渋谷凛「前職アイドル、そしていま」 (54)
周囲を忙しなく動き回る何かの気配で目が覚めた。
のっそりと上体を起こし、まだ重い瞼を瞬かせる。
私の周りをうろちょろとしていた気配の主は十年来の相棒、ハナコだった。
ハナコは私が小学生の頃にこの家にやって来た妹分であり、相棒でもある。
彼女はヨークシャテリアとミニチュアダックスフンドの血を半分ずつ持ち、唯一無二のもふもふ感を誇る。
父による命名であり、曰く、花屋の子だからハナコだとか。
この話を聞いたときは、もしかすると私の名前がハナコになっていたのではないか、と思ったものだ。
そして、ハナコは毎朝こうして私を起こすべく、寝ている私の周囲をうろちょろとする。
時にはお腹の上に乗って来たり、顔を舐めたりするという、そんじょそこらの目覚まし時計にはない機能まである。
人生の半分以上をそうして過ごしたことから、自然と朝には強くなった。
寝坊であるとか、二度寝であるとか、そういった類のものと私が無縁であるのは、ハナコの働きに因るものだ。
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○
ハナコが私を起こす理由。
それは、朝ご飯と散歩の催促だ。
私が起きたと見るや、彼女は一層うろちょろを強化して、ベッドの上を跳ね回っている。
「わかった。わかったから」
軽く抱き上げ、床へと下ろす。
のそのそした私の足取りを、爪とフローリングの床とが当たって奏でられるちゃっちゃっ、という小気味いい音が追ってくる。
階下へと降り、リビングルームを通り過ぎてキッチンに向かう。
キッチンの戸棚から、ドッグフードを取り出して餌皿へと注いでやった。
ハナコが朝ご飯を食べている間に、身支度を済ませるため、私は洗面所に行くとしよう。
○
髪を束ねて、ひんやりした水で顔を洗う。
手の感触を頼りにタオルを掴んで、ぽんぽんと拭った。
完全に覚醒した頭で、これからの予定を指折り確認する。
ダイニングテーブルに用意されているであろう朝食を摂って、それからハナコの散歩。
帰ってきたら開店準備をしている母を手伝って、お店番をする。
とりあえず、午後まではこんなところか。
簡単に化粧をして、パジャマを洗濯機に放り込んで洗面所を出た。
○
着替えを済ませ、再び私が戻る頃にはハナコは既にご飯を食べ終えていて、散歩はまだか散歩はまだかと私の足元でくるくる回り始める。
もうちょっと待ってね、と頭を撫でると彼女は目を細める。
その仕草がたまらなく愛らしく思え、抱き上げて頬ずりしたところ、今度は鬱陶しそうな顔をされた。
そうして私はハナコを抱えたままダイニングテーブルへと行き、席に着く。
机上には、食パンとベーコンにスクランブルエッグ、そしてオレンジが一切れが用意されていた。
それらを私がもぐもぐとしている間、ハナコは隣の席でずっと尻尾を振っている。
おこぼれがもらえるということを分かっているからだ。
甘やかしてはいけないとは思いつつも、このつぶらな瞳による攻撃を無視できた試しは、これまで一度としてない。
例に漏れず、今日も私はベーコンをひとかけら献上してしまうのだった。
○
使った食器をシンクに置いて、ふらふらとお店の方へと向かう。
ハナコは待ってましたと言わんばかりに跳ねながら、私についてくる。
お店では母が予想通り開店の準備をしているようだった。
「あら、おはよう。散歩?」
「おはよ。うん、散歩行ってくるね」
「気を付けてね」
「うん」
半分だけ開いているシャッターをくぐって、お店を出た。
ほっと息が漏れるような暖かな太陽の光が射していた。
まだ朝晩は冷え込む日もあるけれど、この調子なら近々暖房機具を片付けられそうだ。
「いい天気だね」
四本の足を使って、一生懸命に私の前を先行するハナコに声をかける。
もちろん、返事はない。
○
通りのソメイヨシノたちはかわいらしい花を広げていた。
八分咲きというところだろうか。
出会いと別れの季節を象徴する花、桜。
ごく短い期間にのみ咲き誇るその姿に、多くの人が様々な感情を重ねるのも分かる気がした。
人生におけるスタートやゴールの多くは春であることも理由の一つなのかもしれない。
そんな季節に未だ宙ぶらりんの私は如何なものか、などと余計な思考が沸き始めたので、ぶんぶんと頭を振った。
○
ぐるりと町内を練り歩き、公園に寄り、来た道を戻って、私たちは帰宅を果たす。
店内に母の姿はなく開店準備は、ほぼほぼ終わってしまっているみたいだった。
玄関の雑巾でハナコの足を拭いてやり、家へと上がる。
母はダイニングで一息入れているようだった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「お父さんは?」
「まだ寝てる」
「あ、今日競りだったっけ」
「そうそう。だからお昼まで寝かしといてあげて」
「うん。お店のこと私やるから、お母さんは家のことやってて」
