ハートの融点 (32)
歩いているだけで首筋を汗が伝う、うだるような暑さから逃れ、私は事務所へと入る。
てのひらにぎしぎしと食い込む紙袋の持ち手の圧力に苛まれながら廊下を抜け、メインオフィスに出れば、冷房の効いた涼やかな空気が私を迎えてくれた。
私に気が付いた社員の人たちからの会釈やら「お疲れ様です」の挨拶やらに、こちらも会釈で以て返し、目的の人物がいるであろうデスクを見やれば、残念ながら期待が外れたようだった。
出直すか、待つか。
頭の中に二つの選択肢を浮かべ、さてどちらにしようと考えていると「凛ちゃん、お疲れ様」とのよく知る声を投げかけられる。
声の方向へと体をひねってみれば、そこには事務所一番のスーパー事務員さんである、千川ちひろさんがいた。
蛍光緑の装いに身を包み、笑顔の眩しい彼女はアイドルの私から見ても容姿が整っていて、その上で超人的なまでに仕事ができる。
という、非の打ちどころがないような存在だ。
「今日は撮影終わりでそのまま上がりだったわよね。何かあった? あっ、経費関係かしら」
私の今日のスケジュールまでもを把握しているのには驚いたが、ややあってこれはプロデューサーから聞いたのだろう、と得心する。
アイドルである私、渋谷凛を担当しているプロデューサーのデスクはちひろさんの隣にあるからだ。
それゆえに、ちひろさんとプロデューサーは何かと雑談する機会も多い。
私のスケジュールを把握していても不思議ではなかった。
「いえ、えっと。特に用というほどのことじゃないんですけど」
「そうなの? なら、プロデューサーさん?」
「まぁ、そんなところというか……これ、現場でたくさんもらって」
言って、私はちひろさんに紙袋を見せる。
彼女は袋の中のメロンを見るや「わぁ」と目を輝かせた。
「一個、事務所で食べようかと思って。ちひろさんもどうですか?」
「いいの?」
「はい。重いので、一つ手放したくて」
「ふふ、それで寄ってくれたのね」
じゃあお礼をしないとですね、とちひろさんは笑って、手招きをする。
私はそれに従ってついていって、彼女のデスクの隣の席へと腰かけた。
「プロデューサー、まだ帰って来てないんですね」
「ええ。でも、そろそろじゃないかしら」
彼女は自身のパソコンをかたかたと操作して、プロデューサーの今日の行動予定を表示させる。
「ね」とちひろさんが指で示した帰社予定時刻は、もうあと十五分ほどだった。
「お礼になるかはわからないけど、いただきもので良い紅茶が今あるの。だから、凛ちゃんの持って来てくれたこのメロンと一緒におやつにしましょう!」
「じゃあ、メロンは私が切っておきますね」
「んーん。いいのいいの。凛ちゃんは座って待っててね」
私に有無を言わせず、ちひろさんはメロンを抱え給湯室の方へと行ってしまう。
追いかけても手伝わせてもらえなさそうなのは明白であるので、大人しく待つほかなさそうだった。
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〇
一人取り残され、手持ち無沙汰になった私はなんとなしに目の前のパソコンを操作する。
パソコンはすみやかにスリープ状態から立ち上がり画面が点灯し、パスワードの入力を促す表示が出た。
さて、と腕を組み少し考えたのちにキーボードを叩いてみる。
ぜろ、はち、いち、ぜろ。
気まぐれに私の誕生日を入れてみたところ、すんなりログインが完了してしまった。
「え」
慌てて周囲を見渡す。幸いにも誰かに見られていたということはないようで、ひとまずは安心した。
自身の誕生日を真っ先に入力してしまった自意識過剰を棚に上げ、相変わらず、あの男は私のことが好きすぎるな、と思った。
モニター上にはパソコン用のメールアプリケーションが表示されていて、そこからプロデューサーの予定表を開く。
彼がスケジュールを組む際によく使うのを見ていたので、閲覧方法は知っていた。
ずらりと表示された彼のひと月分の予定を眺めていると、その多忙ぶりがよくわかる。
よくこれで死なないものだと思うけれど、彼が多忙ということは、私もさほど変わらないスケジュールの埋まり具合であることを思い出す。
そして、そのような中にあっても、ぽつりと空白になっている日付を私は見つける。もちろん、お盆休みということもあるのであろうが、数少ない彼の休みの中で唯一、予定が入っていることを示すラベルが貼られていた。
この予定表は他の社員の人たちも閲覧できると聞いている。
であるならば、わざわざ休みの日に私用の予定を書くとは思えない。
なんだろう。
好奇心に負け、私はそのラベルをクリックする。すると、そこには『凛誕生日』と出た。
はぁー、と長いため息が漏れる。
これは、もう、私のことが好きすぎるというか、ただのおばかだ。
「うわ。何見てんの」
プロデューサーのおばかぶりに私が呆れていると、不意に背後から声を投げられた。
「あ。出た」
「出たとはなんだ。出たとは。……ってか、なんで俺のパソコン」
「パスワード、てきとーに入れたら開いちゃって」
「凛、天才ハッカーの才能もあるんじゃない?」
「インターネットリテラシーの低いどこかの誰かにしか通用しないと思うけど」
