いちいちスレを新しくするなと言われたので、今度からここで書きます。
以前に書いたものも、すべてここにのせます。
ARIAの新しい映画は2021年の春に延期になってしまいましたが、オレンジぷらねっとが中心の話らしいので楽しみです。
よろしくお願いします。
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高森藍子「目指せ!水先案内人!」
『本日は、太陽系船宙社東京=ネオ・ヴェネツィア便をご利用いただき、まことにありがとうございます』
『当機はまもなく、惑星アクアの大気圏に突入します』
前略
今、ネオ・ヴェネツィア行きの船の中で、このメールを書いています。
初めての体験ではないらしいのですが、どうやら忘れてしまっているようで、まるで初めての体験をしているみたいな気分でした。そして、宇宙に飛び出すということに興奮して、眠れませんでした。
宇宙を揺蕩う中、写真を何枚か撮ったので、添付しておきますね。
もうすぐ、新天地に着きます。
『かつて火星と呼ばれていたこの惑星が、惑星地球化改造されてからはや150年。極冠部の氷の予想以上の融解で、地表の9割以上が海に覆われ今日では水の星として親しまれています』
『当機は間もなく、目的地ネオヴェネツィア上空に達します』
『21世紀後半まで地球のイタリアに存在していた水の街。ヴェネツィアをベースに造られた、水と共に生きる港町でございます』
ひと段落したら、また書きますね。
追伸
心配しないでくださいね。私は元気です、いつでも。だって、ずっと憧れだった夢の、スタート地点に立てるのですから。
地球暦2042年4月2日 高森藍子
「なります。『水先案内人』!」
私は書き終えると、そう小さく呟いた。そして呟いた後、急に恥ずかしくなって、隣の人に聞こえていないかこっそり確認。隣のおじさんは、新聞を読んでいる。私の声には気づいていなさそうだった。
『ご搭乗の皆様にお知らせします』
『本船は、ただ今電離層を抜けました』
『到着までしばしの間……』
『眼下の景色をお楽しみください』
アナウンスの女性がそう言い終わると同時に、船内の底からグオンと音がした。そして、床が開いていく。私はこの時初めて床が透明だったことを知る。そして、目に飛び込んできたのは眩いほどの青。ネオ・アドリア海だった。
「うわぁ……」
私はため息にも似た感嘆を漏らしながら、座席にかけてあったカメラへと無意識に手を伸ばす。そして、カメラを手探りで探すと、ひと時も目を話したくない光景に意識の半分以上を持っていかれながら、何とか胸元にまでカメラを手繰り寄せる。そして、少しだけ震えた手でカメラを持ち上げ、ファインダーをのぞく。
パシャリ。
私の言葉では言い表せないほどに素敵な海の青いきらめきが、カメラを通して私の目を優しく撫でる。私は二枚目を撮ろうとして、でもやっぱり止めてしまった。今はきっと、この光景を目に、脳に、なによりも胸に焼き付けておいた方がいいと、そう感じたから……
『水の惑星”AQUA”へようこそ』
『マルコポーロ国際宇宙港へようこそ』
『ネオ・ヴェネツィアに観光のお客様は三番窓口を……』
宇宙船から降機して、二番ゲートを通った私は、多くの人で溢れているロビーを抜け出し、出口へと駆ける。
「……スゥ……」
そして、出口から出てまず最初に思いっきり息を吸い込んだ。鼻腔を通って身体全身に巡るのは、マンホームでは嗅げない匂い。なんだかとっても懐かしい気分にさせてくれる、海の匂いを胸いっぱいにためる。
「……ぷはぁっ!」
そして、吐いた。これだけでもう、ネオ・ヴェネツィアの一員になれた気がして、私は無性に嬉しくなった。
目の前にはすぐ海が広がっていて、私はその生みの近くへと歩いた。潮風が、少しウェーブがかった私の髪の毛を、優しく持ち上げる。
「んん~。気持ちいい~!」
長旅で固まった身体を伸ばしながら、もう一度大きく深呼吸する。私の故郷は確かにマンホームだけれど、たしかになぜか懐かしい匂いが私を包んで離さない。
「ここが、水の都……」
私は遠くにある太陽を薄目でみながら、そう呟いた。
「ばいちゃい!」
「うわわわ!?」
私が薄目で太陽をみていると、謎の声と一緒に湿ったものが私の腕を撫ぜた。
「ぶいにゅ」
首を下ろしてみてみると、私の目の前には巨大な猫さんが立っていた(座っていた?)。
「火星猫、初めて見たかも……」
私はリュックサックの横にかけてあるカメラを取り出しながら、その猫と同じ目線になるようにしゃがんだ。そして、私がその猫さんに向かってカメラを向けると、
「ばいにゃ!」
と言って、その猫はポーズを取り始めた。触ったら絶対に気持ちいいであろう、もちもちのお腹を惜しげもなく、自慢げに突き出しながら、次々とポーズをとる猫。私はまるで専門のカメラマンのように、次々と写真を撮っていく。一定のリズムで切られるシャッターの音にだんだん楽しくなっていって、次第にその猫さんとの撮影会に熱が入っていった。
「良いですよ~、猫さん。次、もう少しひねりを加えたポーズをお願いします」
「ぶいにゅ!」
猫さんは私の言葉通りにひねりを加えたポーズをとる。そして、すぐさまそれを私が撮る。パシャパシャと連続で撮影して、私たちは撮影会を続ける。
「あ、今のいい表情ですね~、もう一枚!」
「ぷいぷい!」
「下からのアングルも素敵ですよ~」
「ぶいにゃ!」
私とその猫さんがいつまでも撮影会をしていると、後ろから声が聞こえてきた。
「何してるんですか、アリア社長」
「にゅ?」
「はわっ?」
私が振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。その女性は、ウンディーネの制服に身を包んでおり、両腕を腰に当てている。
「早めに仕事が終わったから、気になって様子を見に来てみれば……アリア社長?」
「……にゅ?」
アリア社長、と呼ばれたその猫さんは、小首を傾げた。
「誤魔化そうとしてもダメですよ。さっきまで遊んでたの、見てたんですからね」
「ぶいにゅ~」
その猫さんは、その女性の足元へと駆け寄ると、女性の足に抱き着いた。
「ダメですよ。そうやって甘えてきても……」
女性はそんなことを言いつつ、その猫さんを持ち上げると自分の胸元に抱えた。
「にゅ!」
「……もうっ」
口では怒ったようにそう言いながらも、彼女の顔には笑顔があった。
私がそのやり取りをぼーっと見ていると、その視線に気が付いたのか、私に話しかけてきた。
「ごめんね。ウチのアリア社長が遊んでもらっちゃったみたいで……」
「あ、ああ。いえ、全然大丈夫ですよ。むしろこっちこそ遊んでもらっちゃって……」
私は思わずそう返す。その言葉に嘘はなかった。
「そうなの?……ありがとうね」
彼女はそう言って私に微笑みかけた。その笑顔は、初対面であるはずなのに、なんだか不思議と懐かしい感じがした。
「ところでアリア社長?肝心の子、ちゃんと見つけたんですか?」
「ぶいにゅ!」
その女性が猫さんに話しかけると、猫さんは彼女の腕から降りて、私の足元に来た。そして、私のスカートのすそをクイクイと引っ張った。
「にゅ!」
「アリア社長!じゃあ、この子が……?」
「ぶいにゅ」
その女性は私の顔を見て少し驚いた顔をすると、コホンと咳払いをした後、口を開いた。
「あなたが、高森藍子ちゃん?」
「えっ!あ、はい!」
「……申し遅れました、私、ARIAカンパニーの、アイです。よろしくね、藍子ちゃん」
アイと名乗ったその女性は、私に向かってほほ笑んだ。
「あ、ARIAカンパニーって、あの……」
「うん、そう。藍子ちゃんがお便りをくれたところ」
「はわ……???」
私はいきなりのことに頭が追い付いていなかった。一生懸命状況を整理する。
「私がお世話になるのがARIAカンパニーで、アイさんはARIAカンパニーの人で……ということは……」
ようやく状況が呑み込めて、私は思いっきり頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
アイさんはケタケタと笑いながら、私の頭を撫でた。
「そんなに仰々しくしなくても大丈夫だよ。ほら、頭上げて」
私はアイさんに言われた通り、頭を上げる。愛さんは私の目を見ながら、笑う。そして、言う。
「いらっしゃい、藍子ちゃん。ようこそ、ネオ・ヴェネツィアへ」
「ぶいにゅ!」
その瞬間、近くのカモメたちが一斉に飛び立った。白い羽が辺りを舞っている。
今から、始まる。私の憧れだった生活が、今から。
「さあ、じゃあ、さっそくARIAカンパニーに行こっか」
アイさんは私に背を向けると、船がたくさんある方へと歩き始めた。私は、なんだかずっとこの瞬間を感じていたくて、訳もなく自分自身を抱きしめた。
「藍子ちゃ~ん!こっちだよ~!」
気が付くと、先に言っていたアイさんが、私を手招きしていた。
「は、はい!今行きます!」
私はリュックを背負いなおすと、駆け足でアイさんの元へと向かった。
高森藍子「そのあたたかな手に」
前略
火星について初めての朝です。
待ちに待った、新しい生活の幕開けです。
「……ん……」
さっきまで黒だったはずの視界が白に塗りつぶされている。まぶたを閉じているはずなのに、そんなことはお構いなしに私のことをまぶしい日差しが私の目の中に飛び込む。
「ズルいですよ……そんなの……」
私は太陽に文句を垂れながら重い重い眼を開ける。見慣れない天井。私は今、アクアにいる。そして、ARIAカンパニーの三階部分にいる。私は起き上がって外の景色を眺めた。丸形の窓ガラスから、あんなに遠く離れている太陽の光を反射して、キラキラと輝く海面が見える。そのずっと奥には、見慣れない水平線。それはどこまでも続いていて、遠くの方になるにつれて空との境界線があいまいになり、まるで空と海が溶け合っているように見える。
「……写真、写真」
私はこの風景を写真に収めようとベッドから降りようとした。それと同時に声。
「にゅ!」
「はわ!?」
私がベッドから降りようとした瞬間、いつの間にか部屋にやって来た猫さん、つまり、アリア社長が何か布を持ちながら立っているのに気が付いた。
「おはようございます、アリア社長。どうしたんですか?そんなところに……」
私がアリア社長に尋ねると、アリア社長は私の言葉を理解して、手に持っていた布を渡してきた。火星猫はマンホームの猫と違い、人間並みの知能を持っているらしい。さすがにしゃべることは出来ないみたいだけど、人間の話していることを理解しているのだそうだ。
「これ、なんです?社長?」
昨日知った話だけれど、水先案内人は青い瞳の猫をアクアマリンの瞳と呼んでいるらしい。アクアマリンは昔から海の女神として航海のお守りとしていたそうだ。そんな伝統がこのネオ・ヴェネチアでも続いており、水先案内人を経営する人たちは、アリア社長のような瞳の青い猫をお店の象徴にして安全を祈願している。
そんな話など全く知らなかった私だけれど、アリア社長のことを「アリア社長」と呼ぶことに早くも慣れてしまった。「社長」の響きも何だか可愛らしく思える。
私はアリア社長から布を受け取ると、その布を広げてみた。
「わぁ……!」
アリア社長が渡してきた布は、ARIA1カンパニーの制服だった。
「かわいい……」
私はその制服をベッドに広げて、全体を見渡す。スリットの入ったセットアップで、セーラーカラーで真ん中に大きな青いリボンタイ。真ん中に大きなマークが描かれている。そしてARIAカンパニーの名前が入ったセーラー帽。さらに、青地に黄色い施しがされている手袋とぷっくりしたかわいらしいフォルムのハイカットブーツが一組。
「これ、制服ですか?」
私はアリア社長に尋ねた。
「ぶいにゅ」
アリア社長は首を縦に振りながらそう答えた。
「さっそく来ちゃいましょうっ!」
「にゅ!」
「あ、なんだか恥ずかしいからアリア社長は部屋の外で待っていてもらえますか?」
「にゅ~~~!」
アリア社長が部屋から出ていくのを確認すると、私はパジャマを脱いで制服を着始めた。
「ぷはっ」
首の部分から頭を出すと、新しい服の匂いがした。それは、なんだか不思議に心をワクワクさせて、心踊る気分にさせた。姿見の前でしっかりと着れているかを確認する。最後に、いつものお団子ヘアーの上に帽子をかぶせる。
「えへへ」
自然とこぼれだす笑み。ニヤニヤが止まらない。毎秒ごとに実感する。私はもう、水先案内人なんだと。
「って、まだまだ見習いだけど……あ、そうだ」
私は起きてからずっとベッドに放置してあったカメラを取り、胸の高さまで持ってくると、鏡に向かってシャッターを切った。
パシャリ
「よしっ!」
私が写真を撮り終えると同時にアリア社長が部屋の中へと入ってくる。
「あ、アリア社長!」
「ぶいにゅ!」
アリア社長がこちらにジャンプしてくる。私はそれを受け止めると、鏡の前で一回転しながら、アリア社長に言う。
「どうです?こんな感じですけど」
「ばいちゃ~い!」
「本当ですか!?良かった~」
そしてもう一度ターン。それと同時に、開いていた部屋のドアの向こう、階下から何かの音が聞こえた。私はアリア社長を下すと、下へと向かった。
ARIAカンパニーの二階部分は、普通の家で言うところのダイニングになっていて、キッチンや冷蔵庫、大きめのテーブルと椅子、そしてアリア社長専用のデスクなんかがある。キッチンでは、アイさんが料理をしていた。良い匂いがする。
「おはようございます!」
私が言うと、アイさんは料理の手を止めて振り向く。
「おはよう、藍子ちゃん。……あ!」
アイさんは私の姿を見ると、笑顔で言った。
「制服、似合ってるよ」
「あ、ありがとうございますっ!」
「どこかきつい所とか、ない?」
「はい、大丈夫です」
「良かった。なら良いんだ……さっ、じゃあ朝食にしよう?」
「はい!」
ダイニングテーブルに朝ごはんが並べられていく。
「いただきまーす!」
「召し上がれ」
私は目の前にある目玉焼きにフォークを伸ばす。下に敷いてあるベーコンがカリカリに焼けていてとてもおいしそう。目玉焼きを半分に切ると、少しだけ緩い黄身が溢れる。私は真ん中に置かれているパンの籠からパンを取り、切った目玉焼きをそのパンの上に乗せる。私はこぼれないように、でも大胆にそれにかぶりつく。
「……」
私が朝ごはんと格闘していると、頬杖をついて私をずっと見ているアイさんと目が合った。私はなんだか急に恥ずかしくって、朝ごはんを食べる手を止めた。
「ど、どうしたんですか……?何か私の顔についてます……?」
私がアイさんに尋ねると、アイさんは「ふふふっ」と、少し子供っぽく笑って言った。
「ううん。ちょっと嬉しいだけだよ」
「は、はあ……?」
「ふふふっ。さあ、私のことは気にせずに食べて?」
「は、はい!」
朝食を終えると、アイさんは私をARIAカンパニーの一階部分へと連れて行った。
「藍子ちゃん。ゴンドラに乗った経験は?」
「えっと、小さい頃に一度だけネオ・ヴェネツィアに来ていたみたいで、その時に乗ったらしいんですけど、あまり覚えていなくて……」
「そっか。じゃあ、まずは私のゴンドラに乗って、どういうものなのか体験してみようか」
「はいっ!」
私はアイさんのゴンドラに乗ることになった。
アイさんの乗るゴンドラは、白を基調としたシックな船だった。また、舳先にはARIAカンパニーのイメージカラーである青でもって線が入れられている。その真ん中にはこの海と同じ色をしたガラスのようなものが埋め込まれている。
アイさんはそれに乗り込むと、オールでもって船の向きを変え、船を乗るための場所にゴンドラを付けた。
「さあ、お手をどうぞ」
アイさんは舳先に足を置きながらも、その船乗り場に軸を置いて、私に向かって手を差し伸べてくる。私は差し出されたアイさんの手を取った。瞬間、私は強烈な思い出に襲われた。
その思い出は、小さな頃、初めてネオ・ヴェネツィアでゴンドラに乗った時の記憶。もみあげから生えた二つの髪の毛の房が印象的な、とってもあたたかい手をしたウンディーネ。
「……どうしたの?」
アイさんの声が聞こえ、私は我に返る。
「あ、いえ……少し思い出して……」
私はアイさんに手を引かれ、ゴンドラに乗りこみながら言う。
「思い出したって?」
アイさんは私に尋ねながら舳先に両足をつけると、オールでもって漕ぎ始めた。私はゴンドラに配置されている椅子に座ると、アイさんが手を引いてくれた方の手、つまり左手を右手で握ってみた。
「はい。さっき、小さい頃に一度ゴンドラに乗ったって言ったじゃないですか」
「うん」
アイさんは極めて自然に船を漕ぐ。水が滑らかさを極端に発揮しているように見えるそのオールさばきは、アイさんの水先案内人としての力量を表していた。
「その時のこと、今の今まで覚えていなかったんですけど、アイさんの手を触ったら、急に思い出せたんです」
「へぇ、どんな思い出?」
「もみあげから生えた二つの髪の毛の房が印象的だった水先案内人の方なんですけど、その人の手の温かさが、アイさんの手のあたたかさと似ていたんです。だから思い出せたんです」
「…………」
「ア、アイさん?」
私が思い出した内容を話し終わると、アイさんは驚いたような顔をしたまま、オールを漕ぐのもやめて、しばらく呆然としていた。そしてそのまま目を瞑ると、静かに息を吐いた。アイさんはしばらくした後に目を開いて、私に向かってほほ笑んだ。微笑んでいるアイさんの目の奥には、どうしてか悲しさのようなものが少しにじんで見えた。
「……それは、とってもすごいミラクル、だね」
アイさんは漕ぐのを再開すると、噛みしめるようにそう言った。
「はい。ミラクルかもしれません」
しばらくアイさんが漕ぐ船を体験した後、今度は私がゴンドラを漕ぐことになった。
「じゃあ、試しにここら辺をゴンドラで漕いでみよっか」
「はい」
アイさんに示されたのは、先ほどのゴンドラとは違い、黒色をしたものだった。一人前、つまりプリマウンディーネが使うゴンドラはお客様を乗せるための船なのだが、両手袋と片手袋、つまりシングルとペアはこの練習用の黒いゴンドラを使うそうだ。
「よっと……」
舳先に飛び乗り、バランスをとる。ゴンドラから、年季が入った音がする。私はオールをしっかりと握り、漕ぎ始めた。船の側面についているロウロックを使って支点力点を作用させ、オールをスムーズに動かす。
「あらららら……」
しかし、まっすぐ進まない。左側にそれてしまった船体を直そうと、慌ててオールを逆方向に捌く。しかし、今度は勢いが大きすぎたのか、船がぐらぐらと揺れ始めた。
「あわわわわ……」
何とか落っこちないようにしながら再び漕ぐ。
「よっしょ……ほいしょ……」
一体どれくらい時間がたったのか。蛇行を続けながらも、なんとか数メートル進んだ。その時、後ろからアイさんの声が聞こえた。
「オッケー!じゃあ、今度は船首をこっち側に向けて漕いでみようか」
「は、はい!」
私は船の先をARIAカンパニーの方へ向けようと左側にバックした。
「あれれ」
しかし、思ったように曲がれずにまっすぐ後ろに進んでしまう。
「やっ!はっ!」
気合を入れて、今度こそ曲がるように漕いだつもりだったが、それでも船が曲がる気配はなくただまっすぐバックする。気が付くといつの間にかスタート地点に戻ってきてしまった。
「……ア、アイさん……」
私はアイさんを見上げる。アイさんはしばらく黙った後、口を開いた。
「うん。大丈夫!」
「へぇ?」
てっきり怒られてしまうかと思っていたから、変な声が出てしまった。
「全然良いよ。良い感じだよ、藍子ちゃん!」
「そのままバックしちゃったのにですか……?」
「うん。私が初めてゴンドラを漕いだ時よりも全然上手だよ。これならすぐに上達するね」
「ほ、本当ですか……?」
「本当本当。恥ずかしいけど、私の一番最初の漕ぎっぷりは、それはもう見ていられないほどだったんだから。第一、ちゃんとバランスをとって船を操縦できるっていう時点で素質十分なんだから!……これから一緒にがんばろ?」
アイさんはそう言って、私に手を差し出してくれた。私がその手をつかむと、アイさんは私を陸地へと引っ張ってくれた。やっぱりその手はどこかあたたかくて、私もこんなあたたかな手を差し伸べられるような水先案内人になりたいと思った。
「……はい!頑張ります!素敵なウンディーネになれるように!」
私はそうアイさんに返事をした。あたたかな手を差し伸べられるような水先案内人になりたい、じゃだめだ。あたたかな手を差し伸べられるような水先案内人になるんだ。絶対。
内心息巻いていると、アイさんはそんな私の心を知ってか知らずか、私の顔を見て微笑みながら口を開く。
「うん。その意気、だよ。じゃあ、さっそく、一番重要なことから教えようかな」
「はい!」
「一番重要なのはね、この船が流されて行かないように、このバリーナって言う杭に括りつけることなの。この作業をしておかないと、あっという間に流されちゃうんだから」
「ふむふむ……」
「それとね……」
こうして記念すべきアクアでの一日目は幕を閉じました。操舵技術はもちろんまだまだだけど、これからアイさんと一緒に成長していきたいです。
そして、いつかプリマになったら。その時は、一番最初の「お手をどうぞ」の時から、お客様にあたたかな気持ちになってもらえるような、そんな水先案内人になれるよう頑張ります!
