黎明期よりは確実に多少なりとも下がっていた。

お荷物は、淡々とする他ないんだね。

凛は、今後の方針が書かれた書類を、色のない顔で見ながら嘆息した。

――もうやめにしたいのに 終わりが怖くて
――またくりかえすの

相変わらずスピーカーはゴシックメタルをかき鳴らしていた。


今日はここまで




・・・・・・・・・・・・


麻布十番を走る環状3号は、文京区の一部区間には環三通りの名が残るものの、著名な環七や環八と違ってあまり語られることはない。

歴史に翻弄され大正時代の青写真からはだいぶ乖離したが、外苑東通りのバイパスとして平成期に整備された道だ。

その経緯ゆえ幅員は広めだし、歩道もしっかり確保されていることもあって日常そこまで交通は集中しない。

しかしその日は赤羽橋を超えて芝公園まで延々と続く渋滞の起点になっていた。

第1車線を様々な車両が占拠し、交通容量が圧倒的に不足したからだ。

その違法駐車の大半はマスコミの車で、狙いはもちろん、芸能プロダクションのビルだった。

件―くだん―の標的、CGプロ11階の大会議室には臨時会見場が設置され、壁際にはずらりと並んだテレビカメラ、発表席にはチンアナゴの群生にも引けを取らない本数のマイク、会場の様子を全国へ伝えむとする記者は廊下にまで溢れている。

社でレッスンの予定だったアイドルは課内待機、事務方はおろかトレーナー陣まで場内整理に駆り出されており、全社が上を下への大騒ぎだ。

特に第二課に多い気弱なアイドルは、未知の状況に恐怖感を抱く子もいた。

「友人として仲良くさせて頂いています」

中央側に座る凛の口から、はっきりとした口調で発言が続いている。

彼女は何の味付けもしない言葉を紡ぐが、その実、内心では釈明の言葉がとても悔しい。

無論そんな感情は赦されない。徹底的に抑えつけて、あえて淡々と発表をこなしてゆく。

「お騒がせしておりますこと、お詫び申し上げます」

おびただしい量のフラッシュが焚かれる。網膜が焼かれ失明してしまうのではと感じるほどだった。

耐え切れず瞼を閉じ目を伏せると、その瞬間を狙って更に倍量の光線が照射された。

ああ、こうやって意思とは無関係の絵面が作られていくのか。

凛は眩しさの向こう側にあるバッシングの世界を垣間見た気がした。

きっと今撮られた映像はワイドショーで延々と繰り返し放映され、紙面媒体の写真には彼女が交際を認めたようなミスリードを誘うキャプションが付されるに違いない。

一通りの定型文を述べ終えると、ここからが本番だ。

取材記者たちが、まず最初に社名を名乗ってから、鋭い質問を次々に投げてくる。

――写真を拝見した印象を率直に述べれば、実際にお付き合いをされているのではないですか?

「いえ、あくまでTITANさんとは友人です。
お互いそれぞれのアイドル活動がある中でツクヨミも進めなければなりませんので、様々な事情によりどうしても夜通しの合宿のようなことがしばしば発生いたします」

――種々のご事情があるとのことですが、さすがに深夜の邂逅でその釈明は苦しいのでは。
或いは業務の一環だとすれば、かつてのタコ部屋・奴隷労働より酷い人道に外れた生活を強制されているようにも受け取れますが。

「すでに交通網の営業が終了する時間だったとは云え、自宅での打ち合わせをするのは軽率だったと反省しております。
またこれは自主的な勉強会であり、事務所等から指示や強要を受けたものではありません」

――肩を寄せ合い非常に仲睦まじく歩いているように見受けられますが。

「写真には入っていませんが、この手前側に橋脚がいくつも並んでいて、それを避けるのにTITANさんの方へ寄った瞬間を切り取られたのだと思います。
繰り返しますが、友人として、音楽仲間として仲良くさせて頂いています」

演じることは慣れている。

感情にないことを云うのは慣れている。

それでも今この時だけは、意思を自由に表現してはいけない身を呪った。

ジョニーズは云うまでもなく超大手。このようなスキャンダルは簡単に赦されるものではない。

どんなに黒に近いグレーであろうとも、ただの友人関係だと、これは白なのだと強弁しなければならない。

充分知っている。

知っているけれど。

悔しいよ、悔しい。

何よりも、凛は自分の力ではどうにもならないことが悔しかった。

四六時中浴びせかけられるフラッシュの白さを、忘れるものかと目と心に焼き付けることだけが、今の凛にできる精一杯の反骨だった。


凛のマンションが、許可車以外に進入が許されない構造の地下駐車場であることは救いだった。

多くの一般人が住んでいる場所なのだ、開閉式のバーで区切られたところにまで入ってくる不届き者は流石にいない。

仮にいたとしても、臨時に雇った警備員が即座に摘み出してくれる事実は、家にいるときだけ少しの安寧を与えてくれることを意味していた。

会見以降、日頃の通常のアイドル活動でも、インタビュー等で、本来消費者へ伝えるべきことからかけ離れたスキャンダルについての話ばかり掘られ、無念さが募った。

結局、新曲に込められた想いだとか、ツクヨミの展開の狙いだとか、そう云ったアイドルの本質よりも逢瀬の追及が大事か。

悔しさの度に、凛はスマートフォンを叩く。

「今すぐ来て、お願い」

そして栗栖と身体を重ねた。

無論、この一連の負担は凛だけでなく彼にも押し寄せているはずだ。発覚以後、二人の行為はただの処理にも思えるような側面を度々見せた。

それでも、繋がるだけでよかった。

今の凛にとって、セックスとはマリファナやヘロインに等しい存在。

もはやドラッグなしでは生きてゆけない。


どんどん爛れてゆく二人の生活は、予想に反してそれほど大きな騒ぎにはならなかった。

最初のスキャンダルの教訓を得て、徹底的な対策を施したからだ。

観測できないことは、存在しないに等しい。

どんなにお互いの身体を貪り合ったとしても、尻尾を掴まれなければ、世間的には問題は存在しないことになるのだ。

ジョニーズとCGプロ、男性アイドルそして女性アイドルの巨頭同士が本気で組めば――更にはツクヨミを協賛している961や315など各社の力も使えば――メディア対策はそこまで難くない。

週刊誌を連鎖的に賑わすかと思えたスクープは、燃料供給が断たれてじきに下火になっていった。

紅白の話題が出る頃には、もはや紙面の空白埋めに使われるための、ただの噂レベルの小記事が散発する程度になった。

けれども、それで目出度し目出度し――とは問屋が卸さないのが現実だ。

一般大衆の感情に拠る行動原理は、燃料如何に左右されるものではない。

間違いなく嫌がらせは増えた。

「あの醜聞でよく今年も紅白出られるもんだよな、楓さんに譲ればいいのにさあ」

「きっとNHKのお偉いどものハートをガッチリと股で掴んで離さないんだろ」

「ツクヨミだってまだ共同リーダーとかいうポストに留まってんでしょ? 厚顔にも程があるよねー」

街中での会話に耳を傾ければ、尊厳など存在しないとでも云うかの如し下卑た笑いが響く。

芸能人に限らず、得てして公人の人権は大衆から顧みられないものとはいえ――

「こりゃ到底本人の耳には入れられねーな」と街をたまたま歩いていたつかさはコートを締めなおして雑踏へ溶け込んでゆく。

ネット上では酷さがより深刻だった。

凛のファン、栗栖のファン、CGプロ派とジョニーズ派との代理戦争の様相を呈しているのだ。

やれ凛が栗栖を誘った売女なのだの、やれストイックな凛を栗栖が誑かしてつまみ食いをしたのだの、事実無根かつ荒唐無稽なつばぜり合いが繰り広げられる。

無論それぞれの派閥も一枚岩ではないので、友軍攻撃もしょっちゅうのこと。

24時間ひっきりなしに誰かが誰かを罵っている。

幕引きを図り鎮静化させるには、凛と栗栖を引責辞任のような形で消すのが手っ取り早いのだろうが、そうすると今度はアイドル業界全体の問題になるのが頭痛の種だ。

表向きは二人の間には何もないことになっている。どのような理屈をつけて引責させると云うのか。

特にジョニーズにとって栗栖を消すことは即ちSATURNの崩壊につながる。

ただでさえ八馬口の件があったのだ、泣きっ面に蜂の選択は絶対にしないはずだ。

では凛だけに被せて引導を渡す? それもCGプロは到底承服しまい。

凛のソロ活動のみならず、ベキリだってそれなりの利益を生んでいるし、何よりもシンデレラガール経験者にそのような処分を下しては看板に致命的な傷がつく。

結局のところ、ここで退いたら、ツクヨミ含め日本芸能界のこれまでの奮闘全てが瓦解してしまう。

どんなに罵られようと誹られようと、退くことだけは許されなかった。

だと云うのに、業界内の人間ですら、目先のことしか見えていない無知蒙昧な輩は早期幕引きを図って浅はかな主張をするもので、一体誰が誰の味方なのか全くわからない状態だった。

目や耳に堰を立てるわけにもゆかず、誹謗中傷の嵐は、凛の心を、そして栗栖をも容赦なく踏み荒らす。

その度に、凛は栗栖を求めた。

栗栖から愛の言葉を囁かれるのは稀になったが、快楽を流し込んでくれさえすれば、精神の形態はどうでもよかった。

たとえ処理のための道具のように扱われても、彼に貪られている間だけは、何も考えずに済む。

ただ絶頂に身を委ねるだけでよい。

そのために、凛は何でもした。

栗栖の好みの女になろうと、私服の趣味やアクセサリのコーディネイトなど、身の設えを変えていった。

今まで以上に、身体の引き締めや美肌の維持、女としての魅力を磨くことに注力した。

副次的に、アイドルとしてのアピール力が増したのは強烈な皮肉だと云わざるを得ない。何もかも栗栖のためを思って採った行動に過ぎないのだ。

そして求められれば、どんなに変態的な行為にも応えた。

春を迎える頃には、いつしか、栗栖との融合は、倒錯的なものばかりになっていった。

この関係は、恋と呼んでよいのだろうか。

きっと、恋ではないのだろう。凛にとっても、そして栗栖にとっても。

栗栖にとっての凛は、今となっては性的欲求を満たすための、見た目のよい玩具に過ぎないのかもしれない。

翻って、凛にとっての栗栖とは?

凛は行為が終わった後の痙攣の余韻に浸りながら、脳のどこかは不思議と冷静で、二人の痴態を天井から第三者のように見下ろしていた。

栗栖と云う存在は、悔しさを交合で紛らわせるための道具だろうか。

決して間違いではないだろうが、正解でもない気がする。

確かに、まぐわうことで得られる快楽が色々と忘れさせてくれるのは事実だ。

だが、その行為と栗栖の存在はイコールではない。

では、寂しさを埋めてもらうためのパテだろうか。それも違う。

おそらく――必要とされるだけでよいのだ。

「私は……」

隣で後処理をすることもなく寝息を立てている栗栖を横目に見遣る。

――彼が私を必要としてくれるならば、何でもいい。

「……もっと、この人の望んだ通りの女にならないと」

そして凛も意識を手放した。


・・・・・・

「なあ、凛。そろそろヤバいんじゃねえの?」

間もなく初夏になろうかという時分。

相変わらず栗栖との慰み合いを続けていたが、いよいよ身体への無理が顕在化しているようだった。

ベキリでの仕事を終えた凛に、楽屋で心配そうに訊ねてきたつかさの言である。

この日はベキリの新曲のプロモーションを兼ねた、バラエティへの出演だった。

新曲披露のステージはそれなりの出来で完了できたが、さほど激しくないフェミニンなダンスの曲であるにも拘わらず、パフォーマンス直後でもけろりとしたつかさに対し、凛は肩で大きく呼吸をしていた。

更には、司会者からの醜聞に関わる多少意地悪な話題の振りをされた瞬間、対応をとちってしまった。

頭が真っ白になって、正直どんな受け答えをしたのか凛本人は詳しく覚えていない。

つかさは社長業のみならずトークバトルと云うショープログラムで鍛えた喋りのテクニックがあるから、大事になっていないと云うことは、幸いにも彼女の働きで事なきを得たのだろう。

「うーん、ごめん。なるべく色々と気にしないようには……してるつもりなんだけどね」

やっちゃった、と凛は首を竦めて苦笑した。

「ありがとう、つかさのおかげで助かったよ」

「ま、いいってことよ。あんま無理すんなよ?」

長居をせずに上がろう、となったところで、病気を疑うほど痩せた番組ADが「お疲れ様でした」と顔を出す。

やや含みのある表情をしているのが、つかさは気に食わなかった。

どうしても一言云いたくて口をつく。

「なあアシさんよ、センシティブなことはアドリブじゃなくて台本―ホン―に載せてからにしてくんねーかな。さすがにあのフリは社から抗議モノじゃねえ?」

その実、意地悪な質問は司会者のアドリブに見せかけて、スタッフは全員知っていたような印象があった。

つかさの言葉は柳に風で、ADは「いやあやっぱり視聴者を楽しませないといけませんし、ライブ感は重要ですからねえ」と嘯―うそぶ―く。

「あのな、アタシらは芸人じゃねえっつうの!」

ADの、まるで神経を逆撫でするような仕種につかさは沸き上がり、その剣幕にガリが怯むのを見かねた凛が「つかさ、いいよ。いいから」と制止した。

「でもよ!」

「いいんだよ。今はアイドルもバラエティスキルが要求される時代ってこと。今度未央にレクチャーして貰うからさ」

本田未央は凛と同期の第三課で、パッションの代表頭と云える。

その芸人も舌を巻くバラエティスキルは、今やお茶の間になくてはならない人材と云って過言ではない。

ぽんぽんとつかさの肩を叩いて、目を閉じながらADに軽く会釈する。

「体調が思わしくなく、お見苦しいところを失礼しました。次はトークを頑張りますので」

「え、ええ……こちらこそ……またよろしくお願いします」

凛のアンニュイな対応に、ADは鳩が豆鉄砲を食ったようで、牙を抜かれて去っていった。

静寂が楽屋を支配する。

「……つかさ、私のためにありがとうね。厭な思いさせちゃって、ごめん」

「おいおい何を水くさいこと云ってんだよ、パートナーだろ? とにかく、きちんと休養を欠かさないようにしねーとな、頼むぜ?」

「うん……ごめんね」

凛は、全く関係のないはずのつかさにまで影響が及んでいることに気づいて、どうすればよいのか、考えあぐねていた。


===

気づけば凛は、世界が異星人に侵略されシェイクされているのではないかと云う感覚を受けた。

エイリアンの攻撃で燃え上がる炎が肺を焼き、満足に呼吸することができない。

かと思えば今度は海の中に放り込まれて頭を押さえつけられる。まるでヤクザの水責めのよう。

昭和時代の映画か何かの中に入り込んだのだろうか。

いや、これは紛れもなく現実だ。

その証拠に、この世は全てスムージー。

シェイクが止まれば、ドロリとろけて喉に絡むようなジュースの出来上がりだ。

なのに不思議にも、謹製のスムージーは冷たくないのだ。むしろ熱ささえも感じる。

どんなテクノロジーで作っているのだろうかと不思議に思う。

「――ッ!?」

凛は意識が突然覚醒した。

景色は見慣れた自室で安堵する。

しかし苦しい、身体が動かない。

何故なのかと必死に目を動かせば、頭が両手でがっしりとホールドされている。

口に意識を向ければ、中の方まで栗栖が刺さっている。

ああ、息ができないのはこの所為か。

凛はまるで他人事のように納得した。

脳味噌をぐわんぐわんと前後に揺すられ、そのうち喉の最奥で栗栖が果てる。

激しい脈動と共に大量の残滓が流し込まれ、その勢いに、飲み込めない分は鼻腔へ逆流した。

凛自身も目の奥が白か或いは桃色にスパークし、全身を不随意に痙攣させた。すでに嘔吐中枢は麻痺している。

頭の拘束が解かれ、ぷはっと口から抜いて後ろへ倒れ込んだ。

全身が引き攣って脳味噌の指示を聞こうとしない。酸素を求める胸の動きに気道が震え、ヒュウヒュウと喘息患者のような音を発している。

散々な身体の状態に反して、意識は明瞭だった。

効果覿面だね、これ。

凛は部屋の隅で燻っている煙を見つめた。


「栗栖、逢いたい」

収録から帰ってきた凛が3回リダイヤルして、ようやく出た栗栖に開口一番云った。

「ごめん、今夜は別件が――」

「私を優先してくれないの? 私は栗栖から呼び出されれば、全部投げ打って逢いに行くよ? 栗栖は違うの? 私は栗栖に何でもしてあげる。何度でもイかせてあげるから、絶対来て」