「いやいやいや、普通わかんないだろ。パスワードなんて」
「好きな女の子の誕生日をパスワードにしてはいけません、って習わなかった?」
「自意識過剰じゃない? 担当してるアイドルの子の誕生日入れただけだもん」
「ふーーーーん。じゃあ、これは?」
びしっと指でモニターを示す。見せるのは当然、先ほどの彼の予定表の八月十日の表示だ。
それを見たプロデューサーは「あ」と発したあと、何も言わなくなった。
「これ、他の社員さんたちも見れるんでしょ?」
「……そうですね」
「なんでここに入れたの?」
「予定表に凛の誕生日があったら、楽しいかなぁ、って」
「これだと私がわざわざ誕生日にプロデューサーとどっか行くみたいに思われるでしょ」
「え?」
「え、って何?」
「どっか行かないの?」
「…………それは、プロデューサー次第だけど」
「なるほど」
「あ。ごめん、行かなきゃ」
携帯電話に入ったメッセージを彼に見せ、私は席を立つ。
「ちひろさんとメロン食べるんだ」
「え、ずるい」
「ずるいも何も、私がもらってきたメロンだからね。そしたら、ちひろさんが紅茶淹れてくれる、って」
「えー。俺も行っていいかな」
「さぁ」
さぁって何、などとぶつくさ言いながら彼は私の後ろをついてくる。
どうせ、だめだと言ってもついてくるのだから、好きにさせておくしかない。
そうして、ああだこうだとばかみたいなやり取りを繰り広げつつ事務所の中を歩き、食堂へと私たちはやってくる。
「プロデューサーさん、帰ってきたんですね」
「そうなんです。だめだ、って言ったのについてきて」
「じゃあ、プロデューサーさんはメロンはなしですね」
「えー! そこをなんとか!」
「私に言われましても……凛ちゃんが持って来てくれたメロンなので」
「凛! お願いします!」
「切ってくれたのちひろさんだから、ちひろさんがいいって言うならいいよ」
「じゃあ、今度はプロデューサーさん主催でお茶会開いてくださいね」
「もちろんです。おいしいケーキをご用意します」
「参加を許しましょうか、凛ちゃん」
「ですね」
ちひろさんが用意してくれた席に私とプロデューサーは並んで座り、橙色に瑞々しく輝いているメロンを前にする。
「うわ。高そうなメロンだなぁ」
「ですよね。凛ちゃんほんとによかったの?」
「はい。もう一玉あるので、そっちは両親にあげようかな、って」
「ほんっと、凛ちゃん良い子よねぇ」
「自慢の担当アイドルです」
「はいはい。そういうのいいから……わ。これめちゃくちゃおいしい」
「メロン食べてる凛ちゃん、写真撮ってもいいですか?」
「俺にも後で送ってください」
私をよそに、大人ふたりは私を囲んで子供みたいに盛り上がる。
今更何か言ったところでこのふたりが止まるはずもないので、私は紅茶とメロンに集中することにした。
そのようにして黙々とメロンを口に運んでいた私に「そういえば」とちひろさんが言う。
「凛ちゃん、お誕生日はプロデューサーさんとお出かけするのよね」
「あれは勝手にプロデューサーが言ってるだけで、私もさっき知りました」
「えっ……プロデューサーさん、何してるんですか?」
「毎年のことだし、いいかなぁ……なんて……」
「凛ちゃんはいいの?」
「えー、っと。まぁ内容次第かな、と」
「プロデューサーさんは凛ちゃんをどうやってお祝いするつもりだったんですか?」
「それが……あはは、何も決めてなくて」
はぁ、と呆れてため息を吐くと、ちひろさんが「ほら、凛ちゃん呆れちゃってるじゃないですか」とプロデューサーを叱る。
大人が大人に懇々と諭されている姿はなんだかシュールだ。
「じゃあ、凛。何かリクエストある?」
「急に言われても、ぱっと出てこないよ」
私の返しに、彼はむーと唸り顎に手を当てる。
正直に言えば、私としてはどこへ行くか何をするかはあまり重要ではなかったりするのだが、私のために頭を悩ましてくれているのは心地が良いので、それは言ってやらない。
「あ。だったらこういうのはどうですか?」
ちひろさんがプロデューサーに耳打ちをする。
私に届かないふたりの秘密の会話が終わると、プロデューサーは「それだ! それです!」と食堂に響き渡る声で言った。
「え。何? なんなの?」
「一日、凛のやりたいことをしよう!」
予想もしていなかった斜め上の提案に、一時ぽかんとしてしまう。
数秒してその意味が取れ、私は思わず笑ってしまった。
「なんでも?」
「そう! なんでも!」
「いいけど。途中でギブ、みたいなのはやめてよ?」
「もちろん。武士に二言はない」
「武士なの?」
「武士ではない」
「……はぁ」
私とプロデューサーのこんな調子のおばかなやり取りを見て、ちひろさんはただただ愉快そうにくすくすと顔を綻ばせていた。
◆
日付の変更と共に届いていたらしい友人たちからのおめでとうのメッセージへ、ありがとうの返信をしながら身支度を整えた私は自宅前の通りに出る。
肌をじりじりと焦がすような陽射しは容赦なく降り注ぎ、空はスカイブルーとはこの色であると言わんばかりに澄み渡っていた。
誕生日である今日が絶好のお出かけ日和になったことを喜びつつ、肩に提げたボストンバッグの中身を再度確認する。