浜口あやめ「ARIAカンパニーの新人を」桃井あずき「監視大作戦!」
前略
いかがお過ごしですか?火星はまだ八月で春真っ盛りです。
そして、そんなハルの暖かな陽気が素敵な出来事を運んでくれました。
「うんしょ……っと……」
自分の身体を支える筋肉に目を覚ましてもらうために軽くストレッチをする。鳴れない筋肉も使うので、ときおり痛すぎて小さく悲鳴を上げる。それに耐えながら、穏やかな波に揺れるゴンドラに合わせて身体に弾みをつける。
「……5、6、7、8!」
ゴンドラに乗り始めてから数日が経って、ようやくまっすぐ進めるようになった。バックもできるようになった。と言っても、まだまだのろのろなスピードではあるのだけれど。でも、アイさんも「上手になってるね」と言ってくれるので、へこたれない。
「よし!さあ、アリア社長、今日も練習ですよ!」
「ぶいにゅ」
ストレッチを終え、オールを手にしながら私はアリア社長にそう声をかける。アリア社長は私の言葉に返事をすると、練習用のゴンドラに乗りこんだ。私はアリア社長が乗り込んだことを確認すると、バリーナの紐をほどいて少し蹴る。ゴンドラの頭の向く方へ進む。そのままオールをゆっくりと水につける。一日として同じ水の感触はない。ネオ・ヴェネツィアの海は、いつだって私に新しい発見をくれる。
「何だか今日の水は少しだけもたっとしてますね、アリア社長」
「にゅ?」
「抵抗感はあんまりないんですけど、少しだけ重たい感じがするんです」
私がそう言うと、アリア社長がゴンドラの縁から身を乗り出して水を触ろうとする。
「わわっ!?落っこちないようにしてくださいね、アリア社長」
「ぶいにゅ!」
アリア社長は「もちろん!」といったように開いている手の方をこちらに振ってきた。そしてもう片方の手で海面を撫でている。私はもともとそんなに早く無いゴンドラのスピードをさらに緩め、アリア社長が落ちないようにする。今はそんなに朝の早い時間というわけではないが、この街特有のゆったりした時間が海に流れている。こんな時間の流れは、マンホームでは味わったことがなかったが、こっちの方が性に合っている気がした。
今日の風は今日の水とは違って、さらりとしていた。そよ風が髪を撫でる感覚が楽しくて、自然と笑顔になる。
「気持ちいですね、アリア社長」
「ちゃい!」
いつの間にか海面を触る遊びを止めていたアリア社長が、先ほどまで水を触っていた方の手を振りながらそう答えた。
藍子が気持ちよくゴンドラを漕いでいる中、そんな藍子を眺める瞳が四つ。
「むむむむむ……」
「あれが件の新人さんですね、あずき殿」
「そうだと思うよ。先輩たちが言ってた、あのなんとも言えない雰囲気?が、まんまARIAカンパニーって感じだし。というか、そもそもARIAカンパニーの制服着てるしね」
「確かに」
二人は会話をしながらも、目線の先に藍子を入れたままである。二人はウンディーネの制服に身を包んでいる。一人は赤いラインの入った制服で、もう片方は黄色いラインが入った制服。
「むむむむむ……」
「う~む……」
「むむむむむ……」
「……それで、どうするのです?」
「え?どうするって?」
「彼女、どんどん進んでいってしまいますよ?このままだと監視大作戦が失敗してしまうのでは?」
「……確かに~!早く言ってよあやめちゃん!」
「いえ、まだ焦らなくとも大丈夫です、あずき殿。彼女のゴンドラはまだ日が浅いせいかゆっくりです。私たちでも十分追いつけます!」
「じゃあ、今すぐ私たちもゴンドラに乗りこもう!」
「はい!」
「さあ、あやめちゃん!漕いで漕いで~!」
「わ、わたくしが漕ぐのですか!?」
「そうだよ~!名付けて忍法・めちゃめちゃ静かに素早い操舵の術大作戦!」
「そんなむちゃな!?」
彼女たちはわちゃわちゃしながらも、軽い身のこなしでゴンドラに乗る。オールを手に取ったのは、オレンジのラインが入った制服を着た方。
「では、行きますよ!ニンッ!」
先ほどまでは慌てていたそぶりを見せた彼女だが、オールを持つと、しっかりとした姿でゴンドラを漕ぎ始めた。
「ゴーゴー!」
「ちょ、あずき殿。あんまり大きな声を出すとバレてしまいます!」
「まだ距離はあるから大丈夫だよ。それより、あやめちゃんめちゃめちゃ静かに漕いでるね。その割にスピードも出てるし」
「先ほどあずき殿が出した作戦通りにやってるだけですよ。とても大変ですけど。でも、このくらい、忍者水先案内人のわたくしにかかれば……わっとと……」
「はわ!大丈夫?あやめちゃん」
「ええ、何とか」
「さっきの作戦は忘れていいから。今度は慎重にでも追いつけるように大作戦にしよう」
「了解です!」
こうして、藍子の後ろに二人の影が重なった。
「……ん?」
私がゴンドラを漕いでいると、後ろから女の子の声が聞こえてきた。後ろの方を振りむこうとしたのだが、バランスを崩すのが怖くてできなかった。どんどんその音源が近づいてくる。そして、もう一隻のゴンドラが私のゴンドラのすぐ隣にやって来た。
「よ~よ~彼女~お茶でもしない?」
「へ?」
いきなり話しかけてきた彼女はゴンドラの客席部分に座っていて、私と同じ水先案内人の制服を着ていた女の子だった。赤いラインが入っていて、たまに見かけるものだった。そして、船を漕いでいる女の子は、これまた水先案内人の制服を着ているが黄色いラインが入っている。
「あ、あずき殿!?その声のかけ方は悪手では?」
「で、でも、どんなふうに声かけたらいいかわかんなかったし、女の子に声をかける行為って、マンガだとナンパしかなかったから……」
「ナンパはダメですよ!」
「????」
いきなり多くの情報量が私の頭の中に入ってきてフリーズしそうになる。だけど、私の腕はしっかりとオールを漕ぐ。
しばらくの間、私の船と隣の船の間には、水を押す音だけが響いた。
「……と、とりあえず、お茶しませんかって言うのは本気なんですよね?あずき殿?」
無言の空気に耐えられなかったのか、ゴンドラを漕いでいる方の髪の毛の長い女の子が口を開いた。
「そ、そうだね。それはその通りだよ!お茶しませんか大作戦だよ!」
「ということで、お茶しませんか?高森藍子さん?」
「あれ、私の名前……」
「ささっ!あずき殿、この辺りにいいお店を知っているんでしたよね!?」
「そ、そうだね!じゃあそこに行こうか、藍子ちゃん!」
「ええ……???」
いつの間にか私は見ず知らずの水先案内人に連れられて、カフェに行くことになりました。
「なるほど、そういうことだったんですね……」
連れられたカフェでカフェラテをすする。昼間は寒いということを感じない季節ではあるが、温かいカフェラテはそれだけで幸せをおすそわけしててくれる感じがする。
「ごめんなさい!私たち、どうしたらいいかわからなくって……」
二人が勢い良く頭を下げる。私はそれに驚きながら、彼女たちに話しかける。
「いいえ、謝らないで大丈夫ですよ。むしろうれしいんです」
「嬉しい?」
私の言葉に二人が反応して、こちらを見てくる。
「はい。火星に来て、アイさん以外の人とお話したのがこれで初めてだったから」
「そうなのですか……そう言っていただいてこちらとしてもありがたいです」
「だから、むしろ話しかけてきてくれてありがとうって、そう思ってます」
そして一息つくためにまたカフェラテを飲む。ここのカフェはサン・ザッカリーア・ピエタを少し過ぎたところにあって、まだ細かな水路にチャレンジすることができない私でも比較的簡単にたどり着くことができる場所にある運河沿いの店だ。この前アイさんに連れて行ってもらったお店もとても素敵なところだったけれど、このカフェはどちらかというとテイクアウトを主としているところらしい。しかし、外にいくつかテーブルと椅子が置いてあるのは、やはりネオ・ヴェネツィア特有かもしれない。
「それで、ええっと……お二人を何とお呼びすれば良いんでしょうか……」
私がそう話を始めると、赤いラインの制服の方の女の子が、思い出したように声を上げた。
「あっ~!そうだよ!あずきたち、まだ自己紹介してない!」
「そういえば、そうでした。うっかり失念していました」
「ということで……」
二人はいきなり立ち上がると、自己紹介をし始めた。
「わたくしは、あやめ・N・浜口って言います。オレンジぷらねっとに所属していて、忍者水先案内人を目指しています!気軽にあやめと呼んでください!ニンッ!」
「に、にん……?」
「私は桃井あずき。姫屋支店に所属してる水先案内人です!セクシーな水先案内人を目指してます!あずきって呼んでね!」
「せ、せくしー……?」
一通り紹介が終わったのか、あやめちゃんとあずきちゃんは椅子に座った。
「あ、じゃあ次は私が……」
私がそう言って立ち上がろうとした瞬間、二人が一口をそろえて言った。
「高森藍子ちゃん、だよね!」「高森藍子殿、ですよね!」
「う、うん……」
二人の勢いに押されて、持ち上げた腰が再び座版に落ちる。
「……さっきも思ったんですけど、どうして私の名前を?」
私は気になって二人に尋ねてみた。
「ああ、それは、私たちの先輩が教えてくれたからだよ」
あずきちゃんがそう言った。
「そうなんです。私たちの先輩は、藍子殿の先輩のアイさんと仲が良いらしくて……それで先輩から『ARIAカンパニーに新しい子が来たみたいだから、顔を見に行ってこい』って言われて」
「それで知ってたんだ~!」
あずきちゃんとあやめちゃんはそう話しながら、私の顔を見る。
「そうだったんですね……アイさんのお友達が、あやめちゃんとあずきちゃんの先輩……」
私も二人の顔を見つめ返した。それと同時に、アイさんとそのお友達にも思いをはせる。なんだか、遥か昔から友だちだったみたいな感覚が私を包む。
「……もしかして、運命なのかもしれませんね」
私がそうぽつりとつぶやくと、あずきちゃんとあやめちゃんは目を合わせた。そして、お互いに頷き合っている。
「ど、どうしたんです?」
私がそう尋ねると、あずきちゃんが口を開いた。
「いや~、やっぱり、ARIAカンパニーの水先案内人なんだなぁって」
「そうですね。やはり、先輩の言っていたことは正しかったですね」
「な、なんです……?」
何かやってしまったのかと思い、私は急に不安になって二人に聞く。すると、あずきちゃんが答えてくれた。
「先輩たちがね。『ARIAカンパニーの人はみんな、「ステキ―」って感じのオーラがあるからすぐにわかる。新人の子も絶対そうだから大丈夫』って、言ってたんだけどね」
「まさにその通りだと、先ほどの藍子殿の言葉を受けて思ったのです」
あやめちゃんがあずきちゃんの言葉を引き継ぎそう言う。
「そ、そうなんだ……」
二人の言葉に驚きながらも、まだここに来てから数日しかたっていないにもかかわらず、ARIAカンパニーの雰囲気が出ていると言われて、なんだか少しうれしかった。
「あ、いっけない!」
しばらく談笑を続けていた私たちに出来た、ほんの隙間。あずきちゃんが腕時計をふと見てからそう叫んだ。
「どうしたのです、あずき殿?」
「もうこんな時間だよ!いつの間にこんなに時間がたってたんだろう?」
あずきちゃんが時計を見せる。短針が12の文字を少し越していた。
「なんと!もうそんな時間だったのですか」
あやめちゃんが時計を見て驚く。
「わたし、今日午後からあずささんのコーチングがあるんだった」
「わたくしも、この後アーニャさんに教わるんでした!」
二人とも慌てたような様子を見せる。そんな中、あずきちゃんは急にぴたりと動きを止めて、身体を私の方に向けた。そして、手をずいと差し出してきた。
「藍子ちゃん!」
「は、はい」
私は差し出された手を握り返した。すると、あずきちゃんはぶんぶんと腕を振った。
「あずきたち、今日から友達、だね!」
あずきちゃんはそう言って、ニカッっと笑った。
「……はい!」
私もつられて笑顔になる。
「あ、わたくしとも握手ですよ!藍子殿」
「うん。もちろん」
あやめちゃんとも握手を交わす。
「じゃあ、また明日!」
そう言って、あずきちゃんとあやめちゃんは漕いできたゴンドラに乗り込み、さっき通った道を漕いでいってしまった。
私は、そんな二人の背中を見つめながら、「また明日」という言葉をかみしめた。
「また明日、かぁ……」
その言葉は、私の心の中に広がっていって、なんだかとてもやさしいあたたかさに変わっていった。
「あ、私も練習しないと」
しばらく二人の余韻を感じていたけれど、ふと我に返って思い出した。机の下でお昼寝をしていたアリア社長を起こす。
「お待たせしました、アリア社長。ARIAカンパニーに帰りますよ」
「……にゅ?」
寝惚けまなこをこすりながら、返事をするアリア社長。私はアリア社長が起きるのを待ってから、ゴンドラに乗り込んだ。
その夜。私は今日あった出来事をアイさんに話した。
「……それで、また明日って言って、別れたんです」
「……あずさとアーニャ、そんな話してたんだ」
私が話し終わると、アイさんは私に聞こえないくらいの声で何かをつぶやいた。
「アイさん?」
「ん?ああ、何でもないよ。私の友達の後輩が、藍子ちゃんの新しい友達になったなんて、ミラクルかもしれないね」
アイさんはそう言って私に微笑んだ。
「はい!まさにミラクルです!」
「明日から合同練習?」
「はい、そうです」
「良いねぇ。私たちが合同練習してた時は……」
「ふむふむ……」
こうして。火星での新しいお友達が、同時に二人もできました。アイさんとそのお友達も、アイさんの先輩も、お友達と一緒に練習をしていたらしいので、これから毎日一緒にあずきちゃんたちと練習できると思うと、ワクワクが止まりません!