凛はそう云って、返事を待たずに電話を切った。否、正確に云えば、それ以上はまともに会話できないであろうと思って切ったのだ。

電話が一方的に切れた栗栖は、じっとスマホの画面を見た。昨今、凛の精神が自己防衛を試みているのか、束縛が強くなった気はしていた。

だが今回のような有無を云わさぬ要求をするのは、様子が違った。

仕方なく、栗栖は隣にいる人物に詫びてから、凛のマンションへと車を走らせる。

ベルを鳴らすも、反応がない。ふぅ、と一息吐いて、合鍵でエントランスと部屋の扉を開ける。

「凛、来たよ」

反応がなかった。

いつもなら飼い主を待ちわびていた犬のように玄関へ飛び出してくるのに。

栗栖は訝しんで、鍵を閉めてからリビングのドアを開ける。

瞬間。

「凛! おまっ、これは!」

目の前で、虚ろな視線の凛が何も身につけずに倒れ込んで、自らを慰めては痙攣に震えていた。

部屋の中には強烈なお香の匂いが立ち込めており、ここに立っていたら燻製にされそうなくらいの煙まで漂っている。

すわ火事かと思えば、火災報知器はご丁寧にもカバーで覆われていて、故意にやっているのだと理解する。

だがそれを把握した刻にはもう遅かった。身体に力が入らず、膝から崩れる。

倒れた視線の先には、『ハーブ』と、スタミナドリンクの空き瓶が転がる。

凛はついに心が耐えられなくなり、とうとうハーブに手を出したのだ。

スタドリを煮詰めて蒸発させた残留物をハーブと共に燻らせて、異常な効能を味合わむとしたのだ。

「あ~、栗栖ぅ」

凛が、焦点の定まらない双眸で自身の近くに伏臥する栗栖を捉えた。

凛の腕が、脚が、指が、舌が、栗栖に巻きついてゆく。

それからのことは、二人とも記憶にない。

ようやく凛が異星人のスムージーをきっかけにこの世へ戻ってくるまで、どんな交わりをし、何度絶頂へ登り詰めたのか、知る由はなかった。


今日はここまで

わー、クスリに手を出したのかー(棒読み)

音楽に男に薬と、いよいよ壊れ方が異常になってきましたね。先に待つは廃人か……それとも

平然と麻薬を燻すのに使われるスタドリ

>>406
「ハーブは植物だろ? なぜハーブを禁じる!? たくさん使うほどラスタに近づく。」

>>407
モバマスのスタドリはヒロポンが世を忍ぶ姿ですからね


凛の魂がひとまず戻ってきてから、脳が正常化し動けるようになるまで40分ほど掛かった。

それまで意識はありながらもどこか自分ではないような無重力下にあったものが、或る瞬間、いきなり全て、精神も肉体も重さを感じるようになり、自分の制御できるところへ戻ってきたのだ。

身体にこびりついた精の匂いが脳を揺さぶる。

無意識でのまぐわいで相当な負担が身体に掛かったとみられ、凛は感覚が戻るや否や手洗いに駆け込んで嘔吐した。

途方もなく長いと思えるほど胃を締め上げる身体の防衛反応の結果、吐瀉物はかなりの量で、白く、粘性が高かった。

ふらふらになりながらも、一体どれだけ飲み込んだのか、翻れば栗栖は一体どれだけ出したのか、末恐ろしくなった。

「シャ、シャワー……浴びなきゃ……」

常識的思考が戻り、鞭を打って足を動かす。

行く手を遮るガラス戸がこんなにも重いものだと感じたことはかつてない。

寄り掛かるように全体重を乗せて何とかドアが開くと、勢いが余ってバスルームの中へ倒れ込んだ。

蛇口を求めて手を伸ばすが、まるで届かないので、這いつくばって進む。わずか1メートル未満の距離が1光年もの長さに思えた。

ターミネーター2でのT-800はこんな気分だったのかと少しだけ理解できた気がする。

劇中、T-800はT-1000の手で鉄製の棒を串刺しにされたが、凛に突き刺さるのは恵みの熱い雨だ。

よろよろ立ち上がって浴びている間に、栗栖も凛と同じ経過を辿ったようで、手洗いの方でドタバタ音がした。

じっくり念入りに全身を濯いでからリビングに戻った凛は、壮絶な現場跡を見て頭を抱えた。

「うわー……」

足の踏み場がないとはまさにこのこと。

どんなに気をつけて移動しようとしても二人の体液が足の裏に張り付き、まるで真冬の外に放置していたサンダルを履いた時のような冷感を一歩ごとに与える。

後片付けのことに思考が至るや、途方もなく気が遠くなった。

ただ、掃除をしている間は余計なことを考えなくて済むだろう、と云う点だけはありがたいと思った。

ふと、ムーンストーンのブレスレットが床に散らばっているのが目に入った。

激しい行為の最中に引っ掛けでもしたのだろうか、チェーンがぶっつり切れて固く絡まり、体液もべとべとに塗れて最早アクセサリとしての体を成していない。

「ああなんてこと……」

手に取ろうと身を屈めれば、やや離れたところに放られた栗栖のスマホが、着信に震え続けていた。

拾い上げると、そこには新進気鋭のアイドルプロダクションに所属するエースの名前が表示されており、アイコンは栗栖と二人仲睦まじいショット。

ああ、そうか。

そうだったのか。

「栗栖にとって、私は代えの利く玩具だったわけだね……」

半ば、こうなるかも、と予測していたことではあった。

しかし、それでも。

どうして。なんで。

バイブレーションの止まないスマホを眺めながら、思考はぐるぐる塒―とぐろ―を巻く。

だいぶ長く着信を試みて、ようやく力尽きたように止まった。

どれくらい立ち尽くしていたのだろうか、ドアが開く。

「栗栖。さっき彼女さんから着信きてたよ」

視線は向けずに云った。

「……そうか」

「どうして?」

凛はそれだけ云う。時計の秒針の音だけが、妙に大きく聞こえた。

「私は、栗栖の望む通り何でもするよ。たくさん、もっとたくさん、シてあげる。血も肉も臓腑も、全て貴方の好きにしていい」

ゆっくり、静かに、諭すように語る。

だが、落ち着いた良い子ぶるのは限界のようだ。

「どうして! どうして私じゃダメなの?!」

今更云っても仕様のないこと。それでも訴えを禁じ得ない哀れな凛に、栗栖は、余命宣告をするかのように淡々と告げる。

「凛への最初の想いは本物だったよ。俺から告白したようなものだったし。でも――」

栗栖の声音から、もはや自分が彼の心の中にいないことが、凛には判った。

「凛はもしかしたら気付いていないのかもしれないけど」

やめて。

凛は、目の前がどんどん暗くなる。

「もはや凛は依存症に陥ってる。俺にとって、もう凛は重すぎるんだ」

やめて。やめて。

「事務所同士の事情も、ツクヨミの状況もある」

やめて。やめて。やめて。

「これが、最後になる」

やめて! やめて! やめて! やめて!

「今日で終わりにしよう」

凛は崩れ落ちた。びちゃり、と濡れる下肢に意識は向かない。不思議と泪も出ない。

凛の中で、彼女自身の20余年が瓦解してゆく音がする。

栗栖が静かに去ってゆく。去り際、凛とのこれまでの思い出に、胸が張り裂けそうな表情をみせた。

それも束の間、目を瞑ってかぶりを振り、しっかりと、ゆっくりと歩を進める。

閉まる玄関扉がガチャンと鳴って、凛が、女にも、アイドルにも戻れなくなってしまったことを告げた。


・・・・・・

「はい、恒例のお荷物チェックですよ」

ちひろがPのサイドテーブルに、膨大な量の配達物が入った段ボールの一角を仮置きした。

パソコンでメールのやりとりをしていたPは、「おっとすみません」とキーボードを打つ手を一旦止めて、溜まった書類をどかす。

滑った紙が、ばさばさと床へ落散した。

ツクヨミの戦略に関する契約覚書の回覧フォーマットだったり、凛のドレスアイデアがスケッチされた厚手のクロッキー紙、新曲になるはずだった譜面のラフ。

他にも様々な用紙が雪崩を打って落ちてゆく。

「ああ、こりゃいかん」

慌ててPは拾い集める。ちひろが少し済まなそうな顔をして、「よいしょっと」と云ってサイドテーブルに箱を据えた。

「なんか申し訳なかったですね。
この荷物もかなり量が多いですから、書類が片付くまで一旦Pさんのクローゼットにでも仕舞っておきますか? この後少し時間あるのでチェック手伝うこともできますよ」

だいぶ重かったのだろう、両肩を交互に叩きながらちひろが問うた。

「ああいえ、後ですぐ確認しますから。ここへ運んできてくれただけで大助かりですよ。ありがとうございます」

Pはちひろに礼を述べ、駄賃代わりのスタミナドリンクを差し出した。

「ふふふ、いいんですよ。スタミナドリンクは私の専売アイテムですから、Pさんから頂かなくても大丈夫です」

いつもと変わらない笑顔を向けて、ファイト、とエールを送ってから第一課を出ていった。

机に向き直ると内線が鳴る。

営業部からの外線取り次ぎで、マスコミ対応を依頼された。

「はいお電話代わりました、制作部第一課のPです――その件は弊社渋谷とは関わりありませんので。事実無根の風説です。では失礼します」

スピーカーからまだ何か喋る声が聞こえてくるのを無視して、受話器を置く。はぁ、と短い嘆息を零した。

昨今のマスコミもレベルが墜ちたものだ。

丁寧な裏取りや検証などを地道に進めてゆくのが記者の役目だろうに、自ら考えることを放棄し直接正面から訊きにくるだけ。

更にはこちらの都合を考えない事前アポなしの電凸ときた。これなら業務の邪魔にならない分、噂話の未確認三文記事の方がまだマシだ。

ちらりと、別の机に置いてある大手新聞社から確認を要請されたゲラを見遣る。

凛やツクヨミにフィーチャーした記事内容で、大方の内容に問題はない。

しかし話題がどうしてもスキャンダルの方へ引き寄せられていってしまうのは性と云うものだろう。

若干抵触してしまった当該箇所に赤を入れて、手数を詫びつつ別の問答への差し替えを依頼してある。

炎上させれば中身は何でもよい週刊誌や大衆紙と違い、この新聞社ならば、きちんとこちらの意図を汲み、整えた記事を最終的に読者へと届けてくれるだろう。

雪崩た書類を一旦まとめて床へ置いておき、配達物の確認をしようと段ボールをごそごそ漁る。

中身はPが担当しているアイドルへ送られてくる手紙や小包だ。全部一緒くたに入っているものだから、まず第一段階は仕分けから始まる。

初期の頃なら9割9分を凛宛てが占めていたので楽なものだったが、最近はつかさ、ジュニ、それぞれへ宛てられたものも多い。

仕分けの手間は、担当アイドルが躍進していることへの嬉しい悲鳴と云えよう。

それでも、大方の選別を済ませると、明らかに凛宛ての手紙が多い。

割合と云うよりも、昨今は絶対数が多くなった。これは例のスキャンダル以降とみに顕著だった。

一通ずつ開封し、中身を確認する。

純粋なファンレター。アイドル本人のみならず担当プロデューサーとしても嬉しいものだ。

なぜか凛に宛てられた謎の売り込み営業。差出人の意図が全く理解できない。

送付先の認識を誤ったとみられる凛担当ラジオ番組へのリクエスト葉書。哀れに思うがPは何もしてやれない。

そして――攻撃的な中傷。

一通々々、しっかり確認する。

凛へ回してよいもの、よくないもの、きちんと選別する必要がある。一つたりとも漏れてはならない。

或る手紙の封を切っていると、指先に鋭い熱を感じた。

「……またか」

封入された剃刀が、Pの左手人差し指に一筋の赤い線を作り出した。

ティッシュを取って、珠のように浮いた血液ごと傷口を押さえる。

切れ味のある刃物で出来る傷は、深手さえ負わなければ逆に治し易いから楽だ。少し止血すればそれだけで済む。

これまでで最も衝撃的だったのは、五寸釘が打ち込まれた藁人形と、それに同梱されたセアカゴゲグモだ。

もし無検閲で凛に渡していたら、と思うと身の毛がよだつ。

明確な憎悪が込められた贈り物が届いたことは、CGプロの中でも一握りの人間しか知らない。

このように身の危険を感じるものは流石にさほど経験はないが、他にも、およそ日本語で考え得るありとあらゆる罵詈雑言を駆使した攻撃がしたためられた手紙は大量に届いている。

単純に口汚い罵りだけなら、逆に何とも思わない。まるで生産性がないし、便乗する愉快犯も多い。

だが中には、長いこと追ってくれているらしいファンから、丁寧な筆致と穏やかな口調で、しかし内容は急所を突く悲痛な訴えがたまに届く。

これにはPは堪えた。

「貴重なご意見、まことにありがとうございます」

そう独り言ちて、封書に軽く頭を下げる。

専用のエンベロープケース――『地獄への戒め』と書かれた容器に仕舞った。

これらのような庶務――しかしそれでいて担当アイドルのために絶対必要なプロデュース業務――がとてつもなく増えた影響で、担当アイドルたちの日の目を見る機会がめっきり減っていた。

それどころか、新曲の監修や各種衣装へのアドバイス出し、レッスンの様子のチェック、アイドルのモチベーションのフォローアップ……諸々のやるべきことが全て滞っている。

先日もベキリとして珍しいバラエティへの出演があったはずだが、満足に見守ることもできないまま、凛とつかさの組み合わせなら大丈夫だと送り出したことがあった。

もちろん、つかさにも大なり小なり負担が掛かっていることは間違いないだろうから、近いうちにフォローをしなければと思いつつ実際は進められていない。

もどかしい思いが先行する。

「全ては業なんだよな……」

これは、自分の蒔いた種だ。

凛がムーンストーンのアクセサリを着け始めた段階で阻止しておくべきだったのかも知れない。

何年も前、自身に好意を寄せ始めているのを察知した刻は、アイドルとPの関係は許されないことだと叱った。

それ以来、凛は女の感情を仕舞い込んでしまった。

無論それはアイドルとしての活動には理想的なことだと云える。

――だがそれでは、アンドロイドと何が違うのだ?