今日はやりたくなる可能性のあるものはすべて用意するように、とプロデューサーから言われていた。
曰く、今日は一日私の思うままに過ごさせてくれるらしい。
そのため、私がやりたいと思ったことにすぐに対応ができるように、思いつく限りの物を用意して欲しいとのことだった。
そう言われてしまうと迷ってしまうもので、際限なくあれこれと鞄へ放り込んでいったあとで、どう考えても一日でできる量ではないことに気付き、その時点で手を止めたのだった。
したがって、鞄の中はもはや何をしに行くのかわけがわからないほどに雑然としてしまっているが、これはこれで面白いからいいか、とも思う。
服装も、様々な状況に対応できるよう動きやすいジーンズと汚れてもさほど悲しくならない無地のシャツを着用しているせいか、これから誕生日のお祝いをしてもらうという気はあまりしない。
頭には大きな帽子とサングラス。
化粧も日焼け止めも、万が一を考えてウォータープルーフのものにした。
ここまで用意したら、不備はないだろう。
そんな心持ちでプロデューサーの到着を待っていると、目の前に見慣れないワゴン車が停まった。
その車の主はエンジンをかけたまま運転席から降りたようで、ばたんとドアを閉める音が私の耳に届く。
両親のどちらかのお客さんだろうか、とその動向を見守っていると、ぺたぺたという足音と共に見知った顔が現れる。
「おはよう。凛」
「え。何この車」
「レンタルした。ほら、俺の車は荷物いっぱい積むには小さいし。こっそり社用のワンボックスカー借りようかとも思ったんだけど」
「またちひろさんに怒られるよ」
「そう。千川さんにマジトーンで怒られるのほんとにキツいからやめた」
「怒られるようなことしなければいいのに」
「それはそう」
私の荷物を彼はひょいと持って、後部座席へと入れてくれる。後部座席は彼の用意した荷物も大量に積んであって、かなりの量だった。
「これ、二人分の荷物なんだよね」
「そうだな」
「一週間、旅するみたいな量だね」
「笑っちゃうよな」
「ね。ばかみたい」
顔を見合わせ笑い合って、私達は車に乗り込む。
いつも乗っている事務所の車よりも一回り大きなこの車は、視線の高さがまず違っていて、この時点で既に非日常感に溢れていた。
「ねぇ。最初はどこ行くの?」
カーナビ上に表示された時刻は午前七時を少し過ぎたくらい。どこかの施設に入ろうにも、ほとんどの施設はまだオープンには時間がある。
しかし、彼から返ってきたのは「何言ってんの」という呆れたような声だった。
「今日は一日、凛のしたいことをするんだってば」
そういえば、そうだった。
全ての決定権を委ねられるというのは、自由なようでいてなかなか難しいな、と思いながら頭を回す。
「プロデューサーは朝ごはん、食べた?」
「凛は?」
「え。私はまだだけど……」
「じゃあ、俺もまだ」
「何それ」
「凛が食べてるのに食べてない、って言ったら凛は俺のために朝ごはん食べに行こう、って言うだろ」
「そこまで気を遣われると逆に気持ち悪いんだけど」
「ひどい」
「まぁいいや。じゃあ、とりあえず朝ごはん!」
「具体的には? 何を?」
ここで私はまた悩んでしまう。
これと言って、食べたいものは決まっていなかったからだ。
「……んー。ハンバーガー、とか?」
「どんな?」
プロデューサーはどこまでも私の意向に従うつもりのようで、詳細までもを訊ねてくる。
「じゃあ、ハワイアンなやつ」
「よし。その調子で頼むよ」
にやりと彼は笑って、ウィンカーを出して車線を変える。
どうやら心当たりがあるらしい。
○
一切の目的地を告げられないまま、彼の駆る車に揺られること一時間ほど。
私達は海辺にやってきていた。
そこは大きな橋があって、橋の先には島が接続されている。
「江ノ島?」
「あたり!」
「確かに、この辺りならありそうだよね。ハワイアンなやつ」
「だろ?」
手近なコインパーキングに車を停め、車を降りる。
ふんわりと漂う潮の香りに鼻孔をくすぐられ、胸の辺りにわくわくとした感じがこみ上げてきているのを自覚した。
「海も寄る?」
「せっかくだし、うん」
「泳ぐ?」
「んー、泳ぐのはとりあえずいいかな。でも砂浜は歩きたいかも」
「日焼け止めは?」
「ばっちり」
「じゃあサンダルに履き替えちゃいな」
「あ」
忘れてしまった。
あれだけ準備をしたにも関わらず早々に足りないものに気が付くとは。
自分の不甲斐なさに恥じ入りながらプロデューサーに「ごめん。忘れた」と返す。
「いや、積んであるよ。凛のサイズのサンダル」
「え。なんで」
「ほら、ロケなんかで浜辺あるくときに前に用意したのがあるだろ」
「どうしてプロデューサーが持ってるの、ってこと」
「事務所から持ち出しといた」
「またちひろさんに怒られるよ」
「オフレコでお願いします」
「それは、プロデューサーの今日の働き次第かな」
スニーカーと靴下を雑に後部座席に入れて、サンダルに履き替えながら彼にそう言ってやる。
すると彼は「頑張っちゃうぞー!」と腕をぐるぐる回すのだった。
そうして、「三十分で六百円って信じられるか。打ち切りなしで」などと言っているプロデューサーを無視し、私は駐車場を出る。