高森藍子「水没の空・雨雲の街」
前略
今日はとてものんびりしています。
事の始まりは朝でした
いつも通り制服に着替え髪の毛をセットし終わると、私は二階のダイニングに向かった。火星の朝。いつもならアイさんがキッチンで朝食を作っている音がするけれど、今朝は静かだ。二階にアイさんの姿が無かったので、そのまま一階へと続く階段を下りる。そして、じゃぼんという音がした。
「はへ?」
そして靴下が、思いっきり水たまりに飛び込んだみたいに水を吸収する感覚。
「えええっ!?」
私は前代未聞の体験におののきながら、踵を返し階段に戻る。数段昇ると、そこはいつもの階段だった。
「何が起きてるの……?」
私がそうつぶやくと、階段を覗くアイさんの顔が見えた。
「ア、アイさん!」
私は思わずすがるような声を出す。アイさんはニヨニヨ顔で私を見ながら口を開く。
「おはよう、藍子ちゃん。目はばっちり覚めた?」
「……はい、これまでないほどに」
「それは良かった。藍子ちゃんにびっくりしてほしくて、昨日の夜言わなかったんだよね」
アイさんはそう言って嬉しそうに笑う。
「な、何をですか……?もしかして、この浸水現象、アイさんがやったんですか?」
私はアイさんに尋ねた。アイさんが会社を水浸しにしてまで私を驚かせようとするいたずら心があったなんて思わなかった。私の言葉に、アイさんは笑いながら返す。
「違う違う。この浸水現象はね、アクア・アルタって言うの」
「アクア……アルタ……?」
私はアイさんの言葉を反芻する。
「そう。毎年この時期に起こる高潮現象のことをアクア・アルタって言うの。南風と潮の干潮に気圧の変化が重なって起きるんだって」
「へぇ~……」
なるほど。その影響で、海辺に会社がある我がARIAカンパニーにも潮が満ちてきたというわけですね。
「アクア・アルタの間は街の機能がほとんどマヒ状態になるから、この時期はみんな家でゆっくりするんだ」
「そうだったんですね……」
「うん。街と海の境がなくなってるから、ゴンドラにも乗っちゃだめだよ。乗り上げちゃうと危ないから」
「そうなんですね……わかりました!」
アイさんの言葉に私はしっかりと返事をする。
「いや~、それにしても。藍子ちゃんの驚いた顔、可愛かったよ」
アクアアルタについての説明が終わると、アイさんは再びニヨニヨ顔に戻ってそう言った。
「ア、アイさんっ!」
私は恥ずかしくなって、思わずアイさんの腕をとる。
「昨日のうちに浸水しそうなところにあったものを全部一人でどかすっていう重労働があったけど、藍子ちゃんのびっくりした顔が見れただけで帳消しされたよ」
「も、もう……言ってくれたら手伝ったのに……」
「それじゃあ、驚いた顔が見れなくなっちゃうじゃない」
というわけで。街から水が引くまでの期間は、お店も開店休業状態です。このアクア・アルタが終わると、ネオ・ヴェネツィアに本格的な夏が訪れるそうです。マンホームの日本で言う、梅雨のようなものかもしれません。
二階のテラスでアイさんと何を話すでもなくのんびりと過ごしていると、電話が鳴り響いた。私は急いで受話器を取りに向かった。
「もしもし、お電話ありがとうございます!こちらARIAカンパニーです!」
ここの電話機はずいぶん昔の形を模して作られたものらしく、入力場所と出力場所が一体になっておらず、出力場所だけがぶら下がっている。入力部分は本体にそのまま設置されていて、そのすぐ近くからは空中に映像を投影するための装置が備わっている。
電話の主はアイさんを呼んでいたので、私はアイさんを呼んだ。
「はいはい……」
アイさんに電話を替わる。しばらくしてアイさんが受話器を置くと、私の方を振り向いていった。
「ごめん、藍子ちゃん。ちょっと急用が出来ちゃったみたいなの。だから。後よろしくね」
「わ、わかりました!」
「アリア社長も、良い子にしていてくださいね」
「ぶいにゅ」
「じゃあ、ちょっといってくるから」
「はい。いってらっしゃませ~!」
アイさんは電話をしてからすぐにどこかへ出かけてしまった。
「……アイさん、行っちゃいましたね」
「ぷい」
「……じゃあ、ゆっくりしましょうか、アリア社長!」
「ばいちゃ!」
こうして私たちは、テラスでゆっくりと過ごすことにした。
いったいどのくらいの時間がたったのかわからないほどのまどろみの中。急に耳慣れた声が聞こえてきた。それは、最近お友達になったばかりの声だった。
「藍子ちゃ~ん!」
「……ふえ?」
自分の名前を呼ぶ声がして、目を開ける。
「あれ?藍子ちゃ~ん?」
あずきちゃんの声が聞こえる。私は寝ぼけ眼をこすりながら、二階テラスと一階をつないでいる階段を降りた。
「あ、いたいた」
あずきちゃんは私の姿を確認すると、じゃぼじゃぼと音を立てながら近づいてきた。
「どうしたの、あずきちゃん?」
私はゆるんだ顔を上に押し戻しながらあずきちゃんに尋ねる。
「いやぁ、アクア・アルタで練習もできないし、暇だから来ちゃった」
「来ちゃったって……外を出歩くの、危なくなあい?ここら辺、水路も多いし……」
「あずきはこれでも地元っ子だから大丈夫だよ!」
「そうなの……?」
「うん!」
「そっか……それで、どうしてまたウチに?」
「あ、そうだ!忘れるところだった。藍子ちゃん、うちに来ない?」
「へ?」
あずきちゃんは突然手をつかんできた。
「ね!」
「う、うん。良いけど……」
「やった!じゃあ、決まりね!」
「あ、ちょっと待って!」
私は今すぐにでも出発しそうなあずきちゃんを一旦制し、ARIAカンパニーのテラスに戻る。テラスではアリア社長がうたた寝をしていた。少し心苦しいとは思いつつ、私はアリア社長を起こす。
「アリア社長、アリア社長!」
「……ぷい……?」
「今からお出かけするんですけど、アリア社長も一緒に行きませんか?」
私がそう尋ねると、アリア社長は「ちゃい!」と元気に返事をしながら、二階の部屋に入っていった。そして、自分が乗るためのミニゴンドラと、それを引っ張るための紐を持ってきた。そして、紐を私に渡してきた。
「準備は大丈夫ですか?アリア社長?」
「ぶいにゅ!」
アリア社長は元気に返事をした。
「あ、ここ、水路が近いから、気を付けてね」
「わかった」
あずきちゃんを先頭に、ズンズント進んでいく。水先案内人の制服は足首の長さまで布があるので、片手で裾が濡れないように布をたくし上げながら、もう片方の手でアリア社長の乗るミニゴンドラの紐を引く。
「そういえば、あずきちゃんの制服、短くなあい?」
ふとあずきちゃんの制服に目をやると、制服がやけに短く、あずきちゃんは両手が空の状態のまま歩いていたので聞いてみた。
「ああ、これはねぇ……」
あずきちゃんは私の方向へクルっと身体を向けると、得意げな顔で言った。
「私がアクア・アルタ用に制服を改造したんだ~。といっても、ピンでとめてるだけなんだけど……ほら、ここ」
あずきちゃんは腰あたりを指さしながら言った。
「裾の方を内側に織り込んでいってね、それをなるべく目立たないように安全ピンでとめてるの」
「へぇ~、すごいね」
「でしょでしょ!?動きやすいし、ミニっぽくなっててセクシーだし、結構気に入ってるんだぁ」
あずきちゃんは嬉しそうに言う。
「……あ、ここの道を曲がったらすぐだよ!」
あずきちゃんは急に走り出す。
「あ、待って、あずきちゃん!」
私は水路に落ちないように慎重に、あずきちゃんについていった。
「ほら、ここが姫屋の支店だよ!」
あずきちゃんが指さす先には、大きくて立派な建物がそびえ立っていた。
「普段はここの寮で生活してるの。さ、入ろう!」
「あ、うん」
私はあずきちゃんに連れられて、建物の中に入る。
「おじゃましま~す……」
中に入ると、赤を基調としたシックな内装が施された空間が広がっていた。
「藍子ちゃん、こっちこっち」
あずきちゃんは手招きをする。そんなあずきちゃんのすぐ後ろに、一人の女性が立った。
「こりゃっ!小娘!」
「ひぃ!?」
いきなりの出来事に、あずきちゃんは肩を勢いよくすくめながら振り向く。
「制服を勝手に改造しないって、何度言ったらわかるのかねこの子は」
「し、支店長……」
あずきちゃんは支店長さんに頭を軽くチョップされながらそうつぶやく。
「ち、違うもん!これはただの改造じゃなくて、アクア・アルタ用の奴だもん!」
「だったら余計にダメでしょうが。アクア・アルタの時は危ないからであるくなっていってあったでしょ」
「私、地元民だから危なくないもん」
「アンタは変にどんくさい部分があるんだから、危なくないわけないでしょ」
「……むぅ~」
「むくれてもダメなものはダメ!」
「……むぅ~」
「……まったく」
その女性はあきらめたようにため息をつきながらそういうと、再び口を開いた。
「部屋に戻るまでにそのスタイルを直しておくこと。それと……」
そしてその女性は私に一つ視線をよこした後、言った。
「亜子に今日お泊りする子がいますって報告しておくこと。良い?」
「……はぁ~い……」
「返事はしっかりするっ!」
「……はい」
「よろしい。じゃあ、ちゃんとやるのよ」
支店長さんはそう言うと、今度は私の方に近づいてきた。何だろうと思って少し緊張していると、小さな声で話しかけてきた。
「うちのあずきと、仲良くしてあげてね」
「あ、は、はい」
支店長さんは私の返事を聞くと微笑み、そのままどこかへ行ってしまった。外から急に振り出した雨の音が聞こえてきた。
「支店長は頭が固いよ!」
あれから、あずきちゃんは制服を渋々元に戻した。
「もうちょっと自由に着たって良いじゃんねぇ」
あずきちゃんは唇を尖らせながらそういう。
「……そういえば、さっき支店長さんに亜子さんに報告しておくようにって言われてなかった?」
「あ、そうだった!」
私があずきちゃんにそう言うと、あずきちゃんはベッドから跳ね上がった。
「今から報告に行こう」
あずきちゃんの部屋を出て、一階へと戻る。階段を降りてすぐのところに扉があり、あずきちゃんはそれをノックする。
「失礼しま~す」
「どうぞ~」
中から声がすると同時にあずきちゃんは中へ入っていった。私もそれに続く。
「あずきちゃんやんか、珍しい。どないしたん?」
声の主はあずきちゃんの姿を見てそう言った後、私を見て口を閉ざした。
「亜子さん、今日私の友達の藍子ちゃんが私の部屋に泊まるから」
「あ、あずきちゃん。まだ泊まるって決まったわけじゃあ……」
あずきちゃんの言葉を聞いて、私は慌ててあずきちゃんに言った。
「でも、当分雨やみそうにないよ?」
「……アイさんに何も連絡してないし……」
「じゃあ、私のケータイ貸してあげる」
あずきちゃんが携帯を渡してきた。私はアイさんに電話をかける。
「……はい、わかりました。はい、ありがとうございます。おやすみなさい」
「どうだった?」
「アイさん、良いって」
「やった!」
私が電話を切ると、あずきちゃんは急いで訪ねてきたのでそう返した。すると、あずきちゃんは嬉しそうに飛び跳ねた。
「ちょい待ちちょい待ち」
そこに、亜子さんと呼ばれていた人の声が入ってくる。
「あずきちゃん。まだウチ、何も聞いてないんやけど?」
「あ、そうだ。だからね、藍子ちゃんが私の部屋にお泊りするの」
「それ、支店長には許可取ってあるん?」
亜子さんはあずきちゃんにそう尋ねる。
「うん。もちろん!」
「ホンマかいなぁ……まあ、一応報告は受けたということにしておくわ」
「嘘じゃないもん!藍子ちゃん、ご飯食べに行こ!」
あずきちゃんはそう言うと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「あ、あずきちゃん!」
私もあずきちゃんの後を追おうとした。すると、亜子さんから呼び止められた。
「あ、ちょい待ち」
「は、はい」
亜子さんは私に手招きする。私はそれに従って亜子さんのそばに行った。
「あの子と、仲良くしたってな」
「……はい!」
「そういえば、さっきの亜子さんって、どういう人なの?」
食堂でご飯を食べて大浴場でお風呂に入った後、あずきちゃんの部屋でおしゃべりをしていた。あずきちゃんに貸してもらった和服風のパジャマは、あずきちゃんの匂いが少しした。
「亜子さん?亜子さんはね、自称ネオ・ヴェネツィア一お金の管理が上手い事務員さんだよ。本当に一番うまいのかどうかはわからないけど」
「へぇ~。じゃあ、支店長さんは?」
「支店長はねぇ~。新・水の三大妖精の一人で、姫屋支店の店長で、私の先輩の先輩、かな」
「水の三大妖精?」
聞き慣れない単語が聞こえたので、私はあずきちゃんに質問した。
「そ。ネオ・ヴェネツィアにいる水先案内人の中でも実力・人気共に抜きんでてる存在のことを三大妖精って言ってるんだけど……。なんで支店長がそう言われてるのか、私にはさっぱりだよ」
「あ、あははは……」
「先輩もめちゃくちゃ厳しいけど、支店長は先輩よりも厳しいし、すぐに制服直せって注意してくるし……」
「……」
「あずき、支店長に嫌われてるのかな……」
「……」
いつの間にか夜深くまで来ていた。時刻はすでに丑三つ時。外から雨の降る音は聞こえなかった。私は少し重くなった空気を入れ替えるために窓を開けた。
「わぁ……綺麗……」
窓を開けると、そこには凪いだ水面に映し出された、もう一つの夜空があった。それはまるで、世界が鏡みたいに反転してしまったかのように見えた。地面に空があって、空に街があるみたいな。そんな不思議な景色。
「ほら、あずきちゃん。綺麗だよ」
「……うん」
先ほどの話の流れで少ししょんぼりしているあずきちゃんを窓辺に誘う。あずきちゃんはゆっくりと膝を擦りながらこちらにやって来た。
「……ね?綺麗でしょう?」
「……うん。綺麗……」
あずきちゃんの顔が、窓の外を見る前よりも少し明るくなった気がした。
「……私ね、支店長さんがあずきちゃんのことを嫌ってるとは、思えないな」
「え?」
「だって、私、さっき支店長さんに言われたの。あずきちゃんと仲良くしてねって」
「……」
「それって、嫌いな相手のためには言わないんじゃないかな?」
「……でも……」
「もちろん、支店長さんがあずきちゃんを厳しく叱ることがあるかもしれない。けど、それって愛情の裏返しなんじゃないかな。あずきちゃんに期待しているからこそ、厳しく指導してるんだと思う。どうかな?」
「……そうなのかな」
「うん、そうだよ。支店長さんも亜子さんもあずきちゃんの先輩も、もちろん私も、あずきちゃんのことが好きなんだよ」
「……うん、そうだね!」
あずきちゃんの顔がパッと明るくなった。
「さっ、あずきちゃん。もう夜も遅いから寝よう?」
「うん」
それから私たちは横になった。
「おやすみ、藍子ちゃん」
「おやすみなさい、あずきちゃん」
少しだけ空いた窓の隙間から、優しい月明かりが部屋を包む。その明るさは、不思議と私たちを眠りに誘っていった。
ここから新しいやつです
愛野アイ「絶対について行っちゃだめだよ!?」
前略
その日はぽかぽかの洗濯日和でとても気持ちのいい朝でした
「にゅ」
アリア社長は扉をあけながらそう言うと、一人でどこかに行ってしまった。私はベットのシーツを干しながらそんなアリア社長の後姿を見送る。
「……アリア社長、どこに行ったんでしょうか?」
タオル類を干していたアイさんが、しわを伸ばすようにパンパンとタオルを叩きながら口を開く。
「……気になるの?」
「そうですね。ちょっとだけ」
「ちょっとだけ?」
「……だいぶ、気になります」
私がそう言うとアイさんは笑った。アイさんはいつも私の心を読み取る。
「じゃあ、行ってくる?」
「え?行くってどこに……?」
「アリア社長の尾行」
「尾行」
「そ。尾行」
「でも、洗濯物がまだ……」
「大丈夫。もうこれだけしかないから」
アイさんはそう言って、籠の中に入った洗濯物を私に見せる。そこには残り数枚のタオルが入っていた。
「洗濯ものもこれで終わりだし、ゴンドラの練習ついでに行ってみたら?」
「そうですね……でも、どうしてゴンドラ……?」
私がそう尋ねると、アイさんはアリア社長の電動ゴンドラがある場所を指した。本来あるはずの電動ミニゴンドラの姿は、そこにはなかった。
「なるほど」
「そういうこと。あ、藍子ちゃん」
「はい?」
シーツを完璧に干し終わった私は、さっそくアリア社長を追いかけるための準備にかかろうとしていた。そんな私にアイさんは声をかけてきた。
「もし、でっかい猫のシルエットを見つけても、絶対に追いかけちゃだめだからね?」
「は、はあ……」
「じゃあ、がんばってね」
アイさんはそう言うと、空いた籠をもって部屋の中に入っていってしまった。
「でも、『でっかい猫の影』って、いったい何のことなんだろう?」
私はアリア社長が通ったであろうとなんとなく思った水路を、ゴンドラを漕ぎながら進む。
「ああ、それは、『猫の王国』伝説ですね」
ゴンドラに乗ったあやめちゃんが言う。
「猫の王国?」
耳慣れない言葉に、私はただオウム返しするしかなかった。
「はい。マンホームのハイランド地方に伝わる昔話に、猫の集会と言って猫だけの王国があるというものがあるんです。その昔話は、家から猫がいなくなったときは、猫が猫の集会に行っているときだという内容で、その猫の集会の主催者がケットシーという大きい黒猫らしいんです」
「へー。猫の集会、かぁ……」
「だから、アイ殿がおっしゃっていた『でっかい猫の影』というのは、このケットシーのことを指しているのだと思われます」
「なるほど。あやめちゃん、物知りなんだね」