今回は、アイドル同士。

本人たちさえ望むならと、久方ぶりに人間の感情を思い出した凛を押し留めるのが怖くて、もしかしたら抑制することで今度こそ壊れてしまうかもしれないと云う一種の恐怖から、何もできなかった。

凛が大事すぎるがゆえの、躊躇い。

しかしプロデューサーにとって傍観とは、罪だ。Pは間違いを犯してしまった。

せめて、今以上に状況が悪化しないよう奔走しなければ。

指を組んだ両腕に額を乗せる。

目を閉じて、深い呼吸を何往復か繰り返す。

また内線が鳴った。今度は来客の報せだ。

今日はこれから田嶋との今後についての打合せが入っているのだが、予定より30分も早い到着にPは驚いた。

待たせるわけにもいかないので、別の会議室をすぐに確保し直して、ロビーへと迎えに上がった。


・・・・・・

凛はスキャンダル以来、狂犬だともヤマアラシみたいだとも比喩されていた元々の雰囲気に加え、アンニュイな味を纏うようになった。

そして最近は、どこか解放された感じにも見える達観した尼のようだと囁かれている。

この日は、新しい衣装を作るための打ち合わせを社内デザイナーとしていた。

今回は、経験を積ませるために若手にリードデザインを任せ、ベテランが補佐につく形式で進めるらしい。

いつもならこれほどに制作体制を変更させる際にはPが同席するのだが、生憎アポが重なったらしく凛だけが参加していた。

「これまではあまりダブルブッキングなんてしなかったんですけどね、Pさん」とは重鎮の言だ。

新進気鋭のルーキー、岩見沢は鼻息が荒い。

「やっぱり渋谷さんは、以前みたいな、瑞々しい一種の健康的な肉感を少しは出した方がいいと思うんですよ」

熱弁が、小会議室に響く。

「確かに歌姫と云われていますけど、渋谷さんの源流は歌手じゃなくてアイドルじゃないですか。ファンを目でも愉しませてこそかなと。
最近のシック系だと、ダンスもしにくいでしょう?」

凛は、曖昧に「うーん……」と愛想笑いで相槌を打つことしかできない。

よもや男の痕を隠すためだとは到底云えまい。

「デビュー当時の、ニュージェネレーションのドレス。あれって本当に最初から完成されていると思います。
ローマの胸像のようにすっきりと魅せる肩や鎖骨のライン、シュッと無駄なく締まった大腿など、露出させるべきところはさせて、布で覆うべきところは覆っている。
コルセットで絞りつつすぐ下はパニエスカートで拡げるあのシルエットは最高です」

「なんかちょっとくすぐったいな、そこまで評価して貰えると……」

何でも、シンデレラガールを獲った時分の凛に憧れてアイドルの服飾を志したと云うので、気恥ずかしさに頬を掻いた。

ひとしきり熱く語った岩見沢が、急にしゅんと肩を落とした。

「以前、Pプロデューサーに思い切って疑問をぶつけてみたんです。でもそうしたら強い調子で『これがプロデュース方針だ』って。
……もったいないですよね。もちろん自分たちは指示には逆らえないですけど、プロデュース側とデザイン側とが一緒に練り上げてこそ渋谷さんをもっと輝かせられると思うんです……」

凛は初めて耳にする事実に驚き、狼狽した。

あわや表に出やしないかと必死で表情や仕種を取り繕う。

社内の反発を承知の上で、“方針”の名の許に有無を云わさず露出低減を推し進めていたなんて。

Pは社での立場を脅かしかねない綱をずっと渡っていたのか。

このままではPだけが悪者になってしまう。凛は必死に頭をフル回転させた。

「私にはどっちの意見もわかる……かな。ほら、どうしても時間には逆らえなくってさ。今更になって肌を晒すと色々云われそうで。
絶対色々なところで『【悲報】JKだったしぶりんが劣化www』とか貶されるでしょ」

自分に同調しない凛の答えを聞いて、岩見沢が残念そうな顔をする。

自らのことを思ってくれるが故の熱意が凛は少しだけ気の毒になって、「まあ、でも――」と予定にない言葉がつい口に出た。

「ちょっと鍛え直すから、そしたら是非その案を具現化して貰える?」

栗栖と終わってしまった今、どうせそのうちこの“刻印”は消えてゆく。

もはやアイドルには戻れないと云う諦めの気持ちはある。それでも、目の前の落胆する岩見沢や、悪者に仕立て上げられそうなPへのフォローを考えれば、方便は必要だった。

消沈していた表情がみるみる輝きに変わってゆく。

「はい! 悲報どころか朗報って云わせてやりますよ!」

この場では次回のシック度合いだけ決めて、詳細はまた改めてPを交えて詰めることとなった。

プロデューサーに謝らなきゃ――。

凛は話し合いの内容を記憶しておく余裕はなかった。


廊下を早足で駆けて、第一課のドアを邪魔だとばかりに押し放つ。

「プロデューサー、いる?」

しかし凛の声に反応するのは、第一課の別アイドルの担当しかいなかった。

「Pさんはさっきから席を外してるよ。アポが長引いてるのかもね。ちょっと色々と業務が回ってないみたいだよ」

凛は出端をくじかれて肩を落とした。

今のうちに云いたいこと云うべきことをまとめられる時間ができたと考えよう、そうポジティブに思い直して、ソファへと腰掛ける。

少し座っている間だけでPの席の内線は3度鳴り、ガチャリとドアの開く音がしてはトレーナーの青木明や興行部の遠藤がPの所在を尋ね、いないことが判ると困ったような顔を浮かべて去っていった。

相当色々なことが込み入ってそうだ。何か助力できることはないだろうか。

ただ座して待つだけなのも忍びない凛はそう思って、早速鳴った4度目の内線に出る。

「はい3階、代理で渋谷凛です」

『あれっ? えーとPさん不在ですか』

アイドルが内線に出たせいか一瞬驚いたような声音で、しかしすぐに業務に追われ驚きを思考から放逐したように質問を寄越してくる。

「はい、プロデューサーは別のアポの対応中らしいです」

『あー……、読買新聞さんから外線で校正結果の照会が突かれてんだけど、どうなってるのかな。流石に渋谷さんじゃ判らないよね』

電話口の向こうから困惑と苛立ちの雰囲気が感じられた。

「うーん、ごめんなさい、ちょっと……はい、伝えておきます。では」

日々の業務については何の補佐にもなれない現実を突きつけられ、凛は無力さを感じた。

受話器を置いて、はぁ、と嘆息すると、ふと、床に散らばる紙の束が目に入る。楽譜と思わしきものもあった。

「あれ、そういえば……」

ベキリやツクヨミの新曲をPが書きおろす企画が挙がったと云う話を耳にしたことがあった。結構前のことだ。

だが、手に取った譜面用紙は到底完成されているようには見えない。

めくってゆけば、『間に合わん』とだけ走り書きされ、太い朱で大きなバッテンが刻まれていた。

昨今のタスク量で手が追い付かず破談となったことが窺えた。

これまで凛の楽曲をいくつか手掛けてきたPのことだ、ツクヨミ向けともなればきっと腕が鳴ったことだろうに。

Pに無理を強いてきた物証がこうやって続々と顕れてくると、その度に凛の胸には棘が突き立てられる。

今や心は裁縫のピンクッションのようで、空き場所が見当たらない針の山だ。

頭を抱えて立ち上がると、サイドテーブルに血のこびりついた剃刀の刃が置かれていることに気づいた。

「これは……?」

髭を剃ろうとして誤って切った……とするならば刃が単体で置かれているのは妙だし、よもやPが自殺を企てたわけではあるまい。

よく見れば、刃の置かれている紙には宛名に『渋谷凛様』と書かれている。

もしや――

「この剃刀、私宛……?」

それだけではない。

傍に鎮座する大きな段ボールに入れられた大量の手紙や小包は、普段凛がPから定期的に渡されるファンレターの量とは明らかに差があった。

凛は、弾け飛ぶ勢いで段ボールを漁った。

慎重に、それでいて時間を無駄にしないよう手早く。

開封する度に、油田の如く溢れ出す悪意の暴風雨。

ソーシャルネットワークで罵詈雑言はよく目にしたし、或る程度の耐性は身についていると思ってきたが、ただの思い上がりだったようだ。

こうやって物理的な存在として訴えかけてくるのは堪えた。

手紙だけならまだよい。

画鋲だったり、引き裂かれた写真だったり、文字以外の実体で伝えられる憎悪がとても怖かった。

なまじ、これまでPたち裏方がフィルタリングをして堰き止めていたことで、端末の画面で見るだけの文字とはレベルが違う、直接触れる機会が皆無だった醜悪なものへは耐性が醸成されていないのも不幸だった。

Pは、こんな毒気にずっと中―あ―てられ、耐え、庇っていたのか。

こんなクズみたいな自分のことを、色々やらねばならない多量のタスクを放り投げてまで、戦友は守り続けていてくれたのか。

「バカみたい……」

自分は、本当に、バカみたいだ。

「一番近くで私のことを一番に想ってくれるヒトがいたのに、傷つけて、ずっと傷つけて――」

足の力が抜けた。

がくりと項垂―うなだ―れ、膝を突くと、OAフロアの床に、一つ、二つと濡れた染みが出来上がる。

凛の嗚咽をよそに、田嶋と胃の痛くなる長い協議を終えたPが、溜息を吐きながら戻ってきた。

その顔には見るからに疲労の色が滲んでいるが、同僚からの作業状況を照会する質問が方々から飛んでくる。

自らのところでボールが止まっていることを詫びてから、急いで処理しようと執務机へ歩を進めると、うずくまっている人影を視認した。

すぐにそれが渦中の人物だと直感すると、田嶋の早い来訪に慌てるあまり送付物を仕舞い忘れた痛恨のミスに気付く。

「り、凛!?」

どうした大丈夫か、と駆け寄って支えようと手を伸ばしたところで、凛は弱々しく息を吐く。

「ごめん……」

云いながら顔を上げた。滂沱の泪を流していた。

「ごめんね……」

気丈だったはずの凛が哀しい顔で詫び続けるのを見て、Pは、宝物をついに守り切れなかったのだと認識した。

「私……プロデューサーのような才能あるヒトをダメにしちゃった……」

赦しを乞う言葉を、壊れたレコードのように何度も何度も繰り返す中、剣呑な空気を感じ取ったPの同僚たちが、何ぞ問題が起きたのかとざわつきつつあるのを凛は感じた。

これ以上騒ぎを起こしてPを陥れてはならない。

「本当にごめんなさい」ともう一度付け加えてから、がくがくと震える両脚に喝を入れて、第一課を飛び出す。

誰の目にも触れないよう、廊下の端に設けられたベランダへの鍵を開けて駆け込む。

ここは緊急時の避難梯子が据えられた場所で、普段はまず人の来ない部分だ。手近で一人になれるのはここにおいて他にない。

どのように詫びればよいのか、もはや凛には判らなかった。

そもそも詫びたところで取り返しのつかないことに変わりはないし、アイドル活動で挽回しようとしても市場が赦してくれるかは未知数だ。

むしろ赦してもらうためには、Pはさらなる奔走を要求されるだろう。

結局どうやってもPの負担になる未来しかないのだ。

PもPとて、何とか追わなければと思うのだが、凛のあれほどまでに自責する言葉や表情は、8年も一緒にいるのに初めてのことで、身体が動かなくなってしまった。

どのようにフォローするべきなのか、もはやPには判らなかった。

どんな言葉を投げても凛の負担にしかならないだろう。

かと云って語り掛けなければ、この不幸な現状維持が続くだけだ。

「一体、どうすれば……」

呆然と立ち尽くすPの後ろで、内線が鳴り止まない。


今日はここまで


・・・・・・

凛は、つかさからの電話で叩き起こされた。どんよりと雲が低く立ち込める朝だった。

「おはよう、ありがとうつかさ、助かった」

『え、なんのこと?』

開口一番の謎の感謝に、つかさは虚を突かれた。

「起こされたとき、厭な夢にうなされてたところだったから」

『……そうか』

最近、夢見が滅法悪い。

ファンタジーな内容から現実味あるものまで幅は広いが、そのどれもが何らかの形で蝕まれる悪夢だった。

叫んで起きるか、寝汗をびっしょりかいて息を切らしながら起きるかのどちらかだ。

して、つかさは何の用事だろう。この日の凛の仕事は夜から。まだまだ時間があるはずだ。

『ああそうそう、そうだ、Pが今どこにいるか知らね? 会社に来てないんだよ』

いつも堂々と構えているつかさにしては珍しく、少し焦燥の声音が混じっていた。

「プロデューサーが? まさか寝坊なんてする人じゃないでしょ、どこかへ直行直帰とかじゃなくて?」

『今日はアタシのトレーニング方針会議があるんだ。トレーナーさんと管理栄養士さんを交えてのヤツ。
電話は電波が届かない。今までこんなこと一度もなかったのに』

その実つかさは緊張しいではあるのだが、鋼のプロ根性でそれを表に出すことがほとんどない。

相棒への電話だからあまり取り繕わなくて済むと云うこともあろうが、彼女の気骨でも隠し切れないほど心を砕いていることが伝わってきた。

「……わかった。私は仕事までまだ時間あるから、調べてみる。つかさは、一旦プロデューサーなしで進められる?」

『あ、ああ。たぶんそこまで大きな舵取りの変更はないはずだから……』

了解、とお互いに頷き合って電話を切る。

――プロデューサー……まさか、気に病んで自殺なんてしてないよね……。

凛は不穏な思考が浮かぶのを、「ううん、そんなわけない」と頭を激しく振って掻き消した。

「ちひろさんとか、会社関係で動ける人は全員動いているはず。私が思いつくことならもうみんな済ませてるよね……」

凛は、Pに関する独自のオンリーワンな情報網は持ち合わせていなかった。早速詰んだ。

「プロデューサーが行きそうな場所を虱潰しに調べるしか……」

凛は取るものも取り敢えず、自宅を飛び出す。

天候のせいで陰鬱な重さが支配する窓の外を見ながらマンションのエントランスを走り抜けると、前方から、大きなサングラスで目元を覆い、黒いスーツとオーラを纏って歩いてくる人物があった。


===

Pはずっと潮騒を聞いていた。

聞いていた、と云う表現は語弊があるかもしれない。

P自身は耳に届く空気の振動を意識していないからだ。

人気のない、ごつごつした岩場から釣り糸を海へと垂らし、それでいてリールを巻く気が微塵もない体で、寄せては白い泡となって消えてゆく波をずっと網膜に映しているだけだった。