「ええ、頼むわね。凛もコーヒー飲む?」
「ううん、大丈夫。じゃあお店にいるね」
「はーい。ハナコもお店番よろしくね」
○
お店へ戻り、カウンターの上の置時計を見やる。
開店までまだ三十分ほどあった。
準備はもう母がほとんど終わらせてしまっているので、残っていることは少ない。
あとはシャッターを上げて、プランターたちを軒先へ出すくらいだ。
そして、それらは開店直前にやったらいい。
つまるところ、時間を持て余してしまったのだった。
レジ横にかけてある私のエプロンを身につけて、椅子に腰かける。
ジーンズのポケットから携帯電話を出して、電源を入れるとメールが届いていた。
かつて共に仕事をしていた相手からだった。
その内容は食事の誘いで、日取りは、今日。
今の私はある程度時間の自由が効く、ということを理解してるからこそなのだとは思うが、それにしても唐突だ。
というより、暇人扱いされているのが心外だ。
抗議しなくては。
それはそれとして、今日の集合時間と場所を聞くべく返信をした。
○
ハナコを膝に乗せて、携帯電話をいじっている内に、開店時間が迫っていた。
よいしょ、とハナコを一旦床に下ろして、お店の入口へと向かう。
年季の入ったシャッターを押し上げると、がらがらがらという大きな音が響いた。
日の光が射し込んで、店内がぱぁっと明るくなる。
ハナコは眩しそうに目を細めていた。
腰に手を当て「さて」と呟く。
エプロンのポケットから軍手を取り出して両手につけ、軒下にプランターを並べる作業を開始した。
土がたっぷり入ったプランターというのは案外重く、それなりの力仕事だ。
全てを並べ終わる頃には、じんわりと額に汗が浮かんでいた。
○
軍手を外して、ふぅと軽く息を吐く。
店先の看板を営業中の表示にして、カウンターに戻った。
「さてと。今日も一日楽しんでいこうね」
ハナコに話しかける。
私の声に、ハナコは大きな欠伸で応えた。
相変わらずマイペースだ。
そんなハナコと共に、お客さんを待った。
○
所在無げに今日のスケジュールを眺める。
午前中に花束の注文が一件。
午後にブライダル用卓上花などの発注に関係するヒアリングが一件。
などなど。
午前中のものは私で対応可能だが、午後のは父か母が対応することになるだろう。
私では力不足、だとは思わないけれど、両親が対応すべきだろう案件だと思う。
お客さんはきっと両親の力を信じてブライダルの場にうちの花を選んでくれたのだから。
いつか私も両親のようになれたらな、とぼんやり将来に思いを馳せるのだった。
○
さて、お仕事に取り掛かろう、と昨日のうちに固めた構想をもとに花束を包んでいく。
既に脳内で組み上げていたので、迷うことはない。
あとはイメージしている最終的な完成予想と現在の姿を見比べて、微調整を加えるだけだ。
そうして出来上がった花束を、様々な角度から見渡す。
悪くない。
寧ろいい出来だと思う。
伝えられている予算が大きかったこともあって、ほとんど制約もなく自由に作ることができた。
自信作と言っていい。
なんて、自画自賛を繰り返していたところに、ぴりりりとお店の電話が鳴った。
一度のそれを経て、すぐに受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。フラワーショップ渋谷でございます」
私の電話応対も、板についてきたのではないかと自賛する。
電話の主は簡単な挨拶を前置いて、名前と花束を注文していた旨を告げた。
もう間もなく取りに来る、ということらしい。
丁寧な言葉遣いで、腰の低い男性だった。
少ししわがれた声から、初老の紳士のような姿を連想する。
これで若い人だったら失礼だな、とも思った。
○
電話から十分ほど経った頃、お客さんが一人やってきた。
想像通り、と言うのが適切なのかはわからないけれど、見た目はさっきの電話から連想したそのものだった。
ばっちり着こなしたブランド物のスーツに、革靴。
店内に入ってきて帽子を取り、一礼する姿は絵に描いたようだ。
「いらっしゃいませ」
しかし、いくら想像通りだったからとはいえ、見た目だけで判断して名前を伺うのも失礼な話なので、相手が名乗るのを待つことにする。
椅子から立ち上がって、その男性のもとへと寄って行く。
「声が若いな、とは思っていたのですが、こんなお嬢さんがやってらしたとは」
男性はそう言ったあとで「失礼いたしました。歳で判断するとは申し訳ない」と頭を下げる。
そうして、男性は「先程お電話させていただきました」と言って名乗ってくれた。
私はそれに対して「お待ち致しておりました」と笑顔を作る。
前職でこれでもかというくらい練習したのだ、接客スマイルくらい造作もない。
「ご注文のお品物をお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」と下がった。
○