「いえ、私が知っていたのは、私が小さい頃にたまたまおじいちゃんがこの話をしてくれたからなだけで……」
「でも、覚えていること自体が凄いよ。おかげで素敵な話を私も知ることができたし」
「そう言っていただけるのならうれしいです」
あやめちゃんは恥ずかしそうに微笑んだ。
「でも、その猫の集会ってマンホームのお話なんでしょう?アクアにもケットシー、いるのかな?」
「そうですねぇ。確かに言われてみれば、どうなんでしょう?」
会話をしながらもゴンドラを漕ぐ手は緩めない。最近の練習の成果が出てきているのか、こうやって少しおしゃべりしながらでもまっすぐにゴンドラを漕ぐことができるようになってきた。
しばらく静かな時間が流れていたが、突然あやめちゃんが何かを思い出したように言う。
「そういえば、アイ殿と私の先輩が出会ったのも、ケットシー探しがきっかけだったと聞いています」
「へぇ、そうなんだ。だったら、もしかしたらケットシーはいるのかもしれないね」
「はい。アイ殿の目撃情報を頼りに探したらしいですよ」
「アイさん、ケットシー見たことあるんだ」
「影だけらしいですけどね」
「そうなんだ……あっ!」
ゴンドラを漕いでいると、目の前にアリア社長とミニゴンドラが見えた。
「アリア社長ですね」
あやめちゃんもアリア社長の姿をとらえたみたいだった。
「うん」
アリア社長は私たちの姿に気が付いた様子はなく、そのまま右折して細い水路に入っていった。私たちを乗せるゴンドラも、アリア社長が入っていった水路の入り口に到着する。
その水路はとても狭く、どこまで続いているかわからないほどだった。奥の方は、今日は晴れているはずなのに妙に暗く、そのことが少し恐怖を感じさせた。
「……なんだか、少し不気味ですね」
あやめちゃんも私と同じように恐怖を感じたのか、そう言う。
「……行ってみようか」
「……はい」
狭い水路。船体をぶつけてしまわないように気を付けながら、ゆっくりと私たちも入っていった。
「だいぶ漕いでるけど、アリア社長の姿、見当たらないね」
「そうですね」
アリア社長の後を追いかけて狭い水路に入ってから、いったいどれくらいの時間がたっただろうか。私たちの頭上には空があって、お日様が辺りを照らしている。そしてその恩恵を受けようと、洗濯物が水路をまたいで架かっている。ネオ・ヴェネツィアのよく見る風景。日常に溶け込んだいつもの景色。だけど、これは……
「なんだか、生活感がないですね。この水路」
あやめちゃんがぼそっと呟く。私もそれに同意する。
「うん。なんというか……ここだけ、ネオヴェネツィアじゃないみたいっていうか……」
オールが水を切る音だけが響く。いつものネオ・ヴェネツィアにはない静けさ。これは、私がここにきて日が浅いことに由来する、ネオヴェネツィアの新しい姿、というわけではなさそうだった。
「あ、藍子殿!」
あやめちゃんが急に指さす。あやめちゃんの示した先には、水路の出口があった。
「出口ですね」
「うん」
少し急ぎ目にゴンドラを漕ぐ。そして、ひらけた空間に出る。
「わぁ……」
「ここは……たぶん、アクアに人々が入植した直後の建物群の跡地ですね……」
「まだ、火星だった時の……」
「はい」
鉄骨むき出しの大きな建物の数々が、錆びて朽ち果てながらもそこには残っていた。ネオ。ヴェネツィアでは見ることのないコンクリート造りの建物は、表面をボロボロにしながらも一定の空間を保って並んでいる。その一定さが、入植した当時の科学技術をふんだんに使った効率的で機械的なものだということを私たちに訴えかけてくる。そのたたずまいからは、俺たちのおかげでアクアが出来たんだぞ、という昔の人々の意思を感じた。
パシャリ
私はそんな建物たちをレンズに収めるためにシャッターを切った。
「時代を感じますね」
あやめちゃんは感慨深げに言う。
「うん……そうだね……」
私はカメラを下ろし、再び自分の目でその建物たちを見る。今ではもう使われなくなって、静かに眠っている建造物たち。その姿には、やはりどこか哀愁めいたものがあった。
「……さ、行こうか。アリア社長を見失っちゃうといけないし」
私はこの空間から去ることを名残惜しく感じながらも、オールを動かす。
「はい。行きましょう」
あやめちゃんも頷く。ゴンドラが再び動く。
アリア社長が先に行っている通路は、どうやら先ほどの建物たちと同じような建物の中にあるらしく、今度はそれら建物を中側から見ることができた。中側も、今のネオ・ヴェネツィアでは考えられないほど武骨な様子だった。そして、先ほど通ってきたあの狭い水路と同じような静けさが漂っていた。
「なんだか、時間の流れがここだけ違うみたい」
「そうですね……この空間だけ雰囲気が違いますね」
ゴンドラは滑るように進む。
「あれ?」
最初にそれを口にしたのはあやめちゃんだった。
「どうしたの、あやめちゃん?」
「……さっきもここ通りませんでした?」
「え……?でも、まっすぐ進んでるよ?もしかして知らないうちに曲がってた?」
「いえ、そんな感じはしなかったので、藍子殿はしっかりまっすぐ進んでいます……気のせいですかね……」
あやめちゃんはそう言って、うーんと頭をひねりながら前を向いた。そして再び口を開く。
「……そういえば、アリア社長はどこに行ったんでしょう?」
「……あれ、本当だ……さっきまでいたのに……」
「まあ、このまま進んでみましょう」
「うん」
そしてゴンドラを前に進める。
しばらく時間がたち、再びあやめちゃんが口を開く。
「やっぱりさっきもここ通りましたよね?」
「うん……そうかも……でも、まっすぐ進んでるわけだし……」
「だから余計におかしいんですよ!」
あやめちゃんは勢いよく私の方に振り向いて言う。
「藍子殿。先ほどは言っていなかったのですが……」
「ん?うん……」
「ケットシーとは、猫妖精、と書くのです」
「うん」
「妖精というものはいたずら好きとして知られるものが多いのです。つまり……」
「……つまり?」
「私たちは今、ケットシーのいたずらに引っかかっているのではないでしょうか?」
「ええ……?」
「でないとこの状況、説明が付きません!ああ、しまった……こんなことなら何か有効な忍術の一つや二つ、身に着付けておけばよかった……」
そう言うと、あやめちゃんはぶつぶつと何かをつぶやき始めた。
「ちょっ、あやめちゃん?大丈夫?」
私はあやめちゃんに声をかける。ちょうどその時。目の前にスイーと流れるミニゴンドラ。そして、ミニゴンドラに揺られながらうたた寝をするアリア社長が現れた。
「ア、アリア社長!?」
私がそう叫ぶと、アリア社長の目が開いた。
「にゅ?」
「アリア社長~!」
先ほどまで何かぶつぶつ言っていたあやめちゃんが、アリア社長をミニゴンドラから持ち上げてた。
「にゅにゅ!?」
「アリア社長、助けてください!後生ですから!」
そしてそのままあやめちゃんはアリア社長に抱き着いた。
「アリア社長、私たち、今道に迷っちゃっていて、どうやってここから帰ればいいかわからないんです」
私は、あやめちゃんに抱き着かれて少し苦しそうな表情をするアリア社長に向かってそう言った。するとアリア社長は、私たちのゴンドラの左側に向かって手を伸ばす。
「にゅ」
「……あ」
アリア社長が示した方には、いつの間にか外の光が少し見える通路があった。
「こんな道、今まであったっけ……?」
私は呟く。こんな道があったら、気が付くはずだ。しかも、私だけじゃなくてあやめちゃんもいる。見落とすはずがない。
「今まではなかったかもしれないですけど、今はあるんです!帰りましょう!今すぐに!」
帰り道を発見したあやめちゃんは、アリア社長をしわくちゃに撫でまわしながらそう言った。私はあやめちゃんから解放されたアリア社長をミニゴンドラに乗せながら言った。
「ありがとうございます。アリア社長」
「ぶいちゃ」
「アリア社長も一緒に帰ります?」
私がそう言うと、アリア社長は、まるで「気にするなよ」とでも言いたげな表情で腕を振った。
「さあ、藍子殿!行きましょう!」
あやめちゃんは船の先にへばりつくように座りながら言う。
「うん」
私はアリア社長に背を向け、いつの間にかあった水路に向かってゴンドラを漕ぎだす。先ほどとは違う景色。確かにこの水路は、私たちが今まで迷っていた水路ではない。確かに別の水路だ。
外の光が強くなるにつれて、先ほどまではなかった現実感が徐々に自分の身体の中に戻ってくるような感覚。私はふと、後ろを振り向いた。
「あ」
私が振り向いた視線のその先には、先ほどまであった入植時代の建物に集まる何匹もの猫の群れ、そして、その中心にどっしりと腰を落ち着かせている巨大な黒い猫の姿があった。その景色はまるで、おとぎ話の中から出てきた魔法の世界のようで、私の瞳をひきつけてやまなかった。
「わわ!藍子殿!このままではぶつかります!」
あやめちゃんの叫び声に、私は我に返り、慌てて前を向く。
「はわわっ……!っとととと!」
何とか船体を立て直し、建物への激突を回避する。そして、もう一度振り返る。しかし、そこには先ほど見た光景はなかった。私たちを乗せたゴンドラは、見慣れた風景へと戻ってくる。
「……いや~、一時はどうなることかと思っていましたが……戻ってこれて何よりです……ね、藍子殿!」
「……」
「藍子殿?」
「……あ、うん。そうだね」
私はあやめちゃんにそう返事をしながら、もう一度だけ振り返る。そこには、来た時と同じ、晴れているのに妙に暗い水路があった。
「……猫の王国」
「え?」
「……ううん。何でもない。それより、午後からはあずきちゃん合流しなきゃだね。このまま行っちゃおうか?」
「そうですね。裏水路に行かないように、しっかりとしたルートで行きましょう!」
「うん」
「では、出発~!」
空にはさんさんと太陽が輝いている。
また来週新しいやつを書きます。よろしくお願いします。
こんにちは。今日も書いていきたいと思います。
高森藍子「希望の丘・夕暮れの街」
前略
空が高く澄み切っている朝。これからどんどん気温が上がっていくのが、海の匂いでわかる。ムッと身体を押してくるような圧をかける空気が身体を包む。そんな朝だからか、アイさんがいつにもましてニコニコ顔です。
「……うふふ」
いつも通り朝ご飯を食べる私の顔を見て笑うアイさん。いつも通りと言えばいつも通りなのだが、少し雰囲気が違う。いつもはニコニコしているだけなのだけれど、今日は心の声が外に漏れだしてしまっているみたいだ。
「……どうしたんです?」
私はご飯を食べる手を緩めながらアイさんに尋ねる。
「ん?いやぁ、今日は晴れて良かったなぁと思ってさ」
「は、はぁ……?」
アイさんは変わらずニコニコしながらそんなことを言う。いつもは天気の話なんてしないのに、どうしたのだろう。何があったのだろうかと不思議に思いながらも朝食を食べ進めていると、キッチンから何かが焼けるような音がした。
「おっ、もうすぐ出来そう!」
アイさんは席から立ち上がると、そのままキッチンの方へと向かう。私は自分の目の前にある料理たちを見た。パンに卵焼きにベーコン、そしてミニトマト入りサラダ。アイさんが作るいつも通りの完璧な朝食。これと言って不備は見当たらない。では、いったいキッチンで何を作っているのだろうか。
「うん、完璧!」
アイさんはコンロの火を消すと、何かを炒めていたフライパンを鍋敷きの上に置く。
「後は~」
アイさんはフライパンを置くと、別の作業をし始めた。目の前に視線を移すと、すでにアイさんの分の朝食はなくなっていた。
「ぶいにゅ!」
「わあ!?」
いきなりの声にびっくりしてしまう私。
「あ、アリア社長!ありがとうございます、これですよこれ。流石です!」
「ちゃい!」
そんな私をしり目に、アイさんはアリア社長にそう言う。アリア社長が引きずっているのは四角く茶色いバスケットだった。褒められたアリア社長は胸を張って威張っている。アイさんはアリア社長から受け取ったそのバスケットをキッチンに持っていく。
「……よしよしよし、完成!」
しばらくして、アイさんがそう叫んだ。私は食べ終えた朝食の片づけをしにキッチンに向かった。
「何してるんですか、アイさん?」
私はアイさんに尋ねる。するとアイさんは、「よくぞ聞いてくれました!」と言わんばかりの顔で私を見ると口を開いた。
「藍子ちゃん、ピクニックに行くよ!」
「……へ?」
今日の海は、昨日と少し違ってさらさらしている感じがする。オールを漕ぐ手の感触からそんなことを思う。あの後、あずきちゃんとあやめちゃんとの合同練習が今日はないことを確認された私は、アイさんに連れられるままゴンドラに乗りこんだ。そして、大きなバスケットを持ったアイさんとアリア社長を乗せ、今ゆっくりとゴンドラを漕いでいる。
「それでアイさん、どこに向かうんですか?」
私はゆっくりとオールを漕ぎながら、アイさんに目的地を尋ねる。
「んー?それはねぇ……とっておきの場所、かな」
「とっておきの場所……?」
「そう。きっと藍子ちゃんにとってもとっておきの場所になるんじゃないかな」
あ、この水路をまっすぐね、とアイさんは言いながら、さっきまで私の顔を見ながら座っていた席から位置を変え、進行方向を向いた。
アイさんの指示に従いながらしばらくゴンドラを漕いでいると、急に人通りならぬ船通りの多い水路に出た。
「わわっとと……」
私は他の船にぶつからないようにかじを取りながら、慎重に進んでいく。時折後ろを確認して、自分の後ろに船がいないか確認する。もし、私の後ろにも船がいるのなら、急がないといけないから。途中、何回かすれ違った水先案内人の人に、「がんばれ」と言われたのだが、これは一体どういうことなのだろうか。確かに私はまだペアだから、このくらい交通量の多い水路は他の人からすれば危なっかしく映るのだろう。私は少し不安になってアイさんをちらっと見る。しかし、アイさんは私の方には振り向かず、さっきと同じく前を向いていた。アリア社長はアイさんの膝で丸くなっている。
「……アイさん」
私は何となくアイさんに話しかけた。
「うん?このまま真っすぐで大丈夫だよ?頑張ろう!」
アイさんは振り返らずにそう言った。
「……はい!」
私はもう一度気合を入れなおして、この交通量の多い水路を突破しようとゴンドラを漕ぎ始めた。
漕いでいると、いつの間にか開けた場所に出た。狭めの一本道の水路がドンとあるにしては、やけに周りに何もない場所だ。
どっどっどっど
周りを見回していると、前から中型の船がやって来た。私はその船にぶつからないように端に寄りつつ、その船が起こすであろう波にバランスを取られないようにするために身構える。
じゃぼん じゃぼん
と中型の船が通り過ぎるなかで発生する波をなんとかいなしながら前に進む。
「……ふう……」
ようやく波が収まって、私は一旦息を吐く。アイさんが振り返って言う。
「今の、よくこなしたね」
「は、はい」
「今から行くところは、観光地としても有名だから、さっきみたいに大きな船との対面通行も頻繁に起きるの。だから、漕ぎ手の技量が問われるんだよ」
「そうだったんですか……」
「うん。藍子ちゃんが一人前の水先案内人になったら、今から行くところにもいっぱい行くことになるだろうから、今のうちにいっぱい練習しておかないとね」
「はい!」
またしばらく漕ぎ進めると、目の前に大きな壁が現れた。
「わぁ……これは……」
水路はこれ以上進めなさそうだ。私はアイさんに話しかけた。
「アイさん……これ……」
するとアイさんは振り返って微笑んだ。
「大丈夫。ちょっと待ってね……」
アイさんはそう言うと、「おじさーん!」と叫んだ。しばらくすると、「あいよ」という声と共に、一人のおじさんが現れた。
「ちょっとまってな。もう少しで下りてくるかんよ」
おじさんはそう言うと、ビーチチェアのようなものに座り込んだ。
「何が起きてるんですか?」
私は小声でアイさんに尋ねる。アイさんはそんな私の顔を見てニヨニヨしながらも、何も言わない。そのすぐあと、目の前にそびえ立っていた壁が突然機械音と共に二つに割れた。
「わっ……」
「んじゃ、中に入って大丈夫だかんよ」
おじさんが立ち上がりながらそう言う。私は言われた通り、壁の内側へと入っていった。壁の内側は、大きな空間になっていて、一部屋分のマンションの三階建てが立ちそうなくらい広かった。
「……なんか、マンションが建ちそうな空間ですね……」
私がそう呟くと、アイさんは笑いながらうなずいた。
「そうだね。そういえば、私も初めてここに来た時そう思った覚えがあるよ」
「アイさんも……?」
「うん。私たち、二人ともマンホーム出身だからね。マンホームの人間は、こういう空間はマンションっぽいって思っちゃうのかも」
二つに分かれた壁が再び一つになると、今度は水が流れてくる音がした。
「へぇ?!」
私が驚いた声を出すと、アイさんが口を開く。
「そんなに驚かなくても大丈夫だよ。これはね、水上エレベーターなの」
「水上エレベーター?」
「そう。水の量を調節することによって、上下に移動することができる、水路専用のエレベーター」
「へぇ……」
私は落ちてくる水を眺めながら、よく考えついたなと感心していた。
「なんだか、水に上げてもらってるなんて不思議な感覚ですね。いつもは横に移動するだけだから……そう言えば、これってどのくらいの時間がかかるんですか?」
「うーんっと、確かニ十分から二十五分くらいだったと思うよ」
「ずいぶんゆったりなんですね」
「うん。でも、ゆったり、好きでしょ?」
「はい!もちろん!」