今、Pの頭の中を支配しているのはたった一つ。

凛の、泪に濡れた顔。

どうやってもその顔を晴れさせる方策が思い浮かばず、前にも後ろにも進められず、気付いたらこんなところにいた。

今日はつかさ関係の業務があったはずだ。

また彼女に迷惑を掛けてしまった。合わせる顔がない。

こんなに不甲斐ない人間だったか。

こんなに情けない男だったか。

だがこの立場でどうしろと云うのだ。

Pの脳内をぐるぐるいつまでも遣る瀬無い思考が渦巻く。

「――釣れるかい」

ふと、後ろから声を掛けられた。

こんな荒涼としたところに一体誰が――そう思いながら振り向くと、かつて見た人懐っこい顔は封印して、真面目な笑みを浮かべた沈が立っていた。

「……ふむ、どうやら釣る気はないようだ」

竿の状態を一瞥して云う。

「なら浮きも入れない方がいい。期待して集まる魚が気の毒だ」

そう忠告しながら、よいしょ、とPの傍の突き出た岩に腰掛けた。

「沈社長、なぜあなたがここへ?」

「たまたま通り掛かっただけだよ。私は海が好きなんだ。そうしたら妙な雰囲気の人が一人ぽつんといるのでね。様子を見にきてみたらPプロデューサーだった。こんなこともあるもんだね」

私の放浪癖もあながち無駄ではないもんだ、と沈は相好を崩した。

「Pプロデューサー、やはりあなたは姜プロデューサーと似ているな」

「……え?」

「彼も失意の底にいるとき、こうやって釣る気もない竿を波打ち際で掲げていたよ」

「あの彼が?」

いつも見掛ける彼は泰然自若とし、強力なリーダーシップでR.G.Pを率い、悩みとは無縁そうな振る舞いをしているのに。

Pの感想に沈は、825を超人集団だとでも思っているのかね、と声を出して笑った。

やや呼吸を落ち着けて、遠くの海原を眺める。

「渋谷さんの件ではだいぶ揺れているようだね。いや、激震と云えるか」

Pは何も答えなかった。

いや、答えられなかった。

今回の騒動に関して迂闊なことは何も喋れないからだ。

そう、社内でさえ口に出すのが憚られるくらいに。

「大丈夫さ――」沈は海を見たまま優しく云った。

「日本芸能界の人間だと全員が利害関係者になってしまうだろう。一種、外様の私が最もニュートラルだ」

Pを向いて頷いた。

「……お恥ずかしい次第です」

Pは竿を仕舞おうと引き揚げながら、ようやく一言だけ返した。

沈は大きく息を吸って空を見上げ、ふぅ、と吐く。

「姜プロデューサーを825へスカウトしたのもこんな天気の日だった」

そのまましばらく厚い雲の広がる白い天を仰ぎ続ける。

「……かつて姜プロデューサーは担当アイドルを死なせてしまったことがある」

沈の訥々とした語りに、Pは驚愕の目を見開いた。

あんな栄光を謳歌する姜にそのような過去があったと? 俄には信じられなかった。

「スジの双子の妹さんでね。彼はそのせいで一旦芸能界から身を引いたんだ」

でも、と沈は目を閉じる。これまでの825の軌跡を反芻しているようだった。

「当時一般人だったスジと偶然出会ったことで、そしてR.G.Pと云う導くべき船ができたことで、彼は立ち直れた。ま、大部分は私が嗾―けしか―けたせいでもあるがね」

彼は幸運だったんだ、と目を細めてPに笑い掛けた。

「Pさんの場合はもっと幸運だ。なぜなら、まだみんな生きているじゃないか。生きているなら幾らでもやり直せる機会がある」

「果たして自分にやり直せるか……凛を事実上殺してしまったようなものです」

Pは沈の目を見て、静かに息を吐いた。

少しだけ考える時間を取ってから、沈は「云い方を変えよう」と人差し指を立てる。

「生きていれば、人間誰しも幸福を目指すことができるんだ」

「幸福を……目指す……」

「そう。では幸せとはなんだろう? 金持ちになること? 有名になること? いや、それらは本質ではない。幸福とは、精神の在り方なんだ」

沈は自らの胸板を軽く叩く。

「心次第だからこそ、生きてさえいれば、Pさんは渋谷さんと再び向き合って、幸福を追い求める手助けをすることができる」

それがプロデューサーの役目だよ、と沈は笑った。Pはその笑顔をじっと見る。

「生きてさえいれば、いま少しだけ立ち止まってしまったとしても、再び幸福を追い求めて歩き出すことができる……」

「そう、その通りだ」

Pはシンデレラを輝かせるための魔法使いに思いを馳せた。

シンデレラの幸福を手助けする魔法使いは、他ならぬ自分たちプロデューサーだと云うことを忘れてやいまいか?

魔法使いが塞ぎ込んでいて、シンデレラに魔法をかけてやれると思うのか?

何をぼさっと立ち竦んでやがる。お前の足は飾りか? 担当アイドルを導くための担当プロデューサーだろうが、さっさと歩けこのヘッポコPめ。

Pは、自らの心の中に燻っていた凛への様々な想いが、コークスを炉に入れたような滾りを見せるのを感じた。

「お、瞳に光が戻ったようだ」

一瞬の変化を沈は見逃さずに破顔した。

「沈社長、ありがとうございます。本気で凛と向き合ってこなかった自分を戒めて、やり直そうと思います。でも――」

Pがほんの少し逡巡するのを見て沈は小首を傾げた。

「……どうして825でもない他人の私にこのような救いの手を?」

ああそんなことか、と肩を揺らす。

「ライバルが元気じゃないと、お互いに成長できないものさ。寡占市場はいづれ腐る」

よいしょ、と沈は立った。潮風に上着をはためかせ、Pをじっと見る。

「日本市場のトップが元気ないのは、我々にとっても不幸だからね」

国内の芸能関係者ではこのような一種堂々とした開き直りは不可能だっただろう。

それでも、いまPに必要なのはそれによって齎される発破だった。

「さっき私は魚を気の毒だと云っただろう? それは担当アイドルに対しても同じなんだ」

期待をさせるだけさせて、放置するのは悲しいこと。

担当アイドルときちんと向き合う刻がきたよ。そう云って沈はPの後方を指差す。

示す方向を振り返ると、姜の隣に、凛がいた。


今日はここまで


「――どうして私のところへ?」

姜が運転するプジョーの助手席で、凛はハンドルを握っている隣の男に、迎えにきた理由を問うた。

「魔法使いの首領―ドン―に仰せつかってね。城へ向かうシンデレラを乗せる馬車の馭者役をしているのさ」

シンデレラにフィーチャーすることの多いCGプロに合わせた表現をして、姜は使い走りの状況に若干「やれやれ」と云う空気を纏わせつつ笑った。

「私が家を出ようとしたまさにそのタイミングで来るなんて、まるで狙いすましたかのよう」

そもそも詳しい居住地はCGプロ内のごく一部と栗栖にしか知らせていなかったはずだが。

「蛇の道は蛇、ってことだ」

姜はそう云ってはぐらかすように加速した。

このSUVは姜の愛車だそうで、本拠地である韓国でも同じ車種に乗っているらしい。

ドライブフィーリングは日本車ともドイツ車とも違い、フランス車に特有の、ふわっとしていながらしなやかなコシがとても新鮮だ。

「この車が、スジさんと熱愛スキャンダルが報じられた時のものなんですね。私を乗せてるとまたあらぬ誤解のネタになってしまうんじゃないですか」

「……よく知ってるな」

姜は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。

凛はこれまでR.G.Pの情報を収集してきた中で、熱愛報道のログに触れていた。

姜もまた、雨降りしきる夜に私用車の中でスジと並々ならぬ雰囲気を出していたと、激写スクープされたことがあったのだ。

「正確には、この車ではなく韓国での俺の愛車だが。ハンドルの位置が左右違う」

ウインカーを出しながら、右ハンドルには中々慣れないとぼやく。

「あのスキャンダルは、R.G.Pそして俺にとって試練だった」

姜にとってあまり話したくない記憶だろうに、一つ一つ言葉を選んで、ゆっくり語る。

説明によれば、実態は、スジの家族についての繊細な話をしていたに過ぎなかったらしいのだが、外から見ている人間に判ろうはずがない。

姜やR.G.Pもまた、自らの意志とは関係なしに火事が拡がってゆく経験があったのだ。

「それもあって、渋谷さんの今の状況には同情を禁じ得ない部分があってね」

「私の場合は……自らの我儘が招いた結果ですし」

「人間なら仕方のないことさ。アイドルは機械じゃない」

感情もあれば生死もある、と姜は深い溜息を吐いた。

「……そのように“先輩”に云って頂けると、救われます」

「不祥事の先輩――ね」

複雑な感情を顔に出しつつ、違いない、と姜は笑った。

凛は進行方向をまっすぐ見据える。

「確かに、アイドルは……私は機械ではありません。ですが、人間だからこそ責務があります。各方面に、そして何よりプロデューサーに大きな迷惑を掛けてしまいました」

凛の、芯のはっきりとした独白に、姜は静かに耳を傾けている。

「どうして自分はあのような行動を取ってしまったのか、今では自分で自分のことがわからないんです。悔やんでも悔やみきれません」

しばし会話が途切れる。エンジンやタイヤの生み出すロードノイズが車内を支配する中、姜はおもむろにハンドルを切った。

「その気持ちがあるだけで充分なんじゃないだろうか。少なくとも俺はそう思う」

速度を落としたプジョーが、海浜公園の駐車場へと滑り込んでゆく。

先端まで走って、キッと軽い音を立てて止まった。

「舞踏会の会場へ到着ですよ、お姫様」

「……こんなところに?」

天候もさほど良くない上に時間帯の所為もあってか、人影が全くない。

アイドルがこの地を歩くと云う観点からは誰もいない方が歓迎すべき状況ではあるが、本当にPがいるのか、俄かには信じ難かった。

「社長からの連絡によれば、ここらしい」

姜が先に降りて、助手席側のドアを開けて云った。

「この先の岩場だそうだ。行こう」

姜と連れ立って歩くと、海浜公園とは名ばかり、すぐに景色は岩場の荒涼としたものになった。

「懐かしい雰囲気がする場所だな……」

独り言が姜の口をついたので、凛は鸚鵡返しに問う。

「懐かしい?」

「自分が沈社長にスカウトされたのもこんな天気、こんな場所でのことだった」

「……プロデューサー職種の人間って、行動パターンが同じなんですかね」

凛の、冗談とも本気とも受け取れる言葉に、姜は肩を竦める。

10分ほど歩いて、いよいよ波打ち際が近づいてくると、静かに海を見つめているPと沈の姿を岩陰に認めた。

向こうはまだこちらに気づいていない。

「姜プロデューサー、ありがとうございました」

凛は隣の姜を向いて、改めて礼を述べた。その顔は、天気と同じくだいぶ曇っている。

「ここまで連れてきてもらっておいてこう云うのもどうかと思うんですが」

ちらりとPや沈の方を横目に見遣って、視線を戻す。

「……私は本当にプロデューサーに会う資格があるんでしょうか」

今時分の必要な連絡だけ姜からお願いできないか――凛はしゅんと気落ちした声音で云うが、姜は首を横に振った。

「それは俺の役目じゃない」

「……ですよね。甘えです。ごめんなさい」

「でも――」

凛が溜息を吐きそうになる一瞬前に姜が続けた。

「渋谷さんに今語るのが、沈社長から受けた俺の役目なんだろう」

軽く咳払いをして、一度息を大きく吸う。

「迷惑を掛けたことを悔やんでいるとさっき渋谷さんは云ったが……
プロデューサーってのは、担当アイドルのためなら、どんなことでも幸せに感じられるものなんだ。俺だって、R.G.Pのみんなを迷惑だなんて思ったことはない」