視界いっぱいに広がる海を見ると、もう駆け出したい気持ちを抑え込むのが限界だった。
「走るよ」
「え、なんで……」
「私が走りたくなったから」
「そういうことならお供しないわけにはいかないか」
せーので駆け出して、アスファルトをサンダルでぺちぺちと鳴らす。
そんな私たちの横を、側面にサーフボードを搭載した自転車がたまに通り抜けていくのがまた風情があった。
そうした人々は一様に水着のまま自転車に乗っていて、場所の雰囲気までもが私の要望どおりハワイアンなやつ、であることに口元が緩む。
隣を走っている彼もそれを察したのか「ハワイアンなやつ、だろ」と言っていて、この男もなかなかやるではないか、と謎の上から目線で評価を下すのだった。
○
宛もなく走って、疲れたら歩いて、風景に対してあれこれと感想を言い合いながら進んでいるうちに、やがていかにもな外観のハンバーガー屋さんに行き当たる。
それを見るなり私もプロデューサーも「これはハワイアンなやつで間違いない」と一致する。
そのまま迷いなくお店に入り、メニューに一番大きく写真が載っていたハンバーガーのセットを注文した。
そうして店員さんが持ってきてくれたハンバーガーは期待どおりの見た目で、輪切りのパイナップルやら何やらがみっちりと入っていて分厚い。
プロデューサーはそれをノータイムで鷲掴みにしてかぶりつく。
その豪快な食べ方に倣って私も精一杯口を開けてかぶりついてみたものの、残念ながら彼のようにはいかず口元を汚してしまう結果となった。
「小顔の美人もこういう場面では、損か」
私の醜態を見て、彼はけたけたと笑ってくる。
それにかちん、と来た私は足をぎゅうっと踏んでやった。
「いつもと違って今は素足なんだから加減してくれ」
「加減したらいいんだ」
「なんだかんだ、嫌いじゃない」
「……うわ」
「素でドン引きするのやめて」
○
「ふー。たべたたべた」
「お腹いっぱいになっちゃったね」
「まだ九時過ぎかぁ」
「ほんとだ。一日長いね」
「次は何したい?」
「んー。じゃあ……歩く!」
私の号令に対し、彼は敬礼のポーズで「了解!」と返す。
そして、すぐに砂浜へと降りる道を見つけると、私を置いて駆け出していった。
「歩くって言ったでしょ!」
その後ろ姿に声を投げつけてやると、わざとらしく肩を落とし、しゅんとした顔を作ってプロデューサーは戻ってきた。
「私より先に砂浜を踏んだらだめだよ」
「なんで」
「なんとなく」
「なるほど」
我ながら理不尽な命令であると思わないではないけれど、それにすんなり従ってしまうプロデューサーにだって問題はあるはずだ。
などと、なぜか彼に責任を転嫁しつつ私は砂浜へと降り立つ。
ずぶずぶと足が沈み込む柔らかな感触をサンダル越しに感じながら、ふらふらと砂の上を歩き回っていると、自然とテンションが上がってきてしまうのだから不思議だ。
「凛、足ちっさいなぁ」
「?」
「ほら、足跡」
「ほんとだね。っていうか、プロデューサーのが大きいんじゃない?」
「普通くらいだと思うけどなあ」
言って、彼はわざと私の足跡を踏んづける。
私の足跡など初めからなかったかのように彼の足跡で上書きされる様を眺めていると、確かに自分の足は小さいのかもしれない、と思わずにはいられなかった。
「凛の足跡ぜんぶ消しちゃお」
「無理でしょ。プロデューサー、体力ないから」
「今日の俺は一味違う」
「はいはい」
そこまで言うのであれば、見せてもらおうではないか。
間髪入れずに私は不規則に砂浜を走り回る。足跡を増やすために、当然歩幅は狭めだ。
「待って! 早い早い早い! 生産スピード落として!」
律儀にも私の足跡をちまちまと消して回っている彼は、笑い声とも悲鳴とも取れるような声色で何やら叫んでいる。
苦しそうであるのに、やめようとはしない彼の姿勢がまたおかしくて、私は始終けたけたと笑っているのだった。
○
「これでわかったでしょ?」
「凛の可愛さが?」
「それはもうわかってないとおかしくないかな」
「すごい自信」
「一目惚れでスカウトしてきた人に担当されてるからね、私は」
「それもそうだ」
何度か躓いたこともあって、砂まみれになった私達は、ズボンが汚れることも気にせず砂浜に座り込む。
朝早くから汗だくで砂まみれで肩で息をしているアイドルとプロデューサーの取り合わせは、誰がどう見てもおばかだと思うに違いなかった。
あっつー、とシャツをぱたぱたとさせて申し訳程度の風を集めているプロデューサーに向かって「次は飲み物! あとアイス!」と宣言した。
「わかってんじゃん。渋谷さん」
「そう。渋谷さんはわかってるんだよ」
「でも、その前に足洗って、着替えだな」
「私が全部決めるんじゃないの?」
「じゃあ、どうするっていうの」
「足を洗って、着替える」
「了解!」
またしても敬礼をするプロデューサーだった。
○
簡単にシャワーで足を流したあとは、車に戻って汗を拭いてから着替えた。
午前のうちに着替えのストックを使ってしまうとは思っていなかったので、このペースでいけばどこかで適当な服を購入しなければならないかもしれない。
その旨をプロデューサーに伝えると、俺もこの着替えで最後だよ、と笑っていた。
それからは車に再び乗り込んで、私達は江ノ島を後にする。