アイさんに手招きされて、私はオールをひっかけながら、アイさんの横に座った。
二つ目の水上エレベーターを昇り終えた時には、すでに辺りは夕焼け色に染まっていた。水上エレベーターで水の上昇を待つ間に食べたお弁当のサンドイッチに入っていたレタスの繊維が今更歯の隙間から取れる。アリア社長は、少しだけ揺れるゴンドラに揺られながらうとうとしている。
「あ」
急にそれは目の前に現れた。
「わぁ……」
言葉を出そうと思っても、なかなか思い通りに出てこない。焦げオレンジの光によって染められた白い巨人の大群が、私たちの目の前に姿を現した。風車の羽が回っていて、そのたびにびょうびょうと風の切れる音がする。それと同時に一面に生い茂っている草むらが、ざあざあと少し乾いた音をなびかせながら風車の羽の織りなすベースに色を加えている。
「響き……すごい……」
目を閉じればそこは天然のオーケストラみたいで、私の身体を震わせる。自分の心臓がかすかに揺らされる。
「藍子ちゃん」
アイさんが岸辺に寄るように指をさす。私はそれに従って、ゴンドラを横付けする。
「よいしょ」
アイさんがゴンドラから降りて、私を手招きする。アリア社長もいつの間にかゴンドラから降りていた。
「藍子ちゃん」
アイさんが私の方に手を伸ばす。私がその手を左手でつかむと、アイさんはそのまま私を引っ張った。私の身体が地面の着地する。
「おめでとう」
「へ?」
アイさんはそう言うと、引っ張られた私の手から、手袋が外された。
「え?」
何が起きているのかさっぱりわからない私に、アイさんがほほ笑みながら口を開く。
「あなたはこの難易度が高い陸水橋水路を無事に一人で漕ぎ切りました」
「……は、はい……」
普段とは少し違うアイさんの雰囲気に少しだけ体が硬くなる。そんな私の姿を見て、アイさんは笑いながら言う。
「そんなに硬くならなくて大丈夫だよ……今日一日かけて藍子ちゃんが通った水路は、実は両手袋の昇格試験にも使われる水路なの」
「昇格……試験……?」
「そう。そして藍子ちゃんはその水路を難なくこなすことができた。だから、合格」
「合格……」
「藍子ちゃんは、今日から片手袋、だよ」
アイさんはそう言って、私がさっきまでしていた手袋をフリフリと振る。
「あ…………」
「あ?」
「ありがとうございます!アイさん!」
私は勢いよくアイさんにお辞儀した。
「やだなぁ、藍子ちゃん。私は何もしてないよ?頑張ったのは藍子ちゃんなんだから」
アイさんは私の頭に手をおいて、ポンポンと優しく撫でてくれた。
「ね、見て、藍子ちゃん」
アイさんは私にそう言う。私はアイさんに言われるまま顔を上げて、アイさんがさす方を向く。
「っ……」
そこには、沈みかけている夕日と、それを映す海と、優しい光に包まれたネオ・ヴェネツィアの街があった。
「ここからはね、ネオ・ヴェネツィアが一望できるの。だから、希望の丘って呼ばれてるの」
「希望の……丘……」
目の前に広がる景色は、どこか神秘的で。普段住んでいるネオ・ヴェネツィアが少し違った場所に見える。だからこそ、この素敵な風景を忘れたくなくって、私は首にぶら下げたカメラの存在も忘れて、ひたすらその光景を目に焼き付けていた。
「あれ?いつの間にこんなに時間がたってたんだろう」
アイさんの声で、私はふと我に返る。気が付くと、すでに辺りは真っ暗になっていた。相変わらず回り続けている風車の音だけがあたりに響く。空には、遠くにある二つ目の月と、それに負けないくらい強烈に瞬く星々が、夜を照らしている。
「こんな時間にここに来たことはなかったけど……これはこれで良い感じだね……」
「はい……夜も、素敵ですね」
「うん。でも、そろそろ帰ろっか?」
「はい」
「じゃあ、運送よろしくね、片手袋さん?」
「……はいっ!」
あたたかい街灯の光がいくつも見えるネオ・ヴェネツィアに向かって、私はゴンドラを漕ぎだした。
今日はこれで終わります。来週もよろしくお願いします。
※注意
今回は登場人物に佐久間まゆが出てきます。「まゆ」なのになんで出したんだ!?と思われるかもしれませんが、どうしても書きたかったし、ままゆの声優さんが牧野由依さんなので、今回だけ何とか見逃していただきたいです。よろしくお願いします。
前略
アクアに来てから、約半年が過ぎました。いよいよ夏本番です。最近流れる潮風が、濃いものになったような気がします。
「藍子ちゃ~ん!」
朝、いつも通り眠たい目をこすりながら制服を着ていると、外からそんな声が聞こえた。
「ん……?なんだろう……?」
私は急いで制服に身を包むと、ベッド近くの窓を開け、顔を出した。そのまま外を覗き込むと、そこにはあずきちゃんとあやめちゃんが立っていた。
「あれ、二人とも……どうしたの?今日はたしか合同練習の日じゃなかったはずだけど……」
「ええ。ですがわたくしたち、藍子殿に見せたいものがあるのです!」
あやめちゃんが、興奮したようにそう言う。
「見せたいもの?」
「うん!」
あずきちゃんも元気にそう頷く。
「ちょっと待ってて」
私は二人にそう言うと、窓を閉めて二人のいる方へと向かった。
ARIAカンパニーの前にいる二人の前に私が到着すると、二人はいっせいに両手を見せてきた。
「じゃ~ん!」
二人の手には、手袋が片方ずつ。
「あ」
「そうだよ!あずきたちも、この前シングルになったんだ!」
「これで藍子殿に追いつきましたよ!」
二人が嬉しそうにそう言う。そんな二人を観て、私もなんだかうれしくなって。思わず二人に抱き着いた。
「おめでとう!あずきちゃん、あやめちゃん!」
「これでお揃いだね!」
あずきちゃんとあやめちゃんが、ぎゅっとかえしてくれる。
「これから、もっと頑張らなくては、ですね」
あやめちゃんが言う。
「うん。一人前の水先案内人になれるように、これからも三人一緒に頑張ろうね」
「今まで以上に練習に気合を淹れなきゃだね……あ!」
何かに気が付いたのか、あずきちゃんが突然叫ぶ。
「ど、どうしたの?」
「あやめちゃん、今何時?」
「……八時、五分前です」
「ヤバ!いつの間にそんなに時間が!?始業時間に間に合わなくなるかも」
時間を見て、いきなり慌て始める二人。
「とにかく、私たちも片手袋になったってこと、いちはやく藍子ちゃんに伝えたかったから……」
あずきちゃんはそう言うと、「じゃあまた後で!」と言って、走り出した。あやめちゃんも、「では後日!」と言うと、あずきちゃんについていってしまった。
「……ああ、そう言えばミドルスクールか」
すごい勢いで見えなくなっていく二人の背中を眺めながら、私は二人の慌てぶりに納得がいった。
「じゃあ、始めよっか」
「はい」
少し遅めの朝食の片付けを終えて、アイさんはそう言った。今日は、週に一度あるアイさんが直接指導してくれる日だ。ARIAカンパニーを一人で切り盛りしていただけあって、アイさんは結構忙しい人だ。アイさんの予定表はいつも予約でいっぱい。でも、こうして忙しい時間を縫ってこうして私の練習を見てくれる。すごく、ありがたい。それと同時に、何となく申し訳ない気分になる。本来なら、この時間はアイさんの自由に過ごせる時間なはずなのに、私に時間を割くことで、それもなくなってしまっている。……アイさんのためにも、はやく一人前の水先案内人にならなければと、強く思う。
私は一足先にゴンドラに乗り、ロープをバリーナからほどく。そして、ロープを桟橋に置いてアイさんを待つ。アリア社長が先にやって来て、ゴンドラに乗った。しばらくして、アイさんが姿を現す。
「お手をどうぞ」
私はそう言ってアイさんに手を差し伸べる。
「ありがとう」
アイさんは私の手を取って、ゴンドラに乗りこむ。アイさんがゴンドラに乗りこみ終わるのを確認した後、私はゴンドラを漕ぎ始めた。
「今日はどのルートを通ります?」
私はゴンドラを漕ぎながらアイさんに尋ねる。
「うーん……じゃあ、今回はこっち行ってみようか」
アイさんが指し示す。私はそちらに舵を切り、そのままゆっくりと進めていく。
「……左手に見えますのが、ヴェネツィア共和国時代に存在した大富豪のうちの一人、ジュゼッペ・ペッシーナのお屋敷です。ジュゼッペ・ペッシーナは14世紀に貿易で財産をなしたペッシーナ家でも特に財を成した方と言われています。彼は植物が好きだったようで、今でもこのお屋敷の裏庭には季節ごとに違った花が顔をのぞかせてくれています。今の時期ですと、ピンクやオレンジといった可愛い色合いの花びらを持つヒャクニチソウなんかが咲いていて、とっても綺麗ですよ」
何とか記憶から情報を手繰り寄せ、言葉にする。水先案内人は、ネオ・ヴェネツィアのガイド役も担う。ガイドは、いかにこのネオ・ヴェネツィアが素敵な場所であるかを、少しでもお客様に知ってもらうための機会だ。だから、しっかりと出来るようにしておかなければならない。
ガイドの練習は、あずきちゃんやあやめちゃんと一緒の合同練習の時にはあまりできない項目だ。なぜならその情報が本当に正しいのかどうか、恥ずかしながら確信を持つことができないからだ。バリバリ現役で活躍している水先案内人であるアイさんにガイドの練習を見てもらうのが、ガイドの上達には一番だと私は思う。
「うんうん。だいぶ様になって来たんじゃないかな」
アイさんは私の案内を聞いて、そう言った。
「だけど、もうちょっと肩肘張らずに言えるようになった方が良いかもね。それと、自分なりのおススメポイントなんかも紹介できるようになると、もっと良いかも。ゴンドラに乗るお客様の多くは、ガイドブックやガイドサイトには載ってない情報を知りたいと思ってるから」
「自分なりのおススメポイントですか……」
「そう。そしてそのおススメポイントを見つけるためには、自分で実際にその場所に行ってみて、いろいろなことを感じる必要があるよね」
「はい」
「だから、今のうちにネオ・ヴェネツィアの色々な場所に行っておくと良いよ。それで、藍子ちゃん自身が、もっともっとネオ・ヴェネツィアのことを好きになってくれたら、アタシは嬉しいなぁ」
アイさんはそう言うと、私の方に振り返って笑った。
確かにアイさんの言う通りだ。最近の練習では、決まったルートしか通らなくなってきているし、ネオ・ヴェネツィアにときめくことも少なくなってきているかもしれない。
何よりもまず、ネオ・ヴェネツィアを好きになること。好きになることは、好きになった相手をもっと知りたいと思うことだ。例えば、普段何気なく生活しているだけでは見えてこないネオ・ヴェネツィアの素顔だったり、ほんのちょっとしか見せてくれない裏の顔だったり。そんな一面を見つけることができたら、ネオ・ヴェネツィアのことがもっと好きになるかもしれない。
「いい所でしょう?ネオ・ヴェネツィア。私、ネオ・ヴェネツィアが大好きなんです!」
ふと、そんな言葉が脳裏によみがえった。おぼろげな記憶に見えるのは、やはりピンク色の髪の毛をした、もみあげに房のある笑顔の素敵な女性の姿だった。
「さ、気を取り直して出発出発!」
そんなアイさんの言葉で我に返った。
「は、はい」
私はゴンドラを再び漕ぎ始める。
来たことのない水路でゴンドラを漕ぐのは、結構神経をすり減らす。慎重になりすぎるあまりゆっくりになって、他の人の進行を邪魔してもいけないし、だからと言ってゴンドラの規定スピードを超える速さで移動することもできない。水先案内人はいつだって、一定のスピードを求められるのだ。
のろのろ
……なんて言っても、今私は既定のスピードより遅いスピードで走行しているけど。
すると、私のゴンドラを巧みによけながら進んでいくゴンドラが一つ。姫屋の制服に身を包み、長くきれいな髪の毛をなびかせながら、ほれぼれするような操舵技術で私のゴンドラを避けていった。
「あ」
そのゴンドラを見て、アイさんが口を開く。
「どうしたんですか?」
「いや。さっき藍子ちゃんのゴンドラを抜かしていった人、晃さんだったから、つい……」
「晃さん?」
「そう。旧・水の三大妖精の一人で、今でも現役で水先案内人をしているすごい人なんだ」
「へぇ~。知らなかったです」
水の三大妖精というのは知っていたが、彼女がそのうちの一人だったとは知らなかった。
「……いずれ、藍子ちゃんも会うことになるかもね」
アイさんはそう言いながら、少し懐かしそうな顔をした。
そんなふうにしてのろのろとゴンドラを漕いでいると、どこからか声をかけられた。
「あのっ……」
声のした方を見ると、そこにはフードを深くかぶった女性の姿があった。
「は、はい……?」
もしかしたら私に声をかけたのではないのかもしれないけれど、一応返事をしてみる。
「急いでるんです。乗せてもらえませんか?」
「え?」
そんな言葉が続くと思っていなかったので、私は思わず聞き返してしまった。
「だから、乗せてもらえませんか?急いでるんです」
一度聞き返したところで、返事の内容は変わらなかった。
「ア、アイさん……」
私は思わずアイさんを呼んだ。
「良いんじゃない?片手袋は指導者がいればお客様をお乗せすることは可能だし。代金は半額だけどね」
「じゃあ、決まりですね。乗せてください」
「わ、わかりました」
フードを深くかぶったその女性は、ゴンドラに近づくように水路の縁までやって来た。私は慌ててゴンドラを寄せ、お客様を乗せる準備を整えた。
「では、お手をどうぞ」
私が手を差し出すと、その女性も私の手を取ってゴンドラに乗りこむ。
「早く出発していただけますか?」
「は、はい!」
お客様にせかされ、私は急いでゴンドラを漕ぎだす。すると、先ほどその女性がいた場所に、二人の女の子が走ってきた。
「はぁ、はぁ……ったく。どこに逃げたのよ!」
「この街、迷路みてーになってるから、これ以上探すのは難しそうだな」
「バカ言ってんじゃないわよ!まゆ見つけないと明後日の公演に支障が出るでしょ!それと人がしゃべってるときにフーセンガム膨らまさないの!」
「へーへー」
そういって二人の女の子は別の方向に向かって走っていった。それと同時に、お客様がフードを外す。
「ふぅ……」
「……えっと……」
私は思わずそのお客様に声をかけた。
「さっきの二人から逃げていたんですか?」
「え?」
「いや、あの、答えたくなかったら答えなくていいんです!すいません、いきなりそんなこと聞いてしまって」
「ああ、いえ。大丈夫ですよ……そうですねぇ……あの二人からも逃げていた、というのが正しいかもしれません」
お客様はもう一度ため息をついた。しばらくの間、オールが水を切る音だけが耳に響いた。アイさんもお客様も何もしゃべらない。私は何とかこの少し重たい空気を換えるべく、もう一度お客様に話しかけた。
「あの……私、高森藍子って言います。差し支えなければ、お客様のお名前をお伺いしてもよろしいですか?」
私が勤めて明るい声でそう尋ねると、お客様も返事をしてくれる。
「藍子さん、ですか……私は、佐久間まゆって言います」
「なるほど……では、まゆさん、とお呼びしてもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
お客様、もとい、まゆさんはそう答えた。私はこのままの流れで話を続けることにした。
「まゆさんは、どうしてこのネオ・ヴェネツィアに?」
「お仕事です」
「お仕事ですか。どんなお仕事をされてるんですか?」
「私、普段はアイドルをやってるんです。今回はちょうどここでライブ公演があって」
「まゆさん、アイドルなんですか!?」
私は思わず大きな声でそう言ってしまった。すぐに自分の声の大きさに気が付いてトーンを下げる。
「……すいません。いきなり大きな声を出してしまって……まゆさん、アイドルだったんですね……どおりで綺麗な方だなと思っていたんですよ」
「……ありがとうございます……アイドル、か……」
まゆさんはそう言って、遠くの方を見つめた。そんなまゆさんの横顔は、なんだか儚げで今にも消えてしまいそうに美しかった。
「……そういえば、目的地を聞いていませんでしたね。すいません。目的地はどこですか?」
「目的地、ですか……考えていませんでした……とにかく今は戻りたくないから」
先ほどからまゆさんは暗い顔をしている。戻りたくないってことは、きっとアイドルとしての活動の際に何かあったのだろう。
「……では、ネオ・ヴェネツィアをぐるっと大回りしましょう!安心してください、私はまだ半人前なので大回りしようと一人前の水先案内人の料金よりは安いですから!」
さすがに大回りすればプリマの通常料金よりも高くなるのだが、なんだかまゆさんを放っておけない気がして、私はそう言った。アイさんが私の顔を見てきたので、ニコッと笑顔を返した。するとアイさんはやれやれと言った表情で先ほどの姿勢に戻った。
「……じゃあ、そうしてもらえますか?」
まゆさんが言う。
「はい、もちろん!任せてください!」
私はそう言うと、ゴンドラを漕ぐ手を少しだけ強めた。
「……さっき、自身のことを半人前だと言ってましたよね」
「ええ」
私がゴンドラを漕いでいると、今度はまゆさんから話しかけてきた。
「だけど、藍子さんの運転は、他の人と比べても、なんというか、粗が少ないというか……」
「本当ですか?ありがとうございます!私が自分のことを半人前と言ったのは、水先案内人にそう言った制度があるからなんですよ」
「制度?」