担当アイドルを輝かせるため、担当アイドルを守るため、担当アイドルを癒すため――

担当アイドルを思ってする行動は、プロデューサー自身の歓びでもあるのだと。

「迷惑を掛けた過去は変えられない。だが、その過去の結果を受けて未来をどうするか。それはプロデューサーとアイドルが共に向き合うことで構築してゆけるものだ」

姜はそこまで云って、「第三者の視点ならこんなにも簡単に理解できるんだがな」と自らの過去に苦笑しているようだった。

「姜プロデューサーも、袋小路に入ったことが?」

「ああ、色々な人に助けられて、俺は今ここにいる」

遠くの沈を向いて云った。沈の占めるウェイトが相当なものなのだと、その仕種だけで凛は理解した。

「今度は俺がその役目を果たす時と云うことか」

姜は自らの因果に「フッ」と笑う。

「さあ、馭者の出番はここまでだ。あとは渋谷さん自身の肩に掛かっている」

「最後に一つ、いいですか」

ん? と姜は凛を向いて首を傾げた。

「……どうして、私――いや私たちにここまでしてくれるんです? ライバルのような関係なのに」

「ライバルだからこそだよ。日本のトップアイドルには元気でいてもらわないと我々も張り合いがないからな」

ニヤリと不敵に笑って姜は云った。

「ま、それはちょっと云い過ぎか。R.G.Pの成長のためにも、日本側のアイドル業界と切磋琢磨する必要があるのさ」

よろしく頼む、と姜が右手を差し出した。

凛はおずおずと、それでいてしっかり握り返す。

沈が立ち上がって、こちらを指差した。


Pと凛が、お互いに手を伸ばせば届く距離まで歩み寄った。沈と姜は離れたところで別途合流したようだ。

「プロデューサー、会社サボりはよくないよ」

「面目次第もない」

凛が、悪戯をした我が子を諫めるかの如し口調で云うので、Pはバツが悪そうに答えた。

「つかさは、今日の会議は自分だけで大丈夫だ、って云ってたから。ここへ来るまでの間にちひろさんにも連絡してある」

「何から何まで、すまん」

プロデューサー失格だ、とPは頭を下げた。

凛が何も云わないので、不思議に思って視線を上げる。凛は、静かにかぶりを振っていた。

「ううん、私こそ、ごめんなさい。プロデューサーをこんな状態にしてしまったのは、私の所為だから」

「いや、この一連のことは全面的に俺が至らなかったのが悪い」

「違うって。私の我儘が全部引き起こしたことだよ」

「俺が」

「私が」

お互いに自らの責を主張して退かない。

Pは、何かが無性に可笑しくて、矢庭に噴き出した。

「……まずは凛と俺と二人でつかさに謝ろうか」

「……そうだね。まずはそれが第一かも。他のことはその後、かな」

凛もバツが悪そうに両肩を上げた。

「すぐに戻ろう。積もる話は、車の中ででもできるから」

「うん、行こ」

二人、岩場を歩き出す。両者の胸はこれまでと違ってしっかり張っていた。

引き潮に取り残された水たまりに嵌らないよう注意し合って、大股小股で進んだり、小さくジャンプしたり。

単純に車へ戻るだけの道のりが、二人には久しく味わっていなかったアトラクションのように思える。

「こんな些細なことが幸せだって、見えてなかったんだね、私」

凛は独り言ちた。

Pが「どうした?」と振り返って問うので、「失敗してから判ってくるものが多すぎるな、って」と凛は足元を見ながら答えた。

楽しい時間は実際より圧倒的に短く感じてしまうもので、視線を上げれば、先ほど姜が停めた場所とはまた別の駐車場がもう目前だ。

「ねえプロデューサー、私たちはどこでボタンを掛け違っちゃったんだろう」

Pの車の助手席に乗って、シートベルトを締めた凛が問うた。

掛け違えた、と云う表現は正解でも不正解でもある。掛け違える前段階から既にズレが生じてしまっていたからだ。

凛は考え込んで、もう一言を添える。

「そもそも業務時間外に彼と直接的な交流を持ったのがいけなかったんだよね」

乃木公園で個人的な関わりを持ち始めてしまったこと。

1回だけならまだしも、それが習慣化してしまったのがまずかった。

「それを云うなら、坡州での連絡先交換を俺が許可したのが始まりだよ。全てはそこからだ」

「あれはプロデューサーが私を信頼してくれた証でしょ? それを私が裏切りの形にしてしまったのは、やっぱり事実だし」

「うーん……早い時期から凛と彼はお互いに悪く思ってないんだろうな、と感じて微笑ましく見てたよ」

凛が「えっ?」と息を呑んだ驚きの声と、エンジンのイグニッションが被った。

だいぶ昔の話を蒸し返してしまって少し気恥ずかしいが――とPが云いながら、駐車場から出すために車を後退させた。

「アイドルを始めたての頃だ。凛が俺に対して恋煩いみたいな状態になったことがあっただろ。その時は俺が断固阻止したけど」

「うん。あの頃の私も青かったよね。プロデューサーがあんなに怒ったところ初めて見たし、アイドルとしての自覚を持つきっかけでもあった」

「実は――あの出来事は俺にとって負い目でもあるんだ」

凛が目だけで問うてくる。感謝してるんだよ? とでも云いた気の視線だ。

「確かにアイドルとしては正しいんだろうな。でも、そう云う類の感情を殺すのは、果たして人間として正しいことを俺はしたんだろうか、って」

「人間、として……?」

「ああ。ただでさえ、普通の人なら味わうであろう青春をお前は代償にした。
尊い犠牲の許で輝いている凛に対して、その上さらに人間らしさまで人身御供に捧げろと要求しているような気分だった」

――これでは、アンドロイドと何が違うのだ?

「だから、俺が取り上げてしまった人間の感情を、今回久しぶりに凛が取り戻したように見えて、凛と彼が接近してゆくのを止められなかったんだ」

ハンドルを操作しながら、Pは「うまく立ち回れなくて、すまない」と顎を引いた。

「え、あー……プロデューサーはそう云う風に思ってたんだ……」

凛はPの心根に触れて、視線を自らの足許へ落とした。

「……ごめん」

ややあって、ようやく一言だけ。変装用のサングラスの下から、一筋の泪が伝った。

「プロデューサーときちんと話すでもなく、勝手に勘違いして、勝手に間違った方向へ進んじゃって、ごめんなさい」

額に腕を当てて「あーもう……どうして独り突っ走っちゃうかな私」と天を仰いだ。

「でも、一つだけ云わせて。私は、プロデューサーに感情を殺されたとも、人生を捧げさせられたとも思ってないよ。アイドルとして生きてきたこの8年、私はとても楽しかった」

たしかに、凛は志願者ではなくスカウトで芸能界に入った人間だ。しかし。

「私は、アイドルが好きだからやってきたんだよ。義務感じゃないんだ。プロデューサーとの二人三脚が楽しかったの」

「凛……」

Pが、長い長い息を吐く。

「――勝手に自滅してたんだな、お互いに」

「うん、そうだね……お互いに」

再び、今度は二人とも大きく嘆息した。

「すまなかった」

「私こそ、ごめん」

不器用な二人だった。

きちんと話せばすぐに分かり合えるはずのズレを、これほどまでに拗らせてしまうとは。

「……失態は行動でカバーしなきゃね」

凛は、決別するように泪をハンカチでしかと拭って云った。

「当座、どこから立て直しを図るのがいいのかな。やっぱりツクヨミ? それともソロの足場から、かな?」

「そうだな……様々な選択肢がある。社に戻ったらリカバリープランを早めに二人で練ろう」

突破すべき難題は、眼前に山積している。


今日はここまで


・・・・・・

人間如きがいくら悩もうが、いくら悔やもうが、時間は待ってはくれない。

せいぜい神の造り給うた庭の中で走り回ることしかできないのだ。

摂理に抗うこと能わず。凛の、24度目の誕生日がきた。

せっかくの誕生日だと云うのに、仕事は容赦なく入れられている。

いや、むしろこれまでの失態を考えれば、こんな日でも仕事の予定が入っていることこそ感謝しなければならないのだろう。

それに、自らの仕出かしたことを思えば、今年は家族や近しい者で祝うのみに抑えるべきだとも云えた。

この日は歌番組の収録だ。

復活の狼煙として先日リリースした曲を披露する場。

かつてのような、意地悪なバラエティではなく、純粋に歌姫として活躍できるステージになるはずである。

騒動以降、Pは凛に可能な限り付き添うようになった。

凛のプロデュースに注力するため、色々な身辺整理をした。

何人か受け持っているアイドルを、ユニットを組んでいるつかさを除いて他の手すきのプロデューサーへ移譲したり、こまごました事務処理はちひろに全部任せたりと、可能な限り身軽になろうと東奔西走した。

ツクヨミは、騒動の引責としてPと田嶋が共に退き、経験豊富な765のプロデューサーが新しく立つことになった。

Pは陰からサポートする役目に徹している。

各方面への“戦後処理”を進めたことで、Pは本来の存在意義である担当アイドルを見守る者へと回帰できたのだ。

楽屋入りすると、化粧台の横にいくつか箱が置かれていた。先に楽屋に入っていたPが持ってきたらしい。

どれにも『お誕生日おめでとう』と書かれている、有志一同が贈ってくれたプレゼントだった。

中には古参のファンが単独で用意してくれたものもあった。

「うわ……嬉しい。誕生日のプレゼントをこんなに嬉しいと思ったのなんて、いつ以来かな」

包装を解いて中身を確認しながら、凛の顔が綻ぶ。

「ほんと、ありがたい存在だよな」

Pが頷いて、プロテインのシェーカーを寄越す。

「今日はまだ昼メシ食ってないんだろ? これだけでも飲んでおいた方がいい」

午前中は収録のための最終レッスンをこなしていたのだ。ドタバタしていて食べそびれてしまった凛をPはきちんと見ていた。

昼食を引き換えにはしたが、その甲斐あって、今日のステージでは最高の歌を披露できるはずだ。

「ありがとう。お腹が減っていると、プロテインでも美味しいと感じられるよ」

あっという間に飲み干して凛は顔を綻ばせた。

プロテインの、どろりと喉を犯す感覚が、いつぞやのまぐわいを思い起こさせたが、意識の封をして押し込めた。

代わりに、時計を見遣って立ち上がる。

「そろそろだね。着替えるよ。新しいデザインのドレス、楽しみだな」

岩見沢が腕を鳴らした、健康的な露出を復活させた衣装のお披露目だ。

ヘアスタイルは、服飾を活かすため一部を垂れ残してアップに結っている。

この戦闘服を纏えば、歌姫・渋谷凛は準備万端。

スモークの焚かれたステージ脇で出番を今かと待つ後ろ姿に、Pはかつて15歳だった凛の初舞台の様子を投影していた。

少女は、大人の女になった。

フレッシュな渋谷凛から、艶やかな渋谷凛になった。

さあこれから、どんな渋谷凛になってゆくのだろう。


スタッフからのキューで、凛は舞台に出た。

曲が流れ始めて、凛は全身、四肢の指先まで最大の意識を注ぎ込む。

肺から発せられる熱気が音波となって弾け飛び、慣性の法則に真正面からぶつかり合う鋭い動作で舞った。

間奏では、アダルティでありつつもフレッシュで勢い豊かなダンスを披露する。きっとこのオンエアを見た視聴者は凛に釘付けになるはずだ。

歌が2番へと突入し、凛はマイクを持ち直す。あえて強く、ぎゅっと握った。

……しっかり握ったはずなのに、皮膚感覚へのフィードバックがなぜか感じられないのが不思議だ。

心臓が、全身に酸素を届けようとポンプを最大稼働させる。

……袖で待機している頃から、心拍数が上がって、動悸が激しかったのは緊張のせいだろうか。

額や頬そして首筋を汗が伝い、ステージの照明を反射して煌めく。

……これら水の珠が熱く感じられないのは、露出が多めの衣装ゆえ身体が効率的に放熱できるからなのだろうか。

――いつもより肌を色白に見せる方針だったか? 照明班に、白さを活かすよう色調を微調整させるか。

――唇まで寒色のメイクを徹底してるのは演出なんですかね。

スタジオの裏側で、番組ディレクターとリードカメラマンが小声で話し合っている。

クールな歌姫って云うより氷の歌姫って感じだね、とスタッフが形容した。

季節柄ゆえの演出だろうと皆が信じ込んでいる。

「あれ……?」

凛は、視覚から入ってくる情報と、自らの三半規管が伝えてくる位置情報に齟齬があることを自覚した。

まっすぐ前を見据えて、きちんと歌っているはず。

なぜ、自分に光を浴びせている照明群が、目の前に見えるのだろう?

首筋から、全身の体温が根こそぎ奪われていく感覚に襲われる。

なぜ、スタジオ内の冷房を一気に強めたのだろう?