ここまで来ておいて観光をしないのはもったいないとも考えたけれど、結局そうはせずに来た道を戻る形で車を走らせてもらった。
「それで、次は?」
「アイスと飲み物でしょ?」
「だから、どんな」
そういえばそういう決まりだった、と今日のルールを思い出す。
チョコレート系で、それでいてそこまでくどくなくて。などと頭の中の検索条件を絞り込んでいく。
「ハート型のピノ」
「……また、無茶振りをしますね」
「大丈夫だよ。私達なら」
「なんか、凛がそう言うとそんな気がしてきた」
滑らかに車を左折させ、プロデューサーはコンビニの駐車場へと入る。
そうして車を停めてエンジンを切ってすぐに、私も彼も一目散に店内のアイスのコーナーを目指した。
「引けるかなぁ」
「案外、すぐ引けるかもよ」
「お腹壊す前に引けたらいいけどな」
とりあえず、ということで五つばかりのピノと各々の飲み物を手にレジへと向かう。
そこから、私達の果てしない戦いが始まった。
車へと戻り、二人同時に一箱ずつ開封する。
結果は互いに空振りで並んでいるものはどれもスタンダードな形のものだった。
「出ないじゃん」
「まだ一箱目だってば。ほら、早く食べて次開けなよ。溶けちゃうよ」
「凛も協力してよ」
「私はこの一箱をゆっくり食べるから」
「えー」
ぶつぶつと言いながら、プロデューサーは横着にピックで二つのピノを突き刺して口へと放る。
「その食べ方、ピノを冒涜してるよね」
「思った。ピノってさ、六個しかないのをありがたがって食べるからおいしいみたいなとこあるもんな」
「おいしくないの?」
「あと三箱もあるからな」
残りも同じようにして口に放った彼はもぐもぐとしながら、次の箱へと手を伸ばす。
間髪入れずにべりべりと開けて「来い!」と覗き込んだその表情は、残念ながら明るいものではなかった。
「ない」
「あーあ」
刺して刺して、食べる。
刺して刺して、食べる。刺して刺して、食べる。
二箱目にして早くも作業的な手付きで彼はピノをあっという間に平らげ、すぐに次の箱をべりべりとする。
「ない」
「あーあ」
「これ、無理だよ。凛」
「愛が足りないんじゃない?」
「凛への?」
「ピノへの」
「凛へのやつなら負ける気がしないんだけどな」
「はいはい」
私がゆっくりと一箱を食べ終える頃、プロデューサーも四箱分のピノを胃に収める。
こちらを見つめる彼の視線は「もうやめにしませんか」と訴えていた。
「ハートのピノは後日でもいいですか」
「もう諦めるの?」
「せめてあったかいお茶が飲みたい」
「夏場のコンビニにそんなのあるわけないでしょ」
「ピノをバカみたいに食べる客に備えて用意してあったりしないかなー」
「とかなんとか言って、お財布持って車降りようとしてるあたり、負けず嫌いだよね」
「ほら、言うだろ」
「なんて?」
「プロデューサーは担当アイドルに似る、って」
「言わないし、似てないから」
見てろ、と私を指さして車を降りた彼は意気揚々とコンビニへと入っていく。
その数分後に戻ってきた彼の手にはピノはなく、紙コップが握られていた。
「なにそれ」
「あったかいお茶」
「作ったの?」
「そう。お茶っ葉と紙コップ買って、カップラーメン作るお湯を借りて」
「ほんとばかだよね。プロデューサー」
冷房の効いた車内で彼は、ずずずとお茶をすすり「あー」とおじさんくさい声を上げる。
「ピノは?」
「ピノ五個だけ買った大人がまた来たと思ったら今度は紙コップとお茶っ葉買ってったら、普通どう思う?」
「やばいやつ来たな、って思うよね」
「そうなんだよ。もうこのコンビニ行けない」
「で、ピノは?」
「生産中止だってさ」
「私見てきてあったら謝りなよ」
「何に」
「ピノに」
「ピノに謝るくらいなら、買ってくる」
この少しの間で、ピノとの間に謎のライバル意識が生まれたらしいプロデューサーは「次は勝つ」と車を降りる。
その様子を車内から見守っていると、彼がお店に入った瞬間に店員さんが噴き出していて、私も思わず笑い転げてしまうのだった。
○
「失礼な店員だよ、全く」
ぷんすか怒りながらも、どこか愉快そうに言ってプロデューサーは機械的な動作でピノを口へと放り込んでいく。
私が「おいしい?」と訊けば「おいしいものであるはずだったんだ」と返ってきた。
空箱を袋へと雑に突っ込んで、次の箱に手をかけべりべりとめくる。だんだんと洗練されてきたその動作は鮮やかだ。
正直なところ、ハートのピノなどいくつか買えばあっさりと出るだろうと楽観視していたのだが、どうやらその認識は甘かったらしい。
ここまで封入率が低いものだとは。
流石にプロデューサーにこれ以上の無理を強いるのは忍びない。
とりあえずは彼が追加で購入してきた分を食べるのを手伝って、それで出なければ諦めた方がよさそうだった。
「お、凛もやる気になった?」
「一箱くらいはね」
べりべりと箱を開けて、中を覗き込む。
「あ」
「え」
間の抜けた声が重なる。
手の中の箱には、通常とは異なる形のピノが入っていた。
「これ」
「あー」
星型かぁ、と同時に呟いてうなだれる。
お茶、淹れてくるよと気を紛らわすように車を降りた彼は、店員さんのにやにやとした視線をまた一身に浴びていた。