「はい。水先案内人になるには、まず両手袋、つまり見習いとして基礎的なことを身につけなくてはいけません。そして、試験を経て片手袋、半人前になるわけです。そしてさらに実践的な練習だったり、観光案内の練習だったりの研鑽を積んでようやく、晴れて一人前の水先案内人になるんです。こうした制度をとることによって、より質の高いサービスをお客様に提供することができるようになったらしいです。私はこの前片手袋になったばかりなので、一人前の水先案内人になるにはまだまだなんですけどね」
「なるほど……水先案内人にはそういった仕組みがあるんですね。藍子さんはどうして水先案内人に?」
「そうですね……なんだか呼ばれた気がしたんです」
「呼ばれた?」
「はい。私はマンホーム出身で、ゴンドラに乗ったのも小さい頃でよく覚えていなかったんですけど……中学校で自分の進路を決めるとき、どうしてかアクアの、ネオ・ヴェネツィアの、水先案内人が頭に浮かんだんです。ネオ・ヴェネツィアの女の子たちは水先案内人があこがれの職業らしいんですけど、マンホームではそんなことなかったから、どうしてあの時そう思ったのか、どうして自分が今ここにいるのか、未だによくわからないんです。けど、水先案内人を目指してよかったって、毎日そう思ってます。運命って言葉はきっと、こういうことを表すためにあるんですよね」
「……良いですねぇ……」
「はい!……まゆさんは、どうしてアイドルに?」
「私は、モデルをしていた時に、プロデューサーさんにアイドルやってみないかって誘われたのがきっかけなんです。そこからプロデューサーさんと一緒にやって来たんです」
さっきまで少し暗い顔をしていたまゆさんの表情が明るくなる。
「そうなんですか。じゃあ、そのプロデューサーさんと出会ったのは、もしかしたら運命だったのかもしれませんね」
「ええ、間違いなく運命です」
まゆさんは間髪入れずに答える。
「運命だし、運命の人なんです。プロデューサーさんは……」
そして、まゆさんは左手首に巻いてある赤いリボンをぎゅっと握った。
「……好きなんですか?その人のこと」
言って、私は踏み込みすぎたなと思った。しかし、まゆさんは気にした様子もなく
「ええ。もちろん」
と答えた。
「どんな方なんですか?」
「とっても優しくて、頼りがいがあって、カッコよくって……でも」
まゆさんは一旦口を閉じる。そして再び開く。
「身体の芯まで、プロデューサーなんです」
そう言って、悲しそうに笑った。
しばらく無言で水路を通る。大回りをするためには、裏道的な水路をいくつか通らなくてはいけないから、その間は観光案内もできない。いや、出来るのかもしれないけど、今の私にはできない。誰も何もしゃべらない。ただ、ゴンドラのきしむかすかな音が、オールが水を切る音が、水路の上を撫でるように過ぎていく風が、そこにはあった。
けれど、なんだかこのゴンドラの空気感が少しいたたまれなくなって、私は再びまゆさんに話しかけた。
「……まゆさんは、今どうして逃げてるんです?」
「え?」
「いえ、先ほど二人の女性から逃げてらしたから、どうしてかなって……たしか、明後日に公演があるって言っていましたよね。彼女たちはお友達ですか?」
「……はい。アイドル仲間です……そうですね、どうして私、逃げているんでしょう」
まゆさんはそう言うと、少しだけ空を見上げた。
「いえ、わかってるんです。どうして自分が逃げ出したのか。どうしてプロデューサーさんのところから逃げ出したのか」
そしてまゆさんは私の方を見る。
「わたし、今回の公演を最後に、アイドルを辞めようと思っているんです」
「え!?」
いきなりの発言に、私は耳を疑った。まゆさんは喋り続ける。
「アイドルを辞めて、正式にプロデューサーさんとお付き合いをしようと、そう思っていたんです。だけど、プロデューサーさんは首を縦には振りませんでした。プロデューサーさんは、私の好意は嬉しいと言ってくれました。だけど、『まだまゆに見せてない景色があるから、もう少しだけアイドルをやらないか』って、そう言ったんです。私、その時思ったんです。私の大好きなプロデューサーさんは、つま先から頭のてっぺんまでプロデューサー業で詰まっていて、そんな彼だからこそ、私は好きになったんだ、だけど、そうするとプロデューサーさんと一緒になることは出来ないのかもしれないって。でも、プロデューサーさんを困らせたくもない……だんだん考えているうちに、わからなくなっていって。自分で自分がわからなくなって……気が付けば部屋を飛び出していました」
そこで、まゆさんはふぅと一息つく。
「……ごめんなさい。こんなことを話してしまって」
「いいえ。全然大丈夫ですよ……まゆさんって、優しくて、本当にそのプロデューサーさんが大好きなんですね」
「……え」
「だってそうじゃないですか。悩んでるときでも、そのプロデューサーさんのことを考えているじゃないですか。大好きだけど、困らせたくないって。たぶん、それがまゆさんなんですよ。自分で自分がわからなくなっても、プロデューサーさんのことを考えてしまう。そんな姿がまゆさんなんです。そして、それで良いんだと思うんです。まゆさんにとっても、プロデューサーさんにとっても」
裏水路を抜けると、大きな水路に戻ってきた。目の前には、マルコ・ポーロ邸宅跡の建物がある。
「目の前に見える建物、マルコ・ポーロの邸宅跡なんですよ。マルコ・ポーロは中国の皇帝の娘と恋愛の末結婚してイタリアに帰った後、すぐにまたどこか違う国へ行ってしまうんです。当然、結婚した皇帝の娘はヴェネツィアに独りぼっちです。当時はそんな時代ではありませんでしたから、旦那であるマルコ・ポーロに自分も連れて行ってくれとは言えません。結局彼女は寂しい思いをしながら運河に身を投げ出したとされています。そして、その日からマルコ・ポーロ邸宅には、夜な夜な女性の幽霊が現れるようになったと言われています」
だんだんとマルコ・ポーロ邸宅跡に近づいていく。まゆさんはじっと私の話を聞いている。
「彼女は、大好きな人に何も言えないまま、一人寂しく水の底に沈んでいってしまいました。だけど、まゆさんならそんな風にならなくても済むはずです。だって、まゆさんだから」
ゴーン、ゴーンと鐘の鳴る音が響く。辺りにいた鳥たちが一斉に飛び立つ。沈みかけている夕日が、なんだか今日初めて会ったみたいな表情をする。
「まゆ、だから」
「はい」
「……そうかもしれませんね」
「はい!」
「まゆ!」
マルコポーロ国際空港広場前で、そんな男性の声が聞こえた。
「……プロデューサーさん……?」
私は船着き場に黙ってゴンドラを寄せる。しばらくして、先ほどまゆさんの名前を叫んでいた男性が駆け寄ってきた。
「……まゆさん、お手をどうぞ」
「……はい」
まゆさんは私の手を取り、ゴンドラから降りた。
「まゆ……」
この人がまゆさんの言っていたプロデューサーさんであろう。少し困ったような顔をしながら、まゆさんの目の前に立つ。
「プロデューサーさん」
「……うん」
「まゆ、決めました」
「……そうか」
プロデューサーさんは、少し悲しそうな顔をする。そんな表情を見て、まゆさんは「うふふ」と笑った。
「……まゆ?」
「そんな顔しないでください、プロデューサーさん。まゆ、アイドル辞めませんから」
「え」
プロデューサーさんの顔が困惑の表情へと変わる。
「アイドルは辞めません。プロデューサーさんが、まゆにまだ見せていない景色を観るために。でも、プロデューサーさんとお付き合いすることもあきらめません」
「ええ!?」
さらに驚きの表情になるプロデューサーさん。
「だって、まゆですから。アナタが見つけた、アナタが好きな、アナタが好きな、アイドル・佐久間まゆですから」
そう言って、まゆさんはプロデューサーさんに抱き着いた。
「あ、ちょ、ま、まゆ!?」
「うふふ♪」
まゆさん今日見た中で、一番の笑顔を見せた。
しばらくして、プロデューサーさんから離れると、私の方に来た。そしてまゆさんが口を開く。
「藍子さん、ありがとうございました」
そして、深々とお辞儀してくる。
「い、いいえ、そんな!私なんて、なんて差し出がましいことを言ってしまったんだろうって……」
「そんなことないですよ、藍子さん。藍子さんのおかげで、私は私を見つけられたから」
まゆさんはそう言ってほほ笑むと、プロデューサーさんに何かを言った後、私に紙を渡してきた。
「これ、明後日の公演のチケットです。時間があったらぜひ見に来てください。私のアイドルの姿を」
「い、いいんですか!?」
「もちろん」
私は恐る恐る二枚のチケットをまゆさんから受け取った。
「絶対に観に行きますね!」
「ありがとう」
まゆさんは再び微笑むと、プロデューサーさんを呼んだ。プロデューサーさんはアイさんと何かを話していた。
「…………あ、領収書って……すいません、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ、うちの藍子の良い機会になりましたから……」
「プロデューサーさん?」
「あ、うん。今行く」
プロデューサーさんはそう言うと、まゆさんのそばに駆け寄る。
「藍子さん、今日は本当にありがとうございました……また、公演で」
まゆさんはそう言うと、プロデューサーさんの腕をとりながら歩いていった。
「……よかったですね、まゆさん」
私はまゆさんの後姿を見送りながら、そう言った。
「そうだね……お疲れ様、藍子ちゃん」
いつの間にゴンドラから降りていたアイさんが、私の肩をたたきながらそう言った。
「特別に今日は、私のゴンドラで帰ろう!」
アイさんはそう言うと、素早くゴンドラに乗りこみ手を差し伸べてくる。私はそんなアイさんの手を取ってゴンドラに乗った。
「その公演、何時から?」
「えっと、18時からですね」
「……なんとか行けるか?」
「本当ですか!?」
「まかせなさい!」
夕暮れの中、アイさんの流れるようなゴンドラで、私たちはARIAカンパニーへと帰っていった。
二日後
「……次で、私のソロパートはラストです」
「……実は私、今日でアイドルを引退しようと思っていたんです。あ、今は全然そんなこと思ってないですよ。安心してください、今日で引退はしないですから……」
「それで、一昨日、ある素敵な方と出会ったんです。その方は、出会って数時間しか経っていないのに、『それがまゆさんだと思います』って、私に言ってくれたんです。不思議でしょう?出会って間もない人にそんなことを言われるなんて、普通は何言ってるんだ、知りもしないくせにって思うじゃないですか。でも、その言葉は、その人は違ったんです……」
「……すごく救われて。私は私なんだって思えて……だから、今日ここに立つことができるし、明日も明後日も皆さんの前に立つことができる……」
「今から唄うのは、その人のことを想像して、私が歌詞を書いた歌です。昨日無理言って完成させた曲を急遽入れてもらったので、完成度はそれほど高くないかもしれません。そこは、皆さんに申し訳ないです。でも、唄わずにはいられないから……」
「だから、聴いてください。『ウンディーネ』」
今日はこれでおしまいです。先週は更新できず今日に至ったのですが、来週は更新できそうです。よろしくお願いします。
機能更新できなかったので今日更新します。よろしくお願いします。
浜口あやめ「鳳天の舞!」アーニャ「……シベリア送りです!」
前略
ただ今ネオ・ヴェネツィアは夏真っ盛りです。夏の気候は、私たちの心を高翌揚させて止みません。ただ、あんまり浮かれ気分になるのも……
「はああああああああ!」
夏になってだいぶ日が長くなってきたとはいえ、今の時刻は17時40分前後だから、暗くなってきている。昼間の照り付けるような暑さは今は和らいでいて、時折海の方から涼しい風が吹いてくるのが心地よい。合同練習を切り上げた、あやめちゃん、あずきちゃん、私といういつものメンバーは、帰路についていた。そんな中、あやめちゃんがいきなり大きな声を出したかと思うと、オールを高く掲げた。そして再び叫ぶ。
「秘奥儀・鳳天の舞!」
そして、あやめちゃんは高く上げていたオールを振り下ろす。オールが水面にぶつかり派手な水しぶきを上げる。
「きゃっ!?」
水しぶきがもろにかかってしまった。あずきちゃんはいつの間にかあやめちゃんのそばから離れていた。いつのまに……
「……あれ、全然進みませんね……」
あやめちゃんは自身にかかる水しぶきなんて気にも留めていない様子で首を傾げながらそう呟く。
「あやめちゃん、急にどうしたの?」
私はいきなり奇行に走ったあやめちゃんに尋ねる。
「いやあ、それがですね。昨日部屋の片づけをしていたら、『プリマをねらえ!』を最初から読み直してしまいまして……」
「『プリマをねらえ!』?」
「あれ、藍子ちゃん知らない?ネオ・ヴェネツィアで昔っから流行ってる水先案内人のマンガ」
いつの間に戻ってきたあずきちゃんが私にそう尋ねてくる。
「ううん、知らない」
「そっかぁ。面白いんだよ、『プリマをねらえ!』。女王カンパニーってところの水先案内人・アイリスちゃんが主人公でね、レースしたり、オールで波を起こしたり、空を飛んだり、巨大な津波をたたき割ったりする熱血スポコン超絶ド派手アクションバトル少女漫画なんだよ」
「……な、なんだかすごそうなマンガだね……」
「その通りです!そして私を水先案内人への道に誘った作品でもあります!」
あずきちゃんの説明を受けて、あやめちゃんが声高に叫ぶ。
「昨年の三月を最後に『Nice!プリマをねらえ!』は休載していますが、私の心の中には確かにクイーンカンパニーの血が流れているのです!」
「……そ、そうなんだ……」
「そ。見ての通りあやめちゃんは大の『プリマをねらえ!』ファンだから、こうなると止まらないんだよね~。忍者好きにバトル水先案内人好き……戦闘民族かな」
「時には忍び、時にド派手に。これが私のモットーですから」
「で、さっきの鳳天の舞って言うのが、その『プリマをねらえ!』の主人公・アイリスちゃんが使う技なんだけど。あやめちゃん、高まるとよく技の練習をするんだよね」
「その通りです!」
あやめちゃんはそう言ってオールを横にして両手で持って掲げた。
「……だけど、現実にはなかなか上手くいきませんね……」
そう言って、あやめちゃんはぐったりとうなだれる。
「その、『鳳天の舞』っていうのは、どういう技なの?」
私は少し気になったので聞いてみた。すると、あやめちゃんは「よくぞ聞いてくれました!」というような表情で語り始めた。
「鳳天の舞は、失われた禁断の書・『天華』に伝わるという秘奥義なんです。詳しい説明は作中で話されないのですが、初めてアイリスが鳳天の舞を使ったときの様子や、綾音先輩とのレース対決の際の描写などから、オールで思いっきり水を掬い上げることによって爆発的な推進力やブレーキ力を生み出す技だと考えられています」
「なるほど……」
「ね。私も『プリマをねらえ!』は読んでるけど、そこまで細かいことは知らなかったなぁ」
私とあずきちゃんは、あやめちゃんの熱弁にただただ感心していた。
「私、この技は何度か試しているのですが、どうしてもオールが水に負けてしまうんですよね……実際アイリスはこの技を習得する前に、女王カンパニーに代々伝わる鐵のオール・韶凪を扱えるようになってますから、足りないのは筋力なのだと思うのですが……」
「あ、ちなみに韶凪って言うのは、金属でできた重た~いオールの名前ね」
「ああ、なるほど」
ああずきちゃんの説明でようやく理解できた。要するに、オールで大量の水を押し出す力がその技を再現するためには必要だということだ。
「だったら……」
私は今までの話を聞いて思ったことを口にした。
「オールを水面に着地させるときはオールの面を立てておいて、オールの面がすべて水に入った瞬間に90度回転させて水を押し出せば良いんじゃないかな?そしたら、少なくともさっきみたいに水面に負けて水しぶきが上がる、みたいなことはなくなると思うよ」
私がそう言うと、あやめちゃんは感激したような顔をした。
「……確かにそうですね!ありがとうございます!藍子殿!」
「い、いやあ。そこまで感激されるようなことはしてないよ……?」
ものすごく感激しているあやめちゃんを尻目に、あずきちゃんは
「あんまり真面目に考えなくて大丈夫だからね?」
と私に言ってきた。あやめちゃんは私の言葉を受けて、未だにあーでもないこーでもないとうんうんうなっている。……確かに、真面目に考えなくても良いかもしれない。
「あやめちゃん、帰るよ!」
あずきちゃんはそう言いながら、ゴンドラを滑らせる。私もそれに続く。
「あ、お二人とも、ちょっと待ってください!」
あやめちゃんが急いで私たちの後ろを付いてくる。
「……そうか、縦にオールを入れる、か……」
藍子殿とあずき殿と別れてオレンジぷらねっとの社屋付近まで来ました。ここ間⒟家売れば後は体が自動的にゴンドラを運ぶことができます。私はもう一度藍子殿の言った言葉を思い出しました。そして、周囲を二、三度確認し、誰もいないことを確かめました。
「……よし」
誰もいないことを確認すると、私はゴンドラを漕ぐ手を止め、一度深く大きく深呼吸をしました。その間にオールの軌道を頭の中にありありと思い描く。オールを振り上げ、斜め45度の角度で縦にしたオールの面を水中に入れ込み、すべて入ったところで回転させ、そのまま押し上げる。大量の水が掬い上げられ、ゴンドラが勢い良く前進する姿が見えました。
「見えた!秘奥義・鳳天の舞!」
叫びと共にシミュレーション通りに体を動かす。面を立てたオールは水しぶきを上げずに入っていく。じゃぼんという音が鈍く響く。面がすべて入ったことを確認すると、オールを回転させ振りぬく!