凛が脳内で問うのと、女性スタッフの悲鳴が響くのは同時だった。

まるで石像を倒してしまったかの如く無機的な動きで、凛が地に散った。

「凛!」

Pがカメラなど眼中にない様相でステージへ駆け寄った。生放送ではないのが救いだった。

顔を覗き込むと、意識はあるが双眸の焦点はあまり定まっておらず、皮膚は白いを通り越して土気色に、唇は青紫へと変色している。

それでも自らの状態を知覚できていないのか、瞳にはたくさんの疑問符が浮かんでいるように見えた。

なんで自分は歌っているはずなのにプロデューサーがいるのか? と。

額や首筋に手を当てると、恐ろしいまでに温度を感じない。

「貧血か」

長い髪をアップに結っていたのは、完全な偶然とは云え不幸中の幸いだった。

もしこうしていなければ、倒れた際の勢いで頭部を固い床に強打していたはずだ。

そうなったら素人は手出しできず、救急隊が担架を運んでくるまで手をこまぬいて見守ることしかできなかっただろう。

Pが凛の耳元で「すまんが抱えるぞ」と断ってから、華奢な身体と冷たい地面との間に腕を滑り込ませた。

上体に力を入れれば、ふわりと難なく凛は持ち上がる。

羽根のように軽い体躯だった。

Pが立ち上がると、凛が持つマイクは地球の引力に逆らえず手指から零れ、ゴトンと落ちる音をスピーカーが増幅し、妙に響き渡らせる。

いわゆる“お姫様抱っこ”の格好だが、喜んだり茶化したりできる状況ではなかった。

再度凛の様子を覗き込めば、意識が徐々に消失しつつあり、されど口許だけは歌うために動き続けている。

それも楽屋へ戻りつく頃には止まってしまった。

===

凛は純白の世界にいた。

何もかもが白くて、自分が今どのような状況に置かれているのか判らなかった。

白以外の光もなければ音もない。匂いも触覚もない。

今、自分は歩いているのか、走っているのか、いや、もしかしたら浮遊しているのかさえ判らなかった。

「落ち着いて、周りを見渡そう」

自らに云い聞かせるようにして目を凝らす。

そのうちに、何か輪郭が不明瞭なものがぼうっと浮かび上がる。

レンズのピントを合わせるように徐々に凝縮してゆくと、それは凛だった。

少しだけ幼さの残る凛。

黒いシンプルなゴシック調ドレスは、今から思えば極低予算で頑張っていたと思い出す。

「デビューしたときの私、か……」

15歳の凛は、また輪郭が崩れ、凛の身体へと重なるように近づいてきて消えた。


渋谷凛+
https://i.imgur.com/9laxFF0.jpg

次に浮かんだのは、ベースを肩に掛ける凛だった。

「CDを出したときの私」

16歳の凛は、また輪郭が崩れ、凛の身体へと重なるように近づいてきて消えた。

続いて、ガラスの靴を手に持つ凛。

「シンデレラガールになったときの私」

18歳の凛は、また輪郭が崩れ、凛の身体へと重なるように近づいてきて消えた。


[CDデビュー] 渋谷凛+
https://i.imgur.com/6KsgEzH.jpg

[アニバーサリープリンセス] 渋谷凛
https://i.imgur.com/GTqQ7Pw.jpg

その後も、これまでの凛の軌跡が浮かんでは吸収され消えてゆく。

紅白出場の際の衣装を纏った22歳の凛までそれが繰り返された。

「23歳の私だと何が浮かぶんだろうね」

途中から、次は何が浮かび出てくるのか、ほんの少し楽しみになっていた凛の前に、再び何かが浮かび上がる。

――それは、凛ではなかった。

「栗栖……」

未来は、過去を積み重ねてゆくと云うこと。

過去の連続が現在となり、そして未来へとつながってゆく。

未来の土台となるのは、過去である。

これまで浮かんでは消えていったもの、それは、自らの歩んできた軌跡であり、栗栖もまた、凛にとっての軌跡だった。

確かに、その辿ったレールが正しいものだったかどうかはわからない。

むしろ、決して正解ではなかったのだろう。

それでも、栗栖を好いた凛の感情は、その時こそは本物だったのだ。

「ごめんね、栗栖」

凛の贖いの言葉に、栗栖は柔らかく微笑んだ気がした。

これまでの凛同様に輪郭が崩れ、こちらへと重なるように近づいてきて消えゆく。

白い靄が晴れてゆく。世界に色が少しずつ戻ってくるように感じる。

――っかりしろ……りん……凛、凛、大丈夫か、凛

霞の向こうで、Pがこちらを見ている。

「う……ここ、は……? 私……いったい……」

急速に様々な感覚が戻ってくる。

目に入ってくるのは、楽屋の光景だった。

視界の端に、焦りの色を隠さずに覗き込むPの姿が映り込む。

「凛、目が覚めたか!」

よかった、と心の底からPは大きな息を吐いた。

身を起こすと、寒いような、暑いような、相反する感覚が全身から首筋へぞわぞわと上がってくる。

一度大きな身震いをして、自らの置かれた状況を見た。

「あれ、私……ステージに出てなかったっけ……」

記憶違いか、夢でも見ていたのか。

Pは首を横に振って、「ステージで倒れたんだよ。たぶん貧血だ」と、凛の額に手を当てて体温を診る。

「あー……ごめん……」

朧げに記憶が戻ってきた。

この背水の状況に於いて、なお失態を晒してしまったのかと、凛は肩を落とした。

「いいんだよ。リカバリーは俺に任せとけ。白湯を用意したから、とりあえず飲んでおくといい」

Pに渡されたカップを両手で持ち、ゆっくりと飲む。

食道を温めながら降りてゆく様子が、自身ではっきりわかった。

ありがとう、と静かに云って、何度か口をつけた。

「私……倒れている間、なんだか不思議な夢を見ていた気がする」

「不思議な夢?」

「私の、これまで歩んできた道を、良くも悪くも再確認させられるような……」

最後にプロデューサーが迎えに来てくれたんだ、と凛は弱々しく笑った。

「ごめんね、心配かけて。少し血圧を上げたら、もう一回撮り直せると思うから――」

頑張るよ、と言葉を続けようとしたところで、不意に何かが溢れ出す感覚がした。

喉元がキュッと絞まるような。

それでいて、鳩尾は中から押し上げる圧力を掛けてきた。

Pは、突如として表情を変えた凛の様子に、只事ではないと直感した。

「どうした、大丈夫か」

すぐさま腰を上げて問うが、凛に返答する余裕はない。

喉と口を手で押さえて首を微かに振るので、急いで抱きかかえて手洗いに運び込む。

すぐさま、凛がえずいた。

今しがた飲んだばかりの白湯ごと、胃の中身が逆流する。

「倒れた際に実は頭を打ってたのかも知れないな……凛、大丈夫か、頭は痛いのか?!」

背中を擦りながら問うPに、凛はかぶりを振って再度吐いた。

呼吸がままならない。空気を求めて喘ぐも、それを鳩尾の締め付けが上書きしてくる。

不快感を排出せむとする身体の硬直を、一瞬息を吸って得られる酸素だけで支えなければならない。

ただでさえ貧血で体力を削ったのに、1回1回が途方もなく長い時間に思えた。

やがて酸欠に敗北した凛の意識と身体は、力なく崩れ落ちた。


今日はここまで


・・・・・・

覚醒すると、凛の目にはクリーム色の天井が映った。

虫食いのような、皺の寄った和紙のような特徴あるトラバーチン模様の石膏ボードをしばらく見つめたままで、自らの置かれた状態を理解すべく記憶を引き出そうとする。

さっきまでステージに上がって歌っていたはず――いや、違う。その後ステージで倒れ、楽屋へ運ばれたのだった。

たしか、貧血と云われた気がする。だから、落ち着かせるために、体温を上げるために白湯を呑んだはずだ。

つまりここは楽屋か、と凛は訝しんだ。

その割には違和感がある。
メイクをするためのどぎつい明かりや大きな鏡が視界の中に全く入ってこないし、テレビ局スタッフの、指示をやり取りする大声の会話が聞こえてこない。

そもそも、自分は今ベッドに寝ている。

どうやらこの場所は、天井の雰囲気は似ているが楽屋ではないらしい。

目が覚めたら別の場所にいるとは、まるでこれはテレポーテーションやタイムリープをしたようではないか。

凛は目線と顔を動かして、ここがどこなのかを知ろうとした。

「あ」

すぐにその必要はないとわかった。左腕には点滴の管がつながれていて、Pがベッドの隣にいたからだ。搬送されたのだと理解した。

「プロデューサー……」

「……よかった、目が覚めたか」

Pは、凛が身じろぐ音と微かに問う声で、顔を挙げた。

「ここは……病院?」

「ああ。楽屋で再度倒れたから、救急車を呼んだんだ」

「えーと、つまり……私は今日、2回連続で倒れたんだね?」

体調のセルフマネジメントは基本中の基本だと云うのに。凛はベッドに沈む身体を更に沈めて嘆息した。

「……ごめん、大ごとにしちゃって」

「いいんだ。意識を失っている間に色々と精密検査をしてもらったよ」

凛自身は、一瞬だけ目を閉じて再度開けたら病室にいた、と云う感覚だった。しかし実際には長いこと電源が落ちていたらしい。

なるほど、皮膚をよく見れば、倒れている患者から無理矢理採血したのであろう痣が出来ていた。

「結果、身体に異常はないから安心していい」

あれほど体調が悪かった割には、幸いにも病気ではなかったらしい。

過労に負けないよう、栄養摂取にもう少し気を付けるべきだろうか。

どのように改善すべきか思考する中、Pが下を向いて黙りこくっているので、凛は訝しんだ。

じっと見つめても、何かを考え込むように顔を伏せている。

どうにも、異常なしと云う本来なら歓迎すべき話の内容と、様子の重苦しさが一致しなくて妙だ。

「……まだ続きがあるんじゃないの? その様子」

凛の問いに意を決したPは、軽く息を吐いた。

「検査をしてもらったからこそ、わかったこともあるんだ」

顔を挙げて凛を見る。その表情は硬かった。

「……妊娠。2箇月あたりだろう、って」

凛は、しばらく眼をぱちぱちと瞬かせた。

Pの言葉が、自分の状況と紐づけられなかったのだ。

「……え?」

まさか。

これ以上堕ちることはない、そう思っていたのに、まだまだ下はあったようだ。

収録中に倒れ、あまつさえそれが悪阻―つわり―のせいだったと?

「……そんな。いくら私がこれまで男女の機会がなかったと云っても、避妊の知識くらいはちゃんと持ってるし、しっかり実践したはずだよ。栗栖だってそこはきちんとしてた」

15歳でデビューして以来、アイドルになったからこそ、この身体を男と交わらせることはしてこなかった。

たとえ齢23になるまで生娘だった身でも、アイドルと云う、或る意味で肉体を異性向けの仕事道具とする以上、万一に備える意味でも性知識は適切に学んでいた。

栗栖とて、状況は同じ、充分に承知していたはずだ。まぐわう際には、毎度々々避妊具をしかと装着していた。

俄かには認められない事象を否定したくて、これまでの努力を必死で訴える。

だが、血液検査をした科学的なデータの裏付けがある。身籠っている事実を直視しなければならないのだ。

そのうち、凛はもはや何も二の句を継げなくなった。

看護師が終わった点滴を回収しにくるまで、病室に掲げられた秒針の音だけが響き続けた。

===

「いったい……いつ……どこで……」

凛はリビングで顔を覆っていた。

点滴が完了すれば、身体に異常のない凛が病院にいる道理などない。

Pに自宅まで送ってもらい、せめて落ち着こうと二人分の緑茶を淹れたところ。

テーブルの対面に座るPは、湯飲みを両手で包み込み、深い緑を見つめたままだ。

帰る道すがら、Pに連れ添ってもらって極秘裏に婦人科を受診すると、腹部超音波エコーの白黒画面に表示される胎嚢が、しっかり確認できた。

これで確定だ。

トップアイドル渋谷凛は、子を孕んだのだ。

「おめでとうございます。正常に育っています。7週ですね」と云う医師の言葉が、ずっと脳内をこだましている。

2ヶ月前は何をしていた? 栗栖との関係が終わりかけていた頃の話だ、精神の不調でセックスの頻度は確かに高かったが――

「……もしかして」

最も精神が狂っていた頃に、捨て鉢になってハーブをキメながら狂乱的な交接をした記憶がうっすらと浮かぶ。

あの時は口を犯されていた微かな覚えしかない。

しかし、最も深くキマっていたときにどのような行為をしたのだ? どんな求め方をしたのだ?

栗栖にも効いていたはずだから、避妊のことを考える余裕などなかったのではないか。

眼を見開いて表情を蒼白にした様子を見て、Pは凛に心当たりが浮かんだことを察した。

「私、さすがにもう、ツクヨミには……いられないね」

凛は俯いて、深く息を吐き出した。

Pが一瞬だけ逡巡してから、口を開く。

「……既に田嶋さんと話は済ませてある。八馬口さんの件もだいぶ落ち着いてきたし、遠家さんに替わってもらう方向で進んでる」

「そう……ありがとう」

凛は、慚愧や後悔、感謝など様々な想いを一言に載せて、震える手で茶を一口飲んだ。

呼吸も、手と同様に震えていた。

「……うっ」

茶すらも受け付けない胃がすぐさま反乱を起こし、たまらずトイレへ駆け込む。

Pが「大丈夫か、大丈夫か」と必死で背中を擦ってくれるのが申し訳なくて、惨めで、身の置き所がなかった。

嘔吐が落ち着くと、凛は、新しく芽吹かむとする存在を――自らの下腹部を見た。

「この……このせいで……」

視線を鋭くして、よろよろと壁に手をつきながら台所へ向かう。

かつて栗栖からもらった包丁を取り出して、力強く逆手に握り、手を振り上げた。

「おい、やめろ!」

凛の意図を理解したPが慌てて抑えつける。

「莫迦! 自分の腹に刃を突き立てる奴があるか!」

「この包丁なら切れ味いいから! 一回突き立てればすぐに済むから! 一回刺すだけなら私は死なないから!」

凛は錯乱して、掴まれた手を振り払おうと身を捩りながら叫んだ。

Pは無理矢理に刃物を毟り取って、部屋の反対側に投げ捨てる。鈍い光を反射しながら、ゆっくりと放物線を描いた。

凛は、がくりとうなだれて、床にへたり込んだ。

すぐに思い直したように顔を挙げ、「じゃあ、今すぐ中絶を――」とPの腰に縋りついて云う。さめざめと泪が溢れている。

「それもダメだ! 新しい命に罪はないだろう!? 母体にも相当な負担が掛かる!」

「だって、それじゃアイドル辞めなきゃいけなくなる……!」

「それよりもお前の身体の方が大事だ!」

肩で息をするPが、深呼吸して、しゃがみ込んだ。

凛の上体を両手で支えて、「落ち着いて、ゆっくり、話を聞いてくれ」と柔らかく諭す。

しばらくの時間を待ってから。


「……俺の子だ」

凛は瞠目した。

「凛を、この世界に連れてきた、縛り付けた業は、俺が全部背負う」

「プロデューサー……自分が何を云っているか、わかっているの?」

「いいか、これは、何も義務感や責任論だけで出す言葉じゃない」

お互いの視線が、真っ直ぐに交差する。

「――結婚、してほしい」

凛の瞳が揺れる。

「プロ……デューサー……。その言葉が義務感じゃないって……どう云うこと……」

「9年間、封印してきた想いだ。俺は、ずっとお前に惚れていた」

「嘘……だったらつまりあの時、両想いになってたってことじゃない。なのになんであんなに私を怒ったの」

「当たり前だろう。お前はアイドルだ。一般人ならまだしも、プロデューサーである俺の個人的な感情を注ぐことが到底赦される存在じゃない。
俺を恋愛対象外の人間に仕立て上げる必要があった」

心を鬼にして振らなきゃいけなかったに決まってるだろう、と云って、Pは目を苦しそうに閉じた。

――サガ、だね。

ふと横から、凛の耳に自らの声が届いた。

振り向けば、そこには大きな姿見があって自分が映っている。だが、座り込んだ自分ではない。

15歳の凛が、制服姿で立っていた。

「私は、アイドルの世界の熱さを知ってしまった。そして、それ以上に――」

鏡がぼうっと白く光ると、映るのは17歳の凛に変わった。アイドル衣装の姿だ。


[ピュアバレンタイン] 渋谷凛+
https://i.imgur.com/Lv3PVFl.jpg

フリルやリボンを多用した、柔らかい印象のドレス。赤とクリーム色がバランス良く、深緑のワンポイントがプレゼント包装を彷彿とさせる。

かつて想いを漏らしてしまった時に着ていたものだ。

「人を想う温かさも芽生えた。ただ、これは赦されないことだったよね。だからあの時のこと、理解はしているつもりだよ、私」

でも――そう息を吐いて、鏡に映る凛が目を閉じた。ふわり飛び出て、目の前に浮かぶ。

「もうそろそろ、解放してくれてもいいんじゃないかな」

やがて数多の白い光の珠となって、24歳の凛に溶け込んでゆく。

心の奥底に深く固く仕舞い込んだ宝箱が開き、まるで涸れない湧水のように想いが溢れ出す。その奔流は泪となって止め処なく凛の頬を濡らした。

「プロデューサー、ごめんね、私も本当はずっと好きだった……」

凛の慟哭にPはハッと目を開けた。

「アイドル失格でごめんね……本当はあれからずっと、想いの宝箱に鍵をかけて大切に仕舞っておいたんだ……」

「凛……!」

Pが凛の華奢な身体を力強く抱き寄せた。

凛も両腕をPの背中へ回す。

「こんな状態で応える形になっちゃって本当にごめんなさい。莫迦な私を……赦して……」

「いい、いいんだ。俺こそすまなかった、凛をこんなに傷つけて。赦してくれ」

二人、これまでの時間を取り戻すかのように、いつまでもいつまでも抱きしめ合う。

凛は、初めて自らの泪がこんなにも暖かいものだったのかと知覚し、声を上げて泣き続けた。





「愛は夢の中に」
原題:I won't last a day without you (あなたなしでは生きてゆけない)
https://www.youtube.com/watch?v=bbPf8lDp1ek