○
ピノをかなりの数を食べてわかったことは二つ。
レアな形のピノはなかなか出ない、ということと、ああ見えて結構お腹にくる、ということだった。
私の希望したものを手に入れられなかったからか、それとも単にお腹がいっぱいで苦しいのか、コンビニを出てからのプロデューサーはどうにも元気がなさそうだった。
無茶振りが過ぎて、盛り下げてしまったかもしれない。
なんて少しの反省をしつつ、空気を変えるためにも努めて明るく「ハートはさ、普段もらってるから、星だったのかもね」と彼に話しかける。
「ファンの人たちから?」
「いつもみたいに『俺から?』とか、言うと思った」
「あ、ちゃんと届いてたの?」
「不在票、いつも入ってるから」
「早く再配達の電話して」
ばかみたいなやりとりを経て「それで次だけど」と私が切り出すと、彼はやや申し訳なさそうに「しばらくは何も入らないかもしれない」と言う。
「それはわかってるから安心してよ」
「昼ごはんのタイミングなのに、なんかごめんな」
「言い出したのは私なんだから謝んないでってば。それに、さ」
「それに?」
「結構、楽しかったんだよね。あれ」
「……確かに」
「でしょ? お茶もおいしかったし」
「お茶淹れに行っただけで笑ってくるコンビニ店員もいたし?」
「あれは私でも笑うと思うけど」
「それもそうか。……で、なんだっけ。次は?」
「んー。決まってないんだけどさ、ゆっくりしようよ。おっきい公園とか散歩してさ」
ちらりと運転する彼の横顔を見やる。
「暑そうだなぁ、って思ってる顔」
「もしかして、心と心で通じてたりしますか?」
「一瞬うげ、って顔したでしょ」
「してないしてない。行こうか、公園」
「あ、でもさ」
「もう着替えないんだよね」
「凛はスポーツウェアって持ってきてる?」
「普通のジャージならあるよ」
「なら初めからそれに着替えて公園行ったらいいんじゃないかな」
「あー、そっか。プロデューサーは? ほんとに嫌じゃない?」
「もちろん。てきとーに走ってたけど、こっちの方向にでっかい公園あった気がするから、そこ行ってみるか」
「そうなんだ。じゃあ、そこで」
そして、もう既に何度目かもわからない彼の「了解!」を最後に、私はしばらく意識を手放してしまう。
○
足を組んで座ったまま寝落ちしてしまっていたせいか、おかげか。
ぴりりと痺れる爪先の感覚で私は目を覚ました。まだぼんやりとした意識の中、周囲を見渡してみる。
隣、椅子を倒して気持ち良さそうに寝ているプロデューサー。
これは、私が起きるのを待ってみたものの、想定よりも私が長く眠りこけているものだから待ちくたびれて彼も寝てしまったのだろう。
私の上、柔らかなタオルケット。
ふんわりと胸の上から膝辺りまでを包んでくれているそれは、私が冷房で体調を崩してしまわないように彼がかけてくれたに違いがなく、冷気が私に直接当たらないように冷房の吐き出し口もわざわざ向きが変えられている。
どこまでも気が利くやつめ、と思いながら私は鞄から携帯電話を取り出して、その寝顔を撮ってやった。
流れるように撮影した写真を彼に送りつけようとメッセージアプリを開いたところ、三十分ほど前に彼からメッセージが届いていたことを知る。
それは『かわいい』という四文字と、私の寝顔の写真だった。
誰に見られているわけでもないが、意図せず全く同じ行動をしてしまっていたことに若干の気恥ずかしさを感じつつも、同様に私も写真を送り返す。
添える文章は、こうだ。
『あんまりかわいくない』
○
彼が寝ているうちに、と着替えが行える付近の施設を探して、私はジャージへの換装を終える。
少々探すのに手間取ってしまったこともあり、小走りで車へと戻ると、彼も同じことを考えたのか既にスポーツウェアに着替えていた。
「以心伝心説が有力になってきた感じするな」
「そうかな」
「凛、その格好で変装してるとすごいガラ悪いな」
「ジャージにサングラスはどうかな、って私も正直思ったけど、普通それ言う?」
「あはは、ごめんごめん。ってか、何あの写真」
「あんまりかわいくない寝顔」
そりゃあトップアイドル様と比べられたらそうですよー、などと言って、彼は小石を蹴り飛ばすような仕草をする。
「起こしてくれたらよかったのに」
「そっくりそのまま返すよ」
「そこは、ほら。昨日も仕事だったし現場暑かったし、疲れてるだろうなあ、とか。多忙なのに俺なんかとオフに遊んでもらって悪いなぁ、とか。いろいろさぁ」
「それもそっくりそのまま返す。あと、悪いじゃないでしょ。その言い方はやだ」
「じゃあ、あれだ。幸せだなぁ」
「それでよし。あ、それとお腹すいてない?」
「え、何。なんか買ってきてくれたの?」
「んーん。おにぎり、朝作ってきてさ。はい、これ」
「大事にします」
「いや、食べてよ」
「まずは写真撮ってから……」
ふざけているのか本気なのか、よくわからないけれど、よろよろと携帯電話を運転席まで取りに行った彼を放置して、私は後部座席のドアを開ける。
積み込まれている物を改めて見ると、どう考えても一日で使用する数ではない。
これだけあれば、一週間は毎日違う遊びができそうだった。
「どれにする?」