「んなああああああ!」
叫びと共にオールによって水がかきだされる。ゴンドラがグンと進む。
「やった!」
私は思わずガッツポーズをしまた。後ろで水しぶきが水面に落ちる音がしました。そして
「あ~や~め~?」
という声も。
「ひっ」
私は恐る恐る振り返りました。するとそこには、びしょぬれ姿のアーニャ・ドストエフスカヤ殿があったのです。
「私、この前も注意したわよね?」
「……はい」
「それで、『反省してます、もうしません』って言ったわよね?」
「…………はい」
「じゃあ、私がびしょぬれになったのはどうしてなの?」
「………………私が鳳天の舞の練習をしていたからです……」
「そうよね。でも、この前もうしないって言っていたのに、どうして鳳天の舞を練習していたの?おかしいわよね?」
私の先輩であるアーニャ殿をびしょびしょにしてしまってから十数分後。アーニャ殿はお風呂に入って制服から着替えた。私はもちろんその間正座をしてアーニャ殿の部屋で待っていました。そして今、こってり絞られている最中です。普段のアーニャ殿は、とても優しく親しみやすい千歩愛なのですが、その分怒るとものすごく怖いのです。
「そ、それは……」
「それは?」
「それは……その……」
「……はぁ」
アーニャ先輩はため息をつくと、私にこう尋ねた。
「あやめ、私のこと嫌いなの?だったらしょうがないわよ?やらないって言ったことをやっていても」
「い、いえ、そんなことは!」
「じゃあ、どうして?」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「シベリア送りです!」
「えええええ!そんなぁ……」
「当たり前でしょう?約束を破ったんだから」
「そうですけど……ところで、シベリアってどこなんです?」
「さあ?」
「し、知らないのですか?」
「ええ。でも構わないわよ。あやめ。あなたは明日から一週間私の仕事の手伝いです。当然よ」
「は、はい……」
「このままあなたを送り出したらいつ怪我するかわかったもんじゃないんだから……やぶさか?」
「い、いいえ。やぶさかではございません」
「じゃあ、明日からね」
アーニャ殿はそう言って、私の頭をポンと軽く叩いた。
「今日は早く寝なさい。明日は朝から早いんだから」
そう言った後、私の頭に置いたままの手で頭をくしゃくしゃっとした。
「はい……」
私はそう言って、アーニャ殿の部屋を出る。部屋を出る前にもう一度言う。
「アーニャ殿……すいませんでした……」
「……明日朝しっかり起きるのよ」
「はい」
こうして絞られが終わりました。この後本当に一週間みっちりアーニャ殿のお仕事を手伝ったのはまた別の機会に……
今日はこれで終わりです。今週中にもう一本更新出来たらします。よろしくお願いします。
誤字がひどいな。すまん。
高森藍子「夜光鈴市?」
前略
連日の茹だるような暑さにへとへとになりつつ、今日もゴンドラを漕いでいます。今日はいつもの三人で合同練習です。
「あっつ~い」
あずきちゃんが膝を抱えるようにしてうずくまる。
「あずき殿、身体を密着させては余計に暑くなるばかりです」
「たしかにー」
溶けた表情のあずきちゃんとは正反対に涼しい顔をしているあやめちゃん。
「あやめちゃんは暑くないの?」
私が尋ねると、あやめちゃんは
「暑くない、といったら嘘になりますが、心頭滅却・火もまた涼しの気持ちでいますから」
と答えた。
「何それ?しんとーめっきゃく?」
「心頭滅却・火もまた涼しです」
「どういう意味なの?」
「そうですね……アーニャ殿から教わった言葉なので詳しくはわかりませんが、心を落ち着かせれば火も涼しく感じる的な感じだと思います」
「へー。アーニャさんは相変わらず難しい言葉を知ってるよね」
「そうですね」
あずきちゃんとあやめちゃんの二人がそんな話をしているのを聞きながらゴンドラを漕ぐ。いつもの楽しいひと時。だけど……
「……心を整えても暑いよねぇ……」
私はそう呟いた。
「あ、暑さで思い出した」
するとあずきちゃんはいきなりそう言った。その顔は言葉通り、何かを思い出したようだった。
「明日から三日間、夜光鈴市だよ」
「夜光鈴市?」
私は聞き返す。
「そう。藍子ちゃんは風鈴って知ってる?」
「聞いたことは」
「夜光鈴っていうのが、火星の海底だけでとれる石を使った風鈴のことで、その石が夜になると光るから夜光鈴っていうんだ。夜光鈴市は夜光鈴を売ってる市のことだよ」
「へー。夜光鈴……どんなのなんだろう……きっと素敵なんだろうなぁ……」
「では、明日三人で行ってみましょうか」
「良いね!夜光鈴は夜光鈴市でしか販売されないし、夜光鈴市は明日からの三日間しかやらないから、可愛いのはすぐに売れちゃうんだよね。だから、早めに行こうよ」
「そうしましょう」
そんなわけで。あれよあれよというまに夜光鈴市に行くことが決まった。
「おはよー、藍子ちゃん!」
「おはようございます、藍子殿」
昨日の約束通り、ARIAカンパニーで待ち合わせをしていた私たちは、時間通りに集まった。
「二人ともおはようございます」
「では、早速行きましょうか!」
「おー!」
私たちは夜光鈴市の会場へと向かった。
「そういえば、どうして夜光鈴は光るんです?」
私は昨日気になっていたことを二人に尋ねた。
「あー、それはねぇ……なんだっけ?」
「あずき殿。この前の試験の範囲だったのにもう忘れたのですか?」
「だって~」
「オッホン。では私が解説いたしましょう」
あやめちゃんはそう言って右手の人差し指を立てながら話し始めた。
「夜光鈴には夜光石という、火星でしか取れない石が使われます。この夜光石にはルシフェリンというものが含まれていまして、ルシフェラーゼという酵素作用によって酸素と結合することによって分解されます。その時に効率よく光るのが、夜光鈴の光る理由です。ちなみに夜しか光っていないわけではなく、常時光っているのですが、微弱な光しか発しないので夜にしか見えないのです。光の減少と共に夜光石も小さくなっていき、一カ月弱で完全に消えてなくなってしまうのも特徴の一つですね」
「へー。石にそんなものが含まれてるんだね。不思議……」
あやめちゃんのものすごく詳しい説明を受けて、私はまだ見ぬ夜光鈴へ思いをはせた。
「よく細かいところまで覚えてたね、あやめちゃん。含有物の名前なんて、授業じゃプラスアルファ的な内容としてあつかわれてたのに」
「追加点狙いで覚えましたからね」
「実際の点数はどうだったの?」
「追加点なしでしたね」
「あらー……あ、見えたよ!」
あずきちゃんのその言葉で我に返る。今まで何故か聞こえていなかった音が一斉に聞こえてくる。
チリーン リリリーン チリーン リリリーン チリーン リリリーン
「わぁ……」
そよ風が吹くたびに、無数の出店に飾られてある夜光鈴の、ガラスに夜光石がぶつかりながら響かせる音が渡る。その音色はとても澄んでいて涼しげな音だった。
「いつ見ても壮大ですね」
あやめちゃんが言う。サン・マルコ広場には、見たことのないくらいたくさんの屋台が、見えなくなるまで並んでいる。そして、そのすべてに夜光鈴が並べられ、一斉に風に揺られている。
「さっそく可愛いの、見つけよう!」
あずきちゃんは腕まくりをしながら進み始めた。私とあやめちゃんもそれに続く。
「あ、これかわいいかも」
「こっちもなかなか……」
「これなんかはどうでしょう……」
長く奥まで続いている屋台を、一つ一つ見ていき、自分のお気に入りの夜光鈴を探す。初めての夜光鈴だから、自然と選別にも力が入る。
「……ちょっと、一回みんなバラバラになって自分のお気に入りのやつを探そう」
今まで一緒に行動してきた私たちは、あずきちゃんのその言葉で別行動することになった。
「あっ、これかわいい…・・」
しばらくして、今まで見てきた中で一番気に入る夜光鈴を見つけた。その夜光鈴は薄い緑色で流れるような模様の入ったものだった。舌には噂の夜光石がぶら下がっている。
「すいません。これください」
私がその夜光鈴を指さしながら屋台のおじさんにそう言うと、おじさんは驚いたような表情をした。
「おお。お嬢ちゃん、お目が高いね。これは有名なガラス工房で作られたものなんだよ。シンプルなデザインだけど、いい雰囲気だろう?よくこれを選んだね」
「はい。これが今まで見てきた中で一番かわいかったので……」
「そうかいそうかい。こいつは普通なら夜光鈴にしてはいい値段するんだけど、今回はセンスのいいお嬢ちゃんに特別出血大サービスで、普通の夜光鈴と同じ値段で売ってやるよ」
「本当ですか!?」
「もちろん。この夜光鈴も、そういう人の下に行くのが幸せってもんだかんな」
「ありがとうございます!」
おじさんに夜光鈴を渡してもらう。近くで見ると、より一層かわいく、愛おしく見える。
「お待たせ、二人とも」
今年の夏の相棒を手に持って、あずきちゃんとあやめちゃんの下へ向かった。
「ちゃんと買えた?」
「うん。ばっちり!」
「それは良かったです。私たちも、ほら」
あやめちゃんはそう言って、夜光鈴を見せてくれた。あずきちゃんもそれに続く。
「私のは小ぶりの薄ピンク色に、花びらが誂えてあるの」
「私のは七宝柄で縁起のよさそうなものにしました」
「本当だ。二人とも個性が出ててすごく良い夜光鈴だね」
「そうでしょ!?夜光鈴は火星の夏の風物詩だから、一個は持っておかないとね~」
私たちは、お互いの夜光鈴を褒め合いながら帰路についた。
夜光鈴を買ったその夜。アイさんに夜光鈴の話をしたら、
「そういえば、私も買いに行かなくちゃ!」
と言って、今日は早く帰ってしまった。私は夕飯を済ませた後、日中の熱さが引いて少しはましな風が吹いているのを確認すると、ARIAカンパニーの看板に夜光鈴をぶら下げた。
「本当に光ってる……」
チリリーン、と涼しげな音を出しながら、舌とともに揺れる夜光石が、青白っぽく淡い光を放つ。
「LEDとはやっぱり違う……摩訶不思議……」
私は夜光鈴を写真に収めようとしたが、フラシュをたくと夜光石の光が映らず、暗いままだと夜光鈴そのものが映らないというジレンマを抱えることになったのであきらめた。
「今年の夏、めいいっぱい楽しめば良いですもんね、アリア社長?」
「ぶいにゅ!」
隣にいたアリア社長も頷く。カランと氷の溶ける音がして、私はピッチャーの紅茶が飲み頃になったことを知る。
「はい。これがアリア社長の分」
私はアイスティーをアリア社長に差し出し、その後自分の分を注ぐ。
「いただきます」
リリリーン
その日から、夜中に夜光鈴を眺めながらアイスティーを飲むのが日課になりました。
夏は、まだまだ続きそうです。
今週はこれでおしまいです。来週はたぶん更新できないので再来週に更新します。
高森藍子「秋の始まり、みーつけた!」
前略
あんなに暑かった夏の夜も、気が付けば少し肌寒く感じるようになりました。そういえば、先日一人でネオ・ヴェネツィアの水路を探索していた時なのですが……
昨日よりも涼しい風が吹いているなぁという感じが三日間連続で続いているということは、そろそろこの長かった夏が、私が火星に来てから初めて体験する夏が、終わりを迎え始めているのかと思うと、なんだか少しだけ切ない感じがして、オールを漕ぐ手が少し緩む。
「ゴンドラ通りまーす!」
十字の水路に差し掛かった私はゴンドラを減速させながら他の人に聞こえるようになるべく大きな声で叫ぶ。水路はなにもウンディーネのゴンドラだけが通るのではない。郵便屋さんのゴンドラやみんなの荷物を運ぶ運送用のゴンドラ、はたまた小さなおばあさんが運転する小さな小さな自動操作船なんかも通る、みんなの水路なのだ。
「ゴンドラ通りまーす!」
もう一度叫び、自分がここを曲がる意思表示をする。そうすることによって未然に事故を防げる確率が高まる。もう何十年と続いてきたこの街のルール。
何事もなく無事に水路を曲がりきることができた。私の厳踊らが渡りきると、すぐに八百屋さんのゴンドラが私とは反対方向に曲がっていく。ふと、近くにある橋を見ると、観光客らしき人が、さっきの一連の流れを興味深そうに眺めていた。ネオ・ヴェネツィアの人間からすれば、本当に何でもないようなただの日常風景。だけど、そうじゃない人たちからは、先ほどの流れが不思議に見えるのだろう。私も最初はそうだった。マンホームではまず見受けられない状況だから、戸惑いもあった。マンホームでは、何か乗り物を人が操縦するなんてことはないから。歴史の授業で習った、昔のマンホームの交通状況がこんな感じだったんだろうなと思ったことを、今思い出した。
そして、まだまだ自分はネオ・ヴェネツィアの一員に成り切れていない気がして、少しだけ寂しくなった。そんな気持ちを吹き飛ばすかのように、オールを強く握りしめて思いっきり漕ごうと手に力を籠める。しかし、それはしてはいけないことだと思い出して、慌てて手の力を緩めた。
「藍子ちゃん。水先案内人が意識しないといけないものの中で、一番忘れがちになってしまうものってなんだと思う?」
アイさんとのやり取りを思い出す。
「忘れがちになってしまうもの、ですか……?」
「うん」
「……時間……ですか?」
「時間管理は重要だけど忘れがちにはならないかなぁ。確かに、藍子ちゃんといるとなぜか時間が吹き飛んでることはあるけれど」
「そうなんですか?」
「そうだよ。藍子ちゃんは可愛いんだから」
「へ?」
「……さ、時間じゃないとすればなんだ、って言うとね。答えはスピードなの」
「スピード」
「正確にはゴンドラを漕ぐ速さ。どうしてスピードが重要かわかる?」
「……いいえ、わからないです」
「何故かって言うとね、ここがネオ・ヴェネツィアだからなの。……藍子ちゃんは、このネオ・ヴェネツィアがどうやってできたかは知ってるよね?」
「はい。ネオ・アドリア海に浮かぶ島の一つだったこの土地に、マンホームのヴェネツィアを移転したことによって、ネオ・ヴェネツィアが誕生した……」
「その通り!ということは、ネオ・ヴェネツィアはヴェネツィアの歴史を歩んできた建造物が多いってことになるよね。そしてその建造物の多くは石造りになってる。当然水路をはさむ建物も」
「はい」
「ここで重要なのは、水路を使って水面を移動するにはどうしたって振動を発生させてしまうということ。つまり、波が発生してしまうということなの」
「波、ですか」
「そう。この波ってやつがなかなかの曲者で、アーニャ風に言えば『水滴岩をも穿つ』なわけよ。要するに波が石造りの建物をどんどん削っちゃうんだ。けど、さっきも言った通り、船で移動すると波が起こる。だからこのネオ・ヴェネツィアでは、原則として大きな波を立てないスピードで運転をするようになっているの。これから先のネオ・ヴェネツィアを守っていくために」
「なるほど……将来のネオ・ヴェネツィアを守るため……」
「だから、水先案内人には一定のスピードを保ちながらゴンドラを運転する技術が求められるの。だけど、意外とみんなスピードのことは忘れがちになっちゃうんだよねぇ……。逆漕ぎ女王もいるしね」
アイさんはそう言うと、ニカッと笑った。
「……あれ、ここは……?」
アイさんの教えを思い出してるうちに、いつの間にか知らない遠くの場所に来てしまったらしい。見たことのない並木水路が目の前に広がっていた。
しばらくゴンドラを漕いでいると、どこからかとても良い匂いが辺りを漂わせていることに気が付いた。
「なんか、すごく、いい匂い……」
グルルルル
「…………」
あずきちゃんとあやめちゃんに聞かれたら絶対に爆笑されるだろう大きな音が私のお腹から響いた。私はゆっくりとあたりを見回す。誰もいないということを確認するために。順番に首を回し、最後の最後まで目を凝らして…・…
「あ」
ばっちりと目が合った。しかも、人の。
「お嬢ちゃん、おなかすいてんのかい」
私と目が合ったそのおじさんは川辺に出店している屋台のおじさんらしく、先ほどの良い匂いの総本山の主だった。おじさんは受付に肘をつきながらそう私に尋ねてきた。
「……聞こえてたんですか?」
「おう、バッチリ」
「……恥ずかしい……」
「豪快な腹の鳴りようだったなぁ」
おじさんはそう言いながら大きく笑った。そして、私に背を向けて屋台で何か作業をしたかと思うと、「ホイ」と私に何かを手渡そうとしてきた。私はおじさんが渡してきたものを受け取るために、ゴンドラを屋台の前に着ける。そして、おじさんからものを受け取った。
「……あれ、ここは……?」
アイさんの教えを思い出してるうちに、いつの間にか知らない遠くの場所に来てしまったらしい。見たことのない並木水路が目の前に広がっていた。
しばらくゴンドラを漕いでいると、どこからかとても良い匂いが辺りを漂わせていることに気が付いた。
「なんか、すごく、いい匂い……」
グルルルル
「…………」
あずきちゃんとあやめちゃんに聞かれたら絶対に爆笑されるだろう大きな音が私のお腹から響いた。私はゆっくりとあたりを見回す。誰もいないということを確認するために。順番に首を回し、最後の最後まで目を凝らして…・…
「あ」
ばっちりと目が合った。しかも、人の。
「お嬢ちゃん、おなかすいてんのかい」