今日はここまで





エピローグ
・・・・・・・・・・・・



チャオプラヤー川の雄大な流れのほとりに、バンコクの街は横たわっている。

高層建築のミラーガラスがぎらぎらした陽の光を反射する東南亜屈指の国際都市でありながら、人々にはホスピタリティが溢れ、どことなくお茶目な社会。

旧市街の決して舗装状態が良好とは云えない小道には露店が立ち並び、合間を縫うようにしてトゥクトゥクと呼ばれる自動三輪車が駆け抜けるのは毎日の光景だ。

交通渋滞が作り出す排気ガスの空気が吹き抜け、その中に混じる南国の風の匂いが、ここが常夏の国だと云うことを教えてくれる。

経済成長著しいバンコクにあって、新興住宅街には高層マンションがまるで雨後の筍のように伸びる。

現地でコンドミニアムと呼ばれるそれら建築物の袂を通る道路は、かつての雑然とした泥臭さから、カフェやアパレルなどお洒落でハイセンスな場所へと変貌している。

陽気なストリートを溌溂とした快活な足取りで歩く少女の姿が見えた。

年端はさほどでもないとみられる割に相当な美人だ。

大きな瞳は碧く澄んで潤いのある光沢を放ち、甘い栗色をした長い髪はさらさらと流れ、風を受けて踊っている。

舞う髪の隙間から、サファイアのピアスが見え隠れした。

南国タイには珍しく、肌の色素が濃くない。

確かに強い紫外線から守ろうとやや日に焼けた色ではあるのだが、土台となる肌そのものが、東南亜の人間とは根本的に異なる白さを持っていた。

大通りに面したコンドミニアムへと少女が入ってゆくと、エントランスに立つ警備員が、手を挙げて明るい挨拶を寄越す。

この守り人は、コンドミニアムに入居する全ての世帯にとって家族同様の存在だ。

エレベーターを待つ間に、一言二言、タイ語の世間話をしてから手を振った。


「ただいま」

「おかえり。遅かったね、また寄り道?」

玄関の扉を閉めてから飛び出た会話は、意外にもタイ語ではなく日本語だった。

「まあ、寄り道っちゃ寄り道だけど。でも、そんなに云うほど道草食ってなくない?」

少女は頬を膨らませて軽い抗議の様相を見せた。

抗議された側はどこ吹く風で包丁を上下させている。

「あら。月曜だってわざわざタークシン橋を越えて高島屋に行っていたそうじゃない」

「うえっ、なんでそれを……」

「お母さんの情報網を甘く見ないことだね、ふふっ」

切り終わった野菜を鍋へ放り込んでから、少女の方を振り向いてニヤリと笑った。

アップに結った髪の先端が緩やかに揺れ、耳朶には白銀のピアスが輝く。

長い睫毛に囲われた大きな碧い瞳は、その美しさが母から娘へ正当に受け継がれていることを示していた。

「さ、夕飯までの間に宿題を済ませちゃいなさい」

調理へ戻ろうと再び包丁を持った母親に促され、少女は肩を竦めて「はーい」と回れ右をした。

くるりと回る際に、柔らかく艶やかな髪が遠心力で揺れた。

シルクのように電燈の光を反射するさまを見て、母親は郷愁に似た感覚を受けた。

「ほんと、似てきたね……」

つと呟いて、西日に照らされる窓際の棚へ視線を遣る。

木の素朴なフォトフレームが置かれている。

かつて、自らが第3代シンデレラガールとして頂点へ駆け上がった時に撮ったもの。

その写真の中で擁いているガラスの靴そのものが、隣で陽を受けて輝く。

それらも、もはや遠い昔のことだ。

季節は移ろい、すべての物事が、未来から現在そして過去へと流れてゆく。

「14年も経てば、そりゃ似てくるよね」

凛は、写真の中で笑う過去の自分と、窓から見えるバンコクの空を交互に見て独り言ちた。


15年前の秋。

渋谷凛は、突如として芸能界を去った。

トップアイドルのあまりにも唐突な引退劇に、理由を完全に隠すことは不可能だった。

――渋谷凛は、一般男性と結婚いたします。

表向きは結婚だけが理由。

しかし、結婚をする理由が妊娠であることは、アンオフィシャルな情報として伝播した。人の口に戸は立てられなかった。

Pは、担当アイドルを孕ませた汚名を背負い、事務所を辞めた。

凛を守るために全ての責任を被った担当プロデューサーは、懲戒解雇の槍玉に挙げられたが、事情を知るちひろとつかさの根回しで、依願退職扱いとなった。

「アタシのことは気にするな。ソロもベキリもセルフプロデュースで充分やっていけるさ。ベキリはジュニが凛を継いで入ってくれるだろ」

全てを告白した凛とPに、つかさは驚きの後、そう云って笑った。きっと心配させないようにわざと大きく破顔したのだろう。

「長い間トップをコミットし続けるのも大変だったろ。おつかれ」と送り出してくれる笑顔は、少しだけ寂しそうだった。

凛は全国民が知るトップアイドルだっただけに、国内に安住の地はない。

人の目の多い都市部は当然無理だし、逆にどれだけ辺鄙な場所であろうと――いや、辺鄙だからこそ著名人は目立ってしまう。

結局、トップアイドルそしてトッププロデューサーと云う椅子に腰掛けていた少しの間の貯蓄を使って、バンコクへと飛んだ。

Pたちがこの街を選んだのは、邦人の居住しやすい環境が揃っているからだ。

タイの人々は親身になって接してくれるし、中心街に出れば伊勢丹や東急デパートもあり、海の向こうの地でありながら、日本の空気を感じることもできる。

基本的にはPが外で用事をこなせばよく、どうしても凛が外出しなければならないときも、そこまで周りの目を気にする必要はない。

どこからか嗅ぎ付けた邦人が現地まで来たところで、エントランスに構える警備員が全てを跳ね返してくれたし、外国人の滞在可能日数は限られているから長期戦も不可能。

バンコクは凛たちにとって、デビュー以降初めて、安息の時間を手に入れられるシャングリラだったのだ。

この地に腰を据えて、はや15年。

14歳になった娘は、棚の写真が何なのか、何の靴なのかまだ知らない。

幼い時分に訊かれはしたが、詳しい説明を省いたので、単純に母親の若い頃の写真と、シンデレラ童話をモチーフにした置物としか思っていないようだ。

しかしそれも、そろそろ思春期自我の発達に伴って疑問が浮かんでくるのだろう。

もしこのまま訊かれなければ、15歳になった時に話そうと思っている。

わざわざ目につく場所に飾っているのは、凛なりの想いがあってのことだ。

――アイドル、幸せだった?

そう自らに問うた時、或いはPに問われた時、何度訊ねられても必ず彼女は首肯する。

Pへの罪悪感に因るものではない。

現役当時は確かに幸せな生活だったのだ。アイドルだったことに誇りを持っている。

その過去を否定することは、彼女にはできなかった。

絶頂期の写真を掲げるのは、幸せだったことを示す、人生の栞なのだ。

そして隣に鎮座するガラスの靴は、写真と対になる、自らへの十字架。

元々この靴はPから贈られて以来、ずっと大切に仕舞っていたものだった。

凛は、本当に大切なものはしっかり保管しておく性質だ。

だからこそ、今は戒めとして飾っている。

宝物を自らの意志に反していつでも目に入ってくるよう掲げるのは、苦い薬であることを示す、人生の羅針盤なのだ。

これらが一体何なのか? 娘に改めて詳細を尋ねられた際の覚悟は、既にできている。

お腹を痛めて産んだ時から、自らの背負うべきカルマを一瞬たりとも忘れたことはない。

先に帰宅していた弟と共にリビングで参考書と睨めっこする長女の横顔は、真の父親たる栗栖の特徴をどんどん顕してゆく。

男女それぞれのトップアイドル遺伝子が融合したその存在は、まさにサラブレッド。美しく育たない方がおかしいとさえ云える。

明るい栗色の髪、中性的に整った目鼻立ち、すらりとバランスの良い体躯。

わずか14歳にして、かつての凛を超えるポテンシャルが顕現してきている。

仮にアイドルとしてデビューすればきっと途轍もない逸材になるだろう。

恵まれた身体に、実の娘ながら嫉妬してしまう。

同時に、時として美しさが引き起こす悲劇がこの娘にも降り懸かり得るのかと思うと、胸が痛んで仕方がなかった。

娘が自らの生まれを呪うことのないよう、命を懸けてさえ守らなければ。凛はその想いを片時も離さなかった。


やがてコンソメとブイヨンの芳醇な香りが漂う頃合に、Pが仕事から帰宅した。

正直なところを云えば、現役時代に二人で稼いだ金額があれば、タイで慎ましやかに生活する限り一生困らない。

それでも人間とは難儀なもので、何かできることを探して動かずにはいられないのだ。

Pは旅行代理店のプランナーとして、かつての経験を活かせる職場にいた。

「いただきます」

一家揃って夕食を摂るのが、欠かさない日課。

うまいなあ、と云いながらPが平らげてゆく横で、その日の出来事をお喋りするのだ。

「恋―レン―ったらまた学校帰りに遊び歩くんだから。お父さんからも何か云ってよ」

凛が奔放な娘に若干手を焼くように云った。

母親ほど娘といる時間を長くとれないPは、凛以上に甘かった。

「まあBTS―スカイトレイン―やMRT―バンコクメトロ―で移動できる場所なら問題ないんじゃないか。昔ほど治安の悪い場所はなくなったから。恋だって場所の善し悪しは判るだろう」

な? と恋を見て問うと、当の本人は笑顔を咲かせた。

「でしょ? やっぱりお父さんは私の味方だよね」

同時に凛のPへの視線が鋭くなったので、慌てて真剣な顔を作って、恋と向き合う。

「でも恋は年頃だし、もう少し自覚して気を付けるようにな。お前は自慢の娘なんだから」

「はーい」

およそ真面目とは遠いトーンで返事をする恋に、凛が問う。

「大体、今日はどこで寄り道してたの。友達の誰も今日は恋と一緒に遊んでないって云ってたよ」

「んー……」

急に恋が歯切れ悪く黙り込む。

Pと凛は予想外の反応にお互いの目を見合わせた。

「……笑わない?」

両親の様子を窺いつつポケットをまさぐっている。二人とも「もちろん」と頷くので、恋は1枚の紙きれを出した。

「こんなの、貰っちゃって」

Pと凛の心臓が、ドクンと跳ねた。

テーブルに置かれたのは、紛れもなく芸能プロダクションの名刺だった。

そう断言できるのは、かつて二人が所属していた事務所、つまりCGプロのロゴがしっかりと記されていたからだ。

それだけではない。

最も目立つように書かれていた名前は――桐生つかさ。肩書は、プロデューサーになっていた。

懐かしい匂いが甦る。
目を瞑れば、今でも15年以上前に駆け回っていた社屋の光景が瞼の裏に浮かんでくる。

古巣との思わぬ邂逅。

かつて熱く燃え盛った時分への回顧が齎す甘さと、それと同等以上に心臓を突き刺す痛み。

「一体、これは」

ようやっとのことでPが一言だけ訊ねた。

「……スカウト、されちゃった。綺麗な人だった」

「えっマジ? 姉ちゃんすげえじゃん!」

それまで食事に夢中だった食べ盛りの弟が、初めて顔を挙げて会話に割り込んだ。

恋は弟からの尊敬の眼差しをくすぐったそうに受け止めながら、日本に行ってみたいな……と呟いた。

2030年代に入り、経済規模をインドに追い抜かれて久しく、タイの隣国インドネシアが世界上位入りを虎視眈々と狙う位置に成長してきた昨今に於いても、東南亜には未だに日本への憧憬を持つ人間が少なくなかった。

極東の島国へ行けば、日本と云う名の魔法使いがお城へ連れていってくれる――シンデレラのような羨みが、20世紀から綿々と続いたままだ。

名刺に書いてあるのは知らない番号だった。15年もの歳月が経っていれば、連絡先なんて変わるだろう。

「この人、1週間くらいはタイにいるみたい。アユタヤとかプーケットとか回るって云ってた。その気になったら連絡くれれば喜んで駆けつける、って……」

同じ国の空の下に、かつてペアを組んでいた相方が歩いていると知って、凛は胸が締め付けられる思いだった。

「……恋は、どうしたい? アイドルにスカウトされて、どんな人生を歩みたい?」

痛みを表に出さないよう必死に押し込めて、凛は問うた。

「よく……わからない。ワクワクする気持ちもあるし、未知への不安も当然ある。でも、少なくとも今までは……あまり自分の人生に興味なんてなかったんだ」

その美貌ゆえ、恋は自らの予想通りにしか動かない世界に閉じ込められていた。

相手の――特に異性であれば容易に――行動の予想がついてしまう。

何の刺激もない日常。遊び歩きがちだったのはその反動もあったからだ。

「チャンスがあるなら、やってみようかな、っていう気持ちが……今はある」

恋は訥々と言葉を選んで、独り言つように小さく語った。

「……サラブレッドは、宿命に引き寄せられるんだな」

Pがぽつり、洩らした。

真意を測りかねた恋が首を傾げるが、気にしなくてよいとの意味で手を振った。

「つかさを、呼ぼうか」

Pの慈愛に満ちた声音。凛は心の中で静かに一雫の泪を禁じ得なかった。


恋から来訪要請を受けたつかさは、告げられた住所のコンドミニアムエントランスへ辿り着いた。

「ここで合ってるよな? バンコクは似たような建物多すぎてロストしちまうわ」

やれやれと肩を鳴らして中へ入ると、明らかに非友好的なオーラを出す警備員が何か云いながら寄ってきた。

さしずめ部外者は立ち入り禁止だ、みたいな内容なのだろうが、聞き取りもできなければ話すこともできない。

「すまねぇ、タイ語はさっぱりなんだ」

つかさは眉の尻を下げて、若干困ったようにアポがある旨を英語で返す。

しかしタイ人の訛りのきつい英語は、意思の疎通が非常に困難でお手上げだった。

「あーもうこれどうすりゃいいんだ、セキュリティきつすぎだろ」

「――つかさ」

後頭部を掻いて考えあぐねるつかさに呼び掛ける声。しかめていた眼が、大きく見開く。

「……凛」

声のした方を向いて、たっぷりの時間を要してからようやく一言だけ発された。

「久しぶり、つかさ」

「凛……お前……やっぱり……」

突然の展開に警備員は混乱の顔をしている。

凛は、つかさが凛への来客である旨を告げて、エレベーターへと乗り込んだ。

「アタシ、最初あの子を見て、なんとなく凛に似てるって思ってたんだよな」

「そっか。……幸か不幸か、私の特徴も、栗栖の特徴もはっきり半分ずつ受け継いでるよ。性格は……育ての父の影響を受けてるかな」

「とんでもねえ血統だな」

二大トップアイドル同士から生まれた、先天的な血統。そして、トッププロデューサーに育てられた、後天的な血統。

普通なら、アイドルにならないなんて実にもったいない、と云われて当然の存在だ。

上層へ運ぶ鳥かごの中で、鏡のように磨かれたドアを向いたままかつての相棒同士が言葉を交わす。

「私は、どうやっても芸能界の呪縛から逃れられないみたい」

凛が「どうしたらいいんだろう」と頬を一筋濡らした。

「あの子がアイドルになったら、きっと私のせいで色々辛いことが降り懸かると思う。娘に直接関係ないはずのことで苦しめちゃう。それでも――」

顎先へと流れゆく水粒―みつぼ―を見せまいと拭って、大きく息を吐く。

「母親として、あの子の希望は叶えてあげたい。私にできる唯一の罪滅ぼしのはずだから」

「優しいお母さんだね凛は」

やがて上昇が止まると、恋とPが出迎えていた。

「久しぶりだな、つかさ。あの頃のまま綺麗だ」

「久しぶり。お前も変わらないな。当然老けたけど」

「……お父さん、この人と知り合いなの?」

恋が怪訝な表情で二人を見比べる。まるで旧知の間柄の会話ではないか。

「アタシはね、お父さんの元部下みたいなモンだよ」

つかさが、目線の高さを合わせるようにほんの少しだけ屈んで、ニヤリと白い歯を見せた。

「詳しいことは家で話そう」

Pにそう促されて、全員が家へと入る。

玄関をくぐれば、すぐに大きな窓が目に入り、眼下には発展著しいバンコクの、熱く集積した街並みが広がる。

「グッドシティービューだね。部屋の内装も日本と遜色ない」

いいところじゃん、と破顔するつかさに、Pもつられて「お粗末様」と笑った。

「バンコク、アツいね――気温的な意味じゃなくてな。アタシのブランドも、そろそろこっちに進出しようと考えてたんだ。
まずはジャカルタかなって思ってたけどバンコクも候補に挙げてみるか」