用意していた花束を持って店内に戻る。
抱えると私の顔がすっぽりと覆われてしまう程の大作だ。
それを見て男性は「おお」と感嘆の声を上げた。
内心でガッツポーズをして、花束に使用した花を簡単に説明していった。
男性はそれを、ふんふん言いながら聞いてくれて、最後に「いい仕事をありがとう。今日は妻の誕生日なんだ」と笑った。
「奥様、喜んでくださるといいですね」
「喜ぶさ。花に興味のない私でも、素晴らしいと思うくらいだからね」
こうも臆面もなく、ともすればクサいと取られても仕方のないことを言うか。
そしてそれで様になっているのだから、すごい。
というか、流石に私も照れる。
あはは、と照れ笑いのような愛想笑いのような何かをして、お代を受け取った。
そうして男性は「では」とまたしても綺麗なお辞儀をして、帰って行くのだった。
○
私とハナコだけになった店内で、ふぅと胸をなでおろした。
精一杯心を込めてはいたけれど、やはり渡すその時までは不安が付きまとう。
喜んでもらえてよかった。
あとはあの花束が、さっきの男性と奥さんの素敵な一日を少しでも華やかに出来ること祈るばかりだ。
椅子の上で丸くなっているハナコを抱き上げ「やったー」と小声で呟いて軽く掲げる。
ハナコはそれを意にも介さないで、されるがままだ。
私は椅子に腰かけて、しばし一仕事を終えた達成感に浸ることとした。
○
そんな束の間の休息もほどほどに、次のお客さんがやってきた。
小さな女の子とそのお母さんだろうか、まだ二十代くらいに見える女性だった。
少なくとも、歳は私と十も離れていなさそうだ。
女性は私の「いらっしゃいませ」に対して、軽い会釈をして店内を見渡す。
「何かお探しですか」と声をかけると、女の子の方が「たね!」と言った。
しゃがんで女の子の目線に合わせる。
「種?」
「うん! おかあさんとね。おうちでね。たねまくの」
舌足らずな声でたどたどしく説明する様に、頬が緩んでしまう。
かわいいなぁ。
今度は私から「そうなんだ。どんな種をまくのかな?」と聞くと、女の子はきょとん、とした顔になる。
「ああ、すみません。この子と家で何か育てたいな、と思いまして」
お母さんと呼ばれた女性が、女の子をひょいと抱き上げて詳しく説明してくれる。
「というわけで、何かおすすめとか……」
なるほど。
これは腕の見せ所らしい。
○
「そうですね。この時期に蒔けるものだと、こちらのヒマワリなどは簡単な」
言いかけて、女の子が「ひまわり!!」と大きな声をあげた。
「ひまわり。好き?」
「うん! おかあさん! ひまわりがいい!」
「はいはい。なんかすみません……それから、育てるにあたっていろいろと教えていただきたいのですが……」
女性は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべる。
育てる上での注意点などを簡単に説明するべく手近なプランターを持って来よう。
その間、女の子の相手はハナコに任せることとする。
依然としてカウンターの椅子の上で丸くなってるハナコを抱き上げ、女の子のもとに連れて行く。
女の子は目をぱぁっと輝かせた。
「わんわん!」
「そうだよ。わんわん。ちょっと遊んであげてね」
「うん!」
心の中でハナコに任せたよと呟いて、その場を離れた。
○
女性のもとへと戻って、順を追い説明をしていく。
種蒔きから開花までの期間、水やりのこと、肥料のこと、発芽後の間引きのことなどをかいつまんで話した。
「何かお困りのことがありましたら、お電話いただければな、と」
女性はうちの店の電話番号が書かれた紙を受け取ると、ぺこぺこしてお礼を繰り返す。
それからお代をもらって、店の前までお見送りをした。
「おねえちゃん! わんわん! またね!」
女の子はその姿が見えなくなるまで、千切れんばかりの勢いでぶんぶんと手を振っていた。
○
お客さんが来ては応対して、と過ごすうちに時計は正午過ぎを示していた。
そろそろ、ご飯の時間かな。
カウンターの上に内線の子機と自宅にいるという旨が記載された札を立てる。
入口のセンサーによる入店音をオンにして、自宅へと上がることにした。
○
玄関を上がり、廊下に差し掛かった時点でいい匂いがした。
今日はハンバーグかな。
ぐぅ、とお腹が鳴る。
心なしか早足になる私だった。
ダイニングテーブルには大皿に盛られたサラダと三人分のハンバーグが並んでいた。
お父さんは箸を並べていて、お母さんはご飯をお茶碗によそっている。
「おはよ」
「ん。今日もありがとな」
「無職だし、それくらいはやらないとね」
なんていう自虐を言ったところ、寝巻きの父に苦い顔をされた。
「あれだけ頑張ってたんだから、ちょっとくらい遊ぶ期間があったって誰も文句は言わないわよ。ね、お父さん」
父の気持ちを代弁するかのように、母が割って入ってくる。
「ああ。それに、凛のおかげで今は受注できる件数も欲張れるようになってるんだから」