満面の笑みでおにぎりをもぐもぐとしている彼が背後から、私に訊ねる。
ので、「んー。これは? プロデューサー、できる?」とグローブとボールを持って、彼に見せてみた。
「めちゃくちゃに、できる」
「嘘でしょ」
「いやいやいや、神の子ピー君って呼ばれてるんだからな」
「はいはい」
「アイドルが大好きだし」
「本家の人に一回怒られてきなよ」
「体育会系の人は怒らすとハチャメチャに怖いからヤダ」
「そこに関しては、右に出る人いなさそうだもんね」
「何が」
「人を怒らすの」
「不名誉なナンバーワンだ」
「事実でしょ」
彼が野球が上手いかどうかは、実際にやってみればわかるだろう。
「じゃあ、とりあえずはこれと……あとはよくわかんないからプロデューサーに任せていい?」
「んー」
それから、彼は雑にあれこれと選んでは大きなトートバッグへと放り込んでいく。
やがて入りきらなくなった頃合いで「よし!」と歯を見せた。
「あ、ごめん。お茶も追加で買ってきたらよかったね」
「安心して。さっきのあれ、水出しもできるから」
「あれはもうやめて」
「なんで」
「水出しって時間かかるし、第一公園の水道で水出しのお茶作ってるの、人に見られたらどうするの」
「記事になるだろうな」
「アイドル渋谷凛、公園で緑茶を水出し!? って?」
私のその発言が思い切りつぼに入ってしまったのか、彼は目の端には涙を浮かべてお腹を抱えていた。
○
「九回裏、抑え込まれていたおしぶ打線が最後の意地を見せました。クリーンナップが鮮やかに出塁し、本日初めて訪れたチャンスらしいチャンス! 満塁で迎えますは主砲、渋谷選手です。さぁアウトカウントは二つ、試合は彼女に委ねられました!」
グローブを装着してマウンドの上に立っているプロデューサーはノリノリで状況設定を語っている。
私の所属しているらしいチームの名前はもう少しなんとかならないのか、だとか、私の他には誰がいるのか、だとか。
聞きたいことは山ほどあったが、今は全てを頭の隅に追いやって、バットを強く握りしめる。
キャッチャーなどいるはずもないのに、なぜか彼は何もない私の後ろの空間に向けて首を振っており、サインが決まりません、などと叫んでいる。
その後、ようやくサインが決まったかと思えば一塁の方向へ牽制を行うような素振りをした。
「早く投げてよ」
いい加減に焦れてきた私はマウンド方向へと声を投げる。
それがまた面白いのか、彼はけらけら笑っていた。
一人で楽しそうなやつである。
再びバットを強く握り、構え直した私を見据え、プロデューサーも大きく振りかぶる。
なかなかに綺麗な投球姿勢であるところを見るに、経験者というのもあながち嘘ではないのかもしれない。
振り下ろされた彼の腕から放たれた白球は、真っ直ぐにこちらへ迫る。
いける。
どういうわけか出自不明の自信が胸の内よりわいてきて、私はバットを思い切り振り抜いた。
直後、手のひら全体にじんわりと伝わる痺れを感じる。次いで、遅れたように私は快音を聞いた。
「え。マジ?」
プロデューサーは本当に打たれるとは思っていなかったようで、目を白黒とさせていた。
「はい。私の勝ち」
「いや、えー? 野球できたの?」
「学校の授業でやったり、遊びで友紀たちとやったりするくらいだけど」
自信満々に放ったボールを悠々と外野まで運ばれてしまったのが堪えたようで、放心している彼に「ほら、ボール探すよ」と促す。
先程までの元気が嘘みたいに、私の後をとぼとぼついてくるのがおかしかった。
○
それから、ボールはすぐに見つかったものの、よほど負けたことが悔しかったのか「野球はもう終わりです」と彼は私を散歩に誘う。
全て私の希望通りにするというルールはどこへ行ったのか、と思わないでもなかったが、断る理由もないので二つ返事で了承した。
炎天下と呼ぶにふさわしい気温と陽射しだが、少年少女は蝉時雨の中で元気に駆け回っている。
そんな、穏やかな光景を眺めながら、のんびりと公園内を歩いて、ぐるりと一周した後に私達は車に戻るのだった。
そうして戻った車内は、ほんの一時間と少しの間にむわりとした熱気が充満していた。
「あっついなぁ」
「ね。汗だくになっちゃった」
散歩の道中で購入したペットボトルのスポーツドリンクを一息にごくごくと飲み干す。
ついさっき買ったばかりだというのに、早くも日光によりぬるくなってしまっていたが、喉が水分を欲していることもあって気にならなかった。
「さて、次は?」
「汗、流したいけど……無理だよね」
「んー。そうだなぁ、じゃあ、一回解散するか」
「やっぱそうなっちゃうよね」
「流石に、スーパー銭湯とか連れてくわけにはなぁ」
「あ、いいこと思いついた」
「こういうときの凛は結構突拍子もないことを言うんだよなぁ」
「どっかの誰かに影響されてね」
「将来のためにも友達は選んだほうがいいぞ」
「じゃあ、今日で一緒に遊ぶのは最後だね」
「うそうそうそ。嘘です」
「冗談はさておき、荷物とかレンタカーとか、もう全部戻してさ、花火大会行かない?」
「やってるの?」
「やってるでしょ。日本には四十七個も県があるんだから」
「……そういうことか」
「だめ?」
「んー。間に合うかどうかが賭けになりそうだな、と」