「まだ二足のわらじを続けてたのか」

「まだ、っていうか、アタシは昔も今もJK社長なんでね。アイドルからプロデューサーになっても、そこは変わんねーよ」

ウェーブの掛かった金色に輝く髪を掻き上げて、つかさは不敵に笑んだ。

その奥では凛がバンコクで人気のレモングラスティーを淹れている。

「はい、どうぞ」

テーブルに四つの湯気が立ち、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。

「お、サンキュ。主婦っぷりが眩しいね」

「もう、茶化さないでよ」

「はは、わりぃわりぃ」

ベキリの相棒時代と変わらない軽妙なやりとりが懐かしい。

そしてそれを懐かしく感じてしまうほどに年月が重ねられてしまった事実を、凛は少し哀しく思った。

恋は、3人の会話から並々ならぬものを感じ取ったか、真剣な表情になっていた。Pが肩に手を乗せる。

「さ、じゃあ飲もうか」

「……うん」

席に着いて、一口、二口。暑い空気を癒すアロマ効果を兼ねた飲み物が、南国の生活には欠かせない。

首筋の後ろで澱んだ諸々の邪気が、緩やかに祓われるような感覚がある。

「……なあ、つかさ。俺たちの娘――恋は、アイドルに乗り気だ」

お茶をしばし味わったのち、Pが話を切り出した。

「だが、俺たちの因果で、きっと苦しむこともあるはずだ。だから、親としては諸手を挙げて送り出すことができない」

隣に座る恋は、アイドルになることを父親が応援してくれているのか反対しているのかわからなくなった。

「ねえ、お父さん。私がアイドルになるのはダメなの?」

「いや、決してダメなわけじゃない。
むしろ恋は凄い逸材になるだろうし、お前がやりたいのなら応援したい。でもきっと、苦難がお前の身に降り懸かると思う」

「一体、どう云う……」

困惑した疑問符の浮かぶ恋を、Pはまっすぐ見つめた。

「お母さんは、昔、アイドルだった。そしてお父さんは、そのアイドルのプロデューサーだった」

「……え?」

恋は動きを止めた。

「あの棚に飾ってある写真やガラスの靴。あれは、お母さんが日本でトップアイドルを獲ったときのものだ」

「あれ、ただの置物じゃなかったの……」

目を見張る恋に、凛はやや申し訳なさそうな顔をした。

「恋が15歳になったら私から話そうと思っていたんだけど」

まさかこのタイミングでスカウトされるなんてね、と横目で見るので、つかさは苦笑して肩を上げた。

Pは、恋の目をしっかり覗き込んで云う。

「お前のやりたいことをもちろん応援したい。でも芸能界を知っているからこそ、親としては手放しで送り出せない。ヂレンマに右往左往するお父さんを赦してくれ」

「お父さん……」

Pは背もたれに体重を預けて、深い息を吐いた。

「かつては他人をホイホイスカウトしまくってたのに、自分の娘となると途端にこんな憶病になるもんなんだな」

天を仰いで情けなく云うPに、つかさは「だからこそアタシは声を掛けることができたわけ」とティーカップを揺らした。

「二つ、提案な」

つかさがカップを置いて云った。

「一つ、恋ちゃんのことは、“元トップアイドルの娘”と云う扱いをしないし、させない。ハイエナにわざわざ餌を与える必要もねえし、なにより親の七光りなんて、本人も厭っしょ」

Pと凛が頷く。

「もう一つは」

つかさが両手を組んで、「ちょっと酷な話かもしんねーけど」と眼の力を強くした。

「――二人とも、プロダクションにリターンしなよ」

つかさの物云いに、二人は口をあんぐり開けた。

「つかさ、お前な。今更俺たちが戻れるわけが――」

「もう15年経つんだ、時効だろ時効」

社長以外に当時のお偉方はもう誰も残ってねーよ、と手をぞんざいに振って云う。

「社長は元から二人の状況を理解してくれてた方だし、あの時、お前や凛を糾弾しようとした取締役会のデブたちは10年かけてとっくにパージ済み。ま、誰の手回しかは云うまでもねーけど」

黄緑色の制服に身を包み、いつも笑顔を絶やさない事務員の姿が頭の中に浮かんだ。

「まあ……仮に復帰が許される環境だとしてもだ、今更戻ったところで、俺たちが力になれるかどうか……」

つと自信なさげに呟くPに、つかさは「なるよ、充分」と断言した。

凛が、Pとつかさ両方の顔を見てから短く息を吐いた。

「……むしろ、私たちが頑張って這いずり回ってでも力になれるようになるべきなんだろうね。
聞くところによれば、825が最大勢力になってるらしいから、沈社長や姜プロデューサーへの恩返しも兼ねて引き摺り下ろさないと。つかさが『酷な話』って云ったのもそれでしょ」

――CGプロ、ひいてはアイドル業界への罪滅ぼしとして。今こそ贖いの旅が始まるべき時なのだ。

つかさは、凛の言葉に口を動かしかけて、結局何も云えずにゆっくりと1回だけ首を縦に振った。

「恋」

Pがしっかり芯のあるトーンで呼んだ。恋は口を一文字に結んで、真面目な表情を向ける。

「お父さんはお前のことを、最高の素質を持つ逸材だと思っている。最後の確認だ。たとえ苦労することになったとしても、アイドルになりたいか?」

「うん。私は、アイドルになりたい」

強い視線で、父の眼を射抜く。

かつて凛が初めてPと相対した時に寄越したのと同じ、深く吸い込まれるような碧い瞳に力が宿っていた。

Pが、「わかった」とゆっくり立ち上がった。

「日本へ行こう」

そして、どうせやるなら、トップアイドルを目指してやろうじゃないか。

恋は破顔して、力強く頷いた。


・・・・・・

黄昏の広がる空は、夜の帳の足音を響かせて情熱的な朱色の地平線を包み込んでゆく。

ドーム建築が、徐々に隠れる太陽を背にして、コントラストのはっきりした黒い影を浮かばせている。

ドーム内のライブ会場にひしめくサイリウムの渦は、天文観測の聖地マウナケア山頂から見る星空よりも美しく、幻想的だった。

ゆらゆらと揺れる明かりは蝶や妖精が舞うかのようだ。間違いなくこの場所は今、地球上で最も素敵だと云える。

碧と紫を基本に配色された華やかなステージ衣装を纏って、歌い踊るアイドルたち。そのどれもが、フレッシュな魅力を放っていた。

この年のCGプロ基幹公演は、新人や若手を選抜した、次世代を担う新プロジェクト御披露目を兼ねた大掛かりなもの。

ニュービーたちの緊張感、どこかぎこちなさが残るところも微笑ましい。

全てのファンが保護者の心持で見守る中、センターに立つ長い髪の少女だけは、別格のオーラを放っていた。

影の出来やすいスポット照明の下でも、眼を開けて会場内を射抜き煌々と輝く碧い瞳は、後列席からでさえしっかりと視認できる。

すらりと伸びた四肢はしなやかで、女性的な柔らかさの中に男性的な力強さを包含し、会場のスクリーンにアップで映し出される相貌は、まるで人工的に造形されたかの如く美しい。

明るく照らされた栗色の髪は、それ自身が意思と思考を持っているように、宿主を彩らむと舞う。

堂々と歌い、緻密に踊るさまは、もはやルーキーとは思えない風格だ。

件の人物――恋は、後のメディアからステージの主役の一人に数えられたほどの存在感を以て、鮮烈なデビューを飾った。

将来の覇権を握るかもしれない大型新人のステージに来場者は熱狂し、やがて演目が終わってぴたりとポーズを固定すると、怒濤の歓声が場内にこだました。

「これが、お母さんとお父さんの見てきた世界……」

撤収の直前に会場を見渡した当人の呟きは、喝采に抱き込まれ空間へ溶け込んでゆく。


野太い声援に見送られて、アイドルがステージから袖へ引き揚げてきた。

「おつかれ。いいステージだった」

そう云って労うのは、プロデューサー職に復帰したPだ。近くにはつかさもいて、腕を組んで満足気に頷く。

「演りきったな。ファーストショーでこれだけフルコミットなら上出来っしょ。アタシの初めての時より断然よくできてるよ」

「桐生プロデューサーより上手くできてたなんて、そんなことありません……まだまだです。途中で何回もトチりました……」

若手の一人が、緊張と悔しさと安心感とが綯い交ぜになった面持ちで、今や重鎮とも云えるつかさに対して謙遜した。

「――いや、ホントつかさのデビューのときよりよっぽど良かったよ? つかさ、いきなりライブに放り出されてとんでもなく困惑した顔でステージ立ってたからね」

プロデューサー陣二人の後ろから、くすくす笑う声が届いた。

目を向ければ、白いタンクトップに深緑のノースリーブカーディガンを羽織り、薄地のデニムパンツと云う動き易さを重視した出で立ちの人間が歩み寄ってくる。

ラフな格好の胸元には、スタッフ章が提がっていた。


[マスタートレーナー]渋谷凛
https://pbs.twimg.com/media/Ee-7lO6UcAEEZKI.jpg

「あっ、マ、マスタートレーナー……!」

「みんな、おつかれさま」

「おっおつかれさまですっ!」

その場のアイドル全員が表情を引き締め、背筋を伸ばした。

最も厳しい指導をするトレーナー中のトレーナーは、新人にとっては畏怖の対象であり雲の上の存在。

この人間に教わることこそが上位ランク入りの証とも云われ、それを第一の目標にするアイドルも多い。

直立不動の若い芽たちに「もう出番終わったのに、こんな場所でまで肩肘張らなくていいよ」と苦笑するが緩む気配がない。

「凛! お前なぁー、他人のヒストリーを軽々とカミングアウトすんなよ!」

何も反応できないアイドルたちに代わって、つかさがあたふたと汗を飛ばして抗議を寄越した。

凛もまたCGプロに復帰し、今度はマスタートレーナーとして、かつて習得してきた自らのスキルを次世代に伝える役目を担っている。

そのマスタートレーナーは、物申すつかさにどこ吹く風。

「だって事実じゃない?」

「コンプラだコンプラ!」

「ふふっ、ごめんごめん」

有力者同士のじゃれ合いにぽかんとするアイドルたち。

凛は一度咳払いをして、「プロデューサー二人の云うとおり、本当にいいステージだったよ」と微笑み掛ける。

「今のあんたたちが出せる120%……いや、200%のパフォーマンスが実現できてた。これからも頑張ろう。期待してるから」

マスタートレーナーの優しい労いに緊張の糸が切れたのだろう、初めて実戦を経験した者の多くは安堵から泣き出し、Pはスポーツタオルで拭ってやった。

一点、恋だけは、戦後の高揚感からワクワクが抑えられない顔をしていた。早く次のステージに出たい――そんな訴えを纏った笑みで凛を視る。

凛は、活躍した我が子に親指を上げて応えた。

Pが両手を叩いて行動を促す。

「さ。ここでずっと団子にもなっていられない。楽屋へ戻って。ドレスをしっかり整理して衣装さんに引き渡すまでがお前たちのステージだ」

優しい喝に、泣きじゃくっていた者も姿勢を直して頷いた。

「綺麗な衣装だから脱ぐのが惜しいかもしれんが、またきっとこの服を着る機会がくるだろう。例えいま時計の針が12時を超えても、すぐに別の舞踏会が開かれるんだ」

「はい!」

威勢のよい返事に、Pは満足そうに相好を崩して、改良の要望があれば桐生プロデューサーに直談判してもいいぞ、と肩を揺らした。

CGプロの衣装デザインは、碧と紫の2色をコーポレートカラーとしたブランド『ベキリ』が一手に手掛けるようになっていた。

つかさが5年前に立ち上げたそのハイファッションブランドは、今やヨーロッパで最も注目されるトレンドの一つに数えられる。

「いいぜ、いつでも受け付ける。ただし、アタシをアグリーさせられたらな!」

不敵に笑ったつかさが「ついてきな」とアイドルを引き連れてその場を後にした。

「ねえ、あなた」

新世代たちの背中を目で追いながら、凛が隣に立つPを呼ぶ。

「久方ぶりの復帰でも、セリフの内容がポエティックなのは相変わらずなんだね。12時の時計だとか舞踏会だとか」

「まあ……アイドルたちはいつだって夢見るシンデレラから一歩を踏み出すしな」

Pは照れを隠すように鼻を掻いた。凛と同様にアイドルたちを見送る視線は、実に穏やかだ。

凛はPを見上げて問う。

「プロデューサーに戻ることができて嬉しい?」

「そりゃ、もちろんさ。恋のことを抜きにしたって、アイドルたちを輝かせるのはやっぱり天職だったようだ」

「うん。あなたは根っからの魔法使いさんだね」

Pが「違いない」と眉を上げて、唇の端を歪める。

「そう云う凛だって、もう今はシンデレラを助ける魔法使いの仲間入りをしたんだからな?」

「ふふっ、そうだね。私も魔法使いさん。何だか不思議な感覚、かな」

「どうだ、マスタートレーナーの役目はこなしていけそうか?」

Pの問いかけに、凛は、ゆっくり大きな首肯で、全く問題ない旨を応えた。

「……色々あったけど、私もやっぱりアイドルが好きだ、って再認識してるよ。あなたが連れてきてくれたこの世界がね」

振り返って、サイリウムに包まれた喧騒やまないステージに目を向ける。

シンデレラから魔法使いさんへ。立つ位置が移ろいでも、胸を強く焦がす熱さは変わらない。

Pも凛の視線を追って、光輝くステージを、眩さに目を細めてしばらく眺める。

「凛は今、幸せか?」

「うん」

答えるのに迷う時間など必要なかった。

「きっと困難はあると思う。
私を助けてくれた、あらゆる人たちへの恩返しをしていかなきゃいけないし、恋を守るためにいつか厳しい試練もやってくると思う。でも私は、今この瞬間が幸せだよ」

Pの方にしっかり向き直って、はにかんだ。

「おとぎ話―アイドル―の世界で、私の一番好きな、魔法使いさん―プロデューサー―と一緒だからね」

天は黄昏が終わって群青に深まり、ドームのライトアップを映えさせる絶好の天然スクリーンとなった。

肌を撫でる風の涼しさが心地よい。夏の訪れは、もう少し先だ。


~了~





愛は夢の中に
https://www.youtube.com/watch?v=dYieCmbaySE




なぜか波ダーシが消えてしまっていたのでいくつか訂正です

>>42
「私としては坡州って板門店―パンムンジョム―とアウトレットモールの印象だけどね~♪」

>>54
「いいね~賛成♪ この隣にアウトレットモールもあるよ!」

>>142
「えぇ~~僕のパート、譜面がワケわかんなすぎて弾けるかどうか到底怪しいんだけど……これ本当に人間ができるの?」


これにて終了です。お付き合いありがとうございました。

謝辞:
◆eBIiXi2191ZO / ◆Rin.ODRFYM
書くきっかけをくれて感謝。


余談:
実は>>201が正鵠を射ていてどう反応したもんかと当時冷や汗流してました


過去作も置いておきます。気が向いたら読んでみてください。
凛「私は――負けない」 凛「私は――負けない」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1379170591/)
渋谷凛「私は――負けたくない」 渋谷凛「私は――負けたくない」 - SSまとめ速報
(http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1439132414/)

凛「庭上のサンドリヨン」 凛「庭上のサンドリヨン」 - SSまとめ速報
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このSSは、基本的には「私は――負けたくない」の時間軸から継続しています。
一応「私は――負けたくない」→「私は――負けない」が通常ルートで、
ifルートとして「私は――負けたくない」→「愛は夢の中に」という感じです。

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