別に今現在無職であることを気にしているわけではないのだけどな、と言いたい気持ちがちょっとだけ沸いたが、我慢する。
加えて、今後の人生の野望のようなものも実はあったりするのだが、まだ話せる段階にはない。
だから私は「うん。ありがとう」と曖昧に返事をした。
○
洗面所で手を洗って、再び私がダイニングテーブルに戻る頃には、ご飯もスープも並んでいて、どうやら私待ちのようだった。
「ごめん。お待たせ」
言って席に着いて、家族三人揃って「いただきます」をする。
ハナコは私の隣の席にぴょんと飛び乗ってきた。
おこぼれをもらうためだ。
「今日はだめだよ。たまねぎ入ってるからね」
意味を理解しているのか、ハナコはしょんぼりした顔になる。
あとでジャーキーでもあげよう。
「そうそう、今日はお昼からお客さんが打ち合わせで来るから、午後からはお母さんがお店入るわ」
「あ、うん。ブライダルのやつだよね」
「そ。午前中の凛の担当してたお客さんは花束受け取りに来た?」
「うん、来たよ。すごい高そうなスーツ着てるおじさん。奥さんの誕生日なんだって」
「へぇー、いい旦那ねぇ」
母はにやにやして、父を小突く。
父はバツが悪そうにしていた。
「お母さんお店入るなら、私が家のことやろうか?」
「ううん。凛のおかげで午前中にほとんど終わったから、今日はゆっくりしてなさい」
「そっか。……あ、それなら私、美容院行って来てもいい?」
「切るの?」
「うん。ちょっとイメチェンしようかな、って。ほら、最近は減ったけど、それでも街なんかで声かけられることあるし」
「有名人は大変ねぇ」
「それと今日の夜ご飯なんだけど、食べてきてもいいかな」
「急ね」
「うん。いつもの」
それだけ言うと、母は「なるほどね」と笑った。
○
昼食を終え、自室に戻る。
おこぼれをもらえなかったハナコは拗ねていた。
かわいいやつめ。
小学生時から使っている勉強机の最下段にしまってある犬用のおやつを取り出す。
するとハナコは態度を急変させて、私の足元でぐるぐると回り始める。
わかったわかった、と袋からジャーキーを一本出して、残りをまた引き出しにしまった。
ジャーキーを眼前に持って行き「はい。いいよ」と私が言うと、ハナコはかぶりついた。
夢中でジャーキーをがじがじとしているハナコをよそに、私は携帯電話を操作する。
前職の頃よりお世話になっている美容師さんに電話をするためだ。
急なお願いだし、芸能人も相手にするような有名な美容師さんだから、無理だったら諦めよう。
そう思って、発信した。
数コールの内に、美容師さんは出て、こちらが名乗るより先にハイテンションな声が飛んできた。
『凛ちゃーん! 久しぶりじゃない!? いつ来るの? 今日? 明日? 空けるわよ!』
ああ、変わらないなぁ。
たまに、あまりのハイテンションについていけなくなるときもあるけれど、この人は私の憧れの人の一人でもある。
派手な髪色にも関わらず、それが無理なく似合っているし、その場にいるだけで空気を楽しいものに変えてしまうのはすごい。
まさに元気溌剌を体現したような女性だった。
「今日……なんですけど、いいんですか?」
『凛ちゃんのおかげでうちの名前が売れたようなものだもの! 恩人を無下にしたとあっては罰が当たるわ!』
「それは……その、ありがとうございます。何時くらいにお伺いしたらいいですか?」
『んー。15時でどうかしら?』
「大丈夫です。ありがとうございます」
『じゃあお店、ゴリゴリに掃除して待ってるわね!』
そう言って美容師さんは一方的に電話を切ってしまった。
私としては嬉しいけれど、超一流の美容院がこれでいいんだろうかと思わずにはいられなかった。
○
時計を見やる。
時刻は十三時過ぎ、美容院までは電車を使って三十分といったところだから、まだ一時間くらいの余裕はある。
となれば、やることは一つ。
クローゼットを開け放ち、観客総勢一匹のファッションショーが開催されることとなった。
○
あれでもない、これでもない、と手持ちの洋服をとっかえひっかえして、姿見の前でくるくると回る。
数十分の格闘の末に、落ち着いたのは、パンツにシャツ、それから春色のカーディガンといういつもと大して変わらないものだった。
急に洒落っ気を出しても変だろうし、これで問題ない。
食事に誘われているとはいえ、そんな豪勢なものではないだろうし、何より向こうは仕事帰りのスーツなのだ。
私だけあれこれ悩むというのも不公平な気がするし、そんな自分がだんだんとばからしく思えてきたので、ここらで打ち切ることとする。
そして、今日のコーデが決まった私を待っていたのは、ベッドの上に散乱した洋服たちを畳んでしまっていく作業だった。
○
メイクを直して、鞄に財布やら携帯電話やらを詰めて、と準備に追われている内に約束の時間が迫っていた。
少しだけヒールのある靴を靴棚から選んで、玄関で爪先を鳴らす。