「あー。そっか」
「まぁ、賭けの方が燃える気もするけど」
「ふふ、いいね。それ」
「よし。やるだけやってみるか」
○
その後、最短距離で東京へと舞い戻り、私は自宅への帰還を果たす。
もう既に半日近く彼と遊んでいたと思うと、一日の過ぎ去る速度に驚いてしまう。
ひんやりと冷房の効いたリビングに荷物を一旦置いて、中から洗濯物を取り出してすべて洗濯機へと放り込む。
着ていたジャージも同じようにして、シャワーで汗を流し終えると、どっと疲れが押し寄せた。
それもそのはずだ。
なにせ朝から屋外ではしゃぎまわっていたのだから。
本日三着目となってしまった新たな装いに身を包んで、ソファへと腰掛ける。
そこへ我が家の愛犬であるハナコが「おかえり! おかえり!」と言わんばかりの勢いで飛んできた。
その様を眺めていたらしい母からも「おかえり」の言葉をもらったので「ただいま」を返したのちに、洗濯物が多いこととまた遊びに行くことを詫びた。
「たまのお休みだもの、めいっぱい遊んでらっしゃい」
「お盆だからお店も忙しいのにごめん」
私の両親は花屋を営んでいる。
そして、私の誕生日のこの時期は、お盆とかぶることもあってお供え用の花の注文が多い。
にも関わらず手伝わないのは、少し胸が痛かった。
けれども、母はそんな私の思いなど察しているかのように笑って「気にしないの。凛が生まれる前は二人でやってたんだから」と言った。
「それに、まだ何日かお盆休みもらってるんでしょう? 凛の気が済まない、っていうなら空いてる日に手伝ってくれたらいいわよ」
「うん。その日は頑張るから」
母はひらひらと手を振って、キッチンへと入っていく。その姿を見送って、私はぺち、と両手で軽く自身の頬を叩いた。
まったりとしてしまったけれど、私が言い出したのだから遅刻は許されない。
し、見せる相手がおばかなあいつとは言えど、手を抜くつもりはなかった。
それに、今回の準備は楽だ。
行き先が決まっているから、必要なだけのものを用意したらいい。
○
結局、私とプロデューサーが再集合することができたのは、空が薄ぼんやりとしてきた頃だった。
日中あれだけ猛威をふるっていた太陽は影も形もなく、代わりにぽつりぽつりと星が瞬いている。
一般的な花火大会であれば、もう打ち上げ始めていてもおかしくない時間だ。
集合時間ぴったりに現れた彼も同様の心配をしていたようで、開口一番「ほんとに行く?」と言う。
「んー。そうだね、やっぱり厳しいよね」
彼は私の言葉に肯定も否定も返さずに、ただただ気まずそうにしながら、どかりと足元にクーラーボックスを置いた。
「なにそれ」
「ああ、えっと、これはクーラーボックス」
「それはわかるけど、なんで?」
「良いものが入ってる」
中身を教える気はなさそうだったので「ふーん」と返す。
「まぁ、いいや。でも花火大会は無理にしても、花火はやりたいかな」
「それなら、お安い御用だ」
「どこでも売ってるもんね。今の季節なら」
「そうそう」
「それこそ、コンビニとか」
「今日コンビニ行ってばっかじゃない?」
「コンビニ行ってばっかなのはプロデューサーだけでしょ。しかも同じお店に」
そうだったっけ、なんて言いながらとぼける彼を肘でつついてやる。
それを受けてわざと大仰によろけてみせた彼は、自身で置いたクーラーボックスに足を引っ掛けて倒してしまった。
小さく悲鳴のような声を漏らし、慌ててしゃがみこんだ彼は、中を確認し始める。
その慌てようを見て、いったい何が入っているのか気になったので、秘密にしている手前申し訳ないとは思ったがこっそりと回り込んで中を覗いた。
「あ」
「え」
間の抜けた声が重なる。
クーラーボックスには、大量の保冷剤と一箱のピノが入っていた。
「これ」
「ああ、うん」
しばらくピノ漬け生活になっちゃいそうだけど、なんて言って彼は恥ずかしそうに頬をかいている。
「誕生日おめでとう、凛」
そういえば、今日初めて彼から言われたおめでとうの言葉だった。
「言うの、遅くないかな」
「ベストなタイミングを探していたらこうなりました」
彼は片膝をつき、ばかみたいに両手でピノの箱を開いて私に差し出してくる。
確かにその箱の中央にはハート形のピノがあった。
「結婚指輪渡すみたいにピノ渡す人、初めて見た」
差し出された箱からピックを取り出して、中央に鎮座しているピノをぷすりと刺す。
午前中に食べたそれよりも、すんなりとピックが通るのを感じて、溶けかけているのだと気付いた。
「若干、溶けてるんだけど」
「え、嘘」
「刺したとき、どろっとしてた」
「危ないとこだった」
「間に合ってよかったね」
少し考えたあとで、私はそのピノを依然として片膝をついたままのプロデューサーの口元に運び、無理やり押し込む。
条件反射的に口を開いてしまったようで、ハート形のピノは彼の口の中へと消えた。
「よし。じゃあ、花火買いに行こっか」
「え、なんで」
ぽかんとしたままの彼に私は背を向け、歩き出す。
「ほらね。溶けてたでしょ」
投げた声が届いているかどうかは、どうでもよかった。
おわり
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