私と目が合ったそのおじさんは川辺に出店している屋台のおじさんらしく、先ほどの良い匂いの総本山の主だった。おじさんは受付に肘をつきながらそう私に尋ねてきた。
「……聞こえてたんですか?」
「おう、バッチリ」
「……恥ずかしい……」
「豪快な腹の鳴りようだったなぁ」
おじさんはそう言いながら大きく笑った。そして、私に背を向けて屋台で何か作業をしたかと思うと、「ホイ」と私に何かを手渡そうとしてきた。私はおじさんが渡してきたものを受け取るために、ゴンドラを屋台の前に着ける。そして、おじさんからものを受け取った。
「これは?」
「これは見ての通りじゃがばたよ。おじさんは、じゃがばた屋さんだかんな。看板にも書いてあるだろう?」
言われて私は屋台の看板を見ると、確かにそこには「じゃがばた」の文字があった。
「あの、じゃがばたって、なんですか?」
「なに、お嬢ちゃん、じゃがばた食ったことないんか?じゃがばたって言うんは、ジャガイモを蒸かした上に美味しいバターを乗っけて溶かしながらジャガイモと一緒に食べる料理だ」
「へぇ~」
「いいから、食ってみな」
「……いただきます」
おじさんに催促されて、私はじゃがばたをひとくち食べてみた。
「……っあっふあっふ!?」
一口食べると、ジャガイモの甘さとバターしょっぱさ、そしてものすごい熱さが口を襲った。
「あーあー、お嬢ちゃん、本当にじゃがばた食ったことなかったんだなぁ」
おじさんは笑いながらそう言った。
「どうだ?熱いけど、うまいだろ?」
「はふっ……はひっ!」
「そうかそうか……まあ、おじさんのじゃがばただかんな」
何とか熱さを逃がしながら、じゃがばたを飲み込む。
「……っはー……想像だにしなかった熱さだったけど、とても美味しいです」
「そいつは良かった」
私はゴンドラを足で押さえて流されないようにしながら、岸辺に座って残りのじゃがばたをのんびりと食べた。その時、少し強めの風が水路の上をかけていった。そして、葉っぱが私の目の前にひらりと舞い落ちてきた。
「あ、これ……」
私の声に、じゃがばた屋のおじさんが顔をのぞかせていった。
「お、お嬢ちゃん、良いじゃねーか。今年で一番最初の落ち葉かもな」
私の目の前に落ちてきたのは、小さいながらも黄色が鮮やかなイチョウの葉だった。
「ここはイチョウ並木だかんよ。秋も深まってくると、辺り一面が黄色くなるんだ」
「そうなんですか」
私はこの水路一面がイチョウで黄色くなるところを想像した。
「うふっ」
自然と笑みがこぼれてくる。
「秋の始まり、みーつけた!」
今回はこれでおしまいです。前回の更新から気が付いたら二カ月たっていました。
今度はそんなに期間を開けないようにしたいです。よろしくお願いします。
高森藍子「今年の夏を、海に還す」
前略
今日は夜光鈴を海に還す日です。これが終われば、本格的な秋がこのネオ・ヴェネツィアに訪れます。
しゃぼしゃぼ
桃井あずきちゃんの漕ぐオールの音が響く。
しゃぼしゃぼ
しゃぼしゃぼ
オールに弾かれた水の音が、なんだかあずきちゃんの心を表しているみたいに、淋しく鳴く。
「あずき殿、どうされたのですか?」
ゴンドラに乗っている、私の隣にいる浜口あやめちゃんが、あずきちゃんにそう尋ねる。
「そうだよ。あずきちゃん、今日は元気ないね。どこか具合でも悪いの?」
私もあやめちゃんに続いてあずきちゃんの顔を覗き込みながら言った。
「……二人は悲しくないの?」
あずきちゃんは口を開くなりそう言った。
「悲しい?」
「うん。悲しくないの?」
「何が悲しいのですか?何かありましたか?」
「ううん。これから悲しいことが起こるの」
あずきちゃんがそこまで言うと、あやめちゃんは合点が言ったように頷き始めた。
「どういうこと?」
私はあやめちゃんに尋ねる。
「もうそろそろ、この前三人で買った夜光鈴の夜光石が落ちてしまう時期になりつつあるんですよ。確か夜光鈴市が開催されたのがあの日だから……うん。今日、明日あたり、夜光石を還しに行かなくてはなりませんね」
「夜光石を……還す?」
「はい。夜光鈴の夜光石は発光するたびに小さくなっていく話はこの前したと思います」
「うん。覚えてるよ。その儚さが愛おしさにつながるんだなって思ったから」
「そうなんです。夜光石は最後には消えてしまう。夜光鈴から落ちてしまうのです。だから、このネオ・ヴェネツィアでは、そんな夜光鈴との最後の別れを惜しんで、水辺に繰り出す風習があるんです」
「へぇ~」
「アクアの海底でしか、夜光石は採れません。だから、最後の輝きを見ながら海に還すんです」
「なるほど~。私は良い行事だと思うなぁ」
「……良くないよ」
私があやめちゃんの解説に感心していると、あずきちゃんはそう呟いた。
「そういえば、あずき殿は今まで一度も夜光石を還しに行ったことがないんですっけ」
「……うん。私があんまり泣くもんだから、親が還しに行ってたんだ」
「そうだったのですか……でも、今年はあずき殿が返さないといけませんね」
あやめちゃんの言葉を受けたあずきちゃんのその顔は、大切なお人形をなくしてしまった小さな女の子のようだった。
その後もあずきちゃんは意気消沈したままだった。いつもの練習を終えた私たちは、今夜一緒に夜光石を海に還しに行く約束をした。そして、その約束の時。
あずきちゃんが来るかどうか、少し不安だったけれど、それは杞憂だった。あずきちゃんはあやめちゃんと一緒にいつもの集合場所にやって来た。あずきちゃんの目が赤いところを察するに、部屋でひとしきり泣いてきたんだと思う。そういうところがあずきちゃんらしくて、良いなと思った。
「それじゃあ、行こうか」
私たちはゴンドラに乗った。
水路を抜け、ネオ・アドリア海に出ると、そこにはすでにたくさんのゴンドラが海面で揺れていた。その一つ一つに、夜光石の青白い光が灯っている。
「ここら辺にしようか」
私はゴンドラを動かすのを止め、辺りを確認しながら言った。他のゴンドラから、光が落ちるのが見える。
「そうですね。良い場所だと思います」
あやめちゃんはそう言いながら七宝柄の夜光鈴を持ち、ゴンドラのへりへかざした。その夜光鈴の夜光石は、青白い淡い光を断続的に放ちながら、次第に光の強さがなくなっていくのを目の当たりにさせた。
「あ」
ぽちゃん
夜光石が、ゆっくりと沈んでいく。光りながら沈んでいった夜光鈴が、ついに見えなくなった。
「……これで、今年の夏も終わりですね……」
あやめちゃんはしみじみとそう言った。
「あ、私のももう落ちそうかも……」
私は慌ててゴンドラのへりに近づいた。この夜光鈴との思い出が、スピードをもって徐々に思い出す。初めて夜光鈴を買った日のこと、アイスティーとお菓子を持って夜の海で開いた夜光鈴との秘密のお茶会のこと、何気ない風が優しい音色を与えてくれたこと。
ぽちゃん
夜光石が沈んでいく。私はそれに向かって、「またね」と呟いた。
すると今まで何も言わなかったあずきちゃんが口を開いた。
「……どうしてそんな平気そうな顔をするの……?淋しく、ないの?」
あずきちゃんの瞳には涙がいっぱいにたまっていた。そしてついに決壊を起こし、一筋涙がこぼれた。私はあずきちゃんに言った。
「だって、また会えるって、信じてるから」
「……あ、会える……?」
涙をぬぐいながらあずきちゃんはそう返してきた。
「うん。さっき、あやめちゃん言ってたでしょ?アクアでしか採れない夜光石をもとに還すって。私、こう思うの。私が今海に還した夜光石は、海底でゆっくりお休みするの。そして、来年の夏に向けて力を蓄えて、また私に会いに来てくれるって。だから、悲しくないって言ったら嘘になるけど、涙を流してしまったら、夜光石が心配しちゃうでしょう?」
私はそう言いながら、あずきちゃんにハンカチを渡した。あずきちゃんはそのハンカチを受け取りながら言う。
「本当に……また会える?」
「うん。私は絶対に合えるって、信じてる」
私がそう言うと、あずきちゃんは涙を拭きとり、ゴンドラのへりに向いた。そして、自分の夜光鈴を海に向けた。
ぽちゃん
夜光石はしばらくして海の底に沈んでいった。
「絶対に……また、会いに来てね!」
あずきちゃんは、沈みゆく夜光石に向かってそう叫んだ。沈んでいく夜光石が、少しだけ強く光ったように見えた。
「あっつぅううい……」
ゴンドラを漕ぐ腕にじっとりと汗が噴き出しているのがわかる。夜光石を見送った次の日、私たちはまた朝から合同練習をしていた。
「夜光石が落ちていっても、気温は落ちていかないですね……」
あやめちゃんがうまいんだかうまくないんだか、わからないことを言う。
「じゃーん!」
そんな中、あずきちゃんは元気に何かを取り出して見せた。
「こんな日もあるかと、風鈴を持ってきました!」
あずきちゃんが手に持っていたのは、夜光鈴だった。
「昨日で夜光石がなくなっちゃったけど、亜子さんに頼んで小さなガラス玉を付けてもらったの!これで少しは涼しくなるよ!題して、風鈴で涼しくなろう大作戦!」
「……安直な作戦名ですが、風鈴が与えてくれる清涼感にしがみつきたいほどの暑さなのには間違いないので良しとしましょう」
チリーン
暑い日はもう少し続きそうです。
ようやく夏が終わりました。秋はすぐ去り、早めの冬が訪れるでしょう。
また今度。
明日更新する
高森藍子「金木犀の庭」
前略
あれだけ暑かった夏が、まるで夢だったかと思うほど日々が涼しくなってきました。ネオ・ヴェネツィアには今、秋が到来しています。
「すっかり涼しくなってきたね」
アイさんが朝食のハムエッグをお皿に盛りつけながら言う。
「そうですね。これから秋が来るんですね」
ネオ・ヴェネツィアに来て初めての秋。春も夏も素敵な季節だったから、秋もきっと素敵に違いない。そう思うと、今から胸がわくわくしてくる。
「そうだよ~。秋と言ったら……焼き芋にじゃがバタ、かぼちゃケーキにきのこの炊き込みご飯……うん、お仕事頑張らなくっちゃ」
「食欲の秋ですね」
「そう! 藍子ちゃんも育ち盛りなんだから、たくさん食べようね……ってことで今日はハム三枚!」
「わぁ……! 朝から豪勢ですね」
「当然。なんてったって今日は藍子ちゃんとお出かけだもの。ピクニック用のお弁当もあるんだから」
あ、これ食卓に持っていってね、とアイさんは言いながら、先ほどまでハムエッグを作っていたフライパンを素早く洗う。そして再び火をつける。流れるように、あらかじめ準備してあった材料を入れる。ジャーという音が鳴り響く。その隣のコンロでは、鍋が湯気を立ち昇らせていた。私はハムエッグのお皿をテーブルに運びながら、昨日のことを思い出した。
昨日の晩。いつもの通り仕事から帰ってきたアイさんと晩御飯を準備した後、今日どんなことがあったのかをご飯を食べながら報告した。
「……それで、いつものルートを使って三人で練習していたんですけど、その時、凄く甘い香りがしたんです」
「いつものルートってことは、外回りができるルートだね?」
「はい。それで、その匂いは、お菓子みたいな匂いではなくって、どちらかといえばお花の香りっぽい感じだったんです。でも、そこには特に香りを発するようなものは見当たらなかったんです」
「ふむふむふむふむ……気が付きましたか藍子ちゃん」
「え?」
アイさんは腕を組みながらうんうんと頷くと、口を開いた。
「明日、その匂いの正体を探しに行ってみない?」
「匂いの正体、ですか?」
「そう。周りには何もなかったのに、辺りに漂う甘い香りの正体! それは……」
「それは……?」
「明日のお楽しみに! ってことで、藍子ちゃん、明日は何か予定はある?」
「いえ、ありません」
「じゃあ、明日は二人でお出かけに決定!」
そんな流れで、今日はその甘い香りの正体を探しにアイさんと二人で出かけるのだ。アイさんは何か知っているような口ぶりだったけれど、一体あの香りの正体は何なんだろう。
「さあ、お弁当も準備はばっちり!アリア社長の準備も?」
「ぷいちゅ~!」
アイさんに尋ねられて、アリア社長が元気に返事をする。
「藍子ちゃんの準備も?」
「準備万端です!」
普段練習には持って行っていないが、今日はカメラも首にぶら下げて、いつでもシャッターを押せるようにしている。
「それじゃあ、藍子ちゃん。ゴンドラを出して」
「はい!」
ピクニックとは言いつつ、しっかり私のゴンドラ練習にも付き合ってくれるアイさんは、やっぱり素敵な人だと思う。私はいつも使っている練習用のゴンドラを解き放つと、船着き場ぎりぎりまでゴンドラを寄せた。
「お手をどうぞ」
「ありがとう」
アイさんは私の手を取ると、ゴンドラへと乗り込んだ。
「アリア社長も、どうぞ」
「ぶいちゃい!」
アリア社長も私の手を取ると、ゴンドラに乗りこんでいった。二人が座るのを確認した後、私は言う。
「それでは、出発します!」
ゆっくりとゴンドラを漕ぎだす。オールから伝わる水の感触は上々。昨日よりも鋭角さを感じるということは、気温と同じで水温も下がっているのだろう。二人を乗せて、私はいつもの練習コースへと向かった。
「あ、藍子ちゃん。ここの水路を左に曲がってくれる?」
しばらく練習用コースを進んだ後、アイさんがそう言った。甘い香りがした場所は、ここからそう遠くはなかった。
「あ、はい」
私は言われた通りにゴンドラを漕ぐ。家々が立ち並び、少しだけ影がちになっている水路を進む。しばらくすると、風に乗って鼻にかすかな甘さが通った。
「あっ……昨日とおんなじ匂い……」
「うんうん。甘い匂いが香ってきたね」
アイさんも匂いに気が付いたらしく、頷いている。アリア社長も鼻をひくひくさせている。
ゴンドラを進めるたびに、その匂いは強くなっていく。しばらく水路を進んでいくと、光が強い場所が見えてきた。
「もうちょっとだよ」
アイさんが言う。私はその言葉を受けて、少しだけゴンドラを漕ぐスピードを上げる。
「わぁ……!」
その水路を抜けると、急に視界が開けた。そして、目の前には緑色のキャンパスにオレンジ色の点々をまぶしたような光景。息をするたびに鼻に抜ける甘い香り。これが、昨日の甘い匂いの正体だった。
「これが、匂いの正体だったんですね」
「そう。これはね、キンモクセイって言う植物なの。秋の始まりになると、必ず花を咲かせるんだよ。その時には必ず、この甘い匂いも出てくるんだ。マンホームにはない植物だね。昔はあったらしいんだけど」
「キンモクセイ、ですか……」
私はオールを片手で支えながら、もう一方の手で首からぶら下げたカメラを持ち上げると、今見えている風景を写真に収めた。
「キンモクセイの匂いは私たちにとっては甘い香りがしてとても良い匂いなんだけど、虫にとっては嫌な匂いなんだって。蚊とかも寄り付かないらしいよ」
「そうなんですね……不思議……」
キンモクセイは中庭のような場所に生えていた。ゴンドラを付けて上陸すると、キンモクセイの様子がよく分かった。こんもりした緑は木から生えている葉っぱであり、そこから小さいオレンジ色をした花が顔をのぞかせている。
「ここは日当たりも良い場所だから、良く育ってるね。前に来たときよりも大きくなってるんじゃないかな」
アイさんはキンモクセイの花を見ながらそういった。
「前にも来たことがあるんですか?」
「うん。偶然ここを見つけたの。それこそ、私がまだシングルだった時、藍子ちゃんたちと同じように、アーニャとあずさと見つけたんだ。それ以来、秋になるとここに来てるの」
「そうだったんですね。だから、昨日の私の話を聞いて、ここに連れてきてくれたんですね」
「うん。私もちょうど来たかったから」
アイさんは微笑みながらそう言った。
「さて、それじゃあお日様も出てて暖かいし、もう少し行ったところに同じような中庭があるから、そこに行こうか」
「はい」
私たちはゴンドラへと戻る。最後にめいいっぱい空気を吸い込んで肺をキンモクセイの香りで満たす。そんなはずないのに、口から出す息がなんだが甘くなったような気がして、少し可笑しかった。
少し離れたところにある中庭に着くと、アイさんはアリア社長にせかされながらお弁当を広げた。
「キンモクセイの香りが強いから、今日はそれに負けないくらい味を濃くしてみたんだ」
今日のお弁当は、ナスの揚げびたしにきのこのスープ、おにぎりだった。アリア社長はいの一番におにぎりに手を出すと、はぐはぐと美味しそうに頬張った。
「アリア社長は相変わらず食べるのが早いですね~」
アイさんは笑いながら言う。
「それじゃあ、私たちも食べようか」
「はい!」
「「いただきます!!」」
お弁当を食べ終えると、軽やかなキンモクセイの香りと、暖かな日差しに包まれているからか、何だか眠たくなってきた。そんな私を見たからか、アイさんは
「お昼寝しちゃおっか?」
と言った。アリア社長はすでに夢の中に入り込んでいた。私たちはアリア社長を間にしながら横になった。今度はあずきちゃんとあやめちゃんをここに連れてこようなどと考えているうちに、まぶたがどんどん重くなっていって、いつの間にかまどろみのなかに包まれていった。
あ、今日はこれでおしまいです。次回はもっと早く更新したいです。
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