カウンターでアレンジメントを作っていた母に「いってきます」と声をかけ、お店を出た。
鞄から眼鏡ケースを取り出して、伊達眼鏡を装着する。
本当に簡単な変装ではあるけれど、ないよりはマシだ。
ぽかぽかとした春の陽気の中、駅を目指して歩く。
ヒールとアスファルトとが奏でる音楽がいつもより速めのテンポなのはきっと春のせいで、今日の予定は関係がないはずだ。
間違いなく関係がないと言える。
○
最寄駅の改札を抜け、駅のホームへ。
電光掲示板に表示された、目的の電車が来る時刻と腕時計の時間を交互に確認する。
もうすぐ来るようだ。
ささやかな幸運に、今日という一日が天にまで後押しをされているような錯覚を覚える。
もちろん、それは錯覚でしかないのだろうけど。
音楽が流れ、電車の接近を告げる。
ホームへと突入してきた電車によって巻き起こされた風で、髪が大きく揺れた。
次第に減速し、完全に停止すると、よく振った炭酸飲料のような音を立てて扉が開く。
乗客を吐きだして、新たに乗客を飲みこむ、その流れに私も乗った。
○
電車に揺られること十数分、目的の駅へと到着した。
あのハイテンションな美容師さんが待っているであろう、美容院を目指す。
そういえば、ここまでの道のりで声をかけられることはなかったな、と思う。
顔を二度見されることなどはあったが、それでも全く声をかけられなかったのは意外だった。
最近は花屋の方に私目当てで来るお客さんもめっきり減ったし、そろそろ私の世間的な認知度も落ち着いてきたのだろうか。
そんなことを考えていたところ、背後から「あの、すみません。もしかして……」と呼び止められた。
残念。
そう上手くはいかないものだな、と振り返って笑顔を作る。
大学生くらいの女の子だった。
「渋谷凛さん……ですよね?」
その問いかけに、私は何も答えず、ただ伊達眼鏡を外す。
女の子の顔が私にもわかるくらい、明るくなった。
「ずっとファンでした!! 今でもファンです!」
そう言って、彼女はほぼ直角と言っていいくらい深々と頭を下げた。
「うん。ありがとう、嬉しいです」
純粋にそう思った。
私のファンのみんなは、私が芸能人じゃなくなっても、私のファンでいてくれるのだ。
それはなんだかちょっと素敵だな、と目頭が熱くなりかけたがぐっと堪える。
○
それから、女の子に「サインでも、いる?」と聞いたところ、食い気味に「是非!」と言われサインをすることになった。
彼女のバッグに。
金具には有名なブランドのロゴが入っていて、一目で高いものだとわかる。
何度も何度も「ホントにいいの?」と聞いたけれど、彼女は「いいんです!」と繰り返すばかりだった。
そうして二言三言交わし、女の子と別れ、私は美容院を目指す。
余裕を持って家を出たはずなのに、約束の時間にはほんのちょっと遅刻しそうだった。
○
約束の時刻から五分遅れで私は美容院に到着した。
入り口であるガラス張りのドアには『勝手ながら、本日休業とさせていただきます』という貼り紙がしてある。
もしかしなくても、私一人のために今日お店を閉めたようだった。
本当ににこれでいいのだろうか。
ドアに手をかけ、ゆっくりと押す。
取り付けられたベルがからんころんという音を響かせるのとほぼ同時に、お店の奥から声が飛んできた。
「凛ちゃーん!!」
ああ、もう。
変わらないなぁ。
○
「はい、バッグ預かるわね。ほら、座って座って」
ぐいぐい手を引かれて、店内に通される。
ぴかぴかに磨き上げられた床や鏡の数々と、これでもかという程に準備された道具たちを見て、本気度が窺えた。
私が座ると同時に、ふんわりカットクロスをかけてくれる。
手際の良さも相変わらずだ。
「久しぶりねー。でも髪、ちゃんとケアしてるのね。凛ちゃんのそういうとこ、大好きよ」
会話というにはあまりに一方的なそれを経て、ようやくカットの内容に関するヒアリングが始まった。
「それで、今日はどんな感じにするの? いつもみたいに伸びた分切ってく感じかしら?」
「あ、えっと。今日はちょっと特殊で……その。ばっさりお願いしたいんですけど」
「きゃー!!」
両手を頬に当てての、絶叫。
いちいちハイテンション過ぎる。
「ボブくらいの長さまで、こう、ばっさりと」
「んー! もったいない気もするけど、こんな一大事件に私を選んでもらえたのが嬉しいわ! お姉さんに任せて!」
櫛とハサミを両手に持って、ばんざいの格好をしているお姉さんだった。
こんな調子でも腕は信頼しているし、このお姉さんに任せて後悔したことなど一度だってない。
だから、今回も「はい。お任せします」と笑って答えた。
○
時折雑談を交えながらカットが進む。
ちょき、という音の度に床へと私の一部だった髪が落ちていく様は、なんだか感慨深いものがある。
「んー。今年イチ楽しいわね。今年イチ楽しいわ」などと繰り返しているお姉さんの声と、お姉さんの繰る道具たちの音が響いていた。
○
やがて、お姉さんが指を鳴らす。
「どうかしら? どうかしら?」
お姉さんは、二つ折りの大きな鏡を持ってきてくれて背面もしっかりと確認してくれる。
「なんか、頭が軽いです」
「そりゃねー。こんな切ったからねー。で、どうかしら?」
「いつもどおり、文句なしで素敵です」
心の底からそう思える出来栄えだった。
「もう! それは素材が最高だからよ! 誰が調理したっておいしくなる食材使ってるんだから!」
あはは、と愛想笑いを返す。
「逆に凛ちゃんで失敗できる美容師なんてカスよ! カス!」
○
そうして、洗髪をしてもらって、セットしてもらってすべての工程が終了する。
鏡に映った自分は、文字通り別人で、生まれ変わったようだった。
これは、あいつ、気付かないかもしれないなと少し先の未来を思って、頬が緩む。
「それでそれで。今日はこれからどこかお出かけだったりするのかしら?」
「はい。ちょっと食事に」
「あー、凛ちゃんもう一般人だもんね。デート?」
「えっと、そういうのじゃなくて。私の元プロデューサーなんですけど」
言うと、お姉さんは「あー!」と声を上げて「待ってて」とウィンクをしてどこかへ行ってしまった。
数分の後に戻ってきたお姉さんは、小さな可愛らしい紙袋を提げていて、私の目の前でその包装をばりばりと裂いた。
「これね。なんかいるでしょ、女優のなんとかって人。こないだ担当したんだけど、そのときにもらって」
散乱した包装紙の中から出てきたのは小箱で、知っているブランドの、見たこともない香水だった。
「なんか限定品? らしいんだけど、凛ちゃんにこれ、あげるわ」
「えっ、そんなのもらえないです」
「いいのいいの。いらないからオークションにでも出してやろうかしら、なんて思ってたくらいだから」
それはその女優さんに失礼過ぎるのではないだろうか。
私が何か言うよりも先にお姉さんは自分の手の甲に目掛けて一吹きした。
「うん。いいわね、これ。品があるって言うのかしら。どう?」
差し出された手の匂いを嗅ぐと、確かに言われた通りきつ過ぎない品のある香りで心地良い。
「つけてったら?」
「じゃあお言葉に甘えて」
前ならえの姿勢で手首をお姉さんに向ける。
お姉さんは香水を私につけてくれたあと、またそれを小箱にしまい直して、紙袋に戻す。
そして、私に「はいこれ」と押し付けた。
受け取らないという選択肢はなさそうだったので、ありがたく頂戴することにする。
○
その後、レジで提示された金額はどう考えても安過ぎて、そこでもまた一悶着あった。
あったのだけれど、私がこのお姉さんの勢いに勝てるはずもなく、押し切られてしまったのだった。
お姉さんはお店の前まで送ってくれて「ファイトよー!」とぶんぶん手を振られた。
その手の振り様と言ったら、今朝花屋に来ていた小さい女の子といい勝負だ。
私はお姉さんに深くお辞儀をし、再度改めてお礼を言って、美容院を後にした。
○
オレンジに染まりきった空を、ゆっくりゆっくりと紫が侵食していく。
鞄から携帯電話を取り出して、メールを確認すると、今日の集合時間と場所を記したメールが一件届いていた。
距離にして二駅ほどで、ここからなら結構近い。
おおよその到着までの時間をシュミレーションしてみる。
今から向かったら、三十分以上の待ちぼうけが確定していた。
けれど、まぁ。
今日はそういうのも悪くないかもしれない。
○
メールで指定されていた集合場所に、私は三十分以上のフライングで到着した。
どこかで時間を潰してから時間通りに到着するという考えがないでもなかったが、早めに来たのには理由があった。
髪を短くした私なら誰にも気づかれないのではないか、というものだ。
そして、どうやらこの目論見は成功しているようで、こうして街中にぽつんと立っていても声をかけてくる人はいなかった。
これならばもう変装の必要はないのではないだろうか。
なんて、これからの外出時の自分の姿を考え、うきうきとする。
そんなとき、真っ直ぐこちらに向かってくるスーツ姿の男がいた。
「お疲れ。っていうか早いな……髪切った?」
これまでの人生で一番と言えるくらいのイメージチェンジをしたというのに、一瞬で見つけられたのは納得がいかない。
サングラスの某有名司会者のようなノリで、それを軽く聞いてくるのも、ない。
ないない尽くしの現状に深いため息を吐いた。
○
「え、何か悪いことした?」
きょとん、とした顔で首をかしげているこの男こそが、私のかつての仕事相手である。
この私をスカウトし、アイドルとして育て、トップまで共に走り抜いた人物であり、一応恩人ということになる。
お互い駆け出しの状態から長い時間を共に過ごしたこともあって、引退した今でも、たまにこうして会うことがあった。
「こんなにばっさり切ったのに、反応がてきとー過ぎるでしょ」
彼の記憶には髪の短い私などはないはずだし、もう少し驚いてくれたっていいだろう。
「あー、いや。びっくりしてさ。咄嗟に言葉が出なくって」
「ふーん」
懐疑的な眼差しで串刺しにしてやり、「それで?」と追い討ちをかける。
「いや、綺麗だよ。よく似合う。素敵だと思う」
こうもストレートに返されては、困ってしまう。
真正面からの攻撃に対しては、反撃の用意がなかった。
「そっか」
「ところで、どうしたの。そんなばっさりと」
「んー。特に理由はないんだけどさ。やってみたかったんだよね」
「やってみたかった?」
「うん。周りを気にしないで街を歩く、っていうの」
少しの沈黙の後に、彼は「そうか」と言った。
○
「それじゃあ、行こうか」
「うん。何食べに行くの?」
「んー。いろいろあると思うぞ。なんでもない普通の店だけど」
歩き始めた彼を追って、横に並ぶ。
「ふーん、まぁどこでもいいや」と言うと「じゃあ聞くなよ」と小突かれる。
実際どこでもいいのだから仕方がない。
ひどいお店に連れて行かれたことなどないし、例えひどいお店だったとしても笑い話にできるだろう。
「なんか、いつもと違う匂いするね」
「あ、気付いた?」
「うん、いいね。これ、上手く言えないけど」
「そうかな。美容院でつけてもらったやつなんだけど」
「……ってことは、髪切ったの今日なんだ」
「うん。一番最初に見れて良かったね」
「俺と会うためにわざわざ……」
「調子に乗らない」
ぎゅっと二の腕をつまんでやったところ、彼は「いてぇ」と声を上げる。
早速、香水の効果を実感し、心の中でお姉さんにお礼を言った。
○
連れてこられたのは、ちょっと小洒落た居酒屋さんといった風貌のお店だった。
「今日は? 車?」
「いや、電車で来たよ」
「じゃあ飲むよね。私も飲もうかな」
「凛と飲むの、久しぶりだなぁ」
「ね。ご飯行ってもどっちか車だったりするから」
「何飲む?」
「最初は一緒でいいよ。ビールでしょ」
「あたり」
そうこうしてるうちに店員さんがやってきて、おしぼりを手渡してくれる。
それを受け取って、手のひらを包むように拭うとひんやりして気持ちがいい。
まずはとりあえず、ということでビールを二杯と適当に食べ物をいくつか注文した。
○
間もなく、片手にビールジョッキを二つ、もう一方で簡単な料理が乗ったお皿を持った店員さんが戻ってきた。
ごとん、とジョッキが置かれ、続いてテーブルの中央には料理が乗ったお皿が並ぶ。
店員さんが下がっていった後で、私たちはジョッキを手に取った。
「じゃあ」
「うん」
乾杯、という声に合わせてジョッキががちんと鳴る。
ジョッキに口をつけ、一思いに二口分ほど飲み干す。
私の「ふー」という声と、彼の「ぷはぁ」という声はほぼ同時だった。
「凛は結構飲める方だよなぁ」
「そうかな」
「とりあえずビール、に付き合ってくれる女の子あんまいないよ」
彼は笑いながら、お箸を渡してくれる。
受け取ったお箸で、テーブルの上の料理を口に運ぶ。
「これ、ハムの中クリームチーズだ」
「おいしかった?」
「うん」
「いいよ、それ俺の分も食べて」
○
運ばれてくる料理が一段落するまでに、彼が四度、私が三度のドリンクの追加をしたことで、お互い気持ちよく酔いが回りはじめていた。
「ここ来る前。今日会ったとき、私が周りを気にしないで街を歩くのやってみたかったー、って言ったでしょ」
「うん」
「そしたらなんかちょっと間があったよね。あれ、なんだったの?」
「あー。その、ちょっと申し訳なく思っちゃって」
「申し訳ない?」
「やっぱりさ、アイドルになって、いいことばかりじゃないよなぁ、って」
「……確かに嫌なこともなかったとは言わないけどさ、私はアイドルだったことを後悔したことなんてないからね」
私の言葉に彼は何も返さず、グラスの中のお酒をぐいっと空けた。
「凛はお酒入ると饒舌になるというか、思考が漏れ始めるよな」
彼は自分のお箸で私を指して、おどけて見せる。
その目が潤んでるのを、私は見逃さなかった。
○
既に空になったグラスをくるくると回すと、中の氷がからからと音を立てる。
お店に入ってからもう既に結構経っていたし、お互いそこそこ酔いが回っているみたいだった。
「凛はまだ実家の手伝いしながら生活してる感じなの」
「うん。一応、目標みたいなものはあるにはあるんだけど」
それぞれの現状について話す流れで、ぽろっと出てしまった。
しまった、と思った時にはもう遅い。
彼に「目標?」と聞かれてしまった。
はぐらかすわけにもいかないか。
「うん。実はさ、自分のお店……ゆくゆくは持ちたいな、って」
「…………詳しく聞いてもいい?」
目の前を見ると、彼はしゃっきり姿勢を立て直して、鞄からペンとメモ帳を取り出していた。
「え、何?」
びっくりして思わず聞いてしまう。
「だから、どこまで考えてるか。例えばお店はどうするの? 建てるの? それともテナントで?」
「開店にかかる費用、試算してみた?」
「技術に関しては凛なら何の問題もないと思うけど、それ以外。例えば仕入れとか、ノウハウはご両親から学んだ?」
不用意な私の一言によって、怒涛の質問ラッシュに襲われることになったしまった。
○
一通りの質問に答え終わると、彼がぱちんと手を叩く。
「凛、よく聞いて」
「うん」
「厳しいよ。今のままだと」
「……うん」
「法律的なこととか、いろいろ。今のままじゃ開業するのは難しいと俺は思う」
何も言い返せなかった。
けれど、私の目標を本気で言っていると思って、真剣に考えてくれることがわかるので悪い気はしない。
「そこで提案なんだけど」
「……? うん」
「凛はその目標、どれくらい本気で言った?」
「結構本気だよ。……アイドルやってた時と変わらないくらい」
「じゃあ大丈夫。絶対できる」
彼は何かを決心したように、うんうん頷いていた。
○
「で、本題の提案」
「うん」
「凛はまず、仕入れのノウハウをご両親から学ぶといいと思う」
「……なんで?」
「他はね。なんとかなるよ」
「えっ、と。どういうこと? 後回しにしていいものじゃないでしょ」
「後回しも何も、できる人間を使えばいいんだって」
「あ、そっか。全部一人でやらなきゃ、って考えてた」
そんな考えはなかった。
そういう手もあるのだなぁと素直に感心する。
「あれ、伝わんないか」
「え?」
「いるだろ。ここに。できる人間」
目の前の彼がにっと笑った。
○
「本気?」
「もちろん。お店出すときになったら雇ってよ」
「今の仕事は」
「凛が気にすることじゃない」
「いや、気にするでしょ」
「んー。まぁ、筋は通すし、凛だってそんな一朝一夕で仕入れのこと勉強できないでしょ」
「……それは、そうだけど」
「そういうわけで、考えといて。悪い話じゃないと思うし」
確かに悪い話ではない、どころか、私にしてみればこれ以上ないくらいの条件だ。
元より一人でお店を回すのはかなりしんどいものがある。
そこに気心の知れた仲の相手が助けてくれるというのは願ってもないことだ。
さて、どうしたものか。
鞄にペンやらメモ帳やらをしまいこんでる彼を前に、私は考え込んでしまう。
もうすっかり酔いは覚めてしまっていた。
○
そろそろ最終電車の時間だから、ということで今日の会はお開きとなる。
いつもどおり、お会計を勝手に済ませてしまおうとする彼を止め、金額の半分を無理矢理押し付けた。
駅まではわざと人通りの少ない道を選んだ。
「その、なんだっけ。もしも私が本当にお店を出すとして」
「出すでしょ? 凛は一度言い出すと聞かないし」
何言ってんの、と笑われてしまう。
今日の少しの会話だけで、私のまだぼんやりとしていた目標が急速に形を持ち始めていることは確かだった。
「それは、そうかもしれないけど」
「かもしれないけど?」
「なんでそこまでして助けてくれるのかな、って思って」
「なんでって、そりゃあ……なぁ?」
なぁ、と言われてもわからないものはわからない。
「凛が引退してから気付いたんだけどな」
人差し指で頬をなぞりながら、彼は言う。
「凛といる時間が結構……いや、めちゃくちゃ好きだったみたいなんだよ」
○
「それで、また私といるために雇ってくれって言ったわけ?」
「……まぁ、そうなる」
「ぷっ、あはは。ばかだなぁ」
不器用な人だ。
「何で笑うんだよ」
「だって、恋人になる、みたいな選択肢だってあったわけでしょ。告白が成功するかどうかはさておき」
「あー……」
「まぁ、なんだっていいけどさ」
言って、前をふらふらと揺れている彼の左腕に抱きついてみる。
「なんだよ。もう」
「……付き合うとか、そういうの。どうかな」
頭の中で用意していた言葉は出てこなくて、代わりに出てきたのはあまりにも不甲斐ない告白の言葉だった。
「どう、ってお前」
塞がっていない右手で彼は自分の頭をぼりぼりと掻く。
「あー、もう!」
ぶん、と彼は左腕を大きく振り、私は腕を離してしまった。
そこへ間髪入れず、腰を抱き寄せられた。
せめてもの抵抗に「終電なくなっちゃいそうだよね」とおどけて言ってやる。
「まだあるし、なくなったらタクシー捕まえればいいよ」
「据え膳」
顔を見上げ、抗議の念を込めてそう言ってやる。
「酔った勢いで、とかそういうの、あんま好きじゃないんだよ」
「酔ってないよ。その証拠にほら。クロスウォーク」
身をよじって、彼の腕を振りほどく。
そしてジャンプ、ステップ、キック。
これらを組み合わせたものであるクロスウォークというステップを何度か踏んでみせる。
「その行動が酔ってるって言ってんの。今日は帰るよ」
強引に握られた手を、握り返す。
お互い耳まで真っ赤に染まっているのは、間違いなくお酒のせいだろう。
おわり
ありがとうございました。
普通に酉を間違えてしまいましたが、この酉と同一人物です。
渋谷凛さん、お誕生日おめでとうございます!
世界一大好きです。
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